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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第二十三話 しかして己に気付く

 六月下旬には六学年生が卒業して学院が少しばかり寂しくなったが、七月に入ると在校生は放課後の自由時間を修了試験の為の復習に充てる生徒が殆どとなり、放課後は静かな時が流れていた。修了試験の及第点は五十点、それ以下は留年してしまう事もあり、必死に復習をしているという訳だ。

 その試験は七月五日に開始し、十日になると十五日にある修了式に出られるかどうかが判明する。そういった訳で玲太郎もご多分にれず、ひたすら頑張っていた。

 そして、今日は試験前という事もあって夕食作りを休み、颯が一人で作っていて、今は調理台で玉葱を刻んでいる所で、ハソが無言で視線を送っていた。それが気になる颯は溜息を吐いた。

「お前も本っっ当に暇だな? 毎度張り付いていなくてもいいんじゃないのか」

「わしか?」

 颯は眉をしかめるとハソに一瞥をくれ、また玉葱を刻み出した。

「ハソしかいないだろ」

「わしは颯が手際良く遣っておる所が小気味好くてな。この時間が割と好きなのよ」

「あ、そう。俺は玲太郎の方に付いていて欲しいんだけどなあ」

「何っ、わしにそのような役目を担えと言うのか? わしは颯に付いておるのであるが?」

「ふうん……。昔は玲太郎に密着していたのになあ」

「それは昔と言う程、昔ではなかろうて。ついこの間の事よ。それにつけても、わしが颯の傍におると言うて来ておる事は知っておろうが」

「それはそうなんだけど、たまには独りでいたい」

「風呂と厠は一緒ではなかろうが」

「風呂は玲太郎と一緒だから、独りになれるのは厠の時だけじゃないか」

「それは致し方あるまい」

「致し方あるまい、じゃないだろうが」

「ああ、本来ならば十年は颯の傍におれた筈なのであるが、何故なにゆえ六年なぞになっておるのよ? それが悔しゅうて悔しゅうて堪らぬわ」

「もう六年切っているけどな」

 ハソは無言になった。ここまでよどみなく手を動かし続けている颯の手元にある人参を見ていた。

「わしにも食事が出来れば、颯の手料理を味わえた物を……」

 つい思っていた事を吐露してしまった。颯は鼻で笑った。

「食事の習慣がなくて本当に良かったよ」

「それにつけても、わしは以前より不思議に思うておった事があるのであるが、訊いてもよいか?」

 颯はようやく手を止めてハソを見る。

「何?」

「玲太郎が赤子の頃、何故玲太郎の口から垂れた乳を舐めておったのよ? そもそも何故垂らしておったのよ? 初めの頃は不器用なのかと思うておったが、そうではないようであったものな。器用なのに垂らす事が不思議で不思議で…」

「舐めていたのはそれが楽だったからだろうなあ。……まあ、俺も記憶が曖昧だからどう思っていたかなんてはっきりとは言えないけど、俺の事だからそんな所だろうな。垂らしていたのは、乳を飲ますのが単純に下手だったから垂れてしまったんじゃないのか? それに飲ます時は寝起きだからな、しっかりしているようで確りしていなかったんだろうと思うけど、どうだろうな、其処そこまで器用じゃないって事なのかもな」

 そう言うと視線を手元に移し、包丁を握った手を動かし始めた。

「そうであったか。わしは、颯は寝付きも寝起きもよい物だと思うておったわ。違ったのであるな」

 再度手を止めると、上目遣いでハソを睨み付けた。

「玲太郎が赤ん坊の頃は寝付けない夜も多かったんだけどなあ……」

「おっと、これは藪蛇であったわ」

 目を剥いたハソから視線を手元の野菜に移して刻み始める。炒め物用を刻み終えると、焜炉こんろの下にある棚の扉を開け、鍋を取って焜炉に置き、次に小さ目の鍋を取ると扉を閉めて焜炉に置いた。そして煮浸し用の茄子を切る。鍋には既に水が張られていて、焜炉の火を点けて熱し始めた。棚から袋を取って来ると、中に入っている煮干しをひと掴み入れ、袋の口を閉めながら棚に戻しに行く。次は汁物用の野菜を刻み始めた。ハソは邪魔にならないように、天井近くから見下ろしていた。

 料理が出来上がってしまうと全てをよそい、颯は玲太郎を呼びに寮長室へ行った。

「玲太郎、ご飯だぞ」

 そう言った颯の方に顔を向けた玲太郎は笑顔になる。

「ありがとう。お腹空いてて限界だったのよ」

 鉛筆を置いて立ち上がって歩き出した。颯はそれを見ると先に戻って行く。食卓に並べられた菜を見た玲太郎が笑顔になる。

「煮干しの佃煮大好き」

 椅子に座りながら言うと、既に座っている颯が頷いた。

「それは知っているよ。それじゃあ頂きます」

「いただきます」

 玲太郎は煮干しの佃煮に箸を付けた。嬉しそうに口に運び、咀嚼を始めた。颯はそれを見てから豚肉と野菜の炒め物を摘んだ。

「うん、おいひい。……これはご飯が進むね」

 そう言いながら白飯はくはんを頬張っている。颯は目尻を下げて玲太郎を見ていた。

 食事を終えて茶を飲んで寛いでいると、颯の隣で浮いていたハソが玲太郎を見詰めていた。その視線が気になった玲太郎はハソを見る。

「どうして僕を見るの?」

「いや、何、勉強に入れ込んでおるようであるが、根を詰め過ぎておらぬのかと心配になってな」

「ふうん……。試験前はこんな感じなのよ。受ける試験が多いからね。全て受かれば来年からは楽になるのよ。まあ、それも明後日には試験が始まるから、追い込みをかけないとね」

「そうであるか。無理のない程度にしておけよ」

「うん、ありがとう」

 玲太郎は視線を茶碗に移し、それを持つと茶を啜った。

「筆記が受かっても、実技が伴わないとなあ」

「んん、それなのよ。あーちゃんが土日になると見てくれるんだけどね、それがきついのよ」

「何を見て貰っているんだ?」

「土から水晶を作る魔術。必死で練習をやってるんだけど、試しに呪文を唱えたら土を一杯使ってしまって、水晶も大きいのが出来ちゃったから、呪文なしで練習をしてるのよ。思うように出来なくて、それがきつい、本当にきつい。それと小型の水晶を作ってくれるから、それで魔石作りの練習もやってる」

「成程。玲太郎は出来るのに自分で制限して出来なくしているだけだろうから、それを払拭しないとな。先ずは其処からだな」

「そう?」

如何いかにも。玲太郎程の魔力があれば何事も容易に出来ようて」

 玲太郎はハソに言われて些か白けた。

「それだよ、それ。魔力量に物を言わせて遣ればいいんだよ」

「それだと呪文を唱えた時と同じように、大きな水晶が出来ちゃう……。あーちゃんが、呪文ありだと魔力量の制御が出来ないようだから仕方がないねって言ってた」

「其処までの量を消費しなければいいんだろう? いつもより多目にするだけだよ」

「それが出来れば苦労はしないのよ……」

「その魔力操作が出来ないのか? ニーティに作って貰った魔道具を使っているのか?」

「使ってるのよ。父上が作ってくれてた魔法棒より魔力量を絞ってくれるんだけどね」

「ふうん。ニーティは何を遣らせても才能があるなあ」

「ルニリナ先生が自分で、ニーティは古代サーディア語で多才と言う意味って言ってたと思う」

「名は体を表す、か。成程」

「名前負けしておらぬとは凄いな。普通は名前負けする所ぞ」

「俺も名前負けしているぞ。貴族になって中間名を与えられたけど、ボダニムは寛裕という意味だよ。そんなに大きな人間じゃないって言うのになあ……」

「ポダギルグは何?」

「宝珠だな。簡単に言えば宝物だよ。ついでに言うと、玲太郎は簡単に言えば玉のような男の子だから、意味が被っているな」

「ふうん、そうなの。僕の名前は誰が付けたの?」

「兄貴が玉のような男の子とかなんとか言い出して、水伯がそれを漢字にして玲太郎って付けたんだよ。それで玲と言う漢字の意味を調べたから憶えているんだけどな」

「玲は玉っていう意味なの?」

「玉が触れ合って鳴る音という意味だよ。綺麗な玉を意味する熟語にも使われるから、玉という意味もあるだろうけどな」

「ふうん、そうなの」

「自分の名前の漢字の意味を調べた事がないんだな」

 玲太郎は頷いた。

「うん、ないね。はーちゃんはあるんだ?」

「あるよ。学校でそういう課題を出された事があったからな。序に兄貴も悠ちゃんも調べたよ」

「そうなんだね。ディモーン先生はそんな事はしなかったのよ」

「名前や中間名その物に意味があるけど、普段使わない古代ガラージャ語だったり、古代言語だったりするだろう? でも漢字はそれぞれに意味があるし、和伍人にしてみれば日々接しているからなあ。まあ俺みたいに漢字一文字もいるけど」

「なるほど。そういう違いね。屋敷に帰ったら漢和辞典で調べてみるね。ちなみに颯はどういう意味なの?」

「風の吹く様とか、きよらかとか、きびきびした様とか、まあ風の事だよ」

「きびきび! 確かにきびきびしてる。し過ぎてるくらいなのよ」

「そうだろうか? そんな事はないと思うんだけど、どの辺が?」

「瞬間移動で消える時、こっちがあいさつしようとする前に消える時があるもん」

「それはきびきびじゃないな。只のせっかちじゃないか」

「そう? でも動きもきびきびしてるよ。無駄がないって言うか」

「ふうん……。普通だと思うんだけどなあ」

 そう言うと茶碗を持って茶を半分以上飲んだ。静かに茶碗を置くとその後もしばらく雑談をしていた。玲太郎の息抜きには丁度よい、とても穏やかな時間となった。


 二日後、修了試験が始まると、玲太郎は時間外でも修了試験を受けていた。以前と同様に一学年の教科以外は学年主任のギャリーンの教室でバハールと一緒に受けたり、一人で受けたりした。今度は十九教科と以前より少ない為、時間にかなりの余裕があり、延いては玲太郎の精神的にも余裕があった。

 修了試験の最終日になり、いつもは土の曜日に屋敷へ帰るのだが、最終日が風の曜日で時間が余っている事もあって、颯が玲太郎を屋敷へ連れて行ってしまった。前触れもなく帰って来た物だから、水伯が驚いていた。

「帰って来るのは明日ではなかったのかい?」

 そう言いながら執務机から、脚の長い机の方へ移動する。颯は椅子を引いて玲太郎を先に座らせた。

「一日しか変わらないからなあ。遣る事を遣ったら俺も時間が余ってしまって此処に来たんだけど、夕食は一緒に食べるからばあちゃんに言って来るよ」

 そう言いながら机に玲太郎の鞄を置いた。

「そうなのだね。明日と明後日の夜はどうするの?」

「明後日は寮で食べるからいらない。若しかしたら、兄貴に仕事を入れられるかも知れないから、明日の事はまだ言えないなあ。ご免。今夜の夕食の時にでも兄貴に訊くよ。来るんだろう?」

「うん、断りの連絡が来ていないから食べに来ると思うよ」

「そう、解った。それじゃあばあちゃんの所へ行って来るよ。また後でな」

 そう言うと玲太郎の頭を乱雑に撫でて退室した。

「もう、はーちゃんはいつもぐちゃぐちゃにするんだから……」

 手櫛で髪を直しながら呟いていると、水伯が玲太郎の正面に座って微笑んだ。

「お茶でも飲むかい?」

「うん、紅茶でお願い」

「解った。紅茶ね」

 にわかに玲太郎の前に茶器が現れ、紅茶の香りが漂って来た。

「ありがとう」

 玲太郎の笑顔に釣られ、水伯も笑顔になる。

「あれ? 父上は飲まないの?」

「私は先程飲んだ所なのだよ」

「そうなの」

「茶請けを出そうか?」

「ううん、お菓子はもう少し経ってからがよいね」

 茶器を持ち上げると息を吹き掛けて、茶器に唇を当てると徐に傾けた。思っていた以上に熱く、直ぐに茶器を戻した。

「あっつう……」

 それを見て水伯が柔和な微笑みを浮かべた。

「少し冷まそうか?」

「ううん、冷めるのを待つからよいのよ。ありがとう」

 そう言って笑顔を見せた。

「父上は仕事をしてたんじゃないの?」

「そうだよ」

「それじゃあ大人しくここでお茶を飲んでるから、仕事の続きをしてね」

「構わないの?」

「うん。後でまた話せるからね。でもここにいてもよい?」

「構わないよ。好きにしてね。それでは次の休憩でお菓子を食べようね。大福を作ってあるよ」

「大福! 食べる食べる! 楽しみにしておくね」

 水伯が嬉しそうな玲太郎を見て笑顔になりつつも席を立った。そして執務机の方へ行くと、玲太郎は鞄から薬草図鑑を取り出した。


 明良が水伯邸の玄関広間に瞬間移動で到着すると、真っ直ぐ食堂へ向かった。最初は首を傾げていたが、近付く度に確かな物へと変わっていく。食堂に入る前から満面の笑みを湛えていた。

「玲太郎、どうしたの?」

 食堂に入るなり、声を弾ませた。玲太郎は体を引きらせると、明良の方に顔を向けた。

「びっくりしたぁ……。お帰り。今日で試験が終わりだったでしょ。時間が余ったと言うか、一杯あったからはーちゃんが連れて来てくれたのよ」

「そうなのだね。それならば私に連絡してくれても良かったのではないの?」

「それは思い付かなかったのよ。ごめんね」

 玲太郎の隣の椅子に、玲太郎の方を向いて腰を掛けた。

「私は今日、此処で食べよう」

「はーちゃんもいるからね」

「……」

 瞬時に不満をあらわにした明良を見ていた水伯は失笑すると、遅れて口を手で押さえた。

「ふふ、向かい側で食べた方が顔が良く見えるから、私の隣で食べればよいのではないのかい?」

「……それではそうするよ」

 立ち上がると、いつもの席へ向かった。

「玲太郎は試験の出来はどうだったの?」

「今日も埋めるだけ埋めたよ? 一応全部埋めたけど、満点の自信はないのよ」

「全部埋められたのなら凄いよ。私ならそれだけで満点を付けるね」

 玲太郎の機嫌取りに余念のない明良が席に着いた。

「採点はきちんとやらないとダメだよぉ」

 困ったように言うと、表情が直ぐにいつもの表情に戻った。

「あーちゃんははーちゃんがどこにいるのか、分かってるの?」

「厨房だよね? 颯はばあちゃんっ子だからね」

「ふふ、明良もだろうに」

 明良は思わず水伯に顔を向けた。

「それはそうなのだけれど……」

 そこへ台車を押しながら颯が入室した。

「お待たせ。今日は鴨煮だよ」

「かも!」

 玲太郎が思わず声を上げた。

「あれ? 嫌いだったか?」

 台車を奥に止め、颯は給仕を始めた。

「嫌いじゃないけど、かもだとは思わなかったから」

「なんだと思ったんだ?」

「豚」

「残念だったな。明日は豚にして貰おうな」

「豚は生も燻製も塩漬けもないのだよね。大角牛ならあるけれど、そろそろ肉を買い足す頃だから、明日にでも行って来るね」

「僕も行きたい」

「それでは一緒に行こうね」

「私も一緒に行く」

「それでは三人で行こうね」

「はーちゃんは行かないの?」

「俺は行かないんじゃないのか? 兄貴はどう思う?」

「そうだね、颯は仕事があるからね。その話は食後にしよう」

「解った」

 そう頷いた颯は給仕を終えて退室した。颯がまた台車を押して戻って来ると、後ろに八千代がいて二人で給仕をした後、着席して食事を開始した。


 翌日、十一時を過ぎてから八千代を加えた四人でツェーニブゼル領のヤニルゴル地区へ赴き、豚肉以外の肉も買って水伯邸へ戻った。玲太郎と明良がいるお陰で往復が楽だった。

「明良、玲太郎、ありがとうね。肉がほとんどなかったから本当に助かったよ」

 到着した居室で八千代が笑顔で礼を言っている後ろで、水伯が荷物を浮かべて厨房へと向かっていた。

「本当に魚を買いに行かなくても良かったの?」

「魚はまだ冷凍してある物があるし、新鮮な物が欲しくても水伯さんが買って来てくれるからいいよ。ありがとう」

「これからまた刺繍するの?」

「うん、そうだね。ご隠居様からのご依頼でね…」

「お父様に? 何を頼まれたの?」

「温室にサドラミュオミュードが咲いているから、それをね」

「成程」

「だから温室で絵を描いて来て、それを写して刺繍をしてるんだよ」

「刺繍もよいけれど、きちんと散歩もしてよね」

「分かってるよ。颯にも言われたよ。二人して同じ事を言うんだから……」

 些かうんざりしたように言う。

「それはそうだよ。ばあちゃんには長生きして貰わないといけないからね」

 八千代が何かを思い出し、明良に顔を向けた。

「あ、そうだった。ばあちゃんが死んだら悠次の遺影を燃やして、ばあちゃんの土に灰を混ぜてね。後、悠次の土も混ぜてね。忘れないでよ? 言っておこうと思って忘れてたわ」

「縁起の悪い事を言って、どうしたの?」

「そろそろお迎えが来てもおかしくないからね。……ああ、書いておいた方が良かった?」

「あのね…」

「ばあちゃん、死ぬの?」

 玲太郎が驚いて八千代を見上げていた。それを見た八千代は苦笑する。

「まだ死なないけど、死んでもおかしくない年だから準備はしないとね」

「そうなの?」

「そうだよ」

「ばあちゃんはまだまだ死なないよ。だからきちんと毎日歩いてね」

「はいはい、分かってるよ。明良も口うるさくなっちゃって本当にもう……。部屋に戻ろうっと」

 八千代は困った表情をしながら退室した。困惑した表情で見送った玲太郎は明良を見上げる。

「ばあちゃん、いつ死ぬの?」

「それは判らないね。でも何時いつかは死ぬのだよね……」

 明良はそう言いながら玲太郎を抱き上げた。玲太郎は不快さを表情に出す。

「僕はもう九歳なのよ。抱っこはダメって言ったでしょ」

「水伯には抱っこして貰っても何も言わないのに、私に言うのはずるくない?」

「うん? 父上に抱っこなんてしてもらってた?」

「膝に座っているじゃないの」

「ああ、あれね。抱っことは違うじゃない」

「あれも抱っこの内なのだけれどね」

「え、そうなの?」

「そう。だから私も玲太郎を抱っこするね」

「ええ? ……もう九歳なのよ?」

 困惑している玲太郎を余所に、笑顔の明良は長椅子の方に向かって歩き出した。

「そうだね。それでも水伯の膝に座るのだから、私も抱っこをしてもよいよね」

 そう言われてしまうと、どう言い返せばよいか分からず、言葉が出て来なかった。


 昼食後、玲太郎と明良は北の畑へ行き、水伯は一人で居室にいて読書をしていたが、気掛かりな事が近付いて来て本に集中が出来ないでいた。本を閉じると机に置いて立ち上がった。居室を退室し、屋敷出ると浮かび上がり、南東に向かって飛んで行った。

(あの辺りに何故入れているのだろう? ……それにしても知らない気配が消えたり、復活したり……、これは気配が相当薄いのだろうか? ……だとしたら人ではない動物になるのだけれど、精霊だろうか? それこそない、とは思うのだけれど、兎にも角にも確認をしなくては)

 敷地内は全て畑にしている訳ではなく、向かっている場所は騎士の屋外訓練に使用している一角で、低木や高木がまばらに生えている場所だった。そこが視界に入ると、気配のする辺りを凝視した。すると、人間らしき物が見え、それが本当に人間であると認識出来ると、約一町の距離を置いて止まった。

「距離を取って上空で止まられた。なんとか引き摺り下ろす」

 そう言ったのはバンチャンだった。他の三人は見当たらない。濃淡の付いた緑の服ではなく、至って普通の庶民らしい格好をしていた。

「君は此処ここ何処どこなのかを理解して侵入して来ているのかい?」

 バンチャンは耳元から水伯の声が聞こえ、驚くと同時に振り返った。

「後ろではないよ。上にいる私が見えているのだろう? 声は張り上げなくても聞こえるから、話してご覧?」

 バンチャンは右眉だけを顰めた。

「歩いてウィシュヘンド市を目指していたんだけど迷ってしまったんだ。もう三日ほどまともな物を食べていないもんで、どこかで食べ物を分けてもらおうと思って、やっと見つけた門をくぐった後、更に迷ってしまったんだ。お金は払うから、食べ物を分けてもらえないだろうか?」

「何処からウィシュヘンド州へ入ったの?」

「エナダリン州。東海岸をずっと北上して、途中から東に向かって、近くにある村に寄りながらウィシュヘンド市へ向かっていたんだ。シュンゾー地区を目指して歩いていたんだけど、食料が尽きてしまって、それで近くに民家がないかと探していたら、ここに辿り着いて、建物が見えずに疲れたから休憩をしていたんだ」

「シュンゾー地区ならうに通り過ぎているよ。事情は解ったから、食べ物を持って来よう。暫く待っていて」

 そう言うと水伯は屋敷へ戻って行った。バンチャンはそれを見ると、地面に座り込んだ。

「灰色の髪で黒尽くめの服だった。スイハク本人だな。それにしても用心深いな。下りて来なかった……」

「資料に「二千年は生きている」と載っていたよ。信じ難い情報だけどね」

 どこからともなくチェンカンの声が聞こえて来た。

「でもおびき出せたんだから、この好機を逃さず、仕留めるしかないね」

 またしてもどこからともなくタールェの声が聞こえて来た。

「バンチャンが引き摺り下ろせなかったら、あたしがやるよ」

「オレが出来ない訳がない」

「フン、過信してるような奴に出来るのかよ。ここはあたしに任せた方がいいんじゃないの?」

「終わるまで言い合いするのは止める約束だったよね? 破ったターには僕とハウに罰金を払うように。百万こんずつだからね」

「……生きて帰ったら払ってやるよ」

「それにしてもこの気配遮断の模様、凄いよな。バンが一人でも疑ってなかったもんな」

 感心したようにハウロンが言うと、タールェが「フン」と鼻を鳴らす。

「そのために二ヶ月以上も魔力を使わずに歩いて来たんだ。効果を発揮して当然だろ」

「俺にまで喧嘩腰は止めて欲しいな」

「まあまあ、二人とも止めなって。バンが引き摺り下ろせなかったら、ターがやる。それで失敗したら僕が行く。それでも失敗したら総がかりだ。誰かが引きずり下ろしたら呪いの模様を残りのみんなで当てる。これでいいね?」

「了解」

 チェンカンの案にバンチャンが快諾した。

「うん、まあいいだろ」

「俺もそれでいい」

 少し遅れて二人も承知した。


 十分後、水伯が包みを持って戻って来た。先程とは打って変わって、不用意にもバンチャンの目の前に下りる。

「今此処で食べられるようにと思って、これを持って来たのだけれどどう?」

 そう言っていつもの柔和な微笑みを浮かべて紙袋を差し出した。

「それを食べ終えたら、一番近くの村ま…」

 水伯は持っていた物を全て落とした。バンチャンが伸ばした手に持っていたのは一枚の紙で、それを水伯に当てていたのだ。水伯が膝を折った瞬間、三人が生い茂った低木の中から現れ、それぞれが紙を持っていた。いの一番に水伯の体に紙を当てたのは一番遠くにいたタールェだった。

「ぐっ」

 水伯が苦痛の余りに声を漏らし、バンチャンの当てていた紙が水伯が倒れる事で落ちてしまうと、思わず笑みが零れていたタールェと目を丸くしているバンチャンの首が飛んだ。首のない二体と水伯が同時に地面へと倒れ込み、一部始終を見ていたハウロンとチェンカンはそれでも水伯目掛けて行き、水伯の体に紙を当てると一目散に南へ逃げて行った。水伯は激痛に悶絶した。


 その頃、玲太郎は全身に悪寒が走って動きを止めていた。

「どうかしたの?」

 目を丸くしている玲太郎を見た明良が不思議そうに訊いた。

「なんか、全身をぞわぞわーって、何かが駆け抜けて行ったのよ」

「悪寒? 寒いの? 風邪でも引いたのだろうか?」

 そう言ってひざまずき、玲太郎の顔を見た。

「ううん、そんなんじゃないのよ。あ、でも風邪を引いた事がないから分からないけど、それとは違う、違うのよ。なんか物凄く胸騒ぎがする。なんだろう?」

 困惑した表情で明良に言うと、明良も険しい表情になる。

「私は何も感じなかったのだけれど、若しかしたら誰かに何かあったのかも知れないね?」

 そう言うとズボンの衣嚢から容器を取り出し、蓋を開けると中にある音石の一つを操作した。

「颯、颯、今話せる? 石は縞ね」

 暫く反応がなく、二人は心配そうに音石を見詰めていた。

「何? 今不味いんだけど……」

 声が聞こえて、玲太郎が安堵の色を見せる。

「何かあった?」

「何もないけど、どうかしたのか?」

「それならばよいよ。また何かがあったら連絡するね。ご免ね」

「はいはい」

 明良は音石を操作して通信を切ると、玲太郎を見た。

「颯ではなかったから、誰だろう? 水伯?」

「父上なの?」

「判らない」

 今度は別の音石に触れて操作する。

「明良だけれど、今直ぐ出て貰える?」

 暫く待ってみたが、反応がない。

「水伯、水伯、話がしたいのだけれど」

 更に暫く待って見たが、それでも反応がなく、明良は音石を操作して蓋を閉めた。立ち上がるとズボンの衣嚢に容器を入れて玲太郎の肩に手を置いた。

「水伯がいそうな所へ移動するね」

「うん」

 瞬間移動で屋敷の二階にある執務室へ飛ぶと、誰もいなかった。

「水伯の寝室には気配がないから居室へ行こう」

 玲太郎が走り出そうとしたが、明良が肩を強く掴んで止め、瞬間移動で居室へと移動した。しかし、水伯の姿は見えなかった。

「いない……」

「いないよ? 厨房とか貯蔵室とかにいるのかな?」

「うーん、それはないと思う。距離的には私が感知出来る範囲内にある筈なのだけれど、水伯の気配はないようだね」

 それを聞いた玲太郎の全身にまた悪寒が走った。

「あぁ……、またぞわぞわした……」

「お手洗いに行きたい、という事はないよね?」

「違う、それじゃない。ぞわぞわーって全身を駆け抜けて行ったのよ。……父上だ。このぞわぞわは、きっと父上に何かがあったのよ」

 玲太郎は水伯の事で頭の中が一杯になったその時、水伯が倒れている場面が頭の中を過った。

「あっ! 父上のいる場所が分かるかも知れない!」

 そう叫んだ途端、玲太郎の姿が消えた。

「え!?」

 明良の声が居室に響いた。慌ててズボンに手を突っ込み、また容器を取り出すと音石を操作した。

「玲太郎、其処にいる? 薄い紫色と灰色の交じった石に二秒以上触れれば話せるようになるよ。玲太郎、水伯の所に行けたの? 薄い紫色と灰色の交じった石に、二秒以上触れるのだよ」

 何度も繰り返し言った。

「あーちゃん! 聞こえる?」

「うん、聞こえるよ。水伯はどうなっているの?」

「あのね、父上の近くで人が二人も死んでるのよ。父上も倒れてて、息はしてるけど、倒れてるのよ。息はしてるけど…」

 玲太郎の声色は落ち着いているように聞こえたが、混乱していた。

「其処が何処だか判る? 目印はある?」

「え? ここはね、……多分敷地内なのよ。屋敷から騎士隊の寮に行く道中にある、小さな公園みたいな所だと思うんだけど…」

 明良はそれを聞いた途端、屋敷から騎士隊の寮に続く道の上に瞬間移動していた。言われて思い付いた方を見てみると玲太郎を目視出来た。

「見付けた! 直ぐ行くから待っていて」

 そのまま宙を飛んで玲太郎の下へ向かった。三人が倒れていて、真ん中の黒尽くめの水伯の傍に玲太郎が屈んでいる。

「玲太郎!」

 叫んで玲太郎の傍に下りた。震えている玲太郎の横で屈む。

「あーちゃん……、父上が倒れてるのよ……。大丈夫なの?」

「少し待って。水伯、水伯、水伯」

 呼び掛けながら頬を軽く三度打ったが反応は全くなし。頭に左手をかざして目を閉じると、徐々に手を動かし、右手に変えて胴体を隈なく診て行く。玲太郎は心配そうにその手の動きを見ていた。明良は下腹部の辺りで手を止めると、険しい表情になり、目を開けた。

「腸の辺りに何かがあるね」

「腸?」

「そう。……一先ず水伯を寝台へ運びたいから手伝って貰える?」

 玲太郎は明良を見た。

「うん、分かった」

 明良は水伯を浮かせると、転がっている死体の一つに近付いた。手に持っている紙を取り、それを見ると、もう一体も紙を持っている事に気付き、そちらにも行って紙を取った。浮いた水伯の手を玲太郎に握らせ、玲太郎の肩に手を置くと瞬間移動で寝室へ移動した。

「玲太郎、悪いのだけれど、手を離して貰える?」

「あ、うん」

 浮いている水伯から靴が脱げ、服に付いていた血は消去され、明良が使用していた寝台に水伯が仰向けに寝かされる。靴は寝台脇に置かれた。玲太郎は明良を見上げる。

「掛け布団は掛けなくて良いの?」

「今はよいね。後で掛けるよ」

 そう言って持っていた紙を畳んで寝台脇にある小さな机に置いた。それから寝台脇に座り、体を水伯に向け、手を下腹部に翳すと目を閉じた。玲太郎は立ったままで様子を見ている。

「何かあるって、どんなのがあるの?」

「うーん、何か黒い物だね」

「父上はどうなってるの?」

「気絶しているのだと思うよ。二人死んでいたから、あれ等に何かをされたのだろうね」

 そう言って目を開け、手を寝台に突いて玲太郎を見る。

「私が思うに、この腸に付いている黒い物は呪いだね。これはルニリナ先生を呼んだ方がよいかも知れない」

「はーちゃんじゃダメなの?」

「颯よりルニリナ先生だね」

「そう……」

「ルニリナ先生を連れて来たいから、一緒に行って貰える?」

 それを聞いて険しい表情が更に険しくなった。

「えっ、父上の傍にいちゃダメ?」

「よいよ。それでは待っていてね」

「あ、僕が言った方が早く帰って来られるんだね。それじゃあ行く」

「それも五分足らずしか変わらないから、いたいのならばいても良いのだよ?」

 明良が立ち上がると、玲太郎は明良の服を握った。

「ううん、行く」

「そう? ご免ね」

 玲太郎の肩に明良の左手が置かれると、その場から二人の姿が消えた。


 明良が言っていた時間を少し過ぎた所で三人が寝室に現れた。ルニリナは横たわっている水伯を見て直ぐに駆け寄る。

「閣下、閣下」

 呼び掛けてみたが反応はない。寝台に座り、水伯の右手を両手で握った。暫くそのままでいたが、水伯の手を戻して、近くに寄って来ていた明良を見上げた。

「うん、呪いですね。この呪い、私には解呪出来ないかも知れません。ですが、玲太郎君なら出来るでしょう。私が憔悴するまで頑張るより、玲太郎君が挑戦する方がよいと思います」

 そう言って険しい表情をしたルニリナが玲太郎を見ると、玲太郎が目を丸くした。

「ぼ、僕!? えっ、無理無理! 出来ないのよ」

 明良が屈み、玲太郎の肩に手を置いた。玲太郎は明良を見る。

「玲太郎、ルニリナ先生は玲太郎ならば出来ると言っているのだよ? ヌトにも何時も言われていただろう? 私も玲太郎ならば出来ると信じているよ」

「えっ、でも呪いなんて感じないのよ」

 明良は玲太郎を見詰めたままで黙考した。

「それでは少し待っていてね」

 そう言って立ち上がると、玲太郎の肩を優しく二度叩いた。玲太郎は明良の背中を見詰めていた。明良がズボンの左側の衣嚢に手を入れると、寝台に腰を下ろして掌を開いた。そこには黒淡石が二個あった。暫くして俄に室内が暗くなり、映像が流れ始める。

「なっ、何? これはなんなの?」

 玲太郎は顔を顰めてそれを見ていた。

「これが水伯の腸だよ。黒い物が沢山付いているよね? この黒い物が呪いだよ」

 黒い物は虫のようにうごめいている。

(これは……、父上死んじゃう!? あーちゃんもルニリナ先生もダメなら、僕がやるしかないの? ヌトやあーちゃんが言うみたいに、僕に本当に出来る?)

 逡巡していると映像が変わり、今度は同じ腸でも黒い物がなかった。

「これは私の腸だよ。黒い物がなくて綺麗だよね。これが正常な腸なのだけれど、水伯の呪いを消して、私と同じ状態になるように強く願いを籠めてね」

(これにする、これに……。あの黒い物を消して、これにする……。僕がやるしかない、やるしか……)

 決意を固めている内に映像が消えてしまうと、玲太郎は明良を見る。玲太郎の表情は真剣その物だった。

「もう一度両方見せて」

「解った」

 玲太郎は映し出された映像を凝視する。見終わると室内が明るくなり、玲太郎はルニリナに視線を移した。

「ルニリナ先生、呪いは解呪すると、かけた人の所へ戻るんですよね?」

「そうです」

「その人が死んでいた場合はどうなるんですか?」

「その呪いに掛けていた近しい人の所へ行きます。例えば、この呪いを掛けるようにお願いした人とか、またはその血縁者とか、この呪いを作った人とかですね。呪う意思が強い人の所へ行きますが、血縁者も亡くなっていて行き場がない場合は、解呪したその場で霧散します」

「分かりました。ありがとうございます」

 玲太郎は視線を動かし、「なるほど」と一人で納得していた。

「僕はなんでも出来る、出来る、出来る……」

 そう呟きながら寝台の反対側に回り、靴を脱ぐと寝台へ上る。水伯の左手を腹に乗せると自分の両手を重ねて置いた。二人はそれを見守っている。

「出来る、出来る、出来る、出来る、出来る、出来る」

 自己暗示を掛けている間に、何か大きなものに包まれたような感覚が玲太郎にあった。

「よし、出来る」

 最後は確信を持って力強く言い、目を閉じた。すると、不思議と水伯の腹の中が頭に浮かび、且つ明瞭に見えた。

「あ…、これは本当に出来るね……。父上、必ず助けるからね」

 蠢いている黒い物を浮かび上がる心象を描いていると、徐々に眉が寄った。暫くすると水伯の腹から黒い物が上昇し始めた。約二尺上昇した所で止まり、一気に南下して行った。二人はそれを目で追ったが、玲太郎はまだ目を閉じていた。

「あーちゃん、もう一度お腹の中を見てもらってもよい? 多分おかしいと思う」

「おかしい?」

 明良は水伯の下腹部に掌を翳して目を閉じ、玲太郎は目を開けて明良を見詰める。

「これは……、腸に入り込んでしまっていた呪いが壊死させたのだろうか? うーん、これは多分そうだね。……いけないね」

「あーちゃんは治せないの?」

「治癒術は完璧ではないから、壊死した物は無理だね。開腹、お腹を切って壊死している部分を切除するか…」

「えっ、切るの?」

 明良は即座に頷く。

「若しくは自己治癒力を本人の魔力で極限まで高め、壊死するよりも速く細胞を再生させる、という事が出来れば助かるかも知れないね」

「魔力でそれを高めるって、父上は眠ってるのよ? 出来るの?」

「出来るよ。上空に水伯のつい精霊がいるじゃない」

 思わず目を丸くした玲太郎は顎を引いた。

「ええっ、あれをどうやって使うの?」

「あれはかなり魔力を溜め込んでいるからね、好都合な事に水伯と繋がっているし、あの魔力を取り込んで腸の壊死している患部にそれを直接当てる。その時に細胞の再生をするように、玲太郎が、指示を出すのだよ?」

 真剣に聞いていた玲太郎は口を開けて呆然としたが、直ぐに我に返った。

「え、……え? 僕がやるの?」

「そう。真面目な話なのだけれど、玲太郎にしか出来ないと思うよ」

 いつになく、明良が真面目な表情で玲太郎を見詰めていた。

「私が試しに遣ってみてもよいけれど、徒労に終わるだけだと思う。そういう訳で、玲太郎にお願いするしかないのだよ」

「分かった。今ならやれる気がするから頑張るね」

 意外と素直に受け入れた玲太郎を見て、明良は安堵した。玲太郎は眉を寄せたままの水伯の顔を見る。

「水伯の中にある魔力を動かして遣るよりも、余っている分を逆流させるだけだから難度は確実に低い。患部に留まらせて自己治癒力を上げさせて、その後は体外へ流れるようにしてみて貰える? 最初はゆっくり、慣れて来たら速度を徐々に上げてみてね」

「中にある魔力を使った方がよいのではないの?」

「魔力はね、使用されないと体外へ出て行くのだよ。そして消滅するのだけれど、体内で留まらせたり、逆流させたりするよりも、余って外にある分を使用した方が、玲太郎への負担が抑えられる筈だよ。あれ等は留まる事を覚えているから使い勝手はよい筈」

「僕が僕の体内でやるにはよいけど、他人の体内で僕がやると、僕が疲れちゃうって事?」

「そうだね。それとあの対精霊擬きを水伯の体内に戻して欲しいのだけれど、それも出来そう? あの魔力を使用すれば、対精霊が縮んで行くだろうから出来そうではあるのだけれど……」

 玲太郎は天上に目を遣ると膝の上で握り拳を作った。

「うーん、どうだろう? やってみないと分からないのよ」

 難しい顔をして水伯の顔に視線を遣る。

「出来る可能性があるなら、今それをやってもよいね。…ううん、やった方がよいのか。いつか破裂するかも知れないって言ってたもんね。……それに、今ならなんでも出来そうな気がするのよ」

 そう言って「ふーっ」と深く息を吐き、徐に深呼吸を三度し、水伯の左手にまた両手を重ねて置いた。

「玲太郎、手順を頭の中で確認してからにした方がよいと思うよ」

「あ、そうだね。父上から漏れている魔力の所にある穴も、この際だからふさぎたいのよ」

 玲太郎は明良の顔を見てから、水伯の腹に視線を遣った。

「それはね、悪霊が入れている石の所為だから、それを消せば穴は塞がるのだよね」

「あ、そう言えば聞いた事があるような気がする」

「水伯は全然気にしていない様子だったから、それはそのままでよいよ」

「ふうん、そう……」

 玲太郎は気を取り直して、明良の方に顔を向けた。

「手順はどういう手順になるの?」

「上空にいる対精霊擬きから魔力を水伯の中へ流し込む。壊死している患部に自己治癒力を高めるように指示を出して流し込み、細胞を再生させる」

「上空にいる対精霊もどきから魔力を父上の中に流し込む。壊死している患部に……」

「自己治癒力を高めるように指示を出して流し込み、細胞を再生させる」

「自己治癒力を高めるように指示を出して、流し込んで細胞を再生させる」

 復唱し終えると玲太郎は目を閉じる。

「上から下へ魔力を流して、腸の患部に自己治癒力を高めるように指示を出して、流して細胞を再生。上から下、胸から腸、自己治癒力を高めて細胞再生」

 水伯の手に重ねた両手に少し力が入る。

「よし、やるね」

「言う事を聞かなければ、魔力量で物を言わせて従わせるのだよ?」

「うん、魔力量でね。分かった。……父上の魔力は僕と仲良しだから大丈夫。それじゃあやるね」

 玲太郎は心象の中で、上空にいる対精霊が蓄えている魔力を、水伯と繋がっている糸を通して移動させようとしたが上手く行かない。送り込めてはいるのだが、送り込みたい量との差があって、初手からつまずいてしまった。

(この糸を太くするしかないね……。出来るのだろうか? ううん、出来る。そう、出来る。何かとても大きな物に包まれてるような……、包まれてる今なら出来る)

 口を真一文字に結び、糸が太くなるように念じ続ける。心象の中では申し分がない程に太くなり、思っていた以上の魔力量が水伯へ流れて行った。実際、俄に糸が太くなったのを目の当たりにしたルニリナの目が輝いていた。玲太郎は水伯の胸に流れ込んで来る魔力量が増えても気を緩める事はなかった。

(胸から腸へ道を作って、腸にある患部へ魔力を流して……、自己治癒力を高めて細胞を再生。お願い、元の状態に戻って)

 明良も玲太郎と同様に目を閉じている。患部がどうなっているのかを千里眼で見ていて、壊死が止まった事を確認出来て一安心したが、再生となるとその確認は出来ない。

「玲太郎、流し込んでいる量をもっと増やせる? 今のままでは駄目のようだね。そうだね、三割か、四割程度増えるとよいかも知れない」

「四割程度ね、分かった。増やすね」

 ルニリナは糸と言うより、管になってしまった物を凝視した。すると更に太くなり、不謹慎ながらも心が躍った。

(素晴らしいの一言に尽きます! 誰がこうして直ぐに形に出来るのでしょうか。ズヤが、あの対精霊の魔力を抜くのは困難と言っていたというのに、玲太郎君は短時間で糸を太く作り替え、閣下に対精霊の魔力を流し込んでいる。一旦外に出した魔力を戻す事も本来であれば出来ない筈。閣下の魔力に玲太郎君の魔力を混ぜて馴染ませているのでしょう。それもいとも簡単に……。使用魔力量に上限がなければ、これ程までに力を発揮するとは……、想像を遥かに超える才能。本当に素晴らしいですが、同時に恐ろしくもあります。閣下を始め、アメイルグ先生や颯がいれば安心でしょうが、私も出来得る限り、玲太郎君を守らねばなりませんね)

 ルニリナが決意を新たにしている時、明良は眉を寄せていた。

「再生が上手く出来ていないようだね?」

「そうなのよ。どうしてなの? 僕はあーちゃんの綺麗な腸を想像してるんだけど、穴がふさがらないのよ」

「ああ、それでだね。私の腸を想像してはいけないよ? 水伯の腸を見て、穴が空いている患部が塞がるように想像して貰ってもよい?」

「あっ、あーちゃんじゃないからダメなんだ。父上は父上の腸で想像をね、なるほど。穴がふさがっていく様子を想像するね。うん、分かった」

 二人の会話を聞いて、水伯の腹の中が覗けないルニリナは心底から残念に思った。

「うん、よいね。本当に少しずつだけれど塞がって来たよ。この調子で行けば明日か明後日には穴が塞がるだろうね。目覚めるのは何時かは判らないから明確には言えないけれど、ニ日は眠り続けるかも知れないね」

 そう言いながら目を開け、険しい表情の玲太郎を見ていた。

「え……、ニ日も眠ったままなの?」

「穴が塞がるまでは痛みも残っているだろうから、その痛み次第では起きていられないと思うよ。倒れていたのだって痛みで気絶したのだろうからね。あれだけの数の穴が開く程の呪いに掛かったのだからか相当に痛かった筈だよ」

「そう……。それじゃあもっと早く治るようにするね。そうすれば痛みも早くなくなるよね?」

「それはそうなのだけれど、今のままでも十分だと思うよ? 今は無理遣り自己治癒力を高めているから、遣り過ぎると水伯に負担が掛かるからね。私が後で痛み止めを飲ませておくよ」

 玲太郎は目を開けて明良を見る。

「それじゃあ少し安心出来るね」

 そう言って少しだけ穏やかな表情を見せると、水伯の顔を見た。

「父上の顔色が少し良くなったような気がする」

 次に手元に視線を移した。

「よし、対精霊の魔力が余りそうだから、父上が眠っている間に使い切れるようにやるね」

 とても遣る気に満ち溢れている玲太郎が張り切った。

「何を遣ると言うの?」

「うん、今やるから見ててね」

 そしてまた目を閉じた。途端に管が更に太くなり、俄に水伯が光に包まれた。目を開けた玲太郎は思わず目を細める。

「まぶしっ」

「玲太郎、何をしたの?」

 眩しそうに手で遮り、眉を顰めた明良が玲太郎を見ていた。玲太郎はそんな明良の顔を見ると、なんだかおかしくなってしまい、一気に気が抜けた。

「昔にね、父上が僕の体を通して、光の玉の出し方を教えてくれてたんだけど、それをやっただけ」

 緩んだ表情で言うと、倒れた水伯を目撃してから抑えていた色々な感情が渦巻き、それが突き抜けて怒り心頭に発した。

「なんだか急に腹が立った……。父上をこんな目に遭わせた奴らは絶対に許さない……」

 耳まで真っ赤になっている玲太郎を見て、明良は思わず手を取ろうとしたが間に合わず、水伯の手を握る事になってしまった。玲太郎は激怒していても冷静なのか、脱いでいた靴を履いている。

「玲太郎君、待って下さい。冷静になりましょう」

 ルニリナが立ち上がって玲太郎の傍へ駆け寄って左手を取った。明良も直ぐに玲太郎の下へ駆け寄った。

「駄目だよ、玲太郎。此処にいて」

 玲太郎の右手を掴むも、玲太郎は険しい表情をしたまま、明良を睨み付けた。

「あーちゃん、ルニリナ先生、僕は父上をこんな風にした奴らが許せない。あーちゃんが止めても、ルニリナ先生が止めても、僕は行くからね。それじゃああの呪いが戻った所へ行って来るよ」

 言い終わった途端に玲太郎の姿が消えた。残された二人は唖然として玲太郎のいた所を見ていた。

「呪いの帰って行った場所など、判る物なのですか?」

 ルニリナが明良を見ると、明良は目を閉じて俯いた。

「判るのだろうね。自分が本当になんでも出来ると気付いてしまったのだろうから……」

 明良はそう言いながらズボンの衣嚢から容器を取り出し、蓋を開けると音石を操作した。

「颯、今の仕事は切り上げて水伯邸にある私達の寝室に来て貰える? 水伯邸にある私達の寝室だからね」

 音石を操作して蓋を閉め、容器をズボンの衣嚢に入れた所で颯が扉の前に現れた。颯はその異様な光景を見て驚愕した。

「兄貴の寝台で寝ているのは誰だよ? 何故光っているんだ? それにニーティもいるし、どうかしたのか? 玲太郎は? まさかこれが玲太郎って言うんじゃないだろうな?」

 二人のいる方へ歩きながら矢継ぎ早に言う。

「寝台で横になっているのは水伯だよ。腸に呪いを受けて、玲太郎が完治の目処を付けてくれたのだけれど、それとは別にあの精霊擬きの魔力を抜く為に水伯が光っているのだよね」

「玲太郎が? 先ず呪いがなんなのかを訊きたい所だけど、急用なんだろう?」

「そう。玲太郎がその呪いを解呪して、それが浮き出て、呪った者の場所へ帰って行ったのだよ。其処へ玲太郎が向かって行ってしまってね、玲太郎が何かを遣る前に連れ戻して欲しいのだけれど、私では気配感知で見付け出す事は難しいから、颯に遣って貰いたいのだよね」

「成程? 今は俺が感知出来る範囲内にいるから、連れて帰って来るよ」

「そんなに…」

 颯は明良が発言している最中に姿を消した。明良は溜息を吐くと、ルニリナを見る。

「ルニリナ先生、私は死体を片付けた序にサドラミュオ親衛隊の隊長と話して来ますから、水伯の傍に付いていて貰ってもよいですか?」

 ルニリナは、死体という言葉を聞いた瞬間に表情が険しくなった。

「死体? 誰かが亡くなったのですか?」

「多分水伯が殺したのだと思うので、呪いを使用した内の二人ではないかと私は推測しています」

「ああ、そうですか。解りました。閣下のお傍で待機していますね」

「何かあればこの音石で連絡して下さい。二度触れると繋がります。切る時も二度触れるか、十秒以上放置すれば切れます」

 ルニリナが手を出すと、明良はそれに萌葱もえぎ色の石を置いた。

「それでは宜しくお願いします」

 明良は丁寧に頭を下げた。

「こちらの事はご心配なく」

 笑顔で言うと、頭を上げた明良が僅かに穏やかな表情を見せ、そして消えてしまった。ルニリナはズボンの衣嚢から容器を取り出して蓋を開けると、空いている場所に石を置いた。

「やはり兄弟と言うべきでしょうか? 音石の色が似ていますね。どなたの好みが反映されているのでしょうか」

 そう言って「ふふ」と笑い、颯から貰った音石をつついた。それは苔色と萌葱色と若菜色と白の縞模様だった。


 その頃、颯は瞬間移動で行ける所まで行き、その後は空中を飛んで行った。倒れている二人の内の一人の傍で屈んでいる玲太郎を見付けると、無事なようで胸を撫で下ろした。

「玲太郎、何を遣っているんだ?」

 瞬間移動で玲太郎の隣に現れるなり言い、即座に屈んだ。

「こいつ等はなんだ?」

「しーっ。今大切な所なのよ」

 小声で言うと、颯はチェンカンの頭に手を当てている玲太郎を見た。

「頭に手を当てて何をしているんだ? 治癒術でも掛けているのか?」

 玲太郎は怒った表情で颯の方に顔を向ける。

「はーちゃん、静かにしてくれる? 今大切な所なのよ」

「先ず話して貰わないと」

 そう言って促した。玲太郎は一呼吸置いて口を開く。

「あのね、父上が呪われて、腸に穴を空けられたのよ。それは僕が治るようにしたんだけど、僕もう頭に来ちゃって。なんて言うの? あれ、……そうだ、怒髪天を衝くって奴ね。あれを今体感してるのよ。それで父上を呪った大本を探し出して、とっちめてやろうと思ってるの」

「水伯の事を救ってくれたんだな。有難う。……で、水伯が光ってるのはどう遣ったんだ?」

「あれ? あれはね、昔に父上が僕に光の玉の出し方を教えてくれたのよ。その時、父上が僕にやった事を真似してやってみたの」

 玲太郎は徐々に表情が和らいで行く。

「そんな事を遣る必要があったのか?」

「ああ、うん、それはね、父上の対精霊の中にある魔力に僕の魔力を混ぜたのよ。僕の魔力が父上の中で留まらないように、体の外に出さなきゃいけないからね。それで思い付いたのよ」

「成程。玲太郎も凄い事を遣るなあ」

 いつの間にか微笑みを零していた玲太郎は我に返り、また厳しい表情になる。

「褒めてもダメなのよ。父上の仕返しは必ずやるからね」

「解った。止めないから俺も連れて行って貰える?」

「えっ……」

 少し俯いて無言になった。そして顔を上げ、颯を見据える。

「はーちゃんがいると気持ちが萎んじゃうからそれはダメ」

「萎むのかあ。でもそれくらいでいいんじゃないのか?」

「それはダメなのよ」

 強目の語気で言うと、顔をチェンカンの頭の方に向け、また手を当てる。

「静かにしててね」

 黙るしかない颯は玲太郎の旋毛つむじを横目で見ていると、玲太郎が立ち上がった。

「俺を連れて行かないのなら、ヌトを起こして連れて行って貰える?」

「え……。一人で行きたい」

「若し暴走してどうにも出来なくなったらどうするんだ? 感情を制御出来ないのに、力を制御出来るとは思えないんだけどな」

 玲太郎は俯いてチェンカンの顔を見た。

「それに音石入れも持っていないだろう? 連絡を取ろうにも取れないだろうに。一旦音石とヌトを取りに寮長室へ戻ろう、な?」

「……分かったのよ。でも少し待って」

「分かった」

 玲太郎がチェンカンから手を離すと立ち上がる。

「うん、よいよ」

 颯の方に体を向けた。

「音石入れは何処に置いてあるんだ?」

「寮長室の勉強机」

「責めて水伯邸に持って来ておけよ……」

 颯が立ち上がって玲太郎の頭を乱雑に撫でながら瞬間移動した。寮長室に到着するなり、玲太郎は乱れた髪をそのままに勉強机へ駆け寄った。一番上の抽斗ひきだしから容器を出し、ズボンの衣嚢に突っ込んだ。そして机に置いたままの白い石を手にすると颯の寝台へ行く。

「ヌトー、起きて」

 白い石をヌトに当てると、ヌトが飛び起きた。

「ひょっ」

 そう声を発し、そのまま浮いて当てられた部位をさすった。

「……今は何時なんどきよ?」

「お早う。今は十五時九じっ分くらい」

 答えたのは颯だった。ヌトが大きな欠伸をしていると玲太郎がヌトを掴んだ。ヌトは思わず玲太郎を見た。

「十五時九十分……。半端な時間よな」

「ヌト、悪いんだけど付き合ってね。後、黙っててね」

何故なにゆえよ?」

「玲太郎、行く前に行き先を言っておいて貰える?」

 玲太郎は首を横に振る。

「口でどう言えばよいのかが分からないのよ。多分、割と遠くだと思う。それじゃあ行くね」

 颯に顔を背けたままで言い、そのまま消えてしまった。颯は渋い表情で目を固く閉じて、ズボンの衣嚢から容器を取り出した。

「あー、どうやって言おう……。怒るんだろうなあ……」

 容器の蓋を開けると、溜息を吐きながら音石を操作する。

「兄貴、俺だけど、石は斑な」

 暫くすると明良の声が聞こえる。

「玲太郎はどう? 捕まえられた?」

「悪い、一人で行ってしまったよ」

「やはり……」

「でもヌトは連れて行かせたし、音石も持たせた。何かあったら連絡は取れるようにはなっているからな」

「え、悪霊が一緒なの? ……いや、誰も傍にいないよりは増しと言うべきか」

「あれ? 止められなかった事を咎めないのか?」

「私にも出来なかったのだから咎めないよ。玲太郎は自分に不可能はないと気付いてしまって、瞬間移動して私とルニリナ先生の前から消えたのだよね」

「そうだったのか。玲太郎は大本を突き止めて、そいつをとっちめると言っていたから、本当に遣ると思うけど、何処まで遣るのかが判らないから居場所を突き止めたいんだよな。一体何処の組織が水伯を狙ったか、凡その見当は付いているのか?」

「ああ、そうだった。言い忘れていたよ。九分九厘紫苑団だからね」

「え? あいつ等、水伯まで狙って来たのかよ」

「死んでいた二人が手にしていた物が紙だったのだよね。一枚は真っ白、一枚は見た事もない図柄が描かれていたよ。白い方は多分呪いで、あった筈の図柄が水伯の腹の中に入り込んだ上、腸に張り付いて壊死させていたのだと思う」

「成程……。それじゃあ暗殺部が動いているんだな?」

「そうだと思う」

「暗殺部かあ……。施設の場所が判らないから、闇雲に探さないといけなくなるな……。兎に角、玲太郎を見付けた場所に二人倒れていたから、そいつ等を連れて一旦水伯邸に戻るわ」

「解った。私は親衛隊の本部にいて、水伯の傍にはルニリナ先生にいて貰っているからね」

「騎士団の方じゃないんだな」

「私も何方どちらに行こうかと迷ったのだけれど、親衛隊がよいと思って」

「それじゃあ俺も二人を親衛隊の方に連れて行くわ」

「解った。それでは後でね」

「おう」

 音石を操作して通信を切ると、即座に先程の場所へ瞬間移動した。


 一方、玲太郎は別の男の所へ来ていたが、やはりその男も倒れていて、それを見下ろしている。

「玲太郎、わしには状況が全く把握出来ておらぬのであるが……」

『今は知らなくてよいのよ。後できちんと話すから邪魔しないでね』

「解った。ま、見ておるわ」

 玲太郎に腕ごと体を掴まれているヌトは全く身動きが出来なかった。

(利き手を封じておるから、ま、よいか。……よいのか?)

『父上の呪いを解呪したんだけど、それが呪った本人に戻って、こうして倒れてるって事なの?』

「わしは呪いに就いては皆目解らぬぞ。解呪しておる所は見た事がある程度であるな」

『そうなの……。それじゃあまたやるしかないね』

「遣るとは何を?」

『記おくを読み取るのよ。父上を殺そうとした奴をとっちめる為にやるのよ』

「何っ、記憶を読み取れるようになったのかよ」

『僕って万能なのよ。知ってた?』

「無論知っておった」

『読み取るから静かにしててね』

 玲太郎は倒れている男の頭の傍で屈むと手を伸ばした。

「うむ。玲太郎に出来ぬ事はないと知っておったから、驚く事ではなかったな。わしとした事が……」

『だから、静かにしててね』

「解った」

 倒れている男の頭に手を当てて目を閉じる。ヌトは周りを見回して、少しでも情報を得ようとしたが、事務机が並んでいて、どこかの会社の一室にしか見えなかった。部屋には照明が点いていて日が暮れている事と、音から外では雨が降っている事は理解出来た。

『こいつもその内に死ぬけど、このまま放置でよいよね?』

「わしはこのままでよいと思う。それにつけても、欲しい情報は得られたのであるか?」

『うん。こいつの上にまだ上司がいるから、そいつの所へ行く。絶対に許さないんだから』

「そうであるか。では行こうではないか」

『うん』

 こうして次へ行き、また倒れている男に辿り着いた。部屋にはその男一人だけで、執務机が一台あるだけだった。

『また倒れてるのよ……。これはどういう事なの?』

「わしに判るかよ。ほれ、記憶を読み取ってどうなっておるのかを見て、わしに説明をして呉れぬか」

『分かった』

 玲太郎は倒れている男の所へ行って屈むと、頭に手を当てて目を閉じた。ヌトはまた周りを見回し、照明が点いている上に雨が降っている事を知る。

(先程の場所から、然程離れておらぬのであろうか……。それにしても此処は何処なのであろう? それが一番知りたいわ)

 思案をしていると、ヌトを掴んでいる玲太郎の手に力が少し入った。ヌトは玲太郎の方に顔を向けた。

「どうかしたのであるか?」

『こいつが一番上かと思ったら、まだいたのよ』

「そうなのであるな。それでは次へ行くしかあるまいて。それにつけても、この子はどうなのよ? 死にそうか?」

『うん、呪いが戻って来てるからね、その内に死ぬのよ』

「そうであるか。解った。次へ行こう」

『これだと次も倒れてそうな気がするのよ……』

「ま、行って確かめようではないか」

『うん……』

 玲太郎は怒りをぶつける格好の餌食となる筈だった対象を失い、気力を削がれていた。

「どうかしたのか? もうすか?」

『よさない。行く』

 即答するとまた険しい表情に戻る。

『それじゃあ行くからね』

 言い終わった瞬間にまた瞬間移動をし、今度は薄暗い場所に到着した。玲太郎は即座に光の玉を浮かべて明るくすると、そこは洞窟さながらに岩肌の壁に囲まれ、寝台が一台と、その近くに小さな棚が置かれ、その上に照明があり、それの灯りのみで部屋が照らされていた。そして玲太郎は寝台に横たわっている巨漢を見ると、一歩、また一歩、徐に近寄って行く。

「眠っておるのか?」

『さあ? それは判らないのよ』

 そう言いつつも六歩目で足を止めた。

『起きてるね』

 巨漢は顔を横に向けた。カンだ。

「……誰だ?」

「スイハク・サドラミュオ・ロデルカを狙ったね?」

「貴様は誰だと訊いている」

「僕を名乗らせたいのなら、自分が先に名乗れば?」

「私が誰か分かっていて侵入したのではないのか」

 そう言うと上体を起こし、軋む寝台の脇に座った。その傍には奇妙な対精霊がいたが、学院で見掛けていた奇妙な対精霊より酷く醜かった。しかし、それ以上にカンが醜悪だった。肥えているだけではなく、体が不自然に大きい。そして禿げた頭には黒くて大きな染みがあり、顔にも所々に黒い染みがあった。玲太郎は険しい顔を更に険しくした。

「お前が何者かは知らない。ただスイハク・サドラミュオ・ロデルカを狙った奴を辿って来たら、お前に行き着いただけ」

「では名乗らず、お前を殺すとしよう」

 そう言って立ち上がると、玲太郎に掌を向けた。

「力源停止」

 唱えた瞬間、それが自分に掛かったかのように、力がなくなってしまったのを感じ取った。

「何!? 光源発現! 風源発現! 火源発現! ……出ない、何故だ!?」

「お前如きにやられる僕ではないのよ」

「やはり玲太郎、遣りおる」

 玲太郎は気力が抜け掛けて苦笑する。

「あの、少し黙っててね」

「済まぬ……」

 玲太郎は咳払いをすると、気を取り直した。

「じゃあ話してもらおうか、スイハク・サドラミュオ・ロデルカを狙った訳を」

「あぅ……、お、私の器を手に入れるのに邪魔だから始末しようとした」

 手で口を塞ごうとしたが、手も自分の意思で動かせなかった。

(これだけ意識がはっきりしているのに、口が勝手に動く……!)

「器とはなんの事?」

「レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド」

「玲太郎ではないか」

「え、僕なの?」

 玲太郎が怪訝そうな表情でヌトを見ると、ヌトが首を傾げる。

「わしの知るレイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンドと言えば玲太郎しかおらぬが、玲太郎以外ににおるのやも知れぬのか?」

「じゃあ僕だよね? 同姓同名がいるとは思えない名前だもんね」

(小声で何を言っている? 聞こえるように言え)

 玲太郎は鋭い目付きでカンを見ると、カンは些か怯んだ。

「玲太郎を器にするとは、どういう意味なの?」

「私の脳を移植する器だから」

 それを聞いて、玲太郎は思わず不快そうに顔を歪めた。

「聞いた? 脳を移植なんて言ってるのよ……。植物で移植は分かるけど、人の体で出来るものなの?」

「はて、そのような事が可能なのであろうか? 俗世は何時いつの間にやら進展しておるのであるな」

 ヌトが感心していると、玲太郎は無表情になり、ヌトに顔を向けた。

「知ってる訳がなかったね……」

「それよりも、体を開くと高確率で硬化症になる筈なのであるが、開かずに移殖が出来るとでも言うのか?」

「僕にもそれは分からないのよ」

(さっきから話をしているのは独り言ではないのか? ……まさか対精霊と話しているのか?)

 玲太郎はまたカンの方に顔を向けた。

「もしかして、スイハク・サドラミュオ・ロデルカ以外も殺そうとしているの?」

「無論、イノウエ家の兄弟も殺す」

「どうして?」

「レイタロウを手に入れる為に、邪魔な者から消すのは当然だろう。あいつらは力があるし油断ならんからな」

 玲太郎の顔色が赤くなっていた。

「お前は僕の手で殺さなければならないようだね。どうせ死ぬから、その前に僕の名前を教えておくよ。僕の名前はレイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド、お前が器と呼んでいる人間だよ」

(何? 本当か? 力源停止は五人の命を代償に発動する呪術の一種……。あれを物ともしないとは……。斯くなる上は隙を見て入紋じゅもん発現で殺すしかない。私の生きる道はそれしかない……)

 玲太郎はカンの表情を見ていた。

「今思った事を話して?」

(な、なんだと!?)

「何? 本当か? 力源停止は五人の命を代償に発動する呪術の一種……。あれを物ともしないとは……。斯くなる上は隙を見て入紋発現で殺すしかない。私の生きる道はそれしかない……」

「玲太郎、この子の胸の辺りにある精結に魔力を流し込み、破壊してしまうが良かろう。魔力を消失して何も出来ぬようになろうて」

 玲太郎はヌトを見ると眉を顰めた。

「え…、僕にそれは出来ないのよ……」

「自分で万能と言うておったではないか。出来るぞ」

「だって、精結が見えないもん」

「見えぬのか……」

 ヌトは目を閉じて二呼吸置く。そして目を開くと玲太郎を見た。

「それならば、見えるあの対精霊を消滅させるが良かろう」

「分かった」

「魔力を一気に流し込んで破裂させるのであるぞ?」

「うん、やってみる」

「加減はせずともよいぞ」

「うん」

 対精霊が膨れ上がる間もなく一瞬で破裂した。すると同時にカンが土に還り、崩れ落ちた。玲太郎は呆気に取られ、そのまま固まってしまった。ヌトは笑いが込み上げて来て、必死でそれを堪えた。

(颯、颯、ヌトであるが今話せるか?)

(玲太郎はどうなったんだ?)

(頭領のような男に行き着いたのであるが、対精霊を消滅させたら土に還りおったわ)

(直接手を下した訳じゃないんだな?)

(そうであるな。対精霊を消滅させただけであるからな)

(それならまあいいか。それで、今は何処にいるんだ?)

(それが皆目判らぬ。此処で三ヶ所目なのであるが、一ヶ所目と二ヶ所目は夜で雨が降っておった。其処におった男は倒れておったわ。玲太郎は、その内に死ぬと言うておって、そのまま放置して三ヶ所目に来た訳よ)

(成程。それじゃあ玲太郎に連絡させて貰ってもいいか?)

(解った。そう言うておくが、今放心状態であるから少し後になると思うがな)

(そうなんだな、解った。それじゃあ呉々も頼んだぞ)

 玲太郎はまだ呆然としていて、意識が戻っていなかった。ヌトはそんな玲太郎の顔を見て、我に返るのを待つ。

 俄に震え出した玲太郎は顔を顰めてヌトを見る。

『こんなのってないよぉ!!』

「なってしもうた物は仕方なかろうて。諦めるしかあるまいよ」

『とっちめるつもりで来たのに、何もしない内に土に還っちゃダメでしょ?』

「そう言われても、土に還ってしもうたのであるから、納得するしかあるまい?」

『出来る訳がないのよ!』

「そうであろうな。ま、わしは玲太郎が暴走せぬかと冷や冷やせずに済んだから良かったわ」

 玲太郎は脱力すると、溜息を吐いた。

『はぁ……。暴走なんてする訳がないのよ』

「ま、今は顔色が戻っておるが、先程は真っ赤であったぞ。耳までな」

『え、そうなの? それは言われないと知らないままだったかも』

 冷静に話せているようでヌトは安心した。

「兎にも角にも、事は終わってしもうたのであるから、颯を此処に呼べぬか? それが出来ぬのであれば連絡をしなければな」

『ああ……。うん……。でもこの怒りはどうすればよいの? ぶつける所がなくなったのよ』

「颯を呼んで颯に訊けば良かろうて。颯も怒りを静める事には長けておる筈であるからな」

『それじゃあはーちゃんをここに呼んでみるね』

「うむ」

 玲太郎は目を閉じて眉を顰めると、目の前に颯が現れた。

『うん?』

 突然景色が変わり、驚いた表情で周りを見回した。

『はーちゃん』

 そう呼ばれて下を見て、玲太郎を見付けると少し顔を綻ばせた。直ぐその場に屈み、玲太郎の肩に手を置いた。

『玲太郎が俺だけを瞬間移動させたのか?』

『そう、やったのは僕なのよ』

『遣る時は前以て報せてくれないと驚くだろう?』

『ごめんなさい……』

 萎れた様子で言うと、瞬時に渋い表情になる。

『あのね、父上を呪った大本をとっちめるつもりだったんだけど、対精霊を消したら土に還っちゃったのよ』

『そうなんだな。それは残念だったな。その対精霊はどんな感じだった?』

『とっても変だった。足が何本もあったのよ。目も見える範囲で五体以上はあったと思う。耳みたいな物も色々な所から出てたからね』

『相手はどんな奴だったかは憶えているか?』

『んー、ハゲてて頭と顔に黒いシミがあって、体がとっても大きかったのよ。なんだか変な感じがした』

『成程。それじゃあ玲太郎は屋敷に戻って、水伯の傍に付いていような。今はニーティにいて貰っているから』

『でもね、僕は怒り狂ってるのよ。この怒りをどうすればよいのか、全く分からないのよ』

 颯は玲太郎を抱き上げると、玲太郎の前髪を撫で上げた。

『まあ、怒っていても疲れるだけだから静める事だな。それが出来ないなら、気持ちが落ち着くまで空を飛び回るか、外を走り回るか、湯船に浸かるか、魔術を空に向かってぶっ放すか、俺に抱っこされているか…』

『うん? はーちゃんに抱っこされてたら怒りは消えるの?』

『さあ? 遣ってみないと判らないから遣ってみるか?』

 笑顔の颯を見てヌトが白けた。

「二人仲良く話しておる所を悪いのであるが、玲太郎はそろそろわしを放して呉れぬか?」

『ああ、そうだね。ごめんね』

 玲太郎は直ぐに手を開いてヌトを解放すると、ヌトは颯の肩に座った。

『ヌトが何を言ったのか、全く判らないんだけど、何語を話しているんだ?』

 険しい表情をしている颯がヌトを横目に見た。

「判らぬのか? それでは此処で多く使われておる言語は共通語ではないな」

『どういう事?』

「わしはわし等兄弟に通ずる言語を話しておるのであるが、子にはわしがおる場所で多く使われておる言語に翻訳されて聞こえるのよ。颯が判らぬのであれば、颯が扱える言語が多く使われておらぬという事になるのよ」

『へぇ、そんな凄い事が出来るんだ。でも僕は分かるよ?』

『ヌトはなんて言ったんだ?』

『えっとね、ヌトが使ってる言語は、いる場所で多く使われてる言語に翻訳されるんだって。だからここは、はーちゃんが知ってる言語以外を多く使ってる場所になるんだって』

『成程。それじゃあナダール王国や和伍じゃないな。……でもそれなら何故玲太郎に判るんだ?』

「それはそうであるな。玲太郎はその理由が判っておるのか?」

『理由? ……どうしてだろう?』

 玲太郎が『うーん』と唸ってから黙考すると、颯はズボンから容器を取り出して、魔術で蓋を開けると親指で音石を操作した。

『兄貴、俺だけど斑な』

 玲太郎は思案するのを止めて、そちらに気を向けた。

『颯? 急にいなくなってどうしたの? 何かあった?』

『それが玲太郎に瞬間移動させられたんだけどな、何処にいるかが良く判らないけど、洞窟っぽい所にいる』

『玲太郎に? 玲太郎は無事なの?』

『無事なのよ』

 颯は玲太郎を見ると、玲太郎の口元に容器を近付ける。

『もう一度』

『無事なのよ』

『そう、それならば良かった』

『あのね、大本まで来たんだけどね、対精霊を消滅させたら土に還っちゃって、とっちめられなかったのよ』

『そうなのだね。でも土に還ったのであれば、とっちめたも同然だよ』

『僕は怒りをぶつけられなくて、困ってるのよ』

『消化不良なの?』

『そう、それ』

『それでは早く帰って来ればよいよ。私が消化するのを手伝うから、ね?』

『え、まだ帰らない』

『何故? もう用事はなくなったのだよね?』

『なくなったけど、はーちゃんと一緒に帰るから心配しないでね』

『心配するに決まっているよ。一旦颯と一緒に帰って来て貰える?』

 玲太郎は容器から颯に視線を移す。

『はーちゃんは帰る?』

 即座に颯が首を横に振った。

『俺は此処が何処かを突き止めてから帰るよ。こいつの身元も調べないといけないからな』

『じゃあ僕も一緒にいる』

『いや、いいわ。一旦帰ろう。また此処に来ればいいだけだからな』

「待て。玲太郎、先に颯を辿り着いた二人の所へ案内せぬか」

 そう言ったヌトを見ていた玲太郎は頷いた。

『分かった、それがよいね。はーちゃん、先に途中で二人倒れてた所へ案内するね』

 颯は玲太郎を見詰めながら容器を自分の口元に近付ける。

『兄貴、悪いんだけど少し寄り道して戻るわ。でも戻るにしても、玲太郎は直接水伯の所へ連れて行くからな』

『ああ、そうだね。その方がよいね。それでは颯はその後、また此方こちらへ戻って来るね?』

『うん、そうする。それじゃあ後でな』

『気を付けてね』

 また親指で操作をして魔術で蓋を閉めると、容器をズボンの衣嚢に入れた。ヌトは玲太郎の傍に飛んで行き、髪をひと房掴んだ。

「わしはもう用意が出来たから移動してもよいぞ」

『うん? ヌトはなんて?』

『用意が出来たから移動してもよいって言ってるのよ』

『そうなんだな。それじゃあ此処の家探しはまた後で遣るとして、玲太郎、頼むよ』

『うん、分かった。ここに来るまでに辿り着いた二人の所へ行くね』

 言い終えた瞬間に移動した。


 水伯の下に戻った玲太郎は寝台脇に、ルニリナはその正面で椅子に腰を掛けていて、隣には何故かハソがいた。ヌトは颯の寝台で眠っていて、ノユとズヤがヌトの寝顔を見ている。玲太郎はそれを見ていた。

「椅子をお出ししますので、こちらに座りませんか?」

 玲太郎は視線をルニリナに遣ると、首を横に振った。

「ここでよいです。ありがとうございます」

「そうですか。それでは、いつでも椅子をお出ししますので、遠慮なく仰って下さいね」

「はい。ありがとうございます」

 ルニリナに釣られて玲太郎は笑顔になったが、直ぐに何かを思い出したような表情になる。

「そう言えば、呪いが戻って来て倒れてた人が二人いたんですけど、三人目にも呪いが戻って来たみたいで、それを弾き飛ばしていたんです。結局三人の所へ呪いが戻っていた事になるんですけど、一つの呪いで、三人の所へ戻るという事は有り得るんですか?」

 笑顔が一転し、少しばかり険しい表情になったルニリナは頷いた。

「有り得ます。もしかするとそれ以上の人数に呪いが戻っているかも知れませんね。一人では掛けられない程の強力な呪いだと見受けました。片手では到底足りない人数の、それも命懸けの呪いですね」

「そんなに強力な物だったんですか?」

「そうです。閣下と一緒に倒れていた人達、敷地の近くで倒れていた人達を合わせて四人、それだけでは数が合いませんが、この呪いを完成させる為に命を捧げた人がいてもおかしくない程ですね。考えてもみて下さい。閣下程の魔力量を持っていてもやられてしまう程なのです」

「命を捧げ……。そこまでして父上を殺そうとしてたと……」

 それを思うと、玲太郎の怒りが再燃した。ルニリナは紅潮した玲太郎を見ると困惑する。

「あの……、ですがもう終わった話ですので、どうかお気を静めて下さいね」

 ズヤが心配そうに玲太郎の傍に来る。

「怒気を発散すべく、外へ出るか? わしが付き合うぞ」

「わしも行こう。何かあってもズヤとわしがおれば少しは時間が稼げようて」

 ノユまで遣って来た。

「ハソはどうする? 行くであろう?」

「わしは灰色の子の傍におるわ。玲太郎は行くであろう?」

 玲太郎は首を横に振る。

「行かない。父上が倒れてた時の事を思い出して、頭に血が上っただけだから大丈夫なのよ。ありがとう」

「しかし顔が赤いぞ。一度その怒気を発散しておく方がよいのではなかろうか」

「わしもそう思う。ま、それが切っ掛けとなり、暴走するおそれもあるがな」

 ズヤとノユが畳み掛けるように言ったが、玲太郎は首を縦に振らなかった。ノユとズヤは顔を見合わせて、ヌトの寝顔を見に戻った。


 夕食時にはルニリナに代わって颯が水伯の傍に付き、それ以外の者は夕食を摂った。明良は玲太郎の食欲を見て安心し切っていた。颯の席にルニリナが着き、玲太郎と話しながら食べていて、それを見ている明良は些か不機嫌になっている。八千代はそれを見て苦笑するだけだった。

 食事を終えると、ルニリナと玲太郎の二人と入れ違いに颯一人が食堂へ向かい、食後にいつも居座らない明良が颯の食事が終わるまで食堂にいて、颯との話が終わるとイノウエ邸へ戻った。

 ヌトの寝顔を見飽きたズヤが図書室から本を持って来て読書を始め、ノユはヌトと一緒に眠り始め、玲太郎は椅子を出して貰い、ルニリナの隣で発光している水伯を漫然と見ていた。ハソは二人の対面から水伯を見ていた。そこへ颯が入室し、ルニリナの横に立って水伯を眩しそうに見た。

「この光って、何時いつになったらなくなるんだ?」

「どうだろう? 明日か明後日くらいじゃないの? 分からないけど……」

 玲太郎は自信なさそうに水伯を見ながら言った。

「そうなんだな、解った。それはさて置き、ニーティは嫌に落ち着いていたんだってな。やはり水伯は死なないって判っていたのか?」

「そうですね。私が占った結果に、死ぬかも知れないという事すら出ていなかったと思いますよ。過去の話なので記憶にないだけかも知れませんが、記憶にないという事は、逆に言えば、閣下の身に危険が及ばないと知っていたから忘れた、という事だと思い至ったので……」

 颯を見上げながら言うと、颯がルニリナを見て苦笑する。

「でも折悪く、俺が具合の悪い水伯と接する事はなかったから、俺を占った所で判明する筈もなかったんだよな」

「そうですね。でも玲太郎君が治療してくれましたので、閣下も目を覚ました時には頗る健康体ですよ」

「そうだな」

 笑顔で肯定すると寝台に腰を下ろした。すると玲太郎が颯を横目で一瞥して、それを見ていた颯が苦笑する。更にそれを見たルニリナは玲太郎の方に顔を向けた。

「玲太郎、水伯を救ってくれて有難うな」

 改めて言った颯を、また横目で一瞥する。

「僕の父上なんだから当然なのよ」

「まだ怒りが静まらないのか?」

「そういう訳じゃないけど……、僕じゃなくても、あーちゃんを占えば分かってたんじゃないの?」

「兄貴にはな、鼻で笑われただけだったんだよ」

「ああ、想像が出来ちゃう……」

「まあ、俺の結果で水伯の危険が判らなかったからな、それもあってその気にならなかったんだと思う」

「ふうん……」

 また横目で颯を一瞥する。

「それにしても、ごう語を会得していたんだってな。兄貴から聞いたよ。移動先でヌトが話していた言語がそうだろう?」

 玲太郎は颯の方に顔を向ける。

「そうなのよ。記おくを読み取ってたら、知らない言語が出て来たんだけど、それを分かるようになりたいと思ったら、分かるようになっちゃったのよ」

「凄いなあ。俺にも恒語を教えて貰ってもいいか?」

「そうなのよ、僕って凄いのよ」

 得意満面で言うと、颯が微笑んだ。

「父上の書庫から恒語の本を探しておくから、明後日に寮へ帰ってから教えるね」

「恒語の本なんてあったか? まあ、兎に角頼むわ」

「うん、分かった」

 二人は笑顔になっていた。ルニリナも颯の笑顔を見て笑顔になっていて、それに気付いた颯が更に目尻を下げた。玲太郎はそんな二人を横目に見て、また水伯へ視線を移した。

 玲太郎はこの後、「出来ない事はない」と豪語して小型の魔石作りに挑戦したが、颯に小型の水晶を幾つも出させるだけで作れる事はなかった。中型の魔石は作れるようになっていたのに、それすらも作れなくなっている事が判明して意気消沈してしまうと、颯に担がれて浴室へ運ばれた。


 玲太郎は自分の寝台で就寝し、颯とルニリナが並んで椅子に座り、水伯を看ていた。

「大きな魔術を使った事もあって、感覚が狂っているのだと思いますよ」

「ニーティもそう思う? 俺もなんだけど、兄貴もなんだよ。だから今日の記憶を消去させる為に薬を飲ませたけど、効いてくれるかどうかが不明だからなあ……」

「もう手を打っていましたか。そうですね、効果を打ち消しそうですね……」

「なんと言っても、今日は死体を見ているからな。兄貴が言うには、二体共に首が飛んでいて割と大きな血溜まりが二つ出来ていたんだとさ」

「そのような物を見たとは思えない程にいつも通り、いえ……少々自惚うぬぼれ気味でしたが、死体を見た衝撃を受けて、精神的に参っている感じはないようでしたね」

「死体を見た衝撃よりも、水伯が倒れていた方に衝撃を受けたのかも知れないな」

「閣下にしか目が行かなかったという事でしょうか」

「玲太郎は人が死んでいると認識していたそうだから、目にしている筈なんだけどな」

「そうですか……。無意識に、その場面を記憶から消去しようとしているのかも知れませんね」

「有り得るなあ。まあ、薬が効いてくれればいいんだけどな」

「効いてくれるように願いましょう」

「そうだな」

 それから約一時間が経った頃、ルニリナが入浴する為に退室し、戻って来て直ぐに颯の寝台で三体と一緒に就寝した。室内の集合灯は、水伯が発光している事もあって消灯していた。

 水伯は微動だにせず、表情は見えないが、雰囲気はいつもの穏やかな水伯のそれと同じだった。颯は幼い頃から安心感を与えてくれるこの雰囲気が大好きで、和らいだ表情で水伯の事を見ていた。

「……ぁあっ!」

 俄に玲太郎が叫び、颯が咄嗟に振り返ると、玲太郎が上体を起こしていた。直ぐに玲太郎の寝台へ行って腰を掛けると、俯いて両手で顔を覆っている玲太郎の背中をさすった。

「どうしたんだ? 怖い夢でも見たか?」

「はーちゃん……」

 両手を伸ばして颯の方に縋って来た。珍しく涙を流している。颯は受け止めると、玲太郎を膝の上に座らせ、頭を優しく撫でた。

「なんか……、とっても怖かった……」

「水伯は大丈夫だから安心していいぞ」

「うん……」

 頷くと颯の服に涙を擦り付けた。颯は玲太郎の行為に気付いていたが、微笑んで頭を撫で続けていた。玲太郎が膝を立てて颯の首に抱き着くと、颯は甘える玲太郎を抱えて背中を擦った。玲太郎はそのまま目を閉じると颯に体を預けた。寝汗を掻いていたようで寝間着が湿っていたが、颯が魔術で寝具も一緒に綺麗にした。

 颯は約二時間はそのまま玲太郎を抱えて水伯を看ていたが、玲太郎が目を覚ます事はなく、寝入ったようで寝台へと移した。そしていつもと同様の状況にする為、熟睡しているヌトを運んで来て玲太郎の枕元に置いた。あどけない玲太郎の寝顔を見て、自然と微笑んでしまうと直ぐに顔を引き締めて椅子に座り、水伯を眩しそうに眺め始めた。

「颯は心配事が多くて大変よな?」

 颯はハソを一瞥した。

「水伯の事は心配していないんだけどな」

はらわたに穴が空いておったのに何故なにゆえよ?」

「玲太郎が治療して、治りつつあるからだな。それに対精霊擬きも縮んでいるからな。それが俺としては大きいわ」

「わしはあれを見に行っておらぬのであるが、そうであるか、縮んでおるのか。これであれが破裂する心配がなくなる訳であるから、懸念が一つ減るな。き哉、佳き哉」

 そう言いながら嬉しそうに頷いているハソを見て、颯は些か複雑な心境になった。


 翌朝、玲太郎が目を覚ますと、左側が眩しくてそちらに顔を向けた。ルニリナらしき人物が背を向けて椅子に座っている。そして部屋を見回した。いつもなら水伯の寝室で目覚めていて、この部屋に来る時は就寝する時だけだった。

(あれ? どうしてここで眠っているんだろう? 昨夜は厠の後に父上の寝台に入ったよね?)

 上体を起こして色々と見回している内に、枕元にいるヌトを見付け、颯の寝台で横になっている三体が目に入る。ルニリナは衣擦れの音がして、思わず振り返る。玲太郎が目覚めていて目が合った。

「おはようございます。目が覚めましたか?」

「はい。おはようございます」

 状況が把握出来ない玲太郎は、寝台からして、発光している人物が明良だと思った。

「あの、その光ってる人はあーちゃんですよね? ルニリナ先生がどうしてここにいるんですか?」

 ルニリナが優しく微笑む。

「このお方は閣下です。閣下の具合が良くなくて、私もお手伝いに来たのですよ」

 俄に信じ難く、言葉に詰まった。玲太郎の曇った表情を見たルニリナが心配そうに覗き込む。

「大丈夫ですか? 具合でも悪くなりましたか?」

「僕は大丈夫です。……父上の具合ってそんなに悪いんですか?」

「そうです。とても悪かったのですよ。でも玲太郎君が尽力して治療してくれました。今は上空にいる対精霊を閣下の体内へ戻している所で魔力を抜いていて、その副作用で光っているのですよ」

 玲太郎はルニリナを見詰めたまま、暫く呆気に取られた。

「……え? 僕? 本当に僕が治療したんですか?」

「そうです。玲太郎君が治療してくれました。相当の力を注ぎ込んだ所為なのでしょうか。玲太郎君の記憶が前後しているようですね。アメイルグ先生と颯に報告しなければなりませんね」

 ルニリナが言っている間、玲太郎は寝台脇に行って靴を探した。玲太郎の左手側にはなく、右手側へ行くと靴が置かれていた。慌ててそれを履き、寝台を回り込んでルニリナの隣の椅子に座り、暫く眩しそうに水伯を見ていた。それからルニリナの方に顔を向ける。

「父上は今、どんな感じなんですか?」

「閣下は内臓の一部に穴が空いているのですが、それが塞がりつつあり、今日中には大凡が塞がるでしょうね。起きて確認して来ましたが対精霊も小さくなりつつありまして、今日、明日は無理だと思うので、明後日中には閣下の中に戻るのではないでしょうか」

「そうなんですね。良かった……」

 安堵して笑みが零れた。

「閣下が目覚める頃合いがいつかは判っていませんが、対精霊が戻ればきっと目覚めるでしょう。アメイルグ先生はまだお出でになっていません。颯は少し前に厨房へ朝食を作りに行きました」

 そう言われて、思わず掛け時計に視線が行った。

「まだ五時八じっ分なんですね」

「そうですね。六時になったら食堂へ行きましょうね。それまでに服を着替えておきましょうか」

「はい」

 返事をすると立ち上がり、移動しながら寝間着を脱ぎ出した。


 八時を過ぎると、明良がガーナスを連れて遣って来た。帰りは明良と一緒ではない為、バラシーズも付いて来ていた。

「それじゃあどうしようか? バラシーズさんは応接室で待つのも退屈だろうから、親衛隊の訓練所にでも行って訓練を遣る?」

 玄関に迎えに出た颯が訊くと、バラシーズは首を横に振る。

「こちらに椅子がございますし、こちらで結構です」

「そうなのか? 此処でも退屈だと思うんだけどなあ」

 ガーナスは顔を顰めて二人の間に割って入る。

「此処でよいと言うておるのだからよいではないか。それよりも閣下のもとへ早く案内してくれ」

「兄貴、話があるからお父様を案内したら直ぐに来て貰える?」

「解った。それではお父様、此方になります」

 明良が先導して、二人は二階へ上がって行く。その後姿を颯とバラシーズが見ていた。その姿が見えなくなると、颯はバラシーズに顔を向けた。

「それじゃあ飲み物を持って来るよ。紅茶と緑茶と梅湯と白湯と水、どれがいい?」

「では梅湯でお願いします」

「了解」

 颯は笑顔を見せて、厨房へと向かって行った。ちなみに梅湯とは、梅干しを潰して熱湯を注いだだけの物だ。以前、バラシーズのいる所で颯が飲んでいる時に興味深そうに見ていた事があり、無理遣り飲ませた所、バラシーズが気に入ったという経緯があった。

 厨房で湯を沸かしていると、明良が遣って来て調理台を扉の代わりに二度叩いた。焜炉こんろの前で突っ立っていた颯は振り返った。

「お父様にも茶を持って行くか?」

「そうだね、紅茶を入れて貰おうか。それにつけても、颯は眠れたの?」

 颯は明良の横を通り、茶筒の置かれている棚へ行く。

「いや、ずっと起きているけど、それはいいんだよ。話は、玲太郎の昨日の記憶を消せたんだけど、このまま消えっ放しかどうかが心配で、兄貴に何時も以上に玲太郎の様子を見ていて貰いたいなと思ってな」

 茶筒が置かれている棚の隣にある食器棚の扉を開けて、必要な物を取り出して調理台に置いた。明良がそれ等が載った盆を魔術で浮かせて、焜炉に近い場所へ移した。

「何かあったの?」

「夜中に声を上げて起きたんだよ。それも一度だけなんだけど、なんだか気になって……」

「そう。……解った。気を付けておくよ」

 茶器の前へ行った颯が、蓋を開けて茶葉を入れ始めた。

「それじゃあ俺は昨日の続き…と行きたい所だけど、新たに見付けた施設に出入りがないかどうかも見て来るわ。日の曜日とは言え、暗殺業に曜日は関係ないからな。人がいたらさらって来るわ」

 茶筒の蓋を閉めると、明良の方に顔を向けた。

「水伯に付き添いたければいてもよいよ?」

「いや、暗殺部の頭領が消えたと知られれば逃走するかも知れないだろう? だから何度でも行って少しでも確保しておきたい。もう一人は指示役の長だったけど、その下に付いている暗殺者も出来得る限り確保したいんだよなあ。それが出来ないなら、あの刺青を使って始末したいんだけど、刺青が入っていなければ出来ないんだよな。それが残念でならない……」

「紫苑団の頭領のカンだったか、それの執務室が判ればね。其処にきっと名簿がある筈だよ」

「そうだろうか? 持っていない気がするけどなあ。仮にあったとしても、顔が判らなそうではある」

「それは有り得る」

 湯が沸き、颯は火を止めた。

「恒の警官に協力して貰うか?」

 明良が鉄瓶を浮かせると、茶器に湯を注いで鉄瓶を焜炉に戻す。

「貰わない。野放しにしていたのだろうから役には立ちそうにないし、きっと内通者が多くて、協力ではなく、邪魔をされるだろうからね。それに私達が関っていると知ると、警察ではなく、軍隊が出動しそうだから、事も大きくなると思うよ」

 颯が鉄瓶のつるを手拭いで包んで持ち、解された梅干しの入った茶器に湯を注ぎ、茶器の蓋を開け、それにも注いだ。

「成程。それじゃあ俺が遣るしかないなあ」

「今度は私も手伝うからね。ガンガオネ隊長も協力は惜しまないと言ってくれたのだけれど、水伯の魔術に頼り切りで警戒を怠っていた事が判明したし、その上水伯の命が脅かされてしまった責任を問わなければならないから、申し出は断ったよ」

 颯は鉄瓶を焜炉に、手拭いを調理台に置くと、明良の方に顔を向けた。

「ガンガオネ隊長も挽回する機会も与えられずに解雇の危機かあ。下にごみがいると大変だな」

「それは水伯が意識を取り戻してから決断する事だろうけれどね。巡回をしていなかった騎士達は既に牢の中で、自白薬漬けだよ」

「えっ、もう自白薬使ったのかよ?」

「紫苑団との繋がりがないかを調査しないとね。……水伯が死に掛けたのだよ? 事の重大さを解っていないの?」

「それは解っているけど、遣る事が早いなと思って……」

「私もはらわたが煮え繰り返っているのだからね。颯は現場を見ていないから解らないのだろうけれど……。兎にも角にも、そういう訳で脳の治療をお願いするよ」

「ああ、それは遣るよ。巡回と言えば、ウィシュヘンド騎士団の巡回にも問題があったって事なんじゃないのか?」

「騎士団と親衛隊が一日交代で巡回をしているのだそうだよ」

「ふうん、交代制か。まあ、俺は茶を出したら紫苑団の本部と、暗殺部の施設に行って来るわ。時差が九時間くらいあって向こうは昼を過ぎた頃だけど、紫苑団の頭領の執務室でも探って来る。手土産を楽しみにしておいてくれよ」

「解った。お土産はなくてもよいから、呉々も気を付けるのだよ?」

「それは十分に気を付けるよ。茶は後一分くらいで注げるからな。兄貴の分も入れてあるぞ」

「ああ、それで茶器が四人分だったのだね。有難う」

「お先」

 颯は茶器の載った盆を持ってバラシーズの下へ向かった。明良はいつもの無表情でその後姿を見送った。


 玲太郎を真ん中にして明良とルニリナの三人が並んで椅子に座り、唯々水伯を看ていた。特に玲太郎は、自分で水伯を発光させている筈なのだが、その手順を一切憶えておらず、それを思い出そうと必死になっていた。しかしその糸口すら見付ける事が出来ず、時間だけが虚しく過ぎて行くだけだった。

「玲太郎君はそろそろ帰寮の時間ではないのですか?」

 玲太郎は不意の発言に驚き、掛け時計を見た。十九時半を過ぎている。

「そうですね。でもはーちゃんが来てないから……」

「直に来ますよ。申し訳ありませんが、帰寮する時は私も一緒にお願いしますね」

「分かりました」

 玲太郎はルニリナを見て笑顔になる。

「そろそろ帰るのか? 颯がまだであるがよいのか?」

 読み掛けの本を開いたままでズヤが近寄って来た。ルニリナはそちらを見ると微笑む。

「颯が来ないと瞬間移動が出来ないですのでね」

「ああ、颯が来てからの話であったか。これは済まぬ。わしも一緒に頼むわな」

「うん、分かった。ノユも一緒だよね?」

 そう訊きながら玲太郎が振り返る。

「然り」

 ノユは玲太郎の寝台で熟睡しているヌトの隣に座っていた。

「それにしても、見ている内に不思議と眩しくなくなるお陰で、ずっと見ていられますね」

「そうですけど、ずっと見てても父上は全然動きませんね」

「意識が深い所へ行ってしまっているのでしょうね。対精霊が体内に戻った時に目覚めてくれるとよいのですが……」

 明良は二人が会話しているのを尻目に見ていた。そこへ颯が瞬間移動で窓際に現れた。

「只今」

 その声の前に姿を見た玲太郎が笑顔で一番に反応する。

「おかえり!」

「お帰りなさい」

「お帰り。まだ帰寮するには早いから、もう少しここにいるよね?」

「そうだな。もう少しいるとするか」

 そう言いながら掛け時計に視線を遣った。

「なんだ、まだ四十五分くらい時間があるな。茶でも飲んで来るわ」

「ばあちゃんがお弁当を作ると言っていたからね」

 颯が明良を見ると頷く。

「解った。それじゃあ厨房でばあちゃんの手伝いを遣って来るから、九十五分くらいに戻って来るよ」

 そう言うと扉に向かって歩き出した。

「いってらっしゃい」

 玲太郎が言ったが、颯は無言で退室した。三人はまた無言で水伯を眺め始めた。

 颯が弁当を持って戻って来ると、窓の前にヌトを抱えた玲太郎とルニリナが立ち、ノユとズヤもその近くで颯を待ち構えていた。

「あれ? もう準備万端かよ」

「うん、そうなのよ。いつでも帰れるよ」

 颯は苦笑しながら窓の方へ向かい、玲太郎の手を取ると明良の方に顔を向ける。

「それじゃあ兄貴、帰寮するわ。大変だろうけど、水伯の事は頼んだぞ」

「任せておいて。学院の方には理由は言わず、休むと伝えてあるからね」

「解った。一応明日の朝には顔を出すよ」

「その時は玲太郎も連れて来てね」

「解っているよ」

「それじゃああーちゃん、また明日ね」

「うん、明日ね」

 明良が満面の笑みで言うと、ルニリナが微笑んで明良を見た。

「アメイルグ先生、失礼します」

 明良の表情が無表情に戻る。

「ルニリナ先生も有難う御座いました」

 丁寧に辞儀をすると、ノユとズヤが玲太郎に触れた。ルニリナは玲太郎の右肩に手を置く。

「わし等は何時いつでも良いぞ」

「私も大丈夫ですよ」

「きちんと玲太郎に触れていろよ。兄貴、それじゃあな」

 言い終わるや否や、三人と三体の姿が消える。

「玲太郎、ご免ね」

 先程まで玲太郎がいた、今は何もない空間に向かって明良が呟く。いつもと違い、苦渋の表情をしていた。

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