表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠長に行こう  作者: 丹午心月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/43

第二十話 しかして楽しくない冬休み

 冬休みに入って早十日が過ぎ、十五月十一日になると、玲太郎は殆どの時間をルニリナと一緒に過ごす事が当然になっていた。そしてノユとズヤも当然のようにいたが、二体が気になる事は不思議となかった。ズヤは図書室に居着いて傍におらず、ノユだけだった事が良かったのかも知れない。ヌトは颯が使用していた寝台で熟睡している。

「理科の問題集も意外と早く終わりましたね。課題はこれで最後でしたので、お約束した通り、これからは殆どの時間を付与術の練習としましょうか」

「やった! これでやっと付与術の練習が出来るのよ」

 ルニリナは微笑みながら玲太郎を見ていた。玲太郎は冬休みに入って魔術系の実技は浮いて移動する練習のみを遣っていた。

「それでは中型の水晶を出しますね」

「はーい」

 満面の笑みを浮かべて元気良く返事をする。ルニリナが次々に中型の水晶を顕現させ、積み上がって行く様を見ている内に笑顔が消えて行った。それに気付いたルニリナが口を開く。

「呆然としているように見えますが、どうかしましたか?」

「これが全部消えるんだろうなぁと思ったら、気持ちが少し暗くなったんです」

「気持ちは解りますが、する前から暗くならないで下さいね。いずれは出来ると信じて頑張りましょう」

「はい」

 気を引き締めた玲太郎は真面目な顔で返事をした。

「取り敢えずはこれで行きましょうか。なくなったらまた新しい物を出しますね」

「ありがとうございます」

「知っておるぞ。これに魔力を注入して魔石なる物を作るのであろう?」

 傍で眺めていたノユがにわかに会話に入って来た。ズヤは水晶を手にすると一瞬で最大限まで魔力を注いだ。

「これ程度であるならわし等とて余裕で出来るというに、玲太郎には出来ぬのか? 何故なにゆえよ?」

「玲太郎君は魔力量が多過ぎて微細な操作がまだ出来ないのですよ」

「何? そのような事が有り得るのか?」

 ズヤが怪訝そうに玲太郎を見る。

「玲太郎君は我々の魔力量とは比較になりませんのでね。ですので大変なのですよ。私も魔力量が物凄く増えて、感覚に差異が出来てしまってからは梃子てこ摺りました」

「比較にならない、は大げさなんじゃないですか?」

 苦笑しながら玲太郎が言うと、ノユも苦笑する。

「大袈裟ではないぞ。玲太郎は己の魔力量が如何程の物なのか、全く把握しておらぬのであるな」

「成程、多過ぎて微細な操作が出来ぬという事が有り得るのであるな。思い起こせば、わし等もそうであったのやも知れぬ……」

「わしは昔の事過ぎて憶えておらぬがな」

「わしも憶えてはおらぬな……」

 ルニリナは苦笑しながら玲太郎に顔を向けた。

「さて、このお二方は置いておき、玲太郎君は練習を開始しましょうか」

「はい」

 立ち上がって一番上にある水晶を取ると、一瞬で色が濃藍こいあいになり、亀裂が何本も走ってしまった。ルニリナが不思議そうに破壊された水晶を見る。

「瞬間的にここまで入るのですね」

「そうです。瞬間的に止めてこの有様です……」

「玲太郎のように魔力量が多いと、俗世で生きるのは難しい事なのであるな……」

 ズヤが眉をしかめて言った。ノユが玲太郎に視線を遣る。

「練習あるのみよ。そうであろう?」

「そうですね」

 ノユの言った事に同調したルニリナは玲太郎が手にしている水晶を消した。

「まだまだ沢山出しますので、どんどん挑戦して行って下さいね」

「はい」

 玲太郎はまた上の水晶を手にすると次々と手に取っては魔力を注いで行く。瞬時に色が濃藍に、時には黒に近い色にまで染まる。それを脇に置き、破壊された物はルニリナが即座に消去し、一山消えると新しく水晶の山を作った。途中で休憩を挟みながら、それを約三時間続けた所で昼食間近となり、練習は切り上げた。

「呪術の時と違って、出来る気配が丸でないな……」

 ズヤが信じられないと言った表情で玲太郎を見ていた。ノユが頷く。

「然り」

 玲太郎は苦笑した。

「大型に挑戦した時は五ヶ月くらいかかったから、中型もそれくらいか、それ以上はかかると思うのよ」

「それでは弱気にならず、根気良く頑張りましょうね」

「はい」

 穏やかな微笑みを浮かべたルニリナが言った事に、玲太郎は大きく頷いた。

「やはり向き不向きがあるのであるな……」

「不慣れなだけであろうて。そう言うて遣るな」

「ふん。ノユは己を良きように見せようとしおって……」

「そうではないのであるが、ま、不慣れなのはまことであろうが」

「それはそうではある……やも知れぬな」

 二体の会話を聞いていたルニリナが「ふふ」と笑った。

「ノユとズヤは仲がよいね。ヌトが交わるとどうなるの?」

「どうにもならぬぞ」

「そうであるな。大差ないな」

 ノユに続いてズヤが答えると、ルニリナが微笑む。

「ノユはヌトと私の所に来ていましたからね。追い掛け回すヌトを微笑ましく見ていましたよね。ね?」

「そのような事もあったな……。懐かしいわ」

「ヌトは悪戯が過ぎるのよな」

「そうなの? 僕には何もやって来なかったよ?」

「ま、ヌトは颯が特別であるからな、その颯の近しい者に悪戯は遣るまいて」

 玲太郎を見ながらノユが言うと、ズヤが怪訝そうにノユを見た。

「そうなのであるか? 玲太郎が特別なのではないのか?」

「ハソから聞いた限りではな。玲太郎が赤子の頃から面倒を見ておるから、玲太郎もまた特別ではあろうが、颯には逆らえぬようであるからな」

「わしはハソからそのような話は聞いておらぬが」

「それはズヤが突っ込んで訊かなかっただけの話であろうて」

「確かに。ノユはヌトの保護者であるから、気になって訊いたのであろうが、わしはそうではないからな」

「ふふ。何やら話が盛り上がっているようですし、お二方を置いて食堂へ行きましょうか」

 ルニリナが微笑んで玲太郎に言うと、玲太郎が頷いた。

「分かりました」

 二人は立ち上がると勉強部屋兼図書室を後にした。ノユとズヤは二人が部屋を出て行っても、延々と言い合っていた。


 夕食前になると居室で水伯と玲太郎とルニリナが寛いでいる所に明良が遣って来て、玲太郎を独占しようとするのが日課となりつつあった。水伯とルニリナは苦笑してその様子を眺めていた。水伯の隣に座っていた玲太郎は、明良の膝に座らせた上に抱き締められていた。明良はルニリナがいても全く気にしていなかった。

「それで今日は何を遣っていたの?」

「全部の課題が終わったから、今日から中型の魔石作りの練習を始めたのよ。やっぱり簡単には出来ないけど頑張るね」

「そうだね。無理をしない程度に頑張ってね。それにつけても、今日は一緒にお風呂に入ろうか?」

「うん? はーちゃんが来てくれるからよいのよ」

「でも颯が来るのは、二十五時半を過ぎてからだから遅いじゃない。何時いつもなら二十五時には眠っているだろう?」

「大丈夫、たっぷり昼寝をして待つのよ」

 これもここの所、同じ会話をしている。明良は断られて色々な感情が交錯しているのか、名状し難い表情をしていた。

「明良も毎日懲りずに誘えるのだね。感心するよ」

 水伯が柔和な微笑みを浮かべて言うと、耳に入っていないようで固まったままだった。

「アメイルグ先生は玲太郎君が大好きなんですね」

「大好きという言葉では片付けられないのだけれどね」

 そう言って苦笑する水伯を見た玲太郎は頷いた。

「ばあちゃんが言う所の、執着ってやつなのよ」

「あはは。玲太郎はそれでよいのかい?」

「これはもう仕方がないのよ。だから諦めてる部分もあるね」

 平然と言うと、ルニリナが苦笑した。

「玲太郎君がこのように溺愛されているとは思いも寄りませんでした。アメイルグ先生は愛情深い方だったのですね」

「愛情が深過ぎて星の裏側まで行っているよ」

「それは言えてるかも」

 水伯と玲太郎が顔を見合わせて笑った。そこへ扉を叩く音がして、明良以外が扉の方を見た。開扉すると颯が顔を覗かせる。

「ばあちゃんが、出来ているから食べるならどうぞって言っているよ」

「いらっしゃい。それではご飯にしようか」

 水伯がそう言って立ち上がると、玲太郎は明良の手を解いて膝から下りた。振り返って明良の両手を握る。

「あーちゃん、夕食だよ? あーちゃん」

 放心していた明良は玲太郎に手を引っ張られ、我に返って玲太郎を見る。

「夕食だよ」

「ああ、夕食ね。解った」

 そう言って立ち上がり、玲太郎に手を引かれて食堂へ向かった。食堂には既に水伯とルニリナが着席していて、颯と八千代が給仕をしていた。明良が皿に視線を遣る。

「今日は天麩羅なのだね」

「そうなんだよ。水伯さんがエビを買って来てくれたから、天麩羅で食べたくなってね。明良と颯は多めに盛ってあるけど、足りなかったら厨房には余分に作ってあるから、自分で取りに行ってね」

「解った。ありがとう」

 明良はそう言いながら玲太郎を椅子に座らせると、自分の席に向かった。給仕が終わった颯と八千代も着席する。

「頂きます」

 先ず、水伯が挨拶をすると、皆が口々に挨拶をして食べ始める。

「ばあちゃん、めでたい事がないんだけど、久し振りにバラ寿司が食べたいわ」

「んっ」

 八千代は手で口を覆う。

「唐突に何?」

「いやあ、ずっと食べたいなって思ってたんだよ」

「だけど颯は冬休みに入っても来たり来なかったりで、その日にいるのかどうかも直前じゃないと分からないじゃないの」

「それはそうなんだけど、作っても来なかったら弁当箱に詰めておいてよ。必ず取りに来るから」

「バラ寿司を作ったとして、誰がそれを連絡するの?」

「兄貴が連絡をくれる」

「そうなの?」

 八千代が明良を見ると、明良が八千代を見て頷いた。

「そうらしいね」

 八千代は直ぐに颯へ視線を移した。

「分かったよ。材料はあるし、エビも残ってる。うん、それじゃあ明日作るから、来られなかったらお弁当箱に詰めておくよ。二箱でいい?」

「うん、それでお願い。兄貴、連絡しなくてもいいみたいだから悪いな」

「それは楽でよいのだけれど、来られそうになかったら早目に連絡するように」

「解った。なるべく早く連絡するよ」

 ルニリナは微笑ましそうに咀嚼をしながら見ていた。

「颯は明日も忙しそうですね」

「そうなんだよなあ……」

 苦笑しながらルニリナを見て頷いた。

「それだけ忙しいのなら、訓練の方は休みにしてもよいからね」

 水伯が心配そうに言うと、颯は明るい笑顔を見せた。

「いや、それは大丈夫。三人脱落したから、浮いた時間にご飯を食べているんだけど、騎士団の寮のご飯も中々美味しいよ」

「まだ三人しか脱落していないのだね」

「まあ、近い内に全員脱落しそうではあるけど、どうだろうな。三人は付いて来られなくて翌日に辞めたんだけどな」

 そう言ってようやく一口目を頬張った。颯の一口目は南瓜の天麩羅だった。

「まだ七人もしがみ付いているのだね。心を入れ替えていたとしても、今までの事があるから辞めて頂く方向で動いて貰って構わないよ」

 いつもの微笑みを浮かべて水伯が言い放つと、颯は頷いて口にある物を飲み込んだ。

「その積り。今日から本気を出すわ。じっ分前に来ている奴なんて一人もいないんだぞ。不心得者ばかりだよ」

「五分前に来る人はいるの?」

 俄に玲太郎が会話に入って来ると、颯が鼻で笑う。

「五分前もいないなあ」

「そうなの。それはダメだね。僕ですら五分前には着くようにしてるのに」

「五分前に行っているとは、玲太郎は賢いね」

 明良が満面の笑みを浮かべて言うと玲太郎以外が苦笑した。

「ほめ過ぎはダメなのよ」

 玲太郎は大真面目な顔をして言った。

「それにしても天麩羅が美味しいわ。いや、海老が美味しいのか?」

「そうなのよ。このエビ、味が濃くて美味しいよね」

「これは和伍で養殖をしている物を買って来たのだけれど、本当に美味しいね」

 颯の話題に、八千代、水伯が続いて乗って来た。

「天麩羅の事は知っていましたが、食べる事は初めてなのですよ。八千代さん、本当に美味しいです」

 ルニリナが八千代に顔を向けて微笑みながら言うと、八千代がルニリナを見る。

「そう? ありがとう」

 嬉しそうな表情をすると、それを見た颯も笑顔になっていた。

「閣下、海老も美味しいです」

「そうだね」

 水伯も柔和な表情でルニリナを見た。それからしばらく皆は無言で食べ進めた。

「兄貴、天麩羅入れて来るけど、どうする? いる?」

「うん、貰う。後、ご飯とひじきの煮付けも入れて来て貰える?」

「解った」

 そう言って席を立つと、台車に皿と小鉢と茶碗を二人分に、颯の分の汁椀を載せて退室した。


 その夜、華美な調度品が置かれている一室で、ナルアーが父親から叱責を受けていた。

「馬鹿者が! あれほどはやるなと言っておいただろうが! 今日、陛下がナルアー家をバハール殿下に二度と近付けないと仰られた。お前はもうカンタロッダ下学院の教師ではなくなったし、従者でもなくなったし、家庭教師でもなくなったぞ」

「そ、そんな! 私が殿下のお傍にいないのなら、誰がお傍に付くと言うのですか!?」

「情報によると、近々アメイルグ公爵とその弟が、陛下の私的な執務室に招かれているそうだ。そちらにも仕込んではいるから、その手の情報は得られるだろう」

「イノウエ!? あのような下等な者が陛下と謁見をなさるのですか?」

「歴史が古いだけの家門の分際でバハール殿下の従者にでもなられてみろ、未来の陛下が汚れるぞ。それもこれも、お前の不手際の所為なのだからな!」

 そう言って杖を振り上げると、ナルアーを打った。ナルアーはわなないている。

「私が苦労してバハール殿下の従者として、そして家庭教師としてお前を付けたと言うのに、何故私の言う事を聞かなかったのだ!」

 また杖を振り上げて、ナルアーを打った。そしてその杖を床に叩き付けた。

「バハール殿下はチルナイチオ様の再臨であらせられると言うのに……」

 椅子に座って見ていた青年が立ち上がると杖を拾った。

「父上、バハール殿下は少なくとも二百年は生きます。ですから、その間にまた策を練ればよいのです」

 そう言って父親に杖を渡そうと差し出した。

「デモイスがチルチオ教であるという事が露見していると考えねばならない。……となれば、私の事も身近におる者も洗い浚い調査される。これからはチルチオ教と距離を取らねばならないのだ!」

 杖を取ると、青年も打ち付けた。ナルアーが青年の前に出て代わりに打たれると父親は手を止めた。

「デモイス、お前は前に出て来るな! 私はケイティスに躾をしておるのだ!」

「私の失敗は私が取り戻しますので、父上はお気をお静め下さい」

「お前如きに取り戻せる程度の失敗ではないだろうが!」

 更にげっ高してナルアーを杖で何度となく打った。

「もうチルチオ教徒の裏方としてすらも携わる事も出来なくなったのだ! デモイスの所為で全てが水泡に帰したのだぞ!」

 杖が音を立てて折れてしまうと父親は肩で息をした。折れた杖をナルアーに投げ付け、そしてそのまま部屋を退室し、二人は残された。

「兄上……」

「お前はお前のなすべき事をしろ。俺は俺でするから」

 ナルアーは俯き気味で徐に歩いて部屋を後にする姿を、ケイティスは悲愴な表情で眺めていた。


 夕食後にルニリナは、水伯と颯と八千代の四人で居室にいて談話をしている。颯はウィシュヘンド騎士団の寮へ行く為、二十時四十分までしかいないが、夕食を摂りに来た日はそれまで一緒に過ごしていた。

 そして、玲太郎と一緒に過ごすのは明良だけだった。それもその筈、居室ではなく、勉強部屋兼図書室へ向かうのだから。二人は長椅子に座っていて、明良が膝に肘を突いて上体を倒し、玲太郎と目線を近付けていた。

「それで今日の復習で、魔石作りを遣る?」

「それはやらないのよ。今日、一杯やったからもうよいのよ」

「そんなに沢山遣ったの?」

「うん。三時間はやった。休憩もしたけどね」

「そうなの。それで色はどの程度濃かったの?」

「紺より薄かったり、濃かったりだね。本当に少しのつもりで注いだのに、全然ダメだったのよ」

「そう。小型の、それも屑水晶でも壊れないように魔力を注がないといけないから、相当練習を遣らないといけないね」

「それに、金属でも耳飾りとか指輪とか、小さい物にも付与術をかけられるようにならないとね」

「試しにこの耳飾りで遣ってみる?」

「えっ」

 明良が触れている耳飾りを見る。

「壊れても直ぐに作れるからね。でも物としてはよい物だから、小型のくず水晶を超える魔力量を飲み込むよ?」

「そうなの? どの水晶の大きさくらいの魔力量になるの?」

「特大の水晶で、勿論高品質ね」

「片方で、だよね?」

「うん、そうだよ。今着けている耳飾りの金属や宝石は私の魔力を含んでいるから、それと玲太郎の魔力を馴染ませなければならないけれど、玲太郎ならば巧く出来ると思うよ」

「特大型の魔力量で済むならどうにか出来ると思うけど、その上に魔力を馴染ませるなんて難しいのよ……」

「そう言わずに、試すだけ試してみない?」

「ええ? ……試すにしても、……付与って何を付与すればよいの?」

「無難な所で言えば、身体強化だね。魔力強化は不要だし、上肢、下肢強化も不要だし…」

「じょうし? かしって何?」

「簡単に言うと上肢が両腕で、下肢が両脚ね」

「腕と脚ね。初めからそう言ってよぉ」

「ご免ね。それで続きなのだけれど、上半身、下半身と分けるのも不要だし、体全体を強化する方が簡単だし、遣り易いと思うのだけれど、どう?」

「その、脚だけの強化ってどうなるの?」

「足が速くなったり、蹴り技が強くなったりだね。身体強化でもそうなるから、上下に分けて遣らないだけ簡単だよ?」

「えっ、腕だけとか脚だけとかの方が簡単そうなのに、そうじゃないんだ?」

「部位指定だからね。視力や聴力、嗅覚の強化も出来るよ。但し、それを遣ると、着けたままではいられないのだけれどね」

「ああ、着けてる間、良く見えたり、うるさかったり、臭いをきつく感じたりするから?」

「そうだね。脳を強化する事も出来るのだけれど、質の高い人が付与してしまうと過労死するから、玲太郎は遣らない方がよいね」

「ふうん? 全てにおいて質が高いとよいという訳じゃないんだね」

「そうなのだよ。それにつけても、一番手軽な付与は、この耳飾り自体を強化して壊れ難くするという物だけれど、私に武器は必要がないから、玲太郎が掛ける身体強化がどれ程の物なのかを体感させて貰えない?」

 玲太郎は眉を顰めた。

「今、武器って言った?」

「うん、言ったよ。壊れ難くしている装飾品は使い方に依っては武器にもなるからね。…なのだけれど、私には必要がないから、身体強化の方がよいと思うのだよね」

 玲太郎は明良から視線を外して、暫く黙った。

「どうかしたの?」

 視線を明良に戻すと「うーん」と唸った。

「折角の新作の耳飾りなのに、壊したら勿体ないと思うのよ」

「玲太郎が作ってくれた物であればそうなのだけれど、玲太郎が作ってくれたのは図案だし、これ程度の耳飾りなら直ぐ作れるから、壊れてもどうという事はないよ」

「ふうん? それなら壊れてもよいね……。よいの?」

「うん、構わないよ」

「本当によいの?」

「うん、よいよ」

 明良は姿勢を正して両方の耳飾りを取ると、玲太郎に差し出した。玲太郎は明良を見上げた。明良は笑顔で頷くと、玲太郎は掌にある耳飾りを取った。

「身体強化って、『体よ、強くなれ』だよね?」

「呪文は唱えないで、念じるだけね。そうでなければ、玲太郎だと壊すと思うからね」

 玲太郎は耳飾りを凝視したまま、動かなくなった。

「もう遣っているの?」

 首を横に振った玲太郎が明良を見上げる。

「ううん。これに付与したら、あーちゃん、これをきちんと着けるの?」

「うん、勿論着けるよ。玲太郎の付与した身体強化を体感しなくてはね」

「……本当にぃ?」

「本当の本当にきちんと着けるよ?」

「効果が切れるまで?」

「それはない。一度着けたらその後は飾っておくに決まっているだろう? 玲太郎が初めて付与する身体強化だよ? そのような貴重な物を濫りに身に着けたりなどしないよ」

 即答したと思ったら早口で言われ、玲太郎は苦笑した。

「注げる魔力量は特大型程度と言ったけれど、やや大型寄りだからね。成功する確率の方が高いと思うよ」

「そうなの? でも今の魔力操作だと魔力を馴染ませるのに気を取られて失敗しちゃうと思うから、期待はしないでね?」

 上体を倒して膝の上で肘を突くと、玲太郎を見て満面の笑みを浮かべた。

「成功するまで幾つでも作るけれど?」

「そこまでやるぅ?」

 目を丸くした玲太郎を満面の笑みを浮かべたままで見詰めている明良は頷いた。

「遣りますとも」

 それを聞いて苦笑したが、直ぐに真面目な表情になる。

「分かった。それじゃあやるのよ」

「唱えると壊れる確率が上がるだろうから念じるだけね?」

「それはさっきも聞いたから分かってる」

 苦笑しながら言うと、明良も苦笑した。

「それは失礼しました」

「でも本当に失敗しそうだから、期待しないでね?」

「だから成功するまで幾らでも作り続けるから大丈夫だよ」

「そう……。それじゃあ始めるよ?」

「お願いします」

 この後、颯が帰って来るまで、明良は耳飾り作りを、玲太郎は付与を延々と遣り続けていた。


 玲太郎が魔石作りに飽き始めた十五月二十日、ルニリナが休暇に入って帰省し、代わりに水伯が水晶作りを買って出ていた。玲太郎と水伯は休憩を挟みながら午前の間食後と、それに昼食後にも遣り続けていた。二階にある執務室で向かい合って座っている二人は同時に伸びをした。水伯がそれで含み笑いをすると、玲太郎に視線を向ける。

「そろそろ休憩を挟もう。玲太郎は何が飲みたい?」

「僕は緑茶が飲みたい」

「解った。緑茶ね」

 机に湯飲みが出現すると湯気が立っていた。それに気付いた玲太郎は水伯を見る。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 水伯の前にも湯呑みがあった。

「父上はそうやってお茶を出してくれるけど、いつもどうやってるの?」

「茶筒の中から茶葉だけを持って来て、熱湯の中にそれを入れて、味がしっかりと出ている状態にして、水屋から湯呑みを持って来て、茶葉を取り除いてお茶を湯飲みに注いで、それから此処に出す、というのを一瞬で遣っているのだよ」

「なるほど? 出来ている物を出してるんじゃないんだね。……でもそれだと、数分かかるよね? それが瞬時に出来るのはどうしてなの?」

「何度も何度も遣っている内に、時間を短縮出来るようになったのだよ。植物を一瞬で成長させられるだろう? 茶葉は植物から出来ているから、その要領で出来ているのかも知れないね? 私も詳しい事は解っていないから、その程度の認識しかなくてご免ね」

「それじゃあ茶葉も一瞬で作れちゃうの?」

「うん、それも出来るね」

「じゃあじゃあ、茶葉を一杯作って、それで稼げるんじゃないの?」

「考えてご覧? 大量に茶葉を作れて、それを市場に流すとして、どうなると思う?」

 玲太郎は視線を泳がせて黙考する。何かを閃いたのか、表情が変わった。

「あ、分かった。大量に市場に出回ると、価格が下がる?」

「そうだね。値崩れすると大して稼げないね。それにつけても、私が作った茶葉よりも、丹精込めて作っている茶葉の方が美味しいからね」

「そうなの?」

「私はチャの木を元気に育てられるけれど、不思議と、美味しい、とはならないのだよね」

「へぇ、そうなんだね」

「茶葉にする工程がまずい可能性もあるのだけれどね。玲太郎ならば、美味しく作れるかも知れないから、遣ってみるとよいかも知れないね?」

「お茶の木を育てるのかぁ……。うーん、僕はね、はーちゃんがやってる施薬院にお薬を卸したいから、薬草を育てたいのよ」

「それならば、薬草師になるのだね?」

「いつまでも父上におんぶに抱っこじゃダメでしょ? 稼げるようにならなきゃね。どこかのお店に置いてもらうつもりなんだけどね…」

「うん? 何時いつまでも私におんぶに抱っこさでよいのだよ?」

「でもいつかは僕だって成長して大人になるからね」

 ずっと柔和な表情でいた水伯が、徐々に難しい表情へ変貌した。

「……そうだね。けれど、体の方が何時頃から大きくなるのか、それはまだ判らないのだからね。私も本当に少しずつ、二千有余年掛けて大きくなったから玲太郎もそうなるのだろうけれど、魔力量からして私以上に時間が掛かると思うよ?」

 そんな表情の水伯を見て、玲太郎は気落ちした。そして湯飲みを持つと、何度も息を吹き掛けてから茶を啜った。水伯はまた柔和な表情に戻る。

「ふふ。玲太郎は大きくなりたくないと以前に言っていたから、それが叶ってしまったのだね」

「僕、そんな事を言った覚えがないんだけど、はーちゃんにもよく言われるのよね」

「私も颯から聞いたのだけれどね。明良も知っている筈だよ?」

「えー、そうなの? もしかして、はーちゃんの作り話じゃないの?」

「あはは。玲太郎はなかった事にしたいのだね?」

「なかった事っていうか、実際なかったと思うのよ」

「それではそれを颯に訊かなければね。そうすれば事実かどうか、判ると思うよ?」

「分かった。言ってみる」

 水伯は柔和に微笑んで、湯呑みを持つと茶を啜った。玲太郎も茶を啜る。

「若しかして、玲太郎は大きくなりたいのかい?」

 水伯に視線を遣ると頷いて湯飲みを置いた。

「うん、そう。はーちゃんくらい大きくなって、いーっぱい食べたいのよ」

「ああ、沢山食べたいから大きくなりたいのだね?」

「そうなのよ」

 水伯は柔らかく微笑みながら茶を啜る。

「颯も明良も沢山食べるから、あれを見ていると羨ましくなるよね」

「父上も? 僕もあれくらい食べたいから、早く体を大きくしたいんだけど、いつ大きくなるのか、それが分からないもんねぇ……」

「私は颯や明良より体が大きいけれど、あのように食べたりはしないよ? だから急いで大きくなっても、沢山食べられないかも知れないよ?」

 玲太郎は残念そうな顔をした。

「ああ、体が大きいからって、必ず食べられる訳じゃないのね」

「うん、そうだよ。あの二人と兄弟だから、玲太郎も素質はあるだろうけれどね」

「それじゃあ、僕も食べようと思ったらもっと食べられる?」

「うーん、それは……、現時点で大して食べられていないから、無理ではないのかい?」

「そう……」

 落胆した玲太郎は少し温くなった茶を飲んだ。それを見て水伯が「ふふふ」と笑った。

「何? 何かおかしかった?」

「ああ、ご免ね。颯と一緒に食事をしていたら同じように食べたくなるよね」

 柔和な微笑みを向けると、玲太郎は苦笑した。

「気持ちは解らなくもないけれど、無理して食べるのは良くないからね? お腹が痛くなったら困るから止めておくのだよ?」

「うん、分かった。無理して食べないのよ」

 水伯はそれを聞いて頷いた。玲太郎は茶を二口飲むと、何かを思い出したのか、湯呑みを直ぐに置いた。

「聞こう聞こうと思って忘れてたのよ。あのね、王家には反転の首飾りって言うのがあるって聞いたんだけど、もしかして、もしかしなくても父上が作ったの?」

「良く解ったね。そうだよ」

「うわー! やっぱり? 父上は凄いのよ! 所で、反転って、毒だと薬になるの?」

 はしゃいでいる玲太郎を最初は柔和に微笑んで見ていた水伯は、質問を聞いて俄に真面目な表情になる。

「ならないね。首飾りをしている人に服毒させた誰かが服毒した事になるのだよ。本来は一人が死ぬのだけれど、王家にある物は特製でね、一族郎党が死ぬようになっていて、王家に反旗を翻す事の恐ろしさの一端を見せ付けているのだよ」

 玲太郎は険しい表情で聞いていた。

「それって呪術なの? 付与術で出来る事なの?」

「私は呪術の類だと思っているけれどね。付与でもそういう事が出来るのかい?」

「それは知らないけど、どっちなのか、気になったから聞いたのよ」

「私が使っている術は言霊だからね。発する言葉に魔力を籠めるとその通りになるという術だよ。出来ない事もあるけれどね、おまじないよりも呪いに近いと思うのだけれど、どうだろうね」

 玲太郎は顔を顰めた。

「の、呪い?」

「そう、呪い。私の使い方の所為なのだろうね」

 そう言うと柔和な表情で湯呑みを持ち、茶を三口飲んだ。

「そんな事はないのよ。父上は植物を育てられるし、僕の作った玉を消してくれるし、室温だって一定にしてるじゃない。呪いじゃないのよ」

「ふふ、有難う。玲太郎は優しいね。それにつけても、明良の耳飾りに身体強化を付与出来たのだよね? 遣ってみてどうだった?」

 笑顔で水伯が訊くと、玲太郎は首を傾げた。

「あれねぇ、僕も良く分からない内に出来ちゃって……」

「そうなのだね」

「だから片方が出来た後、もう片方は中々出来なかったのよ。意地になってやってた感じだったね」

「でも出来て良かったじゃないの。明良もあの自慢の仕様と言ったらなかったね。ふふふ」

「ああ、あれね……。ルニリナ先生の前であれは恥ずかしかったのよ……」

 その時の事を思い出して、玲太郎が赤面した。

「ニーティもあのような明良を見てこわ張っていたものね」

「あー、思い出したくないのよ……」

 玲太郎は両手で顔を覆って俯いてしまった。

「それでも両方を着けていないと効果が出ないのだよね?」

「あーちゃんはそう言ってたけどね。片方ずつやったのに、おかしいよね?」

「そうだね、両方で一つと考えていたから、それが反映されたのではないのかい?」

 湯呑みを持ち上げようとしていた手が止まる。

「なるほど。それは考えてたって言うか、それが普通だと思い込んでたかも知れないね……。あれって、片方ずつに付与出来るの?」

「出来るよ。付与する場合はそれぞれ違う物を付与するね。身体強化を付与した装身具を二つ着けても、効果は一つ着けている状態と同じだからね」

 茶を飲みながら聞いていた玲太郎は湯呑みを静かに置いた。

「あ、ああ!? そうだった! 今思い出したのよ。重複しないんだった。どの道、別々に付与出来てても、どっちかの片方しか効果がなかったんだね」

「重複しない事は習っていたのだね」

「そう。うっかり忘れてたのよ。でも勿体ない事をしちゃったような気がする。どうせなら、片方ずつ違う物を付与すれば良かったね。その方が練習になったのよ」

「明良が身体強化を希望したのだから、それで良かったのだよ。魔石作りに飽きたのならば、装飾品を作ろうか? 其方そちらで練習を遣ってみたい?」

「あ、ううん、そこまでやってくれなくても大丈夫。やっと大型の魔石が作れるようになったし、今は中型の水晶での魔石作りに挑戦する方がよいと思う」

「そう? 若しかして何か骨を掴めそうなの?」

「それはないけど、なんか、もう少しのような気がするのよ」

「解った」

 水伯は茶を飲み干すと二個の湯呑みを消した。

「それでは頑張って練習を遣ろうね」

 そう言いながら柔和に微笑むと、玲太郎も釣られて笑顔になった。そして水晶の山が一瞬で顕現した。それを見た玲太郎から笑顔が消えた。


 二十二日になり、午前十一時を過ぎた頃、玲太郎は正装に着替えていた。明良と颯も正装で水伯邸に遣って来て、水伯だけがいつもの黒尽くめの格好だった。居室に集まり、玲太郎と水伯が一人掛けの椅子に、明良と颯が長椅子に座って玲太郎を見ている。

「玲太郎は王弟殿下の所へ遊びに行くだけだから、もっと気楽な格好でもいいんじゃないのか?」

 そう言ったのは颯で、水伯は思わず玲太郎を見た。

「三つ揃えを着たいと言うから着せたのだけれど、普段着がよいのだろうか?」

「はぁ……。そんな事より僕は行きたくないのよ」

 仏頂面の玲太郎を苦笑しながら見ている水伯が口を開く。

「まだそのような事を言っているのかい? 自分できちんと断らなかったのだから諦めなさい」

「はぁ……」

「今日の玲太郎は格好よいね。そのまま持って帰って飾っておきたいよ」

 明良一人が満面の笑みを浮かべて喜んでいるようだった。

「自分で三つ揃えを着たいと言ったのならば、行く気はあるのだろう?」

 そう訊いて来た水伯を見ると、眉を顰めた。

「行く気はないけど、行かないといけなくなっちゃってるんだもん……」

「よいではないの。それにしても二人も正装なのだね。私室に招集されているのだから、二人こそもう少し気楽な格好でもよいのではないの?」

 水伯は明良と颯を交互に何度も見た。

「うーん、国王陛下だからなあ。まあ、念の為」

「本当に玲太郎は凛々しいよ。これは念写で残さなくてはならないね。うちに帰ったら必ず遣るからね」

 玲太郎は思わず苦笑してしまった。

「国王陛下の私室の方には行った事がないから、直接飛べないぞ? 何処どこへ飛べばいいんだ?」

「正門の直ぐ北側に式典や晩餐会などが行われている宮殿があって、その北側の方に王宮があるね。御所は広いから、瞬間移動で上空に飛んで、それから王宮の場所を確認してから下りる、という風にしてみてはどうだろうか?」

「それじゃあそうしよう。目視すれば瞬間移動で飛べるから、それで距離を詰めて行くとしようか」

 颯は明良を見ると、笑顔で玲太郎を見詰めていた。

「兄貴もそれでいいか?」

「うん、よいよ。私も三つ揃えに着替えようと思うから、少し待っていて貰える?」

「いやいや、玲太郎とお揃いにしなくていいから、その格好で行けよ」

 明良は颯を見るといつもの無表情になった。

「お揃いの何がいけないの?」

「どうせ色まで一緒にしようとして服を出し捲る積りだろ? 兄貴は生地は元より、生地の色合いとか服の形状とか、細部にまで拘るから時間が掛かるじゃないか。その間にニーティが来たら置いて行くけどいいのか?」

「む……」

 水伯が含み笑いをする。

「まあまあ、ニーティが来るまでに済ませばよいだけだから、構わないじゃないの」

「そんな事を言っていたら、かなり待たされるぞ?」

 明良が水伯を見る。

「水伯が服を出してくれれば直ぐにでも済む話なのだけれどね?」

 思わず鼻で笑ってしまった水伯は明良と視線を合わせた。

「それは駄目だよ。もう作らないと言っただろう?」

「水伯の作る生地は再現が難しいのだよね……」

「そう簡単に模倣されては困るね。ふふ」

「別にお揃いじゃなくてもよいじゃない。あーちゃん、その服、とっても似合ってるのよ」

「そう? 私も玲太郎と同じ灰色がよいのだけれど……」

「でも今日は珍しく真っ黒の服だけど、どうしたの?」

「颯が、一応黒でと言うから黒にしたのだけれどね。何時いつもの色でもよいのにね」

 玲太郎の目を真っ直ぐ見て、微笑みながら言った。

「でもえり締と留め具はいつもの色じゃない。それだけで十分じゃないの? ダメなの?」

「やはり全身玲太郎色がよいと思うのだけれどね」

 大真面目に言うと、玲太郎は苦笑した。

「あれはあれで、僕が恥ずかしいのよ……」

「何故恥ずかしいの? 恥ずかしがる事など何一つないのに……」

「そう思ってるのは兄貴だけだって。直にニーティが着くから、俺が玄関まで迎えに行くわ」

 そう言って立ち上がる颯の顔を見上げた水伯も立ち上がった。

「それでは皆で行こう。そしてそのまま行けばよいよ」

「解った」

 明良も立ち上がると、玲太郎もそれに続いた。皆で居室を後にし、玄関広間へと向かう。


 玲太郎とルニリナは三人と別れて、王宮の居室に通されていた。室内は約三十畳あり、白を基調としていて、床には草花の模様の絨毯が敷かれている。品のよい調度品が置かれ、玲太郎はルニリナと一緒に長椅子に座って待っていた。

 程なくして扉を叩く音がして、二人は同時にそちらを見るとバハールが視界に入る。バハールはルニリナがいる事に驚いている様子だった。

「いらっしゃい。護衛も一緒だと聞いていましたが、まさか先生がお出でになるとは思ってもいませんでした」

「こんにちは。今日はウィシュヘンド君の護衛ですので、本当なら後ろに立っているべきなのですが、ウィシュヘンド君が横に座って欲しいと仰られましてここにいます」

 バハールは玲太郎の正面に座る。玲太郎はそれを見ながら口を開いた。

「そうなの。やっぱり座ってもらわないと、なんだか悪い気がして……」

「でもどうしてルニリナ先生がポダギルグの護衛をしているんですか?」

「アメイルグ公爵閣下からのご依頼です。大公閣下は何も仰らなかったのですけどね」

「アメイルグ先生も心配性なんですね」

「本当にね。でもルニリナ先生がいてくれるから、僕も安心なのよ」

 玲太郎はそう言ってルニリナを見ると、ルニリナも玲太郎を見た。二人は微笑み合うとバハールに顔を向けた。

「私がいますけど、お気になさらずにお二人で遊んで下さいね」

「先生がいらっしゃると話せる事も話せないですよ」

 バハールが苦笑しながら言ったが、ルニリナは微笑みを崩さなかった。

「私に知られると不味い事でもあるのですか? それは困りましたね」

「僕は別に知られてまずい事はないから話せます」

 玲太郎がルニリナを見ながら言うと、ルニリナが玲太郎に顔を向けた。

「それはありがとううございます」

 玲太郎は気になっていた事があってバハールに顔を向ける。

「それよりも、ディッチはどうして僕を王宮に呼んだの?」

「初めて出来た友達だから、母上に会ってもらいたくてね」

「えっ、そうなの?」

「もうすぐ来るよ」

 バハールの眩しい笑顔に、玲太郎は眩暈めまいがした。

「そうなの……。ルニリナ先生がいてくれて良かったと心底思ったのよ……」

 そして高い高い天井を見上げた。

「母上が会いたいと言うものだから、ごめんね」

「王太后様は入学式で拝見致しましたね。ご挨拶をなさっていたでしょう? 憶えていませんか?」

 ルニリナが優しく語り掛けると、玲太郎は頷いた。

「保護者代表で挨拶をしてたのは覚えてます」

「お優しそうな方でしたから、大丈夫ですよ」

「それでも礼儀作法がきちんと出来るか、心配です……」

 玲太郎は落胆しているままだった。バハールはそれを苦笑して見ていた。

「ウィシュヘンド君、大公閣下の話題になる事がありましたら、お暇させて頂きましょうね」

 俄の提案に、玲太郎は些か驚いてルニリナを見た。

「はい、分かりました」

「大公の話題にはならないと思うよ。母上はポダギルグに興味があると思うからね」

「そうだとよいですね」

 ルニリナが笑顔で言うと、バハールも笑顔になった。その時、扉を叩く音がして、玲太郎は姿勢を伸ばした。閉扉する音が聞こえて直ぐに王太后がバハールの隣の椅子の横で立ち止まった。

「初めまして。バハールの母のコリーン・カウィ・ロデルカです」

 黒髪に碧眼で、その目の色に近い勿忘草わすれなぐさ色の一揃いの服を着ていて、それがとても似合っていた。やはりバハールの母親だけあって美貌の持ち主で、とても二十六歳の子供がいるようには見えなかった。声色は落ち着いていて張りがあり、凛々しかった。玲太郎は俄に緊張した。玲太郎とルニリナが立ち上ろうとすると、手で静止して椅子に座った。

「そのままで構いません」

 二人は浮かした腰をまた沈めた。

「初めまして。レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンドです。よろしくお願いします。本日、護衛をして頂いてるのはニーティ・ルニリナ先生です」

 コリーンはルニリナを見て笑顔になる。

「カンタロッダ学院の呪術の教師をなさってお出でなのでしたね? お話は聞き及んでおります。愚息がお世話になっております」

「王太后様にご挨拶申し上げます。護衛の身でありながらここに座す事をお許し下さい」

 神妙な面持ちで言うと軽く辞儀をし、頭を上げていつもの穏やかな微笑みを浮かべる。

「ロデルカ君は大変好いお子様で、教鞭を執る者として非常に助かっています。ですが本日は護衛としてウィシュヘンド君の傍にいますので、私がお話しする事はここまでとさせていただきます」

「解りました。レイタロー君、でしたね? 息子がいつもお世話になっています。有難うございます」

 ルニリナから玲太郎に視線を移したコリーンは目を輝かせている。

「こちらこそ、いつもお世話になってます。食事や休憩時間は良く一緒に過ごしてもらって、楽しい時間を共有させてもらっています」

「まあ、どのようなお話をなさるの?」

「魔術系の授業の話とか、たわいない話とか、……ご飯の話もします」

「そうなのですね。卒業後の話はなさるの?」

「はい、します」

「レイタロー君はどうなさるお積りなのですか?」

 玲太郎は真面目な表情でコリーンを見据えた。

「あの、大変申し訳ないのですが、僕の事はポダギルグとお呼び下さい。父に例外なくそう呼んでもらうようにと言い渡されているので、お気を悪くなさらないようにお願いいたします」

 言い終えると頭を下げた。コリーンは表情を変えず、笑顔のままだった。

「サドラミュオ公がそのような事を仰っているのですね。解りました。それで、ポダギルグ君は卒業後はどうなさるお積りなのですか?」

「今の所は、兄が色々と教えてくれるそうなので薬草術を教わるつもりです。行く末は薬草師になって調合したり、薬草を育てたりしながら、薬草以外の植物も育てたいと思っています」

 笑顔で言うと、コリーンが頷きながら聞いていた。

「お兄様はアメイルグ公でしたね。それともうお一方、イノウエ先生でしたか?」

「はい、そうです。二人がいるので、学校に通う必要はないと思っています」

「弟思いのお兄様をお持ちのようですね」

「はい。二人共、とても可愛がってくれます」

「バハールの兄も年の離れた弟が可愛くて仕方がないのですよ。やはり年が離れていると、余計に可愛く思えてしまうのでしょうね」

 そう言ってバハールに視線を送ると、それに気付いたバハールがコリーンに笑顔を見せた。玲太郎はそんな二人を見て些か思う所があったが、それを顔に出す事はなかった。

 そこへ侍女が台車を押しながら入室し、もう一人の侍女が茶を茶器に入れて給仕を始める。生菓子も四皿用意されていて、台車を押して来た侍女も給仕を手伝う。ルニリナは玲太郎に出された皿を手に取ると、穏やかな表情で侍女を見る。

「申し訳ありませんが、この皿をどうしてサドラミュオ大公令息に出されたのですか?」

 侍女はルニリナに微笑む。

「ディッチ殿下の初めてのご友人との事なので、料理長が特別にお作りになった物を提供させて頂いております」

「そうですか。どなたの指示ですか?」

「え、その……副料理長に、これは殿下のご友人にと指示をされました」

 躊躇しながらもそう言うと、もう一人の侍女を見る。

「そうですか。あなた方はここから動かず、この場にいて下さいね」

 持っていた皿をバハールの方に差し出した。

「それではロデルカ君、申し訳ありませんが、これを食べて頂けませんか? ウィシュヘンド君はじっ中八九食べられないと思いますが、ロデルカ君なら食べられます」

 それを聞いて笑顔の消えたコリーンが手を出す。

わたくしが頂戴致します」

「王太后様も例の物をお召しになられていらっしゃるのでしょうか?」

「無論です」

 莞爾としてルニリナを見ると、ルニリナは皿をコリーンに渡した。

「このような事になって大変遺憾ですが、効果を目の当たりに出来る日が来ようとは、私に取っては僥倖な事です」

「母上、それは僕が食べます」

 バハールが心配そうに言うと、コリーンは笑顔を向けた。

「いいえ、貴方には未来があります。ここは私が頂きましょう」

 玲太郎と侍女は何が起こっているのか、全く把握が出来なかった。

「ウィシュヘンド君には私の分を食べて頂きましょうか。食べる気になりませんか?」

「あの……」

 玲太郎が狼狽している間に、コリーンは菓子用の突き匙で生菓子を切り分けて口に運んだ。そして咀嚼をして飲み込んだ。その様子をバハールが心配そうに見守っている。

茉莉花まつりかの香りが凄いですね。きついと言っても宜しいかと。味は甘さが控えめで、雑味は感じられませんでした。もう一口頂いて残しましょう」

 そう言ってもう一口頬張った。ルニリナは玲太郎を見て、自分の皿を玲太郎の前に置いた。

「これなら大丈夫ですので、どうぞ食べて下さい」

「はい、いただきます」

 バハールが心配そうに玲太郎を見た。

「ポダギルグ、僕の物を食べた方がよいのではないの?」

「大丈夫です。私の物も安全ですよ」

 そう言うとバハールに微笑み掛けた。玲太郎はコリーンが食べている物と見た目が同じ物を口に含むと、咀嚼をした。そして手で口を覆う。

「茉莉花の香りなんてしないのよ。……うん? 同じ物じゃないの? 泡立てた乳脂が甘くて美味しいけど……」

 バハールはそれを聞いて生菓子を突き匙で切り、頬張った。玲太郎はそこで漸く気付いた。目を丸くしてルニリナを見ていると、ルニリナがそれに気付いて穏やかに微笑んだ。

「本当だ。そんな香りはしないね。母上が食べた物とは別物なんだね」

 玲太郎とバハールは顔を見合わせてからコリーンに視線を遣った。コリーンは眉を顰めて俯いていた。玲太郎はまたルニリナに視線を戻す。

「僕がもらってしまったけど、ルニリナ先生はいらないんですか?」

「私は食べなくても大丈夫ですので、お気になさらず、どうぞ食べて下さいね」

「はい」

 玲太郎は二口目を頬張った。その様子を見ていたコリーンが笑顔になる。

「大変申し訳ございませんが、私には至急片付けなくてはならない仕事が出来てしまいましたので、ここで失礼致します。このような事は二度とないと誓いますので、この度の事に懲りず、また遊びに来て頂ければと存じます。ポダギルグ君、バハールと今後も仲良くして下さいませ」

 慌てて手で口を覆った玲太郎は頷いた。

「こちらこそよろしくお願いします」

「ルニリナ先生、未然に防いで頂きまして感謝に堪えません」

「お役に立てたようで何よりです」

「本当に、本当に有難うございます」

 深々と頭を下げ、姿勢を正すと生菓子の乗った皿を持ちってそのまま立ち上がった。

「それでは申し訳ございませんが、お先に失礼致します」

 顔を侍女の方に向ける。

「あなた方は私といらして」

 コリーンと目が合った侍女は険しい表情をしていたが直ぐに辞儀をした。

「かしこまりました」

 二人の侍女はコリーンの前を歩き、開扉してコリーンが出ると侍女も出て閉扉した。玲太郎は顔を顰めてルニリナを見た。

「先生、僕があれを食べていたらどうなっていたんですか?」

「どうなっていたのでしょうね? 試したいのであれば、私が用意しますよ?」

「どんなものが入ってたのか、分かるんですか?」

「凡そは判りますね。あれその物は作れませんが、近い物なら作れます」

「へぇ、薬草術も詳しいんですね」

「でもお勧めはしません。それ以前にアメイルグ公爵閣下がお許しにならないと思いますよ?」

「それはあるかも」

 苦笑して頷くと、ルニリナが些か険しい表情になる。

「それにしても、ウィシュヘンド君は命を狙われたのに、落ち着いていますね」

「ルニリナ先生が助けてくれたし、王太后様が食べてもなんともなかったからかも?」

 ルニリナが頷いた。

「成程、実感が湧いていないのですね」

「先生が譲ってくれた物を食べても、なんともないですからね」

 二人の会話を聞いているバハールは皿を机に置いた。そして頭を下げた。

「本当に申し訳ない。まさかこんな事が起こるなんて、思ってもいなかった」

「ディッチのせいじゃないから、そんなに謝らなくてもよいのよ。こうして無事だしね」

 バハールは顔を上げると難しい表情をしていた。

「でも……」

「こうなってしまった以上、二度とこちらにお邪魔する事はないでしょうが、それも致し方のない事です。今度の憂いを払った所で、本当に安全なのかは判りませんので、大公閣下もアメイルグ公爵閣下もイノウエ先生も許可を出す事はないでしょうね」

「そうだね。王宮が安全ではないって良く分かったのよ。まあ、学院では今まで通りよろしくね」

 朗らかに微笑んでいる玲太郎を見たバハールは、気が抜けたようで苦笑していた。

「それにしても、本当にルニリナ先生がいてくれて良かったです。知らずに食べてたら、今頃死んでますからね」

「それは私も思いますね。仮にそうなっていたら、颯やアメイルグ先生ではどうなっていた事か、想像が付きませんのでね」

 危険に曝された割には明るい表情をしている二人が頷き合っていると、一人真顔のバハールが口を開く。

「本当にそうですよね。ルニリナ先生は毒が入っていた事を、どうして分かったんですか?」

「それは経験則という物ですね。これでも二百年は生きていますので」

 そう言って「ふふ」と笑った。

「一時期ですが毒に嵌っていた事がありましてね、色々な毒を試した物です」

 玲太郎は表情を一変させ、顰めた。

「えっ、もしかして、食べてたんですか?」

「勿論です。今思うと不思議と死に至りませんでしたが、それなりに寝込みもしましたね」

「先生、怖いね……」

 信じられないと言いた気な表情でルニリナを見ている玲太郎は、ふと何かを思い付いた。

「そう言えば、さっき十中八九って言ってましたが、先生ですら分からない毒でも混ざっていたんですか?」

「それだけで判ってしまいましたか? そうですね、毒が混入している事が判るようになった理由は教えられませんが、私の知らない毒が混入していたのは確かです」

「そうなんですか。当てずっぽうだったんですけど、当たっていたようで良かったです」

「私の知らない毒も猛毒のようでしたし、普通なら一口でころりでしたよ」

 それを聞いて驚いた。

「えっ、そんなに猛毒だったんですか?」

「はい。あれですと爪楊枝の先に付いた量ですら瞬殺ですね。反転の首飾りを常時着けている方々には効かないでしょうけどね」

 唖然としているバハールを見ながら言った。バハールは直ぐ我に返って真顔になると、また頭を下げた。

「ポダギルグ、本当に申し訳ない。ルニリナ先生、ありがとうございました」

「僕は生きてるからよいのよ」

「どう致しまして。ウィシュヘンド君が無事で何よりです。しかし、これをアメイルグ公爵閣下に報告しなくてはならないですので、それが恐ろしいですね……」

「あ! 学院を辞めさせられるかも知れないね?」

「十分に有り得ます」

「え……」

 バハールが呆気に取られている。玲太郎はルニリナを見ていて気付かなかった。

「やっぱりですか? うーん、王宮でこれだから学院も安全とは言い辛いですよね」

「颯ももしかしたらアメイルグ公爵閣下に賛同するかも知れませんのでね」

「父上を味方に付けて、説得してもらうしかないですね」

「大公閣下も退学に賛成なさるかも知れませんよ?」

「父上は僕の意見を尊重してくれるから大丈夫、だと思います。自信がないけど……」

「それなりに覚悟を決めておく方がよいでしょう。大公閣下はどうあれ、アメイルグ公爵閣下が難敵になるのは間違いありません」

 玲太郎はそれを聞いて溜息を吐くと俯いた。バハールは玲太郎に掛ける言葉がなく、同様に俯いた。ルニリナはそんな二人を見て口を一文字に結んだ。


 話が終わった明良と颯が玲太郎を迎えに居室へ案内された後、事の仔細を聞いた途端に明良が玲太郎を抱き上げると魔術で窓を開放し、無言で飛び去って行ってしまった。颯は苦笑してルニリナに耳打ちをする。

「水伯は上空で待ってるから行こうか」

「解りました」

 颯がバハールを見ると微笑んだ。

「それじゃあロデルカ君、また学校で会えたら会おう」

「護衛対象がいなくなりましたから、私も失礼しますね」

 二人も開放されている窓から出ると、颯が魔術で窓を閉めてから飛び去った。上空へ行くと水伯の傍には玲太郎を抱いた明良がいた。

「それじゃあ帰ろうか。兄貴が飛んでくれるのか?」

「うん」

 素っ気なく返事をすると、三人が玲太郎に触れた。

「お願いします」

「いいぞ」

「宜しく」

「それでは飛ぶよ。三…、二…、一…」

 一瞬で水伯邸の居室に着くと三人は玲太郎から手を離した。

「明良、有難う。それでは会議でもしようか」

「お疲れ。ニーティも当然参加するよな?」

「アメイルグ先生、ありがとうございました。そうですね、私も参加をしておきましょうか」

 ルニリナが颯を見て笑顔になる。玲太郎は困惑して皆の顔を見た。

「なんの会議なの? 僕はいない方がよい?」

「玲太郎も参加するに決まっているではないの。玲太郎が学院を退学するかどうかの会議だからね」

「ああ……、そうなの……」

 明良は玲太郎を下ろす事なく、足の短い一人掛けの椅子に座り、玲太郎を膝に座らせた。水伯はその隣のいつもの椅子に座り、颯とルニリナは長椅子に座った。

「何が飲みたい?」

「俺は緑茶でお願い」

「私は紅茶をお願いします」

「私も緑茶でお願い」

「僕は紅茶がよいね」

「解った」

 水伯が笑顔で答えると瞬時にそれぞれの前に出て、水伯の手には玲太郎の分の茶器があった。受け皿を玲太郎に渡す。

「ありがとう」

「有難う」

「ありがとうございます」

「どう致しまして」

「有難う。早速頂きます」

 颯が最後に礼を言って湯飲みを持ち、息を吹き掛けて茶を啜る。

「さて、玲太郎が事も有ろうに王宮で毒を盛られるという事件が起きてしまったのだけれど、何故そのような事になったのかは置いておき、今後もそういった事が起こる可能性がある事を考慮して、学院に戻すかどうかを判断したい。明良は…」

「私は反対。もう退学してよいと思う」

「兄貴の意見より先に玲太郎に訊こう。玲太郎はどう思っているんだ? 戻って勉強をしたいか?」

「僕はきちんと卒業したいんだけどね……」

 それを聞いた明良は表情が死んだ。

「そうですよね。呪術の授業も大変頑張っていますしね」

「授業なら、私がきちんと全教科教えるけれど?」

 柔和な表情の水伯が明良の方を見て咳払いをした。

「明良は少し待って貰えるかい? 玲太郎が毒を盛られないようにする事は簡単だし、しんば毒を盛られたとして、大丈夫なように反転を施した装身具を作ってもよいのだよね」

「水伯はまたそうやって甘やかす。玲太郎が命を狙われたのだから、外に身を置いておくのは危険だよ」

「だからって閉じ込めておく訳にはいかないだろう?」

「颯は黙りなさい」

「兄貴こそ黙れよ。兄貴は自分の傍に玲太郎を置けるこの機会を逃したくないだけだろう? 玲太郎の意思なんて反映されていないじゃないか」

 水伯は苦笑していた。

「まあまあ、二人共落ち着きなさい。明良は玲太郎が学院に戻る事が嫌な理由が、それ以外にあるのかい?」

「王弟の所為で狙われる事もなくなるから、戻らない方がよいね」

「今度の事は王弟と関係のある事だと決まった訳ではないだろう? これから調べるのだから、決め付けるのは良くないよ?」

 苦笑しながら水伯が言い、明良は露骨に不機嫌になる。

「でも玲太郎が王宮へ訪問する日が漏れていた事は確実なのだから、王弟近辺にはそういう輩が入り込んでいるのは間違いないじゃないの」

「それはそうだね。学院の方はナルアーを解雇したから、新規雇用者の身元の調査と契約を強固な物にして、既に雇用している全職員も再契約して、後は校内であっても、対人で攻撃魔術が使用出来てしまう事象をどうにかしなければならないね」

「それなんだよなあ。攻撃魔術が使えてしまえる原因が思い当たる事はあっても、判明には至らないんだよな……」

「それなのよね。玲太郎に危険を及ぼす可能性があるから、学院には戻らなくてもよいよ」

 明良は自分の発言に頷いた。水伯は苦笑するしかなかった。

「明良はどうあっても玲太郎を退学させたいのだね」

「それはそうだよ。元々賛成ではなかったもの」

 玲太郎は会話に加わらず、紅茶を少しずつ飲んでいた。

「今ならまだ間に合う。直ぐに辞めて、私が玲太郎の家庭教師を遣るよ」

「そんな事を言って……。兄貴は傍にいたいだけだろうが」

「そのような下心はない」

「公爵の仕事だってあるんだから、教えながらそれを処理するとなると大変だぞ?」

「明良ならば出来るだろうけれど、玲太郎を縛るのは感心しないね」

 兄弟の会話に水伯が混ざると、明良は水伯に顔を向けた。

「水伯も学校に行くのは反対していただろう?」

「心配をしていただけで反対はしていないよ。だから最終的には送り出したのだけれどね」

 玲太郎はそれを頷きながら聞いている。明良はそれに気付いて些か苛立った。

「水伯は心配ではないの? 玲太郎がまた毒を盛られるかも知れないのだよ?」

「だから装身具に反転を付与すると言っているのだけれど、話を聞いていたのかい?」

「反転と言っているけれど、攻撃魔術も反転出来るの?」

「出来るよ。物理攻撃も反転出来るね。私が生きている限り使用可能だよ」

「そのような恐ろしい物が作り得るのは凄いな。やはり水伯と言うべきか……」

 颯が感心していると、ルニリナが前のめりになった。

「閣下、それは付与術なのですか? 呪術の類なのではないのですか?」

「これは私が和伍が和三だった頃から使っているから、付与術だとか呪術だとかの分類をする事が出来ないのだよね。私は両方の要素があると思っているのだけれど、呪術が色濃いかも知れないね」

「成程、そうですか。反転の首飾りの事を聞いた時は、付与術と呪術のどちらなのか、全く判断が付きませんでしたがそういう事でしたか」

 目を輝かせているルニリナを苦笑しながら見ていた颯が明良に視線を遣る。

「そういう訳だから、兄貴は観念して玲太郎を見守ろうよ」

 玲太郎が何度も頷く。

「僕も頑張って飛び級して、なるべく早く卒業出来るようにするから」

「玲太郎はそれ程までに行きたいの?」

 明良は玲太郎の表情が見えず、頭頂部を見ているだけだった。

「中途半端は良くないのよ。きちんと卒業したいだけなんだけどね」

「水伯が反転を施した装身具を作ってくれるって言っているし、玲太郎も卒業したいって言っているし、ニーティもいてくれるし、俺もいるから、兄貴も一緒に見守ろうよ、な?」

 明良の表情が再度死んだ。ルニリナがその表情を見て笑いを堪え、颯は苦笑した。

「まあ、決まりだな」

「明良は余程玲太郎の傍にいたいのだね」

 柔和に微笑みながら水伯が言うと、颯が真顔になって大きく頷いた。明良は水伯の方に顔を向ける。

「玲太郎が産まれた時には既に色々と決まっていたし、それを反故に出来なかったから、その分一緒にいられる限りはいたいに決まっているだろう」

「玲太郎が卒業したら一緒にいられるのだから、今暫く待とうと思わない?」

「思わない」

 水伯の問い掛けに首を横に振って答えた。

「即答だなあ。それだと玲太郎に嫌われるぞ」

「そ、そのような事はないに決まっているよ。だよね?」

 玲太郎は頷いた。

「ないけどあるかも」

 その返答に明良は強烈な衝撃を受け、顔を歪ませた。それを見た颯は思わず顔を逸らし、ルニリナは苦笑した。水伯は横顔でしか確認が出来なかったが、笑いを堪えていた。そして、二人はここぞとばかりに喉を潤した。

「僕はあーちゃんの所有物じゃないんだからね? 学院は折角だし、きちんと卒業したいから、あーちゃんの協力が必要なのよ。僕が卒業出来るように、あーちゃんも手伝ってね?」

「……手伝うから嫌いにならないでね?」

「うんうん、ならないのよ。あーちゃん、ありがとう」

 玲太郎が満面の笑みを浮かべていたが、明良がそれを見る事はなく、頭頂部ばかりを見ていた。

「うん、それでは玲太郎の学院問題に関する会議は終わりだね。飛び級をする事は結構だけれど、無理のないようにね?」

 玲太郎は水伯の方に顔を向けて笑顔を見せる。

「父上、ありがとう。出来る限り飛び級したいだけだから、無理はしないのよ」

「それならばよいのだけれどね。根を詰め過ぎないように気を付けるのだよ?」

「はい」

 頷きながら返事をすると、正面を向いて残りの紅茶を飲み干した。明良以外は既に空になっているようだった。明良は魔術で湯呑みを引き寄せると漸く湯呑みを手にした。温くなっていて一気に飲み干し、湯呑みを水伯に差し出した。

「上げる。ご馳走様」

「有難う」

 その手の中にある湯呑みを消すと、玲太郎の手に持たれた茶器も消した。

「会議は終わったから、玲太郎はもうよいよ」

「そうなの? それじゃあ僕は図書室で本でも読んで来るね。あーちゃん、昼食になったら呼びに来てくれる?」

「行かない。一緒に行くから呼びに行けないね」

「うん? 一緒に来るの?」

「うん、行く」

 玲太郎を抱いて立ち上がると、そのまま何も言わずに居室を後にした。

「水伯、悪いんだけど茶をもう一杯貰える? 緑茶でお願い。ニーティは?」

「私も紅茶を頂きたいです」

「はい、どうぞ」

 空になっていた湯飲みと茶器にそれぞれが望んだ茶が入った。

「有難う」

「ありがとうございます」

 水伯の茶器にも茶が入り、湯気が立っている。

「此処からはのんびりお茶でも飲みながら話そうね」

 柔和な表情で言うと、颯が頷いた。ルニリナが水伯を見る。

「所で先程、ナルアーは解雇したと仰っていましたが、その詳細を訊いても宜しいでしょうか?」

「あ、それは俺も気になった。教えて貰えていなかったよな」

「解雇したのはナルアー家がチルチオ教徒である事が分かったからだよ。二人共、その事は知っていただろう?」

「一家でそうだったのか?」

 水伯は眉を顰めた颯に視線を遣る。

「明確には言えないのだけれど、多分そうだね。だから近い内に父親も次席宰相の座から降りる事になるだろうね。それでも王弟殿下を担ぎ上げようと、チルチオ教徒が何かを仕掛けて来る可能性は残るだろう」

 ルニリナの表情が途端に険しくなる。

「陛下に何かが起こると?」

 颯は険しい表情のままでルニリナを見た。ルニリナも颯に顔を向けて目を合わせた。

「今日、俺等が国王陛下の私的執務室に呼ばれただろう? 其処そこには繋がったままの音石が三個仕掛けられていたよ」

「……それで、その音石はどうしたのですか?」

「そのままにしてあるよ。国王陛下には筆記で伝えたけど、そのままでいいって返事だったからそのままにして来た」

「それでは、今日の会話は筒抜けなのでは?」

「そうなるけれど、たわいない会話だよ。颯を王弟殿下の従者にという打診は、颯が断ったからね。それとツェーニブゼル侯爵に対して、弟が卒業するまで世話になると仰った程度だね」

「そうですか。ですが、それも今日の事件でまた違って来るのではないのですか?」

「それはどうだろうな? まあ、玲太郎が王宮で毒を盛られたけど、だからって王弟殿下が学院に来ないとは思えないな」

「今日、事が起こったばかりで判断は出来ないだろうけれど、狙われたのは玲太郎だからね。玲太郎と一緒にいる事が危険だと判断されれば違って来るだろうね」

 三人は暫く沈黙し、それぞれ茶を飲んだ。

「まあ、さっきは玲太郎も平然としていたけど、自分の身に起きた事の恐ろしさに気付いたら、学校に行きたくないって言い出すかも知れないからなあ」

「そうなのですよ。丸で他人ひと事のように受け取っていましたからね。私が毒入りの菓子をロデルカ君に召し上がって頂こうとして、結果王太后様に召し上がって頂く事になりましたが、それでもご存命でいらっしゃいましたから、毒を盛られた実感がないのでしょうね。実感が湧いた時にどうなるのか、本当に大丈夫なのか、玲太郎君の心情がとても心配です」

「ああ、それでなのか。急に幾つかの気配が消えたから、何かと思っていたんだけどなあ。王太后陛下も反転の首飾りをご着用なさっているんだな」

「そうだったのかい? 私は其処まで気付かなかったのだけれど……」

 水伯が視線を茶器に遣ると、持ち手に手を掛けた。

「まあ、幾つか消えたと言っても、俺が判ったのは三人だよ。…なんだけど、それ以外にも何人か潜り込んでいると考えてもいいと思うから、玲太郎は王宮へ行かせられないな」

 茶を飲んでいる水伯を見ながら颯が言った。水伯は頷くと茶器を受け皿に置く。

「そもそも行きたがらないだろうから、玲太郎に取っては、行かなくて済む正当な理由を手に入れて、喜ばしい限りだろう」

 そう言って水伯が微笑んだ。

「それにしても、何故玲太郎君が狙われるのでしょうか?」

「それなんだよな。王弟殿下を担ぎ上げるのに邪魔だからとか?」

「そうなるとチルチオ教徒が狙った事になりますが、どこの誰が狙ったのか、まだ判りませんので……」

「私に敵が多いからね……。チルチオ教と言えば、大昔にチルチオ教から派生した暗殺集団も存在しているからね。イノウエ家はこの集団から命を狙われ続け、その結果、呪われた一族と言われているのだよね……」

 いつになく厳しい表情をした水伯を、険しい表情をした颯が見ていた。

「私は初代に、見守って欲しいと言われたから見守っているのだけれど、助けて欲しいとは言われていないから助けてはいないのだよね……。それでも報復はしていて、潰しても潰しても必ず復活して来るという、本当に厄介な集団だよ。こうなって来ると、チルチオ教は壊滅させた方がよいのだろうね」

「ふうん。イノウエ家はチルチオ教と因縁があったんだ。それは初耳だわ」

「言う必要がないからね」

「それじゃあ伯父さんも?」

「ヤズノギは違う。若しかしたら裏にいた可能性もあるけれど、ヤズノギはこの間失職した主席宰相が首謀者だったからね。颯は憶えていないかも知れないけれど、私の王都にある邸宅に以前いたポバル・メイジューモ・ランダンテと言う男も、その宰相の配下の一員だったのだよ」

 颯は首を傾げて目を閉じた。

「ポバル・メイジュー? ……うん? 王都の別邸にいたか?」

 思い出そうとしても思い出せずに水伯を見る。

「一度しか会っていないから憶えていないのだね」

 水伯が苦笑すると、颯は腕を組んで目を閉じた。

「王都の別邸と言えばソルの作品しか記憶にないなあ……。あれが強烈過ぎて、王都の別邸と言えばソルってくらいソルしかないわ」

 颯を見ていたルニリナの表情が明るくなる。水伯はそれを見ながら茶を飲んだ。

「具象画と抽象画の対になっている作品ですよね? 私も拝見しました。具象画は惹き付けられましたが、抽象画は私に関心がないのか、感情が動きませんでしたね」

「あ、ニーティもあれを見たんだな? 俺も見たけど、具象画の方しか記憶にないな。一度だけ見た抽象画は只の幾何学模様にしか見えなくてなあ」

 湯呑みを持ち上げるとそう話し、言い終えて茶を三口飲んだ。

「解ります」

「王都の別邸にはそれ以外にも絵画があったのだけれど、ポバル達に盗まれてね。色々と調べた結果、前宰相が裏にいる事が判ったのだよ」

「あ! その話は見聞きした事があるな」

「颯は興味のない話は聞き流す癖があるから、全く聞いていないと思っていたのだけれど…」

 ルニリナが茶器を持ち上げて、相槌を打つように頷き、茶を二口飲んだ。颯はその動作を横目で見ていた。

「いやあ、それが兄貴に新聞を読まされたんだよ。何日分も読まされた後、内情を端折って聞かされていたから、その手の話は聞いていなかったんだと思うよ。あれなあ。ポバル某の名前までは憶えていなかったけど、兄貴が、水伯も一網打尽にする為とは言え、泳がせ過ぎみたいな事を言っていたと思う」

 それを聞いた水伯は苦笑した。

「そういう所は憶えているのだね」

「贋作が贋作に摩り替えられていたんだよな。それに名前は憶えていないけど、全貌は憶えているよ」

 水伯が鼻で笑うと、表情を引き締めた。

「兎にも角にも、それは私の地位を奪取する為の一策だね。先王が私を取り立てようとした結果だよ。本当に迷惑な事をされたよ。玲太郎が狙われたのは、これと関わりがないとも限らないから、それも調査しなければならないし、王太后が服毒した時間に死んだ者からも調査しなければならないね」

「それと並行して学院の職員や生徒にチルチオ教徒がいるのかどうかも調査しなければなりませんね」

 颯がルニリナの方に顔を向けた。水伯は茶を飲み干すと頷いた。

「職員に関してはもう遣ったのだよね。その結果がナルアーだよ。生徒は家とイノウエ家の調査隊と諜報部隊を総動員して調査している所だよ。転入生が奇妙な精霊付きなのかは、颯が直接確認してくれたのだけれど、付いている子はいなかったようだね」

「付いていなくても、ナルアー先生のようにチルチオ教徒である可能性もありますのでね」

 それを聞いた颯が軽く二度頷く。そして湯飲みを持ち上げた。

「それなんだよな。俺に攻撃して来たウギヨア・クイザって子がいただろう? あの子は母親がチルチオ教徒だったよ。父親は既に死去しているけど、チルチオ教徒ではなかったようだな」

 そう言い終えると、茶を二口飲んだ。

「そうですか……」

「うん? 私はその調査報告を聞いていないけれど?」

 些か眉を顰めた水伯が言うと、颯が水伯に視線を遣った。

「あれ? 兄貴が報告するって言っていたのに、おかしいなあ……」

「明良には私から聞いてみるよ」

「うん、そうして貰えると助かる。俺は資料を持っていないからな」

「解った」

 柔和な微笑みを颯に見せると、空になった自分の茶器を消した。ルニリナも茶を飲み干して受け皿に茶器を置いた。

「閣下」

「何?」

「反転の装身具を創作なさる時、私も見ていたいのですが、宜しいでしょうか?」

「それでは今作ろうか?」

 そう言って右の掌を広げた。俄に細い鎖に通った装飾品が顕現した。

「それは既に作ってあった物ですか?」

 身を乗り出して見ていたルニリナが訊くと、水伯が柔和な表情でルニリナを見る。

「いや、今作った物だよ。素材は灰金だね」

「へえ! 装飾品の土台も灰金だよな? その石は宝石?」

「これは玲太郎の目の色に近くなるように色を付けた水晶だよ」

「成程。魔術棒に付けていたのも水晶だったんだ?」

「そうだよ。新たに作るよりも、水晶の色が濃い物を作った方が手っ取り早いし、確実だからね」

「水晶も色の濃い物があるんだなあ。俺も宝石の色の濃淡を変えられるように、練習を遣らないといけないなあ……。出来るまで時間が掛かりそう」

 そう言って苦笑していると、ルニリナが颯に微笑み掛けた。

「言う程難しくはありませんよ。大丈夫です」

 颯もルニリナを見て笑顔になる。

「有難う」

「それでは反転の術を掛けるよ」

「はい」

 ルニリナは掌にある首飾りを凝視している。颯も同様にしていた。目には見えなかったが、魔力が籠ったのが判った。

「出来たんだ?」

「うん、出来たね」

「成程、これが反転ですか」

「兄貴がこれを見たら欲しいって言いそう」

「反転付きならお金を貰う所だけれど、首飾り程度ならば誕生日の贈り物にしてもよいかもね。颯は欲しいかい?」

 俄に問われ、颯は首を横に振った。

「いやいや、俺はいらない。そういう物を身に着ける気にならないんだよな。襟締めに留め具を着けるのも好きじゃないんだよ」

「今着けている物も好きではないのかい?」

「玲太郎がこれがいいって言うからこれにしたんだけど、宝石が大きいんだよな。もう少し小振りの物でもいいんじゃないかと思うわ」

「着飾るのは貴族の宿命だからね、諦めなさい。それにしても、その一個しか持っていないのではないのかい?」

「持ってはいるけど、使っていないだけよ。それに着ける機会がないからなあ……」

「ああ、それは確かに。晩餐会だとか舞踏会だとかに行かないものね」

「そもそも呼ばれないしな」

「うん? それはない筈だけれど……。若しかしたら明良が処分していのかも知れないね」

「ふっ、どうせ呪われた一族だから呼ぶ事もないんじゃないのか」

「噂では、明良が美貌だと知れ渡っているようで、その弟もきっと美丈夫だろうから、縁を持とうと令嬢達の茶会や舞踏会のお誘いが跡を絶たないそうだよ」

「えっ、それは初耳! 本当に届いているのか、ナゲイムに訊いてみよう」

 ルニリナが鼻で笑うと、颯はルニリナに視線を遣った。

「ニーティ、どうかしたか?」

「すみません。颯はそういう物に興味がない筈なのに、と思ったら笑ってしまいました」

「水伯の話が本当なのかどうか、確かめるだけだよ」

「本当だったら、どうする積りなのですか?」

「現状維持して貰う」

 そう言って莞爾としてルニリナを見詰めた。

「ふふ、そうですか。……それにしても、このような事が起こるのであれば、無理にでも玲太郎君を占っておけば良かったと、今更ながらに思いますね……」

「まあ、玲太郎が無事だったから良かったけど、何かに守られているから服毒しても平気だったんじゃないかと思うよ」

「そうでしょうか?」

「きっとそうだよ」

 笑顔で頷くと、水伯に顔を向ける。

「水伯もそう思わないか?」

「私は何かに守られていると思うような場面に遭遇した事がないから何も言えないけれど、玲太郎の潜在意識がそうさせている可能性もあるからね」

「潜在意識かあ……」

 そう言った颯は腕を組んで目を閉じた。ふと何かを思ったルニリナが水伯に顔を向けた。

「閣下は服毒した事がおありですか?」

「あるよ。魚や貝や、野草に木の実と色々口にしたね。でも、お腹を下したり、寝込んだりするだけで死にはしなかったね」

「私もなのです。猛毒と言われる類の物も服毒しましたが、寝込むだけで済みました。玲太郎君もそうなのでしょうか?」

「うん? それじゃあ俺もそうなのか? 今日出された毒を俺が試してみようか?」

「止めなさい」

 水伯が直ぐに制止すると、颯に向かって柔らかく微笑んだ。

「そういう事は遣らなくてよいのだよ」

「それでしたら、私が試してみても?」

「ニーティも止めておきなさい。そもそも王太后が手にした時点で、此方こちらに渡す気がないだろうからね」

「そうですか……。王太后様に食して頂かず、先に私が頂いておけば良かったですね……」

 口惜しそうに言うと、水伯が苦笑した。

「難しいと言うだけで、渡して貰えないとは限らないよ? だからと言ってニーティに食べさせる訳にもいかないのだけれどね」

「渡して貰えるのであれば、私が直接分析をしたいのですが、宜しいでしょうか?」

「分析ならば構わないけれど、何か興味をそそられるような要素でもあったのかい?」

 ニーティの目が俄に輝いた。

「この大陸の物ではない毒が使用されているように見受けられましたので、それを調査してみたいのです」

「成程、そうなのだね……。口にした王太后は何か気になる事を言わなかったのかい?」

「気になる事、ですか? ……そうですね、茉莉花の香りがきついと仰ってお出ででした。私に出された物は玲太郎君が食べたのですが、それは茉莉花の香りはしなかったようです」

「そうなんだ。それじゃあ玲太郎に出された物だけ茉莉花の香りがしたのか?」

 ルニリナは颯を見ながら頷いた。

「そうです。ロデルカ君も食したのですが、そう仰っていましたね。給仕をしていた侍女が、殿下の初めてのご友人なので料理長が特別に作ったと言っていましたから、それを演出する為に香り付けをしたのかも知れません。ちなみにそれを玲太郎君に提供する指示は、副料理長が出したとの事です」

「有難う、良く解ったよ。それでは私はその毒を手に入れるとしよう」

「俺が試しに食べてみたいんだけど、いい?」

 颯は何故か目を輝かせて水伯に訊いた。

「だから止めなさいと言っているだろう?」

 苦笑しながら言うと、颯は詰まらなそうな表情をした。それを見たルニリナも苦笑した。


 今日は日の曜日という事もあって、明良はずっと玲太郎の傍にいた。とは言っても、図書室で一緒に読書をしているだけだったのだが、明良は隣に座っている玲太郎に時折視線を遣っていた。玲太郎の表情は見えなかったが、本に夢中のようで、それを見て安心していた。

「玲太郎、今日は魔石作りの練習は遣らないの?」

「んー……」

 本に顔を向けたまま、生返事をする。

「今日の昼食が楽しみだね」

「んー……」

「今日は私と一緒に入浴しようね」

「んー……、うん? 今なんて言ったの?」

 顔を上げ、明良を見た。明良は満面の笑みを浮かべていた。

「今日は私と一緒に入浴しようねって言ったの」

「それはダメ。はーちゃんと入る。あーちゃんと入ると赤ちゃん扱いされるから嫌なのよ」

 明良は最初の一言で衝撃を受けて、話の続きを聞く余裕が全くなかった。玲太郎は明良を見ていたが、明良は固く目を閉じ、そのまま微動だにしなかった。

「あれ? あーちゃん? あーちゃん?」

 玲太郎の呼び掛けも虚しく、明良は無反応だった。

「あーちゃん? おーい、あーちゃーん。……あーちゃーん?」

 明良の左前腕に手を置いて揺らしながら呼んだが、それでも無反応だった。

「僕、そんなになってしまうくらいの事を言っちゃった? ごめんね、あーちゃん」

 揺らし続けていたが、やはり無反応だった。玲太郎は本を閉じると机に置き、明良を置いて居室へと向かった。

 居室に入室すると、既に颯がいなくなっていた。

「はーちゃんは?」

「仕事に行ったよ。休日なしだと言っていたからね」

「そうなの。ルニリナ先生はお休みなのに今日はすみませんでした」

 そう言いながら、水伯の隣の一人掛けの椅子に座った。

「いえいえ、王宮という所へ行ってみたかったので、逆に感謝しています。アメイルグ先生はどうなさったのですか?」

「あ……、動かなくなってしまって、図書室に置いて来ました」

「そうですか」

「明良が動かなくなる程の衝撃を与えたのかい?」

「そうなるね。そんな気はなかったんだけど、そうなっちゃったのよ……」

 困惑したように言うと、水伯が柔和に微笑んだ。

「明良の事だから、拗ねて帰ってしまうかも知れないよ? 傍にいる方がよいのではないの?」

「そう? それじゃああーちゃんの傍に行くね」

「所で、アメイルグ先生に何を言ったら動かなくなってしまったのですか?」

「それは秘密」

 そう言って悪戯っぽく笑うと立ち上がり、小走りで部屋から出て行ってしまった。水伯とルニリナは顔を見合わせると笑った。

 玲太郎は勉強部屋兼図書室に戻ると、明良はまだそこにいた。隣に座ってまた明良の左前腕に手を置くと揺り動かす。

「あーちゃん、どうしてそうなっちゃったの? そんなに僕と一緒にお風呂に入りたいの?」

 明良はやはり無反応だった。玲太郎は机に置いてあった本を手にすると、先程まで読んでいた箇所を開いて続きを読み出した。


 この一件で死者が余所にも出ていた。少数ではあったが、同所にいた人間が同時に倒れた事で騒ぎが大きくなっていた。

 約四十畳の部屋に壁際には本棚が並べられ、机が沢山置かれている。そこには三人、皆一様に黒髪で、目は茶色をしていて、立襟の白い上下を着用している。そこへ戻って来た男が疲れた様子で口を開く。首から名札をぶら下げていて、世界共通語の文字で『チョウユウ』と書かれている。

「医務室に運んだが、ヤオ様は亡くなられた。助からなかったよ。死因はこれから調べるそうだ」

 書類仕事をしていた男が顔を上げた。名札には『キュウゲン』とあった。

「えっ!? それではお館様への報告は誰がするんだ?」

 その隣席で同様に仕事をしていた男も顔を上げる。名札には『リュウ』とある。

「第二秘書のチンしかいないだろう」

「お館様にも物怖じせずに進言が出来るのは彼女だけだったのに……。肝心要の人を失くしてしまったが、これからどうするんだ?」

 チョウユウが言うと、リュウが頷いた。

「それなんだよな。俺はあの巨体を前にすると、体がすくんで言える気がしないぞ」

「それは俺もだ。行きたくないな……」

 男三人が話していると、室内に別の男が走り込んで来た。名札には『ロトウ』とあった。

「大変だ! 諜報部の二人が同時に倒れて死亡した! 医務室に運んだが駄目だった……。医務室にはヤオ様も死亡していたが、どうなってるんだ!?」

「ロトウは少し冷静になれ。確かヤオ様はカン様からの依頼を受けて秘密裏に何かをしているようだったが、その内容も分からないから引き継ぎのしようもないぞ。どうする?」

 キュウゲンが割と冷静でいるようだった。

「カン様ではない、お館様と呼べ。……どうすると言っても、どうしようもないだろ。ヤオ様の執務机と自宅を漁って片っ端から調べるしかない。それと……、お館様に直接訊かなくてはな」

 リュウが渋い表情で言うと、キュウゲンが小さく溜息を吐いた。

「チンに頼んで内容を訊いてもらおう。それしかないぞ」

 そしてその場にいる全員を見回し、ロトウを見て続ける。

「ところで諜報部で死んだのは誰なんだ?」

「フンミン・エンハンとカウリン・ソコウだ。お偉いさんだよ」

 そう言ったロトウをリュウが視線を遣る。

「他に死んだ奴はいないだろうな?」

「それはまだ分からないな。医務室にいたのは三人だ。もしかしたらまだ増えるかも知れないな……」

 険しい顔をしたロトウが言うと、リュウが溜息を吐いた。

「死人が増えるのは構わないが、下っ端にしてくれよ」

「とにかく、俺はお館様の下へ行くのは嫌だぞ」

 そう言ったのはチョウユウだった。キュウゲンが大きく頷いた。

「チンが戻るのを待つしかない」

「そのチンはどこへ行ったんだ?」

 キュウゲンを見ながらリュウが言うと、ロトウが頭を掻きながら口を開いた。

「俺も諜報部のお偉いさんが死亡した事を、真っ先に秘書部へ報告をしに行ったんだが、なんと、ヤオ様直々のご指名で、護衛を五人も連れてナダール王国へ行ってるってよ。ヤオ様が死亡したとなると、業務が滞るだろうから秘書部はこれから大変になるな。ヤオ様が第一秘書に就任してから、他の秘書の入れ替わりが激しかったのもあってか、秘書部の奴等は俺に報告してくれと押し付けて来たからな。俺ははっきり言って行きたくないんだよな」

「なんでチンが出張なんだ……。ヤオ様も元第一秘書を扱き使いやがって……」

 露骨に不満気な顔をしたチョウユウが言った。それをキュウゲンが横目に見た。

「それじゃ帰って来るのも明日か明後日だろうから、現状報告をしにこの中の誰かがお館様の所へ行くしかないな……」

「だから俺は嫌だぞ」

 キュウゲンと目が合ったチョウユウがまた言うと、着席していた二人は顔を見合わせる。

「俺は断る」

「俺だって嫌だ」

 キュウゲンとリュウが同時に言うと、残りの一人であるロトウ大きく溜息を吐いた。

「俺なんて諜報部だからもっと嫌だぞ。こうなったらクジ引きで決めよう」

 リュウが真っ白の紙をロトウに差し出した。

「これを使え」

「ありがとう」

 外の机にあった定規を使って紙を細く四枚を切ると、細く切り分けた物の中の一つに丸を描いて、それが判らないように左手に握り込んだ。

「俺は死体を見ているチョウユウかロトウが報告した方がいいと思うんだがな」

 リュウがチョウユウを横目に見ながら言う。

「そうだよな。きっと呼び出される」

「死体を見ていても、医務部の処置した奴が呼び出されるだろうよ」

「そんな事を言っていないで、早く引けよ」

「そうだな」

 リュウが先ず引くと白だった。

「やった! お先~」

 次に引いたチョウユウが引くと丸が描かれていて、持っている手が震えた。そして三人が拍手をし始めた。

「おめでとう!」

「助かった、ありがとう」

 リュウに続いてキュウゲンが笑顔で言った。チョウユウは渋い表情をしている。

「頑張って報告して来いよ」

 最後に言ったのはクジを作ったロトウだった。

「ヤオ様を運んだのは俺だから、丁度いいと言えばいいんだろうな……。気が非常に重いが仕方がない。行って来る。あー、報告書を作成しに来ただけなのに、厄介事に巻き込まれて嫌になるな」

 引いたクジをごみ箱に捨てると徐に歩き出して退室した。三人はそれを見送っていた。

「それにしても同時に三人亡くなるなんて、食堂の食事に毒でも盛られたか?」

「それならもっと死者が出ているだろう? それにその三人が食堂を使っているかどうかが分からんが」

 ロトウとキュウゲンが話し出すと、リュウが席を立った。キュウゲンがそれを見る。

「どうした?」

「手洗いだよ。俺も食堂を利用してたから、毒にあたらなくて良かったわ」

 ロトウが苦笑する。

「可能性の話をしただけで、断言はしてないんだがな」

 リュウが足を止めて振り返ると笑顔を見せた。

「不謹慎だが、いずれにしても死なずに済んで良かったよ」

 そう言うと直ぐに正面を向き、足早に退室した。


 一方、チョウユウは廊下の灯りが少なくなり、薄暗い中を歩いていた。最奥にある部屋に辿り着くと、扉を二度叩く。

「フーソン・チョウユウです。宜しいでしょうか」

「入れ」

 扉の中から声がすると開扉した。深く辞儀をすると中に入って閉扉する。巨漢は今日、着席していて机上の照明で顔が照らされていた。チョウユウは緊張の余り、唾を飲んだ。

「どうかしたのか?」

「はい、それが……、ジュアン・ヤオ、フンミン・エンハン、カウリン・ソコウ、以上三名が先程亡くなりました」

「間者でも紛れ込んでいるのか?」

「それはこれから調査をする所です。お館様に取り急ぎご報告をと思い参じました」

「解った。ジュアン・ヤオの後任はジエ・チンにやらせろ」

「畏まりました。ただ、現在はジュアン・ヤオの指示でナダール王国へ出張中との事ですので、戻り次第となります。ご承知下さい」

「解った。それはそうとして、その三人は同室にいて死亡したのか?」

「ジュアン・ヤオは情報部にお出での時に倒れ、私が医務室へ運び込みましたが事切れておりました。蘇生は無理との判断でしたので、まず秘書部へ報告に行きました。後の二名に関しては、私が医務室を出た後に運び込まれたようで詳細は分かりませんが、二人が事切れたのは同時刻だったようです」

「解った……。秘書部と諜報部の者か……。三名の死因が分かり次第報告に来るよう、医療部へ通達しておけ。それと死亡した三人の関係性を調査しておけ。後、同時刻に死んだ者が他にいないのかも調査しておけ」

「畏まりました。それでは失礼致します」

 チョウユウが深く辞儀をすると退室した。廊下に出たチョウユウは深く息を吐いて肩を撫で下ろし、掻いていた冷や汗を袖で拭った。

 チョウユウが退室した後、カンは執務机の照明を見詰めていた。

(あの小生意気な女が死んだか……。有能ではあったが、図に乗って口が過ぎるきらいがあった。自分を有能と思い、それを過信したが故に死んだのだろうな……。死ななければ私自ら始末するところだったのだが、それも不要となってしまったか。あの女が色々と小細工をしてくれているお陰で、私に届く些細な情報も減っていたが、これを機に元に戻せるか……)

 照明の傍にある音石が入った箱を引き寄せた。その右手の小指は完全に黒くなっていた。


 数時間後、医療部の一室では三人の男達の手に依って三体同時に解剖が行われていた。

「こっちにも毒反応が出ましたよ」

 玻璃はりの容器に入った溶液の上部は赤銅しゃくどう色に、下は黒く濁っていた。

「ソコウ氏と同じ反応か?」

「上部が濁った赤、下部が黒で同じですね。毒は毒なんだろうけど、こんな反応は見た事もない。技術部に問い合わせをしないといけませんね」

「だから新種の毒だと言っただろう?」

「……これはこれは、ヤオ氏にも同じ反応が出たぞ」

「三人が同じ毒でやられている、となると、同時に飲食したのか……? 胃の中は空っぽだから、遅効性の毒なんでしょうか? それよりもオンケンさん、エンハン氏の死因は毒だと判明したのに、まだ続けてるんですか?」

 一人が解剖を続けているのを見て驚いた。

「お館様から、時間がかかってもいいから徹底的に解剖しろとのご依頼だからな。ご要望にそわなくては……」

「死因を見付けたんだし、もういいんじゃないんですか?」

「オンケンは真面目だからな。と言いつつ、私も続きをやるけどな」

「……それじゃ、私もそうしよう」

 そこへ扉を叩く音がして、三人が扉の方を見た。開扉したのは若い男だった。

「失礼します。何か手伝える事はありますか?」

「ああ、コーソルか、丁度良かった。毒を検出したんだが、これを技術部に持って行って、どういう毒かを調べてもらってくれないか?」

「解りました。リュー班長、それ以外に何かありませんか?」

「今の所はこの毒だけだ。血も多めに採ってあるから、徹底的に調べて欲しいと伝えてくれ。宜しく頼む」

 リューから箱に入った瓶を渡されるとコーソルは笑顔になる。

「では行って来ます」

「落とさないように気を付けろよ」

「はい」

 明るく返事をして足早に退室した。

「さて、私も続きをするとしよう」

 リューが死体に向き合うと、一人が溜息を吐いた。

「解剖は専門外なんだけどなぁ……」

「ウェーリーは口を動かさず、手を動かすように」

「オンケンさんは厳しいなぁ……」

「手」

「はいはい」

 三人は黙々と手を動かし、時には新たな溶液を使って何かを調べる事もあった。死体が劣化を遅らせる為に部屋は低温になっている事もあって、休憩を多目に取りながら遣り続けた。


 休憩を取っている所へコーソルが戻って来ると、技術部の一人も付いて来ていた。

「リュー班長、すみません、今いいですか?」

「休憩中だからチーファン班長のお気に召すままにどうぞ」

「有難うございます。この毒はですね、毒ですが毒ではないんですよ。うちが開発した物で、一日だけ仮死状態になるという物なんです。その名も「仮死やく六号」と言う、そのままなんですけど…」

「え!? 仮死!? それが本当だったらあの三人は生き返るのか!?」

 驚きの余りに大声で訊くと、その場にいた全員が愕然としていた。

「内臓を切り刻んでそのままにしてあるぞ? 血も相当採ったし、これは不味いな」

「待ってください。これは蘇生率が約八割なんですよ」

「約八割? それなのに使った奴がいると?」

「ヤオ氏が強引に持って行ってしまったんです。もしかしたら自分で試したのかも知れませんね?」

 リューは渋い表情になる。

「いや、彼女はそんな事をしないだろう。諜報部の幹部もそれで仮死状態になっているんだ。盛ろうとして逆に盛られたのでは?」

「私には推測するしか出来ませんから、本人が蘇生したら訊いてください。でもこの薬はお館様のご指示で製作しいた物なんですが、まだ完成に至らずにいたのに、ヤオ氏が八割もあれば使えると…」

 リューは手を顔の高さまで上げ、チーファンを制止した。

「私にではなく、お館様に直接報告した方がいいな」

「技術班の報告は、まず秘書部にしないといけないんですよ。ですからこうして…」

「いや、その体制にしていたヤオ氏がこの有様なんだから、直接報告出来るだろう? 早くお館様の所へ行った方がいい」

 チーファンは一呼吸置いて頷いた。

「解りました。そうします。では失礼します」

 三人は去って行くチーファンの後ろ姿を見ていた。

「班長、最後まで話を聞かなくても良かったんですか?」

「私が話さなくてはならなくなるだろう。ヤオ氏が情報を秘書部に集めている事で、お館様に直接報告する事がなくなっていたから忘れていたが、お館様のあの威圧感は、何度会っても慣れるものではなかったからな」

「まさかそんな理由だけで?」

「私が報告した所で、お館様に呼び出されるだろうから、今行っておいた方がいいに決まっている。私からの報告は解剖をきちんと終えてからにしたい」

「でも蘇生するかも知れないんでしょ? これ以上切り刻むのは嫌だなぁ……」

「確かに……」

「ウェーリーもオンケンも弱気は禁物だぞ。お館様のお言葉が第一だ」

「そうですね……」

 ウェーリーは頷いたが、オンケンは無言で大きな溜息を吐いていた。

「後は燃やすだけだと思っていたのに、仕方がない。内臓も縫合しておくか」

「蘇生した時の為に、輸血の準備もしておかないとな」

 リューが呟くと、二人は頷いた。そして三人共が渋い表情をしていた。


 翌日の十時前、解剖室にはヤオの死体のみが置かれていた。そこにはカンが一人で佇んでいた。掛け時計は時を刻み、ヤオが倒れたであろう時間と同じ時間が迫っている。

 倒れた時間から三十分経った頃、ヤオが目を開けようとした。

「いっ……」

 体中から痛みを感じ、思わず顔を歪める。

「目が覚めたか」

 ヤオは聞き覚えのある声が直ぐ近くから聞こえ、痛みを忘れて目を開いた。

「お、館様……。わ、私は一体……」

「どういう訳かは知らんが、仮死薬を飲んで倒れたらしい。そうとは知らず、解剖をしてしまったよ。痛みはその所為だな」

「!?」

 ヤオは体を動かそうにも、指一本動かせなかった。カンはヤオが驚きで顔を歪めているのか、痛みで顔を歪めているのか、判断が付き兼ねた。

「蘇生してくれて手間が省けたよ。お前が何をしようとしていたのか、お前自身に訊く事が出来る」

 カンが手を伸ばし、ヤオの頭を掴んだ。

「お待ち下さい…、何もかも話します」

 痛みを堪えて必死の形相で言ったがカンは聞き入れず、ヤオの目が充血すると手を離した。ヤオの目は半開きになって、口元は脱力していた。

「いたい……、いたい……」

「痛いと言うな。何故仮死薬を持ち出したんだ?」

「レイ…タロ……を、つれ…きて……、のう…しょく…、わた…が、おやか…さま…なり…わり……、ぎゅ…うじる…め、…んび、…てきた。ついに、…のひが…た……」

「フォンヘン・カンが遣る筈だった脳移植を自分が遣り、紫苑団を牛耳るつもりだったと?」

「そう……」

「それを知っているのは誰だ?」

「まだ…してな…、だれ…いな……」

「誰もいないのか?」

「そう……」

 カンは表情を変える事はなかった。

「フォンヘン・カンに内密にしている事はなんだ?」

「ことり…しん……。のろ…のずめ…がかんせ…し……。かしや…が…はちわ…までつ…える…うにな…た……」

 カンが眉を寄せた。

「小鳥が死んだのか? それはいつだ?」

「し…だ……。じゅうさ…が…じゅ…は…にち……」

「十三月二十八日か?」

「ち、ちが……」

「十三月十八日か?」

「そう……」

 カンの額に血管が浮き上がり、左手を拳にすると大きく振り上げ、ヤオの腹に振り下ろす。すると鈍い音がした。

「ぎゃあああぁぁぁぁあぁぁぁ」

 ヤオの絶叫が響き渡る。カンは眉を寄せたままだった。

「呪いのずめ、とはなんだ?」

「い……、あ……、の…い…ずめ、めん……」

「呪いの図面は誰が完成させた?」

「うぅ……、ゆ…ん…い……」

「ゆ、ん、い?」

「そう……」

「私の知らぬ所で人を雇ったな?」

「いぃ……、わ…らな……」

「フォンヘン・カンに内密で人を雇ったな?」

「すき…してい…と…われたか……、…きに…とった……」

「好きにしていいと言われたから、好きに雇った?」

「そう……」

「そのような事は言っていない」

 そう言いながらまた拳を振り上げ、勢い良くヤオの腹に振り下ろした。鈍い音と共にヤオの絶叫がまた響く。

「黙れ」

 ヤオは唇を震わせた。

「お前が一番大事にしている部下の名前は?」

「みー……ろ…む……」

「みー、ろ、む?」

「み、…ふぁ……ろー……」

「みーふぁ、ろーむ?」

「そう……」

 カンはズボンの衣嚢から容器を取り出すと蓋を開け、その中の一個の音石を操作した。

「私だ。カンだ」

 十秒も経たない内に声が聞こえる。

「チンです。何かご用でしょうか?」

「全団員の名簿を直ぐに用意してくれないか。それとミーファ・ロームと言う者を見付け次第、身柄を確保してこちらまで連れて来させるように」

「ミーファ・ロームで宜しいのでしょうか?」

「それで構わん」

「その名前は今朝ご報告した中にありましたが、どう致しましょう?」

「そのような者がいたか?」

「いました。死者の中から蘇生する可能性があるという事でしたが、今の所、連絡が来ていないので蘇生しなかったと思われます」

「そうか……。解った。では切るぞ」

「はい。失礼致します」

 カンは音石を操作して通信を切ると蓋をし、容器をズボンの衣嚢に入れた。そしてまた左手で拳を作ると、幾度となくヤオの腹部を殴った。被せていた布に血が滲んでも気にせずに殴り続けた。


 ルニリナが休暇中の間は、水伯が玲太郎の魔石作りに付き合い、それ以外はディモーンが座学を教えていた。玲太郎の休暇は十五月二十五日から四日間だけとなっていたが、ディモーンは十五月二十四日から八日間が休暇となっていて、その間は水伯が勉強も見ていた。一月九日にはルニリナが戻り、十日からルニリナが授業を再開した。

 再開初日の休憩時間中、長椅子に向き合って座っている二人は茶を飲みながら雑談をしていた。

「休暇は何をしていたのですか?」

「アメイルグ先生が付きっ切りで宙を飛ぶ練習をやってくれました。もう少し速度が出るようになったら、物を浮かして動かす練習に移ります」

「そうですか。そこまで出来るようになったのですね。素晴らしい事です」

「ルニリナ先生がいない間も中型の魔石作りを頑張ってたんですけど、そっちは成功しませんでした」

「ですが、アメイルグ先生の耳飾りに身体強化を付与出来たのですよね?」

「それは出来ました。耳飾りが高品質だったから、特大型の水晶に近い魔力量が籠められたお陰です」

「そうだったのですね。魔力量が多いと雫一滴程度も中々出せない物なのですね」

「雫一滴となると無理です……」

 困った表情で言うと、ルニリナが微笑んだ。

「練習をしている内に必ず出来るようになりますよ」

「頑張れるだけ頑張ってみます」

「所で、ヌトはやはり眠ったままなのですか?」

「はい。一度も起きてません」

「ヌトがそう簡単に起きるかよ」

 傍にいたノユが苦笑しながら言った。ルニリナの隣に座って読書をしていたズヤが玲太郎を見る。

「ヌトは起きていた分、熟睡するから仕方があるまいよ」

「起こしたら起きるんだけどね?」

「起こせと言うた訳ではないぞ。玲太郎の冬休みが終わるまでは起こしてやるなよ?」

 ノユが困惑して言うと、玲太郎は微笑んだ。

「分かってるのよ。でも寮に戻って、ご飯の時間になったら起こすからね?」

「それは致し方ない」

 頷くノユに顔を向けたズヤが真顔になる。

「わしはヌトを家の木に連れ帰ってもよいと思うておるのであるがな」

「ズヤは僕からヌトを引き離すつもりなの?」

「その方がヌトも安眠できるであろうて。颯もわしに賛同して呉れておるぞ」

「わしもその方がよいと思うておるのであるが……、ヌトはどうしても傍におりたいと言うておったわ」

「ふ、誰に傍におりたいのであろうな」

「なぁに? それはどういう意味?」

 玲太郎はズヤを見据えた。それを見たノユが笑いを堪えた。

「それにつけても、ヌトは本格的に眠りに就く気はないのであろうな?」

「僕には起こせって言ってたのよ」

「そうであるか。それならば毎日眠るようになるのであろうな。生活習慣を変える積りなのであるな」

 ズヤがそう言い、視線を本に戻した。

「生活習慣を変えた所で、当分の間は睡魔に襲われ続けるのであるがな」

「ふふ。百年以上眠ってしまうと、面白い事を見逃しそうだから変えるのでしょうね」

 ルニリナがノユを見ながら言うと、ノユが鼻で笑った。

「それだけであるとよいのであるが。先は永いから、焦らずともよいのにな」

 それに頷いたルニリナは玲太郎に視線を向けた。

「そうですよね。先は長いですので、焦らなくてもよいのですよ」

「父上も、焦らず、ゆっくりってよく言います」

「ですが、学院を卒業するには、魔術と付与術の実技で合格を貰わないといけません。微細な魔力操作を出来るようにならなくてはなりませんので、そうも言っていられなくなりますね。それでも後五年半はありますので、まず留年しない事を目標に頑張りましょうね」

「はい、頑張ります」

 笑顔で返事をする玲太郎を凝視しているノユが口を開く。

「玲太郎はあのような施設に入らずとも良かったのに、何故なにゆえ入ってしもうたのよ?」

 玲太郎は苦笑しながらノユの方に顔を向ける。

「僕は甘えん坊だから自立しようと思ったのよ。それでみんなから離れた方がよいと思って寮のある所を選んだんだけど、僕を一人にしておけないって、あーちゃんやはーちゃんも学院に通う事にな…」

「成程、そうであったか。目的が叶わなくなってしもうたやも知れぬが、ニーティとも出会えたのであるから、意味はあったのであろうて」

 玲太郎に最後まで言わせずにノユが頷きながら言った。

「そうだね。でもルニリナ先生とは学院に通ってなくても、どこかで会えてたと思うのよ」

「それはあるな。……うむ、確かにある。いずれは出会っていたであろうな」

 玲太郎が笑顔で頷くと、ルニリナが微笑んだ。

「私は玲太郎君の存在を知っていましたから、私から会いに来るでしょうね」

「ルニリナ先生の占いって、そんなに当たるんですか?」

「私の占いですか? あたりますよ。だからまた占って下さいと契約を侵す人が跡を絶たないので困っています」

「先生の占いって、契約しないと出来ないんですか?」

「そうです。目族の占術は一人に対して一度限りですのでね。それで納得する人もいますが、しない人が多いのもまた事実です。ですので、普通は契約するのですよ」

「へぇ、それは大変ですね」

「どうです? 玲太郎君も一度占ってみますか? 玲太郎君なら、きっと百年に一度は占える筈なのですよ」

「百年に一度! 僕、そんなに生きるんですか?」

「玲太郎は長生きよ。魔力量がわし等より多いのであるから確実よ」

「ふうん……」

「稀たいの占術師と呼ばれておるニーティに占われてみぬか?」

 ルニリナが「ふふふ」と笑いながらノユに顔を向けた。

「玲太郎君は私に占われるのが怖いのですよ。悪い事を言われて中ったらどうしよう、と、そう思っているのですよね?」

 玲太郎は図星を突かれて俯いてしまった。

「それは、……確かにあります」

 顔を上げてルニリナを見据えた。

「僕の事を占って、万が一、父上に悪い事が起こるという事が分かると嫌なんです」

「閣下だけですか?」

 玲太郎は苦笑する。

「あーちゃんやはーちゃんもですけど、ばあちゃんやお祖父様の死期が分かるかも知れないと思うと、それも怖いです」

「そうですか。確かに身内の死期は見えてしまいますものね。それは訊かれなければ言いませんので、ご安心下さい。颯にも言いませんでしたからね。颯が知りたがっていた事柄が見えれば言う積りでしたが見えなかったので、命を狙われる事は教えました。そうすれば日々の心構えが違って来るだろうと思いましたからね。でも生徒が狙って来るとは思いも寄りませんでした」

「それは魔術の授業中の出来事だったんですけど、僕はヌトに連れられて校外に行っていて、攻撃をされていた事を後で知りました」

「そうでしたか。見なくて良かったですね。玲太郎君は何が切っ掛けで暴走するか、それが判らないでので見ない方が良かった筈です。ヌトに感謝ですね」

 玲太郎は不満そうな表情をする。

「僕は見たかったです。何も出来なくても、見ていたかったです」

「見るとして、颯が攻撃されている所を冷静に見ていられる自信はありますか?」

 視線を下げて暫く沈黙した。そして顔を上げる。

「それはその時になってみないと分かりませんけど、見ていたかったです」

「そうですか。私が聞いた話では、力を使い果たさせて土に還したかったようですので、見ていても防戦一方で、見ていても恐怖しかなかったと思いますよ」

「そうなんですね。実はアメイルグ先生が映像記録を持ってて、それを見せてもらおうとしたら、断られてしまいました」

 ルニリナはそれを聞いて笑いを堪える為に、手を口で覆った。玲太郎は困惑した。

「何かおかしくなる事を言いましたか?」

「すみません、玲太郎君はそこまでして颯が攻撃を受けている所を見たいのかと思ったら、何故かおかしくなってしまいました」

 焦った玲太郎は首を横に振った。

「違う……、あの、そうじゃないんです。相手が最後どうなったのかが見たいんです」

 些か目を丸くして玲太郎を見ていたルニリナが、優しい眼差しを向けた。

「そうでしたか。颯が散らせた命の最期を見届けたいのですね。私は間違いなく興味本位だと思っていました。失礼しました」

 そう言われ、玲太郎は見る見るうちに顔を赤くした。それを見て、ルニリナは穏やかに微笑むだけで、何も言わなかった。

「それにしても、子が術を使い切って直ぐ土に還るなぞ今までなかった事であるが、そうなってしまうのはやはりあの奇妙なつい精霊の所為であろうか?」

 俄に会話に入って来たノユが険しい表情で言うと、ルニリナが頷いた。

「あれですね、生命力を魔力に変換して枯渇するまで魔術を使った結果、直ぐ土に還るのではないか、という仮説ですね。これはもう定説でよいのではないでしょうか。但し、あの奇妙な対精霊を持つ者に関しては、と条件が付きますが……」

「そうであろうな。ま、其処そこまでして対精霊の力を欲した結果であるからな、大好きな術を使って土に還る事は本望であろうて」

「私達獣人種は合体型とも一体型とも言われていて、覚醒すれば精霊の力を如何いかんなく発揮出来ますが、人種ではそうはなりませんのでね。対精霊と出会えるかどうかも、対精霊の気分次第という事もありますが、運要素も絡んできますのでね」

「そうなんですか?」

 思わず玲太郎が訊くと、ルニリナが頷いた。

「そうなのですよ。胸の辺りや背中から糸のような物が見えるのは、私達が二つ目だからです。普通の人には見えませんのでね。それに傍に対精霊がいたとしても、探しに行く人が少なからずいるのですよ。何故かと言うと、傍に対精霊がいると魔力が強化されますのでね。目族の占術師の下には、その行方を知る為に来る人もいる程です」

「へぇ、そうなんですか。僕は一体型だか…」

「玲太郎にはそのような事は関係あるまいて。その膨大な魔力量では対精霊がおっても、全くの無意味であろうからな」

「うん? 対精霊って、その程度なの?」

「玲太郎が格が異常なのよ。対精霊が傍にいたとて、毒にも薬にもならぬわ」

 ノユにそう言われてしまうと、玲太郎は何も言えなかった。

「ヌトが傍におるのであるから、それで我慢しておけよ」

「そうですね。ヌトも精霊ですものね」

 微笑みながらそう言うと、玲太郎は苦笑した。

「対精霊が欲しいんじゃなくて、興味があっただけなんですけどね」

「それならば灰色の子の対精霊の下へ行き、話でもして来ればよいのではないのか?」

「えっ、話せるの?」

 ノユは勿体振り、莞爾として玲太郎を見詰めるだけだった。玲太郎は焦れて眉を顰めた。

「ねぇ、対精霊って話せるの?」

「話せぬ」

 玲太郎は勿体振られた分だけ苛立ちが募った。

「意思の疎通は出来るが言葉ではないからな。玲太郎が捕えた精霊がおったであろう? あれも話せぬが、意思の疎通は出来る筈ぞ?」

「ルツね。名前はルーとツーだよ」

「そう言われても、わしには何方どちらが何方か判らぬわ……」

「私には判りますよ。ツーはルーにはない鱗があるのです。泳いでいると輝いて綺麗ですよ」

 得意満面で言うと、ノユが白けていた。玲太郎が俄に目を輝かせた。

「それにツーの方が少し体が小さいです」

 そう得意満面で言うと、ルニリナが前のめりになった。

「確かにそうですね。そしてツーの方が素早いで…」

「お主等はそろそろ魔石作りに戻らぬか」

 ズヤが横槍を入れると二人はズヤを見た。

「もうそのような時間ですか? 先程休憩を始めたばかりですよ?」

「茶も飲まずに話しおってからに……。冷めてしもうておるのではないのか?」

 ルニリナは茶器を見ると、言われた通りに茶が冷め切っていた。

「確かに……」

 茶器を持ち上げて冷めた茶を飲み干すと深く息を吐いた。

「冷めていても美味しい事に変わりありませんね」

 玲太郎も同じように呷った。

「はぁ……。美味しかったです」

「それでは続きをしましょうか」

「はい」

 笑顔で返事をすると、茶器を受け皿に置いた。二人は茶器を机の端に寄せると、ルニリナが中型の水晶を作り始めた。ズヤは既に読書を再開していた。


 颯は相変わらず明良に扱き使われているのか、夕食に間に合わない事があったが、今日はその日だったようで、待ち侘びていた玲太郎は肩透かしを食らってしまった。

「あーちゃん、日の曜日くらい、はーちゃんを休ませてもよいと思うんだけど?」

 夕食後、明良と居室で寛いでいる時、俄に玲太郎による明良への八つ当たりが始まった。明良は衝撃を受け、目を丸くして玲太郎を見た。

「ど、ど、どうしてそのような事を言うの?」

「だってはーちゃん、夕食に来ない事が増えてるような気がするのよ」

 露骨に不機嫌になった明良は玲太郎から目を逸らした。

「それは颯が望んで遣っている事だから、私がどうこう言った所で遅い日は遅くなると思うよ?」

「ふうん……。そうなの。学院では毎日一緒にいるから、会う時間が減ると奇妙な感じなのよ」

「私だって、学院にいる時より会っている時間が減っていると思うのだけれど?」

「あーちゃんとは時間が減ってても、こうしてくっ付いてるからねぇ……」

 そう言って密着している明良を見上げた。明良は玲太郎を笑顔で見詰め返す。

「それは時間が短くなった分、玲太郎の傍にいないとね」

 二人の対面に座っていた水伯が声を出して笑い出した。

「ふっ、ふふっ、それでも毎日颯と一緒に入浴しているのだろう? それでよいのではないのかい? また寮生活に戻れば、颯と一緒の時間も取れるようになるよ。それに颯は、颯にしか出来ない仕事を遣っているからね、時間が取れなくなっているのは仕方のない事なのだよ。だから明良を責めるのは感心しないね」

 玲太郎は消沈すると、俯いた。

「あーちゃん、ごめんなさい」

 明良は玲太郎の頭を優しく撫でた。

「うん、解って貰えればそれでよいからね」

 玲太郎は明良の手を退かして、乱れた髪を手櫛で直している。

「所で、ルニリナ先生がいないのはどうしてなの?」

 露骨に話題を変えた玲太郎を柔和に微笑んで見ていた水伯が二度頷いた。

「それは玲太郎が魔術棒を使わなくなっただろう?」

「ああ、うん。なくても使う量を減らせるようになって来たからね。最後の一本が壊れてから、父上に作ってもらってないのよ」

「そう、それで更に使用量を減らせるような魔道具を作ろうとしてくれていてね、任せているのだよ。ニーティは器用だから、私よりそういう物を作る事に向いているからね」

「え、そうなの? 魔道具かぁ……。また魔術棒みたいな物なの?」

「それは私にも判らないから、出来てからのお楽しみだね」

「それじゃあ楽しみにしとくね! あの魔術棒もきちんと使えるようになるまで時間がかかったからねぇ……」

 苦笑しながら白状したが、水伯は柔和な微笑みのまま、軽く二度頷いていた。

「そうだね、魔術棒の中に魔力が通るようになっていたのだけれど、外側に沿わせていたものね」

「あれ? 知ってたの?」

「それは当然だよ。魔術の練習はずっと私が見ていたのだからね」

「そうだったね」

 二人が笑顔で話し合っているのを見て、明良は些か不機嫌そうな顔になっていた。水伯はそれに気付いてはいたが、気遣う事はなかった。

「久し振りに父上に魔術を教わりたいね。昔みたいに手を握って浮かせて欲しい」

「懐かしいね。今から行くかい?」

「うん!」

 玲太郎が元気良く返事をすると立ち上がった。

「え? え? 本当に行くの?」

 慌てた明良が困惑した表情で玲太郎に訊いた。玲太郎は明良に顔を向けると笑顔を見せる。

「うん、行って来るね」

 水伯が柔和な表情で明良を見ながら立ち上がった。

「颯が帰って来たら、音石で報せてと伝えておいてね」

 明良は水伯を見上げた。

時間も外で遣るの?」

「玲太郎が飽きるまで遣って来るよ」

 玲太郎は顔を顰めた。

「えー、さん時間くらいにしようよ」

「それならば私も一緒に行くからね」

 明良も立ち上がると、最後尾を歩いた。玲太郎が振り返る。

「あーちゃんも来るの?」

「ほら、きちんと前を向いて歩いて」

「あ、うん」

 明良に注意をされると前を向いた。三人が連なって居室を出ると、水伯が玲太郎の手を取って並んで歩き出す。後ろにいる明良が嫉妬に満ちた表情でそれを見ていた。水伯が柔和に微笑んで振り返る。

「明良、そのような顔をするのならば、居室で玲太郎が戻って来るのを待っている方が精神的によいのではないの?」

「見ている方が精神的によいに決まっているよ」

 玲太郎はまた振り返って、明良の顔を見上げる。

「あーちゃん、付いて来ないで」

 明良は驚いて玲太郎を見た。

「え? 私にいて欲しくないの?」

「あーちゃんの顔が怖くなって行くからね。そういうのは見たくないから、大人しくよい子で留守番しててね」

 悲しみを通り越して冷静になった明良は立ち止った。

「帰る」

 それだけ言って、即座に瞬間移動してしまった。二人は立ち止る。

「ああー! 拗ねて逃げられた!」

「また謝りに行かないといけないね」

 笑いを堪えながら水伯が言うと、玲太郎は脱力くして小さく溜息を吐いた。

「はぁ……。はーちゃんが来たら連れてってもらうしかないね……」

 二人は顔を見合わせていたが、水伯が軽く二度頷くと歩き出し、玲太郎も引っ張られるように続いた。

「またはーちゃんに叱られるのよ……」

「うん? 何故叱られるの?」

「あーちゃんを拗ねさせたから」

「そのように頻繁に拗ねさせているのかい?」

「そうでもないよ? 時折なのよ、時折。あーちゃんってば、すぐ拗ねちゃうからね」

「颯はどういう風に玲太郎を叱っているの?」

「うん?」

 二人は立ち止ると、水伯が玄関扉を開けた。玲太郎が先に出ると、水伯がそれに続いて、そのまま階段を下りて行く。すると、閉扉する音がした。光の玉が前方に顕現すると足もとを照らしてくれる。水伯は雪を解かしながら北の畑へと向かう。

「それで、先程の続きだけれど、颯はどういう風に玲太郎を怒るの?」

「ああ、うんとね、強く当たるなよとか、もう少し優しく言うようにとか、またきつく言ったのか、止めろって言ったよな? とか、もう少し手心を加えろよとかね、そんな感じ」

「ふっ、そうなのだね。玲太郎は明良に強く当たっているの?」

「そういうつもりはないんだけどね、当たってるみたい」

「そう。明良は玲太郎が大好き過ぎるから、玲太郎自身が明良に何を言っても大丈夫だ、と思っている所があるのかも知れないね? そう遣って相手の気持ちの上で胡坐あぐらを掻いていてはいけないよ?」

「そんなつもりはないのよ。ただね、時々あーちゃんに言い返したくなって、それがたまたまきつい言い方になってるだけなのよ。本当にそんなに頻繁に拗ねさせてる訳じゃないからね?」

「それならばよいのだけれどね。確かに明良は過ぎている所があるけれど、あれでも抑えている方だと思うよ?」

 玲太郎は思わず眉を顰めた。

「えっ、あれで抑えてるの? それはないのよ。一緒にいる時はここぞとばかりにくっ付いて来るもん」

「ふふ、明良は元々そうだったよ? 玲太郎が赤ん坊の頃、八千代さんに、抱き癖が付くから抱っこし過ぎないようにと言われていたから、相当我慢をしていたのだと思うよ。だから抱っこが出来る機会が来たら、それはもう顔を綻ばせて抱っこをしていたものだよ」

 そう言って何かに気付いたのか、声を出して笑い出した。

「何か面白い事でも思い出したの?」

「ふふ、今と本当に同じだなと思ってね。抱っこが出来る機会をずっと窺っているものね」

「ああ、うん、そうなるね。あーちゃんはどうしてそんなに僕が好きなんだろうね? 不思議で仕方がないのよ。それははーちゃんも言ってた。俺は弟か妹が欲しくて仕方がなかったけど、兄貴はそうじゃなかったって」

「明良はね、玲太郎が産まれて直ぐに抱っこをした時、玲太郎と目が合ったのだけれど、その時に玲太郎に魅了の魔術を掛けられたのだと思うよ」

「みりょうって何?」

「玲太郎に心を奪われる魔術を掛けられたのだよ」

「ふうん?」

「玲太郎が明良をああしたのだから、仕方がないね?」

「そんな赤ちゃんの時の事を言われても……、困るなぁ」

 不満になりつつ、水伯を見上げた。それを一瞥した水伯は柔和な微笑みを浮かべる。

「それだけ明良が玲太郎を大切に思っている事を忘れないでね?」

「うん、分かった。でもつい言っちゃうんだけど、あーちゃんも過敏なのか、些細な事でもすぐに拗ねちゃうんだよね」

「玲太郎が何気なく言った事でも、明良は敏感に受け取ってしまうのだろうね」

「敏感じゃないのよ。過敏なのよ」

「似たような物だよ」

「まーったく違うのよ。あーちゃんのは過敏なの」

 そう強く断言する玲太郎を横目に、水伯は含み笑いをした。

「兎にも角にも、きちんと仲直りをするのだよ? 明良が玲太郎と拗れていると、痩せ細って行くだろうからね」

「えっ、あーちゃん、ご飯を食べなくなるの?」

 目を丸くして水伯を見上げた。水伯はいつもの微笑みを浮かべて玲太郎を一瞥する。

「そうなる日が来るかも知れないからね」

「なーんだ、食べなくなる訳じゃなかったのね。良かった」

 心底安心して言うと、水伯が足を止めた。玲太郎も釣られて止まる。

「どうかした?」

 水伯は玲太郎を抱き上げると再び歩き出した。

「でも食欲は落ちている時もあるから、安心し切るのはいけないよ?」

「えっ、食べる量が減ってるの? ……優しくしようとは思ってるんだよ? でも、どうしてだか分からないんだけど出来ないのよ……。つい言っちゃう」

「そう。それならば、言う前に十数えてみるのはどう? 少し落ち着けるし、言おうとした事を呑み込めると思うよ?」

「十数えるの?」

「そう。試しに遣ってみて?」

「分かった。やってみるね」

 笑顔で返事をした玲太郎を見て、水伯もまた笑顔になった。

「魔術の練習が終わったら、耳飾りの図案を描いて、出来上がったらそれを持って謝りに行って来るね」

「それでは今日中には無理なのではないの?」

「明日、あーちゃんが夕食に来るまでに出来ればよいと思ってるけど、それだと遅い?」

「明良は早く玲太郎に来て欲しいと思っていると、私は思うのだけれどね」

「じゃあ待っててもらおう」

 そう言うと悪戯っぽく笑って、水伯は苦笑した。玲太郎は揺られながら、耳飾りをどうしようかと思案した。


 冬休みは二月九日までなのだが、入寮が六日から八日までになっていて、玲太郎は八日の十八時に戻る事にしていた。送るのは明良ではなく、水伯の役目となっている。

 颯はと言うと二月一日に入寮し、八日にバハールを迎えに行く事になっている。ルニリナは五日から入寮で、颯と連れ立ってカンタロッダ下学院へ向かって行った。

 玲太郎はディモーンと座学の復習をしていたが、明日には入寮する事になっている所為か、上の空だった。

「レイタロウ様、身が入らないようですので、休憩に致しましょうか」

 玲太郎は我に返って笑顔のディモーンを見上げた。

「ごめんなさい。なんかぼんやりしちゃって……」

「紅茶をお持ち致しますので、暫くそのままぼんやりなさっていて下さい」

「ありがとうございます」

「そろそろ小腹の空く頃合いですから、何か食べ物も持って参ります」

 笑顔でそう言ったディモーンは静かに退室した。玲太郎は頬杖を突いて、窓の外に視線を遣った。外は銀世界なのだが、曇り空で眩く輝いている訳ではなかった。

(もう冬休みも終わりかぁ……。あっと言う間の二ヶ月だったけど、何をやってたんだろう? ……)

 思考が上手く働かず、また景色を見て呆けていた。

 ディモーンが玲太郎の前に茶器を置いても、玲太郎は外を漫然と見ていた。

「レイタロウ様、レイタロウ様、お気を確かに」

 声を張り上げて言うと、玲太郎が我に返り、ディモーンに顔を向けた。

「紅茶が入っております」

「あ、ありがとうございます」

「お熱いのでお気を付け下さい」

「はい」

 視線を下げると、紅茶の隣には生菓子が置かれていた。

「お腹が空いてたから嬉しいのよ。ディモーン先生、ありがとうございます」

「どう致しまして。それでは三じっ分後に参ります」

「分かりました」

 ディモーンは辞儀をすると退室した。玲太郎は生菓子に菓子用の突き匙を入れていた。

(座学は復習ばっかり、魔術は飛ぶ練習と中型の魔石作りの練習ばっかり、間で植物を育てたり、土から石作りをやったり……、結局大きい岩しか作れなかったけど。やっぱり呪文ありだと制御が出来なくてダメなんだろうね。略式でも大きかったもんね。……それは置いといて、外食や買い物もしたけど、はーちゃん抜きだったんだよねぇ。はーちゃんはなんであんなに忙しくなっちゃったんだろう……。お風呂だけは毎日一緒だったけど、やっぱり僕が毒を盛られちゃったから、それで忙しくなっちゃったんだろうなぁ……)

 切り分けた生菓子を突き刺して口に運ぶ。

(あ、美味しい……)

 微かに口元が綻んだ。その後は無心で食べ、茶を飲んだ。

 ディモーンが食器を下げに行き、それから戻って来ると、また退屈な座学が始まった。それでも今度は身を入れて耳を傾けていた。ディモーンも玲太郎が集中力を取り戻したようで一安心していた。

 休憩を挟みながら三時間耐えた玲太郎は、漸く昼食間近となって背筋を伸ばしていた。ディモーンは既に部屋を退室していて一人になっていて、着席したまま、また漫然と外を眺め始めた。そしてふと何かに思い至ると立ち上がって退室した。向かったのは水伯の執務室だった。扉を叩こうとする。

「お入り」

 先に中から声が聞こえると、静かに開扉して中へ入り、閉扉した。そして水伯のいる執務机の方へ行く。

「どうかしたのかい?」

「用事はないんだけどね、もうすぐ昼食だから一緒に行こうと思って」

「そうなのだね。それでは私も仕事を切り上げるとしよう」

 手に持っていた書類を机に置いて立ち上がる。

「今日はどの教科を復習したの?」

「今日は共通語とサーディア語と歴史だね」

 玲太郎に手を差し出すと、玲太郎は迷わず手を取った。それから一緒に退室した。二人は手を繋いで廊下を徐に歩く。

「明日には入寮だから、ディモーンの授業も今日で終わりだね」

「そうだね。少し寂しい気もするのよ。でもまた夏休みになったらディモーン先生に教われるね」

「もう半年も先の話をしているのかい? 気が早いね」

「また明日には寮に戻って、すぐ始業式があって、授業もすぐに始まるから、それから逃げたいのかもね?」

「やはり自宅が一番よいだろう?」

「うん! ルニリナ先生を家庭教師に雇ってくれてありがとう。お陰で魔石作りの練習が一杯出来たのよ」

「そう。それは良かった」

「先生に占ってみませんかって何度も言われたけど、なんだか怖くて占ってもらってないのよ」

「私はニーティに占って貰ったけれど、本当に中るからね。でも忘れてしまうから、後になって、そう言えば占いでそういう結果が出ていたなと思い至るのだよ」

「ふうん……。そう言えば、占う前に契約するって言ってたけど、父上はしたの?」

「ああ、一人に就き一度しか占えないからだね? 私は目族の占術師に何度となく占って貰っているけれど、契約はした事がないね。……何故だろうね?」

「へぇ、そうなの。どうして父上はしなかったんだろうね? 不思議だね」

 たわいない会話を続けている内に、心中にある暗いもやのような物が薄れて行くのを感じ、玲太郎は表情を明るくして行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ