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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第二十二話 しかして綯い交ぜ

 ハソが居着いて一ヶ月が経とうとしていた今日の曜日は日、玲太郎は水伯邸にいて、朝から明良が遣って来て、いつものように玲太郎に張り付いている。その玲太郎はと言うと、平日に颯に張り付いているハソを見ずに済み、心穏やかに過ごせていた。

 十時の食後、八千代は直ぐに部屋へ下がったが、三人は居室で茶を飲んでいた。長椅子の方に玲太郎と明良が、明良の正面に水伯が座り、いつもの柔和な微笑みを浮かべている。

「そうなのだね。五ヤチゴナ(約二貫四斤)の物を浮かせた状態で動かせるようになったのであれば、試しに箱舟に乗って練習を遣ってみるかい?」

 玲太郎は目を丸くして首を横に振った。

「それは早過ぎるのよ。箱舟みたいに大きいのはまだ無理だと思うから、少しずつ大きくして行くのがよいと思うのよ」

 自分の言った事を自分で肯定するように何度も小さく頷いた。

「中型の魔石も作れるようになったし、小型も作れるようになれば付与術は達成したも同然だから、それも作れるようになろうね」

 明良が笑顔で言うと、玲太郎はそれを横目で見た。

「でも、ルマービ先生の作った中型の水晶だとね、まだ成功した事がないのよ」

「そうなのだね。そうなると、品質が低い所為なのだろうから仕方がないね」

「良く品質が低いって分かったね。そうなの、品質が低いのよ。先生が、低品質の物も出来るようになろうねって言うから、授業ではそれで練習をやってるんだけど、高品質の中型が作れるようになって間もないから、全く出来ないのよ」

「高品質の小型の水晶と低品質の中型の水晶が、ほぼ同じ程度の魔力になるから、低品質の物であれば、高品質の小型の水晶で練習しているような物だね。品質が低くても低品質まで行かないかも知れないけれどね」

 玲太郎はそう言った水伯を見ながら眉をしかめた。

「えっ、そんなに少ないの? 低品質って言っても、それって最低の品質じゃないよね?」

「そうだね。低品質と言っても、此処ここまで、という基準があってね、最高品質の約半分の魔力が注入出来る物が最低の品質になっているのだよ。それ未満の物はごみになるね」

「ふうん、そうなんだ。知らなかったのよ。それじゃあそのゴミはどうなるの? 捨てちゃうの?」

「装飾品としては使えるから、耳飾りや首飾りなどを作って売るのだよ。後は工芸品にも使われているね。魔道具の部品にもなっているし、それ以外は……、何かあっただろうか……」

「ゴミと言っても使い道があるんだね。なんだか安心したのよ」

 そう言うと湯呑みを持って茶を飲んだ。水伯は玲太郎を見て柔和な微笑みを浮かべる。

「魔石にするには塵扱いだけれど、水晶は優秀な宝石だからね」

 湯飲みを置いて水伯を見る。

「そうなんだね。僕は魔石作りに失敗して、一杯壊してるんだけどなぁ……」

「皆もそうだよ? 練習で沢山駄目にして作れるようになって行くのだからね」

「私も沢山駄目にしたけれどね。自分で水晶を作りながら魔石作りの練習を遣っていたから、低品質から品質が上がって行って、掴んでいた感覚が狂って大変な思いをしたよ。それでも、玲太郎程ではないだろうけれどね」

 水伯に続いて明良もそう言うと、玲太郎は何かを思い付いたのか、表情が明るくなった。

「それだ! 僕も水晶を作りながら魔石作りの練習をやればいいんじゃないの?」

「冬休みの間、土から何かを作る練習は遣っていたものね」

 玲太郎は明良を見る。

「やってたけど、岩しか出来てないんだよね……」

「岩が作れるのであれば、もう少し魔力を足せば、水晶や瑪瑙めのう月長げっちょう石、尖晶せんしょう石も作れると思うよ? 品質は練習を重ねなければなら上がらないのだけれどね」

 明良は玲太郎の手を取り、満面の笑みを湛えていた。

「ふうん? 結構な種類が作れるんだね。魔力を少なくする事しか頭になかったから、魔力を多くしてもよいのだね」

「それはそうだよ。魔力を多くする程、品質の高い物が作れるのだからね」

「そうなんだ」

 水伯が思わず口に手を遣った。

「ふふ。玲太郎は小さい頃から魔力量を抑える事に重きを置いて遣って来て、魔石作りでも魔力量を抑える事に重きを置いて遣っているものね。それが癖になっていて、多くする事に思い至らなくても仕方がないよね」

「そうなの。僕は少なくする練習しかやって来なかったのよ。植物を育てるのだって、頑張って減らしてるんだけどね」

「何故? 植物に魔力の多寡は関係ないよね?」

「そうでもないのだよ。玲太郎が魔力を多く消費すればするだけ、溶解してしまうのだよ。茎や葉がね」

「え? そのような事になるの?」

 水伯から玲太郎に視線を移すと、玲太郎は明良を見て視線を合わせた。

「なっちゃったのよ。それで、一所懸命減らしたのよ」

「それもさん度だけだったのだけれど、それまで加減をしていたと、その時に知ったのだよね」

「植物は魔力が多過ぎるといけないという事を今知ったよ。そういう事もあるのだね」

「過ぎたるは猶及ばざるが如し、だね。何事にも適当な程度があるのだよ」

 そう言うと、水伯は茶器の取っ手を持ち、茶を二口飲んだ。

「一杯魔力を使えば、その分元気になるんじゃないのかと思ったんだよね。でもダメだった」

「よい勉強にはなったけれどね」

 茶器を受け皿に置き、柔和な笑顔で玲太郎に言うと、玲太郎も笑顔になって頷いた。

「そうだね」

「水伯も試してみたの?」

「何を?」

「沢山の魔力を消費して植物を育てるという事を遣ってみたの?」

 水伯は軽く二度頷く。

「遣ってみたら溶解したけれど、結構な量だったよ」

「そうなのだね……。私も屋敷に戻ったら遣ってみるね」

 玲太郎はそれを聞いて湯呑みを持ち、勢い良く茶を飲み干すと静かに置いた。二人も茶を飲んで、喉を潤している。

「それにつけても、修了試験は何時いつからなの? 上期は沢山受けていたから丸一日使って受けていたようだけれど、下期は少ないから違うのだよね?」

 水伯が俄に話題を変えたが、玲太郎は気にせずに首を傾げた。

「試験は七月上旬だったと思う。えっとね、必修教科の三教科と、呪術はろく学年の二教科分、治癒術と薬草術はさん学年の六教科分、魔術と付与術は呪文だけだから四学年まで一気に受けて八教科分だから…」

「十九教科」

 透かさず明良が言うと、玲太郎は明良の方に顔を向けた。

「ありがとう。十九教科分を受ける事になるね」

「上期は期末試験と修了試験の両方を受けていたものね。全部受かっていたし、魔術と付与術の実技次第では三学年か四学年には飛び級出来ると思うのだけれど、どう評価されるのかがまだ判らないからね」

「物を浮かせて動かせても軽い物に限る、小型の魔石作りが出来ない……だったよね」

 水伯がそう言うと、明良が頷いた。

「でも逆に、光以外の玉は大きいけれど作れるし、土からも大きいけれど岩まで作れるからね」

「はぁ……。魔術系の実技次第では飛び級が出来ない可能性もあるんだね……」

 やや落胆したように言った玲太郎を見た水伯が苦笑する。

「座学は申し分なくても、魔術系の実技が出来ていなければ仕方のない事だよ」

「カンタロッダ学院はそういう学校だからね」

 明良が同調すると、玲太郎が更に落胆してしまい、水伯が慌てて続けた。

「まだ飛び級が出来ないと決まった訳ではないのだから、今から気落ちするのは気が早過ぎるという物だよ。そう遣って落ち込んでいる暇があるのならば、少しでも努力をしなくてはね」

 そう優しく言った水伯を見た玲太郎は頷くと微笑んだ。

「分かった。飛び級が出来るように最後まで頑張るね」

「焦らず、ゆっくりだからね」

「うーん、そうも言ってられないんだけどなぁ……」

 困った顔をして腕を組んだ。

「それにしても治癒術と薬草術も五学年まで出来るようになっているのかい?」

「うん、治癒術は動物の皮膚や肉を切って、それをくっ付ける事も出来るようになったのよ。六学年では血管や神経をくっ付けるんだけどね、その練習も始めてる。薬草術は薬草を覚えて、効能を覚えて、配合する場合はその比率を覚えて、薬草に魔力を馴染ませる練習をやって、実際に配合して…って感じでやってて、学年が上がるごとに薬草が含む魔力量が増えてくだけだからね」

「それは凄いね。私が怪我をした時は、玲太郎に治して貰うとしよう」

 水伯が何気なく言うと、玲太郎は顔を強張らせ、机に手を突いた。

「何言ってるの? 怪我なんかしちゃダメなのよ!」

 その剣幕に水伯が驚く。

「ああ、ご免ね。怪我をしないように気を付けるけれど、そういう機会があればの話ね」

「それでは私も怪我をしたら、玲太郎に治して貰うね。その時は宜しく」

 嬉々として言うと、玲太郎は脱力した。姿勢を戻しながら、明良を横目で見る。

「あーちゃんが怪我をする事なんてあるの?」

「えー、水伯の時と態度が違う。冷たいのではないの?」

 不満をあらわにして玲太郎の両肩に手を置いて軽く揺らした。

「僕がやるより、あーちゃん自身がやった方がよいのよ。その方が綺麗に治ると思う」

 明良は手を止めると、玲太郎の顔を覗き込んだ。

「それでは私が気絶をしていたら治して貰える?」

 玲太郎は莞爾として明良の目を見詰め返す。

「叩き起こ……したい所だけど、僕の出来得る限りの治癒術で治すね」

 明良の表情を見て、きつい冗談で終わらせられなかった玲太郎は、言い終えると愛想笑いをしていた。水伯はその玲太郎の表情だけで笑いが込み上げて来たが、どうにか堪えた。

「それにしても、魔術系の教科を落としちゃったら、どうすればよいの? 合格が貰えるまで居座っちゃってよいの?」

 軽く二度頷いた水伯はいつもの柔和な笑顔になる。

「構わないよ。でもそうなる子は大抵上学校へ転入するのだけれどね」

「そうなの?」

「カンタロッダ下学院は上学校の二学年までに習う授業内容だからね。だから卒業すると就職する子が多いのだよ。経験を積みながら更に学んで国家試験を受けて、治癒師や薬草師等になるのだよね」

「へぇ、そうだったの。それじゃあ僕も卒業したら薬草師になれるように頑張らないとね」

「薬草師だと誰かに師事をして、経験を積みながら更に知識を得て、それから免状を取らなければね」

「独学じゃダメなの?」

「独学でも大丈夫だけれど、薬草が手に入り難いのだよ。玲太郎には明良も私もいるから大丈夫だけれどね」

「私が教えるから独学でなくてもよいのではないの?」

「だってあーちゃん、公爵の仕事があるから、そんなに僕に時間が取れないよね?」

「仕事なら教えながらでも出来るよ?」

「嘘だね。あーちゃん、集中したら僕の声も届かなくなっちゃうじゃない」

「そうだよね。明良の集中力は凄まじい物があるものね」

「集中するという事は、そういう事ではないの? 玲太郎だって私が瞬間移動で部屋に行っても、気付かないで集中しているじゃない」

「えっ、一緒にしちゃう? あーちゃんの場合は瞬間移動で物音もさせずに来るんだから、分かる訳がないのよ。あれは絶対、驚かそうと思ってやってるんだよね?」

 そう言って明良に顔を向けると、明良が満面の笑みを湛えた。

「解ってたの?」

「あれは本当に止めて欲しいのよ」

「そう? それでは残念だけれど止めるよ。玲太郎の驚く顔が見たいだけなのだけれどね」

 心底残念そうな表情をしながら言うと、玲太郎は不機嫌になった。そして少し間を置き、明良を莞爾として見詰める。

「じゃあ僕もあーちゃんの驚く顔を見るために色々やるのよ」

「何? 何? 何を遣って貰えるの? 物凄く楽しみ」

 二人が微笑み合っているのを見ている水伯は苦笑した。

「玲太郎はそういう事に頭を使わないで、新しい呪文でも憶えた方がよいのではないのかい?」

 そう言われて玲太郎は水伯に顔を向ける。

「新しい呪文は覚えても使えないから、覚え甲斐がないんだよね」

「明良と北の畑へ行っている時は使っているのではなかったのかい?」

「あれ? 言ってなかった? 前につむじ風の呪文を使って、あーちゃんを吹き飛ばして怖くなっちゃって、それ以来使ってないのよ」

「吹き飛ばされても、どうという事はなかったのだけれどね」

 玲太郎の言に補足する明良が、水伯に対して珍しく表情を変え、苦笑していた。

「どういう状況でそうなってしまったの?」

「えっとね、呪文を唱えたら、旋風があーちゃんに向かって行っちゃったのよ」

「狙ったのかい?」

「まさか! それはないんだけど、あーちゃんを見てたからだと思う」

「成程。それならば攻撃魔術は空を見ながら遣ればよいのではないの? それで巧く発動しないのであれば、解り易い的、例えば案山子かかしみたいな的を作って貰えばよいと思うよ」

「的に関しては似たような事を言ったのだけれど、本人が嫌だと言うからね…」

「カカシとか別の的とかがあっても、近くにあーちゃんがいるから怖いのよ」

「それならば仕方がないね。害のない魔術の呪文だけ唱えるしかないね」

「うん……」

 旋風の中に明良が消えて行った衝撃を思い出して消沈した。

「玲太郎、失敗は誰にでもあるのだよ? 失敗を恐れるのは良いけれど、その所為で出来ない事が増えて行くという事は勿体ないと思わないかい?」

「うん? それは思わない。出来なくてもよいのよ。使い所がなさそうなんだもん」

「そう? 私は使える魔術は少しでも多い方がよいと思うのだけれどね。旋風ならば規模を小さくして使えば、色々な物を粉砕出来るよ? 薬草師になるのであれば、出来た方が楽ではないのかい?」

 玲太郎は明良の方に顔を向けた。

「そうなの?」

 明良は笑顔で頷く。

「そうだね、私は風の玉に旋風の要素を混ぜて使っているね。魔力を無駄に消費しないように乳鉢を使う人もいるけれどね」

「ふうん……」

「また遣る気になった時に言って貰えれば、何時でも付き合うからね」

「うん、ありがとう」

 無理に笑顔を作って返事をすると、水伯の方を見る。

「父上は失敗をした事はあるの?」

「あるよ、それはもう沢山あるよ。何時も後悔して来たからね、後悔しないように色々な術を体得する努力は惜しまず、頑張っている積りではいるのだけれど、それでもやはり失敗はしてしまうのだよね」

「そうなんだね」

 水伯は柔和な笑顔を玲太郎に向ける。

「玲太郎が歳の頃は宙に浮く練習を嫌がって遣らなくなってね、困った事があったよ」

「またその話? もうよいのよ……」

「ふふ、そう? それではまた遣る気が出たら、失敗した魔術に挑戦しようね」

「分かった」

 頷くと立ち上がって、水伯の方へ行った。水伯は近寄ってくる玲太郎を不思議そうに見る。

「どうかしたのかい?」

「うん? やる気がなくなったから、父上に甘えようと思って」

「ふふ、そうなの」

 そして玲太郎を膝に乗せた。明良が鋭い目付きで水伯を見据えた。

「玲太郎はもう九歳なのだよね? 抱っこは禁止なのではなかったの?」

「ええ? 誰がそんな事を言ったの?」

「玲太郎が誕生日に、もう九歳なんだから抱っこは駄目と言っていたよね」

「そう言えば言ったかも。いひひひひひ」

 悪戯っぽく笑って誤魔化そうとしたが、明良は目くじらを立てていた。

「明良はどうこう言いながらも抱っこをしているのだろう? それならば私もよいよね。たまにだから余計にね」

 柔和な微笑みを浮かべながら言うと、明良が仏頂面になって黙った。玲太郎も満足気な笑顔で明良を見ている。


 その頃、颯は王都の街中で、奇妙なつい精霊を連れている者がいないか、目を光らせていた。何故かハソが協力的で、捜索を進んで手伝ってくれていたのだが、ここ最近は鳴りを潜めているのか、殆ど見掛けなくなっていた。

 それもその筈、明良が奇妙な対精霊を消滅させる呪術を創造してしまっていた。白、赤、黄、緑、青、紫、黒の各色の水晶にそれを掛け、細い革紐に一個だけ通している腕輪を安価で売ったお陰だった。

 これはアメイルグ公爵が経営している商会に置かれていた。商会は各地で展開されていて、奇妙な対精霊を二体消滅させると水晶に亀裂が入って役目を終えてしまうが、安価だけに苦情はほぼ出なかった。ちなみに颯には掛ける事が出来なかったが、ルニリナは掛けられた上に明良よりも効率的に出来る事が判明した為、週末は明良に雇われ、ウィシュヘンド州にある倉庫に籠る破目になっていた。

「颯、向こうでは見掛けなんだわ。この一帯はもうおらぬのではなかろうか」

(王都の中心街では例の腕輪がこの三ヶ月で二十万個も売れているからなあ。そのお陰だろうな。……まあ、いいか。別の街へ行くか。そうだなあ……、ルオッシ町に行こうか)

 ハソへ念話を飛ばしながら、人通りの少ない方へ歩いて行く。

「違う街へ移動するのは構わぬが、出来れば方角を言うてくれぬかと何度も言うておろうが」

(方角は此処からだとほぼ真東だな。直ぐ近くだから)

「解った。真東であるな」

 細い路地裏へ行って人目がない事を確認してから瞬間移動をした。ハソは颯が消えると、東へ向かって飛び立った。

 結局、この日は新たに奇妙な対精霊を見付ける事が出来ず、早々に切り上げてルニリナのいる倉庫へ行った。倉庫はイノウエ邸の敷地内にあり、五十棟ある内の一棟にいる。颯は気配を感知していて、真っ直ぐルニリナの下へ向かった。聞こえないだろうが、一応扉を叩いてから中へ入る。

「ニーティ、お疲れ様。そろそろ作らなくても良くなりそうだぞ」

 椅子に座ったままで振り返ったルニリナが笑顔になる。

「颯もお疲れさま。王都ではそうかも知れませんが、別の地域にはまだいるかも知れませんのでね」

「そうだなあ。家の商会があるウィシュヘンド以外の地域でもそれなりに売れているし、直ぐに壊れたと言う苦情が少しでも入っているから、効果を発揮していてあの対精霊が減っている筈なんだけどな」

「それでもまだいると考えていた方がいいでしょうね。……それよりも、この品質の物を三百こんで買えて、それでも壊れたからと苦情を言う人がいるのですね。水晶とは言え、これだけ大きいですので、普通に買うなら五百金はしますよ? 革紐だけでも五百金は下らないと言うのに……。それなのに苦情があるという事に驚いてしまいますね」

「まあ、安いから買ったのにってなるんだろうな。物の価値なんて金額で決まってしまうんだろう。だから苦情を言って来た客には仕入れ値を教えるようになっているよ。そうすると黙って帰るんだとさ」

 颯は言い終わると積み上がった箱や、作業机に置かれている水晶と革紐に視線を移した。

「厄除け以外に加工まで頼んで、本当に申し訳ないな……」

「日当もよいですし、これだけ膨大な魔力があるのに遊ばせておくのも惜しいですし、こういった事をするのは嫌いではありませんので、お気にならさらず」

 笑顔で言うと、颯は苦笑して近くにあった丸椅子に腰を掛けた。

「今日はハソは一緒ではないのですか?」

「いや、一緒に巡回していたんだけど、俺だけ瞬間移動して来たんだよ。行先は伝えたから後から来ると思うよ」

「そうですか」

「ノユとズヤは付いて来なくなったな」

「そうですね。ズヤはイノウエ邸の図書室は人が殆ど来ないと、そちらに入り浸っていますよ。ニーティに付いて行くよりも同じ本を繰り返し読む方が楽しい、と言っていました。ノユは似顔絵を描いて貰って以来、ごうへ赴く事が増えましたね。また似顔絵を描いて貰いたいのでしょうね」

 そう言うと「ふふ」と笑った。颯もそれを見て笑顔になる。

「そうなんだな。ハソもそうだと良かったんだけどなあ」

「朝食にも昼食にも、間食にも当然いますのでね。余程颯と一緒にいたいのでしょうね」

「ああ、そんな事を言っていたら来たわ……」

 そう言って頬杖を突くと、ルニリナが「ふふ」と笑った。屋根からハソが下りて来る。

「ニーティ、今日も作業の日か。ご苦労よな」

 二人はハソを見た。

「いらっしゃい。今日も成果がなかったと聞いていた所ですよ」

「そうであるか。イノウエ邸の居心地はどうなのよ?」

「至れり尽くせりでとても快適ですね。アメイルグ先生が気遣って下さいますので」

「あの明良が家族以外に気働きを利かせるとは、にわかに信じられぬな」

「ふふ。ガーナス様も夜は付き合って下さいますし、楽しいですよ」

「あー、俺も対精霊を消去出来るくらいの厄除けを掛けられれば手伝えたんだけどな。何故か消去が出来ないんだよなあ」

「灰色の子も出来なんだのであるから、気にする程の事でもなかろうて」

「認識の差ですよ。私はあれが害のある物だと認識していましたが、颯は違うのでしょう?」

「うん。ああいう対精霊がいるんだと思っていたよ。それ以下でも以上でもないな」

「アメイルグ先生は、あれは初見から塵だと認識していたと仰っていましたから、悪い物という認識だったのでしょうね」

「そう言えば水伯も、半透明だから明確に見えない分、悪い物に思えないし、気配も普通の対精霊と似たような物って言ってたな。その固定観念が厄除けの邪魔になっているのか? でも水伯ならそういうの抜きにしても、こういう道具は作れそうだけどな」

「閣下の場合は、術の過程が閣下に合っていないだけだと思いますけどね」

「そうだなあ。水伯の魔術は魔術とは違うもんな。似て非なる物と言うか……」

「灰色の子は己の術を確立しておるのであろうな」

 颯はハソを真剣な面持ちで見る。

「ハソの使う術に近いと思うか?」

「わし等とか? どうであろうな……。わしは魔力に関しては理解が浅いのでな。それこそ颯と同じで、術はそういう物だと受け入れておって、理解を深めようとは思わなんだからな」

「ふうん……」

 ハソからルニリナに視線を移す。

「それでニーティは今日、幾つ仕上げたんだ?」

「今日と言うか、この休みの間は十二万四千六百個程ですね。最初の頃は二日でしちはち万個でしたけど、大分慣れましたのでね」

「本当にお疲れ様。今日もやはり飛んで帰寮するのか? 一緒に来れば玲太郎がいるから、寮まで一瞬だぞ?」

「ありがとうございます。ですが私はそれで大丈夫ですよ。もう少し頑張ってからズヤと帰寮しますので、気にせずに玲太郎君のお迎えに行って下さいね。ズヤと飛んで帰寮するにしても、大して時間は掛かりませんので心配はご無用ですよ」

「そう? それじゃあ何か食べ物を持って来るよ。飲み物は何がいい? 紅茶か緑茶か番茶か梅湯か白湯か水のどれかになるけど」

「それでは番茶でお願いします。食べ物は軽い物でお願いしますね」

「解った。それじゃあ行って来るけど、直ぐに戻って来るからハソは来るなよ?」

「うむ、解った」

 ハソの返事を聞いた次の瞬間、颯はいなくなった。ルニリナはその途端に作業を再開した。箱から次々と水晶が出て来て、空いている穴へ革紐を通して行く。亀裂の入った水晶や傷の入った革紐は作業机に置かれている箱に入って行く。ハソはその流れ作業を具に見ていた。

「こういう物を見るのは楽しいな」

「そうですか? 遣っている方としては、不良品の確認もしなくてはなりませんので大変なのですよ」

「そう言えば、あの亀裂の入っておる水晶はどうするのよ? 使い道はあるのか?」

「砕いて角を取り、小さな穴を空けて装飾品や装身具に使うそうですよ」

「成程。使い道はあるのか。それにつけてもノユはどうした?」

「恒の話題が出て来て以来、土と日の曜日は恒に行っていますよ。顔が憶えられないと言っていたので、また颯に描いて貰う積りなのでしょうね。なので念写の練習に誘ったのですが、ノユもズヤも頷かなくて……」

「わし等はそういった物に縁がないのよ。わし等のみに使える文字はわし等以外が見ると読めぬようになっておるから、絵もまた然りではなかろうかとな。じっ中八九、そうであろうがな。……いや、ノユとズヤが首を横に振るのであれば、それが答えなのであろうな」

 水晶と革紐の動きが止まると同時にルニリナがハソを見た。

「そうなのですか。それはまた難儀な……」

「文字も記号、絵もまた記号であるからな」

 ルニリナが正面を向くと、水晶と革紐が動き出した。

「成程、記号が駄目なのですね。……そうですか」

 ハソはそれを聞いておらず、また単純作業に見入っていた。ルニリナが横目にそれを見て微笑んでいた。

「只今」

 颯が軽く摘める物と湯呑みを盆に載せて戻って来た。ルニリナは出している分を加工してしまうと隣に来ていた颯を見上げる。

「ありがとうございます」

「軽い物って言うから煎餅せんべいにしたけど、それで良かったか?」

「煎餅大好きです。ありがとうございます」

 満面の笑みを浮かべているルニリナを見て、颯も笑顔になって皿と湯呑みをルニリナの前に置いた。

「颯の分がないではないか」

「俺はいいんだよ。此処に来る前に立ち食いしたからな。だから番茶だけ」

「頂きます」

 嬉しそうにルニリナが言うと、音を立てて煎餅を齧った。颯は丸椅子に腰を掛けると、作業台に盆を置いた。それに載っていた湯飲みを持つと茶を熱そうに啜った。

「それにしてもあの対精霊を探し出して、颯はどうする積りでおるのよ?」

「消滅させるに決まっているじゃないか。一定数はいると思っていたんだけど、減って来ている所を見ると、チルチオ教は増やそうとはしていないんだな。それよりも、ハソは何故そうも協力的なんだ? その方が気になるわ」

「わしが拵えた訳ではないのであるが、やはり対精霊を悪用されておる現実を目の当たりにしてしもうては、看過出来ぬであろうが。……なのであるが、わし等が直接手を下すとなると、死に直結するから手が出せなんだのよ。颯や明良が消滅させておるのであれば、それに頼るしかなかろうて」

「成程。じょう学校に通っていた時、ヌトも消せとうるさかったからなあ。遣り方も判らないのに、消せと言われてもなあ」

「颯はどうやってに消滅方法を知ったのだ?」

「授業で魔力根の話を聞いて、ああ、魔力根だと解らないか? なんだったか、えーっと、……精結か。精結に魔力を注いで破裂させる事を思い付いて遣ってみたら、一発で成功したんだよな。痛みもないようだから、それ以来その遣り方で消滅させているんだよ」

「それだと魔力が馴染んでしまわぬのか?」

「馴染ませようとするから馴染むのであって、風船のように膨らまして行けば破裂するだろう? それにしても、対精霊と繋がっている糸は、切ったり、繋げたりが出来てしまうんだな」

「それよ。わしもそれには愕然としたわ。見ておったが、わし等が見える訳ではないのにも拘らず、対精霊の糸をいとも簡単に切っておったが、数体合体させて繋げるには苦心しておったな」

 颯は怪訝そうにハソを見る。

「……対精霊が見えているからと言って、ハソ達が見える訳ではないから触れないんだよな? 対精霊を合体させるには固定しないといけないだろう? 触れないのにどうやって持つんだ?」

「あの子等は、紙に図柄を描いて使つこうておるのを知っておるであろう? あれを使うのよ。対精霊はその図柄が描かれておる紙で包まれ、そうなると誰にでも持つ事が出来るようになるのよ。恐ろしいわ」

「へえ、そんな事が出来るのか。あの図柄は物に依っては優秀なんだな」

「物に依るとはどういう事だ? 未完成品でも見たのか?」

「いや、魔力を封じる図柄を手に入れたんだけど、俺達には効果がなかったんだよ」

「と言うと、他の子には効果があったのか?」

「あった。魔術を封じるんじゃないんだぞ、魔力を封じるんだぞ」

「覚醒する前の状態になると?」

「精結を失った状態になるんだよ。まあ、紙を体に当てないといけないんだけど、服越し程度なら効果があるな」

「そのような物もあったのであるか。それは灰色の子も含まれるのか?」

「効果がない方にか?」

如何いかにも」

「入る」

「そうなのであるな。……そうであったわ!」

 俄に何かを思い出し、颯に近付く。

「灰色の子の事で、ニムを呼び出したのであろう? 何故なにゆえわしも呼んでは呉れなんだのよ?」

「唐突になんだよ。何をどう考えてもハソは適役ではなかっただろう? それに水伯の対精霊に関して、何かしら参考に出来る事でもあるのかよ?」

「そのような物はない」

「それだと来ても意味がないから呼ばなくて正解じゃないか。まあ、来ていても玲太郎の冷たい視線を浴びるだけだったと思うぞ。玲太郎のニムを見る目と言ったら、塵を見るような目だったからな」

「わしもそのように見られるのであろうか?」

「ニムみたいに水伯に何かをしていた訳じゃないだろうけど、どうだろうな? ニムとずっと一緒に玲太郎の傍にいたから、同一視していてもおかしくはないな」

「何故かは知らぬが、赤子の頃からヌトがお気に入りであったものな。わしはある日を境に受け入れられなくなってしもうたから、それが尾を引いておるのやも知れぬ」

「それは有り得るな」

 そう言って鼻で笑う。

「まあ、そうであってもいいんじゃないのか。来るなと言っても時折来ていたもんなあ。嫌な気持ちを持ち続けていてもおかしくはないな」

「寂しくなるような事を言うでないわ」

 また鼻で笑うと湯飲みを持ち、茶を飲んだ。

「それで、水伯の対精霊擬きをどうにかする方法とか、元に戻す方法とか、何かないのか?」

「それはわしには判らぬ。透虫等の事であればまだどうにか出来ようがな。いや、考えようがあると言うた方がよいな」

「そうなんだな。それじゃあこれ以上訊いても無意味だな」

 頬杖を突いて、美味しそうに煎餅を齧っているルニリナに視線を遣った。ハソはその視線を追った。

「颯に友が出来るとは意外であったぞ。どういう風の吹き回しよ? 友なぞ不要ではなかったのか?」

「稀たいの占術師に、友人は出来ます、それも私の事ですと洗脳されたんだよ」

「成程? 玲太郎に選ばれて魔力が引き上げられたのであるから、明良とも仲良く出来ればよいのであるが、それはどうなのよ?」

「兄貴? 兄貴とニーティか?」

「如何にも」

「うーん、兄貴に問題が有り過ぎて、仲良くなるのに何年掛かるか……。頼りにしている部分はあると思うけど、今直ぐどうこうは難しいな」

「ふむ。寿命はあってないような物であるから、その内…」

「まあ、兄貴は玲太郎と水伯がいれば、それでいいからな」

 ハソは話を遮った颯の方に顔を向けると、出掛かった言葉を呑み込んだ。

「……そうであるな」

 またルニリナの方に顔を向き直し、二人で煎餅を食べ切るまで見守っていた。


 夜、玲太郎と颯は八千代の作った弁当を食べていた。ハソも当然のようにいて、二人の食事風景を眺めている。

「ハソはどうして食事中にもいるの? いなくてもよいのと思うのよ」

「唐突にどうした? わしがそれだけ気になるのか?」

 玲太郎は無視をして颯を見る。

「はーちゃんは気にならないの?」

 口にあった物を飲み込むと頷いた。

「うん、もう慣れた。この気配は玲太郎が赤ん坊の頃からあったからなあ。それも毎日。でも食事中は傍にいたり、いなかったりだったか?」

「そうであった。食事中はおったり、おらなんだりしたわ。しかし居間で食事をしておった時はほぼ傍におったと思うがな」

「そうだったか? まあ、ヌトも厠と風呂以外は大抵一緒にいたから、それで慣れていると言えば慣れているからな。玲太郎もそうだろう?」

「ヌトは眠ってる……」

「ああ、そうだな、そうだったな。最近は寝ているからな。でも授業中は一緒にいるだろう?」

「まあそれはね」

 不満そうに答え、芋の煮っ転がしを頬張るとハソを横目に見ながら咀嚼した。

「置物がおると思えばよいのよ。食事中にわしから話し掛ける事はないであろうからな」

「ヌトは俺の傍にいる条件として、更に小さくなって貰っていたからな、大きさも玲太郎と似たような物だから余計気になるんじゃないのか」

「この大きさは玲太郎よりも小さいが」

「十ジル(約六寸六分)くらいしか差がないし、似たような物だろう」

「はーちゃんはそうかも知れないけど、僕からしたら十ジルの差は大きいのよ」

「そう?」

 颯は深く考えずに聞き流して金平牛蒡ごぼうを頬張った。玲太郎はそんな颯を見て不満そうにしていたが、ハソに視線を遣ると、ハソが微笑んで来て慌てて視線を逸らした。颯はそれを何気なく見ていた。ハソはそれに気付いて、今度は颯に視線を遣った。颯は平然と咀嚼しながら見返した。そしてふと玲太郎に顔を向ける。

「玲太郎はヌトやハソやノユやズヤをどう見分けているんだ?」

「ん?」

 慌てて口にある物を飲み込んだ。

「ヌトは一番小さいからすぐ分かるけど、後は髪型か、服の裾にある飾りの色」

「成程、違っている部分を見ていたのか」

「はーちゃんは?」

「俺? 気配」

「気配なんか分かるの?」

 颯は横目でハソを見た。

「判るよ。玲太郎が産まれて少しした頃からだったかなあ? その頃から判っていたんだけど、こいつ等の気配が強烈で寝られなかったんだよ」

「こいつ等、とな……。もう少し敬って呉れてもよいのではないのか?」

「ハソとニムだろ、途中からヌトだよ。慣れるまで本当に辛かったからな。ノユとズヤは数度来た程度だったけど、後、ケメがいて、それとシピだったか? 俺が知っている気配はこれだけ。もう一体いるらしいけど、会った事はない」

 そう言いながら玲太郎に視線を戻した。

「レウとはうた事がある筈ぞ」

「え、そうなのか? 記憶にないんだけどな」

 白飯はくはんを頬張って、咀嚼しながらハソを見た。

「灰色の子の屋敷の真北に湖があるであろう? 其処そこへ行った記憶はないのか?」

 颯は手で口を覆った。

「うん? 湖……? 湖なあ……」

 視線を弁当に移し、手を下ろして咀嚼する。暫くして口にある物を飲み込み、ハソを見る。

「あ、あるわ。寒い中、行ったわ。確かに行った。父ちゃんが近くに湖があるから行こうって言い出して連れて行かれたんだよ。寒さは感じなかったから暖房の付いた箱舟で行ったと思うんだよな。それが結構な距離で、湖に着いたのが三時間後くらいだったか? 母ちゃんが疲れ果てて箱舟で寝ていたのは憶えているよ。兄弟三人で雪に埋もれながら、見た事もないような細い気が何本も群れて生えていて、一つの大きな木に見えたな。その木の傍へ行って、三人で木に触ったり、その周りを走ったりした記憶があるわ。そう言えば木の周りはそんなに雪が積もっていなかったな……」

「その大きな木が、わし等の家なのよ」

 颯は思わず目を丸くした。

「えっ、そうなのか?」

「それぞれ持っておって、わしの家の木は空に浮いておるがな」

「へえ、空でもあの形を保っていられるんだ。枯れないのか?」

「そうであるな、長い時間、宙を漂うておるが枯れてはおらぬな」

「それじゃあ見えていなかっただけで、レウとやらがいたのか?」

「如何にも。本来ならばレウの家の木は見えぬ筈なのであるが、やはり玲太郎がおったからであろうな」

「うん? その頃はまだ生まれていないぞ?」

「胎の中におったのよ」

「ああ、そういう事な。納得した。……ああ、そうそう、帰って少ししてから妊娠が判ったんだよ。懐かしいなあ。俺は玲太郎が産まれるまで、毎日腹に話し掛けていたんだよ。二言三言だったけどな」

 笑顔で玲太郎を見ると、玲太郎も微笑んだ。

「お父さんとお母さんが生きてる時の話なんて、滅多に聞かないからもっと聞かせて?」

「二人共農業一筋で、殆ど畑に出ていたからなあ……、話せる事がないな。その代わりと言ってはなんだけど、ばあちゃんなら沢山あるぞ?」

「ばあちゃんはよいのよ。僕が生まれた時はどうだったの?」

「玲太郎が産まれた時なあ、……俺が嬉し過ぎて憶えていないな。…あ、そうだ、兄貴だよ、兄貴。兄貴が突然、本当に突然だよ、玲太郎に夢中になったからな。あれには参ったわ。まあ、兄貴は未だに玲太郎に夢中なんだけどな」

「わしもそれは見ておったぞ。玲太郎が産まれて来る所も見ておったわ。ノユとズヤもおったのであるが、あの頃から比べると、玲太郎も本に大きゅうなったわ」

「懐かしいなあ。もう九年前になるのか」

 そう言いながら、玲太郎を愛おしそうに見詰めた。暫く見詰めた後、白飯を頬張った。玲太郎は思っていたような事を聞けなかったが、颯の表情を見て満足すると金平牛蒡を口に運んだ。

 玲太郎が先に弁当を食べてしまうと、茶を淹れる為に台所へ行った。

「ハソ、悪いけど玲太郎の傍で火の始末なんかを見ていて欲しいんだけどいいか?」

「構わぬぞ」

「それじゃあ頼む」

「解った」

 ハソは頷いて玲太郎の方へ行った。颯は黙々と残りを食べた。


 玲太郎が湯飲みを盆に載せて遣って来ると、颯の傍に湯飲みを置いた。

「有難う」

「どういたしまして」

 盆を置いてから椅子に座ると、湯呑みを持った。

「はーちゃん、一杯食べてるね。まだ入るの?」

「うん。これでも足りないくらいだけどな」

 大きな弁当箱に菜が隙間なく入っていて、もう片方の弁当箱には白飯が敷き詰められ、梅干が二個載っていた。それももう殆どがなくなっている。

「はーちゃんは休みの日は何をしてるの? 全く屋敷に来ないよね?」

「今日は王都に行って、色々な店に行って、食べたり飲んだりしていたな」

「えっ、それはずるいのよ。僕も連れてって欲しかった……」

 颯は微笑むと、最後の厚焼き玉子を頬張った。玲太郎は咀嚼している颯を見ながら茶を啜った。

「あつっ」

 鼻で笑った颯が手で口を覆う。

「もう少し冷ましてからにしないとな」

「そうだね」

 苦笑して言うと、颯が咀嚼を再開した。そのまま白飯の残りも食べてしまうと合掌して「ご馳走様」と挨拶をした。そしてまだ熱い茶を啜る。

「食後はやはり緑茶だよなあ。番茶でもいいけど」

 満腹感からか、嬉しそうに言った。

「紅茶でも美味しいよ?」

「うーん、俺はやはり緑茶だなあ」

 そう言って湯飲みを持つと、茶を啜って軽く二度頷いた。

「玲太郎は昨日と今日、何をしていたんだ?」

「僕はねぇ、小型の魔石作りの練習と、薬草の勉強と共通語の復習をして、それから読書と、後は物を浮かせて動かす練習もやったね。後はあーちゃんや父上と話してたのよ」

「そうなんだな。充実しているようで何より」

「はーちゃんは出かけてた以外は何をしてたの?」

「玲太郎を迎えに行く前にニーティの所へ行っていたくらいだな。後は何もしていないなあ」

「そうなの。ここで毎日ルニリナ先生と会ってるのに、休日にも会うの?」

「そうだよ。まあ、玲太郎に取ってはどうでもいい事だろう。それよりもそろそろ試験があるから、魔術で使う呪文はきちんと憶えろよ? 付与術と一緒に修了試験を受けておくんだろう?」

 些か不機嫌になった玲太郎は頷いた。

「そう。呪文だけの試験だから受けておくつもり」

「暗記物だから玲太郎には余裕だろうけど、気を抜かないようにな」

「分かってる。……所で、この後勉強はしないから、お散歩に連れてって欲しいのよ」

「散歩? 何処へ行きたいんだ?」

「んとね、どこでもよいのよ」

「行きたい所はないのか?」

「あるけど、そうなると夜中になっちゃう」

「和伍か。行きたいのか?」

「うん、そう。芋餅が食べたいのよ」

「それは散歩じゃないだろう? 芋餅か……。まあいいけど、厠に起きた後に行くか?」

 表情を明るくした玲太郎が、満面の笑みを浮かべる。

「え? よいの?」

「いいぞ。その代わり、早く寝ろよ?」

「うん! 寝る! 二十三時にはお風呂に入ろうね」

「解った。それじゃあ二十三時に風呂な」

「うん!」

 元気良く返事をして、湯飲みを持つと茶を三口飲んだ。二人はその後も雑談をしていたが、ハソは会話に入らず、微笑ましく見ているだけだった。


 眠った玲太郎をハソに託し、颯はイノウエ邸にある施設へ行った。いつも尋問に使っている部屋の中に瞬間移動していて、ズボンの衣嚢から容器を取り出し、音石を操作した。

「颯だけど、出て貰える?」

「どうかしたの?」

 直ぐに明良の声がした。

「玲太郎が早目に寝たから、尋問を始めたいんだけどいいか?」

「そうなのだね。解った。今夜はキカッセキ伯爵にしようか。連れて来ておいて貰える? お父様に言って直ぐ行くから頼むよ」

 玲太郎に出された毒を王太后が代わりに口にした事で死亡したと思われていたのは九人、蘇生したのはその内の六人で、明良は全員を手に入れる積りでいたが、結局の所はその半数で手打ちとなっていた。キカッセキはその三人の内の一人だった。

「解った。それじゃあ待ってる。切るぞ」

 明良の反応はなく、颯は音石を操作すると容器の蓋を閉めてズボンの衣嚢に入れた。それから歩いて部屋を出て、扉を開放したままでキカッセキのいる牢へ向かった。

 颯がいるのは一階で、中廊下を挟んで片側が取調室等の部屋があり、片側が牢になっている。今は収容人数が少ない事もあって一階のみの牢で事足りていた。足音が聞こえたからか、一人が鉄格子に張り付いていた。颯が来ると手を伸ばす。

「お願い、知っている事は全部話したんだから、出してよ! お願い!」

 颯は見向きもせず、キカッセキの牢に着くと鉄格子の扉の鍵を魔術で開錠する。

「やっとお前の番が来たぞ」

 そう声を掛ける颯に碧眼を向けた。

「もう何度も尋問は受けている。知っている事は洗い浚い話したよ」

 囚われて疲労が溜まっている所為なのか、白い肌が青白く見える。簡素な寝台から下りると颯の方に向かった。すると手が勝手に後ろ手に固定される。

「今までのは騎士達の練習。今日が本番な」

「お偉いさんの登場という訳か。……これが済んだら、どこへ移送されるんだ?」

「しないよ。此処で死んで貰う」

「それはどういう…」

「雑談はいいから、ほら、歩いて」

 颯がキカッセキの背を軽く押した。キカッセキは大人しく従い、颯の前を歩いた。

「お願いよ! ここから出して! うちに帰して!」

 また懇願してくる女に顔を向けた颯は冷たい目で睨み付けた。

「お前の帰る家は、もうない」

 そう言って正面を向く。それを聞いて女は必死の形相から悲痛な表情に変わった。

「嘘よ……、嘘、嘘よ! 家にか…」

 颯は煩わしくなって魔術を使って女を黙らせた。キカッセキは顔を顰めた。扉が開放されている部屋の前まで来る。

「その扉が開いている部屋に入って」

 キカッセキは言われた通りに入って行く。

「その机の奥にある椅子に座って」

 これにも素直に従い、颯は手を煩わされる事もなく、非常に助かった。キカッセキは薬草棚を見て小さく溜息を吐いた。

「あのような物を使わなくても、正直に答えるのに……」

「潔い事で。でも所詮はチルチオ教待望派且つ強硬派の人間の言う事だから、残念ながら鵜呑みには出来ないんだよ」

 キカッセキは溜息を吐くと、颯を見据えた。

「先程、あの子にお前の帰る家はないと言っていたが、私の家はどうなっている?」

「ある訳がないだろう。一族も処分の対象だからな。お前はそれだけの事をしたんだよ」

「そう……」

 苦渋の表情で俯いた。

「それで俺としてはお前の体に刻まれていた図形が気になるんだけど、あれは何?」

 顔を上げたキカッセキは無表情だった。

紫苑しおん団に連れて行かれた時に入れられてしまった。どういう意図でそうしたのかは知らない」

「ふうん……。その報告を受けた時に、その図形をお前の体から剥いで紙へ移していたんだけど、翌日には灰になっていたよ。危うく火事になる所だったぞ」

「……」

「王家直属の騎士団下では生かされていたけど、此処だと殺されるってどういう事だと思う?」

 キカッセキは口を噤んだまま、視線を下げてしまった。

「王家直属の騎士団では自白薬の使用を巡って意見が対立していて、使用を控えていると聞く。やはり自白薬が必要だという事だよな」

 そこで俄に明良が現れた。

「お待たせ」

「大して待っていないぞ」

 キカッセキは呆然として明良を見ていた。

「これを見てしまっては、此処から生きて出られない事が本当と悟った事だろう」

 颯は意地悪そうに言った。明良は薬草棚の方に足を向ける。颯はそれを目で追った。

「急いで配合をするね」

「慌てなくてもいいぞ」

 そう言ってからキカッセキの方に顔を向けた。

「新たな自白薬を作ろうとしているんだよ。協力に感謝する」

「……先人が作り出した自白薬以上の物が出来る訳がないだろうに」

 キカッセキが吐き捨てるように言う。

「兄貴は試しているだけだから、出来ようが出来まいがどっちでもいいんだよ」

 そう言って微笑んだ。

「まあ、精神が壊れても俺が元に戻して遣るから心配するなよ。但し、俺が遣ると記憶が幾つか消えるみたいだけど、死ぬよりは増しだよな」

「そ……、そんな事が出来るのか? 本当に出来るのか?」

「出来るぞ。壊れた精神を治す事は出来る」

 そう言うとようやく椅子に座った。

「まあ、終わった後にほぼ一日の記憶を綺麗に消す薬を飲まされるから、この会話の記憶もなくなるんだけどな」

「は? ……それでは突然青年が現れたのを見た事も記憶から消えると?」

「そうだな。兄貴が瞬間移動で現れた事も、今こうして話している事も、記憶から綺麗に消えるな」

「そっ、そんな薬はない筈だが」

 険しい表情で言うと、颯が鼻で笑った。

「紫苑団の本部に行って、色々と目にして来たんだろう? 信じられないような物も見た筈なのに、何故ないと断言が出来る?」

「では本当に? ……俄に信じられないが……」

「薬草術を学んでいた時に、役に立つ薬を開発したいなあと思ったんだけど、其処で思い付いたのが自白薬なんだよ。今ある物と言えば精神が壊れる物ばかりだろう? だからと思ったんだけど、事は旨く行かなかった。作れなかった代わりに、偶然にも記憶を一日消す薬が出来たんだよ。偶然って凄いよな。因みに俺が作った自白薬はことごとく精神が壊れてしまう事が判って、そのお陰で精神を治す魔術も作れたよ」

「お前……、悪魔だな」

「そう? 俺は、単に精神が壊れない自白薬を開発したかっただけなんだけどなあ。……まあ、俺はもう手を引いたけど、兄貴は未だに遣っているよ。それよりも、その記憶を消す薬なんだけど、飲んだ日の一日前の分が消えるから」

「……何故それを今言うんだ?」

「此処に来て二十日は経つけど、そんなに経っている気がしないだろう?」

 キカッセキの眉間の皺が更に深くなった。

「二十日? いや、もっと短い筈……。ま、まさか……」

「お前に、王宮に来るウィシュヘンド公爵令息に毒薬を飲ませるのを知っていたか? と質問した日に飲ませていたよ。お前が知らないと答えるから、その日の記憶は消させた、と言った方が解り易いか?」

 首を何度も横に振った。

「いや、待て。それは本当に知らないんだ」

「ふうん? それじゃあ本当の事を言っておけば? 後で答え合わせが出来るから、若し本当だったら手心を加えなくもないぞ」

「私が聞いていたのは、側近候補の貴族令息とだけだった。強硬派とてその中にも派閥があって、私の属している派閥では、ウィシュヘンド公爵に手を出さない事を徹底されていたから本当だ。……それに毒薬ではなく、仮死薬だ。生き返ると聞かされていた。本当だ。手心を加えてくれると言うなら、私の孫娘を救ってくれないか? 頼む」

 悲愴な表情で懇願するキカッセキを、冷ややかな目で見ていた颯は微笑んだ。

「それは出来ない。ウィシュヘンド公爵へ賠償金を支払う為に、お前の一族は皆売られるそうだ。仮死薬は二割の確率で死ぬ物だったから仕方がないよな。誰が犯罪者の一族を売るかと言うと、国王陛下だよ。当然犯罪者の私財も全て没収したそうだけど、賠償金には遠く及ばないんだとさ」

 一筋、また一筋と涙が零れると俯いてしまった。

「チルチオ教なんかに入信するからこんな事になるんだよ」

 顔を上げて颯を睨み付ける。

「宗教は関係ない」

「あるだろうが」

 颯が間髪を容れず、語気を強めて言った。

「チルナイチオの再来とかほざいて王弟殿下を担ぎ上げようとするから、こんな事に引き摺り込まれたんだろうが」

「颯は奉仕精神が旺盛だね。相手にしなくてもよいのに……」

 四個の水の玉を後ろに浮かせた明良が、そう言いながら颯の隣にあった椅子に腰を掛けた。

「どうせ忘れるのだから、教える必要も諭す必要もないだろう?」

「それはそうなんだけど……」

「キカッセキ伯爵、ウィシュヘンドではなくアメイルグに来られて良かったと思うようにね。向こうに連れて行かれていたら早々に死んでいたのだから」

 キカッセキは明良を一瞥する。

「もう伯爵ではない。……それはここに来てから何度となく言われたが、こんな事なら向こうが良かったよ。被検体にされる方が嫌だからな」

「そう? 見るに堪えない拷問に掛けられた挙句に死ぬより増しだと思うのだけれどね。さて、それでは軽い物から試そうね。順々に強く作用するように段階を踏んで行くからね」

 キカッセキの顔が上向きになると、四個の内の一個が口の中に消えて行った。

「効果が表れるまでこの資料に目を通すから、雑談の続きをするのであればしてもよいよ」

 机に置かれている資料を手にした。颯は無言でキカッセキを見詰めるだけだった。


 ふと顔を上げた明良は颯を見る。

「颯はこれに目を通したの?」

 読み終えたのか、資料を颯の方に差し出した。

「いや、読んでいないよ。何が書いてあったんだ?」

「キカッセキの証言内容と、その報告。ほぼ一貫して同じ事を答えているという事が書かれているね」

「ほぼ?」

「記憶が曖昧と前置きをしている答えが二転三転しているね」

「ふうん……。まあ、本当に記憶が曖昧かどうか、これから判る訳だな」

「そうなるね」

 明良はそれから暫く無言で颯を見詰めていた。颯は明良を見詰め返していた。

「何?」

「悪霊はいないの?」

「ハソか。玲太郎を見て貰っているよ。若しかして、来て欲しかったのか?」

「そうではないのだけれど、今日はキカッセキから紫苑団の事が聞けるだろうから、悪霊も知っている事かどうかを訊きたかったと思ってね」

「それならノユかズヤでもいいんじゃないのか? 必要なら今から呼ぶけど」

「確認は後日でよいから、今呼ばなくてよいよ」

「解った。それはさて置き、二転三転した質問は何?」

 手にしている資料を見て、また颯に視線を遣る。

「交流のあった紫苑団団員の名前」

「記憶が曖昧になる術でも掛けられているのか?」

「それはどうだろうね」

「それは本当にうろ覚えだ。一度だけ紫苑団の本部に行った事があって、その時しか会っていないんだからな」

 会話に入って来たキカッセキを二人が見た。

「外交官ともあろうお方が、名前を憶えられないという事があるのだろうか?」

 明良がキカッセキを真っ直ぐ見据えた。

「あの燃える図形を刻まれているくらいだからなあ……」

 明良は颯の方に顔を向ける。

「そう言えば、あの刺青はどう遣って紙に移したの?」

 颯も明良に顔を向ける。

「どうって、そりゃあ色素が定着している部分から色素の形状を固定して、それを浮かせて外に出して紙に載せた」

「それを遠隔で遣ったのだよね?」

「そうだよ」

「そういう事は、普通は傍にいなければ出来ないのではないの?」

「遠隔で出来ているから、そうではないな」

「そうなの? 色素だけを浮かせるとはどう遣るの?」

「表皮の奥に色素が入り込んでいるだろう? 其処に本の少しだけ水分を与えて液体にして、表皮まで浮かび上がらせて、そのまま表皮から離すんだよ。でもそのまま紙に載せると着色していなかった部分の水分で滲むと思ったから、それを省いてから紙に載せた後、直ぐに乾かした」

「その水分は細胞に吸収されなかったの?」

「付近の水分を引っ張って来て使ったんだけど、大丈夫だったな。そんなに時間が掛かってないからだろうな」

「魔術で作り出した訳ではないのね。成程、見た時に肌が綺麗だったのはそれでだったの。綺麗だからどう遣ったのかと不思議に思っていたのに、聞いてみれば単純だったね。私だったら皮膚ごとえぐる所なのだけれどね」

「昔、指に鉛筆の先が刺さった事があって、それからずっと色が残っていたんだけど、それを消そうと思って魔術で試行錯誤したから、それが役に立ったよ」

 キカッセキは二人を交互に見ている。

「君達はアメイルグ騎士団の人間ではないのか?」

 颯が先にキカッセキに顔を向けた。

「俺は違う」

 遅れて明良がキカッセキに顔を向けた。

「私が頂点になるね」

 明良を見ていたキカッセキは目を丸くすると、軽く三度頷いた。

「騎士団長ではなく、更にその上なのか。アメイルグ公爵は美貌と聞いていたが納得だな。貴族名鑑に載っている老人は先代か?」

 颯が机に左肘を置いて、やや前のめりになる。

「それよりも、紫苑団の団員名が曖昧な理由を思い付かないか?」

「それだよね。性別すら変わってしまう事があるものね。何故それ程までに記憶が曖昧なの?」

 颯が頷く。

「記憶が曖昧なのはおかしいだろう? 紫苑団はチルチオ教に取って、割と重要な組織だよな。それなのにうろ覚えと断言出来てしまう事が不可解じゃないのか?」

「私と会った事を忘れさせたくて、何かしらの対策を講じていると?」

 怪訝そうに明良を見ながら言うと、明良も颯も頷いた。

「俺はそう思っているから、記憶を蘇らせようと思っているんだよ」

「会ったのは二年前だからどうにかなると思うのだよね」

 キカッセキが「はっ」と声を出すと自嘲気味に笑った。

「君達のように若くはないんだよ」

「まだだよね。四十九なら蘇るよ。それはもう鮮明にね。遣るのは私ではないけれど、本当に鮮明に思い出せるよ。鮮明に蘇った記憶が脳裏を駆け抜けて行くのけれど、とても感動するからね」

 無表情の癖に、口振りは興奮している明良の歪さを目の当たりにしたキカッセキは眉を顰めた。

「まあ、物は試しだよ。遣ってみようじゃないか」

 颯が微笑んで立ち上る。キカッセキは近付いて来る颯を目で追った。

「ちょ、ちょっと待て。本当にやるのか?」

「お前に拒否権があるとでも思っているの? ある訳がないよね」

「どうせ自白薬で精神が壊れて治す事になって、その副作用で記憶が消えて行くんだから、その前に重要な記憶は抜き出しておかないとな」

 颯はそう言ってキカッセキの頭に右手をかざすと目を閉じた。顔を正面で固定されたキカッセキが小刻みに震える。

「や、やめ…」

「紫苑団」

 その言葉を言われたキカッセキは俄に脱力し、目が虚ろになった。

「えー、私もこのような表情になっていたの?」

 思わず些か眉を顰めた明良は颯に視線を遣った。颯は少し険しい表情をしていたが、手を下ろすといつもの表情に戻った。

「どうだろう? 正面から見ていないから判らないな」

 椅子へ戻りながらそう言うと腰を掛ける。そしてキカッセキの表情を見た。

「そろそろ大丈夫だろう」

「どう? 思い出せた?」

「……これは怖いな。一気に駆け抜けて行った……」

 そう言うと目を固く閉じ、自由に動く頭を左右に振った。

「当代のイノウエ家に手を出さない方がいい。こちらが呪われる、と忠告めいた噂があるが本当のようだな」

 そう言うと徐に目を開けた。

「それにつけても、紫苑団の事で何かを思い出せただろう? 何を思い出したの?」

 キカッセキは視線を下ろしたままで無言だった。

「掛けられていた呪いは解いたぞ」

 そう言った颯を即座に見た。

「解いたと言うか、勝手に解けたんだけどな」

「それは有難う」

 そう言って初めて笑顔を見せた。

「それでは思い出した事を話して貰おうか」

 明良が言った途端にキカッセキは目を閉じた。

「仕事で恒に行った時に招待をされて紫苑団の本部へ行ったんだが、恒の第二都市、成白せいはく市の郊外にある山地へ向かった。山の麓に入り口があって、その中に建物があって本部になっていた。案内をしてくれた男の名前はユアン・イン。黒い髪に茶色の瞳をしていて、いかにも恒人という風貌をしていたよ。案内をされたのは恒特有の呪術の類の開発だった。そこで魔力を封印するという護符を見せられて、使わせてもらったよ。それ以外には呪いを体内に入れる札や、視力を上げる札なんていう物もあった。とにかく色々あったよ。図形が大きければ大きい程、複雑であればある程に威力が増すと言っていた。その後、厄払いの図形を贈ろうと言われて、断り切れずに背中に刺青を彫られてしまった。その時は頭に布を掛けられていて、数人の手によって刺青を彫られてしまったらしい事しか判らない。痛みを和らげるという札を渡され、今日は入浴するなと言われたよ。駐在していたネリ国では団員と接触する事は皆無だった。ナダールに帰って来ると、紫苑団と接触する者が決まっていて、私にその機会は巡って来なかったから、私が会った事のある団員はユアン・インだけになる」

「そいつの顔も鮮明に思い出せたんだろう? 念写をして欲しいんだけど出来るか?」

「念写は出来ない」

「仕方がない。俺が描くから特徴を言って貰える?」

 紙と鉛筆と画板が顕現すると、キカッセキは目を丸くした。

「描けるのか?」

「愚問だなあ。ほら、早く特徴を言って。先ずは眉から」

「眉?」

 眉を顰めて目を閉じる。

「……少し細目の、上側は眉尻に近い所に山があって、下側はなだらかな曲線が眉尻まで続いている感じで長目の眉、だろうか」

 颯は言われた通りに描き、キカッセキに見せた。

「こんな感じ?」

 それを暫く見詰めると頷いた。

「そうだ、こんな感じだった。眉間は狭い。目と目の間の方が離れていたと思う。でも目が離れているという訳ではない」

「目はどんな感じだった?」

「目は、……切れ長で奥二重だった。吊り目だったと思う。大きくもなく、小さくもない。……そうだ、左の瞼に黒子があったよ。目尻の方で、眉に近かった。割と目立つ黒子だったから大き目と言えるだろう」

 颯は言われた通りに描き進めて行った。徐々に部位が追加されて行き、それに連れてキカッセキが首を傾げる事が増え出した。最後に髪が描き足され、それを見たキカッセキが考え込んでしまった。

「部分部分は合っている筈なのに、こうして見ると何かが違うな……」

「何処に違和感があるんだ?」

「眉がもう少し上で、目も少し離れていて、もう少し鼻の下が長かったと思う。口がもう少し下の位置だった筈」

 そう言うと、それぞれの部位が紙の上で動き始めた。

「あ、分かった。顔だ。輪郭がもう少し短いんだ。これは面長過ぎるんだよ」

「部位の位置も移動させていいのか?」

「試しに今言った通りにしてみてくれるか」

「解った」

 頷いて、謂われた部位を徐に移動させた。

「目はそれで止めてくれ」

 キカッセキが目を丸くする。

「顔の輪郭はそれでいい。口は下過ぎたから若干上に移動を」

 少し上に移動した所で、キカッセキが頷いた。

「そうだ……、こんな顔だった。上唇がもう少し薄かったら完璧だ」

「こうか?」

「そうそう、そうだ。これだよ」

 明良がその絵を自分の方に向けて凝視した。

「今の所、これがキカッセキのユアン・インね」

 そう言うと立ち上がって、瞬間移動をして消えた。颯は絵を自分の方に向ける。

「ふうん、これがユアン・インなあ……」

 キカッセキが怪訝そうに颯を見る。

「何か……、何かおかしいのか?」

 すると明良が戻って来て、紙を数枚持っていた。椅子に腰を掛けると、その内の一枚を見せた。

「あ、これはユアン・イン……。誰かが会っていたのか?」

「これはね、ホエハン・チーファンと言う男だよ」

 眉を顰めたキカッセキは、そう言った明良を見た。

「本当に?」

 明良は頷く。

「本当」

「では、私が会ったのはユアン・インではなかったと?」

「そうなるなあ。一応ユアン・インと言う奴は実在しているみたいで、似顔絵もあるんだけど、これとは全く違う顔なんだよ」

 颯はそう言うと明良を見た。明良は颯を見ていて頷くと、手に持っていた紙の中からまた一枚を取り出し、それをキカッセキに見せた。キカッセキはそれを凝視した後、首を横に振る。

「違う……。確かに私の知っているユアン・インではないな」

「信じられないかも知れないけれど、これは自白薬を使用した時に描いた似顔絵だから、ユアン・インで間違いないのだよね」

「では私は騙されていたと?」

「そうなるね。聞いた所によると、ホエハン・チーファンは技術部の部長だそうだから、その部署の最高責任者に案内して貰っていた事になるね」

「部長……? そうだったのか……」

 険しい顔をして少し俯いた。

「それはさて置き、本部を案内されたと言っていたけど、人はいなかったのか?」

「私が案内された所にはいなかった。ただ、最後に刺青を彫られた時に突然数人が現れたから、どこかで隠れて見ていたんだと思う」

「ふうん? 誰の命令で視察に行ったんだ?」

「バッキャル侯爵だ。私はバッキャル侯爵一派に所属しているんだよ」

「待望強硬派にも派閥があると言っていたけど、ナルアーとは本当に違うんだな?」

「ナルアー公爵の派閥とは別の派閥になる。どちらが先にバハール殿下を掌中に収めるか、競っている所があったからな」

「それでそのバッキャル侯爵は、何故お前を紫苑団の本部へ行かせたんだ?」

「技術を買うつもりでいるから行って来いと言われた」

「二年前と言うと、既にナルアーが紫苑団から技術を買っていたよね。後追いしてまで欲しい技術だったの?」

「そうだ。ナルアー公爵一派がそれで資金稼ぎをしていると聞いて、バッキャル侯爵もそれに倣うしかなかったんだと思う。魔力量と質を本来の数値より高めてもらえると言うのなら、金を出せる奴は子供や孫の為に買いたいと思うだろう。ナルアーの客層よりも地位の低い、でも金を持っている商人や農家を客として派閥資金を稼いでいたよ」

 颯は頬杖を突いて聞いていた。明良は持って来ていた紙の一枚に目を通している。

「ナルアーは彼是かれこれ三十年はそれを売っていたそうだけど、それでもこの二年でそんなに売れたんだ?」

「報告では大分売れていた。二年で六億三千万こんは売っている筈だ。その内の二億は紫苑団に支払っている」

「ふうん。話は変わるけど、対精霊を見た事があるのか?」

「いや、それはない。紙に包まれているのは見たが、対精霊その物を見た事はない。私は精霊のまなこではないからな」

「ああ、そうなるか。それがないと見える訳がないよな」

「でも見えるようになる技術はあると言われたな。未完成だから売り物になるには時間がかかるだろうとも言っていた」

「へえ、精霊の眼に似た物を作り出せるのか。それは凄いな」

「それにつけても、ナルアー公爵は相当荒稼ぎをしていたようだね。それはチルチオ教内でも有名だったの?」

 二人は明良を見た。明良の視線は紙にあった。颯は直ぐにキカッセキに視線を戻したが、キカッセキは明良を見ていた。

「耳にするようになったのはこのさん年程前からだな。それまではそのような話は一切なかった」

「チルチオ教内で派閥が沢山あるのに、潰し合いはしていなかったのか?」

「それもないな。……そうだな、不思議とないな。ただ、抜けたくなっても抜けられなくなる。抜けた者は容赦なく始末するのが不文律だから、安易に入った者は後悔しながら生きて行くだろう」

「お前のように?」

 キカッセキは無言になったが、明良を見詰めたままだった。明良はその視線に気付いたのか、キカッセキを一瞥した。

「私が何を読んでいるのか、気になるの?」

「そうだな。わざわざここで読む意味が分からないから、余程重要な書類か、私の答えが以前と同じかを確認しているのか、それとも?」

 颯が横目で明良を見ている事にも気付いていた明良は、その紙を左手に持ち、颯に取れと言わんばかりに目配せした。颯はそれを取ると目を通し始める。それには「スオークが匿っていたチーカオ・シェンカを発見、捕縛に成功」といった内容が書かれていた。

「答えはお前に関係のない事だったよ。重要な書類と言う訳でもないな」

 颯は明良に紙を戻すと、キカッセキを見る。

「俺個人が気になっている事があるから訊くけど、王宮騎士団に囚われていた四ヶ月くらいは何を話していたんだ?」

「あそこは自白薬を使わないだろう? だから毎日同じ質問を延々とされていたよ。少しでも違う事を言えば、そこをしつこく問い質していたな。私は捕まって以来、嘘は全く言っていない。何もかも正直に話していたつもりだが、私には言えない事もあったか…」

「ああ、呪われていたもんな。呪いに掛かっていた事は解ったけど、どういう呪いかまでは判らなかったんだよな。まあ、あの刺青があれば何時でも殺して、何もかも消去出来るからな」

「それよりもチルチオ教の内部に就いての詳細も王宮騎士団に話したの?」

「私の知り得る限りの教徒の名前を言わされた。平民の名前も言わされたが、覚えていなかったから答えられなかったよ」

「それ以外は?」

「教会の場所、派閥での私の役割り、派閥の収入源、協力関係にある団体と個人名、後は教典内容だな」

「そう言えばお前の役割は派閥の帳簿付けだったよね。確かチルチオ教の代表に資金提供をしていた筈だけれれど、金額を誤魔化す為に二重帳簿にしていたの?」

「そうだ。何故何もしない代表に金を渡さねばならない? 私達は強硬派ではあるが、教団の存続を何よりも望んでいる。その為に金を使っていた」

「そのお金を稼ぐ為に暗殺も請け負っていたの?」

「それは知らない。違う派閥の話だろう」

「そう……。それでは今からする質問に全て、はいと答えるように」

 そう言って五十問の質問にキカッセキが「はい」と答え終えると顔が上に向いた。水の玉が口の中に入って行った。


 颯は明良を横目で見ていて、明良は颯に顔を向けると持っていた全ての紙を颯に差し出した。

「一枚以外は紫苑団の似顔絵だろ?」

「そうでもない。だから暇潰しに読めば?」

 颯は紙に視線を遣ると、それを手にした。一枚一枚書いてある絵を確かめる。

「俺が念写した似顔絵がないな。手描きの分だけか。念写の分もそうだけど、大物か小物かも判らない奴等ばかりなんだよなあ……」

「ホエハン・チーファンは上層部の一人に入るだろう」

「んー、まあ……」

 気の抜けた返事をしながら、先程見せられた報告書を読んでいる。そしてもう一枚めくると文字だらけの物が出て来た。

「うん? これって……」

 真剣に目を通し終えると明良を見る。

「王家が折れたんだな」

「水伯が手伝ってくれたのもあって、この一ヶ月で物価が急上昇したからね。漸く仮死状態から蘇生した者全員が手に入るよ」

「でもこれ、水伯の方に送ると書いてあるぞ?」

「水伯であれば私達にも情報を共有して貰えるから、王家に押さえられているよりも断然よいではないの」

「王宮騎士団で得た情報まではくれないのか?」

「其処には書いていないからどうなる事やら、だね。九分九厘は貰えないだろうけれどね」

「ふうん……」

「王太后の面前で起こった事件だから、体面を保つ為にも王宮騎士団で解決したかったのだろうとは思うのだけれど、私達に情報すら渡さなかったのは完全に悪手だったよね」

「国王陛下じゃなかったんだ?」

「そう、王太后だったのだよ。水伯と王家のどちらが上か、良く解った一件になってしまったね」

 キカッセキはずっと二人を交互に見ながら、質問をする機会を窺っていた。明良はそれに気付いてはいたが、自ら尋ねる事はなかった。しかし颯が横目でキカッセキを見る。

「言いたい事があるなら言えば?」

 そう言われて表情を僅かに和らげた。

「すまない。バッキャル侯爵はその中に含まれているのか?」

 颯は視線を明良に移すと、明良はキカッセキを見ていた。

「含まれていないよ。もういないからね」

「いない?」

 怪訝そうな顔をして明良を見据えた。

「今聞いた所で記憶を消されるのだから意味はないと思うのだけれど教えよう。バッキャルは死んだよ。ついでに教えるけれど、ザンタイとウルーも死んだからね」

「そ……、そう、分かった……」

「死体も欲しかったのだけれど、もう処分されてしまっていてどうにも出来なかったのだよね。本当に惜しい事をしたよ」

「まあ、先に持って行かれていたから、仕方がないだろう」

「その所為でしわ寄せが国民に行ってしまったのだけれどね……」

「王家ともなると、面子やら尊厳やらの方が大切なんだろうな」

 そう言いながら最後の一枚を見る。

「あれ、これは今までの証言だな?」

「うん? 交ぜていたのだろうか」

「交ざっていたようだな」

 そう言ってその一枚を机に置いてある書類の上に置いた。明良はそれを即座に取って内容を確認した。

「これはガラーズの証言の一部だよ。女性だから同性の騎士団員で遣らせているのだけれど、キカッセキよりも内情を知っているようでね」

「あ、そうなんだ。俺は見ていなかったのに」

「チルチオ教と繋がりのある暗殺組織の事も知っていたようだよ」

「へえ、それは俄然興味が湧いて来るな」

「今持って来ようか?」

「いや、それはいい。読むのは来週の楽しみにするわ。先にキカッセキの証言を読むよ」

「解った」

 持っていた紙を明良に渡し、机に置かれている書類を手にした。


 颯が寮長室に戻って来たのは二十八時になる少し前だった。薄暗くしていた寮長室の灯りが少しだけ明るくなる。

「お帰り。今日は早かったのであるな」

 颯の寝台の脇で浮いているハソが言うと、颯は椅子に横向きに腰を下ろした。背もたれに肘を置いてハソに顔を向けた。

「只今。兄貴が自白薬を早目に次々と投薬したお陰で早く終わったんだよ。いつもは途中から様子を長目に見ているんだけど、今日は違ったよ。兎も角、今日尋問した奴は生来の嘘吐きなのか、魔術でそう証言させられていたのかは知らないけど、証言していた事の殆どが覆ったよ。掛かっていた呪いは解呪したんだけどなあ……」

「そうなのか。それはご苦労であるな」

 ハソはそう言いながら玲太郎に顔を向けた。

「それにつけても、何時から玲太郎は颯の寝台で眠るようになったのよ?」

「何時……だったか、うーん、……隣室の寝台で寝っていたんだけど、良く浮くようになってしまって、それからだな。何時頃かは憶えていないなあ」

「そうであったか。玲太郎は相変わらず甘えん坊よな」

「今頃そんな事を訊いてどうかしたのか? 玲太郎が浮いていたのか?」

「いや、何、わしが来て以来、毎日颯の寝台に眠っておるから、気になっておったのよ」

「ふうん。それはさて置き、俺はこのまま起きておくけど、寝たかったら寝てもいいぞ」

「わしも一緒に和伍に行くから起きておく。眠ったら置いて行かれそうであるからな」

 ハソは玲太郎に顔を向けた。

「お好きにどうぞ」

 玲太郎を見詰めているであろうハソの後ろ姿を何気なく見ていた。

「颯は以前の家のあった辺りがどうなっておるか、見た事はあるか?」

「肉眼でも千里眼でもないなあ。唐突に何?」

「見に行かぬか?」

 そう言うと颯の方に顔を向けた。

「行かない。もうないからな」

「そうであるか」

「ハソだけで行って来いよ」

「わしは颯と玲太郎と一緒に行きたいのよ」

「何故?」

「玲太郎の生家であるからな。明良は誘うても来ぬであろうから、責めて颯とと思うたのよ」

「生家も何ももうないんだぞ? 富裕層向けの宿泊施設があるだけ。玲太郎を連れて歩いていた道や診療所はあるだろうけど、家やその周辺は以前とはもう違うんだよ」

「颯は見たいとは思わぬのか?」

「うん、全く」

「そうであるか……」

 寂しそうに呟くと、玲太郎の方に顔を向けた。と思ったら、また颯の方を向く。

「両親がどうなっておるか、気にならぬか?」

 颯は思わず鼻で笑った。

「気にならない。心底どうでもいい事だからな」

「そうであるか」

「水伯やお父様は知っている筈だけど、兄貴や俺には言わないからなあ。……兄貴は若しかしたら把握しているかも知れないけどな」

「颯の親は八千代であったな。愚問であったわ。済まぬ」

 そう言って、また玲太郎の方に顔を向けた。

「さては千里眼で見ていたな?」

 ハソは玲太郎に顔を向けたままで頷いた。

「如何にも。わしは興味があったのでな。…であるが、颯は知りたくないのであろうから、黙っておるわな」

「その気遣いには感謝しておこうか」

 そう言った颯の表情を、ハソは振り返って見た。

「何?」

「颯は割と顔に感情が出るのであるが、今はそれがないから、本に関心がないのであるなと思うてな」

「ふうん、そう」

 ハソはまた玲太郎に顔を向けた。

「玲太郎も颯も素直であるからな」

 そう言いながら玲太郎の安らかな寝顔を凝視している。颯は立ち上がって、寝台の枕元にある目覚まし時計を魔術で手元に寄せて、手に取ると椅子に座り、小さな光の玉が顕現すると時計の針を動かし、二十九時に鳴るように針を据えた。それを机に置いてその傍にあった本を手にすると、栞が挟まれている箇所を開いて読書を始めた。

「少し前まで赤子であった玲太郎の寝顔を、良う見ておった物であるが、そう言えば颯と一緒に眠っておったな」

「眠っておった、か」

 本から目を離し、振り返って横目でハソの後ろ姿を見た。

一時いっときは強烈な気配で寝たくても寝られなかったからなあ……。玲太郎がぐずって寝られなかったんなら納得が行くけど、あれは本っ当にきつかったわ」

「……それは済まぬ」

 颯はまた本に向かった。

「読書するから話し掛けるなよ」

「解った」

 ハソは頷いて、玲太郎の寝顔を見詰めていた。


 翌日、玲太郎は朝食を済ませた後、校舎へ持って行く荷物の中に、和伍で買って来た和菓子を背嚢に入れようとしていると、寝転がっていたヌトがそれを見る為に浮いて近寄って来た。

「それは何よ?」

「回転焼き。小腹が空いたら食べようと思って」

「回転焼き? 何時そのような物を手に入れたのよ?」

「それは昨日と言うか、夜中に和伍へ行って来たから、その時に買った物なんだけどね」

 背嚢のかぶせをして留め具で留めると椅子に座った。

「何っ、わしを置いて行ったのか!?」

「熟睡しているから仕方がないよね。……って言うか、最近はずっと一緒に行ってないよね?」

「そうであるな。眠らせて呉れておるからな」

「行きたかったの?」

「いや、別に」

 即答すると、また机に下りて寝転がった。

「行きたかったのかと思っちゃったじゃない」

「わしが眠っておる間、楽しい事を沢山しておるな」

「起きてないんだから、仕方がないじゃない。次から起こそうか?」

「……颯と行ったのか? それとも灰色の子か?」

「はーちゃんと行った。夜中だからね、父上だと連れて行ってもらえないよ?」

「そうであるな。灰色の子は夜中は行かぬな」

「ずっと眠っていてもよいけど、そうなるとハソが僕の傍にいるようになっちゃうから、きちんと起きててね」

「ハソはおらぬであろう。颯の傍におりたいと言うて来ておるのであろう?」

「そうだけど……」

 玲太郎が不満そうな顔をしても、ヌトは見ていなかった。

「それならば玲太郎と一緒にとは言わぬであろうて。安心致せ」

「そう?」

「わしが颯に興味を持っておるから、その理由を知りたいのであろうて。ま、颯の傍におれば玲太郎の事も見る機会が自然と増えるから、都合がよいのであろうな」

 そう言うと大きな欠伸をした。

「最近は夢と現実の区別が付かぬのよ。今起きておるのか?」

「起きてるね」

「常に会話をしておるような気がするわ」

「誰と?」

「玲太郎と颯」

 すると玲太郎が声を出して笑い出した。

「何がおかしいのよ?」

「あはは。……だって、多分ヌトが眠っている所ではーちゃんと僕が話しているからだね。きっと声が聞こえてるからなのよ」

「そうであろうか?」

「僕もはーちゃんとヌトが話してる夢をよく見るのよ」

「わしは話しておらぬが」

「それは最近だよね。ハソが来て一ヶ月くらいだけど、多分話してるんだろうね。でも声が一緒だから、僕はヌトだと思っちゃうんだろうね」

「成程」

「はーちゃんは気配で分かるって言ってたけど、僕もそうなると思う?」

「どうであろうな? 颯は玲太郎が赤子の頃から気配を感知しておったからな」

「そうなんだ。それじゃあ早いね」

「明良も判るようではあるが、颯程ではないな」

「ふうん。僕はダメ。髪型とか服の裾を見ないと分からないね」

「ま、その内に判るようになるであろうて。そう信じて瞑想を頑張るしかなかろうな」

「めい想はやってるけど、何も感じないのよ。いつも真っ暗で、うん、何も感じてないね」

「そうであるか。颯も明良も瞑想は遣っておるから、何も感じずとも続けねばな」

「継続は力なり、だね。父上がたまーに言ってるのよ」

 そう笑顔で言うと、小さな溜息を吐いた。

「でも目を閉じちゃったら、誰の声かは分からないと思うんだけどねぇ……」

「そうであるな。複数おったら判らぬであろうな」

 ヌトは頷きながら大きな欠伸をした。玲太郎は制服の衣嚢から白い石を出すと凝視する。

「この石、ヌトには本当に効果があるけど、ハソにも効果があると思う?」

 玲太郎の持っている石に視線を遣ると眉を寄せた。

「わしでのうても当然ながら効果があるに決まっておろうが。ま、試しに遣ってみるがよいわ」

「そうする」

 絶叫するハソを想像したのか、嬉しそうに目尻を下げてそう言うと石を衣嚢に戻した。

「これ、服の上からでも効果を十分に発揮してくれるけど、肌にじかに付けた方がもっとだよね」

 ヌトは思わず上体を起こして玲太郎を見上げた。

「何っ、そのような差があるのか?」

「あるよ。たまたま手に当てた時があって、飛び上がり方が違ったから試したのよ」

に恐ろしき物よな……」

 俯いて呟くと、玲太郎が顔を近付けて左耳を向けた。

「うん? なんて言ったの? 聞こえなかったからもう一度言ってくれる?」

「ひ・と・り・ご・と・よ」

 玲太郎は姿勢を戻す。

「ふうん……」

「今日の曜日は?」

「今日はねぇ、月の曜日だからいち時限はあーちゃんの授業になるのよ」

「そうならば眠られるな。早く行こうではないか」

 俄に張り切り出したヌトを見て、玲太郎は思わず苦笑してしまう。

「早く行った所ですぐには眠られないよ? はーちゃんに見られたら怒られるんだからね?」

「そうであるな。颯に見られると、また家に帰れと言われるからな、気を付けねばならぬ」

 そう言って横たわると、その状態で浮いた。また大きな欠伸をする。

「白い石を当てようか? そうしたら目が覚めるかもね?」

「いらぬ。起きておるわ。欠伸が出るのは仕方のない事よ」

「そう?」

「うむ。…弟が来たな」

「分かった。ありがとう」

 玲太郎は立ち上がって背嚢を背負うと、椅子を机に入れて衣こうへ向かった。靴を履き替え、退室して玄関広間でバハールを待つ。階段を下りて広間に差し掛かり、玲太郎の姿を見付けると駆け寄って来た。

「お待たせ。行こうか」

「うん」

 二人は並んで歩き出した。ヌトは二人の少し先を浮いて進んでいた。建物の外に出ると小雨が降っていたが、障壁を張っているお陰で濡れずに済んでいる。ヌトは雨が体をとおり抜けて行き、濡れる事はなかった。玲太郎はヌトの体を物が透り抜けたり、抜けなかったりする事が不思議で仕方なく、常々訊こうと思っていても、訊き忘れてしまうのだった。


 二人は会話をするでもなく教室へ向かい、裏口から校舎へ入って行く。玲太郎は教室の前にある扉ではなく、後ろの扉から入室した。廊下側から二行目の一番後ろの席が玲太郎の席になる。机に背嚢を下ろして席に着くと、冠の留め具を外して中から教科書を取り出し始めた。ヌトはそれを見ると、机の端に下りて寝転んだ。

「最近、弟は無口よな。何故なにゆえ無口になりおったのか……」

 そう言うと欠伸をした。玲太郎はヌトを一瞥しただけで、背嚢から出した二教科の教科書と帳面を物入れに入れ、席を立ち上ると背嚢を後ろの棚に入れに行った。

 まだ朝礼の終了を報せる鐘が鳴らないと言うのに、明良が荷物を持って入室した。玲太郎は何気なくそれを見ていたが、颯が明良に話し掛けていた。明良が颯を見詰めて何度か頷いている。珍しくない光景だったが、何故か玲太郎はそれが気になってしまった。

 颯が連絡帳を抱えて退室して直ぐに朝礼終了を報せる鐘が鳴った。玲太郎は机の物入れから治癒術の教科書と帳面を出し、寝息を立てて熟睡しているヌトを漫然と見ていた。

「玲太郎」

 いつの間にか傍まで来ていた明良が小声で呼んだ。

「うん?」

 明良の声がする方に目を遣る。玲太郎の左側にいて、腰を屈めていた。

「今日は神経を繋げる練習だからね。大角牛と牛と豚の三種類を持って来たから、繋げたら呼んで貰ってもよい? そうしたらまた神経を切るからね」

 そう言いながら机に三種類の神経を置いていく。机に置かれている物を見て、また明良に顔を向けた。

「あれ? 今日は血管じゃないの?」

「血管は先週遣ったから、今週は神経ね。一週置きで交互に遣ろうと話していたのに、憶えていなかったの?」

「ごめん、忘れてた」

「若しかして血管が良かったの?」

「ううん、そうじゃないのよ。単純に忘れてただけ」

「そう。それでは今日は神経ね」

「うん、分かった」

「もう授業が始まるからね。ぼんやりするのは終わりだよ?」

「うん、しないから大丈夫。所で、さっきはイノウエ先生と何を話してたの?」

「さっき? ああ、回転焼きを買って来ているから、帰りに持って帰ってと言っていたよ」

 そう言うと微笑んだ。

「颯は和伍に行っていたのだね」

「うん、僕も行ってた」

「そうなの。先程、私が寮長室へ行った時は何も言っていなかったよね。玲太郎の口から聞けなかった事がとても寂しいよ。それに和伍へ行きたかったのならば私にも言って欲しかったね」

 玲太郎は罪悪感を抱き、思わず俯いてしまった。

「ごめんなさい。僕が急に芋餅を食べたくなっちゃったから……」

「そうだったの。次は一緒に行こうね?」

「うん、また次ね」

 明良は姿勢を戻すと、玲太郎の左肩を優しく二度叩いて教壇の演台へ向かった。

(思わぬ方向に話が行っちゃった……。はぁ……。でも、はーちゃんと話してたのは回転焼きの事だったのかぁ。もっと違う話をしていたのかと思っちゃった……)

 机に置かれている神経を見ながら、やや落胆した。


 三時限目は魔術で、いつものように運動場へ向かった。玲太郎は浮く練習も、浮いたままで動く練習も遣っていなかった。颯が用意した大き目の板に乗り、そのまま浮くという練習を遣っていた。そして何故かハソがその様子を傍で見ている。

「もっと浮くのよ。何故なにゆえ浮けぬのか? 玲太郎であるならば浮けるであろうて」

「ハソは黙って見ている約束であろうが。颯に報告するぞ」

「それは困る」

「では黙っておれよ」

 玲太郎は二体の遣り取りを聞いて溜息を吐いていた。

「おい」

 近寄って来た颯がそう言うと、二体は颯の方を向いた。

「仲良く出来ないのなら、お前ら家に帰れよ」

「わしの所為ではないのであるが」

 ヌトが透かさず言うと、ハソが申し訳なさそうにする。

「いや、何、わしは玲太郎を鼓舞しておったのよ」

「遣る気を削いでいるようにしか見えなかったが? そもそもお前は黙って見ている約束だったよな?」

 そう言われてハソが萎れた。ヌトはそれを楽しそうに見ている。

「玲太郎にはヌトがいるんだから、ハソは構うなよ」

「解った……」

 ハソはヌトを一瞥すると、ヌトは得意満面でいて、それがとても腹立たしかった。

「それじゃあ俺は行くけど、呪文は唱えるなよ? また見に来る」

 そう言って颯は別の生徒の様子を見に離れて行き、ハソはそれに付いて行った。玲太郎は肩を撫で下ろして脱力した。そして顔を綻ばせる。

「ふぅ……。これで静かに練習が出来るのよ」

「ハソはやかましいからな」

 ヌトはそう言いながら玲太郎の傍に来て、髪をひと房掴んだ。

「呪文は唱えるなよ?」

「分かってるってば。はーちゃんは校内ではダメ派だからね」

「目族の子もであろうが」

「ルニリナ先生も確かにそうだけど、はーちゃんはより上の絶対ダメ派だからね」

「そうであるな。ま、集中して遣れよ。わしは掴まっておるからな」

「うん、分かった」

 玲太郎は板に乗って徐に浮いた。そして徐々に高度が上がって行く。

「その調子であるぞ」

 玲太郎は安定して浮ける練習を続けていたが、中には既に板に乗って運動場を周回している生徒が数人いた。その中にはバハールも含まれている。

「ヌトは物と一緒にこうやって浮いたりする事ってあるの?」

「兄弟の肩に掴まって飛ぶ事も、その逆もあるのではあるが物はないな。ま、わしは箱舟を動かした事はないぞ。必要が全くないからな」

「それはそうだよね……。この板を自分の延長だと思って一緒に浮かせるんだけど、思ってる以上に難しいね」

「ま、練習あるのみよ。続けておればその内に骨を掴み、容易に出来るようになろうて」

「僕としては、小型の魔石作りに時間を割きたいから、箱舟の免許は今年中に取りたいんだけどね」

「そうは言うても、出来ぬ物は出来ぬのであるから、焦らず遣ればよいではないか」

「うん……」

 若干浮き上がったり、下がったりを何度も繰り返しながら、三時限目の授業を終えた。教室に戻り、四時限目が始まると、今度はおもりを浮かせて動かす練習が開始する。玲太郎は約二貫四きんの錘を浮かせる練習になる。玲太郎にとって、それは乗った板と一緒に浮くよりは遣り易かった。

 玲太郎は楽しそうに練習を遣っていたが、ヌトは欠伸を連発してそれを眺めていた。生徒を順次見て回っている颯が玲太郎の所に来ると、俄に錘が重くなった。玲太郎は颯を見上げる。

「なんでそんな事をするの? 動かなくなっちゃったじゃない」

「五ヤチゴナも余裕そうだから、次の段階に移るのは当たり前の事だろう? 箱舟の操縦を遣るようになるんだからな?」

「それはそうだけど……、もう少し操作したかったのよ」

「この重さでも慣れれば大丈夫だって」

「どれくらい重くしたの?」

「倍の十ヤチゴナ(約五貫二斤)」

 玲太郎は眉を顰め、目を丸くした。

「倍なの? いきなり倍はきついよぉ」

 颯は微笑むと玲太郎の頭を乱雑に撫でた。

「大丈夫。玲太郎ならまた直ぐに出来るようになるよ」

「如何にも。玲太郎であるならば直ぐ出来るようになるであろうて」

 颯に続いてハソがそう言うと、ヌトがハソを横目で見た。不機嫌になってしまった玲太郎を見た颯は、顔を玲太郎に近付ける。

「また行きたい所へ付き合うから、拗ねるなよ」

 小声で言うと、玲太郎は上目遣いで颯を見る。

「分かった。それじゃあ次はあーちゃんには秘密にしてね?」

「兄貴に? うん、解った。それじゃあ行く所を決めておけよ?」

「分かった」

 玲太郎は満面の笑みを浮かべて頷いた。それを見た颯はまた乱雑に玲太郎の頭を撫でて、また教室内を回り始めた。髪が乱れた玲太郎は手櫛で直し、重くなってしまった錘を浮かせる練習を開始した。


 午睡の時間と十時限目は医務室で自習で、今日は少し昼寝をしてから、試験を見据えて薬草術の復習をしていた。明良はもう公爵の書類仕事を終えたようで、玲太郎が勉強をしている姿を凝視した。玲太郎はその視線が気になるのか、時折明良を一瞥しては溜息を吐いた。

「集中出来ていないのを、私の所為にしてはいけないよ?」

「だって、あーちゃんの視線が気になるんだもん」

「それは気が散っているからだね。休憩でもする? お茶を淹れようか?」

「それじゃあ緑茶でお願い」

「緑茶がよいの? それでは茶葉を取って来るね。少し待っていて」

「いってらっしゃい」

 明良は笑顔を玲太郎に向けると立ち上がり、瞬間移動をして消えた。玲太郎は鉛筆を置き、目を擦ると「ふう」と息を吐いた。

 明良が戻って来たのは約五分経ってからだった。片手には書類を持っている。それを執務机に置いてから玲太郎の方に向いた。

「只今。ご免ね、少し時間が掛かってしまったよ」

「何をしてたの?」

「玄関広間に着いて歩いていたらナゲイムと会ってしまって、次の書類を持って参りますと言うから、それを受け取っていたのだけれどね」

「そうなの」

「茶葉もきちんと持って来たから、今淹れるね。もう少し待っていてね」

「うん、ありがとう」

 明良は棚のある方へ歩いて行き、水の玉を出すとそこへ茶葉を入れ、茶器の用意をしていた。水の玉と言っても熱湯で、茶葉が開いて色が染まっていく。少しすると紅茶に使われる茶器を机に置かれた。

「ここには湯呑みがないの?」

「ないね。持って来ていないもの」

「緑茶をこの茶器で飲むのって、なんだか新鮮だね」

「そうだね」

 楽しそうな玲太郎の表情を見て、明良も笑顔になった。明良も着席して茶器を机に置くと、玲太郎の方に顔を向けた。

「和伍には何時行ったの?」

 玲太郎は横目で明良を一瞥して、茶器を持った。

「はーちゃんが巡回をして、厠に行くのに起こされて、その後に行った」

「そうなの。それならばお店も開いているね。何を食べたの?」

「芋餅二個。一皿に二個載ってたからね」

 玲太郎は答えながら、茶を冷まそうと息を吹き掛けていた。

「回転焼きは食べなかったの?」

「うん、食べてない。はーちゃんが一杯買ってたから後で食べられると思ったのよ」

「次からは必ず私にも声を掛けてね?」

 玲太郎は明良の方に顔を向ける。

「だって夜中だったんだよ? あーちゃん、起きないじゃない」

 笑顔だった明良は突如不機嫌になった。

「夜中に行かなければよいのではないの?」

「だって、和伍だと時差があるじゃない。早朝に行くにしても、あーちゃんが起きないでしょ?」

「六時ならば起きられるのだけれどね」

「ふうん……。それじゃあその時間にしようよ、和伍に行くならね」

「何時行くの?」

「昨日行ったばかりだから、当分は行かなくてもよいよ」

 明良は不満そうな表情になる。

「私だって玲太郎と一緒に和伍に行って、芋餅を食べたいのだけれど」

「それじゃあ六時に迎えに来てよ。週末ね」

 明良の表情が明るくなったのを見て、玲太郎は苦笑した。

「週末? 九日と十日の何方どちらがよいの?」

「十日だね。屋敷にいるから六時に起きるし、丁度よいのよ」

「……それだと水伯も一緒だよね?」

「父上が行くって言えばね。もしかして二人で行きたいの?」

「私と二人切りという事がないじゃない」

 玲太郎は茶器を受け皿に置くと、また明良を見た。

「そう言われれば、そうかも知れないね? 父上と三人か、はーちゃんと三人か、たまーにばあちゃんと三人だよね」

「そうなのだよね。気付けば二人で何処かへ行った記憶が全くないのだよね」

「ふうん……。分かった。それじゃあ次は二人だけね」

「本当? 嬉しい! 約束だからね?」

 明良の表情が大輪の花が咲き乱れている雰囲気を醸すかのように満面の笑みを湛えた。玲太郎は釣られて笑顔になると正面に向いて茶器を持ち、また息を吹き掛け始めた。


 その日の夜、二十六時を過ぎても玲太郎はまだ起きていた。読書に熱中していて、中々寝ようとはしなかった。

「玲太郎、そろそろ寝ないといけないだろう?」

「……んー、もう少し」

「二十六時を過ぎているんだぞ?」

「ここで読むのを止めたら、気になって眠られなくなっちゃう」

 そう言って読了するまで粘って起きていた。結局就寝した時間は二十六時七十分を過ぎた頃で、颯はハソを置いて瞬間移動でとある施設の一室へ移動した。

「遅いよ」

 到着するなり、明良に言われてしまう。明良は椅子に座り、既に自白薬の準備も出来ているのか、水の玉が二個、傍に浮いていた。

「悪い、玲太郎が中々寝なくて。今し方まで読書をしていたんだよ」

「それならば仕方がないね。今日はチーカオ・シェンカね」

 颯は奥に座っているシェンカに目を遣ると椅子に腰を掛けた。

「顔色が悪そうな気がするなあ。体力的に持つのか?」

「ああ、刺青を誰かに切り取って貰ったみたいで、出血が続いていた所為だね。造血薬を今朝飲ませておいたのだけれど、まだ足りていないのかも知れないね。けれど、体力的には大丈夫だよ」

「ふうん、それじゃあ今朝治療も遣ったんだ?」

「うん、遣ったよ。皮膚も元通りなのだけれど、食欲がないみたいで、食事を半分程残しているみたいだよ」

「そうなんだな。まあ、口が利ければそれでいいと言えばいいんだけどな」

「そうだね。それにつけても、今は二段階目の自白薬を投薬しているからね」

「解った」

 明良の前に置かれている書類を取ると、それに目を通し始めた。

「……諜報部かあ。でも逃げられている所を見ると、末端か?」

「それはどうだろう。似顔絵や颯の念写を見せたけれど、三分の二の名前を言えたのだよね」

 颯は明良に顔を向けた。

「それはそれは……。似顔絵の奴等も末端という可能性も出て来る訳だけど……」

「ジエ・チンと言う秘書の似顔絵もあったよ」

「似顔絵の方かよ。秘書って、お偉いさんの秘書だったのか?」

 そう訊くと書類に目を向け、書いてあるかを急いで確認した。

「お館様の秘書だそうだよ」

「お館様……」

 また明良に顔を向ける。

「頭領か? お館様なんて呼ばせているんだな。俺も何度か本部を覗いたけど、それらしい人物が判らないんだよな……。気配も大した事がない奴ばかりだしなあ……」

「また記憶改ざんを施されている可能性も否めないし、今の所、軽い自白薬での証言なのもあるから鵜呑みには出来ないけれどね」

「それはそうだな」

 颯はまた書類に視線を落とした。

「「ジエ・チンの前任が亡くなった事で、消息不明になる者が増えている」…となると、早く特定して捕縛しないといけないな……」

「そうだよね。得た知識や物品を悪用されては困るものね」

「刺青も剥いでしまえば意味を為さないようだしなあ……」

「逆に言えば、剥いでくれる人がいないと死ぬ訳だけどね。燃えるか、融けるかの何方どちらかだよ」

「融かすのは怖いよな。何処まで融けるのかを確かめてみたくはあるけど……」

 シェンカがそれを聞いて鼻で笑った。

「俺が何かおかしい事でも言ったか?」

「人間がどこまで溶けるか確かめたいなんて、あんた、相当イカれてるぞ」

「紫苑団の一員に言われたくはないなあ。諜報部員なら、人を殺した事もあるんじゃないのか?」

「俺はただの間者だよ。人を陥れる事はあっても、殺してなんかない」

「お前が罠に嵌めた人が、一人として死んでいないならそう言ってもいいぞ」

 そう言うと颯から目を逸らして沈黙した。

「結果として死んでいたら、お前も人殺し同然だな。それよりも、お前に入れられていた刺青の柄を教えて。念写は出来るか?」

「念写? ……出来ない。そもそも背中に入れられた柄がどんな柄かなんて、自分で見えないだろ」

 目を逸らしたまま言うと、颯が一枚の絵を見せた。

「これを見ろ」

 シェンカはそれに視線を遣る。

「見覚えは?」

「ない」

「これは魔力を封印する図柄なんだそうだけど、お前はこういう類の物を持っていた事はないのか?」

「ないな。末端っていうのもあるけど、俺の基本的な仕事は繋ぎ役だから」

「ふうん、そうなんだ。末端なのに刺青を入れられるんだな」

「俺の場合は紫苑団に入るのと同時に入れられた。本部に行くと刺青を入れられると聞いた事があるから、それでだと思う」

「と言うと、本部に行かない団員もいるという事か?」

「沢山いる。外に施設が沢山あるからな。それに暗殺部も本部とは違う場所にあると聞いた。そいつらは本部に来た事もないとも聞いたが、本当かどうかは知らない」

「本部に行った事もない奴が沢山いる中で、行った事のあるお前が末端なのか。それに暗殺部なあ……。暗殺業も請け負っているんだな。はあ……、それにしても外にも施設があるなら、其処にも探りを入れなければならなくなるなあ……」

 颯が苦渋の表情になると、明良はそれを横目で一瞥する。

「それにつけても、お前はスオークとどういう関係なの? 匿ってくれるのだから親しいのだよね?」

「スオークにはなんて聞いたんだ?」

「紫苑団で一番近しい人物に就いて教えろと言ったら、お前を匿っている事を話したよ。匿って貰える程に親しかったの?」

「俺達は同じ孤児院育ちで、諜報活動について勉強をさせられていた。それが終わると、俺と後二人は本部と間者の繋ぎ役として地元に残ったが、スオークはどこかの国へ行ってしまった。でも五年前、ナダール国内にいる間者との繋ぎ役を引き継いで、ナルアー家の従僕になっているスオークと久し振りに会ったんだ。懐かしくて会う度に良く話したよ」

 表情を和らげてそう話し、それが終わるとまた無表情に変わった。

「スオークの幼少時はどう呼ばれていたの?」

「どう……? あだ名か? 子供の頃はカッツォと呼ばれていた」

「そう、カッツォね。……それでお前はどう呼ばれていたの? 今と同じ?」

「俺はずっとチーカオ・シェンカだ」

「どうしてそのように差が出ているの?」

「俺が六歳の頃に両親が事故で他界して、そのすぐ後に孤児院に入れられて、そこが紫苑団の孤児院だったんだが、名前は変わらずに同じだった。スオークは俺より先にいて、既にカッツォと呼ばれていた。苗字は聞いた事もなかったよ」

「その頃から親しかったの?」

「カッツォは俺より一つ下だったが、施設には慣れていたから色々と教えてくれた。それから八年は同じ施設にいて、再会するまで十年の空白はあったが、再会してから五年だから、親しいと言うより、家族のような物だな」

「家族ね……。スオークと連絡が取れなくなっても、同じ場所で居続けたのはどうしてなの?」

「スオークが一緒に逃げると言ったからだ。だから待っていたんだが、結果はこのザマだよ」

「ご愁傷様な事で。それにしても、良く話すなあ」

 明良は感心している颯に顔を向ける。

「そうなのだよね。紫苑団を潰す事に対して協力的なのだよね」

「あんな組織、潰れた方がいいに決まってる。本部以外の施設も、国外にある施設も、知っている限りの事を全て話して、綺麗さっぱりなくなればいいんだ」

 無表情ではあったが、口調には負の感情が滲み出ていた。

「それは有難いのだけれど、記憶改竄をされている可能性があると思わないの? 自分には有り得ない事だとでも思っているの?」

 それを聞いてシェンカの表情が徐々に険しくなって行く。

「そう言うって事は、改ざんされているんだな?」

「スオークも改竄されていたから、どうにか元に戻したのだけれど、幼少期に誘拐されて紫苑団の孤児院に入ったようでね、お前の方が先に孤児院にいた事になっているよ。元に戻してからも孤児院の住所が変わらなかったから確認に行かせたけれど、五十年以上前から紡績工場が建っていたそうだよ。どうやら住所は嘘を教え込まされていたようだね」

 シェンカは険しい表情のまま、明良から顔を背けた。

「だから俺の記憶も改ざんされてると言うのか? ……俺の記憶の中の両親は、両親ではない可能性も…」

「何処まで改竄されているかは元に戻さなければ判らない」

 そう言って明良は溜息を吐いた。

「戻してもよいのだけれど、そうなると一週間は話せなくなるからね」

「それだけ負担が大きいんだな。俺はいいぞ。寧ろやって欲しい」

 明良を真っ直ぐに見て言うと、明良は颯に顔を向け、その動きを視線で追ったシェンカも颯を見た。颯は脱力すると頬杖を突いた。

「一週間は話せないと言うのは、俺が一週間くらい掛けて話せるように治療すると言う意味だからな。お前の脳より俺の負担の方が大きいんだけどな」

 明良を横目で見ながら言うと、明良は頷く。

「そうだね。私が元に戻せても、その後の事は私では巧く出来ないから仕方がないね。……そういう訳で、また宜しく頼むね」

「解った。それじゃあ尋問は此処までだな」

「そうだね。元に戻すのであれば、早い方がよいからね」

 そう言って立ち上がると、シェンカの方に向かって歩いた。明良は傍に着くなり、シェンカの頭に手を翳した直後、シェンカの絶叫が響き渡る。その絶叫は約三分続いていたが、明良と颯は平然としていた。


 それから九日が経過し、二十五時四十分を過ぎてから颯が取調室へ遣って来た。シェンカが話せるようになっていて、奥に座って何かを紙に書いていた。

「遅くなった。悪い」

 そう言いながら椅子に腰を掛ける。明良は颯の方に顔を向けた。

「今日はまだ早い方だね。見ての通りシェンカの尋問をするからね」

「解った。で、何を書かせているんだ?」

「施設の地図。描くと言うから描かせているのだよ」

「恒?」

「うん、それからナダールの数ヶ所。もう二つ目の自白薬を飲んでいるからね」

「あれ? 早くないか? まだ二十五時半じゃないよな?」

「もう直ぐ半になるけれど、遣っているのは二十四時六じっ分からだからね」

「それじゃあもう直ぐ一時間か」

「うん、そう」

「孤児院の地図も描いて貰うのか?」

「もう描いていると思うよ。まだ見ていないのだけれど、私が指示したからね」

「ふうん、そうなんだな。こういう事なら、もう少し遅く来ても良かったかあ……」

「私としてはもう少し早くても良かったのではないかと思うのだけれどね」

 明良の傍には水の玉が四個浮いていて、もう薬草の抽出は済んでいるようだった。

「今度の自白薬は六段階か」

「いや、五段階だね。最後は何時ものように既存の物になるね」

「ああ、そうだったな。最後は既存の物だった。やはり既存が一番だよな」

「そうではなくなるように鋭意努力中なのだけれど?」

「徒労に終わると思うんだけどなあ……。まあ薬草の改良が巧く行けば、その限りではないんだろうけど、どうなる事やら……」

「時の運が強いかも知れないね」

「俺は其処までしなかったからなあ。薬草まで手掛けるとなると、時間が途方もなく必要になって来そうで……」

「被検体も必要だからね」

「それなんだよなあ……。被検体に出来る犯罪者も無限にいる訳じゃないからな。まあ、紫苑団で結構な数の被検体が手に入りそうではあるけど、上手く行くかどうか」

 要らぬ心配をすると、明良は必死に描き続けているシェンカに顔を向けた。

「それよりも、紫苑団の記憶改竄をさせる技術には舌を巻くよ。どう遣っているのだろうね?」

「運良く開発者が手に入らないと判らないな。兄貴こそ、それをどう遣って元に戻しているんだ?」

「異物を取り除くように治癒魔法を掛けると戻るね。でも言語障害を引き起こすから、私一人では戻しているとは言い難いね。戻し掛けている、が正しいと思うよ」

「知らない内に記憶改ざんする奴は俺からすると化け物だが、お前らも十分化け物の域にいるな」

 シェンカがそう言うと、二人はシェンカを見た。

「誉め言葉として受け取っておくよ。有難う」

 そう返したのは意外にも明良だった。シェンカは手を止めて明良を一瞥すると、また続きを描く。

「ああ、誉め言葉だ。こうだと思っていた事を、今では、そうじゃない、違うと否定出来てしまえるからな。特に紫苑団に関する記憶の繋がりがとても混乱しているんだよ。人に関してはそんなに改ざんされてないような気がするけど、施設は近い所と勘違いしてたよ。改ざんって怖いな……」

 そう言いながらも地図を描き続けている。

「施設は頻繁に通っていた所はあるの?」

「……通っていたと言う程の施設はない。場所は教え込まされたけどな。本部もさん回程度だし、孤児院も塀の外には出られなかった。敷地内に教室も運動場も遊び場もあったし、塀の外に出るという事は卒業という事だからな。繋ぎの仕事は大体外で済ませられるからな。でも国から人が来た時や技術者が使っている施設はあるんだよ。その時の送迎も任されていたから知ってるんだ。ナダールには少ないが八ヶ所、その内の三ヶ所が王都にあって、一ヶ所はガラージャ州にあるナルアー公爵の別邸になってる」

「ガラージャか。西海岸だな。そんな場所に別邸があるんだな?」

「ガラージャ州にはチルチオ教の代表の領地があるのだよ。それでだろうね」

「成程」

「序に言っておくと、ガラージャ州はロデルカ兄弟の出身地だからね」

「ああ、そうだったな。習った記憶が蘇って来たわ。……ふうん、それでチルチオ教の代表か。ロデルカ兄弟と血の繋がりでもあるんだろうか」

「其処までは私も知らないね。更に言っておくと、文官貴族は西海岸に別邸を構えている事が多いと水伯から聞いたよ」

「へえ、長期休暇用か?」

「そうだと思うけれど、どうだろうね。社会的地位を誇示する為の道具かも知れないね」

「ふうん、そういう事もあるんだな。貴族は本当に面倒臭いなあ」

「それにつけても、それだけ記憶改竄されていたのに、施設へ迷わず行けていたの?」

 シェンカの動きが止まった。暫くそのままでいたが、明良に顔を向ける。

「こうして紙に描いたり、口で教えようとするとおかしくなるようだ。近くまで行くと迷わず辿り着けるから、直接行くと大丈夫なようになっているみたいだな」

「不思議な物だな。どうやって記憶改竄を行っているんだろうな。呪いだったら、兄貴より俺が治せそうな気がしなくもないけど、俺には出来ないんだよな」

「そうだね。颯の方が解呪に長けているものね。色々な術が混ざっているのだろうね」

 シェンカがまた手を止め、二人の顔を交互に何度も見ていた。

「お前らは兄弟だったのか。全然似てないな。それにしても兄って……、どう見ても女にしか見えな…」

「お前の目が節穴だという事を曝さなくともよいのに」

「それにしても、どうして二人は騎士の制服を着てないんだ? それだけ偉いのか?」

「そのような事はどうでもよいのではないの? 私としては紫苑団の団員を一人でも多く確保したいから、有力な情報が欲しいのだけれどね」

「俺みたいな末端が大半を占めてるし、方々に散ってるから、それを捕まえるとなると面倒だぞ」

「俺としては末端も始末してしまいたいんだけど、そうなると時間が掛かるのかあ……。うーん、考え物だな……」

「末端は俺みたいに幼少期から教育を施されてしまった哀れな奴しかいないぞ」

「そうだろうか? 金に釣られて始める奴もいるんじゃないのか?」

「それはないと思う。そういう奴から情報を買う事はあっても、常時は使わないだろう。後は地元に根付いている団体に力を借りるくらいだな」

「チルチオ教みたいな団体か?」

「そう。どっちかって言うと地元で歓迎されていないような類の団体だな」

「チルチオ教は一応は歴史のある宗教団体なんだけどなあ……」

「貴族とロデルカ州と言うか、王都でしかほとんど歓迎されてないだろ。それでも数千年続いているんだから、この国は寛容なんだな」

「雑談は其処までにして早く地図を描きなさい」

「へいへい」

 シェンカは紙に視線を遣ると続きを描き始めた。颯は明良に顔を向ける。

「今度もまた覆るんだろうか?」

「それはどうだろうね。最後まで遣らない事には……」

 明良はシェンカを見ながら言った。


 それから約三時間が経過し、寮長室に戻るといつものように薄暗い中でハソが寝台脇に浮いていて、玲太郎の寝顔を見詰めていた。

「只今」

「お帰り。き…なんとか言う子の証言はどうであった?」

 椅子に横向きになって座った颯の方を向いた。

「今日は違う奴だよ。キカッセキみたいに証言が覆るかと思ったけど、そうはならなかった。自白薬も意味がなかったから、シェンカには、あ、今日尋問していた奴な、そいつにはもう自白薬は使わず、騎士団の経験が浅い団員に任せる事にしたよ」

「それで明日からはどうするのよ?」

「キカッセキを尋問するよ。兄貴は、チルチオ教と繋がっている暗殺組織に就いての続きを自白させると言っていたけど、俺としてはそれには余り興味がないんだよな」

「暗殺とな……。そのような事をして何が楽しいのやら……」

「そりゃあ、自分が有利になる為に依頼する奴がいるんだろうな。只の恨みとか復讐とかもあるのかも知れないけどな。それはさて置き、兄貴はその組織を潰そうとしているようで、水伯と一緒に情報を収集していたみたいだな」

「灰色の子もその暗殺集団の情報を得ておったのか?」

「俺は、実行犯が必ず死んでいるから、情報を集めるのが大変だと言っていた事しか知らないんだけどな。俺の伯父、兄貴が継いだ物を継ぐ筈だった人なんだけど、その人を殺したのもその暗殺集団だと思っているみたいなんだよ。でも水伯なら簡単に情報を集めていそうではあるんだけど…」

「わしから言わせると、颯も簡単に情報を集められそうではあるがな。千里眼が使えるのであるからそう思われても仕方がないな」

「千里眼が使えるからと言って、簡単には集められないんだよな。本部の場所は判ったから時間を見付けては覗いているんだけど、数人の顔を念写しただけ、書類を見ても恒語だから意味が皆目理解出来ないと来ているからな……。漢字語圏なのに略字だから和伍の漢字とは違うんだよなあ。まあ、それも念写して訳して貰っている訳だけど、其処からはろくな情報が得られていないのが現実だからな」

「それならば灰色の子もそうではないのか?」

「そうだろうか?」

「わし等とて、情報を得るには時間を要する物ぞ」

「ふうん、そうなんだな。それじゃあまあ、地道に遣って行くよ」

「その殺人集団の有力情報を持っていそうな人物はおらぬのか?」

「いるにはいるんだけど、チルチオ教徒だからという理由だけでは表立って連れて来られないだろう? まあ、俺の体が空いている時間に行って、さらって来てもいいんだけどな」

「それでは、そうすれば良かろうて。それが手っ取り早そうではあるからな」

「そう思うだろう? もう王宮騎士団に掴まっていて、何処かに匿われているんだよな」

「後手に回っておるのか」

 颯は頷くと頭を掻いた。

「そうなんだよ。玲太郎に毒を盛られた時点から先を越されているからな。死体が生き返るなんて普通は思わないだろう? ハソが報せてくれるまで死んだものだと思っていたよ。やはり王宮にも何人か潜り込ませておかないといけないんだな」

此方こちらには灰色の子がおるのであるから、颯がその何処かを探し当てて攫えば良かろうて。灰色の子の威光があれば向こうも強くは出られまい?」

「ハソは水伯を高く評価しているんだな?」

「灰色の子がどれ程生きておると思うておるのよ? その辺の子等とは違うのであるぞ。随一の実力者である事を知らぬ者はおらぬのではないのか?」

「いるんだよなあ、それが……」

「……颯の父親の事か?」

「それは知らないけど、噂で聞いた事があるんだよ。ウィシュヘンド公爵の悪口を言うと必ず呪われる、それを試す奴がたまにいるけど悉く呪われたそうだ、という内容をな。イノウエ家と言えばウィシュヘンド公爵と距離が近いから、一々教えてくれるご親切な奴が何処にでもいるんだよ」

「何っ、灰色の子の悪口を言うと呪われるのであるか? それは恐ろしいな……。しかし、それならば腑に落ちる事もあるのではあるが……」

「腑に落ちるとは?」

「颯の父親の話になるのであるが、よいか?」

「いいよ、話して」

 ハソは体も颯の方に向ける。

「わしは明良の事が気になって、時折覗いておったのよ」

「何故兄貴が気になるんだ?」

「玲太郎命の明良が玲太郎と離れて暮らすなぞ、どうなるのかと思うてな」

「成程。それで?」

「夜に覗いておったのであるが、父親が荒れておってな、それでその原因である畑を見たのよ。わしは最初、玲太郎がおらぬようになったから作物が枯れたのかと思うておったのであるが、八千代が売った土地に建物が出来、父親は近くの家で暮らしておったのであるが、その周辺の田畑でも作物が育たぬままであったのよ。気が付いたらその家におらぬようになったのであるが、気になった事もあって捜してな、そうしたら違う島に住んでおって、其処でも農業に携わっておったのよ。やはり作物が育たなんだ所までは確認して、それ以来見ておらぬのであるが、しんば玲太郎がおらぬようになって作物が育たぬようになったのであったならば、余所に移った時点で作物は育つであろうが、しかし、父親はそうではなかったのよ」

「ふうん……。作物が育たなくなっている、か……。水伯の悪口でも言ったんだったら、噂が本当だと言えるんだけどな」

「言うておったぞ。それも夜な夜な」

「え、毎晩見ていたのかよ?」

 颯は思わず眉を顰めた。

「一時期毎夜見ておった。言うておった内容はもう憶えておらぬがな」

「そうなんだな。それじゃあ噂は本当なのか」

「灰色の子がそうなるように何かしらの術を使つこうておる訳ではないな。透虫等の仕業と見て良かろう」

「えっ、透虫ってそんな事を遣るのかよ?」

「遣りおる。颯も透虫等に好かれておるから、そういう事があるやも知れぬな」

「うーん、それはないと思うな」

「そうなのであるか?」

「うん。悪し様に言われても相手が落ぶれれる事はないからな」

「颯の場合は、気配感知が異常であるから、其方そちらで透虫等が頑張っておるのではなかろうか」

「異常なあ。まあ、確かに千里眼の気配まで判るもんな。兄貴も気配感知は得意じゃないって言っていたし、水伯もそんな距離は無理って言っていたからなあ」

「やはり颯の感度の良さは透虫等の仕業で間違いなかろうて。……となると、明良も透虫等から何かしらの恩恵を受けておると考えても良かろう」

「そうなのか? ……それじゃあ玲太郎が産まれてから色々な物の味が甘くなっていたのは…」

「それも透虫の仕業であろうな。玲太郎が生まれて喜んでおるのであろうて。それにつけても、明良にはどういった影響が出ておるのか」

「兄貴は自分から自分の事を話そうとしないからな。まあ、訊けば教えて貰えるかもな」

 ハソは玲太郎の方に向いて、寝顔を見下ろした。

「わしはな、玲太郎が赤子の頃に、人目を盗んでは抱き上げておったのよ。その度に奇妙な感覚を与えて呉れるのであるが、それはわしの体内におる透虫が喜んでおるとずっと思うておったのよ」

「急になんだよ?」

「よいから聴け。颯が激怒すると、玲太郎が与える感覚を突き抜けた物が体中を駆け巡り、それはもう耐え難いのよ」

「それは知っているよ。ヌトにも怒るなと言われるからなあ」

「そうであるから颯には怒って貰いたくないないのよ。それにつけても、玲太郎が眠っておる時に少し触れたら、全く感じぬようになっておってな」

「それで?」

「それで気付いたのよ。あれは嫌がっていたのではないかと」

「成程。詰まり玲太郎が激怒すると、俺の時と同様に遠ざかるしかなくなるという事だな?」

「如何にも。わしはそれに気付いた時、悲しかったわ……」

「ふうん。……それじゃあ兄貴が激怒してもそうなるのか?」

「それはどうであろうな? 明良が激怒する事なぞあるのか?」

「玲太郎が絡めば激怒すると思うけどな。まあ、俺は怒らせる気はないから確認出来ないぞ?」

「わしとて確認する気はないわ。それで玲太郎が怒った時はどうであったか、颯は知らぬか?」

「知る訳がないだろう。……と言うか、玲太郎が怒ったという話も聞いた記憶がないな。ヌトが起きている時に訊いてみれば?」

「そうなると玲太郎も聞いておるではないか」

「別に構わないだろう。隠す必要のある話か? 俺はないと思うんだけどな」

 ハソは何も言わず、唯々玲太郎の寝顔を見詰めている。颯は立ち上がると寝台に置かれている目覚まし時計を取り、小さな光の玉が顕現して二十九時に鳴るように針を据えると机に置き、また椅子に腰を掛けた。机にある本を手にすると読書を始める。

「颯は良く本を読んでおるようであるが何を読んでおるのよ?」

「魔力に関する本をな。水伯のあの対精霊擬きを戻す時に役立ちそうな情報がないかを調べているんだよ。暗示めいた物でもいいから探しているけど、ないな」

「あのように膨らんでおる物を灰色の子の中に戻すなぞ出来ようか?」

「対精霊擬きの魔力を抜いて戻すか、抜きながら戻すかを遣ったら出来るんじゃないかと思うんだけど、やはり甘いか?」

「遣るのは玲太郎なのであろう?」

「うん」

「それならば出来ようて。あの魔力を抜く事は骨であろうがな。のう、玲太郎」

 熟睡している玲太郎に言った。当然反応する筈もなく、意味のない事ではあったが、ハソは玲太郎の寝顔を見て微笑んでいる。

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