表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠長に行こう  作者: 丹午心月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/43

第二十一話 しかして春の陽気に誘われて

 カンタロッダ学院に生徒が戻って三ヶ月弱が経った。戻って来た頃から、敷地内は常に雪が解かされており、玲太郎は雪景色を楽しめない事が寂しかった。

 バハールとは以前と変わらず交流があり、食事は必ずバハールと共に取っていたが、以前と違い、バハールから明良や颯の話題を出す事はなくなり、玲太郎は内心喜び、小躍りしたい気持ちだった。

 颯はナルアー以外にもう一人の教師を解雇していた。その代わりに来た新任の内の一人である体育教師は、服を着ていてもその筋骨隆々の曲線美を見せ付けて来るという一風変わった女だった。アメイルグ騎士団の団員で、玲太郎のいる間だけの着任となる。彼女を選定したのは明良だった。

 明良は相変わらず玲太郎を溺愛し、時折玲太郎に冷たくあしらわれては拗ねていたが、その都度玲太郎から耳飾りの図案を貰っていたお陰で、下期に入ってから五個もの新作を手に入れていた。玲太郎は次こそは優しくすると心に誓うのだが、やはり破ってしまい、颯にたしなめられるのだった。

 冬休み中の約二ヶ月も眠りこけていたヌトは、いつも眠そうにしながらも玲太郎の傍にいた。眠っている間に玲太郎が色々と出来るようになっていて驚いたヌトは、玲太郎を褒めそやした。そして調子に乗った玲太郎が魔術の授業中に呪文を唱え、颯の手を煩わせるというような事もあった。

 精霊のルツ二体は寮長室の隣室にある浴槽に戻って来て、元気良く泳いでいる。

 それから、玲太郎の組には下期から十人もの転入生が来たのだが、この中の一人が玲太郎に馴れ馴れしく近付いて来たかと思えば、肩に手を回して腕をつねろうとしてみたり、肘で鳩尾みぞおちを突こうとしてみたり、突き飛ばしてみたりと手を出して来た。注意をされた生徒は口では「じゃれ合ってるだけ」と言いながらも、反転の首飾りで全てが自分に返って来て痛い目を見ると、それを颯に訴えたのだった。結果は明良が許さずに退学処分となり、一週間と経たずに消えて行った。

 それとは別の話になるが、転入生には女子が七人もいて、その中の貴族令嬢四人がこぞってバハールに色目を使い、バハールは辟易としていた。これは王家から抗議が入って直ぐに止み、バハールは安堵していた。颯は転入生の調査をしていた筈だったが、このような事が起こるとは微塵も思ってもおらず、頭を悩ませた一件だった。そして転入生の貴族令嬢四人は月組から浮く事となった。


 こういった出来事が起こりつつも、玲太郎もバハールもつつがなく過ごしていた五月には、春の陽気で芽吹き始めた木々の中を散策しようと遠足が計画されていた。

 恒例行事ではあるが、この計画の為に三月中旬頃から魔術の授業を時折潰し、班分けやら道順の確認やら、色々と話し合っていたのだが、班長を押し付けられた玲太郎はこれがとても嫌だった。

 各班五人、一班だけ四人で六班に分けられ、玲太郎はバハール以外に、転入生のケットン・ゼダ・モンポーンと、女子のダヒナーとミョビモカの五人となってしまったのだった。

 モンポーンは伯爵令息で、玲太郎と同じ黒髪に目は碧眼、年齢は七歳という事もあって小柄だった。性格は玲太郎よりも受け身で、頷くだけの事が多かった。

 バハールはミョビモカと一緒になった事で寡黙になり、道順の確認をするにもモンポーンと同様に頷くだけだった。その態度を見てミョビモカが萎縮してしまい、玲太郎とダヒナーが場の空気を和ませようと焦る事となった。

 そのような事もあって、道中に生えている指定されている草花の採取方法や、種類の確認も班で仲良く確認するという事も出来なかった。結局、玲太郎とダヒナーが手分けをして人数分の資料を作り、遠足に備えたのだった。


 五月一日になり、遂に遠足の日になる。一学年はカンタロッダ下学院の近所にある山地へ赴く。そこはニオンニュ山地のマレト山で、中腹にマレトット公園という大きな公園があり、羊が放牧されている。

 出発時間は八時で、朝食後に間食用の食べ物が入った紙箱と、いつものように水筒も渡されていた。服装は体操着に運動靴と動き易い格好が指定となっていた。残念ながら生憎の快晴で、中止になる事はなかった。

 時間前の運動場にはおか船が十二台が到着していたのだが、一学年から四学年までがそれに乗りって遠足に出掛ける。ちなみに五学年は六月に臨海学校、六学年は四月に研修旅行という行事がある為、遠足に行く事はない。

 颯はいつものように出席を取り、連絡帳を回収した後、忘れ物がないかを入念に確認をさせた。

「忘れ物がなければ陸船に乗って出発するが、乗る前に必ず小用を足しておけよ。現地に到着するまで一時間半掛かるし、現地にも厠はあるが数が少ないからな。それじゃあ厠に行って来て」

 生徒が一気に前の扉から出て行き、それを見た玲太郎は後で行こうとして着席したままだった。新期に入ってから席替えをして、離れた所に座っているバハールは玲太郎の様子を見て着席していた。玲太郎は遠足の準備が始まってから、徐々にバハールに対して厳しく当たっていた。場の空気を悪くしている原因だったからだ。それとバハールに態度を軟化させるように三度も提言をしたのだが、それを頑なに断った事も手伝っていた。それでもバハールは態度を変える事はなかった。

 着席していた颯が組の全員が厠から戻って来るのを確認すると、立ち上がって背嚢を背負ってから教壇に上る。

「それじゃあ、黒板に書いてある席順で座るように。自分が何処どこの席かをきちんと確認しておくようにな。それじゃあ行こうか」

 最初に颯が出て行くと生徒がそれに続く。玲太郎も背嚢を背負い、ヌトは玲太郎の髪をひと房握っていた。後ろの扉から廊下へ出ると、直ぐ後ろにバハールが遣って来て隣に並ぼうとしていたが、玲太郎は足早に前へ進み、いつの間にやら颯の真後ろに来ていた。正面玄関を通り、駐舟場から運動場へ向かう。陸船の操縦士が外に出ていて、颯の顔を見るなり口々に学年と組みを言ってくれた。

 一学年月組は奥から三番目の陸船だった。昇降口は前方にしかなく、その前に颯が立ち止まると生徒が入って行くのを見守った。陸船は四十一人乗りで、陸船の中では中型になる。玲太郎の陸船の席はモンポーンが隣となっていて、ある意味助かっていた。遠足が終わったとしても、バハールの事が許せそうにない玲太郎は、どう距離を取ろうかと思考を巡らせていた。

 他の組も乗ったようで、操縦士と颯も乗り込んで来た。

「それじゃあ出発するけど、気分の悪い者はいないな? 無理はするなよ? 荷物を上の棚に上げて欲しい者はいるか? いたら手を挙げて」

 結構な人数が挙手をする。

「解った。それじゃあ俺が前から順に回って行くから、待っていてくれるか?」

 そう言うと自分の座席に背嚢を置き、手前から順に荷物を上げ始めた。操縦席の傍で茶髪に碧眼を持つ、痩せ型の男が立っていた。

「今、先生が荷物を上げているけど、出発しますね。今日の一学年月組の送迎を担当するカイデイ・モノヨナです。安全操縦で行きます。よろしくお願いします」

「お願いします」

 颯がそう言うと、生徒も続いて言った。モノヨナが笑顔で頷くと操縦席に着き、陸船が動き出した。どうやら月組が先頭のようで、最初に学院を後にした。玲太郎は通路側に座っていたが、ずっと窓の外を眺めていた。


 モンポーンが話し掛けて来る事もなく、一人で景色を楽しんでいる内に一時間六十分が経ち、マレトット公園に到着した。専用駐舟場はとても広く、平日だというのに箱舟が多く停まっている。颯が忙しく棚から荷物を下ろしている頃、別の陸船も到着した。

 前から順番に外へ出て、玲太郎はモンポーンの隣で周りを見回していると、いつの間にかバハールとダヒナーとミョビモカも来ていた。そして玲太郎は他の生徒に目を配らせている颯を見ていた。颯は近場の第一公園へ集合する旨を叫んでいたが、玲太郎と目が合うと微笑んで頷いた。それを見て意を決したのか、バハールに顔を向けた。

「今日も今までみたいに班員と話さなかったり、意図的に無視したりしら、僕はディッチともう話さないからね」

 そう宣言すると、モンポーン以外が驚いていた。特にバハールは相当の衝撃を受けていた。それでも玲太郎の口は止まらない。

「ディッチが僕を軽んじて態度を改めない事が良く分かったから、本当ならもう口を利きたくないけど、班長だから我慢してたんだよ? そういう事だから、良く考えて行動してね」

 颯を相手に何度も練習した事を、ようやく言えて安堵した玲太郎は視線を先へ移した。

「それじゃあ集合場所へ行こう」

 真っ先に歩き出した玲太郎の直ぐ斜め後ろをモンポーンが歩いた。ミョビモカが走って玲太郎の横に来た。

「ウィシュヘンド君、ごめんなさい。元々は私が機嫌を悪くしていたせいで……」

「ミョビモカさんがディッチの機嫌をどうやって損ねさせたのか、全く覚えてないけど、いずれはああなってたと思うよ。だからミョビモカさんのせいじゃないのよ」

「覚えてないの? ……他に友達は作らないの? みたいな事を聞いただけで機嫌を悪くさせたのよね。まだ引きずってるみたいで、私も驚いたんだけど、それも私のせいだから仕方がないなって……」

 最後の方は声を震わせていた。玲太郎でもミョビモカが泣きそうになっている事に気付いた。

「泣かないでね……。僕は僕の為に言っただけだから、ミョビモカさんは関係ないのよ」

「う、うん。それでも本当にありがとう」

「どういたしまして」

 ミョビモカは手で涙を拭うと足を止め、ダヒナーが来るのを待った。モンポーンが無言で玲太郎の肩に手を置いたその直後、優しく二度叩いた。玲太郎は思わずモンポーンの方に顔を向けると、モンポーンは軽く二度頷いていた。玲太郎は苦笑して正面を向いた。

 集合場所に到着すると学年主任のギャリーンが既にいて、生徒を組ごとに並べていた。玲太郎は月組の最後尾に行って並んだ。隣にはモンポーンがいた。

「玲太郎にしては厳しく言うたな。其処そこまで腹に据えかねておったのか」

 ヌトが言うと、玲太郎は思わず頷いた。ヌトが眠っている間に練習をしていた為、ヌトは驚いていた。

「それにつけても、公園とは此処ここまで人が多い物なのであるな。一般人が百はおるぞ。余程人気のある場所なのであるな」

 感心しているようだったが、やはり眠気が勝つのか、大きな欠伸をしていた。


 集合場所の最前列には教師が集まっていた。ギャリーンが拡声器を持って立っていて、それを口に近付けた。

「はい、注目。おはようございます。学年主任のギャリーンです。今日はツェーニブゼル領ルテミ市にあるニオンニュ山地の一山いちざん、マレト山のマレトット公園に来ています。今の時期は花が沢山咲いていて、観覧者が多い時期でもあります。知らない人に声を掛けられても、付いて行かないようにして下さい。解っていると思いますが、第三、第五公園は羊が放されています。そちらへ行く場合はくれぐれも羊に注意して下さいね。羊に乱暴な事をしないように、後、ふんを踏まないようにね。それと触れるのは第五公園だけですので、それは間違わないようにお願いします。そして、今日の目的である採取についてです。採取は三種類の草花を採ってもらいます。どの種類の草花を採るのかは、班ごとによって違います。なくなる事はありませんので安心して下さいね。もう一つの目的は写生です。班員で話し合って、どこで描くかを決めて下さい。それとお手洗いは各公園にありますが、数が少ないです。並んでいる場合は順番をきちんと守るようにお願いします。さて、午前の間食の事になりますが、班長の持っている音石から鐘の音が聞こえたら食べて下さいね。お腹が空いても早く食べないようにして下さいね。そして昼食になりますが、すぐそこにある食堂で食べる事になっています。時刻は少し早めの十四時五十分です。班長に懐中時計を渡している筈なのので、必ず十四時四十分に、そこにある食堂前に集合して下さい。いいですか、十四時四十分に集合です。絵を描いている途中でも手を止めて、必ず十四時四十分に来て下さい。宜しくお願いします。それでは先生方、お願いしますね」

 各組の担任が生徒を移動させ始めた。月組は左の方に移動して、颯の前に広がっていた。

「怪我をしないように気を付けて。若し、怪我人が出たり、喧嘩が始まりそうになったりしたら、班長は音石で先生に報せる事。音石の使い方は話した通り、三度触れる事。忘れるなよ? 三度だからな? ……という訳で喧嘩をしないように話し合うようにな。先程ギャリーン先生も仰られていたけど、第三、第五公園に行く時は糞に気を付けるように。其処そこ彼処かしこに落ちているからな。それでは各班に敷布を配るから、班長は取りに来て」

 玲太郎は周りを見回して、人だかりの中から出易い方へ向かって歩いた。颯の傍に行くと、敷布の入った最後の手提げ袋を手渡される。

「ちょっと待て」

「うん?」

 颯は背嚢を肩から下ろして、かぶせの留め具を外し、中から帽子を取り出した。

「忘れていたろ?」

「ありがとう。忘れてたのよ」

 玲太郎は自分だけ被っていないのに、忘れた事に全く気付いていなかった。颯はヌトが退くのを見てから帽子を被せた。

「ありがとう」

「呉々も頼むぞ」

「解っておるわ」

 返事をしたのはヌトだった。玲太郎は颯に向かって微笑んだ。

「それじゃあ、公園の外には出ないようにな。出たら停学になるから気を付けろよ。余所見をして転ばないように。それでは行っていいぞ」

 生徒は班ごとに分かれて行く方向を話し合い、行き先へ向かった。玲太郎の班は残っていて、物凄く気まずい雰囲気となっていた。

「なんだ、まだ行かないのか?」

 颯がやって来て、玲太郎が颯を見て苦笑した。

「僕は第二公園に寄ってから第五公園に行きたいんだけど、第三公園に行きたい人と、第三公園に寄ってから第四公園に行きたい人と、無言が二人でどうにも出来ないんだよね」

「無言は誰と誰?」

「モンポーン君とロデルカ君」

「ふうん。モンポーン君は何処へ行きたいとか、希望はないのか?」

 モンポーンは頷くと颯を見上げた。

「僕はどこでもいいです」

「ロデルカ君は?」

「……僕もどこでもいいです」

 バハールは俯いたまま言うと、颯は思わず腕を組んだ。

「第三と第四と第五に行って、最終的に何処に行くかを決定すればいいんじゃないのか? 以前にも言ったけど、この時期は第三が一番花を咲かせていて、第五は羊を触らせて貰えるからなあ。写生をするのも好みの場所が分かれるだろうから、きちんと話し合いをするようにな。何処でもいいという意見は意見の内に入らないぞ。…で、モンポーンは何処へ行きたいんだ?」

 モンポーンはしばらく俯いていたが、また颯を見上げる。

「羊をさわりに行きたいです」

「それじゃあ第五だな。ロデルカ君は何処へ行きたい?」

「……」

 バハールは無言で俯いたままだった。

「玲太郎が弟に口を利かぬと言うておったから、萎れておるのはそれが原因ではなかろうか」

 見かねたヌトが言うと、颯は軽く溜息を吐いた。

「うん、解った。それじゃあ取り敢えずは四人で全て見て回ってから最終的に行く所を決定すればいいんじゃないか。ロデルカ君は先生と話すから、後で先生が責任を持って皆の所へ送り届けるよ」

「分かった。それじゃあ行くね。イノウエ先生、よろしくお願いします」

 玲太郎が言うと、第二公園へ向かって歩き出した。モンポーンは軽く辞儀をすると、玲太郎を追った。ダヒナーとミョビモカは顔を見合わせてから颯に辞儀をして、二人を追って行った。残されたバハールは俯いたままだった。

「其処にある縁台に座ろうか」

 バハールは颯が指を差した方に一瞥をくれると頷いた。二人は徐に縁台を目指して歩き出した。先にバハールが座り、横に荷物を置いた。颯は背嚢を背負ったままで座る。

「それで、何があったんだ?」

 優しく訊いたが、バハールは何も答えなかった。颯は知ってはいたが、穏やかに降り注ぐ日差しに目を細め、遠くを見ていた。時折吹く温かな風に癒されていると、バハールが漸く口を開いた。

「あの……、僕がミョビモカさんが嫌いで無視をしていたのです。それをポダギルグに注意されていたのですが、だからと言ってミョビモカさんと話す気になれなくて、態度を改めなかったのです。そうしたら今日、その態度のままなら口を利かないと言われて、それで……、どうすればよいのか分からなくなって……」

 颯はバハールの言う事に相槌を打ちながら聞いた。そして「うん」と頷いた。

「玲太郎と口を利かなくてもいいと思える程、ミョビモカさんが嫌いなのか?」

「……分かりません」

「それじゃあ何故ミョビモカさんが嫌いなんだ?」

 バハールは少し沈思した。

「……以前、食堂で突然話しかけられた時に、ポダギルグ以外と話してないようだけど、他に友達はいらないの? というような事を聞かれて、なぜかとても頭に来てしまって、それ以来嫌いです」

「成程、そうだったんだな。まあ、解らないでもないな。でも俺は、玲太郎と口を利かなくなるくらいに酷い事を言われた訳ではないと思うんだけど、ロデルカ君はそうではないんだろう?」

「……ポダギルグとは話したいと思うんですけど、今更ミョビモカさんと話すのが気まずくて……」

「ロデルカ君の態度の所為で、他の班員はその気まずさをずっと味わっていたんだと思うぞ」

「そう……ですね。そうかも知れません」

「まあ、潔くミョビモカさんに謝って、同じ班の間だけは対応する、みたいな事を言えばいいんじゃないのか。言わなくてもいいけど。玲太郎も嫌いな思いまで消せとは言っていないようだから、少し底意地が悪いけどそれでいいと思うなあ。ロデルカ君は、嫌いだから口を利かないっていう事が通用する身分だから、団体行動をする時以外はそうしていればいいんじゃないか? 団体行動の時は割り切って、その感情を抑える練習をして行こう、な? 下期は課外授業が一度だけあって、また嫌いな誰かと一緒の班になるかも知れないからな」

 そう言ってバハールの方に顔を向け、背中を優しく二度叩いた。

「少し考えてみます。ありがとうございます」

 バハールも颯に顔を向け、頬を緩めた。

「よし、それじゃあ皆の所へ向かいながら考えて、それで合流して、潔くミョビモカさんに謝罪な」

「はい」

 颯が先に立ち上ってバハールを見ると、バハールも荷物を持って立ち上がった。

「それじゃあ第二公園へ向かおうか。まだ到着していないようだから、直ぐに追い付けそうだな」

「はい」

 バハールは歩き出した颯の隣を歩いた。

「玲太郎は意外としつこいから気を付けろよ。うちの家系は執念深い奴が多いからな」

「そうなんですか。気を付けます」

 苦笑しながら言ったバハールは颯を一瞥した。

「先生は王族と近寄りたがらないのはなぜですか?」

「え、それは単純に嫌だからだよ」

「叙爵も拝領も嫌だったのですか?」

「そうだなあ、あれは突然の事で驚いたけど、全く嬉しくなかったんだよな。だから嫌だったんだろうと思うよ。まあ、この国に身を捧げる気もないからなあ。大公閣下と家族とウィシュヘンドの民の為なら何かを遣るだろうけどな」

「そうなのですね。先生は子供の頃、何になりたかったんですか?」

「子供の頃かあ。……うーん、何も考えていなかったんだよな。玲太郎が産まれて、勉強しながら兄貴と一緒に世話をして、それが続くんだと漠然と思っていたくらいで、これと思える物を見付けたのは覚醒してからだな。魔術騎士になろうかと思ったんだけど、騎士だと何処かのお抱えになるって事だから、それも進路を考えている内に気が変わって、魔剣士になって放浪しようかとも思ったんだよな。でも剣術は大公閣下の騎士隊やアメイルグ騎士団で練習が出来るから、学校で習う事もないと思ったら急に熱が冷めてしまって、取り敢えずじょう学校に通って、通学中に遣りたい事を探そうとして見付からなかったんだよ。卒業目前になると玲太郎が学校に通いたいって言い出したから、急いで教員免状を取る破目になって今に至っているんだよなあ。……簡単だけどこうして振り返ると、魔術騎士と魔剣士になりたいと思ったけど、それも一瞬だったな」

「そうなのですか。でも先生が魔剣士になったら、負けなしの最強剣士になっていますね」

「そうだな。俺の敵になり得るのは大公閣下と兄貴くらいだろうからな。その二人が身内にいるから、俺が頑張ったら世界一になれるな」

「ポダギルグは入らないんですか?」

「うん、入らない。玲太郎は争い事が嫌いだからな」

 颯は第二公園の中に足を踏み入れると、真っ直ぐ玲太郎達の方に向かって歩いて行った。

「端の方で屈んでいるから、採取をしているんだろうな」

 そう言うと足を止めた。

「俺は此処までだな。しっかりとミョビモカさんに謝罪するように。俺は他の生徒の様子も見て来るよ。それじゃあな」

「ありがとうございました」

 バハールが慌てて辞儀をすると、颯は笑顔で頷き、別の方向へ歩いて行った。その後姿を暫く見ていたバハールは深呼吸を二度して、四人のいる所へ向かった。

「やっぱりカオガンモドキだと思う? 絵にあるようにギザギザの葉っぱだし、僕はカオガンモドキだと思う」

 玲太郎が言うと、ミョビモカが首を横に振った。

「私にはカオガンにしか見えないけど……」

「私はカオガンモドキだと思う」

「僕はカオガンだと思う。葉っぱもそんなにギザギザに見えない」

 ダヒナーとモンポーンも意見を言うと、四人は紙に写して来たカオガンモドキとカオガンの絵と見比べている。

「そう? 葉っぱは波状じゃなくて、ギザギザに見えるけど……」

 玲太郎がカオガンの絵を見ながら言うと、否定した二人は首を傾げている。

「ただいま」

 にわかに声を掛けられて驚いた四人全員が声のする方に顔を向けた。

「あ、おかえり」

 玲太郎が真っ先に言う。バハールは直ぐに正面に顔を向けたミョビモカに視線を遣った。

「ミョビモカさん、無視してごめんなさい。それとポダギルグもごめんなさい。注意してくれていたのに、僕は僕の気持ちを優先してしまったよ。後、ダヒナーさんとモンポーン君も、班の空気を悪くしてごめんなさい」

 頭を下げると、玲太郎が満面の笑みを湛えた。

「そう、分かってくれたならそれでよいのよ」

 ミョビモカは申し訳なさそうな顔をしている。

「私も変な事を聞いてしまって、気を悪くさせてごめんなさい」

「ううん、あれ程度の事で嫌悪感を抱いてしまった僕が悪いのだよ。ごめんね」

 モンポーンが頷きながら見ているのを、玲太郎が見ていた。

「それじゃあディッチも、これがカオガンモドキか、カオガンか、意見を言ってもらえる?」

「うん、分かった」

 笑顔で答えると空いている所へ行き、屈み込んだ。


 颯の命を狙っている人物にとって、今日は絶好の機会だった。正面を切って入ろうにも、厳しい検問を掻い潜る事が出来ない。学院のある丘の麓には等間隔で人が常時配備されていて、入る隙が丸でない。上空から行くにしても見付かってしまう事を想像が容易に出来、居場所を把握しても辿り着く事は難しいと判断していた。しかし場所が場所だけに、観覧者として紛れる事が出来る。この機を逃す筈もなかった。

 黄土色の髪を脱色して金髪にした上に帽子を被り、色眼鏡を掛け、膝丈はあるかれ色で薄手の外套を着て体格の良さを隠し、颯に有効な人質として玲太郎をさらうべく、玲太郎を探していた。珍しい黒髪の為、捜し易い筈だったのだが、生徒はどの子も帽子を被っていて、捜し難い事この上なかった。

(ナルアーもクビになって、情報をくれる奴もいなくなってしまった所為でこんな事になってしまった。本来なら、俺が学院で隙を突いて痛めつける筈だったんだが、こうなってしまってはそれだけでは済ません。大精霊の寵児だかなんだか知らんがイノウエを必ず殺すまでよ。あいつを殺せるなら、死んでも構わない。俺に失う物は何もないんだからな。しかしナルアーが送って来た魔力を抑え込むあの紙切れがあれば、俺とてイノウエに勝てる。ナルアーが何故あのような物を持っているのかはさて置き、イノウエに会う前にウィシュヘンドを人質に取って万全を期せば、あれの効果も如何なく発揮出来る)

 妙な自信に満ち溢れ、玲太郎を探し続けた。第一公園から第二公園、第四公園、第三公園と回り、少し離れた第五へ向かっていた。

「動くな」

 不意に声を掛けられて立ち止まった。颯の声だった。

(いつの間に……?)

 思わず振り返ると颯が立っていた。

「動くなと行ったのに、何故動く? バゴキーは阿呆なんだな」

(近い。これなら手を伸ばせば当たる!)

「目上の者を呼び捨てにするとは、どんな教育を受けて来たんだ?」

 そう言いながら外套の衣嚢に手を突っ込んだ。

「動くなと言っただろうが。耳が悪いのか? まあ、頭が悪いのは確かだろうけどな」

 颯は冷然としていて、それを見たバゴキーは苛立ったが、動こうにも動けなくなってしまい、焦りが表情に出ていた。

「動けないだろう? お前はこのまま拘束させて貰うわ。その手に持っている物も気になるからな」

「何故だ? 何故俺がここにいる事が分かったんだ?」

「王弟殿下がお出でになるんだぞ? 警戒を強めるのが当たり前だろう? お前が来ている事くらい把握済みだったんだよ。誰かを捜しているようだったが、見付かったか? あ、そうそう、因みに国王陛下直属の王宮騎士団も来ているけど、アメイルグ騎士団も参加しているからな」

 バゴキーは颯を睨み付けている。

「……だからどうした?」

「家でお前の身柄を拘束するって事だよ。お前の命は有効活用させて貰うって事な」

「は? 俺はここに偶然遊びに来ただけだぞ。だから解放しろよ」

「ふうん? そうなんだ」

 バゴキーが衣嚢に突っ込んでいる方の腕を上げて、衣嚢から手を出すと、持っていた紙を取った。それを広げて見る。

「これは? 図柄が描いてあるが、これと似たような物を何処かで見たなあ。……いい土産が出来たわ」

 紙を畳んで上着の衣嚢に入れ、次はズボンの衣嚢から小さな容器を出した。その蓋を開けると中の音石の一個を操作した。

「颯だけど不審者を拘束した。直ぐに近い所からさん人寄越して」

 また音石に触れると蓋を閉め、ズボンの衣嚢に戻した。

「何か言いたい事でもあるか? お迎えが来るまでは聞いて遣るよ」

「学院をクビにされた後、何故かどこも雇ってくれる所がなくて物凄く恨んでるよ。はらわたを腐らせて死ね!」

 バゴキーは顔を歪ませ、憎しみを籠めて言い放った。颯は動じず、笑顔で頷いた。

「解った。それじゃあお望み通り、腸を腐らせて死なせて遣るよ。楽しみにしておけ」

 私服を着た男が三人と女が一人遣って来ると、颯は上着の衣嚢から出した紙を一人の男に渡した。男はそれを受け取る。バゴキーはまだ自身の体を自由に動かせない。

「ただの紙切れだぞ。見ても意味のない物だ」

 男は畳まれているそれを広げた。何かの図柄が描かれていたが、それが何を意味するのかまでは判る筈もなかった。しかし、見覚えはあった。

「これはこれは……。成程」

 一人納得をすると紙を畳み、もう一人の男にその紙を差し出した。それを見た颯が口を開く。

「それは畳んだまま扱うように」

「畏まりました」

 二人の男がバゴキーの手を後ろ手にして両手首を帯で縛った。

「ハヤテ様、それでは我々は失礼します」

「腸を腐らせて死にたいらしいから、俺が薬を配合するって兄貴に言っておいて」

「畏まりました」

 バゴキーは声を上げようとしたが、声を発する事が出来ずに口を開閉するだけだった。

「ほら、歩け」

 背を押され、バゴキーは歩き出した。一人が先に歩き、二人はバゴキーの腕を組んで、紅一点の一人は後ろに付いてその場を去って行った。颯はそれを見送る事もなく、第五公園へ向かって歩いた。


 その頃、第五公園で写生をしていた玲太郎は、ズボンの衣嚢に入れている懐中時計を見た。まだ十三時半で、集合までに一時間以上もあった。

 第五公園は思っていた以上に花々が咲き乱れ、羊もいて写生の題材には事欠かず、山から吹き下ろす風が心地好くて居心地が抜群に良かった事もあって、五人は二台の縁台に分かれて座り、写生をしていた。

 玲太郎は背嚢から水筒を取り出すと喉を潤した。

「今日はお天気がよいせいか、意外と暑いね」

「うん」

 モンポーンは返事をすると鞄の中から水筒を取り出した。バハールは集中しているのか、一所懸命に写生をしている。玲太郎は帽子を脱いで、日差しを浴びた。

「本当にお天気がよいねぇ……」

「うん。僕、ちょっと歩いて来る」

 モンポーンが鞄に水筒を入れながら言うと、玲太郎はモンポーンを見た。

「気を付けてね」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 第五公園は何故だか不人気で、生徒は殆どいなかった。お陰で縁台に座れたし、羊の糞を回避する事も余裕で出来て幸運だった。

 モンポーンは公園の縁を歩き、時々足を止めて羊を眺めているようだった。玲太郎は手に持っていた水筒に再度口を付けて茶を二口飲んだ。それから蓋をすると背嚢に入れ、帽子を被って描いている途中の絵に取り掛かった。

 気が付くと、いつの間にかモンポーンが戻って来ていて写生をしていた。

「もう描き終えたのか?」

 ヌトが訊いて来て、玲太郎は無言で首を小さく横に振った。

「それにしても今日は天気がよいから、眠うて仕方のうて仕方のうて……」

 玲太郎はそういうヌトを見て微笑んだ。ヌトは横たわって浮いていて、それがとても気持ちよさそうに見えた。それから又集中して描いていた。


「どうだ? 順調に描けているか? もう直ぐ昼食の時間だぞ」

 俄に後ろから颯の声がして玲太郎は笑顔になって振り返った。颯は玲太郎の手元を覗き込む。

「また細かく描いているんだな。時間が足りなくなるぞ」

「大丈夫」

「その細かさなら二枚目か?」

「ううん、これは三枚目ね。これが終わったら切り上げるつもりなのよ」

「そうなんだな。それじゃあ描けている内の一枚を見せて貰ってもいいか?」

「うん、よいよ。少し待ってね」

 帳面を一回り大きくした大きさの画板に挟んである画用紙一枚を取り、それを差し出した。

「どれどれ?」

 受け取った画用紙を颯が見る。

「羊を描いたのか。花かと思っていたのに外れたなあ」

「羊だけだと寂しいから木も描いたのよ。でもどうせ提出するんだから、その時に見て欲しかったなぁ」

「それは悪かったな。どうしても見たかったもんだから。もう一枚は楽しみにしておくよ。有難う」

 画用紙を渡すと、玲太郎は描き掛けの画用紙の下に挟んだ。背嚢から鉛筆入れを出すと鉛筆を入れ、画板も鉛筆入れと一緒に背嚢に入れた。

「そろそろ食堂に向かった方がよいの?」

「そうだな」

 それを聞いたモンポーンも鞄に片付け始めた。バハールは一人集中していて、聞いていないようだった。バハールを見ている颯を見た玲太郎も、バハールへ視線を移す。

「ディッチ、そろそろ昼食の時間だって」

 真ん中に座っていたモンポーンがバハールの肩を叩いた。するとバハールが顔を上げる。

「ん? 何?」

「もうすぐ昼食だって」

 モンポーンが言うと、玲太郎が頷いた。

「此処からだとそろそろ食堂へ向かった方がいいぞ」

 後ろから颯の声がして、バハールが驚いた。そして颯の方に振り返る。

「集中していたんだな。悪いけど、昼食が迫ってるから一旦終えるようにな」

「はい、分かりました」

 頷いて返事をすると片付け始めた。颯はダヒナーとミョビモカの方へ行き、同様に声を掛けた。第五公園にいるカンタロッダ下学院の生徒は玲太郎達だけとなっていて、颯は直ぐに第四公園へと向かった。五人は颯を追うように歩を進めた。颯は第四公園へ入って行くと、組に関係なく残っている生徒に声を掛け始めた。玲太郎はそれを横目に見て第一公園の傍にある食堂へ向かった。

「ルウ=チー、後何枚描けそう?」

「昼食後に一時間だったよね。多分描きかけを描き上げて、もう一枚描けるかどうかだと思う。ノスホは今の所、何枚描けてるの?」

「私は七枚目の途中だから、食後にそれと後二枚描けたらと思ってる」

「早いねぇ」

「そんなに細かく描いてないし、画用紙も帳面ほどの大きさだからね」

「私は五枚目だから、ノスホが二枚も多いよ」

「後で見せっこしようか」

「そうだね。でも私はそんなにうまくないよ?」

「私だって同じよ」

 女子のたわいない会話が聞こえてくる。玲太郎は遊歩道を歩きながら、公園の随所に咲いている花に目を遣ったり、若葉が眩しい低木に目を遣ったりしていた。

「ポダギルグ、今何時?」

 玲太郎はズボンの衣嚢から懐中時計を取り出す。

「十四時二十分になってないくらい」

「ありがとう」

「第一公園から第五公園まで約十五分って、前にもらったマレトット公園の折り畳みちらしに書いてあったから、四十分までには着くと思うよ」

「そうだね、多分大丈夫だね」

「まだやってる子もいるもんね」

 モンポーンはその会話を頷きながら聞いていた。

「所で、ポダギルグは何を描いたの?」

「僕? 僕は一枚は羊と木で、もう一枚は羊達と山、もう一枚は牧童さんと羊」

「羊を必ず描いているんだね」

「うん。羊を見るのが初めてだからね。触らせてもらったけど、あの毛が毛糸になるんだね。思ってたよりも触り心地が良かったのよ」

「それは僕も同じだよ。目が怖かったけど、毛はふかふかだったね」

「それで、ディッチは何を描いたの?」

「一枚目は羊、二枚目は牧童、三枚目は背の高い木、四枚目は背の低い木、五枚目は足元にあった雑草、六枚目は見えている景色の全体を描いている所」

「六枚! 凄いねぇ。モンポーン君は何を描いたの?」

「羊を八枚描いた。九枚目も羊を描いてる」

「え、羊だけなの?」

「そうだよ。向きが違う羊だからね」

「そうなんだ」

「羊のあの目がかわいい」

「まつ毛も長いよね」

「うん、ウィシュヘンド君みたい」

 モンポーンの何気ない一言に玲太郎は苦笑した。

「僕より長かったと思うよ」

「それにしても、羊は近くに行っても逃げないし、意外と寄って来てくれるよね」

 バハールが意図的になのか、話題を変えて来た。

「ああ、うん、そうだね。人に慣れてるよね」

「触らせてもらえるから、もっと人が来るかと思ったけど、全然来なかったね」

「僕達を入れて五班だったからね。そのまま残ったのは三班だね」

「ポダギルグは数えていたの?」

 玲太郎は頷いた。

「うん、数えてた。本当に人がいなかったからね。花が少ないからかな? 第五公園もよい場所だと思うんだけどなぁ……」

「途中で引っ掛かって最後までたどり着かなかったんだろうね」

「第五公園が一番良かった……」

 モンポーンがそう呟くと、玲太郎が笑顔で頷いた。

「そうだよね、僕も第五公園が一番良かったのよ」

 バハールは笑顔の玲太郎を横目に見ると、何度も頷いているモンポーンも見て、複雑な心境になった。


 この日はバゴキーの来襲以外は何事も起こらず、無事に学院へ帰って来られたが、颯には気になる事があった。帰路に就いたその道中で気になる人物を見た気がしたからだった。

 遠足から戻って直ぐに間食時間になっていたのだが、生徒はそちらへ直行するか、教室で時間を潰すかに分かれていた。玲太郎はいつもの如く、教室で時間を潰していた。

 今日は遠足という事で、明良は休日となっていて学院には来ていなかった。颯は寮長室へ行き、イノウエ邸の玄関広間へ瞬間移動すると明良の気配を見付け、そこへ足早に向かった。一階の南棟の西側にある執務室の扉を二度叩く。

「俺」

「どうぞ」

 颯は開扉して中に入ると閉扉する。壁は白く、玲太郎が描いた耳飾りの図案の一部を灰金製の額縁に入れられて飾られていた。颯の右手側に一人掛けの椅子が六脚、長机を囲むように置かれ、左手側に執務机があり、颯は明良がいる左へと行く。

「先程は有難う。ナルアーも捕縛出来たよ」

「見間違いかと思ったけど、本人だったんだな?」

「私が直接見て来たから間違いないよ。今、此方こちらに護送中だからね。水伯に頼んでツェーニブゼルにある何処かの施設でも借りようかと思ったのだけれど、颯がバゴキーの腸を腐らせると言うから、此方まで送らせる事にしたよ」

「有難う」

「本当に遣るの?」

「遣る。それよりも、ナルアーは何故いたんだ?」

「ナルアーね。何故だろうね? 取り敢えず持っていた物は全て私が持ち帰って来たのだけれど、ナルアーが何を考えていたのか、私には皆目理解が出来ないよ。白状させるしかないね」

「持っていた物を見せて貰ってもいいか?」

「この箱の中だよ」

 明良は執務机の上にあった箱を持ち上げると、颯の方に置いた。

「有難う」

「自白薬の被検体が手に入って、私としては良かったよ」

 颯が箱を自分の手前に持って来て、入っている物を検めた。

「バゴキーにも使うのか?」

 財布を手に取って中を見ると、直ぐに戻した。

「無論。被検体は有意義に利用しなくてはね」

「バゴキーの方も直接見に行ったのか?」

 またここでも紙を折り畳んだ物があり、それを手にすると広げる。

「行っていないよ。颯が直接捕縛したから行く必要ないもの」

「ふうん、そうなんだな。この図柄、バゴキーも持っていた物だな」

「そうなの? これは一体何に使用するのか、どういう風に使用するのか、判らないのだよね。呪いの類の可能性もあるから、ルニリナ先生に見て貰いたいのだけれどどうだろう?」

 そう言いながら手を差し出して、颯から紙を受け取ると改めて図柄を見ている。

「呪い…なんだろうか? バゴキーが俺を見た途端に外套の衣嚢に手を突っ込んで、これを取ろうとしていたんだよな」

「……という事は、颯に使用する積りだった訳だね。それだと颯を襲った生徒と同じ状況だけれど、あれとは図柄が違うものね」

「うーん、俺に使う積りだったんだろうけど、バゴキーに白状させた方が確実だなあ。クイザの持っていた図柄は水伯にもニーティにも判らなかったから、バゴキーと一応ナルアーにも見せて訊いた方がいいかもな。まあ、バゴキーに見せても判らなそうだけど……」

「私もバゴキーに訊いた所で有益な情報が得られるとは思えないのだけれど、彼にも念の為に見せて訊いてみる事にしよう」

 明良は紙を畳んで机に置いた。颯が手を逃してそれを取るとズボンの衣嚢に入れた。

「これは預かるわ。ニーティに見て貰って来る」

「うん、宜しく」

 颯は箱の中にある物をまた検め始めた。財布と紙以外にあった物は、手巾、妙な模様が刻まれた木札、音石入れだけだった。

「この木札はお守りか?」

「どうだろう? それも判らないから本人に訊くよ。それとも模様を写すなり、複製するなりして、ルニリナ先生に見て貰う?」

「一応そうしようか。……それにしても荷物が少ないな。本当に勘当されたのか?」

 颯はそう言いながら掌に収まる程度の紙が顕現すると、そこに模様を念写した。木札の模様を見て、紙の模様を確認すると頷いてズボンの衣嚢に入れた。

「そういう情報だけれどね。何処か近い所に泊まっている可能性もあるから、ツェーニブゼル近辺の地域にも捜査の手を広げるよ。それにつけても……」

 俄に明良が真剣な面持ちになる。颯は少し身構える。

「何?」

「玲太郎が写生している筈だけれど、それは私が貰ってもよいのだよね?」

「欲しいんなら玲太郎に訊けよ。提出物だけど本人に返すからな」

「そうなのだね。解った。それで何を描いていたの?」

「一枚は羊と木と、もう一枚は描き掛けで背景が山に、羊も描いていたと思う。もう一枚あるって言っていたけど、それはまだ見ていないな」

「植物だけではないのだね」

「うん、植物少な目で羊のいる公園にいたからな」

「成程」

「まあ、絵は水伯も欲しがると思うから、二人でどれを貰うか決めろよな。三枚あるから余った物を俺が貰うわ」

 明良が珍しく颯しかいないのに表情を変え、目を丸くしていた。

「え、颯もいるの? ……それにしても水伯も欲しがるの? いらないのではないの?」

「そりゃ訊いてみないとな。多分欲しがると思うぞ」

 明良は些か眉を寄せた。そんな明良を見て、颯は苦笑した。

「それじゃあ学院に戻るわ」

「ああ、うん。ご苦労だったね」

「じゃあな」

 軽く挙手をして瞬間移動で寮長室へ戻った。そしてズボンの衣嚢から紙を取り出して広げ、用途の判らない図柄を眺めた。


 女子寮と男子寮の間にある中庭の高木の花が満開を迎えている事もあって、置かれている縁台に座ってそれを眺めている女子生徒が多かった。風に乗って爽やかな香りを運んでくる。玲太郎はその香りを嗅ぎ、思わず頬が緩んでしまう中、寮へ向かった。そして寮長室に戻ると靴を脱ぎ、服を着替え始めた。

「はぁー、なんか疲れたね」

「わしは眠い……」

「それはいつもじゃない」

「あの陽気の所為で眠いのよ……。玲太郎には解るまいて……」

「暖かいと言うよりも、少し暑かったくらいなのに、眠くなる訳なんてないのよ」

「わしはあれ程度が丁度よいのよ」

「ふうん……。でも眠らないでね? ヌトしかいないんだから、はーちゃんが戻るまでダメだよ?」

「解っておるわ……」

 そう言いながら颯の机に辿り着くと下りて寝転んだ。

「それにしても、あの我の強そうな子は受け身のようでいてそうではないな?」

「モンポーン君の事? そうだねぇ……、割と自分を持っているよね」

 玲太郎は背嚢を自分の机に下ろし、椅子に腰を掛けた。

「絵が物語っておったわ」

「へぇ、そんなのが分かるんだ? 凄いねぇ!」

「解らぬが言うてみただけよ」

「あのねぇ……」

 ヌトの方に顔を向けたがヌトの顔は見えなかった。

「しかし見事に羊だけ描いておったわ。一枚に一体ずつな。それ程までに羊が好きであったのか?」

「見てたの?」

「退屈であったからな」

 玲太郎は鼻で笑って苦笑する。

「弟の絵も見ておったが、細々こまごまとしておったわ。玲太郎も細々としておったが、弟も輪を掛けて凄かったぞ」

「へぇ、そうだったの。それなのに僕より多く描けているって凄いねぇ」

「玲太郎は端々も細々としておるが、弟は視点の辺りが細々としておって、端の方はそうでもなかったのであるがな」

「ふうん。そうなんだね」

「見てみたいと思わぬか?」

「思わない」

「ふむ……、玲太郎は存外冷めておるな」

「そう?」

「ま、よいわ。それでこれから何をするのよ?」

「どうしよう? うーん、……思い浮かばないから、少し横になろうかと思ってる」

 それを聞いたヌトが飛び起きた。

「何っ、わしには眠るなと言うておきながら、玲太郎は眠る気なのかっ」

「うん。少し疲れたなぁと思って……。ダメ?」

「それではわしも眠ってもよいな。起きたら起こせよ?」

 ヌトはそう言いながら颯の寝台へ行った。

「分かった。おやすみ」

 それを見ていた玲太郎は立ち上がると自分の寝台へ行き、脇に座って靴を脱ぐと掛け布団もそのままに寝転んだ。


 玲太郎が目を開けると、明良が玲太郎の椅子の向きを変えて座り、読書をしていた。

「あれ? あーちゃん、いつ来たの?」

 玲太郎の声を聞いて、笑顔を玲太郎の方に向けた。

「お早う。起きたのだね」

「あ、うん」

「私はつい先程来た所だよ」

 本を閉じて机に置くと、寝台の脇に座った。

「それにつけても、今日描いた絵の事なのだけれど、私が貰ってもよい?」

「え? 欲しいの?」

 上体を起こして明良の隣に座った。

「当然」

「ふうん……、まあよいけど、父上やはーちゃんにも聞いてね。欲しいって言ったら、ケンカしないで分けてね?」

「え、私だけにくれないの?」

「父上は欲しいって言いそうだからね。はーちゃんはどうか分からないけど……。あ、明日は丁度土の曜日だから、父上に聞けるね」

「三枚描いたのだろう? 颯から聞いているよ」

「いつの間に? そうなの、三枚描いたのよ。でも提出したから、戻って来るまで渡せないからね?」

「うん、それは解っているよ。はぁ……、独占する積りでいたのに、当てが外れて本当に残念だね」

「父上は、前から描いたら頂戴ねって言ってたからね」

「え、それは驚愕。そのような事を言っていたのだね」

「そうなのよ。だからあーちゃんだけじゃないのよ。ごめんね」

「解った。今度は諦めるよ」

 玲太郎は潔く引き下がった明良が意外で、顔を見上げた。

「それにつけても、今月誕生日があるけれど、何か欲しい物はある?」

「ない」

 即答した玲太郎を、苦笑しながら見た。

「本当に何もないの?」

「ない」

 満面の笑みを湛えている玲太郎を見て、明良も笑顔になる。

「解った。それでは食べ物にするね。何かは楽しみにしておいて」

「食べ物なら喜んで!」

 笑顔の玲太郎は靴を履いて寝台から下りると振り返った。

「顔を洗ってうがいをして来るね」

 明良も立ち上がる。

「それなら私も隣室へ行くよ。お茶を淹れて貰える?」

「うん、よいよ。少し待ってね」

 颯の寝台で眠るヌトを放置し、玲太郎は急いで、明良は徐に隣室へと向かった。


 颯が寮長室に戻って来たのはいつもより早い十九時だった。まだ明良がいて、玲太郎と二人して戻って来た颯を見ていた。明良は颯の椅子を玲太郎の傍に置いて座っている。

「おかえり」

「只今」

 颯は靴を履き替えると、寝台で寝ているヌトを見付けて苦笑する。

「あ、そうだった。はーちゃん、僕が描いた絵、いる? いらない?」

「うん? 兄貴から聞いていないのか? 俺は一枚貰う積りでいるけど」

「えっ、そうなの? あーちゃん……」

 玲太郎が眉をしかめて明良の方を見た。明良は戸惑う。

「ああ、そうだったね。颯も一枚欲しいと言っていたね」

「これで父上が欲しいって言ったら、一人一枚ずつで丁度よいのよ」

「そうなるな」

 颯が笑顔で言うと、玲太郎の寝台に腰を掛けた。

「兄貴は何時いつから此処にいるんだ?」

「私は十八時少し前からだね」

「ふうん……。それにしても今日はろく学年が残っていたのに、良く休めたな?」

「うん、公爵の仕事が忙しいから片付けたいと言ったらね」

「うーわ、それはずる休み……」

 玲太郎が顔を顰めて明良を見る。

「玲太郎がいないのに、何故私が学院に縛られなければならないの」

 この言には玲太郎も颯も苦笑するしかなかった。

「まあ、二人で話を続けてよ。俺は紅茶を飲んで来るわ」

「僕も欲しい。牛乳を入れるんだよね?」

「うん、入れるよ」

「それじゃあお願い」

「玲太郎が紅茶を淹れるか?」

「うん、やるやる!」

 はしゃいで立ち上がると、颯も立ち上がった。

「兄貴はいらないのか?」

「もう直ぐご飯だから遠慮しておくよ。でも私も其方そちらへ行くね」

 そう言って立ち上がると、玲太郎の跡を追った。最後に行くのは颯だった。

 明良は遣る事もないのに一緒に調理台の傍に立っていた。

「どうする? 牛乳を温めるか?」

「やるやる。今度は沸とうさせないように頑張るね」

 颯が鍋を出して来て焜炉こんろに置くと、玲太郎が冷蔵庫から牛乳が入った瓶を出して来て蓋を開け、鍋に注いだ。

「これくらい?」

「うん、まあ、少し多い気がするけどいいよ」

 瓶に蓋をして冷蔵庫に戻すと、焜炉の前に戻って来て火を点けた。

「これを一応渡しておくよ。膜が出来たら掬うんだぞ?」

「分かった」

 颯から匙を受け取ると、それで牛乳を掻き混ぜ始めた。二人の後ろ姿を恨めしそうに明良が見ている。

「湯が沸いたから、こっちは俺が入れるぞ?」

「うん、お願い」

 颯は明良の視線などお構いなしで、茶葉の入った茶器に湯を注ぎ、蓋をすると鉄瓶を鍋敷きに置いて、砂時計を引っ繰り返した。そして玲太郎の様子を窺いに焜炉前へ戻る。明良がまた恨めしそうに、二人の後ろ姿を見た。

「まだ?」

「玲太郎がまだだと思うなら、まだなんだろうな」

「えー、それは狡い」

「狡くないだろう? 玲太郎の判断に任せるって言っているだけなんだからな」

 玲太郎は牛乳を匙で掻き混ぜ、時折鍋肌に当てては音を立てていた。

「そんなに掻き回さなくてもいいぞ?」

「そう?」

 玲太郎は掻き回す手を止め、出来ていた膜を掬うと食べた。

「それじゃあもう匙は用済みだから頂戴」

 颯が手を出し、玲太郎は匙を渡した。すると即座に匙が消える。玲太郎は颯の手から、顔へと視線を移した。

「はーちゃんが顕現させた物でも、僕が消そうと思えば消せる?」

「消せる」

「本当?」

「練習を遣ってみるか?」

「うーん、練習を遣るなら、今は中型の魔石作りの方がよいね」

「そうだな。その方がいいな。それはさて置き、また目を離していると沸騰してしまうぞ?」

 鍋に視線を戻して、温まり具合を見た。

「もうよいと思う?」

「玲太郎がいいと思うなら、いいんじゃないのか?」

「またそれぇ?」

「俺に頼っていたら練習にならないだろう?」

「ふうん……」

 玲太郎は鍋を覗き込んで、首を傾げながらも焜炉の火を止めた。

「もうよい事にするのよ」

 そう言うと調理台の方へ行き、踏み台に上って茶葉の入った茶器の蓋を取った。徐に鍋を傾け、少しずつ牛乳を注ぐ。左手に持っていた蓋を戻して踏み台から下りようとすると、颯が後ろから鍋の取っ手を握った。

「俺が遣るからいいよ」

「ありがとう」

 取っ手から手を離すと、颯が持って行き、棚に片付けた。その動作を見ていた玲太郎は、立ち上がって振り返った颯と目が合った。

「僕も洗浄魔術を使いたいのよ」

「魔石作りが優先なんだろう? いずれは練習を遣ろうな」

「分かった」

 玲太郎は正面を向いた拍子に、恨めしそうに見ている明良が視界に入った。

「どうかしたの?」

 その表情に驚き、思わず明良に訊くと、明良は表情を明るくして首を横に振った。

「どうもしないよ」

「ふうん?」

 玲太郎は直ぐに視線を砂時計へと移す。砂が落ち切っていて、再度砂時計を引っ繰り返す。颯は棚から蜂蜜の入った瓶を持って来ると玲太郎の傍に置いた。

「玲太郎は先程もお茶を飲んだのに、お腹が水分で膨れないの?」

「うん? さっきは緑茶で言う程飲んでないのよ。それに今日は余り水分を取ってないから、まあよいかと思って」

「ああ、遠足だったものね」

「水筒の紅茶も飲み干した後、お代わりがなかったからね。お昼に飲んだ紅茶だけで、その後は間食するまで飲んでなかったのよ」

「水分は小まめに取らなければね」

「うん。だからさっきも飲んだけど、また飲むのよ」

 笑顔でそう言うと、明良も釣られて笑顔になっていた。颯は二人の会話を聞きながら、落ちる砂を見詰めていた。


 玲太郎はいつもより少し早目の二十四時七十分には夢の住人となっていた。ヌトと一緒に寝息を立てているのを暫く見ていた颯は、ノユと念話をしていた。

(兎に角、何時に戻って来られるかが判らないんだよ)

(解った、それでは気を付けてな。此方こちらの事は心配するな。ズヤもおるでな)

(うん、それじゃあ宜しく頼む)

 颯はノユが動き出した気配を感知すると瞬間移動でイノウエ邸へ到着した。それから明良の気配を探る。明良は少し離れた施設の中にいるようだった。颯はその施設の玄関広間に瞬間移動をすると、明良の気配と、もう一つの気配がある所へ向かった。気配が二つある部屋に来ると開扉した。薬草棚が幾つも並ぶ中、机の奥に座ったバゴキーがいた。明良は薬草棚の前にいて、薬草を選んでいるようだった。

「来たぞ」

 そう言いながら閉扉し、明良の方に歩み寄る。明良は一瞥してから薬草を配合をしている。

「少し早いのではないの?」

「もう寝たからな。遠足で疲れていたんだろう」

「成程。内臓を腐らせ、且つ死に至らす事が可能かどうかは判らないけれど、近い症状を出せる薬草は用意しておいたよ」

 そう言うと机の方に視線を遣ると、颯もそれを追って机の方を見た。

「それは有難う。内臓を傷付けて軽い毒で侵してみるよ」

「それはよいのだけれど、その前に自白をさせなくてはね」

「うん、解ってる」

 目隠しをされているバゴキーは、一部始終を聞かされ、口を開閉させていたが、猿ぐつわも噛まされている所為で声を出す事も出来なかった。

「よし、出来た。これを基礎にして色々と試してみよう。少しでも脳を壊さないように改良出来ていればよいのだけれど……」

 明良の傍に小さな水の玉が浮かんでいる。その中に細かく刻まれた薬草が入っていて、徐々に色味を帯びて行く。

「バゴキー、舌を噛み切っても直ぐに治すから、痛い思いをするだけで意味はない事を理解しておけよ」

 颯がそう言うと猿轡が解け、宙に浮いていた。バゴキーは口を開閉していたが、声の出る気配がなかった。

「ああ、手首を縛っている帯に仕込んである物の所為か……」

 次に手首を拘束している帯を外した。

「腸を腐らせて死ぬのはお前等だー!!」

 バゴキーが元気良く絶叫したのを見て、颯は微笑んでいた。

「遣れない事を言うなよ」

「元気があって宜しい。まだ十分に抽出は出来ていないのだけれど、このまま口に入れよう」

 明良が言うと、バゴキーの顔が上を向き、大口が開いて、その中に水の玉が吸い込まれて行った。

「あえ…、あえお!」

「声を出されると中に入って行かないから、止めて欲しいのだけれどね……」

 バゴキーは声が出なくなり、口に入って来た液体が喉を通って行くのを感じた。

「カヘッ、ゴホッ、おえっ……。何を飲ませた!? 出せよ!!」

「何と訊かれても、先程の会話を聞いていたのだろう? それならば自白薬だと判っている筈なのだけれど、一々聞くとは……阿呆なの?」

「何もっ、何も話さないぞ……」

 鋭い目付きで明良を睨み付けたが、明良はいつもの無表情だった。

「うん。今の自白薬が効かなければ、また違う物を用意するからね。最終的にはお前もご存じの自白薬の出番になるのだけれどね」

「薬草の効果が出るまで少し掛かりそうだから、好きなだけ喚いていていいぞ」

 それを聞いたバゴキーは無言になった。明良は配合を続けていて、颯も何かを配合し始めた。暫くすると、明良が椅子を出してバゴキーの前に座った。

「そろそろよいだろうか?」

 バゴキーは明良を睨み付ける。

「何が?」

「お話しして貰える?」

「何を?」

 明良は服の胸に付いている衣嚢から紙を取り出し、それを広げてバゴキーに見せた。

「この図柄が一体何か、どのように使用するのか、教えて貰える?」

「……それは魔力を封印する物だ。模様の描かれている方を相手に着けると、あーら不思議、魔術が使えなくなる。クックックッ……。嘘だと思うだろ? 俺も試したよ、自分で。そしたら確かに使えなくなったから本物だと分かって持っていたんだよ」

 明良が颯を見ると、颯が手を差し出した。明良は紙を渡すと、颯は言っていた通りに図柄が描かれた方を自分に当てた。するとバゴキーの頬が切れ、血が滴り落ちた。

「痛い! なんだ!? 急に痛くなったぞ!」

ごみさえずるなよ……」

 嘘を吐かれたと判断した明良が呟いた。

「どうも精神への作用が弱い自白薬だと嘘を吐けるようだね……。今飲ませた物が、更に強力になるように用意しておいた物を飲ませるとしようか」

 先程用意していた薬草の粉末を、水の玉の中に入れて抽出し始めた。

「まあ、俺には難なく使えたから、これの効果がないか、嘘を吐いてるかになるよな、うん」

「嘘は吐いてない! だからこの痛みを和らげてくれよ!」

 悲痛に満ちたその表情を見て、颯は紙を体に当てたままで治癒術を使った。バゴキーの傷が塞がり、頬が血で汚れているのみとなった。

「うん、使えるね」

 明良が頷いて紙を折り畳んだ。

「やはり大精霊の寵児だな。俺ではそうも行かなかったのに……」

「話を変えるか。以前、職員朝礼で俺を詰った後、誰かに何かを書かれた紙を貰っただろう? 誰に貰って、紙にはなんて書いてあったんだ?」

「……ナルアーだよ。「イノウエに仕返しがしたければ、連絡を寄越せ」と書かれていた。後は大衆音石の番号だ。だからわざわざ音石を買って連絡した」

「ふうん……」

 颯は明良を見る。

「兄貴、自白薬は効いているぞ?」

「そう? 折角もう一段強くなるように用意したのだけれど……」

 颯がまたバゴキーに視線を移す。バゴキーは俯いていた。

「音石を買って連絡をして、それで何を話したんだ?」

「……ナルアーが、イノウエの体が欲しいから、仕返しはしても体に傷は付けるな、と。俺はイノウエがをどうしても殺したかったから、ウィシュヘンドを狙う事にした。ウィシュヘンドを人質にしてお前を殺そうと思い、マレトット公園へ行ったのに……。クソ! ウィシュヘンドがいないせいで捕まってしまった! クソ! クソッ!」

 その様子を見ていた颯は腕を組んで眉を寄せていた。

「これは観念して話しているだけか?」

「そうだろうね? それではそろそろ質問の時間に移ろうか。今からする質問に全て、はいと答えるように」

 そう言うと五十問全てにバゴキーは「はい」とは答え、その直後に顔が上を向き、口が大きく開くと、薬草を抽出した水の玉を流し込んだ。

「それでは、また暫くそのままにしておこうか」

「解った」

 颯が頷いた。バゴキーは顔の自由が利くようになり、また俯いていた。

「へっ、これ以上話す事なんてない。知っている事は全部話したからな……」

「全部は話していないだろう? 話し切ってからそう言えよ。本当に阿呆だな」

 不快そうに颯が言うと、バゴキーは沈黙した。

「さて、誰がマレトット公園へ遠足に行く事を教えたのか、話すだろうか?」

「それも気になるけれど、私は腸を腐らせて死ねというのが気になるのだよね。普通、このような事を考える物なの?」

「犯罪者の思考を普通の思考と一緒にしてはいけないと思う」

「成程、一理あるね」

 そう言うと立ち上がり、また薬草棚の前へ行くと抽斗ひきだしを開けて薬草を取り出し始めた。

「この際だから、精神をむしばんでもよいと考えて、徐々に薬効を強くして行こう」

 些か明良の声が弾んでいるように聞こえた颯は机の方へ行き、薬草を手に取って見始めた。


 被検体を入れ替え、明良はバゴキーで使っていた物に改良を加え、新たに配合した物を抽出していた。水の玉が五つ浮いて色を帯びて来ている。

「また精神への作用が弱い物から順に強くして行く積り、なのだけれど、猿轡を解くとしようか」

 椅子に座っている明良が言うと、ナルアーの猿轡が取れて宙に浮いていた。ナルアーの顔が上に向けられ、大口が開くと水の玉が口の中へと入って行く。全てが胃へ落ちたのか、ナルアーが顔を動かして、明良の後ろに立っている颯を見た。

「何故私を見付けた時、私の所へ来なかった!? その所為で計画が全て台なしになってしまったではないか!」

 その形相に、颯は笑うしかなかった。

「何もおかしくはない! 笑うな!!」

「あーっはっはははははは……、あー、悪い、はーっ……、腹が痛いわ。いやあ、参ったな」

 腹に手を遣って笑い終えた颯は、右手で涙を拭っていた。明良が振り返る。

「今度はバゴキーの時のように弱過ぎないからね」

「ああ、そうなんだ。解った。それじゃあ割と答えて貰えそうだな」

「少し時間を置いた方がよいと思う」

「うん、解った」

「時間など置かなくてよい。大精霊の寵児と謳われていた癖に、大精霊らしき物を感じないお前達は詐欺師か? ウィシュヘンド公爵の息子の間違いだろう? 教えろよ」

「何故教えなければならないんだ?」

「私はもう殺されるのだから、教えてくれてもよいではないか」

「殺しはしないが、色々な物を奪って最北の農園で農奴として働いて貰う積りではいるからなあ。それはさて置き、大精霊の寵児は確かに兄貴と俺の事だよ。玲太郎には俺が貸しているだけなんだけどな」

「……アメイルグ公爵はいないではないか」

「兄貴が嫌いで追い返したからな。これで満足だろう? それよりも、お前はその大精霊を見る事が出来るのか?」

「精霊のまなこではないから出来る訳がない。だが、感じ取る事は出来る。ルニリナにもいる筈だ。会った当初はいなかったが、いつの間にか巨大な力を持つ精霊を一体か二体連れている時がある。そうだろう? ウィシュヘンド公爵の息子は一体なのに、何故ルニリナが二体なのだ?」

「あのな、質問するのは俺達で、お前が答える側なんだよ。解る?」

「ナルアーは私達の力がどれ程の物なのか、それは判らないようだね」

 明良が颯を見て言うと、ナルアーが頷いた、

「それは判らない。でも傍にいる者の力が大きければ感じ取れる」

 明良は訊いた訳ではなかったのにも拘らず、ナルアーに答えられてしまい、些か苛立った。

「それはさて置き、俺の体を無傷で手に入れようと思ったのは何故なんだ?」

「バハール殿下のお傍に仕える為、私がお前の体を乗っ取ろうと思ったからだ」

 颯は何を言っているのか、理解が及ばなかった。呆気に取られていると、明良が些か眉を寄せた。

「私がお前の体を乗っ取ろうと…とは、魂を入れ替えるすべがあるとでも言うの?」

「ある。私はその術を手に入れた」

「嘘だろう? そんな事、出来る訳ないだろう」

 颯が怪訝そうに言った。ナルアーは声を上げて笑った。颯はナルアーの声が出ないようにすると、ナルアーは顔を顰めて口を開閉した。

「兄貴、自白薬はまだ効いて来ないのか?」

「まだだね。即効性ではある筈なのだけれど、其処まで早くはないようだね」

「ふうん、そうなんだな」

「このままもう少し待とうか」

「うん、解った」

 ナルアーが上体を左右に揺らしながら、何かを話していたが、声が聞こえない為、二人は視線を逸らしてそのまま放置していた。

「そろそろいいか?」

「よいと思うよ」

 明良の返事を聞いて、俯いているナルアーに掛けていた魔術を解いた。ナルアーは魔術を解かれた事に気付かないのか、無言のままだった。

「おい、ナルアー。聞こえているか?」

「……聞こえている」

 颯は明良と目を合わせると、明良が頷き、俯いているナルアーに視線を戻す。

「では質問をしよう。先程の、体を乗っ取る術に就いてなのだけれど、どう遣るのかを答えて貰える?」

「……ある施設に連れて行けば出来ると言われた。俺がイノウエを連れて行けば教えて貰えるはずだったが、もう教えて貰えなくなった……」

「誰に言われたの?」

「……誰……だったか、……ジュヤという女の秘書だ。名はなんと言ったか……、な……、に? いや、ニアーだったか……。そう、ニアーだった」

「何じんだ?」

「…し、朔有しょうよう人だと言っていた」

「ジュヤとニアーとは何度会った?」

「……ジュヤとは一度、ニアーとは三度だったと思う。後は手紙での遣り取りで、決まった民家に取りに行っていた」

「民家とは何処にある?」

「……私の従者が行っていて、私には判らない」

「その従者は何処にいる?」

「……王都の屋敷、……父上に解雇をされていなければいると思う」

「名前は?」

「……シュリーディ・マフス・ウミズハン」

 言い終えると、明良がナルアーを見た。

「それでは今からする質問に全て、はいと答えるようにね」

 ナルアーはそれにも「はい」と応えていた。

 それが終わった途端にナルアーの顔が上を向き、口を大きく開けた。明良は待機させていた水の玉を一つ、口の中に入れた。少しするとナルアーはまた俯いた。

「もう一度同じ質問を初めからね」

「それじゃあ少し待ってからだな?」

「そうなるね」

 明良は立ち上がって薬草棚の方へ行き、薬草を選び出した。颯はそれを一瞥すると、自白薬の効きが甘いナルアーを見据えた。


 結局、自白薬を六段階に分けて試験し、最終的にはバゴキー同様、既存の自白薬を使用した。その結果に明良は珍しく颯にも良く判る程に眉を顰めていた。

「最初の物は全く駄目、二番目は三割程度、三番目は六割、四番目は変わりなし、五番目は七割、六番目は八割、と使い物にならない事が判明した。やはり精神面に影響を及ぼすであろう物でなければならないのならば、既存の自白薬を使用した方が手っ取り早いね」

「薬草の適当な配分を見付け出すより、魔術を改良してみたら? 兄貴なら出来そうだけど」

「言うは易く行うは難し、だね」

「水伯は難なく遣っていそうな気がするから、今度訊いてみたら?」

「うん、そうだね。それがよいかも知れない。それにつけても、薬草はもっと視野を広げて色々試行しようと思う」

 颯は目を丸くして明良を見た。

「え、まだ遣る気なのかよ?」

「無論だね。これ程度で諦めてどうするの。当分はバゴキーが潰れるまで何度でも遣るよ。だから始末はまだしないようにね」

「然様で御座いますか。…まあ、バゴキーは玲太郎を傷付けなかったけど、傷付けようとしたから同情の余地はないし、好きにしていいけどな」

「言われずとも」

「それにしても朔有じゃなくて、ごうの方だったとはなあ……。兄貴の所に来ていた和伍の女の件と繋がっている可能性も出て来たな」

「繋がっているとよいのだけれどね。違っていたら、恒の二つの組織から狙われている事になってしまうものね」

「そうだな。それから某スオークを調べないとな」

「コンラサルビ・ダンジャー・スオークね。従者だと言っていたけれど、スオーク姓に覚えがないのだよね。シュリーディ・マフス・ウミズハンはナルアー家の執事だから、確実に実在はするのだけれど」

「そうなのか。それじゃあスオークが猛烈に臭くなるじゃないか」

「スオークの周囲の探索を急いだ方がよいね」

「そうだな。……となると、ジュヤとニアーは実名だろうか? これも怪しいよなあ」

「偽名だと思うのだけれど、調べてみない事には、ね」

 そう言った明良は項垂れて脱力し切っているナルアーを眺めた。

「もっと有益な情報を持っているのかと思っていたのだけれど、思い違いだった事が悲しいよ」

 また颯に視線を戻す。

「こいつも利用されただけの末端って事なんだろうな。俺はチルチオ教繋がりで、クイザと繋がっていると思っていたんだけど、違った事が意外だったわ」

「そう言えばクイザの母親がチルチオ教だったね。父親は私達の伯父一家を殺害、母親はチルチオ教徒だけれど、殺害達成で支払われたお金はチルチオ教に吸い取られていたから、クイザは末端中の末端なのだろうね。ナルアーはチルチオ教徒の待望派で王弟殿下を旗印にしようと画策、奇妙なつい精霊の出所はチルチオ教、そして恒のとある組織から物資と技術の提供、……と、判明している事は此処までだけれど、父親の地位からして末端でも少し上のようだね」

「そうだなあ。それにしても玲太郎を狙った意図が判らないままなのがなあ、……残念だわ」

「毒の件ね。それは私も甚だ遺憾に思うのだけれど、仕方がないね。死人で辿って行けていたのに、最後は死人なしだったから、対面した事のない相手に続いているのか、はたまた国外に続いているのか、兎にも角にも途絶えてしまったものね。毒を盛ると知っていた者は悉く消えてしまったのだと思うよ」

「まあ、そうなるよな。うん、仕方がないのかもな」

「今度はあの図柄が魔力封じだと判っただけでもし良しとするしかないね」

「クイザが持っていた物もそれに近い物なのだろうか? 図柄としては全然違っていた記憶だけど……」

「どうだろうね? この魔力封じに関しては、念の為、水伯にも効くかどうか、確認して貰う積りでいるのだけ…」

「うん、そうしておいた方がいいな。兄貴と俺には効かなかったから、ニーティにも効かないと思う。でも水伯は違ってくるからなあ」

「そうだね。魔力量が劣るからね。それと、玲太郎も念の為に確認しようか?」

「ああ、玲太郎も確認した方がいいな。通用しなさそうだけど一応な」

「それでは私が明日にでも確認するね」

「うん、頼む」

 颯はナルアーを見て溜息を吐いた。

「さて、俺はこいつを牢に放り込んだら帰るよ」

「私は此処を片してしまうから頼むよ」

「うん、解った」

 椅子ごと宙に浮かすと颯はまた明良に視線を遣った。

「それじゃあな。お疲れ」

「颯もご苦労だったね。有難う」

 それを聞き届けてから開扉して先に廊下へ出ると、ナルアーも廊下へ出して閉扉した。そして暗がりの中、地下牢へ向かって消えて行く。

 二人がいなくなった途端に明良は立ち上がり、薬草棚の方へ行くと使わなかった薬草を戻し、不要となった物を抱えると、イノウエ邸にある自分の執務室へ瞬間移動した。


 翌日、明良が水伯邸へ赴いた所、まだ玲太郎が到着していなかった。水伯に報告をし、図柄を試して貰う事となった。一旦屋外へ出て、図柄が描かれている方を体に当て、術を掛けて貰った所、轟音が耳をつんざいたと思った次の瞬間、直ぐ傍に雷が落ちた。明良は何故雷を落としたのかを訊きたかったがそれは我慢した。その後は居室へ行き、紅茶を飲みながら雑談をして玲太郎が来るのを待った。

「それは勿論、玲太郎の描いた絵だもの、貰うに決まっているよ。それで、私が一番に絵を選んでも構わないよね? 明良が一番に選びたいかい?」

「構わないよ。水伯に一番を譲るよ」

「おや? 本当に構わないのかい?」

「うん、次は一番に選ぶけれどね」

「そう? それならばよいね。……後で文句は言わないでね?」

「多分言わない」

 それを聞いた水伯は、いつもの柔和な微笑みを浮かべた。そこへ俄に扉が開いて、玲太郎が飛び込んで来た。水伯の向かいには見慣れた髪色の人が座っている。

「父上、おはよう。あーちゃんもおはよう。早いね」

 明良が振り返り、近寄ってくる玲太郎を見て笑顔になる。

「お早う。今日はゆっくりしていたのだね」

「お早う」

 玲太郎の後ろから颯も遣って来て、水伯が二人に挨拶をした。

「お早う。それじゃあ俺はイノウエ邸へ行って来るわ。お父様と約束しているからな」

「お早う。ガーナスと約束とは、何を約束しているの?」

「前にキコ鳥を食べに行っただろう? 其処へ行くんだよ」

「えっ、僕も行きたい。そういう事は早く教えてよ」

 振り返って颯を見上げた。

「ええ? 玲太郎は私と魔法の練習を遣るのではないの?」

「行きたいって言ったって、今食べた所だろう? 食べられないのに行ってどうするんだ? 土産を買って来るからそれで我慢してくれよ、な?」

 そう言われた玲太郎は両手を広げていた明良ではなく、水伯の方に行って膝に座った。それを見た明良が不満そうにしているが、颯からはそれが見えず、持っていた鞄を机に置いた。

「それじゃあお土産を楽しみにしているから、買って来てね。僕、ヒナがよいからヒナでお願い」

「うん、俺以外は雛だもんな。ばあちゃんにはもう連絡入れてあるから、夜に持って来るよ。夕食はばあちゃんと俺以外はキコ鳥だから。それじゃあな」

 水伯が挨拶をしようと息を吸った所で、颯が瞬間移動をして消えてしまった。

「颯は意外とせっかちだよね。もういない」

 苦笑しながら言うと、恨めしそうな目付きで明良が水伯を見ていた。水伯は思わず柔和な笑顔を明良に向ける。

「父上、それよりも遠足で絵を三枚描いたのよ。あーちゃんとはーちゃんがいるって言ってるんだけど、父上はいるの?」

「ああ、その話ね。先程、明良と話していたのだよ。私も貰うけれど、私が一番に選んでよいそうだから、真っ先に私に見せて貰えるかい?」

「分かった。そういう訳だから、あーちゃんは独占出来ないからね?」

「うん、解っているよ。一枚でも貰えれば、私はそれでよいのだけれどね」

「でも羊を主に描いただけだし、色も着いてないのよ?」

「それでも問題はないよ」

「分かった。それじゃあ父上の次に選んでね。約束だからね?」

「うん、約束ね」

 心なしか、寂しそうな笑顔を見せた。玲太郎は些か気になったが、理由を訊く事はなかった。水伯は玲太郎の表情が見えず、頭頂部を見ている。

「玲太郎は今日どうする積りでいるの? 中型の魔石作りの練習と、物を浮かせて動かす練習と、それから?」

「うん、それからね、薬草の勉強をしようと思って、図鑑を持って来たのよ。遠足で三種類の草花を採取したんだけどね、その内の二種類が似たような草があって良く分からなかったから、きちんと覚えておこうと思ったんだけどね」

「野草はそういう物が沢山あるからね」

「そう言うあーちゃんもやっぱり間違える事はあるの?」

「ないね。細部まで憶えているもの」

「えっ、本当? それじゃあカオガンとカオガンモドキの違いは分かる?」

「解るよ。葉が波状の方がカオガンで、きょ歯の方がカオガンモドキだろう? 後はね、カオガンの方が花の色が、黄色は黄色でも濃いのだよね。これは花期でなければ判らないのだけれどね。それと決定的な違いがあって、カオガンは葉の形が楕円だけれど、カオガンモドキは卵型なのだよ」

「えっ、それは気付かなかったのよ。絵を五枚も写したのに、気付かなかった……」

 気落ちする玲太郎を見て明良は苦笑した。

「次は気を付けて見ようね。それで、もう一種類はどれだったの?」

「うん? えっとね、ストラン」

「間違える定番中の定番の物が来たね。ストランと良く間違われれるタナゴコロ草とは、葉の付き方が対生たいせい互生ごせいの違いだけで、後は同じだからね。その葉の付き方が密だから、素人目では良く間違えられるけれど、タナゴコロ草は栄養価の高い食べ物として売られているし、ストランは汁を傷薬に付けておけば治りが早くなるし、カオガンみたいに毒性がないから間違えていても安心だね。でも羊もいて、人の出入りが激しい公園に毒草はない筈だから、間違える事もないと思うのだけれど、カオガンがあったの?」

「第二公園でカオガンモドキを僕が見つけて、カオガンとどっちか意見が分かれたけど、三対二でカオガンモドキになったから採取して、その後はもう用事がなくなって見てないんだよね」

「そうなのだね。カオガンがあれば、職員が処分していそうだけれどね」

 明良が苦笑しながら言うと、玲太郎は言われて気付いた。

「そうだよね、考えたらそうだよね。毒のある物を置いておく訳がないよね」

 真剣な表情で言うと、水伯が柔和な微笑みを浮かべていた。

「それに気付けてたら、カオガンじゃないって強く言えたのになぁ……」

「それで採取したのはカオガンモドキで合っていたのかい?」

「はーちゃんは何も言わなかったのよ。だから合ってたと思う」

「そう、それは良かったね」

 水伯が柔和に微笑んでいたが、玲太郎はやはり見ていなかった。

「波と鋸歯で違うから、それで判りそうなものだけれどね」

「でも二人はカオガンって言い張ってたのよ。ギザギザが波に見えなかったのかなぁ?」

「そうなのだろうね。二人にはカオガンに見えたのだろうね」

 水伯が先に言うと、明良が口を結んで水伯を見た。

「玲太郎もお茶を飲むかい?」

「ううん、朝食後に飲んだからいらない。ありがとう」

「それで遅くなったの?」

「あ、そうなのよ。はーちゃんが飲んでたから、僕も欲しくなっちゃって飲んでたのよ」

「そうなのだね」

「それでいつもより遅くなっちゃった。待ってたの?」

「当然待っていたよ?」

「ごめんね」

「うん」

 明良はいつものように玲太郎に温かな眼差しを向けていたが、直ぐに水伯へ移す。勿論無表情になった。

「そう言えば、水伯の所でタナゴコロ草を扱っていたよね?」

「うん、そうだね。味も独特の美味しさがあって人気だし、栄養的にも価格的にも、安月給の強い味方だからね」

「へぇ、そうなの? 僕も食べてみたい」

「それでは明日の朝に出そうか。昼にでも買いに行って来るよ」

「ウィシュヘンドで栽培してないの?」

「南の領地で栽培しているからね」

「南の領地? じゃあ僕も一緒に行く」

「それでは私も一緒に行く」

 水伯は苦笑すると頷いた。

「それでは三人で行こうね。颯がいないのは寂しいけれど、仕方がないね」

「颯はお父様と食事の後、そのまま和伍で観光してから帰って来る筈だから十三時か、十四時には戻って来るのだけれど、その後は仕事があるからね……」

 申し訳なさそうに言うと、水伯は軽く二度頷いた。

「その代わりと言っては申し訳ないのだけれど、ばあちゃんを連れて行こう。ばあちゃんもたまには外に出ないとね」

 些か嬉しそうに明良が言うと、水伯が苦笑した。

「八千代さんは出掛けないと思うけれど、一応明良から誘って見て貰える?」

「どうして出掛けないと?」

「刺繍を刺しているのだけれど、それが中々の大作のようでね。食後も一切居室で過ごさないのだよ。最近、夜もずっと居室に来ていないだろう?」

「そう言えば、そのような事を言っていたね。刺繍が楽しいと言っていた事を思い出したよ」

「でも南の領地に行くとなったら、来るんじゃないの?」

 玲太郎が水伯にもたれ掛かって真上を見た。それに気付いた水伯が真下を見る。

「そうだね、一応訊いてみようね」

「うん。父上、南の領地って、サバスト? それともメナムント? それともダーモウェル?」

「ダーモウェルだね。タナゴコロ草を育てるには少し涼しい所が適しているから、山地の多いダーモウェルで育てているのだよ」

「それじゃあ直接農家に買いに行くの?」

「行かない。今日は市場で買う積りでいるからね。ついでに町を散策しよう」

「うん! 分かった!」

 元気な玲太郎を見て、明良が目尻を下げた。

「それでは私はばあちゃんに訊いて来るね」

「そうだね。出発は十時半にしようか」

「解った。それでは行って来るね」

 そう言って明良が立ち上ると、二人は明良を見上げた。

「行ってらっしゃい」

「また後でね」

 玲太郎は明良の後ろ姿が消えるまで見届けていた。それから向かいの長椅子に行き、水伯と笑顔で雑談に興じた。


 翌日の夜、颯が玲太郎を迎えに来て、眠りこけているヌトを連れて寮長室へ瞬間移動した。するとそこには珍客がいた。颯は思わず顰めっ面になっていた。その珍客は、玲太郎が赤ん坊の頃のように約三尺に身を縮めていた。

「暫く振りであるな」

「うーん、会いたくなかったなあ」

 颯は珍客の顔を見ずにそう言うと隣室へ行ってしまった。玲太郎も珍客を見る事もなく、眠っているヌトを颯の寝台に置き、次に鞄を机に置いて隣室へ行った。珍客は無言で付いて行く。颯は茶を淹れる用意をしていて、玲太郎はその手伝いを始めた。

「覗き見をしても許しているのに、どうして此処へ来たんだ?」

「口を利いて呉れぬと思うておったのだが、利いて呉れるのか」

「俺も其処まで鬼じゃないぞ」

 鍋に牛乳を入れ、瓶を冷蔵庫へ戻した後、玲太郎を一瞥した。

「玲太郎、これがハソな」

 ハソは思わず口角を上げて玲太郎を見た。玲太郎はハソを一瞥して颯を見る。

「ハソの事は覚えてるのよ」

「そうだったか。それはご免。で、ハソは何をしに来たんだ?」

「いや、何、ヌトのあの為体ていたらくでは心もとなかろうと思うて、わしが代わりを務めるべく遣って来たのよ」

「嘘吐け。俺が何をしているのか、直接訊きに来ただけだろう?」

如何いかにもそれもあるにはあるのであるが、わしを傍に置いておけばよい事もあろうて」

 颯は鍋から目を離し、ハソの方に向いた。

「……お前、兄貴も覗き見しているな?」

「明良とてわし等と同等の力を有しておるのであるぞ? 観察するのは当然であろうて」

「ふうん……。観察じゃなくて、監視な。まあ、それはそれで仕方がないか。ニーティの所にもノユとズヤが居着いているしなあ。ハソはニーティに会いに行かないのか? 行っていないんだろう?」

「あの子はあの二体がおるからよいのよ。であるが颯にはおらぬからな」

「兄貴にもいないし、水伯にもいないじゃないか」

「明良はわしが時折千里眼で見ておるからよいのよ。灰色の子は昔からニムとシピが時折見ておるから、今更付いても仕方あるまいて」

 玲太郎は静かに二人の遣り取りを聞いていたが、口を開いた。

「僕はヌトが起きてくれるから、ハソが傍にいなくてもよいよね?」

 ハソが玲太郎を見て苦笑する。

「起きて呉れるのではのうて、起こしているのであろう? 玲太郎は何故なにゆえか知らぬが、赤子の頃よりヌトがお気に入りよな。それが今も変わりないという事が甚だ不思議でならぬわ」

「また嫉妬かよ。それは止めろよ」

 牛乳の膜を匙で掬うと口に入れた。

「嫉妬ではないわ。事実を言うておるだけではないか。颯もヌトだけ優遇されておる事を不思議に思わぬのか?」

「俺はそういう物だと受け入れているから、どうとも思わないなあ。……うん? 待てよ? ハソは玲太郎ではなく、俺の傍にいる積りなのか? ヌトの代わりを務めるんじゃなかったのかよ?」

 鉄瓶の湯が沸騰し、颯は焜炉の火を止めて、熱湯を茶器に注いだ。

「折を見て何方どちらの傍におるのかを決めようと思うておるのであるが……」

 颯の動作をつぶさに見ながら言うと、颯はそんなハソを一瞥して茶器の蓋を閉め、砂時計を引っ繰り返した。

「お前、そんな中途半端な事を遣る積りなのか?」

「僕の傍にはヌトがいるから、来ないでね」

 間髪を容れずに玲太郎が言うと、颯が大きく頷いた。

「俺の所にも来ないで貰いたいなあ」

「颯はそう邪険にするでないぞ。わしがおれば役にも立とうて」

「とか言って、傍で見ているだけなんだろう? ヌトで懲りたよ。四年も張り付かれていたんだからな」

 嫌そうに言いながら鍋の火を止め、茶器の蓋を取って牛乳を注いだ。

「そうであるか? では取引と行こうではないか」

「お? 本題に入ったな?」

 茶器の蓋をするとハソを見た。

「茶化すでないわ。わしの持っている情報を颯に遣ろう。その代わり、颯の傍に十年おる」

「十年!? …ハソは玲太郎の傍にいる事を目的にしていたんじゃないのかよ?」

「何を言うか、わしは初めから颯が目的よ」

「本気か?」

「最初に颯自身が言うたではないか、俺が何をしているのか直接訊きに来たのかと。颯を見ようとすれば何時いつも視界を潰されるのでな。そうであるならば直接見るしかあるまいて」

 颯は鍋を洗浄魔術で綺麗にしてしまうと棚に片付けた。立ち上がってハソを見る。

「恒」

 ハソがそれだけを言うと、颯の目付きが鋭くなった。

「十年は瞬く間であるぞ」

 颯の表情が渋くなる。

「俺には長いんだけどなあ……。五年」

「十年」

「聞いてから決める」

「それでは二十年」

「増やすのかよ……」

「颯が駆け引きなぞして来るからよ」

「はあ……。瞬間移動はするぞ」

「承知した。直ぐに見付け出すからわしは構わぬ」

「それ以上体を大きくしたら即退場な」

「承知した」

 暫く沈黙が流れ、玲太郎が落ち切った砂時計をまた引っ繰り返すと、それを見ていた颯が顔を顰めた。その表情を見たハソが笑顔になる。

「十年に見合う情報であると自信を持って言えるのであるがな」

 自信満々のハソを見て、颯は大きく溜息を吐いた。

「自信に満ちている所を申し訳ないんだけど、見合っているかどうかなんて、聞いてみない事には判断出来ないし、時間の感覚がおかしいハソとの取引に応じるのが嫌なんだよなあ」

「十年なぞ瞬く間ぞ?」

「だから、俺には長いんだって。……五年」

「三十年」

 そこへノユとズヤが遣って来た。

「ハソの気配がすると思うたら、来たのであるな」

「気配がするのであるから来ておると言うたではないか」

 ズヤがノユに言う。ノユは反応せず、ハソに顔を向けたままだった。

「ニーティに会うのであろう?」

「ああ、例の目族の子な。後で会うとするわ。先に颯と取引をせねばな」

 二体は颯に視線を遣った。怪訝な表情をしたズヤが口を開く。

「颯と取引とはどういう事ぞ?」

「とある情報と引き換えに、俺の傍に十年もいるんだとさ」

「十年とは何日よ?」

 今度はノユが訊く。

「三千六百九十日」

「そう言われると存外長く感じるな」

 颯の答えにハソが驚いていた。

「お主が出した条件であろうが」

 ズヤが苦笑しながら言うと、颯も苦笑した。

「存外長いんじゃなくて、本当に長いんだよ」

「そうであろうか? 日数で言うと数字が大きいから長く感じるだけであって、体感ではそうもなかろうて」

他人ひと事だと思って……」

 渋い表情をしたままの颯を見ていたノユがハソに視線を遣った。

「その十年と引き換えに、何を遣ると言うのよ?」

「何、有用な情報をな」

「情報とな? わし等は傍観者ぞ」

 ズヤが眉を顰めて言うと、ハソがズヤを見た。

「よいではないか。相手は颯であるからな」

「それだけの理由であるか?」

「颯はわし等と同等の魔力を持っておるのであるからな。それに玲太郎を守る為にも力を合わせた方が良かろうて」

「玲太郎を守るとは? 玲太郎を害そうとしても、出来る事ではなかろうて」

「そう言えば納得すると思うたのであるが、納得出来ぬか?」

「出来る訳がなかろう」

 ハソは満面の笑みを浮かべてズヤを見詰めた。

「わしが颯の傍におる為に情報を売るのよ。それで納得して貰えぬか」

「其処までして颯の傍におりたいのか?」

「如何にも」

「勝手に話を進めているようだけど、俺はまだ情報を買うとは言っていないぞ?」

 颯が割って入る。

「ま、ヌトが起きておらぬ間の用心棒代わりと思うて、置いておけばよいではないか」

 皆が一斉にそう言ったノユを見た。玲太郎は首を横に振る。

「ヌトが眠っていても大丈夫なのよ。だからいらない」

「玲太郎の傍ではなく、俺の傍にいようとしているから、用心棒代わりにならないんだけどな」

「此処におる間、玲太郎と颯は一緒におるのであるから、代わりになるであろうて。ま、玲太郎に何かがあれば、ズヤとわしも直ぐに駆け付けられるがな」

「ニーティもいるし俺もいるから、これ以上は必要ないな」

 今度は皆が一斉にそう言った颯を見た。

「情報は要らぬという事か?」

「如何にも」

 颯が悪戯っぽい笑顔で言うと、ハソは顔を顰めた。颯は続ける。

「十年の価値があるのかどうかも判らない情報を訊く阿呆が何処にいるのか」

「十年なぞ瞬く間ぞ?」

「またそれだよ。だから十年は長いんだって」

「まあまあ、先ずは情報を聞いて、どれ程の価値があるのかを決めるのがよいではなかろうか」

 ズヤが苦笑しながら言うと、ハソが些か怒りに任せて表情を変えた。

「それではわしが不利になるではないか」

「最低限の年数を決めればよいではないか」

「三年」

 颯が透かさず言うと、ハソは眉を寄せたまま横目で颯を見た。

「どうしても十年は嫌なようであるな」

「当然だろ。ヌトが四年なんだからな」

「それ以上の価値のある情報だと思うのであるが……」

 ハソが不満そうに言うと、ノユが頷いた。

「それ以上の価値があるとしても、颯が五年と言うたら五年で決まってしまうものな」

「はーちゃんはそんな事はしないのよ」

 今度は皆が玲太郎を見た。颯だけが苦笑している。

「玲太郎がこう言うておるのであるから、颯も公平に評価せねばなるまいな」

 颯はそう言ったズヤを見る。

「これだと、五年の価値しかないと思っても、五年って言えなくなるじゃないか」

「そう思うのであれば言えば良かろうて」

 ノユが言うと、ハソとズヤが頷いた。

「まあ、それじゃあ聞くけど、俺の仕事に関する事だから玲太郎には聞かせたくないんだよ。だから玲太郎のいない所で聞く。それでいいよな?」

「うむ、構わぬ」

「ではズヤとわしも一応聞くとするか」

「じゃあ行ってらっしゃい。僕はここで待ってる」

 玲太郎は既に砂時計が落ち切っている事に気付き、踏み台に上った。

「それじゃあ頼むな。寮長室へ行って来る」

「うん」

 颯は玲太郎の頭を乱雑に撫でると寮長室へ向かって歩き出した。三体もそれに付いて行く。玲太郎はそれを見送りもせず、茶漉しを手に大き目の湯呑みに注ぎ始めた。


 寮長室では颯が椅子に腰を掛け、三体が颯の前に並んで浮いていた。

「明良は今、チルチオ教とどこの組織が繋がっておるのかを探っておるのであろう? それも恒の組織が最有力候補であるな?」

「そうだな」

「これは玲太郎が生まれる前からズヤが恒に張り付いておって、そのお陰でわし等も気付いたのであるが、変異しておる対精霊を生み出しておる組織があるのよ」

「あれか……。颯はこの情報が欲しかったのであるか?」

「今話しておる途中であるからズヤは黙っておれ」

 そう言われて、ズヤは些か不機嫌になった。

「組織は紫苑しおん団と言うて、それ以外にも魔力を封ずる道具や、魔力を強化する道具も拵えておる。只の紙切れであるが、絵を描いてある方を体に当てるだけでよいのよ。肌にそれを刻んでおる子もおる。後は呪いであろうか、そういった物も実験されておるわ。これには覚えがあるであろう?」

「うん、あるな。確かにあるけど、ハソはその図柄を憶えているのか?」

「それはもう記憶にない。見ても、こうであったか? と思う程度であるから役には立てぬぞ。特定するのであれば手助けは出来ようがな」

「成程。それから?」

「紫苑団は数万人が属しておる。各国の要所にも潜り込んでおるから、数人が死んだ所でどうという事はないのよ」

「えっ、王宮にはまだ潜り込んでいるって事か?」

「如何にも」

「ふうん……。まあ、玲太郎はもう行かないからどうでもいいな。それでそのシオン団と組織がチルチオ教と繋がっていると?」

「如何にも。今は紙に絵を描いて、それを直接体に当てねば使えぬであろう? 颯には使えぬと判ってからは改良をしておるぞ。上手く行ってはおらぬようであるがな。それと玲太郎をかどわかそうとしておったのは紫苑団であるぞ。目論んでおった子等がことごとく死んでおったわ。その理由は、ノユから聞いて後で解ったのであるがな」

「へえ、攫おうとした理由は?」

「玲太郎の体が欲しいようであるな。脳を移植して体を乗っ取るそうな。それにつけても、先の話には続きがあってな、死んだ子等の死因を調査する為に解剖をしておったのよ。その最中さなかに蘇生しておったぞ。それも二人な。であるが、一人は解剖の傷が元で死んでしもうたわ。もう一人は紫苑団の長に殺されておった」

 険しい表情をしていた颯が手で口を覆った。

「蘇生した? ……という事は、毒は死んだ後に蘇生する物だったと?」

「如何にも。玲太郎を仮死状態でどうにかする積りであったのであろうて」

 颯は視線を外して黙考した。暫くしてハソに視線を戻す。

「それから?」

「その前に、此処までで何年よ?」

「四年」

「何っ、たったの四年? 嘘であろう?」

「組織名がシオン団だと判ったけど、属している奴の名前が一切出て来ないからなあ」

「長はカンとかサンとかタンとか、そのような名であったぞ」

「何か、確りと憶えていないのか?」

「うーん、……じゃ、じゅ、じょ、……なんとかヤオ。苗字しか憶えておらぬな。ヤオと言う女子おなごがおってな、その子が蘇生したが長に殺された子よ」

「ジュヤとニアーに聞き覚えは?」

「ジュヤ? ジュヤな……、うーむ、知らぬな。ニアーはどうであったか……」

「ニアーはおったぞ。ジュヤはわしも知らぬ」

 俄に会話に入って来たのはノユだった。

「ニアーは技術部であったと思うがな。何度か尾行した事があるわ。技術部は呪いや術や薬を開発しておって、ニアーが実戦での使用者の意見を纏める役であった筈」

「顔を憶えているのか?」

「憶えておるぞ。何せ尾行しておったのであるからな」

「念写は出来る?」

「出来ぬ。わし等はそういった事はせぬからな」

「それじゃあ特徴を教えて貰える? 俺が描いて行くから」

「よいぞ」

 ハソはノユを恨めしそうに横目で見ていると、ズヤがそんなハソを見て笑いを堪えていた。颯は紙を抽斗から取り出して、鉛筆立てから鉛筆を取ると、ノユに聞きながら絵を描き始めた。ハソとズヤも覗き込んでそれを見ている。

「いや、そのような目ではなかったぞ」

 指摘をしたのはズヤだった。

うておるわ。些か吊り目で、このような感じであった。ズヤは情報を渡さぬ積りでおるのであろう? そうならば黙っておれよ」

「むっ」

「取り敢えずノユの記憶で描いてみて、出来上がりを見てから言って貰える?」

「解った。そうするわ」

 ズヤが納得して黙ると、颯は鉛筆を動かし、ノユが絵を見ながら細かい所を指摘し、それを修正しつつ描き上げた。

「うむ、似ておるな。このような顔であった」

 ノユが満足そうに言うと、ズヤがそれを見て首を傾げた。

「このような子がおったか?」

「それではズヤが憶えておる子を颯に描いて貰えばよいではないか」

「わしはこのような子がおったような気がせぬでもないが、断言は出来ぬな」

「ハソはわし等より後に来ておったものな。ま、顔を憶えるにしても数が多くて、わしも難儀したわ」

 ノユが感じ入って話している横で、ズヤが目を輝かせていた。

「颯、わしが憶えておる子を描いて呉れるのであろう?」

「名前は憶えているか?」

「憶えておる。ジュアン・ヤオと言う女子でな、上におる子を蹴落として伸し上がって行った女傑という奴よ。最終的には長の次に偉い地位におったぞ」

「む? ズヤは傍観者であるから情報は渡さぬのではなかったのか?」

「わしの記憶の中にある物を、こうして絵にして貰えるなぞ楽しいではないか」

「絵にするのはいいけど、先に茶を飲んでもいいか? もう冷めていると思うんだけど……」

「よいぞ」

 ズヤは笑顔で快諾すると、颯は描いた絵を上から二段目の抽斗に入れた。

「それじゃあ夜になったらニーティの部屋へ行くから、その時にでも」

「解った。そうしよう」

「わしもまだ憶えておるから、それも描いて呉れぬか」

「いいよ。夜にな」

 ズヤとノユが満足そうに微笑んでいると、ハソが仏頂面になっていた。

「わしとて一人や二人は憶えておるわ」

「まあ、ハソもまた後でな。先に茶を飲んで来るわ。ノユとズヤは玲太郎が寝た後にな。ニーティに行くからと伝えておいてよ。それじゃあな」

 そう言って立ち上がると、扉を開放したままで隣室へ向かって行った。ハソは二体を交互に見る。

「わしが颯の傍におる為に情報を売るのであるから、ノユとズヤは口を出すなよ?」

「わしが先に見付けたというに……」

 不快感を露にしたズヤを見て、ノユが苦笑した。

「傍観者であるから言わぬのであろう? それならばよいではないか。それではわしは先にニーティの所へ戻るぞ」

 そう言うと天井をとおり抜けて行った。

「わしも行く」

 続いてズヤも天井を透り抜けて行った。ハソはヌトの寝顔を見てから壁を透り抜けて隣室へ向かった。

 ジュアン・ヤオが、ハソの言っていた某ヤオと同一人物と気付くのは、もう少し後の事だった。


 入浴後、ノユに玲太郎を頼む所だが、今日はハソがいた為、ハソに頼んでイノウエ邸へと瞬間移動した。イノウエ邸の玄関広間に着くと、明良の気配を探りながら歩き出した。居室にガーナスといるようで迷わず向かった。扉を二度叩き、静かに開けると二人が一斉に颯を見る。

「連絡もなしにどうかしたの?」

 後ろ手で閉扉し、二人のいる方へ向かう。そして長椅子に座っている明良の隣に腰を掛けた。

「ハソが来て情報をくれたんだけど、それを報告しに来た」

 そう言いながら黒淡石を三個と、折り畳んだ数枚の紙を机に置いた。

「一応記録はしておいた。後似顔絵な。似ているかどうかは不明だけど、ハソとノユとズヤは似ていると言っていたから使って貰える?」

「解った。有難う。それで報告とは?」

「玲太郎に盛られた毒が、毒じゃなくて、仮死薬だったんだよ」

 明良が僅かに目を丸くした。

「……仮死? それは本当なの?」

「ハソが蘇生した所を見ているから本当だね」

「……蘇生したのなら、王宮で死んだ者も蘇生している事になるのだけれど?」

「そうなんだよ。確率的には八割って言っていたから、そのまま死んでいる者も確実にいるからな」

「成程。死体は先に全部を抑えられていたから、蘇生している者がいるにも拘らず、王家は私達にその情報を流さなかった、という事になるね?」

「そうだな」

「水伯もこの事件を私達に一切話さないから、聞いていない筈。……これは私達に喧嘩を売っているも同然だよね?」

 そう言うとガーナスを見た。ガーナスは明良を見ると腕を組んだ。

「喧嘩を売っていないにしても、侮っているのは確かだな。経済的な制裁をしなさい」

「そうしよう。その上で、生き残っている者達を渡して貰うとしようか」

「そう簡単に事が運ぶのか?」

「運ばせる為の経済的な制裁なのだよ。何処まで我慢出来るか、見物ではあるのだけれど……」

「チルチオ教と繋がっているのは、恒の組織でシオン団と言うんだそうだ。玲太郎を攫おうとしたのは、玲太郎の体が目的で、脳移植をして乗っ取る積りなんだと」

「……は?」

「理解したくないだろう? でもそう言っていたよ。シオン団の長が狙っているんだとか」

「そうなのだね……。即刻潰すしかないね」

「兄貴なら出来るだろうけどな。まあ、組織が結構大きくて、この国の上層部に結構食い込んでいるとハソが言っていたぞ」

「俄に信じ難いが……」

 ガーナスが険しい表情になっていた。颯は気にせず報告を続ける。

「玲太郎が産まれる前からズヤが監視していたんだと。あの奇妙な対精霊の出所も其処だってさ」

「……意外と情報量が多いね」

 明良はそう言うと茶器の取っ手を持ち、紅茶を飲んだ。

「対精霊とは?」

 ガーナスは颯を見る。颯もガーナスを見た。

「人には必ず対になっている精霊がいるんだけど、それの事。胸の辺りから糸のような物が出ていて、その対精霊と繋がっているんだよ。会えないままで生涯を終える事の方が多いんだけどな」

「奇妙な対精霊とは?」

「ハソが言うには、胸から出ている糸を切って、対精霊を対精霊と合体させて、それの糸と繋げるんだってさ。そういう事が出来る特殊な装置を造り出しているんだけど、その道具を使う人が限られているんだと言っていたよ。糸や対精霊は見えても、大精霊は見えていないみたいだな」

「ふむ……。精霊の眼の下位になる何かを発明したと言うのだな? 余程の規模と、人材と、素材が必要になって来ると思うのだが、どの程度の規模の組織なのだ?」

「五万人は属しているって言っていたけど、数に入っていない末端の事を考えると、何処まで膨れ上がるかは謎だな。何せチルチオ教とも繋がっているからなあ」

「やはり一気に叩いた方が手っ取り早いね」

「でも方々に散っている奴もいるからな」

「それでは、先ずは王宮に囚われているであろう生き証人を手に入れようか。それで組織の事を調べた方が早いね」

「恒に人を送り込まないの?」

じっ中八九見付かって、逆に情報を渡すような事に成り兼ねないからね」

「消極的だなあ。まあいいけど。それはさて置き、スオークは何か吐いた?」

「颯と遣ろうと思っているから、まだ何もしていないよ。私はバゴキーで遊ぼうと思って、もう直ぐ行こうとしていた所だったのだけれどね。それとナルアーは騎士団の練習用に回したよ」

「ふうん、そうなんだ。それじゃあ週末にして貰えると有難い」

「解った、週末にしよう。兎にも角にも、水伯に話してから行動に移すよ。それにつけても、颯は玲太郎を置いて一人で来たのだろう?」

「うん? 風呂に入ったから、もう寝台で横になっていると思うよ。いつもはノユに頼む所だけど、ハソがいるからハソに頼んで来た」

「そう。また悪霊が増えるの? 一時的?」

「六年も俺の傍にいるってさ」

「それはご愁傷様」

「うん。まあ、得た情報の報酬みたいな物だからな」

 そう言って苦笑すると、明良は颯の肩を優しく二度叩いた。

「有難う」

「明良の所へ交渉に行っても、素気すげなく追い返されておったであろうってハソが言っていたよ」

「その通りだね」

「玲太郎に張り付かないんだったら、まあいいかなと思ったんだけどなあ。早計だったか?」

「いやいや、得難い情報だよ。この情報にお金を払ってもよいくらいだけれど、幾ら欲しい?」

「最終的にシオン団を壊滅出来ればそれでいいわ」

「そう? 欲のない事で……」

 颯は鼻で笑うとガーナスに視線を遣った。

「それじゃあお父様、そろそろお暇するよ。また週末な。次はばあちゃんとの月一の食事会も兼ねているから、その積りでいてくれよ?」

「楽しみにしておくよ。お休み」

「それじゃあ兄貴、後は宜しく」

「解った。お休み」

 颯が立ち上ると、二人を交互に見た。

「お休み」

 言った瞬間に瞬間移動をして消えてしまった。

「シオン団とやら団員を幾人か捕えたい所だね……」

 そう呟くと、茶を飲んだ。


 翌朝、颯が朝食へ向かうとハソもそれに付いて行った。玲太郎はそれが面白くなく、いつもは朝食の直前までヌトを眠らせているのだが、ハソがいなくなった途端に白い石で起こした。

「ひゃわっ!」

 奇声を上げて飛び起きる。玲太郎は寝台に腰を掛けた。

「おはよう」

「……お早う。……む? 弟はまだ此方に向かっておらぬではないか」

「昨日からね、ハソが来てるのよ」

「……ふむ。それで?」

「はーちゃんに情報を渡す代わりに、はーちゃんの傍に六年もいるんだって」

「……成程」

 興味がなさそうに大きな欠伸をした。玲太郎はその態度に不満が募る。

「ハソがはーちゃんの傍にいるの、嫌じゃないの?」

「ま、その事に就いて、わしが颯やハソに口を出す事はなかろう」

「どうして?」

「颯とハソが決めた事であろう? わしがどう思おうと関係ないという事よ。ハソは颯と食堂か」

「うん、そう。ハソの事、少し苦手なのよ」

「そうであろうな。玲太郎が赤子の頃、どういう訳か、途中からハソとニムを嫌がるようになってな、泣き喚いておったわ」

「ふうん?」

「どういう訳かは知らぬがわしには平気なようであったから、診療所ではわしがほぼ世話をしておったわ。わしが先々に遣ってしまう物だから、明良に良く睨まれた物よ」

 懐かしく回顧をすると、軽く何度も頷いた。

「その話は何度も聞いた。そんな事より、はーちゃんの傍にハソがいるのは嫌じゃないの?」

「わしが嫌がってもおるのであろう? 玲太郎が嫌がってもおるのであろう?」

「……」

 玲太郎は仏頂面になった。

「颯とてそれは同じであろうて。嫌でも受け入れておる。颯は怒らなければ基本的に甘いからな、其処に付け込んだのであろう。玲太郎も諦めて受け入れるしかあるまいて」

 玲太郎は何も言えなくなり、俯き気味でやはり仏頂面をしていた。

「時折来るくらいなら、まあよいのだけど、毎日となると、耐えられるかどうか……」

「ま、ハソは悪い奴ではないから安心致せ。あれでも昔は優し過ぎて子に利用されてな、傷付いて幽せいしておったのよ」

「ニムみたいに、はーちゃんに何かをやる事はない?」

「そう心配せずとも、ニムが灰色の子に遣ったような事は遣らぬわ。ハソは遣りそうでも遣らぬのよ。わしは追い掛け回したがな」

「ヌトも酷いのよ。……所で、ゆうせいって何?」

「世間から離れた遠い所で一体で寂しくおったという事よ」

「ありがとう。でも僕の所に来てたよ?」

「そうであるな。ハソが俗世へ戻って来た切っ掛けは玲太郎なのよ」

「えっ、そうなの?」

「玲太郎が産まれた時に何かと賑やかになってな、それ等がハソを呼んだのであろうな」

「あっ、そう言えば五月になったんだ。それでまた来ちゃったのかも?」

「五月か……。玲太郎が産まれたのは何月であった?」

「五月の二十二日だよ。もうすぐ誕生日だからね」

「わしは玲太郎が産まれた所は見ておらぬからな。ハソとノユとズヤが見ておった筈よ」

「そうなの?」

「ノユから聞いておるのでな、間違いないぞ。わしは暫くしてから玲太郎のもとへ行ったのよ。直ぐに追い返されたがな。その時はハソとニムが傍におって、ノユとズヤはおらなんだわ。二度目も追い返され、三度目に居着いたのであったか? ……ま、ついこの間の話であるが、あの頃と比べれば玲太郎も颯も明良も成長しおったな」

 最後は感慨深そうに言うと、玲太郎は眉を顰めていた。

「うーん、ついこの間って言っても、僕は今月で九歳になるのよ? 九年前はついこの間じゃないのよ」

「そうであるか? わしに取ってはついこの間よ。最近は合間に眠っておるからか、何やら記憶が曖昧でな、夢を見ておるかのような感じであるが、その所為かは知らぬが、時間の経過が余計短く感じるな」

「昨日の事、覚えてる?」

「昨日? ……いや、全く」

「それはそうだよね。ずっと眠ってたんだから」

 そう言うと声を上げて楽しそうに笑った。

「玲太郎は颯とまことに兄弟であるな。おかしくない場面で良く笑う所が似ておるわ」

「あれ? 面白くなかった?」

「微塵も」

「そう? 眠っている間の記憶がないのは当然だから、ない物を思い出そうとするのが面白い所なんだよ?」

「解せぬな」

「そこは面白くなくても、一緒に笑ってくれたらよいのよ」

「詰まらぬ物をどう笑えと言うのよ? おかしな事を言うのはさぬか」

 そう言うと、戸惑った表情を少し和らげた。

「弟が来るぞ」

 玲太郎は宙に浮いて扉の方へ向かうヌトを目で追う。

「ありがとう。僕も行くよ」

 立ち上がると衣こうの下へ行き、靴を履き替えると退室した。ヌトはうに廊下に出ていて、先に食堂へ向かっていた。慌てて追い掛けると、階段を下りてきたバハールが玲太郎の後ろ姿を見付けた。

「ポダギルグ」

 声を掛けられて立ち止まって振り返ると、バハールが向かって来ていた。

「おはよう」

「おはよう」

 玲太郎は直ぐに食堂の入口に顔を向け、歩き出した。バハールもそれに続く。玲太郎は食堂に入ると、小さなヌトを探そうとしたが、颯の後ろ姿が目に飛び込んで来た。その傍には三尺程のハソがいて、その近くに一尺程のヌトもいた。ルニリナの後ろ姿も颯の隣にあったが、いつものようにノユとズヤはいなかった。

(ヌトってばあんな所に……)

 玲太郎の足が自然とそちらへ向いていた。

「ポダギルグ、どこへ行くの?」

 職員専用の食卓へと向かう玲太郎を見て、黙って付いて行く。

「おはようございます」

 その声でルニリナが振り返った。

「おはようございます。珍しいですね。どうかしましたか?」

「お迎えが直ぐに来たなあ。きちんと付いて行けよ」

 小声で颯が言うと、ヌトが玲太郎の方へ行く。

「解っておるわ。ちと挨拶をしに来ただけではないか」

 ルニリナが「ふふ」と笑っていたが、玲太郎は颯とハソの間に割り込んだ。

「それじゃあまた後でね」

 玲太郎に耳元で言われ、颯は思わず左を向いた。

「そんなに大きな声で言わなくても聞こえるって。後でな」

 玲太郎はハソの方に見向きもしないで、近くにいたバハールを一瞥すると、室内の奥へと向かって歩き出した。ヌトは苦笑しながら玲太郎の後ろを飛んでいた。

「食堂でイノウエ先生の所へ行くなんて、どうかしたの?」

「うん? そういう気持ちになっただけ」

「そう。珍しいね。初めてではないの?」

「……言われてみればそうだね。確かに初めてかも」

 仕切り台へ向かいながら話していると、ヌトが玲太郎の髪をひと房掴み、大きな欠伸をした。ハソは遠ざかって行く玲太郎を見ながら微笑んでいた。

「玲太郎は相変わらず可愛いわ」

 颯はそう言ったハソを横目に麺ぽうを口の中へ詰め込んだ。視線を感じたハソも横目で颯を見ると、目が合った。


 五月の末日に近付いたある日、日が大分傾いている中、ツェーニブゼル領が属するエナダリン州からウィシュヘンド州へ、徒歩で移動している四人組がいた。全員が自然に紛れるように濃淡の付いた緑色の服を着ている。

『そろそろウィシュヘンドに入ったか?』

 四人の中で一番背の高い男が言うと、その直ぐ後ろを歩いている小柄な男が口を開く。

『まだだと思うけど、どうだろうな』

『「ウィシュヘンド州に入る時に、とある線上では何かを調べていて、敏感だとそれを感じられる」と資料にあったし、バンなら感覚が優れているから感じられるんじゃないのか?』

 高身長の男の隣を歩いている眼鏡を掛けた男が言った。

『オレ頼りかよ。……まだ感じないから入っていないという事になるのかも知れないな』

 高身長の男が言うと、唯一の女が鼻で笑った。

『あたしも敏感な方だけど、報告が本当ならまだ何も感じてないから入ってない事になるよ』

『ターの敏感とバンの敏感は違うと思うけどな』

 小柄な男が小声で言うと、女が眉を寄せて隣を見る。

『ハウは黙ってな』

『慣れるためにも、この辺りから共通語にしておくか』

 眼鏡を掛けた男が後ろを一瞥した。

「チェンがそう言うなら」

「タールェは訛ってるな」

「バンチャンだって訛ってるだろが。他人の事をとやかく言う前に自分の訛りをなくしな」

「ターはすぐ喧嘩腰になるんだから……」

「ハウは黙ってな」

「チェンカン、ここがどの辺りか分かるか?」

 眼鏡を掛けた男が足を止めると背嚢を下ろし始めた。

「地図を見てみよう」

 三人も足を止めた。チェンカンが地図を取り出して広げる。

「……ここの山地の東側にある平原を、北に向かいながら山沿いを歩いているはずだよ。まだ誰も何も感じないという事は、州境の手前、エナダリン州のこの辺りだろう」

「州境までまだまだと言う気がするな」

 小柄な男がそう言いながら辺りを見回した。

「ハウロン、どうかしたか? 気になる事でもあるのか?」

 バンチャンがハウロンの動きに反応した。

「いや、地形が合っているか見ていただけだ」

「紛らわしい事をするなよ」

「ターはそういうきつい言い方をするなよ」

「ハウは黙ってな」

「タールェこそ黙ってな。お前のその口調を聞いてたら精神衛生上良くないな」

 バンチャンが言うとタールェは仏頂面になって沈黙した。

「ともかく、ウィシュヘンド州に入らない事には、俺達が何をするのかが全く分からないんだから、それを知るためにも先を急ごう」

「そうだな」

 チェンカンの言う事にバンチャンが頷いた。

「こんなに人気のない所なんだから、飛んで行こうよ。誰にも見つからないって」

 タールェが気怠そうに言うと、背嚢に地図を入れているチェンカンが溜息を吐いた。

「確かにこの辺りには民家がないし、誰かに見付る心配はないだろうけど、完全に気配を消すために魔力を使うなと言われているだろう? 一度魔力を使うと完全に気配が消えるまで二ヶ月は掛かるんだから」

「チェンカンの言う通りだ。タールェは気配を完全に消す方法を知らないのか? それで暗殺なんてよく出来るな?」

「うるっせえよ。それくらい知ってるけど、少しくらいなら平気だろうが」

「平気じゃないから注意をされてるんだろうに……。バンもターも疲労が増すだけだから言い合いは止めて。もう一ヶ月も歩いて来て心身共に疲れてるから、次の休憩は長めに取ろう。この先もどれくらい歩くか分からないしね。ターもヨウズー様に言われた事を、忠実に守れるようにならないといけないね」

 チェンカンが背嚢を背負いながら言うと、タールェはまた仏頂面になった。ハウロンとチェンカンはこの遣り取りだけで気力を消耗していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ