第二十五話 しかして安堵する
私の記憶の始まりは約二千五百年前の見知らぬ板だった。それが板という事と、それ等が部屋に蓋をしている天井という事は後に知るが、それは少し後の話。それにつけても、直ぐに理解の出来ない言葉を耳にし、突如視界に入って来た者は中々に愛らしい少女だった。名は何と言ったか、今となっては記憶にない。命の恩人だと言うのに、私も随分と薄情な事だ。私は全ての記憶を失っていて、仮の名を与えられていたのだが、それも当然憶えていない。
言葉を少しばかり理解出来るようになってから教えて貰った事は、和三国の最西端に位置する加伊田島の海岸に打ち上げられていた、という事だった。私は津波に依って運ばれて来たのだとか。
私のいた場所は、当時、度々津波に襲われていていた。私が療養している間にもまた遣って来たとの報せが入り、少女に手を引かれて避難をしていたのだけれど、まだ体調が万全ではない私の足が非常に遅かった。
そんな私の頭に過った事と言えば、空を飛べたら、という絵空事だった。しかしそれは現実の物となり、驚愕する少女と共に避難所へ向かったのだった。
次に過った思考は、この力があれば津波を打ち消せるのではないか、という事だった。私は試したくて少女を避難所に残し、一人で浜辺へと急いだ。見える水平線が津波の物なのか、通常の物なのか、全く区別が付かなかった。津波だと気付いた時には、もう直ぐ其処まで来ていた。大波は消えろ、と念じ続けた所、見事に津波は消え去った。私は皆と髪の毛の色が違い過ぎた事もあって、それ以来神子として祀り上げられる事となる。
私を助けた少女の家は神子の住む家として神社になってしまい、噂を知った島民が私を一目見る為に神社へ集まるようになってしまった。その間に何度か津波が遣って来ては私が消し去り、霊術と呼ばれる術を本で学び始めると、噂は島外にも広まって行く。
この頃には水伯と呼ぶ者が現れ、皆がそれに倣うように呼び始めた事で私の名が水伯で定着して行った。水伯という言葉の意味を知ると畏れ多い気がした。神は本当に在り、それはとても大きな気配をしているのだから。
和三語を難なく扱えるようになった頃、私の体が成長していない事に気付いた。そして私の影が薄い事も判明し、私が外出をする時には必ず色の濃い青、それも神の色とされている濃藍に近い色の服を着用し、傘を差す私の恩人が常に傍らにいる事となった。それ等が神子としての立場を益々揺るぎない物として行った。
私の異常に真っ先に気付いた少女が大人になる間、私は治水を頼まれ、島内のみならず、島外へ、それも和三国以外の島へも赴き、奇跡と呼ばれる異常な霊術を用い、対応していた、いや、対応させられていた、と言うべきか。その上、方言を標準語に矯正させられもし、神楽やら祝詞やら、色々と芸を教え込まれた。
安請け合いをしていたあの少女の父親が世を去り、それもなくなるかと思いきや、あの少女が迎えた婿が仕切り始め、更に忙しくなる事となる。
こうして彼方此方に行ったのだけれど、観光した事など一度もなかった。
そして私を金儲けの道具として扱うようになるまで、時間はそう掛からなかった。あの少女の子供の代でそうなっていたのだから、本当に早かったと思う。
私は世話になった恩に報いなくては、と我慢をしていた間に、色々と試しながら新しい術を編み出していた。それは私への感謝が薄れると私の掛けた霊術が薄れて行き、遂には術が解けてしまうという物だった。
私への感謝がない地域では術を掛けられないという難点が見え始めると、思うように金儲けが出来ず、あの少女の子孫は私への当たりを強くして行った。恩義を感じていた相手はもういないし、義理は既に果たしている。私は我慢をしないと決めた。
それは私が和三国に流れ着いて二百年足らずが経過した頃の事だった。私が集めていた書物、私が本来貰う筈だった金品、それ等を私が住んでいた離れごと持ち去る事にした。
割と近くにあった別の島の海岸近くに住み着くと、何時しか家の前に祭壇が置かれ、毎日供え物があった。
その頃、私に対精霊が現れた。余りにも明確に見えていて、それが自分の対精霊だと気付けた切っ掛けは、胸の辺りから出ている糸のように気付いた時だった。糸のような物に気付けた時期はこの頃なのだけれど、何時から繋がっていたのか、それが判明する時は来なかった。兎にも角にも、書物に記されていた通りに繋がっていて、声を発する事はなくとも意思疎通は出来ていた、ように思う。見た目がつるんとしていた事でツルと名付け、何処へ行くにも一緒だった。
私は和三国で目覚めてから精霊が見えていたのだけれど、何故か半透明でツルのように明確に認識が出来なかった。先人の残した書物を読み漁り、どうにか見えるようになろうと努力をしたのだけれど、それも徒労に終わった過去があった。その代わり、書物の中に千里眼の記述があったのだけれど、それが使えるようになっていた。
私が見たい物を見せてくれるのであれば本当に有難い術なのだけれど、私に敵対しそうな者が見えたり、私を悪し様に扱おうとする者が見えたりして、役に立つような立たないような術となり、私には手に負えない代物となっていた。それでも何時かは私の意識下に置けないものかと、努力は続けた。
毎日ツルと一緒に楽しく遊んで過ごしていたある日、一人の男が遣って来た。日に良く焼けた小麦肌で、見るからに好青年だった。名は井上一朗太、年は十八と言っていた。これが私の人生を大きく変える出会いとなる。
和三国を含めた近隣の島々には七つの民族が住んでおり、その内の三つが併合し、和三国としていた。その三つの民族の内の、土の民と呼ばれる民族出身だと一朗太は話した。なんでも、チルナイチオ王国の北の土地が枯れて作物が育たず、その再生依頼が土の民の下へ届いたのだと。そういう訳で私に付いて来て欲しいと言う話だった。
土が枯れているとなれば、私の力を借りたく思う事は至極当然の事だろう。しかし、面識も何もない上に、神と崇められている私に頼もうとする、その神経の図太さが気に食わなかった。私は話を聞いた上で断ったのだけれど、一郎太は翌日も遣って来て、その時は身の上話をして帰った。
その翌日は全くどうでもよい話を延々として帰った。その翌日は何故か話し相手をさせられ、その更に翌日には何を話したかを忘れてしまったのだけれど、兎にも角にも、幾日にも亘って話し相手をさせられる破目となり、気付けば一朗太が近くに移り住んでいた。何時の間に引っ越して来たのだろうか。それを知るには、また話をしなくてはならない。こうして私は一朗太の術中に嵌って行くのだった。
根負けした私は供え物を持って来ていた人々に、今までの礼と、もう必要がない事を伝え、一切合切を置いて一朗太と共に島を後にした。家は帰る気でいた為、家の周りに術を施し、それに依って幾人かが命を落とす事になったのだけれど、祟りとして処理されたと後に聞いた。
チルナイチオ王国に到着すると、国王との謁見が待っていた。神と崇められていた私にしてみれば大した事がないように思うのだけれど、実際には少しばかり緊張していた。一朗太は言うまでもなく、とても緊張していた。
通訳を介し、土の民に話を持ち掛けたが一朗太以外に来た者はいない、という話から始まった。それ程に厳しい場所だったからに他ならない。改めて話を聞いた所、領主が幾人かいたのだけれど、揃いも揃って逃げ出したとの事だった。そのような話は聞いていなかった為、其処まで厳しいのか、と身構えるしかなかった。水が枯れた、場所に依っては雑草も生えない、山が禿げたなどの話をされ、元々私は一朗太が世から去ったら島へ帰る気でいた事もあって、大した問題には聞こえなかった。
謁見後、直ぐにウィシュヘンドへ向かった。先ずは自分の目や手で確かめたいと一朗太が言った為だった。
箱舟と言う物を用意して貰い、通訳の操縦で向かった。和三国では輿で移動をしていた為、こういった乗り物が楽しくて仕方がない。操縦に興味をそそられた事もあり、途中で操縦を教わり、それから代わって貰った所、忽ちに習得。二人は泣いて私を止めていたが、五分も掛からずにウィシュヘンドへ到着し、そのまま上空からウィシュヘンドの現状を見る事にした。緑の濃くなる季節に行ったのだけれど、ウィシュヘンドの半分は北上する程に緑から縁遠い色になって行った。その惨状を目にしても、一朗太の遣る気が萎えなかった事は救いと言える。
チルナイチオ王国では、農業に使用される魔術は、基本的には土を肥やす為に使っているのだそうだ。水は川、池、溜池、湖、地下水等から引いて来て使うのだとか。ウィシュヘンドでは何れも水位が下がり、それ等を使いながらも魔術で補うようになったのだそうだ。そうすると何故か作物が枯れ始めたのだとか。水は空気中に含まれている水分を集める事で使用する魔力量を抑えられ、それを多用していたのだとか。それを聞いて、実践した者共は阿呆かと思ったのだけれど、これには続きがあり、その魔術を広めた者はチルチオ教徒だったと言う。
チルチオ教は勢力拡大を図る為に北の拠点を作ろうとして、ウィシュヘンドに目を付けたようだ。しかし事は上手く運ばず、住民からの信頼を得る為に遣った事が度を越して土地が枯れてしまった、と。チルチオ教は救いようのない阿呆の集団だという事が理解出来た。
阿呆共の尻拭いをすべく、先ず私が水源調査を遣る事となった。私の手に掛かれば直ぐにでも土を肥やし、水も不安なく使用出来るようになるのだけれど、一朗太にそれを遣らせる為に連れて来た訳ではないと一喝され、役目を与えられたのだった。
私はチルナイチオ王国最大の領地を誇るウィシュヘンド州を十日で調査し終えた。永久凍土ではない土地の内、北半分は雪解け水のお陰で枯れてはいないのだけれど、南半分はクミシリガ湖の湖畔付近以外は悲惨な物で、町や村に住人がいないのも頷けた。
永久凍土の土地を省いたウィシュヘンドの中心から東寄りの位置に元領主の屋敷、後のイノウエ邸があり、一朗太は其処に王国から派遣された魔術師、技術者、従者、下男下女達と宿泊していた。話をする前に下女を帰らせた。こういう場に男女が共にいると、何かしらの問題が起きる可能性があり、それを排除する為だった。その事で幾人かが下女と共に帰り、魔術師達もいなくなった。体良く逃げたのだ。笑うしかなかった。
一朗太と技術者に調査報告をした後、霊術や魔術で土を肥やすと、それなしでは肥える事が出来なくなってしまうと一朗太が言った。それに堆肥と霊術や魔術の併用は相性が悪くて喧嘩をしてしまい、出来ないと言うのだ。これは私の出番ではないのだろうか。喧嘩をしないように霊術を改良する必要がありそうだ。
それにつけても、土の民が植物を育てる時に使う霊術は雨降らしで、肥料代わりとなるのだそうだ。私も良く雨を望まれて降らせたのだけれど、本物の慈雨だと喜ばれた経験がある。きっと土の民の使う雨降らしと同じ効果があったのだろう。そしてこの時、堆肥は土を健康にし、肥料は植物に栄養を与えると教えられた。そして、今度の再生計画では堆肥が大量に必要になるとの事だった。農業に暗い事もあって、書物以外から知識を得る楽しさを実感していた。
私は私が出来得る最大限の事をしてもよい気になっていたのだけれど、必要とされている事は只の一つもなかった。水属性を付与された魔石が支給されいて、水を出す必要すらもない。喜ぶべきか、悔しがるべきか……、兎にも角にも、極上の飲み水を用意した。気落ちしていた私は、新たに来た私専属の通訳にチルナイチオ王国の公用語であるサンザム語と歴史を習い始めた所、私にも仕事が出来、それを熟す日々が続いた。
こうして一年目は一朗太と技術者十人で出来る範囲での実験を遣っていた。多種の堆肥を使い、それぞれに緑肥となり得る植物、それも薬草の種を蒔いて相性を見るのだ。その中に、私が霊術で出す水を撒いた区画と、霊術で雨を降らせた区画があった。私の区画は、水を撒いた方もそれなりに育ってはいたが、雨の方がどの堆肥でも一様に良く育っていた。一朗太の雨降らしには堆肥、若しくは薬草との相性が明確に出たようで、生育に歴然と差が出ていた。薬草は必要な部分を採取して、残りは土に漉き込み、今度は違う植物の種を蒔いて再度様子を見る。薬草は育ちが早く、夏の短いウィシュヘンドでも三毛作が期待出来そうだった。
長い冬が遣って来ると、翌年の検討が始まった。年々雨量が減りつつあったウィシュヘンドでは、水量が少なくても育ち易い植物を選択せざるを得なかった。私がいるからどうとでもなると言うのに、特に注文をされる事もない。一朗太は私に何をさせる為に連れて来たのだろうか。
それに就いては、休憩中だったか、夕食前だったか、何時だったかは明確に憶えてはいないのだけれど、一朗太と二人切りになる機会があり、漸く理由を訊き出す事が出来た。
一朗太が言うには、私が治水をしていた場所が崩壊する事が増加し、私にまた治水を遣らせる為の動きが活発化していたのだけれど、それも島長に守られていたのだとか。近い内に私を巡る戦になるのではないかと実しやかに囁かれていたのだそうだ。神の怒りに触れて大惨事になると反対派が多数で、中々踏み切らなかった間に一朗太が私を連れ出したとの事だった。
因みに序のように話してくれたのだけれど、私が世話になっていた神社は、私が去った直後に火事になり、私が放火した事になっているのだとか。そう吹聴したあの少女の子孫には悉く不幸が訪れ、家系が途絶えてしまったのだそうな。それを聞いて、命の恩人にはとても申し訳なく思ってしまった。
私の力が目的ではなかったという事実を知れた事は良かったのだけれど、戦の原因になり掛けていたと思うと、人の身勝手さに落胆してしまいそうになった。それもチルナイチオ王国の南部にある農地へ視察を行ったり、国王に呼ばれて王宮へ赴いたり、物資の調達に奔走したりと忙しく過ごしている内に、どうでも良くなった。
二年目からは人員を募ろうとしたが、それは儘ならないだろうと言う国王の決断で、春を迎えてからチルナイチオ王国の各領地から囚人を貰い受けて農奴とした。切り良く一万人になるまで刑の軽い者も農奴にした。中には殺人鬼がいたのだけれど、私の霊術に掛かれば赤子も同然だった。初日からその効力を確かめようとしたのか、単に禁じた事柄を仕出かす衝動に駆られたのか、それとも死にたかったのか、兎にも角にも幾人かの命が散った。そのお陰で、反抗しようとする人はいなかった。
畑が多くあり、人のいなくなった村を幾つか選んで、其処へ分けて住まわせる事になっていた。空き家は冬の間に私が修繕をしていて、何時でも人が住めるようになっている。修繕を遣る度に腕が上がり、それも霊術で木造の家を建てる事も可能になった程に上がった。
十人いた技術者が十五人に増え、下男も幾人か増えていた。一朗太は空き時間に箱舟の操縦が出来るように練習を遣っていたのだけれど遅々として進まず、私が操縦士を買って出た。十二の村を毎日巡回した。
ある日、クミシリガ湖畔付近にあるパッティ山の登山口で占術屋に出会った。パッティ山はソズバシッス山脈の最北の一峰だ。
目族と言う人種が在る事を知ってはいたが、実物を見る事は初めてだった。目の色が特徴的で紫水晶を少し薄くした色をしていた。その娘は私に声を掛けて来て、只でよいから占わせて欲しいと懇願して来て、占って貰う事となった。君は長生きね、もっと生きるわ、探し物があるのだけれどそれに気付いていないわね、何時かは解放されるわ、といったような事を言われた記憶がある。
そして一朗太がその娘に一目惚れをし、この近くを通る時は必ず此処を通る破目になったのだった。
私はと言うと、娘に言われた事が頭の中で大きく占め始めた。探し物とは何か? 解放されるとは何からなのだろうか? 疑問から解放されるという意味なのだろうか? 思案しても答えが出るとは思えず、疑問は一旦記憶の奥へ追い遣った。
屋敷の近くの畑では二年目になると更に面積を増やして実験が行われた。昨年緑肥を漉き込んだ区画には初っ端から作付けを行うという冒険をし、今年広げた区画では緑肥を兼ねた薬草の種を蒔いた。当然ながら両方に私が水遣りをする区画があり、今度もやはり水撒きと雨に分かれていた。作物は蕎麦で、育ち方に依っては実が生る前に漉き込み、緑肥にしてしまうとの事だった。無事育って欲しかったのだけれど、見事な緑肥となってしまった。私が雨で水遣りをしていた蕎麦だけは収獲を迎え、これを粉にして蕎麦を打ち、美味しく頂いた事は言うまでもない。
因みに僅かばかりの蜂蜜を収穫し、皆で堪能した。
この年はウィシュヘンドの住民とも交流を持つようにしたのだけれど、サンザム語では通じない事があり、仕方なくウィシュヘンドの第二公用語であるブーミルケ語を習得すべく、新たに通訳を雇って貰い、勉強を開始した。
三年目には春先からウィシュヘンド全域に二十日掛けて雨を降らせた。これを遣って一朗太に怒られたのだけれど、私は今でも後悔はしていない。
それから農奴を更に増やし、出費が意外と嵩み、年末には資金が心許ないと聞かされ、仕方なく海水から塩を取り出して売り払い、小銭を稼ぎ始めた。薬草は値崩れして思うように稼げなかったのだけれど、塩が上質だったお陰で中々に稼がせて貰えた記憶がある。
塩を抜いた海水だった物は、湖や溜池や池のあった場所へ放り込んで行った。迎えた冬の間に毎月十日ずつ続けて雨を降らせたのだけれど、気温の所為で雪になってしまった。それも今年は久々の豪雪だと騒がれ、私の仕業だと気付かれるのではないかと内心冷や冷やしたのだけれど杞憂に終わり、これからは毎年冬に雨を降らそうと思った。
四年目からは利益を出す事も視野に入れなくてはならず、ウィシュヘンドの東海岸と西海岸に塩工場を建造し、人の手で作り出して貰う事にした。工場を造った者は勿論私。手の空いた私はと言うと、一朗太と共に村々を巡回し、水属性の魔石を作っていた。箱舟を操縦しながら水晶を作り、それを魔石にして水属性を付与するという事を続けている内に、水晶作りにも魔石作りにも長けてしまった。これを商品にしたら売れに売れて、懐が大層暖かくなった。水晶は期限が来ると消えるように作ったのだけれど、それでも製作依頼が殺到し、受注を制限するに至る程になった。一体何がそのように欲する原因となったのだろうか。
五年目、到頭一朗太が目族の娘に告白した。娘の名はミエーネ、……だったと思う、と付き合う事になったのだけれど、ミエーネの為にサーディア語を習うと言い出した。その為だけにサーディア語の通訳を雇い、何故か私も付き合わされる。
また幾人か技術者が増えている。実験の方は、肥料も追加されて行われるようになった。当然ながら技術者が増えた分だけ面積も広げられていた。
塩工場は、何故か西海岸の塩が美味しくて売れ行きが好調だった。東海岸の塩は至って普通、可もなく不可もなくといった具合で大して利益が出なかったのだけれど、平民用としてこのまま継続する事とした。
ウィシュヘンドの南では緑が復活しつつあった。時折降らせる雨にも効果があったのだろうか。今後も続けて行く事とする。
六年目、気付けば技術者が百を超える程いた。チルナイチオ王国中の技術者が集結しているのではないかと思ったのだけれど、強ち間違いではなかった。農業や薬草の権威とされる人物が幾人かいて、何故か私に意見を求めて来る。農業の事は教わる立場であって、意見を求められても困惑するだけだった。
それ以外にも、チルチオ教が賑わいを取り戻しつつあるウィシュヘンドを狙い、また入り込んで来ていた。特に工場のある村に重点的に入り込んでいた事もあって、透かさず全員を捕え、色々と吐かせた上で農奴にした。チルチオ教徒の農奴は樹木の管理と称して北の方に集落を造って送り込んだ。ウィシュヘンドの住人がチルチオ教に染まる前に気付けて本当に良かった。
この年、チルチオ教の愚行を国王に具申し、国名がこのままである限り、チルチオ教徒の暴挙は止められないと進言した所、国名がナダール王国に変わった。国王もチルチオ教には悩まされていたようだ。こうして私はチルチオ教の敵となった。
七年目にもなると農奴を増やす事は一旦中止としたのだけれど、既に六万人を超えていて、この人数を食べさせて行く為には、薬草の収益だけでは苦しい。寒冷地の木はよい素材だと聞き、北にある森林の近くに更に集落を造り、木々の伐採を開始したと同時に植樹も開始した。植物学者を招待し、その森林を探索して貰った所、新種の植物を幾つも発見して貰えた。
技術者が二百人を超える事態となり、私が選別して百人程お帰り願った。実験は私が降らせている雨で意味のない物となっていたのだけれど、それを知るのは私だけ。成果を得られつつあると喜んでいる技術者には申し訳のない事をしている自覚はあった。それでも雨は降らせ続けたのだから、私は鬼である。
冬を迎えたある日、一朗太がミエーネに求婚をしていたと知る。私が聞かされた時は既にその求婚を受けた後で、屋敷に一緒に住むという話になった頃だった。もう少し早く教えて欲しかった。
後に知ったのだけれど、求婚する際にはある花を贈るそうなのだけれど、それを採りに行く際、険しい場所に群生していると聞かされて私も付いて行っていた。珍しい花を採りに行くとしか聞いておらず、手伝った私は騙された気持ちになった。
八年目は技術者を半分の五十人余りにまで減らした。得られた成果を横取りする気か、と騒いだ技術者も中にはいたのだけれど、お前は途中からの参加だろうと内心思った。本当は二年目までの人数に減らしたかったのだけれど、一朗太に止められてしまって実現しなかった事が悔やまれた。
ミエーネが第一子を出産し、産まれたての子を生まれて初めて目にした。抱かせて貰ったのだけれど、あれは怖かった。名前はレジト、サーディア語で誠実という意味だ。女の子なのだから、もっと可愛らしい名前にすればよいのに、と思ったのだけれど、それは胸の中にある箱に片した。
九年目、空になっていた地下水は相変わらず空に近いままだった。少しは増えているようなのだけれど、それも微々たる物と言わざるを得ない。私の降らせる雨など表面上だけで、大した効果がなかったようだ。
それと関係があるのか判らないのだけれど、私が降らせなくても自然と降るようになって来た。遠ざかっていた雨雲が帰って来たのだろうか。とは言えども、その雨には私の雨のように栄養がない事もあって、意味があるようでいて作物には意味のない物だった。それもこれも魔法で土を肥やしていた所為なのだけれど、土壌改善の難しさを改めて思い知らされる。
冬を迎えると一朗太が二児の父になった。名前はラカミ、サーディア語で真実という意味だ。男の子だからそれでよいのだろう、多分。名付けという物は大変な仕事だと思う。
切りのよい十年目。技術者がまた増えようとした為、私が雨を降らしていた事を暴露した。今年は降らさない事を技術者に誓い、八十人まで受け入れ、二年目の続きという事で仕切り直しをする事となった。成果は思いの外良く、それが私の降らせ続けていた雨が齎した可能性を排除出来ず、技術者も頭を悩ませていた。撒いた種は洩れなくウィシュヘンドで育てて得た物の為、私の雨の影響は少なからず受けているだろう。残っていた種を懐に入れようとした技術者は、生涯をウィシュヘンドの北の地で過ごす事となった。切りが良くとも、佳い事が起こるとは限らない。
サーディア語が上手く扱えるようになった事もあり、ミエーネのいた集落へ赴いた。占術師見習いが多くいて、懇願された事もあって練習台になった。目族の占術は一人に就き一度切りしか出来ない。二度目以降は当たらないのだとか。その分、一度目の結果が良く当たるのだそうだ。
ミエーネ以上の事を言う子は一人もいなかった。占術師もいるにはいたが、非常に鑑定料金が高く、とてもではないが占って貰う事は出来なかった。
ミエーネに只で占って貰った事を話すと、我先に占わせてくれと集まられて怖くなり、一朗太一家を置いて先に逃げ帰った。ミエーネは小さい子を背負って帰って来て、非常に疲れた、足が痛い、何処其処が痛いと顔を合わせる度に言って来た。次からは一緒に行かない事にする。
数十年が経過したが、気付けばチルチオ教徒が何故か乗り込んで来る。私は必ず捕らえ、農奴として北の森林近くの村へ送った。
そしてウィシュヘンドの南半分が再生され、私の雨がなくとも作物も立派に育つようになっていた。北の森林で発見された新種の植物がよい緑肥となったお陰だった。
一朗太がその功労で叙爵、領地を下賜された。私はウィシュヘンド公爵となり、南北を縦にして割り、ウィシュヘンドの三分の一にした真ん中が領地となった。その東側が一朗太の領地で、西側はナダール王国の全く関係のない貴族が奪って行った。一番美味しい物が詰まった場所を、何もしていない輩に奪われたのだ。
私は激高し、その貴族の首を刎ね、国王は何時の間にやら次代に代わっていたのだけれど、その若い国王の首すらも刎ねた。それを終えた後に一朗太に止められたのだけれど、行動が遅過ぎた。やはり年の所為だろうか。しかし、止められはしたのだけれど、その場で私に剣を向けた輩の首も序に刎ねておいた。
当然ながらナダール王国との内戦が勃発、ウィシュヘンドの中心のやや南寄りに頑丈な屋敷を建て、其処を私の拠点とした。そして大軍が向かって来たのだけれど、兵など持ち合わせていない私は、ウィシュヘンドに到着する前に退け、単独で快勝した。私が好戦的である事をこの時に知る。
こうして私の領地はウィシュヘンドの三分の二となり、ウィシュヘンド公爵の悪名を国に轟かせた。
国王亡き後、彼に子がいなかった為に王妹が王位を継ぎ、私が優位になる取引を崩御なさるまで続けて下さった。
因みにこの戦の影響で、平民も一夫多妻制になった。大人気なく皆殺しにしてしまった所為だと猛省をしたし、奴隷、若しくは農奴として領民にすれば良かったと悔いもした。次は間違えないだろう。
それから幾年か経過した頃、一朗太とは家族のように付き合って来たのだけれど、遂に別れの時が遣って来た。農奴を住まわせている村々をずっと一緒に巡回して来たのだから、情も湧く。あの少女が亡くなって以来泣いていなかったのだけれど、泣いてしまった。私はまたツルだけとなった。
手は貸さなくてよい、イノウエ家を見守っていて欲しいとの遺言で、これから長い事、イノウエ家に拘束される事となるのだけれど、この時は此処まで長くなるとは思ってもいなかった。私にしてみれば、時間は持て余す程あるのだから、それはそれで余計な事をせずに済んで良かったのかも知れない。
ミエーネも普通の人より些か長生きなようで、一朗太の葬儀後には子や孫を残して目族の集落へと帰って行った。
私はこれ以降、イノウエ家とは定期的に会うだけとなり、手を貸さなくなったのだけれど、冠婚葬祭には必ず招待してくれ、私も必ず出席した。
遺言を守る為、イノウエ家の子孫には私が作った万年筆を必ず渡した。そしてそれを必ず持つように言い含めていた。私の魔力が籠められた物だから、居場所を探すには持って来いだったからだ。
何故そういう事をし始めたのか。それはチルチオ教が私ではなく、イノウエ家を狙い始めたからだった。私を宿敵としていたチルチオ教は、私には敵わないと知ると、矛先を私の傍にいるイノウエ家へと移行してしまった。
私が本気で報復をしないように手加減をしている内は放置していたのだけれど、それも時を経るに連れ、手加減をしなくなって来た。それから私はチルチオ教を半壊にし、真面と思われた教徒のみを残したのだった。しかし、それが失敗だったと知るのは、もっと後の事になる。
領地経営の他に商会の経営もしていたのだけれど、それ等を任せるに値する者が現れ、私は興味のあった絶望の森、死の森とも言われる場所へ行ってみる事にした。単純に、私の力が食肉樹に敵うのかどうかが知りたかった。
王都のあるロデルカ州の東北に位置するボシダ州と言う小さな州があった。其処は殆どが死の森と化していて、自殺志願者の聖地とされていた過去があるのだそうだ。今は安全地帯と危険地帯の境目に高い塀が張り巡らされ、等間隔に見張りが常に立っているのだけれど、東海岸側か上空から入ってしまえるから、金を無駄に掛けているとしか思えない。
私はと言うと、上空から入り込んだ。食肉樹は獲物がある距離に近付くと蔓のような触手を急速に伸ばして捕獲するそうで、私はそれを楽しみに下りたのだけれど、無事に着地が出来てしまった。
此処に生えている木は食肉樹ではなかったのだと思い、木々の合間を縫って飛び回った。……飛び回ったのだけれど、一向に襲われない。木は洞が必ずあり、枝には蔓が沢山絡まり、地面にも蔓が無造作にあった。聞いていた食肉樹の特徴ではあるのだけれど、襲って来ないのだから食肉樹ではないのだろう。
私は、此処は死の森ではないのだと思い始めた頃、光っている物体を発見した。蔓が絡まっていて、形状としては角のない、丸味を帯びた光る岩といった所か。高さは四尺程、幅は二尺程、奥行き一尺程で桜色をしていている。人が食肉樹に食べられてから十二ヶ月経過すると、白っぽい物体を吐き出すと言う。……という事は、やはり此処が死の森なのだろう。他に白っぽい物体がないか、見落とさないように丁寧に探し回り、ボシダ州にあったそれは全て持ち帰った。
それの大きさは様々で、光は大きさに関係なく強弱があって一定ではなかった。大きさは人の大きさに依ると思えば納得が出来るのだけれど、光の強弱が何を意味するのか、それを調査する為に数個を厳選し、王都にある王国随一と名高い学校へ持ち込んだ。これを持ち帰ったのは私が世界初で驚嘆され、直ちに解析班が組織される事となった。
結果、魔力の塊だという事が判明した。私はそれを聞いて、それだけなのかと心底失望した。そして使い道を探る為に、更なる調査や実験が必要となった。
物体は屍岩と呼ばれている物で、結構な数を拾っていた事もあり、光の弱い物を細かく砕いて桜輝石と名付け、和三国にて安価で売り、更に世界中の死の森を探索して全ての屍岩を回収した。
死の森は小さな集落から町を丸吞みしたように森を形成していて、ボシダ州のような広範囲な物は珍しいようだった。何が切っ掛けとなって森を形成するに至るのかは、まだ判明していないのだそうだ。
因みに世界で私が屍岩を持ち帰った事が瞬く間に広がり、家には泥棒が沢山遣って来た。お陰で農奴が増えたのだけれど、全く嬉しくなかった。私が抱え込んでいる屍岩の情報を流した輩も当然農奴となった。それを送り込んできた組織は大抵潰したのだけれど、残りの潰さなかった組織は何処かの国の機関だとか、王家だとかで、貸しという事にしておいた。私も心が広くなった。長生きをするという事は、私に取ってよい事なのかも知れない。
定期的に目族の集落へも赴くようになっていたのだけれど、相変わらず占術師見習いの練習台になっていた。別の集落でも練習台が欲しいとの事で、其方へも行くようになる。初訪問から彼是百年とか二百年とかが経過していたのではないだろうか。
目族には二つ目と呼ばれる、精霊を見る目を持つ子が時折生まれるのだそうで、私の傍にいるツルを見て喜ぶ子が偶にいた。
それにつけても、ミエーネ同様、もっと生きる、探し物がある、何時かは解放される、といったような事を言われる機会が増えた。それもあってミエーネを思い出したのだけれど、ミエーネの占術の腕を超える子は今もいないようだ。兎にも角にも、そのミエーネにも言われていた内の一つ、探し物に気付く事を目標にする事にした。
私の探し物と言えば、失くした記憶か、家族しかない。
そうなれば先祖を探す事になる。先祖と言えば、目族の集落に行くと、お前は目族の子だと良く言われる。虹彩が赤に近い橙という珍しい色だから、目に特徴のある目族となってしまうのだろう。……となれば、目族を片っ端から辿れば、行き着くのではないのだろうか。私は目の前が開けた気がした。
しかし、それが難航して、最終的には山を下りて地上に定住した目族を捜す事になる。山を下りた目族を闇雲に捜す事は骨が折れそうだ。若しくは、私が和三国に辿り着いた年が何時なのかを特定し、その頃に山の下にいた目族を絞り込むしかない。……と思い、闇雲に捜すよりは、先ずはそれを特定する事にした。
和三国の加伊田島へ向かい、私は水伯と言いますが私に就いて記された物はないですか、と私が住んでいた近所から尋ね回った。そのような物があるのかどうか、甚だ懐疑的だったのだけれど、一縷の望みを賭けて島中を回った所、驚くべき事に記録が残っていた。私が住んでいた村の村長の子孫が持っていたのだけれど、悲しい事に日付が記されていなかった。
行き詰った私は役場へ向かって訊いてみた所、私には戸籍がなかった。ある訳がないと解っていつつも、和三国で過ごしていた事実は、あの手記以外にはないと知って落胆してしまった。
和三国からチルナイチオ王国へ移住をした時は、和三国に住み出して約三百年が経過していたのではないかと思う。その頃は週に一度、瓦版が出ていた筈だから、それを保存している人がいないか、また一から捜し始めたのだけれど、成果を得られぬまま、目族の集落へと向かった。
目族の中で五指に入る占術師を紹介して貰い、その中で私が練習台になっていない人に占って貰う事にした。一人目は練習台のお礼にと無料で占ってくれたのだけれど、目族の占術特有の人生丸ごと占いで、私の知りたい事が占いの結果に出ていなかったようだ。仕方なく探し物がある事を伝えると、探し物が見付かると出ていないから当分は探し当てられない、と言われてしまった。私の年齢を聞くだけ聞いてみたのだけれど、長生きという事しか判らない、と言われた。
二人目は紹介状があるにも拘らず、門前払いにされてしまった。彼は直後に亡くなったと聞いた。だから会おうすらしてくれなかったのだろうか。
三人目は半額で占ってくれたのだけれど、解放されるのはまだまだ先ですね、と私の欲しい疑問の答えとは違う疑問の答えをくれた。彼女には一応私の産まれた年を聞いた所、数字が出ているのだけれど、それが何を示しているのかは私では判然としない、と前置きをした上で、五二二、と教えてくれた。この数字を忘れないように紙に書き、額に入れて寝室に飾った。
四人目はこの時代の一番の占術師と言われている者で、紹介状があると言うと予約なしで占ってくれた。彼女は先ず私に沢山の小石を落とさせて、それを見てから只で構わないと言った。どうしてなのかを訊ねた所、貴方の欲しがっている答えが出なかったからと言った。空振りしたお詫びにと、結果を教えてくれたのだけれど、今度もまた解放に関する情報で、遠い未来、性別は男、一番親しい者の犠牲と出たのだそうだ。それ以外は何時もの私の人生の事で、此処まで長く生きている、死期が見えない、これからも多くの人を殺める、などと言われ、私は人を殺める事を止めるとどうなるのか、それに興味を持ってしまった。
総合すると探し物に関しては暗示すらもなく、解放される事の方が私に取っては重要なのかも知れないのだけれど、何方にしても近い将来の話ではない事が判った。探し物も見付かる事を気長に待とうと思う。
私には千里眼で私に悪意を持つ者の動向が、私の意思に反して見えるのだけれど、そのお陰で未然に防げた事件や戦が沢山あった。
悪意を持っていた物は皆農奴となり、領地で働いているのだけれど、今度はそれ等を始末する事になった。もう少し泳がせておいても良かったのだけれど、見逃していたそれ等が事を起こそうとした為、首謀者の首を刎ねた。理由はどうであれ、私は殺める事を止められなかったのだけれど、農奴の大量自殺が防げた為、良しとしたい。
事は材木一本の価格を知った事から始まる。価格を知り、自分達の手に入る金額を不満に思った農奴が、森の近くに新たに村を造り、独立をしようと目論んでいた。
村や職場から出た時点で首が千切れる呪縛を掛けていて、若しもそうなっていたら、村から出た時点で頭が胴体から離れていた所だった。農奴になった時に説明をしていたのだから、そうなれば自殺以外の何者でもないのだけれど、どうやら職場である森林では自由に動けた所為で、村の外へ出ても死なないと思っている阿呆が多数いた事が判明した。
現実を知って貰う為に、そう思っている農奴を全員、村の外へ出した。当然ながら死んだ。それを見ていた残りの農奴は立ち尽くしていた。新たに農奴を連れて来て、残った農奴と共に森に通っているのだけれど、あれを見ていた農奴が生きている限り、このような事は起こらないだろう。
それにしても、今まで起こらなかった事が不思議に思えて、何故かおかしくなった。
農奴にも読書以外の娯楽が必要なのだろうか、と思い始め、裏社会に生きている組織の長に接触した。目的は娼婦と男娼を借りる為だった。
一人目には私がウィシュヘンド公爵である事を信じて貰えずに一蹴された。私の外見が子供も同然だから仕方がない。それならば、とその組織の輩は皆殺しにしておいた。どうせ社会の塵なのだから、悲しむ人々がいても、私の心は少しも痛まない。
二人目は一人目の噂が既に噂として出回っていたのか、丁重に対応をしてくれた。これは期待が出来ると思ったのも束の間、私に毒を盛って殺そうとして来た。私を見て、殺さなければ殺されると思ったそうなのだけれど、殺す前に殺されていては世話はない。私は鈍重になった体で屋敷に辿り着き、寝台に倒れ込んだ。猛毒を口にした筈なのに、三日寝込んだだけで元気になってしまった。これからは裏社会に生きる輩からの頂き物は、必ず熨斗を付けて返そうと心に誓った。当然ながらこの組織の輩も皆殺しにした。
三人目はウィシュヘンド公爵である証を見せろと高圧的な態度で言って来た。信じて貰える証など持っていなかったし、どうせ見せても信じないだろうと思い、それを伝えて殺しておいた。そうすると補佐だと言っていた男が、本当は私が長だと言い始め、白けてしまった私はこの組織の輩も皆殺しにした。
四人目は向こうからウィシュヘンドへ乗り込んで来た。組織を沢山潰してくれて有難うと言って来た。その礼になんでもすると言った為、死んで貰った。この組織の輩も皆殺しにした。
五人目は私が部屋に入る前から土下座をしていた。命だけは助けて下さいと言った為、この輩に頼む事にした。男娼に就いてはよい駒がないそうで、少し時間が欲しいと言われた。娼婦は好きな女を連れて行ってよいと、持っている娼館を全部教えてくれた。私には良く解らない分野の為、渋る彼を説き伏せ、全面的に任せた。
慰問団と称し、音楽と博打と共に村々を巡回して貰った。酒は本性を暴かせる為に禁止とした。これ等は只ではなく、当然ながら農奴の懐からの出費となる。溺れてしまう事もあるだろうと思い、貸借は農奴同士では禁じ、私からのみ許した。これで大きく借金をした農奴は、環境が厳しくも、より稼げる森林付近の村へ移動させる事となる。
酒がない事に関しては頗る不評だった。署名活動を行ったようで、それを渡されてしまった。一度現実を見せる為にも酒ありで慰問団を巡回させた所、呪縛に因って結構な人数が死んだ。酒で失敗した阿呆が大勢いるのだから、当然の結果と言える。署名をしていた農奴に、三百人余りが稼ぐ筈だった金額、新たな農奴の購入金額、更に店内で暴れた農奴もいて、破壊された物品分を上乗せして割り当て、罰金を科した。これ以降は、酒なしで慰問団を定期的に巡回して貰った。
ある日、隣国が国境を侵す事が増えてきた為、四人の領主が私に泣き付いて来た。国からは全く派兵をして貰えず、借金が嵩み、首が回らなくなったそうだ。全く興味がそそられず、追い返そうとしたのだけれど、借金込みで爵位と領地を売りたいと言う話をされた。食指が微かに動き、思わず領地の視察をする為に約束をしてしまった。
後日、各領地を訪れた所、緯度零度上にあり、南国特有の果樹が多かった。是非とも家の農奴に食べさせて遣りたいと思ってしまい、二つ返事で購入する事にしたのだけれど、内一人は王族だった事もあり、それは断った。
私は早速意匠を決め、それを旗印にカバス帝国を潰しに掛かった。最前線で戦っていた兵士は悉く奴隷にした。第二戦にいた兵士は当分動けないように両脚を骨折させた。それ以降の戦場と支援部隊は放置し、司令官以上は奴隷にして売った。皇帝は既に城から逃げていたのだけれど、私が逃がす筈もなく、直ぐに追い付いて捕縛し、逃げた皇族諸共奴隷にして売った。そして皇族とは全くの無関係な者を皇位に就かせた。その後、二百年の停戦協定を締結するに至った。
しかし、二百年は直ぐに経過し、我が領地を脅かし始めた。平和に慣れていた領民は恐れ慄き、他領へ移る者も出て来た。
私はまた最前線の兵を奴隷にし、北の森林近くの村へ送った。今度は第三線までの兵の両脚を骨折させた。カバス帝国が停戦協定を締結すべく、ナダール国王へ打診をして来たのだけれど、私が一蹴して終わった。
その身勝手さに頭に来て、カバス帝国の資金源である鉱山の一つを抉り取って海に沈め、農地の半分を燃やし、諸国からカバス帝国へ送られる無償の支援を断ち、私とは無関係を装って我が領地の作物を高値で売り付けた。そして国が疲弊すると、我が領地には手を出して来なくなった。
そういう事をしている内に、私の旗印から、白い死神と呼ばれるようになってしまった。神は神でも死神。此方の方が余程私らしくてよいと思った。
ずっと千里眼を己の意思でどうにか出来るように、瞑想で試行錯誤をしていたのだけれど、漸く見たい時に見たい物を見る事が出来るようになって来た。そのお陰なのか、不意に何かが見える事が激減し、私の視界も良好になった。嬉しい限りだ。
これで私に悪意を向ける存在が判らなくなってしまったのだけれど、それはそれで命を狙われていると知らず、能天気に生きていける事になる為、良しとした。
しかしこの所為で後手に回る事が増えた。被害が拡大しても心は痛まない為、こういう事もありだなと思い、やはり良しとした。
私と敵対した場合、徹底的に叩き潰す事は忘れない。
神の存在を私は知っている。和三国にいた時より知っている。その存在は、私などでは足下に及ぶ筈もない程に巨大な存在だ。その神も、私の知る限りでは二柱お出でになる。きっと私が知らないだけで、もっとお出でになるのだろう。
その内の一柱が、遂に私に手を出して来た。何故なのだろうか。それでも攻撃は私の衣服を炭にしただけで、私には無害だった。どういう理屈でそうなっているのだろうか。兎にも角にも、私が神の存在を心中で嫌悪するようになったのは、これが切っ掛けだった。神をも超える力を得られるならば、真っ先にこの神を倒すだろう。
神が何処かへ消えるまで、表面上は穏やかに見せていたのだけれど、実際に消え失せると疲れが一気に溢れ出た。永久に来ない事を願う所なのだけれど、私の持つ力を考慮すれば、そうも行かないのは理解している。私以外にこれ程の力を有していない為、我慢するしかないのだろう。
もう一柱は必ず一定の距離を取ってくれ、何があっても近付いて来ない事もあり、嫌悪感はなかったが、殆ど来ない事もあって好感を抱いてすらいた。
ウィシュヘンドに移住して来る農民が増えていた為、ウィシュヘンドの南部を開放して、農奴を北上させていたのだけれど、それはイノウエ家も同じだった。
そのイノウエ家が親しくなっていた隣の領主の侯爵家があった。当代が王妹と婚姻関係にあり、その繋がりで私に王子を診て欲しいと依頼されたのだけれど、退屈な日々を送っていたし、以前の借りを返せると思い、承諾した。
王家に行くと国王から搔い摘んで説明された。数種類の毒を盛られておかしくなってしまったそうで、どうおかしくなったかは直接見て欲しいとの事だった。敷地内に温室があり、其処にいるとの事で侍女頭に案内をされて向かった。
温室は家の温室よりも小振りだったのだけれど、敷地内にある舞踏館と遜色がない程の大きさだから、大きいと言える。それにしても室内の空気がおかしい。着色され、且つ不透明と来た。千草色と言う、淡くくすんだ緑と言うか、色褪せたような緑と言うか、兎にも角にもそのような色だった。
毒々しさは感じないのだけれど、印象から判断する事は早計。そういう訳で中に入ってみたかったのだけれど、侍女頭は既におらず、扉のないこの温室へどう入るのかも判らずに困惑してしまった。
仕方なく扉を作り、其処から堂々と中へ入った。この煙を外へ出す為に天井に幾つも窓を作り、それを開けて空気の入れ替えもした。この時点で言える事は、煙に毒性はないという事だけだった。
鬱蒼と生い茂った植物を避けながら、気配のある方へ歩いて行く。しかし、私の足音を聞き、逃げ始めた。俄に鬼ごっこが開始され、私は視界が開けた事もあり、俄然張り切った。本気になってしまうと、それも直ぐに終了し、王子と対面を果たしてしまった。
王子の顔には瘤や疣があり、辛うじて開いている目が私を見て怯えていた。瘤は頭にもあり、髪で見えていないのだけれど、疣もやはりあるのだろう。それ等から先程の空気を曇らせていた煙が出ていた。そのような事が果たして有り得るのかと思ったのだけれど、実際目の当たりにしているのだから有り得るのだろう。
直接話をしてみると、どうやら長年に亘って服毒していて、主治医には匙を投げられてしまったそうだ。解らないでもない。薬草術の権威に診て貰った所、やはり匙を投げられてしまったそうだ。薬草術の権威なのだからお前は頑張れよ、と思ってしまった。
王子を憐れんでしまった私が真っ先にした事、それは毒を盛った犯人捜しだった。長子である王子の下には妹が二人いるのみ。傀儡にするには都合がよいと見て、王子が失脚して喜ぶ輩を絞り込み、其処から幾人も呼び出して術に掛けて白状させ、首謀者を捕えて王宮の一室にて、一度遣ってみたかった拷問をし、毒を生成した輩を吐かせ、次にそれを捕えて来て拷問をし、使った毒の種類を全て吐かせ、解毒薬を薬草術の権威に作らせようとしたのだけれど、自害された為に出来なかった。
因みに本件に関わった連中は一族郎党が極刑に処されたのだとか。
私は王子の解毒を可能にする為、毒の研究者を三人紹介して貰い、内一人が手を貸してくれる事になったのだが、その彼の希望で国王の義弟の領地で作業を行う事になった。クミシリガ湖の北東に小さな城があり、其処を借りる事となった。王子の護衛の都合上、二百人を超える近衛兵が共に来た。仕方なく隣の領地の侯爵に許可を得て、敷地内に彼らの住居を建てた。当然ながら私が遣った。
近衛兵の寮を二棟建て、その片方には私の部屋を設えた。ウィシュヘンドと往復しながら、研究者に交じって過ごす。薬草の一部はウィシュヘンド再生計画時に扱っていたので、必要な部分や効能等は熟知していたのだけれど、それ以外はご教授願った。
以前、猛毒を口にして倒れてしまったのだけれど、あれで復活出来た為、妙な自信を持っていて、別の毒物ではどうなるのだろうかと好奇心が目覚めてしまった。腹を下したり、眩暈がしたり、吐き気を催したりする程度の物から、幾日か寝込んでしまう物まであった。それでも寝込むだけで生きているのだから、私と言う人間は余程作りが頑丈なのだろう。
研究者はそれに目を付け、私の血が欲しいと言い出した。生まれて初めて注射器なる物を見て、針が腕に刺さり、血を抜く所も確りと眼に焼き付けたのだけれど、私にも赤い血が流れているようで安心した。
結果としては、これで解毒薬が作れたのだけれど、それも即効性がある訳ではなく、徐々に改善が見られるといった程度だった。
それでも大した成果だったのだけれど、国王が病で急逝し、そうも言っていられなくなった。事情を知る人々は混乱していたのだけれど、王家はそうではなかった。
国葬が執行された夜、王族が集結してる中に王子の付き添いの私も交じり、遺言書が公開されたのだけれど、国王は死が近い事を悟り、私を養子にする書類を揃えていたのだった。王子が回復する間だけでよいという内容だったのだけれど、当然ながら丁重に断った。その瞬間、王族全員が土下座をした。国王の首を刎ねた事もある私を選ぶとは常軌を逸している。それにしても、眼前に広がる光景にどうしてよいのか判らずにいた所、王子に兄と呼ばせて欲しいと泣かれ、否応なく玉座に就く事となってしまった。
私が統治していた年数は六年。その間に寝る間も惜しんで大昔からの機密文書を読み漁り、その中に死の森の形成に関する物を発見、ボシダ州を調査した物もあった。ナダール王国のある中央大陸を緯度零度で北大陸と南大陸に分け、北大陸はナダール王国、南大陸は数ヶ国が連合軍となり、戦をしていた時期があった。
ボシダ州は東海岸沿いにあり、漁業の盛んな州だった。それもあって兵糧調達の一端を担っていた。しかし、戦が長期化してしまい、漁業だけでは賄えなくなり始め、口減らしとして子供や年寄りを船に乗せ、大波で船を襲って転覆させていたのだ。それは私が和三国へ流れ着いた頃と合致する。それを知って戦慄した。
私はこの生き残りなのではないだろうか。ボシダ州が死の森に覆われた直接的な原因は、推測ですらも書かれてはいなかったのだけれど、時期としてはその頃になっていた。私は探し物の暗示を得られた思いがした。このお陰で、玉座に就いて良かったと思えた。
因みに一夫多妻制が未だに引き継がれていて、貴族も醜聞が多かった事もあり、王家以外は一夫一妻制にした。男共からは非難の声が多く寄せられたが、それだけだった為、捨て置いた。
六年もしない内に王子の瘤や疣が消え失せ、あの煙を出す事もなくなったのだけれど、万全を期す為に暫く様子を見た後、王位を継承した。私の退位に際し、国王となった彼から大公位を叙爵してサドラミュオ大公となり、こうして長生きな王族が誕生した。
六年とは言え、睡眠を大分削っていた事もあって、解放された後はウィシュヘンドの屋敷で約二ヶ月も眠り続けた。目が覚めてからは全ての領地で不正がないかを調査したのだけれど、相当稼いでいた事しか判らなかった。
そうだった。話は前後してしまうのだけれど、私は遣れる事を遣りながら唯々生きていた。それなのに何故だか金が非常に有り余るようになっていた。その使い道を思案している時、格差の波が押し寄せて捨て子が大勢いた時期だった事もあり、孤児院を建設したのだ。私の全ての領地からにいる捨て子を、ウィシュヘンドの孤児院へ集結させた。
定期的に巡回している内に絵の巧い子を見付け、その子に絵を描く道具を贈った。すると順調に才能を伸ばし、孤児院から巣立つ頃には、沢山の後援者が付いていた。孤児院にはこれまで描いた、売り手のなかった絵を残して行くような非常に奇特な子だった。
彼は絵画で稼いだ金の殆どを孤児院に寄付をしてくれていた。孤児院以上の生活水準を望まなかったようだ。それは私の屋敷に訪れた時の格好が物語っていた。
中年を過ぎた頃、私に礼をさせて欲しいとウィシュヘンドの屋敷に来訪したのだけれど、彼はそのまま居着いてしまった。絵画のみならず、彫刻や家具作りも遣っていた。それ以外にも色々と手を広げ、その才能を如何なく発揮し、何に対して満足をしたのかは知らないけれど、笑顔で逝った。
彼の行方を追う人がいたけれど、私は決して明かさなかった。彼の名はガップツァック・フェルエネ・ソルと言う。
私が彼の名を憶えているのは、絵画に署名がされているお陰である事を内密にしておきたい。
裕福であると、頭の黒い鼠が時折現れる。そうでなくとも、取り入ろうと躍起になる輩がいる。私の敵は大抵がこれ等だった。
つい最近だと、名前は……、ポバルと言ったか。王都にある別邸で執事として雇っていたのだけれど、窃盗団の頭領だったのだよね。善くも私の下へ来られたと寒心に堪えなかったのだけれど、黒幕ごと美味しく頂く為に、知っていて迎え入れる事にした。
手口は屋敷にある美術品の贋作を作り、それと摩り替え、本物を売るという物なのだけれど、家ではそれに加え、宿泊施設として使っていた。それも私の寝室を主に使っていたのだから、ポバル以外の使用人も新聞で名を晒した上で糾弾しておいたのだけれど、それだけで気が済む筈もなかった。
ポバルは奴隷にし、生活が一番厳しい村へ移送した。黒幕は当時の主席宰相で名前は失念したのだけれど、確か公爵だったのだけれど、それも奴隷にしてポバルと同村へ移送した。それ等の一族郎党は農奴にした。
その元主席宰相が送り込んで来たニョニエル公爵は、私とイノウエ家の断絶をさせる為の工作以外に、ウィシュヘンドを奪取しようと画策していたのだけれど、それも一族で乗り込んで来ていた為、一族郎党を奴隷とした。
それに一枚噛んでいた頭の黒い鼠がシュルヴィ・ナポム・カウトレンドで、シュルヴィ引退後は息子のユージュニーが情報を流していたのだ。直ぐに引き継げる人材がいなかった為にユージュニーは目溢しをしていたのだけれど、それに見合う仕事が出来ておらず、且つ引き継げる人材が育ちつつあり、彼の娘のいる孤児院の院長補佐にして、家令を退かせた。
「ふうん。それでユージュニーさんが消えていたんだな。今知ったわ」
聞き慣れた声を耳にし、水伯は過去を振り返っている自分に気付いた。
何故……、何故過去を振り返るような事をしているのだろうか。
「それは、俺には解らないよ。水伯が振り返りたくなったんじゃないのか?」
振り返りたくなるような出来事があったという事なのだろうか。
「死にそうな目に遭ったからじゃないのか? そういう目に遭ったら走馬灯のように思い出すって言うからな」
死にそうな目? 走馬灯……。
「呪われて内臓に沢山の穴が空いて、死に掛けていたんだってさ。走馬灯は過去の出来事が次々と見えるとかなんとか。本当に見えたのか?」
水伯が目を開けた。水伯の顔を覗き込んでいた颯が、瞼が開いて行く様子を見て笑顔になっていた。水伯は颯が意外と近くにいて驚いたが、表情には出なかった。
「お早う。起きるのは今か今かと待っていたよ。皆は夕食に行っているから、今は俺だけしかいないんだよ。ご免な」
そう言う颯の屈託のない笑顔を見て、水伯は懐かしさを感じていると、颯が視界から消えた。
「力は入る?」
手に力を入れても、指が微かに動くだけだった。
「無理のようだね」
「解った」
立ち上がっていた颯は魔術で水伯の上体を起こすと、綿の沢山詰まった大小様々な座布団を枕元に傾斜が出来るように幾つも並べ、そこにもたれさせた。そして掛け布団を掛け直す。水伯は顔を動かして颯を見た。
「有難う」
「どう致しまして。喉は乾いてない? 何か飲むか?」
「不思議と渇いていないから、今はよいよ。有難う」
本当に嬉しそうにしている颯を見ていると、颯は寝台脇に座って俄に真顔になった。
「それじゃあ飲み込めないかも知れないけど、今の内にあった事を話しておくよ」
そう言うと否が応でも話し始めた。
「……という訳で話は終わりだけど、次は兄貴から聞いて」
「そう、解った。……それにしても玲太郎が頑張ってくれたのだね。明良にもずっと付いていて貰って、随分と迷惑を掛けてしまったよ」
起きたばかりの頭では理解のし難い話ではあったが、凡その出来事は掴めたようだった。
「兄貴は水伯に沢山世話になっているから、出来る時に出来る事をしておきたいだろうから、別に気にする程の事でもないと思うけどな。俺はそんなに世話をしていなかったのに、目覚める所に居合わせてしまって兄貴と玲太郎に申し訳ないわ」
苦笑すると、また真顔に戻る。
「それはさて置き、寝言をずっと言っていたけど、過去を振り返っていたのか?」
「多分、……多分なのだけれど、振り返っていたようだね。とても懐かしい気持ちで胸が一杯なのだけれど、颯が幼い頃と同じ笑顔を見せてくれるお陰かも知れないね」
「そうなんだな。何を言っているのか、耳を近付けて聞いていたんだけど、明確に聞こえたのは最後の方だけだったわ」
笑顔の颯を見て微笑んでいる水伯はふと気になった。
「玲太郎の修了式は終わったのかい?」
「明日だよ」
「そうなのだね」
「明日はニーティも連れて来るよ。水伯が倒れた日に来ていたからな」
「ああ、ニーティまで来ていたのだね」
「呪いに関しては、ニーティが一番だからな」
「そう……」
「それも知識のない玲太郎が吹き飛ばしてしまったんだけどな」
そう言って颯が笑った。水伯は釣られて笑顔になった。
「もっと寝込むのかと思っていたけど、案外早く起きてくれて良かったわ。でも当分は安静にした方がいいかもな」
「そうだね。もう暫くこうしているのも悪くないね」
「寝起きだけどどう? 頭が重いとか、体が草臥れているとか、不調はある?」
「力が入り難いだけでそれ以外は別に……、大丈夫だね。有難う」
「お腹が空いたという感じもなし?」
「……ないね。それにつけても、私は何日眠っていたの?」
「今日で五日だと思う。……九日に倒れていたから、十、十一、十二、十三、十四で五日になるから、合っていたな」
指折り数えて、水伯に笑顔を見せた。
「こうやって数えると、割と早かったんだな。もう少し日が経っているような気になっていたよ」
「倒れて六日目なのだね。服毒して寝込んだ時より時間が掛かっているよ」
「まあ、内臓に穴が空いていたからな。俺も服毒してどれくらい寝込むのか、試してみたいなあ」
「寝込む状態になる事はまだよい方だからね。吐き気が続いたり、お腹を下し続けたりする事もあるのだよ? 三四日で済めばよいけれど、もっと長引く事もあるし、それも薬を飲んでも治らないのだから悲惨だよ? 猛毒なら大抵寝込む事になるのだけれど、お勧めは出来ないね」
「そう? それじゃあ止めておくわ」
水伯は颯を見詰めていた。颯も見詰め返していた。
「俺の顔を見詰めているけど、どうかした?」
「本当に大きくなったと思ってね」
颯は思わず鼻で笑ったが、それも苦笑に変わった。
「まあ、年齢に関係なく、体が大きいから余計そう思うのかもな」
「そうだね、それはあるね」
たわいない話をしていると、玲太郎と明良が戻って来た。上体を起こしている水伯を見て、玲太郎は駆け寄り、明良は立ち尽くしていた。
「父上!」
靴を履いたまま寝台に飛び込んだ。右手が水伯の太腿に届く程度しか飛び込めなかった。
「玲太郎、先に靴を脱げよ」
反対側に座っている颯が窘めると、玲太郎は膝を突いて靴を脱いだ。
「はーちゃんは細かいんだから……」
不貞腐れて言うと、水伯の顔を見て表情を一変させた。
「父上、やっと目が覚めたんだね。良かったのよ!」
そう言いながら抱き着いて行った。
「心配を掛けてしまって済まなかったね。玲太郎のお陰で目覚める事が出来たよ。有難う」
玲太郎の背中を撫でた。そして漸く近付いて来ている明良に視線を遣る。
「明良も有難う。ずっと看病をしてくれていたそうだね」
「どう致しまして。目覚めはどう? 体は辛くない? 何か飲む? それとも食べる?」
そう言うと寝台脇に座った。
「目覚めは意外と悪くなくて、体に力が入り難いけれど大丈夫だね。喉は乾いていないし、お腹は空いていないから、それも大丈夫。有難う」
明良は久し振りに見る水伯のいつもの柔和な微笑みを見て、心底から安堵した。
「十九時頃に牛乳に蜂蜜を入れた物を飲ませたから、お腹が空いていないのかも知れないね」
「そうなのだね。きっとそれのお陰なのだろうね」
「本当に飲み物も欲しくないの?」
「うん、大丈夫。有難う」
珍しく水伯相手でも感情が表情に出ている明良を見た颯は自然と微笑んでいた。その視線を感じた明良は颯に視線を遣り、いつもの無表情に戻った。
「どうかしたの? 私の顔に何か付いているの?」
「いや、別に」
「ならばよいのだけれど」
素っ気ない物言いだったが、颯は全く気にならなかった。玲太郎はと言うと、そんな事にはお構いなしで、歓喜して水伯の胸に顔を埋めて抱き着いていた。水伯はそんな玲太郎の頭を愛おしそうに撫でた。
翌日は大事を取ってそのままで過ごしたが、目覚めた事でルニリナと八千代とガーナスがそれぞれ見舞いに来ていた。
それから更に数日が経って夏休みに突入し、玲太郎はルニリナを家庭教師に迎え、休日を返上して復習と魔術系の実技、特に箱舟の操縦の練習に励んでいて、水伯は仕事を再開するまでに回復し、穏やかに時が流れていた。
明良は朝食後と、入浴時間を除いた夕食から睡眠まで、颯は夕食時と玲太郎の入浴時に水伯邸に来訪したが、玲太郎としては颯と過ごせる時間が短くなってしまい、不満に思っていた。
ある日の夕食後に居室で、脚の長い方の椅子に腰を掛けている颯がルニリナと水伯の三人で談笑していると、それを長椅子に座った玲太郎が恨めしそうに見詰めていた。その隣にいた明良は横目で見ていたが、玲太郎を抱えて勉強部屋兼図書室へと向かった。玲太郎はこれ幸いとばかりに、気を紛らわせるように読書を始めた。
「何故玲太郎は私と一緒にいるのに、私の方を向いて話してくれないの?」
本を選んでいる時、不意に明良が問うた。
「うん? ずっとずっとあーちゃんの方を向いていられる訳がないのよ。勉強でも休憩があるでしょ?」
「そうではなく、颯がいると必ず其方に視線を遣るよね?」
「え……、だって気になるんだもん」
「颯がいると気が散るの?」
「だってはーちゃんは僕と話をしてくれないんだもん」
「颯と話がしたいの?」
「そう」
「私だって玲太郎と話したいのに、何故話してくれないの?」
「あーちゃんは毎日割といると思うから、話すって言っても話す事が大してないよね」
「雑談とか、勉強とかの話があるじゃない」
「勉強の事はルニリナ先生がいるから、ルニリナ先生に聞けばよいでしょ?」
「私にも訊いて貰いたいね」
明良の独占欲が玲太郎を締め付ける度に、玲太郎は慣れていても言いようのない気持ちで一杯になった。玲太郎は苦笑しながら明良を見る。
「そんな事を言うんだったら、下ろしてよ。抱っこは終わりね」
明良は目を丸くした。
「ご免。もう言わないから抱っこは継続ね」
そして二人は本選びを再開した。
入浴時間になると颯が遣って来て、玲太郎を連れて浴室へ向かった。水伯は漫然と退室する様を見ていた。明良がそんな水伯を不思議そうに見ている。
「最近、そういう風にしている事が多いけれど、どうかしたの?」
水伯は明良に顔を向けると柔和な笑みを浮かべる。
「少しとは言え、寝込んでいる間に夢を見ていてね、それがまだ続いているのではないかと思って……。夢との区別が付かなくなっているような感じなのだよ」
「見ていた夢の事は全く憶えていないのだよね?」
「そうなのだけれどね。私は長い間、対精霊だと思い込んでいた物がそうではなかったという事実が、未だに信じられないのだよね。その上、それが体に戻った所為なのか、自分の体が自分の物ではないような気がしてね。時折浮遊感に襲われるよ」
「凡そ二千五百年振りに本来の体に戻ったのだから、仕方がないのかも知れないね。悪霊が言うには、魔力量も悪霊や私達と同等だそうだし、それもその内に馴染んで来るよ」
「それに関しては、増えた気はしないのだけれどね」
掌を広げてそれを眺めた。
「そう? それでも結構な量が増えたと思うよ?」
「それはそうなのだけれど、不思議と増えた気がしないのだよね。……ではあるのだけれど、それもあって浮遊感があるのかも知れないね。魔力を使用しようとすると、思わぬ量を使用してしまう事も屡々あるからね」
明良を見て柔和に微笑んだ。明良はいつもの無表情で水伯を見詰めている。
「そのお陰でお茶が美味しくなったとか、服の生地は同じ素材なのに丈夫になったとか、そういう変化はあるの?」
「ないね」
「そういう変化はないのだね。成程」
頷きながら、視線を水伯の服に移す。今日水伯が着ている色は向日葵色だった。
「それにしても最近は明るい色の服を着ているよね。ずっと黒だったから、そういう色を着ている水伯に慣れるには時間が掛かりそう」
そう言う明良を見て苦笑すると、明良が水伯の目に視線を戻した。
「それは黒がよいという意見と受け取ってよいのかい? 颯には橙色の時に似合っていると褒めて貰えたのだけれどね」
「玲太郎は?」
「玲太郎も黒がよいと言うね。私もどの色が自分に似合うのかを試している最中だから、また黒に戻るかも知れないよ?」
「一層の事、花柄とか、水玉とか、幾何学とか、七宝とか、そういう柄物の服にしてみたらどう? 多色の方が似合うかも知れないよ?」
「そうなると柄や色の組み合わせが多岐に亘るから楽しそうではあるけれど……」
言葉を濁すとまた苦笑する。
「面倒臭くなって止めてしまいそう」
「金糸で刺繍と言う手もあるよ?」
水伯は思わず鼻で笑ってしまう。
「何故金糸なの?」
「派手だから。……ああ、髪の色からすると、銀糸の方がよいね」
「そう?」
「うん。対精霊擬きと合体してからは、髪に艶が出て煌いて見えるから、薄い灰色と言うよりは銀色のようだよね」
そう言われて、水伯は自分の髪を手にして凝視する。
「ああ、これね……。長い事灰色だったから、これこそ慣れないね。何故こういう色になってしまったのか……」
「生ける伝説に箔が付いて、それはそれでよいと思うよ」
「これでは今後も帽子が欠かせないね」
「正しく唯一無二になって良かったのではないの?」
「名は体を表すと言うものね。銀ではなくても、灰色の時点で唯一だったと思うのだけれど…」
「灰色は黒に白髪が多く交ざっていると、遠目であればそう見えるから、唯一とは言い難いよ」
水伯がそれを聞いて、また鼻で笑った。
「遠目であればこの髪も灰色に見えるだろうから、同じだと思うのだけれどね」
言い終えると、水伯の左手に茶器が顕現した。右手で持ち手を持ち、茶を二口飲んだ。
「明良も飲むかい?」
「私はいらない。有難う」
明良はこうして話す水伯を見て、実はこれが夢で、目が覚めたら水伯はまだ昏倒しているのではないかと一抹の不安が過るのだった。
水伯は二十五時を過ぎると寝室で眠っている玲太郎の傍で読書をする。夜中に厠へ連れて行くまではこの部屋で過ごす。
目覚めてから明確に見えるようになったヌトにも視線を送るようになった。玲太郎が赤ん坊の頃から傍にいた気配の一つと一致し、且つ玲太郎が心を許していた為、余計に気になっていた。
見えるようになったからと言って、話す事はなかった。ヌトは眠りこけていて純粋にその機会がないだけで、ノユとズヤは水伯と目を合わせても、それ以上の接触を図ろうとはしなかった。ハソは一度来た切りで、その時に「直って本に良かったな。そのお陰でわし等が見えるようになったのであるな」と言い、それ以外は笑顔で頷くだけで、何も言わなかった。
(また近い内に神座嘉へ行かなくてはね。シピ様に治ったと報せなくては……)
そう思っていると、ふとおかしくなって来て笑いを堪えた。颯には「あれ等が神だと、同等の力を持つ俺も神になるから、神扱いしなくていいよ」と言われ、明良には「悪霊は悪霊でしかないから敬称はいらないよ」と言われた事を思い出した。そして颯の寝台で眠っているヌトを見る。
(それにしても、このように体を自在に拡縮が出来るのだから、それはそれで凄いのだよね。実寸はどれ程の大きさなのだろう……。ヌト様程の大きさが実は実寸という事も有り得るのかも知れないね)
目覚めてからは手にしている本よりも、空想に耽る方が多くなっていた。
(何やら妙な癖が付いてしまったようなのだけれど、何れはなくなるとしても、それは一体何時になるのだろうか? ……このまま夢想家にならないように気を付けなくては)
そう決意した傍から、玲太郎を見てまた空想に耽った。
昏倒している間に溜まっていた仕事は早々に片付けてしまい、直ぐに日常に戻っていた水伯は昔々の大昔の蔵書に再度目を通し始めていた。そうすれば昏倒している間に見ていた夢を思い出せそうな気がしたからだが、読めども読めども夢が蘇る事はなく、懐かしさが増すのみだった。
そして、昏倒する直前の記憶も蘇る事はなかった。昏倒した日の朝食後から昏倒するまでの間の記憶が綺麗に消失していて、全く思い出せなかった。明良に「頭には外傷がなかったから、腸に穴が空いた時の痛みが相当の物だったのだろう」と言われて納得していたが、水伯としては思い出せる物なら思い出したかった。自分が殺したとされる者の写真を見せられても、その場に落ちていた弁当の中の写真を見せられても、明らかな不審者に気を許した理由も何も思い出せなかった。
こうして色々と思い出そうとして、何故か空想に耽る癖が付き掛けていたのだった。
シピが珍しく水伯邸へ遣って来た。水伯の居場所を感知して真っ直ぐに二階の執務室へ向かった。それを感知したノユとズヤもルニリナのいる客間からそこへ移ると、等身大のシピが床から生えているように見え、二体は哄笑した。
「ズヤもノユも久しいと言うに、それは酷いのではなかろうか」
「あーっはっはっは、ひっ、酷いのはお主ではないか。床から生えておるぞ。あはははは」
ズヤが腹を抱えて笑いながら言うと、ノユも笑いながら頷いた。おかしいとは思えない水伯は困惑していた。シピが難しい表情をして三尺に縮むとノユとズヤは静かになる。
「詰まらぬな……」
「然り……」
「からかうのは止せよ。わしは灰色の子に会いに来たのであって、ズヤとノユに笑われに来たのではないのであるぞ」
水伯はそれを苦笑しながら見るしかなかった。シピは水伯に顔を向けると笑顔になる。
「灰色の子も久しいな。ハソから直ったと聞いて来てみたのよ」
水伯も柔和な微笑みを浮かべた。
「シピ様とは五年振りでしょうか。あの時はお目に掛かれませんでしたが、こうしてお話し出来るようになり、欣喜の志に御座います」
「そう畏まらずともよいわ。わしの事も敬称は要らぬぞ。気安うにして呉れぬか」
「解りました」
「敬語も止めぬか」
苦笑すると頷いた。
「解った」
「わしはノユである。わしにも敬称と敬語はいらぬからな」
「今更であるがわしはズヤである。わしにも気安うにな」
水伯は返事をせず、笑顔を向けて頷いただけだった。
「それにしても壊れておったから心配をしておったのであるが、綺麗に直っておるな。れいたろうは凄いな。傍で見ておりたかったわ」
「それよ。わしは直しておる最中を見たのであるが、光っておったぞ」
得意満面でズヤが言うと、シピが顔を顰めた。
「何故その時、わしに報せては呉れなんだのよ?」
「誰からも報されなんだのか?」
シピはノユを見て頷く。
「誰からも、であるな。ハソから聞いて住処から出て来た所よ」
「直ってから日が経っておるのであるが、ハソから何時聞いたのよ?」
「はて、わしは地上に出ぬのでな……、何時であったか判らぬわ」
「それは、来るのが遅いとしか言いようがないわ」
ノユはそう言うと水伯に視線を遣った。シピは思わずその視線を追って水伯に顔を向けた。
「それにつけても、わしが入れた印の所為で魔力が漏れておった筈なのであるが、それも閉じておるのであるな。れいたろうは凄いな」
「それは関係ないぞ。わし等と同等の魔力になると漏れなくなるようでな」
シピは目を剥くとズヤを見た。
「それは知らなんだわ。実か?」
「実であるな」
「それはそれは……」
不意に水伯に近付いて、腹の辺りを凝視した。ノユはそれを見て鼻で笑う。
「ま、若しやしたら消した可能性も否めぬがな」
「何っ、印とは消せる物なのであるか!?」
驚愕したシピは顔を顰めてノユを見ていた。
「わし等も消せるし、子も消そうと思えば消せるようであるぞ。明良も颯も消した事があると聞いたな」
「それは俄に信じられぬな……」
そう言いながら水伯の周りを一周すると、満足をしたようで満面の笑みを浮かべて水伯を見る。
「兎にも角にも直って良かったわ。れいたろうが思いの外早う直して呉れたから嬉しいわ。ではそろそろ帰るわな」
「早っ。早過ぎぬか?」
ズヤが言うと、ノユが苦笑した。シピは二体を交互に見ている。
「もう少しおらぬのか」
「此処まで来たから、レウに会うて帰ろうと思うておるのよ」
「それにしても早過ぎぬか」
「灰色の子とわしはこのような物よ。昔は定期的に舞いを観ておったのであるがな。それも何時しかのうなってしもうて、寂しゅうて寂しゅうて……。ニムに居場所を教えて貰うて様子を見に来てはおったのであるが、おらぬ時もあってな、それで来ぬようになっておったのよ。一時期は舞いをせぬのかと、観察をしておった事もあるにはあるがな。この間は漸く舞いを観られると思うたら、れいたろうがおって、其方に気を取られてしもうてな。きちんと観ておらなんだのよ」
「お主の目的は舞いかよ」
ズヤが些か不快そうに言うと、ノユが苦笑した。
「ま、それもまた観察の理由にはなり得ようて」
「魔力が巨大ではあったのであるが、わしは大して気にならなんだのでな。ニムやズヤとは違うのよ」
シピはまた水伯に顔を向けると、笑顔になった。
「それではまた会おうぞ。それまで息災にな」
「シピもお元気で」
水伯も笑顔で応えると、シピは体の大きさを元に戻して天井を透り抜けて行った。
「では、わしもニーティの部屋へ戻るわ」
「灰色の子の書物は多くて読み応えがあるわ。此処が気に入っておるから、滞在を許して呉れよ」
ノユとズヤが続けざまに言うと、水伯は笑顔で頷いた。
「また何時でも話しましょう」
「ではな」
ズヤが言うと、二体同時に扉のある壁を透り抜けて行った。水伯は一気に疲労感に襲われ、執務机に肘を突き、顔を両手で覆った。
(女三人寄れば姦しいと言うけれど、神とされる存在でも姦しい物なのだね……)
そのまま頬杖を突いて、机に置かれている古い本に視線を遣った。
(シピ様、……シピとは本当に古い付き合いだからね。あれは何時だっただろう……。気配に気付いたのは瞑想を始めて数年は経過していたような……、違った、あれは何時だろうか……)
曖昧な記憶を幾ら思い出そうとしても、曖昧なままだった。
(そう言えば颯が、ある単語に関わる記憶を鮮明にする魔術を開発したと言っていたから、それで鮮明にして貰おうか……。それはそれで、記憶を鮮明にする為の単語が思い浮かばないのだよね……。和三国で遣ったとして、忌まわしき記憶も鮮明になるだろうからこれはないね。加伊田島も同様。神社……でもそうなりそうだね。津波、これならまだ絞れそうなのだけれど蘇る記憶が少なそう。……難しいね)
水伯はこの後も思い付く限りの単語を浮かべては消す事を繰り返していたが、これ、という単語が浮かぶ前に読書を再開した。




