第二十四話 しかして起きる異変
十一日の朝、颯は目を覚ますと重い頭で水伯の事を思い、右手で両目を覆っていた。
(あー……、夢じゃないんだよなあ……)
枕元にある目覚まし時計を手探りで手にし、小さな光の玉を顕現させて時間を確認して元の位置に戻す。まだ六時になっていなかった。両手で顔を擦り、それから上体を起こすと眠っている玲太郎を見ると、確かに眠っているようだった。起こさないように気を付け、玲太郎の足下の方から寝台を下りて靴を履いてから掛け布団を掛け直すと隣室へ向かった。
颯は洗浄魔術よりも実際に水で洗顔する方が好きなのだが、地下へ行くのは面倒で台所で済ませていた。ついでに口を濯いで魔術で顔を乾かし、湯を沸かし始めた。
「お早う。今日は珍しく早いではないか。どうかしたのであるか?」
「お早う。まだ起きて来なくても良かったのに」
「わしは二度寝はせぬのよ」
颯は振り返ってハソを見たが、何も言わずに直ぐ正面へ向いた。そして棚から茶筒を、水屋から急須と湯呑みを取り出して調理台に並べた。
「どうした、言うてみぬか」
「……うーん、なんだか昨日と一昨日の事が信じられなくて……。いや、実際に水伯が光っている所も見ているんだけど、俺の中で最強と言えばやはり水伯なんだよな。今は玲太郎が一番だと頭では理解してはいるんだけど、俺の中では水伯なんだよ。だからなんかこう……、何故遣られてしまったのかが判らなくて、水伯が寝ている所を見ても信じられないと言うか、受け入れられないと言うか……」
「成程。わしは玲太郎が一昨日の事を一切忘れておる方が信じられぬがな」
颯は思わずハソに顔を向けた。
「明良も颯も、酷な事を選択するとはな」
「水伯を治す為とは言え、相当の魔力を使って、ああも感覚が狂ってしまっては確実に支障があるからな。それこそ致し方なしだよ」
「魔力を使い過ぎて記憶が飛んだなぞ、善くも言えるわな。わしはそれが恐ろしいぞ……」
「喧しい」
颯は急須の蓋を開け、茶筒を手にした。
「それにつけても、玲太郎が灰色の子の対精霊擬きを戻して呉れたのは良かったではないか。あれが破裂する前にどうにかなって、実に良かったわ。やはり玲太郎でなければあれは出来なんだな」
茶筒の蓋を開けて、一旦それに茶葉を出してから急須に移した。茶筒に蓋をすると棚に戻しに行く。
「俺ならあの魔力量に自分の魔力を馴染ませている内に枯渇する自信があるわ」
「わしなら馴染ませる事が出来ぬままで魔力が枯渇する自信があるわ。しかしながらその魔力を、なんと言ったか、何かを向上させる為に使うたのであろう? それもわしであれば魔力では出来ぬわ。あれは透虫等の領域である筈なのであるがな。なんであったか? む? 抜け落ちておるぞ。なんであったか? はて?」
ハソが必死で思い出そうと何かを呟いていたが、暫くはそれを見ていた。
「自己治癒力な。……そうなのか、あれは透虫の領域なのか。何れにしても俺には出来ないな」
「自己治癒力な。済まぬ。それにつけても、颯は透虫等と仲がよいではないか」
「俺が出来る事は気配感知と千里眼くらいで、他人の腹の中にいる透虫をどうにかする事は出来ない」
「そうなのであるか? 出来そうではあるが……」
「体内を見る事は出来るけど、それだけだな」
話をしている内に湯が沸いた。颯は乾いた布巾を手に焜炉の前いに行き、火を止めると弦を持って急須に湯を注いだ。注ぎ終わると俄に玲太郎の悲鳴が聞こえ、颯は慌てて鉄瓶を鍋敷きに置いて玲太郎の下に駆け付ける。
「どうかしたのか?」
「ヌトがちいさいのよ」
そう言って玲太郎が颯を見る。颯は気が抜けて苦笑したが、その颯を見た玲太郎は険しい表情をしている。
「……あれ? はーちゃん?」
「そうだな。颯だな。寝惚けたか?」
寝台脇に座り、玲太郎に顔を近付けた。玲太郎も顔を近付け、颯の目を凝視した。
「其処を見ても仕方がないだろう?」
「うん?」
颯は顔を離すと玲太郎の額に手を当てた。
「熱はないな」
「はーちゃん、いつおおきくなったの? こえもちょっとちがうのよ。でもヌトはちいさいのよ。どうしてなの?」
「俺は一晩で大きくなったんだよ。それよりも、ヌトはそんなに言う程大きかったか?」
「ヌトはこれくらいだった」
そう言いながら両手で大きさを示す。
(この大きさだと、五年以上前になるか……。となると、玲太郎の精神年齢もその頃に戻っているのだろうか?)
「ここはどこ?」
「此処は俺の部屋」
「あーちゃんはどこ?」
「兄貴は別の所にいるよ。会いたいか?」
「ごはんのときにあうのよ」
「ご飯の時?」
「もうすぐごはん」
「ああ、六時か。ご飯は八時なんだよ。それまでもう少し寝ていて貰えるか?」
「おきる」
「起きても朝ご飯は食べられないぞ?」
「ええ? ごはんのじかんなのよ?」
「解った。それじゃあ服を着替えて、朝ご飯にしような」
部屋の集合灯を点けると光の玉を消した。
「服を持って来るから待っていて」
「うん」
颯が立ち上ると、その後ろにいたハソと玲太郎の目が合う。玲太郎は掛け布団を被って悲鳴を上げた。
「きゃー! ヌトー! ヌトー!!」
ハソは思わず颯の方に飛んで行った。
「颯、玲太郎が以前に戻っておるぞ」
「解っているよ。でもハソを見て嫌がるって事は、記憶がおかしなことになっているみたいだな」
そう言いながら折り戸を開けて、玲太郎の着替えを選ぶ。
「そうであるか?」
「ハソとニムを嫌がっていた頃は、和伍語しか話せなかったんだぞ? 共通語を話せていて、ヌトが縮んでいる事に疑問を持って、ハソが嫌となれば、記憶が混濁しているな」
「成程」
「玲太郎は兄貴の所へ連れて行くよ」
折り戸を閉めると玲太郎の方へ行く。
「そうした方がよいであろうな」
ハソはその場から動かなかった。
明良が厨房で朝食を作っていると、颯が玲太郎を抱いて現れた。
「お早う」
明良は野菜を炒めながら、二人の方に視線を送る。
「お早う。どうかしたの?」
「玲太郎の記憶が混濁しているから連れて来た。今日は兄貴が玲太郎を見て貰っていいか?」
「それは構わないけれど、どう混濁しているの?」
「共通語が話せるけど、ハソを見て嫌がって、ヌトが縮んでいる事に驚いて、という感じだな」
「解った。朝ご飯は食べて行く?」
「玲太郎だけ。俺は寮の食堂で玲太郎の分も食べるからいらない」
「そう、解った」
だが、明良が視線を送る度に、颯にしがみ付いている玲太郎の事が気になった。
「何故玲太郎は颯に抱き着いているの?」
「ああ、これ? 瞬間移動が怖かったみたいなんだよな」
「そうなの」
「それじゃあ先に食堂に行っているから」
「それはよいけれど、ばあちゃんと同じ食卓でも大丈夫なの?」
「ああ、そうだな。それは判らないんだよなあ……。兎に角、会わせてみるよ」
次に明良が振り返った時には、颯の姿はなかった。
颯が食堂へ入ると、八千代が既にいた。
「お早う」
「あら、おはよう。どうしたの?」
八千代はいつもの席にいて、颯の方に顔を向けていた。
「玲太郎の記憶が混濁していて、俺では手に余るから兄貴に見て貰おうと思って連れて来たんだよ」
「そうなの? どうしてそんな事になってるの?」
「うん、まあ、力を使い過ぎたからだな」
「そう。水伯さんを助ける為に頑張ったって聞いたけど、そんなに力を使ったの?」
「そうだよ。兄貴や俺では真似出来ない程のな」
「そんなに? 強大な力を持って、それを使うともなると大変なんだねえ」
難しい顔をした八千代を見て、颯は苦笑した。
「玲太郎、ばあちゃんに挨拶は?」
颯にしがみ付いている玲太郎が八千代の方を見る。
「……おはよう」
「玲太郎、おはよう。体の調子はどう?」
玲太郎は颯の首にしがみ付いた。
「からだのちょうし? なに?」
「元気かって訊いているんだよ」
「げんきよ。でもげんきじゃないのよ」
「もう直ぐ朝ご飯だからな、それを食べれば元気になるよ」
「ごはん? たべる」
颯が玲太郎の椅子を引くと、そこへ玲太郎を下ろそうとする。
「此処に座って」
玲太郎はしがみ付いて離れようとしなかった。
「只の椅子だよ。怖い事はないから大丈夫だぞ?」
「やだ」
「やだじゃなくて……、ご飯を食べるんだよな?」
「たべる」
「それじゃあ此処に座って」
「やだ」
颯は小さく溜息を吐いた。
明良が台車と共に食堂へ入室すると、颯が席に着いていた。
「やはり颯も食べるの? それだと足りないのだけれど……」
「俺は食べないよ。玲太郎が食べたら帰るから」
明良はそう言う颯の膝の上に玲太郎がいるのを見てしまい、眉が寄った。
「椅子に座るのを嫌がるから、このまま俺が食べさせるわ」
「ごはん? たべるのよ」
無邪気な笑顔を明良に見せる。明良は不機嫌そうに給仕を済ませ、自分の席に着いた。
「玲太郎、頂きますして」
そう言われると玲太郎が合掌する。
「いただきます」
「箸は持てるよな?」
「もてるはないのよ」
「え、それは本当か? 実は持てるんだろう?」
玲太郎の右手に箸を持たせようとしたが持てなかった。
「うわ、持てないんだな」
「だからもてるはないのよ」
玲太郎は強い口調で言うと、颯が苦笑した。
「ご免、怒るなよ」
「おさじちょうだい」
「いや、俺が食べさせるわ。どれが食べたい? ほうれん草のお浸し? 目玉焼き? 野菜炒め? 腸詰め? 味噌汁? ご飯?」
「んー、あのね、やさいいため」
「はいはい」
颯が野菜炒めの人参と葱を玲太郎の口元へ運ぶと、玲太郎は頬張った。
「この位置だと遣り辛いなあ……。玲太郎、隣の椅子に座らないか?」
玲太郎は咀嚼をしながら首を横に振った。
「ごはんちょうだい」
「はいはい」
こうして明良は見たくもない物を見せられ、心が死んで行った。
朝食を終え、皆で茶を飲んでいると、颯が俄に声を上げた。
「あ! 慌てていて急須に湯を入れっ放しで来てしまった……。あー、渋いんだろうなあ……」
表情も渋くなっていた。
「仕方がないね。帰ったら捨てるしかないよ」
八千代が苦笑しながら言った。颯は真顔で首を横に振る。
「教訓として飲むわ」
それを聞いた八千代は「ふっ」と笑った。
「ご愁傷様」
「ごしゅうしょうさま? ってなに?」
「んー、悲しいと思っている人に寄り添った言葉、だね」
八千代が答えると、玲太郎は首を傾げる。
「むずかしい」
「可哀想ですねって事だよ」
颯が言うと、玲太郎は頷いた。
「わかった」
「え、今ので本当に解ったの?」
「あーちゃんはわかるはないの?」
「私は解っているけれど、玲太郎が本当に解ったのか、少しだけ心配になってね」
「ふうん……。はーちゃんかわいそうでしょ? ちがうの?」
「合っているね。玲太郎は賢いね」
そう言われて玲太郎は満足そうに笑顔になる。明良はそれを見て微笑んでいた。
「水伯さんはいつ起きられそうなの?」
八千代が明良と颯の顔を交互に見ると、明良の表情が無表情に戻った。
「明日か明後日には…と思うのだけれど、断言は出来ないね」
「そう……。それじゃあばあちゃんが朝ご飯も作るよ。その方が明良もいいんじゃない?」
「私も偶には作らないと作り方を忘れてしまうからね。気遣ってくれて有難う」
「そう? こういう時は頼って欲しいんだけどね」
不満そうに言いながら茶碗を手にした。
「ばあちゃんにはずっと甘えているのだけれどね」
「そうだな」
颯が頷くと、八千代を見る。
「ばあちゃんのご飯が一番美味しいから、頑張って作り続けて欲しいわ。その為にも…」
八千代が気怠そうに何度も小さく頷く。
「分かってる分かってる。きちんと毎日歩いてるよ」
「ならいいんだけど」
「刺繍に熱中するのはよいけれど、そればかりになるのは駄目だよ?」
「はいはい」
聞き飽きたという体ではあったが、表情は些か嬉しそうだった。
「玲太郎、そろそろあーちゃんのお膝に座る?」
満面の笑みを湛えて訊くと、玲太郎は首を横に振った。
「やだ」
見事に振られてしまった明良は悲痛な表情へと一変し、颯と八千代は苦笑する。
寮の朝食まで時間があった為、居室で玲太郎と一緒に寛いでいた颯だったが、いざ帰るとなると玲太郎が駄々を捏ね始めた。
「いやいや、はーちゃんもここにいるの」
「そうごてるなよ。な? 兄貴がいるから俺がいなくても大丈夫だって。風呂に入る時はまた来るから、な?」
「やだー」
「兄貴がいるからいいじゃないか。だろう?」
「あーちゃんはあーちゃんなのよ。はーちゃんははーちゃんでしょ?」
「それはそうだな」
「それに、うのだちゃんのおかしはないのよ? あーちゃんはだめぇええ!」
「宇野田ちゃんのお菓子がないと兄貴が駄目なのか? それは兄貴が可哀想だぞ?」
「ごしゅうしょうさま?」
「そうだな、ご愁傷様だな」
「はーちゃんもごしゅうしょうさま?」
「そうなんだよ。俺もご愁傷様なんだよなあ……」
「ふうん……」
玲太郎が大人しい内に、と思った颯は廊下を早足で歩き、寝室の扉を静かに開ける。椅子に座って水伯を看ていた明良が振り返った。
「どうしたの?」
「俺はそろそろ帰るから、玲太郎の事を頼むよ」
「うん、解った」
明良が立ち上がって颯の方に行くと、立ち止まった颯が玲太郎を下ろそうとしたが、玲太郎は颯の服を強く握っていて放そうとしなかった。
「玲太郎、私と一緒に此処にいようね」
そう言って玲太郎の脇の下に手を遣り、力任せに引っ張った。すると颯の服が伸びる。明良は仕方なしに玲太郎を元に戻した。
「手を放そうか?」
「ええ? はーちゃんといっしょはダメなの?」
「そうだね。颯は仕事があるから、あーちゃんと一緒にお留守番ね」
「いっしょはダメなの?」
「うん、駄目。ぜーったいに駄目」
明良が力強く言うと、玲太郎は手を放した。それを見た明良は即座に自分の方へ抱き寄せる。颯の服に皺が出来ていたがそれも一瞬で綺麗になった。
「それじゃあいい子でいろよ? 風呂の時間には来るからな?」
そう言って玲太郎の頭を撫でると、それ以上は何も言わずに姿を消した。
「あ? はーちゃん、きえたのよ。どこいったの?」
「仕事場に行ったのだよ。玲太郎は私と一緒に水伯の看病をしようね」
「すいはく? すいはくはどこ?」
明良は水伯が眠っている寝台の方へ歩き始める。
「この光っている人が水伯だよ」
玲太郎はここで漸く水伯を見た。眩しいのか、目を細くしている。
「わあぁ、ひかってるのよ。すごいね!」
「そうだろう? 今ね、体の悪い所を治していて、こうして光っているのだよね」
玲太郎と明良は見詰め合っていたが、玲太郎が水伯へ視線を移した。
「ふうん、そうなの。すいはく、からだがわるいの?」
眩しさを感じなくなって来たのか、玲太郎は真っ直ぐに水伯を見ている。
「うん、とても悪くてね。それでも良くなっている所だから、こうして私が付いているのだよ。今日は玲太郎も一緒にいるから、水伯もきっと喜んでいるよ」
「そう? すいはくがよろこぶの?」
「そうだよ。とても喜んでいるよ」
「ふうん」
玲太郎を抱いたまま、明良は椅子に腰を掛けた。
「それで、玲太郎は今幾つになったの?」
明良の方に顔を向け、直後に手を見ながら指を折り始めた。
「みっつ!」
三本の指を立ててみせると、満面の笑みを浮かべた。
「そう、三つになったのだね。早いね。ついこの間まで赤ちゃんだったのにね」
「ボク、あかちゃんじゃないのよ」
「今はね。それでも少し前までは赤ちゃんだったんだよ? それはそれは可愛い赤ちゃんでね…」
「んも~、ボクはあかちゃんじゃないのよ?」
明良は何も言わず、「ふふ」と笑った。この状況が明良に取ってなんだかとても好ましく、楽しくなって来た。
「きいてるの? ボクはあかちゃんじゃないのよ?」
不満そうな表情をしている玲太郎を見た明良は頷いた。
「聞いているよ。玲太郎はもう赤ちゃんじゃなかったね」
「そうなのよ。ボクはみっつだからね」
笑顔になったがそれも束の間で、神妙な面持ちで明良を見た。
「すいはくはおきるの? ねたままなの?」
「今日は寝たままだと思うよ。明日か、明後日に起きると思うのだけれどね。だから静かに見守ろうね」
「そうなの……。しずかにしてないとダメね」
「そうだね。水伯は病人だから、静かにね」
「うん。じゃあ、だっこおわりね」
そう言いながら下りようと動き始めた。
「うん?」
それを阻止すべく、明良が玲太郎を横に抱えた。
「だっこおわり。もうおわりなのよ」
このままさせておいて貰えると思っていた明良は、どう諦めさせるか思案を始めたが、玲太郎は足を動かしたり、手を突っ張らせて体を反らせようとしたりしていた。
「このままでは駄目なの?」
「おりる。すいはくのちかくにいたいのよ」
「それは駄目だね。ゆっくり眠らせて貰えない?」
玲太郎は抵抗を止めて明良を見た。
「え、ダメなの?」
「水伯を静かに眠らせようね。私達は邪魔にならないように、近くで見守るだけだよ? 近くと言っても此処からだからね」
「ここ?」
「そう、責めて隣の椅子に座ろうね」
不満そうな表情になると、それを水伯に向ける。
「うんー……」
「若しかしてこのまま、あーちゃんに抱っこされている方がよい?」
笑顔で訊いたが、玲太郎は見向きもしなかった。
「すわる」
「そう……」
寂しそうな顔をして立ち上がると隣の椅子に玲太郎を下ろし、ついでに靴を脱がせた。
「すいはく、ひかってるの、まぶしいはないね」
「そうだね。不思議と眩しくないね」
明良は隣の椅子に腰を掛け、水伯を見ている玲太郎を見た。
玲太郎は静かに水伯を見ている事に飽き、明良は玲太郎の寝台に積み木を顕現して、それで遊んで貰っていた。明良は椅子の向きを変えて、何かあった時の為に唯々水伯を見ていた。しかし、今は玲太郎にも気を配っている。玲太郎はそんな視線に気付く事なく、積み木に熱中していた。掛け布団の上に板を敷いて、そこで積み木を積んでいるのだが、少し傾斜になっているからか、思い通りに積めないようで仏頂面をしていた。
「寝台の上ではなく、床で遣る?」
玲太郎は明良を見ると首を横に振った。
「うのだちゃんのおかしがたべたいのよ」
「宇野田ちゃんのお菓子はないね」
「ないの? たべるはないの?」
「食べる物はあるけれど、宇野田ちゃんが作った物はないのだよね」
「そう……」
落胆した玲太郎は俯いてしまった。明良は水伯を見ると、また玲太郎に顔を向ける。
「それでは何か食べる物を、一緒に買いに行こうか?」
「なにたべるの?」
「玲太郎は何が食べたい?」
「ボク? うのだちゃんのおかし」
玲太郎の表情が見る見るうちに明るくなる。明良は苦笑する。
「宇野田ちゃんのお菓子は売っていないから買えないよ? それ以外に、果物を使った物とか、甘い物とか、温かい物とか、何か思い浮かぶ物はない?」
「それじゃあ、あまいのがよいね」
「甘い物ね。それ以外には?」
「あまいがよいのよ」
「甘ければよいの? 解った。それでは少しだけ水伯から離れようか」
明良は立ち上がって玲太郎の方の寝台脇に腰を下ろすと、玲太郎を引き寄せた。
「いくの? どこ?」
「とーっても暑い所。その前に財布を取りに私の部屋に行くからね」
玲太郎を抱き上げ、立ち上がると動きを止めた。
「そうだったね、玲太郎は怖いのだったね」
「なにがこわいの?」
明良が笑顔になると、玲太郎も釣られて笑顔になる。
「瞬間移動をするから目を閉じていて貰える?」
「しゅんかんいどう?」
「そう。景色が一瞬で変わるのだけれど、怖くないのであれば目を開けていてもよいよ?」
「いっしゅんでかわるの? どうかわるの?」
「それでは試しに遣ってみようね」
玲太郎は明良を見ているだけで返事はしなかった。
「それでは財布を取りに行って、その次に暑い所へ行こうね。ばあちゃんと颯にお土産を買わなくてはね」
「おみやげ? おいしいの?」
「美味しい物をお土産に選ぼうね」
「おいしいのね。わかった」
「それでは目を閉じてね」
「うん」
明良はその内に瞬間移動をすると、俄に景色が変わり、明良の部屋に到着した。
「目を開けてもよいよ」
そう言われて開けると景色が違っていた。
「うん? ここどこ?」
「あーちゃんの部屋」
「ふうん……」
周りを見回している間に財布を取り、ズボンの衣嚢に入れた。
「それでは買い物に行こうね」
「どこ?」
「暑い所へ行こうね」
言い終えると、今度は室内から屋外へ、それも日差しが強く降り注いでいる空にいた。
「わあ! おそとなのよ! なに? なに?」
明良の服を強く掴んで、辺りを見回している。その内、下へも視線を遣る。
「あっ、あっ、おそらにいるの? あーちゃん、こわいのよ。ここはこわい」
そう言って明良に抱き着いて行き、肩に顔を埋めた。明良は苦笑すると玲太郎の背中を擦り始める。
「落ちないから大丈夫だよ」
明良は人通りの少ない場所を見付け、そこへ瞬間移動する。
「ほら、もう地面に足が着いているよ」
「ほんとう?」
恐る恐る顔を上げると路地裏にいて視界が狭められた。
「あれ? ここどこ?」
「先程浮いていた所の真下だよ。地面に足が着いていれば怖くないよね?」
「んん? うん」
「玲太郎は靴を履いて来ていないから、このまま私が玲太郎を抱っこしていてもよいよね?」
「ボクのくつがないの?」
「ないね。抱っこしていてもよいよね?」
「わかった。だっこでよいよ」
最近の玲太郎からは考えられない返答で、明良は喜びに打ち震えていた。
「あーちゃん、どうしたの? さむいの?」
「ううん、嬉しい事があって、震えてしまっただけだよ」
「そうなの? ふるえるはおかしいのよ」
明良は玲太郎を強く抱き締めたい衝動に駆られていたがなんとか堪え、路地裏から大通りに出て辺りを見回す。人通りは多くはないが、そこそこあった。玲太郎はそれが気になるような素振りは一切見せなかった。
「何方へ行こうか? 左? 右?」
「あっち」
指で差し、明良が頷く。
「うん、それでは右ね」
「みぎ」
明良は右へ曲がり、どのような店があるのかを確認しながら歩く。玲太郎も店を見ていたが、興味が湧かないのか、無言で店を見ているだけだった。
「玲太郎、欲しい物はないの?」
「うーん、ない」
「この通りにはお菓子を売っているお店がないよね。今度は反対側のお店を見に行こうか。横断歩道へ行こうね」
「はーい」
中途半端な位置に瞬間移動していた事と右に曲がった事で、大して店を見ない内に大通りが終わろうとしていた。明良は大通りの終わる手前にあった横断歩道を渡り、反対側へ行く。
「あーちゃん、ここにおかしないの?」
「きっとある筈だからもう少し探してみようね」
「ほんとうにあるの?」
「あるとも、ないとも言えないね」
「ふうん……」
「この辺にはある筈なのだけれどね、記憶が曖昧だから一緒に探してね」
「わかった」
玲太郎が笑顔で頷くと、それを見た明良も笑顔になっていた。結局下賜を扱っている店が見付からず、別の通りに行って辿り着いた。玻璃張りで外からも陳列棚が見える。明良は立ち止ってそちらへ近寄った。
「玲太郎、あったよ。此処に入ろうね」
「あったのよ。これでおうちにかえれるね」
「帰りたいの?」
「つみきするのよ」
「それでは早く帰って帰ろうね」
「うん」
「その前に、此処でどれを買うか、考えてから入ろうね?」
「ボクはその赤いのがよいのよ」
「赤いの?」
明良が膝を屈めて指を差すと玲太郎を見る。
「これでよいの?」
「うん、それ」
「それ以外には?」
「うーん」
「最低でも後二個は選んでね。三個でも四個でもよいからね」
「さんこもいらないのよ。うーん……」
玲太郎が悩んでいる間に明良は買う物を決定した。
「決まった?」
「まだ」
「どれとどれがよいの?」
「あのまんなかのまあるいやつと、しろいののうえに、あの、だいだいがのってるやつ」
「まあるい奴と、橙色の物が載っている奴ね」
「そうなの。どっちがよいの?」
「両方買おうね」
「えっ」
玲太郎が驚いて明良を見ている内に、扉を手前に引いて中へ入ると店員に注文し、玲太郎が欲しがった菓子を三種類以外に、二種類を各四個買った。料金を支払って荷物を持って店を出て、路地裏を見付けて入って行き、瞬間移動で水伯のいる寝室へ戻った。水伯が使用している寝台脇に到着し、直ぐに様子を窺った。相変わらず発光していて、顔色を見る事は出来なかったが、凝視している内に表情が見える。穏やかな表情のままである事を確認した明良は机と椅子の方へ向かう。長椅子に玲太郎を下ろすと、机に荷物を置いた。
「靴を持って来るから待っていてね」
「うん」
玲太郎は椅子に座ると、靴を取って戻ってくる明良を見ていた。明良が跪いて玲太郎に靴を履かせると、顔を上げて笑顔になる。
「もう歩き回っても大丈夫だからね。それでは私はお茶を淹れて来ようと思っているのだけれど、玲太郎は何が飲みたい?」
「ちちがのみたいのよ」
「乳? ……ああ、山羊の乳ね。それはないのだよね。紅茶、緑茶、お白湯、水、乳もあるけれど牛の乳になるよ? どれがよい?」
「うーん、うしのちちでよいよ」
「温かいのと冷たいの、何方がよいの?」
「あたたかいの」
「解った。それでは持って来るから待っていてね。私が戻って来たら、一緒にお菓子を食べようね」
「はーい」
笑顔で玲太郎を見て頷くと、荷物を持って退室した。残された玲太郎はそのまま椅子に座って、明良が戻って来るのを大人しく待っていた。
玲太郎は昼食後に自ら明良の膝に座り、そのまま昼寝をし始めてしまった。明良は玲太郎が成長するに連れ、自ら膝に座る事が減りって行き、今では完全になくなっていた事を思い、今日のこの奇跡に感動していた。完全に安心し切って明良の腕の中で眠りに就いている玲太郎の顔を、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて見詰めている。
(このままなのか、それとも退行し続けるのか、元に戻るのか、どうなるかが全く予測出来ないけれど、この寝顔を守らなければね)
水伯の事を気に掛けながら、玲太郎を見詰めていた。
玲太郎が目を覚まし、徐に瞼を開く様子を見ていた明良が笑顔になる。
「お早う。起きたのだね」
「ボク、ねてたの?」
「良く眠っていたよ。三十分程度だけれどね」
目を擦りながら明良から視線を外した。
「あのひかり、なに?」
「あれは水伯だよ」
「あ、そうだった」
明良は水伯に向けられた眼差しを見ていた。
「積み木でも遣る? それとも絵本でも読もうか?」
「えほん?」
「絵本がよいの?」
「つみき!」
「そう、積み木ね。今度は床で遣ろうね」
「うん!」
元気良く返事をすると、明良の膝から下りようと動いた。明良は寝台と窓の間に二畳程の大きさの板が顕現し、その中央に積み木が幾つも顕現した。
「玲太郎、そちらに積み木を出したからね」
玲太郎の仰け反った背中を軽く押して連れて行くと、玲太郎はその板に上がる時、きちんと靴を脱いでから上がった。そして振り返る。
「あーちゃんもいっしょにやる?」
「あーちゃんは玲太郎が遊んでいる所を見ているよ」
そう言いながら靴を脱いで板に上がった。
「わかった」
積み木の傍に行くとそこで座り込み、積み木を一個一個手に取って形を確かめる。明良は玲太郎の対面に胡坐を掻き、その真剣な眼差しを見詰めていた。
明良は玲太郎ならば何時間でも見詰めていられると思っていたが、玲太郎が一向に積み木以外を見ようとはしない為、段々と不機嫌になってしまった。玲太郎はと言うと、積み木をある程度まで積み上げて満足すると笑顔になり、一頻り眺めては崩す、という事を何度も繰り返していて、明良の存在を忘れていた。
一時間もすると集中力が切れたのか、正面にいる明良を漸く見た。
「あーちゃんもやる?」
明良は視界に入れた喜びで笑顔になった。
「そうだね、遣ろうか」
「ほんとう? じゃあね、あーちゃんがつみきをえらぶね。ボクがつむね」
明良は立ち上がると、玲太郎の傍に胡坐を掻いて座る。
「解った。それでは私が選ぶね」
視界に入れないのは余りに寂しいという事が判って参加したのだが、玲太郎が存外嬉しそうにしている様子を見ると胸に痛くなった。
(そう言えば、誘って貰っても何時も読書を優先して、その合間に玲太郎を見ていただけだったのだよね。颯は何時も一緒に遊んでいたのにね……)
積み木を手渡す度に、玲太郎が明良を見上げて微笑んだ。明良も当然笑顔になる。笑顔になりながらも、幾度となく玲太郎の誘いを断っていた過去を呪いたくなった。
夕食前に颯が扉の前に姿を現した。
「只今。寮の閉門と施錠を頼んで来たから、このまま巡回の時間になるまでいるわ」
玲太郎は靴も履かずに颯の下へ駆け寄って抱き着いて行った。それを見た明良は一気に不機嫌になる。
「お帰り。それでは夕食の間、悪いのだけれど水伯を看ていてね」
「それは当然。それはさて置き、ばあちゃんに俺の分も作っておいてって頼んでおいて貰える?」
「うん、解った」
「はーちゃん、おみやげあるのよ」
顔を上げて颯を見ている玲太郎が嬉しそうに報告をする。颯は玲太郎を抱き上げた。
「お土産? 何処かへ行っていたのか?」
颯は歩き出した。明良は靴を履き、玲太郎の靴を持つと積み木と板を消した。
「あのね、あついところにいったの。あーちゃんがおかしをかってくれたのよ」
「そうなんだな。それは良かったな」
「はーちゃんのもあるのよ」
「それは有難う。夕食後に頂くとするよ。兄貴も有難うな」
「どう致しまして」
水伯が眠っている寝台脇に来ると、眩しそうに水伯を見る。
「水伯は目覚めたか?」
「見ての通り、目覚めていないよ」
「それじゃあまだまだ掛かるんだな」
「そうだね。あの対精霊擬きも縮んではいるのだけれど、存外時間が掛かっているようだね」
「ふうん、そうなのか。今なら代われるから、兄貴も夕食後に少しでも寝たらいいんじゃないのか?」
「一ヶ月程度ならば眠らなくても平気だから、まだ大丈夫だよ。有難う」
「ならいいんだけどな」
「はーちゃん、ヌトがいないのよ」
颯が玲太郎を見ると、険しい表情をしていた。
「ヌト? 俺の部屋で寝ているけど、起きないだろうから諦めろよ?」
「ええ? おきないの? ヌトはどうしておきないの?」
「寝ているからだよ」
「おこして」
「起きないからなあ……」
「ヌトにえほんをよんでもらうの」
「絵本? 兄貴に読んで貰えばいいだろう?」
「ヌトなの」
「それじゃあ俺が読もうか?」
「ヌトなの」
「ヌトじゃないと駄目なのか?」
「そう」
「そうなんだな。それじゃあもう諦めるしかないな」
「えっ」
玲太郎は目を丸くすると、徐々に顔を顰めて行って、泣きそうになってしまった。明良はそんな玲太郎を見て可愛いと思っていたが、颯は失笑した。
「あはははは。なんで泣くんだよ? ヌトじゃなくてもいいだろう?」
「うぅう……」
玲太郎は涙を流しながら颯の肩に顔を埋めた。明良が眉を顰める。
「泣かさないの」
「いや、だって、泣くとは思わないだろう? ヌトが起きないってだけなんだぞ?」
颯はそう言いながら玲太郎の背中を擦る。
「泣くなよ、な? 玲太郎はそんなにヌトに絵本を読んで貰いたいのか?」
「うう……」
話にならなかった。泣き止むまで、颯は玲太郎の背中を擦っていた。
「私が代わるよ?」
間で明良が何度もそう言ったが、颯は明良を見て首を横に振るだけだった。
「あ、俺の分の夕食も作って貰わないと……。ばあちゃんに言いに行って来るわ」
玲太郎を抱いたまま退室してしまうと、明良は玲太郎の靴を持ったままで立ち尽くしていた。それから玲太郎は颯に甘えたままで、離れようとはしなかった。明良はまた不機嫌になり、それを恨めしそうに見ていた。
しかし、それも入浴後には晴れた。魔術で全身を乾かし、寝間着を着せると玲太郎から抱き着いて来たからだった。明良は上機嫌で寝室へ戻り、玲太郎を抱いたままで椅子に座った。
「すいはくはおきないの?」
「起きないね。起きるのは明日か、それとも明後日か……」
「そうなの。すいはくがおきるまで、ボクもここにいてよいの?」
「構わないよ。私と一緒にいようね」
「うん」
「それではそろそろ横になろうか」
「まだねむらないのよ。ボクはおきる」
「絵本を読むから、布団に入らない?」
「ない」
「そうなの。それではもう少しこのままでいようね」
「うん」
明良はまだ玲太郎を抱いていられると思い、心中では歓喜していた。表情にもそれが出ていたが、玲太郎が見る事はなかった。玲太郎は水伯を見詰めているようで、明良は玲太郎の頭頂部を見ていた。
「何故玲太郎はあーちゃんと一緒にお風呂に入ってくれないの?」
「うん? おふろははーちゃんとはいる」
「あーちゃんとは入ってくれないの?」
「うん、はーちゃんとはいる」
「何故颯がよいの?」
「うん? はーちゃんがよいからなのよ」
「あーちゃんは駄目なの?」
「ダメ。あーちゃんはね、ボクをあかちゃんあつかいするの」
「だから駄目なの?」
「うん」
「赤ちゃん扱いをしなければあーちゃんとも入る?」
「うーん、あーちゃんとはいらない」
「入らないの? 何があっても?」
「あーちゃんはボクをあかちゃんあつかいするのよ」
「しないから、一緒に入らない?」
「ない」
明良は言い知れない敗北感を味わっていた。
「あーちゃん、いえにかえらないの?」
「家?」
「ここはボクのいえとちがうのよ」
「此処が玲太郎の家だよ?」
「えっ」
玲太郎は振り返ったが、明良の顔は見えなかった。
「此処に引っ越したのだけれど、憶えていないのだね」
声のする方へ顔を向けると、辛うじて明良の顔が見える。
「ほんとう?」
明良は顔を下に向けると、玲太郎と目が合う。
「本当だよ。水伯が眠っている寝台が私の物で、その隣が玲太郎の寝台、眠る所になっているのだよ」
「となり? ここ?」
顔を正面に向けて水伯を見て、その左側にある寝台を指で差すと、明良が指の先を見て頷く。
「そう、此処になるね」
「ふうん」
「もう眠る? 絵本を持って来て読もうか?」
「えほんはヌト」
「そう、解った」
玲太郎も明良も顔を水伯の方に向けた。
颯が明良の隣に座り、一緒に水伯を見ていた。
「やはり水伯は起きないな?」
「腸の穴は塞がっているのだけれどね。玲太郎が施した魔力放出が終わるまでは眠り続けるだろうと思うのだけれどね」
「上手い具合に対精霊擬きが戻ってくれるといいんだけどなあ」
「そうだね」
颯は振り返り、玲太郎を横目で一瞥した。
「それで、玲太郎はどうだった?」
「そうだね……、本人が三歳と言っているから、その辺りまで戻っていて、家は和伍にあると思っていたから、此処に来る前まで戻っているね。共通語が話せるのに不思議だよね。それから宇野田さんのお菓子に拘っていたよ。後は昼寝をしたのだけれど、起きても変わりなかったから、明朝に起きてもこのままの可能性もあるね」
「昼寝をしたんだな。ふうん……。もしこのままなら、学院は退学させるしかないな」
「それはそうだね。それにつけても、何故玲太郎が幼児退行してしまったのか、それを調査しなければならないね」
「それは記憶を消したからに決まっているだろう。それ以外ないよ」
「それは判らないよ? 若しかしたら、大量の魔力を使用したからかも知れないじゃないの」
「ないない。先ずあの薬に使った薬草を一種類ずつ飲ませて、変化が見られなかったら、次に二種類ずつ配合したのを飲ませて、それでも変化が見られなかったら三種類ずつ、っていう具合に試すしかないな」
「それ等の内の一種類と、口にした物との食べ合わせの可能性もあるね」
「あー……、それは有り得る。その可能性も含めると、あの日に食べた物を思い出さないといけないか。何を食べていたか……、ああ、そうだ。俺は夕食以外は同じ物を食べていないんだった」
「そうだね。あの日は此処にいたから水伯が作った朝食と、土の曜日だったから十時と昼食はイニーミーさんか、カイサさんの何方ともから訊かなければね。それから夕食はばあちゃんだから、ばあちゃんにも訊かなければいけないね。水伯には目が覚めてからになるだろうけれど、憶えていないような気がするよ」
「そうだな。事件当日だし、若しかしたら記憶が飛んでいるかも知れないな」
「対精霊擬きは見て来たの?」
「うん、見て来た。大分縮んでいたよ。上空から見た限りだと四分の一にはなっていると思うから、明日か、明後日だろうな」
「水伯から対精霊擬きの話を聞いた事はある?」
「うーん、水伯の対精霊は大きいなって言ったら、あの子が見えるようになってからは、何時も一緒にいた程度の話は聞いた事があるけど、それだけだな」
颯は明良の方に顔を向けた。
「兄貴はあるのか?」
「私はない。精霊は見えても半透明にしか見えないといった程度だね。水伯の対精霊の話をした記憶がないのだよね……」
「ふうん、そうなんだな」
明良はまた水伯に顔を向ける。二人はまた無言になり、颯が寮の巡回に行くまで沈黙が流れた。
二十九時少し前になって颯が帰寮すると、明良は玲太郎を抱えて厠へ行った。玲太郎は寝惚け眼で、明良にしがみ付いていた。小用を足すと颯に言われた通り、水を飲ませに厨房へ行った。
「あーちゃん、つめたいのはいや。ぬるいのがよいのよ」
玲太郎は寝惚けているにも拘らず、きちんと明良と認識していた。
「温いのね。解った」
魔術で少し温めると、玲太郎は一口飲んだ後、勢い良く飲み干した。寝室へ戻る道中、玲太郎は眠り掛けていたが、着いた頃には眠りに就いていた。そんなに時間を掛けていた積りがなかった明良は、開扉して室内に颯がいた事に驚いた。颯は椅子の背もたれに腕を置いて振り返っていた。
「お帰り。遅かったな」
「只今。颯は早過ぎではないの?」
そう言いながら閉扉して、玲太郎を寝台へ運ぶ。
「俺が水伯の傍にいるから、兄貴は帰って寝ていいぞ」
玲太郎を寝台に寝かせると、掛け布団を掛けた。明良は椅子のある方へ向かう。颯はそれを目で追った。
「今日は紫苑団の団員を沢山連れ帰ったのだから、私よりも颯の方が眠らなくてはね」
そう言いながら椅子に腰を掛け、颯に顔を向けた。
「沢山連れ帰ったけど、そんなに魔力は使っていないから平気なんだけどな」
「今日だけではないし、明日も明後日も行って貰わなければならないから、颯には体を休めて欲しいのだけれどね」
「そう? それじゃあ起きたら水伯と玲太郎の様子を見にまた来るわ」
颯は立ち上がると、明良を見下ろした。
「また明日な。お休み」
「お休み」
颯が消えると、明良は玲太郎を一瞥してから水伯へと視線を移す。眩い光に慣れる内に、その奥に見える水伯の穏やかな寝顔に安心すると、大きく溜息を吐いた。明良の思っていた以上に魔力を溜め込んでいたようで、水伯の目覚めが遅れるであろう事に心を砕いていた。それだけではなく、玲太郎の事もあり、明良は一番に頼りたい人物が寝込んでいる事で気持ちが暗澹としていた。
(私は猛省しなければならないのだよね……)
暗澹としている要因を思い、玲太郎の方に顔を向けた。
玲太郎は目を覚ますと見慣れた天井が視界に入り、左側の視界の端が嫌に眩しかった。顔をそちらへ向けると、明良がそちらに向いて椅子に座っていた。
「あーちゃん?」
明良はその声に振り返る。目を細めて上体を起こしている玲太郎を見て笑顔になる。
「お早う。起きたのだね。まだ眠っていてもよいのだよ?」
「あーちゃんの寝台で眠っている人は誰なの?」
その言を聞いて、明良は玲太郎が元に戻った事を悟った。そして立ち上がり、玲太郎のいる寝台脇へ腰を掛ける。
「水伯だよ」
「父上?」
「そう」
「どうして光ってるの?」
「対精霊を吸収させているのだよ」
驚いて水伯を一瞥する。
「え、……誰がやったの?」
「玲太郎だよ。水伯の腸に穴が空いてね、私では治療出来ないから玲太郎に遣って貰ったのだけれど、それには水伯の魔力が大量に必要で、対精霊の魔力を使用する事にしてね、その序に対精霊を吸収させているのだよ」
呆気に取られて明良を見ていたが、暫くして我に返る。
「僕が本当にやったの?」
「そうだよ。相当魔力を使ったようで、記憶が曖昧になってしまっているのだね」
「そんなに使ったの?」
「私では枯渇してしまう以上にね」
「全く覚えてない……」
「水伯の対精霊を見に行ってみる? 大分小さくなっているよ」
「行きたい」
「それでは着替えと洗顔と口を濯いで……、ああ、洗顔と口は私が洗浄魔術を掛けようね」
玲太郎は掛け時計に視線を遣る。七時二十分を過ぎた所だった。
「あれ? 今日の曜日は?」
「今日は十二日で星の曜日だよ」
玲太郎は目を丸くする。
「えっ、授業があるじゃない」
「そうだけれど、休んでも構わないよ? 水伯がこのような状態だからね。颯も授業は復習ばかりだから休んでも支障はないと言っていたよ」
「十一日には修了試験の結果が出てるはずなのよ。僕は何をしてたの?」
「此処にいたよ」
「えっ、結果は? はーちゃんは何か言ってなかった?」
「特に何も言っていなかったね」
「それじゃあ寮に戻るから、連れて行ってもらってもよい?」
「それは構わないけれど、水伯の対精霊は見ないの?」
「うん? それを見た後で送ってくれるよね?」
「私が送ってもよいけれど、颯がまた朝に来ると言っていたから、颯と帰ればよいのではないの?」
「はーちゃんが来るの? それじゃあそうする」
明良が玲太郎の頬に手を添えると、親指で撫でた。
「顔と口は綺麗にしたから、着替えようね」
「ありがとう」
笑顔になった玲太郎を見て、明良の表情が一層明るくなる。いつも以上に輝く笑顔を向けられた玲太郎は、発光する水伯以上に眩しく感じ、一瞬体が固まってしまった。
「服を持って来るから待っていてね」
「うん」
玲太郎は服を着替え、明良と外に出ると上空にいる水伯の対精霊の全体像を見る為、瞬間移動で上空へと連れて行ってもらった。頻繁に見ていた訳ではない事もあり、以前の大きさと比較しようもなかったが、それでも縮んでいる事は十二分に理解出来た。
「今日は無理にしても、明日中には水伯の体内に戻るのではないかと推測しているのだけれど、だからと言って水伯が目覚めるかどうかは、その時にならないと判明しないのだよね」
いつも以上に密着している明良の態度が気になる玲太郎だったが、そう言われて水伯の傍にいたい気持ちが芽生えた。
「今日は学院に行って、明日は水伯の傍にいる事にする?」
「うん、そうしようと思う……。傍にいたいけど、今日は傍にいても起きないんだよね?」
「私はそう思っているのだけれど、あの状態で目覚める可能性もなくはないね」
「うーん、とりあえず屋敷に戻ってもらってもよい?」
「解った。それでは戻ろうか」
玲太郎が頷こうとした途端、寝室に戻っていた。玲太郎は当然のように下りようとしたが、明良はそのまま玲太郎を抱いている。
「下ろしてくれないの?」
「最近は玲太郎に抱っこさせて貰えないから、もう暫くこのままでいたい」
輝く笑顔で言われると、玲太郎は受け入れてしまった。
「昨日は玲太郎が三歳児に戻ってしまって、どうなる事かと肝を冷やしたのだけれど、それが一日だけで済んで本当に安心したよ」
「うん? 三歳児? 僕が?」
「そう、三歳児になっていたのだよ。積み木で遊んでいたのだけれど、憶えていない?」
玲太郎は言われて初めて記憶が曖昧なのではなく、抜け落ちている事に気が付いた。
「ああ……、僕は、昨日の事を全く覚えてないんだね……」
愕然としてしまい、両手で頭を抱えて俯いた。暫く黙考していたが、昨日の事を何一つ思い出せなかった。明良は些か険しい表情になる。
「大量の魔力を使った弊害なのかも知れないね。翌日は普通だったけれど、翌々日に幼児退行してしまったから、何かしらの支障を来していたのではないかと思う」
両手を下ろして明良を見る。
「本当に昨日は三歳児になってたの?」
「なっていたよ。一緒に積み木で遊んだからね」
怪訝そうな表情になると、横目で明良を見た。
「えっ、あーちゃんが?」
「そうだよ。ずっとこの部屋で玲太郎と一緒にいたからね。ああ、お菓子を買いに外に出たのだけれど、それも大して時間を掛けていないから、ほぼこの部屋にいたような物だね」
「ふうん……」
玲太郎は明良から視線を外し、先程まで自分が眠っていた寝台を見た。
「私は幼児退行したままでも良かったのだけれど、玲太郎にしてみれば、元に戻った方が良かったのだよね?」
「そうに決まってるのよ。頑張って勉強して飛び級しようとしてたんだよ? それが全部ムダになっちゃう所だったのよ」
「ふふ。危なかったね」
「でも本当に三歳児になってたの?」
懐疑的な玲太郎は眉を顰めて明良を見た。明良は微笑んでいる。
「なっていたよ。私が年齢を訊いたら、玲太郎は三つと言っていたもの」
「ふうん……」
玲太郎は何故か不機嫌になってしまった。
「あーちゃん、そろそろ下ろして? 僕はもう九歳だからね、抱っこは終わりなのよ」
「颯が来るまで抱っこしていたいのだけれど、……駄目なの?」
「うん、ダメ」
明良は眉を顰めると、玲太郎を渋々下ろした。玲太郎は水伯の寝台脇に行くと深く座り、体を捩じって発光している水伯に顔を近付け、光の中に突っ込んだ。
「父上、早く起きてね」
当然ながら水伯は応えなかった。玲太郎は水伯の頬を撫でたり、髪を撫でたりして、颯が来るまでそのままでいた。
それから直ぐに颯が寝室の窓際に現れた。二人が並んで寝台に座り、水伯を見ている様子が颯の視界に飛び込んで来る。
「お早う。何を遣っているんだ?」
二人が一斉に颯の方に向く。
「おはよう」
「お早う。思っていたよりも遅かったのだね」
「そう? 言う程遅くはないと思うんだけどな」
玲太郎の傍で跪くと玲太郎の手を取った。
「玲太郎、今幾つなんだ?」
「九歳だけど、ど……、ああ、三歳になってたのは昨日だけなのよ。今日は大丈夫」
苦笑しながら言うと、颯が安心したようで顔を綻ばせた。
「そうなんだな。それじゃあ良かった。今日も水伯の傍にいるか?」
「ううん、寮に戻って、ご飯を食べて、授業を受けるのよ」
「朝食の注文はしていないから、此処で食べられる物を貰って行かないとな」
「そうなの?」
「昨日の夕食は作らなかったから何もないぞ? ……そうだな、お数は俺が作るから、麺麭を何処かへ買いに行くか?」
「玲太郎の分の朝食はばあちゃんが作ってくれているよ? 食べるのなら用意するけれど、どうする?」
「え、本当? それじゃあ食べて行くね」
「あれ、ばあちゃんが作ったんだ?」
「うん、厨房に行ったら、既に作ってくれてたからね」
「成程。まあ、準備と後片付けは俺が遣るよ。兄貴は水伯を見ていて貰える?」
玲太郎は寝台から下りようとしたが、颯が抱き上げる方が早かった。その時、明良は玲太郎が嬉しそうにしているのを見逃さなかった。
「つい先程、水伯の対精霊擬きを見に行ったのだけれど、目覚めるにはまだ早いと言えるから、私が遣るよ?」
「いいよ、俺が遣る。そのまま帰寮するから、玲太郎は此処で挨拶をしておいて」
「あーちゃん、昨日はありがとうね。いってきます」
笑顔の二人を見ている明良は仏頂面になっていた。颯がそんな明良を見て苦笑する。
「それじゃあな」
颯は瞬間移動で消え去った。明良は暫く表情が仏頂面から元に戻らなかった。
朝食を済ませて寮長室へ戻って来ると、玲太郎の勉強机には一枚の紙が置かれていた。玲太郎は颯に下ろして貰い、そこへ駆け寄るとそれを手にした。
「あっ、やっぱり試験の結果ね。結構よい点が取れてるのよ。満点は一、二、三、…………十一教科かぁ」
不満そうに言うと、颯が苦笑する。
「それだけ取れれば十分だと思うけどな」
「えー、あれだけ頑張って勉強したのに、全部じゃないなんて悔しいのよ。使わない呪文も頑張って覚えたから、呪文系が満点なのはいいけど、治癒術と薬草術が満点じゃないんだね。これはまた復習を頑張らないといけないね」
「治癒と薬草は憶える事が多過ぎるからなあ」
そこへ壁を透り抜けてハソが遣って来た。
「お帰り。玲太郎は元に戻ったのであるか?」
「只今。戻っているには戻っているんだけど、大丈夫なのかは判らないな」
「ただいま。もう大丈夫なのよ」
「無理はせぬようにな。それにつけても、玲太郎はそろそろヌトを起こさぬのか?」
「朝食も済ませて来たから、ヌトはもう少し眠らせておくのよ」
「そうであるか」
玲太郎は紙を机に置き、颯を見る。
「はーちゃん、お茶を飲んでもよい?」
「食後に飲んでいたのに、また飲むのか?」
「うん。さっきは紅茶だったけど、緑茶を飲みたいのよ」
「それじゃあ火には気を付けるんだぞ? ハソは見て貰っていてもいいか? 俺は門を開けて来るわ」
ハソの返事を聞かずに扉へ向かって行った。
「わしは何も言うておらぬと言うに……。それでは玲太郎、隣の部屋へ行くか」
「うん」
玲太郎は隣室の扉へ向かい、ハソはまた壁を透り抜けて行った。
湯を沸かしていると颯が台所に遣って来た。
「まだ湯が沸いていないんだな」
「そうなのよ」
颯は調理台の上に並べられている物を見てから玲太郎を見る。
「いつも通りに見えるけど、調子の悪い所はないのか?」
「ないね。もう大丈夫だってば」
「それならいいんだけど……」
いつになく心配そうな颯は玲太郎の顔を撫でたり、頭を撫でたりした。
「撫でて分かるものなの?」
「どうだろうな?」
悪戯っぽく笑っている颯を上目遣いで見ながら暫く撫でられていた。
「どう? 分かったの?」
「うーん、判らないな。もう止めておけという事なのだろう」
「あ、沸いた」
髪が乱れている玲太郎は焜炉前に行くと火を消し、手にしていた布巾で鉄瓶の弦を持ち、調理台へ行って踏み台に上りって急須に湯を注いだ。
「はーちゃんもいる?」
「俺は朝食後でいいから自分で遣るよ。有難うな」
「分かった」
鍋敷きの上に鉄瓶を置いて急須の蓋をする。颯は玲太郎の乱れた髪を整えた。
「悪い、俺が乱した髪は直したからな」
「はーちゃんはいつもぐちゃぐちゃにするのよ」
「玲太郎の髪は俺みたいな剛毛じゃないから触り心地が好くて、つい触ってしまうんだよなあ」
「ふうん?」
玲太郎は思わず自分の髪を触った。
「あーちゃんの髪の方が触り心地がよいけどね」
「兄貴の髪は触りたいとは思わないなあ」
「どうして?」
「癖毛だからだな。玲太郎は直毛だろう? だからいいんだよ」
「癖が付いてたら触りたくないの?」
「それもあるけど、兄貴の頭を撫でたら只では済まないだろうしな」
「どうして癖が付いていたら触りたくないの?」
「髪が絡まって可哀想な事になるからな。玲太郎だと細いけどそうはならないだろう?」
「そう? そんなに絡まる?」
「試しに兄貴の髪で遣ってみたら?」
「うーん、あーちゃんの髪がぐちゃぐちゃになったら可哀想だから、止めておくのよ」
「兄貴は喜ぶと思うけどな」
玲太郎は苦笑すると踏み台を下りて、調理台に置いたままの茶筒を棚へ戻しに行った。戻るとまた踏み台に上って急須を見詰めた。
「はーちゃん、僕ね、昨日の事を覚えてないのよ」
「全く?」
「全く」
「そうなんだな。まあ、俺が知っているのは、朝起きて、ヌトが小さくなっているのを見て悲鳴を上げて、ハソを見て悲鳴を上げた事くらいだからなあ」
玲太郎は颯を見ると目が合った。
「そうなの?」
「そう。それで慌てて兄貴の所へ連れて行ったんだよ。で、兄貴に預けて俺はいつも通りの生活を送っていた、という訳。兄貴に昨日の出来事を教えて貰わなかったのか?」
「聞いてないけど、積み木で遊んでたっていう話は聞いた」
「玲太郎は積み木が一番のお気に入りだったもんな。その次は絵本。輪投げはその次だな」
「それいつの話?」
「三歳くらいの時。積み木は五六歳まで遣っていたんじゃなかったか?」
「うん、それくらいまでやってた。父上が積み木の形を複雑な物にしてくれてて、楽しかったのよ」
颯が鼻で笑い、玲太郎の頭を撫でた。
「昨日はね、あーちゃんと一緒に積み木をしたんだって。あーちゃんが言ってた」
頭を撫でる手が止まる。
「あの兄貴が? 信じられないな……。何時も玲太郎が遊んでいる所を見ているだけだったのに、どういう心境の変化なんだろうか……」
そう言うと玲太郎の額に手を当てて、そのまま前髪を上げると手を離した。
「まあ、そういう気分になったんだろうな。遊んで貰えて良かったじゃないか」
「うん。でも覚えてないんだよね」
「兄貴が珍しい事をするから記憶から抹消したのかも知れないな」
悪戯っぽく笑いながら言い、自分の言った事に鼻で笑っていた。
「兄貴は水伯に付き添っているから今日も学院は休みになっているけど、玲太郎の空き時間には医務室には入っていいからな。開錠と施錠は出来るんだろう?」
「うん、出来る」
「まあ、修了式まで授業は午前で終わりだから行く機会も少ないだろうけど、鍵は施錠し忘れないように、それだけは呉々も気を付けろよ?」
「分かった。きちんと気を付けるのよ」
「また後で言うわ」
「あ、今日の曜日は?」
「今日は星だよ。十二日な」
「ありがとう」
「日付も曖昧なんだな」
「うん……」
玲太郎が苦笑すると、颯が玲太郎の頭を乱雑に撫でた。
「それじゃあ食堂に行って来る。ハソは一応玲太郎の事を見ていてくれよな」
「わしも食堂へ行く。玲太郎、ヌトを起こそう」
「そうだね、そうしよう」
二人と一体は寮長室へ戻り、颯はそのまま食堂へ向かった。玲太郎が勉強机から白い石を持って来ると、それでヌトの体に触れる。
「ひゃわっ」
飛び起きたヌトを見たハソは軽く二度頷く。
「ヌト、お早う。それではわしも食堂へ行くわな」
ヌトの返事を聞かずに壁を透り抜けて消えた。
「おはよう」
「お早う。……そろそろ朝食の時間か?」
「今日はもう食べたのよ。今、お茶を淹れてる所で、はーちゃんとハソが食堂に行っちゃったから起こしたのよ」
「ふむ。……それでは行くか」
「うん」
虚ろなヌトは欠伸をしながら壁を透り抜けて行き、玲太郎も隣室の台所へ向かった。
今日は午前の九時限目までしかない割に、三時限も空き時間があり、医務室の世話になりに行った。それ以外の授業では試験の答案用紙を戻してもらい、魔術と付与術においては復習ではなく、いつも通りの授業が行われた。ヌトは睡眠が出来ずに朦朧としていたが、その都度白い石を当てられて奇声を上げた。
昼食後に掃除をして寮長室へ戻ると、ヌトは颯の寝台に下りて横になっていた。衣桁の前で着替えを終えた玲太郎は机に向かい、仰向けに寝ているヌトを一瞥して通り過ぎる。
「眠らないでね?」
机に背嚢を下ろした。
「解っておるわ。横になるだけよ」
そう言いつつも目を閉じている。玲太郎は寝台脇に行くとそんなヌトの顔を覗き込んだ。
「この前もそんな事を言って眠ってたのよ」
「そうであったか?」
「はーちゃんが帰って来るまで眠ったらダメなのよ?」
「解っておるわ」
寝返りを打ち、玲太郎に背を向けた。
「僕も昼寝をしておこう」
「そうであるな。一緒に眠ろうではないか」
「食べてまだそんなに時間が経ってないけど、大丈夫だよね」
掛け布団を捲り、靴を脱いで颯の寝台に上がった。
「ニ三十分は経っておろうが」
「うん、そうだね」
横になって掛け布団を掛けると目を閉じた。
「おやすみ」
「お休み」
ヌトは直ぐに夢の中へ行き、玲太郎も少し遅れながらも寝息を立て始めた。
寮長室へ颯が戻ると、机に向かって何かをしている玲太郎がいた。扉に鍵を掛け、衣桁の前で靴を履き替えて玲太郎の傍へ行く。
「只今」
「あ、おかえり」
手を止めて、声のする方に顔を向けた。
「何を遣っているんだ?」
「ああ、これ? ギャリーン先生から治癒術と薬草術の答案用紙を返してもらったから、間違えてる所を重点的に復習していたのよ」
「玲太郎は偉いなあ」
「そう? これくらい、普通の事だと思うけどね」
「それは遣らない人間に取っては嫌味になるから、外では言うなよ?」
「そうなの? やらない人もいるんだねぇ」
「遣らないと言うか、遣れないんだよ」
色々と書き込んでいる帳面に目を遣ると、玲太郎の頭を乱雑に撫でた。玲太郎はその手を掴んだ。
「ヌトを寝かせるならハソを呼ぶように言い付けたのに、どうして呼ばなかったんだ?」
「だって、ここは安全なんだもん」
「安全かどうかで言えば、そうではないから言っているんだけどな」
「僕一人でもなんとかなると思うよ?」
颯は腰を屈めて、顔を玲太郎に近付ける。
「そういう問題ではないんだよ。何かがあった時、直ぐに俺を呼べるかどうかの問題なんだよ。解る?」
「分かるけど……」
眉を顰めて颯を見ると、颯は玲太郎の眉間に人差し指を当てた。
「けど、なんだ?」
「続きはないのよ」
「そうなんだな。まあ、眉間に皺を寄せるなよ。可愛い顔が台なしだぞ?」
玲太郎は俄に顔を紅潮させた。それを見た颯は顔を綻ばせて手を離し、姿勢を戻して隣室へと向かう。
「どこへ行くの?」
「台所。米を研ぐまで半時間あるから、茶でも飲もうと思って」
「僕も欲しい」
「それじゃあ玲太郎に淹れて貰おうか」
「うん、やる!」
元気良く返事をすると鉛筆を机に置いて立ち上がった。玲太郎は颯を置いて隣室への扉を開けた。颯はそれを見て微笑むと、徐に歩き始めた。
二人は夕食後にいつも通り茶を飲んで寛いでから水伯邸へ向かった。寝室には明良が椅子に座って水伯を看ていて、窓際に到着した玲太郎を見るなり、満面の笑顔を湛えた。
「お帰り」
「ただいま。やっぱり父上はまだ目覚めないの?」
「見ての通り目覚めていないね」
「そうなの……」
握っている颯の手を引っ張って寝台脇へ行く。笑顔だった明良の表情が一変して仏頂面になる。玲太郎はそのまま寝台脇に座ると、颯が手を離して玲太郎の靴を脱がせた。
「ありがとう」
笑顔で颯を見ると、颯が頷く。玲太郎は水伯の方に体を向けて、寝台に上った。
「今日も此処で眠るよね?」
水伯の直ぐ傍で正座をしている玲太郎は首を傾げた。
「どうしよう……。明日には目を覚ますよね?」
明良の方に視線を向けると、明良が大きく頷いた。
「対精霊擬きが完全に水伯の中に戻るから、何もなければ目覚めると思うよ」
「何もなければ……ね」
呟きながら視線を水伯に戻した。光に慣れるまで目を細くしていたが、いつの間にか普通に開いていた。
「朝には目を覚ます?」
「それはどうだろうね? その時にならないと判らないね」
玲太郎は颯の方に振り返ると、寝台脇で屈んだままだった。
「はーちゃん、夜はここに泊まるから、明日の朝に迎えに来てもらってもよい?」
「いいぞ。明日は掃除が終わってから戻って来るだろう?」
「うん。お昼に来たら、そのまま朝までいようと思う」
「明日も明後日も、朝食は寮でって事だな?」
「うん、そう。復習しかやらないけど、授業は出ておきたきたいからそうしたいのよ」
「解った。兄貴、そういう訳で俺が送迎するよ」
颯は明良に向かって言うと、明良が頷いた。
「それでは頼むね」
明良が玲太郎に視線を移すと、既に水伯を見ていて、また眩しそうに目を細めていた。
「俺はばあちゃんの所へ行って来るよ。玲太郎は何時に風呂に入るんだ?」
「何時にしよう? うーん、二十四時くらいだね」
「解った。それまでには戻るよ」
立ち上がると扉の方に向かって歩き出した。玲太郎はその後姿を目で追って、颯が退室すると水伯に視線を戻した。
「試験の結果はどうだったの?」
玲太郎は顔を明良の方に向ける。
「んーとね、治癒術三学年分と薬草術三学年分と、地理とサーディア語以外は百点だったのよ」
「治癒術と薬草術と地理とサーディア語は難しかったの?」
「サーディア語はつづりを間違えてて、地理も山脈のつづりを間違えてたのよ。見たら、あ…ってなったから見直しも丁寧にしないといけないね。でもその時はそれで合ってると思ってたから、見直してもダメかも。それと治癒術と薬草術は間違えて覚えてたのよ。帳面に書き写す時に間違えて、それをそのまま覚えてたのよ。それと間違えないようにと思ってた所を間違えてたのよ。どっちがどっちか、分からなくなっちゃった」
「治癒術と薬草術は私の確認が行き届いていなかったからだね。ご免ね」
「あーちゃんのせいじゃないのよ。僕が間違えてただけだからね」
「これからは帳面の方も確認するようにしなければね。それにしても私が作った問題以外が出ていた事になるね。間違えていた問題か答えは憶えている?」
「治癒術はね、治癒術で爪を早く伸ばす事が出来ない、永久歯が抜けても次の歯を生やす事が出来る、切れた皮膚を治癒した時に傷が残るって答えて間違えてて、後は血管と神経を逆に答えてたのよ。薬草術は単純に薬草の効力を間違えて書いてたのを覚えてた。図鑑を見たら、一つずつずれて書いてたみたい。それも四つだけだったから、運悪くそれが出てて間違えちゃってた。それと、魔術を使って薬草を育てた場合は魔力は含まれないって答えたのと、似た薬草の所で間違えて答えてたのよ」
「成程。帳面ではなく教科書や図鑑で勉強を遣っていたら、大体は防げたのだね」
「そうなのよ。余分な文字がないから、帳面で勉強をやっちゃって間違えちゃったの」
苦笑しながら言うと、明良が優しく微笑んだ。
「次からは帳面に間違いがないか、私が確認するからね」
「うん、ありがとう」
「似た薬草は沢山あるけれど、本を見ながら見分ければよいから、其処は完璧にしなくても大丈夫」
「でも、あーちゃんは覚えたんでしょ?」
「憶えたね。今も憶えてはいるのだけれど、逐一図鑑や本を見て確認をしているよ。私だって自分を完璧だとは思ってはいないからね」
「ふうん……」
玲太郎は水伯の方を見て、また目を細めていた。明良も玲太郎を見て別の意味で目を細めていた。この後も玲太郎と会話を続け、玲太郎に妙な所がないか、悟られないように確認をした。
玲太郎は入浴後に瞑想をしてから本を手に横になり、読書もそこそこに明良と颯の会話を聞きながら、二十五時を過ぎた頃に就寝した。それを確認した颯は帰寮せず、仕事をしにとある施設へ向かった。
明良は日に六度、水伯を浮かせ、水伯と寝具に洗浄魔術を掛けていて、時間が来るとそれを遣った。そしてそのまま体位を変えながら浮かせ、二時間ほど経過すると下ろす。洗浄魔術は掛け過ぎている自覚はあったが、玲太郎が水伯を発光させている事で全身の新陳代謝が上がっている為、少し遣り過ぎている方が良く思えた。
二十九時前になると颯が戻って来て、「書類は執務室に置いて来た。お休み」とだけ言うと帰寮した。明良は些か口角を上げると掛け時計を見て、水伯の体位を変えた。
集合灯は点けていないが、水伯が発光しているお陰で室内は明るい。玲太郎はそれに背を向ける形で横になっていて、明良からは玲太郎の顔を見る事が出来なかった。それが甚だ残念で、水伯の方ばかりを見ている。
玲太郎はその頃、夢を見ていた。瞑想で感じている温かな空気に包まれている。暗闇の中から一人、二人、と子が次々に現れる。服装からしてヌト達の幼少期のようだった。幼い頃は髪形が皆一様で、玲太郎が見分けるには長衣の裾を見るしか方法はないのだが、それを見なくても不思議と誰が誰だか理解出来た。
その子達は楽しそうに駆けっこをしていている。ヌトとノユとズヤの三体だ。ハソやニムの周りを駆け回っている。離れた所に一体、また一体、もう一体といた。三人は独りでいる事が好きなようで、特にレウは遠くにいた。その傍へ行くのはハソだ。二体は何かを話している訳でもなく、近くにいるだけだった。それを自分は微笑ましく眺めている。
何かが体に触れているようで視線を下げると、シピが笑顔で見上げている。釣られて笑顔になっている事が理解出来た。
もう一体、孤独なケメは恨めしそうに駆け回っている三体を見ている。シピの手を引いてケメの傍へ行き、一緒に駆け回るように促しても、ケメは首を横に振るだけだった。シピと仲良くさせようとしても、シピが後ろに隠れてしまい、それも出来なかった。
独りになっているレウの所へも行く。しかし近寄る度に逃げられる。原因はシピなのだろうか。シピの手を離して近寄ると、レウは立ち止まって受け入れてくれた。そこへヌトとノユとズヤが遣って来て、レウの手を取って四体で輪を作り、周りをくるくると回っていると、ハソとニムも遣って来て、その輪の中に入った。更にシピが遣って来て輪の中に入ると、ヌトが飽きて来たのか、真っ先に抜けて行った。そしてノユが抜け、ズヤが抜け、ニムが抜け、輪は寂しくなってしまった。
気が付くとヌトがハソをからかって遊んでいる。それを諫めると、ヌトは近寄って来なくなった。次はノユとズヤが悪さをしている。それを諫めると、二体はヌトの下へ行った。そうすると三人で悪さを始めた。またこの三体を諫めると、益々悪さをするのだった。
ケメは相変わらず独りで遊び、ハソは独りでいるレウの下へ行き、そこにヌトが割り込み、からかって遊ぶ。ノユとズヤは二人で何かをしている。ニムがそこへ割り込んで行き、三体になったかと思いきや、ノユは独りで遊んでいるヌトの下へ行った。シピはまた手を握って傍にいる。一緒にいても私が相手では独りも同然だ。シピを連れてケメの下へ行くと、ケメは渋々受け入れてくれた。
この子達はいずれ手を離れてしまうだろう。それならば、いついつまでもこの地で遊べるように、出来る事を遣っておこう。この子達を纏めるに相応しいのは長子たるハソしかいない。悪さをする子達を叱りながら、ハソを仕込んだ。
遂にこの日が遣って来た。この子達をこの地で生かす為に、この子達から離れる時が……。この子達が寝静まった後、静かに去った。私が消えた後に目覚めた子達は泣いていた。済まない。唯、そこまで遠くはない場所にいて、この子達を見守るのだ。それからずっと見守っている。そう、今も尚……。
玲太郎は長い長い夢を見たが、全く憶えていなかった。奇妙な感覚が頭の中にあり、それを受け入れられないでいた。目を開けると左側から眩い光が差し込んでくる。玲太郎はまだ発行している水伯に顔を向けた。
「起きたの?」
明良の声が聞こえ、なんだかとても安心した。
「うん、おはよう」
「お早う。そろそろ七時半だよ」
「あっ、はーちゃんが迎えに来るね」
勢い良く上体を起こした。
「なんか頭が重い……」
「大丈夫?」
「なんかね、夢を見てたんだけど、その筈なんだけど、ちっとも覚えてないのよ」
そう言って項垂れると、明良が寝台脇に腰を下ろして、玲太郎の額に手を当てた。
「熱はないようだけれど、今日は休む?」
「ううん、行く」
言った傍から口の中が爽やかになった。
「顔と口を綺麗にしたからね」
「ありがとう」
「それでは着替えて、颯を待とうね。服を持って来るから待っていて」
「うん、ありがとう」
玲太郎は見ていた夢がとても貴重な物だったような気がして、思い出したくて仕方がなかったのだが、思い出せる筈もなく、颯と帰寮する頃にはその事すら忘れてしまっていた。
五時限目は空き時間で、明良のいない医務室で復習をしていた。机に寝転がって天井を虚ろな目付きで見ているヌトを何度も見ていると、何かを思い出しそうな気がしたが、それも気の所為だった。
「今日はわしをよく見ておるようであるが、何よ?」
玲太郎は手を止めてヌトを見た。
「気付いてたの?」
「当然であろうが。玲太郎の視線に気付かぬわしではないのよ」
「ふうん……」
ヌトは大きな欠伸をして目を閉じた。
「眠ったらダメなのよ」
「目を閉じただけなのであるが……」
「そんな事を言って、また眠るのよ」
「起きておるわ」
「今日は父上が目を覚ますかも知れないからね、掃除が終わったら、はーちゃんに屋敷に連れてってもらうのよ」
「そうであるか。灰色の子も漸く目を覚ますのであるか。……それならばわしも行くとするか」
「眠っててもよいのよ?」
「わし等を認識出来るようになるやも知れぬからな、一応確認をしに行くわ」
「ふうん……」
「ニムは来たいと思うのであろうな。ま、来られぬであろうが」
「来ないの?」
「九分九厘来ぬな」
「そう。まあ、僕としてはいない方がよいけどね」
「わしを見ておったのはそれに関してであったのか?」
不意に訊かれ、言葉に詰まった。鉛筆を両手で弄びながら言葉を探す。ヌトは玲太郎が話すのを待った。
「んー、上手く言えないんだけど、……なんか、なんかなのよ。なんだか良く分からないんだけど見ちゃうのよね」
「解った。もうよいわ。わしを見ていたい年頃であったと思うわな」
玲太郎が話す事は不可能と判断したヌトは目を閉じた。
「眠ったらダメなのよ」
「解っておるわ。目を閉じておるだけよ」
言った傍から大きな欠伸をする。
「そんな事を言って、また眠るんだからダメなのよ」
ヌトは片目を開けて玲太郎を見ると、玲太郎は咄嗟に眉を顰めて怖い表情を作った。
「そういう顔をするでないわ」
そう言って寝転がり、玲太郎に背を向けた。
「あー、完全に眠る気なのよ。ダメって言ってるでしょ」
ヌトの左腕を引っ張って仰向けに戻すと笑顔になった。
「きちんと起きててね」
「であるから眠らぬと言うておろうて」
「うんうん、起きてようね」
玲太郎は教科書を見ながら帳面に書き取りを始めた。ヌトは苦笑しつつも、そんな玲太郎を横目に見ていたが、次第に瞼が重くなって来て、瞬きが増え、いつしか瞼を閉じていた。遠くの方で玲太郎の声が聞こえるような気がするも、意識が遠退いて行った。
掃除が終わって寮長室へ戻り、それから三十分が経とうとした頃、颯が寮長室へ遣って来た。玲太郎は教科書と帳面を見比べていた。
「お待たせ。それじゃあ屋敷に行こうか」
「あ、荷物を纏めるから、少し待ってもらえる?」
「はいはい」
玲太郎は慌てて手提げ袋を用意して教科書や帳面を入れた。
「忘れ物はないな?」
「うん、多分大丈夫」
「若しも忘れ物をしていたら兄貴に連れて来て貰うんだぞ?」
「分かった」
机で寝転がっているヌトを掴む。
「ほら行くよ?」
「うむ……」
ヌトは脱力していて今にも寝そうだった。
「ヌトは置いて行けば?」
「ええ? 一緒に行くって言ったのはヌトなのよ。父上が目を覚ましたらヌトが見えるかも知れないから、確認したいって言ってたのよ」
「ふうん。それじゃあ行くか」
「はーい」
手提げ袋の持ち手を腕に通し、差し出された颯の手を握る。次の瞬間には水伯邸の寝室へと移動していた。
「お帰り」
明良の声がすると、そちらへ向く。
「ただいま。父上は起きた?」
そう言って横になっている水伯に視線を遣った。水伯はもう発光はしていなかったが、眠ったままのようだ。
「起きてないのね」
「そうだね。午前中に対精霊を吸収し切って光らなくなったのだけれど、まだ目覚めないね」
玲太郎は颯の手を離して寝台脇へ行く。颯が後ろから付いて行き、玲太郎の靴を脱がせる。
「ありがとう」
「どう致しまして」
玲太郎は笑顔になると寝台に上り、水伯の直ぐ傍まで行くと顔を覗き込んだ。
「光ってた時と同じ顔をしてるのよ。それにしても父上の寝顔は貴重だね。僕はいつも先に眠っちゃうし、父上より後で起きるから見た事がないのよ」
「そうだね。水伯の寝顔を見る事はもうないと思うから、今の内に堪能しておかなければね」
玲太郎に握られているヌトが水伯を見て大きな欠伸をした。
「魔力量が増えておるな。わし等と同等になっておるわ」
「えっ、そうなの? 対精霊が戻ったからそうなったの?」
「はて……、どうであろうか……」
「それじゃあ俺は行くよ。夜に来るから、ばあちゃんに夕食を頼んでおいて貰える?」
「解ったよ。気を付けてね」
「じゃあな」
玲太郎が振り返ると、颯の姿はなかった。
「もういない……」
「何時もの事だね」
明良を一瞥すると、また水伯の顔を覗き込む。
「父上、早く起きてね」
「わし、もう意識が飛びそう……」
そう言って脱力しているヌトに目を遣る。
「父上も起きてないから眠る?」
「うむ……」
玲太郎は寝台脇へ移動し、靴を履くと明良の後ろを通り、自分の寝台にヌトを寝かせた。
「おやすみ」
ヌトが小声で何かを言った直後、寝息を立て始めた。
「何故悪霊を連れて来たの?」
「え、行くって言ったからね」
「そう。椅子を出そうか?」
「ううん、父上の寝台に座るからよいのよ。ありがとう」
そう言った自分の言に疑問を感じ、些か険しい表情をする。
「あ、父上の寝台じゃなかった。あーちゃんのだったね」
「水伯の部屋に行っても良かったのだけれど、此処に居着いてしまったね」
寝台脇に行くと靴を脱いで座り、手提げの持ち手を腕から外した。
「何を持って来たの?」
「あのね、書き写した物の間違い探しをしようと思って、教科書と帳面を持って来たのよ」
「それでは寝台と窓の間に勉強机を出そうか? その方がよいのではないの?」
「そう? それじゃあそんなに大きくなくてよいから、お願いします」
笑顔で言うと、明良も笑顔になって指を差した。玲太郎は差されている方に振り返ると、机と椅子があった。机には照明まであった。
「ありがとう!」
「どう致しまして」
玲太郎は寝台を飛び下りて靴を履くと、手提げ袋を持ってそちらへ向かった。明良は笑顔の玲太郎を見て嬉しそうにしている。
(水伯が目を覚ましてくれればよいのだけれどね……)
教科書を開いている玲太郎から水伯へ顔を向けた明良は小さく溜息を吐いた。
翌朝、まだ目覚めない水伯を置いて、玲太郎は眠りこけているヌトと一緒に颯に連れられて帰寮した。部屋に到着すると勉強机へ行き、先ずヌトを置いて、それから手提げ袋から教科書と帳面を出す。椅子に腰を掛けると頬杖を突いた。
「父上が起きなかったんだけど、どうしてなの?」
「起きたくないからだろう? まだ寝ていたいんだよ。今までずっと一人で走って来たから、疲労が相当溜まっているんだと思うぞ」
「そう……」
心配そうな表情をしていたが、颯からは見えなかった。
「まあ、今日中に起きるかも知れないし、気を落とさずに目覚めるのを待とうな」
「うん」
顔を颯の方に向けると、颯が笑顔を見せた。玲太郎も釣られて笑顔になると立ち上がる。そこへハソが天井を透り抜けて下りて来た。
「お帰り。灰色の子は目覚めたのであるか? まだなのであろうか?」
「只今。水伯はまだ起きていないんだよ」
「そうであるか。まだ目覚めぬとは心配よな」
「そうだなあ。まあ、起きたくなったら起きるだろう」
ふと玲太郎の机に視線が行き、ヌトが眠っている姿が視界に入る。
「玲太郎はヌトを起こさぬのか?」
「うん、まだよいのよ。はーちゃんが食堂に行ったら起こそうと思ってる」
「そうであるか。灰色の子が目覚めたらノユとズヤも様子を見に行きたいと言うておるわ」
「そうなの? まああれだよね、対精霊が戻ったかどうかが見たいんだよね、多分」
玲太郎の言にハソが頷く。
「わしもまだ見ておらぬからな、見てみたいわ」
「あれが水伯の中に納まったんだから凄いよな。まあ、魔力が抜けただけなんだけど」
ハソが颯の方に顔を向けると、それに気付いた颯がハソに視線を遣った。
「あの魔力が皆抜けたと言うだけでも信じられぬがな」
「五日目で抜け切ったからなあ。……丸四日になるのか? まあ、あの量がそれ程度で抜け切るのは驚きだよな」
言い終えた颯が玲太郎の方に視線を遣る。
「王弟殿下が来ているようだぞ。ヌトを起こさないとな」
「本当? 早いね」
白い石を手にしてヌトに当てた。
「ひゃわっ」
ヌトが声を上げて飛び起きる様子を見ていたハソは不快感に襲われ、顔を歪めていた。
「おはよう。ディッチが来てるんだって。起きてね」
「……もうそのような時間か? そうであるか……」
大きな欠伸をしながら玲太郎の後頭部へ回り、髪を一房掴んだ。玲太郎は立ち上ると態と颯に体当たりをして行く。
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
颯は欠伸を連発しているヌトを、ハソは玲太郎の後ろ姿を見送っていた。玲太郎が退室すると、颯は横向きで椅子に腰を掛け、背もたれに肘を置いた。
「玲太郎は大丈夫なようであるな」
「そうだな。今の所、あれ以来退行はしていないしな」
「灰色の子はどうであった?」
「確りとは見ていないからなんとも言えない所だけど、顔色は良かったと思うよ。兄貴が栄養のある物を飲ませているみたいだからな」
「そうであるか。肉体的に問題はないのであるな」
「うん。穴も完全に塞がってるし、後は起きてくれればいいんだけど、何時起きる事やら……。ヌトがわし等と魔力量が同等になっていると言っていたから、起きないとすればそれが原因なのかもな」
「灰色の子もわし等と同等であったのか。……シピはそれに気付いておったのか?」
「それは知らないけど、本来の姿になった、という事でいいんだよな?」
「そうであろうな。対精霊擬きが戻せた事が大きいのであろうな。玲太郎様様よな」
「そうだな。水伯が目覚めたらニーティも連れて行かないとなあ」
「ノユとズヤもな」
颯は静かに頷いただけだったが、ハソはそれを見ていた。
目覚めてもおかしくはない状況の中、水伯が目覚めない事実が玲太郎のみならず、颯の心中にも暗い影を落とした。しかし、颯の表情には、そう言った心情が全く表れていなかった。




