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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第三十五話 しかして楽しい最後の冬休み

 玲太郎は颯との約束の夜中の海へ、現地は日中だが、約束通りに毎日連れて行って貰った。しかし、思った以上に楽しくなかった。たまにならよい物も、毎日となると眠気に勝てず、一週間もしない内に海へ行かなくなった。それに明良に束縛されてしまい、自分の思うように行動が出来なかった事も楽しく思えない一因だった。そういう訳で続かなかった。

 そして、十日で冬休みの宿題を遣ってしまい、十五月九日からは魔術系の実技に時間を多目に割いて、特に付与術の課題に励む予定だ。玲太郎の場合、ほぼ五学年分が残っていて、これを遣り尽くす積りでいた。

 翌日、九時十分前になると、明良と共に箱舟に乗ってルセナを迎えに行った。明良は二度目と言う事もあり、明良は一直線に待ち合わせ場所へ向かう。

 ミミン地区の古びれた船着き場は以前同様、閑散としていた。二人は箱舟から降りて、船着き場へ近寄って見ていた。

「それにしても、ここは古いね」

「そうだね。ピーカーズ地区の船着き場は綺麗だったのにね」

「ピーカーズ? ……ああ、カンタロッダ学院の近くの」

「そう。船もしっかりと手入れされていたし、此処こことは違うね。それにつけても、また釣りに行きたいね」

「タン、タンティ? ……あの魚、名前はなんだった?」

 隣にいる明良を見上げる。

「タンモティッテね」

「それ! 次は僕も釣りたいのよ」

「ふふ。あのような奇跡はそう簡単には起きないよ。タンモティッテが見付かるまで、湖上で生活だね」

「え、そうなの?」

「私では無理にしても、颯がいれば案外早く見付けられるかも知れないね」

 そう言って玲太郎に顔を向けると、玲太郎はクミシリガ湖に背を向けて、ルセナが来る方向を見ていた。

「ルニリナ先生ののろいの授業が終わったら、湖上に住んでタンモティッテを待つのもよいかもね」

「そう? タンモティッテより、別の生物に、見た事もない生物に会いに行こうと思わない?」

「僕、生物は生物でも、植物がよいね」

「精霊はどう? 探してみたくない?」

「精霊! ルツとか、レウの所にいたあの牛みたいな精霊を?」

「うん、そう。一見しただけでは精霊とは判断出来ないから、見付けたとしても気付かないままで終わりそうではあるのだけれど」

「あはははは。それじゃあダメじゃない」

 玲太郎が楽しそうに笑うと、明良はこの上なく嬉しくなる。しかし、それも長くは続かない。ルセナが大きく挙手をして駆け寄って来た。

「おはよー! 待たせて悪いな!」

「おはよう!」

 玲太郎も手を大きく振っている。ルセナは傍まで来ると明良に向かって姿勢を正した。

「アメイルグ先生、おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 深々と辞儀をする。

「お早う。それでは屋敷へ行こうね」

 玲太郎は当然のようにルセナと後部座席に座った。玲太郎とルセナが楽しそうに会話をしている間、明良は操縦士に徹した。そして屋敷に到着すると、玲太郎とルセナは明良に礼を言い、二人で屋敷へ入って行った。残された明良は大きく溜息を吐いた。


 普段の土の曜日は明良が玲太郎に付きっ切りになるが、今日はルセナがいる事で、授業のみの上、邪魔者付きとなった。これが明日と、来週の土の曜日の三日もあり、明良は寂しくて仕方がなかったが、それとこれとは話は別で、勉強は確りと教えた。ルセナは宿題を持って来ていて、玲太郎の教科書を使い、自力で調べていた。玲太郎の方は、今日から九日間は復習に重点を置いて勉強を遣る事にしていた。二人並んで勉強をしている様を、時折明良は後ろから見て間違えていないかを確認する。

 そして、休憩時間には玲太郎に莞爾として見詰められ、追い出されるのだった。

 玲太郎はこの非日常な時間がとても楽しく、明良に邪魔をされたくなかった。これがルニリナなら追い出さないのだが、明良は存在自体が主張をし過ぎていて、気になってしまう為にこうして追い出す。そして、ルセナとの時間が楽しい分だけ、明良に対して罪悪感が募るのだった。


 ルセナは水伯邸の食事が大好きだ。水伯の手料理もそれ以外も美味しいが、八千代の手料理が一番だった。そういう訳で、夜が楽しみで仕方がなかったのだが、八千代が和伍国へ旅行したと聞き、涙が出そうな程に悲しくなった。それも十日間、ルセナの滞在日数と同じだけ留守をすると言う。寝込みたい気分になったが、水伯が料理をして、それを玲太郎と二人で手伝う事になり、気分は見事に復活した。

(こんな機会が巡って来るなんて、オレは強運の持ち主か?)

 勘違いしたくなる衝動に駆られるが、そこはきちんと自制する。

(違うな、こういう機会を与えてくれたウィシュヘンドに感謝をしないとな)

 そう思いつつ、白い前掛けを身に纏っている玲太郎に笑顔を向ける。

「それでは今日から当分、三人で分担して料理をするから時間が余るね。そういう訳で時間は気にせず、慌てて手を切らないように、十分に気を付けて包丁を使おうね」

「はーい!」

「はいっ」

 元気良く返事をした二人に柔和な微笑みを向ける。水伯はいつものように時間を掛けて材料を切って貰い、それを煮たり、焼いたり、茹でたりして作り上げて行った。

「ウィシュヘンド、これくらい茹でればいいのか?」

「あのね、竹串を突き刺してみるのよ。軟らかいと突き刺さるからね。持って来るから待ってて」

「おう、ありがとう」

 玲太郎が持ってきた竹串を大根に突き刺す。大して力を入れなくてもそれが突き刺さる。

「これはやわらかいわ。もう大丈夫」

「それじゃあ火を止めて、器に盛って、出来上がりだね」

「そうだな」

「色を見るに、絶対に味が良く染みてるよぉ。これは美味しいね」

「食べてないのに」

 ルセナが苦笑していると、満面の笑みを浮かべている玲太郎は鍋を軽々と持ち、調理台へ移した。取り残されているルセナに顔を向ける。

「ルセナ君、器に盛らなきゃ」

「おう」

 玲太郎の傍へ行き、器用に箸を使って器に盛り始めた。一緒に煮ていた鶏の腿肉、人参、蓮根、牛蒡ごぼうも盛る。不格好だが、玲太郎は何も言わず、笑顔で見ているだけだった。

「あ、僕のは少なめでよいからね」

「自分で盛るか?」

「それじゃあそうする。最後でよいからね」

「おう、分かった」

 水伯はそんな会話を聞きつつ、空いた焜炉こんろの前を陣取り、味噌汁の味付けをしていた。


 食卓に並んだ料理の材料を切ったのは、玲太郎とルセナだった。そして味付けは煮付けと、法蓮草の胡麻ごま和えを担当した。それを食べると、美味しいのは美味しいのだが、八千代の料理を食べた時の衝撃がなかった。

「和伍の料理は難しいな……」

 そう呟くと、玲太郎が手を止めた。

「和伍じゃなくても難しいのよ。ほんの少し足りないか、少し多いだけでも違うし、材料も全く同じ味じゃないし、あれ? ってなる時が良くあるのよ」

「こういう物はね、大体で良いのだよ。これ、という味を突き詰めたいのならば別だけれどね」

 柔和に微笑んでいる水伯を見ると、小さく頷いた。

「それとね、不思議と料理に向いている手という物が存在するのだよ」

「え? そんなのがあるの?」

「その手に触れると、不思議と味がよいのだよね。八千代さんがそうだと思うよ」

「え! それじゃあ、あーちゃんもなの? あーちゃんの料理はばあちゃんの味だもんね」

 目を丸くして明良を見ると、明良は微笑んで首を傾げた。

「そうだろうね。あれだけ美味しく作れるのだからね」

 水伯は「ふふ」と笑って、大根の煮付けを頬張った。

「あーちゃん、ルセナ君がいる間に、一度でよいから料理を作ってくれない?」

 笑顔でお願いすると、意外にも直ぐに頷いた。

「本当によいの?」

「うん、よいよ。水伯が十日間作り続けるのは可哀想だからね。……なのだけれど、一日だけだからね?」

「ありがとう!」

 玲太郎が心底嬉しそうにして、ルセナに顔を向けた。

「あーちゃんの料理は本当にばあちゃんの味だからね、美味しいのよ」

「それは本当に楽しみだな!」

 ルセナも満面の笑みを湛えていた。

「臨海学校の時、僕達の班がいた調理場の朝食はあーちゃんが作ってたんだけどね」

「え!?」

 目を丸くしたルセナは明良を見ると、辞儀をした。

「あれは美味しかったです、本当に!」

「ああいう料理も作れちゃうなんて、あーちゃんは凄いのよ」

 何故か玲太郎が得意満面で言い、紅白なますを頬張った。

「魔術で纏めて作業をしていただけだからね。分量は何時いつもと違ってきちんと量ったから、分量と手順を書いた人の腕が確かだという事だよ」

「話はその辺にして、食べなさい」

 水伯に促され、ルセナは慌てて鶏肉を頬張った。


 玲太郎とルセナは居室で茶を飲んだ後、勉強部屋兼居室へ行っていた。ルセナが「時間があるなら宿題を片付けたい」と言い出したからだった。玲太郎は野草の図鑑を横に置き、帳面に描き写していた。熱中していて、ルセナが斜め後ろに立っていた事に気付かなかった。

「ウィシュヘンド」

「わっ!」

 俄に声を掛けられて驚き、声のする方を見ると、ルセナが笑いを堪えている。

「どうかしたの?」

「そろそろ風呂へ行こう」

「あれ、そんな時間なの?」

「二十四時を過ぎてるよ」

「え!」

 慌てた玲太郎は立ち上り、図鑑も帳面も開いたままにして、二人は浴室へ向かった。

 入浴後に寝室へ行き、玲太郎は明良の、ルセナは玲太郎の寝台に上った。ルセナは家にいる安心感とは違った安心感を得られ、不思議と良く眠られるこの寝室が好きだった。玲太郎は会話もせずに寝息を立てていた。それを聞いていると、ルセナも気が遠退いて行った。


 玲太郎は目が覚めると直ぐに上体を起こした。いつもいる水伯がいなかったからだ。でも部屋が違う。

(そうだった、ルセナ君がいるんだった)

 左に顔を向け、良く眠っているルセナを見る。静かに着替えて、静かに扉を開閉し、厨房へと向かう。厨房が近付くに連れ、物音が良く聞こえた。

「父上!」

 水伯の後ろ姿に声を掛けた。

「お早う。早いね。ルセナ君は眠っているのかい?」

 そう言いながら振り返ったが、直ぐに正面を向いた。

「おはよう。ルセナ君はまだ眠ってるのよ。僕は手伝うからね」

「有難う。それでは白菜をお浸しにする為に一枚置いてあるから、それを切って貰えるかい? 大きく切り過ぎないでね」

「はーい!」

 玲太郎は踏み台に上って流しで手を洗い、調理台の前でも踏み台に上った。水伯が気を利かせて、あちらこちらに踏み台を顕現させていた。

「父上、ありがとう」

「どう致しまして」

 お互い顔を向けずに言った。玲太郎は目の前に持って来た白菜をどう切るかを思案したが、意外にも直ぐに包丁を手にして切り始めた。水伯は時折細かく指示をしないで自由にさせている。しかし、八千代の料理に倣い、斬新な切り方をしてくれなかった。

「今朝は大根をどうするつもりなの?」

「今朝はね、生で水菜と一緒に垂れをえて食べようかと思っているのだよ」

「なるほど」

「それではそれを作って行こうか」

「はーい!」

「玲太郎は大根を細切りに、水菜をいつも通りに切って貰えるかい?」

「はーい!」

 大根は既に皮が剥かれていて、指示された通りに切るだけだった。水伯は白菜を茹でて水切りをし、あらかじめ合わせていた調味料が入っている鉢の中へ入れた。掻き混ぜ終えると、しばらくして玲太郎が大根を切り終えた。水伯がそれを別の鉢に入れて箸で交ぜる。玲太郎が水菜を切ると、それも加えて、更に交ぜた。

「魚も直に焼けるから、ルセナ君を起こしてお出で」

「うん、行って来るね」

 玲太郎が流しで手を洗い、掛かっている手拭いで拭いて厨房を後にした。水伯はそれを見届けてから、調理台に食器を出現させる。


 ルセナが朝支度を終えて、玲太郎と食堂へ行った頃には、すっかり給仕が終わっていた。

「おはようございます」

 ルニリナが振り返っていて挨拶をした。先に言われたルセナは慌てて言う。

「おはようございます」

「お早う」

「ルニリナ先生、おはようございます」

 下座の奥から、玲太郎、ルセナ、ルニリナと座っていた。

「それでは頂きます」

 水伯が合掌して挨拶をすると、皆も同様にした。

「今日は起きるのが遅かったから、行った時にはもう味噌汁が出来ちゃってて、残念だったのよ」

 そう言いながら魚の身を解す。水伯は汁椀を置いて微笑む。

「夜もあるから、朝まで手伝わなくてもよいのだよ?」

「材料を切るくらいはやりたい」

 そう言うと解れた身を頬張り、一人頷いた。その隣には葱の味噌和えを食べて、「うまい!」と言っているルセナがいた。

「ルセナ君は味噌が好きだね」

 水伯が楽しそうに笑っている。

「ミソは最高ですね! 白飯のうまさが増します!」

 笑顔で興奮気味に言うと、ルニリナも笑った。

「私も味噌が好きですので、その気持ちは良く解りますよ」

「本当に美味しいですよね! それにと砂糖が合わさると極上のうまさですよね!」

「なめ味噌もよいですので、是非試してみて下さいね」

「ナメミソ?」

「おかずになる味噌の事です。それだけでも白飯が進みますよ」

「へえ! そんな物があるんですか。きっと探し出して食べてみます!」

「それでは今夜、それを作ろうか」

 ルセナは即座に水伯の方に顔を向けた。

「え!? 作れるんですか?」

「作れるよ。ルセナ君の好きな砂糖入りでね」

「よろしくお願いします! 夜の楽しみが倍増したわ」

 玲太郎に嬉しそうに言い、白菜のお浸しを頬張った。玲太郎も嬉しそうに魚を頬張った。


 食後、ルニリナを除いた三人は居室で寛いでいた。暫くすると明良が来て、少し早いがお開きとなり、水伯は執務室へ、残る三人は魔術の練習の為に北の畑へ向かう。今日も玲太郎は光の玉を小さくする練習を、ルセナは個数を増やす練習を遣る。

 道中、明良はいつも通り手を繋ぎたい所だったが、玲太郎はルセナがいると嫌がって繋いでくれず、兎に角不満で仕方がなかった。

 その不満は勉強の休憩中にも募る。いつもなら隣に座らせて貰える所なのだが、ルセナの隣に座ってしまい、玲太郎が身近に感じられなくなる。しかし、その不満は一切外に出さない明良だった。

(空気に徹していれば一緒にいられるのだけれど、何故かしら私の存在感が大きいと思われると追い出されるのだよね。そのように主張をしている積りは一切ないのだけれど……)

 不満は沢山あれど、玲太郎が機嫌良く微笑んでいる様を見続けられる事は至福だった。そうさせている人物が自分ではない事に目を瞑れば、である。複雑な心情は横に置いて、玲太郎の笑顔を唯々堪能する明良だった。


 玲太郎は今度こそルセナとエネンドを会わせてみたかったが、そもそもエネンドが温室にいるであろう時間に、そこへ行けないのに会わせられる筈もない事に気が付いた。

(温室に入り浸らないとホンボードおじさんとも会えないから、時間の指定も出来ないしなぁ……。あ、置き手紙という手があった!)

 閃いた玲太郎は前に明良がいるにも拘らず、忘れないように帳面の端に書き留めた。明良はそれを見ていたが、咎める事はなかった。

「集中力が切れたのならば、休憩を取ろうか」

 玲太郎は目線を伏せたままで頷いた。

「ルセナ君、お茶にしよう。玲太郎も集中力が切れたようだからね」

「はい」

 切りのよい所で声を掛けられ、即座に立ち上った。

「僕が淹れるからね」

「さっきはちょっと茶葉が少なくて失敗したから、次もオレがやるよ」

「まあ、僕に任せておいてよ。お手本を見せるから」

「いやいや、オレがやるって」

 二人は小競り合いをしながら退室し、明良は微笑みながらそれに付いて行く。明良は無言で、主に視線は玲太郎に注がれた。

「また少ないのよ」

「え、これでも少ないのか?」

「もう少し入れて。三人分だからね」

 ルセナが茶筒の蓋に、茶筒を斜めにして少しずつ茶葉を入れる。

「それくらい!」

「おう」

 手を止めて蓋に入った茶葉を茶器へ入れた。

「大体の量は分かったわ。でも匙を使って量らないんだな」

「そう、目分量なのよ」

「ウィシュヘンド公爵も料理を作ってる時はそうだよな」

「そうだねぇ、長く生きてるから、体に染み付いてるんだろうね」

「なるほど」

 湯が沸くと、明良が鉄瓶を持って茶器に注いだ。玲太郎は砂時計を引っ繰り返す。明良はそれを焜炉こんろへ置きに行き、そのついでに冷蔵庫から何かを持って来て調理台へ置く。

「あんころ餅だよ」

「あんころ餅!」

 玲太郎の表情が明るくなった。

「あんころもち?」

「お餅をあんこで包んでるんだよ。美味しいよ」

「前に食べた、きなこのおはぎみたいな?」

「アンコで包んでる餅がね、米粒が残ってないのがあんころ餅で、おはぎは米粒が残ってるのよ」

「へえ、そうなんだな」

 皿を三枚持って来た明良はそれを置き、玲太郎を見る。

「水伯が作ってくれたのだけれど、玲太郎は何個にする?」

「僕は三個!」

「ルセナ君は?」

「オレは五個欲しいです!」

「解った」

 十五個あったあんころ餅が分けられて行く。明良は持って来ていた皿の内一枚を戻し、大皿をそのまま使用する事にした。

「それでは先に行って待っているからね」

「すぐに行くからね」

 明良は一足先に勉強部屋兼図書室へ運んだ。ルセナは嬉しそうにしていた。

「ウィシュヘンド公爵の菓子、大好き」

「ふふ、美味しいもんね」

「あのきなこのおはぎが一番好きだな」

「父上のは、アンコが甘さ控えめで上品なのよ。ばあちゃんが作るととっても甘いんだけど、それも美味しいのよ」

「八千代さんのも食べてみたいな……。前の時はあの、梅の砂糖水が入った寒天が良かった! あれが好きだな。梅のさわやかな風味と、甘さもあってうまかった……」

 目を閉じて思い出しているのか、笑顔になっている。

「良く覚えてるね」

 目を開けて玲太郎を見ると真顔になる。

「それはもう、うまかったもん。イニーミーさんが作ってくれた、あのソキノ入りの焼き菓子もうまかったなあ……」

「僕も、あれ大好き。手間をかけちゃうから申し訳なくて、時々しかお願いしないのよ」

「え、そうなのか? 雇い主の息子なんだから、もっとワガママ言ってもいいんじゃないのか?」

「うーん、たまにだから美味しさが続くんだと思うのよ。毎日だと飽きちゃうでしょ」

「そう……だろうか? 焼き魚は毎日食べても飽きないぞ?」

「それは魚の種類が違うからでしょ。魚の味が違うじゃない」

「ああ、そうだ。種類が確かに違うわ」

 そう言うと笑った。玲太郎はふと砂時計を見る。

「あ、砂時計が落ち切ってるのよ」

「よし、茶器に入れるぞ」

 茶漉しを片手に注ぎ始めた。玲太郎は心配そうに様子を見ている。


 玲太郎は夕食後、水伯と三人で寛いでから手紙を書き、ルセナを部屋に残して一人で温室へ向かった。光の玉を顕現させてから隣接されている作業小屋へ行き、魔術で開錠して中に入って台に手紙を置いた。

 手紙は挨拶と、「久し振りに会って話がしたい。会えるまで毎日朝六時半には温室の南側の休憩所にいるから来てね」という内容のみだった。

 玲太郎の学校生活が開始してからという物、週末は明良が密着している上に勉強に時間を費やしていて、気付けば時間が過ぎていて、長期休暇の時も同様で温室で過ごす時間が随分と減っていた。それもあって、純粋にエネンドと会いたかった。

 二日後、ルセナと一緒に六時四十分が来ると温室へ向かった。七時になると水伯が迎えに来て、そのまま北の畑へ向かう事になっていて、初日はその時間まで待ったが来なかった。露骨に落胆する玲太郎をルセナが慰めながら北の畑へ向かう。一緒に来ていた明良が恨めしそうに見ていた。

「明良、そのような目で見るのは止しなさい」

 いつもの無表情に戻った明良は水伯を横目で一瞥をくれる。

「私がどのような目をしようと、構わないよね?」

「玲太郎にそのような見苦しい様を見せられるのかい?」

「もう何度も見られているから今更だよ」

「……そう言えばそうだね」

「よい所だけを見て欲しいとは思わないから、私は見られても構わないのだけれどね」

「そうなのだね。そのよい所という表情が拝めるのであれば、玲太郎に常にいて貰わなければならなくなるね」

 明良はそれに対して何も言わず、玲太郎の後ろ姿を見詰めていた。

「幼い頃のように、私も明良に笑顔を向けて貰いたのだけれどね」

 やはり口を噤んだままだった。

「それにつけても、朝食は済ませて来たのかい?」

「目が覚めたから先に来ただけで、時間が来れば帰宅して朝食を摂って、そのまま仕事をするよ。颯がばあちゃんまで連れて行ってしまったから、仕事に打ち込む事にしたのだよね」

「ふふ、そうなのだね。私も玲太郎をルセナ君に取られているから、同じだね」

 明良はいつもの柔和な微笑みを見て、視線を空に遣った。

「私は結局の所、幼い頃から水伯に甘えているのだろうね。それが今も変わらないという事は、成長が出来ていないのかも知れない」

 水伯は思わず明良を見た。

「偶にしか顔を見せていなかったのに、頼れる大人だと見て貰えた事は嬉しいよ。有難う」

「どう致しまして」

 視界の端にいた玲太郎を中心に戻した明良は、知らず知らずの内にまた恨めしそうな目付きになっていた。水伯はそれを横目で見て微笑んだ。


 今日の玲太郎は集中力が続かず、ルニリナが気分転換に外へ連れ出した。行き先は水伯の領地であるダーモウェル州で、メナムント州に隣接している。ダーモウェル州は内陸で山地が多く、赤道上に位置していても、温暖気候に向く作物を育てていた。その為、商店街には種々雑多な作物が並んでいた。

 南国の暑さの中で上着を着ている上に長袖の襯衣しんいは暑かったが、ルニリナが温度調整をしてくれ、そのまま街を歩いた。ルセナは物珍しそうに見回していて、玲太郎はそれを見て嬉しそうにしていた。

「ルニリナ先生、お土産を買って行きたいんですけど」

「そうですか。それではお土産を売っているお店を探しましょうか」

「はーい!」

「オレも何か買いたいです!」

「ふふ、それでは探しましょうね。私もこの辺りの地理に詳しくないので……」

 三人で辺りを見回していると、厚着をしているからか、衆目を集めていた。

「鞄を買って、上着をそれに入れましょう。その時にお店の人からお土産屋さんの場所を訊きましょうか」

「それじゃあ僕がカバンを買います。ここの特有の柄の物があれば、それが欲しいです」

 玲太郎が嬉しそうに言った。

「解りました。それではお願いします。鞄屋はあちらにあるのが見えましたから、行きましょうか」

「はい」

「はーい!」

 二人が返事をすると、笑顔で頷いたルニリナが先頭を歩いた。三人は鞄屋に入り、玲太郎の目当ての物があり、その中でも二番目に大きな鞄と、一番小さな鞄を選んだ。どちらも南国に咲く花が刺繍されていて、玲太郎には可愛らし過ぎたが、本人は丸で気にしていなかった。会計時にルニリナが土産屋の場所を訊いた。そして、その場で三人は上着を脱ぎ、大きい方の鞄に入れるとルニリナが持った。小さい方は包んで貰い、それもその中に入れた。

 店を後にすると、商店街の地図に印を入れて渡され、確認しながら到着した土産屋は、観光客の多さを窺わせる広さだった。

「わぁ……、広いねぇ。メナムントと大違いなのよ」

「オレも驚いたわ」

 二百畳はある広さで、ルニリナも目を丸くしていた。

「これは決めるのに一苦労ですね。どこから見て行きますか?」

「はぁ……」

 玲太郎は生返事で、聞いていないようだった。

「それじゃあ、周りから見て、それが終わったら棚を見て行きたいです」

「解りました。それでは右側から見て行きましょうか」

「はい」

 玲太郎はまだ店内を見回していた。

「ウィシュヘンド、こっちから見るぞ」

 玲太郎の腕を取り、優しく引っ張った。

「あ、うん」

 ルセナに顔を向けて頷くと付いて行く。刺繍や染め物、織物以外に、陶器、木彫、石細工と節操のない品揃えだった。

「おいおい、石は宝石みたいなのもあるぞ」

「あっ、本当だ。でもこの宝石、創作者が書いてある。魔術で出したんだね」

「なんだ、天然じゃないのか」

 残念そうに言うと、ルニリナが微笑んで頷いた。

「そうですね。それにこれは呪術ではありませんが、火災から家を守るという、火災けのお守りですね。この出来でこの値段なら、石代を含めても妥当な所でしょう。こちらは水災除け、こちらは天災除け、こちらは地変除けですね」

「それじゃあ、いち年持てばよいという感じなんですね。それなら魔術で宝石を出してても、いつか消えてもよい気はしますね」

「そうですね」

 ルニリナは玲太郎を顔を見合わせて微笑んでいた。

「それじゃあ、オレは家に水災除けを買おうっと」

「ふうん、天の神様、地の神様、水の神様と火の神様がいるんだね」

「どれもサルなんだな」

「ここは山地が三分の二を占めていますので、猿が多いのでしょう。テニコンダシン、ネリコンダシン、レキコンダシン、ケヒコンダシンとなっていますね。コンダシンが神様という意味で、その前の名称が天、地、水、火という意味ですね」

 玲太郎がルニリナを見上げた。

「ルニリナ先生は物知りですね」

 玲太郎を見たルニリナが微笑んだ。

「ここに書いてあります」

 指を差した方を見ると、紙に書かれていた。玲太郎はそれを見て苦笑する。

「あはは……。それにしてもこれだと、テニコンダシン様って言うと、天の神様様という感じになっちゃいますね」

「ふふふ、そうですね」

「はあ、なるほど。それじゃあ呼び捨てみたいに呼べばいいのか。レキコンダシンの、石はどの色にしよう……。悩むなあ……」

「ルセナ君、こっちにも似たようなのが一杯あるのよ」

 ルセナの袖を引っ張って、指を差す。三人で右側へ寄って行く。

「げ、こんなにあるのかよ。これは悩むなあ……」

「それじゃあ悩んでてくれる? 僕はばあちゃんのお土産を見て来るからね」

「分かった、後でな」

「うん。行って来るね」

「待って下さい。それでは私も八千代さんと颯にお土産を買いますので、決まったら私の所へ来て貰ってもよいでしょうか?」

「分かりました。そうします」

「オレもそれでいいです」

「それでは後程」

「はい」

「はーい!」

 ルセナ以外は方々へ散った。三人は悩みつつも決め、それ等を購入して店を後にした。それから雰囲気の良さそうな店へ入って喉を潤し、今度は店の軒先を見ながら駐舟場へ向かった。

 昼食までには戻り、良い気分転換になった玲太郎は、言っていたように八千代にだけ土産を、それから焼き菓子と果物も買って来て、留守番の皆の土産としていた。ルセナはレキコンダシンを二体買った。ルニリナは玲太郎とは別の焼き菓子を買っていて、それが昼食後に並び、四人で美味しく食べた。

 午後の授業では気分転換で時間を費やした分、二人共が真面目に取り組んでいた。

(話を聞いた所、エネンド君が来なかった事がやる気減退の原因のようですが、これでは明日も来なければ、やはり落ち込むのでしょうね)

 ルニリナは頭を悩ませていた。


 翌朝、玲太郎はルセナと温室へ向かった。エネンドの姿はなかったが、机の上に一通の手紙があった。

「レイタロウ様だって」

 先に目にしたルセナが手に取り、玲太郎に渡す。

「ありがとう」

 封はされておらず、口を開けて便箋を取り出して、読み始めた。

「エネンドは箱舟の中級免許を取りに合宿へ行ってるんだって。これも父親が代筆してる……」

「そうなんだな。それじゃあ仕方がないから、明日からは居室でゆっくりしよう」

 玲太郎は露骨に気落ちした。

「そうしょげるなよ。また機会はあるだろうからな」

「……僕は時間が有り余るだろうけど、ルセナ君はあと半年もすれば仕事が始まって、そうじゃなくなるんだよ? エネンドはじょう学校へ行ってるみたいだから、まだ長期休暇はあるだろうけど……」

「まあ、そういうもんだよ。縁があれば、嫌でも会う事になるって。それに、有り余るって言ってたけど、そんなに時間がある訳じゃないだろ? ルニリナ先生から呪いを学ぶって言ってたんだからな」

「それは、そうなんだけど……。僕の二人しかいない友達だから、紹介したかったのよ」

「それは嬉しいけど、ウィシュヘンドの友達同士だからって、仲良くなれるかは別の話だぞ?」

「う、ん、それは分かってるのよ。単純に二人に会って欲しいなぁって思ったのよ。二人が話す所を見てみたかっただけなんだけど、ね」

 玲太郎が残念そうに言うと、ルセナは笑顔で頷く。

「分かってる。まあ、それは機会があればな。それより、折角温室にいるんだから、一周してから勉強部屋へ行こう」

「それはよいけど、どうせなら今は父上の所へ行って、北の畑へ行かない? 僕、魔術の練習をやりたいのよ。次は火の玉を小さくしないとね」

「よし、そうするか。オレは玉を複数個出して、それぞれ独立した動作をさせる練習をしたいからな」

「それじゃあ先に行くからね!」

 玲太郎は笑顔で駆け出した。

「おい! ずるいぞ!」

 ルセナが慌てて追い掛ける。対格差はあるのに、玲太郎の足が速くてルセナは追い付けなかった。


 エネンドが来ない事は心底残念だったが、理由が判れば気持ちの切り替えは容易だった。勉強に集中している玲太郎を見たルニリナは杞憂に終わった事に安堵していた。

 八時を過ぎた頃に休憩を取り、ルニリナが昨日買っていた別の菓子を食べながら茶を飲んでいた。

「昨日のはソキノだったけど、これは南国の果物の味がして、甘くていいな!」

「僕はソキノの方が好き。これも美味しいけど、ソキノがよいのよ」

「これはトカタデコですね。乾季前に実が生り、乾季中に乾燥して甘味が増すそうですよ。そうなって初めて収獲するそうです」

「え、まさか、砂糖なしでこの味ですか?」

「この実の糖度は非常に高いそうですので、砂糖は使用していないでしょうね」

「へえ! それは凄いですね」

 ルセナが感心していると、玲太郎は茶を飲んで横目で見ていた。

「本当に甘いのが好きなんだね」

 顔を玲太郎に向けると、満面の笑みを湛えた。

「大好き」

「でも、甘い物を食べ過ぎると、虫歯になっちゃうよ?」

「それなんだよな。まあ、家ではそんなに甘い物は食べないから平気だけど、学校では歯磨きしまくってるよ」

「歯磨きと言えば、洗浄魔術で歯磨きが出来るようにと思って練習をやってたんだけど、上手く出来ないのよ……」

「唾液ですればいいじゃないか。オレは唾液だぞ」

 ルセナは当然のように言うと、玲太郎は眉をしかめた。

「やっぱり唾液なの? 唾液が嫌だから口の中に水の玉を出してね、それでやろうとしたら、量が多過ぎて口からプーって出ちゃうのよ」

「ああ、ウィシュヘンドならそうなるだろうな……」

「そうですよね、玲太郎君ならそうなりますよね。だからこその唾液ですよ」

 二人は二度三度と頷いた。

「唾液が汚いと言うのであれば、常に吐き出さなければなりませんが、そうはしていないでしょう? ですので、唾液を使って洗浄魔術で歯を綺麗にする事は悪い事ではありません。それを飲み込む事もです」

 頷いていたルセナも口を開く。

「魔力は有限だからな、使える物はなんでも使うって、一学年の時の魔術の先生が言ってたぞ。今日は魔力をこれだけ使用出来ても、明日も明後日も同量を使用出来るとは限らない、とも言ってたな。体調や精神状態で変わるんだってよ。オレは実感した事がないけど、大きな魔術を使い続けてると分かるって言ってたなあ……」

「え、そうなの?」

 驚く玲太郎を見て、ルセナは真顔で大きく頷く。

「そうだよ。出来具合が違うって言ってた。まあ、ウィシュヘンドには不要な情報だろうけどな」

「颯も授業の時にその説明はしていた筈ですよ」

「うーん、覚えてないです……」

 首を傾げる玲太郎の口から出た言を聞いて、ルニリナは「ふふ」と笑った。

「そういう訳で、唾液で練習してみましょう」

「ああ……、そこに話が戻るんですね」

 玲太郎は苦笑するしかなく、横を見るとルセナも笑顔だった。


 今夜は、ルセナが「うどんを食べてみたい」と要望を言った為にうどんだった。旬の野菜をうどんの汁で煮込み、それを麺に掛けたら出来上がりだった。麺の生地の準備に手間取ったし、生地を切る手際も悪く、不格好な麺になったがそれはそれで良かった。

 水伯がうどんだけでは物足りないからと、甘辛く煮込んだ鹿尾菜ひじきを交ぜたお握りを作ってくれていて、漬物も付いていた。

「わぁ、夕食にうどんは久し振りだね」

 無表情で嬉しそうに声を上げた明良を全員が見た。視線を気にせず、水伯に顔を向ける。

「うどんのお代わりはあるの?」

「きちんとあるよ。もう茹でてあって、汁を入れてしまえばよいだけなのだけれど、一人前しかないからね。お握りは後二個あるよ」

「解った。ありがとう」

 明良の皿にはお握りが七個あった。

「頂きます」

 合掌をしていた水伯が箸を手にすると、皆も続いた。麺を啜る音が響く中、ルセナは麺を啜る事が出来ずに一本ずつ必死で吸い込んでいた。

「んー、もう少し細く切れば良かったねぇ……」

 玲太郎が反省していると、明良が笑顔で玲太郎を見る。

「大丈夫、美味しいよ」

「それは父上の味付けのお陰なのよ。ね、父上」

 話を振られた水伯は、咀嚼をしながら柔和に微笑むだけだった。

「優しい味がする! うまいな!」

「そうですね。うどんは美味しいですよね」

 ルセナはルニリナに顔を向け、笑顔で頷いた。

(はーちゃん可哀想。こーんなに美味しいうどんを食べられないなんて)

 そう思うと口元が綻んだが、直ぐに元に戻る。

(でももう少し細く切れば良かった……)

 ふと視線を感じて明良を見ると、明良が咀嚼を止めて微笑んだ。玲太郎も釣られて笑顔になった。その明良はお握りを箸で摘んでかじっていた。視線を横にずらして水伯を見ると、何故かうどんを見ながら微笑んでいた。

「父上、どうかしたの?」

 視線を上げて玲太郎を見ると、柔和に微笑むだけだった。

「別に何もないのだけれどね」

「本当に?」

 怪訝そうに見詰めると、小さく頷いてうどんを啜り始めた。玲太郎は丼を持ち上げると、汁を啜って、もう一口啜って丼を置いた。

「この味、美味しい」

 笑顔で呟いた。


 玲太郎が付与術の練習を遣っている間、ルセナは何故か箸の使い方の練習に励んでいた。大きさは大豆程の大きさの物から小豆程の大きさの物まで、様々な物が交ざっている。それを絶え間なく少し離れた皿へ移す。

「ここにいる間に、米粒までつまめるようになってみせるぞ!」

 そう言い、一人燃えていた。なんでも、明良が箸に大量の麺を引っ掛け、豪快に啜っている姿に衝撃を受けたのだとか。

「突き匙じゃあ、あんな事は出来ないからな」

 こうして新たな箸信奉者が生まれたのだった。玲太郎は頭の中で突き匙と箸を比較し、頷いていた。

「そうですが、少し硬い物などは突き匙と小刀を使った方が楽ですけどね」

「僕は一口大に切って食べるより、箸で持ってかじる方が好きです」

「ああ、そうですね。齧れば済む話ですね」

「まあ、中々かみ千切れない時もありますけど……」

「ふふ、一長一短という物ですね。さて、雑談はこれくらいにして、物質強化の練習を続けましょうか」

「はい」

 玲太郎とルニリナの会話に耳を傾けていたルセナが頷く。

「オレも頑張ります!」

 余所見をせず、一所懸命に豆を摘んでいた。


 玲太郎は、明良が素直にルセナと二人切りにしてくれている気遣いに感謝をしていた。

(あれ? でもこれが普通なんじゃないの? はーちゃんなんて、もっと気を遣って和伍へ行っちゃったもんね……。ばあちゃんまで連れて行くとは思わなかったけど……。あーちゃんがいつもこうだとよいのに、と思うけど、あーちゃんにそれは出来ないんだろうなぁ……)

 平日の朝、魔術の練習に付き合っている明良を横目で見ていた。明良は水伯と話しているようで、時折視線がそちらへ行く。

(こうして見てると、本当に美人なのに、どうしてあんな性格なんだろうね? もしかして、僕が悪いのだろうか?)

 火の玉に視線を戻して、少し膨らんでいたそれを出来るだけ小さくした。小さくしたつもりだが一尺はあり、それが玲太郎の精一杯だった。

「大分小さくなったね」

 水伯が傍に来て声を掛けて来て、玲太郎は見上げた。

「でもどうして火だけこんなに大きいのかが分からないのよ」

「そうだね。それでも練習を遣る内に慣れて来て、小さく作れるようになって来ると思うよ」

「そう?」

 水伯が柔和に微笑んで頷いたが、直ぐに火の玉へ視線を戻した。

「気が抜けると大きくなってしまうようだから、小さく維持するように心掛けなければね」

 玲太郎は慌てて火の玉を見て、また精一杯小さくした。

「それでは私はルセナ君の方へ行くね。気を抜かないようにね」

「はーい」

 返事をすると、水伯の後ろ姿を見て微笑んでいた。逆隣りに来ていた明良に気付いていて、そちらへも視線を遣る。

「ほら、また大きくなっているよ。気を抜かないように言われたばかりなのではないの?」

「それじゃあ、気が散らないように傍に来ちゃダメなのよ」

「それは無理な相談だね。こういう風に傍にいられて話し掛けられても、維持が出来るようにならなければね」

 玲太郎は明良を見上げると、明良が屈んで笑顔を向ける。

「此処でこうして練習を遣るのも、何時まで続くのだろうね?」

 不意の質問に玲太郎は首を傾げて唸った。

「うーん……、そうだねぇ、……きっと僕が、暴走しないって分かるまでだね」

「それが判る時は来ないだろうから、ずっとになってしまうよ?」

「えっ、そうなの?」

 明良は横目で火の玉を確認する。玲太郎も思わず見ると、大きくなっていた。

「ふふ」

 明良が笑いながら視線を戻した。

「あ、冗談なの?」

「冗談? 何が?」

「ずっと練習っていうのが」

「冗談ではないよ。玲太郎が明日暴走しますとか、もうすぐ暴走しますとか、判る筈がないもの。そうなると遣り続ける事になるよね?」

 玲太郎はまた明良に顔を向ける。

「それはそうだけど……」

「咄嗟の時でも、大きさや魔力量を間違えないように身に付けなければね」

「ああ、それは分かるかも。それじゃあ、慣れて、間違える事がなくなれば、ここでの練習は終わりにしてもよいの?」

「玲太郎が止めたければね。私としては箱舟の特級免許を取ってくれるまでは頑張って欲しいのだけれどね」

 玲太郎は露骨に嫌そうな表情になった。

「箱舟の免許は必要なの? 父上やあーちゃん、はーちゃんがいれば不要だと思うんだけどね」

「それでは、出掛ける時は必ず私が一緒という事でよいね?」

「え? ずっとはないのよ。父上と出掛ける時だって、はーちゃんの時だってあるから、あーちゃんだけとは限らないんだからね?」

 明良は悲愴な表情に変わる。

「またそういう顔をする。ダメなのよ。笑顔でいてね」

「悲しい事を言われるとこういう顔になってしまうのだから、仕方がないね。玲太郎が私を悲しませなければよいのだけれどね」

 玲太郎は微笑むと正面を向き、また膨らんでいた玉を小さくした。すると、明良が火の玉を顕現させ、玲太郎よりも二回りは小さいそれで、玲太郎の玉に当てて来た。

「何やってるの?」

「見ての通り、当てているのだよ」

「気が散って、大きくなっちゃうから止めて」

「玲太郎が意地悪を言うから止めない」

 明良は玉を大きくし、玲太郎のそれの周りを回ったり、当てて位置をずらしたり、ちょっとした悪戯を遣っていた。玲太郎は苛立ち、水の玉を出して明良のそれを呑み込んだ。それでも明良のそれはさらに大きくなり、玲太郎のそれを蒸発させてしまった。

「あっ、あーちゃん、ずるいのよ」

「玲太郎こそ、水で火を消そうとしたのだから、逆に遣られてしまっても仕方がないよね?」

「むう……」

 玲太郎は眉を寄せ、横目で明良を見た。

「そもそもあーちゃんが邪魔をして来たんだから、あーちゃんが悪いんでしょ」

 明良は微笑む。

「玲太郎はそういう顔をしても可愛いね。もっと睨んでくれても構わないからね。ふふ」

 一人嬉しそうにしている様を見て、玲太郎は脱力した。

「あーちゃんがそういう事を言うと、一気に疲れちゃう……」

「それはいけないね。抱っこしようか?」

「それはいらないのよ。僕はもうじっ歳なのよ? きちんと自分の足で歩けますぅ」

 最後は口を尖らせて語尾を伸ばしていると、明良の表情が明るくなった。

「あっ、その顔、とっても可愛い!」

 玲太郎は即座に無表情になる。

「僕は火の玉を小さくする練習中だから、もう邪魔しないでね」

「解った。大人しくしているね」

 言った途端に水の玉が消えた。玲太郎は些か安心して火の玉を出すと、出来得る限り小さくした。そしてそれが小さくなるように、使用魔力量を徐々に減らして行く。理屈としては一番小さく出来る土の玉と同等の大きさになる筈ではあったが、不思議と火の玉は小さくならなかった。

(あーちゃんみたいに、自在に大きさを変えられるようになりたいのに、道のりは長いなぁ……)

 思うように事が進まず、行き詰まり掛けている現状に不満を抱えていた。


 勉強の合間の休憩時間中、ルニリナにその話をすると、ルセナが苦笑した。

「魔力量が多いといい事があると思ってたけど、そうでもないって事が良く分かるよな。思っていた以上に大変なんだもんな」

「ルセナ君は魔力量は幾つでしたか? 質は五十台でしたよね」

「オレは四十四で、質は五十六です」

「魔力量もそれだけあれば、有り過ぎる方ですよ。最近の平均魔力量は五や六辺りです。五なら約八倍、六なら約七倍、五ですらおか船で一日中走り回れると言いますので、四十四もあれば旅客空船で一日中飛び回れますね。ですので四十四は十分多いと言えます。ご存じの通り、睡眠を取ると魔力量が復活しますので、四十四もあって、質が五十六でしたら、最大級の旅客空船の操縦を二十日は睡眠を取らなくても続けられる程ですが、先に肉体の限界が来て倒れてしまいますね」

「でも補助魔道具が付いてるじゃないですか。船の類はあれの影響が大きいと聞きます」

「そうですね。魔力の質を五十も高めてくれるという優れ物ですのでね。でも私が言った日数はそれなしの話です」

 玲太郎は首を傾げ、思案していた。それに気付いたルニリナが玲太郎を見る。

「玲太郎君、どうかしましたか?」

 ルニリナに顔を向けると真顔になった。

「箱舟の練習をやっていた時、そんな物が付いていなかったように思って、思い出そうとしていたんです」

「え、そうなのか? ええ? そんな箱舟ってあるのか? 普通は付いてるんだぞ?」

 ルセナが驚きながら言うと、玲太郎は益々首を傾げた。

「普通は付いてるんだよね? でも見た事がないのよ……。免許を取った時も、父上に連れて行ってもらって、その時に乗ってた箱舟で試験を受けたのよ」

「どんな箱舟だったんだ?」

「あのね、ただの木の箱なのよ。屋根が付いてて、扉があって、あ、窓は玻璃はりでね、それから……、後は座席は前と後ろにあって……、そんなに厚みのない、ただの木の板で出来てるって感じの……」

「あ! 分かった。アメイルグ先生の箱舟がそんな感じだった。あれか。……あれなら確かに魔道具があるようには思えないな。本当にただの箱っぽかった」

 目を閉じて思い出しながら言い、ルセナが頷いた。

「そう、それ。父上のも同じなのよ。そう言えば、はーちゃんも同じだね。あ、はーちゃんはただの板の時もあったけど……。あれ? みんな同じなのかも……。あっ、そう言えば、ルニリナ先生の箱舟もそうだった」

 二人はルニリナを見ると、穏やかに微笑んでいた。

「そうですね。私の箱舟も簡素ですね。たとえ簡素な物であっても、障壁で包んでしまえば風圧には耐えられますのでね。それにご明察通り、魔道具も付いていませんね。あれに使われている桜輝石おうきせきは魔術で再現出来ない物ですので、魔術で箱舟を造るとどうしても付けられませんね」

「あー、そういう事……」

 ルセナが納得をすると、玲太郎は別の疑問が湧いて来た。

「あれ? それじゃあ、僕がその魔道具の付いてる箱舟で操縦をすると、どうなるんだろう?」

「玲太郎君は質が百ですので、魔道具は無意味な物になってしまいますね。魔力を通せば、質を五十高めてくれますが、百以上はありませんのでね」

「それは百までって、数字が決まってるんですね」

「そうです。魔力量みたいに、測り切れない物ではありませんね」

 玲太郎は漸く納得したのか、何度も小さく頷いた。

「ははあ……、そうなると、魔術で箱舟を作ったとして、普及してる箱舟とは違う物になるのか。……となると、補助魔道具なしで練習をしておいた方がいいって事か……」

 ルセナが呟いていると、ルニリナが「ふふ」と笑った。

「わざわざ箱舟を所有する必要もなくなりますし、箱舟の顕現の練習と、魔道具なしの操縦の練習をすればよいですね。それに、土から素材を得て造れば魔力量も抑えられますよ。戻ってそこに土を戻せばよいですけど、戻れない場合は木製にする方がよいでしょう。識別する札だけ購入しておいて、その番号を使い回せばよいですからね」

「なるほど! それはいい案ですね。いただきます!」

 ルセナが興奮気味になると、玲太郎が苦笑した。

「やる事が一杯になって、大変になって来たね」

「でも、それが楽しいんだよ! 障壁を張るから、材料はもろい物でいいとしても、その前に障壁を頑丈に張れる練習をしないとな。後は木の板の出すのと、土から魔力が少量で作れる素材を探して、それと五個の玉を自在に動かせる練習だろ、それから箸の練習もある。……んー、これは忙しくなって来た。ここにいる間に宿題を終わらせないといけないな!」

 妙に張り切り出し、玲太郎はやはり苦笑していた。

「そんなに一杯は無理なのよ。一つずつ片付けていかないとね」

「ウィシュヘンドも、色々な事を少しずつの時間を使って毎日してるだろ? それと同じだよ」

「あ……、言われたらそうだね。でも無理のないようにね。僕もいつも言われてるんだけど、焦らず、ゆっくりなのよ」

「いや、これは焦るなあ……。特に障壁の強化は入隊するまでに突き詰めておきたい」

 遣る気に満ちているルセナを心配そうに見ている玲太郎は、もう何も言わなかった。

「うん、無理のない程度に頑張ってね」

「おう! オレはやるぜ!」

 二人が笑顔で見合っている様を、ルニリナは穏やかに微笑んで見ていた。


 楽しい時間は瞬く間に過ぎ、十一日なった。明日にはルセナが帰宅する為、今日の夕食は明良の手料理だった。並べられて行く料理を目の当たりにし、玲太郎は顔を顰めた。

「豆腐と油揚げがある。あーちゃん、和伍へ行ったの?」

「今朝行って来たよ」

「それだったら僕も行きたかった」

「そうだったの? それではまた連れて行こうね」

 給仕をしながら玲太郎を一瞥した。

「もしかして、多々羅に行った?」

「多々羅には行っていないよ。料理の材料を買って来ただけだからね」

「そうなの……。それは残念」

「それでは明日の朝、少し早く起きて和伍へ行くかい?」

 玲太郎は嬉しそうな表情で水伯を見た。いつもの柔和な微笑みを浮かべている。

「よいの?」

「構わないよ。明良とはまた別の日に行くとよいだろうから、明日は私と行こう」

「ルセナ君もだよ?」

「勿論。ニーティも一緒に行って、朝食を食べて帰って来ようか」

「え! 本当? 楽しみ!! ねっ」

 ルセナの方を見ると呆然としていて、我に返ったのか、玲太郎を丸い目で見た。

「父上が特級免許持ちだから、入国許可はいらないからね」

「えっ、オレも行っていいのか?」

「当然でしょ。明日の朝行くからね。早起きしようね」

「起きられる自信がないから、起こしてくれよな!」

「うん、分かった」

 二人は満面の笑みを湛えていた。玲太郎は給仕を終えて着席した明良を見る。

「あーちゃんも行くでしょ?」

「私は行かないね。約束通り、昼食後にルセナ君を送って行くから、それまでには帰って来てね」

「え、そうなの? 一緒に行こうよ」

しておくよ。また別の日に一緒に行こうね」

 笑顔で言われると、それ以上は言えなかった。

「分かった。それじゃあ別の日にね」

「それでは頂きます」

 水伯が挨拶をして話を切り上げた。玲太郎は慌てて合掌をする。

「いただきます」

 今夜は生姜焼きだった。いつもと違って豚肉だけだ。

「お肉だけだね」

「甘藍の千切りがあるからね」

「なるほど」

 玲太郎はいつもより厚い豚肉を頬張った。咀嚼しながら笑顔になる。

「アメイルグ先生、美味しいです!」

 そう言ったのはルニリナだった。明良はいつもの無表情でルニリナを見た。

「有難う」

「うん、おいひい」

 玲太郎も言うと、顔を見ずに頷く。

「有難う」

 直後に法蓮草の白和えを頬張った。水伯はそれを横目で見て苦笑していた。

「若しかすると、八千代さんより美味しいかも知れないね」

 明良は手で口を覆い、水伯に顔を向けた。

「それは美味しいのではなく、水伯の口に合うというだけの話ではないの?」

「ああ、それは大いにあるだろうけれど、それでも美味しいからこそだよ」

「有難う。私はばあちゃんの方が美味しいと思うのだけれどね」

「前に、はーちゃんがあーちゃんの焼き飯が好きって言ってた」

 玲太郎が俄に会話に入った。明良は小さく頷く。

「そう」

「僕も焼き飯を食べてみたいんだけど、いつ作ってくれるの?」

 明良が口の中の物を飲み込むと手を下ろした。

「それでは明日の昼にしようか。それを食べたらルセナ君を送ろう」

「本当? 約束だからね!」

「うん、約束ね」

 玲太郎が嬉しそうに言い、明良は口元を綻ばせた。箸が止まらない様子のルセナを見たルニリナが、穏やかに微笑んでいる。

(颯は何故、この場にいないのだろうね……)

 水伯は颯がいない事を惜しんでいたが、老人を二人連れての旅路を思い、微笑んだ。


 翌朝、五時半に起きて朝支度をし、水伯の操縦する箱舟で和伍国へ向かった。行き先は渡々野戸とどのへ島にある、うどん屋のかがわだ。かがわは建国祭の際にウィシュヘンド州のとある街に出店していた屋台の店だ。玲太郎が「きちんとしたうどんを食べてもらいたいから」と言い出して決まった。

 渡々野戸島は和伍国の最西端にある島の近くにある。ナダール国から東へ進み、見え始める和伍の島の二つ目がそれだ。上空から市街地の外れの道に下り、かがわを目指す。

『僕は玉子とじにする! わかめとネギとかまぼこも追加ね!』

『私はきつねにします。ふふ』

 店を探している道中、玲太郎に続き、ルニリナも嬉しそうに宣言をした。

『この後に多々羅で甘い物を食べる予定だから、食べ過ぎないようにね』

 水伯が苦笑しながら言うと、ルセナが『はい』と返事をした。水伯はあちらこちらを走り回り、漸く店を発見した。

『あ! あった!』

 玲太郎が声を上げる。水伯が前方を見回す。

『え? 何処に?』

『あ、左側にありますね。もう直ぐ過ぎます』

『見付けた。其処だね』

 店の前で道路脇に寄せ、全員が降りると箱舟が消えた。そして水伯は玲太郎の手を引いて歩道へ行く。白地に黒で「かがわ」と書かれた暖簾が風に吹かれて揺れている様を見て、玲太郎は満面の笑みを浮かべた。

『またあれが食べられると思うと、笑顔になっちゃう』

『そんなにうまいのか?』

『うん、とっても美味しいの』

 ルセナのいやが上にも期待が高まる。

『父上、あの…』

『解っているよ。多々羅でも色々と食べたいのだよね。うどんは半分食べるよ』

『ありがとう!』

 ルニリナが店の戸を開けた。中から「いらっしゃいませー!」と威勢のよい声が聞こえる。

「あら? あらあらあら? 見覚えのある顔だわ」

 お上の声を聞きながら中に入り、最後に入った水伯が後ろ手に戸を閉めた。

「こんにちは! 来ました!」

「坊ちゃん、いらっしゃい。ナダールからわざわざありがとうね。おばさん、本当に嬉しいわ。どうぞどうぞ、空いてる席に座ってね。今お冷を持って来るから」

 嬉しそうに声を張り上げていた。

「はい」

 玲太郎も憶えていて貰えた事に喜びを感じた。

『おお、和伍語! 和伍語だな』

 ルセナが生の和伍語に感動をしながらルニリナの前の席に着く。玲太郎はその隣に座った。品書きは端に立て掛けられていて、ルニリナが取り、子供達に見えるように真ん中に置いた。

『ありがとうございます』

『どういたしまして』

『ありがとうございます』

 玲太郎に遅れてルセナも礼を言い、品書きを見て難しい表情になる。

『どれにしようか……。ひらがなだから読めるな』

『父上、わかめとおかかと梅干しのお握りに、稲荷寿司あるのよ』

『本当だね。それでは私は稲荷寿司を注文するとしよう。ルセナ君、追加が欲しければ、幾つでも注文してよいからね』

『はい、ありがとうございます!』

『僕はね、わかめとネギ、かまぼこも追加するのよ。ルセナ君も全て入れたらどう?』

『私も若布を追加してみましょう』

「お待たせしました」

 お上が水の入った湯呑みを置き始めた。その後にお手拭きを置く。

「お上さん、稲荷寿司は何個なのかしら?」

「稲荷は二個で、おにぎりは一個ずつですね。今日もうどんは坊ちゃんと半分になさいますか?」

「はい、そうする積りです」

「それじゃあ、取り分け用の丼をお持ちしますね」

「お願いします。それでは私は稲荷寿司を一つお願いします」

「はい」

 笑顔で頷くと、伝票に書き始めた。

「僕は玉子とじに、わかめとネギとかまぼこを追加でお願いします」

 お上は「玉子とじにわかめ、ネギ、カマボコ」と呟いた。

「私はきつねに、若布を追加でお願いします」

「きつねにわかめ、……はい、お次は?」

 ルセナに顔を向けた。待ち構えていたルセナが微笑む。

「わたしはきつねに、ねぎとかまぼこです」

「きつねにネギ、カマボコ……。はい、それでは復唱しますね。稲荷一つ、玉子とじ一つに、わかめとネギとカマボコが一つずつ、きつねが二つにわかめが一つ、ネギとカマボコが一つずつの以上でよろしいでしょうか?」

「はい、それでお願いします」

 水伯が柔和に微笑むと、お上も笑顔で頷く。

「かしこまりました。しばらくお待ち下さいね」

 お上の後ろ姿が消えるまで見ていた玲太郎は、何気にルセナの方に顔を向けた。お手拭きを顔に当てたまま、動かなかった。

『ルセナ君、どうしたの?』

 お手拭きを顔から離し、玲太郎を横目で見る。

『これ、あったかかったんだよ。だから顔に当ててたんだけど、もう冷えた』

 玲太郎は自分の分に手を伸ばすと、仄かに温かかった。

『ああ、本当だね。でも僕のはもう冷えかかってるのよ。もっと早くに気付けば良かった』

 手に取ると広げて手を拭き、丁寧に畳んで容れ物に置いた。

『ルセナ君もわかめを追加すれば良かったのに』

『玲太郎、そう無理に勧めないようにね』

 水伯が苦笑すると、玲太郎は悪戯っぽく笑った。

『ごめんなさい』

『オレはわかめより、ネギが好きだな。だからいいんだよ。ありがとな』

『分かる、ネギも美味しいよね。僕も好き』

『ウィシュヘンドは玉子とじが好きなのか?』

『あのね、玉葱が入ってて、甘めで美味しいのよ』

『ああ、そうなのか。きつねより甘いのか?』

 玲太郎は首を傾げる。

『どう……だった? 玉子とじの方を食べて、これだ! って思っちゃって、きつねの事は覚えてないのよ』

『きつねも程良く甘くて美味しいですよ。ここのうどんは以前屋台で食べましたが、大好きです』

『そうですか。楽しみです!』

 ルニリナを笑顔で見たルセナが張り切った。

 四人はうどんを食べた後、月志摩つきしま島の多々羅で菓子を食べてから少し観光をした。


 昼食には明良が約束通り焼き飯を作った。味付けは塩だけという、なんの変哲もない只の焼き飯だったが、驚く程に美味しく、水伯がお代わりをした程だった。

 そして最近では珍しく、食堂で食後の茶を飲んで寛いでいた。

「明良の焼き飯が此処まで美味しいとは思わなかったよ。ご馳走様」

「どう致しまして。やはりウィシュヘンドの西海岸の塩は美味しいよね。アメイルグの塩もこれくらい美味しければ良かったのだけれどね」

 塩以外の味付けをしていない明良は、その美味しさを塩のお陰だと言ったが、玲太郎は首を傾げた。

「塩だけでこんなに美味しくなるの?」

「玲太郎、塩を侮ってはいけないよ? 実際、ウィシュヘンド州の東と西の塩では味が違うのだからね」

 明良が大真面目に言うと、「うーん」と唸るだけだった。

「ニーティが此処にいない事が可哀想に思えて仕方がないよ」

 水伯が申し訳なさそうにした。

「私が食べてしまったから、またの機会になるね。尤も、そのような機会があればの話だけれど」

 ルセナは淡々と言う明良を尊敬の眼差しで見ていた。

「えー? あーちゃん、また作ってくれるでしょ?」

「玲太郎はまた食べたいの?」

 些か嬉しそうな表情を浮かべた。

「勿論なのよ! これは本当に絶品って言う物だよね?」

 水伯の方に顔を向けると、柔和な微笑みを浮かべて頷いた。

「ほらぁ、父上もうんって言ってる」

 嬉しそうに明良に言うと、明良も頷いた。

「解った。それでは颯のいる時にね」

「はーちゃん? いなくてもよいでしょ」

「私の焼き飯が美味しいのなら、それは颯のお陰だからね」

「はーちゃんが何をやったの?」

「玲太郎が生まれる前に、颯が作ってと何度もせがんで来たからね。そのお陰で上達したのだろうね」

「ふうん、そうなの。はーちゃんも食べる事が大好きだもんね」

「焼き飯を作った事を知られれば、きっと怒るよ」

 明良は玲太郎に笑顔を向けていた。

「それじゃあ自慢しなきゃね。……いひひひひ」

 玲太郎が悔しがる颯を想像して笑った。ルセナは玲太郎がそういう笑い方をする所を見る機会を初めて得て、意外そうに見ていたが嫌ではなかった。寧ろ親近感が湧いた。


 ルセナにとって、今度の滞在もとても満足の行く、有意義な物だった。明良に送って貰い、箱舟から降りると、二人も降りて見送りに出たが、ルセナは玲太郎が手にしていた紙袋がずっと気になっていた。

「はい、これ」

 それを差し出されると、思わず受け取る。

「これは何だ?」

 紙袋から玲太郎に視線を移す。

「妹さんへのお土産なのよ」

「え? いつの間に? いいのか?」

「勿論。可愛いのがあったから、妹さんにと思って買っておいたのよ」

「ありがとう! オレが嬉しいわ」

 笑顔で言うと、玲太郎も笑顔で頷いた。

「それなら良かった」

 ルセナは明良の方に顔を向け、真顔になった。

「アメイルグ先生、今日は焼き飯をごちそうさまでした。先生のご飯はどれも本当に美味しかったです」

 深く辞儀をし、頭を上げると笑顔になっていた。

「口に合ったようで良かったよ。それでは気を付けて帰るのだよ」

「はい、お世話になりました。ウィシュヘンド、また学校でな! さようなら!」

「またね!」

 ルセナは挙手して走り去った。時折振り返り、大きく手を振る。玲太郎はその都度手を振り返した。

 ルセナが見えなくなり、玲太郎が振り返ると箱舟が消えていた。

「それでは帰ろうか」

「うん」

 差し出された明良の手を取って握った。すると、六合りくごうが見慣れた居室になり、水伯がいつもの場所に座って読書をしていたが、顔を二人に向けた。

「お帰り。お茶でも飲むかい?」

「ただいま! 僕は紅茶が欲しいのよ」

「私はいらないよ。有難う」

 玲太郎は明良の手を離し、長椅子に駆けて行き、飛び乗った。すると茶器が現れ、湯気を立てている。

「ありがとう」

「どう致しまして。先程颯が来ていたのだけれど、ガーナスを送り届けたらまた来ると言っていたよ」

「え! そうなの!?」

「玲太郎、もう少し寄って貰える?」

 傍に来た明良が中途半端な位置に座っている玲太郎を見下ろす。

「逆に方に座ってよ」

「解った」

 大人しく回り込み、玲太郎の右隣りに座った。

「お土産が貰えるね!」

 玲太郎が興奮すると、水伯が柔和に微笑んだ。

「そうだとよいね」

「今度はばあちゃんも行っているから、ばあちゃんからもきっと貰えるね」

 そう言った明良の方に顔を向けた玲太郎は、何故かしたり顔になる。

「僕はね、ばあちゃんには食べ物をお願いしたのよ」

「それでは日持ちのしない物ならば、此処さん日の内に買った物になるね。煎餅せんべいの類なら大丈夫かも知れないけれど、どうだろうね?」

「あ……、そんな事、思い浮かばなかったのよ……」

「明良の言う通り、宿だって暖房が付いているだろうから、生菓子や饅頭の類は望み薄だね。それにつけても、八千代さんは疲れたと言っていたけれど、夕食は作るとも言っていたからね」

「やった! ばあちゃんのご飯だね!」

 気落ちしていたにも拘わらず、瞬時に復活した玲太郎が笑顔になる。その笑顔を愛おしそうに見詰めていた明良は、抱き締めたい衝動を必死で堪えていた。


 茶を飲み干しても颯が来ず、玲太郎は不機嫌になっていた。水伯は気にせずに読書をし、明良は玲太郎の膝に自分の膝を付けて満足していた。

「あ!」

 現れる位置に見当を付けて見ていた玲太郎が尻を浮かせた。

「只今」

「おかえりなさい!」

 玲太郎が颯の傍へ行くと、明良は露骨に不機嫌になる。

「……お帰り」

「意外と時間が掛かったのだね。何かあったのかい?」

 颯は提げていた紙袋二袋を玲太郎に渡し、水伯に顔を向けた。

「バラシーズさんが荷物を忘れていて、それを取りに和伍へ行っていたんだよ」

 玲太郎は紙袋を机に置き、内一袋から店を広げる。

「そうだったのだね。それはご苦労様。お茶を飲むかい?」

「ああ、それじゃあ緑茶をお願い」

 手を止めて颯を見ていた玲太郎は、水伯の隣の一人掛けの椅子に座った所で口を開いた。

「はーちゃん、このお土産は何? 結構軽いのよ」

「紙袋に名前が書いてあるだろう? 誰のだ?」

 確認をすると、口の近くに「八千代」と書かれていた。

「ばあちゃんの名前が書いてある」

「それじゃあ食べ物だな。玲太郎が食べ物がいいって言うからって言っていたよ」

「あ、本当! ありがとう!」

 残りも出そうと紙袋に手を突っ込んで動きを止めた。

「うん? どうしてはーちゃんが持ってるの?」

「休むから渡しておいてって言われたからだな」

「そうなの。ありがとう。こんなにあったら、当分は毎日が楽しみだね!」

 笑顔の玲太郎は最後の一つを机に置いた。

「そんなに広げても、今食べないだろう?」

「つい出しちゃった。これ、今一つ食べてもよい?」

 水伯に顔を向けると目が合った。

「構わないよ。皆で食べようか」

「うん! どれにしよう? 僕はこれを食べてみたい」

 そう言って指を差したのは、白地に茶色で「くぞどうせんべい」と書かれていた。

「くぞどうって何?」

「地名だよ。くは久しい、ぞは染める、どうは子供を意味するわらしと書くんだよ。米の産地だから酒処でもあって、水も美味しかったわ。煎餅も売っていたから買ったんだろうな」

「へぇ、そんな所があるんだね。それじゃあこれにする」

 玲太郎はそれ以外を紙袋に戻し始めた。颯はそれを見て、持っていた紙袋を二袋置いた。

「四袋もある程に買って来たのかい?」

「バラシーズさん以外からの土産になるんだけど、いいって言ったのにお父様が結構買っちゃって、こうなったんだよ。煎餅なんてどこで買っても似たような物なのにな」

 苦笑しながら言うと、玲太郎が笑顔になった。

「え! ほとんどがせんべいなの? 嬉しい!」

 喜んでいるのは玲太郎一人だけだった。

「そうなんだよ。保護魔術を掛けて湿気ないようにはしてあるけどな。俺は置物。邪魔になるだろうけど置物にしたよ」

「ふうん……。記念にはなるよね」

「それにつけても、ルセナ君は来年には親衛隊で働く事になるから、こうして旅行する理由もなくなるだろうけれど、それでもやはり来年も旅行をするのかい?」

 水伯が颯に顔を向けて訊いた。

「どうだろうな? お父様もいい年を大分越しているし、連れ回すには体力が心配なんだよなあ……」

「ガーナスは楽しそうだったかい?」

「それは楽しそうだったけど、もうしちだからなあ」

「え! お祖父じい様って、そんな年齢なの? 知らなかったのよ……」

 三人が玲太郎に顔を向けた。

「言っていなかった?」

「聞いてないのよ」

 眉を顰めて明良を見ていた。

「けれど健康は健康だからね。玲太郎のお守りを買ってから体の調子がいいって言っていたから、お守りのお陰もあると思うよ」

 明良は玲太郎と目を合わせて笑顔で言った。

「え! そうなの?」

 颯に顔を向けると、颯が頷いた。

「うん、そうみたいだな。肌身離さず持っているよ。俺もだけどな」

 ズボンの衣嚢から取り出したお守りを見せる。明良はそれを凝視した。

「私は額に入れて寝室に飾ってあるね。颯のそれの効果が切れたら、私が貰うからね」

「ああ、うん、まあいいけど」

「ルニリナ先生からも貰えないだろうか? そうだった、水伯の分も私が貰うからね」

「それは断るよ。効果が切れても、私は持っていたいね」

「ケチ」

「ケチで結構。これは記念だからね。颯は自分で持っておかないのだね?」

「俺が持つとなると箱とか抽斗ひきだしの中とかになるけど、兄貴は飾るからな。その方がいいんじゃないかと思って」

「成程。それでは私も額に入れて飾っておくとしよう」

「ええ? 恥ずかしいのよ……」

 玲太郎が困った表情で水伯を見ると、水伯は柔和に微笑んだ。

「それにつけても、ガーナスも直にさん寿なのだね。もっと若いような気がしていたのだけれど、月日の流れは本当に早いね。玲太郎も気付けば十歳だものね」

「さんじゅって何?」

「傘寿はね、傘の字を略すと八十に見える事から、傘の字を使って傘寿と読むのだよ。八十やそ寿とも言われているね」

「へぇ、そうなの! それじゃあ九十はどうなるの?」

「これも略字が九十に見える卒業の卒という字を使って、卒寿と言うのだよ」

「なるほどぉ、ありがとう」

「どう致しまして」

「さて、兄貴以外に俺からの土産を渡しておくよ」

 立っていた玲太郎は、長椅子を回り込んで颯の側へ行った。

「どれどれ? 何をくれるの?」

 颯は玲太郎を見て微笑んでいた。一つ取り出し、それを見ると水伯の方に差し出した。

「これは水伯」

「有難う」

 水伯が受け取っていると、玲太郎は眉を顰める。颯はまた紙袋から取り出し、それを見るとまた水伯に差し出す。

「これも水伯」

「有難う」

 受け取っている時に、ふと玲太郎が視線が行った。顔を顰めて颯の手元を見ていて、思わず苦笑した。颯がまた出した箱を何かを確認し、玲太郎に顔を向けた。

「これは玲太郎だな」

「ありがとう!」

 受け取ると早速包装紙を止めてある所を剥がし、広げ始めた。

「まだあるんだぞ?」

「うん、でも見たいのよ」

 包装紙を脇に挟み、蓋を開けると漆器が入っていた。小さな容器で、蝶と花の金蒔絵で飾られている。

「わぁ、きれーい! これは何を入れるの?」

「それは茶を入れる容器だけど、玲太郎の好きな物を入れればいいだろう? 兄貴の分はお揃いでいいんだよな?」

「うん、有難う」

「水伯の分は螺鈿らでんなんだけど、手鞠の柄だよ」

 そう言って笑顔で水伯を見た。水伯が颯を横目で見ると、次の瞬間に笑顔で頷いた。

「そういう事ね」

「解って貰えて嬉しいよ」

「どういう事?」

 玲太郎が水伯の方に顔を向けた。

「私もそれが欲しかった……」

「兄貴はお揃いがいいって自分で言ったんだからな? まあ、一点物だから、似た柄にしただけなんだけどな」

 無表情ながらも、拗ねている事が解る目付きだった。

「ねぇ、どういう事?」

 颯が玲太郎に顔を向けて莞爾として見詰めた。

「手鞠は玉だろう? 玲太郎の玲は玉の事でもあるから、玲太郎を意味しているんだよ。軽い洒落だな」

「ああ、そういう事なの! ふうん。でも僕は蝶でよいのよ」

 蓋を閉めて、満足そうに箱を持っていた。

「まだあるんでしょ? 見せて」

「紙と箱を置けよ。持てないだろう?」

「うん」

 玲太郎が置いている間に、颯は紙袋から箱を出し、見てから水伯に差し出した。

「はい、水伯」

「有難う。まだあるのかい?」

「いや、三つずつだからそれで終わり。後は玲太郎だな」

「やった! 全て僕の!」

 颯は紙袋ごと玲太郎に渡した。

「玲太郎、此処に座って開ければ?」

 明良が場所を開けると、頷いてそこに座った。横に置いた紙袋から平らな方を先に出すと、紙袋の口を開けて中を覗いた。

「うん?」

 紙袋の外に出すと折り畳まれた布で、広げると帳面程の大きさの巾着だった。

「ばあちゃんが奥細谷おくさいや紬は有名だよって言ってたから買って来たんだけどな。綺麗な緑だろう? 玲太郎は緑も好きだもんな」

「おくさいやつむぎ?」

「その生地の名前」

「へぇ、ありがとう! 僕、緑大好きだから嬉しいのよ」

 それは膝に置き、箱の方を取り出した。大きさの割に軽い。包装紙を止めている所を剥がして広げた途端に、明良がそれを持って行った。その行方を見た。

「あ、ありがとう」

「どう致しまして」

 残った箱の蓋を開け、中身を掴んで出すと木彫もくちょうの蛙が出て来た。

「カエルだ。あはははは。カエルだとは思わなかったのよ。なんだか可愛いね」

「その奥細谷村が村興しをしているらしいんだけど、蛙が沢山いるからそれを使っているんだって。だから全員蛙な」

「ふふ、開けずに中身を知る事が出来たよ」

 柔和に微笑んで水伯が言うと、苦笑しながら水伯を見る。

「楽しみがなくなって申し訳ないな」

 二人が笑顔で見合っている。玲太郎はそれを見て嬉しそうに微笑んでいた。

「あーちゃんにどんなのを買ったのか、見てみたいね」

 明良を見ながら言うと、明良が微笑んだ。

「兄貴の分は玲太郎とお揃いだからなあ……。なつめは少し構図が違うだけで、やはり蝶と花なんだよな。水伯の方は玲太郎とは違うから、見るのなら水伯の物だな」

「ふうん……」

 颯から水伯に視線を移し、微笑んだ。

「父上、見せて」

「ふふ、それでは開けてみようね」

 そう言って、先ずは奥細谷紬の紙袋を開けて中身を出し、両端を持って広げた。

「私の物は巾着ではないのだね」

「物を持ち歩かない人が巾着なんていらないだろうと思って、壁掛けにしたんだよ。本当は額に入っていたんだけど、中だけ売って貰った」

「この刺繍は素朴な風景がよいね。染められた緑を山や田圃や草に使っていて主線のみなのだね。あ、蛙がいるね。ふふ。この家屋が如何いかにも和伍らしくてよいね」

 玲太郎は裏側を斜めから見ていて、正面が見たかった。

「父上、こっちに向けて見せてよ」

「ああ、ご免ね。こうだね」

 水伯が引っ繰り返して玲太郎に見せると、玲太郎は顔を近付けて凝視した。

「あ、家の前で玉で遊んでる女の子がいるんだね。へぇ……、僕もこれが良かった」

「玲太郎は飾っても、その部屋にいる時間が少ないと思うんだけどな」

「勉強部屋に飾るのよ。長椅子がある所の壁ね」

「巾着は嫌なのか?」

「うん? これはこれでよいのよ」

「それじゃあ巾着だけでいいじゃないか」

「まあまあ、それではこれは玲太郎の部屋に飾るとしよう。勉強部屋ね」

「やった! ありがとう、父上!」

 玲太郎が両手を上げて燥ぐと、颯は眉を顰めて溜息を吐いた。

「水伯は甘いなあ……」

「よいではないの。それではこれは、後で額を作って飾るとして……」

 膝の上に置き、棗が入っているであろう箱の包装紙を取り、箱から中身を取り出すと蛙が出て来た。

「蛙だったね。棗の箱を開けたと思ったのに……。それにつけても、私の物は蛙の上に蛙が乗っているのだね」

「可愛いだろう?」

「ふふ、これも玲太郎と私なのだね?」

「いや? 三匹の物もあったんだけど、木目が綺麗だったから、そっちにしたんだよ」

「そうなのだね。有難う」

 玲太郎が恨めしそうに見る。

「僕もそっちが良かった……」

 颯は苦笑すると玲太郎を見た。

「さっきからそればかりだな。俺が玲太郎の事を思って選んだ物は嫌なのか?」

「そうじゃないんだけど……」

「あれもこれも欲しいの?」

 明良が言うと、笑顔で明良を見た。

「そうなの!」

「玲太郎、それはいけないよ?」

 明良が笑顔のままで言うと、玲太郎は眉を顰めた。

「欲しいと思っても、買って来てくれた人の前であれが良かったと言わないようにしなければならないね。お土産は気持ちなのだから、有難く受け取るだけ。気に入らなければ本人のいない所で始末をするのだよ?」

「気に入らない訳じゃないのよ。あれもこれも欲しいだけなのよ……」

「俺が水伯の為に買って来た物だと解っていても、それを欲しがるのは良くないと思わないのか? 横取りは感心しないぞ?」

「それは……、そこまで考えてなかった……。父上、はーちゃん、ごめんなさい」

 項垂れている玲太郎を見た水伯は苦笑したが、颯はいつも通りだった。

「私は構わないよ。我が子に強請ねだられるという事も、偶にはね」

「まあ許すけど、俺ははっきり言って、不愉快だなあ。これからは何処へ行っても食べ物以外は買わない事にするわ。これで落着な」

 玲太郎は衝撃を受け、顔を顰めて颯を見たが、颯は莞爾として見詰め返して来るだけだった。

「泣くなよ?」

 玲太郎は我慢したが、明良の膝に顔をうずめた。明良が優しく背中を撫でる。

「仕方がないね。でも行き先の食べ物は買って貰えるのだから、それを楽しみにしようね」

「自分で行って買って来ればいいんだよ。それが一番確実だし、気に入る物を買い放題出来て満足だろう」

「玲太郎、そうしようよ、ね? 私が一緒に付いて行くから、行きたい所があったら行こうよ、ね?」

 明良が慰めていたが、玲太郎は体を震わせ、声を上げずに泣くだけだった。その姿を見て胸を痛めたのは明良と水伯の二人で、颯はいつも通りの表情で見ているだけだった。

「玲太郎が泣いている間に、煎餅でも食べよう。水伯、茶を出して貰ってもいいか? 緑茶でお願い」

「ああ、そう言えば出していなかったね。ご免ね」

 湯呑みが出現すると湯気が立った。

「有難う」

 机に置かれている煎餅を手にして紙袋の口を開け、中から一枚取り出して口に入れて噛むと、煎餅の割れた音がした。

「んん、おいひい」

 咀嚼音を立てながら水伯に紙袋を差し出すと、颯を一瞥してからその中に手を突っ込み、一枚を取った。

「ああ、薄焼きで小さ目なのだね。食べ易そう」

 水伯も口に入れ、咀嚼を始める。颯は二枚目を頬張った。

「塩加減もよい感じで美味しいね。もう少し」

 颯は水伯に紙袋を差し出すと、水伯が手を突っ込んだ。五枚取ると左手に四枚載せ、一枚は頬張った。いつの間にか、机には全員の分の湯呑みがあり、湯気が立っていた。

「玲太郎、これは美味しいぞ。食べるだろう?」

 玲太郎は上体を起こし、目を擦りながら立ち上がった。そのまま颯の傍へ行き、涙を流していた。

「ごめっ、ごめんっなさい……」

「許すって言っただろう。もう泣くな」

「それじゃっ、お土産、まった、買って来てっくれる?」

「食べ物だけな」

 玲太郎はそれを聞いて号泣した。颯が立ち上がって玲太郎を抱き上げると、玲太郎は首に抱き着いて泣いた。明良は恨めしそうに見ていたが、水伯は渡されていた煎餅を食べていた。


 泣き疲れて眠ってしまった玲太郎の腕が外れず、抱いたままの颯は気を遣わずに煎餅を食べていた。

「颯も許して遣ればよいのに……」

「だから食べ物なら買うと言っただろう。それなら兄貴が旅行して、土産を買って来て遣ればいいんじゃないのか?」

「玲太郎と一緒に行って買えばよいだけだからそうしたいのだけれど、玲太郎が行きたいと言うかどうかが問題なのだよね」

「来年の夏からはニーティに呪いを学ぶのだったよね? それが終わったら旅行をすればよいのではないのかい?」

 湯呑みが浮いて手元に来ると、颯はそれを掴んだ。冷えてしまった茶を二口飲み、少し思案している明良を見た。

「そうだね、玲太郎が行くと言えばね。きっと水伯と颯も一緒に行く事になりそうな気がして……」

「そうなったらそうなったで、よいのではないの?」

 水伯が柔和に微笑むと、颯が鼻で笑った。明良は湯呑みを取り、魔術で温め直すと茶を啜った。

「心配しなくても俺は行かないよ。玲太郎が卒業したら此処に戻って来る事になるし、そうなると俺も用なしだろうから仕事を始めるわ」

「呪いは習得したの?」

 湯呑みを手にしたまま、颯に視線を遣る。

「この長期期間中に習得出来る予定」

「そう。それでは私が雇おうか?」

 颯は思わず渋い表情になった。

「遠慮しておくよ。兄貴は扱き使うからなあ……。まあ、前に遣っていた仕事を再開するよ。ハソもその方が良さそうだからな」

「あのような悪霊に気遣う事はないと思うのだけれどね」

「うん、まあ、張り付かれている間だけだから、いいかと」

「お人好しな事で」

 そう言うと茶を啜って湯呑みを机に置いた。颯は苦笑していた。

「颯は以前からヌトやハソに張り付かれているけれど、嫌にはならないのかい?」

「うーん、……もう慣れた。元々は俺じゃなくて、玲太郎に付いていたからなあ。それにあいつ等は障害物があってもとおり抜けて来るだろう? だから逃げ場がないんだよな。一応は俺の言う事を尊重してくれるから、まあ、いいかと思って。いざとなれば退ける方法はあるからな」

「成程」

「水伯はニムとシピが時折監視に来ていたんだったな」

「そうだね。ニムには服を駄目にされた事があるね」

「そう言えば、そんな事があったと聞いた気がするなあ」

「あれは特に酷い悪霊だから、私が遣っ付けられる物なら遣っ付けてしまいたいよ」

 颯は苦笑しながら明良を見た。

「まあ、兄貴はそうだろうな。ニムも遣った事を忘れれば、何食わぬ顔で現れそうではあるけど」

「有り得るね」

 水伯は頷いて「ふふ」と笑った。

「あいつ等は何かを考えているようで、何も考えていないからな。ケメは何かを難しく考えていたようだけど……」

「一番聞きたくない名前が出て来たよ」

 些か眉を寄せた明良は視線を湯呑みに遣った。

「俺は思うんだよ、ごうの件はケメが絡んでいるんじゃないかと。そうでなければ、只の人間がつい精霊を切り離したり、対精霊を持てるようになったりしないと思うんだよな。呪いは人命を使っていたようだから、あれだけ強力な物になっている事には合点が行くんだけど、精霊関連はそうではない事が多いからな」

「十二分に有り得るね。ケメと繋がっていた人物がいてもおかしくはない」

 明良は颯に目を向けた。しがみ付いている玲太郎を見るとまた些か眉が寄った。

「時間が出来たらケメの所へ行って、訊いてみようか」

「訊いた所で答える訳がないだろう」

 明良が即答して、颯が顔を向けた。

「そうだろうか? ハソに言ったら、行きとうないって言っていたなあ……」

「それが答えではないの?」

「私は話を聞いただけなのだけれど、ケメには会わない方がよいと思うよ。先ず反省をしていないだろうし、口を開くとも思えないし、ハソがそう言うのであれば、行くだけ無駄だと思うのだよね」

 二人は水伯を見た。颯は「うーん」と唸ると茶を飲んだ。

「颯はケメに会ってもよいと思える程に許せているのだね」

 明良にそう言われ、颯は眉を顰めた。

「許す? そんな訳ないだろう。ケメから誰に何を伝授したのかを訊きたいだけだよ」

「そう。私は会いたくもないね」

「うーん、会わない方が賢明だという事か。それじゃあ近くに行く事があっても、寄らないでおくか」

 玲太郎は三人の声を聞き、変な夢を見ていた。明良が水伯と喧嘩をし、颯が狼狽している。その狼狽の仕方がおかしくて、玲太郎は一人笑っている夢だ。

「ふふ」

 颯は笑った玲太郎を見た。顔が良く見えず、直ぐに視線を戻した。


 玲太郎は颯が食べ物以外の土産を買わないと宣言されてから落ち込んでいたのだが、颯に旅行をさせないか、一緒に行けばよいと思い、機嫌を直していた。今は同じ部屋で勉強をしていて、颯がルニリナと仲良くしている場面を見せ付けられ、その機嫌も損なってはいたが、いずれ訪れるであろう楽しい時を胸に、復習に励んでいた。

 ハソとノユが時折話し、その都度玲太郎が二体に視線を遣った。

「今日はどうした? 嫌にわし等を見るではないか」

「然り。集中が出来ておらぬな? 何かあったのであるな?」

 ハソに続き、ノユにまで問われ、玲太郎は首を傾げた。

「そう? 何かあった訳じゃなくて、集中が出来てないだけなのよ。勉強する気がないって言うか……」

「毎日勉強しておったら、そういう時もあろうな」

「息抜きと称して颯と遊びたいだけではなかろうか」

 ノユに図星を突かれ、愛想笑いをした。

「直に冬休みも終わるよな。よし、遊びに行くか」

 何故かハソが張り切りだし、颯の方へ行ってしまった。玲太郎はそれを見ていたが、ノユは付いて行った。

「颯、玲太郎が息抜きしたいと言うておるわ。何処かへ行かぬか? わしは久し振りに海へ行きたいのであるが」

「何っ、海は止め、山へ行かぬか? 勿論飛んで」

「飛んで山へ行くのであれば、わしは遥か上空へ行き、この星を見たいのであるが」

「ああ、それならばわしも賛成であるな」

 颯とルニリナは、ハソとノユの遣り取りを見ていたが、颯が溜息を吐いた。

「勝手に決めるなよ。行きたければ勝手に行け」

「いや、確かにわしは希望を言うたが、そもそもは玲太郎が集中力を欠いておって、息抜きが必要と感じたからであるぞ」

「玲太郎が?」

「如何にも」

 颯がハソから玲太郎に視線を移すと、玲太郎が微笑んだ。

「それでは行きますか」

 ルニリナが颯に微笑み掛けた。颯は不満そうに眉を顰めた。

「ええ? 本当に行くのかよ? 今から?」

 ルニリナは上着の衣嚢から懐中時計を取り出し、時間を確認した。

「ああ、そうですね。もう少しで昼食の時間ですので、先にそれを頂いてからにしましょうか」

 それを衣嚢に戻しながら言うと、表情を変えない颯が目を逸らす。

「ニーティも大概甘いよな……」

 その呟きは聞こえていないようで、ルニリナは颯の方に顔を向けて穏やかに微笑む。颯は視線を戻し、莞爾として見詰めた。

「どうかしましたか?」

「いや、まだ時間があるようだから、続きを遣ろう」

「そうしましょう」

 頷くと、開いた本の箇所にある呪いの文様についての説明が始まった。颯は先程と打って変わって真剣な眼差しとなり、文様を差している指の先にある細かい柄を見ていた。ハソはそれを横目で見、ノユは玲太郎の方へ戻っていた。


(んー、結局俺も甘いんだなあ……)

 日中は止め、夜中になってから和伍国の南東にある海に遣って来て、玲太郎が肩に掴まっている事を許していた。ルニリナはハソとノユと一緒に遊んでいるようで、颯は自然と玲太郎と二人切りになっていた。

「ほら、そろそろ自分で泳げ。そうじゃないと泳ぎ方を忘れるぞ?」

「え? まだこのままがよいのよ」

 颯は大きく息を吸うと、潜って地面際を泳いだ。玲太郎は俄に潜られて息が続かず、苦しいと思って肩から手を離して足を着いた。

「プハッ、ハァ…、ハァ…、もー、はーちゃん……」

 呼吸を整えて海水に顔を浸けた。見える範囲に颯がいない。

(あれ? いない?)

 後ろに水音がしたかと思うと、抱え上げられた。

「わあっ!」

 突然の事に声を上げる。

「投げるぞ!」

 颯が叫ぶと、放り投げられた。

「きゃー!」

 海面に当たると思った瞬間、宙に浮いていた。

「……あれ?」

 真下に浮き輪が顕現し、そこに下ろされた。拍子抜けした玲太郎は颯を見ると、颯は微笑んでいて、明後日の方に向かって泳ぎ出した。玲太郎は手で水を掻いて追い掛けた。すると、また颯が潜ってしまい、目標を見失った玲太郎は手を止めた。

(きっと来る)

 そう身構えていると、俄に動き出して体が後ろに倒れた。

「わっ」

 後ろを見ると、颯が押して泳いでいた。

「もー、はーちゃん、びっくりするでしょ」

 そう言いながらも声を出して笑った。颯はそれを見て微笑んでいた。三人と二体は水遊びをしてはしゃいでいた。


 こうして楽しい時間を過ごしつつ、残り僅かな冬休みも復習と魔術の練習に費やし、気が付いた頃には下期が目前となっていた。下期の四ヶ月強を何事もなく、無事に過ごせばめでたく卒業となる。それからはルニリナに呪いを習い、それがいつまで終わるのかは不明だし、その後の事も一切決まっていないが、きっと楽しい事が山程ある筈だと玲太郎は期待を膨らませていた。

 それでもまだ四ヶ月強はカンタロッダ下学院での生活を送るべく、気を引き締めて入寮する準備を始めたのだった。

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