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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第三十二話 しかして海へ行く

 緑が濃くなり始めて間もない六月三日、五学年は二日後に臨海学校でメナムント州にある施設へ行く。

 メナムント州は赤道上にあり、東側が海岸線となっている。赤道上という事で一年中泳げる事もあり、臨海学校を学校行事に組み込んでいる学校が押し寄せていた。カンタロッダ下学院もその内の一校となる。ちなみにメナムント州は水伯の持つ領地の一つだ。

 本来なら陸船で片道約十五時間掛かる為、三泊四日という日程なのだが、颯がいる事もあって二泊三日となっている。直線距離で約九百四十三里もあるのに、それを五分足らずで飛んでしまうのだから、休養と称した一日が不要となる事は必然だった。

 誕生日を迎えて十歳になっている玲太郎は一時限目から医務室にいたのだが、勉強には全く身が入らず、上の空だった。明良は敢えて何も言わずに書類仕事を進めていた。

「あーちゃん! 明後日には臨海学校なのよ!」

 にわかに声を張り上げると明良を見る。明良は視線を上げると玲太郎に顔を向けた。

「そうだね。私も一緒に行くからね。海だよ、海。楽しみだね」

「僕、どうしよう? はーちゃんと同じ部屋じゃないから、厠に起きられるかがとっても心配。起きられなくてお漏らししたらどうしよう……」

 明良の言っている事は耳に入っていないようだった。先週の特別活動の授業で部屋割りが決まってからずっとこうだ。

「颯が夜中になったら玲太郎を連れ出すと言っていたから大丈夫だよ。それに、この話はもう十二回目だよ? そろそろ勉強をしようね」

「うん……」

 気のない返事をして正面を向くと、眠っているヌトをつつき出した。明良はそれを見て微笑むと、また書類に目を遣った。


 九時限目には特別活動があり、ダーリーが臨海学校の注意事項を話している最中、ヌトは眠気覚ましに体を動かしていて、玲太郎の視線を釘付けにしていた。傍にダーリーが来て、人差しで机を二度叩かれた玲太郎は、俄に姿勢を正した。

「それから、何度も言っていますが、明後日から行くミカラコ海岸は遠浅と言って、足の着く場所が沖の方まで続きますが侮ってはいけません。海は波がありますから、足が着いていてもさらわれてしまう可能性もあります。呉々も注意して下さい。臨海学校の間に水難事故に遭って、亡くなる学生が毎年少なからずいます。焦らず、冷静に対処するようにして下さいね。あなた達は魔術で浮けるのですから、それを忘れないようにして下さい。いいですね?」

 生徒は元気良く返事をしたが、玲太郎はその中に含まれていなかった。

「玲太郎、きちんと話を聞いておかねばなるまいて。大切な事を言うておるのであろう?」

 冴えない表情をした玲太郎はヌトを一瞥するだけだった。


 授業が終わり、昼食時間となった。玲太郎はいつものように遅目に昼食を摂る為、教室へ向かっていた。

「ウィシュヘンド」

 肩に手を置かれ、足を止めて振り返るとルセナがいた。

「オレも一緒に行くよ」

「うん」

 二人は並んで歩き出した。

「この前から上の空だな。大丈夫か?」

「うん……。家族以外と一緒の部屋で眠る事がないから、とっても不安で……」

「オレも首席室を独占してるから、寝られるか心配だな」

 そう言ったルセナを一瞥すると、玲太郎は前を行くヌトを見た。

「まあ、オレと同室だし、もし寝られなかったら一緒に話そう」

「ありがとう」

「それにしても海だぞ、海! オレはそれが楽しみで仕方がないんだよな」

「そんなに楽しみなの?」

「勿論。オレの家がある場所は、泳ぐとなったらクミシリガ湖だからな。海の方が浮けるって聞いてるから本当に楽しみ」

 嬉しそうに話しているが、この話も臨海学校の話が出てからもう何度もしている。ルセナは俯いている玲太郎を見て苦笑した。

「海は眺める物で、浸かるなんて怖いのよ……」

「浸かるんじゃなくて、泳ぐんだよ」

「泳げないから、浸かるのと同じなのよ」

「オレが教えるから平気だって」

「うん……」

 臨海学校の話が出て以来、玲太郎は沈み勝ちだった。ルセナがどうにか気分を晴らそうと頑張っても、どうにもならなかった。

(これはもう通り過ぎるのを待つしかないんだろうな……)

 そう思うと、やはり苦笑をするしかなかった。

(明後日には海に行って、二泊三日だから五日後にはいつも通りに戻るはずだけど、本当に戻るのか?)

 一抹の不安を覚えたルセナだった。


 夕食の菜作りの最中も当然ながら集中が出来ず、手が留守になり勝ちだった。

「玲太郎」

「うん?」

 右側にいる颯を見上げる。

「包丁を使っているのに、そうも気がそぞろでは危ないから、此処ここまでにしておこうか。後は俺が遣るよ」

「え? 手伝う」

「自分の事しか考えていないのに?」

「そんな事…」

「あるだろう? 特別活動で臨海学校の準備が始まってからずっとそんな感じだけど、この数日は特に酷いぞ? そんなに海に行きたくないのか?」

 玲太郎は俯いた。

「行きたくない訳じゃないのよ。ただ、なんて言うの? ……行くのが不安なのよ」

「夜中は俺が行くから、漏らす事は気にしなくていいんだぞ?」

「うん……」

 颯は包丁を置き、玲太郎の傍へ行って玲太郎の手にある包丁を台に置くと、抱き上げて食卓へ向かった。椅子を引いて座り、膝に玲太郎を横向きで座らせる。

「何故そんなにも乗り気じゃないんだ? なんだったら臨海学校は休んで、水伯の所にいるか?」

「え、そんな事が出来るの?」

「出来るぞ。そうするか?」

「……」

 俯いて沈思した後、また颯を見る。

「はーちゃんは行くんでしょ?」

「それはな、担任だから当然行くよ。兄貴は玲太郎が行かないなら来ないだろうけどな」

 そう言って鼻で笑い、「絶対だな」と付け足して笑った。

「まあ、行きたくない理由は無理に話さなくてもいいけど、行かないのなら早く言えよ? 学校にも都合という物があるからな」

「行きたくない訳じゃないのよ……。なんて言うの? ……海に入りたくないのよ」

「それは行きたくないも同義じゃないか。海に入らないのなら、臨海学校に行っても仕方がないだろう」

「うーん……」

「泳げないもんな」

「海は眺める所で、入る所じゃないのよ」

「後、釣りをする所な」

 玲太郎は思わず鼻で笑った。颯は玲太郎を下ろし、立ち上がった。

「それじゃあ俺は続きを遣るわ。玲太郎はどうするか、きちんと考えて」

「ううん、手伝う。きちんと集中するからお願い」

「解った。また集中出来ていなかったら、一ヶ月手伝わなくていいからな」

「え! 一ヶ月も?」

「罰が必要だからなあ……」

 そう言うと台所へ向かった。玲太郎は後ろを付いて行く。

「罰はないのよ。きちんと集中するからね」

「どうだか」

 そう言うと振り返り、玲太郎を見て不敵に微笑んだ。

「きちんとやるのよぉ」

 颯を追い抜いて調理台へ向かった。玲太郎は言った通りにしっかりと集中して材料を切った。集中出来なければ一月手伝えないという罰が大きかったようだ。そして今日の味噌汁は玲太郎が味付けをした。丁度よいと思った所で味噌の投入を止めたが、いざ食べてみると少々濃く感じた。

「おかしいのよ。えー、どうして? どうして濃いんだろう?」

「味噌汁か? そうでもないぞ。そう言う程、濃くはないな」

 そう言うと味噌汁を啜って頷いた。

「そう?」

「うん。大丈夫」

「でも、はーちゃんが作る味噌汁より濃いと思う」

「そんな事はないな。俺もこれくらいの時はあるよ。なんと言っても目分量だからなあ」

「そう? うーん……」

「そんなに気に食わないのか?」

「気に食わないって言うか、なんだか気になっちゃって」

「味を決める時は少し薄いくらいにしておく事が骨だな。一口目より二口目の方が確りと味わえるから、二口目か、三口目で決めるという手もあるぞ」

 そう言って野菜炒めを頬張った。

「そういう事はもっと早く教えて欲しかった……」

 不満気な玲太郎は小鉢の玉葱と莢豌豆さやえんどうの鰹和えに手を伸ばす。頬張って数度咀嚼をする。

「おいひい」

 そう言って微笑み、咀嚼をしている。

「まあ、自分が作った物より、人が作った物の方が美味しく感じるように出来ているんだろうな」

「うん、ほえはあるあも」

 手で口を覆った玲太郎を見ながら白飯を頬張った。玲太郎は蜂蜜入りの梅干しを気に入って、毎日夕食時に一個食べている。

「そろそろ梅干を買い足しておかないとまたなくなるな」

 そう言うと野菜炒めを摘み、頬張った。

「あ、そうだった。後五個しかなかったんだった」

 手で口を覆う。

「それじゃあ夜中に買いに行っておくわ」

「僕も一緒に行く」

 颯は思わず玲太郎に視線を向けた。そのまましばらく咀嚼して飲み込む。

「無理して来なくてもいいんだぞ? 眠いだろう?」

 野菜炒めを頬張り、また玲太郎に視線を遣る。

「でも僕のだから、行っておかないと」

「ふうん」

 颯は咀嚼しながら玲太郎を見詰めていた。玲太郎は味噌汁を飲みながら颯を見ている。そして汁椀から口を離す。

「行くから、きちんと起こしてよ?」

 咀嚼をしながら軽く二度頷く。

「絶対に起こしてよ?」

 また軽く二度頷いた。口の中の物を飲み込むと微笑む。

「きちんと起こすから安心しろよ。まあ、毎日起こしているんだけど、玲太郎は夢うつつだもんな。起こされていても記憶にないだろう?」

 咀嚼をしながら「うーん」と唸る。

「まあ、毎日起こしているように起こすから心配はするな」

 玲太郎は咀嚼も程々に飲み込んだ。

「それじゃあ僕がきちんと目を覚まさなかったら置いて行くの?」

「起きるまで起こし続けるよ」

「分かった。きちんと起きる」

 笑顔で言い、野菜炒めを頬張った。


 玲太郎は体に纏わり付く感覚から、漏らしたと思って目を覚ました。すると、生温い液体の中で、視界には青い空しか映っていなかった。

『え? 何? 何!?』

 上体を起こすと、見渡す限り、海、空、水平線、そして颯がいた。

『ここは何? あ、どこ?』

『見ての通り、海』

 莞爾として答えると玲太郎の傍へ行く。

『位置としては和伍の南東で赤道付近だよ。時間的に海水が温まっていると思って、この辺りまで来たんだよ。和伍の南に行くとシピが出て来そうな気がしたからな』

 玲太郎は自分の体を見て、颯に視線を戻した。

『僕の服はどうしたの?』

 颯が指を差し、その方向に視線を遣ると服が浮いていた。

『少し泳ぐ練習を遣ろうと思ってな』

『……』

 玲太郎は颯に言いたい事を言わず、抑えていた。

『休日に遊ぶにしても、泳ぐなんて事が思い浮かばなかったんだよな。海は釣り場だから、泳いで遊ぶなんて考えた事もなかったんだよ』

 玲太郎は露骨に不快な表情になった。

『俺は釣りをする前に、海に落ちても溺れないように服を着たままで泳ぐ練習を遣らされたからなあ。あれは五歳か六歳の時だったな。……さて、玲太郎も泳げるように少しは練習を遣ろうな』

 そう言う颯の表情を見て、抵抗する気力も失せた。優しく微笑む颯から差し出された手に右手を置くと、水中で浮かされていた体が沈み、足が砂に着いた。肩が出る程の深さだった。颯は膝を突いた。

『先ずは水中で息を止める練習を遣ろう。別の言い方をすると潜る練習だな』

『息を止めて、沈めばよいの?』

『そう。俺も一緒に遣るから、目を開けられたら開けるんだぞ? 潜ってから目を開ける、だからな? 息を少しずつ吐いて、我慢が出来なくなったら顔を出すんだぞ? それじゃあせーので遣るぞ?』

『分かった』

 颯が玲太郎の左手を取り、両手を握った。

『……せーの』

 二人は息を深く吸って潜った。玲太郎は恐る恐る目を開けるとぼやけた颯の頭が見えた。ぼやけている所為なのかなんなのか、なんだか気持ちが悪くなった。少しずつ息を吐く積りでいたが、一気に息を吐いてしまい、直ぐに顔を上げ、海水が滴るままにした。颯は顔を浸けているだけで潜ってはいなかった。

『ふーっ』

 ようやく颯が顔を上げた頃、玲太郎は空を見上げていた。

『あ、終わったの?』

 海水が滴っている颯の顔を見た。

『玲太郎はもう終わっていたようだけどな』

『うん、終わってた』

『どうだった?』

『圧迫感が凄いのよ。苦しい。後ね、目を開けたらぼやけてて、はっきり見えなかった』

『だろうな。息苦しいのは仕方がないから、じっ分くらい練習を遣って、洗浄魔術で綺麗にしたら梅干しを買いに行こう』

『えー、十分も練習……』

『臨海学校だともっと遣ると思うぞ。此処で遣っておけば、臨海学校ではもう少し先を習えるな』

『どっちにしても、やるんだね……』

 嫌そうに言うと、静かに溜息を吐いた。下がる肩を見た颯が右手を離す。

『はい、これ』

 玲太郎は差し出された物を見て、颯に視線を移す。

『これは何?』

『水中眼鏡。これがあれば海中でも確りと見えるぞ』

 颯は左手も離し、玲太郎に近付いて水中眼鏡を着けて確認をする。

『こういうのがあるなら、先に出してよぉ』

『悪い、今思い出したわ。よし、大きさは大丈夫だな。俺はなくてもいいからな』

 颯は後ろへ下がり、また少し距離を取ると手を差し出した。玲太郎は手を置く。颯の合図でまた息を吸って潜った。今度は鮮明に見え、左右に顔を振って何があるのかを確認したが、何も見えなかった。息苦しさは変わらずあったにも拘らず、視界が鮮明になっただけで不快感が激減した玲太郎は、すっかり気を良くして三十分も練習に励んだ。

 蜂蜜入りの梅干しを買って帰寮し、目が冴えていた所為もあり、二人して入浴した。そして、玲太郎が水中眼鏡を気に入って浴槽でも着けて潜っていた事は言うまでもない。


 四日は、五学年は翌日に出発する事もあり、授業は午前で終了となっていて、玲太郎はいつもより軽い背嚢を背負って登校した。ヌトは昨日と打って変わって明るい表情の玲太郎に戻っていて驚いていた。

「わしは夢の中におったのか。いや、今、夢の中におるのか」

 髪に掴まって独り言を呟いていた。

「何を言ってるの?」

「わしは昨日、起きておったか?」

「起きてたよ。でも一時限目からあーちゃんの所にいたから眠ってた。その後は起きたり、眠ったりしてた」

「起きておったのであるな?」

「うん」

「わしはもう現実と夢の境が判らぬのよ」

「それは大変だね。でも今は起きてるから大丈夫なのよ」

「……という夢を見ておるのではなかろうか」

 玲太郎もこれには苦笑するしかなかった。

「明日から臨海学校だから、間で眠られないからね?」

「起きておるぞ、きっと」

「しっかりしてよね?」

「確りしておるわ、頭以外は」

「それじゃあダメじゃない」

「ま、どうにかなるであろうて」

「なんだか軽いなぁ……」

「こういった事はふこう考えても仕方あるまいて。夢の中でもわしはきちんと働くのよ」

「だから夢の中じゃなくて、起きてるのよ」

「解っておる。解っておるて」

 そう言って何度も大きく頷いた。

「昨日も颯を見ておったら、睨まれて視界が真っ暗になってしもうてな」

「それは夢ね」

「何っ、現実ではないと?」

「睨まれたら視界が暗くなるなんて、現実にある訳がないじゃない」

「……成程。それが夢であるか。わしは現実だと思うておったわ」

 首を傾げたヌトは「ふむ」と頷いた後、沈思した。その間に教室に到着し、机に背嚢を置いて着席する。いつもなら机に下り立つヌトは、髪に掴まったままだった。

(どれが夢か、それとも現実かを考えてるのだろうか? ふふ、考えても過去の事だから仕方がないのに。それに、昨日って言ってたけど、昨日じゃない可能性もあるよね。ヌトは毎日起きてた時も昨日と一昨日が分からなくなってたからねぇ)

 微笑んで窓の外を見た。空は曇っていて重苦しい雰囲気を漂わせていたが、玲太郎は昨日までとは違い、晴れ晴れとした気分だった。


 一時限目のサーディア語は二階の北棟に教室で授業を受け、二時限目は医務室の為、玲太郎は一人階段を下りていた。すると、玄関広間に明良の姿があった。目が合うと明良が微笑んだ。玲太郎が傍に行くと、明良が手にしていた手提げ袋を持ち、玲太郎は手を離した。

「ありがとう。こんなとこにいて、どうかしたの?」

「厠のついでに待っていたのだよ。玲太郎は厠に寄らなくても大丈夫?」

「うん、平気」

「それでは一緒に行こうか」

「うん」

 明良が手を出すと、玲太郎はそれを握った。南棟の一階は人通りが殆どなく、二人は並んで歩いた。医務室に到着すると明良が開扉し、先に玲太郎を入室させて手を離した。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 後ろ手で閉扉した明良は、荷物を玲太郎の机に置いた。玲太郎も背嚢を机に置く。

「今日は体育があるのだね?」

「うん、そうなの。今日は外なんだけど、この空じゃ中になるかも知れないね?」

「雨は降らないよ。曇り空というだけだからね」

「そうなの?」

「うん、あれも移動して行くからね。この後は晴れるよ」

「それなら良かった」

 玲太郎は着席して、背嚢から教科書を出した。それから鉛筆入れも出し、帳面を全て出して使う物を探す。

「玲太郎」

「うん?」

 正面に立っている明良を見上げる。

「昨日まで暗かったのに、今日は吹っ切れているね? 臨海学校が嫌ではなくなったの?」

「うん。はーちゃんが水中眼鏡を出してくれて潜る練習をやったんだけどね、それが意外と楽しかったから、泳ぐ練習を頑張ってもよいかなって思えて、気持ちが軽くなったのよ」

「そうなのだね。それは良かった。でもそのような物で気が変わるのならば、もっと早く言ってくれれば良かったのに」

「心配かけてごめんね。僕も水中が楽しくなるなんて思わなかったからね」

「障壁を大き目に張って潜れば、息を止める必要もないし、水中眼鏡も必要ないのだけれどね」

「それじゃあ泳ぐ練習にならないじゃない」

 笑顔で言いながら帳面を選び、残りを背嚢に入れた。

「ふふ、そうだね」

 少し寂しそうな表情になると、明良は自分の席に向かって着席する。

「これで玲太郎が泳ぐ練習を遣っている間は、大きな傘を砂浜に突き刺して監視する事が確定したね」

「よろしくお願いします」

 明良の方に顔を向けた。明良も玲太郎の方に顔を向けた。

「私はお漏らしが嫌なのだとずっと思っていたのだけれど、泳ぐ練習も嫌だったの?」

「どっちも同じくらい嫌だったのよ」

「そうだったのだね」

「お漏らしは今も心配なのよ。はーちゃんが来てくれるのは分かってるんだけど、それまでにしちゃったらどうしようって思っちゃって……」

「もう何年もしていないよね? それならば其処そこまで心配する必要はないと思うよ?」

 玲太郎は明良から視線を逸らし、暫くしてに戻す。

「……父上もはーちゃんも、実は言わないだけでしてるんじゃないかって思ってるのよ」

「成程。水伯は優しさから言わないと私も思うのだけれど、颯は言うからね。その颯が何も言わないという事は、していないのだよ」

「本当に?」

「違っていたら、玲太郎が食べたい物を食べに連れて行くよ」

 明良が満面の笑みを湛えた。玲太郎は信じていないようで、怪訝そうな表情のままだ。

「それならあーちゃんの手料理が食べたい。約束だからね?」

「解った、玲太郎の為に心を籠めて作るよ。その代わり、していなかったら、耳飾りの新作をお願いしてもよい?」

「分かった。そう言えば最近描いてないもんね。……九時限目が魔術だからはーちゃんに聞こうっと」

 そう言いながら手元の教科書に顔を向けた。明良は微笑んでその様子を見ていた。


 七時限目の音楽の後は体育で、運動場にある更衣室へ向かおうと席を立つと、目の前にルセナが遣って来た。玲太郎は微笑むと、椅子を机に入れてルセナと一緒に退室した。

「今日は滅入ってないんだな?」

「心配してくれてたの? ありがとう。沈んでたんだけど、昨日心配事が楽しみに変わったのよ」

「それなら良かった。泳ぐのはオレが教えるからな」

「よろしくお願いします」

 笑顔でルセナを見ると、ルセナも笑顔で玲太郎を見る。

「少しでも泳げるようになるといいな」

「うん」

 二人は前を向いて階段を下り始めた。

「それにしても、心配事ってなんだったんだ?」

「海に入る事。泳ぎたくなかったんだけどね、水中眼鏡を手に入れたら泳ぐのもよいなと思えてね」

「水中眼鏡か。あれは便利だよな。水中でも目を開けても平気なのがいい。オレも持って来れば良かったな……」

「臨海学校で貸し出してくれるってイノウエ先生が言ってたよ?」

「そうなのか! それはありがたいな」

「ダーリー先生はそんな事は全く言ってなかったもんね」

「そうだな。事故にあわないようにする事の方が大事だからだろうな。ダーリー先生は何かと注意事項ばっかりだったもんな」

「イノウエ先生も水は怖いからって言ってたのよ」

「でもオレ達は魔術で浮けるからな。とにかく、焦ったらダメだ」

「そうだね」

「沖の方まで足が着くって言ってたから、それが楽しみ。どこまで行けるんだろうな」

「僕は背が低いから、すぐ近くまでしか行けないと思う」

「オレがおぶって行ってやるよ」

「ふふ。お願いするね」

 ルセナは玲太郎が臨海学校へ行く事を楽しみに思えるように心変わりをした事が嬉しかった。玲太郎はこの数日、気鬱で周りが見えていなかったが、そんな自分を気に掛けてくれていた人物がここにもいた事に気付き、申し訳なくもあったが、嬉しくもあった。

 外に出ると、明良が言った通りに曇天は消え、白い雲が幾つか浮かんではいたものの、青空が広がっていた。


 体育が終わると一番に更衣室へ向かい、ルセナを待たずに屋内訓練所へ向かう。玲太郎の髪をひと房掴んでいるヌトは風ではためく旗のようになっていた。

「慌て過ぎではなかろうか」

「ルセナ君には聞かせたくない話があるのよ」

「ふむ。先に行くと告げたのはその為か」

「そう」

 ヌトは大きな欠伸をしてから目を擦った。

「どうしても聞きたい事があるのよ」

「それならば帰ってからでも良かろうて」

「それじゃあ遅いの。早く聞きたいのよ」

「成程。そう急いておっては転ぶぞ。気を付けろよ」

「転んでたのは赤ちゃんの時でしょ。今は転ばないのよ」

「そうであるか。つまずかぬように気を付けるのであるぞ」

「うん、気を付けるね」

 駆け足に近い早足で向かっていた。

「何やらこうしておったら、玲太郎が灰色の子と浮く練習を遣っておった頃の事を思い出すな」

「そんな事を覚えてるんだ」

「あれはあれで楽しかったからな」

 ヌトが頬を緩めていると、玲太郎は屋内訓練所へ入る。鍵付きの棚に荷物を突っ込むと、訓練所へ向かう。颯は的の方にいるのが視界に入り、そちらへ向かう。

「はーちゃん」

 颯が振り返り、軽く挙手をした。玲太郎も射場に下りて颯の傍へ行く。

「はーちゃん、聞きたい事があるのよ」

「どうした? そんなに急ぎの話なのか?」

 振り向いて玲太郎を見下ろすと、そのまま屈んで目線を合わせた。

「あのね、僕って夜にお漏らししてる?」

「お漏らし? してないけど、急にどうした? ……いや、本当に唐突だな?」

「あーちゃんが、はーちゃんが言わないからしてないって言うから気になって聞いたんだけどね、本当にしていないの?」

「していたら言うよ。夜の水分も控えさせるだろうけど、遣っていないだろう?」

「うん、やってないね」

「それは、お漏らしをしていないって事だよ」

「それならよいのよ。安心した」

 玲太郎が笑顔になると、颯も微笑んだ。

「遣っていたらきちんと言うよ。……そうだ、臨海学校の時は夜中に迎えに行くから、明日からもお漏らしの心配はしなくていいけど、その時に水分を摂るだろう? 念の為に何時いつもの半分にしておこうな」

「うん、そうする」

「喉が渇くだろうから、起きたら飲めるように水筒に入れておこうな」

「うん」

 安心し切った玲太郎は笑顔になっていた。颯は立ち上がると、次の的へ向かった。

「所で、今は何をしているの?」

「的の支柱を強化しているんだよ。亀裂が入っている部分もあったから、序に全部遣っている所」

「そうなの。遠くから一度に全部やれば簡単じゃないの?」

 振り返って、後ろを付いて来ていた玲太郎を見る。

「全体とか内側とかの修繕ならそうするけど、外側の修繕、それも少しだから、近くで見て遣った方が俺としては遣り易いからな」

「そうなの」

「うん。俺が頑丈に作り変えていたんだけど、まあ、持った方だな」

「ふうん?」

 的の後ろ側にも行って下の方を確認している。

「ま、颯が頑丈に作っても、生徒の中にそれを上回る力の持ち主がおるからな。それもあろうて」

「そうなの?」

 ヌトの方に顔を向けようとしたが、髪を掴んでいて見る事は出来なかった。

如何いかにも。壊せるのは玲太郎くらいであるからな。わし等でも出来ようが、玲太郎程、簡単には出来まいて」

 今度はハソが言う。

「ふうん」

「まあ、玲太郎の威力が凄くて、亀裂が入り易くなってしまっているからなあ」

 更に奥の的へ移動しながら、颯が大き目の声で言った。玲太郎は慌てて傍へ行く。

「あ、そういう事なの?」

 漸く気付いた玲太郎は驚いた表情をしていた。ハソはそれを見て苦笑する。颯は的の後ろ側へ行き、下の方を凝視する。

「普通の子に取って、これは本当に頑丈なんだよ。でも玲太郎に取っては違うからな。それが響いて他の子の玉の衝撃でこうなってしまっているみたいだな」

「それじゃあ、土の玉じゃない方がよいの?」

「土でも違う物でも同じだろうから気にするな。玉も徐々に小さくなっているし、その分衝撃も減って来ているようだからな。それよりも違う種類の玉を出す練習を遣った方がいいかも知れないな?」

「え……」

 颯が玲太郎に顔を向けると微笑んだ。

「土の玉一辺倒で他の玉を出している所を見た事がない。光の玉を出してもいいんだぞ?」

 思わず渋い表情をした玲太郎は俯いた。

「光ね……。それはね、大きいと眩しいから嫌なのよ」

「成程」

「玲太郎、火の玉は止めておけよ。あれは凶悪ぞ」

「自分で消せるから大丈夫だよ?」

 ハソに平然と言うと、また次の的へ向かった颯を追い掛ける。髪に掴まったままのヌトははためいていた。


 昼食後、掃除が出来る班は掃除をしてからの帰寮となった。玲太郎は室内訓練場の掃除をし終え、ルセナと共に帰寮した。寮長室に戻ってからは、教科書を勉強机の上置き棚に帳面を、本棚に教科書を戻した。ヌトはいつも通りに颯の寝台へ行って就寝した。

(もう眠ってる……。午後の間食がまだあるのに……。まあ、その時に起こせばよいからね)

 ヌトを横目で見ていた玲太郎は何も言わなかった。昨日から折戸の前に大き目の鞄が置いてあり、そちらへ視線を移すと歩き出した。昨日の内に大体の荷作りを終えていた。屈んで中を確認しながら、隣にある颯の荷物にも目を遣った。

(はーちゃんは服が少ないんだよね……。洗浄魔術が使えるから一着でよいのだろうけど、僕はそうじゃないから荷物が増えちゃって……、あ、もう本を入れてる。僕ももう入れてよいね。忘れ物をしてもあーちゃんかはーちゃんに連れて来てもらえばよいから、とにかく荷物がかさばらない事を心がけよう。あ、体操着は洗浄魔術をかけてもらわないといけないんだった。あ、そうだった。運動靴を履いて行くから、出しておかないと)

 机に置いてある手提げ袋から先ずは体操着を出し、それから運動靴の入った巾着を出した。その口を開けながら衣こうへ向かい、いつも履いている革靴の隣に置いた。

「よし、靴はこれでよいから、体操着ははーちゃんに洗浄魔術で綺麗にしてもらってからね。服もきちんと入れてるし、下着も入れたし、……あ、本だ」

 本棚の前に行くと、手を伸ばして巾着を机に置いた。それから本を探し始め、一冊選んでそれも鞄に入れた。玲太郎は勉強する気になれない事もあって、颯の寝台に上がって横になった。熟睡しているヌトの手を取って持ち上げ、徐に下ろす。起きない事を確認すると仰向けになって目を閉じた。


 いつも通りに終業した明良が瞬間移動で遣って来た。遣る気の全くない玲太郎は読書すらせず、颯の寝台で寝転んでいた。

「いらっしゃい。もう終わったの?」

 その姿に驚いた明良は即座に寝台脇に腰を下ろし、玲太郎の額に手を当てた。

「熱はないのよ」

 明良は小さく溜息を吐き、次に深呼吸をした。

「眠っている訳ではないという事は直ぐに解ったのだけれど、体調の良し悪しまでは判らなかったからね。明日の朝に出発するのに本当に大丈夫なの? 無理しないようにしなければね」

「明日から臨海学校でしょ。だからなんだか勉強をやる気になれなくて、ヌトと一緒に寝転がってたのよ」

 熟睡しているヌトを一瞥した明良は微笑んだ。

「あれは熟睡しているのであって、寝転がっているという表現は誤っていると思うのだけれどね」

「そう? 別によいじゃない」

 気の抜けた微笑みを浮かべると上体を起こした。

「お茶でも飲む?」

「もうすぐ夕食だから遠慮しておくよ。有難う。……そうだった。颯に冷蔵庫の中の物を持って行ってと言われているのだよね。二日いないから牛乳は忘れずに持って行かなければね」

「それ以外に何を持って行くの?」

 明良の左隣に行き、靴を履いた。先に明良が立ち上がる。

「野菜は夜に半分は使い切るからほぼ半分と言っていたよ。兎にも角にも牛乳と言われたよ」

「それじゃあ今紅茶に牛乳入れて飲むから、待ってもらってもよい?」

「勿論待つけれど、焦らなくてもよいからね」

「うん」

 先に隣室へ向かい、明良もそれに付いて行く。視界に鞄が入り、それに一瞥をくれた。小走りで台所へ向かう玲太郎の後ろ姿を見詰めた。

 水屋から茶器を出して来て準備を進めていると、明良が鉄瓶に水を入れて焜炉こんろに火を点けた。

「もう明日の準備が出来ているのだね」

「うん。僕は後、体操着を入れたら終わり」

「まだ体操着を入れていないの?」

「今日、授業があったからね」

「ああ、洗濯が出来ていないのだね。私が洗浄魔術で綺麗にするよ。何処どこに置いてあるの?」

「勉強机の上だけど、はーちゃんにやってもらうからよいよ」

「そう?」

「それより、牛乳も温めてもらってもよい?」

「解った」

 焜炉の下の棚から小さな鍋を出すと焜炉に置き、玲太郎が持って来た牛乳瓶を受け取って注いだ。

「これくらい?」

「はーちゃんの分も入れておきたいから、もう少し」

「颯も飲むの?」

「帰って来たらいつも飲んでるでしょ。だからついでに入れておくのよ」

「それではこれくらいでよい?」

「うん、ありがとう」

「どう致しまして。牛乳は調理台に置いておいて貰える? 持って帰るから」

 そう言って瓶を渡すと、玲太郎が持っていた蓋を閉めた。

「はーい」

 遅い返事をして言われた通りに調理台へ置く。そのまま茶葉を茶器へ入れて待機した。湯が沸く前に牛乳が温まり、先にそれを茶器に注いだ。玲太郎は茶器の蓋をして砂時計を引っ繰り返す。

「お湯の方は頼んだよ」

「はーい」

 明良は鍋を綺麗にして棚へ戻し、冷蔵庫の前に移動して扉を開けると野菜を見始めた。直ぐに焜炉の前にいる玲太郎を見る。

「この野菜、結構新しいよね?」

「月の曜日に買いに行ったからね。まだ二日しか経ってないのよ」

 そう言いながら明良の傍に来る。

「そう。更に二日置いたままとなっても大丈夫だと思うのだけれどね……。この量なら半分も持って行かなくても大丈夫そうに思えるのだけれど…」

「あのね、昨夜は煮物を作ってくれたんだけど、それが余ってて今日も食べるからね」

「成程、そういう事ね。それではその煮物を持って行こうか」

「え、それは嫌。美味しかったから食べたい」

 明良は正面を向いて、持って行く分の葉野菜を分け始めた。

「それではお浸し分程度は残しておくね。冷蔵庫にも入っている野菜があったけれど、あれなら大丈夫そうだから、葉野菜三種類を持って行くよ」

 両手で持っている葉野菜を調理台に置くと、焜炉の方に視線を向けた。

「玲太郎、沸騰しているよ?」

「あ」

 慌てて焜炉の方へ戻り、火を止めた。明良は微笑むと棚から溜め込んでいる紙袋の内の一袋を持って来て、それに牛乳瓶と葉野菜を入れた。そして近くにあった鍋の蓋を開けると、じゃが芋と玉葱と人参と牛蒡ごぼうの煮物が入っていた。すると、じゃが芋が一切れ浮いて明良の口に吸い込まれた。それを見た玲太郎は鉄瓶を持ったまま、立ち止まっていた。

「あー! あーちゃん、つまみ食いはいけないのよ」

「うん」

 咀嚼をしながら頷いた。玲太郎は踏み台に上り、片手を空けて茶器の蓋を取って熱湯を注いだ。

「ばあちゃんには劣るけれど、確かに美味しいね」

「そうでしょ。甘味が少ないけど、美味しいのよ」

 思わず手を止めて明良を見た。笑顔の玲太郎を見た明良も笑顔になる。

「余所見は遣り終えてからね」

「あ、うん」

 直ぐに視線を鉄瓶に戻して湯を注ぐ。その間に、明良は砂時計を引っ繰り返し、人参も頬張って蓋を閉めた。鉄瓶を鍋敷きに置いた玲太郎が、まだ咀嚼をしている明良を見る。

「まだ食べてるの?」

 明良が玲太郎を見て、手で口を覆った。

「今度は人参ね」

「あー、つまみ食いはいけないってさっきも言ったのよ」

「ふふ」

 玲太郎は眉を寄せて些か怖い表情をしていたが、ふと元に戻った。

「そうだった。あのね、はーちゃんにお漏らししてないか聞いたら、してなかったのよ」

「そうなのだね。それでは玲太郎に耳飾りの図案を描いて貰えるね。有難う」

「臨海学校から戻ってでよいよね?」

「うん、それで構わないよ。宜しくね」

 そう微笑み掛け、次の瞬間には口を開けて牛蒡を頬張った。牛蒡が口に飛び込んで行く瞬間を見た玲太郎がまた眉を寄せる。

「だからつまみ食いはダメなのよ」

 咀嚼をしながら笑顔を見せた。そこへ颯が戻って来た。

「只今。兄貴はまだいたのか」

 二人は声のする方に顔を向けた。

「お帰り。煮物、美味しいね」

「おかえりなさい。あーちゃんが煮物をつまみ食いするのよ」

「見付かってしまった事が運の尽きと思って諦めるしかないな。野菜、持って行って貰えるんだよな?」

「もう入れてあるよ。牛乳もね」

「それならいいんだけど、兄貴も茶を飲んでから帰るのか?」

 調理台に出ている茶器に目を遣った。明良は首を横に振る。

「ううん、これは颯の分だよ。私はもう夕食だからね」

「そうなんだな。有難う、玲太郎」

「うん? どうして僕だって分かったの?」

「なんとなく」

 そう言って微笑むと、玲太郎は苦笑した。

「なんだぁ、きちんとした理由はないんだね」

 颯は鼻で笑うと、玲太郎の頭を乱雑に撫でた。それを見た明良が袋を持つ。その音で玲太郎が明良の方に顔を向けた。

「それではそろそろ行くよ」

 颯も顔を向ける。

「おう、有難う」

「玲太郎、また明日ね」

「明日は一緒に臨海学校まで行くんでしょ?」

「そうだよ。月組の陸船に乗るからね」

「分かった。それじゃあ明日ね」

 明良は玲太郎に笑顔を見せて軽く挙手をすると、次の瞬間には消えていた。玲太郎は颯に顔を向けた。

「思ってたより帰って来るのが早かったね」

「そう? 本当なら十ろくしち時で終わっていたんだぞ?」

「ふうん、それじゃあ何をしてたの?」

おか船を造って、その後は暇だったからハソと一緒にニーティの授業に出てた」

 玲太郎は驚きの余りに口を開けて暫く放心していた。我に返ると一旦口を閉じる。

「……それ本当?」

「うん、授業を受けて来た」

「生徒に嫌がられなかったの?」

「視線は集めていたけど、授業が始まってしまえば別に気にならなかったなあ。それよりもノユが話し掛けて来て参ったわ」

 玲太郎は思わず笑ってしまった。

「みんなの前で話せないよね」

「まあな。それよりも、砂時計が落ち切っているぞ」

 砂時計に視線を遣ると、確かに落ち切っている。

「もう少し置いててもよい? 濃い方が好きなのよ」

「濃いのはいいけど、寝られなくなるぞ?」

「大丈夫。眠られるから」

「ふうん」

 玲太郎の後ろを通り、冷蔵庫の方へ行くと扉を開けて何かを確認し出した。玲太郎は一瞥してから茶漉しを左手に持ち、右手に茶器を持つと大き目の湯呑みに注いだ。

「今日は沢山食べないといけないなあ……」

「そうなの?」

「兄貴が半分も持って行ってくれていないからな。つい何時も通りに買ってしまって、後悔しきりだわ」

 扉を閉めて立ち上がり、調理台に近付いた。玲太郎はそれを見てから、また紅茶を注ぐ。

「仕方がないね。夜中に起きて、僕が食べるよ?」

「味噌汁の具にするわ。後はお浸しか、和え物にするか」

「全部作ろう」

 茶器を置いて顔を上げた。笑顔で颯を見ると、颯は湯呑みに視線を落としていた。

「味が変われば食べられるか。なんと言っても葉野菜だから熱すれば縮むし、俺が白飯の量を減らせばいいだけの話だな」

「煮物が余ったら、明日持って行ってもよい?」

 些か眉を寄せて玲太郎に視線を向けた。

「うん? 持って行きたいのか?」

「小腹が空いたら食べたいんだけど、ダメ?」

「うん、まあ、いいけど……、余らないと思うぞ?」

「どうして?」

「俺が食べてしまうから」

 そう言って笑顔になると、玲太郎は苦笑した。颯は湯呑みを二個共持ち、食卓の方へ歩き出した。玲太郎は踏み台を飛び下りて付いて行く。


 昼寝をし過ぎた玲太郎は眠られなかった。小さな光の玉を浮かべ、読書をしている颯の後ろ姿をずっと眺めていたのだが、不意に颯が振り返った。

「寝られないのか?」

「うん。実は昼寝をしたんだけど、寝過ぎちゃったみたい」

 颯は本に栞を挟んで閉じると机に置いて立ち上がり、寝台の脇に移動する。静かに腰を掛けて、玲太郎の方に向く。

「何を考えているんだ?」

「何も。はーちゃんの後ろ姿を見てただけ」

「二時間も見ていたのか?」

「時間は分からない」

「二十六時を過ぎた所だから、横になった時間は一時間半以上前だぞ?」

「そんなになるの? ぼんやり見てただけなんだけどね」

「目を閉じなかったのか?」

「瞬きはしてるのよ。でも眠くないのに、目を閉じてもね……」

「目を閉じないと寝られないじゃないか。目を開けたままでも寝られるのか?」

 玲太郎は寝返りを打ち、背を向けた。

「分かった。眠る。おやすみ」

「何処かに行くか?」

 玲太郎は勢い良く振り返った。

「それなら海へ行きたい。昨日の海」

 颯は顔を横に向けて右手で両眼を覆い、若干俯いた。

「あー、仕方がないな」

 手を退け、玲太郎を横目で見る。

「日焼けしないように日焼け止めの乳液を塗らないとな」

「ぬる!」

 上体を起こして寝台脇に座った。小さな光の玉が消え、集合灯が明るくなる。

「わしも行く」

 窓際にいたハソがいつの間にか傍に来ていた。

「それならヌトも起こしてみんなで行こうよ、ね?」

 颯を見上げると、颯は首を横に振る。

「寝かせておいてやれよ、な?」

 透かさず颯が言うと、笑顔だった玲太郎が口を尖らせた。

「起こして訊けば良いではないか」

 二人が同時にハソを見る。

「それが一番確かぞ」

「白い石を持って来る」

 玲太郎は机に置いてあった白い石を持って来てヌトの体に当てた。

「ひゃわっ」

 ヌトが飛び起き、全員の顔を見てからまた玲太郎を見た。

「揃ってどうかしたのか?」

「あのね、今から海へ行くんだけど、ヌトも行く?」

「海? ……ああ、学校な。わしが玲太郎の傍におらねばなるまいて」

「違うよ。臨海学校じゃなくて、和伍の近くの海だぞ。玲太郎が泳ぐ練習を遣るって言うから行くんだけど、ヌトも行くか?」

「行くに決まっておろうが。わしを置いて行く事はにん外の所業と知れ」

 目を擦りながら言い、言い終えると大きな欠伸をした。凝視していた颯が眉をしかめる。

「これは寝惚けているな」

「でも行くって言ったから一緒に行くのよ」

 苦笑している颯に懇願するように言った。

「解ったよ。どうしてもヌトを連れて行きたいんだな」

「海に浮かんで眠るに夕食を賭ける」

 ハソが真顔で言うと、颯はそれを横目で見る。

「誰の夕食を賭けるんだよ?」

「颯に決まっておろうが。わしは食べられぬのであるぞ?」

「大丈夫、白い石を持って行くから眠っても起こせるのよ」

「落としても知らないぞ?」

「音石入れの袋に入れるから落とさなくて済むのよ」

「解った。それじゃあ準備をするか。寝間着を脱いで、下着で行こう。水着を着るのは面倒臭いからな」

「分かった!」

「早くして呉れぬか。わしは待ち草臥くたびれて眠いぞ」

 目を擦りながら言っているヌトを見て玲太郎は微笑むと、急いで寝間着を脱いだ。颯は乱れた掛け布団を綺麗に伸ばし、その上に二人の寝間着を畳んで置いた。それから折り戸の前に置いてある鞄の方に行き、何かを手にして玲太郎の下へ来ると屈んだ。

「何?」

「日焼け止めだよ。兄貴が作ったんだけど、これが中々良くてな、玲太郎も昨夜付けていたんだけど、焼けていないだろう?」

 乳液の入った容器を逆さにして左手に落とし、容器をそのまま浮かせると人差し指と中指に付け、玲太郎の顔に少しずつ付けて行く。

「へぇ、そうなの? それじゃあ効果が高いんだね」

「そうだろう」

「付けてなかったらどうなってたの?」

「日焼けしていたと思うぞ。人に依っては赤くなるだけで焼けない事もあるけどな」

「ふうん」

「ほら、顔は自分で塗って」

「分かった」

 両手で頬に付けられた乳液を伸ばした。颯は玲太郎の体の至る所に付けて塗った。一度では足りず、三度に分けて塗った。

「まだであるか? わしは眠いのであるが」

 浮いたままで横たわっているヌトが寝言のように呟いた。

「はーちゃんは?」

「俺は塗らない。焼けてもいいからな」

「早くせぬか」

「解ったよ。もう行くから、ヌトとハソは玲太郎に触れて」

 颯は玲太郎の手を握った。気怠そうなヌトが徐に近寄って来る。

「漸くか……」

「もうよいぞ」

 ハソは既に玲太郎に触れていた。ヌトはいつものように玲太郎の後頭部に回り、髪を一房掴む。

「よいぞ」

「行くぞ」

「あ、待って! 白い石を袋に入れてない。袋を取って来るからもう少し待って」

 颯の手を離して机の方へ駆けて行った。ヌトが上下に揺れながらはためいていて、ハソも玲太郎に触れたままでくっ付いていた。仕方なく颯も付いて行く。音石入れが入ったままのそれを首から提げ、その中に白い石を入れた。振り返ると颯が手を差し出していた。

「忘れ物はないな?」

「うん、白い石は持ったから大丈夫」

「よし、行くぞ」

 玲太郎の手を強く握ると瞬間移動をした。


 翌朝、意外と目覚めが良かった玲太郎は颯よりも先に起きた。寝台脇へ行き、靴を履くと窓へ向かう。明るくなっている空を見ると、大きな雲が幾つか浮いている事が確認出来た。

「もう起きたのであるか? まだ七時を少し過ぎた所ぞ」

 ヌトが自力で起きる訳がない為、必然的にハソになる。

「おはよう。なんだか目が覚めちゃって」

 玲太郎はそれを理解していて、振り返らずに答えた。

「昨夜は楽しかったな。浮き輪という物で浮く事がああも楽しいとは思わなんだわ」

「僕もあれは初めてだったのよ。あれがあれば泳げなくてもよいよね」

「うむ。それにつけても、ヌトが、これは夢であると何度も言うとは思わなんだわ」

「夢と現実の区別が付いてないからね。あれは最近の口癖でね、夢であるとか、これは夢であろうとか言うのよ」

「そうであるか。何時もは長時間の睡眠なのであるが、此度こたびはそうではないからそうなってしまうのであろうな。わしとて夢の中におるような気がしてならぬが……」

 玲太郎は振り返ると、真後ろにいたハソを見た。

「ハソも夢を見るの?」

「見るぞ。わしが見るのではなく、透虫が見せて呉れるのよ」

「ふうん……」

 また窓の外を眺めた。

「此処は一階であるから、上空が見辛いのよな」

「それはあるね。でもハソなら、壁とか窓とか関係なく通って行くじゃない。上へ突き抜けて、上空なんてすぐに見られるでしょ」

「如何にも。しかしながら、こういう枠の中から見るのもまた一興という物よ」

「枠ねぇ……」

「煩いぞ……」

 俄に颯の声がして振り返ると、ハソはもう颯の方へ飛んで行っていた。

「済まぬ。玲太郎が起きたから話しておったのよ」

「ごめんなさい。小声のつもりなんだけど……」

 玲太郎も寝台の方へ向かう。

「颯は直ぐ眠るのであるが、起きる時も直ぐなのよな」

やかましい」

「もう起きればよいではないか」

「運動場に十二時集合だぞ。教師も十二時なんだよ……」

「朝食と間食は摂るのであろうが」

 玲太郎は靴を脱いで寝台に上り、颯の上に乗っかった。

「少し早いけど、もう起きようよ」

「今日からニーティと兄貴の三人で相部屋なんだぞ……」

「明良であれば、直ぐ眠り、そのまま静かに朝を迎えられるではないか」

「そうじゃなくて、起きている間は気を遣うって事だよ」

「ああ、ニーティと明良が然程仲が良くはないからであるな」

「まあ、普通に話はするんだけどな……。取り敢えず起きるわ」

 そう言うと玲太郎が宙に浮き上がった。

「わわわっ」

 玲太郎が焦っている下で掛布団を退けて、起き上がる。寝台脇に行って靴を履くと立ち上がった。

「わっ、今度は何? 何? 何?」

 玲太郎は颯の腕の中に下り、抱えられると静かになった。

「さてと、顔を洗うか。玲太郎もまだだろう? もう洗ったのか?」

「まだ洗ってないのよ」

 隣室へ行く颯の後ろを、ハソが機嫌良く飛んで付いて行く。地下ではなく、台所で口をゆすいで洗顔を済ませた二人は茶を飲む事にした。


 十二時十分前になると、運動場には続々と五学年の生徒が荷物を持って集合している。玲太郎は颯と共に二十分前に到着していて、既に乗り込んでいた。そして明良の希望で、玲太郎は最前列で明良と相席になっていた。

「わしは夢を見たのよ。海で遊ぶ夢をな。ハソと遊ぶなぞ何時振りぞ? そのような事が有り得る訳がないのであるから夢を見ておったに違いない。玲太郎、聞いておるか? わしはな、夢を見たのよ。それも鮮明な夢ぞ」

 玲太郎の膝の上で立ち、窓の外を見ながらヌトが延々と同じ事を言い続けている。同じ内容の話を十分も聞き続けて飽きていた玲太郎は聞き流していた。隣には明良がいて、いつもならヌトの話の所為で不快そうにするのだが、今日は莞爾として玲太郎の手を握っていた。

 乗り込んで来た生徒が皆一様に明良を見て驚いて通り過ぎて行く。玲太郎はその様子を見ていた。その間もヌトは独り言を続けていた。

「悪霊は一体何を言っているの?」

「夢の話。もうね、夢と現実の区別が付かないの。本当だったらずっと眠ってるでしょ。でも眠ったり起きたりを繰り返してて、訳が分からなくなってるみたい」

 明良も気になったようだったが、話している内容が判ると「そう」と返事をしただけで、それ以上は何も言わずに玲太郎を見詰めていた。

 背の高い生徒が率先して荷物を棚に上げてくれ、颯の遣る事は乗っている生徒の確認だけだった。生徒全員が乗り込んでから暫くすると扉が閉まった。颯がいない事に気付いた玲太郎が明良を見る。

「はーちゃんがいないんだけど、扉が閉まったよ?」

「そうだね」

 玲太郎に微笑んで頷くと手を離して立ち上がり、通路に出て後ろに向いた。すると、俄に話し声が止む。

「お早う。生徒が揃ったようなので出発します。イノウエ先生が特級免許の保有者で、ミカラコ海岸の臨海学校の施設まで十分前後で到着します。三台同時に操縦する事もあり、安全性を考慮して操縦士のイノウエ先生は外にいます。気分が悪くなる事があったら、私の所へ来て下さいね。直に動き出しますが、立ち上がらず、座っていて下さい。宜しくお願いします」

 一礼して席に戻ると着席し、玲太郎の手を取ってまた頬を緩める。次第に話し声が聞こえ始め、活気が戻ったた。玲太郎は右手を明良に預けたまま、窓の外に視線を遣る。隣の陸船が見えるが、校舎や寮が徐々に下へ移動している。

「うむ? 動いておるな? 若しやこれも夢ではあるまいな? ……有り得るぞ。何故なにゆえわしはこのような所におるのよ?」

 ヌトが玲太郎に顔を向けた。

「玲太郎、これはどういう事ぞ? 何処へ向かっておるのよ?」

 玲太郎は横目でヌトを見て眉を顰めた。

「誰も聞いておらぬわ。騒然としておるからな。今なら平気ぞ」

「あのね、臨海学校って言って、海の傍にある学校へ行くのよ。泳ぐ練習をやる為に行くんだけどね、今日と、明日と、明後日の午前中まで練習なのよ」

「成程? これは夢か?」

「現実」

「そうであるか。済まぬな」

 納得をしたのか、正面を向いてまた独り言を呟き始めた。玲太郎は明良を見ると、明良は既に玲太郎を見ていたようで目が合う。

「はーちゃんはどこにいるの?」

「外」

「それは分かってるんだけど、外のどの辺りにいるの? 真上?」

「前だよ。真ん中の陸船の丁度正面にいるよ、ほら」

 そう言いながら颯のいる方向を指で差すと、玲太郎はその先を見る。

「あ、いた。本当にいた」

 姿を見付けて安心したのか、玲太郎の表情が和らいだ。景色が遠ざかって行く様子を見る事もなく、颯を見詰めていた。

「ヌト、はーちゃんがあっちにいるよ?」

「おる事は知っておるわ。ハソが傍におるものな。それにつけても、何故ハソは颯が颯の傍におるのよ? わしが颯の傍におるべきではないのか? ……む? 待てよ? そう言えば、わしは玲太郎の傍におるのであったな。……はて、何時頃からそうなったのであろうか?」

 玲太郎は思わず苦笑した。ふと気になって明良の方を横目で見ると、仏頂面で玲太郎を見ていてまた目が合った。顔を向けて微笑み掛けると、複雑そうな表情で頬は緩めずに目を細めた。


 施設に到着すると、先ずは宿泊施設へ荷物を置きに向かった。一部屋に八人で一組につき四部屋となっているが、当然ながら男女は別棟となっている。そして部屋へ入ると、備え付けの鍵付き棚に荷物を入れてから掃除を開始した。ヌトは玲太郎の髪を一房掴んで付いて行く。

 掃除が終わると各部屋で水着に着替え、施設の玄関前に集合となっていた。水着は男女共に色は黒、上下に分かれている細身の衣服で、貴族は長袖と長ズボン、平民は半袖と膝丈のズボンとなっていてる。玲太郎は長袖と長ズボンだった。

「僕もそっちが良かった」

 ルセナを見て零すと、ルセナが笑う。

「平民じゃないとな」

「これだと貴族ですって大声で言ってるのと同じなのよ……」

「それよりも、さっき聞いたけど後二校いるらしいぞ」

「ここは大人気なんだね」

「そうだな。なんでもオレ達が使う場所に入り込んでたとかなんとか言ってたよ」

「えー、図々しいね」

「オレ達も入り込んでしまわないように気を付けないとな」

「そうだね」

 玲太郎は上着の裾をズボンに入れると、厚手の手拭いを手にした。棚の扉を閉めて魔力を流し、施錠した。

「僕は着替え終わったけど、ルセナ君は?」

「オレも。それじゃあ行くか」

「うん」

「もう最後の方だな」

「そうだね」

 この時の為に買って来た草履を履いた玲太郎はルセナと共に退室した。早足で行く二人は、宿泊する部屋から共同調理場を有した南棟に玄関があり、そちらへ向かって玄関広間に到着すると、玄関前に陣取っている教師の所に生徒が群がっていた。教師は一様に橙色の胴衣を着ている。

「何やってるんだろう?」

「浮袋を腕に着けてるんだろうな」

「ふうん」

 二人は扉が開け放されている戸口を通り、颯のいる所へ行く。

「先生、オレ達もいいですか?」

 生徒の腕に浮き輪を着けていた颯が一瞥をくれた。

「二人で着け合って貰ってもいいか?」

「はい」

「確り結べよ?」

「はい」

 返事をしたのはルセナで、玲太郎は颯の手元を見ていた。ルセナは浮き輪を一個取り、玲太郎の右腕に着ける。半円をかたどった金具が二個付いていて、それに帯を通して閉めた。

「きつかったら言えよ?」

「うん。ありがとう」

「私がルセナ君に浮き輪を着けますね」

 手の空いたルニリナが傍に来て、ルセナの腕に着け始めた。

「きついですか?」

 ルセナは先にどこまで締めればよいかを確認しているルニリナに顔を向ける。

「もう少しきつくてもいいくらいです」

「解りました」

 周りを見回していた玲太郎は明良の所に女子生徒が群がっている事に気付いて、颯に顔を向けた。

「イノウエ先生、アメイルグ先生の所に人が一杯いますけど、どうしてですか?」

「日焼け止めの乳液が貰えるから、そのまま其処で顔や手に塗っているんだよ」

「へぇ、そうなの」

「ウィシュヘンド君も行きますか?」

 玲太郎は笑顔でルニリナを見る。

「僕は既に付けてます」

「そうでしたか」

 ルニリナが穏やかに微笑み、もう一個の浮き輪を取ってルセナに渡し、更にもう一個を手にしてルセナの腕に着け始めた。

「きついですか?」

「それくらいでいいです」

「解りました」

「ウィシュヘンドはきつくないか?」

「僕はもっときつくてもよい感じ」

「それを早く言えよ」

「えへへ、ごめんね」

 ルセナは帯を更にきつく締めた。

「イノウエ先生、さっきね、僕達が使う場所に、他の学校の子が入り込んでたって聞いたんだけど、そうなの?」

 手の空いていた颯は腕を組んで浮き輪を着けていない生徒を見ていたが、玲太郎に顔を向けた。

「耳が早いな。此処は施設ごとに使える砂浜とか、海辺を区切っているんだけど、その区切りの目印を動かしていたんだそうだぞ。だからまた遣るかも知れないから注意していて欲しいと言われたんだよ」

「学校ぐるみでやってるって事?」

「そうなるな」

「えー、それは酷いね」

「王都の学校だそうだぞ。なんと言ったか、貴族しかいない学校だと聞いたけど、俺よりも兄貴が怒って抗議しに行ったからな。俺はその間に、その目印が動かせないように固定して遣った」

「ふうん。あーちゃんがねぇ……」

「その学校が使っている施設が真ん中なんだけど、両方の目印を動かしていたんだぞ。本当に驚いたわ」

「それは驚きますよね。でも、あちらはもっと驚いているでしょうね。なんと言ってもアメイルグ公爵が乗り込まれたのですよ」

 そう言ってルニリナが「ふふ」と笑った。

「はい、もうよいですよ」

 まだ玲太郎の浮き輪の帯を調整していたルセナが顔をルニリナに向ける。

「ありがとうございました」

 ルセナはまた帯の調整をする。

「ルセナ君も日焼け止めが必要なら、アメイルグ先生の所へ行って下さいね」

「オレはウィシュヘンドに付けてもらったので大丈夫です。ありがとうございます」

「そうですか。それではあちらに水中眼鏡がありますので、大きさのあった物を選び終えたら向こう側に並んで下さいね」

 ルニリナの言う向こう側には既に生徒が並んでいた。玲太郎はそれを一瞥して、ルニリナに視線を戻すと頷いた。

「はい」

「ウィシュヘンド、きつくないか?」

「うん、これくらいでよいかも。ありがとう」

「それじゃあ行くか」

「うん」

 玲太郎とルセナは水中眼鏡の置かれた場所へ行って幾つか試着してから選び、月組の列の後ろへ並びに行った。男女が入り交じって四列に並んでいて、二人は最後尾だった。皆が屈んでいて、二人も屈んだ。

「最後だったみたいだね」

「ゆっくり着替えたから仕方がないな」

「そうだね」

 それでも浮き輪を腕に着けている生徒が数人いるし、明良の所にも女子生徒が数人いる。いつもの無表情で対応している明良を見て、自然と頬が緩んでいた。


 注意事項の話やら、使用する場所の話やら、隣接する施設を使用している学校の話やら、準備体操やらの後、待ちに待った浜辺へと向かった。月組は颯の後ろに付いて行き、最南端の場所に到着すると、颯が大きな敷布を広げた。

「手拭いとか、荷物とか、持って来ていたら此処に置くように。自分が何処に置いたか、きちんと憶えておけよ」

 生徒は元気良く返事をすると、思い思いの場所へ置き始めた。玲太郎は海から遠い場所へ置き、それに付いて来たルセナが隣に置いた。玲太郎の手拭いは緑色で一際目立っていた。

「それじゃあ、泳げる者は此処に集まって貰えるか?」

「行って来るわ」

「行ってらっしゃい」

 ルセナは颯が挙手している傍へ向かった。二十人と結構な数がいた。

「二十…か。うーん、余るなあ……。まあ、いいか。それじゃあ泳げる者は、泳げない者と組んで、息を止めて顔を海水に浸ける所から教えて貰えるか? 若しもそれが出来るようであれば、息継ぎの練習か、浮く練習だな。体の大きい者は、出来るだけ体の大きい者と組んで欲しい」

「先生、余ったらどうすればいいんですか?」

 ヅツァークが透かさず訊くと、颯はそちらを見る。

「そうだな、……交代制にしようか。余ったら一人で泳ぐ練習を遣っていいぞ。但し、きちんと交代するようにな。ずっと遊んでいるようであれば、砂浜で見学して貰う。それから、ダーリー先生が先程仰っていたように、海水に浸かる時間は三十分、二十分休憩して、また三十分という間隔になるからな。沖の方へ行き過ぎないようにしろよ? ダーリー先生の笛が聞こえなければ困るからな。それじゃあ泳げない者と組んで貰えるか?」

 言い終えた途端、数人が走って行った。ルセナもその中にいて、玲太郎の下へ戻ると笑顔で肩を組んで来た。

「俺はウィシュヘンドをずっと教えるわ。少しでも泳げるようになろうな」

「よろしくお願いします」

「万が一おぼれても大丈夫なように、浅い所でやろう」

「僕がダーリー先生が言ってたようにおぼれたら手を離してね」

「俺が魔術で空中に浮かせるから安心していいぞ」

「本当? 焦ったらダメって言ってたけど、焦っちゃうと訳が分からなくなりそうだからよろしくね」

「おう、任せておけ」

 笑顔で胸を叩くルセナを見た玲太郎は笑顔になる。それから海へ視線を遣る。白波が砂浜へ寄せては引く様子を見ている。

(波ってこうなるんだ……)

 初めて見たそれに感動していた。

「草履はここで脱いで行こう」

「あ、そうだね」

 二人は裸足になった。玲太郎は砂が意外と温かくて驚いた。草履を手拭いの傍の砂上に揃えて置く。ふと颯の方に視線を遣ると、颯は挙手をして大きく手を振っていたが、それも直ぐに止めた。

「いいかー、遠くへ行き過ぎるなよー? 組んでいる者が溺れたら両手を大きく振るように! 直ぐに駆け付けるから、兎に角焦らないように! 解ったかー?」

 颯の声が響くと、生徒が声を張り上げて返事をした。それから少しして笛が鳴り、「海に入っていいぞー!」との事で、生徒が一斉に海へ駆け込んだ。


 玲太郎は後ろ向きで海中を歩くルセナの肩に掴まり、浮く練習と息継ぎの練習を同時に遣っていた。歩くとは言っても膝で歩いていた。一応遊泳禁止の場所には赤い浮きがあったのだが、そこと波打ち際の丁度真ん中辺りにいて、本当に浅くてルセナはそうせざるを得なかった。他の生徒もその付近で練習を遣るか、もう少し沖へ行っていた。

 浜辺では颯が大きな傘を連ねて日陰を作っていた。一本で五人は優に入る程の大きさだ。その南端には明良が敷布の上に座っていた。何を見ているのかは言うまでもない。その傍には麦藁帽子を被ったルニリナが立っている。颯は隣の組に同様の物を準備しに行っていた。

「っぷはーっ」

 玲太郎は足を着けて立った。

「少し休憩するね」

 ルセナより頭一つ分背が高くなった玲太郎は肩の力を抜いた。

「分かった。アメイルグ先生がこっちを見てるよ」

「え?」

 振り返ると、いつの間にやら大きな傘が並んでいるのが目に飛び込んで来た。

「傘が一杯あるね」

「うん」

「あ、あそこにいるのがアメイルグ先生だね。あの立っている先生はルニリナ先生? あれ? イノウエ先生はどこに行ったの?」

「今は海組の方にいると思うよ。イノウエ先生が星組の方に行ったと思ったら傘が出現したから、あれはイノウエ先生がやったんだな」

「そうなの」

「それにしてもここに来るまでのあの速さは驚きだよな。特級免許がいかに特別なのかが良く分かったよ」

 玲太郎は振り返ると微笑んだ。

「そうだよね。あの速さは凄いよね」

「ヤニルゴル地区に到着したような感覚だったけど、空気は違うし、海はあるし、生えてる木が全然違うから遠くへ来たんだなって分かったくらいだもんな」

「そうだね、南の方とツェーニブゼルの辺りとでは全く違うよね。こっちの方が暑いけど、ツェーニブゼルの方が湿気てる気がするのよ」

「あ、それはあるな。海沿いだけど、不思議とそんなに湿気てないよな」

「海から湿気た空気が流れ込んでるはずなのにね」

 二人は暫く雑談をした後、浮く練習と息継ぎの練習を再開した。それは笛が鳴るまで続き、浜辺へ上がって休憩する時は、明良に手招きをされてそちらへ行く事になった。

「ルセナ君、次でなくてもいいから、必ず誰かと交代しろよ」

 遣って来たルセナに颯が開口一番に言うと、ルセナは首を横に振った。

「オレはずっとウィシュヘンドの練習を手伝います」

「そうなのか。それなら、まあ、仕方がないか」

 そう言うと別の所へ行った。玲太郎は思わずルセナを見た。

「ごめんね、ありがとう」

「いいんだよ。オレがやりたいだけだから」

 二人が微笑み合っていると、明良が仏頂面になった。

「玲太郎、日焼け止めを塗り直しておこうか」

 明良の方に顔を向けると、首を横に振った。

「止めておく。イノウエ先生が一時間に一度でよいって言ってたからね」

「そう……」

 露骨に萎れると、玲太郎が苦笑する。

「次上がった時にお願いしてもよい?」

 一変して明るくなった明良は頷く。

「それでは次の休憩時間にね」

「うん」

 ルセナは明良の笑顔を見て唖然としていた。陸船に乗った時よりも顔が崩れていたからだ。見てはいけない物を見てしまったような気になり、直ぐに顔を逸らして海を眺めた。


 昼食と午後の間食は外注で届けて貰ったが、夕食は自炊となる。これも六人一組で、玲太郎はルセナの他にギシース・タオッカとニー=ロギ・トバクラ・シーゾイの女子二人、下期から転入して来たシューウ・イギラーとリラン・メチャーラがいた。イギラーは男子で、メチャーラは女子だ。

 玲太郎はルセナと野菜を切っていた。

「ウィシュヘンド君は貴族なのに上手だね」

 玲太郎の正面で芋を切っていたタオッカが感心して言うと、玲太郎が手を止めてタオッカを見る。

「料理は好きなのよ」

「そうなんだ。それに比べてルセナは悲惨だね」

 ルセナが切った人参を見て苦笑する。ルセナも手を止めてタオッカを見る。

「これは乱切りって切り方なんだよ。習っただろ?」

「乱切りはそこまでいびつな形にならないと思うよ」

 タオッカが眉を顰めて言うと、玲太郎も人参を見て苦笑する。

「煮込み料理だから、形はどうでもいいんだよ」

「でもこれとこれは半分にした方がよいよ? 大き過ぎるね」

 玲太郎が大きい物を差して言うと、ルセナは人参を見る。

「どれとどれって?」

「これとこれ」

 言われた物を手前に寄せて無言で半分に切った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「所で、誰がイカを切る?」

 ルセナが真ん中に置かれている烏賊いかを見た。

「僕、切った事がない」

 玉葱を切る手を休めずに言う。烏賊を見ているタオッカは首を横に振った。

「あたしもない」

「オレも当然ない。どうやって切るんだ? 縦に細長く切ってから半分にするか?」

「そうだね。食べ易い方がよいと思うから、その切り方で賛成」

「丁度二つあるから、あなた達二人で一つずつ切ってよ。あたしはジャガイモを切ってから晩茄を切るね」

 タオッカが逃げた。玲太郎はルセナに顔を向けると、ルセナも玲太郎を見た。

「それでいいよな?」

「うん、やる」

 そこへ颯が様子を見に来た。全員が颯を見る。

「手を切らないように気を付けるんだぞ」

 玲太郎だけが「うん、分かってる」と言った以外は「はい」と返事をしていた。颯は思わず鼻で笑った。

「アメイルグ先生が此処で一緒に食べるから宜しくな。量は多目に置いてあるから足りるとは思うけど……」

「あれ? イノウエ先生じゃなかったの?」

「俺は一班で食べる。今し方まで手伝っていたんだけどな」

「ふうん、そうなの。ルニリナ先生はどこで食べるの?」

「ルニリナ先生は星組」

「それじゃあ、ダーリー先生が海組?」

「そうなるな」

「分かった。ありがとう。あの、イカの切り方って、どうすればよいの?」

「これは大き目で肉厚だけど軟らかいし、火を通しても噛み切り易いから、少々大きく切っても大丈夫だぞ。好きなように切ればいいよ」

「例えば?」

 颯は思わず苦笑した。

「例えば横に切って輪にするとか、それを更に半分に切るとか、縦に切って三等分にするとか、二等分でもいいかもな」

「ありがとう。やってみるね」

「手を切らないように気を付けるんだぞ?」

「うん、分かってる。ありがとう」

 颯は微笑むと別の班の方へ行った。玲太郎は後ろ姿を暫く見ていた。

「このお肉って、どうすればいいんだろう?」

 野菜を切り終えたのか、イギラーが言うと、全員がそちらに顔を向けた。

「それはタレを作って、それをかけて焼くだけだよね」

 タオッカが言うと、ルセナが頷く。

「そう言ってた」

「それにしても、どうして十枚もあるんだろう? 多いよね?」

 イギラーが不思議そうに言うと、玲太郎が苦笑した。

「アメイルグ先生が結構食べるから、それで多いんだと思うよ」

「えっ、あんなに細いのに?」

 驚いたタオッカが思わず言った。

さん人前は食べるのよ」

「それは意外だね」

 うわさをしていると本人が遣って来た。

「私も手伝うね」

 白い前掛けをして玲太郎の隣に立った。玲太郎は明良を見上げた。

「先生、鳥肉を四枚も食べるの?」

「……私が一人で四枚も食べる事になっているの? 大きさがどれ程の物か知らないのだけれど……」

 面食らった明良は玲太郎がいて、思わず表情が崩れた。

「一人一枚で、先生が四枚じゃないの?」

 鳥肉を見て小さく頷く。

「成程、あれね。あれだと十等分にして、皆で分ければよいと思うよ。玲太郎が食べ切れなかったら私が食べるからね」

「あんなに多いのに、等分にするの?」

「多くて食べられないと思えば、食べてくれる人に譲ればよいと思うよ」

「なるほど」

「それは切り分けてから天火で焼こようか。それで今は何を遣っているの? 野菜を切るの?」

「野菜はもう大体を切り終えて、次はイカを切ろうとしてる所だから、先生にお汁作りをお願いしてもよい?」

「解った。材料は?」

「イカとね、ジャガイモと玉葱と人参と晩茄とこの煮てある豆」

「それとこの牛乳と、調味料だね。解った」

 焜炉の上に置かれた鍋を見ると、そちらへ行く。玲太郎以外は明良が来た事で萎縮していたが、明良は気にならないようで魔術で水を出して火に掛けた。調理台にある牛乳瓶を魔術で引き寄せ、蓋を開けてそれも全部入れた。

「晩茄は切る前に皮を剥くからね。晩茄のへたの反対側に軽く十字の切り込みを入れて、湯に潜らせるのだけれど、誰か遣って貰える?」

「はい、僕がします」

 手の空いていたイギラーが挙手した。明良はイギラーを見る。

「それではお願いするね。今、湯を沸かすからね」

「はい」

 明良は近くにあった鍋に水を入れ、火に掛けた。イギラーはタオッカの傍へ行き、晩茄を受け取ると自分が使っていたまな板の前へ移動した。玲太郎はルセナと相談しながらイカを切り始めた。

 明良がいたお陰で五班は手際良く作り終え、食事中も静かに時が流れ、後片付けは調理台の掃除も含めて短時間で終えたのだった。


 二十三時を過ぎた頃、玲太郎は大浴場で初めて皆と一緒に入浴し、四歳になる前から成長が止まっているとは言え、自分が一番小柄である事を思い知らされ、改めて体の小ささに落胆した。

 そしていつもなら入浴後に水分補給をする所だが二口飲む程度に控え、二段になっている寝台の上へ行き、水筒を枕元に置いて横になる。その下を陣取っているルセナは、玲太郎が下りて来なかった為に様子を見ると、掛け布団も掛けずに寝息を立てていた。梯子を上り、玲太郎を少し浮かせて掛け布団を掛けて下りた。

「悪いんだけどウィシュヘンドがもう寝たから、なるべく静かにしてくれないか」

 賑やかだった部屋が静まり返った。それからは小声で話す程度になった。ルセナは枕元にある照明を点けて読書を始めた。

 珍しく起きていたヌトは、玲太郎の枕元で胡坐を掻き、腕を組んで玲太郎を見ていた。

 消灯はいつも通りの二十七時で、颯が遣って来て「早く寝ろよ」とだけ言って集合灯を消して行った。玲太郎以外は枕元の照明を点けていた。

 二十九時になると見回りの颯が入室して来たが、起きている生徒はいなかった。掛け布団をめくって玲太郎を浮かせると抱え、瞬間移動で厠へ向かった。

「玲太郎、起きて。厠だぞ」

「……うん」

 返事をするだけで起きないのはいつもの事だった。颯はズボンと下着を脱がせ、玲太郎を浮かせて便器に座らせた。

「しっこを出して。しーしー、しっこを出すんだぞ? しーしー」

「……しーしー……」

 力なく、寝言のように言い、颯も続けて言っている。

「しーしーしーしー」

 目覚めていなくても颯の声が届いているのか、少しずつ出した。颯は音が止むまで「しー」を言い続けた。それが終わると下着とズボンを穿かせ、玲太郎を抱える。それから誰もいない調理場へ行き、魔術で湯呑みを出し、水を半分入れて玲太郎に声を掛ける。

「玲太郎、水を飲んで」

「……」

 返事はしなかったが、半開きの虚ろな目で湯呑みを見て颯の手に両手を添えた。颯は湯呑みを口元に持って行き、玲太郎が飲むに合わせて徐々に傾けた。

「よし、もう綺麗に飲んだから寝ていいぞ」

「……」

 小声で何かを言った。

「お休み」

 颯は湯呑みを消して瞬間移動した。玲太郎を寝台に寝かせると掛布団を掛け、暫く玲太郎の様子を見てから姿を消した。


 翌朝、六時二十分を少し過ぎた頃に目を覚ました玲太郎は、見知らぬ天井を見て飛び起きた。周りを見渡すと、窓掛けが掛かっていて薄暗い中、二段の上段の寝台で眠っている生徒が見える。

(あ、臨海学校だったんだ。いつの間にか眠っちゃってたんだね)

 振り返って、宙に浮いて眠っているヌトを見て微笑んだ。口を濯いでいなかったが、水筒を手にして水を飲む。何も考えず、全部飲み干してして一息吐いた。水筒を枕元に置き、ヌトを起こそうと白い石を探す。

(音石入れの袋がない……。どこに置いたのか、……あれ? 覚えてない……)

 枕を上げたり、水筒を上げたりして探すも、首から提げているのだから探した所で見付かる筈もなかった。掛け布団を捲り上げて探している途中でそれに気付いた玲太郎は白い石を取り出し、漸くヌトを起こす。

「ぎゃわっ」

 伸ばしていた足を引っ込め、足の裏をさする。

「足の裏は止めぬか……」

「丁度よい所がなくて、ごめんね。おはよう」

 小声で言うと、ヌトは横に回転して仏頂面を玲太郎に向ける。

「……お早う」

「厠に行って、顔を洗うから付いて来て欲しいのよ」

「解った……」

 目を擦りながら上体を起こし、梯子を下りる玲太郎に付いて行く。草履を履いた玲太郎は棚の扉を開けて、鞄の中から刷毛と歯磨き粉の入った袋と手拭いを取り出した。静かに閉扉し、今度は部屋の扉を静かに開ける。

「此処は何処よ? 何時もと違う場所ではないか」

 後ろ手で静かに閉扉して手拭いを広げると首に掛けた。

「あのね、臨海学校でミカラコ海岸って言う所に来てるのよ」

「成程」

「後、これ持ってて」

 袋をヌトに差し出すと、それを透かさず受け取った。いつもは厠の出入り口で待つヌトは、そのまま個室の中まで付いて行く。振り返った時にヌトと目が合ってしまった玲太郎は不快感をあらわにした。

「外で待っててよぉ」

「何を言うておる。わしは玲太郎が赤子の頃、おしめを替えておったのであるぞ。そのわしなのであるから、よいではないか」

「ほら、早く外へ行って」

「む。それでは後ろを向いておくから、その間に遣れ」

「えー……。まあ、それなら……」

 背を向けているヌトの後頭部を見ながら小用を済ませ、扉を開けて手を洗うと廊下へ出た。廊下に洗面所があり、そこで歯を磨いて洗顔を済ませた。

「はー、さっぱりした。まだみんなが起きるまで時間があるからどうしよう?」

「この外周りを一周すれば良かろうて。気に入れば二周、三周してもよいぞ」

「それじゃあそうする」

 荷物はそのまま持ち、南棟へ向かう。調理場の扉の前を通り掛かると、中から物音が聞こえて来る。

「朝食の準備をしてるみたいだね」

「明良ぞ」

「うん?」

「遣っておるのは明良よ」

「え? そうなの?」

 次の扉を開けて中を覗くと、明良が椅子に座っていた。

「おはよう」

 明良が咄嗟に振り返る。玲太郎を見て微笑んだ。

「お早う。早いのだね」

「うん、早く眠ったみたいで、目が覚めちゃった。何をやってるの?」

「約七十人前の朝食作り。体の大きな生徒や、颯に私がいるから多目に作っているのだよね」

「一人でやってるの?」

「ご覧の通り。魔術で遣ってしまえば簡単だから一人で十分だね。でも時間があるから、きちんと水を沸かしているのだけれどね」

「そうなの、凄いね」

「其処にいないで、中に入ってくればよいのではないの? お茶でも淹れようか?」

「お茶はいらないけど、中に入るね」

 閉扉して、明良の下へ行く。明良は隣の椅子を引き、玲太郎の手を引っ張って座らせた。

「朝食は何?」

「麺ぽうと、玉葱と人参が入ったじゃが芋の擂り流しに、乾酪とじゃが芋と白身魚の天火焼き、それから焼いた燻製肉と茹で玉子と生野菜だね」

「意外とあるんだね」

「朝は確りと食べておかないとね」

「お腹空いた」

「ふふ、もう直ぐ食べられるよ。…それにつけても、何処へ行こうとしていたの?」

「早起きしちゃったから建物の周りを散歩をしようと思ってたんだけど、物音がするから何かと思ったら、あーちゃんがいるってヌトが言うから覗いたのよ」

「そうなのだね。でも、外へは出られないよ? 玄関は施錠してあるからね」

「なんだぁ、そうなの? それは残念」

 明良は玲太郎の頭を撫でる。

「食後は外に出られるよ。散歩が出来るようにはするそうだからね。でも砂浜へは行かないようにね」

「建物の周辺だけ?」

「そうなるね」

 玲太郎は「ふうん」と言いながら何度も頷き、幾つもの鍋の中で玉杓子が回っている様子を見た。

「あーちゃん、鍋を見てなくてもよいの?」

 明良は撫でる手を止めて、玲太郎が指を差している方を見る。

「鍋は掻き混ぜているから大丈夫。もう少し煮て、人参が軟らかくなった頃に火を止めるよ。後は余熱でもう少し軟らかくなるだろうね」

「出来上がっても時間がありそうだけど、冷めちゃうんじゃないの?」

「魔術で温め直せばよいだけだから、その辺は気にしていないね」

「なるほど。どうして向こうは五人もいるの?」

彼方あちらは手作業だからね。それに合わせて私も作り出したから、かなり早く出来上がってしまうのだよね。だから玲太郎も此処にいない?」

「それじゃあいる。みんな眠ってるから、部屋に戻っても読書するしかないからね」

 そう言って微笑むと、明良が満面の笑みを湛える。

「嬉しい。それでは起床時間まで話そうね」

「あーちゃんは朝食作りがあるでしょ」

「遣りながらでも話せるだろう?」

「ん~、邪魔にならないようにするね」

 苦笑している玲太郎の左手を取り、両手で握った。明良はすこぶる上機嫌で、それを見下ろしていたヌトは大きな欠伸をすると横たわって目を閉じた。


 朝食後、玲太郎は散歩に行かず、ルセナの寝台に腰を掛けて二人で会話を楽しんでいた。集合時間は八時半となっていて、二十分前には水着に着替えて玄関広間へ行ったが、外には昨日より多くの人が群がっているのが見え、人が減るまで約十分もその場に待機する事となった。

 今日は颯が玲太郎に浮袋を装着し、ルニリナは昨日同様にルセナに装着をしていた。結局、また最後尾に並んだ二人は苦笑していた。

「二十分前に来てもダメなんだね」

「そうだな。オレ達と同室のヤツらが早く行っただけかと思ったら、みんなも同じ事を考えていたんだな」

「そうだね。明日はもう少し早く行動するね。ごめんね」

「オレも大丈夫だと思ってたから一緒だよ。ごめんな」

 二人は笑顔を見合わせていると、後ろに明良が遣って来た。玲太郎が目を丸くする。

「どうしたの?」

「もう乳液に用事のある子がいないようだからね。今日は一緒に浜辺へ行こうと思って」

「そうなの」

 一緒に振り返っていたルセナが玲太郎から明良へ視線を移す。

「アメイルグ先生、少し聞いてもいいですか?」

「何?」

「昨日、隣の砂浜を使っていた学校が途中からいなくなってましたけど、何かあったんですか?」

「それはルセナ君が知る必要はない事だと思うよ。この学院同様に、午後に帰る為に上がったのかも知れないのだからね」

「そうですか。分かりました。ありがとうございます」

「一つ教えておくけれど、その理由に繋がりそうな事が今日の新聞に掲載されていたよ。それを読めば判るのかも知れないね。また貴族が叩かれるような内容だったのだけれどね」

 それを聞いて目を丸くしたのは玲太郎だった。

「えっ、どうして新聞に載ってるの?」

 無表情だった明良は玲太郎に顔を向けると表情を和らげた。

「何故だろうね? 此処を管理している職員の話も掲載されていたよ」

「そうなの……。新聞って、父上の新聞社でしょ? 何もないとよいのだけど……」

「文官貴族程度がどうこう出来る相手ではないから何も起こらないよ。大丈夫」

 不安そうな玲太郎に微笑み掛けたが、玲太郎の不安が和らぐ訳ではなかった。

 昨日と同じ注意事項をされた後、準備体操を十分に遣ってから浜辺へ向かう。月組は最後だ。明良は玲太郎の後ろを少し離れて付いて行く。玲太郎の髪に掴まっているヌトが邪魔だったが、後ろ姿を見て些か頬を緩めていた。


 玲太郎とルセナは昨日より少し深い所に来ていた。玲太郎の足が着かない為、ルセナの肩に手を置いて常時足を動かして海水を掻き、なんとか浮いている。

「昨日帰ったって事は、今日は別の学校が来てもいいようなもんだけど、来てないな」

 区切りとして浮いている赤い浮きの向こうを見ながら言った。

「気になってるみたいだけど、新聞を手に入れて読んだ方がよいのではないの?」

「ここで新聞が買える訳がないだろ? 近くに店があるって聞いたけど、どこにあるのかが分からないんだぞ?」

「場所はイノウエ先生に聞いて、夕食準備前にある自由時間に行こうよ」

「行かせてもらえないと思うけど……」

「それは有り得る」

 ルセナは「うーん」と唸り、腕を組んで黙考した。玲太郎はそれを見て苦笑する。そして遠くに見える大きな傘に目を遣った。玲太郎の足が着かない場所というのは結構な沖に位置する。頼みの綱は思案に暮れ、もう一つの頼みの綱は仰向けになって横たわり、頭上に浮いていてこちらを見ていない。その上、ノユとズヤが傍にいて、何やら話をしていたが、声が同じで誰が話しているのかの区別が全く付かず、内容までは聞いていなかった。

(なんだかとっても不安になって来た……)

 思い切り息を吸い、頬を膨らませて海面に顔を浸けた。地面の砂が見え、小魚が泳いでいて驚いた。顔を上げるとルセナを見る。

「ルセナ君、魚がいるよ!」

 俄に声を掛けられて驚いたルセナが玲太郎に顔を向けた。

「お、そうなんだな。それじゃあ泳ぐ練習を始めるか」

「その前に、見てみて、小さな魚が何匹かいるのよ」

 燥いでいる玲太郎を見て微笑む。

「分かった」

 鼻から息を吸って顔を海面に浸ける。息の続く限りそのままでいた。確かに玲太郎の言った通りに小魚がいる。顔を上げると小刻みに呼吸をする。

「すげえ! 思ったより沢山いるじゃないか!」

「でしょ。人が怖くないのだろうか?」

「怖くないんだろうな。そうでないと、こんな所にまで来ないよ」

 ルセナは満足そうに笑顔で玲太郎を見る。

「それじゃあ練習を始めよう。この位置だとオレも膝で歩かなくてすむから楽そうだ」

「よろしくお願いします」

「ゆっくり進むから、顔を横に向けて息継ぎをする練習な」

「はーい!」

 元気良く返事をするとルセナが頷く。

「それにしても、足の辺りの海水は冷たいのに、上は温かいね。温かいというか、ぬるい」

「まだ温まってないんだろうな。なんてったって九時前だから、仕方がないのかも」

 ルセナは周りを見渡して玲太郎を見た。

「この辺は人がまばらだからぶつかる心配もないし、泳ぎまくれるぞ。オレが泳ぐから、後ろから肩につかまって息継ぎの練習な。疲れたらきちんと言えよ?」

「うん、分かった」

 ルセナの左肩に置いていた右手を左手に換え、ルセナが体を動かして背を向けると、右手を右肩に置いた。

「お願いします」

「よし、行くぞ」

「うん」

 ルセナが泳ぎ出すと、玲太郎は顔を浸けた。見えるのはルセナの背中で、近過ぎてほぼ真っ黒だった。玲太郎は自分の体が浮いていて、ふとした拍子に海面上に出ている事を感じた。

(浮いてるにしても、浮き過ぎじゃないの?)

 そんな疑問が頭をよぎるが、海中を進んでいる感覚の方が気になった。思った以上に速く進んでいる。波が遣って来る度、上下に大きく揺れる感覚も気になった。

 一頻ひとしきり練習を遣り、玲太郎の足が着く場所で休憩をする。

「今日はなんだか波が高いね?」

「そう言われればそうだな。昨日は全然波がなかったのに、今日はあるな。あれ程度なら泳ぎに影響がないから気にならないけど、ウィシュヘンドは気になったのか?」

「うん。なんだか気になっちゃって……」

「クミシリガ湖でも波のある時があるし、高い時は本当に高いからな。海はもっと凄いって聞いてたから、これ程度なら全然マシだよ」

「そう? クミシリガ湖は一度だけ釣りに行ったんだけど、波が全くなかったのよ。風がなかったからなのかも」

「そうだな、風がなかったからなんだろうな。釣りは何を釣ったんだ?」

「えっとね、なんだっけ、た……、タント、……タンティモッテ? とかなんとか言う魚を釣ってた。僕は坊主だったのよ」

「タンモティッテ! イノウエ先生が釣ったって言って、去年食べさせてもらった!」

「そう、それ。タンモティッテね。イノウエ先生とアメイルグ先生の三人で行ったんだけど、僕だけ坊主なのよ……」

「それは残念だったな。オレも釣りはしてたけど、タンモティッテなんて大物にはお目に掛かった事がない……」

「そうなの? 船で沖の方に行ってね、みんなは一杯釣ってたのよ。僕は一人糸を垂らし続けてた」

「あはは。そういう時もあるよ。一緒に釣りに行きたいな」

「本当? それじゃあ行こうよ。イノウエ先生が来ちゃうけど、よいよね?」

「うん、構わない」

「アメイルグ先生は来ないようにするからね。アメイルグ先生が来ちゃうと、僕も少しばかり困るのよ」

「少しだけ分かるような気がする」

「うん? 何が?」

「アメイルグ先生がああなってしまう事が」

「ああなるって? どうなってるの?」

 ルセナは莞爾として玲太郎を見ると肩に手を置いた。

「ウィシュヘンドはアメイルグ先生に愛されてるって事だよ」

 そう言うと肩を優しく二度叩いた。

「ふうん?」

 玲太郎は理解に至らなかったが、悪口を言われた訳ではない事は理解出来た。

「よし、もう少し練習だな。その内に笛が鳴るだろうから、それまで頑張ろうか」

「うん! 息継ぎの練習に大分慣れたのよ」

 後ろを向いたルセナの肩に手を置き、先程と同様にルセナが泳ぎ出した。玲太郎は大きく息を吸い、海面に顔を浸ける。


 二十分の休憩中、大きな傘の下ではなく、日差しを浴びて休憩する生徒もいたが、玲太郎は明良の隣に座っていた。

「もう直ぐ間食の時間だから、このまま一時間は休憩だね」

「え、そんな時間になるの?」

 明良は懐中時計を玲太郎に見せる。

「あ、本当に十一時に近いね。ありがとう」

 懐中時計を上着の衣嚢に入れると、また玲太郎に顔を向ける。

「また此処で食べて、そのまま休憩して、それから練習再開だね」

「学校にいる時より、時間が経つのが早いね」

「それだけ練習を頑張っているという事だね」

 玲太郎は明良を見て微笑むと、直ぐルセナに顔を向けた。

「もうすぐ間食だって」

「早いな。でも腹が減ってるからそんなもんか」

「僕もペコペコなのよ」

「学食の間食が美味しいと思ってたけど、ここの方が美味しいな」

「それは言えてる。タレの味が違うよね」

「そうだな。今日はどんなのが出て来るんだろ」

 ルセナが笑顔になると、玲太郎も釣られて笑顔になった。すると、二箱を後ろに浮かべ、一箱を持った颯が生徒に何かを配っている姿が視界に入った。

「あ、来たみたい」

 ルセナは玲太郎の視線を見て左に顔を向けた。颯がこちらに来るまでずっと見続けた。

「お待たせ。ルセナは魚と玉子を一個ずつな。それと飲み物」

 先ず油紙に包まれている物を二個渡すと、ルセナは受け取って膝に置く。それを見てから紙製の湯呑みを渡す。

「ありがとうございます」

「どう致しまして。ウィシュヘンド君は玉子一個と、飲み物」

 両方の掌を広げている玲太郎を見ると微笑んで、片手に一つずつ置いた。

「ありがとう」

「どう致しまして。それじゃあ兄貴な。箱ごと置いておくよ」

「有難う」

「どう致しまして」

 頷くと明良の後ろ側に行き、座り込んだ。

「あーちゃんは何個なの? 昨日と一緒?」

「そうだよ。今日も五個。魚二個と豚肉二個と玉子一個ね」

 箱の中から一個取り出し、油紙を広げ始めた。玲太郎はそれを見て紙製の湯呑みを横に置き、倒れないように砂に押し込んだ。

「食べられなかったら私が食べるからね」

「うん、ありがとう。でも食べられると思うよ。昨日も食べたもん」

 油紙を広げながら言い、明良を見た。すると明良が微笑む。海の方を向いて座っている颯が、二人の遣り取りを見ながら具を挟んだ麺麭をかじった。

「んん、はかなおいひい」

 玲太郎と明良が振り返った。明良は直ぐに前を向いたが、玲太郎は凝視したままだった。颯は見詰め合ったまま、口の中の物を飲み込む。

「玉子と魚、交換するか?」

「え、よいの?」

 颯が箱から一個取り出すと差し出した。

「広げちゃったから待って」

「ああ、そのままでいいよ」

 玲太郎の手から浮き上がって颯の方へ飛んで行く。

「ごめんね、ありがとう」

 差し出されていた物を受け取った。

「それだったら私が交換したのに」

「もうしてもらったから大丈夫。ありがとう」

 不満そうな明良に微笑み掛けると、また油紙を広げ始めた。麺麭からはみ出た魚の揚げ物を見て、そこを齧る。数度咀嚼して頷く。

「うん、おいひい」

「此処の物は垂れに香辛料が効いていて美味しいよね」

 明良が言うと、玲太郎は顔を向けて頷いた。今度は一人黙々と食べているルセナに顔を向けると、口の中の物を飲み込んだ。

「魚も美味しいね。僕、全部玉子にしてたから、なんだか損した気分なのよ」

「どこのか知らないけど、ここのは全部美味しいぞ?」

「そうなの? 確かに玉子も美味しいけどね」

 ルセナと仲良く話している様子を見ていた明良が何かを言おうと口を開けた。

「兄貴」

 途端に颯が小声で呼ぶ。些か不機嫌そうに颯に顔を向けた。

「何?」

「邪魔はするなよ」

 また小声で釘を刺されると、明良は苛立って些か眉を顰めた。玲太郎はルセナと会話をしながら食べ進めた。明良は玲太郎の後頭部を見ながら寂しく食べた。颯は食べ終えて茶を飲み干すと、箱を持って生徒からごみを回収し、そのままどこかへ行ってしまったが、次に戻って来た時は水筒が入った箱を持っていて、一人に二本ずつ配った。

「はい、兄貴。三本で足りるか?」

「有難う。足りなかったら調理場へ行くからよいよ」

 ルセナが颯に顔を向けた。

「イノウエ先生、これ一本、音が変なんですけど……」

 颯がルセナを見ると苦笑した。

「振ったのか? 一本は凍らせてあるから、飲むならもう一本の方を飲めばいいよ」

「なるほど、凍ってたんですね。ありがとうございます」

「これ凍ってるの?」

 玲太郎は両方を振った。確かに片方は振った時の手応えが違った。

「うん、一本はな」

「私の物は三本全部凍っていないよ? 凍っているような音がしない」

 明良が魔術で三本を同時に振っている。水筒の中で液体が揺れて立てている音が聞こえた。

「兄貴は自分でどうとでも出来るだろうが」

「私の分も遣ってくれてもよいのではないの?」

「冷やすなり凍らすなりなんなり、好きに出来るじゃないか」

「うん? 一本凍ったみたいだね。有難う」

「それくらい自分で遣れよ……」

「颯が凍らせてくれないと玲太郎とお揃いにならないだろう?」

 それを聞いていたルセナが口を押さえた。颯は脱力して「はいはい」と言って、宙に浮かせていた箱と共に明良の後ろに回り込んだ。

「あーちゃん、恥ずかしいから止めてよ……」

 玲太郎が困惑している。

「アメイルグ先生」

「あ、そうだね、アメイルグ先生」

 言い直させた颯を一瞥した玲太郎は苦笑した。

「颯は私の事を兄貴と言っていたよ? 同じではないの?」

 明良が横目で颯を見ると、颯は首を横に振った。

「教師と校医、生徒と校医となると、立場が違うからな」

「そのような理屈で私が納得すると思ったの?」

「しなくてもいいぞ。ウィシュヘンド君はそれで納得するからな」

「そうなの? 玲太郎は納得しないよね?」

 声を掛けられた玲太郎は明良に顔を向けた。

「納得するよ。越えられない壁があるからね」

「そう……。そのような物はないのだけれどね」

 寂しそうに言って俯くと、颯が鼻で笑った。

「ない訳がないのに何を言っているんだ。兄貴が壁を取っ払っているのは玲太郎だけだろうに」

「確かに」

 そう頷いたのは誰でもない、明良だった。玲太郎は苦笑してルセナの方に向いた。ルセナがそれを見て微笑む。

「厠へ行って、その後、腹ごなしに少し歩くか?」

「うん、行く」

 一瞬で表情が明るくなったが、明良にはそれが見えなかった。颯は玲太郎の頬の盛り上がりを見て、微かに口元を綻ばせた。


 午前も午後も泳ぐ練習を沢山して、入浴後に水着を洗濯して乾燥室に干し、夕食の準備が始まるまでは自由時間となっている。颯が数人の生徒を引率をして、近くの商店へ遣って来ていた。当然ながら玲太郎とルセナもいた。しかし、ヌトが寝台で眠りこけてしまい、代わりにノユがにいた。

「……む? これは何よ?」

 そう言っては指を差し、玲太郎に訊く。玲太郎はつい指の先を確かめてしまう。その都度、手に取っては凝視する。

「これはなんだろう?」

「どれ?」

 隣にいるルセナが毎度付き合ってくれる。商品を裏返して説明文を読む。

「これは……、あった、鼻毛を切るハサミだよ。裏に書いてあった」

「へぇ! そんなのもあるんだね。鼻毛なんて切るものなの?」

「売ってるんだから、切る人もいるんだろうな」

「ふうん……」

 そう言って商品を棚へ戻した。

「新聞はどこにあるの?」

「来てすぐにイノウエ先生が店員に聞いてた所を見てたんだけど、もう売り切れたみたい」

「そうなの。折角来たのに残念だったね」

「でも他の物を買うよ。土産になりそうな物がないかな……」

「さっきの鼻毛用のハサミはどう?」

「あはは。使ってくれないと思うよ。そんなに伸びてないからな」

「そう……。それじゃあ良さそうな物を探そう」

「うん」

 ノユに邪魔をされながらも、土産になりそうな物を探した。帰省するまでまだ三ヶ月はある為、なま物や食べ物以外の物を探したが、これという物がなかった。二人が唸っていると颯が遣って来た。

「何か買いたいのか?」

 玲太郎は険しい表情をして颯を見上げる。

「それがね、お土産と思って探してるんだけどないのよ」

「ルセナ君も?」

「そうです」

「……となると、他の店を見るしかないな。此処はそういう店じゃないからなあ。兎に角、他の生徒を送って来るから、近くの店で見ていてくれるか?」

「迎えに来てくれるの?」

「当然。土産屋が近くにあるから、その辺りにいろよ?」

 二人の顔を交互に見ると、二人は頷いた。

「分かった」

「分かりました」

(ノユ、そういう訳だから、俺がいない間は二人を頼むな)

 颯が透かさず念話でノユに頼んだ。

「任せておけ」

「それじゃあ後でな」

 既に外で待っている生徒の下へ行き、施設へ帰って行った。二人も店を出ると、一行とは逆方向の、店が並んでいる方へ向かった。颯が言っていた土産屋は思いの外奥にあった。人通りも結構あって、店にも人が数人いた。

「ここだね?」

「そうだな、ここだな」

 二人は店内へ入り、戸口の直ぐ傍から見て回った。木製の工芸品が多く、独特の文様が描かれている。玲太郎は手に取らず、その文様を凝視していた。

「こういう文様の入った物がよいと思うよ。きっと縁起物だろうからね」

「そうだな。でも今決めずに、全部見て回ってからにしよう」

「うん」

 太目の糸で織った布に刺繍している物や、葉の形をした皿や、木製の湯呑みや、小鳥の置物もあった。

「色々あるんだねぇ……。ウィシュヘンドも色々あるけど、木製なのが似てるかも」

「ロメロニクは陶器だけどな」

「そうなの。ロメロニク州には行った事がないのよ」

「いい所だぞ。クミシリガ湖沿いだし、自然も多いし、……でも食べ物はツェーニブゼルみたいに調味料を使わないから、味気ないんだけどな」

「へぇ、素材の味が良く分かってよいのではないの?」

「でも学院で調味料の味を覚えちゃったからな……」

「それで味気なく感じるんだね」

「そうなんだよ」

 関係のない話をしながら商品を手に取って見ていた。

「これ可愛いから、これを保持しておこう」

 木の実を咥えた小鳥で、台座に多色で文様が描かれていた。

「それ可愛いよね。それにしても、この文様は何を意味しているんだろうね?」

「そうだな、なんだろうな?」

 二人で話していると、後ろに人が立った。

「まだ決まらないのか?」

 驚いて振り返ると、颯だった。

「びっ……、びっくりしたぁ」

「そう驚くなよ。ウィシュヘンド君はどれにする積りなんだ?」

 目を丸くしている玲太郎を見て、颯は微笑んだ。

「僕はねぇ、ばあちゃんと父上とお祖父じい様に…と思ってるんだけどね、これっていうのがまだないのよ」

「ふうん。ルセナ君は手にしている物にするのか?」

「あ、オレは妹と母に買うつもりなんですけど、これは妹用に保持しておこうかと」

「まだ全部見てないんだな?」

「そうなの。入り口からここまで見ただけ」

「まあ、俺がいるとは言え、夕食作りが始まる十分前までには決めてくれよ? 二十時九十分までな。今日は浜辺で野外食だから遅れないようにしないと」

「うん、分かった」

「分かりました」

「それじゃあ俺は別の方から見て来るわ。後でな」

「はい」

「うん、後でね」

 背を向けた颯を見て、二人は棚に視線を戻した。

「イノウエ先生、戻って来るのが早過ぎないか?」

 小声でルセナが耳打ちした。

「そう? 声をかけられて驚きはしたけど、特級免許持ちだから別に何とも思わないのよ」

「なるほど」

「きっと心配で急いで来たんだろうね」

 玲太郎の笑顔を見て、妙な納得感を得たルセナは手にしていた置物を戻した。

「それは保持しておくんじゃなかったの?」

「うん、これにしたいと思った時に取りに来ればいいと思って」

「そうだね。決めてから手にしてもよいね。僕もどれにするか、決めなきゃ……」

「それじゃあ他のも見て行こうか」

「うん」

 ノユは二人を後ろから見守りつつも、颯とハソ以外の気配にも気を配った。


 今日の夕食は野外で、焼けた傍から食べて行った。円柱を半分にした鉄製の物を横にして中に炭を入れ、網で蓋をして肉やら野菜やらを焼くだけだったが、潮風を浴び、波音を聞きながらの食事は結構乙な物だった。

 玲太郎は小型の組み立て式の椅子に座り、明良が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた為、食べる事に専念していた。放っておかれた他の五人は自分達で焼いていた。様子を見に来た颯がそれを見て明良を叱ったが丸で効果がなかった。玲太郎が言っても駄目だったのだから当然の事と言える。五人は楽しそうな明良を見て、何も言う事はなかった。

 食事が済むと組ごとに焚き木を積み上げて焚火をした。この時ばかりは明良も邪魔はせず、遠巻きに見ていた。そんな明良の隣には颯がいた。明良は終始玲太郎を見詰めていた。颯には、明良が目を潤ませているように見えたが、揺らめく炎の所為という事にしておいた。


 焚火を堪能した生徒は施設に戻ると、時間を持て余している事もあり、再度入浴した。当然玲太郎もルセナと一緒に行き、風呂上りには水着と一緒に洗濯しておいた体操着と下着に着替えた。

(今夜はきちんと起きておいて、ルセナ君と話をするのよ)

 楽しみにしていたのだが、約四歳の体では昼寝もしていない上に、日中は泳ぐ練習に熱中していて気力が持つ筈もなく、昨日同様、早々に夢の中にいた。

「ウィシュヘンド君が眠ったから、みんな静かにしてあげて」

 今日はルセナではなく、イクショーヨが言った。ルセナもまた、枕元の照明を点けたままで就寝してしいたのだから仕方がない。イクショーヨはそれを見付けると照明を消し、二人に掛け布団を掛けた。


 早く眠れば、当然ながら早く目覚める物で、玲太郎は今日も六時を少し過ぎた頃に起きてしまった。ヌトを起こして一緒に厠へ行き、洗顔をして調理場へ向かった。そこにはやはり明良がいて、椅子に座って魔術で作業を進めていた。

「おはよう」

「お早う、今日も早いね」

 昨夜と張り合う程の笑顔を向けられた玲太郎は入室して、明良の隣に座った。明良は止めていた作業を再開し、それに目を配る。

「またいつ眠ったのか、まっったく覚えてないのよ」

「余程疲れていたのだね」

「そうみたい。足の動かし方の練習を追加しただけなのにね」

「それでは今日は、腕の動かし方を習って、いよいよ泳いでみるの?」

「多分そうなると思う」

「本来ならば私が教える筈だったのに……。私も泳がなくなって久しいから、玲太郎に教える事を思い付かなかったのだよね……。本当に残念だよ」

 心底残念そうに言うと、小さく溜息を吐いた。

「でも小さい時は釣りをやってたんでしょ?」

「遣っていたけれど、颯が遣り始めて任せられるようになったから、交代する形で止めたのだよね」

「任せられるって釣りを?」

「そう、夕食に一皿でも多く並べる為にね」

「ああ、おかずね」

「釣りは遊びではなかったからね。ばあちゃんが畑を遣っていたからと言って、確実に成長するとは限らないし、食べる物が多い方がよいからね。家は皆、口が卑しいのだよ」

「口が卑しいの?」

「そう、食べ物に対しては意地汚くなるのだよ」

「ふうん……。あーちゃんもはーちゃんも一杯食べるもんね」

「そうだね。和伍に住んでいた頃で、近隣に住人がいた時分はよく農作物の遣り取りもあったのだけれどそれは野菜だからね、毎日肉は出ないから、責めて魚を…という訳で釣りをしていたのだよ。近所に釣りの上手なお爺さんがいて、教えて貰ってね」

「そうなの? 僕は毎日お肉を食べてたけど」

「水伯は裕福だから当然だろうね」

「あーちゃんはそうじゃなかったの?」

「そうだね。キコ鳥を飼っていたから、ばあちゃんがそれをさばいてくれて食べていたよ。後は水伯の差し入れ程度だったね。水伯の差し入れは年に四度前後なのだけれどね」

「え、そうなの?」

「そうだよ。肉と言えばキコ鳥だね。たまに鶏。それとばあちゃんが町へ行った時に肉を買って来てくれて、それを食べていたね。主に豚の加工肉だったよ」

「へぇ……。そんな話、初めて聞いたのよ」

 神妙に聞いていた玲太郎の表情を見て、明良は苦笑した。

「颯はそういう事を話さなかったのだね」

「うん。でもキコ鳥は美味しいよね」

「そうだね。私も美味しいから大好きだよ」

 二人は笑顔になっていた。

「また和伍の、あの、……なんて言ったっけ? キコ鳥を食べさせてくれるお店へ行こうね」

「鎌屋ね。行く時は二人で行くの?」

「そんなの、みんなで行くに決まってるじゃない」

 漸く顔を向けたかと思えば、明良が悲しそうな表情を見せる。

「そう……。それは残念だね」

 玲太郎は微笑む。

「みんなで一緒に食べた方が美味しく感じるのよ」

「味は一緒だと思うのだけれどね」

 そう言って「ふふ」と笑うと、また視線を戻して作業の流れを見守った。

「それにつけても、今日はもう学院へ帰るのだけれど、明日からは週末で休日になるよね? そのまま屋敷へ帰るの? それとも今日は寮で泊まるの?」

 玲太郎は視線を外して首を傾げてからまた明良に視線を遣った。

「どう…だろうね? はーちゃんに聞かないと分からない」

「そうなのだね」

「お祖父様にお土産を買ったから渡したのよ。それでイノウエ邸へ行きたいんだけど連れて…」

「それならば学院に到着したら、その後に連れて行こう」

 言い終わらない内に、明良が頷いて言った。

「本当? お願いするね」

 玲太郎が笑顔になる。

「午後の間食は寮で摂るの?」

「うん、多分注文してたからそうなんだと思うけど、はっきり言って自信はないのよ。はーちゃんに聞かないと分からない」

「それでは朝食後にでも訊こうね」

 玲太郎に顔を向けて微笑むと、玲太郎も笑顔で頷いた。

「うん。お祖父様に会えるの、楽しみ」

「そうだね。久し振りだものね」

 玲太郎は六時八十分まで調理場にいて、その後は皆が起きているであろう部屋へ戻った。


 最終日の今日は十四時まで練習となり、十五時に昼食、十六時から掃除をして、半には帰校する予定になっている。

 昨日に足の動かし方を習った玲太郎が、今日は一人で泳ぐという厳しい練習が始まった。これは他の誰でもない、玲太郎の言い出した事だった。それに渋々頷いたルセナは、何かあっても直ぐ足が着くように浅瀬での練習を選んだ。玲太郎としては、もう少し深くてもよいという気はしたが、それは言わずに従った。

 浜辺から玲太郎のいる辺りを見ている明良は、傍で見られない事に深い悲しみに包まれていた。ヌトが宙に浮いているその下で頑張っていると思うと、駆け付けたくなる気持ちが先行し、自身を抑制出来なくなりそうになって難儀していた。

 三十分が経過すると浜辺へ上がり、玲太郎は明良に向かって駆けて行く。ルセナは毎度それを追い掛けていた。配られている水筒で口の中の塩気を消してから明良の傍に、ルセナはその隣りに座る。そしてそこでは今日で見納めの海を二人で眺め、穏やかに話をした。その中に入って行けない明良だったが、玲太郎の弾んだ声が聞ける為、静かにしていた。

 何度か休憩を繰り返し、午前の間食の時間となった。玲太郎は麺麭に挟んでいる具をやはり玉子にしていて、颯に豚肉と交換して貰う。薄く切った豚肉に火を通した物と、生で薄切りの玉葱が具として挟まれていて、最初は生姜焼きが挟んであるのかと思ったが香りが違い、食べてみたら垂れの味が全く違っていて、それはそれで美味しかった。

 食後は更に休憩を取ってから再度海へ入って行った。玲太郎の泳ぎ方は平泳ぎの形になりつつあったが、手足を掻く毎に沈んで行ってしまった。その状態で時間切れとなり、玲太郎としては悔いの残る物となった。

 浜辺に設置されている簡易かん水装置で洗い流した後、更に入浴して全身を綺麗にした。そして混み合う洗濯室でルセナと一緒に水着を洗濯し、その直後に乾燥室でそれ等を干し、昼食前に部屋へ戻って荷物を纏めた。ルセナの寝台に置きっ放しだった本を渡され、その存在を綺麗に忘れていた事に苦笑しながら手に取り、鞄に片付けた。

 ここで食べる最後の食事は間食より少し品数が増えただけの物だった。玲太郎は食べ切れず、明良に残りを食べて貰った。いつもなら颯が傍にいるのに、林間学校では明良だった為、最初は違和感しかなく、程良い距離が掴めずにいたが結局最後まで掴めなかったし、他の五人の温かい視線にも気付かなかった。

 昼食後は月組以外が近所の商店街へ出掛けた。外へ出たがらなかった月組は時間を持て余し、時間が来ていないにも拘らず、掃除を始めてしまった。掃除の時間を余らせて終了すると、乾燥室に洗濯物を取りに行き、それを鞄に入れて荷作りも完了した生徒は、部屋で陸船へ乗り込む前の最終点検に来る颯を待った。

「忘れ物はないな?」

 そう言いながら颯が入室すると、全員が大きな声で「はい」と答えた。颯は念の為、東側の寝台と棚を見て回った。八人が颯の動向に注視している。上の寝台から何かを手にすると、それを掲げて八人のいる方へ持って行く。色は黄色の小さな缶だった。

「はい、これは誰の物だ?」

「あ、僕です。すみません」

 挙手したのはイクショーヨよりも背の高いレハル・ケシクだった。彼もまたイクショーヨと同じ最年長組の十四歳だ。颯は差し出された両手に置くと、ケシクが小さく辞儀をした。

「下に座っている者は退いていて貰えるか? 此処も探す」

 下の寝台に座っていた生徒は返事をすると立ち上がって場所を空けた。二台の二段寝台の上下と棚の確認をして「うん」と頷いた。

「もうないようだから陸船に乗り込んでいいぞ。アメイルグ先生が陸船の昇降口に立っているから、間違えて別の陸船に乗り込まないようにな」

「はい」

 返事をしたのは数人だったが、荷物を持って退室した。

「どうした? 行かないのか?」

 一人残っている玲太郎に近付き、膝を折った。

「はーちゃん、僕って寮の間食の注文はしてた?」

「いや? 注文はしていないな。俺は食べるけど、玲太郎はもう屋敷に戻っていいから、学院に到着したら俺が送るよ」

「あ、それなんだけどね、あーちゃんが送ってくれるから大丈夫。間食を注文してたかどうかが知りたかったのよ。ありがとう」

「乗る陸船を間違えるなよ?」

「うん、分かった」

 笑顔で言うと、荷物を持って駆けて退室した。徐に立ち上がり、更に残っている一体に声を掛ける。

「ヌトは行かないのか?」

「行くぞ。颯に運んで貰うのが楽であるからな」

「玲太郎が一人になっておるではないか。早く行かぬか」

「そう急かさずとも颯も明良も目族の子もおるから平気よ」

 そう言いながら、横たわったままハソの目の前を飛んで行った。


 帰りも行きと同様、たちまち目的地へ到着した。余りにも短時間で到着した物だから、本当にメナムント州へ行っていたのかと疑問に思う生徒もいたと言う。

「夢よ。そうよ、きっと夢を見ておったのよ。若しや……、これも夢ではなかろうか。有り得る、大いに有り得るぞ」

 ヌトが独り言を言いながら玲太郎を置いて寮長室へ戻ってしまった。玲太郎は明良と一緒に寮長室へ戻り、既に颯の寝台で既に就寝しているヌトを見て苦笑した。

「少し待ってね。荷物を持って行くからね」

「ごゆっくり。その間にお茶でも淹れようか」

「僕、蜂蜜入りの梅干しで梅湯がよいのよ」

「解った」

 明良は荷物を壁際に置いて隣室へ向かった。それを見送った玲太郎は先ず体操着を脱ぎ、部屋着に着替えた。脱いだ体操着は衣こうに掛けた。勉強机へ向かい、置いてあった鞄の中から下着と体操着を出し、それは洗濯済みの為、折り戸の棚の中に片付けた。そして勉強机へ戻る時に小振りの鞄を持って行き、買って来ていた土産をそれへ移し、教科書と帳面を何冊か選んで入れた。玲太郎は指を差しながら何かを呟き、頷いた。

 そして隣室へ向かうと、調理台で湯呑みを持ち、匙で梅干しを解している明良が玲太郎に一瞥をくれた。

「梅干しを解すの、自分でやりたい」

 明良は手を止め、改めて玲太郎に顔を向ける。

「遣る?」

 湯呑みを差し出し、玲太郎は受け取ると微笑んだ。

「ありがとう」

 早速解し出した玲太郎の頬と鼻の筋が少し赤くなっているのを見た明良が真面目な表情になる。

「あの乳液ではやはり焼けてしまうのだね」

「でもここまで焼けないのは凄いってみんなが言ってたのよ」

「そう? 私の理想としては全く焼けない物を作りたいのだけれどね」

「それは望み過ぎじゃないの? 今のでも十分凄いのよ。あーちゃんもだけど、はーちゃんなんて海に入ったり出たりしてたのに、焼けてなかったよ?」

「颯は焼けない質なのだから塗っていない筈だよ。赤くなるだけだから必要ないと思っているのだろうね。それで、その赤味が引くと元の肌の色なのだよ」

「そうなの?」

「釣りで海に通っていた時も黒くならなかったしね。玲太郎の場合は、肌を見るに焼けているね。赤味が引いても色が残ると思うよ」

「やっぱり長時間海にいると焼けちゃうんだね」

「そういう事になるね。あの日焼け止めは、うちの商会の今夏の目玉商品にはなるね」

「十分なるね。湖沿いと、海沿いの店に置けばよいのではないの?」

「全店に置くよ。私の理想には遠いのだけれど、これが今の限界だからね。海や湖に入らなくても、日焼け止めを使いたい人はいるだろうし、私としては畑仕事をしている人にも手に取って貰いたいのだよね」

「なるほど」

 明良は頷いている玲太郎を見て微笑んでいた。湯が沸き、明良は鉄瓶を魔術で浮かして手元に引き寄せた。

「玲太郎、申し訳ないのだけれど湯呑みを調理台において貰ってもよい?」

「うん、お願い」

「はい」

 先に玲太郎の湯呑みへ熱湯を注いだ。それから茶器へ注いで鍋敷きに置き、茶器の蓋を閉めて砂時計を引っ繰り返した。

「ありがとう」

「どう致しまして。熱いから少し冷ますよ? 待ってね」

「うん?」

 湯呑みから明良に視線を移す。

「はい、どうぞ。飲み易い温度になっていると思うのだけれど、ぬるかったら言ってね」

「ありがとう」

 湯呑みを手に持つと、一口飲んだ。

「うん、大丈夫。温いって事はないのよ。ありがとう」

「どう致しまして」

 微笑んでいた玲太郎は食卓に向かった。明良は思わず付いて行きそうになったが、辛うじて動かなかった。

 茶を茶器に入れた明良は玲太郎の正面に座る。

「お菓子か何か、食べる物はないの?」

「んー……、食べ切ってから買ってないと思う。…それにしてもさっき昼食済ませたばかりなのに、もう食べたいの?」

「少なかったからね」

「そう。もうすぐ屋敷に帰るんだから、その時に食べれば?」

「あ! あられ茶漬けにすれば良かった!」

 明良にしては珍しく声を張り上げた。玲太郎は驚く事もなく、笑っていた。

「そうだね、あられならあったと思うよ。あられを食べれば?」

「うーん、止めておくよ。このような事になるのならば、紅茶ではなく、緑茶にしておけば良かったよ」

 そう言って小さく溜息を吐いた。玲太郎はそれを聞いて微笑み、梅湯を口に含んだ。酸味が口の中に広がった後、仄かに甘味を感じ、喉を取って行く。

「ふぅ……、美味しい」

「蜂蜜入りだと平気になったのだね」

「そうなのよ。もうね、小腹が空いたらこれとあられで茶漬けにして食べるのが一番よいのよ」

「そう、気に入ったのだね」

「うん。夕食の時も一個食べてるくらい好き」

「其処まで気に入ったの? それでは和伍へ頻繁に買いに行っているの?」

「うん、はーちゃんが行ってくれるからね」

「それでは大き目の瓶詰を買えばよいのではないの?」

「どこで売ってるの? はーちゃんが買って来てくれるのは、いつも三十個くらいのやつなのよ」

「大き目と言っても五十個入っているかどうかだから大差ないね。それにしても、颯はそんなに頻繁に和伍へ行っているの?」

「十日に一度は行ってると思う。はーちゃんも食べてるからね」

 話を聞きながら茶を飲んだ明良は、湯呑みを静かに置いた。

「そうなのだね。やはり笠木商店へ行っているの?」

「それは知らない。はーちゃんに聞いてみてくれる?」

「解った。そうするよ」

 玲太郎はそれを聞いて頷くと梅湯を啜った。


 二人は先にイノウエ邸へ行き、ガーナスに会った。ガーナスは温室で読書をしていて、向かい側にはバラシーズが座っている。

「お祖父様、こんにちは」

 ガーナスの直ぐ傍に来てから声を掛けると、ガーナスは本から玲太郎に視線を移し、老眼鏡をずらした。

「いらっしゃい。お帰り、明良。メナムントはどうだった?」

 ガーナスが明良に顔を向けている間、玲太郎は鞄の中から土産を出した。

「只今。日差しがきつくて、南国らしく暑かったよ」

「お祖父様、僕ね、お土産を買って来たのよ」

 そう言って箱を差し出すと、ガーナスは嬉しそうに受け取った。

「有難う。気遣ってくれたのか。済まないね」

「これはね、バラシーズさんに」

 バラシーズには平らな袋を渡した。

「私にもあるのですか? ありがとうございます」

「お店の人に聞いたら、願いが叶うと切れる紐なんだって。手首に着けるって言ってたのよ」

「そうですか。後で着けさせていただきます」

 ガーナスは箱から何かの動物をかたどった木彫もくちょうで、台座に文様が描かれている。

「玲太郎、この動物は何か教えてくれるか?」

 狐の耳に、開けたくちばしの中には牙があり、胴体は鳥だが翼は蝙蝠で、足は兎の後ろ足となっている。

「あ、それはね、メナムントでは馴染み深い、悪夢を食べてくれるカッツァって言う架空の動物なんだって。それを枕元に置いとくとよいって言ってたのよ。カッツァなのよ、カッツァ」

「そうなのだな。早速今夜から枕元に置いて眠ろう。有難う」

「どう致しまして。後ね、文様は良い夢が見られるおまじないだって言ってた」

「これはお呪いか。ほほう」

 満面の笑みを浮かべ、眼鏡を戻して文様を凝視しているガーナスを見て、玲太郎は嬉しくなった。

「明良からは何かあるのか?」

「ないね。私はずっと施設内にいたからね」

 ガーナスは玲太郎に視線を移す。

「生徒だけで買いに出たのか?」

「はーちゃんが一緒に行ってくれたんだんだけど、他の子は色々売ってるお店で自分が食べる物を買ってただけで、お土産を買ったのは僕ともう一人だけだったのよ。だから僕達が例外なんだと思う」

「それは態々わざわざ有難う。とても嬉しいよ」

「うん、どう致しまして。最初は何か分からなくて見てるだけだったんだけど、途中から接客してくれたお店の人がとっても気さくで、色々教えてくれたから選び易かったのよ」

「あの時、私も一緒に行けば良かった……」

 気を落としたのか、力なく言った。玲太郎は苦笑する。

「二人共、お茶を飲むか?」

「飲んで来たから大丈夫。ありがとう」

 恨めしそうにガーナスの手にしている木彫を見ている明良に代わり、玲太郎が返事をする。

「解った。この後は水伯邸へ行くのか?」

「うん、そう。そのまま週末を過ごして、それから寮へ戻るのよ」

「沢山泳ぐ練習を遣ったのだから、疲れているのではないのか?」

「今日も午前中は泳いでたけど、そんなに言う程は疲れてないのよ。と言うか、疲れはね、余り感じないのよ。でも夜になると眠っちゃうんだけどね。ふふ」

 そう言って笑っている玲太郎を見てガーナスは頷いた。

「無理のないようにな」

「ありがとう」

 玲太郎は明良を見上げると、まだ恨めしそうに木彫を見ている。手を握ると揺り動かした。

「あーちゃん、父上の所へ行こうよ」

「うん……」

 目を数秒閉じてから開けると、気持ちを切り替えたのか、恨めしそうな表情が消えた。そしてガーナスに視線を遣る。

「それではお父様、帰りは夕食後になります」

「気を付けてな」

「はい」

「玲太郎も、何時でもお出で」

「ありがとう。またね」

 微笑むと、それを見た明良が瞬間移動した。


 水伯邸の玄関広間に着くと、玲太郎は明良の手を離して駆け出した。階段を上り、二階に着くと一直線に執務室へ向かう。扉を叩こうとした途端に開扉した。驚いた玲太郎は視線を上げた。

「父上!」

「お帰り」

 水伯が屈むと、玲太郎は満面の笑みを湛えた。

「ただいまぁ!」

 鞄を落として抱き着いて行く。水伯はそのまま玲太郎を抱き上げると、鞄を魔術で浮かせて机に置いた。それから玲太郎を椅子に座らせる。

「走らなくても私が逃げる事はないのだから、明良と一緒に来れば良かったのではないのかい?」

「なんだか早く会いたくて」

「そう。それは嬉しいね」

 二人が笑顔になっていると、遅れて明良が入室し、後ろ手で閉扉した。二人同時に明良を見る。

「お帰り」

「只今」

「明良は泳がなかったのかい?」

「私は校医として同行していたから見学していただけだよ」

 玲太郎の正面に、水伯は玲太郎の隣に腰を下ろした。

「それにしては焼けていないね? 曇っていたのかい?」

「颯が大きな傘を用意してくれて、その下でずっといたのもあるのだけれど、あの日焼け止めが完成したからね」

「ああ、あれが。それではそろそろ量産して店頭に並べるのかい?」

「量産体制は整ったから、直に店頭に並ぶよ」

「そう、おめでとう。それでは此方こちらにも融通して貰って、農奴に配るとしよう」

「解った。その話は後にして、玲太郎の話を先にどうぞ」

「あ」

 玲太郎が思わず声を出した。鞄を引き寄せて、中から小さな箱を取り出す。

「これ、お土産」

 水伯に差し出すと、水伯は受け取り、玲太郎に柔和な笑顔を見せる。

「有難う。開けて見てもよいかい?」

「どうぞ」

 水伯は箱を包んで結ばれている紐を解き、蓋を開けた。

「ああ、カッツァだね」

「やっぱり父上は知ってたんだね」

「それは当然だね、私の領地だもの。この文様は、確か……、幸運を呼び寄せる物だね」

「それも覚えてたの? 凄いね。お祖父様にはカッツァに良い夢が見られるお呪いの物にしたのよ」

「それではガーナスとお揃いだね」

「うん」

「それでは今夜から悪夢とはお別れだね」

 玲太郎はそれを聞いて「ふふ」と笑ったが、明良はやはり恨めしそうに見ている。玲太郎は苦笑すると鞄から箱を出して、明良の方へ置いた。

「これはあーちゃんのね」

「え?」

 呆然と玲太郎を見詰めている。玲太郎は微笑む。

「はーちゃんが、あーちゃんにも買っておかないと拗ねるって言うから買ったのよ。でもカッツァじゃないからごめんね」

「ううん、カッツァじゃなくてもよいよ。嬉しい! 有難う。本当に嬉しいよ」

 心底から嬉しそうに箱を手にして、早速中身を取り出した。掌に置いて、目線に持って来る。

「蝙蝠の翼を模った耳、上の嘴が丸みを帯びていて、胴体は鳥に蝶の羽、足は兎の後ろ足だから、これはケッツェだね。吉夢きちむを見せてくれる架空の生き物だね」

「なんだぁ、知ってたの?」

 詰まらなそうに言うと、明良は「ふふ」と笑った。

「本で見た事があるからね。でもこの文様の意味は知らないから教えて貰ってもよい?」

 玲太郎はそれを聞いて笑顔になった。

「あのね、それはね、悪夢を遠ざけるお呪いなのよ」

「お父様と逆という事になるね」

「そうなのよ。あーちゃんはばあちゃんとお揃いね」

「そう。有難うね」

 微笑んで玲太郎に言うと、ケッツェをまた箱に入れ、丁寧に紙を包んで帯を結んだ。

「きちんと枕元に置いてね?」

「勿論。ばあちゃんの文様はどれにしたの?」

「幸運を呼び寄せるお呪いにしたのよ」

「其処は私とお揃いだね」

 玲太郎は水伯に顔を向けると苦笑した。

「お呪いの種類は少なかったから、全員別々は無理だったのよ。文様の物はね大体が二色しか色がなかったから、こっちにしたのよ」

「颯には買わなかったのかい?」

「俺にはないの? って聞かれたから、ないって言ったら、これ買ってって持って来たから買った」

「あはははは。それはお土産ではないね。ふふふっ」

「……颯にまで買ったの?」

 水伯とは対照的に、明良が不満気に呟いた。

「それで、颯は何を持って来たの?」

「刺しゅうをした布で、壁に掛けるやつなんだって。空と太陽と海と砂浜と、脇に南国の木とか植物の柄でね、周りを文様で囲んでて、五千こんもしたのよ。僕、びっくりしちゃった」

「その文様の意味は?」

 明良が訊き、玲太郎はそちらへ顔を向けた。

「良い夢が見られますように」

「そうなのだね。メナムントは夢に関する物が多いのだね」

「ああ、解った。ミリージと言う木の繊維で織った布に刺繍を施してある壁掛けだね。ダーナワと言う物だったと思うのだけれどね」

 いつもの柔和な微笑みを浮かべて水伯が言うと、玲太郎が感心したような表情になる。

「ふうん、あれにそう言う名前があったんだね」

「そうだよ。それにつけても、全てが手作業にしては安いね。小さかったのかい?」

「うんとね、これくらい」

 両手の人差し指で一辺が約六寸の四角を宙に描いだ。

「その大きさならば五千金は妥当と言った所だね」

「全てが手作業なの? 魔術は使わないの?」

「魔術は一切使わないね。木もきちんと育てているのだよ」

「へぇ、そうなの。それじゃあ五千金しても仕方がないね」

「そうだね」

「それじゃあ僕にも買って来れば良かった……」

 水伯は気落ちした玲太郎を見て柔和に微笑む。

「自分には何を買ったの?」

「あのね、小鳥が木の実をくわえてる木彫りでね、文様は幸運を呼び寄せるのにしたのよ」

「えっ、私とお揃いではないの?」

「うん。僕は夢を見ないから、そういうのは不要だと思ったのよ」

「玲太郎は夢を見ていても、憶えていないだけだと思うよ」

「そう? 見た事がないと思うんだけどなぁ……」

 衝撃を受けて箱を見詰めている明良の前で、玲太郎は腕を組んで首を傾げていた。水伯は唯々柔和に微笑んでいた。玲太郎は帰って来られた安堵感から、気と表情が緩みっ放しだった。

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