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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第三話 しかして夜が更ける

 寝室では明良達は東側に枕を置いて、南から明良、颯、玲太郎の寝台と並んでいる。玲太郎が生まれてから約二ヶ月が経過して気温も高くなって来たが、明良は寝苦しさも感じずに毎日熟睡していた。深夜の時間帯は相変わらず颯が玲太郎の世話をしていて、呼ばれる度に起きる事にも慣れつつあった。

 颯はいつもなら少しの時間でも寝てしまうのだが、今日も目が冴えて寝られなかった。既に乳を飲ませる為に一度起きていて、玲太郎を隣に寝かせ、「んっ」とか「うー」とか「おあー」とか言っている玲太郎に人差し指を握って貰い、僅かに揺すっていた。

(めいそうを始めてから気配っちゅうもんが分かるようになったんはまあええんやけんど、この強い気配がしてくるんには困るな。寝られへんけんしんどいんよな……。この背筋がこおる感じっちゅうんかいな、これを感じもっては寝られへんわ。なんや今日はいつもよりひどいしな……。玲太郎が起きとってくれるんが唯一の救いやな)

 目には見えない物を感じ取れるようになっていた颯は目を閉じる事を躊躇ちゅうちょしていた。

 それもその筈、枕元に立って颯を見下ろしていたのはハソだった。体を縮めて約六尺になっている。その横には同じ背丈の人が玲太郎を見詰めていた。やはりハソと同じ顔と同じ髪色で、髪型は前髪を耳に掛けていて長さは判らないがそれ以外は肩まであり、長衣の裾にある波模様の色は紫紺しこんだった。

「この子はわしがおるといつもこう遣って眠らぬのよ。またしても玲太郎が抱ける機会を待たねばなるまい」

 ハソが残念そうに言った。ハソの隣で玲太郎を見下ろしているニムが口を開く。

「ハソは何度此処ここに来ておるのよ?」

「割と頻繁ひんぱんよ。それにつけても、玲太郎はわしの事が見えておるようでな、抱くと目を見詰めて来るぞ」

 それを聞いて鼻で笑うと屈み込んだ。

「ハソの気のせいではないのか」

 そしてそのまま胡坐あぐらを掻いた。

「抱いておる時に目が合うのであるから確実に決まっておろうが。おしめ替えの時に抱けるであろうから、ニムも抱いてみると良かろう」

「ふむ。元よりその積りで付いて来たのであるが……。それにしてもその子はわし等が見えてしまわぬのか?」

 ハソも座り、玲太郎の顔を覗き込む。そして視線が定まらない颯を見る。

「はやての事か? はやては最近透虫等に接触しておって、どうやら気に入られたようでな、気配を感知しておるだけで見えてはおらぬのよ。其処そこ彼処かしこに目を向けておるわ」

 ニムは背を丸めて肘を膝の上に置き、頬杖を突いた。

「透虫かよ。開眼はしておらぬのか」

「はやてはしておらぬぞ。見えておったらわしが来るかよ」

 ハソは体を戻してニムと同じように頬杖を突く。

「それにつけても、灰色の子はまことにわし等が見えておらぬのか?」

 視線だけを動かしてハソを見ると頷く。

「見えておらぬな。あの子は特殊でな、完全には開眼しておらぬのよ」

 背筋を伸ばしてニムの方を見た。

「そんな事が有りるのか?」

「ある。わしとシピはあの子に印を入れておってな、魔力の水準がわし等に近いから生が長い。それもあって何度か接触しようと図ったのであるが失敗するわ、念話をしようにも声が届かぬわ、印が用を成さぬわと色々あったのよ。それで時折であるが観察を遣っておったのであるが、どうやら精霊等の認知が中途半端なようでな。驚く事に己の精霊ですら触れられぬ有様よ。そういう経緯いきさつでシピと共に気に掛けておるのであるが、はやて同様に気配は感知して呉れてもそれだけよ」

 また頬杖を突いて玲太郎を眺める。

「成程、そうであったか。灰色の子が子守に来ておる時は即座に戻っておったが、見えぬのであれば様子を見に来てもよいな」

 ハソは少し嬉しそうに言った。

「見えておっても、見えぬように術で隠れれば良いだけではないのか」

 ニムがそう言うとハソは真顔になる。

「わしは早い内に子等の前から離れておったであろう? であれば、それを体得しておらぬのよ」

 それを聞いてニムは声を出して笑った。ニムの態度に腹立たしく思い、それが表情に出た。不満そうなハソを横目に見ると微笑んで視線を玲太郎に戻す。

「あれは姿は隠せても、気配までは消せぬのよな。透虫と繋がりを持っているのであれば殊更気配に敏感であろうて。はやてとやらも何度も眠られぬ夜を過ごしておるのは可哀想であるぞ」

「そうなのか。気配が消せぬのか」

「わしらの気配は、何故なにゆえか消せぬのよ」

 ハソはしばらく黙考した。ニムは颯の寝ている布団から少し離してある布団に座り、熟睡している明良を見る。そして颯を見て、また明良を見る。

「この隣で眠っておる子ははやての弟か?」

「いや、兄であるな。あきらと言う。この子は一旦眠ると起きぬのよ。玲太郎が泣こうが喚こうがお構いなしでな、それもあって夜ははやてが玲太郎の世話をしておるのよ」

 ニムは何度か軽く頷いた。

「成程な。それならば尚更はやてが眠られるようにしてやらねばなるまいよ」

 呆気に取られたハソはニムの言いたい事が解らなかった。

「何が言いたい?」

「はやてにも印を入れて、ハソの気配に早く慣れるようにして遣れという事よ」

 冷ややかなニムの視線を受けているハソは真顔になった。

「印をそうも簡単に入れられるかよ」

「わしは全く抵抗がないがな。印なぞそんな大仰な物でもないのであるからな」

 そう言われたハソは視線をあちらこちらに飛ばして落ち着かない颯を見る。それを横目で見ているニムが口を開いた。

「可哀想だとは思わぬか?」

「待て、印を入れるとこうではのうなるのか?」

「体内におる透虫が先ず味方として見て呉れる筈であるから、はやてもそういう風に認識が変わる筈」

 ハソが顔をしかめると、ニムは冷ややかに笑った。

「ハソは透虫と仲良しであるが、わしもハソが透虫透虫と騒ぐから興味を持ってな、透虫と仲良うなって追究してみたのよ」

 驚きを隠せないハソはニムを見た。

「わしの知らぬ生態を知っておるとでも言うのか?」

「知らぬかどうかは判らぬが、子が第六感と言うておる物の正体が透虫である事は判った。正に虫の知らせよな」

 涼しげな表情のニムは颯を見詰めている。

「それは知らなんだぞ……。わし等にも予感はあるが、それも透虫等が関っておるのか?」

じっ中八九はな」

 ニムは軽く何度か頷いた。それを見たハソは少し気落ちした表情になる。

「そうなのであるな。其処までは気付かなんだわ。透虫等が教えて呉れておるのであるな……」

「わしは印を入れる事に抵抗はないからな、それはもう結構な数の印を入れて回って調査したのよ」

 ハソは耳を傾けながら、視線は颯に遣っていた。

「昔は透虫と仲良うなっておる子が今とは比べ物にならぬ程に多かったから出来て、その分調査も進んだお陰であるな。印を入れる事でわしの気配と感知すると、入れられた側が精神的に穏やかになるのは、正直な所わしも驚いたぞ」

「わしは印を入れる事は特別な事だと思い込んでおるだけか」

「わしも特別という認識ではあるが、印なぞ好きなだけ入れればよいのよ」

 満面の笑みを浮かべてハソを見ると、ハソは大きく頷いた。

ついでに言うておくと、あきらにも既に入れた」

 ハソは真っ直ぐニムを見て、暫く黙った。

「あきらにもと言う事は、玲太郎とはやてとあきらの三人に入れたのか?」

「玲太郎はまだであるな。印が四つも入っておるなぞ今までになかった事であるから、暫くの間は観察をして、それからわしの分を入れようと思うておる。そしてまた観察をする積りよ。わしがおる事で及ぼす影響を考えて、はやてとあきらには印を入れた」

 ニムの即決即断に呆れ果てて言葉が出てこなかった。

「……考えておるのが馬鹿らしくなるな」

 ハソがそう呟くと、ニムが鼻で笑い、そして表情を変えた。

「しかしあれよな、玲太郎の傍におると落ち着かぬな。これは透虫が落ち着かぬからであろうが、慣れておらぬから気持ち悪いわ」

「わしも何度か来ておるが未だに慣れぬわ」

 そう言いながら颯の方に向かって手をかざした。そして顔の前に掌を持ってくると見詰める。

「印を入れる事がこのように容易な事であったか?」

 小首を傾げた。ニムは横目でそれを見てから玲太郎を見た。

「印は容易に入る物ぞ。手をかざさずとも入るしな」

「そうなのか。やはり手馴れておるのであるな。わしは翳さぬと出来ぬわ」

 そう言ってから立ち上がると明良の方に向かい、跪いて手をかざす。

「やはり容易に入ったぞ。む? 此処まで容易であったか?」

 元の場所に戻って来て座ると、また頬杖を突いた。

「其処まで疑問に思う事か?」

「いや、何、玲太郎の時は弾かれる感覚があってな」

「そうなのか。それはそれは……。わしはまだ入れぬから、入れる時が来たらその感覚を存分に味わうとするわな」

「そうして呉れ」

 二体は暫くの間、沈黙していた。玲太郎は相変わらず「んっ」とか「うー」とか「おあー」とか言っていて、颯の人差し指を握っている。颯はやはり眠らず、時折視線を彼方此方に飛ばしていた。

「観察をするとか言うておったが、通うのか? まさかずっと此処にはおるまい?」

「わしは此処におるぞ。灰色の子が来るのであるならば、灰色の子の観察も出来てよいな。ハソは通うのか?」

「そうよな、わしも此処におるとするか」

 そう言うと、穏やかな表情で玲太郎を見詰めた。ニムは真剣な表情で目を伏せている。


 それから数日が経過してやはり夜、颯は妙な気配をずっと感じ続けていた所為か、感覚が麻痺していた。そのお陰で少しは眠られるようになってきたが、眠りが浅くなってしまった。

(おとろしい気配を感じても、玲太郎が起きとってくれたら心強いわ。ほなけんどおとろしかったんが、安心出来るような気配に感じるようになって来たんは、玲太郎がおってくれるけんだろか? ちょっとやけんど、この変化はなんなんだろか……。きしょくわるいな)

 前までは玲太郎の「んっ」とか「うー」とか言っているのを子守唄代わりにしていたが、今では安心出来る要因となっていた。颯は眠い目を閉じて思案をしていた。段々と玲太郎の声が遠くに聞こえてくる。

(玲太郎、ありがと)

 玲太郎の傍にいると心底から安心出来た。

 居着いている二体は身丈を更に縮めて三じゃくにし、あれからずっと玲太郎に張り付いていた。颯の枕元に立っているハソが姿勢を正す。

「おお、颯が眠りそうであるぞ」

「それならば動けぬようになるな」

 そう言って胡坐を掻いていたニムが無表情になった。ハソはそんなニムを見て苦笑する。

如何いかにも」

「動くと起きるものな。些か困り者よ」

「玲太郎が泣くまで微動だにするなよ」

「解っておるわ。ハソこそ動くなよ」

「一番楽な姿勢にしておるから動かぬわ」

 ここ数日で恒例になった我慢大会が始まった。ハソは力を抜いて穏やかな風を起こし、その中心にいた。

「術を使うなと言うておろうが」

 透かさず注意するニムを睨む。

「これ程度なら大丈夫であると昨日証明したではないか」

 そう言われて不機嫌な表情になったニムは鼻を鳴らして返事とした。ハソは微笑むも、直ぐ真顔になった。

「しかし日に日に敏感さに磨きが掛かって堪らぬな」

「それよ。印を入れておるから、そろそろわし等を受け入れて呉れても良い筈なのであるが、こうも敏感に気配を感知されてはな」

 ハソが少し暗い表情になる。

「わしの透虫等が此処まで懐くとは……。嬉しいやら、寂しいやら、複雑な心境ぞ」

「透虫はハソだけの物ではないがな」

 二体は顔を合わさずに笑い合った。先に笑うのを止めたハソはまた真顔になる。

「気配と言えば、灰色の子も結構敏感よな。気付いておる事を表には滅多に出さぬがわしの気配を追って来た事があったわ」

「そのような事が? わしは気付かなんだのであるが」

「透虫等を使つこうて追ってくるのよ。初めて遣られた時は驚いたわ。灰色の子も立派な透虫使いよな」

「成程。それで灰色の子にも印を入れたのか」

「如何にも。わしに早く慣れて貰わねばな」

 何度か軽く頷くニムは正面にある景色を唯々眺めている。

「しくじったわ。せめて誰かの寝顔が見える位置で固定すれば良かったな。これでは退屈極まりない」

「わしは颯と玲太郎が見えるから良かったわ」

「玲太郎が泣くまでの我慢であるな」

「首を動かせば良いではないか。それ程度ならば起きぬと思うがな」

 そう言われてニムは悩んだが、動かずに目を閉じた。

「止めておこう。傍におりがらにして透虫を使つこうて様子を見るというのもまた一興よな」

「何という透虫等の無駄遣い……」

「透虫も暇を弄んでおるからな、こうして相手をして貰い、そして仲良うなり、わしもまた暇を潰せる。効率的で良いな」

「仲良うなろうにも頭打ちして、それ以上仲良うなれぬのではないのか」

「それは判らぬな。頭打ちしておるのかどうか……。ハソは頭打ちしておるのか?」

「多分しておるな。自信はないのであるが」

 ニムは「ふーん」と鼻で返事をした。二体が話している事で玲太郎も話に入って来て、眠ろうとしなかった。ハソは必死で話している玲太郎を見ながら口を開いた。

「わし等が話しておると玲太郎が眠らぬな」

 ニムは小さく頷く。

「仕方があるまい。黙るか」

「うむ」

 二体が黙ると、玲太郎も次第に静かになりつつあった。ニムは玲太郎の足もとの辺りに座っていたのだが、何を思ってか西側の壁の方を向いていた。視覚を透虫に預け、その静かになり掛けた玲太郎を見ていた。玲太郎にはとてもではないが透虫を認識出来る筈もないのにも拘らず、何故か視線が合っているように思えた。ニムの眉が寄る。そのまま瞼を閉じる度数と時間が増え、玲太郎は眠りに就いた。

 しばらくは静かになり、颯の寝息が聞こえていたが、玲太郎が泣き出して颯が直ぐに目を覚ました。

「意外と早かったな」

 ニムがそう言って立ち上がり、玲太郎の顔を覗き込む。

「さっき乳やったけん、しっこかうんこやな?」

 颯はそう玲太郎に声を掛けながら、手探りでおしめのがわに手を突っ込んだ。

「うん、しめっとるけんしっこやな」

 薄手の掛け布団を捲って上体を起こすと、玲太郎のおしめに顔を近付ける。

「ああ、これはうんこもしとるわ」

 玲太郎が泣いても明良が起きないのを知っていて、焦らずに玲太郎を抱き上げた。それから立ち上がって寝室を出て行く。勉強部屋の東側の部屋に悠次が寝るようになったのだが、この部屋の前を通るのが難関だった。忍び足で通り抜けようとしても、玲太郎が泣いているから意味がなかった。颯の後ろに付いて行く二体は渋い顔をする。

「また悠次が来るのではあるまいな」

 先に声に出したのはハソだった。

「悠次が付いて来たら、また玲太郎を抱けぬではないか。起きるなよ、起きるなよ、頼む。起きるなよ」

 ハソは顔の前で手を組んで呪文を唱えるように言った。

「起きてもよいが、来るなよ。来るなよ、絶対に来るなよ」

 続いてニムも唱えた。二体の心配を余所に悠次が声を掛けて来ない内に部屋の前を通り過ぎて行った。二体は顔を見合わせて喜ぶと颯に付いて行く。

「次はわしが抱く番ぞ」

 笑顔のニムが言った。ハソは無表情になる。

「それは嘘よな。次はわしの番であった筈ぞ」

「ハソは抱いておったではないか」

「いや、待て。思い出して欲しい。悠次が来て抱けなんだ筈ぞ」

 ニムは黙った。少しばかり俯いて、思い出そうとしている。暫くすると顔を上げてハソを見る。

「憶えておらぬから、わしの番で良かろうて」

 真顔で言ったニムを睨み付けた。

「うんこであるぞ! うんこをしておるのであから抱く機会は後でもあるであろうが! 先にわしぞ」

 声を荒らげたが、ニムは涼しい顔をしている。颯が障子を開けて居間に入って行くと玲太郎を布団に寝かせ、新聞紙を取って広げると、おしめの替えの綺麗な布と手拭い二枚を持って来て玲太郎の傍に置き、一旦部屋を出て行った。

「よし、来た!」

 我先にと玲太郎に手を伸ばす二体はぶつかり、玲太郎の取り合い始めた。玲太郎はおしめが汚れていて気持ち悪く、泣きっ放しだったが、二体にそんな事は関係なかった。

「わしが先ぞ」

「先程からわしが先だと言うておろうが。玲太郎が泣いておるぞ。放せ」

「ハソが放せよ」

 玲太郎を思って、仏頂面になったハソが先に放した。

「次こそはわしの番な。違えるなよ」

 独占が出来たニムは満面の笑みを浮かべた。

「解っておる。任せておけ。く~、これよ、これ。この感覚は堪らぬな。あの気持ち悪い感覚が、こうも心地好き物になるとは思うてはおらなんだわ」

 玲太郎が泣いていても抱けて上機嫌のニムを横目に見た後、また顔の前で手を組んだ。

「悠次来るなよ。来るなよ。眠れ。眠れ。決して来るなよ。眠り続けるのである」

 懸命に唱え続けた。しかし人の来る気配がしてニムは玲太郎を寝かせた。歩いて来たのは颯だった。

「悠次は眠るのである。起きて来るなよ。頼む、起きるなよ」

 また顔の前で手を組んで唱え始めた。ご満悦のニムは笑顔でそれを見ていた。

「ほな、きれいきれいしような」

 颯はそう言っておしめの側を外し始めた。ニムは颯の隣に行き、その動作をつぶさに見ている。

「明良の方が丁寧であるな。やはり年の所為か?」

 ハソはその言が耳に入っただけで聞いてはおらなかった。悠次が起きてこない事を必死で何かに祈るように「来るな」と「眠れ」を繰り返し呟いている。その姿を見がニムが笑いを堪えた。ハソの目の前まで行くと大き目の声を出す。

「ハソは一体何に祈っておるのよ? 昔はわし等もそう遣って良う祈られておったがな」

 渋い表情をしてニムを睨む。

「透虫等に決まっておろうが。悠次の体内におる透虫等が起きなければ悠次も起きぬ筈」

 軽く何度か頷いたニムはまた颯の隣に行った。ハソは満足したのか、ニムの反対側に行った。二体して颯の手際を見ていると、颯の手が時折止まる。

「どうした? 颯の手が止まるな」

「如何にも。わし等が近過ぎるのであろうな。慣れてもらう為、わしは動かぬぞ」

「わしだけだと止まらなんだのであるがな」

 玲太郎はもう泣き止んでいたので、颯はのんびりとしていた。ハソは早くおしめ交換をして欲しくて仕方がなかった。

「頼む、はようして呉れ。わしが抱く番であるのに悠次が来てしまうではないか」

「悠次は眠っておろうて。そう急くでないわ」

 ニムは既に抱いていたから、そうは言いつつも無関心だった。ハソの眉が寄る。

「よっしゃ、こんでええな。ほな颯兄ちゃんはちょっと片付けしてくるわ。大人しいに待っとってな」

 そう言ってぬるま湯の入った桶を片手に持ち、もう片手には汚れたおしめを持って部屋を出て行った。ハソは颯の気配が遠ざかるのを感じ、悠次の気配が動かない事を確認すると玲太郎を抱き上げた。

「よしよし、わしの番であるな。玲太郎、待たせたな。ハソだぞ、ハソ。言うてみろ。ハーソー」

 そんな事を言いながら笑顔を見せる。玲太郎は「うー」とか「おあー」とか言っている。玲太郎を抱くと体内にいる透虫が歓喜して打ち震え、その感覚で全身が痺れるとハソは目を輝かせた。

「透虫等も喜んでおるわ。颯は玲太郎を抱いても平気そうにしておるが、明良は明らかにこれを感じておるよな。あの顔はそういう顔ぞ」

 悠次が来ると踏んで順番を飛ばしたニムは不快そうな顔をしている。

「明良のあの顔は透虫に感化されておると言うより、溺愛しておるだけではないのか。二人切りだと顔に締まりがのうなるからな」

「わしは透虫等にして遣られておると思うがな。明良もまた透虫等と親しくなり掛けておるが、わし等の気配には鈍感よな」

 涙を流していない玲太郎の顔を見詰めながら頷いた。

「確かに鈍感よな。透虫への接近の仕方が颯とは違っておるのであろうな。若しくは親密になる速度が遅いのか。何方どちらにしろいずれは気配にも敏感になろうて。どれ、代わろうか」

 次は自分の番と言わんばかりに両手を差し出した。

「はははは。代わる訳がなかろうて。玲太郎はわしがよいよな?」

 ニムは早々に両手を下ろした。玲太郎は「うー」とか「おあー」とか言っているだけだった。

「ハーソー、言うてみぬか」

 ニムは鼻で笑うとハソに視線を遣った。

「明良の真似をするなよ」

「明良も、あーちゃんと呼ばせようと頑張っておるな。しかし先にわしの名を呼んで貰いたい」

 玲太郎から視線を外さずに言った。ニムも玲太郎に視線を遣る。

「玲太郎が名を言うようになると、灰色の子にも名が明かされるぞ」

「構わぬ。名が知れた所で見える訳ではないからな。それにしても灰色の子で呼び名が定着しておるな」

 ニムは大きく頷いた。

「あの子が覚醒した時に名がなかったのよ。記憶がなかった、が正しいか。一番に駆け付けたのがシピであったのであるが、そう言うておったわ。それでシピが、髪が薄い灰色であるから灰色の子と言い出して、わしもそれに倣ったのよ。この島国の南の方の島におったのであるがな、その頃に呼ばれておった名が二つ三つあって、内一つが今も呼ばれておる名であるな」

「そうであったのであるな。しかし昔の事なのに良う憶えておるな。灰色の子はそのように記憶に残る程、印象が強かったのであるか?」

 ハソは玲太郎から目を離さずに訊いた。

「印象は強かろうて。あの魔力ぞ。量も濃さもわし等に匹敵する程であるからな。いや、匹敵は大袈裟か。今一つ及ばぬが、子の中でも魔力が傑出しておってわし等に程近いわな。当然ながら観察対象になろうて。……いや、灰色の子は監視に近かったな」

「それにしても関心を示したのはニムとシピだけであろうが」

 ニムを一瞥いちべつしたハソは、玲太郎に笑顔を見せながら言った。

「わしは観察が趣味のような物であるからな。シピはこの島国に何故なにゆえかは知らぬが執着しておるからな、当然関心を持つのであろうが、他の兄弟は島国にも子にも無関心であろうて。わしからは灰色の子に就いては報せてはおいたがな。シピも何か伝えておるやも知れぬ」

「わしはシピからは聞いた記憶ならあるが、ニムからはないぞ。そんな事があったか?」

「わしは話したぞ。興味が持てなんだだけではないのか」

「シピは何度も見に来ぬかと誘うて来たから記憶にあるだけなのやも知れぬな。何せ執拗であったわ」

「同じ事をまた言うが、灰色の子の力が甚大という事もあって、わしも皆へ一様に報せたぞ」

「確かにあの魔力は子等の中では別格よな。わしには、ニムとシピが見ておったらそれでよいではないか、としか思えぬがな」

 そう言ってニムの方を見ると、ニムは考え事を始めていて聞いていない様子だった。独り言を始め、次第に声が大きくなってきた。

「違ったわ。灰色の子が最初におったのは西の方の島であったわ。南の島はその後であるな。いや、待てよ? そうではないような気がして来たな……」

 曖昧な記憶を呼び起こそうと呟いていると、颯の気配が近付いて来ていた。ハソは布団に玲太郎を寝かせるとニムの傍に行く。

何処どこの島か知らぬが、この島国に間違いはないのであろう?」

「……それはそうなのであるが」

「そうならば細かい事は良いではないか」

 笑顔でそう言われて暫く黙ってから頷いた。

「そうよな。兎にも角にもハソ以上に扱き使われ、各地に飛んでおった時もあったからな。灰色の子は別の場所に避難をしておって、何時いつの間にやら西の大陸に行って土地の管理をしておるのであったか? 今も其処におるわ。そう言えばレウの近所よな」

 戻って来た颯が玲太郎を連れて寝室へ向かったが、二体はそのまま居間で話していた。

「灰色の子はあの近くにおるのであるか。また行く機会があれば探して見に行ってみるか」

 ハソはそう言うと宙に浮き、西側の壁をとおり抜けて玄関に出ると、更に西の方へ透り抜けて行った。寝室には颯と同時に着き、ハソに少し遅れてニムも壁から遣って来た。颯は玲太郎を布団に寝かせると、その横に寝転んで掛け布団を掛けた。

「悠次が熟睡しておるようであったから、次も抱けそうよな」

 颯の枕元に立っているハソが言った。ニムはハソの隣に立ってハソを押し退けようとしている。ハソは先にその場に座り込み、場所を確保した。

「ハソは先程も其処でおったろうが。わしに場所を譲れよ」

「早い者勝ちよ」

 そう言って頬杖を突いた。静かな明良の方に視線を遣る。

「明良の寝顔でも見ていればよいではないか。何かしら発見があるやも知れぬぞ」

 言い終わると「くくっ」と小声で笑った。ニムは何かを思い立ち、真顔になった。

「わしは明良より悠次の方が若干気になる。あの子の体の中を見てみたいのよ」

「えっ」

 意外な言葉が出て来てハソは思わず声が漏れた。

何故なにゆえに悠次よ?」

「あの子は硬化症なのであろう? それなのに結構起きておる時間が長い気がするのよ」

「確かに此処の所、悠次がおって抱けぬ事が増えたな」

「どうせ次は乳の時間であろうから、悠次の所に行って近くから見て来るわな」

 そう決め付けると壁を透り抜けて消えてしまった。見送ったハソは呆気に取られていたが、玲太郎の「んっ」とか「うー」とか「おあー」とか言っているのを聞いて我に返った。玲太郎を覗き込んで見ると真顔になった。

「玲太郎、次は乳なのか? 次はしっこかうんこで頼むぞ」

 そう言うと笑顔を見せた。玲太郎は「んっ」とか「うー」とか「おあー」とか言っているだけだった。颯はそんな玲太郎の方に体を向けるとお腹に手を遣り、優しく叩いた。

「ほな少しでも寝ような。おやすみ」

 目を閉じると一度だけ深呼吸をした。

(なんやちょっと気配がマシになったみたい。これやったらまだ寝られそう……)

 心身共に疲れているようで、そう思うと意識が遠退いていった。その様子を窺っていたハソは姿勢をそのままに動かなくなる。玲太郎は暫く声を発していたが、それも徐々に小さくなっていった。二人が眠る様子をハソは穏やかな表情で見守っている。


 それからまた数日が経過した。まだ外は明るいが、日没が押し迫っていた。颯は既に寝室で寝ており、玲太郎は勉強部屋で明良と共にいた。当然ハソとニムもいて、寝ている玲太郎に寄り添う形でハソが寝そべっている。ニムは反対側にいて胡坐を掻いているが、振り返っては明良の様子を気にしていた。

「明良は勉強に熱心よな。医師になる積りでおるのであろうか」

「学んでおる本を見る限りではそう思うのであるが、はて……」

 玲太郎が寝ているのを気遣っているのか、小声で答えた。

「学ぶのであればそういう施設に通えばよいのに、何故なにゆえ通わぬのか」

 ニムは玲太郎にお構いなしの声量で言った。ハソがそんなニムに視線を遣る。

「意外と弟思いであるからな、置いては行けぬのであろうて。不愛想であるが面倒見はよいぞ」

 やはり小声で言った。

「それはわしも見ておったから知っておる。…のであるが……」

「まだ観察し始めて間もないのであるから、そういて答えを求めるなよ。玲太郎がおる限りは、此処から出ては行かぬであろうしな」

 そう言われてニムは押し黙り、暫くは沈黙が続いた。

「しかし……」

 仏頂面のニムが口を開いた。

「昔から医師より薬草師の方が治せる病は多いぞ」

「そう言えばそうであったな。それでも医術の勉強も無駄にはなるまいて」

 ハソはそう言うと玲太郎の寝顔を見て顔を綻ばせた。

「どうしても医師の道に行かせたくないのであれば、念話で断念するように伝えればよいではないか」

「そういう訳ではないのであるがな、見ていて少々焦れったいと言うか何と言うか、何故なにゆえ今頃医術なのであろう? と……」

 そう言うニムを見ると「うーん」と唸る。

「明良が明良なりに考えた結果なのであろう? それで良いではないか」

 ニムはハソ同様、寝転がった。顔を横に向けて玲太郎の寝顔を見る。

「医師では玲太郎を食わせられぬぞ」

 そう呟いた。それを聞いてハソが声を上げて笑った。

「はははははは。何かと思うたら、玲太郎の心配かよ」

「よいではないか。医師は兼業しなければ食えぬ世界ぞ。明良が玲太郎を置いてこの家を出て行くとは考え難い。であるが勉強しておるのは医術と呉れば、焦れようて」

 恥ずかしそうに言うと天井を見た。ハソはそれを見て苦笑する。

「わしは世情に疎いからな、医師が其処まで地位が低いとは知らなんだのよ。済まぬな」

「よいわ。元より此処の家族は一風変わっておるからな、考えても仕方があるまいて」

「如何にも。もう少し子に対して親が関心を持つ物かと思うておったのであるが、この家はそうではないのよな」

 玲太郎の長いまつげを凝視しながらハソが言うとニムは頷いた。

「玲太郎が特殊であるからな。わし等に対して泣かない事は嬉しいのであるが……」

「人に依って泣くという事がこうも続いてはやはりおかしいがな。悠次と八千代は毎日一度は抱いておるが、留実とヴィストは抱かぬようになったな」

「手を伸ばしただけで泣かれると抱く気も失せようて」

 ニムはそう言うと鼻で笑った。

「あれでは親としての立場がのうなるな」

 ニムがまた鼻で笑うと上体を起こしてハソを見た。

「親と言うても生みの親であるからな。育ての親は明良と颯と灰色の子ぞ」

「如何にも」

 ハソは玲太郎の睫を見続けている。ニムはそんなハソの視線がどこに向かっているのか気になったが口には出さなかった。

「あの二人が親になるには難度が高かったのであろうな」

「如何にも」

 ニムは些か不機嫌になった。

「しかし玲太郎は不思議な子よな」

「如何にも」

「玲太郎が大きくなるのが楽しみよな」

「如何にも」

「話を聞いておらぬな」

「如何にも」

 即答はしても、話を聞いている訳ではなかった。ニムは立ち上がると明良の方に向かう。玲太郎の睫を見続けているハソは、視界の端にそれが映ると口を開いた。

「颯が起きるから動くなよ」

「少しくらいなら平気であろうて」

 明良の横に行き、何を読んでいるのか、見えている部分の文字を追った。読んでいる内に眉が寄って来て、体を震わせた。それも我慢が出来なくなって笑い出した。

「はははははははは。何を読んでおるのかと思えば全く……。明良は開眼したいようであるぞ」

 ハソはニムに視線を遣ると、眉を顰める。

「そのように大声を出すと玲太郎が起きるではないか」

「ああ、済まぬ。しかし開眼方法を本にしてあるのであるな」

 本とハソを交互に見ながら言った。ハソは視線を玲太郎に戻す。

「本にして残す程の事か? 開眼は簡単に出来たのではなかったのか? 昔は見えておる者が大勢いた物であるがな」

「森羅万象に感謝を捧げておれば何れは開眼する筈よ」

「それだけであったか?」

「後はそれ等が見えるようになった時に受け入れる覚悟か?」

「綺麗な物ばかりが見えるようになる訳ではないからな。それにしても明良が開眼するとなると、わしが困るのであるが……」

「条件はまだあったような気もするが……。この本では遣ろうと思う者も然程おるまい」

「どのように書いておるのであろうか?」

「開いておる部分だと、「頭の天辺から足の爪先まで、そして髪の毛の一本に至る全身の細胞が生まれ変わる事を最終目標とし」、とか、「日々めい想を続ければ必ず細胞は生まれ変わり、今までと違った世界が目の前に広がる」、これは胡散臭かろう、……「瞑想を行う中で最も重要な事は、心象が必ずけん現されると肯定し続ける事」、これは瞑想に限らず術を使う時にも通ずるな、ふむ……あっ、紙をめくられてしもうたわ」

 小声で文句を言いながら最初から読み始めた。ハソはそのニムに視線を向ける。

「この島国の子等には、そういう条件を足しておるのやも知れぬな。それでも昔は見えておる者が大勢おったというに……」

 ニムはそう言ったハソに顔を向けると、何度か小さく頷き、また本へ目を遣った。

「昔のこの島国の子は確かに多かった。わしは簡単に開眼せぬように、わしを感じ取るという条件を足しておったな。颯のように何か気配を感じるという程度ではのうて、わしという存在を明確にな。しかしそれももう全滅してしもうたがな」

「わしも。こしらえた獣人は全滅したぞ」

 ニムは顔をハソに向けると渋い表情を見せる。

「ハソが拵えると狂暴になるからな。あの獣人共は決起してハソに向かって来たものな」

何故なにゆえああいう事になったのであろうな。わしも不思議で仕方のう思うたのであるが、またろくでもない事が起きると思うて、可哀想ではあったがせん滅したわ」

「それだけではなかろうが。此処の西にある大陸の真ん中らへんの民族もハソが拵えておったであろう? 未だに戦に明け暮れておるぞ」

 そう言うとまた本に目を遣り、読み出した。

「わし、そんなに拵えておったか? 記憶にないのであるが……」

 小声でそう言うと、また玲太郎の睫に視線を移した。ニムは明良とともに読書に夢中になり、そのまま沈黙が続いた。ハソが眺めていた玲太郎の目が開くと「うー」とか「おあー」とか言い出した。

「乳だな」

 そう呟くとハソは起き上がって東側の本棚の前に移動した。明良は本に栞を挟んで閉じ、立ち上がるとニムを透り抜けて玲太郎の傍に行く。

「どうしたの? しっことうんこではないね? お乳が欲しいの?」

 ひざまずいて玲太郎の顔を見ると、玲太郎は声を発するのを止めて口を開閉させた。

「うん、お乳だね」

 玲太郎を抱き上げると部屋を出て行った。ニムは明良の気配が遠ざかるのを感じ、本を開いて最初から読み出した。

「ニムは本を読むのか?」

「見ての通りであるが」

 素っ気なく返事をする。

「それならばわしだけ行ってくるわ」

 そう言うハソを振り返って見ると真顔になった。

「動くと颯が起きるぞ」

「遠ざかるから逆に安心するのではなかろうか」

「その理屈で言えば、戻ってくる時に近付くから起きるであろうが」

 そう言われると何も言えず、動けなくなってしまった。ニムはまた本を読み出す。

 先日、水伯が来た時に颯が気配を感じるせいで寝られなくなったと相談して、水伯の来る度数が増える事になった。颯が泣き付く程に寝られなくて辛かったであろう事は二体共に承知していた。ハソはその場に寝転ぶと、そのままの体勢で宙に浮いた。

「颯が灰色の子に泣き付くとは思わなんだわ」

「それだけ精神的に辛かったのであろうな」

 ニムは本を読みながら返事をした。

「しかし玲太郎の事が気になるから、離れてはやれぬのが申し訳ないわな」

 それを聞いて、鼻で笑うと振り返ってハソを見る。

「印も入れておるし、日増しに敏感になっておっても慣れて呉れるであろうて」

 そう言うとまた本に向いて読み始める。

「早い所慣れて欲しいのであるが、意外と時間がかかっておるよな」

 ハソが話し掛けて来るから、本を読もうにも読めないニムは些か困った。

「わしは本を読みたいのであるが……」

「乳を飲ませ終えたら戻って来るのであるから、大して読み進められまいて」

「この本は薄いから集中すれば半分は読めるぞ」

「それならば黙ろう。明良が来たら声を掛けるわな」

「それで頼む」

 それからは紙を繰る音がする以外は静かになった。その間、ハソは目を閉じて視覚を透虫に預けると先ず颯の様子を窺った。目を覚ます事なく、良く寝ているようだった。暫くそれを見て一安心すると、次に居間の様子を窺う。八千代と悠次も居間にいて、明良と会話をしているようだった。悠次は野菜が沢山入った雑炊を食べている。食欲があるようで大き目の丼を使っていた。

(この時間に乳であるから、もう一度乳を飲ませるまで明良は起きておるのであろうな)

 ハソなそんな事を思いながら、玲太郎に乳を飲ませている明良を見ていた。明良は颯と違って、上手く乳を飲ませて口の周りを汚さなかった。

(明良は綺麗に飲ませるが、颯の奴は必ず汚すのよな。何時も舐めて始末をしておるが、あれを明良が見たらどうなるのであろうか)

 些細な疑問が浮かぶとにわかにおかしくなり、失笑してしまって声が漏れた。読書中のニムに気を遣い、思わず手で口を押えたが、ニムにはその笑い声が届かなかったのか無反応だった。ハソは聞き耳を立てて紙を繰る音を聞くと、また明良達の様子を窺う事に集中した。

 明良が器用に乳を飲ませながら会話をしているようだった。聴覚も透虫に預けて会話を聞く。どうやら悠次の食欲の話をしていて、最近食べた物の話で弾んでいた。水伯が作ったご飯が美味しいとか、珍しいとか、そういう話も出ていた。ハソにとってはどうでもよい会話だった事もあって、聴覚は早々に元に戻して紙の繰る音を聞き始めた。

 明良が玲太郎を連れて部屋に戻ると、ニムは玲太郎の布団の傍で待機していた。明良は玲太郎を抱いたまま自分の文机ふづくえに向かって座布団に座った。その様子を見ていたハソが声を出して笑っている。ニムはその場で胡坐を掻いて頬杖を突いた。ハソはその後姿を見て笑いを堪える。

「それで本にはどう書かれておったのよ?」

「本か。透虫と接触しておる事が前提で書かれておるから役に立たぬわ」

「そうなのであるか」

 ハソはニムの傍に下りると、同じく座った。

「透虫と仲良うなるにはどのようにするかは書かれておらぬのか」

「それには全く触れておらぬな。透虫がおらぬと出来ぬ事が書かれておってな、あれでは開眼しようにも出来ぬぞ。透虫と接触しておっても開眼するかすらも怪しいな」

 仏頂面のまま話しているニムはそう言うと少し考え込んだ。

「明良が開眼すればわしを見られてしまうやも知れぬからな、出来ぬ方がよいのであるが」

「……姿の消し方を教えると言うておろうが」

「消せるようになった所で、ニムには確認出来るのであろう?」

「子には見えぬようになっても、わし等には見えるからな、それは仕方があるまいて」

 無表情でそう言ってハソを見たが、今度はハソが不機嫌そうな表情を浮かべた。

「出来ておる積りでおるのに、出来ておらぬとなれば、不手際所の話ではないのであるぞ」

「明良にならば、見られた所で問題はあるまいて」

「そうなのであるが……」

 ハソは何故だか今一気乗りがしなかった。やや暗い表情を浮かべたハソを見たニムは鼻で笑う。

「玲太郎には見られておるからな、今更という感じがせぬでもない」

「玲太郎はよいのよ。まだ小さいからな。大きゅうなるに連れ、見えぬようになったり、記憶がのうなったりであろうて。それにしても、ニムは明良に見られても良いのか?」

「わしは消えるからよい」

「それはずるいぞ」

「先程から消し方を教えると言うておろうが」

 二体は顔を見合わると、二体共が眉を顰めていた。それを見てお互い無表情になる。

「うむ。消し方を教えて貰う事が健全よな。消えておるかどうかは玲太郎に確認して貰うとするか」

「玲太郎で試すにしても、きちんと消えておるかどうか、確認出来るのか?」

 ハソが微笑む。

「前に明良が玲太郎を抱いておる時に顔を覗き込んだのよ。そうしたら明良とわしを交互に見ておったから、またそれを再現すれば良かろうて」

「玲太郎の気が向かずに明良ばかり見ておる事も有り得るであろうが」

 ハソから微笑みが消え、渋い表情になる。

「それではやはり明良で一発勝負になるのか……。何時になる事やら……」

「明良より颯の方が早いやも知れぬぞ」

「如何にも。気配でずっとわし等を感知しておるからな。明良より颯の方が余程近い所におるわな」

「明良は透虫と接触しておっても、それが内に向いておるようであるからな。外に向けて感覚を研ぎ澄ませておる颯の方が早く辿り着きそうではある」

「兎にも角にも、先ずは姿の消し方を会得しておくとするか。ニム、頼むぞ」

「任せておけ」

 二体は膝を突き合わすとニムが熱心に教え出した。ハソも真剣に耳を傾けている。外はいつの間にやら日が暮れて真っ暗になっていた。明良は玲太郎を抱いたままの状態で桜輝石の明りを頼りに読書に励んでいる。玲太郎はと言うと、黙って明良に抱かれていた。穏やかな表情をしているから、眠りに就いているのかも知れない。


 更に数日が経過し、颯は気配の感知がより鋭くなっていたが瞑想をめる事はなかった。寝室にいながらにして、どこに誰の気配があるのか理解出来るようになっていた。唯、見えない何かの気配が三つ、近くにある事も感知していた。

(なんしに気配が一つ増えとるん? これ、絶対近くにおるっぽいしほんまおかしいわ……。水伯はおとろしいもんとちゃうっちょったけんど、オレにとったらおとろしい……)

 今日は水伯がいて熟睡出来る筈だったのだがそれも叶わなくなり、薄手の掛け布団に包まって失意の中にいた。それを取り囲むように三体が立っている。内一体もやはりハソやニムと同じ顔、同じ髪の色をしていて、髪型はえり足の裾辺りで一つに結び、長さは腰の辺りまであった。長衣の裾にある波模様の色は深緋こきひで、他の二体に合わせて身丈を三尺にしている。

「見ろ。ヌトが来たせいで颯がこうなってしまったではないか」

 厳しい口調で言ったのはニムだった。気の抜けた表情をしているハソが口を開く。

「わしは気配が近付いて来たから止めたのであるがな。何故なにゆえ来てしまったのか……」

 ヌトは何を言われても平気なようで、飄々としていた。

「よいではないか。わしもあの家の木の花が咲いた原因にうてみたかったのよ。ノユに訊けば大まかな場所を教えて呉れたから来てみれば、ニムとハソがおるではないか。会うしかなかろうて」

 うっすらと笑みを浮かべて言うと、ニムが溜息を吐いた。

「敏感な年頃の子がおるから、気をつこうて欲しかったぞ」

「子に対して遣う気なぞ持ち合わせておらぬわ。それよりもわしはれいたろうとやらに会いたいのであるがな」

 ハソはニムを見ると、その視線を感じてニムもハソを見た。顔を見合わせている二体を交互に見るとヌトは掛け布団に包まっている颯に視線を移した。

「この子がれいたろうではあるまい?」

「玲太郎は産まれたばかりだと聞いておらぬのか」

「ニムはどうしてそう喧嘩腰になるのよ。わしはれいたろうに会えればそれでよいのであるがな?」

「此処は早く玲太郎に会わせ、ご帰宅願おうではないか」

 ハソにそう言われてもヌトは笑顔になり、二体を交互に見た。

「わしはそれで良いぞ。れいたろうに会いに来たのであって、はやてとやらには興味がないのでな。はよう玲太郎の所へ連れて行って呉れぬか」

 ハソが頷くと、先に東側の壁に向かって行った。

此方こちらよ」

 ヌトは無言で付いて行くとニムも一緒に向かった。

 今度は水伯の腕の中で寝ている玲太郎を取り囲むように三体は浮いている。

「確かにチムカに似た魔力よな。これは覚醒しておらぬようであるが、覚醒してもチムカに似たままなのであろうか?」

「ヌトもチムカの魔力を憶えておったのか」

 ハソは悔しそうな表情をしている。視線を玲太郎からハソに移すと口を開く。

「チムカの魔力くらい憶えておるわ。子が死の森だとか絶望の森だとか叫喚きょうかんの森だとか言うておる森に行けば一発で思い出すぞ」

「しょく何やらと言う木の森であろう? わしも言われて行ってみたのであるが、木の魔力がきん少で思い出せずにおるのよ」

「ハソはチムカに対して未練がのうて思い出せぬのであろうて」

 締まりのない顔でヌトが言うと、ニムが表情で言う。

「違うな。ハソは透虫に夢中になり過ぎてチムカの事を忘れてしもうておるのよ」

「未練がないも同然ではないか」

「いや、待て。わしはチムカに未練があるにはあるぞ。唯、魔力がどのような物であったかを思い出せずにおるだけよ」

 ハソが苦笑して言うと、ヌトは笑顔になった。

「ハソはチムカに然程甘えておらぬものな。シピが一番甘えておったのは憶えておるわ」

 ニムがそう言ったヌトに鋭い視線を送る。

「それにつけても、覚醒してもチムカの魔力に似たままかどうかは、覚醒せぬ事には判らぬぞ」

「それはそうよな。覚醒しても似ておるようであれば印を入れてもよいかと思うたのであるが」

 俯いて顔を玲太郎に向ける。

「レウが印を入れておる事は、此度こたびが初めての事ではないのか?」

「如何にも」

「ニムは此処に滞在しておるのに、印を入れておらぬのか?」

「見ての通りよ」

「入れぬのか?」

 ニムは玲太郎を見ると、些か厳しい表情が和らぐ。

「入れるが、折を見ておるのよ」

「また観察しておるのかよ。まっこと好きよな」

「放っておけ」

 不機嫌に言い放つと、ヌトは微笑んだ。

「念話で話すのと対面で話すのとでは、やはり後者がよいな。来て良かったわ」

 そう言って「ふふふ」と笑った。

「それにつけても、噂の灰色の子に初めてうたのであるが、中々の魔力よな。それでも興味は湧かぬが……」

 読書をしている水伯を見詰めた。ハソはそれを横目で見ている。

「灰色の子はさて置き、玲太郎にうたのであるからそろそろ帰らぬのか」

 無表情のニムがそう言うと、ヌトは目を剥いてニムを見る。

「いやいや、まだ早かろう。もう少しおってもよいのではないのであろうか?」

「わしとしては早く帰って欲しいのであるが……」

 今度はハソが言った。

何故なにゆえそう急かすのよ?」

「わしとニムは颯が可愛いのでな、あの子が慣れぬヌトの気配で眠られぬようになっては哀れでならぬのよ」

「折角わしとハソの気配に慣れて、少しずつ眠られるようになっておった所に新たな気配がしては辛かろうて」

 颯を思い遣る二体を交互に見る。

「お主等がおるから眠られぬ日が続いておるのではないのか」

 俯いて小さく呟いた。そして顔を上げて続ける。

「ま、よいわ。それでは帰るとするわな。しかしまた来るぞ。それも近い内にな」

「来ずともよいぞ」

「寧ろ来るな」

 ハソが言うとニムも透かさず言った。ヌトは悲しそうに微笑む。

何故なにゆえそうも邪険に扱うのよ?」

「言うておろうが、颯が可哀想であると」

 刺々とげとげしい態度でニムが言うと、ハソが苦笑した。

「念話で来るなと止めたであろうが。間が悪いのよ。颯が寝る時間は歓迎出来ぬからな。来るなら朝に来るようにして呉れぬか。昼は颯が昼寝をするから、駄目だと言うたら今度こそ来るなよ?」

 ヌトは渋い表情をして暫く黙っていたが、俄に表情が明るくなった。

「成程。印が入れば気配に馴染むのも早くなると聞いた事があったな。それではやてともう一人に印を入れておるのか」

 何度か軽く頷くと、満面の笑みを湛えた。

「わしもはやてに印を入れておくとするわ。そうすればわしの気配に馴染んでまた来ても怒られる事はなかろうて。もう一人の子と灰色の子はわしの気配に無関心であるから入れずともよいな」

 最後の方は呟くように言い、西側の壁を透り抜けて行った。二体は呆気に取られ、唯々消えて行くのを見送っていたが、ハソが我に返って直ぐヌトを追い掛けた。ニムもそれを見て追った。ヌトは颯の真上に浮いていて既に済ませていた。後から来た二体を見ると微笑む。

「出来ればれいたろうが起きておる時にまた来るぞ。それではまた近い内にな」

 二体が何かを言う前に天井を透り抜けて消えてしまった。

「ヌトはいつもこうよな」

 無表情でニムが言うと、ハソが笑った。

「折角颯に印を入れてもろうたが、颯が学校でおらぬ時に来て貰うとするか」

「来いと言うて来るのならば苦労はせぬわ。ヌトは気が向かぬと子でも動かぬからな」

 二体は掛け布団に包まって丸まっている颯を見た。颯は息苦しくないのか、ずっとこのままだった。

「ではわし等も離れるか。灰色の子が玲太郎のお守の時は抱けぬから傍におっても詰まらぬのであるが」

「わしは観察が出来るから誰がお守役でも構わぬぞ」

 そんな事を話しながら廊下の方へ行き、障子を透り抜けると居間へと向かう。

(いつものよう分からん気配二つになった! 一つ減ったわ! いける、これだったら寝られる)

 颯は心の中で歓喜して、掛け布団から頭を出した。

(あー、いつものよう分からん気配も遠のいて行っきょるし、安心して寝られるわ……)

 枕を頭の下に敷くと固く目を閉じて力を抜く。静かに呼吸を繰り返している内に意識が遠退いて行った。

 その頃、二体は悠次のいる部屋の前で立ち止まり、障子に顔を突っ込んで悠次の様子を見ている。

「珍しく読書をしておるな」

「先程通り過ぎた時も読んでおったが、何を読んでおるのやら?」

「前に明良が読んでおった本の表紙に似ておらぬか?」

「あれは漢字が難しくて悠次には読めまいて」

 そう言いながらも気になったニムは悠次の傍へ行った。腰を屈めて本の表紙を見ると戻った。

「明良が読んでおった本であったわ。表紙を憶えておったのであるな」

「緑の表紙であったから、そうであろうなと思うただけよ」

 ニムが廊下に出ると、ハソも顔を引っ込めて居間へと進み出した。

「あの子等には役に立たぬ本であるのにな」

 ニムが力なく言うと、ハソが頷いた。

「そもそもあれは透虫等との接触が大前提で、分離型の為の物なのであろう?」

「それはそうなのであるが、<精霊は存在する>という表題の本であったわ。今見て表題を知ったのであるが、これで釣られた子がどれ程おるのか……」

「結局最後まで読んだのであろう?」

「読んであるが、あのような本が未だに存在しておるのが不思議で仕方のうてな。割と古い本よ」

「そうなか。古いのであれば、透虫等と仲の良かった子が多かった頃であろうから、それで良かったのであろうな」

 居間に入って行くと玲太郎の傍へ向かう。少し離れていた程度だったのに、水伯が玲太郎に乳を飲ませていた。

「抱く機会がのうて、見ていても退屈よな」

 ハソが玲太郎の傍まで行くとそう言った。玲太郎を凝視しているニムが表情を硬くした。

「わしが印四つで観察をしておったのに、五つになっておるではないか。ヌトの奴め、いつの間に……」

「あのような事を言うておきながら入れるとはな」

 ハソはそう言うと苦笑した。ニムは西の壁に視線を遣る。

「まさか明良にも入れておるのではなかろうな」

「それはない。灰色の子には入っておらぬから、言うた通り入れてはおらぬであろう」

「しかし玲太郎には、入れるとも、入れぬとも言うておらぬが」

「如何にも。やはりチムカの魔力に似ておったから入れたのであろうな」

「ふむ……。それにしても四つで様子を見ておった所であるが、これでは一から遣り直しになるな。わしが印を入れるのも先延ばしにするしかあるまい。わしも入れるとして六つになるが、後はケメとシピがどうするかよな。しかし印が八つも入ったらどうなるのか、玲太郎には申し訳ないが、考えるだけでも心が躍るわ。果たしてそのような事になるのかどうか」

 ハソは暫く黙考していると、楽しい想像をして喜んでいたニムが玲太郎を見詰めて真顔になった。

「結果は五つでも何ものうて、肩透かしを食らうとは思うのであるが……」

「漏れる魔力量が増えておる筈であるが、それは支障ないのか?」

 心配槽にハソが訊いた。ニムはハソに顔を向けると、遅れて視線を送った。

「わしが見た時は既に四つであったがその時点ではどうという事はのうて、そう心配せずともよいのでは、と思うがどうであろうか。これもまた様子見よ」

 そう言うと浮いている椀に入った乳の臭いを嗅ぐ。ハソはそれを横目で見た。

「その乳、颯が甘い、甘い、と言うておる乳であろう?」

「味を見たい所よな」

「わし等には出来ぬ芸当であるがな」

「それは仕方があるまいて」

 口に出来ない寂しさから、表情も寂しくなっていたニムは作り笑いをした。それを見たハソは表情を変えずに、乳を必死で飲んでいる玲太郎に視線を遣った。

「ヌトはまた来ると言うておったが、来ると思うか?」

「出し抜けにどうした?」

「印を入れたという事は、ヌトが玲太郎に興味を持ったのであろう? 言うた通りに来るのであろうかと思うてな」

 ハソはそう言うと玲太郎からニムに視線を移した。

「来るのであろうな。嫌であるが」

「嫌か」

 真顔のニムは大きく頷いた。

「ヌトは間違っておっても自分が正しいと思えばそれを貫くからな。厄介よ」

「そう言えば下らない事であったが、それでシピと大喧嘩をしておったな。シピがあの大陸にうみを拵えたのは良う憶えておるわ」

 懐かしさに表情を穏やかにするハソが話すと、ニムは表情を明るくした。

「懐かしいな。土地を削って大きな山も拵えておったな。元々あった山が高くなったのであったか? 兎も角、わしはヌトの傍におったのであるが、辺り一面が水になってな、ヌトが水を蒸発させておった辺りだけ土地が残って島が出来たのよ。それにしてもあの水量は仰天物であったよな」

「わしは上空に飛んで行ったシピを心配して跡を追ったのであるが、突如足下一面が水になりおって閉口したわ。あれで最大ではないと言うておったからな、わしは本気で術を使う事はすまいと思うた次第よ」

 それを聞いたニムは顔をハソに寄せる。

「シピの傍におったのか。あの水は海水であったのか?」

「いや、あれは術で出しただけの只の水よ」

「そうなのであるか」

 何度か軽く頷いて、玲太郎へと視線を向けた。

「あの頃は喧嘩する度に地形が変わっておったな」

「如何にも。わしは変えた事はないのであるがな」

「シピとノユとヌトが主に変えておったな」

 二体は鼻で笑うと暫く沈黙が流れていたが、水伯が玲太郎に乳を飲ませ終えてゲップをさせている様子を間近で見ていた。そして水伯は使っていた物を全て消した。水伯がこの魔術を使うと、二体は必ず目を剥いた。ハソは腕を組んでニムに視線を遣る。

「毎度思うのであるが、これはわし等には使えぬ術よな」

「使おうとも思わぬからな。遣ろうと思えば出来るのではなかろうか」

「無から生み出しておるのか?」

「在る物を瞬間的に持って来ておると思うのであるが」

「ああ、そういう事か。物に宿る魔力が灰色の子の魔力を帯びておる時と、全く帯びておらぬ時があるから、両方なのやも知れぬな」

「成程。其処まで見ておらなんだわ。ハソは魔力に疎いと思うておったのであるが、そういう所は見ておるのよな」

偶々たまたまであるがな」

 視線を玲太郎に移したハソは、産着を指で差した。

「玲太郎の着ておるこれよ。灰色の子の魔力を帯びておる。これも、これも、あれも」

 おしめの側や布団、壁際に置かれてある箱の中にあるおしめ用の布も指で差した。それらを見て回ったニムはハソの傍に戻り、感心したような表情を見せた。

「濃いが一から拵えておる訳ではないな。……糸や綿わたが既存の物か」

「ニムがそう見立てるのであれば、わしは正解しておったのであるな」

 笑顔を見せてそう言うと、ニムも微かに笑った。

「これらを身に纏っておっても、八千代や悠次に抱かれると泣くのよな」

「それしきの事で誤魔化されぬという事よな」

「如何にも。玲太郎も難儀よな」

 二体は顔を見合わせると苦笑した。そして玲太郎に顔を向けると、水伯の腕の中で機嫌好く「あー」とか「うー」とか言っている。

 ニムは玲太郎の腹の辺りを凝視していた。それを見たハソがニムを見る。

「どうかしたか?」

「五ヶ所から魔力が漏れておるであろう? それを見ておっただけよ」

「何か気になる事でもあったか?」

「それはない。唯見ておっただけよ」

 ニムは玲太郎から視線を外さずに話していた。

「それならば良いのであるが」

 そんな様子のニムを見て、玲太郎に対して些か心配をするハソだった。前代未聞の出来事を目の当たりにしている今、心配するのは当然と言えるだろう。


 それからまた日が経過し、ヌトが宣言通りに朝から遣って来ていた。颯が学校でいない事をよい事にずっと居続けていた。ニムは辟易していたが玲太郎からは決して離れなかった。ヌトはニム同様に玲太郎の傍にいて、少し離れた所にいたハソも些か気疲れをしていた。水伯はヌトの気配があるからか、玲太郎の事をずっと抱いている。玲太郎は機嫌良く「あー」とか「うー」とか「おあー」とか言っている。

 颯が帰って来て水伯に少し顔を見せた後、昼寝をしに行ってしまうと戻ってくる事はなかった。印が入っているとは言え、まだヌトの気配が苦手なようだ。その代わり、何故か悠次が良く顔を出しに来た。今も悠次が顔を出しに来ている所に、明良も休憩がてらに遣って来て三人で雑談をしていた。

「今日は玲太郎を抱けぬから、悠次は存分に顔を出して欲しい」

 投げ遣り気味のニムがそう言うと、東側にある襖の前に座っていたハソが大きく頷いた。

「悠次も玲太郎が可愛くて仕方がのうて来ておるようであるものな。抱くと泣くが」

「わしも抱ける物なら、れいたろうを抱いてみたいのであるが」

 無邪気に言うヌトに対して不快な感情をあらわにしているニムが口を開く。

「灰色の子はヌトのその気配を感知しておるから布団に寝かせぬのであろうな」

「あはは。わしの所為にするなよ」

「いや、ヌトの気配があるから抱き続けておると思うぞ。何時もと違うのはヌトがおる事であるからな。従ってそろそろ帰らぬか?」

 ハソもいい加減に疲れているのか、事ある毎にヌトを帰そうとしていた。ニムは何度も何度も頷いた。

「わしはまだおるよ。おりたいのよ。れいたろうの事を見ておりたいし、はやてとも親密になりたいと思うておるのよ」

「颯の所には行くなよ? あの子は引っ込んでから此処に来ぬのであるから、ヌトの気配が余程嫌なのであろうて」

 ニムにそう言われても落ち込む素振りすら見せない。

「わしの気配が嫌という話ではなかろうて。透虫の所為でハソとニムの気配を感知して且つ且つなのであろうな。其処へわしの気配も感知して限界突破してしもうたか。それならば常に此処におって慣れて貰おうではないか」

 そう言いながらニムとハソに笑顔を見せた。

「お主等が可愛がっておるのであるから、わしも可愛がるぞ。れいたろう然り、はやて然り、な」

 ハソは無表情になり、ニムは苦笑した。ヌトはそんな二体に目もくれずに玲太郎を眺めている。

「食肉樹に囲まれるより、れいたろうからチムカの魔力を感じ取る方が、何故なにゆえか知らぬが心地が好いな。これは癖になるわ。覚醒すると魔力の雰囲気が変わる事もあるから、このままかどうかが気掛かりよな」

 玲太郎に好意を抱いている事を口にすると、ニムとハソは無表情で顔を見合わせた。二体はヌトの事は嫌いではないのだが苦手だった。

「ずっとおればれいたろうを抱ける機会が来ようて」

 そう言ってハソを一瞥した。ハソは目が合った瞬間、無表情になってしまった。そして今度はじっくりとハソを見詰めて悪戯っぽく笑う。

「子等に近付きすぎて醜い部分を沢山見て厭世えんせいして幽せいする破目になったハソが! 永い事離れておった俗世に舞い戻って張り付いておるのよ? 興味が湧いて当然であろうが。是非この胸にれいたろうを抱いてみたい所よな」

「只の嫌がらせかよ。颯に嫌われる訳よな。ヌトに玲太郎を抱く資格なぞあるかよ」

 呆れ果てた顔でニムが言った。ヌトには全く響いていないようで、満面の笑みを見せる。

「嫌がらせではのうて、只の興味本位よ。それでははやての所にでも行って、わしの気配に慣れて貰うとするか」

「いや、もう帰れ。颯が起きておる時に来て慣れて貰えよ」

 ハソにそう言われると、ヌトは西側の壁を透り抜け掛けていたが動きを止めた。

「ハソまでそう言うのか。わしもずっと此処におるぞ。諦めろよ?」

「ノユに迎えに来て貰うか?」

 意地の悪い事を言い出して些か頭に来たニムが口を挟むと、ヌトは渋い表情になった。

何故なにゆえわしがおったら駄目なのよ?」

「わしと反りが合わぬではないか」

 ハソが言い切ると、ヌトは微笑んだ。

「あはは。それだけで駄目だと言われても帰る気にならぬのであるが」

「ヌトは直ぐにわしをからかって遊ぶではないか。それが不快なのよ」

「この前も今日もからかっておらぬぞ? いや、今日はそうでもないか。それは申し訳ない、と今謝っておこう。それにつけても、わしもお主等と仲良うれいたろうと戯れたいのよ」

 会話を聞いていたニムが鼻を鳴らすと、ヌトはニムを見た。

「ヌトは自分が面白い、楽しいと思う事にしか興味が湧かぬからな、どう言いつくろおうとも只の嫌がらせにしか思えぬが」

「酷いな。わしは何もしておらぬと言うに」

「過去が物語っておるわ」

 ニムにも突き放されてしまったが、それでもヌトには響かないようで微笑みを崩さなかった。それを見たニムは不満を露にした。

「もうよいわ。ノユに迎えに来て貰う。ヌトの面倒はノユに見て貰うのが一番よ」

「仕方があるまい。それならば此度はノユが来るまで此処におるわ。それで構わぬか?」

「構わぬ」

 即答したのはハソだった。ニムは不敵に笑うと口をつぐんだ。その間、二体は水伯達三人の興味の湧かない会話は耳に入れず、玲太郎の「あー」とか「うー」とか「あおー」とか話している言葉に耳を傾けていた。そうするとニムが「よし」と言うと、二体はニムを見た。ニムはヌトを見て笑顔になる。

「直ぐに来ると言うておるから待っておれ」

「ノユは今何処で何をしておるか言うておったか?」

 ハソが訊くとニムは頷いてハソに目を遣る。

ごうにおるから、其処にヌトを連れて行くと言うておったぞ」

「まだ恒におるのか。…という事はズヤも一緒よな」

「ズヤも一緒に来ると言うておったわ」

「何、ズヤも来るのかよ。……ま、よいか。ズヤとは久しくうておらぬからな」

 そう言うと嫌な顔一つせず、気楽な物で鼻歌を歌い出した。遠い遠い遥か昔の記憶を思い起こさせるような鼻歌はハソを陰鬱な気持ちにさせた。その鼻歌も直ぐに止み、三体は水伯と明良と悠次と玲太郎の雑談を黙って聞いている。三人は悠次の体調の話をしていた。玲太郎は水伯に抱かれて機嫌がよいだけだったが、とにかく良く声を発していた。そして近付いてくる二つの気配を、一番初めに感知したのはハソだった。

「来たか」

 そう呟いた時、八千代が居間に遣って来た。

「晩ご飯じょ。颯も呼んで来てくれるで?」

「うん、呼んで来るよ」

 明良が返事をして真っ先に立ち上がった。悠次と水伯も立ち上がると、三人とも出て行ってしまった。

「玲太郎も連れて行ってしもうたが……」

 折角の好機だったのだがそれも失われてしまい、ニムは残念そうにしている。ハソは三人を目で追っていた。

「ノユとズヤの気配がしたから連れて行ったのであろうて」

 そう言って、飽くまでも自分の所為ではないと言いたそうなヌトも三人を見送っていた。そうすると天井から足が降って来た。身丈が大き過ぎて部屋に入り切らない。ノユとズヤが身丈を縮めて顔を見せると、皆笑顔になった。二体共、他の三体に合わせて三尺に身丈を縮める。

「こう遣って集まるのも久しいな」

 開口一番にそう言ったのはノユだった。ズヤが苦笑しながら三体を見た。

「わしまで来てしもうて済まぬな」

「いや、気にするな。久し振りに会えて嬉しいぞ」

 ニムが笑顔で言うとズヤとノユを見た。ズヤは頷き、ノユもまた頷いた。

「所で何故なにゆえお主等が揃っておるのよ? 玲太郎がどうかしたのか?」

 ズヤが心配そうに訊くと、ヌトが笑顔を見せる。

「れいたろうはどうもしないのよ。単に揃っただけよな」

「わしは来てからずっと玲太郎を観察しておったのよ。印がこのように沢山入っておるのが珍しいのであるか…」

「そうしたらヌトが遣って来て、何時ものように引っ掻き回そうとするから、遣られる前にノユを呼んだのよ。済まぬ」

 ニムが言っている途中に割って入ったハソが謝罪した。ノユが苦笑してヌトを見る。

「ヌトはどうしてそういう事をするのよ? 大人しくしておれよ」

「わしはまだ何もしておらぬよ」

「普段から真面目にしておらぬから、こういう事になるのではないのか?」

 ノユが真顔で言っているが、ヌトは笑っている。

「嫌がる相手に執拗にしておったら、相手にされぬようになるぞ」

「相手にして呉れるノユがおるから平気ぞ。何時も有難う」

 言いながらノユに抱き着いて行くと、ノユは大きな溜息を吐いた。いつもの光景を見てズヤが笑っている。

「さてさて、気を取り直して、わしは一目玲太郎を見てから帰るとしようではないか」

「あれから然程日は経っておらぬからな、そう大きくはなっておるまい?」

 ヌトに絡まれているノユに続いてズヤが言うと、ハソが頷いた。

「毎日見ておるから大きゅうなったかどうかは判らぬが、元気は元気ぞ。相変わらずあの三人しか受け入れておらぬがな」

「わしも抱いたが泣かなんだぞ」

 ニムがしたり顔で言うとズヤとノユがそちらを見た。

「抱いたのか?」

「わしも抱いたが泣かなんだな」

 ズヤの問いにハソが答える。

「お主等は何を遣っておるのよ?」

 ズヤが呆れて訊いた。ニムとハソは顔を合わせるとズヤを見た。

「観察に決まっておろうが」

 先に答えたのはニムだった。ハソはニムを一瞥してから口を開いた。

「わしは透虫等に従って此処におるのよ」

 それを聞いてズヤが失笑した。口元を隠しながら笑ってしまうと一息吐いた。

「済まぬ。つい、な。ハソはまことに透虫が好きよな」

 ヌト以外がズヤを見ている。

「ハソは幽棲する以前から透虫に傾倒しておったが、幽棲してから輪を掛けてひどうなってしもうたから致し方あるまい」

 ノユは理解を示すと、ニムが頷いてノユを見る。

「透虫は透虫で面白い生き物であるからな」

 ヌトがそう言ったニムに視線を移すと、ニムはそれに気付いたが見向きもせずに続ける。

「透虫と深く接しておらねば理解し得ぬ感覚もあるのよ」

「如何にも」

 ヌトが気の抜けた笑顔を見せる。

「何やら小難しい事になっておるのであるな」

 ノユに甘え、肩に手を回してもたれ掛かっていた。そんなヌトの頭を支えるように手で押しているノユが真顔になる。

「わしも透虫に接しようとしたのであるが、存外と難しくて進んでおらぬわ」

「根気良うせねばな」

 透虫の話になると途端に機嫌が良くなったハソはズヤを見た。

「ズヤはどうなのよ? 透虫等に接触しておるのか?」

「わしは日が昇ったら少しの時間だけ遣っておるぞ。進展しておる気はせぬがな」

 そう言って穏やかに笑った。ハソも釣られて笑顔になり、ニムも顔を綻ばせていた。ヌトは透虫の話に興味がないのか、ノユに相手にして貰って喜んでいるようだった。

「それで玲太郎は何時此処に戻るのよ?」

 ノユがヌト以外の顔を見回して言うと、ハソが小首を傾げるだけだった。

「灰色の子が先程ご飯を食べるのに食堂へ連れて行ってしもうたから判らぬな。今暫く待つか、食堂へ行くしかあるまいて」

「そうなのであるか。それでは食堂へ見に行くとしよう」

 ノユがニムを見て微笑むと、ヌトも笑顔になってノユから離れるとノユの手を引っ張り、率先して食堂へ案内する。それにズヤも付いて行く。ニムとハソは居間に残って顔を見合わせた。

「ノユとズヤがおるから颯は今頃戦々恐々としておるのであろうな」

「如何にも。知らぬ気配が二つも増えて、震えずとも食が進まぬやも知れぬな」

 二体は心配しているようでいて、実の所はこの状況を楽しんでいるのか、笑顔を見せ合っていた。

「灰色の子もこれだけ集まっておるからか、玲太郎を抱いたままよな」

 ニムはハソの言う事に何度か軽く頷く。

「ヌトの気配を感知しておった時点で何時もとちごうておったな。何故なにゆえヌトだと駄目なのであろうか」

「ヌト自身が言うておったが、灰色の子とヌトの接触は此度が初めてではあるが、気を許せぬ気配でもするのであろうな。ズヤとノユに関しては此度で二度目であるからまだ知った気配であろうが、こうも数が揃えば身構えてしまうのであろうな」

「ふむ……。玲太郎に入っておる印の気配と一致する筈なのであるがな」

 そう言ったニムは「うーむ」と沈思した。ハソも小難しい表情をして口を開く。

「逆にそれで余計警戒しておるのやも知れぬな。若しくは印の気配を感知しておらぬか。……それは考え辛いか」

「印が入ると魔力が漏れるから、それで良うない事と思うておるのやも知れぬ……。魔力が漏れておっても、どうという事はないのであるが、はて、どうなる事か……」

いずれにしてもヌトの気配が受け入れられておらぬのであろうな」

「そうなるな」

「こうして思案しておっても答えは出まいな」

 ニムは大きく頷いてそれを返事とすると、ハソは苦笑した。ニムが何かを思い付いたのか頬が緩む。

「しかしヌトはノユが来ると甘えん坊になるな」

「如何にも。幼い頃よりべったりであったものな」

 二体が笑い合っていると、ズヤが戻って来た。

「仲がよいな」

 そう声を掛けると、二体はズヤに笑顔を見せる。ズヤも釣られて笑顔になったがそれも数秒で真顔になった。

「此処に来たら皆玲太郎に印を入れておるのに、ニムはまだ入れておらぬのであるな」

「今まで四つも五つもが入る事がなかったから観察をしておるのよ。一つ同様、四つも五つも変わりないようではあるがな。もう暫く五つで様子を見たいと思うておる。…とは言うても玲太郎が覚醒しておらぬからな、比較の仕様がないのであるが」

「そう言われればそうよな。覚醒しておる子にしか入れた事がないわ」

「如何にも。魔力が普通の子等より多いとか濃いとか、そういう理由で入れておった気がするわ。玲太郎の場合はレウが既に入れておったのが一番の理由になるな」

 ハソが自分の言った事に何度か頷く。

「わしもそれよ。レウに追随しただけで考えなしに入れてしもうたわ。ノユは場の雰囲気に流されただけのような気はするがな」

 ズヤがハソを見て顔を合わせると笑い合った。そしてズヤがまた真顔になる。

「しかしあの髪が茶色の子、名は何と言うたか忘れたが、わし等が食堂へ行ったら落ち着きがのうなって挙動がおかしかったぞ。あのような子であったか?」

「ああ、颯な」

 ニムはそう言うとハソを見る。二体は目を合わせて苦笑してからズヤに目を遣った。

「颯はな、透虫と接触しておって気配を感知出来るようになっておるのよ」

「颯が望んで遣った事で、透虫等が悪いのではないのよ」

 ニムが先に言うと、ハソが付け足す。

「それでか。透虫が絡むと気配感知も幅が広がるからな」

 ズヤは納得すると透虫を庇っているハソに目を遣った。

「これはお主等が印を入れておる事と繋がる事なのか?」

「如何にも。望んで透虫等と接触をした割に、わし等の気配を受け入れられずにおるのよ。敵とも味方とも判別が付かぬから仕方がなかろうが、わし等はわし等で玲太郎の観察をしたいから此処におりたい訳よ。それでわし等の気配に慣れ易いように印を入れておるのであるがな」

 困ったような表情をズヤに見せるハソは自分の言った事にまた頷いた。

「結構慣れてはおっても、日増しに気配に敏感になりおるからわし等が動くだけでも反応してな、難儀な事になっておるのよ」

「成程な。それでノユとわしがおるから余計おかしな事になっておるのか」

「ヌトが来た時なぞ、布団に包まっておったぞ。今もヌトの気配には慣れておらぬな。慣れる程おらぬというのもあるのであろうが、印を入れておっても避けておるわ」

 それを聞いたズヤは笑った。言ったニムは真剣な面持ちになる。

「笑う所ではのうてな……。兎に角、それもあって此処からヌトを離したいのよ、なるべく早くにな」

「ははは。いやいや、これは笑うしかなかろうて。ヌトの気配はわし等の中でも独特であるから仕方があるまいに」

「如何にも。柔らかさが皆無よな。……そうであるか、灰色の子も同様に感じておるのやも知れぬな」

「そうやも知れぬな」

 ニムが大きく頷いた。ズヤは少し悲しそうな表情を浮かべた。

「兎にも角にも、ヌトは浮いた所もあるが、其処は大目に見て、いつも通り軽く流して相手をして遣って呉れぬか」

 ニムは眉を寄せて小さく頷いた。

「解っておるわ。しかし此度は颯の事があるのでな」

 ズヤが目を剥くとニムを凝視した。

「ニムが子に入れ込む事なぞ、今までにあったであろうか」

「あってあってよ。観察対象は大切にせねばなるまいよ」

 それに反応したのはハソだった。些か目を剥いて口を開く。

「颯も観察対象になっておったのか?」

「透虫に接触しておるであろう? 新たな事象が目撃出来るやも知れぬではないか。既に気配感知に関しては目をみはる程の感度の上がり具合であるからな」

 ニムは腕を組んで俯いてしまうと暫く黙った。他の二体はニムを見詰めている。

「確かにあの敏感さは異常よな。幼さが原因であろうか」

 ハソが何気なく言っても、ニムは黙っていた。

「観察対象の中に敏感な子もおったが年齢は関係ないと思うぞ。やはり性格よな」

 漸く口にしたと思ったらその程度の事で二体は拍子抜けした。

「颯は明朗快活で真っ直ぐな子であるが、臆病でもあるのやも知れぬな」

「臆病でも日々感じておれば慣れるであろうて。印も入れておるしな」

 ハソがそう言って納得した。ズヤが俄に目を輝かせた。

「それならばわしも手伝おうか? ヌトのあの様子ではまた来るであろうから、わしもその時一緒に来ようと思うのであるが」

「遠慮しておくぞ」

「如何にも。来ずともよいぞ」

 二体が即座に拒否した。

「わし等に慣れておるのならば何も言わぬが、まだ慣れ切っておらぬ所に新しい気配が続々と現れては、颯も極限状態を超えてしもうて、どうなる事やら……」

 ハソが言うと、ニムが何かに気付いた。

「ズヤとノユが来てから颯の様子を見ておらぬな。見に行ってみるか?」

「先程も落ち着きがのうて挙動がおかしいと言うたではないか」

「百聞は一見に如かず、よ。それに観察は我が目で見てこそ」

 ニムが先に居間を出て行くとハソも続き、ズヤは東側の壁際へ行くと胡坐を掻き、腕を組んだ。暫くすると四体が続々と戻って来てズヤの傍まで遣って来た。

「はやての様子はどうであった?」

 ズヤがニムに向けて訊くと、ニムも腰を下ろした。

「冷や汗を掻いておるわ、震えておるわ、不安がっておるわと、哀れで忍びないわ。済まぬが皆帰って呉れぬか」

 低い位置からそれぞれの顔を見回した。ノユは頷く。

「わしは玲太郎の顔を見たし、もう行くぞ。ズヤも行くよな?」

「無論行くぞ。その前に次の時の為にはやてに印を入れておこうと思うのであるが……」

「気持ちだけ有難く頂こう。ヌトの印で且つ且つの筈であるから遠慮して呉れ」

 ニムは即座に制止した。ズヤは苦笑して頷くと立ち上がる。

「それではノユ、ヌト、行くとするか。ハソ、ニム、また会おう。ではな」

 そう言って一気に上昇した。ノユは軽く挙手をしてズヤに追従すると消えた。何故か残っているヌトが薄ら笑いを浮かべている。

「わしはまた来るよ、近い内にな。正直、恒には興味がないのでな。ではまたな」

 ニムを一瞥して、ハソには笑顔を見せてから消えて行った。残された二体は微妙な面持ちで見合うと暫く黙った。それから気の抜けた表情になったハソが溜息を吐く。

「これで颯が増しになって呉れておればよいのであるがな」

 そう言うとニムの隣に行き、腰を下ろした。それを横目に見たニムは頬杖を突く。

「増しになる所か、気が抜けて安心しきりであろうな」

「いや、疲労困ぱいやも知れぬな」

「有り得る」

 どちらも、見に行こうとは言い出せず、唯そこに座っているだけだった。


 食事を終えて一番に居間へ遣って来たのは水伯だった。水伯は来るなり玲太郎を布団に寝かせた。それを見て二体は顔を合わせた。

「誰の気配が消えたから布団に置いた、というのが判らぬのが歯痒いな」

「白々しいぞ。答えはヌトよ。前に来た時もそうであったからな」

 ハソも気が抜けたのか、締まりのない語気だった。笑顔を見せながらニムが言う。

「灰色の子はヌトの気配に何を感じて警戒していたのであろうか」

「それは判らぬがわし等と似たような物ではなかろうか」

 そう言うとどちらも暫く黙った。玲太郎の発する声が段々と小さくなって行く。ニムの表情が少し明るくなると口を開く。

「レウと灰色の子は近所に住んでおるからな、ヌトがレウの所へ通っていたのであれば近くを通っておった可能性はあるな。……それで擦れ違った事があって知っている気配に警戒した、とか?」

 少し間を置いてハソがニムに目を遣る。

「ヌトがレウの所へ行くと思うか? わしは行かないと思うがな。そもそも前にヌト自身が、灰色の子に初めてうたというような事を言うておっただろうが。しかも、興味が湧かぬとも言うておったぞ。わしはヌトらしいなと思うて憶えておったのであるがな」

 ハソにそう言われて「ふむ」と返事をすると、また少し黙考し、渋い表情になった。

「それにしてもヌトに対する警戒振りと言ったらなかったな」

「如何にも。一体どういった形でヌトの気配を感知しておるのか知りたい所よな……。わしには昔から馴染みのある柔らかさを全く持ち合わせぬヌトの気配であるとしか思えぬからな」

「柔らかさを全く持ち合わせぬ、か……。刺々しく感じておるのであろうか」

「灰色の子に問いたいよな。……それにつけても、ニムはヌトの気配をどう感じておるのよ?」

「そうよな、ヌトにだけは暗かいうつ々としておる感じであろうか」

「暗晦で鬱々と来たか……」

 ヌトの気配の議論はまだ続き、無意味にも弾んでしまう程に暇を持て余していた二体だった。日が沈んで外が暗くなっても、水伯が玲太郎の傍から片時も離れる事はなく、二体に隙を与えずに時間が過ぎていった。こういう時間が増えるという事実が二体を憂鬱にさせた。それでも二体もまた玲太郎の傍からは離れなかった。


 あれから然程間を置かず、水伯がいなくても颯のいる日を選んだかのようにヌトが遣って来た。それも夜明けと共に。ハソとニムは早朝から精神的に草臥くたびれた雑巾のようになっていた。

「恒は詰まらぬ。ノユがおるからと行ってみたが二度と行かぬわ」

 怒りに任せて何度も吐き捨てるように言っていた。これは「ノユが恒におる限り、迎えに来て貰っても一緒には行かない」、「ここに居着く」と暗に言っているようで二体の心中は戦りつしていた。悲しい事にこの近距離内で念話を使うと、近くにいるだけで念話に加わっているも同然になる為、ハソとニムは念話での意思疎通を図れなかったが、それはお互いの顔芸で凌げるからまだ良かった。問題は如何にしてヌトを居着かせずに通わせるか、だったが、そう思っていたのはニムだけで、ハソは来なくなる理由を探っていた。

 颯は早朝からあの恐怖の気配を感じ取り、逆に振り切って興奮状態となっていた。余りのおかしさに明良から勉強は休むように言い付けられ、一人寂しく布団の中にいた。正午に昼食を摂った後、腹ごなしに外へ出ると、ヌトがそれに付いて行ってしまった。残った二体は勉強部屋で玲太郎を眺めていた。

「付いて行って遣るべきであったか?」

 些か心配そうに言うハソにニムは笑顔を見せた。

「ある種の衝撃を与えて緩解かんかいさせるのも一つの手よ」

「そう都合好く行くのであろうか」

「これが暗い時間帯だと恐怖心を煽って逆効果やも知れぬが、まだ日が高いからな。大丈夫ではなかろうかと思うのであるが、……どうなるかはわしにも判らぬ」

「わし等がおっても眠るようになり、動いても起きぬようになり、やはり日日ひにち薬が一番か」

 そう言って鼻で笑うとニムを見る。ニムは良く寝ている玲太郎から視線を外さない。

「ヌトの場合はそうも行かぬのが実情であるがな。どれだけ時間を掛ければ慣れるのか観察したい所よな」

「しかしあの颯の態度を見ておると、ヌトの気配は余程強烈なのよな」

 ハソは心底から感心していた。

「わし等でも独特と感じる程であるからな、子にしてみたら精神に及ぼす影響が尋常ではなかろうて」

 難しい顔をしてニムが言うと、申し訳なさそうな顔をしたハソが口を開いた。

「颯には悪いが、格好の玩具を見付けて楽しんでおるから、わしとしては助かるわ」

「それにつけても、ヌトに玲太郎を抱かせぬようにせねばなるまいよ。そうでなければ居着く確率を上げてしまうぞ」

「ニムとわしが玲太郎の奪い合いをせず、抱きもせず、大人しくしておったら興味が失せ始めるやも知れぬな」

 厳しい表情になったニムは目を横に遣り、どこともなく睨んだ。

「唯でさえ灰色の子が来るようになって玲太郎を抱く機会が減っておるというに……」

 そう言って切歯したが、ハソは穏やかな表情になった。

「ヌトの居着く理由を減らせるのであれば我慢が出来るわ」

「早く帰って貰おう」

「しかし颯には興味がないと言うておった割には追い掛けたな」

「颯の反応が面白いのであろうな。可哀想ではあるが、颯には頑張って貰わねばな」

 力を籠めて言った。苦笑するハソは安眠する玲太郎の頬をつつく。それを見て、玲太郎の逆の頬を突いたニムは人差し指に受ける感覚に頬を緩める。ふとある考えがよぎる。

「ああ、そういう事か。居着く積りでおるから、颯に早く自分の気配に慣れて貰おうとしておるのやも知れぬな」

「ヌトにそのような気遣いはなかろうて。わし等が言うておったからその気になったのやも知れぬが、今は面白さが勝っておると思うぞ。ヌトに近寄られるだけで過剰反応が増えたからな。ああして目に見えて大仰に反応されると面白がる奴がヌトよ」

 ハソは玲太郎の頬を突いていた手を止めると、明良の方を見た。

「明良も透虫等と接触しておるが、外におる透虫等への接触は未だにないようであるな」

 突然話題を変えられたニムは思わずハソを見る。

「明良は内に向かっておるからな。お陰で颯のようにわし等の気配に気付かれずに済んでおるが。それにしても明良に触れたら何かしら感じるのであろうか。試したい所よな……」

 そう言ったニムも明良に視線を送った。ハソはニムを見て真顔になる。

「わし等が触れて、明良がどう感じるかは明良に訊かねば判るまいて。わし等は印を入れておるから、嫌な気はせぬのではなかろうか、……と思うがどうか」

 ニムは大きく頷くと朗らかな表情になった。

「印を入れておるし、わしが触れてみて何かを感じたとしても嫌な感覚ではなかろうな、多分……」

 意を決して立ち上がると明良の方へ向かって行った。ハソも明良の反応に興味がありって止めはしなかった。ニムが明良の後ろに立つと、右肩付近に人差し指を当てた。すると明良の体が少し引きった。明良はそれに驚いて辺りを見回した。変わった事はなく、玲太郎も良く眠っている。居直ると本に視線を戻したが眉を寄せていた。ニムはハソを見る。

「少し触れた程度でこの反応ならば、わしに触れられた感覚があるのよな。透虫のお陰か?」

 そう言ってから正面を見ると、次は肩の上に手を置いた。すると先程よりも体が大きく引き攣り、左手で右肩を掴むと振り返った。ニムの手を透過し、明良の手が重なっている。

「以前に明良がわしを透り過ぎた時に温かい物を感じた事を思い出すな。こうしておるとより温かさを感じるが、玲太郎から得られる感覚とは全く違うな」

 明良の険しい表情を見ながらニムが言うと、ハソは玲太郎の頬を突き出した。

「玲太郎は別格よ。比べるでないわ」

 ニムは頷くと手を下ろして明良から少し離れ、更に明良の様子を見続ける。明良は険しい表情をしたまま、まだ肩を掴んでいる。暫く動かず、目だけを動かして辺りを窺っていた。

「接触には敏感に反応しておったが、やはり外の気配には鈍いな。これが颯ならば触れる直前に飛び跳ねそうな物であるが」

 そう言うと玲太郎の下に戻り、明良に背を向けて胡坐を掻いた。

「明良の内は穏やかになっておったが、顔は難しい顔をしておったな」

「見えない何かが触れておる感覚を初めて味わったのであるから、笑顔でも無表情でもおられまいて。元々表情の乏しい子という事もあるが、感情が表に出る程に心を乱された事は間違いあるまいな」

 ハソがそう言っている間に険しい表情で固まっていた明良は無表情になり、また居直って本に視線を戻していた。

「ニムは印を入れていない子にも触れた事はあるのか?」

「印は入れておらぬが、わしが見えておった子に触れた事はあるな」

 ハソは目を輝かせてニムを見た。

「それで、どのような反応であったのよ?」

「悲鳴を上げられ、振り払われた。その後は逃げられたな」

「触れた感覚はどうであった?」

「玲太郎とは違った衝撃を受けたな。反発し合うような感覚ではなかったであろうか。……ハソは子と慣れうておったではないか。触れた事はないのか?」

「わしは一定の距離を保っておったからな。不思議と触れたいという欲望がなかったのよ」

「そうなのであるか。握手とかして触れうておるのかと思うておったわ」

「ないな」

 きっぱりと言い切るとニムを見る。

「今まで触れた中で、どの子が一番感覚が良かったのよ? 玲太郎以外で」

 ニムはハソを見ると眉を顰めた。

「玲太郎以外であると、そうよな…………」

 そう言って考え込んでしまい、黙ったまま玲太郎の頬を突いていた。

「印を入れずに触ると嫌悪感しかせなんだな。印を入れた子はどの子も明良と同様に徐々に温もりが広がって行く感覚であったと思う。玲太郎から得られる感覚は正に別格で、衝撃が体内を一気に駆け抜けて気分が高揚して行く様は得も言われぬ感覚よな。慣れぬ時は気持ちの悪い物ではあったがな」

 玲太郎の話になると目を輝かせた。ハソはニムを睨む。

「玲太郎以外でと言うたであろうが」

「解っておるのであるが、言うてみたかったのよ」

 ニムは満面の笑みを浮かべた。玲太郎はまだ眠っていて、二体はここぞとばかりに頬を突いていた。明良は掴まれた肩に残った温もりが心地好く、そう感じている自身に激しく嫌悪していた。

(この前は空気が圧縮されているような、妙な圧迫感のある何かを透り過ぎたけど、今日のは気味の悪い体験だったな。それを好ましく思えるのなら、悪い物ではないのだろうか? 水伯は精霊はいると言っていたから、その類なのだろうか。それにしても今日は颯が飛び切り変だし、目に見えない何かがいる事は確実だな。接触して来ようとするのは何か意図があるのかも知れないけど、話せないから理解が出来ない。水伯に相談したい所だけど、見えない物に話が筒抜けになるんだろうな。どこかに消えてくれないだろうか)

 本に目を遣ってはいるが、全く内容が入って来なかった。玲太郎の方を見てみると立ち上がって傍へ寄る。眠っている所を悪いとは思いつつも、玲太郎を抱き上げた。玲太郎は起きる事もなく、眠り続けている。

「これよ、この顔よ」

 明良が来た事で避けていたハソは、明良の崩れた表情を見て何とも言えない表情になる。ハソの隣に立っているニムが少し笑った。

「わしも玲太郎を抱くとそういう顔になっておるような気がするぞ。ハソもそうであると思うが」

 ニムを見上げると慌てた。

「わしがこのような顔をする訳がなかろう。少々微笑んでおるだけよ」

「次はしかと見ておくわ」

 ハソを見て冷笑すると、明良の顔を見た。

「しかしこの顔の破壊力は凄い物があるな。普段との差が激しくて明良とは思えぬわ」

「やはり透虫等の影響があるのやも知れぬな」

「こうなって来るとないとは言い切れぬな」

 二体は引き気味に明良を見詰めている。玲太郎が泣き出すまで明良を見続けていた。両方排泄したようで、明良は玲太郎を連れて居間に移動してからおしめ交換の準備に取り掛かった。勿論、二体共居間に移動し、ヌトがいない事もあって、どちらが先に抱くかで揉めていたが、悠次が遣って来るとそれも呆気なく終了した。縁側の障子が開いていて、二体は不貞腐れてその近くで横たわった状態で浮いていた。

「悠次も硬化症なのに元気になって来て、不思議な事よな」

「如何にも。睡眠時間もみじこうなり、食欲も湧き、顔色もようなり、不治の病が嘘のようであるな」

「まさか悠次も透虫と接触しておるとか? 透虫が治すという事が有り得るのか?」

 俄に思い付いて言ってみるも、そんな都合の好い事があるのか疑問だった。

「治癒能力はないぞ」

 ニムは即答されて、なくなり掛けていた気力が思った以上になくなった。

「透虫等と仲良うなれれば活力が増すから、治癒力を高める事は出来るやも知れぬな。しかし硬化症を完治させる程かと問われると、否と答えざるを得まいて。透虫等の能力は凄いが其処までではないのよ。寧ろ硬化症が厄介と言うべきか」

 そうハソが言うと、ニムは「ふむ」と頷いて少し黙考してから口を開いた。

「硬化症はわし等が拵えた時の不備がそういう形で出ておるのであろうが、ケメですら治せぬ程の病なのであろうから、透虫の力があったとて子等には到底治せぬか」

「残念ながら如何にも」

 二体は黙って明良と悠次の会話を聞きながら外を眺めていた。曇天が広がって薄暗く、ひと雨来そうな空模様だった。

「雨が降る前に颯が帰って来るとよいのであるが」

 ハソが呟いた。ニムは聞いていたが無言で外に目を遣った。ヌトの気配が全く感じない事から、そこそこ遠く離れている事が解る。帰宅するには時間を要するだろう。明良も気になるのか、外に目を遣る度数がいつもより増えていたが、悠次は至っていつも通りだった。玲太郎を泣かせては手を引き、泣き止んではまた泣かせて手を引き、仲良くなろうと間合いを計るのに必死だった。

「そろそろ止めて」

 明良には毎度そう言われて止められる。

「酷おにはならんけんど、マシにもならんな」

 悠次が寂しそうに言った。明良は玲太郎を抱き上げて、穏やかな表情で見詰めた。そして明良の腕の中で大人しくなった玲太郎の背中を優しく叩き出す。

「その内慣れてくれるよ。……多分」

 悠次は苦笑すると、明良から玲太郎に視線を移した。

「多分か……。ほんな時が来るんだろか」

「来ると信じて毎日遣ったらいいよ。但し、遣り過ぎは駄目」

「うん、分かった」

 返事をすると立ち上がった。明良はそれを見る。

「もう行くのか?」

「うん。さっきまでは調子が良かったんやけんど、ちょっとしんどいって言うか、眠いんかも知れんけん、寝て来るわ。おやすみ」

 そう笑顔で言うと徐に歩き出した。

「お休み」

 悠次の後ろ姿に向かって言い、また外の様子を見た。それから時間を確認すると明良も立ち上がり、勉強部屋へと戻って行く。二体は慌てて付いて言った。


 勉強部屋では縁側の障子が締め切られていて外の様子が窺えなかった。雨音がし出して、雨が降っている事に気付いた明良は颯の心配をしたが、玲太郎の事を思うと迎えに行けない。雨の勢いを確かめる為に障子を開けた。今は小降りではあったが、雨足が強くなりそうな雲行きだった。八千代を探しに台所に行くも姿が見えず、八千代の部屋に行ってみるも姿が見えず、一旦勉強部屋へ戻った。玲太郎が目を覚ましたようで「うー」とか「おあー」とか言っていた。

(濡れて帰って来ても入浴すればいいか。浴槽に湯を張っておこう。早過ぎても湯が冷めるし、帰って来てからでいいだろうか?)

 思案をしながら玲太郎の傍に座って抱き上げた。玲太郎は「んっ」と言ったっ切り黙った。

「寝ていたんじゃないの? 目が覚めちゃった?」

 優しく声を掛ける。玲太郎は真っ直ぐ明良の目を見ていた。

「颯が外にいるのに雨が降って来たから濡れて帰って来るんだよ。風呂の準備をしておいてあげたいんだけど、帰って来てから湯を張ってもよいと思う?」

 玲太郎に質問してみても何も答えず、明良の目を見詰めている。

「玲太郎は僕が抱っこをすると黙っちゃうよね? どうしてなの?」

 明良は寂しそうに笑った。玲太郎は黙ったまま、瞼が重くなり始めたのか、瞬きの度数が増え出す。

「何やら悲しいな……」

「如何にも……」

 二体はその様子を見ていて居た堪れなくなったのか、縁側の方へ行った。

「しかし明良が抱くと良う眠るよな」

「如何にも。眠くなるような何かがあるのであろうか。それにしてもこの雨は止まぬな」

「颯が心配よな」

「本降りになる前に帰って来ようて」

 その予想を裏切り、颯が帰って来たのは夕食前の事だった。本降りになって数時間は経過していたのにも拘らず、一切濡れていなかった。心配していた明良が問い詰めると、颯は気の抜けた表情を崩さずにいた。

「山羊小屋にいて、そのまま寝ていた」

 苦しい言い訳をしていたが、そう言い続けていた。明良も諦め、食事前に入浴するように勧めると、颯は頷いて替えの服を取りに行った。ハソとニムもヌトに颯が濡れていない事を問い詰めていた。

「秘密。悪い事はしておらぬから安心してよいぞ」

 微笑んでそれ以上は何も言わなかった。興奮状態に振り切っていた颯が気力を削がれて帰って来た事が気になったが、何を言ってもヌトは唯微笑むだけで、訊くだけ無駄だった。

 颯は風呂から上がると勉強部屋に遣って来て玲太郎の傍に座った。本に向かっている明良の方を見て、意を決したように真剣な面持ちになる。

「兄ちゃん」

 そう呼ぶと、少し間を置いて明良が颯の方に向いた。

「どうして濡れてなかったのか言う気になったのか?」

「ほうではないんやけんど……」

 少し言い淀む。

「では何?」

 表情はなかったが、口調は優しかった。

「オレな、家族や水伯以外の気配をずうっと感じとんよ」

 突然の告白に驚いたのはハソとニムだった。

「わし等の存在を暴露する気かよ。見えぬからよいが……。よいのか?」

「気配の話なら好きなだけして欲しい。明良もこれで外に向くようになるやも知れぬしな」

 焦るニムに対し、ハソは歓迎していた。ヌトは相変わらず微笑んでいる。

「信じられへんと思うんやけんど、さっきもずうっと気配が一つ、付いて来とったんよ」

 明良は体を颯の方に向けて居直った。

「気配はその一つだけ?」

「ううん、ここ最近ずうっと感じとったんは二つ。さっき言うた一つはおったり、おらんかったりよ。ほんでこの前は、知らんのんが二つ来とった。ほなけん、全部で五つな」

「五つね……」

 明良は颯の言う事を真剣に聞いた。

「うん。三つは常にここにおるんやって」

 それを聞いてハソとニムが微笑んでいるヌトを見た。

「颯と話をしたのかよ?」

 先に言ったのはニムだった。ヌトは横目でニムを見ると更に口角を上げた。

「それよりも、三つは常に此処おるんやって、……って事は、ヌトも此処に居着くのかよ」

 ハソが眉を寄せて言うと、ヌトは満面の笑みを浮かべた。二体は言葉を失った。

「ほなけん、気配がしても気にするなっちゅわれたんよ……」

 言い終わると気の抜けた表情に戻った。

「オレはオレが信じられへんのんやけんど……」

 両手を畳に突いて項垂れると、明良は些か難しい表情になった。

「その話をした相手は正体を明かした?」

「しょうたいをあかすって何?」

 顔を上げて明良を見た。

「自分が何者であるか、話してくれた?」

 首を横に振る。

「ほんな話はしとれへん。気配から逃げようと思て走っとったら突然話しかけられて、逃げてもむだであるからかんねんしなさいって。ほんで、気配が三つ常にあるから慣れずとも気にせぬようにって言われたんよ。最初はオレの気が変になったんかと思たんやけんど、ほうではなかった……」

「話し掛けられた声はどこから聞こえたの?」

「声は頭の中にひびいて来て、ほんでオレは普通に口から話っしょった」

「今も気配は三つある?」

「うん、ごっつい近くにおるわ。ここと、ここと、ここな」

 三体のいる所を指で差しながら言うと、明良は左腕を文机に置いて体勢を崩した。

「解った。颯の言う事は信じるよ」

 そう言われて颯は安心したのか、笑みを零した。

「颯がいない間に、僕にも接触して来たからね」

 ヌトが横目でニムとハソを見た。

「これはこれは……、お主等もそのようなお楽しみを遣っておったのか。わしのおる所で遣って欲しかったわ」

やかましい」

 ニムが無表情で言った。颯は唖然として明良を見ていた。

「僕は颯みたいに気配を感じられないけど、触られた事で何かがいる事は感じ取れてて、何かいるなとは思ってたんだよ」

「さわられたん? え? マジで?」

「真面目も真面目、大真面目よ」

「どんな感じだったん?」

 そう訊かれて、その時の事を鮮明に思い出そうとした。

「ぞわっとした?」

「ぞわっとはしてないな。びくっとはなった。それと、じわじわと温もりが体内に広がっていった感じだね。触られた後も暫くはその感覚が残ってて心底気持ちが悪かった」

 颯はそれを想像して顔を顰めた。ヌトはそれを聞いて笑っている。

「オレはずっとそばにおられただけじゃ。さわられんかったけん良かったわ」

 そう言うと何かに気付いた。

「ばあちゃんが来る。ご飯やな」

 立ち上がって障子を開けに行った。するとその音を聞いて八千代が部屋に来る手前で立ち止まる。

「ご飯な」

 顔だけ出している颯にそう言ってきびすを返した。

「分かった。今行く」

 振り返ると、明良が玲太郎の傍まで来ていた。

「僕は今日から居間でご飯を食べる事にする」

 そう言いながら玲太郎を抱き上げる。

「ほんま。ほなオレも居間で一緒に食べるわ」

 先に部屋を出て行くと小走りで食堂へ向かった。明良は徐に歩を進めた。


 三体は三人が行ってしまい、少し遅れて移動を開始した。

「わしが颯と話しておる間に、お主等も明良と接触しておるとはな。抜け駆けしておるようで申し訳なさがあったのであるが、それも消え失せたわ」

「それは済まなんだ。それにしても颯と話をした事は英断であると思うぞ。そうでもしない事にはヌトの気配に慣れる事なぞ、なかろうからな」

「わしの気配は毒であるからな。致し方あるまい」

 そう言ってニムに微笑んだ。嫌味が通用せずにニムは些か悔しそうだった。

「それにつけても、どちらが明良に触れたのよ? 気持ちが悪いと言われておったが、何をどうすればそのような感想になるのであろうな」

 ヌトが涼し気な表情で言うと、ニムが仏頂面になる。

「わしよ。明良に印を入れておるからな、触れるとどのような感覚が得られるのかが知りたかったのよ。慣れぬ感覚が体内に広がって気持ちが悪かったのであろうな。定期的に続けてわしに触れられる事に慣れて貰う積りでおるのであるがな」

「わしもそれに参加したいな」

 ヌトが透かさず言うと、ニムは出掛かった言葉を飲み込んだ。ハソがヌトを見る。

「明良にも印を入れると言うのか?」

 ヌトもハソを見て笑顔になる。

「入れるぞ。わしの気配は特殊なようであるから明良がどう反応するのか、些か見たい所よな。それに透虫という生き物を少し知りたくなってな」

 ハソが一瞬だが僅かに目を剥いた。

「ヌトが透虫等に接触が出来るのか?」

「ハソの所に行く度に透虫の事を言われても興味が湧かなんだのであるが、颯を見ておったら、な。遣って遣れぬ事はなかろうて」

 いつしか動きが止まって、玄関が見える所で話し込んでいた。颯が盆を持って居間と食堂を往復している。

「それで、颯と何を話したのよ?」

 ハソは訊くだけ訊いてみた。ヌトは微笑むと答えずに居間に入って行ってしまった。残された二体は顔を見合わせる。

「ヌトは居着くようであるから腹を括らねばならぬな」

「如何にも。あの不快な物言いがなくなればよいのであるがな。それに透虫等にも興味を持つなぞ……、今までになかった事よな」

「今更と言う気はしないでもないが、よい機会なのやも知れぬな。それにしても玲太郎を抱く事は諦めるしかあるまい……」

 そう言ってニムも居間へと入って行った。ハソは無言でそれに付いて行く。居間に入ってみるとヌトが玲太郎の傍で座っていて、ニムがヌトの隣に座った。ハソは自分まで玲太郎の傍に行くとヌトが喜びそうな気がして東側の壁際へ行って座った。ヌトはそれに気付き、ハソを一瞥した。明良と颯は静かに食事を進め、玲太郎は静かに眠っている。笑顔で玲太郎の寝顔を見詰めているヌトをニムが見ていた。

「視線が刺さるな」

 そう言ってニムを見た。

「何か言いたい事でもあるのか?」

「いや、何時もの不気味な微笑みではのうて、楽し気に笑っておるなと思うてな」

「そうであろうか?」

 ヌトは首を傾げると視線を玲太郎に戻した。ニムも玲太郎に視線を遣る。

「それで颯と何を話したのよ?」

「ニムも気になるのか? 大した事は話しておらぬわ。颯が言うておった通りよ」

「では何故なにゆえ颯は濡れずにおれたのよ?」

「わしが術を使える存在である事を明示せねばならなんだのでな、濡れぬようにしたまでよ。あれで颯もわしの言う事を信用して呉れたようでな」

「ふむ……。其処まで颯に入れ込む気になったのは何故なにゆえよ?」

「何、少々遣り過ぎて颯が哀れに思えてしもうたのもあるが、颯はお主等と違って真っ直ぐであるからな」

「確かに颯は真っ直ぐよな。素直で可愛いわ」

 ニムはヌトの言う事に同意をすると大きく頷いた。少し離れた所から眺めていたハソは、明良からヌトの気配を感じた。いつの間にやら印を入れていたようだ。その行動の速さに驚いた。

「ヌトは印を入れる事に抵抗がないのよな」

 声がする方に向くとハソと目が合い、満面の笑みを湛えた。

「ハソが透虫の可能性を見出そうとしておるように、印の可能性を見出そうとしておった時期があったのよ」

 その言に興味を持ったのはニムだった。

「印は入れらた者と念話が出来るようになったり、入れた者の気配を感知すると精神状態が穏やかになったり、印を入れると入れた者の気配に馴染み易くなったり、印を起点に体内の状態を調べたり、位置の把握をしたりする以外に何かあるのか?」

 ヌトはニムを見ると苦笑してから、玲太郎へと顔を向けた。

「はて、わしの知る印の性能とは違うような……。念話は出来る。精神状態なぞ調べた事がない。それに体内を調べる事もしておらぬわ。それから……位置の把握であったか? それは出来るな。わしも一時期は沢山印を入れて調査しておったのであるが倦厭けんえんしてしもうてな、後はノユから聞いた情報しか知らぬから、ニムが流した情報になるのであろうて。…それにつけても、印は誰が初めに拵えて入れたのか知らぬか?」

「ケメよ」

 ハソが即答するとヌトが頷いた。

「そうなのであるか」

 ニムが軽く何度か頷く。

「確かそうであったな。子を拵えた奴もケメが最初であった」

「如何にも。退屈しておったから、わしも真似して拵えた物よな」

「ケメならば訊いても答えては貰えぬな」

 いつもと違って真面目な表情を浮かべているヌトの横顔を、ニムが横目で見ていた。

「それもあってわしも自力で印の性能を調べておったのよ。色々遣ってはみたが成果が今一つでな」

 渋い表情になると玲太郎に視線を移し、穏やかな表情に戻る。

「子は押し並べて命が短いからな、少し調べたら終了よ」

「灰色の子は長生きしておる方ではないのか?」

 そう言ったハソの方を見るとニムは頷いた。

「長い事は長いが、あの子は特殊であるからな」

「そうであったな。明良の時のように触れた事はないのか?」

「ないな。触れようとして触れられる物ではなかったのでな」

「へえ、灰色の子は特殊なのか。印を入れずに接触してみるという事も面白いやも知れぬな」

「灰色の子はヌトの気配に警戒しておるぞ」

 ニムはヌトの方に顔を向けて行った。ヌトもニムを見ると微笑んだ。

「近くに寄っても逃げはせぬから触れる事は出来よう」

「言うておくが、印を入れておってもわしが見えぬ、触れられぬ、術も通じぬ、念話も使えぬぞ。位置の把握が出来る程度よ」

 ヌトはニムの目を見詰めていたが、また玲太郎に目を遣った。

「印を入れておらぬ状態だとどうなるのか、色々と遣ってみるのもまた一興よ」

 ふと何かを思い出したハソが姿勢を正す。

「そう言えばわしも灰色の子に印を入れたのであったわ。わしも何か試してみよう」

 そう言うと二体がハソを見た。ニムは目を剥いている。

「灰色の子がハソに反応するような事があってもよいのか?」

「構わぬ。寧ろ反応が見たい」

「おやおや、これは面白い展開になって来たな。ハソがそのような気になるとはな」

 既に玲太郎に視線を戻していたヌトが言った。

「今日はなんや食べる気いがせんかったんやけんど、今は食べられるわ。お代わりしてくるけんど、兄ちゃんはいるで?」

 明良の向かい側で食べていた颯が言った。明良は颯を見ると茶碗を持った。

「それじゃあもう少し待って。ご飯を食べてしまうから」

「分かった」

 ハソとニムはそれを聞いて安心した。

「わしもヌトのように颯に声を掛けてみようか。そうすればわしにももっと慣れようて」

「ハソとわしの気配にはもう慣れつつあるからそれは不要ぞ。どうせなら明良にせぬか」

 ニムがハソの方に顔を向けて言うと、ハソは無表情のまま口を開いた。

「明良に触れたのはニムではないか。明良にするのであれば、わしよりニムが適任ではないのか?」

「ふむ……。ならばわしは遠慮しておこう。明良にはわしが触れる事で慣れて行って欲しい」

 それを聞いたハソの表情が明るくなる。

「明良はいつも静かに眠り、玲太郎が泣いても喚いても起きぬであろう? 眠っている時に触れるとどうなるのか試してはみぬか?」

「それはわしが遣る!」

 大きな声を出したのはヌトだった。ヌトはハソの方を見ながら続ける。

「わしの気配は特殊であるからな、飛び起きるのではあるまいか」

 とても楽しそうに言った。ハソはその勢いに気圧けおされ、微妙な表情になる。

「颯との接触は上手く行ったようであるが、明良はどうなる事か」

 冷ややかにニムが言うと、明良が空いた茶碗を颯に渡し、颯は自分の分の茶碗と汁椀も盆に載せて居間を出て行った。ハソだけがそれを見ていた。

「どうなるかは遣ってみぬ事にはな」

 そう言って含み笑いをしている。そんなヌトを見てハソが口を開く。

「楽しんでおる所を申し訳ないのであるが……、ヌトは印を入れたばかりで馴染み始めておる、というだけでわし等程には馴染んでおるまい? ヌトが遣るのならば、わしが先に遣って様子を見てみたい。少し前に印を入れたばかりの颯とて、話し掛けられるまではヌトの気配を明らかに避けておったし、明良も先に印を入れておったニムに対して驚いておったしな。触れてみるのはニムとわしに対しての反応を見てからにせぬか?」

 ヌトはハソの目を見詰めて暫く黙っていた。すると颯が戻って来て、先程まで座っていた所へ行く。無言で明良に茶碗を差し出すと、明良は「ありがとう」と言って受け取っていた。それを見てからヌトがまたハソを見て口を開いた。

「そう言われてしもうたら従うしかあるまい? しかしわしの気配をどう感じて、どう反応するのか、早く見てみたい物よな」

 微笑みながら言い終わると玲太郎に目を遣った。代わりにニムがハソに目を遣る。

「そうなると今宵、明良が眠ったら触れてみるのか?」

「如何にも。明良はわしとニムの違いが明確に判るのであろうか」

「わしとハソとは全然気配が違うから、それは判る筈であるがな。わしが触れてみて、あのように引き攣って驚いた子は初めてであるからな。外は鈍感であるが内は敏感なのであろうて」

「正直な所、玲太郎の傍におりたいからこの子等に嫌われたくないのであるがな。そうならぬか、甚だ心配よ」

「嫌われたくないのであれば止めておけ」

 いつになく鋭い目付きになったヌトがハソを見て、間髪を容れずに言った。

「わしは嫌われても平気であるから遣ると言うたのであるが、その覚悟がなければ止めておけ」

 そう言われてハソは怯んだ。その様子を見たニムが頷く。

「そうよな、わしも浅慮であった。止めておく方が賢明よな。わしは気持ちが悪かった、で済んでおるが、眠っておる所に己とは異質な気配が体内に流れ込んで来るのであるから、よい気はせぬであろうて。早く慣れて貰いたいという思いに嘘はなかろうが、それも試しておるという側面が大きいのであるから余計にな」

 そう言われるとハソは俯いて沈思した。ニムもヌトももう玲太郎の事を見ていて、ハソの事など見ていなかった。ハソはその二体をまた眺め始める。俄に立ち上がるとヌトの右前に行き、乱暴に座った。眉を寄せたニムがハソを見る。

「おい、玲太郎が起きてしまうではないか。静かに座らぬか」

「何? 玲太郎はわし等の事を認知出来るというのか?」

 ハソが何も言わない内にヌトが反応した。ニムは無表情になってヌトを見た。

「言うたと思うておったわ。済まぬな」

「まだ赤子であるからな、確定ではないぞ」

 ハソはそう言うと玲太郎の寝顔を見て顔を綻ばせた。

「成程。わしの知らぬ事がまだまだありそうよな。ま、焦らず知って行ければよいわ」

 ニムを見ながら微笑んだ。ニムは気まずさから一瞥をくれた。その時は既に玲太郎へ視線を移していて、それが合う事はなかった。

「灰色の子には興味がなかったのであるが、随所に灰色の子の魔力があるな。玄関には魔除けが施された表札まであって、余程この子等が可愛いのであろうな」

 ヌトを見続けていたニムは視線が合うと頷いた。しかし口を開くのはハソの方が早かった。

「子もまた懐いておるわ。それにつけても、あの表札に魔力が強く籠められておると思うたら魔除けか。それで精霊等がおらぬのであな」

 ハソが言うと二体は失笑した。ヌトが笑いながらハソを見る。

「あはは。言い方が悪かったな、済まぬ。魔除けと言うても精霊には効かぬ。子に効果のある物よ。主に災い除けな」

 笑い終えて一息吐いたニムも笑顔でハソを見る。

「精霊がおらぬのはわし等がおるからだと思うぞ。わし等程の魔力の持ち主が二体でもおれば近付き難かろう。今は三体もおるのであるからな」

「そうなのであるか。わしは魔除けと聞いて、そうと思うたのであるがちごうたのか。これは汗顔の至りよ」

 ハソは片手で両目を覆って言った。

「ハソは魔力の事となると途端に精度が欠けるな」

 そう言うニムを見ると小首を傾げる。

「如何にも。昔はそうでもなかったような気もするのであるが……」

「透虫の存在に気付いてから其方そちらに夢中になっておったからな、魔力なぞ眼中にないと言った感じであったわ」

 ヌトが玲太郎を見ながら言うと思い出し笑いをした。そんなヌトを見てニムが頷いた。

「確かにある時期から透虫に傾倒して、魔力に関してはとんとうとうなったような?」

「何があって透虫等に没入したのか、わしにも判らぬな。透虫等にはそれだけの魅力が確かにあるがな」

 ハソが真剣な表情で言った。ニムはハソの方に顔を向けた。

「わしも印から透虫に気移りしたからな。印は対象の命がみじこうて如何いかんともし難いのがな……」

「その点、透虫等は何処にでもおって、印のように特定の存在の中に入れずともよいからな」

 それから暫く二体の透虫談話が続いた。ヌトは玲太郎を眺めながら聞いていた。明良と颯が食事を終えると、明良が食事の後片付けをし、颯が玲太郎を連れて勉強部屋へと向かった。


 三体は颯の後ろに付いて行く。気配が三つ、後ろに張り付いているように感じる颯は、言われた通りに観念していた。

 玲太郎を寝かせると、そのまま座り込んで玲太郎の寝顔を眺めている。そうしていると明良が茶碗に茶を入れて持って来た。明良は颯の隣に座り、二人の間に盆を置くとまだ熱い茶を啜る。

「三つの気配はここにいるのか?」

 茶碗に手を伸ばしていた颯は手を止めた。

「おるよ。こことこことここ」

 その手で横一列に並んでいるのを示してから茶碗を取ると息を吹き掛けた。そして徐に音を立てて啜る。

「あつっ……。よう分からんけんど玲太郎に用があるんだろな。ずうっと近くにおるじょ」

 また茶に息を吹き掛け始めた。

「颯に話し掛けてきた時、玲太郎に用があるって言ってた?」

「ううん、ほんな話はしとらん。ほなけんど、ずうっと玲太郎に付いとるんよ。ぴったりと。たまに少しはなれるけんどな。あ、全部とちゃうじょ。一つは途中からなんやけんど、これからは当分おるっちょったわ」

「当分、か」

 明良がそう呟くと、真ん中に座っていたニムがヌトを横目で見る。

「当分という事は、近い内に引き上げるのであるな?」

「わしの思う当分が果たしてそのように短い期間であるのかどうか」

 冷ややかに笑って言うと、ニムは視線を颯に向けた。

「わしも颯に話し掛けてみようか」

 ハソが目を剥いてニムの方に顔を向けた。

「颯に何を話す積りぞ?」

「いや、何、ずっと見ていて済まぬ、これからも宜しく、というような、うむ、そういった感じであろうな」

 ハソは開いた口が塞がらなくなった。ヌトは笑いを堪えているが、堪え切れていなかった。

「改まって話す事なぞ今は思い浮かばぬわ」

「ふふっ、颯に難しい事は無理ぞ。明良ならまだ通じると思うがな」

 ヌトが笑いながら言うとニムがまた横眼で見た。

「それはわし等が何者であるかを話せという事なのか? それはせぬ方がよいと思うのであるがな」

 ニムに顔を向けたハソが笑顔になる。

「口止めをすれば大丈夫であろうて。言うても灰色の子だけであろうからな」

「ハソが存外乗り気であるな」

 ヌトが上体を前に倒してハソの表情を窺った。ハソは無表情でヌトを見ている。

「ヌトが颯と話すなぞ思いもよらぬ事であったからな。出来る事なら、わしが最初に話したかったぞ」

「恨み言は聞かぬぞ。わしもそうする積りで追い掛けて行った訳ではないからな。ニムが良ければ明良と話せば良かろうて」

「わしはどうでもよいぞ。明良と話したければ先に話せ。唯、わし等は声が同じであるから、わしが後で話すとして名乗った所で信じて貰えるかが心配よな」

 二人が茶を飲み終え、颯がそれを持って台所へと向かった。明良が穏やかな表情で玲太郎を眺めているのを三体は見ていた。ハソが焦燥感に駆られて口を開く。

「ニム、好機ではないのか」

 そうかした。ニムは目を剥いてハソの方に顔を向けた。

「わしかよ? ハソが声を掛けるのではなかったのか? それに直ぐ颯が戻ってくるであろうて。今でのうてもよいではないか」

「それもそうよな。わしも気が急いてしまって……駄目であるな。颯が寝室に行ったら明良一人になるし、その時でもよいな」

 ハソの中では明良とニムが話す事が決定事項となっていた。ニムは苦笑する。

「ハソが話せよ。わしは遠慮しておくわ」

「わしは明良より颯と話がしたいのであるが……。颯には迷惑を掛けておるからな」

「颯に謝罪をしたいのか。それならばわしが明良に話し掛けてみよう。触れる許可でも貰うとするわ」

 そう言ってハソの肩に手を置いた。

「それで構わぬか?」

「構わぬ。序にわしも触れてみたいのであるが、その許可も得て呉れ」

 ニムは肩から手を離すと頷いた。

「そうしよう。それでは今宵、話し掛けるわな」

「それならば、わしも触れてもよいか訊いてみて呉れぬか。駄目なら明良に入れた印を消す」

 ヌトがそう言うと、二体が愕然とした顔でヌトを見た。ヌトは二体の顔を交互に見た。

「何か変な事でも言うたか?」

「言うたも何も、印は消せる物なのかよ?」

「それよ。そのような事、知らなんだぞ」

 ハソに続いてニムも言うと、ヌトは微笑んだ。

「そうなのか。わしは消したくて試したら消せた事があってな、それ以降は気にせず入れ放題よ」

「どう遣れば消せるのよ?」

 それに食い付いて来たのはニムだった。

「霧散しろと念じておれば消えるぞ」

「そ、それしきの事で消えるのかよ……」

 ニムが怪訝そうに呟いた。ハソは開いた口が塞がらなかった。そうすると颯が戻って来て、また明良の隣に座った。

「試しに消してみたいな」

 そう言ったのはハソだった。ヌトが颯に目を遣る。

「消した後にまた入れるのであれば颯は止めておけよ。馴染んでいた物がなくなるのであるからな」

「そうよな。明良にしておく。颯がまた眠られぬようになっては可哀想だものな」

 そして明良に向かって手をかざすと目を閉じた。暫くして目を開けてかざしていた掌を見る。

「消えたな。……うむ、消えたぞ」

「わしも確認した。確かに消えたわ」

「易かろう? 前に印を入れた時、念話の仕方を教えたらさえずりの過ぎた子がおってな、煩わしくなって色々と試したのよ」

 微笑みながらヌトが言うと、ハソは悔しそうな顔をする。

「わしは印を特別な物だと思うて大切にしておったのに、こうも簡単に消せるとは……」

「わしは消すなぞ思い至らなかったぞ……」

「思い至らぬ方が幸せではないか」

 二体の反応が面白くてご満悦のヌトは笑顔で調子のよい事を言った。その時、明良が立ち上がる。

「入浴してくるから、くれぐれも玲太郎の事を頼んだよ」

 明良を見上げた颯は不思議そうな顔をした。

「あ、うん。分かった」

 それを聞いて部屋から出て行った。廊下の軋む音が遠ざかって行くのを聞いて、颯は玲太郎の両頬を拭うように撫でると目を覚まして「んっ」とか「うー」とか「おあー」とか言い出す。

「起きてもうたん? ごめんよ」

 そう言いながら玲太郎を抱いた。

「そろそろ乳飲みたいんとちゃうん?」

 玲太郎は声を発するだけだった。颯は目を見詰めてくる玲太郎を見詰め返す。

「なんや変なもんに好かれてもうてかわいそうに……」

 そう声を掛けても無邪気に声を発しているだけで特に反応はなかった。それに反応したのはハソで、目を剥いている。

「へ……、変なもんと言われたぞ……」

「ま、子にしてみればわし等なぞ異質な存在であるからな。変に違いあるまいて」

 透かさずヌトが言うと、ニムがヌトを横目に見た。

「ヌトが何か妙な事を吹き込んだのではないのか」

「それはないな。わしに対する信用もないがな。あはは」

 そう言ってニムを見ながら笑った。そして真顔になる。

「それにつけても、先程の明良の態度を見ておったら、話し掛けるのはした方がよいと思うぞ」

「あの様子では警戒しておるのが明らかよな」

 ハソはニムが言った事を聞いて顔を顰めた。

「わしが印を消したり入れたりしたからな、それも手伝っておるのであろうな」

「であるが遣る。今宵決行するぞ」

 そう言ったニムを見るハソが苦笑した。

「わしはそのように強気にはなれぬな」

「明良は望んでおらぬようであるがな。いざとなったら強引にでも話させるまでよ」

 そう意気込んでいたニムだった。


 そのニムは、明良に無視をされて話し合いは開始される前に終了した。まさか相手にされないとは露程も思っておらず、ニムは消沈するしかなかった。それを見て哄笑こうしょうしたのはハソだった。その笑い声で玲太郎が目を覚ますと、明良は玲太郎を抱く。ハソは横たわって浮いていて、明良達を見下ろしていた。

「明良が無視をするとは誰が予想をしたであろうか。ふふふ、これでは意思が解らぬから印はそのままにしておくとするわな」

 嬉しそうにハソが言うと、ニムは場都合が悪かった。そんな事はどうでも良かったヌトは、颯が寝室に向かうとそれに付いて行ってしまい、勉強部屋にはいなかった。

「ヌトは颯と話せたのに、わしは不甲斐のうて悲しゅうなって来たわ……」

「明良が望んでおらぬと言うておったのはニムではないか。こういう結果でも致し方なかろうて」

「それにしてもあれは笑い過ぎではないのか? お陰で玲太郎が起きてしもうたではないか」

「済まぬ。笑えてしもうてな……」

 申し訳なさそうな表情で言うと、ニムを見下ろした。

「益々嫌われる事になりそうではあるが、また話し掛けるとするか」

 気力が復活したのか、そう言うとハソを見上げて微笑んでから顔を明良に向けた。

「良う遣るな。わしは明良に嫌われるのが恐ろしゅうて出来ぬわ」

「話し掛けておる内に、話して呉れるようになる事もあろうて」

「そうであると良いな」

 少し寂しそうな表情をしたハソは明良の方を見ているニムを見下ろしている。明良は玲太郎の瞼が閉じてから暫くは抱いたままだったが、頃合いを見計らって布団に寝かせた。二体はそれぞれの思いを胸に、それを見守っていた。


 翌日、夜中には雨が上がり、湿気を含んだ空気が淀んでいる早朝に水伯が遣って来た。もう慣れた物で四時が来ると八千代が玄関へと向かった。水伯は八千代に手土産を渡すと、颯と玲太郎が起きて来るのを居間で待つ。桜輝石おうきせきが座卓に置かれていたが、小さな光の玉を出して読書を始めた。すると間を置かずに颯が玲太郎を連れて遣って来た。

「おはよ」

「お早う。泣いてもいない玲太郎を連れて来てどうしたのかしら? お乳?」

「ほうでもない」

 そう言って玲太郎を水伯に差し出した。水伯は本を閉じて座卓に置き、玲太郎を受け取った。

「何かあった? 若しかして私の気配で起きてしまったとか?」

 颯は首を横に振る。

「ちゃうんやけんどな、話があって起きてきた」

「そう。それで?」

「あのな、昨日な、ヌトって言う人に話しかけられたんよ。人とちゃうんやけんど、人でええだろか……。オレが寝られへんようになった気配の持ち主な」

「うん、それで?」

「ほんでな、悪いもんでないっていうんが分かったけん、前みたいに四日にいっぺん来てくれる? もういけるようになったのに、いっぱい来てもろたら悪いけん」

 水伯は颯に柔和な表情を向けた。

「解った。それではまた四日に一度にするね」

 颯は頷くと笑顔になった。

「ありがと」

「所で、そのヌトと言う人と私も話をしてみたいのだけれど、橋渡しをしてくれるかしら?」

「はしわたし?」

「間に入って、ヌトと言う人との仲を取り持って欲しいという事なのだけれど解るかしら?」

「分かった」

 そう言うと、ヌトの気配がする方に顔を向けた。

「ほうやって言よるけんど、かんまん?」

 何もない空中に話し掛ける。ハソとニムは驚愕したと同時に色めき立っていた。

「わしが話したいのであるが?」

 ニムがヌトの前に行くとそう言った。

「わしに譲れって呉れぬか」

 ハソも話したいようで横から顔を突っ込んできた。ヌトはそれらを無視して無言になった。颯が顔を水伯に向ける。

「何よ? って聞っきょる」

「狡いぞ! わしが話したい。寧ろわしの役であろうが」

 水伯を事ある毎に観察してきたニムがヌトの肩に手を置くと揺さぶった。

「この国で神様と崇められている存在の方々が何故此方こちらにお出でなのですか?」

 水伯は玲太郎を見ながら言った。

「かっ、神様? えっ、ほんまに?」

 狼狽する颯は水伯を見ると、水伯が颯を見て頷いた。ハソはヌトに目を遣ると、ヌトは水伯を見詰めていた。

「玲太郎を見に来とるんやって。うん? もう一ぺん」

 颯はそう言うと少し黙った。

「えっと、他の二体も同様なんやって。ほんで、いつまでかは分からんけんどおるらしい」

 颯と視線を合わせると頷いた。それからヌトのいる方に視線を動かす。

「それでは玲太郎を連れ去る積りではないのですね?」

 それを聞いて颯が目を丸くして、口を開けた。

「笑いよる……。ほれはないって言よるよ。あーびっくりした」

 そう言うと固まった。水伯はその様子を見て口を閉じた。

「なんかな、もう一体が水伯とどうしても話したいって言よるけん、代ってもかまわないか? って。オレは……まあかんまんけんど、水伯は?」

「颯が構わないのなら、構わないけれど」

 それを聞いて歓喜したニムはまたヌトを揺さぶった。

「うわ! ヌトと同じ声じゃ。…え? 別の人でうとるん?」

 目を泳がせて混乱している颯は耳を手で塞いだ。

「ニウ? ニウって言う人らしい。……ん? まみむめもの、む、だった。ニムって言うんやって」

 水伯を見ながら言うとまた固まった。水伯は颯が何を言うのか見守っている。

「はい色の子が小さいころから見てきたんやけんど、覚えとるか? って」

 そう言われて解らない訳がなかった。柔和な微笑みを浮かべた。

「勿論です。気配を感知しておりましたし、悪戯もされましたので」

「いたずらって何されたん?」

「私の体に魔術で色々と遣って来たのだよ」

「ほれって……いたずらっちゅうん?」

 眉を顰めて颯が言うと、水伯は苦笑した。

「服が駄目になった以外は何もなかったから、可愛い悪戯だよ」

 颯は不快そうな表情をすると、そのまま固まった。そして水伯を見た。

「何度も接しょくしようとしたんやけんど、全部失敗したんやと。ほなけん、話せてうれしいって言よる」

 水伯は馴染みのある気配の濃い方へ目を遣ると微笑んだ。

「私も光栄です。この魔力で悪い事は致しませんから、その点はご安心下さい」

 そしてまた間を置いて颯が口を開く。

「文字でも書ければ、……まだ良かったのであるが、……それもままならぬのよ、やって。」

 言い終わると、空中に光で描かれた何かが浮かんだが、それを明確には認識出来なかった。二人はそれを見て唖然とした。

「これがわしらの使う文字なのであるがな、やって。さっぱり分からんな」

 そう言って颯が笑うと、水伯も釣られて笑った。

「それにつけても、まだ人の中で生きるのか、って聞っきょる」

 水伯はそれを聞いて苦笑する。

「幸か不幸か、私の事を人扱いしてくれる人がいますので、まだこのまま生きて参ります。ご配慮に感謝致します」

 ニムが微笑んでいる水伯を見ながら切なそうな表情をすると、ヌトはそれを見て顔を逸らした。

「ハソも話したいのではなかったのか?」

 ハソはそれを聞いてヌトを見る。

「わしは冷やかしのような物であるからよいわ。颯には謝罪しておきたいが、また機会があろうて」

「むねのつかえがおりて満足した、……話は終わりにするって。……次は、ハソって言う人と代わるんやって」

 ハソは顔を強張らせてニムを睨んだ。ニムは満面の笑みを浮かべる。そんな事も知らない颯は次の声が届くのを暫く待った。そして口を開く。

「はやてにあやまら…ってオレか」

 口を閉じて頷いている。苦笑いをして目を伏せた。

「いや、もうなれたけん、ええです。ほなけんど兄ちゃんの気げんがごっつい悪いけん、あんまりいらん事はせんとってください。おねがいします」

 頭を下げた。ニムとハソが顔を合わせるとニムは眉を顰めた。颯は水伯を見ると笑顔になる。

「ほなもうええな。オレは六時まで寝てくるわ。水伯も神様もありがとう。ほな後でな」

 颯がそう言って立ち上がる。

「お休み。また後でね」

 そう言う水伯に笑顔を見せた颯は居間を後にした。残された水伯はと鼻で笑うと玲太郎を見詰めた。ヌトは颯に付いて行ってしまい、二体は玲太郎がいる居間に残っていたが居た堪れなかった。

「颯にああ言われては、明良には手を出せまいな」

 ハソが言うと、ニムは渋い表情になった。

「完全に悪手であったな。当分は大人しくしておこう。また折を見て遣るわな」

「まだ遣る気なのかよ」

 引き気味にハソが言う。挫ける事なく平然としているニムがハソを見る。

「印は入れてあるからな。気配に馴染み、行く末はわしに対する嫌悪感がなくなるとよいのであるが」

「颯のあの口振りでは長引きそうではあるがな。寧ろその時が来ないような気すらするぞ」

「ふむ……」

 ハソから視線を外して頷くと暫く黙り、また視線をハソに向ける。

「しかしヌトが颯に付きっ切りであるな」

「如何にも。玲太郎の事はもうよいのであろうか?」

「やはり最初に話した時に何かあったのやも知れぬな」

「わしからすれば玲太郎から離れて呉れるのは有難い事よ。抱ける機会が増えるのであるからな」

 ハソは気楽に考えているようだったが、ニムは颯とヌトの間には何かがあると考えていた。

「考えた所で正解なぞ解らぬ物よ。颯が受け入れたのであればそれで良かろうて」

 お見通しだったようで、ハソが笑顔で言った。ニムはそれが気に入らなかったのか、表情に出ていた。

「それにしても、ニムは灰色の子と話す機会が持てて良かったではないか」

 その言に表情が緩む。

「それはそうよな。颯とヌトに感謝をせねばならぬな」

「そう言えばわしも礼を言うておらぬわ」

「神と称されながらも、基本が成っておらぬな。わしもであるが」

 二体は顔を見合わせて笑った。するとハソが何かを思い出したようで慌てた。

「そうであったわ、失念しておった。印の入った子と念話する時に傍でおっても、念話の内容が届かないのであるな」

「急にどうした?」

「わし等兄弟で念話を遣る時、近距離で念話を遣ると、その近くにおる兄弟にも念話が届くであろう。先程も近距離で印が入った颯と念話をしておったが、傍におってもその内容は届かなかった事がおかしいと思うてな」

 それを聞いてハソ同様疑問を抱いたニムは些か厳しい表情になる。

「そう言われればそうであったな。ヌトとハソの話し声が聞こえなんだわ……。そういう性能なのであろうが、言われた今気付いたわ。わしの知らぬ印の性能がまだまだあるのよな」

 感心するとハソを見た。ハソは真顔になっている。

「ヌトはこれを知っておったのであろうか」

「それはなかろうて。ヌトも先程知った口だと思うがな」

「そうよな。わし等は基本、単身だものな」

「若しやしたらノユとおる時にそういう場面に遭遇していたやも知れぬがな」

「有り得るな。ヌトは透虫の事には暗いが、それ以外は存外明るそうではある。なにせ隠し事をされている気がしてならぬのよ」

 二体は腕を組んで何度も軽く頷いた。

「わしが幽棲しておった間、一番わしの下に来て呉れたのがヌトなのよ……。一番来なかったのはレウなのであるがな」

「そうなのか。それは知らなんだぞ。ヌトは世話好きなのやも知れぬな。口と態度は悪いが」

「只の暇潰しやも知れぬがな。一頻ひとしきりからかったら満足して帰って行きおるのよ」

「ははは。それでは退屈はせなんだのではないのか?」

「ヌトが来ずとも退屈なぞしておらなんだわ。気遣って呉れた事に感謝はしておったがな」

 その後はヌトの話から逸脱して雑談で盛り上がり、水伯と玲太郎の方には目もくれなかった。水伯は玲太郎を抱えたまま読書をしていて、六時前に明良が覗きに来ると本を閉じた。挨拶を交わすと二人は食堂に向かった。勿論、玲太郎を連れて行った。それを見た二体はそのまま居間に残る事にして、やはり雑談で盛り上がっている。


 食堂では家族全員が珍しく揃って朝食を摂っていた。皆が黙々と食べている中、時折八千代が何かを言い、悠次か颯が反応するだけという居心地の悪い食卓が苦手な水伯は、一番に食事を済ませて茶を入れて貰うと、それを持って居間へと向かった。

 居間は居間で気が休まらないのだが、食堂よりは幾分か増しに思えた。玲太郎を布団に寝かせると、茶を飲み始めようとした所で玲太郎が声を発し出した。玲太郎に乳を飲ませ、茶を飲み終わった頃には四兄弟が揃って賑わった。悠次は大分調子が良好のようで顔色も良かった。

 悠次が恒例の挑戦を遣るには状況的に無理だった為、気の済むまで話をしたら部屋へと戻って行った。すると、颯も昨日休んだ分を取り戻すと意気込んで部屋を出て行った。ヌトは颯に付いて行ってしまった。残された明良は無言になり、満腹で眠りに就いている玲太郎を穏やかな表情で眺め始めると、水伯は何も言わずに読書を再開した。

 水伯が更に三度、嫌な思いをした以外は何事もなく時間が過ぎて行った。ハソとニムは居間にずっといて、会話が尽きてしまうと気が抜けてしまい、横たわって宙に浮いていた。颯は食後には必ず居間に行き、暫く玲太郎の様子を見ていた。その間にヌトは二体の態度に不快感を露にして嫌味を言っていたが、それを全く相手にしない程に気力がなかった。颯が部屋を出るとヌトも部屋を出る。そして二体は目を閉じると視覚を透虫に預け、颯とヌトを観察した。

「ヌトが何かをしていると思うておったが、特になしであるな」

「時折明良の方を見ておるが、動きがあるのはそれ程度よな。気配に慣れさせる為に近くにおるだけのようであるな」

「如何にも。散歩にも付いて行く程であるから、相当早く慣れて欲しいようであるな」

「わし等でも早かったが、それ以上に早く慣れそうではあるな。よし、ヌトの覗き見は此処までとする。正直な所、眠っておる玲太郎を眺める方がよいわ」

 飽きたニムがそう宣言して目を開いた。ハソは目を閉じたままの状態でいる。

「わしはもう暫く見ておるわ。明良に一瞥を呉れる行為が気になる」

「あれは明良が気になるから見ておるだけであろうて」

「そうであろうか。わしは気になるからもう暫く、な」

 気力がなくても遣る事を見付けて過ごしていた。

「今日は灰色の子がおるから玲太郎を抱く隙が全くのうて辛い所よ……」

 ヌトの監視を止めて退屈し始めたニムが呟いたが、ハソは相手にしなかった。

「ああ、違和感の正体が判ったぞ。灰色の子がおるのもそうであるが、昨日休んだ分を遣っておるからいつもより長く勉強部屋におるのか。それで違和感があったのよな」

 そう言って目を開けるとニムを見て苦笑した。

「勝手に怪しんで疑って掛かる事は駄目であるな」

「今日は未明から予想外の事が起きておったからな」

「如何にも。颯に謝罪する機会がこのように早く訪れようとは思いもよらぬ事であったわ」

「わしも灰色の子と話せる機会が来ようとは思いもよらぬ事であったぞ」

 ニムは笑顔で話したが、それも苦い表情に変わった。

「気付かぬ内に浮ついておったのよな」

「わしは玲太郎を抱いて以来、浮付きっ放しぞ」

 そう言うと声を出して笑った。そしてニムも微笑む。

「それはわしとて同じ事よ」

 二体は顔を合わせて一緒に笑い合い、熟睡している玲太郎を見下ろした。その傍にいる水伯は玲太郎に気を配りながら読書をしている。その近くに浮いている小さな光が、玲太郎の安らかな寝顔を照らしていた。二体はそれを穏やかな表情で見守っている。

 こうしてまた水伯が傍にいて、玲太郎に触れる事すらままならず、詰まらない夜が深まって行くが、今夜はいつもと違って気分の良い夜となった。

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