第三十三話 しかして二度目で最後の夏休み
玲太郎は臨海学校以来、早寝をしては夜中の厠の後に海へ連れて行って貰い、泳ぐ練習を続けて平泳ぎが出来るようになって喜んでいたのも束の間、気付けば学年末で慌てたが、日頃から勤勉だった事もあり、修了試験も難なく終えて夏休みに突入した。
七月十五日の夜から、ルニリナが家庭教師として屋敷に滞在していた。十六日から夏休みではあるのだが土の曜日という事もあり、明良の授業が開始された。
そして、颯が今夏は仕事をしない事を選び、玲太郎と共に明良とルニリナの授業を受ける事となっていて、玲太郎としては嬉しい限りだった。
しかし、一緒にいても、颯には必要のない授業という事もあり、勉強部屋兼図書室で読書をしているだけだったり、明良の魔術の授業ではハソと一緒に宙に浮いて漂っていたりするだけだった。玲太郎はそれが気になり、つい視線をそちらへ向けて、明良に叱られるのだった。
「颯が近くにいると玲太郎の気が散ってしまうから、何処かへ行っていて貰えない?」
今日も朝から北の畑で、明良が颯に注文を付けていた。
「それは俺の問題じゃないからなあ……。玲太郎が集中すればいいんだよ」
「だって、はーちゃんが気になるんだもん……」
「集中出来ない事を俺の所為にしてはいけないな。兄貴は気にならないだろう?」
「うん、気にならないからね」
「ほらな? 玲太郎が集中すればいいだけの話なんだよ」
「せめて下りて隣にいてよ」
「隣にいたらいたで、何度も視線を向けて来るから一緒だと思うけどな」
そう言いつつも、玲太郎の隣に下りて屈んだ。そして膝に肘を置いて頬杖を突くと、玲太郎が笑顔になる。
「今日は見ないようにするから大丈夫」
「本当だろうか」
小声で颯が言うと、どこからともなく「無理であろうな」と小さな呟きが聞こえて来た。
「うん? なんて言ったの?」
玲太郎は明良と颯を交互に見た。
「何も言っていないけれど?」
「玲太郎の光の玉を早く見たいなあって言ったんだよ」
「それじゃあ頑張るから、見ててね」
「おう」
明良が颯を横目で見てから、玲太郎に微笑み掛ける。
「それでは光の玉を出す呪文を唱えて慣れようね」
ハソ以外は色眼鏡を掛けていた。玲太郎は指輪を嵌めた人差し指を立てる。
「悠揚と享受する光彩は憧憬たる灯となる」
玲太郎の真上に小さな太陽が顕現する。
「うん、先程より小さくなっているね」
「本当?」
「この明るさも、もう少し抑えられるようになるとよいのだけれどね」
「それは難しいね。呪文を唱えると本当に調整が出来ないのよ。小さくなるだけでも奇跡だと思う」
片目を閉じた颯が苦笑する。
「玲太郎、そろそろ消して」
「うん」
頷いた途端に光の玉が消えた。颯は色眼鏡を額に上げて目頭を押さえた。
「あー、まぶし。そろそろ呪文なしで練習を遣った方がいいんじゃないのか?」
「まだだよ。もう少しやらないと、玲太郎の体が覚えないのだよね」
「ふうん」
色眼鏡を戻して玲太郎に顔を向ける。玲太郎は颯を見ていた。
「ごめんね、はーちゃん。頑張って小さくするから見ててね」
「まだ小型の魔石作りに挑戦出来ていないもんなあ。まあ、期待はしないでおくよ。それもなんだけど、責めて明るさを調整して貰えないか? いつも見ている集合灯の明るさくらいにして欲しいなあ……」
「ええ? あれくらいに出来るの?」
眉を顰めた玲太郎に笑顔を見せた。
「出来るよ。ほら」
玲太郎と颯の視線の丁度真ん中に小さな光の玉が顕現すると、玲太郎はそれを突いた。
「何もないね。感触がないのよ」
「光だからな」
「これをどうやって的に当てるの?」
「これではどうにも出来ない。光っているだけだからな。でも玲太郎が出す光の玉なら、光を放つ方向を一方向に、例えば的に向けて玉ごと当てれば、当たった跡は確実に付くぞ」
「そうなの?」
「うん。学院の的なら壊せるかもな。でも基本的に光で攻撃はしない。魔力を相当に使うから無駄なんだよ。目晦ましにはなるけど、それくらいだな」
「ふうん。それじゃあ光の玉を出す練習をしても意味がないんじゃないの?」
「玲太郎、建国祭のウィシュヘンドの花火を見たか?」
「見てない」
「ウィシュヘンドの花火は全て光の魔術だよ」
「えっ、本当?」
「建国祭の時の花火は、王都では火薬を使った花火だけど、ウィシュヘンドは違っていて水伯が作った物なんだよな」
「それは知らなかったのよ……」
「それに、魔石に光を付与して集合灯なんかの照明に使えるからな、きちんと使い熟せていた方がいいと思うぞ」
「そうだね。きちんと調整出来るように頑張るね。それよりも、来年の建国祭は毎日花火を見るから、連れて行って貰ってもよい?」
「玲太郎は水伯と兄貴の三人で過ごすんだろう?」
「え? はーちゃんも一緒はダメなの?」
「建国記念日はばあちゃんとお父様と一緒に王都で花火を見るから、その日以外ならいいぞ。……ああ、来年は駄目だ。それ以降な」
「そう、来年はダメなのね。それじゃあ再来年からね? 約束だよ?」
「解った。ニーティにも声を掛けておくよ。大勢の方が楽しいからな」
二人の遣り取りを見ていた明良が不快極まりない目付きで颯を見ていたが、色眼鏡のお陰で二人がそれに気付く事はなかった。
「はい、雑談は終わり。颯は玲太郎の授業の邪魔をしているの? 私が教えているのだよ?」
二人は明良の方に顔を向けた。
「悪い。玲太郎の光が余りにも眩しくてつい…」
「つい、ではないのだよね。颯はこの時間に新たな物を作るという話だったのではないの?」
「そうだな。その積りだったんだけど、何を作るのか、発想も浮かばないし、閃かないしで思考が纏まらなくて…」
「それならば勉強部屋なり居室なりで思案してくればよいのではないの?」
明良は相手が颯の為に無表情だった。颯は意に介さず、微笑んだ。
「偶には兄弟三人で過ごすのも悪くないだろう?」
「そう言われればそうなのよ。三人で過ごす事なんて、本当にない事だよね。こういう時くらいいたいよね」
颯の言う事に被せて反論していた明良は少し出遅れてしまい、玲太郎に奪われた上に笑顔で言われてしまった。
「まあ、兄貴は玲太郎と二人切りがいいんだろうけど、偶にはな」
「偶にではないだろう、もう二週間もずっとではないの」
「俺だって玲太郎と思い出を作りたいからなあ……。それに久し振りに兄貴に教わりたい」
「私に教わる事などないだろうに、何を言っているの?」
莞爾として明良を見詰めると、立ち上がるついでに玲太郎を抱き上げて歩き出した。
「まあ、いいじゃないか。兄貴を見ていて、ふと何かを思い付くかも知れないからな」
「そういう時が本当に来ればよいね。ほら、玲太郎を下ろして。光の玉の練習を続けるから」
言われた通りに直ぐ玲太郎を下ろした。思いの外早く下ろされた玲太郎は颯の手を握っている。明良はそれを目聡く見付け、嫉妬の炎を燃やした。
明良にとってのお邪魔虫である颯は、週末でも書類仕事を熟している水伯の邪魔もしていた。その間、玲太郎は明良と二人切りで、明良は颯がいる事で溜まっていた鬱憤を発散させるが如く、玲太郎に甘えていた。
膝に座らされた上に抱き着かれ、完全に密着されている玲太郎は何も考えないようにしていた。
(きっとあーちゃんにとってこの時間が大切なんだろうけど、僕以外にも興味を持てばよいのに……)
解放されたい玲太郎はそう思ってしまうと、漫然と部屋のどこかを眺めて思考を停止させる。そして、それも颯が登場すると終了する。
「兄貴、また遣っているのか。抱き締めるのは止めて遣れと何度言わせれば気が済むんだ?」
「颯が口を出す事ではないのだよ」
「僕も膝から下りたい……」
透かさず玲太郎も言い、その言に打ちのめされた明良は微動だにしなくなった。その間に颯が手を貸し、玲太郎は膝から下りた。そして振り返る。
「あーちゃん、ごめんね」
我に返った明良は項垂れた。玲太郎は勉強机の方へ行き、着席すると明良を見る。
「あーちゃん、薬草術の授業でしょ」
「はい……」
落胆している明良は徐に立ち上がり、勉強机に向かった。颯は二人が座っていた長椅子の対面にある方に腰を掛け、二人を眺める。
「颯は夏休みの間、実に何もせず、こう遣って玲太郎の傍におる積りであるか?」
「うん」
隣にいるハソを見ずに頷いた。
「退屈極まりないわ……。この前の休日のように出掛ける仕事を請けぬか」
「黒淡石を売り出したからな、稼ぎは上々でそういう類の仕事を請ける必要がないんだよ。それに、彼方此方行ってもハソは忘れるだろうが。何処へ行ったのか、もう憶えていないだろう?」
「むう……」
図星を突かれてしまい、黙るしかなかった。
「其処、煩いよ」
明良に注意を受け、颯は無言で立ち上がると本を探しに本棚の中へ行き、ハソはそれに付いて行った。
平日のルニリナの授業の時は、颯だけが呪いを教授されているようで、玲太郎は羨ましかった。ルニリナはその颯がいる場所と玲太郎のいる勉強机を、忙しそうに往復している。
休憩になると当然ながら三人で過ごすのだが、颯がルニリナと楽しそうに話している様子を見ると、玲太郎はとても詰まらなかった。それに気付いていたハソは莞爾として見ていて、ノユはそういった些末な事は気にならないようで二人の会話を聞き、ズヤはこの場にいなかった。
「それで玲太郎、ルセナ君は何時来るんだった?」
会話に参加出来ていなかった玲太郎は、話を全く聞いていなかったし、颯の声も届いていなかった。茶器を持ったまま、それを凝視している。
「玲太郎?」
颯は左隣にいる玲太郎の顔を覗き込んだ。俄に颯が視界に入って来て、驚いて体が引き攣った。
「わっ」
体勢を戻した颯が微笑む。玲太郎は颯を見上げた。
「考え事でもしていたのか?」
「ううん、ぼんやりしてただけ。何?」
「ルセナ君が来るんだろう?」
「あ、うん、そうなのよ。あーちゃんと一緒に迎えに行くんだけどね、ここに一週間泊まるのよ」
「何時来るんだ?」
「八月十五日。二十三日にあーちゃんが送ってくれるのよ」
「十五日って、曜日はなんだっけ……、土か。土の曜日に来て、二十三日だから来週末の土の曜日に帰るのか。成程。その間、ニーティはどうするんだ?」
「いつも通りに家庭教師ですよ。ルセナ君も交えて、になりますけどね」
「俺はどうしようか。いない方がいいような気がするなあ……」
渋い表情の颯を見た玲太郎は颯の膝に手を置いて揺すった。
「え? よいじゃない。一緒にルニリナ先生の授業を受けようよ」
「颯は話を聞いた時から、逃げる気でいたのではないのですか?」
「あ、気付いてた?」
「日にちを覚えていませんでしたからね」
ルニリナが穏やかに微笑んだ。颯は苦笑する。
「ルニリナ先生だけならまだしも、イノウエ先生までいたらルセナ君も萎縮してしまうだろうからな」
「それでは颯はあれよ、あれ、……そうであった、仕事を請けに行こうではないか」
俄に会話に入って来たハソは満面の笑みを湛えていた。
「ハソはまたその話かよ……」
「仕事を受けるって何?」
颯は玲太郎を横目で一瞥をくれ、ハソを見ながら溜息を吐いた。
「商業組合という施設があって、其処にこれを探して下さいとか、これに似た何かを見付けて来て下さいとか、色々な依頼があるんだよ。それを引き受けて彼方此方歩き回るんだよ」
「ふうん、そんな所があるの。ちなみに何を探してたの?」
「それは契約上言えないけど、色々な場所を歩き回ったよ」
「どうして教えてくれなかったの?」
「玲太郎が行きたいって言うに決まっているからだな」
「確かに。……行きたい!」
目を輝かせた玲太郎を見て、颯は脱力した。
「ほらな?」
そう言って鋭い目付きでハソを見る。
「よいではないか。皆で行こうぞ」
「わしは行かぬ」
ノユが透かさず言うと、ルニリナも頷く。
「私も遠慮しておきますね」
「ルセナ君がいるから僕はいけないけど、機会があったら連れて行ってね」
「そうだな、機会があればな」
微笑んで玲太郎を見る。
「きちんと機会を作ってね」
「うん、解った」
「じゃあ約束、指切りね」
玲太郎は小指を立てて突き出すと、颯が左手の小指で指切りをする。
「約束な」
玲太郎は満足そうに笑顔を見せた。
「わしが傍におる間に行って貰わねば困るぞ」
「それは約束出来ない」
それを聞いたハソは真横に倒れてしまった。
三日後の夕食時にルセナの話題が出た。
「あ、そうだった。いい機会だから言っておくわ。ルセナ君が来ている間、俺は此処に来ないから宜しく」
一番驚いたのは玲太郎だった。口を開けて颯を見上げていた。
「うん、解った。夕食時にルニリナ先生と私、その上イノウエ先生までいてはね」
「颯はその間、どこで夕食を済ませる積りなの?」
明良が納得すると、水伯が訊いた。
「お父様と一緒に何処かで食べる」
簡潔に答えると、水伯が軽く二度頷いた。
「そう、ガーナスと一緒なのだね」
「和伍へ旅行する事になっているんだよ」
「え! 和伍へ行くの?」
玲太郎が声を上げると、颯が顔を向けた。
「うん、一週間な。夏休み中で宿泊施設の予約が取り辛かったんだけど、まあ、なんとかなったよ。土産は楽しみにしておけよ」
「お風呂は一緒に入らないの?」
「ルセナ君と入るだろう?」
「ルセナ君が入らないのならば、私が一緒に入るからね」
明良が笑顔で言ったが、玲太郎は颯に顔を向けたままだった。
「何時も行く島とは別の島へ行くから、土産を楽しみにしておけよ?」
「う、うん……」
躊躇しながらも頷くと、視線を落としたまま正面を向いた。水伯はそれを見て苦笑する。
「バラシーズさんにも休暇を取らせないとなあ」
自分の言った事に小さく頷いて豚肉の揚げ物を頬張った。
「バラシーズはきちんと休暇を取っているよ」
手で口を覆うとそう言った明良を見る。
「……長期休暇だぞ?」
「それは、……なかった?」
「ないって言っていたよ。本人はそれでいいとは言っていたけどな」
「そう。行き先が和伍ならば一緒に行きたいだろうに」
口の中の物を飲み込んだ颯は、直後に味噌汁を飲んだ。
「うーん、和伍なら行きたくなるもんだろうか……」
明良の言に疑問を持ちつつ、味噌汁の具を持ち上げる。
「私なら付いて行きたいですけどね」
「ニーティは和伍が好きだから解るけど、バラシーズさんはそうでもないと思うんだけどなあ」
ルニリナを一瞥すると、持ち上げていた具を頬張った。
玲太郎は入浴中に良く話すのだが、今日は静かだった。ルツは玲太郎の周りを元気に泳ぎ回っている。颯も無言で玲太郎を見ていた。
(……まあ、こんな時もあるか)
玲太郎は颯に背を向けて湯船に浸かっていた。颯が何も言わない物だから、余計に話す切っ掛けを失ってしまっていた。時間が経つに連れて暗い気持ちになり、遂には涙が頬を伝った。玲太郎が肩を震わせているのを見て、苦笑すると傍へ行った。
「泣く程の事か?」
乱雑に頭を撫でると、玲太郎は右手で涙を拭った。
「……泣いてないのよ」
言い終えた途端、魔術で反転させられ、颯と対面した。
「どれどれ? 目が赤いなあ。目が潤んでいるし、これは泣いたな」
覗き込んで来る颯を一瞥した玲太郎は、口を尖らせて視線を右へ逸らせた。
「で、どうして泣いたんだ? そんなに辛い事があったのか?」
颯を一瞥すると俯いた。
「だって、ルセナ君がいる間、来ないって言うんだもん……」
小声で言ったが、颯にはきちんと聞こえていた。
「うーん、俺は担任だから、いない方がいいと思うんだよな。お父様も引き籠り勝ちだから、外に連れ出すいい機会かと思ってな」
「担任って、もう決まってるの?」
「玲太郎が進級するんだから、当然そうなるだろうなあ。俺はその為に教師になったんだからな」
「そうなの」
顔を上げて颯を見ると目が合った。颯は微笑み、玲太郎は場都合が悪そうに顎を引いて上目遣いになった。
「会えない期間は一週間だから、その間はルセナ君と仲良くするんだぞ? 兄貴にも冷たく当たるなよ?」
「うん……」
「ん」
颯が両手を少しだけ広げた。
「何?」
「暫しの別れだからな」
玲太郎は膝で立ち颯の方へ行った。颯は玲太郎を抱き締めると、背中を指先で優しく叩く。
「いいか、兄貴には冷たく当たるなよ?」
「それ、さっきも聞いたのよ」
「しつこく言っておかないとな」
「ふうん……」
「ほら、そろそろ体を洗って来いよ」
そう言って玲太郎を離すと、玲太郎はまだ気持ちが暗く、そんな気力が湧かなかった。
「よし、今日は俺が洗うわ。久し振りだな」
立ち上がり際に玲太郎を抱き上げて浴槽を出た。玲太郎はその後、為されるがままだった。
翌日、颯は出発前日だと言うのに朝食前に遣って来て一緒に朝食を摂り、水伯との魔術の練習の邪魔を大いにし、水伯から叱責を受けても悪戯少年よりも質が悪く、笑顔で遣り過ごした。
そうこうしている内に朝食を済ませた明良が遣って来る。授業前に四人で話し、明良が仕事をしにイノウエ邸へ帰るとルニリナの授業が始まった。颯は朝と打って変わって真面目に授業を受け、逆に玲太郎の気を惹いてしまったが、ルニリナはそれを叱る事なく、微笑ましく見守った。
十時の間食で食堂に集まり、颯はいつも通りに八千代と会話を楽しんでいた。時折それに水伯が加わる。玲太郎は無言でその遣り取りを聞き、寂しそうに微笑んでいた。
昼食までの授業もまた真面目に受けている颯に、何度も視線を奪われた玲太郎は勉強が手に付かなかった。十分も経たない内にルニリナが決断をする。
「玲太郎君、今日はもう勉強を止めて、三人で外へ散歩に行きませんか?」
「え?」
ルニリナを見上げると、颯を一瞥した。颯は話を聞いていないようで帳面に何かを書き込んでいた。ルニリナが颯に顔を向けると、玲太郎もそうする。
「颯、颯」
「うん?」
ルニリナに呼ばれて顔を上げた。二人に見られている事に気付く。
「なんだ? どうかしたのか?」
「今日は勉強を止めにして、散歩に行きませんか? 出来れば町の方まで」
「うん、解った。何処へ行くんだ?」
ルニリナは玲太郎に顔を向けた。
「どこに行きたいですか?」
俄に話を振られた玲太郎はルニリナを見た。
「僕が決めるんですか?」
「はい。行きたい所はありませんか?」
「何処へ行くかは知らぬが、わしも行くぞ」
「わしも付いて行く」
ハソに続き、ノユも言った。玲太郎は思わず微笑んだ。
「それじゃあウィシュヘンド地区で、店を見て回りたいです」
「解りました。颯、行きましょうか」
「はいはい」
颯が席を立ち、玲太郎もルニリナの傍へ行った。玲太郎を真ん中にして手を繋ぐと、ハソとノユが玲太郎に触れた。
「構わぬぞ」
「わしも」
「よし、行くか」
勉強部屋兼図書室から三人と二体の姿が消えた。
翌日、颯が朝から来なかった。早朝にガーナスと和伍へ出発した為、来る筈もなかった。昨日は思い掛けず楽しい時間が過ごせた玲太郎は、寂しい気持ちもあったが、十四時にロメロニク州のクミシリガ湖沿いにある漁村へ、明良と共に向かった。
明良は早目に出発して玲太郎と空の旅を楽しんでいたが、玲太郎は早く目的地に到着して欲しかった。
珍しく箱舟に乗っている所為か、落ち着かなかった。そのような素振りを見せる玲太郎を見て、明良は下見をしていたルセナが住むミミン地区の船着き場へ下りた。
ロメロニク州はロデルカ州と隣接している割には貧しく、クミシリガ湖沿いに寂れたような漁村が点在していて、ミミン地区はその内の一つだった。下りる際、畑も見えたが農業が盛んといった雰囲気ではなかった。ウィシュヘンドにもこういった村があり、玲太郎が驚く事はなかったが、何か感じる物があったのか、些か神妙な面持ちとなっていた。
玲太郎が箱舟から降り、明良もそれに続いて、古い桟橋や停泊している船を眺めていた。
「またクミシリガ湖で釣りをしたいね」
思わず眉を寄せた玲太郎は明良を見上げた。
「あーちゃんは一杯釣ってたけど、僕は坊主だったんだからね」
「ルツを二体も釣ったじゃない。大変な釣果だよ」
「でも普通の人には見えないでしょ。それに食べられないのよ」
不満そうに言うと、明良は微笑んだ。
「タンモティッテは食べられただろう?」
「自分で釣った魚を食べたかったのよ」
「次は釣れるかも知れないよ?」
「それなら海で釣りをしてみたいのよ。ダメ?」
「駄目ではないのだけれど、次は水伯も一緒に行けるとよいね」
「そうだね。父上も一緒っていうのはよいね」
漸く笑顔を見せた玲太郎を見て、明良は満足そうに微笑んで手を出すと、玲太郎がそれを取ろうとした瞬間、馴染みのある声が聞こえて来た。
「お~い! ウィシュヘンドー! こんにちは!」
二人が振り返るとルセナが駆け寄って来ていた。
「ルセナ君!」
玲太郎は明良の手を取らず、ルセナの方へ向かって行ってしまった。明良は間の悪さに苛立ちを覚えたが、当然ながら表情には出さなかった。
「久し振りだね」
笑顔の玲太郎を見たルセナも笑顔で頷く。
「本当にな。でもいいのか? 一週間も泊まって」
「よいのよ。父上も大賛成してくれたからね」
傍に明良が来ると、ルセナが明良を見た。
「アメイルグ先生、今日はよろしくお願いします」
笑顔のない、いつもの無表情で頷く。
「今日は。ウィシュヘンドまで直ぐだからね」
「はい」
「それじゃあ行こう! あの箱舟だよ」
「おい、ちょっと待てよ」
箱舟を指で差し、駆け出した玲太郎を慌てて追った。明良は深呼吸を一つして徐に歩き出した。「玲太郎に出来た、初めての真面な学友だから、それなりに扱うようにな」と颯に釘を刺されていたのだが、それなりの扱いという物がどういう物なのか、今一理解出来ていなかった。
(それなりという程度が難しいね……。生徒なのだから、そのように接しておけばよいよね)
箱舟の後部座席の乗り込んだ二人を見てから操縦席に着く。玲太郎が隣にいない寂しさを堪え、空高く上昇した。
今日は土の曜日で、ルニリナ先生の授業がない。いつもなら明良と過ごしている時間だが、長椅子にルセナと向き合って座っている。ルセナがいるからと言って遠慮する明良ではなく、当然のように同席していた。
「あーちゃん、悪いんだけど、その、……今日は遠慮してもらってもよい?」
申し訳なさそうに玲太郎が言うと、徐に目を丸くして行った。これ以上開かないという所まで来ると、そのまま固まった。
「今日だけじゃなくて、明日も遠慮して欲しいのよ。本当にごめんね?」
玲太郎の言が耳に届いているのかどうかは判らなかったが、目を閉じ、一呼吸置いて目を開けた途端に立ち上った。
「解った。それでは食事の時にね」
そう言うとルセナに軽く辞儀をして勉強部屋兼図書室を後にした。そんな明良の向かう先は、八千代の部屋だった。
「ルセナ君、ごめんね。きゅう屈だったでしょ」
「いや、大丈夫だぞ。アメイルグ先生もいて良かったのに」
「え、そうなの? でも、僕が嫌かも」
苦笑する玲太郎を見て、ルセナは微笑んだ。
「アメイルグ先生って、ウィシュヘンドの事が本当に好きなんだな」
「そうなのよ。びっくりするよね。僕が一番びっくりしてるくらいなんだけどね」
「そうなんだ。それにしても、ウィシュヘンド公爵もカッコいいよな。あんな派手な服を着こなせるくらいだから、本当に凄いわ」
些か興奮気味に言うと、玲太郎は苦笑する。
「派手になったのは最近なのよ。それまでは真っ黒だったんだけど、どうしてあんな服を着るようになったんだろう? まあ、それはよいとしても、僕は黒尽くめの父上の方が好きなのよ」
「黒尽くめかあ。……でもあの派手なのも似合ってたぞ。うちの親父と大違い」
「ルセナ君の父上はどういう感じなの? 漁師なんだよね?」
「そう、漁師」
頷くと、視線を逸らして「うーん」と唸った。
「どんな感じかって言うと、まず、がさつ。酒を飲んで絡んで来るだろ、妹をでき愛してるだろ、それで母ちゃんに甘やかし過ぎって怒られてる。自分は漁師になるつもりで勉強はおろそかにしてたから、オレに強要する事はないな。小さい頃から漁に連れてってくれてたし、泳ぎも教えてくれたよ。まあ、いい親父なんだと思う」
「そうなの。酒を飲んで絡んで来るってどんな風に絡まれるの?」
ルセナは顔を顰めた。
「そんな事を聞きたいのか? タチが悪いんだぞ。肩を組んで来て、母ちゃんの若い頃の話を延々と聞かされるんだ。どうやってくどいたかとか、母ちゃんのその時の反応とか、いーっつも同じ話をしやがって……」
「あはは。仲良しなんだね」
楽しそうな玲太郎を見て、ルセナの表情が和らいだが、何かを思い出した表情に変わった。
「そうだ、タンモティッテを食べた事を話したら、物凄くうらやましがってたよ。クミシリガ湖で漁師をしてる連中は、それを釣り上げたいと夢を見てるからな」
「そうなの? タンモティッテは美味しかったよね」
「そうだな」
「ルセナ君も漁師を目指すの?」
「まさか! 魔力が両方とも平均以上だからな、いい所に就職するつもりだよ。本当は騎士科のある所に入学したかったんだけど、試しにカンタロッダ下学院を受験したら受かっちゃって、受けた中で一番の学校だから入学したんだよ」
「そうなの」
「うん。貴族がいるからどんなものかと思ったけど、威張り散らしているだけだと分かって、幻滅したもんだよ。でもウィシュヘンドは違うな。普通の貴族と全然違う」
「元々は和伍出身なのよ。だから本当は貴族じゃないの。父上に養子にしてもらって、貴族になっちゃっただけなのよ」
「え!? そうなのか?」
ルセナは心底驚愕した。
「そうなのよ。それでね、アメイルグ先生とイノウエ先生は、血の繋がった僕の兄なのよ。ルセナ君にはきちんと話しておこうと思ってたんだけど、やっと言えた」
そう言って微笑んだ。ルセナは驚きはしたが、色々と納得が出来て腑に落ちた。
「ああ、そうなんだな。どうりでイノウエ先生と雰囲気が似てる訳だ」
「え! イノウエ先生と似てる?」
「顔は似てないけどな」
玲太郎は思わず苦笑した。
「なんだぁ、顔は似てないんだね」
「それじゃああれか、ウィシュヘンドもイノウエ家の血が流れてるって事か」
「そうなの。本当の母親は和伍人でね、父親がイノウエ家の人なのよ。でも僕、四歳になる前に覚醒しちゃって、魔力量が多過ぎて父上の養子になったんだって」
「あ、そういう事か。……あ、そう言えば、ウィシュヘンド公爵も相当の魔力持ちっていう話は授業で聞いた事があるわ」
頷くとルセナを見詰めた。ルセナは訊きたい事が出来たが訊か事もなく、微笑んでいるだけだった。話したかった事が話せた玲太郎の笑顔は、屈託のない物だった。
昼過ぎには明良に付き添って貰って北の畑へ行き、使える魔術を片っ端から使った。ルセナは遣りたい放題に出来た事は初めてだった。温室にも案内され、サドラミュオミュードを見て、華やかな花よりも芳香に感動した。夜は八千代の料理に感動して「うまい!」を連呼して、八千代を喜ばせていた。その後は玲太郎と一緒に入浴し、ルツがルセナの周りを泳ぎ回っていたが、ルセナがそれを見る事は出来なかった。
入浴後、白湯を飲みながら話をして、就寝する前に勉強部屋兼図書室で本を物色し、寝室へと向かった。ルセナは玲太郎の寝台を使用し、玲太郎は颯の寝台を使用する。二人は読書を始めたが、案の定、玲太郎が先に眠ってしまった。ルセナは寝台から下りて玲太郎の枕元の照明を消し、寝台に戻ると集合灯を消した。それから暫く一人で読書を続けたが、眠気に襲われて枕元の照明を消して目を閉じた。
ルセナは今日一日あった事を思い出していた。色々と衝撃を受けた一日だったが、一番衝撃を受けた事は、明良から色眼鏡を渡され、何かと思えば、練習中と言う光の玉を見せられた事だった。黒の色眼鏡を掛けていても眩しく感じたそれは、本当に只の光なのかと疑問に思う程だった。
(あの中に手を突っ込んだら、どうなってたんだろ? 熱いのか? それとも何も感じないのか? 光の玉は四月くらいから練習を始めてたけど、ウィシュヘンドは別の事をさせられていた理由が分かったな。魔力量が多いってのも、本当に大変なんだな……。それにしても、和伍の田舎料理だって言ってたけど、ミソが本当にうまかったな……)
八千代の手料理を思い出し、心中が穏やかになると眠りに就いた。
翌朝、玲太郎に起こされたルセナは、本当に六時前に起こされて寝惚けたままで着替え、洗面所へ行って歯磨きと洗顔をして食堂へ連れて行かれた。
「ルセナ君、おはようございます」
ルニリナの顔を見て目が覚めた。
「おはようございます」
ルセナは颯の席に着席する。ルニリナの隣だが、明良ほど威圧感はない為、まだ気楽だった。
「おはよう。良く眠られた?」
「おはようございます。良く眠りました」
八千代に笑顔を向ける。ルニリナがいる間は席がずれて、八千代は明良の左隣に着席している。ルセナは玲太郎の方に顔を向けた。
「アメイルグ先生はいないのか?」
「うん、アメイルグ先生はね、自宅で朝食を食べてから来るのよ」
「ああ、そうなのか」
「うん、そうなのよ」
水伯がいない事が気になったが、それは聞けなかった。しかし、それも直ぐに理解する事になる。
程なくして水伯が台車を押しながら入室すると、「お早う」と挨拶をしてから給仕を始めたではないか。皆が口々に挨拶をしていて、便乗して挨拶をした。
「お代わりはあるから、遠慮なく言うようにね」
水伯は焼き魚と野菜の一品が載っている一皿を、ルセナの前に置きながら言った。ルセナは水伯を見上げる。
「ありがとうございます」
一気に緊張感が増したが、水伯の柔和な微笑みを見て少しだけ緊張が解けた。
「朝はね、大体が焼き魚なのよ」
横から玲太郎が言うと、ルセナがそちらを見る。
「家は毎食魚だよ」
「お父さんが漁師だから?」
「そう」
「湖の魚ってどうやって食べるの?」
「焼いて、サンダって言う柑橘類があるんだけど、それをかけて食べるんだよ」
「へぇ! サンダね。初めて聞いた」
「香りが良くてロメロニクでは一般的な柑橘類なんだけどな。……魚は、後は煮たり、汁の具にしたりだな」
「海のお魚と変わりないね」
「この魚は海の魚?」
「うん、そう。これはねぇ、鯖なのよ」
「サバかあ。クミシリガ湖が近いから、海の魚は食べる機会がないんだよな。臨海学校で食べた魚も、海の魚だよな?」
「うん、そう言ってたね」
「海が近いんだから、当然か」
「ふふ、そうだね」
水伯は二人が会話している事もあり、間に入らないように給仕を続けた。八千代は玲太郎にも友達が出来た事を心底喜んでいて、その会話を嬉しそうに聞いている。ルニリナは並んでいく料理に目を奪われていた。
今日も今日とて明良がいて、それも朝から北の畑へ向かった。玲太郎の要望で土の像を造る事になった。ルセナは繊細な魔力操作を見せ、精巧な動物の像を幾つも造ったが、玲太郎は巨大な動物の像を造っていた。
「どうしてそんなに大きくなるんだ?」
「細かい所をきちんと再現しようと思ったら、こうなっちゃうのよ」
馬のたてがみや尻尾が風に靡いている様は、本物と遜色ない程に穏やかに風が吹いているようで、近くまで見に行ったルセナは思わず見入ってしまう。
「玲太郎は毛の一本まで再現しようとするからね。もう少し小さくても出来なくはないのだけれど、まだ其処までの魔力操作が出来ないという事なのだろうね」
「うーん、まだ小型の魔石作りを成功させてないからね。これが今の限界なんだね」
「そうなるね」
戻って来て玲太郎の隣に立ったルセナが玲太郎に顔を向けた。
「……ウィシュヘンドは付与術の授業の時、練習してるのは中型だよな?」
玲太郎もルセナに顔を向ける。
「そうなのよ。中型の水晶を使ってるんだけどね、ルマービ先生が作ってくれる水晶は高品質じゃないから難しいのよ。それも小型の水晶の高品質に近いから本当に難くて……」
「ああ、それでか。納得したわ。魔力量が多いのも、本当に大変なんだな」
「そうだね。みんなと逆の事が出来ないから、頑張らないとね」
そう言って微笑んだ玲太郎を見て、ルセナも遣る気が湧いて来た。
「よし、それじゃあ、オレはもっと細かく像を造るぞ!」
俄然張り切り出して、幾つも像を造った。造る度に近くへ見に行き、自分で改善点を見出し、それを修正して行った。玲太郎も負けじと小型化を目指して練習に励んでいた。
(一人加わるだけで遣る気がこうも変わる物なのだろうか。……王弟相手だとこうも行かないだろうけれどね。やはり貴族然とした相手は苦手なのだろう。それもこれも颯の立居振舞の影響なのだろうね……。私と二人切りの時も、これ程の遣る気を見せて貰えるとよいのだけれど、でも機嫌良く遣って貰える方がよいね。……それにしても何故今更土なのだろうか? 石像に挑戦してみようと思わないのだろうか? 玲太郎が遣る気を出しているから言わないでおくけれど……)
この後も、水を差したくなる衝動を抑えていた。玲太郎の笑顔を見れば、それも容易に出来てしまう明良だった。
勉強部屋兼図書室に戻ると、玲太郎が真顔で明良を見る。明良はその瞬間に溜息を吐いた。
「解りました。それでは十時にね」
「ごめんね、あーちゃん。ありがとう」
笑顔で言われてしまうと、明良の傷はより一層深くなった。そして今日もまた、八千代の邪魔をしに行く。八千代の部屋の扉の前に立ち、扉を軽く二度叩く。
「私」
直ぐに開扉され、八千代が立っていた。明良を見て微笑むと、そのまま椅子へ向かった。明良は入室して閉扉する。
「あら、来たの? また玲太郎に追い出されたの?」
「うん。友達の方がよいみたいだね」
「あの中に交ざるには、明良は育ち過ぎてるから仕方がないね」
そう言って立ち止まる。椅子に座らず、振り返った。
「私の玲太郎なのに……」
いつもの無表情で臆面もなく言った。八千代は苦笑する。
「また言ってる。玲太郎は玲太郎の物でしょ。それで、今日も刺繍?」
「今日は刺し子にしようと思う」
「そう、分かった。それじゃあ生地を選ばないとね」
「うん、お願い」
二人で並び、棚から生地を物色し始めた。
「本当に生地が増えたね。これだけあると、選ぶだけでも一苦労だね」
「それもまた楽しみの一つだよ。これにする?」
「これは色が薄過ぎない?」
「またそんな事を言って。たまには違う色を選びなさいな。昔は良く青や緑や橙を着ていたじゃないの」
「青や緑や橙ね……。それでは生地を薄い色にして、糸を紫にしよう」
声が弾んでいて、八千代は苦笑した。
「玲太郎の色がないから、また自分で出すの?」
「そうなるね」
「そうなると、選ぶ意味がないじゃない」
「生地はこの中から選んで、糸を出すよ」
「でも、見ての通り、薄い紫系はないよ? あっても柄物だからね」
「水色を選ぶからよいよ」
「それなら白にすればいいんじゃないの?」
「これにする」
明良は譲らず、水色の生地を指差した。八千代はそれを取り出す。
「それで、糸は自分で出すんだよね?」
「出すよ」
言い終える前に、掌に烏羽色の糸が現れた。無表情ながらも得意そうに八千代を見ると、八千代はまた苦笑した。
「後は明良が友達を連れて来てくれれば、安心して死ねるんだけどね」
「それは昨日も聞いたよ。その上で、玲太郎がいるから必要ないと言ったよね?」
「……そうだった?」
「そうだよ。玲太郎は弟でしょと言っていただろう?」
「実際そうじゃない」
「それはそうなのだけれど、玲太郎が独立するまではこのままでよいと思っているから、それでよいと思わない?」
「思わない。それとこれとは別だよ、やっぱり」
机に置かれた物を端に積み上げ、水色の生地を広げた。
「どれくらいの大きさにする?」
「それでは、この食み出ている分を貰うよ」
「正方形じゃないけどいいの?」
「うん、構わない」
「それじゃあ自分で切って。裏地はどうする? 綿は入れる?」
明良は半端な分を切り取り、それを残して生地を畳んだ。
「裏地は白にして、綿は入れたい」
「分かった。持って来るね」
渡された水色の生地を戻して、白い生地と綿を持って来た。綿は平らにして水色の生地よりやや小さ目に切り、白の生地も同様にした。
八千代が長椅子を占拠していて、明良は一人掛けの椅子に腰を掛ける。明良は七宝繋ぎで下書きを魔術でしてしまい、八千代は刺繍の続きを再開した。二人は向かい合って、静かに刺し続ける。
四兄弟の内、先の三人は我が子も同然で一様に可愛かった。それとは別に、八千代に初めての子育てを体験させたくれた子が明良で、思い入れも一入だったのだが、それは噯にも出さなかった。
(それにしても、明良のこの執着のしようったらないね。ケイちゃんが亡くなって笑顔が消えてたから、それを思えば、玲太郎が産まれてくれて良かったんだろうけど……。それにしても、悠次がいたらどうなっていたんだろうね)
八千代は手を止めたと同時に思考も停止した。小さく深呼吸をして、再び手を動かし始めた。ちなみに八千代にとっての玲太郎は、完全に孫だった。
十時の間食後、明良は八千代と一緒に散歩に出掛け、玲太郎を煩わせる事はなかった。玲太郎とルセナは水伯と共に居室で過ごした。ルセナは緊張していたが、いつもの柔和な微笑みでルセナに色々と訊いていた。
「それでは学院を卒業したら、就職するのだね?」
「はい、そうです」
「僕と一緒なのよ」
真面目な表情をしていたルセナが驚いて玲太郎を見た。
「え、ウィシュヘンドも就職するのか?」
「正確には勉強を続けるんだけどね。学校に通ってたら呪いを習えないでしょ? だから行かないで、呪いを習うのよ」
「ああ、そういう事な。就職するのかと思って焦ったわ」
「紛らわしくてごめんね」
「それにつけても、ルセナ君は何処に就職するのか、もう目星を付けているのかい?」
「いえ、それはまだです。でもカンタロッダ下学院を卒業すれば、平民でもそれなりにいい所に就職出来ると思うんです」
「そうだね。魔力量も素晴らしいし、質も高いものね」
「ウィシュヘンド公爵にそう言ってもらえるのは本当に嬉しいんですけど、上には上がいますから」
そう言って玲太郎を一瞥する。
「お……僕なんて、まだまだです」
「そうなのだね。それで、希望はどういった職種なの?」
「第一希望は魔術騎士です。第二希望は魔術師の見習いになって魔術師になる事です。第三希望は……、薬草師でしょうか」
「成程。治癒師や付与師や呪術師を目指そうとは思っていないのだね」
「はい、そうです。妹を上学校に行かせてやりたいので、僕のやりたい事と、稼げる職業が合っているといいなと思ってます」
「妹さんがいるのだね。今は何歳なの?」
「五歳です」
「五歳ね。まだまだ可愛い頃だよね」
「父上、さっきから質問ばっかりなのよ。どうして?」
玲太郎が困惑して話を止めた。
「うん、そうだね。ご免ね。玲太郎の初めての学友だから、ついね。友達は幼馴染がいるだろう? だから初めてではないにしても、此処に泊める程の友達だから気になってしまってね」
柔和に微笑んでいる水伯を、少しばかり厳しい目で見ていた。
「ふうん……。でも質問攻めは良くないと思うのよ」
そう言った玲太郎の肩に手を置いた。玲太郎はルセナに顔を向けた。
「オレは構わないぞ。ウィシュヘンド公爵と話せるんだから、なんでも答えたい」
興奮気味に目を輝かせているルセナを見て、玲太郎は苦笑した。
「そうなの? それならよいけど……、嫌な事には答えなくてよいからね?」
「そういう時は答えたくありませんって、ちゃんと言うから大丈夫だよ」
そう言って屈託のない笑顔を見せた。玲太郎は一応は納得したが、内心ではし切れていなかった。
「それでは質問を再開するね。騎士団の募集がなければ、第二希望になるのだよね?」
「そうなりますね」
「やはり王宮は無理にしても、宮殿とか王立とか、王都とか、その辺の騎士団を目指しているのかい?」
「いいえ、貴族が多くいそうな所は行きたくないんです。学校で十分、あいつらのやり口を見て来たんで、もう腹一杯です。どこか地方の騎士団の方がいいと思ってるんです」
「成程……。何処かの騎士団に入団するよりも、魔術師の見習いになる方が難しいと思うのだけれどね」
「そうなんですか?」
「うん、門弟を抱える魔術師がそもそも少ないのだよね。しかもあれ等は大して凄くないのに、研究費と称して浪費するだけの輩が多いのだよね。詐欺もよい所だよ。ウィシュヘンドにも過去にいたのだけれど、真面な仕事をしてくれた魔術師は二人程だったよ」
「今ではもう雇ってないんですか?」
「研究者は雇っているけれど、魔術師は雇っていないね。無駄だもの」
ルセナは衝撃を受けていた。
「それじゃあ、希望を変えないといけないですね……」
「ルセナ君が魔術師になったとして、多大な功績を残して、魔術師の何たるかを世界に示せばよいだけの話ではあるのだけれどね」
ルセナは両手を振って、頭も横に振った。
「それは無理です。オレにはそこまでの才能はないですから」
「そう?」
今度は大きく頷いた。
「そうです。それに、魔術師の見習いを第二希望に入れるのは止めます」
「私は薬草師をお勧めするけれどね。魔術騎士は厳しいよ? 騎士の世界は実力主義だからね、平民同士だとしても醜い争いが待ち受けているのだよね。手柄を横取りする者、先輩だからと威張る者、良からぬ道に誘う者、真面目の皮を被った怠け者、それは身分に関係なく、色々な所に、色々な者がいるからね。学校であったような事が、身分も関係なく、大人の世界にも等しくあるのだよね」
「そうなの……。嫌な人はどこにいるか分からないんだね。僕も気を付けないと……」
先に口を開いたのは、暗い表情をした玲太郎だった。水伯は玲太郎を見て柔和な表情になる。
「玲太郎は雇う側なのだから、そういう者を見付けたら処分を与えなければならない立場なのだよ?」
「うん? そうなの?」
「そうだよ」
頷かれてしまうと、腕を組んで首を傾げる。
「うーん、それは困るのよ。僕は雇われたいんだけど……」
「そうなのだね。出来るだけ善処する事にしよう」
ルセナは、跡を継がないのかと問いたい所を、玲太郎の笑顔を見て堪えた。
「父上が雇ってくれたら、僕は安泰だね」
「オレ…じゃなくて、僕も雇われたいです」
思わず同調したルセナは、柔和に微笑む水伯に見詰められる。
「そうかい? それではルセナ君にはサドラミュオ親衛隊に来て貰おうね。学院を卒業したらお出で」
「はい、分かりました!」
元気良く答えると、玲太郎はルセナの左腕に両手を置き、強く握って激しく揺すった。
「何を決めてるの!? そんな大切な事、今決めちゃってよいの!?」
玲太郎に顔を向けると、その顔は満面の笑みを湛えていた。
「願ったり叶ったりだよ!」
(あ、この顔、これはあーちゃんが良くやる顔。何を言ってもダメな顔だ……)
思わず水伯に困惑した顔を向ける。
「父上、無責任な事を言わないで欲しいのよ」
「無責任ではないよ。ルセナ君なら十分にサドラミュオ親衛隊で働けるからね」
「ええ……」
「何時まで続くかは判らないけれど、本人の遣る気次第では上へ行けるからね。現隊長は平民出身の魔術剣士だから、ルセナ君の良き指標となるだろうね」
「えええ……」
益々顔を顰めた玲太郎は、話がこのような流れになるとは思っておらず、言葉にならなかった。
昼食後は浮かれたルセナと二人切りになり、サドラミュオ親衛隊の入隊を諦めさせようと彼是言ってみたが、本当に浮かれていて声が届いていないようだった。
玲太郎はウィシュヘンド州を好く思って貰いたいが為に、水伯に頼んで街へ連れて行って貰った。州都やアメイルグ郡郡都ではなく、州で三番目に大きな街があるアメイルグ町ガバラッド地区へ向かった。
町並みは古く、目に付く高い建物と言えば六階建ての時計塔だけで、街にしては空が広かった。それもその筈、街の中心は二階建てしかなく、街外れになると三階建てが増えてくるが、それ以上の高さの建物はなかった。
三人は商店街を隈なく歩き、玲太郎はルセナの家族への土産を買おうとしていたが、ルセナが渋っていた。
「いいって言ってるのに……」
ルセナの険しい顔とは対照的に、玲太郎は笑顔だった。
「手巾と手拭いだからよいじゃない」
「いや、だって、これは高いよ」
「でも折角だからウィシュヘンドの伝統工芸品にしたいでしょ。これが一番お勧めなのよ」
「ウィシュヘンドは冬が長いからね、家に籠って、男でもこうして刺繍をしていたのだよ。これはウィシュヘンド特有の文様で、手巾の方は意味は幸せが訪れますように、手拭いの方は健康でいられますように、だよ。お母さんや妹さんは喜ぶと思うのだけれどね?」
水伯にそう言われてしまうと、ルセナは何も言えなくなった。
「僕はルセナ君にお世話になってるから、これくらいはさせてもらいたいのよ。ね?」
「分かった。悪いな」
折れたルセナは申し訳なさそうに言った。
「まーったくなのよ。これはお礼だからね」
玲太郎の表情が益々明るくなり、色々と商品を広げて色合いを見比べ、ルセナと相談しながら選んだ。
母親と妹にはこうして購入出来たが、父親には何がよいのか、ルセナ自身も判らずに土産選びが難航した。水伯は口を挟まず、悩んでいる二人を微笑ましく見守っていた。
刺繍は好みではないという事で手拭いが却下され、酒も、有り触れた木製の食器も、航海安全のお守りも、毛糸の靴下も襟巻も却下されて行った。
「水宝玉は船乗りに、航海の安全以外にも豊漁のお守りとして親しまれているのだよ。ウィシュヘンドも産出地だし、それならば安いから、それを一個と革紐か何かを買って腕輪を作って、玲太郎が豊漁の呪術を掛ければよいのではないの? 私が水宝玉に穴を空けるからそうすればよいと思うのだけれど、どう?」
「あー! それはよいね! そうする! 父上、ありがとう!」
玲太郎は笑顔で水伯を見た。ルセナは「宝玉」と聞いて眉を顰める。その表情を見て玲太郎は楽しそうに笑った。
「大丈夫なのよ。水宝玉は安い物を選べばよいからね。その方が安心でしょ? それじゃあルセナ君、宝石店へ行こう。ガバラッドで丁度良かったね。あのね、屑水晶も売っている所でね、そんなに格式は高くないから安心してよいよ。僕も安心して入れるお店なのよ」
そう言ってルセナの手を引っ張って進んだ。
「本当に大丈夫かよ?」
心配そうなルセナを余所に、玲太郎は楽しそうだった。
「大丈夫、そんなに高い物は売ってないからね」
それを信じたルセナは店に入って価格帯を確認したが、玲太郎の言った通りで安心した。店先に並んでいる水晶の屑石は本当に安かった。一粒が二金でルセナの目が輝いた。テグスも置いてあり、「穴、空けます」と書かれた立て札を見て、近くにあった籠を手にした。
一方、玲太郎は水伯と水宝玉選びを慎重に遣っていた。玲太郎が呪術を掛けるという事は、宝石の質がよいと掛かり過ぎてしまうからだ。水宝玉の屑石の中でもなるべく質の低い物、でも最低ではない物を探した。
「僕はこれがよいと思う」
水伯に摘んだ一粒を見せた。
「これは良くないね。もう少しよい物を選んで貰ってもよいかい?」
「あら? ……そうなの?」
左手に載せ、別の物を探す。掌に載せられた屑石が二十粒を超えた直後、漸く水伯が頷いた。
「これならよいね。それでも保険にもう一つ分買っておこうね」
「え?」
「破壊しないとも限らないから念の為にね」
柔和に微笑む水伯を見て、気落ちした玲太郎は頷いた。
「分かった……」
次は六粒目で合格点を貰い、左手に載っていた屑石を箱に戻した。
「あれ? ルセナ君は?」
「店内にいるから心配はいらないよ」
「そう。それなら良かった。ありがとう」
「それでは会計をしに行こうか」
「うん」
店の奥に行くと、ルセナが見上げて固まっていた。
「どうしたの?」
ルセナは玲太郎の顔を一瞥して指を差した。玲太郎はその先を見る。
「わっ」
八桁の値段が付いている宝石が棚の上に置かれていた。思わず振り返って水伯を見た。
「ここって安いお店じゃなかったの?」
小声で言うと、水伯が柔和な微笑みを浮かべた。
「宝石店だからね。安い物もあるけれど、高い物も当然置いているのだろうね」
玲太郎は値札を見て桁を指折り数えた。
「ろっ、六千七百万……。隣は八千三百万……」
「以前から高額な物はあったのだよ?」
「知らなかった……」
「それにつけても、お金を払いに行こうか」
「うん……」
頷くとルセナに顔を向ける。
「買って来るから待っててね」
「うん、この辺で見てるよ」
ルセナが微笑むと、玲太郎も微笑んで背を向けた。
十三時を過ぎて小腹が空いて来た二人は、菓子が食べられる店へ入った。二人共、種類は違えど生菓子を選び、乳脂を堪能していた。
「桃が美味しいのよ」
「アンズも美味しいぞ?」
「一口交換しない?」
「いいぞ」
二人は菓子用の突き匙で一口を切り分けて、恋人同士のように食べ合った。水伯は失笑しそうになったがそれは堪えた。
(これは明良には絶対に見せられないね)
「んー、杏も美味しいね」
「桃も美味しいな。オレとしてはアンズの方がいいけどな」
「そう? 桃の方が美味しいのよ」
「何方も美味しいね」
そう言った水伯は葡萄の砂糖漬けが載った焼き菓子を食べていた。二人は黙って水伯を見て微笑んだ。
この後は革紐を買いにヤニルゴル地区へ行き、水伯は二人がそれを選んでいる間に肉を買っていた。
屋敷に戻ると、居室で水伯が水宝玉に穴を空けて、それを水伯の目の前で玲太郎が呪術を掛けた。簡単な豊漁の呪いではあったが、効果は上級の呪いと遜色がない程の仕上がりだった。それを手にして凝視していた水伯が頷く。
「うん、これだと十年足らずは持つね」
その言に驚いたのはルセナだった。
「十年足らず! ウィシュヘンドは凄いな!」
「そ、そう?」
玲太郎は照れたが、亀裂の入った方に視線を遣る。
「父上に言われて、もう一個買っておいて良かったのよ」
「籠める魔力の程度が判らないだろうから、そうなるような気がしてね」
「もう少しいけると思ったんだけど、ダメだったのよ……」
「それでは紐を通して、それを入れる袋を八千代さんの所へ行って貰っておいで」
「うん、そうする。父上、ありがとう」
「ウィシュヘンド公爵、ありがとうございました」
ルセナは深々と辞儀をする。水伯は柔和な微笑みを浮かべて頷いた。
「どう致しまして。それではお昼にね」
脚の長い方の机に買って来ていた肉を置いていた水伯は、それを持って厨房へ向かった。
玲太郎はルセナを連れて八千代の部屋を訪問した。明良もいたが、集中をしていて二人が退室するまで気付く事はなかった。
八千代の作った巾着に、革紐を通した水宝玉を入れた。
「首でも大丈夫なように、革紐は長めにしたからこれでよいよね。お父さん、喜んでくれるとよいのだけど」
そう言いながらルセナに渡すと、ルセナが笑顔で頷く。
「これははっきり言って家宝だから、父ちゃんにやらずに飾っておくわ」
「ええ? それはダメなのよ。きちんと渡してね?」
大真面目に言う玲太郎を見て、ルセナが笑った。
「あはは。分かったよ。でも本当にありがとう。父ちゃんにまで土産をもらって悪いな」
「よいのよ。それじゃあ忘れないようにカバンに入れに行こう」
「うん」
二人は寝室へ行き、ルセナは鞄に入れた。母親と妹の分も八千代から巾着を貰っていて、それに買った土産を入れた。それを見て満足そうに微笑むと同様に鞄に入れた。
翌日からは朝に水伯と魔術の練習後、玲太郎と明良が雑談をしている様子を眺め、その後はルニリナの授業となっているが、ルセナは朝から張り切っていた。魔術の練習は光の玉を顕現させるだけでなく、それを操作する練習も遣った。
玲太郎と明良の雑談は、仲良し兄弟に割り込まないように本当に眺めているだけだった。
ルニリナの授業は、玲太郎の勉強机の隣にルセナ用に勉強机を用意して貰え、そこへ着席した。玲太郎にとっては主に復習でも、ルセナにとっては予習になっていた。それも熱中して熟した。積極的にルニリナに質問をしているルセナを見ていた玲太郎も、自然と遣る気が湧いて来た。
(ルセナ君のお陰で、玲太郎君も集中が出来ているようですね。ふふ。よい影響を与えてくれる友人は本当に貴重です)
ルニリナは穏やかな笑顔を浮かべていたが、二人は本と帳面に向いていて気付かなかった。
楽しい時間という物は、瞬く間に過ぎてしまう。
玲太郎はルセナに幼馴染のエネンドを紹介したかったが、間が悪かったようで出来なかった。玲太郎にとって気の置けない二人が出会うとどうなるのか、それを見てみたかったが、ルセナの帰宅時間となってしまった。
昼食後、茶を飲んで寛いでから水伯邸を出発した。明良に箱舟を操縦して貰い、待ち合わせした場所へルセナを送った。
「それじゃあまた学院でな」
「うん、十月にね」
「またな!」
「またね!」
ルセナは駆け出し、時折振り返って手を振っていた。玲太郎もそれに応えるべく、大きく手を振った。
「さて、そろそろ帰ろうか」
ルセナの姿は見えなくなっても玲太郎は見続けていた。
「……うん」
名残惜しそうに頷いた玲太郎は、差し出されていた明良の手を取った。箱舟は気付けば消えていて、明良は瞬間移動で水伯邸に戻った。
玲太郎は完全に気が抜けていて、明良に誘導されるがままに歩いた。居室ではなく、勉強部屋兼図書室へ行き、長椅子に座った。勿論、明良の隣だ。
「楽しかったの?」
「……うん」
「私と余り一緒にいられなかったのに?」
「それとこれとは別でしょ。あーちゃんとはいようと思えば、ずっといられるからね」
「ルセナ君とはどういう話をしたの?」
「秘密。言わないからね」
そう言うと両手で口を覆い、明良を上目遣いで見た。
「あ、その顔、とっても可愛い」
満面の笑み浮かべると、玲太郎は気が抜けた。
「今日は颯が帰って来るからね、お土産が楽しみだね」
「うん……」
嬉しそうではない玲太郎を見て、不思議に思った。
「嬉しくないの?」
玲太郎は両手を下ろして首を横に振る。
「そうじゃないのよ。はーちゃんが帰って来るのは嬉しいんだけどね……」
その先は続けず、立ち上がった。
「読書でもしようっと」
本棚へ向かおうとして足を止め、振り返る。明良が見ていたようで目が合った。
「あーちゃん」
「何?」
「はーちゃんが旅行してる間、連絡はあったの?」
「勿論あったよ。お父様の様子を聞く為にね」
「ふうん……」
玲太郎は振り返り、図鑑のある奥の本棚へ向かった。その表情は仏頂面だった。
(ばあちゃんとあーちゃんには連絡してるのに、僕には一度もなかった)
食事中、八千代が嬉しそうに「颯から連絡があったんだけど」と前置きをして話した事があり、それがずっと引っ掛かっていた。
(もしかして、父上にも連絡してたのかも……)
そう思うと確かめずにはいられなくなり、東側にある扉から出て行った。二階にある執務室へ行くと、話し声が聞こえて、それが止むまで待つ事にした。
(誰か来てるの? それとも音石なのだろうか?)
俄に開扉されて驚いて後退りし掛けると、颯が立っていた。驚きは衝撃に変わり、思わず抱き着いてしまった。
「只今。いい子にしてたか?」
颯は玲太郎の肩を掴んで少し離すと屈み、玲太郎を抱き上げると中に入った。閉扉すると席へ戻る。
「玲太郎は颯が来た事に気付いて、それで此処へ来たのかい?」
横向きで座らされている玲太郎は横に顔を向けると、苦笑している水伯と目が合う。
「ううん、父上の所に来たら話し声が聞こえたから、それが止むまで待とうと思ったのよ。そうしたらはーちゃんがいて、本当に驚いたのよ」
「私に用事があったのかい?」
「うーん、……あったんだけど、忘れちゃった」
視界に入っていた白い紙袋を体を捩じって指を差す。
「これは何?」
「土産だよ。ばあちゃんと玲太郎の分」
「僕にもあるの?」
そう言いながら紙袋を引き寄せた。
「あるよ」
「ありがとう。何を買って来てくれたの?」
紙袋の中を覗き込むとそれごと横に移動した。横にずれたそれを目で追うと、颯が手を突っ込んでいた。
「はい、これ」
手渡された小さな箱を見て、水伯の前に置かれている物と見比べた。包まれている包装紙が別の物で、大きさと数が違った。
「父上のは大きいし、多いよ? 四箱もあるのに、僕には一箱だけ?」
水伯が失笑すると声を出して笑い始めた。玲太郎は颯を見る。
「僕、変な事を言っちゃった?」
「二箱が皆で食べる物だよ」
そう言いながら、もう一箱を玲太郎に渡す。
「あれ、もう一箱あるの?」
それは平らな箱だった。両方を見比べていると開扉する音がして玲太郎がそちらを見た。明良だった。入室した明良は颯の隣に座り、玲太郎自分の膝に座らせるべく、脇に手を入れて引き寄せようとした。
「やっ」
嫌がって前のめりになり、明良の手から逃れると、颯の膝から下りて水伯の隣へ行ってしまった。
「あーちゃんは僕の意見を聞かないから嫌い」
口を尖らせ、正面にいる明良の顔を見ずに言うと、明良は筆舌に尽くし難い程の衝撃を受け、固まってしまった。
「玲太郎、もう少し言い方があるだろう?」
注意をしたのは颯だった。
「ふん、はーちゃんはいつもあーちゃんの肩を持つんだから」
鼻に皺を寄せた。俄に機嫌が悪くなった玲太郎に驚いた颯は苦笑する。
「おっと、これは危ないな。こっちにまで飛び火しそうだ。そうならない内に退散するわ。ばあちゃんの所へ行って来る」
「あ……」
思わず声が漏れた玲太郎の方を見もせず、紙袋を手にして退室した。それを見て、水伯は玲太郎の肩を優しく二度叩いた。
「仕方がないね。玲太郎が招いた事なのだから諦めなさい。ほら、明良に謝って」
「……あーちゃん、ごめんなさい」
渋々言ったが、明良は固まったまま動かない。
「うーん、どうやら相当の衝撃を受けたようだね。暫くはこのままにしておこうか」
玲太郎は落ち込んだ。
「颯のお土産は何か、確かめないのかい?」
「あ、うん」
直方体の小さい方を机に置き、平らな方から先に包装紙を広げ始めた。出て来た箱は二箱あり、上にあった方の蓋を開けると組子がそこにあった。
「花柄だ」
手にして水伯に見せる。水伯が手を出すと渡した。
「組子だね。これは七宝亀甲だよ」
「くみこ?」
空き箱を机に置き、下にあったもう一箱の蓋を開けた。
「これは何? これも花?」
「桜亀甲だね。何方も和伍の代表的な文様の一つだよ。木材を使って、枠の中に模様を組み込んで行くのが組子だよ。亀甲、詰まり亀の甲羅の形、正六角形の事ね、その中に桜を模した物がこれだね。組子は欄間とか障子とか、後は照明の外側などに使うね」
「ふうん、そうなの。くみこね」
「玲太郎の好きな和柄で作られているからね」
「そうなの! あれを木で作っちゃうんだ。凄いねぇ……。でも僕、桜亀甲なんて初めて見たのよ。和柄が全種類載ってる本を手に入れないといけないね」
感心しながら凝視していた。その奥にまだ固まっている明良がぼやけて見えた。
「もう一箱は開けないのかい?」
「あ、うん」
水伯が手にしていた七宝亀甲は既に箱に入っていて、もう一箱に桜亀甲を入れると包装紙に包まれた直方体の小さな箱を手にした。丁寧に包装紙を広げて箱の蓋を開け、中身を出した。紫色の石の鳥が出て来た。
「これは?」
水伯に見えるように持つと、軽く二度頷いた。
「これは梟だね。紫の部分は紫水晶だね。目の黒い部分は黒曜石だろうか?」
「ふくろう?」
「そう、梟。地域に依っては幸運の象徴だったり、知恵の神様だったりするのだよ。和伍では語呂合わせで幸運や、縁起物、商売繁盛の象徴になっているね」
「なるほどぉ」
それを暫く色々な角度から眺めていた。
「紫水晶の産出地に行ってたの?」
「それはどうだろうね。和伍で紫水晶が産出していたのかは知らないのだけれど、輸入した物を加工して売っているのかも知れないね?」
「なるほどぉ」
大きく頷いた玲太郎は凝視していた。水伯も柔和に微笑んでそれを見ている。
「ずんぐりむっくりしていて可愛いね」
「うん、可愛いね」
玲太郎は、颯を見た瞬間に色々な感情が混ざってしまっていた。
(なんであんな事を言っちゃったんだろう……)
紫水晶の梟を眺めている内に心が落ち着いて来て、反省をし始めた。静かにそれを置くと椅子から下りて明良の傍へ行った。
「あーちゃん、ごめんね?」
俯いている明良の顔を見ようと覗き込むと、涙を流していた。思わず水伯の方に顔を向けると、水伯が真顔で頷いた。また明良の方に顔を向けると、肩に手を置いた。
「嫌いなんて言っちゃって、本当にごめんね。本心じゃないから許してね? 二度と言わないから許してね?」
玲太郎は手巾を持ち歩いていない為、袖口で明良の涙を拭った。明良は無言で消え去った。
「玲太郎が嫌いだなんて言うから、明良も相当参ってしまったのだろうね」
玲太郎はそう言った水伯を見る。
「ど、どうしよう……」
困惑している玲太郎を見て、水伯は苦笑する。
「今は近付かない方がよいと、私は思うのだけれどね」
「僕、はーちゃんの所へ行って来る」
駆けて退室した。残された水伯は小さく溜息を吐いた。
八千代の部屋にいる颯は一人掛けの椅子に座っていた。駆け寄った玲太郎の表情が困り果てていた。
「兄貴がいなくなった事と関係のある話なのか?」
「そうなのよ! あーちゃん、何も言わずに帰っちゃった!」
「騒ぐ程の事じゃないだろう? 玲太郎がそう仕向けたんだから、当然の成り行きだと思うけどな」
何も言えなくなった玲太郎を尻目に、長椅子に座った八千代が驚いて颯を見た。
「おや、厳しい事を言うじゃないの」
「俺は常日頃から玲太郎に気を付けろよと何度も忠告はして来たからな。それで、兄貴に嫌いって言ったんだから、俺の手には負えないなあ。その上、俺にまで八つ当たりをして来たからな」
八千代は無言で玲太郎を横目で見た。颯も玲太郎を見る。
「な? 何時も俺は兄貴の肩を持つから嫌いなんだろう?」
「そっ、そんな事は言ってないのよ!」
悲愴な表情になると、それを見た颯が眉を顰めた。
「泣くなよ? 自分で遣らかした事なんだから我慢しろよ?」
玲太郎の中で、自分でも良く解らない感情が爆発してしまった。
「はーちゃんが僕には連絡くれなかったのが悪いのよ!」
玲太郎は大口を開けて叫んだ。
「どういう事だ?」
「あーちゃんとばあちゃんには旅先から連絡したんでしょ!」
「それがどう玲太郎と関係があるんだ?」
「僕に連絡くれたっていいじゃない!」
「それで?」
「僕だってはーちゃんと話したかった!」
「だからって、兄貴にああいう事を言っていい事にならないだろう?」
八千代は手で口を押さえ、目だけで二人を交互に見ていた。
「僕ははーちゃんの膝に座ってたのに、それを邪魔するからでしょ!」
「兄貴が悪いのか」
「違う! はーちゃんが悪いの!!」
「俺かよ」
そう言うと立ち上がり、玲太郎の傍へ行くと抱き上げた。
「お前、変だぞ?」
玲太郎の目を真っ直ぐ見て言った。玲太郎は悲しそうに顔を顰めて目を逸らす。
「はーちゃんが悪いのよ……」
力なく言い、首に抱き着くと顔を埋めた。颯は思わず八千代を見た。八千代は口角を下げて首を竦める。
「玲太郎はルセナ君といたから連絡を取らなかったんだよ。ルセナ君といると知っていて連絡を取るのはルセナ君に悪いだろう? それは解れよ?」
玲太郎は無言で首を横に振った。
(精神的に大分参っているようだな……。ルセナ君がいて楽しかった筈なんだけどおかしいな。それにしても、兄貴に嫌いと言った事は反省させて、二度と言わないようにさせないといけないな……)
八千代は土産の包装紙を広げて箱の蓋を開け、出て来た宝石細工を掲げて見入っていた。八千代の物は、黄瑪瑙の兎だった。目には赤い石が入っている。
「ウサギにしてくれたんだね。可愛いよ」
颯は顔を横に向け、八千代の横顔を見ると玲太郎の腕に力が入り、颯は思わず苦笑して玲太郎の背中を擦り出した。
「喜んで貰えたなら嬉しいよ」
「ありがとうね」
「どう致しまして」
八千代は颯を見ると、こちらに笑顔を向けながらも玲太郎の背中を擦っている様子を見て微笑んだ。
(明良は言うに及ばず、だけど、颯も大概玲太郎を甘やかしてるね。まあ、颯は弟か妹が欲しかったから、願ったり叶ったりでそうなってしまうのだろうけど……、やっぱり兄弟って事なのだろうね)
その笑顔も苦笑に変わった。
この日の夕食に明良は来なかった。嫌いと言われた事が余程応えたのだろう。誰も明良の事には触れず、玲太郎はそれが逆に辛かった。
颯は玲太郎よりも明良の方が気に掛かっていて、怖い表情を作り、玲太郎の頬を優しく摘んで消えた。玲太郎は落胆したが、水伯に甘える事はなかった。一人で勉強部屋兼図書室に籠り、明良の作った帳面を眺めていた。
(どうしてあんな事を言っちゃったんだろう……)
あの発言を今更ながらに後悔していた。
時間は容赦なく流れ、気付けば入浴時間になったようで、颯が隣に座っていた。思わず見上げると、目が合った。
「はーちゃん、いつ来たの?」
「多分、十分くらい前だと思う」
「ごめん、気付かなかったのよ」
「兄貴の事を考えていたのか?」
「何も考える気が起きなくて、ぼーっとしてた」
「そうなんだな。反省はしたのか?」
「それはしたけど……」
「兄貴は心底悲しいから当分会いたくないって」
そう言われると、思わず俯いて膝に置いている自分の手を見た。
「……そう」
「今日から当分は一緒に出て、俺が乾かすからな」
「うん、ありがとう」
颯に顔を向けるとまた目が合った。颯は右手で、玲太郎の顔を顎の下から掴み、玲太郎の唇が突き出た。
「だから兄貴にきつく当たるなよって言っておいただろう?」
「だって……」
「なんだ?」
颯から視線を逸らした。
「はーちゃんが……」
「俺がなんだ?」
「はーちゃんにもいつも通りでいて欲しかったのに、ルセナ君がいる間、旅行なんかするから……」
「其処で俺がいない事が悪いように繋げる意図が全く解らないな。俺がいなかったから、ルセナ君と楽しい時間を満喫出来ただろう?」
「はーちゃんがいたら、もっと楽しかった……」
「成程」
玲太郎は視線を戻して、颯を見た。
「はーちゃんは僕と会えなくて、寂しくなかったの?」
「会おうと思えば直ぐに会えるし、寂しくはなかったな。途中からバラシーズさんも参加して、予定が狂ったからなあ……。玲太郎は寂しかったのか?」
そう訊くと手を離した。玲太郎は頷く。
「寂しかった……」
「兄貴がいるんだから、寂しくないだろうに」
「あーちゃんはあーちゃん、はーちゃんははーちゃんでしょ」
「そうだな」
玲太郎の背中を優しく叩くと立ち上がった。
「さて、風呂へ行こうか」
「うん……」
「兄貴に謝るんだったら風呂上がりに連れて行くけど、どうする?」
「気まずいから止めとく……。あーちゃんもたまには一人でいた方がよいと思う」
そう言って立ち上がると、颯は玲太郎を抱き上げて歩き出した。
「俺は今日行っておいた方がいいと思うんだけどなあ……」
玲太郎は何も言わず、体を颯に預けた。
玲太郎も明良もお互いに会おうとはせず、我慢比べの様相を呈して来たかに思えた四日目、九月に入った日の朝、我慢し切れるはずもない明良が朝食後に颯と遣って来た。玲太郎は明良の顔を見るなり、目を丸くしていたが、暫くすると微笑んだ。
「いらっしゃい。ゆっくりしてね」
「違うだろう?」
颯に指摘され、玲太郎は颯を一瞥してから頭を下げた。
「あんな事を言ってごめんなさい。もう言いません」
言い終えて頭を上げると目の前に明良がいて、屈んだかと思えば、即座に抱き締められた。
「ぐっ、ぐるじい」
明良は固く目を閉じた。
「もうあのような事は言わないでね。約束だよ」
「うん」
明良の柔らかい髪が頬に触れてくすぐったく、その久し振りの感覚を味わって安堵していた。しかし、実際には抱き締められて苦しい方が感覚的には勝っていた。
「兄貴、玲太郎の顔が真っ赤だから、その辺で止めておけよ。嫌われるぞ」
「ああ、そう。解った」
意外にも素直に従った明良がそう言いながら、玲太郎の両肩に手を置いて離れた。
「ご免ね、苦しかった?」
「うん。苦しかった。僕こそごめんね。あーちゃんに酷い事を言って、本当にごめんね」
「うん、私は本当に傷付いたよ。まだ傷も癒えていないのだけれど、やはり玲太郎に会いたいのだよね。私はそれだけ玲太郎の事を愛しているからね」
そう言って眩い笑顔を見せた。
「俺も玲太郎を愛しているぞ」
「私も玲太郎を愛しているからね」
透かさず颯が言うと、何故か水伯まで乗って来た。玲太郎は顔を紅潮させて照れた。
「ぼ、僕もみんなを愛してるのよ」
「玲太郎っ」
明良がまた抱き締めた。苦しそうにしている玲太郎を見て、水伯は柔和な微笑みを浮かべて見ていた。
九月も二週目に入り、変則的な日々から日常に戻って暫くすると、玲太郎も気持ちが穏やかになり、今日も今日とて勉強に励んでいた。颯も真面目に呪いを学んでいて、ルニリナと良く議論していた。それを横目で見ていた玲太郎は、二人が仲良くしている所を見ると以前にも増して嫉妬をするようになっていた。その所為で遣る気が削がれて頭に入らなくても、鉛筆は動かしていた。
ルニリナは玲太郎が集中力を欠き、簡単な問題を間違えるようになっていた事に頭を悩ませていた。
(これはまた、息抜きが必要なのでしょうか)
この日の授業を終え、夕食前に颯を呼び出した。ルニリナの滞在している客室ではなく、居室から程近い資料室に入る。
「呼んだのは玲太郎君の相談があるからです」
「ふうん、それで?」
「最近、集中力がないようで、以前は出来ていた問題を間違えるようになったのですよ」
「成程。集中出来るように戻したいと?」
「そうです。それで息抜きをしに行きませんか?」
「いいけど、何処へ?」
「和伍の南東で泳いでいると言っていたでしょう? そこへ行きませんか?」
「それはいいんだけど、夜中とか早朝に出発しないといけないぞ? そうなると水伯も連れて行かないといけなくなるな。それに、兄貴に知られると嫉妬でおかしくなると思うから、連れて行くか、秘密にしないといけないんだぞ?」
「私は心苦しくなる事はありませんので秘密に出来ます。夜中に行きましょう」
「……水伯に話しておかないとな。序に誘ってみるか」
「わしも行く」
「解っているから、話に入って来るなよ」
「済まぬ」
厳しい口調の颯に睨まれたノユが気落ちする。ルニリナは思わず微笑み、ハソは両手で口を押さえて震えていた。
「水伯はまだ執務室にいるな。行って話して来るわ。それで、行くのは何時にする積りなんだ?」
「そうですね、十二日になる夜中がよいと思います」
「今夜かよ! ……まあ、いいか。行くとなると玲太郎を早く寝かさないといけないなあ……。兄貴になんて言えばいいのか……」
「善は急げ、ですのでね。言い訳は申し訳ありませんが、颯が考えて下さいね」
颯は微笑むと頷いた。
「解った。それじゃあ水伯に話して来るわ」
「よろしくお願いしますね」
颯が消えてしまうと、ハソが天井に向かって飛び、それを透り抜けて行った。
「わしも行くぞ」
「ふふ、解っていますよ」
そう言いながら資料室を出た。
颯は二階の執務室の前にいた。扉を軽く二度叩き、「颯です」と言うと返事を聞かずに開扉した。
「仕事中?」
「そうなのだけれど、大丈夫だよ。只の確認作業だからね」
いつもの柔和な表情で迎え入れてくれた。
「悪い。早く済ませるわ。ニーティが玲太郎の息抜きに海へ行こうって言うんだけど、場所が和伍の南東だから、玲太郎が厠に起きた後に出発したいんだよ。それで、兄貴には秘密が前提で、水伯は行く? と訊きに来たんだけど、どうする?」
「うん? それ以前に、和伍の南東に島などあった記憶がないのだけれど……」
水伯が眉を顰めた。
「ああ、玲太郎に泳ぐ練習をさせる場所が欲しくて、玲太郎の足が着く位置まで足場を造ったんだよ。きちんとした砂だから、足は痛くないぞ」
颯は平然と答えると、水伯は少し目を丸くした。
「まさか、いや、本当にまさかだとは思うのだけれど、夜中に行っていたのかい?」
「そのまさかだな。あはは」
颯の笑顔を見て、水伯は苦笑した。
「仕方のない子達だね。浜辺はあるのかい?」
「宙に浮けばいい話だからそれは造っていないな。それに、そんな物を造ったら見付けられてしまうかも知れないからな」
「浅瀬がある程度ならば、近付かないと見付からないものね。それならば私も一緒に行こう。無論明良には秘密でね」
「ニーティが夜中を指定しているから、兄貴がな……」
「未だに起きられないのかい?」
「一度寝たら、六時少し前までは無理だな。逆に言えばその時間辺りになれば何故か起きてくれるんだよ。本当に不思議なんだよなあ。まあ、起きていてくれって言えばいいんだけど、ニーティはいない方が良さそうな雰囲気だったからな……」
「ふふ、小さい頃から六時が朝食の時間だったから、もう完全に刷り込まれているのだろうね。八千代さんも此処に来て数年経っていても、未だに朝は早いようだからね」
「そういうもんか……。それじゃあ玲太郎が夜中に起きる時間に来るわ。四人と二体で行こう」
「解った。楽しみにしておくね」
「それじゃあお邪魔しました」
水伯は軽く挙手をした。颯は頷いて瞬間移動で消えた。ハソが慌てて追い掛ける。その後ろ姿が床に吸い込まれるのを見届けてから、書類に視線を戻した。
入浴中に、夜中になったら和伍の南東の海へ行くと聞かされた玲太郎はいつもより早く寝台に上った。明良はいつも通りに玲太郎に読書を勧めたが、「今日は疲れてるからもう眠る」と言って、本当に眠ってしまった。明良は暫く読書をして、交代で水伯が来るまでその場にいた。
二十九時半を過ぎた頃、水伯が玲太郎を厠へ連れて行く。その時は夢現だったが、ルニリナとノユとズヤが寝室へ遣って来て、二人の話し声で目が覚めた。
(あ! そうだった! 海だった!)
俄に玲太郎が満面の笑みを浮かべ、それに気付いたルニリナが微笑む。
「おはようございます。目が覚めましたか?」
「おはようございます。父上、下ろして」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
玲太郎は折り戸を開いて鞄を出した。そして着替えを用意し始める。
「玲太郎、それはいらないよ? 服を脱いで下着で行くからね」
動きを止めて振り返る。
「あ、そうだった」
颯と行く時はいつもそうだった。玲太郎は出した物を戻し、折り戸を閉めた。今度は寝台の傍へ行き、寝間着を脱ぎ始めた。下着になると寝台に座った。二人は笑いを堪えながら見ていた。
「あ、水中眼鏡がないんだった」
「それは向こうに行ってからでよいのではないのかい?」
「うーん……、そうだね」
玲太郎は返事をしたものの、海へ久し振りに行く事もあって、楽しみで興奮していた。颯が何処に現れるか、顔をあちらこちらに向けて落ち着かない様子だ。ルニリナもそれに感化されたのか、羽織物を脱いで下着になった。
「私も準備万端ですよ」
そう言って玲太郎の隣に座った。水伯はと言うと、下着で泳ぐつもりだったが、まだ衣服を着ていた。
「ニーティは水着は着ないのだね?」
「はい。濡れた布が纏わり付く感覚が好きではないので、これで行きます」
「あ! それは言えてますよね。僕も水着より、この方が好きです」
笑顔で話している二人を見て、水伯も頷いていた。
「お待たせ」
颯が窓際に現れた。颯も下着一枚で、普段着姿は水伯一人となった。
「待っておったぞ」
「早く行こうではないか」
真っ先に声を掛けたのはノユとズヤだった。
「ハソが来るまで、もう少し待って貰える?」
「解った」
ズヤが頷くと、玲太郎が颯の駆け寄った。
「はーちゃん、水中眼鏡」
「その前にこれ、日焼け止めを塗ろう」
「うん」
見せられた容器を見て頷くと、颯が手際良く塗った。ルニリナと水伯も手に取り、自分で塗っていたが、水伯は魔術で全身を塗っていた。
「はい、水中眼鏡」
颯の右手に顕現された水中眼鏡を玲太郎に渡す。そして手にしていた容器を明良の寝台へ放り投げた。
「ありがとう」
「どう致しまして」
玲太郎は嬉しそうに着けた。するとハソが扉側の壁を透り抜けて到着する。
「済まぬ、待たせたか?」
「そうでもないぞ。それじゃあ玲太郎に触れて貰ってもいいか?」
「はーい!」
元気良く返事をしたのは玲太郎で、左手で颯の手を握った。右手は水伯が握り、ルニリナは後ろから肩に手を置いた。三体は腕やら胸やら、触れられる所に触れる。
「よし、構わぬぞ」
「遣ってくれ」
「わしもよいぞ」
三体がそれぞれ言うと、水伯とルニリナが颯に向かって笑顔で頷く。
「行くぞ」
そう言った次の瞬間に六合が変わり、海上にいた。雲一つない青空が広がっていて、良く日に焼けそうだ。三体以外は徐に下降し、海水に入って行く。
「あ、意外と温かいですね」
「本当だね。海水浴は本当に久し振りだから、泳げるのか……、とても心配だね」
玲太郎の手を離していて、既に衣服を脱ぎ、それ等を宙に浮かせていた。
「あはは。魔術で浮いて進めばいいだろう? その方が楽だし、楽しいんだけどな」
足の着いた三人が楽しそうに話している中、三体は既に泳いでいた。玲太郎は少し面白くなく、不機嫌そうにしていた。
「それでは颯は玲太郎君をお願いしますね。私は閣下と泳ぎの競争をして来ます」
「それならば、私も早急に泳ぎ方を思い出さなければならないね」
二人は楽しそうに泳ぎ始め、徐々に遠ざかった。残された颯は二人を暫く眺めていたが、玲太郎は笑顔で颯を見上げていた。
「はーちゃん、浮き輪出して」
颯は玲太郎に顔を向けると微笑む。
「浮き輪があるとそれに頼って泳がないから、ニ三十分泳いだ後でな」
「えー……」
思わず眉を顰める。
「それじゃあ一緒に泳ごうか」
「うん」
不満顔が笑顔に変わった。颯が泳ぎ出すと玲太郎も泳ぎ出したが、颯は徐に泳いで玲太郎に合わせた。まだ水泳に慣れていない玲太郎は時折足を着けて休憩をし、颯はその周りを泳いだ。玲太郎はそれを見て楽しそうに笑い、颯の肩に掴まって浮き、引っ張って貰った。
翌朝、顔が少し焼けていた玲太郎に因って、明良に海へ行った事が露見した。明良の強い要望で、その週末は二日ともウィシュヘンドにある湖水浴場へ行く事となり、更に日焼けをした玲太郎だった。ちなみに水伯は付いて行ったが、颯は行かなかった。
玲太郎は二十三日に入寮する為、屋敷で過ごす日数は六日となった。颯は十四日に入寮してしまい、夕食時に来るだけとなっていて、ルニリナは三日後の十九日に入寮する。玲太郎は物悲しさから落胆していた。
「玲太郎君は颯がいなくなって寂しいのでしょうか?」
俯いていた顔を上げ、ルニリナを見る。
「勉強は今日を含めて三日で終わりますが、そうなるとまた寮生活の始まりですのでね。それを楽しみに、もう少しの間、頑張りましょうね」
穏やかに微笑みながら言うと、玲太郎は頷くしかなかった。積まれている水晶から一個を手にし、魔力を籠め始めた。高品質の小型の水晶を魔石にするまで後三歩という程度まで来ていた。
積み上げられていた山が消え、ルニリナが微笑む。
「それでは一息入れましょうか。お茶を飲みますか?」
「はい」
「玲太郎君が淹れますか?」
「はい、やります!」
俄に元気になり、勢い良く立ち上って先に退室した。ルニリナは跡を追い、二階の小さな台所で雑談をしながら湯が沸かし、茶器に熱湯を注いで茶葉を開かせ、茶器に入れ、勉強部屋兼図書室へ戻る。盆を持つのは決まってルニリナだった。
「アメイルグ先生との湖水浴はどうしでしたか?」
「楽しかったですけど、水が冷たかったです。誰もいないと思ったら、そういう事だったんです」
「ああ、そうですね。ウィシュヘンドは夏が短いですしね」
「だからあーちゃんがが温めてくれて、それで泳いでました」
「そうですか。貸し切りで泳げて良かったですね」
「はい」
玲太郎は笑顔で頷いた。
「でも、海の方が楽しかったです。湖だと海みたいに浮けないから、泳ぐのも大変でした」
「それは言えていますね。私も海で泳いだのはこの前が初めてだったのですが、湖とは違っていましたね。でも海水はしょっぱいですので、口に入らないようにするのが大変ですよね」
「あはは、確かに。臨海学校の時は本当にそれで大変でした。しょっぱかったです」
たわいない話を続け、休憩時間を過ごした。ルニリナと楽しく話せた玲太郎はこうしていると穏やかでいられるのだが、ここに颯が絡んで来ると、どうしてもおかしくなってしまい、それが自分でも嫌だった。しかし、それはどうにも出来なかった。
玲太郎が入寮する日が近付くに連れ、食事が豪華になって行った。
(毎週末に帰って来るから、ここまでしてくれなくてもよいのに……)
内心ではそう思いつつも、舌鼓を打った。
「ばあちゃん、魚の煮付け、本当に美味しいわ」
颯は八千代に笑顔で褒めていた。八千代も笑顔になる。
「そう? ありがとう」
(うん? もしかして、僕じゃなくて、はーちゃんの為なのだろうか?)
そんな気もしたが、それならそれで良かった。美味しい物が食べられて、玲太郎はとても満足だったが、そうなのは玲太郎だけではなかった。明良もまた美味しそうに食べていた。僅かではあるが珍しく表情に出ていて、隣で見ていた水伯も嬉しそうにしていた。
「やはり魚はいいなあ」
誰に言うでもなく言った颯が、自分の言に自ら頷いていた。玲太郎は思わず微笑んでいた。
「刺身も美味しいね」
「そうだな」
明良が言った事に同調した颯の皿には、もう刺身はなかった。八千代が上機嫌で颯を見る。
「颯、刺身のお代わりあるよ。持って来ようか?」
「それじゃあ自分で行って来るわ。兄貴はどうする?」
「貰うけど、まだ少し残っているのだよね」
「解った。待つわ。俺は色々とお代わりをしたいから、今ある分を食べてしまってからにする」
「うん」
二人は黙々と食べ進めた。颯が黙ると静かな時間が流れ、暫くすると二人分の皿等を台車に乗せて退室した。
玲太郎は水伯と居室へ、ルニリナは自室へ戻って行った。いつものように残っている颯は明良とお代わりを平らげ、それを八千代は嬉しそうに見ていた。
「ご馳走様。ばあちゃん、今日も美味しかったわ」
「ありがとう。お粗末様」
笑顔で頷いた颯は明良に視線を移す。
「兄貴はどうする? 一緒に茶を飲むか?」
「そうだね、今日はそうしよう」
「それじゃあ私が入れるよ」
八千代が机に手を置いて立ち上がろうとしたが、颯が先に立ち上った。
「湯呑みが足りないから俺が持って来るよ」
「それじゃあ頼むね。ありがとう」
空いた皿を積み、それを片方の台車に乗せると押して退室した。
「明良がここでお茶を飲むなんて、珍しい事もあるもんだね」
横目で八千代を見ると頷いた。
「偶にはね」
視線を皿に戻し、刺身の一切れを箸で摘んだ。
(……これは玲太郎に嫌いと言われた事が尾を引いてるのかも知れないね)
八千代が気を回していると、颯が湯呑みを片手に戻って来た。そしてそのまま、台車にある急須から茶を入れた。先ず八千代と明良に出し、自分の分を持ってルニリナの席に着く。
「大分冷めているとは言え、それでも飲むには熱いか」
八千代が湯呑みに触れる。
「うん、これはまだだね。それよりも、学校はどう? 何か変わった事はあった?」
「うーん、これと言って特にないな……。王弟殿下が五学年に進級という事くらいだなあ」
「玲太郎と同じ年に入学したんだったよね?」
「そう。魔術系の実技が座学に追い付かないみたいだけど、それでも大したもんだと思うよ」
「玲太郎は王弟殿下の話をちっともしないね?」
「昨年は五学年の座学で教室が一緒になる事もあっただろうけど、一度も話題に上がった事がないから、もうどうでもいいみたいだな。全く気にしていないよ。兄貴は王弟殿下の話題になった事はあるか?」
「私もないね。全く聞かないよ」
食べ終えた皿を重ね、脇へ置きながら言った。
「そうなんだな。それじゃあ興味がないんだなあ。話してもルセナ君と、偶にエネンドの話題が出るくらいか」
「ルセナ君とは馬が合うのだろうね。私もルセナ君の話は良く聞くよ」
「玲太郎はルセナ君と仲良くなったけど、明良はいつになったら誰と仲良くなるんだろうね?」
明良は八千代を見ると、湯呑みを両手で持った。
「またその話? 私は玲太郎がいればそれでよいからね。それに水伯も颯もいるから大丈夫だよ?」
「長い人生に、友達の一人や二人は必要なんじゃないの?」
「そう言うばあちゃんは、友達と未だに連絡を取っているの?」
「和伍の音石はもう使えなくなってしまって、取りたくても取れないんだよね。まあ、手紙があるんだけど、それも書いてないし、書く必要がないのが実情だね。……これだと明良に、友達に関する事は何も言えなくなるの?」
「それじゃあ新しい音石を買えばいいんじゃないのか? 和伍と通じる物を一緒に買いに行こうか?」
八千代は苦笑すると首を横に振る。
「いいよ、そこまでしなくても。学生時代の友達は大体土に還ってるし、後は近所付き合い程度だったからねえ。あなた達が生まれてからは生活が一変したから、近所付き合いも層が変わったんだよね」
「あ、そう言えば、笠木商店のおじさんがまた会いたそうだったし、近い内に行っておくか?」
「それなら私も一緒に行くからね」
八千代が目を丸くして明良を見た。
「おや、珍しい。玲太郎が一緒じゃないかも知れないよ?」
「一人で行ってもよい気持ちはあるのだけれど、其処まで行きたいという訳でもないのだよね。けれど、誰かと一緒なら行こうかと思ってね」
「うん?」
八千代が首を傾げた。颯が微笑む。
「まあ、一緒に行くって事だろう。玲太郎がいないと箱舟になるな。兄貴が操縦してくれよ?」
颯が明良に視線を遣ると、明良が頷いた。
「よいよ。何時にする? 時間はばあちゃんの朝食後にするとして、七時前後がよいね?」
「六時半でもいいよ。でも、颯は行けるの?」
そう言って八千代が颯を見る。
「朝の早い時間なら行ける。朝食は寮で食べるから、それまでには帰るけどな」
「朝食は何時?」
「今は生徒がいないから七時厳守」
「意外と早いね。それではばあちゃんが言った六時五十分にしようか。何日に行く?」
二人は明良を見てから、顔を見合わせた。
「私はいつでもいいけど、颯は?」
「俺も何時でもいいな。学校が始まっても六時半なら何時でも構わないわ」
「それでは明日にしよう。此処集合ね」
「解った」
「よろしくね」
颯が頷き、八千代が微笑んだ。
「兄貴、玲太郎にはどっちが言う?」
「偶には三人で出掛けよう」
明良とは思えぬ提案をされ、二人は衝撃で打ちのめされた。八千代は小指で耳を穿る。
「私の耳がおかしくなったようね……」
「ああ、幻聴か」
颯が納得して湯呑みを持ち、茶を啜った。
「何故そうなるの? 確りと聞こえていただろうに」
心外だと言わんばかりに言うと、颯が顔を顰めた。
「本物の兄貴か? ないとは思うけど、ハソが化けているのか?」
「わしは此処におるではないか。何を言うておるのよ」
颯の後ろに控えていたハソが透かさず言った。颯はハソを一瞥して、直ぐに明良に視線を戻した。
「まあ、それでいいならいいけど、そうなると玲太郎には秘密にしないといけなくなるぞ?」
「それでよいよ。偶にはね」
「これは槍が降るね。鉄の傘を用意しないと」
八千代が目を丸くして傘を差す素振りをした。颯がそれを見て笑う。明良は静かに茶を啜った。
「そこまで言わなくてもよいと思うのだけれど」
「だって、誰だって驚くよ。ねえ?」
八千代は颯に同意を求めると、颯は明良を見ながら頷いた。
「有り得ない事が起こっているんだぞ? 誰だって呆気に取られるぞ? 玲太郎が産まれて十年が過ぎたけど、今までこんな事はあっただろうか? ……ない、ないんだよ。残念ながら一度としてなかったんだよ」
切実に訴え掛けると、明良が些か不快そうな表情になる。
「解ったからもうよいよ。止めて」
湯呑みを口元に持って来ると茶を一気に半分飲んだ。それを見て、颯も茶を飲む。
「ばあちゃん、六時半には玄関前に出ていてね」
そう言われて横を向き、明良を見る。
「うん、分かった」
満面の笑みを浮かべて頷いた。それを見ていた颯が嬉しそうに微笑んでいる。
「それにつけても、何時から食後のお茶は茶碗ではなく、湯呑みで飲むようになったの?」
「ああ、それはね、颯が和伍へ旅行した時に、湯呑みを買って来てくれたからだね」
「成程」
「茶碗が良かったか?」
「そうではないのだけれど、どうしたのだろうと思ってね」
湯呑みが空になっても、暫く雑談をしていた。
翌日、三人は和伍国へ出掛けた。笠木商店へ行った後、多々羅で菓子を食べて帰った。そしてこの日以降、三人で和伍国へ出掛ける習慣が出来たが、それを玲太郎が知る事はなかった。
遂にルニリナも入寮し、残りの四日間はディモーンに予習を見て貰う。半年に数日、こうしてディモーンと過ごすが、つい二年前までディモーンと勉強をしていたとは思えない程、この二年が薄く感じた。
翌日、魔術の練習へ向かう道中、その感覚を水伯に話した。
「薄く感じるなんて、なんだかおかしいのよ」
「薄く感じるとは、二年経過しているように思えないという認識でよいのかい?」
「うん、そう」
「うーん、そうだね、……座学よりも、魔術系の実技に時間を割く事が増えたから、そう感じるのかも知れないね?」
「なるほど! それで薄く感じたのかもね」
「新しい知識を得る機会が減ると、そう感じる物なのだろうか? ……それにつけても、玲太郎ももう十歳と約四ヶ月になるのだね。家に来て六年を過ぎたけれど、振り返ると一瞬だよね。最初の頃は宙に浮く練習を遣っていたのだけれど、中々上達しなくて、遣る気を失せてしまって困ってしまった事が、昨日の事のようだよ」
そう言うと、繋いでいる玲太郎の手に力が籠る。
「覚えてない」
「玲太郎が植物を育てる魔術を覚える切っ掛けになった出来事なのだよ?」
「植物を育てる魔術は楽しいから好きなのよ。でも宙に浮くのは、正直な話、今も苦手だから、箱舟の操縦も好きじゃない……」
「玲太郎に箱舟を操縦する機会が、何時になったら来るのだろうね? 基本的に明良か颯がいるから瞬間移動して貰えるし、私だけの時は私が操縦をするからね」
「はーちゃんは折角取ったんだから、操縦しようって言うのよ」
「玲太郎としては嫌だと思っても、忘れないように操縦する機会を設けた方が、よいのかも知れないね?」
「え」
思わず水伯を見上げた。水伯は真っ直ぐ前を見ていたが、玲太郎に顔を向けた。
「今日は操縦するかい?」
「えっ、それは……」
「そう。それではいつも通り、光の玉を小さくする練習だね」
それを聞いて安堵した玲太郎は微笑む。
「それがよいね。操縦はしなくてもよいのよ」
「でも頑張って免許を取ったのだから、敷地内では操縦すればよいと思うのだけれど……」
「やらなくてもよいのよ。それより玉を小さくする練習ね! 今日も頑張らなくっちゃね」
「そうだね。徐々にでも小さくなっているから、頑張ろうね」
「うん!」
話題を変えたい玲太郎は、水伯の優しさによってそれに成功した。薄曇りの中、二人は笑顔で北の畑へと向かった。
そして二十三日になり、入寮日が遣って来た。送るのは当然ながら水伯で、玄関広間に荷物を作って置いておき、居室で出発する時間が来るのを待っていた。日の曜日という事もあり、明良もいる。
「この一年で順調に行けば卒業になるのだね。早いね」
「ディモーン先生が色々と教えてくれてたお陰と、余った時間にあーちゃんが一杯教えてくれたお陰だね。ありがとう」
「それもこれも玲太郎の努力の結果だからね。一年以内に小型の魔石作りが出来るように、私も手伝うからね」
そう笑顔で言うと、水伯に視線を移す。
「私は学院へ付いて行かないからね」
「本気かい? それでは二人で行くけれど……、本当によいのかい?」
「うん、よいよ。玲太郎、十月一日に会おうね」
二人を交互に見ていた玲太郎は少し目を丸くした。
「明日は寮に来ないの?」
「来年の今頃は玲太郎と一緒にルニリナ先生から呪いを習う予定だから、それまでに私が少々留守をしても大丈夫なように、色々と遣っておきたいのだよね」
「そうなの。それじゃあ今日もその用事?」
「忙しくなる前だから、今日はばあちゃんと過ごそうと思ってね」
「なるほど……」
玲太郎が明良に、嫌いと言ってしまってから、明良が時折ではあるが余所余所しくなった。しかし、以前と同様、いや、それ以上に密着して来る事もあり、気に掛かっていた。
(やっぱり嫌いって言っちゃったから、あーちゃんがあーちゃんでなくなっちゃったのかも……)
玲太郎もまた、あの一件が尾を引いていて罪悪感が残っていた。膝に乗っているヌトに視線を遣り、熟睡している様子を見て心を落ち着ける。
「それにつけても、上学校に行かないのならば、今日で夏休みは終わりだね」
水伯が感慨深そうに言うと、明良が玲太郎を見る。
「そう言われてみればそうだね。玲太郎は学校にはもう行かない積りなの?」
玲太郎は明良に顔を向けた。
「うん、行かない。僕は長く生きるそうだから、また学校へ行きたくなるかも知れないけど、今の所は行こうとは思わないからね」
「行きたくなったら、上学校へ通えるようにするからね。何時でも遠慮なく言うのだよ?」
「父上、ありがとう」
そう言って二人は見詰めて微笑み合っていた。明良は恨めしそうにしている。それも玲太郎が明良に視線を移すと直ぐ笑顔になった。




