第三十話 しかして冬休みが過ぎて行く
十四月二十三日は月の曜日で例年通りに終業式が行われた。それが終わると、颯が玲太郎を屋敷まで送った後、教科書などを勉強部屋兼図書室へ運び、それから水伯と八千代に顔見せがてらに挨拶すると帰寮した。一緒に来ていたヌトは到着した途端に寝室へ向かって、いつも通りに颯の寝台で就寝した。
家庭教師は当然ながらルニリナで、同日の夜からの滞在し、翌日から授業が始まった。玲太郎はそれで不満はなかったし、寧ろ嬉しかったのだが、この数日、夕食後は颯と二人で仲良く会話をしている所を見せ付けられて嫉妬し、それに苛まれて水伯に甘えると明良が嫉妬するという悪循環に陥ってしまい、困り果てていた。颯とルニリナは三人が賑やかになり出すと「また始まった」と言って、眺めている。
「玲太郎、甘えるのならば、私にして貰えない?」
膝に肘を置いて、前屈みになっている明良が言った。玲太郎は靴を脱いで水伯の膝に横向きで座り、抱き着いていて、明良の方に少し顔を向けている。
「父上がよいのよ」
「何故? 私の何処が嫌なの?」
「あーちゃんが嫌なんじゃなくて、父上がよいのよ」
「明良は玲太郎の勉強が終わってから、ずっと一緒にいるのだからそれでよいのではないのかい? 私は今の時間と朝だけだから、私を優先して貰えると嬉しいのだけれどね」
苦笑しながら言うと、明良が露骨に不満そうにしていた表情が消えた。
「それを言うのならば私とて同じなのだけれど?」
「学校では授業中に一緒にいられたのではないのかい? 明良が玲太郎と同じ部屋で一緒に過ごしている間、私は一人だったのだよ?」
「そうなのよ。五学年になってからね、多い時で七時限も一緒にいるんだけどね、あーちゃんと土でも日でもない曜日にこんなに一緒にいるのよ。凄くない?」
「一時限は何分なの?」
「六十分だから、七時限だと四時間二十分になるね。父上とだって、平日にはそんなに一緒にいた事なんて、滅多にないよね?」
「そうだね。玲太郎が赤ん坊の頃は私が面倒を見る日があって、その日は一日中一緒にいたのだけれど、憶えていないものね」
「今は、水伯は玲太郎が眠った後はずっと傍にいるのではないの?」
明良が透かさず言うと、水伯は不思議そうに明良を見た。
「うん? それも入れるのかい? それならば明良だって、この後図書室へ行くのも一緒だし、入浴後から就寝するまでは傍にいるよね? その上、明良は休日に長く一緒にいるのだから、こういう時くらい私に譲って、広量な所を見せてもよいのではないのかい?」
「玲太郎を取られるくらいならば狭量で結構だね」
「あーちゃんは僕が父上に甘えるのがどうしてダメなの? そんなに一杯甘える訳じゃないんだから、父上に甘えてもよいよね」
「玲太郎には何時も私に甘えて貰いたいの」
「それはあーちゃんの気が済むかどうかの話だよね? 僕は父上に甘えたいの。あーちゃんはい・や!」
そう言って水伯の胸に顔を埋めた。明良は悲愴な表情になって目に涙を浮かべた。こうして今日も決着し、苦笑しながら見ていた颯とルニリナは会話を再開するのだった。
玲太郎は期末に、社会と治癒術と薬草術に加えて、呪文だけの魔術と付与術の修了試験も受けていた。それ等は合格して、魔術系の授業は実技で課題を達成するだけとなった。しかし、この実技が問題で、特に付与術の小型の魔石作りで難航していた。少し前までは品質を徐々に下げて来たが、今は中型の品質を高品質から低品質を二十段階に分けた所の五段階で躓いていた。数が大きい程に低品質に近くなる為、これは序の口である事を意味していた。
朝食後から間食までの二時間、昼食までの三時間、夕食までの四時間の計九時間が勉強時間になっていて、二時間を魔石作りの練習、二時間を魔石作りか魔術の練習、残りを冬休み中の課題としてしていた。
そして現在、その魔石作りの練習の休憩中で、玲太郎は落胆していた。
「ルニリナ先生、僕、もしかしたらこれ以下の質の悪い物を魔石に出来ないのかも知れません……」
中型の高品質での魔石作りを達成してから十ヶ月以上が経過していたが、先が見えないでいた。
「弱気になってしまいましたか? ですが、玲太郎君の魔力量を思えば、時間が掛かっても仕方がないのだと思いますよ? 少しずつ品質を下げて達成して来たので、音を上げてしまうと今までの努力が水の泡になりますし、卒業が出来ませんので、もっと前向きに考えましょう、ね? 下学校は十年在籍出来ますし、それを考慮すれば、後八年半も時間がありますよ」
「でも、後八年半も掛かっちゃうと、十八歳になっちゃいます」
ルニリナは小さな疑念を抱いたが、それも直ぐに晴れて微笑んだ。
「玲太郎君が年齢を気にするのは当分の間だけですよ。ご存じでしょうが、私は二百年以上生きていまして、年齢はもう気にならなくなりました。気が付けば十年程度は、あっという間に過ぎていますのでね。五十を過ぎたあたりで過去を振り返ると、十年程度はついこの間の事のように感じますよ。ですが今は、体感時間が長いでしょうから、出来ない事を続けるのは非常に苦痛でしょうが、約十ヶ月で三割足らずの所まで来ていますのでね、この調子で行けば後三十ヶ月、約二年の辛抱ですよ」
どういう訳か、この冬休みに入ってから玲太郎が弱音を吐く事が増えていて、毎日のようにルニリナが慰めていた。この事は誰にも話していなかった為、ルニリナの傍にいるノユ以外は知らなかった。
「颯か明良か水伯に相談すれば良かろうて」
「うーん……」
首を傾げて机に覆い被さった。ノユはルニリナに顔を向けると、ルニリナが苦笑して首を横に振った。
「お茶でも淹れましょうか。それとも玲太郎君が淹れてくれますか?」
玲太郎は勢い良く上体を起こしてルニリナを見る。
「やります!」
途端に元気になった玲太郎を見たルニリナが穏やかに微笑むと頷いた。
颯はこの長期休暇は明良に雇われておらず、別の仕事をしていた。割と自由の利く仕事という事もあって、それを知っているルニリナは颯に連絡を取った。
「どうかしたのか? 夜には出来ない話なのか?」
「最近、玲太郎君が前向きにならなくなって来ていまして、颯に元気付けて貰おうと思ったのですよ」
「ふうん……」
「玲太郎君と二人で出掛けるなり、遊ぶなりしてもらえませんか?」
「うん、まあ、いいけど」
「出来れば早目にお願いしますね。今からとか」
「今から! ……それは性急じゃないか?」
「土と日の曜日はアメイルグ先生がご一緒でしょう? そうなると玲太郎君の望まない事が起こりますので、平日がよいのではないかと思うのです」
「今から……、今からなあ……。よし、解った。五分後くらいには行くから、玲太郎に出掛ける用意をさせておいて貰ってもいいか?」
「解りました。突然すみません」
「それはいいけど、玲太郎は?」
「今、厠に行っているのですよ」
「そうなんだな。それじゃあ頼むよ」
「解りました。それでは後程」
「おう」
ルニリナは満面の笑みを浮かべていた。上着の衣嚢に容器を入れると、玲太郎が戻って来るのを心待ちにした。
颯が勉強部屋兼図書室へ移動して来ると、玲太郎の表情が明るくなった。
「いらっしゃい!」
玲太郎は帽子を被り、外套を着て待ち受けていた。
「今日は」
颯は玲太郎を一瞥すると、微笑んでいるルニリナに視線を向ける。
「こんにちは」
「少し遅くなったな。悪い」
玲太郎の傍へ行くと抱き上げ、またルニリナに視線を向けた。
「いいえ、大丈夫ですよ」
そう言われて頷き、玲太郎に顔を向けた。
「それじゃあ行くか」
「どこへ行くの?」
「そうだなあ……」
颯は掛け時計に視線を遣った。
「まだ九時か。それなら和伍で和菓子でも食べるか」
「それではお土産を宜しくお願いします。閣下とアメイルグ先生に露見させない為にも、私だけで結構ですのでね。回転焼きを希望しておきます」
穏やかに微笑みながら言うと、颯は苦笑した。
「ああ、そうだな。皆に買って来たら駄目だな」
「回転焼きだと、多々羅になるね?」
「それじゃあ月志摩だな」
「よしよし、間に合うたか」
そう言ってハソが壁を透り抜けて遣って来た。全員がハソを見ていたが、ノユは目を剥いていた。
「若しや、ハソも一緒に行く気なのであるか?」
「如何にも」
玲太郎の笑顔が一瞬で消えた。
「此度は遠慮しろよ」
「何故よ? わしも一緒に行くぞ。で、何処へ行くのよ?」
「和伍の甘味処へ行くんだよ」
颯もその気のようで即答した。玲太郎の表情が曇る。
「店か。それでもよいわ。玲太郎がおるからわしも瞬間移動で連れて行って貰えるな」
それに気付かず、嬉しそうに玲太郎の傍へ行こうとすると、ノユがハソの腕を取った。
「待て。此度は遠慮しておけと言うておろうが。偶には玲太郎と颯の二人で出掛けさせて遣れよ」
そう言いながら颯を見て、目が合うとノユは眉を顰めた。
「早う行かぬか」
颯は苦笑した。
「解ったよ。それじゃあ行って来る」
そう言うと直ぐに消え去った。
「あああああああああああああ!!」
ハソが絶叫すると、ルニリナとノユが両耳を塞いだ。
「喧しいわ! 此度は遠慮しろと言うたであろうが!」
言い終えると腕を組んで大きく溜息を吐いた。
「己、ノユ! わしの邪魔を遣って楽しんでおるのであるな?」
激怒したハソがノユに詰め寄った。ノユは脱力して視界からハソを外した。
「違うわ」
「まあまあ、玲太郎君がかなり後ろ向きなので、颯に元気付けて貰おうと思いまして、私がお願いしたのですよ」
「ふん、音石からの声は聞いておったわ」
態度の悪いハソはルニリナを見て顔を顰めた。ノユはそれを見て苦笑する。
「それならば解っておろうが。二人で行かせて遣れよ」
ハソはノユを横眼で見た。
「颯と一緒におれるのは僅か六年ぞ? それももう五年半も切っておるのであるから、出来るだけ颯の傍におらねばなるまい。……であると言うに、ノユに邪魔をされたわ」
「そう鼻息を荒くするでないわ。少しくらいよいではないか。ニーティの気遣いを褒めて遣れよ」
「きーづーかーいぃー!? わしに気遣うて欲しいわ」
「ハソは颯とほぼほぼ一緒にいるのですので、本の少しだけ玲太郎君に譲って下さいよ」
「ハソはこういう奴であったか? 何やら毒されておるな……。颯の傍におらぬ方がよいのではなかろうか」
ノユが大真面目に言うと、ハソは眉を寄せた。
「わしは、颯の傍におりたいだけなのよ」
そう呟くと仏頂面になった。
「ヌトのみならず、ハソまで虜にするとは、颯恐るべし」
ルニリナがそれを聞いて、含み笑いをした。
その頃、玲太郎と颯は多々羅に来ていた。入店し、既に注文もしていた。勿論、ルニリナの分の回転焼きも頼んでいた。
『なんだかここに来るの、久し振りなのよ』
颯は微笑むと頷いた。
『俺もだけど、玲太郎は兄貴と来たんじゃないのか?』
『そう言えば二人で来たね。それが最後かも?』
『そうなんだな。……それよりも、どうして隣に座っているんだ? 向かい側に行けよ。顔が見辛いだろう?』
颯は玲太郎の帽子を見ていた。
『よいのよ』
玲太郎の声は弾んでいて、思わず苦笑した。
『あ、そう。それなら、まあ、いいけど。それじゃあ少し椅子を高くするぞ』
『はい』
玲太郎は正面よりも傍にいる事を選んだが、颯はそれが不可解でならなかった。首を傾げながら椅子を高くする。
『ありがとう。これで大丈夫』
『どう致しまして。帰る時間は、十時に食事だから九十分くらいでいいな?』
『うん、よいよ』
玲太郎は体を捩じって颯を見上げた。颯も玲太郎を見下ろしていて、丁度目が合った。
『見辛いだろう? 正面に行く気になったか?』
『ううん、ここでよいのよ』
『ふうん……』
颯はふと思い至り、苦笑した。
『屋敷で夕食の時は隣だもんな。これに慣れていると言えば慣れているのか』
『うん』
そうではなかったが、玲太郎はそういう事にした。
『食べる時は帽子を脱がないとな』
玲太郎の帽子を取ると、玲太郎の後ろに置いてある颯の背嚢の上に置いた。
『外套も脱ぐか?』
『うん』
颯が手伝い、玲太郎は外套を脱ぐと、それを玲太郎の座っている椅子の背もたれに掛けた。
『はーちゃんは脱がないの?』
『脱ぐよ』
そう言うと脱ぎ出し、軽く畳んで背もたれに掛けた。
「お待たせいたしました。芋羊羹の方は?」
「はい」
颯が返事をすると、颯の前に皿が置かれた。そして二人に芋大福の皿が置かれる。それと緑茶も置かれた。
「ご用がございましたら、お気軽にお声掛けください」
店員が笑顔で軽く辞儀をすると、颯も笑顔になる。
「有難う」
玲太郎は既に菓子楊枝に手を伸ばしていた。芋大福を切り分けてしまうと「いただきます」と言って頬張った。
(きっと美味しそうに食べているんだろうなあ……)
微笑むと合掌して「頂きます」と言ってから菓子楊枝を手にした。
食べ終えた二人は沼尾嘉島の神座嘉村に来ていた。それも絶壁の崖の上で草が鬱蒼と生えていたが、颯が下り立った辺りは魔術で刈っていた。玲太郎は店を出てから颯に抱き上げられていて、今もそのままだ。
『玲太郎が覚醒した場所なんだけど、憶えていないよな?』
『当然覚えてないのよ。どうしてここへ来たの?』
『一度は来ておいてもいいんじゃないかと思ってな』
『ふうん……』
玲太郎は視界が海と空だけという光景を見る事があっても、陸地から見る事が初めてだった。
『空の青と、海の青って色が違うんだね』
『そうだな。季節に依って空の色も違うからな。こういう景色を見るのも、偶にはいいだろう?』
『うん! また違う季節の時に連れて来てくれる?』
『いいぞ。それなら次は春だな』
『うん』
機嫌良く笑顔で頷く玲太郎を見た颯は漸く切り出した。
『それで、何故後ろ向きになっているんだ?』
『え?』
玲太郎から笑顔が消えた。
『ニーティが言っていたぞ。玲太郎が後ろ向きだから元気付けて欲しいってな』
『そうなの……』
気を落として、声も小さくなった。
『水伯と兄貴の口喧嘩で疲れたのか?』
『ううん、そうじゃないのよ。魔石作りがね、なかなか上達しないから、それでなのよ』
『ふうん……』
何度も小さく頷いた颯は玲太郎の長い睫を見ていた。伏し目になっていて、長い睫が良く見える。
『時間的にはそろそろ小型が成功してもいい頃だと自分で思うからだろう? 気長にやればいいよ。飛び級したから、その分早く卒業したいっていう気持ちもあるんだろうけど、それも気にせずにな』
『うん……』
颯は莞爾として玲太郎を見詰めた。
『暗いのは止めにしよう。気が滅入るからな。綺麗な景色を見て、気持ちを切り替えような』
言った途端に険しい表情になる。
『うーん、やはり来るのか……。会いに来た訳じゃないんだけどなあ』
玲太郎は颯の視線の先を見た。すると物凄い勢いで近付いてきたそれは、玲太郎と颯の前に来ると身を縮める。
「来て呉れたのか。嬉しいぞ」
シピが満面の笑みを湛えていた。玲太郎は目を丸くしている。
「誰もおらぬが、ヌトやノユはどうしたのよ?」
玲太郎と颯を交互に見ている。
「見ての通り、来ていないな。ヌトは水伯の屋敷で寝ているし、ノユも屋敷でニーティと一緒にいるよ。ニーティは目族の人な」
「ズヤから聞いておるから知っておるぞ」
微笑みながらそう言うと、視線を玲太郎に向ける。
「れいたろうよ、お主には感謝をせねばなるまい。灰色の子がああも綺麗に直っておるのは玲太郎のお陰ぞ。わしには出来ぬ業であるから感謝に堪えぬわ」
呆然としている玲太郎を見た颯が、玲太郎の頬に手を当てて自分の方に顔を向けた。玲太郎は我に返った。
「この人は、…人じゃないけど、シピって言うんだよ」
「ああ、そうなの。シピって言うの」
そして颯が手を離すと、玲太郎はシピに顔を向ける。
「初めまして。玲太郎です」
「畏まらずともよいぞ。気楽にな。灰色の子が直ったと聞いて一度行ったのであるが、れいたろうがおらなんだのよ。礼が遅くなって済まぬな」
「玲太郎は治療した時の事を憶えていないからな」
「そうであるか。であるが、直したのは間違いなくれいたろうなのであるからな」
「お礼を言われる程の事はしてないんだけどね」
玲太郎が苦笑すると、シピは二度頷き、颯を見た。
「はやてであろう?」
「うん、颯だよ」
「ヌトの次はハソが厄介になっておると聞き及んでおるぞ。済まぬな」
「うん、まあ、そうだな。その二体は玲太郎が産まれてからずっといるような物だから今更だなあ……」
「そうであるか。目族の子にはノユとズヤが付いておるのであろう?」
「ズヤは図書室に、…書物の沢山ある所に入り浸っているから、付いているとは言い難いけどな」
苦笑しながら言うと、シピは真顔になって頭を下げた。
「ケメの件も済まなんだ。何を遣っておったのかは凡その事を聞いたのであるが、わしの理解に及ばぬ話であったわ。何故あのような事を仕出かす気になったのか、全く以て解せぬわ」
「ケメ?」
時折出て来る名ではあったが、玲太郎が不思議そうに颯を見る。目が合った颯は少し渋い表情になる。
「うん、まあ、いるんだよ。ケメって言う奴がな。今は罰を受けていて監禁されているんだよ」
「へぇ、そうなの」
「何故か知らぬが、ケメの家の木には誰も入れぬのよ。わしも念の為に確かめに行ったのであるが、入れなんだわ」
「そうなんだな。まあ、あいつに会いたい奴の気が知れないし、このままずっと監禁されていればいいんだよ」
無表情の颯がやや語気を強めて言うと、シピは苦笑した。
「あれでもわし等の兄弟であるからな。それに反省をせぬと出られぬようになっておるから、出て来た時は百発程殴って許して遣っては呉れぬか」
「殴っても痛くないんだろう? まあ、遣ったとしても許せないだろうなあ」
そう言うと苦笑した。
「そうであるか。それもまた致し方なし、なのであろうな。……それにつけても、此度は灰色の子がおらぬのであるな?」
「二人で来たからな。水伯には秘密で来ているんだよ」
「それならば、次に来る時は灰色の子も連れて来てくれるか。偶には会いたいでのな」
「シピが水伯の屋敷に行けばいいんじゃないのか?」
「わしは此処から余り離れとうないのよ」
「ふうん……。解った。次に来る時は水伯も一緒に来るよ」
「わしの家の木まで来てもよいぞ。その辺りにある海溝の奥深くに潜れば家の木があるぞ」
「解った。お邪魔しに行くよ」
「待っておるぞ。ではれいたろう、会えて良かった。また会おうぞ」
「さようなら」
玲太郎が笑顔で言い、シピも笑顔で頷くと背を見せて飛び上がり、後ろ姿が小さくなって行き、遂には海の中へ消えた。玲太郎は見届けてから颯に顔を向ける。
『なんか、嵐みたいだったね』
『そうだな。言いたい事を言って消えたな』
そう言って鼻で笑った。颯はまだ海を見ている。
『ケメは一体何をしたの?』
颯は玲太郎に視線を向けて渋い表情になる。
『兄貴と悠ちゃんと俺をいいように操ろうとしていたんだよ。特に悠ちゃんだな』
『病気だったんだよね?』
『そうなんだよ。ケメはその病気を調べたかったみたいなんだよな』
『そうなの』
玲太郎はまた海の方へ視線を向けた。颯が暖かい障壁で包んでいてくれるお陰で、寒さは丸で感じなかった。
『そう言えば……』
颯が切り出すと、玲太郎は颯に顔を向ける。
『僕はもう九歳だから抱っこは駄目なのよって言わないな? どうしたんだ?』
率直に訊いた颯を見詰めたまま顔を紅潮させた。
『だって、言っても抱っこされたままだからね。でも次からは言う』
『まあ、言わなくてもいいんだけどな』
颯は微笑んで玲太郎の頭を撫でた。帽子が少しずれたが玲太郎は直そうとはせず、恥ずかしさの余りに顔を隠そうと颯の肩に顔を埋めた。颯は微笑みながら玲太郎の背を擦った。
十時の食後、回転焼きを手に入れたルニリナは上機嫌で頬張っていた。玲太郎もまた上機嫌で課題を遣っていて、ノユはそんな二人を眺めていた。玲太郎は手を止め、課題の問題集からノユに視線を移す。
「そうだった。シピって人に会ったのよ。ノユと兄弟なんだよね?」
「然り。彼方へ行っておったのか」
「はーちゃんが景色が綺麗だから行ってみようって言うからね。崖の上から見たんだけど、空と海しか見えなかったのよ。まあ、雲も少しはあったんだけどね。景色は凄く良かった。ああいうのを絶景って言うんだろうね」
「そうであるな。それにつけても、シピはどうであった? 元気であったか?」
「うん、初めて会ったから良く分からないんだけど、元気なんじゃないの? 父上を治した事でお礼を言われたのよ」
「そうであったか。玲太郎の生まれる以前から、シピは水伯を見ておったからな」
「シピもニムみたいに父上に攻撃してたの?」
「それは知らぬ。何故シピに直接訊かなんだのよ?」
「主にはーちゃんが話してたからね」
「……そうであるな、シピはニムのように好奇心はなかろうから、そういった事は遣らぬと思うがな。次に訊けばよいわ」
「ケメって人の話もしてたんだけど、ケメって人はどうして監禁されてるの?」
「ケメか。……ケメな……。うむ、永い時を掛けて、子を調べておったと言うか、子の持つ何かを調べておったと言うか、そういった事であろうな。…と言うても、わしも詳細を知らぬのよ。わし等は念話が出来るのであるが、ケメとは何故か念話が出来ぬようになっておって、それで二度会いに行ったのであるが何故か会えぬのでな、詳細は判らぬままなのよ」
「ふうん?」
「わし等は常に一緒におる訳ではないからな。ま、幼き頃は一緒に育っておったのであるが、ケメとは接触が少なくてな、ケメの事はわしもよう解らぬのよ」
「ノユは誰と仲が良かったの?」
「ヌトとズヤであるな。後はハソであろうか。ま、ハソは長子であるから、皆と満遍なく話しておっただけであろうがな。シピとは良う喧嘩をしておったわ」
「へぇ、仲のよい兄弟と、そうじゃない兄弟がいるなんて、なんだか不思議だね」
「皆個性があるからな、わしが態度を一様に取っておっても、どうしてもそういった差は出来る物よ。玲太郎とて、明良と颯とでは態度が違うであろうが。それと同じよ」
「なるほど……」
玲太郎が真剣に頷いていると、その会話を穏やかな表情で聞いていたニーティが口を開く。
「そうですよね。玲太郎君はアメイルグ先生には、割と言いたい事を言っていますよね。どちらかと言うと厳しい言葉が多いような気がしますが、あれは何故なのでしょうか?」
玲太郎とノユが揃ってルニリナを見た。玲太郎は思わず視線を上に遣り、暫くしてルニリナに戻す。
「あーちゃんは結構自分を押し付けて来るからですね。時々息苦しくなるんです。それで、わっと言っちゃうんですよね……」
最後は苦笑しながら言った。
「父上に、十数えてから言うようにって言われてるんですけど、出来ない時もあります」
「ふ。結局甘えておるのであろうな。何を言うても、明良であれば玲太郎を嫌わぬからな。それに、明良も玲太郎がおれば表情があるものな」
「穏やかな時はよいのよ。あーちゃんは綺麗だからいつまで見てても飽きないしね。でも押し付けが強くなると、僕が我慢出来なくなっちゃう……」
「うーん、確かにアメイルグ先生は独占欲が強いですのでね。ですが、玲太郎君といるアメイルグ先生は雰囲気が華やぎますよね」
「でも僕は、父上やはーちゃんみたいに、ある程度は距離を取ってもらいたいんですけどね……」
「そうですか。アメイルグ先生の想いは一方通行ですか……」
「あれだけ重ければ玲太郎も負担に感じるのは当然であろうて」
「全てが嫌じゃないのよ? もう少し、なんて言うの? ……縛らないで欲しいのよ」
「窮屈であるのは、見ておれば解るわ」
「そうでしょ? 凄いでしょ? 結構力を入れて来るからね、抵抗しても敵わないのよ」
「魔力を籠めればよいではないか。そうすれば誰も玲太郎に敵わぬわ」
玲太郎は頬杖を突いて、視線を伏せた。
「それは出来るんだろうけど、やっちゃうと後が大変になるから出来ないのよね。口で言うだけでも拗ねられて大変なんだよ? それに出来たとしてもやらない方がよいのよ」
ルニリナは「ふふ」と笑っていたが、ノユは腕を組んで「うーん」と唸った。
「明良のあれは病であろうから、玲太郎が本気で拒否せぬ限りは続くのであろうな」
そう言って苦笑した。玲太郎は目を丸くしてノユを見た。
「あれは病気なの?」
「然り。玲太郎病と言う病でな、玲太郎がおらねば心の均衡が取れぬのよ」
「ええ……、僕のせいでおかしくなる時もあるんだよ? でも、玲太郎病ってなんだか嫌だね。治せないの?」
「アメイルグ先生の病気は治らないでしょうね。ですが、玲太郎君が成長すれば治るかも知れません」
眉を顰めてルニリナを見ると、溜息を吐いた。
「それじゃあいつ治るか、分からないじゃないですか……」
「それまで我慢致せという事よ」
そう言ったノユを仏頂面で見て押し黙った。
「ほれ、続きをせぬか」
「あ、うん」
頷いて問題集に目を遣った。
「ニーティはまだ回転焼きが残っておるが、食べてしまわぬのか?」
「今日は一先ず一個だけ、四個は明日から一日に二個ずつ、大切に食べますので置いておくのですよ」
「そうであるか」
玲太郎は会話を聞いて微笑みながら問題を解いていた。それに気付いてルニリナが微笑んでいると、ノユがその視線を追って玲太郎に一瞥をくれた。
その日の夜から、玲太郎は颯とルニリナが仲良くしている所を見ても水伯に甘えなくなったが、明良の隣には座らず、最初から水伯の隣に座り、明良はそれだけで不機嫌になっていた。
二日後、土の曜日でルニリナは休日となっている。しかし、玲太郎は休みなしで明良と共に魔術の練習を遣りに北の畑へ行っていた。本来なら魔石作りの練習を遣る所ではあるが、気晴らしと称して明良が玲太郎を外へ連れ出したかっただけだった。
玲太郎は見慣れた景色の中、何を遣るでもなく立ち尽くし、明良はその隣で屈んで玲太郎の顔を見詰めていた。
「何も遣らないの?」
「うん? なんだかこの景色が懐かしくて眺めてるのよ」
「屋敷に帰って来てから此処へは来ていなかったものね」
「そうなのよ。それにしても、冬はいつも雪を解かしてもらってて、それが当たり前になってるけど、雪が積もったままならどんな感じなんだろう?」
「それでは雪を降らせて、積もらせてみてはどう?」
玲太郎は右を向き、明良を見た。明良が微笑む。
「僕がやるの?」
「そうだよ。玲太郎の魔術の練習なのだからね」
「積もるくらいまで降らせるのは大変そう」
「そうでもないよ。玲太郎なら、忽ち積もらせてしまうよ」
「そう?」
玲太郎はまた正面を眺め出した。
「うーん……、今日は止めておくね。学祭で土の像を一杯見たでしょ。僕もあれを造ってみたいのよ」
「それはよいね。玉を作るよりも難しいから、よい練習になると思うよ」
「え、玉より難しいの?」
俄に馬の像が顕現すると、明良は立ち上がった。
「この辺りの再現は細かいだろう? こういう部分は魔力操作が難しいのだよ。勿論玉よりもね」
目の辺りを指で差して言うと玲太郎を見た。玲太郎は首を傾げている。
「見えない」
明良は微笑むと玲太郎を抱き上げて、目の辺りが見えるように近付けた。
「なるほど、これは細かいね。でもこのたてがみの毛の再現も難しいよね?」
「そうだね。当然ながら練習が必要になって来るね」
玲太郎は険しい顔をして明良を見る。
「もしかして、今の僕には出来ないんじゃないの?」
「それは遣ってみないと判らない事だよね? 試しに造ってみようよ、ね?」
「細かいって事は、小型の魔石作りが出来ない僕には、無理のような気がして来た……」
表情の険しさが増すと、明良が暫く黙考した。
「それでは、全体的に大きくしてしまえばよいのではないの?」
「大きく?」
そう呟いて、目を閉じると想像をした。玲太郎の眉を顰めている様子が可愛くて、明良は満面の笑みを湛えていた。玲太郎は目を開けて、そんな明良を見る。
「細かい所を再現しようとして大きくするとなると、とっても大きくなりそうだから止めておくね」
「そうなの? それは残念。玲太郎が初めて造る像を見られると思ったのだけれどね」
心底から残念そうに言うと、玲太郎は苦笑した。それも直ぐに笑顔に変わる。
「あーちゃん、この馬の背中に乗りたい」
「え?」
明良は思わず顔を顰めた。
「乗ったらダメ?」
「構わないけれど……。それなら本物の馬に乗ればよいのではないの? それならば乗馬をさせて貰える牧場を探すけれど。あ、家の馬でもよいよ?」
「あーちゃんの所の馬は、毛の為の馬で乗る為の馬じゃないよね?」
「そうだね」
「この馬でよいよ。動かないけど、乗ってみたい」
「成程? それでは動かそうか?」
「え!? そんな事、出来るの?」
「出来るよ。空も飛んでみる?」
「え! よいの?」
明良は微笑むと頷き、玲太郎を背に乗せた。そして後ろに明良も騎乗し、土の馬が駆け出した。
「わー!」
思わず明良に体を預ける形となった。本物の馬に騎乗しているかのように上下しながら前進する。北の畑を駆け回った後は空へ舞い上がり、空も駆け回った。本物の馬ではなかったが、玲太郎はこの上なく満足した。魔術の練習はそっちのけで約二時間も遊んだ。それは久し振りに明良と過ごす楽しい一時となった。
余程楽しかったのか、入浴中は颯にその話を何度もした。二人は基本的に二三十分は湯船に浸かっているのだが、その間中、ずっと繰り返していた。そんな玲太郎を見て、颯も笑顔で相槌を打っていた。
「そろそろ上がって、体を洗えよ」
「うん? もうそんな時間? それじゃあ次ははーちゃんが馬に乗せてね」
「解った。俺は本物の馬に乗せて遣るよ。ヤニルゴルで乗馬体験が出来る牧場を見付けたんだよ。明日にでも行くか?」
「え! 本当? 約束だからね!」
「十時から遣っているから、十一時に行こうか。迎えに来るよ。水伯と兄貴とニーティも誘って一緒に行こう」
「でも雪が積もってたらどうするの?」
「雪を解かす係員がいるんだよ。それに雪が降っていても、それも吹雪いていても遣っているって話だったぞ」
「そうなの。それじゃあ安心だね」
笑顔で言うと、俄に浮き上がって浴槽の外へ出されてしまった。
「それじゃあ兄貴が気を揉むから早く洗って出て貰える?」
「分かった。明日は一緒に乗るの、約束だからね?」
「うん、一緒に乗ろうな。ほら、体が冷めるから早く洗って」
「約束だよ?」
「約束な」
玲太郎は笑顔で頷くと、灌水浴装置の方へ向かった。
翌日、占術の仕事が入っていたルニリナはノユと連れ立って出掛けた為、四人と一体でヤニルゴル地区へ向かった。玲太郎は水伯の手を取って楽しそうにしていたが、その後ろにいる明良は玲太郎と水伯を恨めしそうに見ながら歩いていた。先頭を行く颯は小屋へ入ると、水伯と玲太郎と明良も遅れて入った。小屋の中は暖房が良く効いていて暖かかった。いたのは以前来た時の老人ではなく、青年の男だった。
「いらっしゃい。全員見学かい?」
「大人三人と、子供一人でお願い」
椅子に座ると、名簿を受け取るために手を出した。
「はいよ。それじゃ、これに名前を書いてね」
その手にそれと万年筆を渡す。
「颯、私の分も書いて貰える?」
明良が颯の後ろから声を掛けた。
「お客さん、申し訳ないんだけど、手が使えない限りは直筆をお願いしてるんだよ」
颯が振り返ったと同時に男が言うと、水伯で見えていなかった明良がいつもの無表情を男を見せた。
「申し訳ない。自分で書くよ」
「すまないね。何かあった時のために直筆になってるんだよ」
「あーちゃん、人に任せちゃダメだよ」
振り返った玲太郎に言われてしまった明良は苦笑した。
「そうだね。ご免ね」
男は明良に見惚れていたのだが、書き終えた颯が立ち上がって視線を遮った。空いた椅子に玲太郎が座り、その隣に水伯が座った。先に玲太郎が書き始めた。それを余所に男は明良が見えなくなり、颯を邪魔そうに見ていると、颯に睨み付けられている事に気付いた。
「あ、っと……、子供が一人千五百金、大人が一人三千五百金で一万二千金ね」
慌てて顔を逸らして作り笑顔で言う。
「それでは私が出そう」
明良が透かさず言い、外套の下に来ている衣嚢に手を入れた。水伯が振り返る。
「明良が? 此処は年長者である私が出すよ?」
「俺が誘ったから俺が出すよ。水伯は昼食を奢ってよ」
既に財布を出していた颯が、小金貨一枚と大銀貨五枚を水伯に渡した。
「有難う。昼食は沢山食べてよいからね」
「ふ、それじゃあそうしよう。此処にある食堂、量もあるし美味しいからな」
水伯が硬貨を男に渡すと、書き終えた玲太郎が立ち上がり、椅子を指で差した。
「あーちゃん、どうぞ」
「ああ、有難う」
満面の笑みを玲太郎に見せると、それを見ていた男が顔を赤らめた。颯は玲太郎を抱き上げて、明良が椅子へ行き易いように避けた。
「兄貴の邪魔にならないように避けていような」
「うん、そうだね」
笑顔で見合っている二人を見て、露骨に不機嫌になると椅子に腰を掛け、水伯の手元に視線を遣った。
「金を受け取ったのなら、受け取ったとかなんとか言えよ」
珍しく颯が喧嘩腰で言った。水伯と明良が店員を見ると、店員が手にしている硬貨を魔道具の受け皿に置いた。
「すいません、ちょうどいただきます。ありがとうございます」
明良は直ぐに水伯の手元に視線を戻した。その視線に気付いていた水伯が鼻で笑った。
「そのように見詰められてしまうと、書くのに緊張してしまうね」
「そう? 苗字をどうするのだろうかと思って」
「ああ、そうだね。こういう場合は書かないのだよ」
「やはり」
書き終えた名簿の上に万年筆を置き、それを持ち上げると明良の前に置いた。
「有難う」
「どう致しまして」
「水伯、説明してくれるから、そのまま其処に座っていれば?」
「そう? それではそうしよう」
颯は水伯と明良の丁度真ん中の後ろに立っていた。玲太郎は水伯を見下ろしていたが、颯は相変わらず男を見ていた。男は明良を凝視していた。それを見ていると不快になって来て、視線を玲太郎に移した。すると玲太郎も男を見ているようだった。ハソは颯の後ろにいて、玲太郎と同様に男を見ていた。
以前、玲太郎がルセナと一緒に回った場所は中心地から見て、北西寄りから東だったのだが、今度は南の方だった。カンタロッダ下学院からこの村に入る時は南南東の道からの為、そこから近いと言えば近かった。瞬間移動では行かず、歩いて牧場へ向かった。足下が悪かったが、先頭を歩いていた颯が乾かしていた。
「融雪員がいると聞いていたのだけれど、本当に解かすだけなのだね」
明良が道の先を見ながら言うと、水伯が「ふふ」と笑った。
「雪の水分が必要なのだろうね」
玲太郎は水伯に手を引かれ、視線をあちらこちらへ送っていた。
「動物がいないのよ」
「今日は天気がよいとは言っても冬だから寒いし、小屋の中にいるのだろうね」
「小屋の中に一日中いるの?」
「それはどうだろうね? 種類に依っては外にいると思うのだけれど、そうでなければ、一番気温の高い時間帯に外に出るのではないのだろうか?」
「なるほど」
「此処の領主ではあるのだけれど、其処までは私も知らないからご免ね」
「ううん、よいのよ。ありがとう」
笑顔で水伯を見上げると、水伯も玲太郎を見て笑顔になった。明良も玲太郎の隣を歩いているのだが、何故か手を繋いでいなかった。
「玲太郎、そろそろ私に抱っこされたくなったのではないの?」
「ない。こういう所は歩くのがよいのよ」
即答すると、明良は仏頂面になった。水伯はそれを横目で見て、微笑んでいた。
颯の言っていた牧場に到着すると別途料金を払い、牧場の中へ入って行った。馬に馬具を着けて貰っている間、誰が玲太郎を乗せるかで揉めていた。正確には、颯に明良が食って掛かっていただけだったのだが、水伯は苦笑して見ているしかなかった。
「私が玲太郎と一緒に乗った方がよいに決まっているだろう?」
「どっちが乗せても一緒だって言っているだろう? それに玲太郎に乗せると約束しているから、俺が先な。これは譲らないからな」
玲太郎は何も言わずに水伯の手を握っていた。
「玲太郎は颯でよいのかい?」
「うん。約束してるのよ」
その言が聞こえて来た明良は悲痛な表情になり、玲太郎を見た。
「気が変わって私と一緒に乗るという事にはならない?」
「あーちゃんとは昨日一緒に乗ったからね。まあ、土の馬だったけど、それでもとーっても楽しかったのよ。だから今日ははーちゃんと一緒に乗るね」
笑顔で言うと、水伯に視線を移した。
「その後は父上と一緒に乗ってもよい?」
「構わないけれど、明良とは乗らないのかい?」
「あーちゃんと? うーん、……時間があったら乗るかもね?」
それを聞いた明良は笑顔になった。
「それでは二人とは程々にして、私と沢山乗ろうね」
「あーちゃんとは時間があったらにするね」
悪戯っぽく笑って言うと、明良の表情がまた悲しみに曇った。
「お客さーん、お待たせしました。三頭ね。貴重品以外の荷物はここに置いてくれて構わないからね。それじゃあ順番に乗ってもらいましょうか」
牧童の一人が来て籠を台の上に置いた。
「俺は背負ったままでいいよ」
そう言って、玲太郎の方に顔を向ける。
「玲太郎、行くぞ」
「分かった」
水伯の手を離して颯の方に掛けて行く。明良は恨めしそうな目をして玲太郎を見ていた。明良も水伯も、荷物らしい荷物を持っておらず、誰一人として籠を使わなかった。
「こっちね」
一人の牧童が挙手すると、玲太郎が逸早く傍へ行った。
「よろしくお願いします」
「僕はムタイと言います。馬はペンターです。こちらこそよろしくお願いします」
「ムタイさん、ペンター、お願いします」
後から来た颯も挨拶をして、ムタイの手を借りずに先ず玲太郎を馬に乗せ、軽やかに馬に跨った。
「お客さんは初めてじゃないの?」
ムタイは颯と同年代程度の青年だった。
「初めてだよ。運動神経がいいだけだな」
そう言って鼻で笑い、ムタイが笑顔になる。
「馬も全然緊張してないし、乗り慣れている風だったから、経験者かと思ったよ」
「そうなんだ? 初心者中の初心者なんだけどな。全員初心者」
「あはは。全員が揃って長靴を履いて、外套も丈の短いのを着ているから、全員が経験者かと思ったよ。それじゃあ最初は僕が馬を曳くから、どんなものかを経験してね」
「お願いします」
「よろしくお願いします」
二人がまた軽く辞儀をすると、ムタイが返事をして馬を牽き始める。徐に歩き始めた馬の上で、玲太郎は姿勢を崩して、颯にもたれ掛かっていた。
「もたれていてもいいぞ」
「それだとずっと誰かと一緒じゃないと乗れないのよ?」
颯は微笑むと自分の腹と玲太郎の背の間に左手を入れ、玲太郎の上体を起こした。
「ありがとう」
「どう致しまして」
柵周りが大体四町半あり、それを二周した所で止まった。
「うん、坊ちゃんの方はいかにも初心者なんだけど、お兄さんの方は初心者らしくないね。力がいい感じに抜けていて、自然体で姿勢もとてもいいよ。坊ちゃんはこのまま歩いて慣れようね」
「はい」
「それじゃあまた動き出すけど、今度は後ろに倒れないでね」
「はい……」
姿勢を正したが俯いてしまった玲太郎を見た颯は、玲太郎の顎の下に右手を当て、顔を上に向けた。玲太郎はそのまま振り向いて颯を見ると、颯が笑顔になり、腹を優しく二度叩いた。玲太郎は微笑んで見せると正面を向く。
「それじゃあ行きますね」
ムタイがそう言って歩き出すと、今度は後ろに倒れる事もなかった。嬉しさの余り、振り返って颯を見ようとしたら、颯の右手に頬を掴まれて正面を向かされてしまった。
「危ないから前を見ていろよ?」
小声で言われて気が引き締まる。しかし、入り過ぎた力も周を重ねる毎に抜けて行き、到頭ムタイの手を離れる時が来た。
「それじゃあお兄さん、常歩でよろしくね」
「了解」
颯は即座に馬に合図を送り、馬がそれに反応して歩き出した。ムタイは感心したように見ている。玲太郎は我が事のように誇らしく思った。颯は玲太郎がそんな事を思っているとは露知らず、馬が楽しそうに歩いている事を素直に喜んでいた。
玲太郎は言っていた通り、最後に明良と同乗する事になった。明良が上機嫌になると、自然と馬も上機嫌になって、この日一番の人馬一体となった常歩だった。
昼食を摂ってから屋敷へ帰った四人は居室で寛いでいた。水伯は久し振りに運動らしい運動をしたようで、清々しい表情をしていた。それは明良も同様だったが、それよりも思っていた以上に玲太郎が同乗していた事が嬉しかったようで、玲太郎が隣に座らず、対面にいても機嫌が頗る良かった。
「水伯も乗馬は未経験だったんだよな?」
「そうだよ。今日まで一度もなかったよ。馬で畑を耕していた事はあるのだけれど、乗った事はないのだよね。だから今日は本当に楽しかったよ。誘ってくれて有難う」
「ニーティとヤニルゴルを回って見付けていたんだけど、意外と喜んでくれて良かったよ」
玲太郎はその言に引っ掛かり、颯を見た。
「はーちゃん、ルニリナ先生と一緒に乗馬をやってたの?」
「いや、ニーティが次にしましょうって言うから止めたんだ。だから今日が初めてだよ」
「ふうん、そうなの」
興味がなさそうに相槌を打って見せたが、満面の笑みを浮かべていた。颯も釣られて笑顔になり、そのまま視線を明良に移した。
「兄貴も初めてだったよな?」
「そう言っただろう?」
不機嫌そうに言い、横目で颯を見た。颯は苦笑した。
「ふ、俺が最初に玲太郎を乗せたからなあ。まあ、仕方がないよな。何はともあれ、最後には同乗出来たんだからいいだろう?」
それには無反応で、笑顔になって玲太郎を見る。
「玲太郎は誰と同乗した時が一番良かったの?」
「うん? ……うーん、そうだねぇ……、はーちゃんのお陰で少し慣れたし、父上とも楽しかったし、あーちゃんとは少し疲れちゃった感じになるね。休憩をしてたとは言え、結構乗ってたよね?」
玲太郎は水伯の方を見て問うと、水伯が軽く二度頷いた。明良は自分を見て貰えなくて仏頂面になっている。
「そうだね。休憩を挟んだとは言えども、三時間は…三時間半くらいはいたし、馬も三頭も乗り換えたものね」
「水伯は三頭だったんだ? 俺は二頭だったぞ」
「私も三頭だったよ。何故颯だけが二頭なのだろうね?」
「一頭目と相性が凄く良いとかなんとか言われたけど、それでだろうか? まあ、馬が楽しそうだったからか、凄く乗り易かったよ。二頭目はそれと比べると落ちるけど、乗り易い事に変わりはなかった感じだな」
水伯が何度も頷いていた。
「私は最初の馬が気難しくてね、玲太郎を乗せる時に馬を交換してくれたのだけれど、その馬が一番気性が好かったね。最後の馬は至って普通だったのだけれど、一頭目よりは断然良かったよ」
「あーちゃんはどうだったの?」
「二頭目が一番乗り易かったね。三頭目は途中から玲太郎が乗っただろう? そのお陰で機嫌が良くなったのか、途端に乗り易くなってしまって、それからは三頭の中で一番になったね」
「機嫌が良くなったのは兄貴だろう? 馬が兄貴の機嫌に釣られたんだろうな」
「それはあるだろうね」
同調した水伯が「ふふ」と笑った。そんな水伯を見ながら玲太郎が苦笑する。
「でも乗馬って意外と疲れるんだね。歩いてたのは馬なのに、なんだか疲れちゃったのよ」
「乗っているだけと言っても、筋肉は使う訳だし、落ちないように気を張る訳だから当然ながら疲れるのだろうね。お茶を飲んだら昼寝をするかい?」
「久し振りに俺が本を読むよ。何がいい? <あらたなかみさま>でも読もうか。懐かしいだろう?」
「え! 本当に読むの? うーん、それじゃあ久し振りにお願いするね」
二人が笑顔で見合っている所を見て、明良がまた不機嫌になる。
「私が寝かし付けるよ」
笑顔の颯が明良に顔を向ける。
「兄貴は休日の夜、傍に付いているだろう? だから俺が遣るよ」
明良は横目で颯を見ている。
「颯は平日の夜、ずっと遣っているのだろう? 私に譲ってもよいのだよ?」
「玲太郎の反応を見たら解る筈だけど、俺は寝かし付けてはいないんだよ。な? 玲太郎」
そう言って玲太郎を見ると、明良も玲太郎を見た。
「寮では同じ部屋にいるだけだからねぇ……」
「それじゃあ本を取って来るわ」
颯は立ち上がって消えてしまった。
「あれ? あの絵本ってここにあるんじゃないの? はーちゃんはどこへ行ったの?」
水伯の方に向いて訊くと、水伯が困ったように笑う。
「颯は家へ行ったのだろうね。あれは元々イノウエ家の物で、私が借りて来ていただけだから家の図書室に戻してあるのだよね」
答えたのは明良だった。玲太郎は明良に顔を向けていた。納得したのか、頷いていた。
「そうだったの。それは知らなかったのよ。……ああ、だから絵本の所になかったんだね」
「欲しいのであれば複製するけれど、欲しいかい?」
水伯が何気に訊いたが、玲太郎は首を横に振った。
「ううん、ヌトがあの絵本の話を時々してくれて、気になってた事があっただけだから、それはよいのよ。読みたくなったら、イノウエ邸へ行って読めばよいもんね」
そこへ颯が戻って来た。片手に絵本を持っている。
「只今。それじゃあ玲太郎、寝室へ行こうか」
「うん」
立ち上がって颯の傍へ行くと笑顔で振り返った。
「おやすみなさい」
「お休み」
「……お休み」
水伯は笑顔で、明良は仏頂面だった。玲太郎と颯が手を繋いで退室する後姿を見送ったのは水伯のみだった。
「明良は付いて行かなくてもよいのかい?」
「私が寝かし付けられるのならば喜んで行くのだけれどね」
「そう。それではお茶のお代わりはどう?」
「それでは貰うね」
茶器も違う物に換えられ、新たに入った茶から湯気が立った。
「有難う」
「どう致しまして」
不貞腐れていても、視線を合わせるなり相変わらずの無表情に戻る明良だったが、声色はとても刺々しかった。
翌日、玲太郎の精神状態が落ち着いているのを感じ取っていたルニリナは、心底から安堵していた。魔石作りの練習にも身が入るようになっている。その遣る気に劣らぬように、ルニリナも水晶作りを張り切って遣っていた。
「そろそろ休憩しましょうか」
積んであった最後の山が消え、水晶を探している玲太郎に言うと、玲太郎は視線を上げてルニリナを見た。
「はい」
「それではお茶を淹れに行きましょう」
「はい!」
元気良く返事をして立ち上がると、ノユを置いて二人は退室した。二階にも小さな台所があり、そこで茶を淹れられるようになっている。料理も作れるようになっているのだが、庶民の台所さながらの流し台、焜炉と小さな冷蔵庫が備え付けられている程度だった。二人は手際良く茶を用意し、勉強部屋兼図書室へ戻って行った。
後ろ向きな玲太郎が引っ込んでくれているお陰で、ルニリナも陰鬱な雰囲気に感化される事なく、快適に過ごせた。
「お茶はどうでしょうか?」
「とても美味しいですよ」
そう言って微笑み掛けると、玲太郎も笑顔になる。
「それで乗馬はどうであったのよ?」
ノユが話題を振ってくると、玲太郎はノユに顔を向けた。
「楽しかったけど、意外と疲れちゃった」
「そうであるか。ニーティも昨日の客には難儀しておって、かなり疲れたな?」
「ふふ、確かに疲れましたが、私の仕事を乗馬と同列に語るのはどうかと思いますよ?」
「それはそうであるな。済まぬ」
「ルニリナ先生は一日に大体何人くらい占ってるんですか?」
「最近は厳選して貰っているので、言う程はいませんね。昨日も三人でしたよ。ここ最近では多い方でしょうか」
「三人で多い方ですか」
「そうですね。今は颯と過ごす方が楽しいですし、若い人に機会を回すのも年長者の役目ではありますが、一ヶ月に最低でも十人は占いたい所ではあります。依頼がない月は有難い事に全くありませんのでね」
「そんなに占って、どうするつもりなんですか?」
「私達目族の集落がどこにあるか、ご存じですか?」
「ソズバシッス山脈ですよね? それと何か関係があるんですか?」
「便宜上、ソズバシッス山脈はウィシュヘンド州に組み込まれていますが、実際は準国領、サドラミュオ大公閣下の領地となっています。王族という立場を利用して保護して下さっているのですが、その費用に大層なお金がかかるのですよ。目族はあの山脈に散らばって生活をしていまして、五十四の集落がありますし、それも守らなければなりませんのでね」
「山脈としては世界三大山脈に入る程に大きいですよね。そんなに広大な土地を守るんですか?」
「そうです。固有植物や動物を保護する事が目的ですが、入山者を制限する為でもあります。世界有数の山もありますので、山頂を目指して登山する人もいますが、残念ながら密猟者もいますし、警備隊も必要になって来るのですよ」
困ったような表情をすると、一口、また一口と茶を飲んだ。
「メニミュードが乱獲されたという話は聞きました」
「それが発端で閣下が保護活動を始めたそうですよ」
「そうなんですね」
玲太郎は軽く頷きながら茶器を持ち、茶を一気に三口も飲んだ。
「今でもそれを狙って、クミシリガ湖側から入る輩がいるのですよ。困り者ですよね」
「へぇ、それは大変ですね。どうやって撃退をしてるんですか?」
ルニリナは莞爾として玲太郎を見詰めた。
「それは秘密です。私は目族の人間ですので話せないのですよ。玲太郎君であれば、閣下からお聞きになった方がよいでしょうね」
「聞いたら教えてもらえるでしょうか?」
「うーん、それはどうでしょうね。私は閣下の事ですので、教えてもらえるのではないかと思いますよ」
「水伯は奇妙な術を使いおるからな」
二人は同時に、俄に会話に入って来たノユを見た。
「うん? 何かの術を山にかけてるって事?」
「然り。所謂結界のような類ではあるが、この大陸の子の使う術や、わし等が使う術とは違うのよな」
「へぇ、そうなの! 父上だけの魔術って事?」
「それはどうであろうか。水伯は和伍におったのであろう? わしは和伍の術には暗いから断言は出来ぬな」
「暗い?」
「詳しくないという事よ」
「なるほど、ありがとう。それじゃあ他の国の魔術には詳しいの?」
「恒ならば此処に来る前におったから、割と知っておるぞ」
得意満面で言うと、ルニリナが苦笑した。
「豪語するのは結構ですが、既に記憶が薄れているのでしょう?」
「それは……、確かにそうなのであるが、な。うむ……」
場都合の悪そうなノユを見た玲太郎が声を上げて笑うと、次いでルニリナも笑った。ノユは一瞬腹を立てたが、そんな二人を見て、笑われる事を諦めた。
週末になり、また明良と長時間を過ごす日が遣って来た。明良はいつも通り、玲太郎に密着している時は上機嫌で、二人切りでいる時も上機嫌で、手を繋いで歩いている時も上機嫌で、不思議とずっと上機嫌だった。
先週は土の馬で玲太郎の機嫌取りに成功した事もあって、今度もまたそれに似た何かを遣ろうと目論んでいた明良は玲太郎を連れ、北の畑へ来ていた。
「今日は何に乗りたい?」
玲太郎は首を傾げた後、右側に立っている明良を見上げた。
「何に乗りたいとは? また土の像を造って、それに乗るの?」
明良は膝を折って目線を合わせると微笑んだ。
「その積りなのだけれど、土の像はもう飽きたの?」
「うーん、本物の馬に乗ったからねぇ……。僕はあれで凄く満足しちゃったから、土の像はもうよいと思うのよ」
「え……」
目論見が外れた明良は落胆した。
「また本物の馬に乗りに行くなら、そっちがよいのよ」
「成程……」
「父上と、はーちゃんと、次はルニリナ先生も一緒だとよいね」
「二人切りで行きたいと思わない?」
「思わない。楽しいからみんなで楽しみたいのよ」
「成程……」
渋い表情の明良を見て、玲太郎は微笑んだ。
「二人切りはダメだからね」
衝撃を受けた明良は、口を開けて顔を顰めていた。それを見た玲太郎は苦笑する。
「お菓子を食べに行くとか、買い物に行くとかなら二人でもよいよ。でも楽しい事は、極力みんなで行く方がよいと、僕は思うのよ」
「そう……。それでは土の像を造る練習でも遣る?」
「それでよいけど、ルニリナ先生の作ってくれた指輪を持って来てないのよ」
「なくてもよいのではないの?」
「あれなしで造るとなると、結構大きくなっちゃうと思うから、あった方が練習になるんだけどね」
「それでは取りに行こうか」
「ここで景色を見てたいから、持って来てくれる?」
「そう? それではこの辺りから動かないようにね」
「分かった。きちんと待ってる。でもすぐだよね?」
「直ぐだろうけれど、何処に指輪を置いてあるの?」
「あ、そうだった。えっとね、父上に渡したと思うんだけど、そうじゃなかったら勉強部屋の机の上にある箱に置いてあると思う」
「水伯か、机の上の箱の中ね」
「そう。お願いします」
「それでは行って来るね」
握っていた手を離して立ち上がると、瞬時に消えた。玲太郎は見慣れた景色を漫然と眺め始めた。しかし、明良はこの指輪探しに難儀する事となる。
明良がいなくなって、東の方を眺めていた玲太郎は何かが気になってふと北に向いた。遠目からでも判る若草色の何かが近付いて来ている様子が見える。
(やっぱり近付いて来てるよね? この季節にあんな色の植物なんて外では見ないし、動いてるって事は動物だよね? あんなに高い塀があるのにどうやって入って来たんだろう? でも入るとなったらやっぱり門からだよね……。でもあんな色の動物なんているの?)
それは臆する事なく、一直線に玲太郎目掛けて遣って来た。それは面長の顔で少し長い耳を持ち、牛に近い感じだったが、この寒冷地帯に順応しているからか、毛が長かった。玲太郎は呆然と見詰めていたが、直ぐ傍まで来ても不思議と緊張しなかった。
(わぁ、大きい……。体は馬より大きいのよ)
そして、それからは芳香が漂って来た。温か味のある、仄かに甘くて深味のある香りだった。それは玲太郎の目の前で側面を見せて止まり、そして玲太郎を見詰めている。
「え? 何? もしかして乗れって言ってるの?」
それは首を横に振って、早く背に乗れと言わんばかりだった。
「合ってるの? でも高くて乗れないのよ」
体高は約六尺もあり、明良の身長を優に超えている。玲太郎が困惑しているとそれは膝を折り、体高を低くした。
「やっぱり乗るの?」
玲太郎は傍に行き、毛を掴んで足を上げた。玲太郎は箱舟の免許を取って以来、自分で飛ぶ事が全くなく、浮き上がって乗るという発想が抜け落ちていた。必死でよじ登って跨ると一息吐いた。
「ふーっ、なんとか乗れたけど、これからどうするの?」
それが俄に立ち上がり、玲太郎の体が前後する。
「わわっ」
踏ん張ったが、結局後ろに倒れて空を見上げる事となる。それは駆け出し、玲太郎はそれの毛で足を覆われ、落ちる事はなかったが、後頭部が背中に当たり痛かった。揺れる中、肘を突いて上体を起こし、今度は前屈みになる。
「結構速度が出てるよ? ねぇ、どこへ向かってるの? もう下ろして欲しいんだけど……」
それは北へ向かい、高い塀を軽々と飛び越えて玲太郎を驚愕させ、更に北上した。正確には北北東で、雪の上を走っていた。玲太郎は振り返らずに正面を見ていて、それの足跡が出来ていない事に気付かなかった。
それの足が遅くなったのは、山麓にある湖に到着してからだった。湖畔には巨木が立っていて、その周りには雪が全く積もっていなかった。それは徐に歩き、巨木へと近付いて行く。近付くに連れ、細い木が群生して巨木に見せている事に気付いた。それにしても、巨木の高さに圧倒される。手前にある低い物でも十丈はあるだろう。
「わぁあ、こんな大きな木ってあるんだねぇ……。凄いね、ね?」
それに声を掛けてみるも、返事がある訳でもなかった。徐に歩いてくれる事で、玲太郎は辺りを見回す事が出来た。ふと巨木の傍に見慣れた色を見付けた。
(ヌトは眠っているし、ハソははーちゃんといるし、ノユとズヤではないし、シピはないね。ニムか、ケメか、後もう一人はなんて言ってた? とにかくヌトの兄弟だよね?)
近付く毎に不思議な感覚に襲われる。そして、それは見慣れた存在の前で止まる。ヌト達と同じ髪色に同じ顔、同じ服ではあるが、やはり裾の模様の色が違っていて黒だった。髪型はヌトと同じ位置で髪を一つに結び、長い髪は三つ編みにされていて、腰より下まであったが、玲太郎からはそこまで見えなかった。
「連れて来てしもうたのか。仕方のない奴よ」
例に洩れず、同じ声で言うと、それが初めて鳴いた。
「初めまして、玲太郎です」
気後れする事もなく、挨拶をする。
「言わずとも解っておる。わしはレウと言う。知らぬ気配がしたと思うたら結界が破壊されたから、お主であろうと思うておったわ」
「……レウ」
聞き覚えのある名を呟いた。そのレウが身を縮めていない事もあって、玲太郎は随分と上を見ていた。
「そうであるな。わしが大き過ぎて、そうなってしまうのであるな」
言った途端に身丈が縮んで行き、八尺辺りになるとそれも止まる。
「これ程度で良かろう。何故此奴に乗ったのよ? 怪しいと思わなんだのか?」
「え、あの、……乗れって言われた気がしたから乗ってみたら、ここまで来てしまって……、ごめんなさい」
俯いた玲太郎を見て、レウは初めて微笑んだ。
「謝らずともよい。精霊に拐されておっては家族も心配するであろうて」
上目遣いでレウを見る。
「……はい」
「お主の所にはヌトがおろう? 一緒におらなんだのか?」
「ヌトは今眠ってて…」
「そうであるか。ならば仕方がない。確か、ノユかズヤもおったのではなかったか?」
「ノユはルニリナ先生と出かけてて、ズヤが図書室で読書してると思うんですけど……」
「ではズヤを呼ぶか」
そう言って俯き、玲太郎から視線を切った。玲太郎は正面から見るとヌトと瓜二つのレウを凝視した。前髪の分け目や、結び目までの髪の流れ方を具に観察していると、ヌトではないという事を否応なく理解させられた。それから頭の中に響く、二体の会話に聴き入る。
(…であるか。今、玲太郎がおらぬと明良が騒いでおって、わしも探す手伝いをさせられておるのよ。レウの所におるのであれば、気配がせんで当然よな)
(ならば、迎えに来て呉れぬか)
(直ぐに行くわ。明良も連れて行っても良かろうか?)
(構わぬ。済まぬが頼むぞ)
(行くまで、玲太郎から目を離すでないぞ)
(解っておるわ)
レウが目だけを動かして玲太郎を見ると視線が合った。
「あきらと来ると言うておるわ」
「ありがとう」
微笑んで頷くと、今度は精霊に視線を遣る。
「この毛をどうにかせねばなるまいな。離れとうないと言うておるぞ」
玲太郎は思わず下を見た。下半身が毛に覆われている。
「え……、どうしてこんな事に?」
「お主の魔力が心地好いのであろうな。ま、ズヤとあきらが来るまでそのままでおれば良かろう」
「はい」
玲太郎は顔を上げるとレウを見た。
「レウは誰と仲がよいの? ヌト?」
「はて、ヌトであろうか……」
「それじゃあノユ?」
「はて、ノユであろうか……」
「ズヤか、それともハソ?」
「はて、ズヤであろうか、ハソであろうか……」
真面に取り合って貰えず、思わず仏頂面になった。
「お主はもう皆と会うておるのよな?」
「みな? ……うーん、ケメって人とも会ってるって言われた事はあるけど、覚えてないのよ」
「そうであるか。わしがお主と初めて会うたのは、お主が母御の胎におる時ぞ」
思わず眉を顰めると首を傾げた。
「え? ……つまり今日が初対面でしょ?」
「そうなるな。あの時も此度同様、結界を破壊されてな、お主等一家にわしの家の木を見られてしもうたのよ」
「ふうん? それはダメな事なの?」
「うむ。人に知られたら大変であるからな」
「それじゃあ、どうしてここに住んでるの?」
「わしが先に住んでおったのよ。気付けば、この近辺にまで子がおって生活をしておったわ。ま、わしは一度として子を拵えた事なぞないのであるが……」
「他の所へ行かなかったの?」
「うむ、行かなかった。子の記憶を少しばかり操作して、此処の印象を薄くしておったのよ」
「え! それじゃあ僕にもやるの?」
「無駄な事は遣らぬ。……と言うよりも、お主には出来ぬ事なのでな」
それを聞いて安心した玲太郎は微笑んだ。
「そうなの」
「何せ、結界を破壊する程であるものな。次に来る時は破壊するでないぞ?」
思わず首を傾げた。
「どうやれば壊さずに済むの?」
「無意識かよ……」
これにはレウも困惑した。暫く黙考していたが、大きく頷く。
「ふむ、幻惑がお主に取っては害のある物と判定されるのであろうな。…となれば合点が行く。……仕方あるまい。来てもよいが、偶に致せよ」
「うん、そうするね」
玲太郎が微笑むと、レウも釣られて微笑んだ。それも直ぐ元に戻り、上空を見上げた。
「来たな」
玲太郎も振り返って上空を見た。何も見えずに正面を向いてレウを見たが、直ぐに聞き覚えのある声が聞こえて来て振り返った途端、明良が瞬間移動で玲太郎の傍に来た。
「玲太郎!!」
耳元で叫ばれて、玲太郎は目を固く閉じた。必死の形相をした明良は玲太郎に抱き着く。明良が珍しく震えていた。
「ごめんなさい」
直ぐに謝罪をしても、明良の震えが止まる訳ではなかった。精霊は明良に乗られてしまって気になるのか、後ろを気にする素振りを見せた。そして、遅れて到着したズヤが玲太郎を見て脱力していた。
「はぁ……。玲太郎は勝手に出て行くなよ。わしが能なしと罵られてしもうたではないか」
「ズヤもごめんなさい。この動物に乗ったら走り出しちゃって、そのまま来ちゃった」
「この精霊は何よ? レウの子か?」
「わしの子ではないが昔からおるのよ。時折わしの魔力を食させておるのであるが、それで連れて来たのであろうな。十中八九、れいたろうを背に乗せた自慢をしに来たのであろうて」
「成程? レウが手懐けておるのか」
「手懐けてはおらぬ。逸れて此処へ来たのであろうが、この一帯には魔力を持つ植物がないからな、憐れに思うて魔力を与えたら、それ以来、空腹になったら此処へ来るようになったのよ」
ズヤは眉を顰めた。
「それは手懐けたという事ではないのか」
「違う」
「そ、……そうであるか。それにつけても、世話になったな」
面食らっても即座に取り繕ったズヤは微笑んだ。
「よい。此奴が連れて来てしもうたからな、此方こそ済まなんだ」
「何、玲太郎が精霊に乗らねば、このような事になっておらぬのであるがな」
そう言ってズヤが横目で玲太郎を見て、レウもズヤから玲太郎に視線を移した。
「れいたろう、ズボンの衣嚢から道具を出さぬか。お主の右側よ」
場都合の悪そうな表情をしていた玲太郎は、目を丸くした。
「道具?」
ズボンの右側の衣嚢に手を突っ込み、苦笑しながら取り出した物は、ルニリナが作った指輪だった。
「指輪、父上に渡してなかった。自分で持ってたのよ。あーちゃん、ごめんね。僕が持ってたのよ」
手を広げると、指輪が浮いてレウの手の中へ飛んで行く。それを凝視して頷く。
「ふむ、中々によい物であるな」
「ニーティの魔力が籠っておるな」
「そうなのよ。ルニリナ先生に作ってもらったんだけど、使う魔力量を減らしてくれるんだけどね、魔力をそれに通すのが少し難しいのよ」
「ニーティはそのような物まで拵えておったのか」
ズヤはレウの手の上にある指輪を見ていた。
「ふーむ、魔力を通し難いのは、流れを不自然に止められるからであろうな。どれ、魔力の流れが自然になるようにして遣ろう」
「え? そんな事が出来るの?」
「出来るぞ。指輪の幅が些か広がるが、それは許せよ」
「お願いします」
「レウは実に器用よな。わしはそういった物を拵えるのは性に合わぬわ」
「こういった物がなければ魔力操作が覚束ぬとは恐れ入る」
「……どうして知ってるの?」
「ハソが我が事のように話しておったぞ。……よし、出来た。これで良かろうて」
指輪が玲太郎の手元に戻って来た。それを握り締めると、レウに視線を移す。
「ありがとう」
「うむ。今後は、気安く見知らぬ精霊に乗らぬようにな」
「はい……」
明良は落ち着いたのか、もう震えてはいなかった。玲太郎は握り締めている手をそのままに、明良の背中を優しく叩いた。
「あーちゃん、帰ろう」
「ん……」
明良は右手を玲太郎の肩に置き、浮いたままで姿勢を正すとレウの方に体を向けた。
「お世話になりました」
深々と辞儀をした。ズヤが意外そうに驚いていた。
「大した事はしておらぬが、れいたろうも深く考えずに此奴に乗ったようであるから、叱って遣るなよ?」
「目を離した私が悪かったので、叱る筈もありません」
「瞬間移動で帰るならば、わしも一緒に頼むわ。役立たずであったが、それくらいは良かろう?」
ズヤはそう言いながら玲太郎に触れた。明良は姿勢を戻すと、目だけをズヤに向けた。
「罵って悪かったよ」
明良は謝罪のつもりで言った。ズヤは軽く頷いた。
「うむ。ではレウ、またな」
「レウ、またね」
明良が一礼をすると俄に消えた。玲太郎を包んでいた精霊の毛はそのままで、レウはそれを見て苦笑した。精霊は残念そうに項垂れている。
「もう連れて来るでないぞ」
二体は暫くそこに佇んでいた。
明良は屋敷に到着した途端、玲太郎が見付かった事を音石で水伯と颯に連絡をした。颯は瞬間移動で直ぐに来たが、水伯が帰って来たのは、玲太郎が防寒具を脱がされている時だった。
「小さい頃から悪い事はほぼ遣っていなかったから、遣ってはいけない事が解っていないんだよ」
「ごめんなさい。乗るだけなら平気だと思ったんだけど、まさか連れ出されるとは思ってもいなかったのよ」
居室に飛び込んで来た水伯は、颯に向かって上目遣いで言い訳をしている玲太郎に駆け寄って抱き着いた。
「心配したよ。何故勝手に出て行ったの?」
「ごめんなさい」
「全ては私が目を離してしまったからだよね。今後はこのような事がないように、片時も離れないでおくよ」
玲太郎の防寒具を持った明良がそう言うと、玲太郎は首を横に振った。
「違うのよ。僕が一人でいるって言ったからで、それから精霊とは知らずに背中に乗っちゃって……。それがあっと言う間に知らない場所に行っちゃってね、山のふもとに湖があって、そこに大きな木があってね…」
水伯は玲太郎の肩に両手を置いて離れ、笑顔で話している玲太郎を真っ直ぐ見据えた。
「玲太郎、それだと精霊だと知っていたら乗らないけれど、動物には乗ると言っているも同然だよ? 反省をしていないのかい?」
「してます……。一人の時は動物にも乗りません……」
途端に消沈して俯いた。
「屋敷の中では一人でいる事は許すけれど、外では必ず誰かと一緒にいる事。解ったかい?」
「はい……」
「私もこのような事になるとは思っていなかったから、気配感知を怠っていたよ。とは言えども、北の畑の定位置までは感知出来ないのだよね。……となると、私が感知出来る距離、もっと屋敷の近くで遣って貰うようにするしかないね」
「え、そこまでやる必要はないと思うのよ。もう二度と知らない動物には乗らないからね」
難しい表情をした水伯を安心させようとして言ったが、颯は眉を寄せた。
「乗った精霊は一度会っていて知っている事になるから、それに関しては次もあるっていう罠か?」
玲太郎は顔を顰めて颯を見た。
「あの精霊にも乗らないよぉ」
「ふうん? まあ、兎に角だ、玲太郎はもう一人で外には出られないし、いられないな」
「……こんな事になっちゃったから、それは仕方がないと思う……」
「それにつけても、音石入れを持ち歩くように習慣付けなければいけないね?」
玲太郎は水伯に視線を戻すと頷いた。
「ごめんなさい。音石入れをきちんと持つようにします」
その様子を見て小さく溜息を吐いた颯あ口を開く。
「さてと、俺は仕事に戻るわ。それじゃあ夕食の時にな」
「はーちゃん、ごめんなさい。ありがとう」
「おう」
軽く挙手をすると消えた。
「はぁ……、私も気配感知は苦手なのだけれど、範囲を広げられるように努力をしてみるよ」
玲太郎は脱力している明良を改めて見て、本当に申し訳なく思った。精霊に連れ出された時間は明確には判らないが、玲太郎には本の数分程度の感覚だった。その間に明良がやつれてたように見え、光の加減もあるのだろうが、顔色は血の気が全くなくて青かった。
「あーちゃん、ごめんなさい。もうこんな事がないようにするからね」
そう言うと、明良の目から大粒の涙が零れた。明良は静かにそれを拭う。玲太郎は居た堪れなくなり、俯いてしまった。
この日から明良の締め付けがよりきつくなったのは言うまでもない。
玲太郎は、颯との入浴中も萎れていた。反省しているのではなく、明良が厠の中にまで付いて来るようになり、既に音を上げていたからだった。
「厠も一緒なのはもう仕方がないな。一人でいるって言って、戻って来てみればいなくなられて、相当の衝撃を受けたんだろうからな。俺も聞いた時は信じられなかったわ。最初は何を言っているのか、まーったく理解が出来なかったくらいだぞ」
「でも個室にまで入って来る事ないでしょ?」
「厠でも突然いなくなる可能性は全くない訳はないからなあ……」
玲太郎は颯の後ろから抱き着いて甘えていた。
「それよりも、きちんと肩まで浸かれよ。温まらないだろう?」
「はーちゃんがあったかいから平気」
「ふうん……。まあ、兄貴はな……、そうなってしまうのも解らなくもないから、玲太郎には自分がそれだけの事を仕出かしたんだと思って、諦めて貰うしかないな」
玲太郎は、顔色の悪い明良が涙する場面を思い出して、眉を顰めた。
「それに、おしめの世話を遣って来たし、おまるの排泄物も処理していたから、兄貴も俺も玲太郎の物は平気だぞ」
「それはダメー! やっぱり一人で厠に入りたい……」
「休日以外は一人で入れるだろう? それで我慢しような」
「でもどうしてあーちゃんは、ああも僕を縛るの?」
「うーん、兄貴は昔、ケイちゃんっていう女の子と仲が良かったんだけど、その子が急に亡くなったんだよ。死因はなんだったか、……ああ、そうだ、殺されたんだった。まあ、そんな事があって、急にいなくなるという事態が怖いんだと思う。多分、そうなんだろうと俺は思うんだよ。兄貴に取ってケイちゃんがどれほど大切な存在だったかは、ケイちゃんが亡くなってから無表情になったくらいだから、相当な物だったんだと思う」
「……その子の代わりが僕なの?」
「代わり……ではないな。ケイちゃんが生きていたとしても、玲太郎を無条件に愛していたと思うぞ。今は玲太郎への想いが突出しているけど、ばあちゃんの事も水伯の事も俺の事も、大切にしてくれている事に変わりはないからな」
「そのけいちゃんって、いつ亡くなったの?」
「そうだなあ……、俺が四五歳の頃だったな。……いや、三歳か? まあ、その辺だよ。ケイちゃんは家に時々遊びに来ていたんだよ。顔はもう忘れたけど、良く笑っていて、兎に角明るい子だった事は憶えているな。…あ、ケイちゃんの事は兄貴に訊くなよ? 訊くならばあちゃんだな」
「分かった」
颯は玲太郎の言った事が少し引っ掛かっていた。
「玲太郎がケイちゃんの代わりなあ……」
呟いた後、笑いが込み上げて来て、声を出して笑った。
「何がおかしいの?」
「ふっ、……玲太郎がケイちゃんの代わりなら、此処まで束縛していないだろうなと思ってな。まあ、確かにケイちゃんの事があったからこそ、一人にしておきたくないという気持ちもあるのかも知れないけど、それだけじゃないんだよな。玲太郎に対しては異常な程に執着しているし、偏愛しているからなあ……、ケイちゃんの代わりでは決してないんだよ」
「でもそれなら食事の時も隣の席になりそうだけど?」
「ふっ、何を言い出すのかと思えばそれかよ……。それはな、水伯が決めたんだよ。本当は水伯の隣が玲太郎だったんだけど、玲太郎がはーちゃんの隣がいいって言い出して、それなら、と兄貴と玲太郎の席を入れ替えたんだよな。いやあ、あの時は指名されたお陰で、兄貴に一ヶ月くらいは睨まれていたからな……」
苦笑しながら言うと、玲太郎は気恥ずかしそうに笑った。
「なんだぁ、僕が言ったからだったの」
「ほら、もういいだろう? そろそろ肩まできちんと浸かれよ?」
「やだ」
「やだじゃないって……」
首に回されている玲太郎の腕を離そうとすると、玲太郎は抵抗した。
「もう少しこのままがよいのよ。少しだけだから」
「風邪を引くぞ?」
「大丈夫。僕は病気知らずだからね」
「それじゃあ抱っこするから前に来いよ。肩も浸かるように、横向きに抱っこするぞ?」
「えー、このままでよいのよ」
「それじゃあ今日は追加で十分浸かるんだぞ?」
「分かった」
「でも、湯中りする前に上がれよ?」
「それじゃあ頭を冷たい水で包んでおいてよ。そうすれば湯あたりしないかも」
「解った」
俄に頭を包むように水が顕現した。
「ひゃっ、冷たいっ」
思わず首を竦め、その拍子に額が颯の頭に当たった。
「わっ」
「あっ……」
玲太郎は両手で額を抑えた。颯は振り返り、玲太郎を見る。
「何を遣っているんだよ?」
「ごめん。当たっちゃった」
颯は体を玲太郎の方に向け、玲太郎の両手を退けると額を見る。
「赤くなっていないな。これなら大丈夫だな」
そう言いながら玲太郎を横向きに抱え、肩が浸かるように沈めた。頭を包んでいる物のお陰で頭が浮いたままになっていて、よい具合に颯の顔が見える。
「痛かったか?」
「ううん、痛くなかった。驚いただけ」
「それならいいんだけどな」
「いつまでこうするつもりなの?」
「肩がきちんと温まるまで」
「分かった」
「百数えるか?」
「数えない」
「あ、そう」
颯が微笑むと、玲太郎も釣られて微笑んだ。玲太郎の肩が温まるまで、たわいない会話を続けた。
その後はいつものように、明良に髪を乾かして貰い、寝間着を着て、寝室へ一直線に向かった。日課の瞑想をしてから、寝台の脇にある台に置かれた本を手にすると、横になって読書を始めた。いつもは何かしら本を手にしている明良は、無言でそれを眺めている。玲太郎は明良が何をしているのか気になって、明良を見ると目が合った。
「あーちゃん、本は読まないの?」
「うん。今日は玲太郎を見ていようと思ってね」
そう言って笑顔を見せたが、玲太郎ですら無理して笑っている事が良く解った。玲太郎は本を開いたまま胸の上に置いて、右手を差し出した。明良は不思議そうにそれを握る。
「どうかしたの?」
「あーちゃん、ごめんね。僕、深く考えないで精霊に乗っちゃって、それで屋敷の外に行っちゃって、本当にごめんね」
申し訳なさそうに言うと、明良は頬を少しだけ緩めた。
「そうだね。どうなるのか、もう少し想像してから行動を起こそうね。玲太郎は素直で純粋だから、恐ろしい想像をしないのだろうけれど、あの精霊が良くない物だったらどうする積りだったの?」
本当に何も考えていなかった玲太郎は答える事が出来ず、「うーん」と唸るだけだった。
「行き着いた先が悪霊の所で良かったなどと思う日が来るとは、思いも寄らなかったよ……」
「ごめんなさい……」
明良は大きな溜息を吐いた。
「玲太郎が見付からなかった間、本当に生きた心地がしなかったからね」
「ごめんなさい。次からは一人にならないようにするからね」
「それは当然だね。玲太郎は大公の息子だという事を自覚しなくてはならないよ。本来ならば、ほぼ一人になれないのだからね」
「はい……」
「此処では大公家や公爵家らしからぬ生活をしているから、玲太郎も実感がないのだろうけれど、ナダールでは王家に次ぐ家柄なのだからね」
「はい……」
神妙な面持ちの玲太郎は返事をしながらも、明良の握る手の温もりに気を取られていた。
「僕、もう眠るね」
「え? もう少し読書していれば?」
玲太郎は右手を明良の手から引き抜いて、胸に置いてあった本を持ち上げて、表紙の近くに挟んであった栞を開いている箇所に挟み直して本を閉じた。そして枕元に置き、また右手を明良に差し出した。
「今日は手を握っててね。おやすみ」
「お休み……」
集合灯の灯りが消え、小さな光の玉が明良の頭の後ろに顕現した。明良の影で暗くなっている玲太郎の顔を、明良は悲しみを帯びた表情で見詰めていた。
翌日は、昨日の事もあって、明良が玲太郎から片時も離れなかった。当然ながら厠も一緒だった。玲太郎は投げ遣りになり、明良に甘えた。明良もそれに応えて存分に甘やかした。
(あーちゃんが喜んでるけど、これでよいのだろうか……。でも、昨日のお詫びと思って、今日はこうしておこう)
居室でも明良に甘えている玲太郎を目の当たりにした水伯が、目を丸くしていた。
「玲太郎、どういう風の吹き回しなの?」
「うん?」
「明良にそのように甘えるなど、今までになかったよね?」
「昨日は悪かったと思って反省してるからね」
「反省していると、明良に甘えて行く事になるのかい?」
「そう」
水伯は暫く苦笑して明良の膝に座り、明良にもたれ掛かっている玲太郎を眺めていたが、俄に真顔になる。
「それは単に明良を喜ばせているだけだから、止めておきなさい」
「私はこれでよいから、差し出口はしないで貰える?」
「それならば、昨日の事で迷惑を掛けた全員にそう遣って甘えなければならなくなるよ? 明良の嫌いな悪霊にもね」
「レウとズヤにも甘えるの? それでもよいけど、レウはたまに来いよって言ってたから、そうすぐには行けないのよ」
「そう。それでは、先ず私の所にお出で」
「うん? 父上の所?」
「そうだよ。今日はこれから私とずっと一緒にいよう」
「そう? それじゃあそうする」
明良の膝から下りようとした所、明良に抱き締められた。
「今日は私の傍にいなければいけないね」
「あーちゃんと?」
「明良は昨日一緒にいたのではないのかい? それならば私の番だよね」
「玲太郎が私に自ら進んで甘えてくれる事なんてないから、今日は駄目」
「玲太郎、遣らない事を遣るから解放して貰えなくなってしまったよ?」
そこへ居室の扉が開き、八千代が入室した。
「玲太郎はいないの? 用事があるんだけど、どこにいるか知らない?」
「此処にいるよ。どうかしたの?」
明良が振り返って訊くと、八千代は長椅子の傍まで遣って来た。
「あ、本当にいた。背嚢の肩かけの帯が破れかけてるって持って来てたでしょ? あれは直すより新しいのを作った方がいいからそうしようと思ってるんだけど、生地の色を選んで欲しいのよ。部屋に来てもらえる?」
「えっ、あれは直せないの?」
「新しいのが出来るまでの繋ぎにと思って直してはあるよ。でも教科書とか重い物を入れてるんだよね? そうなるとまた別の所が破れるだろうからね」
「そうなの? 分かった。それじゃあ今から選びに行くね」
玲太郎は一旦長椅子に座ってから立ち上がった。明良も八千代の用事では流石に止められなかった。それを見た八千代は先に歩き出す。すると明良も立ち上がる。
「私も行くからね」
「玲太郎、終わったら此処に戻って来て、次は私に甘えるのだよ?」
振り返って水伯を見て笑顔になる。
「分かった。それじゃあばあちゃんの部屋に行って来るね」
「行ってらっしゃい」
柔和に微笑んで送り出した。明良は仏頂面になって玲太郎の後ろを歩く。
「玲太郎、手を繋ごう?」
「うん、よいよ」
明良は表情を明るくさせると、玲太郎と手を繋いで退室した。
颯が夕食前に玄関広間に到着すると、真っ直ぐ厨房へ向かった。早目に到着した時はいつもこうだ。居室の前を通り過ぎ、三人がいる食堂を通り過ぎ、八千代とルニリナのいる厨房に辿り着く。
「今晩は」
八千代が先に振り返る。
「いらっしゃい。仕事は終わったの?」
「うん、終わった。ご飯は? まだ?」
「いらっしゃい。もう直ぐ出来ますのでね」
盛り付けているニーティが笑顔で言うと、その傍へ行く。
「今日は肉かあ……。今直ぐに食べたいな」
「ふふ。もう少し待って下さいね」
「そう言えば、颯の背嚢は破れている所とかないの?」
八千代が味噌汁を装いながら言うと、颯は八千代の後ろ姿を見た。
「うん? んー、其処まで見た事はないけど、保護魔術を掛けているから破れる事はないなあ。百年くらい持つと思う」
「あら、そうなの。それじゃあ玲太郎だけだね」
「ああ、そうだな。そう言えばそんな事を言っていたな」
「背嚢がどうかしたのですか?」
「破れているから、ばあちゃんに直して貰うっていう話。玲太郎の背嚢には兄貴が防御魔術を掛けていて、保護魔術が掛けられなかったんだよな」
「そうですか。その背嚢、よいですよね」
「ニーティさんも欲しいなら作るよ?」
ルニリナの表情が明るくなる。
「え! よいのですか? お金を払いますね」
「お金はいらないんだけど、夕食後に私の部屋に来てもらえる? 大きさを決めて、生地の色も決めてね」
「行きます! お願いしますね。わー、物凄く楽しみ」
「それじゃあ俺も行こうっと」
「颯は破れてる訳じゃないから、いらないんだよね?」
「俺も欲しい」
「そう。分かった。あ、颯、台車にこれを載せて行ってもらえる?」
「うん、解った」
和やかな雰囲気をそのままに、先頭に八千代が、颯とルニリナが台車を押して食堂へと入って行った。
食後、颯とルニリナは後片付けを手伝ってから八千代の部屋にいた。「二人には甘えたから次ははーちゃんね」と、食後から颯の背中に張り付き、水伯は苦笑をし、明良は不機嫌な表情をしていたが、颯は二人には無関心で、玲太郎を背負っていた。
「俺はやはり帆布だな」
八千代が既に店を広げていて、机や椅子のみならず、寝台にも生地が並べられたが、それを見ずに颯が言った。
「いつもそれだもんね。分かった。色は黄味の強い生成りと少しくすんでる生成りがあるけど、黄味の強い生成りでいい?」
「うん、それでお願い」
「え、色のある布にしないの?」
「俺は小さい頃から帆布だからな」
「ばあちゃん、僕もはーちゃんと同じ布にしてもよい? 色も同じでお願い」
「うん、構わないよ。玲太郎も帆布の黄味の強い方ね。昔は手縫いだったけど今は裁縫機があるから、帆布でも仕上がりは早いからね。颯のは小物入れを今のと違った形で付けるね」
「今と全く同じでもいいよ。小物入れも外側に二つと内側に一つあって便利だからな」
「そう? 何か欲しい機能はない?」
「機能? そうだなあ……、背嚢の両脇にも小物入れを作って欲しいな。片方は水筒に形状を合わせて貰えれば嬉しいな」
「水筒ね、そうだね、外側に水筒専用の小物入れがあると確かに出し入れが楽だね。分かった」
「ばあちゃん、僕のにもお願い」
「水筒入れ?」
「そう」
「分かった。玲太郎のは、体より少し大きくしてあるから、更にはみ出ちゃうけど大丈夫? どこかにぶつけるんじゃないの?」
「ぶつけないように歩くから大丈夫」
寝台に置かれた生地を見ていたルニリナが三人の傍に戻って来た。
「私も帆布でお願いします。それが一番丈夫ですよね?」
「この中ではそうだね。それじゃあニーティさんも帆布ね?」
「はい」
「三人でお揃いね。玲太郎は小さ目だからすぐに分かるけど、二人はそうじゃないから、小物入れの形を変えておくよ」
「それでは形状は同じで、私の方はくすんでいる色でお願いします。それから、私の背嚢にも水筒専用の小物入れを付けて頂きたいのですが、それはお願いしても構わないでしょうか?」
「注文はそれだけ?」
ルニリナは俯いて暫く沈思してから頷いた。
「そうですね、颯の背嚢は小物入れも充実している事も知っていますので、それで十分です」
「あ、水筒は標準の大きさでいいね?」
「うん、俺はそれでお願い」
「標準って、食堂で渡してくれるあの大きさ?」
横目で玲太郎を見た颯が大きく頷く。
「そうだな。あの大きさだな」
「それじゃあ、僕も標準でお願い」
「私も標準でお願いします」
「はーい。ふふ、店を広げる必要がなかったね」
笑いながら言う八千代を見て、颯も微笑んだ。
「手伝うよ」
「それじゃあ、寝台の方の生地を重ねて、こっちに持って来てもらえる?」
「解った」
「私も手伝います」
「それは有難う」
颯が笑顔でルニリナを見ると、ルニリナも微笑んで頷いた。玲太郎は表情を曇らせ、八千代が微笑ましくそれを見ていた。そして食後の茶を飲んでいない事もあって、そのまま八千代の部屋で一服した。
玲太郎は颯と勉強部屋兼図書室で時間を潰す事にした。ルニリナは遠慮してくれたが、何故かノユがいた。颯は全く気にせずに興味をそそられる標題の本を探していたが、やはり颯に背負われている玲太郎は気になって、何度もノユを見ていた。
「何よ?」
遂にノユに声を掛けられる。
「うん? どうしてノユがいるのかと思って……」
「レウに会うたのであろう? その時の話をせぬか?」
「ああ、えっとね、北の畑にいたら黄緑色の精霊が近付いて来てね、その精霊が、僕を背中に乗せようとしてね、僕はまんまと乗ってしまったのよ。そうしたら突然走り出して、あっと言う間にレウの所へ連れて行かれちゃったんだけど、大きな木の傍にレウが立ってて、一見するとヌトそっくりなのよ」
「わしもヌトと瓜二つであるが?」
「髪型が違うでしょ。レウは正面から見るとヌトなのよ」
「確かに髪型も似てはおるが……」
「でしょ。でもね、ヌトは前に分け目があるのよ。レウにはないから、それで違うんだなって思ったんだけどね」
嬉しそうに違いを説明すると、ノユは鼻で笑った。
「ふむ。その様子ではレウが何を話していたかは憶えておらぬな?」
「うん?」
玲太郎は首を傾げて目を閉じた。暫くするとノユを見た。
「あのね、結界を壊さないようにって言われたのと、後はルニリナ先生が作ってくれた指輪を、少し直してくれたの」
ノユは黙って手を差し出した。玲太郎はそれを見詰め、ノユに視線を戻す。
「何?」
「指輪を見せて呉れぬか」
「父上に預けてて持ってないのよ。明日は授業があるから、その時でよい?」
「よいぞ。わしが忘れておったら言うて呉れよ?」
「うん、分かった」
今まで無言だった颯が俄に笑い出した。玲太郎が怪訝そうに颯の横顔を見る。
「どうかしたの?」
「いや、玲太郎が忘れるんだろうなと思ってな」
「えー? きちんと覚えてるよぉ」
「念の為に、紙に書いて置いておけば?」
「それがよい」
透かさず言ったのはノユだった。玲太郎は不満そうに頬を膨らます。
「覚えてるって……」
「だから念の為だって」
颯はそう言って、肩に置かれている玲太郎の右手を優しく二度叩いた。
「わしが確実に忘れるであろうから、そうして呉れておると有難いのよな」
玲太郎に笑顔を見せると、ノユを横目で見る。
「それなら仕方がないね」
颯は本探しを中断し、玲太郎の勉強机に向かった。
「それにつけても、何故玲太郎は背負われておるのよ?」
「最近はおんぶがいいんだよな?」
「いひひひ」
悪戯っぽく笑い、颯に抱き着いた。
「水伯や明良の時は抱かれておるではないか」
「あ、そうだね。父上やあーちゃんは抱っこしかしてくれないのよ」
「そもそもおんぶって言わないからだろう?」
勉強机の抽斗を上から開けて紙を出す。
「それはそうなんだけどぉ……」
左頬を颯の右肩に付けた。ノユはふと疑問が湧いた。
「玲太郎はあれよな、颯への甘え方が水伯や明良と違うのであるな。何故よ?」
「えっ」
ノユに顔を向けると、見る見るうちに紅潮して行く。
「まあ、年が近いからなあ。兄貴とは十二だけど、俺とは八つだもんな」
「十二も八も変わりないではないか」
そう言いつつも、紅潮させている玲太郎から視線を外さなかった。
「俺等若者にしてみたら、四つの差は大きいんだよ。ニーティと俺は二百くらい違うからなあ、雑談すると年齢差を痛感する時があるわ。……いや、ニーティとは育って来た文化自体が違うから、それも大きいのか」
そう言いながら紙に文字を念写して、机に置いた。
「よし、出来たぞ。「ノユにニーティ作の指輪を見せる」でいいよな?」
「済まぬな」
「はぁ……。僕ってそんなに信用ないの?」
「俺もそうだけど、玲太郎も忘れる時は綺麗に忘れているだろう? その事実を理解した上で言っているんだよな?」
「それはっ……、そうなんだけどぉ、そこは信じてるって言ってくれる所じゃないの?」
身を乗り出して颯の横顔を見ると、颯が横目で玲太郎を見た。
「言いたい所だけど、忘れる事があるのも事実だからなあ。まあ、基本的には信じているんだけど、昨日は昨日で考えなしに見た事もない動物に乗って連れ去られるもんなあ……。行き着いた先がレウの所で、本当に良かったよ。玲太郎もそう思うだろう? レウ以外の所へ連れて行かれていたら、大騒ぎはまだまだ続いていたんだぞ。それも玲太郎が見付かるまで続くんだからな。兄貴のあの動転した様は初めて見たわ。水伯だって、何処を捜すか、まだ分担も決めていないのに慌てて出て行こうとするから、それを止めて、捜す方角を三人と一体で決めてから捜したんだぞ」
「一体はズヤであろう? ハソは何をしておったのよ?」
ノユに視線を遣ると苦笑する。
「ハソは仕事先に置いて来ていたから、玲太郎が見付かった後に合流したよ」
「ああ、そうであるな。瞬間移動は玲太郎がおらぬと一緒に飛べぬのであったな」
「そういう事」
玲太郎は昨日に散々聞かされた話をまた聞かされ、颯にもたれ掛かって脱力していた。
「その話は、今は関係ないのよぉ……。昨日の事は本当に反省したんだけどなぁ……」
「それならまあ、うん、いいんだけどな。色々と経験しないといけないんだろうけど、馬に乗るように、初めて見る動物に乗るなんて、普通は有り得ないからな」
「黄緑色の牛なんて見たら、乗ってみたくならない?」
「俺は乗った所で瞬間移動で逃げられるからなあ……、玲太郎と条件が一緒じゃないんだぞ? 次からはきちんと音石で誰かに連絡をしろよ? あ、そう言えば持ち歩いているのか?」
「ずっと屋敷にいるのに、持ち歩く訳がないのよ」
「そういう事だから、いざと言う時に忘れるんだよ。常日頃から持つように心掛けないとな。玲太郎が音石に無頓着だから、俺も何度も音石で連絡を入れさせられる破目になるんだよなあ……」
「ごめんなさい。音石で連絡をくれるのって、はーちゃんだけだからね。ここに置いてあるから、極力ここにいるようにはしてるんだけど、持ち歩くとなるとね……、つい忘れちゃう」
「忘れるんじゃなくて、必要ないと思って持っていないだけだろう? 直接言いに来た方が早いのは解っているんだけど…」
「それじゃあ次から音石じゃなくて、直接言いに来てよ? ね?」
颯の言を遮って言うと、颯が苦笑する。
「ね、じゃないだろう。音石を持ち歩けよ、な?」
「連絡をくれる人が屋敷に集まってるから、その必要がないと思うんだけどなぁ……」
「そう遣って何時までも持たずにいたら、持つ癖が付かないぞ?」
「それはそうなんだけど……」
「どうしてか知らないけど、嫌に渋るな? 音石の何が嫌なんだ?」
「容器がかさばるでしょ。あれが嫌なのよ」
「ふうん? 慣れれば気にならないけどな。ああ、そうだな、玲太郎のズボンはゆとりがないもんな。俺は衣嚢に色々と入れるから、その分ゆとりを持たせているからなあ。うーん、……それだったら、ばあちゃんに鞄を作って貰えよ。鞄と言うか、小物入れだな。音石入れが入るくらいの大きさにして貰って、首から提げていれば衣嚢が嵩張らないだろう?」
「それじゃあ、お願いしにばあちゃんの所へ行こう」
「解った。俺も作って貰おう。首から提げるとなると歩く度に揺れるだろうから、襷掛けにして貰うとするか」
独り言を言いながら退室し、八千代の部屋へ向かった。取り残されたノユは用事は済んでいた事もあって追い掛けず、直ぐにルニリナの下へ向かった。
翌日、夕食後に玲太郎と颯がまた八千代の部屋に訪れていた。今日は明良も一緒に来ている。
「昨日言われた小物入れを作ったんだけど、都合の悪い所があったら直すから言ってくれない?」
玲太郎と颯にそれぞれ差し出すと、二人はそれを手に取った。
「有難う。それにしても早いな」
「これくらいはすぐだからね」
颯が襷掛けにしてからズボンの衣嚢に手を突っ込み、音石入れを取り出して小物入れに入れる。それから八千代の部屋を歩き回った。
「あ、僕も容器を持って来る」
そう言って退室すると、明良がそれに付いて行く。八千代はそれを見た後、颯を見た。
「あれは一体なんなの?」
「玲太郎が行方不明になったから、目を離さないでおこうという強い意思の表れ、だな」
八千代の傍で立ち止まった。
「え? 玲太郎がいなくなってたの?」
八千代が険しい表情になると、颯は微笑んだ。
「うん、それも六七分な。心配する程の事でもなかったんだよ。結果的には、だけどな」
「それはいつの話? どうして教えてくれなかったの?」
「一昨日の土の曜日だよ。まあ、玲太郎は無事だったからな。精霊が来て、それに乗って、大いなる存在の内の一体と会っていたんだと。それに兄貴も気が相当動転していたから、余り思い出させたくないんだよ。傍にいる時は厠まで一緒に入っているくらいなんだよなあ……。あれも何時まで続く事やら」
「そうなんだね。……ああ、それで音石入れを作るんだね」
「ズボンの衣嚢に入れるのが嫌だって言うからな」
「上着の衣嚢でもいいじゃない」
「それもそうだな。でも持ち歩かないって事は、上着の衣嚢も、多分嫌なんだろうな」
「持ち歩いていないのなら、そうなんだろうね。ばあちゃんも部屋にほとんどいるから、起きっ放しだよ」
「調理をしている時は出られないもんなあ。……うん? 散歩はしていないのか?」
「してるけど、その時も持って行かないね。颯が平日に連絡くれる程度だからね。それも決まって夜」
「お父様から連絡は来ないのか?」
「ガーナス様からは十日が近くなると二十二時頃に連絡が来るね。次の十日は何時に来られますか? って」
「ああ、恒例の食事会な」
「そう」
「ただいまー! ばあちゃん、僕はこれでよいよ」
二人は同時に玲太郎を見た。
「そう? 少し紐が長くない?」
「大丈夫。僕も斜めにしようかと迷ったけど、首から提げる方で良かった」
「ふふ。そうだね。音石入れは大して重くないからね。それでも長時間かけていると、首が凝るから気を付けてね」
「うん、ありがとう。部屋から出る時はこれに入れて、音石入れを持ち歩くね」
嬉しそうに言うと、後ろにいた明良が些か不機嫌そうにしている。
「明良も作る?」
それに気付いた八千代が訊くと、明良は大きく頷いた。
「私も同じ生地で首から掛ける物をお願い」
「玲太郎と同じにするという事だね?」
「そう」
「分かった。それじゃあ早速今から作るよ。玲太郎が寝付いたらまたここに来て。それまでには作っておくから。それで、大きさはどうする?」
玲太郎は颯に駆け寄って抱き着いて行った。明良はそれを見て更に不機嫌になりつつも、八千代の傍へ行く。上着の衣嚢から音石入れを取り出して八千代に渡す。
「これが入る大きさで」
「これ以外には何も入れないんだね?」
「うん」
「紐も同じがいいんだよね? 紐の長さはどうする?」
そう言いながら箱から長目の組紐を出して来て、明良に渡す。
「うん。同じ紐がよいね」
明良はそれを首に回して前に垂れさせた。
「長さはこれくらいだね」
両手で紐を摘んで見せると、八千代が片方を引っ張って端を明良の右手に持たせ、鋏を持って来て少し長目に切った。残った紐を椅子に置き、首に掛かっている方を手に取る。
「颯、ちょっとこっちに来て」
「うん?」
玲太郎を抱き上げている颯が来ると、明良が不機嫌そうに横目で見た。八千代は颯が掛けている小物入れを手にすると、明良の方にそれを向けた。
「冠はこういう感じで垂れさせておいて留め具を付けないか、玲太郎みたいに留め具を付けるか、どうする?」
「どうして玲太郎の方は留め具が付いていて、颯の方には付いていないの?」
「颯の方は片手で取り出せるようにって言われたからだね。音石入れ以外にも入れたい物があるからって言うから、玲太郎の倍の大きさに作ってあるんだよ。玲太郎は純粋に音石入れだけで、片手でって言う注文がなかったから付けたんだけどね」
玲太郎も自分の小物入れと、颯の小物入れを見比べていた。
「あ、本当だ。はーちゃんのは留め具が付いてないし、大きいね。僕、聞いてなかったのよ」
「玲太郎が生地を選んでいる時に注文したからな」
「ふうん……」
八千代はそんな玲太郎を見て苦笑する。
「玲太郎も留め具なしが良かった?」
「ううん、僕はこれでよいのよ。部屋から出る時に音石入れを持ち歩きたいだけだからね」
「私も音石入れだからそれ以外は入れる積りはないし、首から提げておきたいから玲太郎と同じでお願い」
「そう。それじゃあこれを返しておくね」
音石入れを明良に差し出すと、それを手にする。
「大きさは測らなくても大丈夫なの?」
「玲太郎と大きさも同じだからね。作った時の型紙をきちんと置いてあるから大丈夫。何もかも玲太郎とお揃いにしておくよ。紐の長さ以外はね」
そう言って悪戯っぽく笑うと、明良が珍しく微笑んだ。
「有難う」
玲太郎はそれを見て激しい衝撃を受けた。目を丸くして驚いている表情を見た颯が笑いそうになったが堪えた。
「玲太郎、厠に行っておくか?」
「あ、うん、お願い」
颯に笑顔を見せ、それから八千代に顔を向ける。
「ばあちゃん、ありがとう」
「有難う」
玲太郎から颯に視線を移した八千代は、笑顔で頷いた。
「どういたしまして。これくらいならすぐに作れるからいつでも言いにお出で」
「うん、何かあったら、また頼むよ」
「私が連れて行くよ」
「兄貴は待っていてくれよ。直ぐに戻って来るから」
「あ、あーちゃんは勉強部屋にいて待っててね。すぐ戻るから」
そう言いながら明良の横を透り抜けて行った。
「あ…」
「明良、少し話そうか」
追い掛けようとした明良を呼び止めた。明良は振り返る。
「話?」
「玲太郎の厠にまで一緒に付いて行ってるんだって?」
「そうだけど、それが何?」
「明良はそれで満足だろうけど、大きい方をする時に人がいるってどういう気持ちになるんだろうね?」
八千代は至って穏やかな表情をしていた。明良はいつもの無表情で八千代を見据えている。
「目を離すと何処へ行くか、それが判らないから見張っておかないといけないのだよね」
「見張っておかないといけないって、玲太郎も瞬間移動が出来るようになったの?」
「それは出来ないけれど、何時出来るようになるか、それも判らないからね」
「明良と颯以外に出来る人なんているの? 水伯さんも出来ないんだよね? 今のままだと明良から逃げたくなって、玲太郎が瞬間移動を会得してしまうかも知れないね? そうなった時、玲太郎の行き先を突き止められるの? 明良を見た瞬間、逃げて行くよ?」
そう言われてしまうと、神妙な面持ちになって俯いた。
「明良が玲太郎の事をとても大切にしてるのは知ってるけど、縛り過ぎるのは良くないね。何事も程々にしておかないとね。ばあちゃんから言いたい事はそれだけだよ」
些か眉を寄せた明良が八千代を見据える。
「解った。厠の中にまで入るのは止めておくよ。でも、程々は出来ない。心配で心配で堪らないからね」
「そう。精々逃げられないようにね」
苦笑しながら言うと、明良は視線を外して沈黙した。
「それでは勉強部屋へ行くよ。小物入れ、お願いね」
「分かったよ。帰りに寄ってね」
「うん」
声に気力のなくなった明良が退室すると、八千代は生地が置かれている棚へ向かった。
颯は玲太郎を勉強部屋兼図書室へ連れて行くと、ルニリナの部屋へ遊びに行ってしまった。明良は玲太郎と二人切りになったと言うのに、暗い表情をしていた。玲太郎は向かいの椅子に座っていて、その表情を唯々見詰めていた。
(美人はどんな表情をしても美人なのよ……)
不謹慎ながらもそんな事を思っていると、明良の頬を光る物が流れて行った。
「なんで泣くの!?」
玲太郎は驚きの余り、口を衝いて出てしまった。言った後に両手で口を押さえたが、意味のない事だった。
「ご免ね……」
涙声で言いつつも、涙が次から次へと流れ落ちる。玲太郎は慌てて明良の傍に行き、頭を撫でた。
「よしよし、泣かないでね」
明良は両手で顔を覆った。いつもなら明良が抱き着いて来る所だが、今日は違った為、玲太郎は益々困惑する。
(あれ……? いつもと違うね。…………どうしたんだろう?)
明良の頭を優しく撫でるが、明良が泣き止む事はなかった。
(もしかして、僕がはーちゃんに厠へ連れてってもらったからなの? ……そうだとしたら、自分の目で監視したいんだろうけど、でも僕は厠は一人がよいのよ……。これは譲れないんだけど、なんて言えばよいのかが分からない……)
玲太郎は撫でる手を止めて明良の隣に座り、今度は背中を擦り始めた。いつまで経っても泣き止まず、玲太郎は腕が疲れて来て、背中を優しく二度叩いてから明良にもたれ掛かった。
気が付くと明良の胸の中にいた。
「あ……?」
「起きた?」
「あれ? 僕、眠ってた?」
玲太郎は目を擦った。
「うん。話し掛けても無視するから、どうしたのだろうと思って見てみたら、眠っていたよ。本の十分程度なのだけれどね」
「眠っちゃってごめんね」
「ううん、それは全く構わないよ」
そう言って玲太郎を膝の上から隣へ移した。玲太郎は思わず明良を見上げる。
「どうしたの?」
「何が?」
「なんか、今日のあーちゃん、変なのよ」
「そう?」
「泣くのは、まあ、うん、結構ある事だけど、目を合わさないとか、僕を抱き締めないとか、おかしいよね」
明良は横目で玲太郎を一瞥して、些か険しい表情になった。
「玲太郎は、厠にまで私が付いて来て、ほとほと嫌気が差したのではないの?」
「ほとほと?」
玲太郎は視線を合わせようとしない明良の横顔を見ていた。
「うんざりしているのではないの?」
「うんざり、ね。……うーん、嫌は嫌だから、あーちゃんがいる時は厠にいかないように心がけてるんだけどね」
「我慢しているの?」
「うん。だから父上やはーちゃんと一緒にいてもらってるのよ」
「そう……」
「もう黙っていなくならないから、厠だけは一人で行かせて欲しいんだけど、ダメ?」
明良は玲太郎を横目で一瞥する。一瞬だけ視線が合って、玲太郎の表情が明るくなったが、それも直ぐ元に戻った。
「厠に同行しなくなれば、私の事を見ても逃げる事はない?」
「逃げない……と言うか、今まで通りだよ? 今は厠の個室にまで付いて来るから、はっきり言って一緒にいたいとは思えない。厠の扉の前で待ってくれるならよいのに、そうじゃないからねぇ……」
「今まで通りならば、抱き締めてもよいの?」
「うん。でも余りきつくはしないでね、苦しいから」
明良は玲太郎を抱き寄せる。
「だがらっ、ぐるじいのはダメだって……」
「ご免ね」
謝罪をして、意外にもかなり力を弱めた。これには玲太郎も驚いた。
(いつもこうだとよいのだけどねぇ……)
明良が満足するまで、そのまま動かずにいた。
(それにしても、どうして泣いたんだろう? やっぱり僕が厠へ一緒に行かなくなったから、不安になったのだろうか? でも仕方がないよね……)
玲太郎なりに気を遣ってはいても、やはり用を足している最中は見て欲しくない気持ちしかなかった。
この日を境に、明良は厠には付いて来ても個室の中まで入る事はなくなり、玲太郎も一安心していた。
(まあ、ぎゅって強く抱き締められないだけよいよね)
楽観的に考えていたが、それも直ぐに消え失せた。何故なら玲太郎を抱き締める時間が格段に長くなっていて、新たな悩みとなったからだ。それに反して、明良はとても満足している様子だった。
魔石作りに関しては、レウが改良した指輪が、玲太郎の思っていた以上によい働きをし、二十段階に分けた所の八段階にまで達する程になっていた。まだ一月の中旬と言うのに、この短期間で三段階も進めた事は玲太郎にとっても大変な自信に繋がったが、鼻を高くしようとする度、ノユに現実に戻されていた。
「玲太郎も頑張っておるが、やはりニーティとレウのお陰であるな」
「ふふ、ありがとうございます。私も一度、レウに会いに行かなければなりませんね」
「ニーティは大丈夫であろうが、玲太郎が来ると結界が破壊されるから、当分は連れて来るなと言うておったわ」
「僕だって、壊そうと思ってやってる訳じゃないんだよ?」
「それはそうであろうが、結果として壊れておるのであるから致し方あるまいて。玲太郎が滞在しておる間は無防備になるからな」
「私は近くにいるのに会おうとした事がありませんし、結界を破壊しませんので、会いに行っても許されますよね。居場所を知ったのは、玲太郎君が行方不明になった後ですが……」
「僕も精霊が連れて行ってくれなければ、会う事はなかったと思います」
「ま、急いで会わずとも良かろうて。レウは誰かと会いたいと強く願うておる訳でもないからな。会える時に会えばよいという程度よ。そもそも家の木に引き籠っておるからな、わし等から会いに行かねばならぬのよな」
「そうなのですね。私が作った指輪をこうも簡単に改良してしまうので、お会いして、色々と話してみたいですね」
「話しながら改良してたので、こういうのが本当に得意なんだと思います」
「そうであるな。レウは確かにこういった物を拵えるのが得意ではあるな」
「私がそう作りたかったのですが、出来なかったのですよ。それをいとも簡単に改良してしまうので、得意な事は良く解ります」
「ま、レウは永い事遣っておるからな。ニーティはまだまだ若いという事よな」
「そうですね。追い付けないにしても、精進せねばなりませんね」
「僕も結界を壊さないで済むように頑張らないといけませんね」
「玲太郎は何故結界が壊すのかを解っておるのか?」
「うん? レウがなんか言ってたような気がするけど、もう覚えてない。いひひひ」
悪戯っぽく笑うと、ルニリナは明るく笑っていたが、ノユは苦笑していた。
「玲太郎は己が力の凄さをそろそろ把握せねばなるまいて」
俄にズヤが会話に入った。二人と一体はズヤに視線を送る。
「読書をしに来ておったのではないのか?」
「わしも偶には会話に入っておかねば、存在を忘れられるからな」
「ズヤは、レウが僕に言った事を覚えてない?」
「それは憶えておらぬが、明良に能なしと罵られた事は憶えておるぞ。明良は何故ああもわし等に対して辛辣なのであろうか」
「ニムだよ。ニムがあーちゃんに色々やったのよ」
「ニムか」
「ニムな……」
ノユもズヤも納得しているようで、何度となく頷いていた。
「ニムは実験が好きであったから、それの餌食になったのであろうな」
ズヤが言うとノユが大きく頷く。
「そうであろうな。ヌトですら追い掛ける程度であったのに、ニムは触れるからな」
「ニムは父上にも色々とやってるから、僕は好きじゃないのよ」
「そうであるか。ま、玲太郎は奇特なヌト派であるからな」
「それよ。何故ヌトなのか、甚だ不思議でならぬわ」
ズヤがそう言って首を傾げた。
「傍にいると良く分かるんだけど、ヌトが一番しっくり来るのよ。でもレウに会った時、なんて言うか、うーん、……懐かしいような気がしたんだけどね」
「それはそうであろうて。レウが真っ先に玲太郎に印を入れたのであるからな。レウの魔力を知らず知らずの内に感じておったのであろう。……であるが、わし等も玲太郎が産まれて直ぐに印を入れたのよな? わし等に懐かしさは感じなんだのか?」
「うん?」
玲太郎はズヤを見て顔を顰めた。
「ノユとハソとわしは玲太郎が産まれて直ぐに印を入れたから、レウと負けず劣らずの時期である筈なのであるが……」
「そう言えば、わし等と会うた時に懐かしいと言われた事なぞないな。……あったか?」
ノユはズヤと玲太郎を交互に見る。玲太郎は視線を上に遣って、「うーん」と唸った。
「それは言った事がないと思う。何も感じなかったと思うからね」
「レウとわし等の差は何よ? 大して差はない筈ぞ」
「然り。おかしいわな」
「颯が、玲太郎君の幼い頃はヌト以外を嫌がっていたと言っていましたからね。それが関係しているのかも知れませんよ?」
「それならばレウも含まれなければおかしいではないか」
ルニリナはズヤを見ると微笑んだ。
「ヌトのように、レウの何かが玲太郎君に馴染んだのかも知れませんね。それを見極めるべく、私もレウに会いたいと思います」
「ニーティは玲太郎がヌトを受け入れた理由が解るのか?」
ズヤが透かさず訊くと、ルニリナはズヤを見て微笑んだ。
「いいえ、全く」
ノユとズヤが後ろに倒れた。玲太郎はそれを見て声を上げて笑った。玲太郎が一頻り笑い、静かになると倒れたままでズヤが口を開いた。
「笑い事ではないのであるぞ……」
「然り。ニーティはこう遣って、気の遠くなるような事を時折言うから困るな……」
術で起き上がって直立すると、二体共に脱力していた。
「ふふ。すみません」
渋い表情の二体に対し、穏やかに微笑んでいるルニリナを見た玲太郎は、釣られて微笑んでいた。
その週末、土の曜日が来てルニリナに占術の仕事が入っていなかった為、颯、ハソ、ノユ、ズヤを連れてレウの所へ出掛けてしまった。連れて行って貰えなかった玲太郎は、午前中は水伯と過ごし、午後から明良と二人で魔石作りに励んでいた。
「休憩しようか」
「うん」
「お茶を淹れる?」
「うん!」
「それでは淹れに行こうか」
「はーい!」
玲太郎の表情が段々と明るくなった。明良も笑顔になって頷くと立ち上がる。二人は二階ではなく、一階にある厨房へ向かった。
明良に出して貰った踏み台に乗って茶を淹れ、湯呑みにそれを注いで盆に載せると明良が持ち、居室へ向かった。玲太郎は天火で温めた回転焼きが載っている皿を持っている。玲太郎が居室の扉を開け、明良を先に通すと直ぐに入って閉扉した。明良は迷わず長椅子の方へ座り、玲太郎は皿を中央に置き、水伯の定位置である一人掛けの椅子に座った。
「折角はーちゃんとルニリナ先生の分も買って来てるのに、帰って来ないね」
「出掛けた序に街へ出かけたのかも知れないね。はい、どうぞ」
湯呑みを玲太郎の近くに魔術で置いた。
「ありがとう」
「どう致しまして」
明良は回転焼きを浮かせると、手元に引き寄せた。
「頂きます」
玲太郎はそれを見て立ち上がり、回転焼きを取るとまた座る。
「いただきます」
二人は無言で平らげた。玲太郎は茶を啜り、一息吐いた。
「美味しかった。天火で温めると、皮がよい感じでぱりぱりになるよね」
「そうだね」
明良も少し冷めて飲み易くなった茶を啜り、落ち着いている。
「そう言えば、そろそろ入寮の案内が届いているのではないの?」
「うん、もう届いてるのよ。あのね、始業式の二月十日が土の曜日なのよ。そのせいで式が十二日にずれるみたいなんだけど、それでも六日から八日の間が入寮になってた」
「そうなのだね。それでは八日に入寮するの?」
「うん、父上が八日ねって言ってたから八日」
「そう。それでは二週間後になるね。また寮生活が始まるのだね」
「そうだね。父上やばあちゃんのご飯が食べられなくなるから寂しいのよ」
「長期休暇に入るまでは週一になるね」
「そう言えば、あーちゃんが作った物を食べた覚えがないんだけど、僕って食べた事はあるの?」
「あるよ。憶えていないだけだね」
「ふうん、そうなの」
「私の手料理を食べたいの?」
玲太郎は満面の笑みを浮かべて頷く。
「食べてみたい!」
「そう。炒め物、焼き物、煮物、汁物は一通り作れるけれど、手の込んだ物は作れないよ?」
「はーちゃんもそうだよ? 和伍の庶民の料理って言ってた。ばあちゃんがそうだよね?」
「そうだね。颯と私の師匠はばあちゃんだからね」
「いつ習ってたの?」
「玲太郎が産まれる前に毎日手伝っていたからね」
「そうなの」
「玲太郎が産まれて少しして、研修で診療所へ通う事になって手伝えなくなったのだけれど、それまでは手伝っていたのだよね」
「あーちゃんはなんでも出来るんだね」
「そうでもないね。水伯には到底敵わないよ。ばあちゃんですら無理だものね」
「父上は二千年以上生きてるんでしょ? だったら仕方がないよね。僕ははーちゃんにも敵わないのよ」
「八年でも大きな差だよね。でも、今の颯と私とだと、五分五分という感じだね。差が四年程度だとそうなるのだろうか」
「そうなの? じゃあ僕が十七八になったら、はーちゃんと五分五分になれる?」
「ふふ、颯と五分五分になりたいの?」
「あ、でも、はーちゃんと五分五分になったら、あーちゃんとも五分五分になっちゃうね」
「そうだね。でも年齢など関係なく、玲太郎の方が強いのだよ?」
「それは魔力量の話でしょ? そういうのじゃなくて、なんて言うの? ……ご飯を作ったり、魔術で何かを出したり、そういうので五分五分になりたいのよ」
「それなら、色々と経験を積んで行く中で追い付ける事もあれば、追い抜く事もあるし、そうではない事もあるから、頑張り次第では五分五分に持ち込めるかも知れないね」
「経験かぁ……」
玲太郎は湯呑みを持つと、茶を勢い良く半分も飲んだ。
「それじゃあはーちゃんにくっ付いて行こう。そうすれば同じ経験が出来るよね」
「それだと同じ経験しか出来ないけれど、それで本当に構わないの?」
「うん?」
思わず険しい表情になり、明良を見た。
「玲太郎は玲太郎だけの経験をしなくてもよいの? と訊いているのだけれどね」
「僕だけの経験?」
「颯と一緒に、颯と同じ経験をしても、五分五分に持ち込めないと思うのだけれどね」
「そう? でも置いて行かれる事はないと思うのよ。あーちゃんが五分五分って言うはーちゃんと一緒に経験すれば、あーちゃんとも五分五分になれるね」
そう言って満面の笑みを浮かべた。
「それでは、その中に私も入って行かなければならないね」
明良は微笑みながら言った。
「ふうん? そうすればみんな五分五分になれる?」
「玲太郎が五分五分になると言うから、なるね」
「それじゃあみんなで五分五分ね」
「そうだね」
玲太郎が笑顔で頷くと、明良も笑顔で応えた。
その日の夕食時、颯に五分五分の話をしたら一笑に付された。
「兄貴と俺が五分五分の訳がないだろう? 百歩くらい先に行かれているぞ?」
「えっ、そうなの?」
玲太郎は驚いて明良を見ると、明良は微笑むだけだった。
「俺は玲太郎の五十歩先を行っているけどな」
「ええ? そんなに先を歩いてるの?」
「水伯は一万歩先を行っているんだぞ?」
「えっ、そんなに……。うん?」
首を傾げて、暫く沈思した。
「あーちゃんとはーちゃんの間に百歩でしょ。四歳差で百歩ね。はーちゃんと僕が五十歩? 八歳差で五十歩は少ないんじゃないの?」
「それだけ兄貴が先を行っているって事だよ」
「なるほどぉ」
颯以外が微笑ましく聞いていた。
「それはさて置き、ばあちゃんが煮物を作ったのか? 何時もと味が少し違うな? 何を入れたんだ?」
八千代は視線を送って来る颯を見て、首を横に振った。
「私じゃないよ。それはニーティさんが煮たんだよ」
「あ、そうなんだ」
「粗の出汁と昆布出汁で煮たんですよ。美味しいですか?」
横からニーティが会話に入って来ると、颯は横目でニーティを一瞥して、煮物に視線を移した。
「うん、美味しい。ああ、何時も粗と煮た時は粗があるから気付けたけど、ないから判らなかったんだな」
「粗の量が少ない上に小さかったから、一緒に出せなかったのですよ」
「若しかして、この鱠の魚の粗で出汁を取ったのか?」
「そうです」
「明良が明日の夕食を作ってくれるって言うから、さっき一緒に買いに行って来たんだけど、魚は大きいのか小振りのしかなくてね、両方買って来たんだけど、大きい方の粗をもらい忘れちゃったのよ」
「成程。それで、明日は兄貴が作るのか?」
颯が明良を見ると、明良は口を手で覆った。
「うん、久し振りに作ってみるよ。玲太郎から依頼されたからね」
「一人で?」
「約十人前なら、どうにか一人でも出来るからね」
「ふうん。兄貴のご飯なあ……、本当に久し振りだなあ。俺は焼き飯を作って貰いたいわ」
「あーちゃんの焼き飯、美味しいの?」
「物凄ぉく美味しいぞ」
「明良はなんでも卒なくこなすからね」
八千代が自分の言った事に頷いていた。
「焼き飯十人前は厳しいね」
明良が些か困ったような表情を見せた。
「兄貴と俺が一人前ずつで我慢すれば六人前になるぞ?」
「うーん、それなら鍋を二度に分けて振ればよいだけだから、どうにか出来そうではあるけれど、先に作った方は冷めてしまうよ」
「それは温め直せばいいだけだから、俺が手伝うけど」
「ああ、そうだね、颯を助手として使えばよいのだね。それでは明日の夕食作り、手伝ってね。もう作る物は決めているから宜しく」
「うん、解った。何時に来ればいい?」
「十九時前後には来て貰いたいね」
「解った、十九時な」
「明良の作った料理は私も初めてだから楽しみだね」
一人黙々と食べていた水伯が言うと、明良が横目で見る。
「ばあちゃんに作っていたお粥を見て、食べたいと言い出して食べた事があったよね?」
「お粥は……、料理と言う程の料理ではないと思うのだけれど……」
苦笑している水伯を見て、玲太郎が首を傾げる。
「おかゆって何?」
「米を多目の水で炊くんだよ。そうすると軟らかくなって病人に優しい食べ物になるんだ。味付けは塩だけな」
颯が説明をしている間、玲太郎は颯を見ていた。
「僕、食べた事ないよね? 食べてみたい」
「言っておくけど、消化が早いから直ぐに腹が空くぞ? それに玲太郎は食べた事があるんだよな」
「え? いつ食べたの?」
「何時頃だったか、悠ちゃんの粥を食べたがって、食べていたんだよ。後、おじやも食べていたような気もするなあ」
「おじや?」
「おじやは、野菜も入っていて、塩じゃない味付けをしてある粥みたいなもんだよ。醬油か味噌味な。あ、後、白飯を洗って野菜と一緒に炊くと雑炊になるんだよ」
「ご飯を洗うの?」
「そう。そうすると、煮汁が濁り辛くなるんだよ。粥もおじやも、煮汁が濁っているのが特徴だな」
「へぇ、そうなの。ふうん……。おかゆを食べた覚えがないし、全部食べてみたい」
「明日の十七時くらいに兄貴に作って貰えば?」
「私も食べてみたいです」
透かさずルニリナも参加した。玲太郎が明良を見ると、明良が苦笑した。
「それでは明日の十七時にお粥ね。おじやと雑炊は来週の週末の十七時にしようね」
「やった! ありがとう。楽しみにしてる!」
「玲太郎も手伝ってくれるのだよね?」
「うん? 手伝うの? やるやる!」
明良は玲太郎の笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「ばあちゃんはどうする? 食べる?」
隣に座っている八千代に顔を向けると、八千代が明良を見る。
「うーん、夕食が入らなくなっちゃうから少しでいいよ。お茶碗に半分程度ね」
「解った。それでは颯はどうする? 仕事があるのではないの?」
颯に顔を向けると、颯が口を手で覆った。
「十七時だろう? 明日は大丈夫なんだけど、来週末はその時にならないと判らないから、風呂上りに持って帰って食べる事にするわ。大目に作っておいて貰ってもいい? 丼に一杯程度でいいから」
「解った。ルニリナ先生はどうしますか?」
ルニリナに顔を向けると、待ち受けていたルニリナが満面の笑みで頷く。
「そうですね、私は明日も来週末も仕事は午前中だけですので、十七時でお願いします」
「解りました」
そして水伯に顔を向ける。
「水伯は十七時で大丈夫だよね?」
「うん、そうだね。それではお願いするね」
「おかゆにおじやにぞうすいだって。楽しみだね!」
玲太郎が一番嬉しそうだった。
「ばあちゃんと颯以外は汁椀に一杯だからね。余り多くして夕食に差し障りがあると困るからね」
各々が返事をすると明良は頷き、夕食を再開した。明良は心底嬉し気な玲太郎を見て胸が一杯になったが、いつも通り三人前を平らげた。
翌日、颯が約束通り十九時に厨房へ遣って来て、二人で調理を開始した。時間が来た事に気付いた玲太郎は様子を見に行こうとしたが、水伯に止められてしまい、仕方なく居室で時間を潰す事となった。水伯は落ち着かない玲太郎を相手に話をしていたが、玲太郎の身が入らず、暖簾に腕押しであっても話し続けていた。
水伯は仕方なく、二十時よりも早目に玲太郎を連れて食堂へ行くと、八千代が既にいた。
「ばあちゃん、早いね」
玲太郎が驚いて言うと、八千代が微笑んだ。
「いつも夕食を作っているから、なんだか手持ち無沙汰でね」
水伯が玲太郎を椅子に座らせる。
「ありがとう」
「どう致しまして」
水伯が自分の席へ向かうと、玲太郎は八千代に顔を向けた。
「ばあちゃんはあーちゃんのご飯を食べた事があるんでしょ? 美味しかった?」
「明良が作る物は、そうだね、ばあちゃんの味を受け継いでるから、美味しいって言うと、自分を褒めてしまう事になるからね、……まあまあっていう事にしておくね」
苦笑しながら言うと、着席した水伯が八千代を見る。
「それでは確実に美味しいという事だね」
「そうだよね、ばあちゃんと同じ味なら、美味しいよね」
玲太郎の期待が弥が上にも高まった。八千代は苦笑して、無言で手を振るだけだった。その後、ルニリナも入室し、二十時を少し過ぎた頃に二人が台車を押しながら入室した。
「お待たせ」
明良が言うと、玲太郎の表情がこの日一番の明るさになる。その表情を少しだけ見た明良と颯は給仕をしてしまうと着席した。それを見届けた水伯が合掌して挨拶をすると、皆も同様にした。
「このお魚は何?」
「昨日買ったムダンの照り焼きだよ。付け合わせは蓮根と芋を牛酪で炒めた物、後は蕪と油揚げと葱の味噌汁、小鉢は白菜の胡麻和えと、小松菜と蒟蒻と人参の白和えと、紅白鱠ね。鱠は玲太郎の好きな物が入っているよ」
「野菜は魔術で切ったの?」
「ううん、魔術は一切使っていないよ。助手がいたから助手に切って貰ったのだよね」
玲太郎には笑顔を向けていたが、颯に視線を移すと無表情になった。颯はそれを見て苦笑する。
「……と言っているけど、半分は兄貴が切ったからな。俺は主に細切りをしただけだな」
「そうなの。それじゃあ食べるね」
話している三人以外は既に食べ始めていたが、敢えて黙っていた。玲太郎が漸く一口目を選び、それを頬張ると、衝撃を受けた。それは期待値以上の物だった。口を手で覆うと明良を見る。
「なます、ソキノが入ってるの?」
「そうだよ。意外と合うよね」
「美味しい!」
「有難う」
明良が満面の笑みを湛えた。玲太郎は二口目を魚にして、玲太郎好みの甘辛い味付けに頷いた。
「この照り焼きの味付けも好き。ばあちゃんがこうだよね」
「私の師匠はばあちゃんだから、当然こうなるよね」
「明良は本当に何を遣らせても卒がないよね。これで味付けが普通なら可愛い所もあるのだなと思えるのに……」
水伯は口で可愛げがないと言う代わりに、そう言いたそうな表情で明良を見た。明良は横目で水伯を見ながら咀嚼をして飲み込む。
「水伯は普通と言うけれど、私に取っての普通はばあちゃんの味付けだからね」
「成程。これは一本取られたね」
颯は口を手で覆う。
「それだと、一般的に言われている普通の味付けが兄貴に取っては不味い事になるな」
「そう……なってしまうね。でも可もなく不可もなくというような味付けに、出合った事がないような気がするのだよね」
「買った菓子でそういう物に出合った事もないのか?」
「颯のように余り買わないもの」
「成程。失礼しました」
颯は魚の照り焼きを頬張って、直ぐに白飯も頬張った。
「はーちゃんのお魚、二切れもあるのよ」
「うん?」
俄に羨ましそうに言われ、玲太郎を見ると咀嚼も程々に飲み込んだ。
「半切れ食べるか?」
「よいの?」
表情を明るくした玲太郎を見て、颯が苦笑する。
「いいの? じゃなくて、頂戴って素直に言えよ」
そう言いながら皿を玲太郎の皿に寄せ、一切れを半分に切った物を移した。
「ありがとう」
「どう致しまして。まあ、まだ残っているからお代わりが出来るけど、玲太郎はそんなに食べられないだろう?」
「半切れくらいなら食べられるのよ」
「でも食べられなかったら、無理はせずに残せよ?」
「うん」
嬉しそうに頷き、魚を解して口に運んだ。
食べ終えた後に「美味しかった」と口々に感想を述べて明良に礼を言っていたが、明良も礼を言い返した。
「有難う。けれど、やはりばあちゃんのご飯が一番だね」
最後にそう付け加える事も忘れていなかった。
「解る。自分で美味しいと納得が出来る物が作れても、やっぱりばあちゃんのご飯がいいんだよな」
「困った子達だね」
八千代が苦笑した。玲太郎には明良と八千代の味付けに大して差がないように感じた事もあって、首を傾げるだけだった。それを見ていた水伯が、柔和に微笑んでいる。




