第三十四話 しかして六学年に進級する
三年目にもなると、戻って来た寮長室を懐かしく思えた玲太郎は、真っ先にヌトを颯の寝台へ連れて行った。ヌトが枕元の定位置にいると安心感が増した。水伯はその様子を見ながら折り戸の前に鞄を置き、颯のいる隣室へ向かった。玲太郎も直ぐに向かった。
颯が予め用意をしていた茶葉は緑茶だったが、二人は「それで」と頷いた。沸いた湯を急須に注いだのは玲太郎だ。水伯は既に食卓にいて待っていた。玲太郎が茶を湯呑みに注ぎ、颯が湯呑みと茶請けを運ぶ。玲太郎が給仕を手伝い、早く終わると颯は水伯の正面に座って盆を隣に置いた。
「有難う」
「どういたしまして」
玲太郎が笑顔になる。
「こう遣ってこの日に此処で話すのも今日で最後だな。まあ、玲太郎が小型の魔石作りが出来るようになったら、だけど」
そう言われると眉を寄せた。
「これから一年以内には出来るようになる予定なんだからね」
「この一年はそれを重点的に遣ろうな。後、光の玉を小型化する練習も遣ろうな」
「光の玉はね、魔石作りより簡単だと思う」
自信を覗かせるような言だったが、表情は無かった。
「自信はあるのか?」
颯にそう聞かれると、「うーん」と唸って眉を顰める。
「出来そうだとは思うけど、魔石よりは簡単っていうだけなのよ」
自信を覗かせた訳ではなかったようだ。
「大丈夫だよ。玲太郎は必ず出来るからね」
水伯が柔和に微笑んだが、玲太郎は見なかった。湯呑みを突いていた。
「うん……」
「どうしたんだ? 自信がないのか?」
玲太郎は颯を一瞥する。
「やらないと卒業出来ないっていう重圧がね……」
「光の玉はそうでもないんだけどな。まあ、魔石作りが必須だとしているのはルマービ先生だけだからな。後の先生や学園長、それに理事長は出来なくてもいいと言ってくれたよ」
「え! 本当!?」
俄に表情を明るくして、颯に顔を向けた。
「本当。小型の魔石は、付与術の初級で作れて当然と思われていて、特大の魔石を完璧に作る事の方が難しいという認識だからな。特大があれだけ完璧に作れるから、小型は作れなくてもいいって事になったんだよ。でも一応作れた方がいいと思うし、後少しで作れそうなんだろう?」
「そうなのよ。二十段階の十七まで来てるのよ」
「それは凄いじゃないか。頑張ったな」
玲太郎は思わず苦笑した。
「レウが改良してくれた指輪は壊れないしね。あれが凄いんだと思う。だからルニリナ先生とレウのお陰なのよ」
「それは只の補助具だろう? 玲太郎の努力の賜物だよ」
水伯がいつもの柔和な微笑みを浮かべると、玲太郎は苦笑した。
「でも、あれがないときっと出来ないからね」
「成程」
頷いている颯を、水伯が見る。
「その、玲太郎がもう卒業確定のような話は、何時していたの?」
「十九日から教師の勤務が始まったから、その日だな」
「私に連絡が来ていないのだけれど?」
「だから今言ったんだけどな」
「成程。それではその事は明良に話したのかい?」
「それは話した」
「普通、順番が逆ではないのかい?」
珍しく水伯が不機嫌になった。
「ツェーニブゼル侯爵として聞きたかったか? 俺は玲太郎と水伯の二人がいる時に話せる今日にしたんだよ」
「そう……。それでも私は早く聞きたかったね」
残念そうに言うと、颯は透かさず頭を下げる。
「それはご免。でも、卒業が確定している訳じゃないからな? 座学の試験と、付与術の魔石作り以外の課題を達成しないといけないからな? それと魔術の課題」
「それは解るのだけれど、小型の魔石作りが免除されるのであれば、卒業も同然だからね」
「でも僕は魔石作りを頑張るからね? 付与術の残ってる課題はその後にやる」
俄に遣る気を出して勇んだ。
「よぉし、やる気が出て来た!」
湯呑みを持つと、茶を啜った。
「あっっつい!」
顔を顰め、直ぐに湯呑みを置く。水伯はそれを微笑んで見ていたが、颯は真顔だった。
「でも魔術も玉の大きさは今のままだと問題があるからな。下学校では基本の玉しか教えないとは言え、あの火の玉は大き過ぎるぞ」
そう言われて玲太郎が眉を顰める。
「光と火はね、どうしてか知らないけど、苦手なのよ……」
「まあ、先ずは光を小さくして、火はその後だな」
「分かった。頑張るね」
「無理のない程度にするのだよ? 遣り過ぎて飽きてしまわないようにね? 焦らず、ゆっくりだよ?」
「うん、焦らず、ゆっくりね」
玲太郎は水伯と笑顔で見合っていた。颯は菓子鉢に入っている煎餅を取り、音を立てて咀嚼し始めた。二人は笑顔で咀嚼をしている颯を見ると煎餅に手を伸ばして食べ始めた。
持って来ていた荷物の中に、ルツの入った桶があった。それを浴槽へ入れたのは颯だった。二体は浴槽の広さを確かめるように泳ぎ回っていた。颯は暫くそれを眺めてから一階へ戻った。
「そろそろ食材が必要になるのではないのか?」
何気にハソが言うと、颯が頷く。
「うん、まあ、玲太郎が来たから、二人分は必要になるからなあ……。何れにせよ、今夜はニーティが食べに来るから、買い出しは行くんだけどな」
「颯は一人分ではなく、三人分であるから四人分になるのではなかろうか。買い出しに行くのであれば、わしも行く。玲太郎がおればわしも共に行けるのでな」
玲太郎は寮長室で読書をしている。そこへ颯が遣って来ると、玲太郎は顔を向けた。
「どうしたの?」
「買い出しに行くけど、一緒に行くか?」
「行く!」
即座に本を閉じて机に置いた。
「栞を挟まなくても良かったのか?」
「あ……、もうよいよ。手遅れだからね」
苦笑すると颯の傍へ行き、上に手を伸ばす。颯は玲太郎を抱き上げ、ハソは玲太郎の肩に手を置いた。
「よいぞ」
「よし、行くぞ」
玲太郎が「はーい!」と返事をした時には、既に別の場所へ移動していた。景色が変わってしまい、玲太郎は思わず口を押えた。そこは路地裏で、颯は大通りに向かって歩き出した。
「先ずは野菜と、あったら果物と、それから菓子だな」
「はーい!」
ハソもそれに付いて行く。大通りに出ると、夕方という事もあって人が多かった。子嫌いだったハソは颯の傍にいる為、最初は嫌々ながらも人混みの中にいたが、今では慣れてしまっていた。
「うーん、晩茄がそろそろ終わりの季節だなあ……。それがあればそれと茄子と、それから南瓜辺りを買おうか。後は見て決めよう」
「ヤニルゴルにも行くの?」
「うん、乾酪も欲しいし、燻製肉も欲しいからな」
「牛乳はあるの?」
「あ、それもいるな。忘れていたわ。有難う」
「どういたしまして。所で、ここはどこなの?」
「アメイルグ地区」
「そうなの! こんな感じだった?」
「アメイルグ地区内に商店街は三ヶ所あるからな」
「え、それは知らなかったのよ」
「まあ、大体大きな街へ行くからな」
二人はたわいない話をしながら八百屋の前で足を止め、颯が言っていた物以外も買い、次の菓子屋へ向かい、そこでは玲太郎が選んだ物と、颯が食べてみたい二種類を買った。それから路地裏へ行き、ヤニルゴル地区へ移動する。
「買い物をするとなると、なんだかここが一番落ち着くのよ」
「ふ、そうなんだな。玲太郎は魚より肉が好きなのか?」
「どっちも好き」
「強いて言うなら?」
「うーん、そうなると魚だねぇ……。父上が魚を良く出してくれるから魚、……なんだけど、肉も好きなのよ」
「まあ、どっちも白飯に合うもんな」
「それ! 僕は麺ぽうより、ご飯の方が好き!」
笑顔で話している内に、馴染みの店の前に来た。そこでも色々と買い足して、持てなくなった荷物は魔術で浮かせていた。瞬間移動で帰る時はそれを颯の体に触れさせておけば一緒に移動する。
八百屋と菓子屋で悩んだとは言え、三十分で買い物を終えた。調理台に店を広げ、買って来た物を棚やら冷蔵庫やらに片して行く。玲太郎も手伝い、その後は颯が米を研ぎ始めた。玲太郎はそれを真横で眺めていた。
「ジャッ、ジャッっていう音がよいよね。もう研がないの?」
「音がいいのか。研ぎ汁が透明度を増して行く様が楽しいのかと思っていたのに」
「それはきちんと見てなかった……」
「そうなのか。これが重要なのに」
「どう重要なの?」
「米の表面に残っている糠や、入り込んでいる塵を洗い流すんだよ。でも遣り過ぎは駄目だな。水を入れて掻き回し、一旦水を捨ててその後に研ぐ。後は水を捨てて新しい水に入れ替え、軽く掻き回してまた捨てる、を繰り返して水の透明度が増したなと思ったら其処で終わりにして、水を米の量の目盛りに合わせて、一時間浸して炊飯器に炊いて貰う、と」
「研ぐのは一度だけなの? どうして?」
「研ぎ過ぎると、米が割れたり、必要な分も削ったりするからな」
「ふうん」
「明日は研いでみるか?」
「やるやる!」
「それじゃあ明日は頼むよ」
「うん! 任せて!」
玲太郎が喜んでいると、まだ濁っているのに、颯は釜を持ち上げて外側を魔術で乾かし、流しの隣にある台に置いた。
「まだ濁ってるよ?」
「これくらいでいいんだよ」
「なるほど」
炊飯器の蓋を開けると、窯を入れて蓋をした。
「よし、これで浸けて半時間後に炊く、と」
「炊くのに五十分くらいでしょ」
「そうだな。その間に夕食の準備な。半時間は暇だから読書でもして来れば?」
「はーちゃんはどうするの?」
「俺も読書」
「じゃあ読書する」
二人は寮長室から本を持って来て、長椅子に並んで座り、読書を始めた。
翌日、玲太郎は寝惚け眼のヌトを連れて、遊歩道を歩いていた。昼食前の散歩だ。十月が目前なのに、外はまだ暑い。ウィシュヘンドより南に位置するカンタロッダ下学院の方が暑い事は当然の事だったが、玲太郎はそれが心地好かった。
「眠いわぁ……。何故このように眠いのか……」
玲太郎の髪を一房掴み、連れられているだけのヌトは独り言を呟いていた。
「二ヶ月くらい眠っていたからね。でも眠り足りないんだねぇ……」
「わしは起きておるのか? 夢の中におるのではなかろうか。ふわふわしておるぞ?」
「浮いてるから、ふわふわするよね」
「ははぁ……、わしは浮いておるのか」
まだ完全に目覚め切っていないヌトとの会話が楽しかった。白い石を当てたい気持ちで一杯だったがそれは堪え、遊歩道の外周を五周してから食堂へ向かった。
食堂は人が殆どおらず、どこにでも座り放題だった。その少ない人の内一人が振り返り、軽く挙手をした。
「ルセナ君」
笑顔で傍へ駆け寄った。
「遅いな。もう少し早く来るかと思ったのに」
ルセナは茶を飲んでいるようだった。
「散歩をしてたら、時間を忘れて歩き続けちゃったのよ」
「まあ、とにかく料理を取って来いよ」
「うん。行って来るね」
笑顔で言うと仕切り台へ向かった。ルセナが朝食と午後の間食も時間を合わせて来てくれていた。玲太郎は皿を受け取りながら礼を言い、擂り流しを零さないように歩いた。ルセナの隣席に着くと合掌する。
「いただきます」
昼食は麺で、突き匙に麺を絡めて巻くと口に運んだ。巻いた時に具が上手い具合に逃げ、それを見逃さなかった玲太郎は突き匙で刺して更に頬張った。ルセナは美味しそうに食べている玲太郎を見て、笑顔になっていた。
「紅茶のお代わりをして来る」
「うん、いってらっしゃい」
手で口を覆い、立ち上がったルセナを見た。玲太郎は擂り流しを飲み干し、最後に食べようとして残りそうな生野菜を見た。今日は軽く炙った塩漬け肉の薄切りが五枚も載っている。
(これは食べられない……。意外と麺の量があったから無理だなぁ。擂り流しを最後にすれば良かった……)
大きな皿に突き匙を置いた。合掌して「ごちそうさま」と独り言のように言うと、ハソが「お粗末様」と返事をした。玲太郎は思わず微笑んでいた。
「何を一人で笑っているんだ?」
ルセナの声がして顔を上げた。
「思い出し笑いなのよ」
「そうなんだな。はい、これ」
玲太郎の近くに茶器を置いた。
「ありがとう」
ルセナは残っている生野菜を見た。
「あれ? もう一杯か? 紅茶も入らないほどか?」
席に座りながら言う。
「ゆっくり飲むから紅茶は大丈夫。でも野菜と肉は無理なのよ。勿体ないから食べてもらえない?」
「いいぞ。食べるよ」
「本当? ありがとう!」
喜んだ玲太郎は皿を取ると私、使った突き匙も渡した。ルセナは気にならないようで突き匙も受け取る。
「擂り流しを先に飲んじゃったから、もう入らないのよ」
「麵が結構あったもんな」
「それ。意外と多かったね。見た感じだと食べられると思ったんだけどね……。だからありがとう」
玲太郎は笑顔で言うと、ルセナは野菜と肉を同時に頬張っている最中で頷いた。玲太郎は紅茶を一口飲むと、一息吐いた。
「寮の紅茶だなぁっていう味がする」
「ふっ」
咀嚼しているルセナが鼻で笑った。
「わしは眠りそうである……」
食卓に大の字になって寝転んでいるヌトが言うと、玲太郎はヌトを一瞥した。
「一口食べてみるか?」
玲太郎はルセナに顔を向けた。
「もう一杯だから無理なのよ……」
申し訳なさそうに言うと、ルセナは皿に視線を移した。
「分かった」
「水分はね、胃の中に入ってる食べ物の隙間に入るんだけど、食べ物は積み上がって行くから無理なのよ。分かる?」
「わあっあ」
食べながら返事をするルセナを見て微笑んだ。
夕食後、玲太郎は新しい教科書で予習をしていると、直ぐ斜め後ろにハソがいて、気になって集中が出来なかった。
「ハソ、近いのよ」
振り返ると、ハソが微笑んでいた。
「そうであるか」
それしか言わず、遠ざかろうともせず、玲太郎は些か苛立って顔を顰めた。
「そういう顔をするでないわ。わしがおろうとも勉強は遣らねばならぬな」
「だから近いのよ」
「気にするな」
「気になるのよ」
「颯が来たな……」
そう言って隣室の出入り口に顔を向けた。玲太郎も視線を遣った。ハソが言った通り、颯が入室すると後ろ手で閉扉しながらこちらを見ていた。
「どうかしたのか?」
「ハソが勉強の邪魔をするのよ」
「わしは見ておっただけよ。玲太郎がわしに気を取られておっただけであるぞ」
「ハソは玲太郎に近付き過ぎるなよ?」
「解った」
頷くと颯の方へ飛んで行く。颯はハソを見ると、怖い顔をして見せて直ぐに戻した。そして椅子に座り、机に置いてある本を手にした。
「颯も読書をするのかよ」
「如何にも」
頷いて、悪戯っぽく笑った。
「偶にはわしの相手をせぬか?」
「何時もしているだろうが。ヌトを起こそうか?」
「わしは颯と話したいと言うておるのであるが」
「それじゃあ僕が話すのよ」
何故か玲太郎が割って入って来た。
「玲太郎が……?」
ハソが怪訝そうに玲太郎を見た。
「僕じゃ不満があるの?」
「ないが、しかし……」
颯に顔を向けると、颯はそれに気付いて視線を向けた。
「俺を見る必要はないぞ。相手をして貰って来いよ」
「つい先程、わしに邪魔と言うておったのではなかったのか?」
ハソはまた玲太郎に顔を向けると、玲太郎は莞爾としてハソを見ていた。
「僕が話し相手になるからね」
そう言って横向きに居直ると手招きした。怪訝そうな表情で玲太郎に近付く。
「それで、何を話すの?」
「ふむ……。玲太郎は透虫という生き物を知っておるか?」
「あのね、はーちゃんに見えるようになるって言われてめい想を始めたんだけど、見た事は一度もないのよ。本当にいるの?」
「知っておったのか。……瞑想を遣っても見えぬのは、単純に時間が足りないだけやも知れぬな? 根気良く続けるが良かろう」
「いっつも真っ暗なのよ。それに時々やってなくて、気付いたら眠っちゃっててやれない時があるのよ。それってやっぱりダメなの?」
「いや、遣れない日があっても、それが続かなければ問題はないぞ。問題はないが、毎日遣っておいた方が透虫等との繋がりがよいとわしは思うがな」
「ふうん……」
「わしは毎日欠かさず遣っておるがな。透虫等は可愛い奴等よ。であるが、繋がっても個人差があるのでな、颯のように繋がりとうても、繋がれん事の方が多いのよ。わしにもわしの繋がり方という物があるし、明良にもあるのでな、玲太郎にも玲太郎の繋がり方があろうて」
「え、それぞれ違うの? 一緒じゃないの?」
不思議そうにハソを見ている玲太郎を見て、ハソは微笑む。
「似たような繋がり方をする事もあろうが、何処かが微妙に違っておると思うがな。玲太郎ならば、明良と颯とわしを合わせた物を体感出来るのではなかろうか」
「ふうん」
そう言われて黙考した。ハソは振り返って颯を見るが、颯は読書をしていて聞いていないようだった。体勢を戻し、何かを考えている玲太郎を見た。
「それじゃあ、僕がはーちゃんみたいに、自分の目で見てない物を黒淡石に記録出来るって事?」
ハソは颯の下へ行った。
「颯、颯、千里眼で見た物を黒淡石に記録しておるのか?」
本からハソへ視線を移した颯は小さく頷いた。
「そうだな。沢山記録しているぞ」
ハソは思わず目を丸くした。
「何っ、わしに見せぬか」
「見ても詰まらない物ばかりだと思うんだけどな」
そう言うと本に視線を戻した。
「颯、見せて貰えぬだろうか?」
「黒淡石を幾つか上げただろう? それで記録すればいいじゃないか」
「何っ、わしにも出来ると?」
「そもそも、黒淡石は記録開始の魔力を流した者の視界を記録する物だから、千里眼で見ている映像をそのまま記録出来るんだぞ」
「そうであったか! わしも試してみるわ」
そう言って長衣の裾を手繰り寄せ、ズボンの中から黒淡石を取り出した。
「どうしてヌトもハソも其処へ入れるんだ?」
「わし等の服には衣嚢がないのでな。ズボンならば裾が絞ってあるから、落とす事はあるまい」
眉を顰めている颯が「ふうん」と言いながら、ズボンから取り出された黒淡石を見詰めた。
「さて、一体何を見るか……、うむ、難しいな……」
「黒淡石なら出すから、そう難しく考えないでさっさと遣れよ」
「何を言うておる! 黒淡石は一千万金もする代物ぞ。大切に使わねばならぬ」
「金額なんて、ハソに取ってどうでもいい事だろうに……」
玲太郎は二人が会話していて、不機嫌になった。
「ハソは僕と話してたんじゃないの?」
語気を強めて言うと、一人と一体が玲太郎を見る。
「済まぬ、そうであったな。黒淡石が千里眼で見た映像を記録出来ると知ってしもうて、其方に気を取られてしもうたわ」
黒淡石を片手に、玲太郎の方へ戻った。
「もうよいよ。何か記録をすれば? でも僕は勉強の続きを遣るから、静かにしててね」
「解った」
ハソが頷くと、玲太郎は居直って机に向かった。ハソは顔を上に向け、天井を見ながら何を記録するか、頬を緩めて悩み始めた。
玲太郎は集中力が切れてしまうと颯とハソの会話が聞こえ出し、そちらへ顔を向けた。
「こんなにも無駄な物を記録してどうするんだよ?」
「わしに取っては無駄ではないのであるが……」
颯の机に黒淡石が小山があった。
「それで全てズボンに入れておく積りなのか? それともこの部屋の何処かに置いておく積りなのか?」
「家の木に戻って置いて来る積りでおる」
「黒淡石は出すとは言ったけど、これは無駄に使い過ぎだろう?」
「それは颯が邪魔をするからであろうが。わしは颯と玲太郎の今を記録しておきたいと思うたのに……」
「それが無駄だって言っているんだよ。不要だろうが」
「わしには必要なのである。この日を記録しておく事の何が不都合か」
「態々千里眼で見なくてもいいだろうが。自分の目で記録しろよ」
「それでは全員が映像の中に入り切らぬではないか」
「自分も映りたかったのかよ」
「無論。それとヌトもな」
「何を記録したの? 見せて」
傍に来た玲太郎が黒淡石に手を伸ばす。
「わし等がおるこの部屋の光景を記録しておこうとして、颯に邪魔をされる事十二度、わしはもう諦め、別の光景を記録したのよ」
「この中の十二個は少ししか記録されていない塵だからな」
「そうなの? 見せてもらってもよい?」
「構わぬが、部屋を暗くするか?」
「うん、お願い」
玲太郎が頷くと、俄に部屋が薄暗くなった。玲太郎が一個ずつ映像を確認して行く。十二個は颯が言った通りに少ししか記録されておらず、後は明良がガーナスと読書をしている映像、水伯が執務室で書類を手にしている映像、ルニリナがノユと会話をしている映像、ズヤが学院の図書室で読書をしている映像、ニムが木の上で空を見上げている映像、シピが海中にある家の木の傍にいる映像、レウがどこかの室内で奇妙な生物を撫でている映像、ケメがどこかの室内で宙に浮いて横たわっている映像、青星を中心に星々が瞬く映像、逆に青星から宇宙を見た映像、作物を収獲している映像、水平線に太陽が沈んで行く映像、と色々とあった。全てを見終えると室内が明るくなる。
「ハソの兄弟で僕が知らない人がいるのよ。これは?」
ハソに訊いた。ハソが答える前に颯が口を開く。
「人じゃないんだけどな。それにつけても、何気ない風景が多いな。こういう物が好きなのか?」
颯が訂正を入れつつ、意図的ではないにしても話を逸らした。
「如何にも。子等の何気ない日常や、変わらぬ風景という物も好きであるな。其処彼処に透虫等もおるからな」
颯は思わず苦笑した。
「その繋がりが今一解らないけど、常に持っておきたい物を記録する気はないのか?」
「目に見える物が全てではないと言う事よ。わしとしては、常に持っておきたい記録はないな。思い出として記録して、後々に楽しみたいのよ」
「それじゃあ風景なんていらないんじゃないのか」
「若しやしたら、今の何気ない風景も変わるやも知れぬではないか」
玲太郎は訊いた事を答えて貰えず、不機嫌になっていた。それに気付いた颯が声を掛ける。
「玲太郎が何か言っていたけど、なんだった?」
「ハソの兄弟に、僕の知らない人がいるって言ったのよ」
口を尖らせて言うと、ハソが軽く何度か頷いた。
「玲太郎が知らぬと言うと、シピとケメであろうな」
「あ、ケメね。知らない人はケメなのよ」
ハソが首を傾げる。
「はて? シピと会うた事があったか?」
「ハソの知らない内に会っていたんだよ」
「そうであるか。シピはさて置き、ケメとは幼き頃に会うた筈であるが、憶えてはおらぬであろうな」
玲太郎は颯を見る。
「そうなの?」
「そうだな。会ってはいるけど憶えていないだけだな」
「ふうん……。どんな人なの?」
ハソが颯を見ると、颯はハソを横目で見ていた。目が合うと玲太郎に視線を戻す。
「人じゃないんだけど、まあいいか。そうだな……、ケメは独善的で利己的で、簡単に言うと、俺等の敵だったな」
「えっ、そうなの?」
玲太郎が驚いてハソを見ると、ハソは頷いた。
「レウは子等に無関心であるが、ケメはその正反対でな、子等の何処に興味があったのかは知らぬが、看過出来ぬような事態に陥り、今は家の木で監禁生活を送っておるのよ」
「監禁! そんなに酷い事をしたの?」
大きく頷いたハソは腕を組んだ。
「如何にも。内容は言えぬがな。玲太郎は会うてみたいか?」
思わず首を横に振った。
「止めておくのよ」
「そうであるか。それでもわし等の兄弟であるから、ケメが反省をした暁には会うてみて欲しい」
「反省する時が来れば、玲太郎だって会ってもいいと思うかも知れないな」
そう颯に言われ、玲太郎は苦笑する。
「うーん、なんだか怖いけどね」
颯が掛け時計に一瞥をくれ、玲太郎を見る。
「それじゃあそろそろ風呂に入るか?」
「うん」
頷いた玲太郎の頭を乱雑に撫でて立ち上がる。ハソは颯を見上げた。
「わしは黒淡石を家の木に置いて来るわ」
「解った。風呂に行って来るわ」
「うむ」
返事をすると長衣の裾を手繰り寄せ、ズボンの中に入れ始めた。二人はハソを置いて隣室へ向かった。
午前の間食を済ませて寮長室へ戻った玲太郎はヌトが妙に元気で困っていた。ヌトは玲太郎の髪を一房掴んだままで、何故かずっと話していた。
「聞いておるのか、玲太郎」
「聞いてるけど、そろそろ黙らない?」
「何を言うておるのよ。此処はわしの夢の中であるぞ。わしの好きにして何が悪いか。悪い事なぞ何もないわ」
今日は起きてからずっとこの調子で、玲太郎も困り果てていた。
「あのね、僕は首席だから、入学式で挨拶をしないといけないのよ。その挨拶を考えて、はーちゃんに見てもらわないといけないから、黙っててくれる? 考えられないのよ」
「何を言うておるのよ。玲太郎は先頃入学式とやらを済ませたと言うに、何故また入学式があるのよ? おかしいのではなかろうか?」
「先頃の入学式って、先頃も何もまだやってないのよ。入学式は明日なのよ?」
「意味が解らぬ。式を遣っておらなんだか?」
「やってないのよ」
「成程? ……玲太郎は何学年よ?」
「六学年」
「む? 玲太郎はいつの間に六学年になったのよ? 入学した所ではないのか?」
「それは一昨年でね、もう二年経ったのよ」
ヌトは驚いて髪を掴む手に力が入る。
「何っ、実であるかっ!?」
「まこともまこと、入学した次の年に飛び級して五学年になって、その次の年に六学年になったのよ」
「ふむ……。言われてみれば、そうであったような気がしなくもないのであるが、果たして?」
「果たして? じゃないのよ。事実だからね。それとももう一度、白い石を当てようか? そうすれば目がきちんと覚めると思うんだけど、どう?」
そう言って机に置かれていた白い石を持ち、ヌトに当てようと石を近付けた。ヌトはそれを見て離れた。
「玲太郎、お主はわしに嫌がらせをするとは、酷いのではあるまいか! わしは起きとうないのよ!」
振り返って喚くヌトを見ると笑顔になった。
「起きとうないって言っても、もう起きてるのよ」
「もうよいわ。わしは横になる事とする」
颯の寝台へ行き、寝転んだ。
「昼食の時間になったら起こすからね」
「ふん、起きぬわっ」
ご機嫌斜めの様子だったが、直ぐに就寝したようで玲太郎が話し掛けても反応がなかった。静かになった事で、抽斗から紙を出して入学式で挨拶を思案し始めた。しかし、次は明良が遣って来た。
「玲太郎」
声のする方を向くと、颯の机の傍に明良が立っていた。
「いらっしゃい。今日はもう終わったの?」
「終わったよ。玲太郎は何をしているの?」
「あのね、入学式で挨拶をしないといけなくなって、それで文章を考えてるのよ」
「そうなのだね。首席おめでとう」
「ありがとう。でも前に受けた試験での結果なのよ。なんだか悪い気がしてね……」
「狡い事をしている訳ではないし、寧ろ条件としては玲太郎の方が厳しかったのだよ? 受けた教科数が多かったのだからね。それで首席なのだから胸を張ればよいよ」
話しながら颯の椅子を持ち、玲太郎の傍に置いて座った。そして玲太郎に向けた笑顔は、豪華な花が咲き誇っているかのようだった。
「そう? それじゃあそうするね」
明良は紙が真っ白な事を確認すると、玲太郎を見る。
「一行も書けていないのではないの?」
「そうなのよ。ヌトが夢の中にいるみたいで、ずっと話しててね、それでさっき眠ったから、やっと始められたのよ。でもすぐにあーちゃんが来ちゃって、この有様なんだけどね」
「そうだったのだね。それは悪い事をしてしまったね」
「ううん、よいよ。お茶でも飲む? はーちゃんがせんべいを買って来てくれてるのよ。食べるでしょ?」
「そうだね、それでは頂くとしよう」
二人は立ち上がると隣室へ行った。明良は当然のように玲太郎の手を取っていた。
入学してから毎年、何かしら事件が起こっていたが、今年は平穏に始まった。玲太郎は何かあるかも知れないと身構えていたが、何事もなく日々が過ぎて行く。
六学年生は卒業出来るように身を入れて授業を受けていた。進学組は上学校へは転入という形で入学する為、順当に進学出来るように特に進学先の魔術系の授業を頑張っていた。
一方、就職組は冬休みが本番で、希望する就職先との面接や職場へ見学が始まる。そういう訳で、表面上では誰もが問題を起こす事はなかった。
玲太郎は卒業後にルニリナに師事する事が決まっているし、ルセナは就職先が既に決まっていて躍起になる事もなく、いつもと変わらない、安穏とした時間が過ぎていた。二人は時折颯とルニリナを護衛にして貰い、ヤニルゴル地区で乗馬をしたり、動物を見学したりしていた。
忽ち十一月になった。六学年は特別活動の一環で、施設へ慰問する事となっていて、組ごとで違う施設へ行くが、月組の向かう先はウィシュヘンド州にある孤児院だ。ここでは、魔術の練習の成果を披露する場となっている。六班に分かれているのだが、玲太郎はルセナとは別の班になっていた。出し物は一様に光の玉の使用した物となっている。
玲太郎と同じ班になっているのは、ギシース・タオッカ、リラン・メチャーラ、ワティーナ・ジョバージ、ニー=ロギ・トバクラ・シーゾイの四人だ。ジョバージ以外は女子で、魔力の質が下位から数えた四人だった。
最近の魔術と特別活動の授業では、一緒に出し物の練習を遣っていた。今は魔術の授業中で、班に分かれて光の玉を複数出す練習を遣っていた。
「あー、上手く行く気がしない……」
天を仰いだのはタオッカだった。
「一週間足らずでもう十四日になるのに……。無理じゃないの?」
そう続けると、玲太郎と同じ黒髪のジョバージが苦笑する。
「嘆いている暇があったら、練習を続けようよ」
「玉を同時に五個は難しいのよ……」
「タオッカさんはお勉強はお出来になるのに、こういう事は苦手なのね」
同時に六個の玉を顕現しているシーゾイが言った。タオッカは横目で見る。
「素晴らしい嫌味をありがとう」
微笑み掛けると、シーゾイも微笑んだ。
「嫌味ではないわ。本当の事でしょう?」
「空気悪っ。これだからお貴族様は……」
メチャーラが言うと玲太郎に視線を向ける。
「本物は偽物と大違いよね」
シーゾイは眉を顰めた。
「それはどういう意味ですの? 文官貴族は貴族ではないとおっしゃりたいの?」
「あら、分かってるじゃない。領地を持っているからこその貴族よ。文官貴族なんて無意味に三代も続くんだから寄生虫も同然でしょ。それで良く威張れるわね」
「なんですってぇ!?」
「あら、本当の事を言われて怒っちゃった?」
二人が口論を始めると、毎度これを止めているジョバージが溜息を吐く。
「この学年の女子の身分差別は本当に酷い……。今、この場に貴族も平民も関係ないよ。メチャーラさんは、そういう事を人に向かって平気で言える自分を省みないといけないね」
「本物とか偽物とか、そういう事はどうでもいい事なのよ。そういう事を平気で言える品性に問題があるのよ」
いつもは我関せずの玲太郎が発言し、全員が驚いて玲太郎を見た。
「それから、ジョバージ君が同じ事を言ったのはこれで十度目だからね。タオッカさんには悪いんだけど、他の二人は仲良く出来ないのならイノウエ先生に報告させてもらうね。僕はみんなと出し物をする練習をやりたいのに、このままジョバージ君と僕の二人で出し物をする事になるかも知れないね?」
そう言って玲太郎が颯の方へ歩いて行った。タオッカは受け入れていたが、メチャーラとシーゾイは顔を顰めてそれを見ていた。
「ウィシュヘンド君は、我慢の限界が来たようだね」
ジョバージが言うと、顔を顰めていた二人は俯いた。こうして玲太郎に連れて来られた颯に、三人は絞られ、慰問が終わるまで三人は放課後に合同練習を、颯の監視下で遣る事となった。タオッカは絡まれていただけで、巻き込まれる形になってしまったが、メチャーラとシーゾイは「次は停学」と警告をされた上、慰問が終わるまで毎日反省文を書かされる事にもなった。
この対立している女子は臨海学校で同じ班だったのにも拘らず、明良がいない事でこういう状況に陥っていた。玲太郎とジョバージは心底困り果てていたが、これで漸く解放される事となった。
夕食後、颯といつものように話していた玲太郎が、何気なくこの話題を出した。
「はーちゃんのお陰で、あの言い合いから解放されたのよ。ありがとう」
「女子は未だに身分差別があるんだろうな。今度の二人は応酬をしていたから、一方的な物ではないにしても、退学にされる可能性だってあるのに、善くも玲太郎の前で本性を現せたよな。浅慮の阿呆だ。玲太郎も十度目じゃなく、一度目で俺に言わないといけなかったな。次からは我慢するなよ?」
「ごめんなさい。次からは見付け次第、言いに行くね」
「そうして貰えると有難いわ。あの手合いはああ言っても、潜在化してしまうだけなんだよなあ。まあ、被害者が言いに来てくれればいいんだけど……、タオッカが来るかどうかだよな。女子の首席に返り咲いている昨年から当たりが強くなっていそうなんだけど、本人が平然としているからな……」
玲太郎はシーゾイに嫌味を言われている時のタオッカを思い出していた。
「確かに、言われ慣れてる雰囲気はあったね」
「一学年の頃から言われ続けていれば、そうなってしまう物なのかもな。悲しい事だな……」
颯の浮かない表情を見ていると、玲太郎は悲しくなってしまった。
「あのね、今日はね、光の玉を十個に出来たのよ」
慌てて話題を変えると、颯の表情も少し変わって和やかになった。
「一個より遣り易そうだったな」
「うん? 見てたの?」
「当然見ているよ。これでも教師だからな、全員に目配せをしているんだぞ?」
「そうなの」
「光の明るさが一個から十個に分けたような感じになっていたから…」
「そうなのよ! 良く分かったね。あれだと明るさを気にせずに出来ちゃうから楽でよいね。何個でも作れそう」
「所で、出し物はあの構成で大丈夫なのか?」
「僕は大丈夫、だと思う。……でも眩し過ぎるかも知れないね。この前の週末にあーちゃんに見てもらったんだけど、まだ色眼鏡が必須って言ってた」
「慰問の日が来るまで、夕食後は俺も練習を見るわ。沢山の光を出せるのは知っているから、一個の明るさを抑える練習を遣ろうな」
「うん、出来るようになるまで頑張るね!」
そう言って胸の前で両手を握った。かなり遣る気になっているようだ。
「無理のない程度に遣ろうな」
「分かった」
颯が微笑むと、玲太郎も笑顔になった。
「色眼鏡はよいな。わしも好きよ」
二人がハソを見ると、ハソが赤い色眼鏡を掛けていた。
「赤は似合わないな……」
「そうであるか? 世界が赤く染まって楽しいのであるが……」
「黄色にしてみたら?」
「黄色? ……それならば緑にするわ」
色が赤から緑に変わると、ハソは眉を寄せる。
「緑は赤ほど楽しくはないのであるが……、世界に一色に染まる事自体は楽しいわ」
そう言って色々な色を試していると、玲太郎はそれを面白そうに見ていた。颯は苦笑して茶を飲み干した。
慰問のある週末は屋敷に戻らず、十三日は五人で最後の練習を遣ってから入念に打ち合わせをした。玲太郎が見せ場を担当するが、そこに至るまでの四人の玉の大きさが揃わず、そのままで行く事となった。玲太郎は不揃いでも問題はないし、寧ろその方がよい気さえしていたが、一番小さい玉しか出せないシーゾイは拘って練習を続けていた。タオッカとメチャーラは付き合わざるを得なくなり、共に居残り練習を遣った。
十四日になり、陸船に乗り込んだ月組は、颯の操縦でウィシュヘンド州の北西にあるジホ孤児院へ向かった。ジホ孤児院のある辺りは十一月だと言うのに風は冷たく、上空では雪が降っていて多くの生徒が喜色満面になった。
颯は孤児院の建物の直ぐ傍に陸船を下ろした。上空では雪でも地上付近では雨になっていた。生徒は障壁を張りつつも小走りで建物に入った。室内はカンタロッダ下学院の寮より暖かかった。
そこには、玲太郎と颯の知った顔があった。
「ハヤテ様、お久し振りで御座います」
丁寧に辞儀をして頭を上げると、颯は以前にも増して肥え太っているその顔を凝視した。
「ああ、ユージュニーさん。此処にいたのですね」
颯は月組だけ北に位置する孤児院へ来た理由が理解出来た。玲太郎も見ていたが、その変わりように顔を逸らせた。
「この度は遠くよりお越し頂きまして、誠に有難う御座います」
「お元気そうで何よりです。閣下にお仕えしているよりも、此方が合っているようで、閣下もお喜びになる事でしょう」
微笑みながら言い、表情の消えたユージュニーを見ると、ユージュニーは無反応だった。
「本当に閣下のご恩情には頭が下がります。此方で働けて良かったですね」
「そうですね。此処には娘もおりますので、感謝の念に堪えません」
「カウトレンド家の努力の賜物でしょう。私はカウトレンド家が遣った事を思えば、此方にいる事を不服に感じますが、これからもお優しい閣下のお為にお互い精進致しましょう」
「この上ない職場で、わたくしも非常に満足しておりますし、子供達の為にやれる事をやって行きますよ」
そう言いながら笑顔を引き攣らせた。遣り取りを見ていた生徒は、二人の只ならぬ雰囲気に息を呑んだ。
「それでは案内をお願いしても宜しいでしょうか?」
「こちらになります」
手で指し示してから先導し始めた。颯が付いて行くと、生徒も置いて行かれないように追った。
生徒は子供達と絵を描いたり、絵本を読んだり、玩具で遊んだり、年齢の近い子供達とは今の流行について話したりして楽しんでいた。そして小ぢんまりとした食堂で一緒に間食を摂り、食後にはいよいよ出し物をする時間となった。室内が暗くなり、最初の一班が厨房の前にある仕切り台の前へ集まる。
玲太郎の班の出番は六番目、詰まり最後になる。輝く光の玉が尾を引いて規則的に幾つも飛び交い、子供達の目を惹いていた。玲太郎も他の班の出し物を目にする事は初めてで、自分の班と違っていて楽しんで観ていた。一班が終わると拍手が起こり、交代となる。
どの班も光の玉は一人につき、五から十個のようだった。黄味掛かった白の光が円を描いて回ったり、放物線を描いて消えたり、直線的に走ったり、光の大きさを変えたりして所狭しと動いている。
五班目になり、ルセナが登場すると、五十を超える光の玉が動き回り、中でも集合灯の魔石から何十条もの光芒が差し込み、それが動いて様々な所を照らすと歓声が起こった。一際大きな拍手に送られてルセナの班が脇へ引き上げて行き、代わりに玲太郎の班の登場となった。
「あー……、もうどうにでもなれだわ」
呟いたのはタオッカだった。玲太郎は遣る事が多かったが心に余裕があった。
「大丈夫。あれだけ練習をやって来たんだからね」
タオッカは隣にいる玲太郎を一瞥すると、気を引き締めた。
「ありがとう。頑張るわ」
「それじゃあいいね?」
ジョバージが訊くと、四人が「はい」と返事をする。
「それでは始めます」
ジョバージの声が響き渡り、食堂の中心に大きな光の玉が顕現すると、天井付近にまで上がって行った。すると部屋の四隅に光の玉が五個顕現した。一列に並んで左右に動いて子供達の傍を通り、大きなそれを目指して上昇して行った。二十個のそれが、大きなそれに吸い込まれると、次第に小さくなって行く。小さくなるに連れ、明るさが増して行った。動きが止まるとそれが弾け、所々から声が上がった。無数の小さなそれが飛び散って速度を失い、煌きながら落ちて行くとまた声が上がる。煌きは徐々に小さくなり消えた。恰も花火の中にいるようで、終わってからも暫くは静かだった。一人が拍手をするとそれは全体に広がり、一番盛大な拍手を貰う事となった。
五人は丁寧に辞儀をして脇へ引き上げて行く。それから集合灯が明るくなり、窓掛けも開かれた。殆どの子供が笑顔だった。
昼食も子供達と一緒に摂り、十七時九十分になると、生徒は子供達と別れを惜しみながら颯を先頭に移動を開始した。
「イノウエ先生、少しよろしいでしょうか」
不意に声を掛けられ、そちらへ顔を向けると、蒲公英色の髪に碧眼、それに見覚えのある面立ちの少女が立っていた。
「ルリーア・カウトレンドです。覚えていらっしゃいますでしょうか? 以前、イノウエ先生に失礼な事を言いまして、そのお詫びしたくて……」
颯は名前を聞き、自分の思い違いに気付いた。
(こっちが本筋か)
彼女が五歳の時、小馬鹿にされた事は確かに憶えていた。
「憶えているけど、大きくなって……、見違えたな。幾つになったんだ?」
「はい。あの時は本当にすみませんでした。わたしも十五歳になりました」
「そうなんだな。本当に大きくなって……」
颯が微笑みかけると、ルリーアは頬を赤く染めた。
「あの頃の自分がどれだけ思い上がっていたか、今思うと恥じ入るばかりです。平民になって、ここに来て、色々と苦労もありましたが、閣下には感謝しています。本当に」
心底から言っている事が表情から読み取れ、颯は軽く二度頷いた。
「父親と違って反省出来て、本当に良かったと俺も思うよ。ヴォーレフ君は元気?」
ルリーアは困り顔になると俯いた。
「それが……、父がああなってしまって母は実家に帰り、その際に弟を連れて行ってしまったんです。月に一度は来ていた手紙も今はなくて、元気かどうかはわたしも知らないんです」
「それは申し訳ない事を聞いてしまったな。ご免」
顔を上げ、颯に笑顔を見せる。
「いいえ、きっとあの子の事ですから、文官を目指して頑張っていると思います。お引き留めしてすみませんでした。閣下にお手紙を読んで頂けたようで嬉しい限りです。また遊びにいらしてください」
言いたい事を言えたのか、颯に深々と辞儀をし、颯の後ろに閊えている生徒を見てまた辞儀をして去って行った。
「悪い、それじゃあ陸船へ行こうか」
振り返ってそう言うと歩き出した。生徒もそれに付いて行く。玲太郎はあの少女を見た事がないのに、颯が知り合いのようで驚いていた。
雨はまだ降っていて、職員の見送りは玄関までだったが、ユージュニーの姿はなかった。生徒が全員陸船に乗り込んだ事を三度確認した颯は陸船を上昇させ、帰路に就いた。
帰寮し、玲太郎は寮長室へ戻ると、眠りこけているヌトの傍へ行き、腹を突いた。これ程度で起きる筈もなく、後ろに付いているハソが覗き込む。
「何をしておるのよ?」
「ぐっすり眠ってるなと思って」
「そうであろう。これが百年は続くからな」
「間で起きてるから、もっと続きそう」
そう言って寝台に座った。
「眠るのであれば、わしは颯の所へ行くのであるが」
「もうすぐ午後の間食だから眠らないのよ」
「そうであるか」
「だからはーちゃんが戻ってくる方が早いと思うよ」
玲太郎は後ろに倒れ、天井を見た。
「眠るのか?」
「横になってるだけ」
「そうであるか」
そう言って、直ぐに寝息を立て始めた玲太郎を浮かせ、寝台に横たわらせた。
「眠らぬと言うて眠るのは、一体どういう積りなのであろうか」
玲太郎の枕元で眠るヌトに視線を移す。
「ヌトには解らぬであろうな。尤も、わしにも解らぬが……」
玲太郎が起きるまで、ハソはそこにいて、玲太郎を見続けていた。
午後の間食を終え、寮長室に戻ると颯がいた。玲太郎は急いで靴を履き替え、颯の下へ行く。
「お帰り」
顔を向けずに気配を感じて言ったが、玲太郎は笑顔になる。
「ただいま」
「思うたより早かったではないか」
「全員無事に帰って来ましたっていう報告だけだからな」
そう言って本を開いたままで机に置き、閉じないように左手を上に置いた。
「玲太郎、夕食は水伯邸だからな」
顔を向け、玲太郎と目を合わせた。
「え? 帰るの?」
「うん。風呂も向こうで入ろう」
「分かった。でもルーとツーに昨日ご飯を上げてないのよ」
「魔力を四五日与えなくても元気だぞ。それに、最初は体の色が薄かったのに、濃くなっているから、薄くなるまでは魔力を与えなくても大丈夫だと思うわ」
「ふうん……、絶対に?」
怪訝そうに訊くと、颯は微笑んだ。
「多分な。ニーティも似たような事を言っていたよ」
「そうなの。分かった」
「ばあちゃんにも水伯にも兄貴にも連絡してあるから」
「ありがとう」
「どう致しまして」
玲太郎がずっと笑顔でいるのだが、その態とらしい笑顔が何故か颯は引っ掛かった。
「何か言いたい事でもあるのか?」
「うん? どうして?」
「ないならいいけど」
そう言って正面を向き、本を持った。
「あのね」
玲太郎が言い掛けると、颯は玲太郎に顔を向けた。
「なんだ?」
「今日、女の子に話し掛けられてたでしょ」
「そうだな」
「あの子は誰なの?」
「ユージュニーさんは憶えているか? 以前、屋敷に出入りしていた筈だから、会っていると思うんだけど」
「うん、覚えてる」
「ジホ孤児院に入って直ぐに挨拶していた人がユージュニーさんだよ」
玲太郎は目を丸くした。
「あの見た目の変わりようは凄いよね。僕も見て驚いて、見付かりたくなかったから離れちゃった……」
「あの人に子供が二人いてな、姉が話していたあの女の子で、弟は実家に帰った母親に付いて行ったと言っていたよ」
「ふうん……。はーちゃんは、その子達を知ってたの?」
「うん、知っていたよ。出会いが強烈過ぎて忘れられなかったと言うか、頭の悪い事を言う子で印象に残っていたと言うか、まあ、そんな感じだったんだけど、すっかり感じのいいお姉さんになっていたなあ……。それは純粋に良かったとは思うんだけど、父親があれじゃあな……」
「そうだねぇ……。あのユージュニーさんとは思えなかったよね」
「そうだな。あれだとそろそろ水伯に見切られるな」
「え、そうなの?」
「真面目に仕事を遣っているように見えたか?」
「うーん、それは分からないけど、やってるんじゃないの? 仕事なんだから当然やってるはずなのよ」
真顔で言い切る玲太郎を見て、颯は苦笑した。
「そう思えるんだな。俺は思えなかったんだよなあ」
「ふうん……」
そして二人は無表情になったが、俄に颯が笑顔になった。
「それはさて置き、今日の出し物は良かったぞ。でも着色はしなかったんだな」
「そうなのよ。光が分かれて落ちる時に着色したかったんだけど、どうしても一色になっちゃうから、それなら元々の色でよいかと思って」
「玉の数が多くて単色にしかならないのなら、大きな玉を三個とか四個とか少な目にして、一色ずつ着色すれば良かったんじゃないか?」
「ああ、なるほど。そういう風に出来たかもしれないけど、……うーん、僕にはまだ早いと思うのよ」
「そうなのか。まあ一個の方が大きくて迫力もあったし、あれで良かったんだろうな」
「そう? ありがとう」
玲太郎は出し物を終えた時、最初に拍手をした人物が颯だという事に気付いていたが、その事は言わなかった。その代わり、颯に抱き着いて甘えた。
「はーちゃん」
「急にどうした?」
「いひひひひ」
颯は微笑み、甘える玲太郎を膝に乗せた。夕食に出掛けるまで、そのまま話し続けた。ハソはなんだかその光景を見る気にならず、颯の寝台の上で横たわって浮いていた。
夕食中、寮の閉門時間になって颯が一時席を離れたが直ぐに戻り、食事を再開した。いつものように主に颯と八千代が話し、時折水伯がそれに交ざった。
先に食事を終えた玲太郎は、水伯と居室へ向かった。そして、ジホ孤児院であった事を話していたが、水伯は笑顔で相槌を打って聞いているだけだった。ユージュニーの事を話しても、特に何も言わなかった。
(もっと反応があるのかと思ったのに、全くなかった……)
拍子抜けしていると、水伯が手を打ち、その音に驚いた。
「玲太郎が参加した出し物が見たいから、ここで遣って貰えない?」
「ええ?」
その提案に眉を顰めたが、その拍子にふと思い出した。
「そう言えば、父上は建国祭の花火を作ってるんでしょ?」
「そうだね」
「それじゃあ! 父上の花火を見せて欲しいのよ」
「私は玲太郎の出し物の方が見たいのだけれど……」
「父上が先ね。僕は後。でもきっと花火よりは大した物じゃないから、期待はしないでね?」
「解った。それでは皆が食事を終えて、八千代さんと颯が後片付けを終えたらね。皆と一緒に花火を見ようね」
「え! みんなも見るの?」
「それはそうだよ。折角の花火なのだから。食堂へ行って伝えておいで」
「うん、行って来るね」
玲太郎は食堂へ向かった。扉を勢い良く開けて中に入ると、三人が一斉に顔を向けた。
「どうかしたの?」
明良が真っ先に訊いた。
「父上が花火を見せてくれるんだけど、みんなも一緒にって」
「あら、そうなの? それは楽しみ」
八千代が笑顔になった。
「片付けが終わった後って言ってたから、終わったら居室に来てくれる?」
「分かったよ」
「皆を集めるって事は、数発じゃなくて、結構打ち揚げて貰えるんだろうな」
颯は既に正面に向いていて、玲太郎に背を向けていた。
「ますます楽しみだね」
八千代は颯を見て、笑顔で頷いた。
「待たせるのもなんだから、片付けは俺が魔術で遣ってしまうよ。ばあちゃんは先に居室へ行けば?」
「そう? それじゃあお願いしようね」
八千代は玲太郎に顔を向ける。いつの間にやら、颯の直ぐ後ろにまで来ていた。
「後片付けは颯がやってくれるそうだから、水伯さんにもう暫く待ってもらえるように言ってくれる?」
「分かった」
玲太郎は颯の隣に行く。颯が玲太郎に顔を向けた。
「どうかしたのか?」
「父上に、出し物を見せてって言われたんだけど、一人じゃ出来ないでしょ? だから四人がやってた事を、はーちゃんにやって欲しいのよ。やってくれる?」
「いいぞ」
「それじゃあ、花火が終わった後にね」
そう言って笑顔になると、颯も笑顔で頷いた。
「解った。花火が終わった後な」
玲太郎が頷いていると、ふと気になって明良を見た。明良は玲太郎が顔を向けてくれた事で、満面の笑みを湛えた。
「あーちゃんも後でね」
「うん、後でね」
笑顔を見せると食堂を後にした。明良は最近、こうして三人で話す事が増えた。今までなら玲太郎から離れず、水伯と三人で居室で茶を飲んで寛いでいたが、あの頃からかこうなってしまった。明良の事を思うと胸が痛んだが、その一方で解放感から気持ちが軽くなっていた。
五人は外へ出て、水伯の花火を堪能した。色取り取りの大きな花が夜空に幾つも咲き乱れ、本物さながらに音まで轟いている。きっと敷地内にいる者も音で気付き、見ている事だろう。
玲太郎はこの後に出し物を見せるのかと思うと、遣る気が失せていた。明良は玲太郎を抱き上げていて、嬉しそうに鑑賞しているが、玲太郎の顔を見ている方が多かった。それに気付いていたが、玲太郎は花火から目を離す事はなかった。しかし、最後に花火に見入っている明良の横顔を見た。直ぐに明良が顔を向けて来て微笑み、玲太郎も微笑んで直ぐに花火に視線を戻す。夜空には大輪の花が咲いては散り、咲いては散っていた。それが終わると、一気に幾つもの花が咲き続けた。その迫力は圧巻だった。それが消え去って静まり返る。
「はい、お終い」
水伯が言うと、拍手が起こる。
「やはり花火を造り続けているだけあって、素晴らしいね」
唯一拍手をしていない明良が言うと、水伯は屋敷の方へ体を向けた。
「有難う。それでは次は玲太郎の番だからね」
柔和に微笑みながら言い、一番に屋敷へ向かった。
「あーちゃん、下ろして」
「ふふ、このまま一緒に居室へ行こうね」
変わったようでいて変わっていない明良に苦笑し、居室へ連れられた。颯と八千代はその後ろを歩いた。
居室に到着して、明良は玲太郎を下ろした。
「ありがとう」
「どう致しまして」
「それじゃあ椅子に座って見ててね。はーちゃん」
明良に向けていた笑顔が、颯に向けられ、そちらへ向かって行った。
「それじゃあ、俺が四人分を遣るから、玲太郎は玲太郎の担当な?」
「うん、お願いね」
俄に部屋が暗くなり、部屋の四隅に光の玉が五個顕現し、所狭しと動き回り、玲太郎は部屋の中心に玉を顕現させ、それを上昇させた。五個の玉が玲太郎の玉に吸い込まれ、と孤児院と全く同じ事を遣り、最後に落ちて来る光が、煌きながら消えて行き、終わった。直ぐに拍手が起こったが、明良が一人一所懸命に手を叩いていた。
部屋が明るくなると、照れ笑いをしながら水伯の下へ駆けて行く。
「父上の花火と比べると、大した事なくて恥ずかしいのよ」
そう言って水伯に抱き着いて行く。明良は手を止め、些か不快そうにした。
「そうでもないよ。最後は花火の中にいるみたいで楽しかったよ。ありがとうね」
八千代が笑顔で言うと、明良も慌てて笑顔になる。
「私もとても楽しかったから、是非ともまた遣って欲しいね」
「あれが出来たのだから、玲太郎も花火を揚げられる日も近いね」
玲太郎の背中を軽く叩きながら水伯が言うと、玲太郎は「いひひひ」と笑って水伯の肩に顔を埋めた。和やかな雰囲気の中、明良が一人それを打ち消すような雰囲気を醸し出していた。
上期の一大催事である学祭が十二月にある。今年は十四日がその日だ。六学年は露店を出店する事が決まっていて、特別活動の授業で何を売るのかを決めるのだが、先ずは班分けが行われた。三班に分かれ、玲太郎はルセナと一緒の班で喜んでいた。
そして班ごとに何を出店するかを決める。玲太郎はたこ焼きが良かったが、ルセナは揚げ芋、他には焼き包み菓子や、セイダンセン、ヒーチェ、揚げ腸詰めが候補に挙がった。
「たこ焼きがどんな物か、食べた事がない」
そう言う生徒が半数を占め、玲太郎は諦めた。そして多数決で決めるのだが、揚げ芋とヒーチェが同数で残り、じゃが芋を千切りにした物を使うヒーチェよりも、揚げ芋の方が手間が掛からないとの理由で、揚げ芋に決まった。運良く被る事もなく、玲太郎の班は揚げ芋で確定した。
次の特別活動の授業で実際に調理をし、手順を確認する。玲太郎はウィシュヘンド東海岸産と青海苔が混ざった海苔塩を持って来ていた。それを掛けて食べていると、ルセナが興味を示す。
「これがノリか?」
「うん、とぉっても美味しくなるのよ」
「食べてみない事にはな?」
「美味しいのよ、ぜーったいに」
「へえ、それじゃあ早く全体にかけて」
ルセナの揚げ芋の上で携帯用の容器を振った。ルセナは一切れ食べると、目を丸くして玲太郎を見た。
「うまいわ! これはいい。この風味はいいな!」
それを聞きいたタオッカが近寄って来た。
「あたしにもかけて」
「少しだけ? 全体にかける?」
「全体」
躊躇なく言い、玲太郎は満遍なく振り掛けた。
「ありがとう。どれどれ……」
タオッカは興味津々で頬張った。直ぐに目を丸くして玲太郎を見る。
「んー、おいひい!」
「これは塩もうまいんだと思うぞ」
ルセナはそう言うと、もう一切れ頬張った。
「そうなのよ。ウィシュヘンドの西海岸の塩はとっても美味しいのよ」
「そうなんだね。塩も美味しいんだね。でもこの風味もいいよね」
タオッカも気に入ったようだ。
「聞こえてたよ。私にもかけて欲しい」
次に遣って来たのはケワビムだった。そして頬張って同様に驚いている。
「エマ、かけてもらいなよ。本当に美味しいから!」
「それじゃあお願いする。私も全部にかけてもらってもいい?」
「うん」
結局、班の全員の揚げ芋に掛け、皆の要望で多目に揚げていた分にも掛けて容器が空になると、ダーリーも遣って来て味見をする。
「わぁ、これは美味しいわね。確か三百人分だったわよね? もう二百人分追加したらどう? きっと売れるわよ」
海苔塩を振り掛ける事が決定し、そして一人前一個の芋を使うのだが、三百人前で三百個の芋を発注する予定を五百個にして、何もなしと塩のみと海苔塩を用意する事になった。塩は勿論ウィシュヘンド西海岸産の物を使用する。
特別活動の授業は翌週から倉庫にある露店の飾り付けをして、学祭当日を待った。
十二月十四日、颯はいつもよりゆっくり目に過ごしていると明良が来て、玲太郎を連れて行ってしまった。直ぐに水伯、八千代、ガーナス、バラシーズを連れて戻った。
「いやいや、門から来いよ」
挨拶もせずに颯が眉を顰めた。
「そう固い事を言わないでよ」
八千代が苦笑する。
「十時を少し過ぎるまで隣室にいるからね」
水伯は軽く挙手をして開扉した。
「ご勝手にどうぞ」
玲太郎は明良に下ろされ、不満そうな颯の下へ行く。
「玲太郎も拒否しろよ」
巻き添えを食らった玲太郎は苦笑している。
「来ちゃったから、もう仕方がないよね」
八千代と明良は隣室へ行ってしまったが、玲太郎の後ろにはガーナスとバラシーズが立っていた。
「お早う」
「お早う。お父様まで一緒に来たら駄目だろう?」
「明良が誘って来たら、断れないだろう?」
「それにバラシーズさんまで来たのかよ。今日は休めばいいのに……」
「学祭なんて久し振りですからね。食べると聞いて、付いて来てしまいました」
悪びれもせずに言うと、颯は額に手を当てて「あーもう……」と俯いた。
「多いと楽しいし、よいと思うのよ」
玲太郎は客の確保が出来て満足そうだった。
「責めて門から来いよ……」
ガーナスはそれを聞いて、笑いながら隣室へ向かった。
「レイタロウ様、ありがとうございました」
「どういたしまして」
バラシーズは軽く辞儀をしてガーナスに付いて行った。颯は頬杖を突いて見送った。そして玲太郎に視線を向ける。
「玲太郎も九時四十分までは向こうでいれば?」
「ううん、はーちゃんと一緒にいる」
「菓子を出してやって」
「うーん、もうすぐ食べるからいらないと思うよ?」
「一応訊いてみて」
「分かった」
そう言って隣室の出入り口に吸い込まれて行ったが、直ぐに戻って来た。
カンタロッダ下学院の上空は雲一つない快晴で、生徒は好天に釣られて張り切っていた。開門は十時で、六学年は九時九十分頃から慌ただしくなった。
特に材料が多く、時間の掛かる班は作り置きに必死で悲惨だ。それに引き換え、玲太郎の班は皮は剥かずに洗い、芽があればそれを取り、直径の長い方を縦にして半分に切り、それを更に櫛切りにした上に片栗粉を塗して揚げるだけという簡単な物で非常に余裕があった。しかし、捌く数が多い為、結局は似たり寄ったりなのかも知れない。
十時になり、一番乗りの観覧者が入校し、続々と人が押し寄せた。この時間に露店の前で歩みを止める者はいなかった。玲太郎は呼び込みの番で、制服の上に白い前掛けという格好で声を出して「いらっしゃいませー。揚げ芋はいかがですかー」と叫んでいた。相棒はルセナで、一緒に叫んでいた。
「あっ、ウィシュヘンド公爵」
ルセナが思わず言うと、その声が聞こえていた全員が周囲を見回し始めた。玲太郎は顔を紅潮させていると、ルセナが「ごめん」と呟いた。揚げ芋の露店の前に立ったのは明良だけだった。
「塩を四つと、海苔塩を六つ下さい」
「ありがとうございます! 少々お待ちください! 塩四、ノリ六、お願いします!」
タオッカが叫ぶと、温まっていた油にじゃが芋が入れらる。玲太郎が明良の傍へ行く。
「ありがとう。最初のお客さんなのよ。ところで誰が海苔塩を二つ食べるの?」
「私が塩と海苔塩を二つずつにしたのだよね」
「そうなの? 数が合わないよ?」
「水伯とバラシーズが塩と海苔塩一つずつね」
「ああ、なるほど」
玲太郎が納得をして微笑むと、明良も微笑んだ。
「もう少し待ってね」
「解った」
明良の笑顔を初めて見た生徒が目を丸くしていた。
「揚げ芋以外は買わないの?」
「折角だから、食堂の方を食べてみようと思ってね。昨年は買い物をして運動場へ行っただけで、食堂は寄っていないし、水伯も今年は食べたいと言っているからね」
「そうなの」
「私はいつも帰って食べているから、食堂の味を知らないのだよね」
「あ、そうだったね。美味しいよ? 物足りない時もあるけど……」
明良が微笑んで「そう」と言っていると、後ろから颯が来た。
「揚げ芋だけにするのか?」
颯を見た明良の表情はいつものそれだった。
「そうだよ。後は食堂で食べるからね」
「他の班の物も買ってくれよ」
「遠慮しておくよ。食堂の品目を制覇しようと思っているからね」
「全部は無理だと思うぞ。そこそこ量があるからな」
「そうなのだね。それでは聞いてからにしようか……」
「そうした方がいいな」
明良は頷くと玲太郎に顔を向けた。
「それで、玲太郎は呼び込みの係なの?」
「今はね。ジャガイモが入ってる鉢が空くまで揚げて、空いたら調理場へ行って材料を切って、空いた鉢を誰かが持って来たら、切ったジャガイモを持って戻って、裏で待機なのよ」
「成程ね。鉢が空いたら係が回るのだね」
「うん、そう。後は接客係と、揚げる係があるのよ。それでね、今日は間食が携帯食になってて、調理室で食べるのよ」
「昼食はどうするの?」
「早く行く人と、遅く行く人と別れてるね。間食が早い人が早く行く事になってるのよ」
「成程。中々有り付けずにお腹が空いたら揚げ芋を買って食べればよいよね」
「あはは。それはよいね」
二人が話している間に颯は水伯達の下へ行っていた。玲太郎は暫く明良と話していたが、出来上がってそれも終了となる。
「みんなにありがとうって言っておいてね」
「うん、それではね」
明良は紙袋を抱えて水伯達の下へ行き、颯を置いて食堂へ向かった。玲太郎とルセナはまた声を張り上げ始めた。
結局、海苔塩に挑戦した人が戻って来て、多目に買って持ち帰ってくれたお陰で、想像以上に早く売り切れた。その分、目の回るような忙しさだったが、玲太郎は楽しんでいた。
「完売したんだったら、後片付けをして観覧する方に回っていいぞ」
颯が言うと、皆が一斉に返事をして後片付けを始めた。
「ルセナとウィシュヘンド君は売上金の計算をして来てよ。釣銭が合ってるかも調べてね」
何故かタオッカが仕切った。
「分かった。ウィシュヘンド、教室へ行こうか」
「うん」
するとケワビムが玲太郎の傍に遣って来た。
「ウィシュヘンド君、余ってる塩とノリ塩、欲しいって言う子で分けてもいい?」
「よいよ」
「ありがとう!」
それを聞いていた生徒が歓声を上げた。ルセナは金の入った箱と伝票を持ち、玲太郎を見ていた。
「思ったんだけど、教室だと紙がないからどうしようか? オレの部屋へ行くか?」
「それじゃあ、僕の部屋へ行こうよ」
「え! いいのか?」
「うん、算盤もあるから、その方がよいかも」
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
颯は聞いていたが、何も言わなかった。玲太郎が颯に視線を送ると、颯は小さく頷いた。
「大丈夫みたいだから行こう」
ルセナに笑顔を見せると、ルセナも笑顔になった。二人は寮長室へ向かった。
玲太郎は寮長室にある自分の机から紙を手にしただけ取り、算盤と鉛筆と消しゴムと定規を持つとルセナを隣室へ案内した。関係者以外でここへ入室した者はルセナが初めてになる。ルセナは寮長室の隣にこんな部屋があるとは思っておらず、圧倒されながらもあちらこちらに視線を送った。
食卓に対面で座り、玲太郎は紙を真ん中に、そして文房具をその横に置いた。そして手を伸ばす。
「伝票は先に僕が計算するね。後で確認してくれる?」
「分かった。それじゃあオレも先に釣り銭と売上金を数えるから、後で確認をしてくれよ」
「うん、分かった」
伝票を受け取ると、真ん中にある紙を三枚取り、画線法で書かれた数量を数字に直して、種類別に紙に書き出し始めた。伝票数は百五十枚にも及ばず、玲太郎の想像よりも早く終わった。
「売り上げは九万一千七百九十金だったのよ」
「もう一回」
先に硬貨を数え終えていたルセナが眉を顰めた。
「九万、一千、七百、九十」
自分が書いた紙から玲太郎に視線を移す。
「本当か?」
玲太郎も顔を上げてルセナを見た。
「計算は二度して同じだったから合ってると思うけど……」
自信なさそうに言うと、ルセナはまた紙を見た。
「現金が五十金足りないわ」
それを書き込み、頬杖を突いた。
「それは困ったね……」
「悩んでいても仕方がない。ないもんはないからな。それじゃあ、交換して確かめ合おう」
「うん」
二人は紙を含めた物を交換した。玲太郎はルセナが使った紙の裏に硬貨を数えて書き出して行く。釣銭は五万金分を用意していた。玲太郎は同じ硬貨を三度数えてから紙に書いていく。それを三度計算して確認した。ルセナ同様、五十金足りない。
「ルセナ君の計算と同じだったのよ」
「それは困ったなあ……」
ルセナは手を止めないで答えた。ルセナが算盤を弾く音が響く。
「うん、こっちもウィシュヘンドの計算で合ってた。やっぱり現金が五十金足りないな」
「五十金も得した人がいたんだね。その人は今日よい事があったから、当分はよい事が起こらないね」
そう言って「ふふ」と笑ってい、立ち上がって寮長室へ向かった。戻て来ると、硬貨を箱に入れようとした。
「ちょっと待て、何をしようとしてるんだ? 持ってる物を見せてくれよ」
手を開いて見せると板銅貨が一枚あった。五十金だ。
「これを入れるよ?」
「え……、いやいや、それはダメだろう?」
身を乗り出して手を左右に振った。
「どうせ誰かが入れる事になるんだから、もう入れておけばよいのよ」
「ウィシュヘンドにはノリ塩と塩を寄付してもらってるし、出すならオレが出すよ」
「それこそダメなのよ。それに海苔塩と塩は父上からだからね。僕じゃないのよ。だから、はい」
玲太郎が意外と頑固な事は知っているルセナは手を開いて受け取った。
「ありがとう。でもこの事はイノウエ先生も含めて、班の全員に言うからな」
「分かった」
玲太郎が微笑んでいると、ルセナは苦笑するしかなかった。
「そう言えば、ウィシュヘンド公爵と一緒に来てた、あのおじいさんと若い人は誰なんだ?」
玲太郎は席に戻って座るとルセナを見た。
「お爺さんは僕のお祖父様で、若い人はお祖父様の護衛の人なんだけどね、バラシーズさんって言うのよ」
「へえ、あの人が前アメイルグ公爵か。侯爵だったか?」
「どっちだろう? 今は公爵だけど……」
「あ、そう言えば、去年もお守りを買いに来てたんだったな。今年も揃って来てくれたんだな」
「そうなのよ」
「今日はウィシュヘンド公爵とヤチヨさんにはあいさつをしに行ったわ」
「いつの間に?」
「ウィシュヘンドがアメイルグ先生とイノウエ先生の三人で話してた間に、サッと行ってサッと戻って来た」
「気付かなかったのよ……」
「早業だったからな。それじゃあ露店に戻って、売上金と釣り銭をイノウエ先生に渡そう」
「うん、行こう」
文房具はその場に置き、必要な物だけを持って退室した。
二人は早い時間に食堂へ行った。二人共、目に慣れてしまっていたのか、白い前掛けを着用したままだった。仕方がなく、そのままで食事を済ませ、食後に茶を飲んで寛いだ。
時間のある二人は、やはりそのままで運動場へ行き、土の像を見て回った。昨年と同じ動物が多かったが、姿勢が違っていて楽しめた。そして泥団子で的当てをして遊び、魔術演技会を観覧するとそれぞれの部屋へ戻った。
学祭は十八時で終了となり、六学年生はそれから後片付けを始める。玲太郎の班はもう殆どを終えていて、露店を分解して倉庫へ運ぶだけだった。颯が露店を魔術で手早く分解すると、十人は二往復して運び込み、解散となった。二十分もせずに終わり、玲太郎はヌトを連れて寮長室へ戻った。
午後の間食まで約三十分あり、少し横になる事にした。ヌトは喜んで枕元に寝転がると直ぐに寝息を立てた。玲太郎はそれを見て微笑んでいる内に眠りに就いていた。
「玲太郎、玲太郎」
夢の中で颯が呼んでいる。返事をしたいが、何をどう頑張っても出来ない。
「玲太郎、起きろよ? 早くしないと間食の時間が終わってしまうぞ?」
(あっ、ご飯!)
開けた目を丸くすると、颯が覗き込んでいた。
「制服のままで寝るなよ」
「あ……うん……」
「しかも前掛けをしたままじゃないか」
肘を突いて上体を少し起こすと、体が軽くなって寝台に座っていた。
「ありがとう」
「どう致しまして。そのままで食堂へ行くしかないな」
「うん、行って来る」
寝台脇へ移動して靴を履き、慌てて出て行った。颯はハソを見て、食堂の方を指で差した。
「ハソ」
「解っておるわ。行って来る」
ヌトの代わりに付いて行った。
(やはり体が小さいままだから、元気そうにしていても昼寝は必須なんだろうな。もう十歳なのよ、なんて言う事もあるけど、精神年齢通りとはならないんだなあ……)
颯は隣室へ行き、食卓に置かれた文房具を持って寮長室へ戻り、玲太郎の机に置いた。そしてまた隣室へ行き、梅湯を飲もうと鉄瓶に水を入れ、焜炉の火に掛けて沸かし始めた。
非日常から日常に戻された生徒の中には、気持ちの切り替えが上手く行かない者もいた。玲太郎は上手く行っている方に入っているが、相変わらず魔石作りで躓いていた。
呪術の六学年の修了試験に合格していて授業には出なくてもよいのだが、ルニリナが魔石作りの練習に尽力してくれる為に欠かさず出席している。
中型の水晶の質を二十段階に分けると、現在は十九の所まで来ていた。後一段階で高品質の小型の魔石作りが可能になると思えば、玲太郎も熱が入った。しかし、ここまで来ると、玲太郎にとって十五辺りから誤差の範囲内で四苦八苦していた。その所為か、集中力が続かずに周りを見回して魔力を含む金属に呪術を掛ける事に四苦八苦している生徒を見て、練習を再開した。
(苦労してるのは僕だけじゃないからね……)
他の生徒とは正反対の事で苦労をしているが、その状態は同じだから、孤独ではない安心感があった。ちなみにルセナはその中に含まれていない。
玲太郎の机に破壊された水晶が積まれていると、その都度ルニリナが傍に来てそれを消去し、新たに水晶の山を築いて行った。
魔術の授業は光の玉の練習を継続していて、顕現させる個数を増やす事に重点を置かれていた。玲太郎はそれをせず、ここでもまた魔石作りの練習を遣っていた。数を増やして行く事の方が玲太郎には容易で、合格点の五十個を優に超える玉を顕現出来る事は慰問で明示していた為、誰も何も言わなかった。
十三月になり、それも中旬を過ぎた頃、玲太郎は漸く低品質の中型、若しくは高品質の小型の魔石が作れるようになった。小型の品質が落ちる物に関してはお手上げ、という事で魔石作りの練習は終了となった。
気付けば期末試験が迫っていて、颯は何を思ったのか、全教科を受けようと言い出し、玲太郎は条件を出して承諾した。喜んだ玲太郎は、どうせ受けるなら満点を目指すと必死になって復習をし他のにも拘らず、全てが満点ではなかった為に切歯した。
悔しい思いをしても、もうすぐ冬休みだと思うと晴れ晴れとした気持ちになったし、それにもう魔石作りの練習をしなくて済むと思うと、天にも昇る心地だった。
終業式を明日に控えた夜、入浴中に玲太郎が締まりのない顔をしていた。
「どうかしたのか? 明日で上期が終わりだから嬉しいのか?」
颯が訊くと、更に目尻を下げた。
「はーちゃん、約束通り、毎日海ね」
「それは構わないんだけど、本当に毎日夜中に起きて行くんだな?」
締まりのない顔を更に緩ませて頷く。
「折角泳ぎ方を覚えたのに、泳いでないと忘れちゃうのよ」
「水伯には話しておかないとなあ……。兄貴にも当然話さないとな」
「ルニリナ先生も誘ってみようよ」
「ニーティも? ……夜中だぞ? 普通は行かないって」
「そう? でも約束は約束だからね?」
「冬休みもルセナ君が来るんだろう?」
「うん。今度は十日ね。就職したら父上の部下になっちゃうから、最後なのよ」
「ルセナ君がいる間、海は休みな。それはさて置き、水伯はサドラミュオ親衛隊に入隊させる積りなんだな」
「そう言ってたけど、どうなんだろうね? 手紙を渡すように頼まれて渡した事があるけど、ルセナ君は就職が決まったって言ってただけなのよ」
「ふうん、そうなんだな。それにしても惜しいよなあ。上学校でもいい所へ行けるだろうに」
「学校に行かなくても勉強は出来るって言ってたからね。それにサドラミュオ親衛隊に入隊するから、敷地内にいる事になるからね、遊びに行こうと思ってるのよ」
「うーん、そんな体力が残っているかどうかだよな。仕事と訓練と勉強をして、慣れるまでは疲労困憊だと思うんだけどなあ」
そう言って親指に人差し指の指先を引っ掛けて力を籠めて弾き、玲太郎目掛けて湯を飛ばした。見事に掛かり、玲太郎は相変わらず頬が緩んでいたが、両手を湯面の上に出したかと思えば、それを激しく叩き続けた。颯は両手で飛沫を遮断して顔を横に向けたが、ルーとツーが跳ねている姿が視界に入る。
「悪かったから止めて、ご免」
玲太郎も濡れていたが、相変わらず笑顔で気にしていないようだった。ルーとツーはまだ跳ねていた。
翌日、終業式の後、教室に戻って長期休暇中の注意喚起を促されて終了した。玲太郎はルセナと一緒に帰寮し、十五月十一日の待ち合わせ時間の確認をして別れた。
ヌトが珍しく起きていて、寝台脇に座っている玲太郎の肩に両肘を置いて頬杖を突き、絡んでいた。
「それにつけても、何故あの小僧が来るのよ?」
「遊びに来るのよ。僕と一緒に過ごすの」
「そうであるか。あの小僧と遊ぶのであれば、わしと遊ぼうではないか。海なぞどうであろうか、行かぬか?」
玲太郎は失笑すると手で口を押えた。
「海って、どうして海なの?」
「わしな! 海で遊ぶ夢を見てな、それを再現したいのであるが、颯は付き合うてくれるであろうか? ハソは大丈夫であろうが……」
最初は勢い良く話していたが、徐々に調子が落ちて行った。
「ふうん、そういう夢を見たの。それじゃあ行かないといけないね?」
「玲太郎は叶えてくれるのであるか? やはり玲太郎、わしが育てただけあるわ」
そう言っているヌトの表情が見えない事が残念だが、楽しそうに「ふふ」と笑っていた。
「そう言えば……、玲太郎と海に行っておった記憶があるな。ま、夢であるが……」
「どんな夢なの?」
「玲太郎があの小僧に泳ぎ方を教わっておるのよ。わしが手解きをすると言うても相手にして貰えなんだわ」
「あははは。そうなの」
「何もおかしい事はないと言うに笑うて呉れるなよ……」
些か不機嫌そうにすると、玲太郎は笑顔のままで顔を少しだけヌトに向けた。
「最近ヌトと話してなかったからね、なんだか楽しいのよ。分かる?」
「そうであるか。わしはいつも玲太郎と話しておるのであるが?」
正面に向き直した玲太郎が鼻で笑った。
「それはきっと夢の中か、独り言になってると思うんだけどね」
「何っ、あれが夢だと言うのか。……若しやして、これも夢ではあるまいな?」
「ヌトはいつになったら目が覚めるの? もう夢の中にずっといるよね」
衝撃を受けたのか、顔を顰めて玲太郎の顔を見る。
「なっ……、え? いやいや、待たぬか。今、只今、現在がまっこと夢の中であると?」
表情が確りと見える訳ではなかったが、口元が綻んでいる事は解った。
「今は起きてるのよ。でも眠ってまた起きたら、これも夢の事にされるから、起きてても眠ってるようなものでしょ? だから、いつ現実と夢の区別が付くようになるのかと思ってね」
「成程? ……実に夢の中ではないのであるな?」
怪訝そうに玲太郎を横目で見る。
「今は起きてるから、夢の中じゃないのよ」
「実であるか?」
「まこともまこと、本当だから安心してよいよ?」
ヌトは頷いた。
「ふむ、それならば信じるのであるが……。よし、眠るとするか」
「はーちゃんがまだだから起きててよ」
「む? 何時もであれば眠られる所であろうが」
「明日から冬休みだからね、眠るなら屋敷に帰ってからにしてくれない?」
「そうであるか? 仕方がない。今暫く起きておるわ」
「それにしても、それだけ良く眠られるよね? 眠り過ぎて目がおかしくならないの?」
「何故目がおかしくなるのよ?」
「ずっと閉じてたら、おかしくなるんじゃないかと思って」
「ま、わし等は子とは出来具合が違うのでな。百年程度の眠りに就いたとて、おかしくなるような目玉ではないのよ」
「なるほど? それじゃあヌトが眠ってる時に、瞼を開いて目を見てもよい?」
「構わぬぞ。乾かぬ程度に頼む」
「分かった。すこぉ~しだけ見て、乾かない内に閉じるね」
冬休みの間の楽しみが、また一つ増えた。冬休みに入るし、ルセナがまた来てくれるし、毎日海に行けるし、魔石作りはもう遣らなくても大丈夫だし、楽しみな事が沢山あって、嬉しくて仕方がなかった。




