第三十六話 しかして学校生活も終わる
新期に入って、また学校生活が開始したがもう慣れた物だった。寮長室で過ごす事も、隣室で過ごす事も、ルセナと過ごせる時間も後半年となり、玲太郎はそれを思うと物悲しさに襲われた。
颯はいつも通りで、そんな玲太郎と楽しく過ごしていた。玲太郎としては、颯との生活が非常に充実していた事で、一日一日を大切に過ごそうと心に決めていた。
下期の行事の中に、六学年だけに操玉という競技大会があり、それに向けて魔術の授業で練習を遣っていた。玲太郎は玉の大きさが規定よりも大きく、更に小さくする練習と並行して、玉を軟らかくする練習を遣っていた。土の玉で行われる為、得意な土で練習を遣っていたが、玲太郎は土は土でも硬過ぎて、それを軟らかくする必要があった。
「どうやったら軟らかくなるの?」
玲太郎の左斜め前にいるハソは玉を目の前に、腕を組んで首を傾げていた。
「わしが知りたいわ。それ以前に、何故こうも硬うなるのかが不思議でならぬわ。魔力がそれだけ籠もっておるのであろうか? しかし、そのような気配はせぬし、やはり玲太郎が硬うしておるのであろうな」
玲太郎に顔を向けて微笑んだ。玲太郎は眉を顰めてハソを見る。
「ヌトはどう思う?」
玲太郎の後頭部で髪を一房掴んでいるヌトは玉を見もしなかった。
「玲太郎はあれよ、無意識で硬うしておろうから、それを意識せねばなるまい。それが出来るかどうかは玲太郎次第になるがな」
「そんな事を言われても、出来る気がしないから、大会に間に合わなそうなのよ」
「玲太郎に出来ぬ事はなかろうて。諦めるでないわ」
「如何にも。豆腐を思い出し、あれを再現すればよいのではなかろうか? あれは軟らかいのであろう?」
「なるほど。あの軟らかさを想像すればよいのね。分かった」
土の玉が消え、玲太郎は目を閉じた。
(豆腐、豆腐、豆腐)
心象に豆腐を思い浮かべ、目を開くと顕現させた。
「あー……」
思わず声が漏れ、天を仰いだ。ハソは笑いを堪えた。
「とっ、豆腐をそのまま出してどうする積りよ? これの軟らかさを再現するのであろうが」
ハソはそう言いつつも人差し指を突き刺した。玲太郎は顔を正面に向けた所でそれが見え、眉を顰めた。
「うむ、軟らかさは申し分ないわ。味がどうであるか、それも確かめたい所ではあるがわしには出来ぬからな」
玲太郎の頭の後ろから顔を出したヌトがそれを見る。
「期待を裏切らぬ子よな」
その呟きは玲太郎に聞こえていた。
「違うのよ。豆腐の軟らかさを想像したんだけど、ああなっちゃったのよ」
「そうであるか。それならば仕方がなかろう。次は土の感触を思い出して遣ってみるが良かろう」
「それはいつもやってるんだけど……」
ハソは玲太郎に顔を向けて微笑んた。
「それでも一度で豆腐を出せたのであるから、自信を持ってよいぞ」
ヌトは励ましたが、ハソの表情が気になる玲太郎は頷くだけだった。ハソが近付いて真顔で玲太郎を見詰めた。
「どうしたの?」
「玲太郎は何時も土の感触を思い出してあの硬さになっておるのか?」
「え、それは、その……」
場都合が悪そうに口籠もった様子を見たハソは頷いた。
「そうであるか、違うか。それならばよいわ」
「ごめん……」
「出任せは良くないな。何時そのような誤魔化し方を覚えたのであろうか。わしはそのような事を教えた記憶はないのであるが」
「もうこういう事は言わないよぉ……」
小声で言うと、ヌトが掴んでいる髪を軽く引っ張った。
「それは当然の事であるな」
「何を遣っておるのよ? 話す間なぞないぞ。早う続きを遣らぬか」
ハソは話が長くなりそうだと思い、急かした。
「分かってるけど、土の軟らかさは無理だと思うのよ。もう少しきちんと心象で描けるようにならないと、同じ事の繰り返しになると思うんだけど……」
「遣る気がないのであれば、玉を小さくする練習に戻るか?」
「ううん、頑張って軟らかくする練習の続きをやるのよ」
「それでは出せよ。やわぁ~らかくするのであるぞ」
「少し待ってよ。頑張って思い浮かべるから」
玲太郎は放課後の運動場で皆が練習している中、隅に寄って練習を遣っていた。運動場では主に箱舟の練習を遣っている生徒が殆どだった。教師は順番で補習を遣っているのだが、寮長の颯が見に来る事はない。
魔力量の多い玲太郎に興味を持っている教師しかいないのだが、明良に釘を刺されていて近寄れないでいたし、少し近付けても、玲太郎が移動して遠ざかる。玲太郎も助言を求めに行く事もない為、話す事も当然ながらなかった。
三月の第一月の曜日から競技が開幕する。今年は三月三日からとなり、放課後に行われる。月の曜日が一回戦、星の曜日が二回戦、海の曜日が三回戦、火の曜日が三人による総当たりの決勝戦となる。
競技は長方形の一面の両外にある円形の枠線の中に選手が入り、面の両端にある枠の中に三個の風船を浮かばせ、五個の土の玉を操作して対戦者の風船を破壊するという競技なのだが、事を有利に運ぶ為に玉の破壊が許されている。気が緩んだり、意識が向かっていなかったりする玉は破壊出来るのだが、玲太郎はそれでも壊れない玉である事から参加の許可が下りずに、玲太郎は四学年以上が出来る見学での参加となった。
「はぁー……」
大きな溜息を吐いた玲太郎は見学者用に並べられた縁台の最前列にいた。隣には颯がいて、苦笑している。
「大きな溜息だなあ。まあ、間に合わなかったんだから仕方がないな」
玲太郎は頑張った物の、玉を軟らかくする事は終ぞ出来なかった。土をそのまま玉にするという案もあったのだが、魔術で顕現させるという規則があり、敢えなく不参加になってしまった。
「ルセナの応援だろう? きちんと見ていろよ」
「うん……。あーあ、こんな事なら、玉を小さくする練習じゃなくて、軟らかくする練習を先にやれば良かった……」
玲太郎は後悔頻りだった。
「そんな事を言っても、小さくし切れなかったんだろう? どっちも駄目だったんだから後悔は止めて、小さくする練習を継続して、なるべく小さくしような」
「うん……。でも競技の大きさまでもう少しだったのよ。それなのに軟らかくする方に移ったら、まーったく出来なかった……」
審判は六学年主任のウィーウが笛を吹いた。
「それでは決勝戦を開始します。月組のタハーズ・ルセナ、月組のチデク・イクショーヨ、月組のギシース・タオッカの総当たり戦となります。一人が先に二勝しても、最後まで試合は続け、三位まで順位を付けますので応援の程、宜しくお願いします。それでは第一試合を開始します。タハーズ・ルセナ、ギシース・タオッカ、位置に就いて下さい」
二人が同時に「はい」と返事をする。円形の枠線の中に入ると、二人の前方に風船が三個ずつ顕現した。笛が一度鳴ると、二人の前に五個の土の玉が顕現する。
「ルセナ! あたしが勝ったらヤニルゴルでご飯をおごってもらうんだからね!」
「タオッカこそ負けたらウィシュヘンドとオレにおごるのを忘れるなよ!」
ウィーウは私語を注意はせず、朗らかに微笑んでいた。
「負ける訳ないわ! 今日のために特訓したからね!」
ルセナはここまで一個を防御、四個を攻撃に回して勝ち上がり、タオッカは全てを攻撃に回した速攻で勝ち上がっていた。
ウィーウが線を越えていないかを確認すると、中央線脇に戻って長目に笛を吹いた。ちなみにその線は中央線よりも選手寄りに引かれている線で開始線となる。
「開始!」
タオッカは土の玉を二個残し、三個を攻撃で飛ばしたが、ルセナが先に三個を飛ばしていて、タオッカは攻撃ではなく防御に回った。
玉の大きさは質の低い方は玉を小さくする事が義務付けられている。タオッカは質三十二で玉の大きさは二寸弱、ルセナは質五十六で玉の大きさは三寸と、試合前に決まっていた。その為、ルセナはずっと相手よりも玉を正確に操作しなくてはならず、そのお陰で玉を破壊する骨を掴み掛けていた。
「ルセナくーん! 頑張ってー!」
タオッカに黄色い声援が起こっている中、ルセナに声援を送るのは玲太郎だけだった。
「おう! ご飯のためにやるぜー!!」
応えた瞬間に、タオッカは防御に残していた内の一個を走らせる。ルセナ陣を目指し、地面際を勢い良く這わせて一直線に向かった。しかし、それはルセナも考えていて、尚且つルセナの玉の方が速く、タオッカがそれに気付き、気を取られていると飛ばしていた一個を破壊された。
「ウソォ!?」
タオッカが目を丸くした時、ルセナは畳み掛けるように防御を成功させた一個を三個と合流させる。
「そう簡単には勝たせないわよ!」
防御に残してある一個を、飛んで来た一個と戦わせる。ルセナはいずれの玉も円を描くように回したり、直線的に退いたり、変化に富む動作で撹乱した。
「そんな手に乗らないわよ!」
タオッカの玉は避ける事に徹していた。三個の玉が避けつつもルセナ陣へ寄って行く。その間にタオッカの風船が音を立てて一個割れた。
「むぅ……」
力押しで負けてしまい、眉を顰めていると、中央よりタオッカ陣寄りの玉までも更に押し込まれていた。防戦一方のタオッカは三個を同時に一個の玉に向かわせた。ルセナはその一個を上へ移動させ、残りの二個でタオッカの三個を追従する。残りの一個は上空からタオッカの風船の方に向かって飛んで行った。
(このままでは風船を一個も壊せないまま終わってしまう……。一か八かになるけど、やってみるしかないわね)
俄にタオッカの玉三個の内の二個の軌道が変わり、一直線にルセナの風船へ向かって飛んで行った。残った一個は防御に戻る。ルセナはその唐突な変化に即座に対応して二個を使って追わせ、残った一個はタオッカの風船へ飛ばした。タオッカの風船の近くにいたルセナの一個の玉は、タオッカの面前で激しく揺さぶりを掛け、到着したルセナの玉一個にタオッカの防御の玉が抜かれて、二個目の風船を割られてしまった。
「まだまだー!!」
タオッカは悔しさを噛み締めて、まだ頑張ろうとしていた。
一方、ルセナの風船を目掛けて飛んでいたタオッカの二個の玉は、ルセナの玉に先回りされて防御されていた。
(ええ? ここまで速度が出せるものなの? それじゃあ、昨日までの動作は本気じゃなかったって事? でも最後までやり切るわ)
そうは思っても、目で追い切れなかった玉で、残っていた風船は呆気なく割られてしまった。
ウィーウが笛を長目に鳴らす。
「三対零でタハーズ・ルセナの勝利です! 両者は中央で握手を!」
観客から拍手と共に歓声が沸いた。二人は握手をすると、タオッカが意外と晴れやかな笑顔をしていた。
「視界の外へ出されてしまうと、目で追えなくなるわ。ルセナ、凄いわね。おめでとう」
「ありがとう。楽しかったぞ! ヤニルゴルでご飯だからな。ウィシュヘンドも一緒だぞ、忘れるなよ?」
「分かってるって! ……でもイクショーヨに勝って、再戦で勝ってみせるわ」
「オレがイクショーヨに勝つから、再戦はないぞ」
「それではタオッカさんは残って、イクショーヨ君と対戦ね」
ウィーウが言うと、タオッカは顔を向けて頷いた。
「はい、分かりました」
場は静まり、イクショーヨはルセナのいた輪の中にもう入っていた。タオッカはそれを見て叫ぶ。
「負けないからね!」
「言ってろ! オレが勝つ!」
ルセナもイクショーヨの方を見ると、軽く挙手して一面の枠線外へ出て、選手控え席となっている縁台に座った。今度は黄色い声援は何故かなかった。
「それでは第二試合を開始します。チデク・イクショーヨ、ギシース・タオッカ、位置に就いて下さい」
タオッカは元の位置へ戻ると、風船が三個ずつ顕現する。そして笛が鳴り、玉が五個ずつ顕現した。
イクショーヨは魔力の質が五十二で、ルセナと大差ない為、玉の大きさはルセナに程近い三寸弱となる。タオッカは先程と同じ大きさで二寸弱だ。
(イクショーヨもルセナみたいに実力を隠しているかも知れない。そうなると地力に差が有り過ぎて勝ち目はないわ。従来通りの戦法で行く!)
タオッカはイクショーヨの試合を見ていたが、二度しか見ていなかった。学年三位の魔力の質を誇るイクショーヨに勝てる自信はなかった。相手のイクショーヨは先程見た試合を思い浮かべながら、タオッカがどう出るかを思案していた。
先の試合同様にウィーウが確認をしてから中央線に戻ると、笛が長目に吹かれた。
「開始!」
笛の号令と同時にタオッカの玉が一斉にイクショーヨの風船を目掛けて飛んでいた。イクショーヨはそれを見てから一個を地面際に這わせ、タオッカの風船目掛けて飛ばした。五個に対して四個での防御だったが二個に抜かれてしまい、イクショーヨがタオッカの風船を全て割るよりも先に、タオッカがイクショーヨの玉を全て割った。
「三対一でギシース・タオッカの勝利です! 両者は中央で握手を!」
呆気なさに歓声はなく、拍手だけが起こった。二人は握手をする。
「ルセナには勝ってよね」
タオッカが笑顔で言うと、イクショーヨは苦笑した。
「お前に負けたくらいだから、勝てる訳がないよな……」
苦笑するとタオッカが小さく溜息を吐く。
「一矢報いるくらいはしなさいよ」
厳しい口調で言うと手を離し、ウィーウに言われる前に縁台へ向かった。ルセナはタオッカのいた方へ向かっていた。
「ルセナくーん! 頑張ってねー!!」
やはりルセナへの声援は玲太郎だけだったが、その声援自体も玲太郎だけだった。
「それでは第三試合を開始します。チデク・イクショーヨ、タハーズ・ルセナ、位置に就いて下さい」
イクショーヨが円形の枠線の中に入ると、二人の前方に風船が三個ずつ顕現した。笛が一度鳴り、二人の前に五個の土の玉が顕現する。ウィーウが確認をしてから中央線に戻り、笛が長目に吹かれる。
「開始!」
ルセナは五個を一気に飛ばし、イクショーヨは今度は二個をまた地面際に這わせて風船に向かわせた。しかし、ルセナの玉四個が俄に軌道を変え、イクショーヨの玉を二個ずつで襲った。地面に叩き付けられたイクショーヨの玉二個が破壊されると、どよめきが起こった。そして、先に行ったルセナの玉一個を、三個の玉で迎撃している間、四個の玉がその三個に襲い掛かる。一個、また一個と破壊され、逃げ惑う最後の一個も敢えなく破壊されると、ルセナは一気に三個の風船を割った。ウィーウが笛を長目に鳴らす。
「三対零でタハーズ・ルセナの勝利です! 両者は中央で握手を!」
完全勝利を収めたルセナは握り拳を天に突き上げた。
「やったー! 優勝だ!」
「ルセナ君、おめでとう!!」
玲太郎が立ち上がって拍手をした。それに釣られて観戦者から拍手が起こった。二人は中央まで来て握手をした。
「おめでとう。それにしてもルセナは凄く強くなったんだな。あそこまで操作が上達してるとは思ってもみなかったよ」
「そうだろ。ウィシュヘンドの家へ泊まりに行って、色々と教わって練習したんだよ」
「……は? ウィシュヘンド君の家って、公爵邸かよ? 信じられないな……」
イクショーヨが間抜けな表情をしてルセナを笑いへ誘うが、ルセナは堪えた。
「まあ、そのウィシュヘンドに勝ってないから、本当の優勝じゃないけどな」
「言えてる」
そう笑顔で言ったイクショーヨを見上げたルセナは苦笑した。
操玉はこうしてルセナが優勝、タオッカが二位、イクショーヨが三位となり、それぞれが表彰楯を手にした。優勝のそれは木製の楯に嵌められた灰金製の板に校名、校章、星暦を彫金され、二位は金製、三位は銀製となっていた。名前はその場でウィーウが魔術で楯の上部、木板の部分に刻んだ。
タオッカは約束通り、ヤニルゴル地区にある食堂で玲太郎とルセナに奢ったが、何故か平民の集いと化してしまい、男子八人、女子九人の計十七人という大人数での食事会となった。玲太郎一人が浮くかと思われたが、全員が平民なだけあって畏まる必要もなく、緊張する様子もなく過ごしていた。この時も颯が護衛として付いて行き、読書をして時間を潰した。
建国祭である四月六日からの五日間、カンタロッダ下学院の出し物があり、これは六学年生の恒例行事となっている。玲太郎も当然ながら寮に残って参加をする。その出し物とは、二十六時になると校舎の屋上から魔術の花火を打ち揚げるという物だ。更に言えば、各組十分間の演技となっていて、三十人が光の玉で花火を模し、担任教師が音を演出する。
月組は二十六時三十分からとなっていて、玲太郎は眠気と闘わなければならなかったが、昼寝を一二時間して乗り切り、玲太郎に与えられた最後の三分の演技を無事に終えた。毎日寮長室に籠って思案して、五日間はいずれも違った演技にしていた。今年は建国祭の露店や屋台へ行けなかったが、玲太郎としては充実した五日間だった。
建国祭は週末が含まれていた為に十一日と十二日は振り替え休日で、玲太郎はその二日間、英気を養う為に屋敷へ帰ったが、いつものように明良に密着されてしまい、それ所ではなかった。
四月には研修旅行もあり、十八日から三泊四日の日程でロデルカ州へ赴く事になっている。一日目はロデルカ州サドラミュオ市で街並みや公園、博物館等を見学し、二日目は薬草園や魔道具工場を見学したり、交響楽団の音に触れたりし、三日目は王都へ移動して王宮の敷地内や庁舎の見学をし、最終日は王都の街を散策して帰校する予定となっている。
花火が終わってからも、その準備で六学年は浮付いていた。午後の間食の遅い時間に食堂へ行っても、いつもより賑やかだった。
「後四日で研修旅行だね」
ルセナは茶器を受け皿に置いて玲太郎に顔を向けた。
「それ、何度目だよ? そんなに楽しみなのか?」
「僕ね、旅行という旅行はした事がないのよ。臨海学校でメナムントへ行っただけだからね、楽しみなのよ」
「オレも旅行という旅行は、ウィシュヘンドの屋敷へ行ったのと、臨海学校くらいだな」
「えっ、うちに泊まった事も旅行に入るんだね」
「それはそうだろ。なんてったって、ロメロニク州からウィシュヘンド州やダーモウェル州、それに和伍国まで行ったんだからな。立派な旅行だよ。それにしても特級免許持ちは凄いよな。あっと言う間に着いちゃうんだから」
「ダーモウェルや和伍へ行ったのも旅行に入るの? 泊まってないから除外なのよ。まあ、特級免許はルセナ君も取れるんじゃないの? 僕より可能性があるのよ」
玲太郎がそう言って微笑むと、ルセナは苦笑した。
「日帰りでも旅行は旅行だぞ? それは置いといて、あんな速度を出そうとすると、すぐに魔力が枯渇するわ」
「そうなの?」
「和伍国まで十分前後で行けるなんて、普通は有り得ないからな?」
玲太郎は目を丸くした。
「え、そうなの? 本当に?」
「オレ程度なら頑張っても和伍まで、そうだな……、五六時間はかかるか。だから特級は取れないな。特級の条件は赤道上で時差十時間の距離を一時間以内で飛ぶ事だからな」
「へぇ、知らなかった。そうだったの。じゃあ、僕もダメだね」
「ウィシュヘンドは練習すれば出来るようになるぞ?」
「無理なのよ。怖いのはダメ」
顔を顰めて首を横に振った。
「それなら仕方がないな。いつか怖くなくなった時に特級を取って、オレを和伍国へ連れて行ってくれよ」
「分かった。怖くなくなったらね?」
二人は笑顔で見合っていた。ヌトは玲太郎の髪を一房握り、大きな欠伸をしていた。
その日の夕食時、玲太郎がこの話を颯にすると、颯は咀嚼しながら頷いて聞いていた。口の中の物を飲み込むと笑顔で玲太郎を見る。
「それじゃあルセナ君を和伍へ連れて行かないといけないな? ルセナ君の寿命は、順調に生きたとして百二三十年くらいだから、百年は確実に時間があるぞ。たーくさん練習を遣って、百年以内に特級を取ろうな?」
玲太郎は目を丸くして颯を見ていた。
「えっ? 確定なの?」
「勿論」
「空を飛ぶ事くらい、玲太郎であれば余裕であろうて。怖がる事なぞ一つもないぞ?」
「ハソは黙ってて」
玲太郎が睨み付けると、ハソが目を剥いた。
「おお、怖い怖い」
そう言いながら颯の後ろに隠れる。悲痛な面持ちになると颯を上目遣いで見る。
「はーちゃんとあーちゃんがいるし、父上だっているから自分で飛ぶ必要はないのよ」
「飛べるようになったら俺も何処かへ連れて行って貰いたいなあ」
「聞いてた? 自分で飛ぶ必要はないのよ……」
「それじゃあ、何時まで経っても玲太郎は誰かと一緒に行動をするという事でいいな? 前みたいに見知らぬ精霊に一人で乗って、何処かへ行く事も出来ないぞ?」
「あれは走り出すとは思わなかったのよ。あんな事はもうない、……と思う」
「誰も傍にいない時は一人で行動するなよ? それも兄貴が離れている隙にいなくなるんだから、兄貴が本当に可哀想だったわ」
「それは分かってるのよ」
「飛んで戻って来ればいい物を、浮く事すら思い至らなかったんだから、やはり飛ぶ練習は必要だと思うぞ」
「ええ? ……どうしても?」
「うん、遣ろう」
莞爾として見詰めてくる颯から視線を外した。
「僕は下級でよいのよ……」
「そうじゃなくて、飛ぶ事を体に覚え込ませるんだよ。そうしておけば、何かがあった時は自然と飛べるからな。見知らぬ精霊に乗って連れて行かれても、一人で帰って来られるぞ」
そう言うと豚の角煮を頬張った。玲太郎はそれを見て、甘藍と玉葱の千切りを頬張った。結局颯に押し切られ、玲太郎は練習を遣ると約束してしまった後、颯に張り付いて甘えていた。
その夜、玲太郎が眠り、その寝顔を見ていた。
「どうかしたのであるか?」
それはハソの日課だったが、颯が珍しく寝台脇に座っている事に気付き、思わず訊いた。
「何時まで経っても甘えん坊だなあと思ってな。これが後何年続くのか、なくなったらなくなったで寂しくなるなあと……」
「そうであるか。玲太郎がこの体の大きさの間は色々と経験しても精神的に成長は出来まいて。わし等がそうであったからな。わし等がそうであったから必ずしもそうなるとは限らぬが、縦しんば成長出来たとて、それが続くとは思えぬがな。永い時を生きるという事は、物忘れの連続の日々であるぞ。最近の事や、どうでもよい事を何時までも憶えておる事もあるがな」
それを聞いて思わず鼻で笑った。
「最近の事でも忘れている事の方が多いんじゃないのか」
「そうでもないぞ。玲太郎が産まれた時の事なぞは憶えておるわ。明良が玲太郎の魅了に掛かった時よ」
颯はハソを一瞥すると苦笑した。
「あの時まで兄貴は赤ん坊に興味がなかったんだけどなあ……。本当に魅了に掛かったんだろうな。まあ、ある意味良かったけど、度を越しているからそれが困り者なんだよな」
「明良はあれで特色付けられたのであろうから、良かったのではなかろうか。常日頃は鉄仮面を気取っておるが、玲太郎とおる時の方が本性であろう、とわしは思うのであるが、鉄仮面の方が本性で、やはり玲太郎に接しておる時が異常なのであろうか?」
「俺は足して半分にした感じが本性だと思うけどな。普段出せない物を、玲太郎に纏めて出しているような気がする。やはり長男だからか、昔から面倒見は良かったんだけどな。まあ、俺は読書の続きをするわ」
そう言って立ち上がると、小さな光の玉を移動させて一緒に机へ向かった。ハソはその後ろ姿を見ていたが、紙を繰る音が聞こえ始めると玲太郎に顔を向け、ヌトも含めて寝顔を見始めた。
十八日になり、まだ暗い内に目が覚めた玲太郎は、颯を起こさないように寝台から下りて靴を履いた。ヌトは当然起きないにしても、壁際に浮いて熟睡しているハソに一瞥すると窓際へ向かう。窓掛けの端を持ち、出来た隙間から顔を窓に寄せると空が白んでいる。天気は良さそうで笑顔になった。そして静かに歩いて隣室へ行った。
集合等の灯りを点けて、茶の用意を始める。茶葉を茶器に入れていると、床の軋む音が聞こえて顔を向けた。
「お早う。俺の分も淹れて」
颯が眠そうな表情をしている。
「おはよう。起こしちゃった?」
「うん、まあな」
「ごめんね。目が覚めちゃって」
「あの興奮振りではそうなるだろうな」
言いながら流しへ行き、顔を洗い、口を濯いだ。
「あ、僕も顔を洗ってなかったのよ」
颯の顔に付いていた水滴が一瞬で消える。
「自分で浮いて洗うんだぞ?」
「うん」
場所を代わり、程良く宙に浮いた玲太郎は口を濯いでから顔を洗った。それが終わると颯が魔術で乾かした。
「ありがとう」
「どう致しまして」
調理台の傍にある踏み台に上り、颯の分の茶葉を足した。
「踏み台をなくすか」
「えっ!?」
不意に言われ、茶筒の蓋を閉める手を止めて颯を見た。
「これは必要なのよ。ダメだからね!」
「その甘えをなくさないと」
「やだやだやだ」
首を横に振った。
「顔を洗っている時は浮けていたんだから、いらないだろう? 卒業しよう」
「いるのよ。だからダメ」
「慣れたら、いらなかったと思えるから、試しに封印してみよう」
「ダ・メ!」
そう言って顔を顰め、歯を剥き出しにした。
「いーだ」
颯は思わず鼻で笑ってしまった。
「その顔、兄貴の前で遣れよ。喜ぶぞ」
「あのね、僕は怒ってる気持ちを表したのよ。あーちゃんにやってどうするの」
顔を正面に戻すと茶筒の蓋を閉めた。それを颯が取り、棚へ戻した。
「ありがとう」
「どう致しまして」
颯はついでに持ち手の付いた湯呑みを出してきた。
「牛乳は入れないの?」
「うん、いい」
玲太郎は「ふうん」と言いながら、颯の置いた湯呑みを見ていた。こういう何気ない時間を過ごしていても、なんだか妙に落ち着かない。
「落ち着きがないなあ」
「うん、なんかこう、なんて言うの? ……そわそわするのよ」
「そんなに研修旅行が楽しみか?」
「そうなの。はーちゃんが連れて行ってくれないから、経験が少ないでしょ。だからだと思うのよ」
「俺じゃなくて、水伯だろう? …とは言え、日帰りなら何度も行っているだろう?」
「日帰りは旅行じゃないのよ。あれはただの買い物とか食事とかでしょ」
「成程。そういう認識なんだな。泊まりじゃないと旅行じゃないとなると、また行き先を考えて、宿泊先を押さえて、と色々と雑事を遣らなきゃいけなくなるなあ。それ以前に、皆の日程を先に押さえないといけないのか。面倒だな」
「そう言わないで連れて行ってよぉ」
「水伯に面倒な諸々を任せられたらな。俺としては南中央大陸の国々へ行ってみたいな」
南中央大陸は、ナダール王国のある中央大陸の南半球側の事だ。
「カバス帝国とかキッスイとかデスルスとかミガイミワ王国、ソッカ公国、サンケナデ共和国、ショマススとか?」
「そう。カバス帝国は行きたいとは思わないけど、ソッカ公国は絶対に行ってみたいな」
「どうして?」
「最南端って言うのもあるけど、ズヤの家の木がある島が近くにあるって聞いたからだな。其処は神じゃなく、精霊を信仰しているんだよ。大いなる存在がどういう扱いを受けていたのか、実際に見てみたいと思ってな」
「ふうん……、楽しそう!」
「湯が沸いたぞ」
「あ、行くね」
踏み台から下り、鉄瓶を持ってくるとまた踏み台に上がって茶器に湯を注いだ。鉄瓶は鍋敷きに置き、茶器に蓋をした。それを見た颯が砂時計を引っ繰り返す。
「僕は和伍へ行きたい。はーちゃんが行った所じゃない所へ行きたいのよ」
「行っていない島は沢山あるけど、そうだな……、五十二島の内、三十八島は行っていないな」
「そんなにあるの? みんなで一杯行けるね」
「俺が行った島々もいい所だったから、其処へも行けばいいだろう? 楽しいぞ」
「ううん、よいの。はーちゃんと行きたいからね。そうなると、行ってない所へ行く方がよいでしょ?」
玲太郎が微笑むと、颯は苦笑した。
「まあ、俺と時間が合えばの話になるけどな」
それを聞いて目を丸くした玲太郎は口を開けたが声が出なかった。
「どうした? 其処まで驚く事か? この前の長期休暇で呪いを習得したから、以前遣っていた仕事を再開しようと思ってな」
「ええ? 旅行の時は時間を取ってよ。お願い」
切実な表情で言うと、颯は真顔になった。
「年に二度までだぞ」
玲太郎の表情が明るくなり、大きく頷いた。
「うん! 二度は必ず時間を取ってね! 約束だからね?」
そう言って小指を立て、颯の方へ手を伸ばした。その小指に颯は左手の小指で握った。
「約束な」
「うん、約束!」
玲太郎が微笑むと、颯も釣られて微笑んだ。すると踏み台から下りて来て、颯に抱き着いて喜び、颯は玲太郎の頭を優しく撫でた。
出発日はいつも通りに教室へ行き、行程や注意事項、体調の良し悪しの確認等をし、九時十五分前になると運動場に停まっている陸船へと向かった。明良から仕事を請けたヌトは張り切り、玲太郎の前を飛んでいた。
今度も玲太郎の隣には明良が座る事になっている。玲太郎は最後に陸船へ乗り込んだ。玲太郎の席には明良が既に乗り込んでいた。玲太郎は明良に荷物を渡し、空いている窓際の方へ移動する。玲太郎が座ってから、明良は荷物を上の棚に置いた。
「ありがとう」
「どう致しまして」
座席に腰を下ろした明良は、玲太郎の手を取って握った。玲太郎が明良を見ると本当に嬉しそうにしていて、手を抜く事が出来なかった。颯に甘えていて、精神的に余裕のある玲太郎は明良の好きにさせていた。背の高い生徒が率先して皆の荷物を棚に上げていると、颯が乗って来て最前列の席に荷物を置き、人数を三度数えて確認を終えると前方に立った。
「それでは出発するが、体調が悪い者はいないな? 一応十分以内にはサドラミュオ市のタフゴル・コバ公園へ到着する予定だから、気分が悪くなったり、体調に少しでも変化があったりしたら、遠慮なく言えよ?」
生徒が元気良く返事をすると、颯は頷いた。
「俺は外で操縦するから、何かあったらアメイルグ先生に言うようにな」
そう言い残し、陸船を降りて行った。玲太郎は窓から見える颯を目で追った。
「玲太郎、楽しみだね」
明良に顔を向けて、笑顔になる。
「そうだね。でもね、分かってるとは思うけど、僕は班で行動するから一緒にはいられないんだよ?」
「それはそうなのだけれど……、陸船に乗っている時はこうして傍にいられるからね」
満面の笑顔を湛えると、玲太郎は心配そうに見ていた。
「臨海学校の時みたいに、僕だけに何かをやるのはなしだからね?」
「うん、解っているよ」
「本当の本当にやらないでね?」
「うん、遣らないから大丈夫」
玲太郎は頷くと、また外に目を遣った。気付けば上昇していて、いつの間にやら校舎や寮が見えなくなっていた。
「あーちゃん、もう出発してた」
「そうだね、もう上空へ向かっているね」
玲太郎は明良を見て微笑むと、直ぐに顔を外へ向けた。颯は横並びしている三台の真ん中の正面にいて、辛うじて見えた。下を見ていると恐怖が顔を出してくる為、玲太郎は颯を凝視していた。明良はそんな玲太郎を寂しそうに見詰めていた。
明良が玲太郎の鞄を下ろし、必要なものを取り出していた。玲太郎は首を傾げていると下降し始めていて、タフゴル・コバ公園に到着した。大きな駐舟場には疎らに箱舟が停まっている。公園内には博物館もあるが、十時にならないと開館しない為、それまでは公園を観覧する。鞄を棚に戻した明良が前方に掛かっている時計を見ると、まだ九時になっていなかった。
「玲太郎、帽子を被って」
「あ、うん。ありがとう」
玲太郎が帽子を受け取ると停止し、明良が立ち上がって振り返る。
「帽子と水筒、それと貴重品は必ず持って降りて下さい! もう一度言います! 帽子と水筒、貴重品は、必ず持って降りて下さいね!」
珍しく声を張り上げている中、玲太郎は急いで水筒入れを襷掛けにし、奥細谷紬の巾着に貴重品や手巾等を入れていて、それを持って立ち上がり、帽子を被って明良が歩き出すまで待った。すると、明良が玲太郎の手を引き、昇降口へ向かう。開扉すると玲太郎の手を離して降り、玲太郎も続く。生徒もそれに続いた。明良は颯のいる方へ行かず、途中で立ち止まって生徒を先に行かせて並ばせた。星組と海組も教師を前に三列に並んでいる。玲太郎は最前列に並び、前にいる颯を見ていた。すると三人の男女が合流し、学年主任のウィーウや教師と挨拶をし始めた。
生徒が並び終えると、ウィーウが小さく辞儀をした。
「皆さん、おはようございます。これからタフゴル・コバ公園を約一時間掛けて散策した後、その頃には開館する予定のチコダン・モミー博物館に行きます。博物館はここからも見えている、あの大きなお城の中となっています。そして館内で間食を頂きます。食堂以外で私語をする場合は、他のお客さんもいらっしゃいますので、声を潜めるようにして下さいね。そして、必ず班になって行動するように。お手洗いへ行く場合は、必ず担任の先生に言ってから行く事。それでは組ごとの案内人の方々を紹介します」
「はーい、おはようございます。案内人のメロウ・レシージマッスです。月組を担当します。この公園となっている広い敷地と、博物館となっているお城の案内をさせていただきます。よろしくお願いします」
ウィーウの後に透かさず挙手をして挨拶をすると、隣にいる男も挙手をした。
「おはようございます。案内人のマケイド・ヨッタンアカです。星組担当です。よろしくお願いします」
「おはようございます。案内人のシーカン・イーチョインです。海組を担当します。よろしくお願いしますね」
最後は老女で、言い終えると誰かが拍手をし始めた。それに釣られて拍手が起こり、玲太郎も慌てて拍手をする。何も魔道具を使っていないように見えるが、不思議と声が響いていた。拍手をしながら颯を見ると、颯がそれに気付いて微笑んだ。
颯の隣に熟年のレシージマッスが遣って来た。そしてまた挙手をする。
「はーい、それでは、公園を回って行きたいと思います。公園は八重の花壇で出来ています。まず外周を回って、次にその内側、そしてさらに内側、と、順々に回って行くと、博物館となっている城に到着します。それでは移動を始めたいと思います」
魔道具が見当たらないのに、やはり不思議と声が響く。玲太郎はレシージマッスを凝視していた。
「その前に、班ごとに分かれろよー。前から一班、次に二班、と順に後ろへ並んで行くようにな」
颯が慌てて言うと、玲太郎は五班で一番後ろになる為、後ろへ行った。後ろには玲太郎と同じ班のルセナ以外は、ヨーブ、テルワーゴ、タスン、ズキワネダ、と女子且つ平民だった。籤で決まったとは言え、ルセナと一緒になれた事は玲太郎にとってとても嬉しい事だった。そして、最後尾には明良がいて、玲太郎の行動を具に見ている。
玲太郎は右側に行き、ルセナが真ん中、左側にタスンが並んだ。玲太郎はルセナを見てから明良を一瞥して、正面を向いた。
「はーい、それでは並べたようなので、行きますよー。付いて来て下さいねー」
レシージマッスが歩き出すと、生徒はそれに付いて行く。星組と海組も班ごとに並び直していて、まだ並び終えていなかった。
「ウィシュヘンド」
余所見をしていて呼ばれると、慌てて付いて行く。明良はそんな玲太郎を見て微笑んでいた。
公園内は、花壇以上に通路の幅が広く、まだ人も殆どいない朝の時間という事もあり、真ん中を通って左右の花壇を見ながら徐に進んだ。玲太郎の場所でも、最前列にいた時と同様にレシージマッスの声が聞こえてくる。
「ルセナ君、この声が響いてるのって、凄く不思議じゃない?」
「ああ、そうだよな。オレもそれを思ってたんだよ」
「これはね、障壁を屋根のように張って、それに風を流して音を拡散させているのだよ」
二人は振り返った。玲太郎は笑顔だったが、ルセナは真顔だ。
「へぇ! そうなの!」
「ありがとうございます」
「どう致しまして。ゆっくり歩いているとは言えども、危ないから前を向いているようにね」
「はい」
「はーい」
二人は返事をすると前を向いた。それぞれの植物の名称を教えて貰いながら少しずつ進むが、玲太郎としては傍へ行って近くから見てみたかった。
「二千種以上が植わってるって言ってたけど、もう少し種類を少なくして、量を増やせばよいのにね」
「一口に種類って言っても、バラだけでも百種類を超えるって言ってたからな。それを考えたら、実際は二十しかないのかもな?」
「あはははは」
笑い出した玲太郎を振り返ってみる生徒が少なからずいた。笑い声が結構響いているようだ。
「玲太郎、静かに」
小声で明良が言うと、玲太郎は口を覆って目を丸くしてルセナに顔を向けた。
「うるさかった?」
小声で訊くと、ルセナが苦笑して「うん、ちょっとな」と頷いた。
「でもまあ、いいんじゃないのか。そこまで気にしてないだろ」
「うん……。そうかも知れないけど、静かにしておくね」
申し訳なさそうにしつつも、悪戯っぽく笑っていた。
「分かった」
後ろから二人の仲良し振りを見ている明良は複雑な心境だった。玲太郎の可愛い一面を見られて嬉しいのだが、それを引き出した人物が自分ではないという事が非常に腹立たしかった。
博物館に近付くと、レシージマッスが言っていた百種以上ある薔薇の花壇へ遣って来た。花壇だけではなく、垣根にもなっていて、左右対称に植えられている。丁度見頃を迎えた品種もあれば、蕾を付け始めた品種、花期を過ぎた品種等もあった。
「この辺りは薔薇の香りが楽しめます。九時九十五分になるまでのほぼ十五分間、この辺りでの自由行動とします。薔薇のある辺りからは離れないようにお願いしますね」
「後、班ごとでの行動だぞ。一人で行動しないように。観賞はしても植物には絶対に触れるなよ。それと班長は渡してある懐中時計で時間の確認を怠らないように。以上」
生徒が元気良く返事をすると、班で集まって話し合いが行われ、どの辺りに行くかを決めていた。
「十五分だと全部は回れないわね」
テルワーゴが言うと、ヨーブが口を開く。
「どの道、遠めでも見えるはずだから、私はどこでもいいわ」
「私も」
タスンが同意した。
「あたしはあの黄色いバラが咲いてる所に行きたいんだけど……」
そう言ったズキワネダが人差し指で差すと、全員がそちらを向いた。
「いいわね、花が結構咲いてる」
「それじゃあそこへ行こう」
ヨーブに続いてテルワーゴが同意をする。
「私もそれでいいわ。ウィシュヘンド君もルセナもそれでいいよね?」
タスンが訊くと、ルセナは無表情で頷いた。
「いいぞ。拒否権はなさそうだからな」
「僕もあの赤いバラを近くで見たいね」
玲太郎が人差し指で差した方を全員が見る。黄色い薔薇の近くにあった。
「じゃあそこへも行こうよ。決まりね、黄色から行こう!」
嬉しそうにズキワネダが言うと先頭を歩いた。
「待ってよ」
ヨーブが隣に行くと、四人はそれに付いて行く。明良は後ろ手に手を組んで、玲太郎を見送った。
「兄貴は付いて行かないのか?」
いつの間にか後ろに来ていた颯を見る。
「颯に一時間の記録が出来る黒淡石を作って貰っただろう? あれを悪霊に持たせてあるから、記録を確りとしてくれていれば、後で幾らでも見られるから付いて行かないよ」
颯は途中から不快そうな表情になって声に出た。
「うわあ……、ヌトに遣らせているのかよ。自分で記録しろよ……」
「悪霊に言ったら、意外にも快諾してくれたのだけれどね。玲太郎は私を変な目で見ていたけれど、それも致し方のない事だよね」
「それはそうだろう……。うん? まさか百個全部をヌトに渡したのか?」
最初は頷いていたが、怪訝そうな表情になった。そんな颯をいつもの無表情で見ている明良は首を横に振った。
「ううん、全てはズボンの中に入れられないと言われて、二十個渡しただけだね。毎日新しい物と交換するのだよ」
「ふうん、そうなんだな」
二十個でもあのズボンは膨れ上がるだろう。颯は腹の出たヌトを想像してしまい、笑いが込み上げて来た。そんな颯を見て、明良が視線を逸らして一瞬思案し、また颯に視線を戻す。
「私が何か面白い事でも言った? 面白い事を言ったとは思えないのだけれど……」
「ああ、ヌトの腹が膨れているんだろうなと思ったら、その絵面が思い浮かんでおかしくなったんだよ」
「そうだったのだね。確かに腹は膨れていたね。私は面白い物だとは思わなかったよ」
「それがないと記録して貰えないから、兄貴に取っては切実な問題で、面白いと認識するに至らなかっただけだろう」
「それはそうだね。確かにそうだよ。……あの膨らんでいるズボンを見て、面白いと思わなければならなかったのか……」
視線を遠くに遣って呟いていると、颯は明良が唐突に理解し難い事を言い出して怪訝そうに見ていた。
「ああ、兄貴にそういう常識はいらないから、いつも通りにしていてくれよ」
「それはどういう意味なの? 只の皮肉?」
「玲太郎と同調出来るだけでいいじゃないかっていう事」
「その為に必要だから言っているのだけれど」
「そうでしたか。それは失礼しました」
「全く……」
口調は怒っていても無表情な明良を見て、苦笑していた。
「颯、追い付きましたよ」
ルニリナの声で振り返り、笑顔を見ると軽く挙手をした。
「意外と早かったんだな」
「ずっと月組の後ろにいたようなものですけどね。アメイルグ先生は玲太郎君と一緒ではないのですか?」
颯は失笑しそうになったが、それは堪えた。
「班行動の時に付いて行くと叱られますからね」
「そうでしたか。それは残念ですね」
頷きながら穏やかに微笑んだ。
「ああ、それがあって見送ったんだな。思い付かなかったわ。それよりニーティ、聞いてくれよ。兄貴がヌトに黒淡石を持たせて、玲太郎の記録をさせているんだぞ」
「ああ、成程。その手がありましたか。颯に試作品を沢山もらっているので、私も博物館を記録しようと思います」
「ガップツァック・フェルエネ・ソルの作品の殆どが此処にあると言われていますから、よい記録となりそうですね」
「はい。閣下のお屋敷にもソルの作品が沢山ありますが、それとは別ですので非常に楽しみです」
ルニリナが会話を続けると、明良も話していた。その明良の対応を見たノユが愕然としていた。
「おい、颯。明良が饒舌であるが、何かあったのか?」
ノユが耳打ちをしてくると、颯は首を傾げる。
「なんだろうな? 俺も解らないな。若しかしたら、ソルの絵が楽しみなのかもな? それはさて置き、ズヤはまた来ていないのか?」
「いや、遅れて来ると言うておった。今読んでおる本を読み終えるまでは動きとうないようであるな」
「ふうん、そうなんだな」
「ニムと話したのであるが、久し振りに皆に会いたいと言うておったぞ」
「俺は別に会いたいとは思わないけどな。兄貴はあの気配すら感じたくないんじゃないか」
「そうであるか。それではそう言うておこう」
「うん、頼むよ」
素っ気なく返事をした颯は周りを見回して、生徒が変な行動をしていないかを確認していた。
博物館となっている城は石で建築されていて重厚だった。そして、至る所に精緻な装飾があり、華やかさも添えていた。
十時にその受付前を通り、中へ入って行く。玄関広間には鎧や武器が並べられていた。
「歴史で習ったと思いますが、今から四千年より前にロデルカ兄弟が、ロデルカ州の前身であるサンザム帝国に攻め入った時、皇帝フォグトーが着用していた鎧や、家臣達の鎧が置かれています。武器の剣、槍もあります。当時の物ですが、しっかりと手入れをされているので、こうして光沢がありますが、約五年もロデルカ兄弟との闘いが続きました。その為、最後に着用、もしくは使用していた物が残っている事になります」
先程までは温和な雰囲気で植物の説明をしていたレシージマッスに熱が籠った。星組と海組が通り過ぎて行き、取り残された月組は歴史の授業を受けていた。一番辟易していたのはハソだった。
「ふむ……、わしの記憶が定かであれば、この話はもう三度目ではなかろうか。わしは過去へ戻ったのか? 若しや……、わしは夢の中にいるのではなかろうか。むむっ、そうなれば颯に依って同じ夢を何度も見せられておるに違いあるまいて。己、颯! わしを起こせ!」
生徒の後ろにいる颯の耳元で騒ぎ立てたが、その颯に冷たい視線で射抜かれ、俄に大人しくなり、咳払いを一つした。
「……済まぬ、取り乱してしもうた」
(それにしても、兄貴が文句を言わない事がな……。まあ、いいか)
明良は玲太郎の後頭部に釘付けのようで、それに一瞥をくれてから挙手をする。
「済みませんが、無駄話はそろそろ終わりにして貰って、生徒に見学をさせて移動しませんか。鑑賞する場所は此処だけではありませんし、最初からこうも躓いては全ての時間がずれてしまいます」
「ムダ話って言い切っちゃったよ……」
「先生、もっと早く……」
「おせぇよ……」
「今頃……」
「二周目の時点で言ってほしかった……」
「はぁ、やっと……」
生徒が口々に呟き、それが騒めきとなった。レシージマッスは目を丸くする。
「むっ……無駄話?」
「歴史が好きなのは結構ですが、同じ話を繰り返す事は無駄でしかありません。有益に時間を使って下さい。それじゃあ五分、五分鑑賞して次へ移るぞ。人はいないが、静かにな」
生徒は思い思いの武具の元へ向かった。明良は玲太郎の後頭部を目で追うだけで、付いて行かなかった。
「兄貴は鑑賞しないのか?」
「しない。本物とされていても、私に取っては塵だもの。大昔の農具なら見てみたい気持ちはあるのだけれど、ないからね」
「それにしても、レシージマッスさんに文句を言わなかったな?」
「颯が言うと思って待っていたのだけれど、話を止める機を逸していたの? あれは遅過ぎるよね?」
漸く玲太郎の後頭部から颯に視線を移したかと思えば、それも直ぐに戻した。
「俺も兄貴が言うと思って待っていたんだけどな」
「颯が担任なのだから、颯が言わないと駄目だろうに。私に譲ろうとしてどうするの」
「次からは直ぐに言うよ」
「そうして貰えると大変有難いね」
ハソはレシージマッスが鬼のような形相で颯を睨み付けている事を知っていたが、颯には言わずに含み笑いをしていた。
この後はレシージマッスが熱弁する事もほぼなくなり、長くなりそうな時は都度颯が注意をして切り上げ、順調に進んで行き、二十分の遅れが十分に縮んでなんとか食堂に辿り着いた。鑑賞時間がその分減っていて、休憩時間が他の組より短くなってしまったが、間食の後はソルの絵画の鑑賞が待ち受けていて、且つ城の屋上へ行ける事で、生徒はそちらに気を取られていた。
「月組注目」
食べている最中だったが、颯が二度手を打った。
「此処からは海組から行く事になった。十分置きに出発するから、二十分待機する事になる。その分休憩が取れるから、慌てずに厠へ行って、十一時五十五分、十一時五十五分に正面階段前に集合だぞ。厠は食堂を出て直ぐの所にあるから説明は省く。休憩後は三階から観て行くから、正面階段前に集合な。広いから迷わないように一人で行動はせず、なるべく班行動をするように。出来ない場合は二人以上で行動し、班長に逐一報告をするんだぞ。もう一度言う。十一時五十五分に正面階段前に集合な。食堂の前の廊下を右へ真っ直ぐ行って、突き当りを左に曲がり、真っ直ぐ行くと右側に玄関広間、武具が飾ってある場所がある。その左側が正面階段だから、迷わないようにな。十一時五十五分までには到着している事。解ったか?」
生徒が元気良く返事をすると、颯は「以上だ」と言って立ち去った。
「いつも思うけど、引率って大変だよなあ……」
ルセナが呟くと懐中時計を取り出した。そして食堂にある掛け時計と時間を照らし合わせる。
「みんな、後三十分は余裕であるから、ゆっくり食べろよ。時間を持て余すぞ」
「そうなんだ。それじゃあゆっくり食べるよ」
「それにしても、意外とおいしいね。もっと質素な物が出て来るかと思ってたよ」
「言えてる」
「トゥクが間食に出るとは思わなかったよね。これ、ほとんどご飯だよね」
トゥクとは小麦粉で出来た生地を小さく成形して茹でた物の総称で、形状は楕円だったり、捩じられていたり、平らだったりと色々ある。
「このタレがおいしいよね。何が入ってるんだろう?」
「きっと果物だよ。花の香りがするもん」
「えー、違うよぉ。これはね、ヨマネスレスワって言う野菜よ。色は赤味がかっている橙で、甘くて、華やかな香りがするのよ」
「へー! そうなの!」
「ありがとう」
玲太郎は会話が耳に入って来るが、誰が言っているのかが全く分からなかった。
(女子がいると、賑やかになるんだよねぇ……。でもヨマネスレスワを知ってる人がいるとは思わなかったのよ。サバスト州でしか作られていないのに、どうして知ってるんだろう? サバスト州の出身なのだろうか?)
そんな事を思いながらゆっくり咀嚼をしていた。
四階にソルの作品が並べられ、そこでは時間をかなり割いて鑑賞していた。ソルは十作品を同時進行で制作していたという逸話が残っている。
「それにしてもソルは凄いよな。絵だけで子爵にまで上り詰めたんだから」
「そうだね」
「ウィシュヘンドの屋敷にあった絵も感動するものがあったけど、やっぱりソルはいいなあ……」
玲太郎は「うん、うん」と頷いていたが、生まれて初めて見たメニミュードの絵が一番だった。
(そう言えば、あの絵を描いた頃って、原種はまだ持ち出し禁止になってなかったのだろうか? その辺を聞かないといけないね。忘れないように帳面に書いておこう)
制服の胸の衣嚢から帳面と繰り出し式鉛筆を出して書いていると、ルセナが覗き込んだ。
「何を書いているんだ?」
手を止めてルセナを見る。
「メニミュードの原種が、自生している所から持ち出せなくなった時期を調べたいのよ。忘れないように、それを書いてるんだけどね」
「邪魔して悪い。続けて」
「うん」
ルセナは絵画へと視線を移し、玲太郎は帳面に視線を戻した。
ソルの作品が多く置かれていたが、サドラミュオ市出身である画家の作品も置かれていた。
「あっ! デミキスの作品があるぞ!」
「しーっ」
玲太郎が口の前で人差し指を立てた。興奮したルセナは慌てて口を覆う。
「悪い、つい……」
「美術で習ったけど、生涯で六点しか残ってないんだったよね。五点だった?」
「六点だよ。王立博物館に所蔵されているのが有名だからな。その内の一点があるんだぞ。凄くないか? えー、ここにもあったんだ……。そんな事、教えてもらわなかったぞ」
「あの案内人さん、ソルの作品はあちらにありますからどうぞお好きに見て下さいって言っただけだったもんね」
「まあ、イノウエ先生にムダ話って言われてから、明らかに態度が変わったよな」
「本当に……」
「それはどうでもいいわ。オレ、しばらくこの絵を見てるから、ウィシュヘンドはよそへ行っててもいいぞ」
「それなら一緒に見るのよ」
この階には人が数十人もいて、その場に大して居座れなかったが、それでもルセナは大満足だった。五班はその後、ルセナの蘊蓄を聞きながら鑑賞し、集合場所へ向かった。
五階からは塔となっていて、屋上にある展望台で景色を見渡す為に上った。塔の六階と七階の間にある踊り場で待機し、星組が下りて来ると交代で七階へ行き、展望台へ出て、空いてる場所へ行って景色を見渡す。
「わぁ! あっちの方に町があるんだね。建物が一杯見えるのよ」
そう言って人差し指で差すと、ルセナもそちらに視線を向けた。田畑はないが意外と緑が多く、建物のある辺りが目立って見えた。
「本当だな。薄い黄色のレンガが特徴的だって言ってたけど、こうして見てみると白にしか見えないなあ」
「そうだね。屋根の赤さが際立つね」
「赤一色じゃないって話だったけど、赤一色に見えるな」
「これからあの町へ行くの?」
「どうだろうな? 建物はあっちじゃなくて、そっちの方が高そうだから、そっちじゃないのか?」
「なるほど」
ルセナは近くを見回して玲太郎の肩を叩く。
「向こう側も空いてるから、行ってみよう」
「うん!」
二人は一周しながら景色を楽しみ、颯の号令で展望台を後にした。四階で先に下りていた生徒と合流し、一階で厠休憩を取ってから公園を通って駐舟場へ向かった。案内人とはそこで別れて陸船に乗り込む。最後に颯が乗り込むと、人数を三度確認して前方へ行く。
「体調の悪い者はいるか? ……いないな? 少しでも体調が変わっておかしくなったら、アメイルグ先生に言うんだぞ? これからビセッチ教のアヴォイ大聖堂に行くが、宗教上の問題で見学の出来ない者はこの組にはいなかったが、体調の悪い者はウィーウ先生と近くの飲食店で一緒に休憩していいからな。それじゃあ下の道を通っての移動で三十分は掛かるから、厠に行っておきたい者がいたら、駐舟場内にある厠へ行っておけよ」
返事をした後、数人の生徒が降りて厠へ向かった。
「したくなくても、少しでもいいから出しておいた方がいいぞー」
颯が何度かそう言うと、数人が立ち上がって降り、駆けて行った。
ビセッチ教は創造主ワリマカネン神を信仰している宗教で、世界一の教徒数を誇る。歴史も古く、アヴォイ大聖堂は約五千年前の建造物で、今では観光客も多く訪れていた。本来は質素な建物だったが、年数が経つに連れて修繕を重ねる毎に外観を飾り立てるようになった。その為、今では五千年間の流行の変移が見て取れ、観光客には大人気となっている。
ここでも案内人と行動を共にし、大理石の外観を念入りに鑑賞してから中へ入った。中は意外にも質素で、広間を兼ねた廊下は太い柱が何本も並んでいる。建築された頃は玻璃が高価だった為に窓が少ない。日中でも蝋燭で室内を照らし、幻想的な雰囲気を醸していた。
休憩を挟み、見学可能な礼拝堂へ進むと更に蝋燭の数が増え、天井に描かれた神話に登場する神々を薄らと照らしている。五人掛けの長椅子が並ぶ中、太い柱もそびえ立っていた。吹き抜けだが両脇と出入口の付近は三階まで座席があり、約二千人の収容が可能となっている。観光客は本来なら二階以上での見学なのだが、一階に入れた上にワリマカネン像を間近で見せて貰えた。良く見ると修繕の痕跡があちらこちらにあり、歴史を感じさせた。
組ごとに司祭が現れ、ビセッチ教の歴史の勉強をし、宗教に丸で興味のない玲太郎は熱心に聴いていても右から左だった。それもその筈、傍にはヌトがいるのだから、想像上の信仰対象に興味が湧く筈もなかった。
その夜、目まぐるしい一日を過ごした玲太郎は頭が混乱している中、いつの間にやら就寝していた。ヌトはそれを見てから明良の宿泊部屋へ遣って来た。
「明良、記録したぞ」
「有難う」
ズボンから黒淡石を取り出し、明良の掌に置いていく様子を見ていた颯が眉を顰めた。
「前から思っていたんだけど、巾着に入れて持ち歩けばいいんじゃないのか?」
ヌトは動きを止めた。
「そういう手もあったか」
颯を見てから、また黒淡石を取り出す。
「洗浄魔術で綺麗にすればよいだけだから気にならないのだけれどね」
明良が意外な事を言い、颯は引いた。
「ええ……」
「ヌト達は排泄しませんので、私も気になりませんけどね」
「ええ……」
颯はニーティに顰めた顔を向けた。
「颯は何が嫌なのよ?」
「何が嫌って、気持ち的に嫌に決まっているだろう。ズボンの中だぞ?」
ノユを見ながら言うと、ヌトが颯を見た。
「以前、颯にもズボンの中に入れてあった黒淡石を渡した事があるような気がするぞ」
「あれ? そんな事、あったか?」
「わしの気の所為であろうか?」
「うーん、記憶にないな。……まあ、いいや」
「しかしながら巾着に入れるというのはよい手であるな」
ヌトはそう言って明良に手を差し出した。明良はその手を見詰めていた。
「颯、わしにも黒淡石を呉れぬか。巾着付きで」
ズヤが傍に寄って来て、手を出した。
「幾つ?」
「幾つでも」
「狡いぞ! わしも欲しい!」
ノユも傍に遣って来て手を出した。
「幾つ?」
「幾つでも」
颯は眉を顰めると、当分頼んでこないように五十個ずつ巾着に入れて渡した。
「有難う」
「済まぬな、有難う」
二体は嬉しそうに巾着から一個出していた。
「言っておくけど、一度魔力を通して、黒淡石に魔力を登録するようにしたんだよ。記録は二度目からになるからな。先に、全部の黒淡石に自分の魔力を登録しろよ」
「そうであるか。解った」
ズヤは嬉しそうに巾着へ戻し、巾着ごと遣っていた。ノユは颯を見ていた。
「ははぁ、悪戯で傍にいる者が記録に出来ぬようにしたのであるな」
「そうなんだよ。同じ開閉器を使っている者に遣られる可能性は残るけど、まあ、ないよりはいいかと思ってな」
「やはり十分なのか?」
「兄貴からの要望で二十分にしたよ」
「そうであるか。わしは一時間でもよいぞ」
「二十分で十分だろう?」
ノユはへの字口になって黙った。
「まあ、なくなったら言えよ。でもその時に一時間っていう事を忘れるなよ?」
困り顔の颯を見たノユは一変して表情が明るくなった。
「済まぬな。宜しく頼む」
「ふふ、ノユ、良かったですね」
「うむ!」
この日から、二体は巾着を持ち歩くようになった。
「ハソはいらぬのか?」
「わしは貰うておるし、まだズボンの中にあるのでな。それがなくなったらでよいわ」
「巾着だけでも貰うておれば良かろうが」
「それは……そうであるな。颯」
ズヤから颯に視線を移すと、颯の手には巾着があり、差し出されていた。
「はい、どうぞ」
「済まぬ」
嬉しそうに受け取り、長衣の裾を手繰り寄せ、ズボンから黒淡石を取り出して巾着へ移していた。
「それではわしは戻るわ。お休み」
ヌトも明良に出して貰った巾着を提げて、壁を透り抜けて消えた。
二日目、午前中はずっと薬草園で、午後からは魔道具工場の見学と、サドラミュオ交響楽団の公演を鑑賞した後、宿泊施設の大部屋を借り、組ごとで薬草園と魔道具工場についての勉強会が開かれた。玲太郎が帳面に色々と書いていたお陰で、五班は難なく発表が出来た。
三日目は時間を掛けて王都へ移動し、早目の間食を済ませてから王宮のある敷地内へ入って見学をした。中はとても広く、見学するにも時間が掛かった。昼食は中にある兵舎の食堂で頂き、食後も引き続き敷地内の見学し、王宮騎士団の鍛錬も見学した。ルセナは興奮していたが、玲太郎はこういった事には全く興味がなく、隣にいるルセナを見ていた。それから少し移動して教育庁へ赴き、見学をしてから宿泊施設へ向かった。
四日目はロデルカ王立博物館で歴史資料や芸術品を観賞し、その後は商店街を散策した後、颯は陸船を地上が見える高さを維持した上で、少々時間を掛けて帰校した。これはケフッカ学院長の提案で、遠くに行った事がきちんと理解出来るように配慮した物だった。
午後の間食の時間である十八時五十分には到着していて、生徒は荷物を置いてから寮の食堂へ向かった。
玲太郎はいつも通りに遅れて行く為、荷物の整理をしていた。サドラミュオ市でも王都でも、これといった物がなくて土産を買わなかった。
「玲太郎、十枚でよいの?」
「うん、お願いします」
明良に洗浄魔術で綺麗にして貰った衣服を片付け、明良の傍へ行くと差し出された紙が分厚かった。
「……これ、多くない?」
「私の分もあるからね」
「え、一緒に行ってたじゃない」
「二人に五枚ずつ念写して、私にはないの?」
「だって、一緒に行ってたじゃない」
「玲太郎が念写するなら、私だって欲しいと思うよね」
「そうなの?」
「うん、当然だよ」
「でも僕、あーちゃんより念写が下手だよ?」
「そういう事は関係なく、玲太郎が念写するなら私も欲しいのだよ」
「ふうん……。それじゃあ、はーちゃんも欲しがると思う?」
「それは颯に訊かなければね」
玲太郎は莞爾として明良を見詰め、手を出した。
「失敗してもよいように、後十枚ね」
「はい」
顕現させた紙を渡した。
「みんな一緒でよいよね?」
「私は皆と一緒と、更に別の物が欲しいね」
微笑みを浮かべていると、玲太郎が困惑する。
「ええ? ……だからこんなに多いの? 失敗しても大丈夫なように多いんじゃなかったの?」
「両方だね」
「分かった。一杯失敗するけどごめんね」
「大丈夫、失敗したらまた紙を出すから沢山してよいよ」
「うん、ありがとう」
「どう致しまして」
玲太郎は念写を始めると、宣言通りに何枚か失敗したが、明良は気にせずにそれも自分の物とした。
「父上とばあちゃんには僕から渡すから、この事は言わないでね?」
「解っているよ。それでは待っているから、食堂へ行っておいで」
「あーちゃんは本当にイノウエ邸へ帰らないの?」
「うん。王都で買って来たお菓子があるから、此処で食べるよ」
「分かった。それじゃあ行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
ヌトは既に熟睡していて、ハソが代わりに付いて行った。明良は玲太郎が退室してから立ち上がり、菓子の入った紙袋を手にすると隣室へ向かった。
研修旅行から戻った生徒の殆どは受験と就職に向けて遣るべき事を遣り始めたが、玲太郎はその必要がなく、いつも通りの日々を送っていた。それはルセナも同様で、二人とも進路が決定している事は黙っていた。
五月に入り、ルセナは玲太郎を介して水伯と手紙の遣り取りをしていた。本当ならば十月からの入隊になるのだが、ルセナは夏休みから入隊したいという申し出をしていたからだった。
「父上からはなんて返事が来てたの?」
昼食が終わり、残って茶を飲んでいる時、玲太郎がふと気になって訊いた。
「うん、やっぱり家族と過ごしなさいって」
「そうなの。それじゃあそうするしかないね」
「そうだな。まあ、それだけ忙しくなるんだろうから、その心構えをしないといけないなと思ったわ」
「応援してるからね」
「ありがとう」
笑顔で見合っていると、人影が後ろに来た。二人が振り返ると颯だった。
「今週末、玲太郎の誕生日会を遣るからルセナ君もどうぞって」
「誰が言ってたの?」
「水伯」
「父上が? その前に、僕も聞いてないんだけど」
「俺も今し方聞いた」
「あ、そうなの」
颯を見上げていた顔をルセナに向ける。
「贈り物はいらないから、一緒に美味しい物を食べようね」
「え、いいのか?」
「うん」
「誕生日、いつだったんだ?」
「昨日の二十二日で十一になったのよ」
笑顔で答えると、ルセナも笑顔になる。
「おめでとう。それは知らなかったな」
「それはそうだよね。教えてないからね。ふふ」
「それじゃあルセナ君、急で悪いんだけど明日の八時に一緒に向かおう。その頃に寮長室へ来て貰えるか? 箱舟で屋敷へ向かうからな。帰寮する時間は日の曜日の夕食前だから、食堂の方の予約を取り消しておけよ」
ルセナは颯を見上げる。
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
「じゃあな」
そう言った颯は玲太郎の頭を乱雑に撫で、盆を片手に返却口へ向かって行った。玲太郎は手櫛で髪を整える。
「明日か。食堂の予約を取り消せるか、聞かないとな」
「そうだね」
「それで、イノウエ先生から、何をもらったんだ?」
「鶏の竜田揚げを作ってもらったのよ。美味しかった!」
「食べ物なんだな」
「そう。食べ物が一番好きなのよ」
「アメイルグ先生は?」
「ソキノの皮の砂糖漬けが入った焼き菓子。僕がソキノ好きだからね」
「ウィシュヘンド公爵は?」
「父上からはまだなのよ。帰ってないからね」
「ああ、それで誕生日会なんだな」
ルセナが納得して頷いていると、玲太郎も頷いた。
「そうだと思う」
「十時の間食と、昼食と、間食と、夜の四食、美味しい物が食べられるね!」
嬉しそうに言うと、ルセナが苦笑する。
「ウィシュヘンドの家は、特別な日じゃなくてもどれもうまかったけどな」
「ルセナくんちは素材の味を大切にしてるんでしょ。調味料を大量に使ううちの料理とは比べられないのよ」
「うちはオレのせいでもう調味料まみれだぞ。もう調味料なしに戻れない……」
そう言って切実な表情で何度も小さく頷いた。
「あはは。そうなの。所で、ルセナ君の誕生日はいつなの?」
「オレはもう終わった。四月五日だったんだよ」
「そうなの! おめでとう。言ってくれれば良かったのに。そうしたらお菓子か何かを作ったんだけどね」
「いいよ、お互いさまだろ。そういう訳で、お互い贈り物はなしな?」
「うん、分かった」
「それじゃあ、ちょっと寮の食堂へ行ってくるから、先に行ってて」
「分かった。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
残りの茶を呷ると、盆と荷物を持って足早に返却口へ向かった。玲太郎は虚ろなヌトを見ながらゆっくりと茶を飲み、食堂が閉まる十分前に次の教室へと向かって行った。
玲太郎はルセナに、贈り物はなしという言に頷きはしたが、菓子を作るつもりでいた。十三時限目は明良の下へ行って机に荷物を下し、明良を見ると目が合った。
「あーちゃん、お願いがあるんだけど」
「何?」
嬉しそうに微笑んだ。
「あのね、ルセナ君が誕生日だったのよ。四月の五日でもうとっくに過ぎてるんだけど、贈り物に焼き菓子を作りたくて…」
「解った、一緒に作るよ。焼き菓子は簡単な物でよいね? それとも手の込んだ物がよいの?」
遮るように承諾すると、玲太郎は苦笑していたが、直ぐに笑顔に戻った。
「簡単な物でお願いします。それも今日中にお願いします」
「それでは私の夕食後で構わない?」
「あ、それじゃあ、二十二時半以降はどう?」
「解った。二十二時五十分でよいね?」
「うん、お願いします」
「材料や調理器具を持って来るからね」
「はい」
玲太郎が笑顔で頷いた。明良も頼られた事を嬉しそうにしている。
明良は少し早い二十二時三十分に遣って来て、玲太郎と二人で菓子作りを始めた。調理器具を持って行くと言っていたにも拘らず、何も持っていなかった。
「あれ? 調理器具は?」
「一番簡単な物を聞いて来たから、それを作ろうと思っているのだよ。小麦粉と砂糖と牛酪と卵黄を混ぜて纏め、それを平らにして型で抜いて焼くだけだから、大した調理器具がなくても大丈夫なのだよね」
「そうなの」
「だから計量器だけ持ってきたのだよね。時間があるから二度焼いて、私にも分けてね」
「分かった。それはよいけど、はーちゃんには?」
「私と半分にすればよいよね。一度目に焼いた物を颯と私が半分ずつで、後が玲太郎とルセナ君でよいのではないの?」
「うん、それでよいよ。それじゃあお願いします」
玲太郎と明良は台所へ向かい、颯は食卓で読書をしながら出来上がる時を待つ事にした。
明良は手は出さずに口を出すだけで、玲太郎に遣って貰った。生地が出来ると平らにして型抜きをし、天火で焼いている間に、もう一度最初から作り始めた。二度目は少し余裕が生まれたのか、明良と楽しそうに会話をしながら作っていた。そうしている内に焼き上がり、玲太郎は早速味見をしていた。
「うん、美味しい。素朴な味がするのよ。でもあったかいから、冷めたのも食べないといけないね」
「そうだね。その方がよいね。次も綺麗に焼けているとよいね?」
「うん!」
「あーちゃん、包むのって、油紙で包んで、その上から紙で包む?」
「そうだね、それでよいと思うよ。私の物もそうして貰える?」
「え? ここで食べないの?」
「うん、持ち帰って、一人でゆっくりと味わいながら食べたいね」
「ふうん……。それじゃあお茶を淹れるから飲んで行く? 紅茶でよいよね?」
「それではそれでお願い」
玲太郎が笑顔で頷くと、直ぐ颯に顔を向けた。
「はーちゃん、はーちゃんもお茶はいるよね?」
「うん、紅茶で頼むよ」
「分かった!」
元気良く返事をして用意を始めた。最初に焼いた物が冷えると半分は明良の為に包み、半分は皿に盛って颯に出した。
翌朝、颯の操縦する箱舟で玲太郎とルセナは水伯邸へ向かった。三人は静かだったが、ハソが箱舟から身を乗り出して下を覗き込み、一体で燥いでいた。水伯邸に到着し、玄関前に下りた箱舟から降りる。ふと目に入った自分の花壇には、色取り取りの花が咲き乱れていた。
「花壇、綺麗な花が揃っているな」
颯が言うと、玲太郎がそれを見ながら頷いた。
「うん、ここまで咲いてる事は珍しいよね。少し賑やか過ぎるかも知れないけど、とてもよいね。僕は好き」
そう言って颯を見上げた。
「ホンボードおじさんやウログレさんの仕事ではないな」
「やっぱりそう思う?」
「うん。まあ、中に入ろう」
玲太郎は振り返ってルセナを見ると笑顔になる。
「ルセナ君、中へ入ろう!」
「おう」
玲太郎が駆け足で行くと、ルセナも付いて行く。颯は箱舟を消して、暫く花壇を見ていた。
二人は荷物を置きに勉強部屋兼図書室へ向かった。玲太郎はそこで鞄から例の焼き菓子を出して、ルセナに差し出した。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう」
「え? 昨日なしって話したじゃないか」
「大した物じゃないし、食べ物だからもらってくれると嬉しいのよ。お返しはなくてよいからね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
受け取ったルセナは玲太郎の笑顔を見た。それを鞄に入れると、何かを出して来た。
「実はオレも用意をしていたんだよ」
「えっ!」
「食べ物じゃないけどな」
差し出した物は紙に包まれていた。受け取るとルセナを見る。
「見てみてもよい?」
「いいぞ」
平らな長方形の物で、凡その検討は付いていた。広げてみると、やはり栞だった。平仮名で「れいたろう」と書かれていた。それから馬の絵も描かれている。
「これなら本に挟みっぱなしでもいいしな」
「ありがとう! ルセナ君、字が上手いね」
「和伍語の文字は面白くて好きだからな。ひらがながいいよな。漢字は難しいけど……」
「つい挟んだままにしちゃうから、大切に使うねとは言えないけど……、きちんと使うね。ありがとう!」
「おう。こっちこそありがとう」
「どういたしまして。あーちゃんに教わって作ったのよ。一番簡単な焼き菓子で素朴な味だから期待はしないでね。初めてにしては上出来だと自分では思うんだけどね」
「それじゃあ間食の後にでも食べさせてもらうよ」
「その時は僕がお茶を淹れるからね」
「うん、頼むよ」
嬉しそうに微笑むルセナを見て頷いた玲太郎は、鞄から出した教科書に栞を挟み、机に置いた。
十時の間食は水伯が玄関前で焼きそばを作ってくれた。簡易竈の上にある鉄板には、焼きそばが残っていて玲太郎も狙っていたが、明良と颯が平らげてしまった。
「どうして少し残しておいてくれなかったの? 僕も食べたかったのに……」
「そう怒らないの。二人前追加で焼こうね。ルセナ君も食べるよね?」
水伯が訊くと、ルセナが「はい!」と元気良く返事をした。
「水伯、これはとても美味しいよ。露店の物より美味しいからもっと食べたい。私の分も、そうだね、……二人前をお願いするね」
「それじゃあ俺も二人前で」
明良に次いで颯も注文した。玲太郎はそんな二人に驚いた。
「ええ? あんなに食べたのに、まだ二人前も食べるの?」
表情で、有り得ないと語っている玲太郎が引いていた。
「いいじゃないの。麺はまだまだあるからね」
八千代が笑っていた。
「麺って、ヤチヨさんが作ったんですか?」
ルセナが訊くと、八千代は首を横に振った。
「私とは言い難いわね。麺を打ったのは颯なのよ。分量は私が見たんだけどね」
「そうですか。イノウエ先生、うまいです!」
「有難う」
水伯は笊の中にある野菜を炒め出し、良い音と匂いが広がった。八千代以外、皿と箸を持ったまま待機している。それも四人が料理をしている前に行儀良く無言で並んでいて、水伯は顔を上げてその様子を見ると笑いを堪えた。
玲太郎は、沢山食べた後は勉強部屋兼図書室で寛いでいた。ルセナも食べ過ぎたようで、玲太郎が作った焼き菓子は直ぐに食べられなかった。
「露店で見た事があったけど、食べておけば良かったと後悔したよ」
「焼きそばは美味しいでしょ。入ってる具の中で、豚肉より甘藍が好きなんだよね。麺と一緒に噛むととっても美味しいのよ」
「あー、味が混ざるんだよな、分かるよ」
二人とも、長椅子に寝そべって話していた。満腹で満ち足りている二人はそのまま静かになり、眠りに就いた。
玲太郎は先に目覚め、ルセナを寝かせておいて、エネンドへ手紙を書いていた。書き終えてもルセナが起きず、鞄から教科書を出して自習を開始した。気付くと、起きたルセナに呼ばれていて、顔をルセナに向けた。
「起きたの?」
「悪い、結構寝てたわ」
そう言いながら目を擦っていると、玲太郎が微笑んだ。
「ううん、よいのよ。お茶でも飲む?」
「そうだな。一緒に行くよ」
「分かった」
二人は二階にある小さな台所へ行き、茶の用意をした。
「あ、そうだ。ウィシュヘンドにもらった焼き菓子を食べられるな! 楽しみ!」
「百五十分も眠ってたもんね。もう食べられるよね」
「百五十分って言うなよ。長く感じるから一時間半って言ってくれないか?」
「どっちも同じだから、変わらないよぉ」
「言い方で気持ち的に変わるって」
「そう? でもあんなに眠ったら、夜に眠られなくなっちゃうよ?」
玲太郎はおかしそうに言うと、ルセナは腕を組んだ。
「うーん、そうだな。確かにそれはあるな。そうなったらそうなったで読書でもするよ」
「ふふ。僕は六十分くらいしか眠ってないから、ルセナ君が起きてる横で眠らせてもらうね」
「もしかしたらウィシュヘンドが寝られなくて、オレがぐっすりかも知れないぞ?」
「あはは。それはないのよ。一時間半も眠ってたんだから、夜に眠られる訳がないのよ」
「やっぱりそうなるよなあ……。起こしてくれれば良かったのに……」
「たまにはよいと思うよ。知らず知らずの内に疲れてるんだろうね」
そう慰め、茶器を持って勉強部屋兼図書室へ戻った。ルセナは玲太郎から貰った焼き菓子を食べ、満足そうに頷いた。
「うん、素朴な焼き菓子だな。これはこれで美味しいわ。やっぱり砂糖のお陰か?」
そう言ってまた頬張る。
「そうだね。でも甘過ぎないでしょ」
「うん、ほおあにあまうえうまい」
そう言うと茶を口に含んで飲み込んだ。
「あっ、これは紅茶もうまく感じるな。凄いわ」
「ええ? 本当? 僕は昨日試食したけど、思わなかったよ?」
ルセナはまた頬張って数度咀嚼し、飲み込んだ後に紅茶を飲んだ。
「うん、オレにはそう感じる。うまい」
笑顔で玲太郎を見ると、玲太郎も釣られて微笑んだ。
「それなら良かった」
玲太郎も茶を飲み、穏やかな時間を過ごした。
昼食も水伯の手料理で、マヒュキスとアスーリュ・ミツミューとミツミカッラと生野菜と麺麭が並んでいた。
「ルセナ君、この鳥の唐揚げはマヒュキスって言って、マヒュって言う鳥の唐揚げね。このお汁はミツミカッラって言って、塩だけの味付けで、キノコと…、これは三つ葉? 後、二十日大根だね、それから蕎麦の実が入ってるのよ。後ね、アスーリュ・ミツミューはジャガイモと干した魚の身を、蕎麦粉を玉子と水で溶いた物と一緒に型焼きした物で、マヒュキスは目族の郷土料理、ミツミカッラとアスーリュ・ミツミューはウィシュヘンドの郷土料理なのよ」
「マヒュキスはどこだったか忘れたけど、食べた事はあるよ。うまいよな!」
「さて、説明も終わったようだから頂こうか。頂きます」
水伯が会話に割り込んで挨拶をすると、皆も一様に挨拶をした。颯はいないが明良はいて、アスーリュ・ミツミューから食べていた。玲太郎はミツミカッラの味を見て、微笑んでいた。
「ミツミカッラが前に飲んだ時よりも味がよいような気がするんだけど、どうしてなの?」
水伯を見ると、水伯が口の中の物を飲み込んだ。
「これはね、干し椎茸を使ったのだよ」
「干ししいたけを? 前は違うキノコだったの?」
「そうだね。干し椎茸を使っただけではなく、その戻し汁をそのまま使っていてね、それがとても良い味なのだよ。干し椎茸の出汁だね」
「なるほど、そういう事なの。とっても美味しい」
「そう、それは良かった」
柔和に微笑むと、玲太郎も微笑んで頷いた。そして玲太郎は匙から箸に持ち替えて、アスーリュ・ミツミューを切り分けて頬張る。安定の美味しさで頷く。その次はマヒュキスを齧り、何度も頷いている。
夜は八千代の手料理で、いつものバラ寿司ととろろ汁、それに鯛の煮付けと副菜が三品あった。この時は颯とルニリナも来ていて、明良と颯は山盛りのバラ寿司を瞬く間に平らげていた。ルセナはバラ寿司ととろろ汁を気に入ったのか、お代わりをしていた。
玲太郎は満足するまで好きな物を食べられ、幸福感を味わっていた。ルセナがいると遠慮して来なくなる颯もいるし、入浴もルセナと楽しく済ませ、充実した一日だった。しかし、ルセナは夜も確りと眠ったが、玲太郎は中々眠れずに何度も厠へ行き、遂には水伯が執務室から出て来て、読書して寝かし付けて貰う破目に陥り、その三時間後には夢現の中で厠に連れて行かれたが、全く出ずに寝台へ戻された。
翌日は明良の授業も休み、水伯とルセナの三人で、敷地内を隈なく歩いた。特にサドラミュオ親衛隊の隊舎や鍛錬場、訓練場の案内は水伯が時間を掛けてしていた。ルセナも夏休みが明けたらここで働くようになる為、真剣に聴いていた。玲太郎もここまで見て回る事は初めてでとても新鮮だったのだが、中でも特に驚いた事は、乳牛が百頭もいた事だった。いる事は聞いて知っていたが、実際に見た事は初めてで圧倒された。
その後は唯々畑、あちらこちらに畑、畑、畑。水伯邸の敷地内にはサドラミュオ親衛隊以外にも、ウィシュヘンド騎士団の団員もいる。出来得る限りの自給自足をしようという意志の表れのようで、それは高い塀の外にも畑がある程だった。
「土地だけはあるからね」
水伯がそう言って敷地外も回った。近くには溜め池が三泓あり、そこにも行った。水伯邸の辺りは山のない平野で川も流れていない為、雨水を溜めた物となる。
そしてシュンゾー地区の中でも一番大きな村へ行き、色々な店を見て回った。玲太郎はルセナと楽しそうに商品を見ていた。水伯は来たついでに何かと購入していた。
ルセナはこういう田舎の風景が大好きで、研修旅行で都会へ行き、それを改めて感じた事で、親衛隊の寮生活も苦にならなそうで安堵していた。それに、約六年間通ったヤニルゴル地区にも近いと言えば近い。
(体力が残っていれば、休みに行ける距離ではあるな。イノウエ先生やアメイルグ先生みたいに短時間では行けないけど……)
そう思いながら、隣にいる玲太郎を見た。
(貴族なのに、本当にそういう感じがしないよなあ……)
玲太郎はルセナの視線に気付いて顔を向ける。
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもない。今日も楽しかったなあと思って」
「うん! 楽しかったね!」
そう言った玲太郎の笑顔が、なんだかとても眩しかった。
六学年の修了試験は六月五日からで、それに合格すれば二十日には卒業式となる。玲太郎はルセナとそれに向けて復習を始め、会話も勉強の事が増えた。
週末は相変わらず屋敷へ帰り、思う所があって明良ではなく、水伯に魔術を教えて貰っていた。一所懸命練習を遣り、試作品は当然のように明良が掻っ攫って行った。その上、その様子を見ていただけの明良が先に習得してしまうと、颯に「狡い」と言われていた。
「それでは颯も水伯に教わればよいのではないの?」
「俺は水伯に作って貰うからいいや」
そう言って習おうとはしなかった。玲太郎が苦笑する。
「僕が作れるようになったら作るのよ。だからいつでも言ってね」
「玲太郎に頼むと、兄貴がなあ……」
言いながら渋い表情で明良を見ると、明良が颯を横目で見る。
「玲太郎に作って貰う事の方が狡いよね。それならば私が作るよ」
「ほらな?」
「あはは……」
玲太郎は力なく笑った。柔和に微笑んで見ている水伯は、何も言わなかった。
試験が終わってその結果が出る頃、玲太郎は勉強をせずに和伍語の本を読書していた。授業は受験生の為の復習で出席しなくなり、受験に関係のない授業だけ真面目に受けていた。そして、医務室にいる時は薬草術や和伍語の勉強をして過ごしていた。玲太郎は颯と一緒に旅行する約束をしていて、その旅先を和伍国と定めていたからだ。玲太郎はもう卒業後の事しか考えていなかった。
そんな中、卒業式で行われる卒業生代表の答辞に玲太郎が選出されなかった。その理由は後日知る事となるが、玲太郎としては人前に出ずに済んで喜んでいた。しかし、明良は不機嫌になってしまい、それも中々直らなかった。その煽りを食らった玲太郎は、明良の癒しとして長く抱き締められて困り果てていた。
忽ち卒業式の日となり、水伯は当然としても、八千代とガーナスも来訪し、寮長室の隣室で待機し、式が始まる二十分前までいた。そして会場へ行くと、玲太郎が見え易いであろう保護者席に着いて入場する時を待った。
時間が来て卒業生が入場すると、答辞を読む生徒は月組に混じる事となっていて、十六番目の位置にいた。その人物は、バハール・ディッチ・ロデルカ王弟殿下だった。保護者代表挨拶も勿論、コリーン・カウィ・ロデルカ王太后陛下となる。
式は順調に進行され、八千代だけが涙していた。この場には、悠次がいない事だけが八千代の心残りだった。バハールの答辞と王太后の挨拶は一際拍手が大きかったが、八千代の心には何も響かなかった。それはガーナスも同様らしく、大きな溜息が聞こえた。卒業生の退場となると、八千代は玲太郎が見えた途端に大きな拍手を叩いた。
バハールは月組にいたが、玲太郎と話す事はなかった。玲太郎の席と離れていた事もあったのだが、玲太郎が目を合わせて来る事もなかった為、話し掛ける事を躊躇したからだった。式場での席順で並び、そのまま式場へ向かって入場してしまうと話す機会も失われたが、退場するとその機会を得ようと玲太郎を探した。
退場した後、教室に戻らずにこの場で解散となる。多くの生徒は保護者待ちをしていて、玲太郎とルセナは出入り口から離れて待っていた。二人で話している内にルセナの母親が遣って来る。
「タハーズ、お待たせ。ウィシュヘンド公爵様はどちらにいらっしゃるの?」
ルセナの金髪碧眼は母親譲りのようだった。
「まだ来てないな」
「あんた、またそんな無礼な口を利いて。きちんと敬語を使いなさい。公爵様よ?」
「分かってるって……。あ、母ちゃん、この子がレイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンドだよ」
玲太郎を軽く紹介すると、母親が目を丸くした。
「えっ、あっ、ジューン・ルセナと申します。いつも倅がお世話になっています」
深く頭を下げた。玲太郎は慌てた。
「あの、こちらこそお世話になってます。初めまして、レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンドです」
「坊ちゃんのお陰で、倅も途中から学校が楽しくなったようで、ありがとうございました」
何度も頭を下げる母親を見たルセナが困惑する。
「余計な事は言わなくていいから……」
「僕もルセナ君のお陰で楽しかったです」
「それと、拙女にまでお土産をいただきまして、ありがとうございました。大切に使わせていただいています」
「喜んでくれたなら良かったです」
二人で辞儀のし合いを遣っていると、水伯と八千代とガーナスが来る。
「あ、父が来ました。父上!」
玲太郎が右手を挙げた。ルセナは透かさず三人の方に体を向けた。
「ウィシュヘンド公爵、こんにちは。ヤチヨさんもこんにちは。おじいさん、初めまして。タハーズ・ルセナです」
「ルセナ君、こんにちは」
「挨拶は初めてだな。玲太郎の祖父のガーナス・ブリナン・イノウエだ。宜しく」
八千代もガーナスも笑顔で応える。ジューンが焦って、体を向けた。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。タハーズの母のジューン・ルセナと申します。いつもお世話になっています」
また何度も辞儀をした。
「初めまして。スイハク・サドラミュオ・ロデルカです。この度はタハーズ君を私にお預け下さり、有難うございます」
「いえ、こちらこそ、倅を雇っていただきまして、本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけすると思いますが、なにとぞよろしくお願いします」
「近い内にタハーズ君の職場をご覧頂きたいので、ご家族全員で是非お越し下さい」
「ご丁寧にありがとうございます」
「何時でも構いませんから、お気軽にお越し下さい。タハーズ君が箱舟を操縦すれば日帰りだものね」
水伯がルセナに尾を向けた。
「はい、頑張って操縦します!」
水伯は柔和に微笑む。
「それで、帰りはどうする積りなの?」
「帰りは母ち…、母と荷物を抱えてクミシリガ湖の定期船で帰ろうと思ってます」
「ああ、そうなのだね。それでは家の近くまで送ろう。八千代さんもガーナスも少し寄り道をするけれど、構わないよね?」
「はい、私は構いません」
ガーナスが即座に頷いた。
「私もいいですよ。玲太郎もその方がいいよね?」
「うん!」
笑顔で大きく頷いた。ジューンが困惑するとルセナを見た。
「えっ、あっ、でも…」
「こうなったら甘えて送ってもらおう」
そう言ってルセナが頷くと、ジューンが水伯に顔を向けた。
「それではよろしくお願いします。荷物はそんなにないと思いますが、すぐに持ってきます」
「私は付いて行くから、ガーナスは八千代さんと一緒に此処で待っていて貰えるかい?」
「畏まりました」
「それでは参りましょう」
「は、はい」
水伯が率先して歩き出すと、ジューンとルセナが付いて行く。
「僕も行ってくるから待っててね」
「行ってらっしゃい」
「後でな」
二人に見送られて、玲太郎も付いて行った。
バハールはそれを遠くから見ているだけだった。
「殿下」
護衛に声を掛けられると振り返る。
「王太后様がお待ちです」
「分かった」
四人の護衛に囲まれ、その場を去った。
少し離れた駐舟場には陸船が止まっていて、仰々しい数の護衛の中にバハールの見慣れた人物がいた。護衛を割って進んで行くと、その人物がディッチを見る。
「ロデルカ君、卒業おめでとう」
「イノウエ先生、ありがとございます」
颯の前で立ち止まると、颯は手に持っていた箱を差し出した。包装されていて直方体だった。
「玲太郎からの餞別」
突然の事で驚愕したバハールは目を丸くした。
「え……、僕にですか?」
「そうだよ。以前言った事があるからって言っていたよ。中身は自分の目で確かめて」
「殿下、私に中身を確かめさせて下さい」
護衛の一人が言うと、颯が睨み付ける。
「お前等が役立たずな所為で俺の身内が殺され掛けたからって、毒になるような物を渡す訳がないだろう」
「貴様! 拘束するぞ!」
「お止めなさい」
陸船から声が聞こえて来たかと思えば、王太后が降りて来た。
「その節は私の愚策でご迷わ…」
「俺は!」
大声で制止して王太后を一瞥する。
「許す気もありませんし、謝罪をされても受け入れませんし、聞きたくもありません」
颯は護衛を冷めた目で見ていた。
「ロデルカ君とは今日限りだから言っておくけど、俺の手を煩わせる事がないように宜しく頼むよ。俺が王宮騎士団を潰す日が来ないといいなあ……」
そう言いながらバハールの手を取り、箱を握らせた。
「それじゃあ元気でな」
取り囲んでいた護衛の頭上を飛び、そのまま真っ直ぐ校舎に向かって飛んで行った。
「あんな無礼な奴、不敬罪で捕え、投獄しましょう!」
来賓客として参加していた主席宰相のガラナヤが声を荒らげた。
「王宮騎士団からナルアーを奪取して行く程の実力者を、ここにいる近衛兵が拘束など出来る筈もありません」
バハールは無言で陸船に乗り込み、王太后もそれに続いた。ガラナヤは切歯しながら乗り込み、護衛は配置に就いて出発した。
貰った物が気になったバハールは早速包装紙を広げ、箱の中を確かめた。中には紙と万年筆があった。紙には「集中力向上の呪術がかかっています。それではお元気で、宰相を目指して頑張ってね。さようなら」と書かれていた。二度と会う事はないと悟り、事実そうなった。
玲太郎はルセナとジューンを送り、握手をしたままで別れを惜しんでいた。
「まあ、九月中に家族で見学に行くから、その時にでも会おう」
「分かった。楽しみに待ってるね」
「元気でな」
「ルセナ君も元気でね」
ルセナの手が離れて行くと、玲太郎が寂しそうに笑った。
「またねー!」
ルセナの後ろ姿に声を掛ける。
「おう、またな!」
そして、ルセナが振り返る度にお互いが手を振った。八千代は感情移入し過ぎたのか、涙を拭っている。ルセナの姿が見えなくなると、玲太郎が箱舟に乗り込んだ。
「お待たせ。ごめんね、遅くなっちゃって」
「全く構わん。当分会えないのだからな」
「ふふ、ガーナスの言う通りだよ。それでは屋敷へ帰ろうね。ガーナスは夕食後に帰るからね」
「そうなの? ……あ! 分かった! 卒業祝いでバラ寿司だね!」
「当たり! 今日もばあちゃんが腕に縒りをかけて作るから、楽しみにしていてね」
「やったー!」
途端に賑やかになった箱舟は、既に上空に向かって浮き上がっていた。ヌトは一足先に屋敷へ行き、例の如く颯の寝台で就寝していた。いつまで就寝するのかは不明だが、きっと玲太郎に白い石で起こされるだろう。
颯は三年過ごした寮長室を片付け、掃除をしてしまうと、消えてしまった隣室へ続く扉のあった辺りに手を当て、感慨深そうに眺めていた。新期からは新たな寮長がここに入る。颯は長いようで短かった三年間を振り返っていた。
そして、また開かずの間となった隣室へ、時折玲太郎と水伯、明良と共に訪れる事になり、開かずの間なのに話し声が聞こえて来る学院の七不思議の一つとして語られる事になるが、それは少し先のお話。




