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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第二話 しかして水伯が遣って来る

 まだ夜が明ける前、八千代は厠に行った帰りに玄関先に人気がある事に気付いた。玄関の扉は木の枠に磨り玻璃はりめ込まれている型で、透けて白っぽい物が見えたのだ。寝巻のままだった為、足音を立てないように早足で羽織を取りに部屋へ戻った。そして急いで玄関へと遣って来て、突っ掛けを履くと戸口まで行き、物音がしないように徐に引いた。立っていたのは、いつもの黒尽くめの服装に白鼠しろねず色の髪、後ろ姿だけでも誰だか直ぐに判明した。

「おはようございます。ほんまにはよおから来られたんやね」

 八千代が驚いた様子で丁寧に言ったが、只の嫌味に聞こえるような気がして顔が強張った。水伯は振り返るとそんな事は意に介さずに柔和な笑顔を見せる。八千代も釣られて笑顔を見せる。

「お早う御座います。ご迷惑とは存じましたが、本日は玲太郎の面倒を見る為にこのような時間に訪問しました」

 肩から大き目の布袋を提げている。布袋は大分膨らんでいて持ち手が肩に食い込んでいる。物を色々持ってきたようだ。八千代は頬をさすりながら子供部屋の方へ顔を向けた。

「玲太郎はまだ寝とるみたいやけん、上がって起きるんを待っとってもらってもええかいな?」

 そう言って一歩下がり、水伯を招いた。帽子を脱ぐと頭を下げて鴨居を避けながら入って行く。

「お邪魔します」

 沓脱石くつぬぎいしに上がると靴を脱いで式台に上がり、靴の向きを変えようと振り返ろうとした。帽子は既に消えていた。

「私がやっとくけん、どうぞ居間へ上がってください」

「そうですか? それではお願いしますね」

 水伯は居間ではなく、何故か食堂の前で止まった。障子を開けると中に入って行く。

「えっ?」

 それを見ていた八千代から思わず声が漏れた。急いで水伯の靴の向きを変え、突っ掛けを脱ぎ、それも向きを変えて水伯に続いた。水伯は食堂の食卓に持って来た食材を出し始めていた。

「今日一日は私が家事全般をしますよ。八千代さんは休んで下さいね」

「ええ?」

 目を丸くした八千代の声が裏返った。

「ごめん、変な声が出てしもた……」

「構いませんよ。兎にも角にも、ほぼ休みなしでずっと家事を遣っているでしょう? たまには、ね?」

 朝食に使う分を布袋から出し終えたのか、八千代の方を見ながら言った。八千代は突然の申し出に尻込みして視線を食卓に落とし、しばらく黙っていた。そして視線を上げて水伯を見る。

「ほな……、お言葉に甘えて、よろしゅうお願いします」

 水伯が笑顔で頷く。

「朝ご飯はいつも何時かしら?」

「きっちり六時やな」

「それでは二時間くらいあるから、畑に使える物があるかどうか見て来ても構いませんか?」

「いや、ほれがな、収穫してもうたんよ。氷室に家用のんが置いてあるけん、ほっちを見てもろてええかいな?」

「解りました。それでは後で氷室に確認しに行きますね」

 水伯はそう言ってまだ材料が入った布袋を水屋の足もとに置いた。

「ほな着替えて、顔をあろて来ます。あ、お茶飲むんやったら急須は水屋にあって、茶葉は台所の棚の上から二段目に茶筒があるけん、ほれ使つこうてもろたら……」

「はい、解りました」

 お互い頷き合うと八千代は居間を出て行った。水伯は水屋から急須を取り出すと台所へと下りて行く。沓脱石にある一番大きそうな下駄を見付けて履いた。

(裸足で良かった)

 鼻で笑うと中央にある作業台に急須を置いた。そして棚の方へ向かい、上から段数を数えて茶筒を見付けると手に取る。蓋を開けて臭いを嗅ぎ、後ろに振り返った。急須の蓋を取り、茶葉を茶筒の蓋に少しずつ入れて手を止めると、それを急須の中に入れた。

(颯が起きてきそうだから一応三人分ね)

 六人家族だから急須は大き目だ。三人分は優に入る。急須に蓋をして、それを持って食堂に戻ろうと沓脱石に右足を乗せた所で、颯が泣いている玲太郎を連れて居間へ入って行く姿が見えた。水伯は急須を一旦食卓に置いて、水屋から湯呑みを三個出してきて急須の側に置く。急須の中に直接湯を入れ、颯の様子を見に居間へ向かった。

「あれ、水伯! おはよう」

「お早う。良く眠られているのかしら?」

 廊下で出くわして話す。

「あー、短時間で起こされるけん、寝た気がせんな。ほれよりうんこしとるけん、お湯とか持ってくるわ。また後で!」

 早口で言って立ち去ろうとしたが水伯が止める。

「待って。私が遣るから行かなくても大丈夫。それより食堂にお茶の準備をしてあるから、入れて貰えるかしら? つい先程にお湯を入れた所だからもう少し待ってから入れてね。八千代さんと颯の分もあるからね」

「ほんまにな。ほなほうする。よろしくう」

 軽く辞儀をして食堂へ行った。水伯は居間へと行き、泣いている玲太郎を抱き上げた。

「はい、綺麗綺麗。もう気持ち悪くないからね」

 泣き止んだ玲太郎は「あー」とか「うー」とか言いながら間で口を開閉させた。

「おや、お腹も空いているのだね」

 そう言いながら食堂へ向かう。台所に一番近い所に座っている颯が水伯に気付いて顔をそちらに向ける。

「あれ? まさかもう終わったん? 早過ぎへん?」

「そのまさかだよ。魔術だと直ぐだからね。瞬間移動と洗浄魔術で瞬時に終了だよ。それにつけても、乳を貰えないかしら? お腹が空いているようでね」

「分かった。ちょっと待ってな」

 立ち上がって水屋まで行き、汁椀を取って台所に下りて行った。

「さじ出しといてなあ」

 台所の奥から声が聞こえてくる。水伯は頷いて「はい」と返事をすると水屋の前に立ち、丁度よい大きさの匙がないのを見て、魔術で出した。それを手に颯が戻るのを座って待つ事にした。

「玲太郎の小さな口にはこれくらいの匙がよいよね」

 先程出した匙を玲太郎の目の前に持って行く。玲太郎の目が開いていて、それを見ているようだった。

「やはり見えているよね? 昨日から? それとも今日から?」

 口を開閉させながら「あー」とか「うー」とか言っているが、明確な答えはなかった。

「そうですか、そうですか。教えたくありませんか」

 水伯は柔和な表情で玲太郎に言った。

「お待たせ~」

 颯が乳を持って来てくれた。

「ありがとう」

 先ず礼を言った。

「どういたしまして」

 颯は頷いて汁椀を水伯の前に置く。

「玲太郎の目は何時いつから開いているのかしら?」

「兄ちゃんが言うには、昨日の正午過ぎに気付いたら開いとったんやと。オレはご飯食べて、その後すぐに昼寝しょって見てないんよ。起きて来たら開いとった」

「そう。色合いはきちんと見た?」

「見た見た。濃いむらさきやった。けんどまわりがだいぶ明るうないと分からんな」

「そうだね。判り難いよね」

 二人は笑顔で話した。そして水伯は汁椀に視線を落として匙で乳を掬い、玲太郎の口へと運んぶ。颯は急須を手に取ると茶を入れ出した。

「ばあちゃんがおらんけんど、どこにおるん?」

「着替えて顔を洗ってくると言っていたから、そろそろ来ると思うよ」

「ほんま。今日学校行くけん、弁当作ってもらわんとあかんのんやけんど」

 急須を置いて、水伯の前に湯呑みを差し出した。

「昨日言うん忘れとったんよなあ」

 また急須を持ち、残りの茶を二個の湯呑みへ交互に少しずつ注ぐ。

「今日は私が家事をするから私が作るよ。何が食べたい?」

「水伯が作るん? まじで? あれあれ、前に作ってくれた玉子焼きの中に乾酪かんらくと何かの水煮が入っとったんがええ!」

 歓喜して、まだ朝も早いというのに声が大きくなった。水伯は「ふふ」と笑うと颯に視線を遣った。

「乾酪は冷えるからとろみはないけれど、それでもよいかしら?」

 汁椀から乳を掬うと玲太郎の口元に運ぶ。

「ほれでもかんまん!」

 大きく頷いて椅子を引いて座ると、熱い茶が入った湯呑みを人差し指で触っている。

「あの時はホンカガという野菜の水煮を入れたのだよね。今は時期ではないから別の物にになるのだけれど、それでもよいかしら?」

「おいしい?」

「別の物にしても美味しいよ」

「ほなほれで! 後は何でもかんまんけん弁当箱二個分をお願いします」

 満面の笑みを浮かべると、触れていた湯呑みが急に冷めて、湯呑みに視線を遣る。

「飲みやすい温度に冷ましたからもう飲めるよ。それを飲んだら六時まで寝ておいで」

「ありがとー! 何べんも起きるけん、なんや感覚が変なんよな」

 そう言うと勢い良く茶を飲み出した。そして乳を遣り続けている水伯を見る。

「子育ては大変だからね」

「ほう? オレは今んとこいけとるけんど、しんどおなるだろか?」

「明良と二人でも早々に草臥くたびれると思うよ」

「ほなけんど水伯もおるし、ばあちゃんもおるけん、兄ちゃんと二人でないじょ」

「出来るだけ手伝うけれど、やはり二人が柱だから精神的にも辛くなる事も出てくるよ?」

「柱?」

「そう。二人が中心にやるという事ね」

「なるほど。ぶっちゃけオレより兄ちゃんの方がやりよるけん、兄ちゃんの方が先にあかんようになりそう。夜も遅おまで起きてくれとるけんな」

「明良が?」

「うん。一昨日の夜は時間見てなかったんやけんど、昨日は玲太郎が一発目に泣いた時の時間が二十九時前やったけん、兄ちゃんにしては遅おまで起きとったはずじゃ」

「それはそれは……。では今日は明良も玲太郎から解放して好きに過ごして貰おうね」

「兄ちゃんはしんどおても、めんどう見とりたいんとちゃうだろか」

 そう言って残りの茶を飲み干すと湯呑みを片手に立ち上がり、台所へ下りていく。水伯は一瞥いちべつすると匙で乳を掬った。そこへ着替えた八千代が居間に入ってきた。居間に上がった颯がそれを目にする。

「ばあちゃん、おはよう。洗いもん一杯あるけんどごめんじょ」

「おはよう。今日はお休みなんよ。水伯さんがみなしてくれるけん、水伯さんに言い」

「ほんま。水伯、ごめんじょ」

 水伯の方を見て悪戯っぽく笑って、また八千代の方を見る。

「今日はばあちゃんもラク出来るんじゃ、良かったな! あっと、今日学校に行っけん」

「分かった。弁当作りも水伯さんがしてくれるだろうけん、水伯さんに言い」

「もう言うた。ほな六時まで寝てくるわ。おやすみ~。水伯もおやすみ~」

「おやすみ」

「おやすみ。お弁当はきちんと作っておくから安心してね」

 颯は頷くと、早歩きで去って行った。残された二人は顔を見合わせると苦笑した。

「なんやここんとこあんな具合で落ち着きがないんよ……」

「玲太郎が生まれて気分が高揚しているのだろうね。それにつけても、お茶があるから八千代さんもどうぞ」

「ほな、頂きます」

 水伯の対面に座って取り残されている湯呑みを取ると、その温度を右手の掌全体で感じるように覆った。八千代が水伯と初めて会ってから十数年の時を経たが、全く変わらぬ外見を不思議な感覚で見ている。

 玲太郎はお腹が一杯になったようで乳を飲まなくなった。水伯は魔術で手拭いを肩に出現させ、そこへ玲太郎の顎を乗せると背中を優しく叩き始める。

「ほれにしても、何時ごろからあそこにおったんかいな?」

 水伯は玲太郎から八千代に視線を移す。

「八千代さんが四時には起きていると言っていたから、三時九十分頃には着いて待っていたかしら」

「ほんまに。二十分もお待たせしてごめんじょ」

「大して待っていないから心配ご無用ですよ」

 玲太郎がゲップをするとそのままの状態で立ち上がり、汁椀を流しに持って行った。流しの前で残っていた乳を飲み干してから桶の中に汁椀を浸けると、近くに置かれた汁椀も中に入る。

(魔術で片す方が楽なのだけれど、八千代さんがいなくなるまでは浸けておこうね)

 桶の水を足すだけにして戻って行った。当然ながらその水も魔術で出した。そして食堂へ戻り、玲太郎を横向きに抱き直して椅子に腰掛けると、湯呑みを手にして茶を二口飲んだ。

「さてさて、八千代さんは毎日朝食を作る意外に仕事は何をなさってお出でなのかしら?」

 不意に言われて言葉に詰まった八千代は目を細めて徐に息を吸った。

「米を研いで浸けとる間に、キコ鳥の卵を取りに行ったついでに鳥を放してから鳥舎の掃除をして、米を火にかけておかずをこっしゃえて皆を起こしてご飯を食べて、食べ終えたら一服して、ほんで余ったご飯で焼きおにぎりをこっしゃえてから後片付けをして洗濯をする、って感じ? ほれが終わったら家の掃除。ほんで間食の用意をして天気が良かったら布団を干して……っちゅう感じだろか?」

 一気に捲し立てた。水伯は玲太郎と見詰め合っていたが、聞き終えて顔を八千代に向ける。

「六時、十時、十五時、と夜ご飯を食べるのでよいのかしら? それと焼きおにぎりは」

「時間はほんなもんで夜は二十時やな。私は年やけんほんなに食べへんけんど、他はよう食べるけん。ほれと悠次はおかゆなんやけんど、自分から食べるって言うてくるんよ。ほの時に食べさせたってもらえるかいな? 留実には私かヴィストさんが運ぶわ。ほれから……弁当箱はほこにあるけん」

 水屋の方を指差した。水伯は振り返り、指が差していた辺りを見て弁当箱を見付けると八千代の方に向いて頷いた。

「解りました」

 満面の笑みを浮かべ、玲太郎に視線を移す。玲太郎は「あー」とか「うー」とか言っているが、瞬きが多く、目を閉じる時間が長くなり始めた。水伯は茶を飲み干す。

「玲太郎が眠そうだから寝かせて、早速仕事に取り掛かるとします。八千代さんはごゆっくりどうぞ」

「ほなお願いします」

 辞儀をし合うと水伯は立ち上がって居間へと向かった。八千代は水伯の姿が居間へ消えたのを確認してから茶を啜ったが、まだ熱くて一旦湯吞みを置いた。

 玲太郎を布団に寝かせた水伯は、玲太郎が目を完全に閉じるまで見守っている。

(目が見えているから余計に時間が掛かりそう……。まだ目を開けるね)

 玲太郎は水伯の方を見ていた。瞼を閉じている間隔が長くなって来て、もう直ぐ寝るのではないかと思われたが、しぶとく開けている。

(若しかして、私がいるから開けているのかも? そうならば離れるしかないね)

 そう考え、試しに少し離れても泣かなかった為、そのまま台所の方から外に出て行く事にした。台所の北東側に出入口があって、開錠してから開き戸を開けると小さな光の玉を出して家の東側へと行く。少し離れた所に四畳程の鳥舎があった。体長約二尺の土色をした鳥がニ十一羽いる。まだ眠っているようだ。扉は引き戸で、開錠して戸を開放すると中に入って行った。

(大してふんをしていないような気がする。この藁の処理法を聞いていないからどうすればよいのか判断に困るのだけれど……。こうなったら私の好きにしてもよいよね)

 魔術で全ての藁を綺麗な物に交換して鳥達を起こし始めた。水伯には全く慣れていないのだが、驚く様子もなければ、怖がる様子もなく、鳴き声も上げなかった。鳥達を起こしながら卵を拾い、手に持った籠に入れて行く。

(二十四個あるね)

 一日に二個産んだ鳥がいるようだ。ちなみにキコ鳥は通称で、「キーコ」と鳴くからキコ鳥と呼ばれている。水伯は周りを見回して、餌になりそうな草があるのか確認した。ついばまれている草が結構あったのを見て納得した。

(餌の事は何も言ってなかったから気にはなったけれど、この辺の草を食べているのだね。それにしても何時まで放しておくのかしら?)

 籠を両手で抱えて台所へ向かった。辿り着くと、中央にある作業台に籠を置いた。そして、どこに何があるのかを確認し始める。袋、箱、瓶、かめなど、一見して判らない物は蓋を開けて見て、必要とあらば臭いを嗅いだり、味を見たりする。後は調理器具の確認をする。

 一人頷きながら確認し終えると、木製の大きな鉢を出してきて米びつの米を量りながら入れて行く。そして水に浸けてあった物を魔術で綺麗にして片し、米を研いで何度か洗い流し、最後は水を捨て、それを釜の中に入れると少量の酒を入れてから必要な量の水は魔術で入れた。

(五じっ分前後置いておいて、その間に……)

 壁の上部を見回して時計を探す。

(まだ四時四十五分か。氷室に行って材料を見繕っておこうかしら)

 食卓に置きっ放しの材料を台所の台へと移すと、今度は台所の北西にある戸口から出て行った。氷室は家の西側にある土蔵で六十坪はある。かなり大きい。かんぬきを抜いて中に入って行くと、少し冷たい空気から更に冷たい空気に変わる。小さな光を少し大きくして上へ約一尺移動させると奥の方にまで光が届いた。簡易な棚が並んでいて色々と置いてあるようだ。

(野菜は目の前か。しまったな。籠を持って来ていなかった)

 そう思っても魔術で簡単に出せるので大した問題ではなかった。籠を出すと野菜が置いてある棚の前に行き、葉野菜を二束籠に入れた。それから徐に歩きながら使えそうな物を探す。十分程氷室にいただろうか。水伯は籠に数種類の野菜とくん製の肉塊を入れて台所へと戻っていった。


 食卓に料理が並び、後は白飯はくはんを装うだけとなった。起こしに行った訳でもないのに、五時九十分には続々と人が集まってきた。こんな時間から水伯がいる事に驚く事もなく、当然のように受け入れている様子だ。昨日の夕食時に颯が水伯が来ると言っていたのだから、当然と言えば当然だった。

 朝食は来た者から食べ始めたが、六時を過ぎても颯が起きて来なかった。水伯は颯を起こしに行き、「六時を過ぎてる」と言われた颯は飛び起きた。慌てて顔を洗いに脱衣所にある洗面所へと走り、顔を洗ってしまうと服を脱いで洗濯籠の中に入れ、下着一枚で食堂の前を通り過ぎて隣の部屋へと入って行く。服を着て出てくると食堂へ急ぐ。入った途端、明良を見るなり口を開いた。 

「兄ちゃん、なんで起こしてくれんかったん?」

 既に半分食べている明良が颯を見ると、口に入っている物を飲み込んだ。

「ギリギリまで寝かせてやろうと思って。駄目だった?」

「あかんかった! 起きた時に起こしてほしかった! 今日学校行くんよ!」

「そう。それはごめんよ」

 素っ気なく言うと野菜炒めに手を伸ばす。

「颯、席に着いて食べなさい」

 颯より先に食堂に戻っていた水伯が言うと、白飯が盛られた茶碗をを空いている席に置いた。颯は頷き、大人しく従ってヴィストの隣に座ると目の前に並んだ料理を見て笑顔になる。

「目玉焼き大好き」

 水伯はそれを聞いて微笑むと颯の左隣に座った。食卓の上を見回した颯が、ヴィストの近くで醬油を見付ける。

「父ちゃん、しょうゆ取って」

「ん」

 醬油を颯の近くに置いて遣る。

「ありがと」

 醤油を目玉焼きに垂らすと、醬油を置いて合掌した。

「いただきます」

 茶碗を片手に物凄い勢いで食べ始めた。それを見て柔和な表情になった水伯が颯に言う。

「おかずもご飯もお汁もお代わりがあるからいるなら言ってね」

「うん、あろでもらう。ありあと」

 手で口を覆って、食べ物が入ったまま返事した。ヴィストが汁を飲みながら、具を食べている。

「汁に入ってるこの白い物って何? これほくほくしてて旨いね。香りもいい」

 それを箸で挟んで、水伯が見えるように持ち上げた。

「それはネースルというウリ科の野菜だね。昨日南の領地に行っていて貰ったのだよ」

「ほれ、乳とよう合うけんど、この汁の乳は家にある山羊の乳とちゃうな?」

 八千代が会話に入ってきた。水伯は八千代の方に視線を遣ると頷いた。

「あの乳は甘過ぎて汁物には向かないから、違う乳を使ったのだよ」

「ほんまに。やっぱり山羊の乳は甘すぎるかぁ……。乾酪にも向かんかいな?」

「試しに作ってみては? 私は氷菓とかお菓子とかに使うのがよいとは思うのだけれどね」

 八千代は「うーん」と言って悩みながら玉子の白身を口に運んだ。

「玲太郎の残りを飲んみょるんやけんど乳が甘あて甘あて困っとんよ」

 そう言ったのは颯だった。

「僕も飲んでいるけど、確かに甘いね」

 言葉遣いがにわかに綺麗になった明良も言った。

「昨日収穫した野菜も甘みが増しとるよ。昨日食べたやつは皆甘かったけん、他も甘いはず」

「ふーん、そうだった?」

 八千代の言った事を思い出せないヴィストが首を傾げる。

「肥料もいつもと同じだったと思うし、他に何か特別な事はしてないと思うよ?」

「ほうやな、してないなあ」

 八千代が即座に答えた。

(玲太郎が生まれたくらい、だろな)

 そう思いながら明良は咀嚼していた。颯は食べるのに夢中で聞いていないようだった。水伯はそんな颯の食べっぷりを眺めている。

「この野菜炒めもほんまおいしいわ」

 颯が笑顔で野菜炒めを口に放り込む。

「氷室から持ってきたから昨日収穫した分ではないかしら。それと私が持ってきた葉野菜を牛酪ぎゅうらくで炒めて、塩胡椒で味付けしただけの簡単な物だけれどね。それを玉子で巻いてお弁当に入れてあるよ。それから言ってた玉子焼きも別の方のお弁当箱に入れてあるからね」

 颯は微笑んでいる水伯の方を見て満面の笑みを浮かべた。

「ありがと! 弁当が楽しみじゃ」

 颯は汁椀を持って、残りを全て口に掻き込んだ。結構具があって頬を膨らませている。咀嚼をし終えて飲み込むと席を立った。

「お代わりなら入れてくるけれど?」

「ほな野菜炒めのお代わりを手つどうてもろうてもかんまん?」

「解った」

 颯は茶碗と汁椀を持って、水伯は野菜炒めが入っていた深皿を持って台所へ向かった。そして上機嫌で颯が戻ってくると、再び食べ始めた。目玉焼きは二個ある内の一個を食べていて、豚肉の燻製は三切れの内の一切れを残していた。そこへ水伯が野菜炒めを入れて持ってきた。

「はい、どうぞ」

 それを置くと颯の隣に座る。

「ありあと」

 口に物が入ったままの状態で礼を言う。

「颯、そういう時はちゃんと手で口を隠さないといけないよ」

 明良が注意する。颯は不満な表情になると手で口を覆った。

「はいはい」

 今度は明良が席を立ってお代わりをしに台所へ行く。

「水伯はまだ食べないの?」

 ヴィストが聞いた。水伯は美味しそうに食べている颯を見ながら頷いた。

「うん、後で食べるよ。玲太郎がそろそろ何かしら行動を起こしそうだからね」

「そう」

 そう言うと、明良と入れ違いに台所へ向かう。明良が手に持っていた物を見た水伯が口を開く。

「明良はお汁のお代わりはしないのだね?」

「まだ残ってるからね。また後で」

「成程」

 玲太郎がいないと相変わらずの鉄仮面な明良から、また颯へと視線を移す。すると颯が水伯の方を向いた。

「目玉焼きの黄身は味がこおなったな。前よりおいしいわ。これも水伯が持って来たん?」

「いや、此処ここのだよ。今朝産んでいた物だね」

「ほな玉子もおいしいなっとん?」

 先程の話を聞いていないようできちんと聞いていたようだった。明良が颯に視線を遣る。水伯は真面目な表情をした。

「不思議だね」

「なんやおかしいんはオレだけとちゃうんやな」

 何故か小声で言った。水伯が鼻で笑う。颯と明良は視線をご飯に戻した。

(原因が玲太郎と思ってるのは僕だけじゃなかったか……。父ちゃんはどう思ってるんだろう)

 そんな事を考えながら豚肉の燻製をかじった。

「どれ、お呼びが掛からないけれど、玲太郎の様子でも見てようかしら」

 水伯が席を立ち、椅子を食卓の中へ入れると居間へ向かう。颯は食べながら後ろ姿を見送った。


 玲太郎は静かに眠っていて、水伯はそれを確認すると傍で胡坐あぐらを掻いた。

(そろそろ泣くかと思っていたけれど、意外と持っているね)

 玲太郎の安らかな寝顔に見入っていると泣き出したが、直ぐに泣き止んだ。玲太郎は目を開けて水伯に視線を遣ると「あー」とか「うー」とか言い始めた。水伯は柔和な笑顔を見せる。

「おしめは綺麗にしたからもう大丈夫だからね。お腹が空くまで眠っておいで」

 玲太郎の頭を少しずらして遣り、次に腹に手を置いて優しく叩き出した。すると俄かに声量が上がり、水伯は手を引っ込めざるを得なかった。途端に声量が落ちていき、瞼も重くなって静かになり始め、水伯は一安心して立ち上がり、振り返ると明良が廊下に立ってこちらを見ていた。

「水伯の場合、触ると声が大きくなるんだね」

「みたいだね」

「僕が触ると静かになるよ。全く話してくれない」

 反応に困る事を言われ、苦笑するしかなかった。

「それで、もう食べ終わったのかしら?」

「ううん、まだ。泣き声が一瞬聞こえたから気になって来てみただけ。戻るよ」

 そう言うと踵を返して食堂へ戻って行った。水伯も付いて行く。

「良く眠ってくれるから助かるね」

「うん。おしめの交換が意外と早くて、それに手が掛かるくらい」

 明良は席に着くと箸を持った。颯が顔を明良に向ける。

「ほうやな、あないにもしっこするもんなんやな」

「体がちっこいもん。ご飯の回数も多いし、排泄の回数も当然多いわな」

 八千代が言った。ヴィストは「うんうん」と言いながら何度か頷いた。そんなヴィストを冷ややかな目で見たのは明良だった。それも直ぐに視線を移したから、誰も気付く事はなかった。

「皆、お茶はいるのかしら?」

「オレはお汁二杯飲んだけんいらん~」

 颯が言うと、八千代が手で口を覆った。

「私は頂くわ。このお茶碗に入れてくれたらええけん」

「私もお茶碗に入れて欲しい」

「僕はもう一杯ご飯のお代わりをしたいから後がいいな」

「解った。それでは明良の分ももう淹れておくね」

 そう言うと食卓の真ん中に急須が現れ、口から湯気が立った。八千代がそれを二度見した以外は驚いた素振りも何もなかった。

 皆が食べ終わって、颯以外は食堂で茶を啜りながら寛いでいる。颯はというと、学校に行く準備をしに弁当を持って勉強部屋へ行った。水伯は空になった食器を盆に載せて流しに運び、桶に水を張って浸けていた。

(子供達には来る度に見せていたから耐性があるけれど、八千代さんは魔術に慣れていないから、彼女がいない時に片すとしても、忘れないようにしなければね……)

 盆を持って食堂に戻り、八千代とヴィストの茶碗のちょうど真ん中に盆を置き、先程まで座っていた椅子に腰掛け、明良を見ると目が合った。

「明良、今日は私が玲太郎の面倒を見るから、遣りたい事を遣ってね」

「うん、解った。今日は以前通りにさせてもらうね」

 軽く頷いて言った。

「何か玲太郎に就いて言っておく事はない?」

「……これと言ってないね」

 少し悩んでから答える。水伯が頷いた。

「解った」

 暫く沈黙が流れる。それを破ったのは八千代だった。

「今日はお休みが貰えたけん流網るもうに行ってくる。久し振りに買い物してくるわ」

「え!? かなり遠いのに?」

 ヴィストが驚いて大きな声を出した。明良と水伯は八千代を見る。

「近くの停舎まで歩くけんど、後は陸船おかぶねに揺られて行くだけやし、まあたまにはええだろと思て」

 流網市は島の北西にあり、潮岬村からだと陸船で約二時間は掛かる。陸船は直方体の建物を魔術で浮かべて移動する乗り物の事だ。

「停舎まで私が送ろうか?」

「田んぼに行くんだろ? かんまんよ。歩いて行くわ。歩いても十分やし」

「そう? じゃあ気を付けてね」

「はいな」

 八千代は微笑んで茶碗を口元に運ぶ。ヴィストも茶を口に含み、明良は茶碗に視線を移した。水伯はそれを穏やかな表情で眺めている。そこへ颯が戻ってきて顔を出した。

「水伯~、行く用意出来たけん、玲太郎の事、見よってもかんまん?」

「それは構わないけれど時間を忘れたら駄目だよ?」

「分かっとる」

 颯が居間へ行こうとすると、八千代が声を掛ける。

「学校行く用意出来たって、歯ぁ磨いたん?」

「もちろん!」

「ほんまにな。ほなええわ」

 颯は居間へ行った。その直後に明良が立ち上がって茶碗をお盆に載せた。

「僕は勉強してくるよ。水伯、ご馳走様でした」

「宜しゅうお粗末様」

 互いに視線を交わし合った。水伯は柔和な笑顔になり、明良は軽く辞儀をして食堂を出て行くも、居間の方に吸い寄せられて行った。玲太郎の事が気になるのだろう。


 ヴィストが茶を飲み干して、田畑の様子を見に家を出た。戻るのは十時頃になるだろうか。八千代は暫く居座っていたが、一旦食堂を出て留実の使った食器を下げてくると居間へ向かった。日課になった一日いち抱きをする機会を計る為に行ったようだ。水伯は一人になり、食事を摂る事にした。あらかじめ作っておいた物を全て温めて目の前に出したと同時に、盆に載った食器類を盆ごと移動させた。盆は片し、食器類は綺麗になって水屋へ戻った。勿論、流しの桶に浸けられた食器類も綺麗になって水屋に収まっている。黙々と食べていると、泣き声が聞こえてきた。すると、颯が遣って来た。

「玲太郎が泣っきょる。多分しっこ」

「解った。報せてくれて有難う」

 箸を置いて颯を促すと、二人で居間に向かう。居間に入ると二人の視線が水伯に向いている。玲太郎の傍に座ると、玲太郎が泣き止んだ。

「はい、綺麗になったよ」

 玲太郎の顔を覗き込むと視線が合った。また玲太郎が「あー」とか「うー」とか言い始める。今回は口を開閉させなかった。体勢を戻して八千代を見る。

「では八千代さんが抱っこを試す番かしら」

 玲太郎を眺めている八千代が我に返る。

「あ、ほうだった。ほのために来たんやったわ」

 そう言って水伯に場所を譲ってもらうと玲太郎を抱いた。やはり玲太郎は泣いた。少し暗い表情になると、左横にいた明良に玲太郎を渡した。

「ほな抱っこしたし、自分の部屋に行くわ」

 静かになった玲太郎を見て苦笑すると、立ち上がって部屋を出た。

「もうすぐ乳を飲むはずだから、それまで見ていてくれるかしら。私はご飯を頂いてくるよ」

「学校行くまでは見とけるわ」

「僕もそれまではここにいる」

 二人の反応を見て微笑むと、水伯も部屋を出た。明良は目を閉じた玲太郎を寝かせ、颯はそれを眺めている。

「兄ちゃん、玲太郎が目を開けとるじょ」

「そうだね。寝らないみたいだね。もう少し様子を見てみよう」

「……きしょくわるいけん、ほの話し方やめへん?」

 不快そうな表情を浮かべて視線を明良に移したが、明良は穏やかな表情で玲太郎を見ていて、颯を見る事はなかった。

「慣れてくだちゃいね」

「…………」

 明良は手を伸ばして額を撫で始めると頬が緩む。

(これくらいの表情やったらまだやばあないな)

 明良の表情を確認した颯は視線を玲太郎に移し、目を閉じているのを目にする。

(兄ちゃんがさわると寝るな。ほんなに寝たあなるもんなんだろか?)

 不思議に思いながら、玲太郎の腹に手を当てた。玲太郎は目を閉じたままだ。

(オレが抱っこしたら話してくれるけんど、これくらいでは話さんのんか。兄ちゃんの方が強い?)

 明良は颯の行動を見て、颯に視線を移す。

「何をしてるんだ? 同時に触れたら、どっちに対しての態度が出るのか見たのか?」

「うん、ほうじゃ。よう分かったな? あれやな、兄ちゃんの方が強いな?」

 颯が明良を見ると、明良はそんな颯に視線を移した。

「単に眠いのが勝ってるだけかも知れないよ?」

「ほなけんど、四時くらいに乳飲んだけん、そろそろ乳の時間じょ。起きとってもええはずじゃ」

「それは颯の意見であって玲太郎の意見ではないよね? 寝られる物ならば、少しの間でも寝たいのかもよ?」

「……ほうか」

「口を利く訳じゃないから本当の所は判らないけどね」

「うん」

 颯はなんとなく納得したからか、どうでも良くなっていた。座卓に体を委ね、頬杖を突いて時計に目を遣った。そして障子の方に目を遣る。六時四十分を過ぎた所でまだ外は暗かったが、刻一刻と夜明けが近付いてきている。


 颯は七時に登校し、悠次は八時前に朝食を済ませ、八千代は先程出掛け、明良はいつの間にやら勉強部屋に籠っている。留実は一度厠に起きて来ていたが、悠次はまた寝ているようだった。今は九時を少し過ぎた所で、空は雲が幾つか浮いているが晴天だ。水伯は脱衣所にいて、洗濯物が入った籠を前に立っている。

(好天とは言えども、悪天ならば魔術で晴らすから天気は関係がないのだよね。さて、纏めて畳んで置いておくとしても、何処に置くのがよいのかしら? ……取り敢えずは居間の座卓の上に置いておこうかしら)

 暫く悩んでいたが決断して即行すると、籠の中は空っぽになった。ついでに浴室を覗き、汚れている箇所がないか、隈なく探した。水垢が所々に見受けられたが、見える所はカビも生えておらず綺麗だった。水伯は水垢を洗浄魔術で綺麗に落とすと頷いた。それが終わると脱衣所の洗面台を確認、そこも綺麗にした。居間へ移動し、座卓の上に綺麗に折り畳まれた服が二つの山に積まれていた。

(掃除も一度は目にしておかないと、何処が汚れているのか判らないから二部屋以外はやるとして、八千代さんの部屋をどうするか……。聞き忘れたからどうしようもないね。汚れた所を確認しないで遣ってしまうという手もあるのだけれど、許可なく入室したと思われるのは嫌だものね)

 そう思いながら、先ずは居間を掃除した。とは言っても魔術で、だが。縁側の障子を開けると日光が差し込んで来た。縁側に出て、吐き出し窓の四隅を見る。玻璃が曇っているかを確認する為だ。下側は綺麗だが、上が少し曇っている。それも綺麗にしながら廊下を綺麗にして行く。居間の隣は人気がなく、障子を開けて何もない部屋を掃除をした。更にその隣には人気があった。留実がいるのはこの部屋だ。そこを通り過ぎ、隣に行くと悠次のいる部屋になる。また通り過ぎて、次の部屋に行くと突き当りで障子が開け放されていて、二十畳ある広間になっていた。

(使っていないだろうに、綺麗に保っているね。八千代さんは此処も毎日掃除しているのだね)

 綺麗になった畳の上を歩き、廊下側の障子を開けると、次は北側の部屋の掃除を始める。悠次のいる部屋の正面は、障子と窓が開放されていた。どうやら八千代の部屋のようだ。中に入らないで部屋の埃を取り、窓を綺麗にして次の部屋へ行く。今度は箪笥が三さおと棚が二本置かれていた。

(洗濯物はここに置いておく方が良さそうだね)

 綺麗にしてから服をこちらに移動させた。部屋の真ん中に衣類の山が二つ出現する。そして食堂へ移動するが、既に遣っていたから通り過ぎた。北側は居間が広い分、部屋数が少なかった。残す所は厠だけとなる。戸を引くと腰を掛けて座る型の便器があったが、汲み取り式になっている。通称が掃除苔という苔を肥溜に植えている。色々と分解して綺麗な水に変えてしまうという優れ物で、生活の必需品となっている苔だ。当然ながら臭いもない。室内には上履きが置かれ、便器を流す為の水が桶に溜められており、尻を拭く葉、掃除道具も置かれていた。ここは細かい所を確認しないで、個室全体を綺麗にした。

(後は子供達の寝室と勉強部屋と夫婦の寝室と客室と来て、最後に縁側を掃除して終わりかしら。氷室は遣ったから、納屋と山羊小屋もしておかなければね)

 途中、明良と少し話をして掃除をし終えると、玲太郎がまだ起きていたから抱いて外を回るのに付き合ってもらった。「あー」とか「うー」とか言って沢山話をしてくれ、水伯も色々と話した。最後の山羊小屋の前に来ると立ち止まった。

「そう言えば山羊の乳をいつ絞るのかとか、何時餌を遣るのかとかを聞いていなかったね……」

 小ぢんまりとした柵の中に小屋があって、山羊達は生えている草を食べている。

「雑草が思いの外生えているけれど、これで事足りるのかしら? 三頭分には足りないような気がしないでもないね。やはり餌は別にあげているのだろうね」

 玲太郎は「あー」とか「うー」とか言って返事をしている。水伯は笑顔になって玲太郎を見た。それから小屋の中に入り、餌入れと水桶と寝藁を目にする。水と寝藁を綺麗な物に交換してしまうと外に出た。

「餌の事は八千代さんが帰ってきたら訊こう。ヴィストは世話をしていないだろうからね。君のお父さんが世話をするのは、基本的には作物だけだものね。さて、お家に入ったら縁側で日向ぼっこをしようね」

 そう玲太郎に言って家へ向かうと、途中から数羽のキコ鳥が付いてきた。水伯は気にせずに家に入るとキコ鳥は鳥舎の近くに戻って行った。

 先程言われた通り、玲太郎は縁側に布団を持って行かれ、寝かされてしまった。日光が眩しくて目を開けていられないのか、ずっと閉じていた。水伯は穏やかな表情で玲太郎を見詰めている。

(あら? 洗濯物の中におしめがなかったけれど、おしめも洗濯しないといけないよね。私は使わないから失念していたよ。何処にあるのかしら? ……あるとしたらあそこかしらね)

 思い至って立ち上がった。台所の戸口から厠に掛けて軒が長かったのと、足下に何かしらを置いてあったのを思い出して、そちらに向かった。すると案の定、大きなたらいにおしめが沢山浸けられていた。底には掃除苔が隙間なく生えているように見える。盥の中のおしめが消えると、水伯は台所へ行く。

 時計を見てから鍋に水を張って魔道具の焜炉こんろの上に置き、火を点けると昆布を出して鍋に入れた。

(昨日の間食はうどんで一昨日が蕎麦、麺類でと言われているから素麺にしよう。あの辺の木箱に入っていた筈。ヴィスト、留実さん、明良、私の四人。三人が二束と、私は一束にしておこうかしら)

 置いてあった野菜を手際良く切って鍋の中に入れ、酒を少し入れた。ひと煮立ちしてからは中火と弱火の間にし、暫く煮てから味醂みりんと醤油と塩で味付けをする。水伯は味見をすると、野菜の甘味が良く出ていて味醂は必要なかったように感じた。

(甘味は旨味、だね。甘さが強いような気がするけれど、これで良しとしようかしらね)

 火を止めて鍋に蓋をすると氷室へ行く。葱を二本持って台所へ戻ってくると、洗って水気を取り、小口切りにしてそのまままな板の上に置いておく。時計を見るとまだ九時四十分を少し過ぎた所だ。

(早いけれど玲太郎を居間に移動させようかしら)

 玲太郎の下に行って座卓の近くに布団を動かした。玲太郎が起きないように気遣ったが、水伯の腕の中で「あー」とか「うー」とか言い出した。どうやら起きてしまったようだ。

「後六十分くらいは相手が出来るけれど、ずっと抱いたままは駄目だよね?」

 水伯と玲太郎は見詰め合っていた。


 寝かせようかどうしようか、水伯が悩んでいると明良が部屋に入って来た。衣擦れの音で水伯が振り返る。

「勉強がひと区切り付いたのかしら?」

「うん。切りのいい所で終わりにした。玲太郎が気になって集中力に欠けるんだよね」

 水伯の隣に座った。それを見届けた水伯は玲太郎に視線を戻す。

「昼飯までもう少し待ってね」

「父ちゃんが帰って来てから作るの?」

 明良も玲太郎を見ているからか、穏やかな表情になっている。

「そうだね。素麺だから茹で時間も短いし、ヴィストが帰って来てからにしようかしら」

 水伯を見ると無表情になった。

「素麺かぁ……。うどんが良かったな……」

「昨日もうどんだったのだろう? だから別の物がよいと思って素麺の予定なのだけれど、うどんが良ければうどんにするよ?」

「ほんま? ほなうどんで」

 表情は変わらなかったが嬉しくて思わず言葉遣いが元に戻ってしまった。それを聞いて水伯は少し声を漏らして笑った。

「それでは、うどんにするね」

 珍しく頬を紅潮させた明良に優しく言った。明良は少し気恥ずかしそうにしている。

「明良は玲太郎が可愛い?」

「うん、それは可愛いよ。なんだろう、良く判らないけど、抱っこをしてから心が温かいね。それで、顔を見ると安心するというか落ち着くんだよね」

 素直に真情を吐露した。

「そう。玲太郎に魅了されてしまったのではないのかしら」

 水伯は言いながらも「ふふふ」と笑った。そんな水伯を無視して明良は真剣な表情になる。

「本当にそうかも知れない」

「ええ? 今の所は笑う所だよ?」

 明良を見ると真面目に答えているようだった。

「そう、魅了されてしまったのだね」

 柔和な表情で言うと、また玲太郎に視線を戻す。玲太郎はしっかりと水伯を見ていた。玲太郎の視線が水伯に、水伯の視線が玲太郎に向いている事を交互に何度も見た明良は、心がどす黒くて醜い感情に支配された。

「はっきり言って、そうやって玲太郎と誰かが視線を合わせているとイラっとする」

 嫉妬している事を堂々と言った。

「あはは。玲太郎、お兄ちゃんがこんな事を言っているよ? どうする?」

 玲太郎は「あー」とか「うー」とか言っている。それを見た明良が表情を曇らせる。

「僕が抱っこすると黙るし、それが本当に寂しい」

 水伯は苦笑すると玲太郎を見ている明良を見た。

「今日は言わずにいようと思っていたのだけれど、そういう所もアサナに良く似ているよ。想い人が自分以外と話しているだけで人目もはばからず激情をあらわにしていたからね。我が子にすら嫉妬で喚き散らしていた程だから相当だよ」

 玲太郎に視線を戻す。

「それにしても、玲太郎はかなり強力な魅了の魔術を掛けたのかも知れないね。明良も颯も様子が変だものね」

「やはりそう思う? 確かに玲太郎が産まれてから、なんかこう、気持ちが変なんだよね。興奮してるのではなくて、なんかこう……説明が難しいね」

「颯が変なのは欲しがっていた弟がやっと生まれたからだと思うのだけれど……。明良もそれに近い物があるのではないかしら。なにせ小さな生き物は惑的だし庇護欲を煽って来るからね」

 明良は玲太郎を見ながら聞いていたが無表情だった。

「でも血って怖いな」

 そう呟いて、水伯を見た。

「僕はアサナばあさんが嫉妬する気持ち、良く解るよ」

 水伯は明良と視線が合うと苦笑した。

「嫉妬は……、される方は堪った物ではないのだけれどね」

 直後に柔和な笑顔を見せる。

「私としてはアサナみたいに感情的にならないよう、心掛けて欲しいのだけれどね」

 水伯の目に視線を遣っていた明良は無表情だったが、視線を玲太郎に移すと穏やかさを取り戻す。

「嫉妬に支配されたらどうなるか自分でも判らないけれど……」

 そう言うと、水伯を一瞥して続けた。

「さっき言った事は、水伯がいつもアサナばあさんの事を言うし、水伯になら嫉妬をぶつけても平気だと思って……。水伯の事は嫌いじゃないし、寧ろ好きな方だから傷付けるような事は言わないと思う。多分。その辺は気を付けるようにするよ」

「それは有難う。そうならばもう少し敬ってくれてもよいのだよ?」

 水伯がそう言って「ふふふ」と笑った。

「心中では十分敬ってる」

「そう? それならばよいのだけれど。……それで颯にもこのような態度を取っているのかしら?」

 明良は首を横に振った。

「玲太郎と視線を合わせているのを見るとイラっとするけど、颯は譲ってくれるから言っていない」

「それは暗に私に譲れと言っているのかしら?」

「そんな事はない、……と思う」

 二度も真情を吐露して照れているのか、単に玲太郎を見ているだけなのか、とにかく伏し目になっている明良を見て、水伯は嬉しく思って笑顔になった。そして玲太郎を見る。

(元来は素直で優しい子だったのだけれど、何時しか鉄仮面になって態度も冷たくなっていたのに、表情もこうして穏やかになって来たし、こういう事も言うようになって、本当に玲太郎様様だね。有難うね。明良が玲太郎のいない所だと鉄仮面に戻るのは仕方がなさそうだね。それにしても玲太郎を特別に思っているのは私だけではないのだね)

 水伯に抱いて貰って上機嫌の玲太郎は「あー」とか「うー」とか言い続けている。

「今はまだ小さいけれど、瞬く間に大人になるよね。子供の成長は本当に早い」

 玲太郎を優しい眼差しで見詰めながら感慨深げに言った。そしてふと思い付いた。

「そう言えば後四年で成人だよね? 四年後にはイノウエ家に入るのではなかったかしら?」

 明良は水伯の方を見ると、直ぐに玲太郎に目を遣った。

「うん。でも玲太郎がまだ四歳だから、どうしようかと思案中」

「と言うと、玲太郎も連れて行く気なのだね?」

「出来れば。……お祖父じいちゃんは僕の好きにしてよいと言うから、玲太郎を問答無用で連れて行きたい気持ちはあるけど、やっぱり玲太郎の気持ちを尊重しなきゃいけないだろうなと……」

「そう。イノウエの家に連れて行く気でいるのだね。それにしてもおじいちゃんって何? ガーナスにそう呼べとでも言われたの?」

 水伯は玲太郎を明良に渡さず、布団に寝かせた。袖口から小さな手が見え、それを人差し指で優しくなでた。

「うん。そう呼んで欲しいって言われた」

「そうなの、あのガーナスがね。それにしても、四年後の事まで考えるのは気が早過ぎない?」

「僕もそう思ってる」

「ふふ。そう」

 玲太郎が水伯の人差し指を握ると、それを見ていた明良の眉が寄った。水伯は指を握られて喜び、満面の笑みを湛えた。

「赤ん坊って、こういう風に握り返してくれるよね」

「僕はまだ握って貰っていない」

 露骨に不機嫌になる明良を尻目に見て、失笑しそうになるのを堪えた。

「そう、いつかは握って貰えるとよいね」

 明良は返事をせず、玲太郎を唯々見詰めていた。暫くは指を握っていてくれたが、玲太郎の手が離れた。そして水伯は立ち上がろうと膝を立てた。

「そろそろうどんを茹でてくるね」

「早くない?」

 立ち上がった水伯を見上げて行った。

「乾麺だから茹で時間が意外と掛かるのだよ」

「そうなんだ。それじゃあ行ってらっしゃい」

 明良は玲太郎の手を人差し指で懸命に撫でていた。その様子が微笑ましくて、思わず笑顔になった水伯は居間を出て行った。

 水伯がうどんを茹でていると、早目に帰ってきたヴィストが台所に遣って来た。うどんだと聞いて、無言で台所に一番近い水屋側の席に着いた。すると悠次が遣って来て「うどんなら少し食べたい」と言い、先に用を済ませに行った。戻ってくるとヴィストの向かいの席に着く。二人は少し会話をしていたが、直ぐに沈黙が流れていた。三人前と悠次用のうどんを茹で、汁を温め直して丼に盛ると、一人前は別の盆に載せていた。

「ヴィスト、申し訳ないのだけれど、留実さんに運んで貰えるかしら?」

「はい」

 箸がない事に気付き、水屋から出して来て盆に載せると食堂を出て行った。その直後に水伯が出て行って居間にいる明良を呼んだ。水伯は明良より先に戻って来て台所へ下りて行く。悠次は水屋に行くと箸を三膳出して来て、それぞれの席に置いた。そこへ明良が遣って来て、悠次の隣に座る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「うどんを食べるのか? 食べられる?」

「うん、嚙みまくれば大丈夫。量も少ないけん」

「無理はするなよ?」

「うん、大丈夫、ありがとう。ほないただきます」

 悠次が合掌すると、明良も合掌する。

「頂きます」

 二人はヴィストを待たずに食べ出した。

「この菜っ葉、おいしいな。汁もおいしい」

 咀嚼しながら言った。明良も咀嚼しながら悠次の方を見る。

「美味しく感じられるのはよい事だね」

 手で口を覆って言った。悠次はお構いなしで口に食べ物が入ったままの状態で言う。

「最近、玉子がゆでもおいしく感じられるんよ」

 明良はうどんを啜ると「うん」と頷いた。咀嚼して飲み込むと悠次を見た。

「飲み込んでから話しな? 口の中の物が飛ぶだろ?」

 悠次は慌てて口を押さえた。

「ああ、ごめん」

 その後は黙って咀嚼した。

「今日の朝食に目玉焼きが出たけど美味しかったわ。いつもの出汁巻きだとそこまで味が濃くなってるのに気付かなかったけど、目玉焼きだと良く判ったよ。野菜炒めもあったけど、それも美味しかった」

 口の中が空っぽな明良はここぞとばかりにそう捲し立て、うどんを啜った。悠次は相槌を打ちながら聞いていた。ようやく一口目を飲み込んでうどんを箸で持ち上げると、明良を横目で見た。

「野菜もおいしいになっとんやな」

 そう言うとうどんを啜り、野菜も口の中に入れた。そこへヴィストが戻って来て席に着き、うどんを食べ出す。三人はうどんに夢中になった。ヴィストは一番に食べ終わると、また留実の所へ向かった。今度はそこへ水伯が遣って来て、空になった丼を下げた。そして自分の分のうどんを持って食卓に着くと箸をけん現させた。

「頂きます」

 湯気が立っているうどんを冷まさずに食べ出した。そんな水伯を悠次が咀嚼をしながら見詰ている。

「今日はかみを一つにまとめとんやな?」

 手で口を覆って言った。水伯は目の前にいる悠次を見ると二度頷いた。そしてうどんを飲み込む。

「俯く事が多い時はいつもこうだよ。…でも書類仕事の時はまとめていないね」

 また手で口を覆って悠次が言う。

「いつも長いけんど短あにせんの?」

「私の髪は使い道があって使う時に切るのだけれど、直ぐに魔術である程度は伸ばしてしまうから短くはしないね」

「えっ、魔術でかみの毛伸ばせるん?」

「伸ばせるよ。魔力を結構持って行かれるけれどね」

「魔術なあ。僕も使ってみたかったなー」

「和伍だと覚醒させるには時間を要する遣り方だものね。人によると年掛かる人もいる程だから、それを聞くと尻込みしてしまうよね。ナダールみたいに強制的に覚醒させるのも便利だけれど考え物だね」

 そう言うとうどんを啜った。すると明良が顔を上げた。

「僕は予定としては四年後にナダールで覚醒をしようと思っているんだけどね」

「ほうなんじゃ。こっちでやれへんの?」

「医術を学んでいたらやる暇がないと思って。今も本と睨めっこばっかりで時間がない。これが終わったら三年実地研修だしね」

「へえ」

 悠次は相槌を打つとうどんを頬張った。そして何度も何度も咀嚼する。暫くすると玲太郎の泣き声が聞こえて来た。水伯は玲太郎の下へと向かう。直ぐに戻ってくると席に着き、うどんを食べ出した。

「ご馳走様。玲太郎の様子を見てから散歩に行ってくる」

 明良がそう言うと席を立った。手で口を覆った水伯が明良を見る。

「お粗末様。もう暫くは、休憩、しておいた方がよいのでは?」

「ああ、うん。二十分くらいは家にいるよ」

 食器をと箸を持って台所へ下りると、直ぐに戻って来た。

「それじゃ玲太郎の所に行って来る。悠次も食べ終わったら来いよ」

 椅子を食卓に入れながら悠次を見ると目が合う。

「うん、後でね」

 悠次は明良の後ろ姿を見送ってから野菜を口に入れた。すっかり冷めてしまったが、嬉しそうに食べている。

(今は調子が良さそうだね。食欲はこれである方なのかしら? 硬化症の患部は食道と聞いているけれど、万が一にも詰まったら私の出番だね。少量をあれだけ噛めば大丈夫だと思うのだけれど……)

 懸命に咀嚼する悠次を眺めながらうどんを啜った。

 悠次は水伯とほぼ同時に食べ終えると居間へ向かった。水伯は一人台所に下りて行く。そして白い瓶を見ていてふと思い出したのは、一昨日の昼食前に八千代が乳を搾っていた事だった。

(昼用に何かを遣る、で、搾り立てが白い瓶に入っているとか何とか言っていたような気がするね。という事は、山羊の世話は十時乃至ないし正午前の間だよね。でも今日は八千代さんが帰って来るまでお預け。ご免ね、山羊達。……それにしてもヴィストが食器を下げて来ないね。また外出するまで留実さんの所にいる積りなのかしら)

 一先ず今ある分の食器を片してしまうと居間へと向かった。居間では悠次が玲太郎を泣かせている最中だった。玲太郎に蹴られても抱き続けている。

「もういいんじゃないの?」

「ううん、けられてももう少し抱っこしとりたい」

「ええ……」

 明良は大粒の涙を流している玲太郎を見て胸を痛めた。

なごう抱っこしとったら、ほの分慣れるんが早いかも知れんけんな」

 悠次が玲太郎の涙を拭いながら言うと水伯から笑い声が漏れた。

「ふふ、解らないでもないけれど、逆に嫌な気持ちが膨れ上がって、次は更に嫌がられるかも知れないよ?」

 悠次は水伯を見て渋い顔をすると、玲太郎を明良に渡した。明良は安堵した様子で玲太郎を優しく抱いた。

「水伯にほう言われたら、ほうなるような気がしてきたわ」

 そう言って立ち上がる。泣き止んだ玲太郎を見て小さく溜息を吐いた。

「ほな歯ぁ磨いて寝て来るわ。おやすみ」

「お休み」

「山羊の乳はもう飲んだのか?」

 明良が悠次を見ながら言うと、悠次は「あ」と声を漏らした。

「ほうだった。まだ飲んでなかったわ。先に飲んでから歯ぁ磨いて寝るわな。ほなおやすみ」

「おやすみ」

「少し待って。山羊の乳、今日はまだ搾ってないから搾って来る?」

 慌てて水伯が言うと、立ち去ろうと動き出していた悠次は動きを止めて振り返った。

「ううん、昨日のでええよ。おやすみ」

 笑顔を見せると部屋を出て行った。

 明良は玲太郎を抱いてご満悦だ。それを見ている水伯も釣られて柔和な表情になる。そして出掛けるまで玲太郎を抱いていた。やはり明良が抱いていると静かになり、眠ってしまうようだった。玲太郎は布団に寝かされ、水伯は起こさないように本を出して読書を始めた。


 十六時を過ぎると八千代が戻り、一人で遅目の昼食を摂った。水伯の手を煩わせず、手軽に済ませられる物を買って来ていた。それから、玲太郎を除いた子供達の服と、土産に一家の分と水伯の分の和菓子を買っていた。食事が済んだ八千代は山羊の世話をしてから服を片付けた後、自室に入って出てこなかった。

 十八時半を過ぎた頃には颯が戻ってたちまちに賑やかになったがそれも続かず、欠伸をしながら昼寝をしに行って静かになった。

 水伯は玲太郎の世話をしつつ、読書をしていると、悠次が起きて来て早目の夕食を摂った。そうこうしている内に夕食の時間になった。食堂に人が集まる。水伯は食事を一番に終えて食器を流しに持って行き、その後は居間へ戻って読書を再開した。暫くすると颯が遣って来て水伯の隣に座った。それを見て本を消した。

「ごちそうさま、おいしかったよ!」

 水伯を見ながら言い、「あー」とか「うー」とか言っている玲太郎に目を移す。

「お粗末様。八千代さんにも言ったのだけれど、朝の六時までいるから今夜はゆっくり眠ってね」

 そう言われた颯が水伯の方を向く。

「ほんな時間までおれるん?」

「いるよ」

「えー! ほんまにかんまんの?」

 颯は満面の笑みを見せると、水伯も微笑んだ。

「構わないよ。四日に一日はこれで行こうと思っているからね」

「ほんまに! ……え? ほなけんど水伯はほれでもいけるん? しんどおない?」

 心配そうに訊くと、水伯が二度頷いた。

「うん、大丈夫だよ。八千代さんには了承を得ているからね。朝の四時に来て、翌朝の六時過ぎに帰る」

「はっきり言うて助かる~! ありがと!」

 歓喜すると、玲太郎の小さな足を持って軽く揺すった。

「玲太郎~! 水伯がおってくれるんじょ。うれしいなあ!」

 玲太郎は「んっ」とか「うー」とか言っている。

「颯は気分上々だね。何かあったの?」

 玲太郎の足から手を離し、正座から胡坐に居直した。

「ううん、別にない。水伯がおるっちゅうけん喜んだだけ」

「そう」

 少し間を置いてから水伯を見る。

「なんや最近、ずっとうれしいて、楽しいんよ」

「玲太郎が産まれてから?」

 颯は少し黙って考える。

「ちゃうなぁ。玲太郎が生まれる前からやな。まだ産まれてほんなに日いが経ってないけんど、正直ちょっとしんどいな。昼寝をしよるけんマシなんだろけんど」

「そう。学校はどうなのかしら」

「学校は行くんにようけ歩かんとあかんし、授業がしんどおて疲れるな」

 水伯が少し笑うと颯は玲太郎に視線を遣った。二人して「あー」とか「うー」とか言っている玲太郎を見ている。

「家で勉強するんがいっちゃんええわ」

「友達はいないの?」

「おれへん。週一しか学校行かんし、みな家が遠いけん遊ばんだろ? ほれに気い使うけんいやなんよ」

「そうだね。この辺は家がないものね。……気を遣うと言っても、そんなに遣う事ってあるかしら?」

「あるある。家族には気い使えへんけんど、他の人には使うよ?」

「それならば私にも遣っているのかしら……」

 颯は少し考えて首を傾げた。

「つことれへん、かも知れん」

 水伯は失笑してしまい、手で口を押さえた。颯は水伯の方に向く。

「水伯はとくべつよ!」

 慌ててそう言うと、また玲太郎に顔を向ける。

「オレがちっこいころからヶ月にいっぺんは家に来てくれるだろ」

「週に一度と四五ヶ月に一度だと週に一度の方が会っている度数が多いと思うのだけれど……」

 颯は腕を組むと、また暫く考え込んだ。

「ほう言われてみたらほうやな……。なんで水伯だったらいけるんだろ?」

 水伯が穏やかな表情になる。

「友達はいなくても、話せる子はいるのだろう?」

「ほれはおるな。向こうから話しかけて来たらムシする訳にはいかんけんな」

 颯がそう言うと、水伯は些か眉を寄せた。

「うん? 自分からは話し掛けないのかしら」

「話しかけへん。ほなって話す事がいっちょもないもん」

 そう言い放った颯を見て水伯は苦笑した。

「そう。友達を作ろうという気持ちがないのだね?」

「……ほうかも知れん。ああ、うん。ほんなもんないな」

 颯は言い切ってしまった。そして水伯を見る。

「オレ、友達いらんみたい」

 そう言うと明るく笑った。水伯は苦笑するしかなかった。

「若しかしたらその内出来るかも知れないね」

「うーん、出来るかどうかは置いといて、ほしいと思わんのやけんど……」

「そう……」

 水伯は言葉を失い、そう返すので精一杯だった。それを察した颯は水伯を見た。

「まあ友達が出来たら出来たで、ほの時は喜んでだ」

 そう言う颯を見て、水伯は笑顔になる。

「解った。その時はお祝いをしようね」

「うん」

 満面の笑みを浮かべた颯はまた玲太郎に視線を遣った。


 間を置かずに食事を終えた明良が遣って来た。颯の右側に腰を下ろすと玲太郎を見る。

「二人が揃ったから今の内に話しておく事があるのだけれど」

 そう切り出した水伯を二人は見た。

「玲太郎はね、微量だけれど魔力が漏れていてね」

「え? 漏れてる? どこから?」

 明良が反応すると、水伯は続けた。

「うん、最後まで聞いてね」

「ごめん」

 明良は即座に謝罪した。水伯は頷いて、また口を開く。

「何もないとは思うのだけれど、万が一、何かあったら報せて欲しいのだよ」

 そう言って右手を出すと、そこに四角い容器が二個出現した。蓋には所々に穴が開いていて、色が違っている。

「この中に入っている石は音石なのだけれど、直接私に繋がるのだよ。使い方は、二秒以上触れ続けると私の持つ音石に繋がるようになっているから」

 服の胸の部分にある衣嚢から小さな容器を取り出し、中に入っている内の意思を一個、魔術で持ち上げて見せる。

「これね、これと繋がって話が出来るようになるから、此方こちらを持っていて欲しい。話す時は口に近付けて話してね」

 そう言って二人に容器を渡した。颯が早速蓋を開けて、入っていた不透明の藤紫色と灰色が入り混じった色の石を二秒以上触れる。そして容器を口に近付けた。

「おーい」

「おーい」

 水伯の持つ容器から僅かに遅れて聞こえてきた。明良は黙って興味深く見ている。

「おお、すごいわ。聞こえるじょ!」

「おお、すごいわ。聞こえるじょ!」

 水伯は持っている容器の蓋を開ける。

「呼び出された方が話す時も二秒以上音石に触れる」

 そう言いながら音石に触れて手を離し、口に近付けた。

「聞こえるかしら?」

「聞こえるかしら?」

 やはり少し遅れて声が聞こえる。颯が目を丸くした。

「おお、聞こえる! どっちにしても二秒以上やな。分かった」

 水伯も容器を口元から話す。

「切る時は触れるだけで切れるからね。何方どちらかが切り忘れても、何方かが切れば音は途絶えるからね」

 颯は音石に軽く触れて口に近付ける。

「これで切れた?」

 颯の声が聞こえて来なくなり、水伯は二度頷く。

「切れているね」

「おおおお、普通の音石と色がちゃうし、話せるし、なんやごっついな!」

 颯は感動しきりだった。明良も蓋を開けて中を確認している。仕切りがあって、その内の一枠に石が入っていた。

「私の持つ音石が親で、二人の音石は子になる。子同士では話せないからね」

「こ、って子供の子?」

 水伯は颯を見ると二度頷いた。

「そう。私の音石と颯の音石は親子ね。この音石は少々特殊でね…」

「普通のんてひと月しか使えんけんど、これはどれくらい使えるん?」

 水伯の話が終わる前に颯が質問をした。

「大衆音石は一月だけれど、これはどちらかが死ぬまでだね」

「ほれはすごいな。……えっ、ほんまに?」

「持ち主が死んだら砂になってしまうのだよ」

「へえ。ほな誰かがパクった場合はどうなるん?」

「砂にはならないけれど使えないね」

「それじゃあ僕が颯のを使ったらどうなるの?」

 今度は明良が質問をする。水伯は明良を見る。

「使えないね。颯が持ったままの状態で明良が話すのであれば大丈夫。一応容器の色を変えてあるから、間違える事はないよね? それにつけても、何故この色なのか解るかしら?」

 水伯が笑顔を見せた。颯は明良の容器の色を確認して、自分の容器を見て悩んだ。

「ああ、解った。瞳の色だ」

「あ! オレのは緑で兄ちゃんのは青っぽい紫な! 逆か? 紫っぽい青?」

 二人はお互いの瞳の色を確かめるように見詰め合った。

「うん、日が落ちてきたけん薄暗あてよう分からん」

 颯がそう言うと視線を容器に移した。明良はそれでも颯を見ていた。

「お前、父ちゃんに似て来たな」

 明良が感じ入って言うと、颯はしかめっ面になった。

「急に何?」

「顔が似て来たなと思って」

「ほんま。ほれはなんか、ごっついイヤやな……」

 この遣り取りを見て水伯が声を殺して笑った。二人はそんな水伯を一瞥した。

「そっくりという程ではないけど雰囲気が似ている」

 明良がまた言うと、颯は眉間の皺が深くなった。

「うん、なんやむかついて来た」

 この遣り取りが続きそうな気がして、水伯が割って入る。

「まだ話は終わっていなかったのだけれど……、続けても大丈夫かしら?」

「ええよ」

 颯が即座に言って水伯を見る。

「そう、玲太郎の魔力が漏れているのだよ。覚醒はしていない筈なのだけれど、何が起こるか本当に判らないから、良く様子を見ておいて欲しい。些細な事でも構わないから、奇妙な事があれば時間は気にせず、直ぐに連絡してね。解った?」

「分かった」

「了解」

 二人は頷いて口々に返事をして、貰った容器をズボンの衣嚢に入れた。そして颯が何かを思い出したような顔をして明良の方を見る。

「わっせとった。兄ちゃん、幾佐いくさかずっていう子、知っとる?」

 明良は聞き覚えのない名前だった為、首を横に振った。

「知らないな」

「オレの一個上の子なんやけんど、兄ちゃんに話があるけん時間を作ってほしいって言われてな、六月の三日の十二時に笠木商店まで来てほしいんやと。六月三日は水伯が次に来てくれる日な。悪いけんど勝手にほの日にしてきた」

 約束を取り付けられてしまった明良はいつもの無表情で颯の頬をつねった。

「あーのーなー、勝手に決めてくるなよ……」

 颯は片目をつぶり、痛みに耐えた。

「ほなってな、かくせいしてもて魔術を教えてくれる学校に入り直すけん、島をはなれるっちゅうんやもん。大事な話やけんって泣いてたのまれてもて断れんかったんよ。ごめん」

「笠木商店だったら片道四十分は掛かるな……。解った、取り敢えず行くよ」

 そう言うと、颯の頬から手を離した。颯は頬を擦った。

「和伍なのに九歳で覚醒って早いね」

 水伯が言うと、颯が前のめりになって水伯を見た。

「本見てやんりょったらかくせいしてもたんやって。魔力が平均より多いけん、五味ごみ島にある学校に行くんやと。オレも本で勉強してやってみようか?」

「そうなのだね。五味は本島だから、そこに行くという事はその子に才能があるのだろうね」

「オレは才能ある?」

 水伯は颯を見ると柔和な表情になる。

「覚醒していないから、何とも言えないね」

「分からんのん?」

「そうだね、判断出来ないね。覚醒してくれると魔力が目覚めて私にも判るようになるのだけれどね」

「ほなオレも本見てがんばってみよか!」

「大昔、この国が和伍になる随分前は、魔術を霊術、魔力を霊力と言って、精霊を知ると神の力を得る、とされていてね、先ず精霊が見えるようになってから覚醒の修行をするという手順だったのだよ。今はその過程を飛ばして、更に簡略された覚醒の修行の仕方が出回っている本の内容だね。けれど、これでは全力は引き出せないと言われていてね、魔術学校だともう少し難しい覚醒の修行を教えていると聞いた事があるね。ついでに言うと、本の中には古来の手順で書かれている物もあるのだけれど、覚醒する事が難しくて挫折する人が殆どなのだとか。それでも頑張れるかしら?」

 颯が険しい表情になると黙った。明良は何か興味があるのか水伯を見ながら言い淀んでいる。

「何か訊きたい事でもあるのかしら?」

 明良を促すと、明良が口を開いた。

「ナダールは強制的に覚醒させているけど、和伍の魔術学校とナダールの魔術学校、どっちがよいの?」

 水伯は明良から視線を外して「うーん」と唸った。

「ナダールはね、強制的に覚醒させるようになって平均寿命が短くなったと言われているね。その代わり、確実に魔術は使えるようになるね。和伍の事は私には判らないから調べておくよ」

「え、さっきむつかしいかくせいの仕方を教えるっちゅうたのに知らんのん?」

 颯が訊いた。水伯は颯を見ると柔和な表情になる。

「私が知っているのはそれ程度なのだよ。ご期待に沿えず、ご免ね」

「ほなしゃーないな。…ほんで水伯はせいれいが見えるん?」

「私は見える、のだけれど……半透明に見えるのだよ。本来は実体として捉えられるのだけれど、私は何故か半透明。多分未熟なのだろうね。色々本を読んでみたけれど、私以外に未熟者はいないようだね」

 颯が難しい顔をした。

「はんとうめい……」

「そう。透けていて、見えても触れないのだよ。序に言っておくと、精霊が見えるようになると世界の全てが見えるようになる、と言われていて、普段目にしているこの世界は半分しか見えていない状態なのだとか」

 颯は更に険しい顔になった。

「ほれは話が大きいな……。なんやおとろしいなって来た。見えとるもんが半分なんはありえんじょ……。全部見えるようになったら目ん玉がはれつしそう」

 水伯が失笑して口を手で押さえた。明良はそんな事はお構いなしで水伯を見る。

「その精霊が見えるようになるのって、ナダールでも教えて貰えるの?」

 明良の方を見た水伯は気を取り直す。

「私の知っている魔術学校は教えていないね。魔力の扱い方が主だった筈。魔術の以外に、治癒術、薬草術、呪術、付与術、後は何かあったかしら……」

「教えてくれる学校もある?」

「私の知りる限りではないね。明良も精霊を見たいの?」

「興味はある」

 水伯は視線を外して暫く黙った。

「さっきも言ったけれど、精霊を見るのは難しいよ? 私も実体をきちんと見たいと思って彼是あれこれ遣ってみたのだけれど、違う物が見えて、千里眼が使えるようになり、遠耳が使えるようになっただけだっただよ」

「せんりんがんって何? とおみみは?」

「千里眼は暗い所や遠い所が見えるようになって、遠耳は遠くの音が聞こえるようになる事ね」

 颯は驚いて、目を丸くした。

「えっ、暗い所が見えるん?」

「そう。遠くに埋めている箱の中だとか、遠くにある真っ暗な洞窟の中とかが見えるよ。遠耳は何里も離れている所の音が聞けるね。恐ろしい事にナダールの自宅に居ながらにして、此処を監視する事も出来るね」

「えええええ!? ほれはおとろしいな!」

 颯は心底恐怖した。

「まさかまさか、やってないよな?」

「此処は遣っていないね。これを遣ると他の事が出来なくなるから自発的にはほぼ遣らないね」

 それを聞いて、颯が眉を顰める。

「うん? ほぼ? ほれってやんりょる時があるって事?」

「そうだね」

「ぎゃー! オレの生活見られよるん!? いやじゃー!」

 体を仰け反らせて水伯から離れようとしていると、水伯は声を出して笑った。颯は我に返って居直して真顔になった。

「……からかったん?」

「いや、からかってはいないよ。ほぼ遣っていないけれど、偶に何処かを監視しているというのは事実だからね。とは言えども、此処ではないからね。それは神様に誓おう」

 颯が眉を顰めた。

「ええ? 自分にちかってどないするん?」

 何の事か理解出来なかった水伯は一瞬固まる。

「うん? 自分に誓うとはどういう事?」

「ほなって水伯は神様なんだろ? この前の絵本にほうあったもん」

 納得すると二度頷く。

「あれね。……うん、確かに崇め奉られて神様のように扱われた事が確かにあったのだけれど、それを踏まえるならば、自分自身にも誓う事になってしまうね。申し訳ない。本物の神様に誓う、と言い直させて下さい」

 そう言って頭を下げて訂正した。颯は驚いて目を丸くする。

「ううん、こっちこそ何かごめんなさい」

 同じように頭を下げた。

「この国での思い出は扱き使われていた事の方が強くてね、寧ろそれしかなかったのだよ。神様の扱いを受けていた事は忘れてしまっていたよ」

 そう言って颯に微笑んだ。

「それより、その千里眼や遠耳が出来るようになった切っ掛けって何?」

 この手の話に興味があるのは颯より明良のようだった。

めい想だね」

 水伯が即答すると明良が食いついてくる。

「めいそうって、気を静めて目を閉じて微動だにせずに無心でいるアレ?」

「そう、その瞑想だね。毎日さん十分遣っているとある日突然何かが見えるのだよ。それでも瞑想を毎日続けていると能力を得る機会が巡って来た、という感じかしら。これも精霊が見えるようになるのと同じで、その機会が来ない人には全く来ないのだよ。瞑想をしなくても出来る人がいるから、元々持っているかどうかで違ってくるのかも知れないね」

「結局は生まれながらの才能かぁ……」

 明良は既に諦めているのか、そう言った。それを横目に見た颯が玲太郎に目を遣る。

「兄ちゃんはええでえ。オレの方が問題よ。けんど試しにやってみよか」

 そう言うと水伯に目を移す。

「めいそうって、しずかに無になっておったらええん?」

「そうだね。姿勢を正して目を閉じて静かに無になって動かずにね。正座でも胡坐でも椅子に腰掛けるのでも、兎に角好きな座り方でどうぞ。但し、一日一度三十分以上はやらないようにね。それと万が一何かが見えるようになってもめない事。きちんと毎日続けるようにね」

「なんや無で目えつむっとったら寝てまいそうやな」

「眠ったら遣り直しね」

 そう言って颯に微笑んだ。颯は釣られて笑うと玲太郎を見た。玲太郎は相変わらず「あー」とか「うー」とか言っている。


 暫く三人で話していると、八千代が顔を覗かせた。

「三人とも、お茶いるかいな?」

「いる~」

「僕も欲しい」

「では私が入れますよ」

「ほうかいな? ヴィストさんも留実もいるっちょるけんお願いします」

 八千代がいなくなると水伯が立ち上がり、他の二人も立ち上がった。先に水伯が部屋を出て行く。食堂に行くと食卓の食器が全て下げられており、湯呑みが人数分出ていた。

「そうだった。山羊の乳が甘いから、それで氷菓子を作ってあるのだけれど、今食べるかしら?」

「いるいる! 氷や食べるん久しぶりじゃ」

 水伯の問いに即答をしたのは颯だった。

「颯、すまないのだけれど悠次にも訊いて来て貰えるかしら?」

「うん、分かった。行ってくる」

 直ぐに食堂を出て行った。

「じゃあ僕も今貰う。少しでお願いします」

 明良が言うと、ヴィストが席を立って水伯を見る。

「わたしも留実に食べるか聞いて来るよ。あ、わたしは氷菓子食べるからね」

 そう言うと食堂を出て行った。

「ほな私も頂こうか」

「解りました」

 先に急須に茶葉と湯を入れた水伯は一旦台所へと向かった。流しの桶に浸けられている食器を見ると全て片す。中央の台に置かれている氷が沢山入った盥の真ん中に置かれた大き目の容器に目を遣った。暫くすると颯が悠次を連れて食堂に戻って来て、直後にヴィストが食器を下げがてらに戻って来た。

「留実はいらないそうだから、お茶だけ持って行ってくる」

「解りました」

 小さ目の深皿を六枚、台に出して二度頷いた。

「お茶はもう少し待ってから入れて貰えるかしら」

 台所から大き目の声で言った。

「はーい」

 ヴィストの返事が聞こえて来る。

(明良は少な目と言っていたけれど、元々少ないから等分にしようかしらね)

 水伯は氷菓を六等分にすると一番大きな盆に載せて食堂に向かった。すると颯が待ち受けていて、盆を受け取り、配り出した。

「さじ取ってよ」

 颯が言うと、水屋の一番近くにいた八千代が席を立った。

「はいな」

 水伯は台所から一番近い席が空いていて、そこへ腰を掛けた。八千代から匙を受け取ると、先に食べ出した。

「有難う。頂きます」

 そう言って一口目を頬張る。そして他は匙を貰った順に食べ出した。

「砂糖が入っていないのだけれど、十分甘いね」

 水伯が言うと、次に口にしたヴィストが頷く。

「こういうのもたまにはいいね」

「ほうやな。意外とあっさりしとって美味しいわ」

 八千代が笑顔で言った。悠次と颯も「おいしい」と言って食べ進めた。明良は一人黙って食べている。

「さっき三人で賑やかに話っしょったけんど、何話っしょったんかいな?」

 そう八千代に訊かれて隣同士に座った颯と明良が目を合わせた。

「覚醒の仕方を聞いていたんだけど、和伍の仕方が難しいという話をしてたんだよ。ばあちゃんは覚醒させるのに苦労した?」

 明良が八千代に向かって言った。颯は笑顔で氷菓を頬張っている。八千代は首を捻った。

「どうだったんだろか。前に住んどった家の近くに道場があって、学校を卒業した後にほこで覚醒のやり方を教わっとったな。何年か通たなぁ」

 言い終わると氷菓を一口頬張る。口の中で溶けると飲み込んだ。

「苦労したかどうかと問われたら、したと答えるしかないな。四年はかよたように思う。まあ、日に十時間くらいやんりょって、週に七日は通たな。覚醒しとらん時に先生に才能ないなっちゅわれたわ。ほいたらほんまにに才能がなかって魔術も使えなんだわ」

「ほうなんじゃ。まあ、ばあちゃんが魔術を使いよるところは見んもんな」

 颯がそう言うと、八千代は頷いた。

「魔力は誰にでもあるっちゅう話やけんど、うち祖母ばあさんも祖父さんも親兄弟も酷いもんだったけん、遺伝やも知れんわ。あんた等はヴィストさんの家系の血が濃いけん、私等とちごて魔力はあるんとちゃうかいな?」

 ヴィストが顔を上げてはす向かいに座っている水伯を見た。

「わたしは平均よりやや上程度だけど、父方の祖父は結構凄かったとは聞いてるね」

 その視線に気付いた水伯はヴィストを見返す。

「ロベルトはそうだね、凄い方だったね」

「ふっ。水伯が言うたら、すごさが分からんな」

 水伯の隣に座っている颯が笑いながら言った。

「そう? ロベルトの若い頃はナダールで片手に入る強さだったのだよ。ね? 凄いでしょう? それで運動神経も良かったから、魔術騎士をしていたのではなかったかしら」

「そうそう。家督を継ぐまでは近衛師団にいたって聞いた」

「うん? 何処かの家の護衛をしていなかったかしら。稼げるからとか何とか聞いたような気がするのだけれど」

「わたしが聞いたのは近衛師団だったよ?」

「そうなのだね。それでは私の勘違いかしらね」

 そう言って解け始めて軟らかくなっている氷菓を掬うと口に運んだ。最初に食べ終えたのはヴィストで、放置していた茶を湯呑みに注いだ。小さな盆に湯呑みを二個置くとそれを持ち、留実の所へ向かった。ヴィストの隣にいた悠次が席を立つと皆に湯呑みを配った。それを見送った水伯が正面に顔を向けた。

「八千代さんは精霊を見る為に修行や特別な事をしたのかしら?」

 唐突な質問に八千代は驚いた。

「精霊や見えるもんなんかいな? あれって伝説や架空の生きもんとちゃうん?」

「ばあちゃん、ほれがな、見える人には見えるんやと」

 颯がそう言うと、八千代は匙を口の中に入れたままの状態で目を丸くした。

「精霊を見る才能と魔術の才能は別物だから、八千代さんでも見ようと思えば見られるのではないかしら。とは言えども、徒労に終わる事の方が多いから、その覚悟はしておかないとならないのだけれどね」

 水伯が穏やかな表情で言った。八千代は声を上げて笑った。

「人生の黄昏に、ほんな見えるんや見えんのんや分からんようなもんで、しんどい思いはしとおないな」

「ほなけんど、見えるやも知れんじょ?」

 颯が身を乗り出して言った。八千代は笑顔で颯を見た。

「いやいや、ええって。颯がやってみて見えたら教えてだ、な?」

「分かった、せいれいな~。やり方を聞いてみて、やれそうだったらやってみるわ」

 颯は八千代と笑顔で見合うと残りの氷菓を食べた。皆が氷菓を食べ終え、茶を飲みながら談笑していると、明良が最初に席を立った。玲太郎の事が気に掛かるのだろう。案の定、居間へ行く。颯がそれを追って行き、悠次も居間へ行った。八千代はのんびりと茶を啜っていて、水伯はそれに付き合っていた。


 それぞれが入浴を済ませると、水伯に挨拶をする為に居間へ顔を出して自室や寝室に向かったが、明良だけは勉強部屋に向かった。まだ寝ないようだ。玲太郎は黙って見守っていると段々と静かになり、いつの間にやら眠ってくれ、水伯はとても楽だった。そのお陰で読書が捗った。

 八千代が四時前に起きて来て、厠へ行った帰りに覗きに来た。挨拶を交わすと着替えをしに部屋へ戻り、次に来た時には茶を持って来てくれた。水伯はありがたく頂いた。

(後二時間もすれば終わりか。玲太郎は大人しくて手が掛からないから本当に有難いね)

 熟睡している玲太郎の胸から一ヶ所と腹辺りから三ヶ所の計四ヶ所から、紺色に近い色で靄のような物が立っている。水伯はそれが半透明で見えていた。

(産まれて直ぐは一本だったのに、何故か離れていた間に四本に増加していたのだよね。あれからは増加していないようだけれど何故増加したのかしら……。あれに数が合うと言えば合うのだけれど……)

 茶を啜って自分の腹に目を遣った。

(私はずっと変わらず二ヶ所なのだよね。私の場合はこうして魔力が漏れていても問題はないから玲太郎も問題ないとは思うのだけれど、如何いかんせん覚醒していないし、増加しているし、そう判断してもよい物かどうか、とても悩ましい……。私ともう一人は覚醒していて問題がないのも偶々たまたまかも知れないし、事例がなさ過ぎて不明な点だらけなのだよね……。生きている内に解明が出来るのか甚だ疑問だね)

 小さく溜息を吐くと、再び茶を啜った。そして玲太郎の腹を人差し指で軽く押さえた。干渉が出来ないもやのような物は温度も感じず、水伯の指をとおり抜けて行く。水伯は手を膝の上に戻した。

 五時を過ぎると颯が起きて来た。目が合うと微笑む。

「おはよう」

「お早う。少し早いのではないの? どうしたのかしら」

 水伯も微笑んで返す。

「なんや目え覚めてもて。水伯のおかげでようけ寝られたけん、ありがとう! ほんで玲太郎はどんなん?」

「どう致しまして。玲太郎は先程乳を飲ませたのだけれど、満腹になってお眠になったようだよ。静かだから熟睡中だと思う」

 水伯はそう言うと玲太郎の方を振り返った。

「ほうなんじゃ。ほな着替えて、顔あろてくるわ。また後で」

 それだけ言うと、直ぐに別の部屋へ向かった。それを見て柔和に微笑み、掛け時計に目を遣る。

(後一時間か。意外と早かったね。あの子達が朝食を終えるまではいるとしよう)

 颯が戻ってくると、水伯から少し離れた所に座った。

「水伯、聞きたい事があるんやけんどええかいな?」

 颯の顔を見ると二度頷いた。

「何かしら?」

「せいれいを見えるようになる方法ってどんなん?」

 それを聞いて視線を玲太郎に移すと小首を傾げた。

「うーん、そうだね、私は見えていたから、見えるようになると断言は出来ないのだけれど」

 と前置きを置いて颯に視線を遣る。

「大昔はね、獣人は精霊と一体となり、人は精霊と共にある、詰まり獣人は精霊の姿はないのだけれど体の中にいてくれて、人は一人の人間に一体の精霊で一組、という認識だったのだそうだけれど、解るかしら?」

 真面目に聞いている颯が頷く。

「うん、分かる。それで?」

「和伍人は人だから、対になる、一緒にいてくれる精霊が必ずいるという事になるのだよ。それで、その対の精霊と繋がっているから、それを感じる訓練をするのだけれど、それもまた瞑想なのだよ」

「まためいそうかあ」

「そう、瞑想。でも昨日教えた瞑想とは違っていてね」

 拳を作って、胸骨の辺りに持ってくる。

「この辺から精霊と繋がっている糸のような物が出ていてね、先ずはここに意識を集中して糸のような物の存在を感じる訓練をするのだよ。そして、それを感じる事が出来るようになれば、次にそれを辿って行って、対になる精霊を感じる訓練をするのだよ」

「……水伯もおるん?」

「私も人だから当然いるよ。今は家の近所にいて一緒にはいないのだけれど、大昔はずっと一緒にいたね」

「ほうなんじゃ。すごいな!」

「ふふ。……なのだけれど、イノウエの血筋には獣人の血が入っているから一体型になる子もいるのだよね。例えば颯とか、ね。胸からも糸のような物が見えていないから確実だね」

 颯は表情が一変して、気の抜けた顔になる。

「え? ほな感じるも何も出来んのちゃうん?」

「それなのだよ。勿体ぶって話したけれど、一体型の子が精霊を見えるようになる方法など知らないから教えられないのだよ。ご免ね」

 申し訳なさそうに言われた颯は背を丸めて肩を落とし、顔を両手で覆った。

「ほうかあ。一体型なんじゃ……」

「そうだね。目族の血が強く出ているのなら、颯の魔力は相当ある方だと思うよ。目の色が濃いからね」

 両手を開いて、水伯を見る。

「ほんま? ほなかくせいのやり方を学んだ方がええんかいな?」

 水伯が満面の笑みを颯に見せた。

「先に言っておくけれど一体型の覚醒の仕方も知らないからね。興味があるのなら調べてもよいけれど、そんなに早く覚醒しなくてもよいと私は思うのだよ」

「なんで?」

 水伯は間髪を容れずに口を開いた。

「早く覚醒する程、早く死に易いからだよ。ナダールの話なのだけれど、抑えが利かなかったり、加減が出来なかったりして魔力欠乏、簡単に言うと魔力が少なくなり易くてね、更に魔力枯渇、魔力がなくなって倒れた時には大抵は死んでしまうのだよ。助かっても酷い有様だからね」

 穏やかな表情で恐ろしい事を言う水伯を見て、颯は眉を顰めた。

「ちょっとむつかしい言葉が出てきたけんど、おとろしいって事は分かったわ」

 率直に言った颯に微笑み掛けた。

「魔力に恵まれて私みたいに長生きする事も有り得るけれど、そればかりは蓋を開けてみない事には判らないからね」

 颯はそれを聞いて目を丸くする。

「もしも、もしもオレが水伯みたいに長生きするんやったら、水伯も寂しいないな! 友達になれるんちゃう? ほうだったら友達になろな?」

 目を輝かせて言った。水伯は笑った。

「解った、そうだった時は友達になろうね。それまでは家族だけれど」

「え? 家族?」

「そうだよ。一応、イノウエ家は家族のような物だからね。年に回しか会いに来ないけれど、我が子、我が孫の様子を見に来ていた積りだよ」

 そう言って玲太郎に視線を移す。

「玲太郎のお陰で頻繁ひんぱんに来られる口実を得たし」

 そして颯に視線を戻した。

「颯とも沢山話せる機会を得たから、いつでも相談に乗るよ?」

「ほうやな。水伯って長生きしとんやもんな。見た目が若あても二千歳をこえとるもんな」

 腕を組んで大真面目に言い、暫く考え込んだ。水伯は玲太郎を眺めて微笑んでいた。

「なやみなぁ……。言うてええもんか分からんけん、言えんのよなあ」

 眉を寄せて難しそうな顔をして言うと、水伯が穏やかな表情で颯を見る。

「そうなのだね。それでは言える悩みが出来たらいつでもどうぞ」

「その時はおねがいします!」

 元気良く言った。颯の屈託のない笑顔を見ると釣られて笑顔になった。

「オレも兄ちゃんみたいに勉強をちゃんとせんとあかんなあ」

「勉強も大切だけれど、運動もきちんとしなければいけないよ」

「運動はしよるよ。雨の日以外は家の南にある岬の手前にある林まで往復走んりょる。玲太郎が産まれてからは走ってないけんどな。あはははは」

 豪快に笑った颯は玲太郎が起きるかも知れないと思って両手で口を押さえたが、玲太郎が起きる事はなかった。それを見て安心すると続けた。

「兄ちゃんが玲太郎の事をよう見てくれるけん、また走るわ」

「そうだね、それがよいね」

 水伯は柔和な表情になる。それを見た颯は頬を緩めた。

「なんちゅうか、来た時は菓子持って来てくれて、オレらの事を気にしてくれて、オレの中では気のええ兄ちゃんっちゅう感じやったんやけんど、ここの所、たよれる兄ちゃんになったわ」

 何かに思い至ったのか慌てて続ける。

「いや、兄ちゃんは兄ちゃんでたよれるんやけんどな、水伯はやっぱり大人やけん、兄ちゃんとはちゃうんよな。……あれ? なんや変な事言よるな?」

 言いたい事が纏まらずに頭を掻いた。水伯は二度頷いた。

「颯が言いたい事は何となく解ったから大丈夫だよ。颯も色々と経験を積んで、玲太郎の良き兄になれるように努力しなければならないね」

「ああ、うん。ほうやな。頑張るわ!」

 颯が大きな声を出すと、玲太郎が「んっ」と言い出した。それからは「あー」とか「うー」とか言い出してしまい、目が覚めてしまったようだ。

「あー、起きてもたか……」

 残念がった颯は、玲太郎の手に触れた。

「このちっこさがたまらんな」

 颯には珍しく、締まりのない表情を見せる。それを見た水伯は失笑してしまった。

「ん? なんかおもっしょい事でもあったかいな?」

「ああ、ご免ね。颯が玲太郎にだらしのない顔をしている物だから、明良のそういう顔を思い出してしまって、やはり兄弟だなと思ってね」

 水伯がそう言うと、颯は驚いて水伯の方に顔を向けた。

「えっ、あんな顔しとったかいな?」

「明良には敵わないけれど、颯も大概だらしのない顔をしていたよ」

「っちゅうか、水伯も兄ちゃんのあのやばい顔見たん?」

「玲太郎を抱っこしたり、触れたりしている時は自然となる時があるみたいで、見てしまったね」

「ほうかあ。オレの悩みってほれなんよ。あのやばい顔をどうにかしたらんと……。あれは人に見せられへんじょ」

 真剣に言った。水伯は柔和な表情を見せた。

「昔は笑顔を見せてくれていたのだけれど、いつの間にやら無表情になっていたからね、それを思えば表情が出るようになって喜ばしいのではないかしら」

「ほれにしたって、あの顔はやばいって」

 だらしのない表情の明良を思い出した颯は眉を寄せていた。

「ふふ、そうかしら。私はあの手の表情に見覚えがあるから、微笑ましいとしか思わなかったよ。颯は若しかして明良の綺麗な顔が崩れてしまうというのが許せないのではないのかしら?」

「ほれはない」

 即答したが、視線を上に遣って考え始めた。

「うん、ない」

 視線を水伯に遣って自信満々で改めて答えた。

「あの顔はとにかくなんややばい。非常にやばい。ひとさまに見せられへんじょ」

「それならば外に出ていて、人目がある時にあの表情を見せたら、体を呈して隠せばよいのではないかしら」

 その提案に颯は表情を一変させ、花が咲いたように明るくなったが、次の瞬間暗くなった。

「ほんなにうまあに行くんだろか」

 颯の百面相が存外面白く、失笑してしまった水伯は手で口を押さえ、我慢した。

「ご免ね。つい笑ってしまったよ。……明良はそのような表情を見られてもどうとも思わないのではないかしら。見た人がいたとしたら、それだけ玲太郎の事を想っているのだろうね、という程度にしか見ないと思うよ」

「あ、ほうなるかあ。玲太郎がおる時しかあの顔はせんな。ほなええか。……ほなけんど、あの顔はほんまに変なわ」

 腕を組んで目を閉じると、あの崩れた顔を思い出しながら言った。

「若しかしたら、私の見た表情と、颯の見た表情とでは違っているかも知れないね? 私はそこまで酷く崩れていたようには思えないのだよね」

 目尻に人差し指を置き、思い切り下げて水伯に見せる。

「目えがこんなんだったじょ」

「いやいや、それは大袈裟なのでは」

「ほんまじゃって。目えがごっつい下がっとったもん」

 颯の余りの真剣ぶりに水伯は「うーん」と唸った。

「どうやら私が見た明良の表情ではなさそうだね」

「多分ちゃうと思うよ。玲太郎と二人っきりの所に行ったら、変な顔しとったけん、人がおるところでは気い付けてせんのんとちゃうだろか」

「玲太郎が話し出したり、歩き出したり、外に行くようになったりすれば、人目を気にせずに表情を崩すようになってくるだろうから、颯の言っている変顔も見られる日が来るかも知れないね」

 水伯がそう言うと、颯は真顔になった。

「ほんな日い、来るんだろか。オレのきおくには無表情の兄ちゃんしかおらんのんやけんど」

「既に表情を崩し始めているでしょう? 玲太郎がいる時だけだけれど。その内、私達にも笑顔を向けてくれるようになるのではないかしら」

 颯は想像が出来ないのか、首を横に振った。

「ないない、ないわー」

 そう言い切ると続ける。

「兄ちゃんが笑顔を向けるとしたら、玲太郎だけやな。まちがいない」

 真剣な表情で言い切ると、少し間を置いて笑顔になった。

「兄ちゃんにとって玲太郎はとくべつなんよ。オレも玲太郎はとくべつなんやけんどな」

「そうなのだね。私に取っても玲太郎は特別だよ。皆の特別だね」

 柔和な微笑みを浮かべて言った。颯は顔を曇らせる。

「まあ、みなかどうかは分からんけんどな」

 小さく小さく呟いた。玲太郎が「あー」とか「うー」とか言っていたが、それが聞こえていた水伯聞こえていない振りをした。

「ほれにしても兄ちゃんっちゃ、玲太郎をひとりじめしようとするけんほんま参るわ。オレもめんどう見たいのにな」

 水伯は鼻で笑うと、颯に目を遣る。颯は玲太郎の小さな手を撫でていた。

「二人で仲良く手分けをして面倒を見ればよいのではないの?」

 手を止め、顔を上げて水伯を見る。

「ほれがな、乳飲ますんは深夜から朝にかけて以外ぜーんぶ兄ちゃんよ。兄ちゃん、寝たら起きへんけん深夜はオレの係だろ。ほなけん、なるべくやりたいみたい」

「そう。それならば深夜は颯が独り占めしているのだね?」

 頷くと、また玲太郎を見て小さな手を撫で始めた。

「ほうじゃ。泣かれてもすぐ起きられるように玲太郎は横に寝かしとる」

「それだけでは足りないのかしら」

 玲太郎の手を撫でながら水伯を見る。

「足りんな。たとえば勉強中に玲太郎が泣くとするだろ。ほいたら兄ちゃんがオレに勉強がどうの~って言うてくるんよ。ほんでオレの手をふさいでおいて自分がめんどう見るんじょ。ずっこいわ」

「それでは私が面倒を見る日も手伝う?」

「ほれはかんまん。水伯がわざわざ来てくれてめんどう見てくれよるけん、じゃまはせんよ」

「邪魔ではないし、私の事は気にしなくても大丈夫だよ? こう遣って話をしている時に泣いたら颯に頼もうかしら」

 目を丸くした颯の頬が緩む。

「えっ、かんまんの? えんりょせんじょ?」

 水伯が微笑むと、颯は満面の笑みを見せた。

「全く構わないよ。けれど、勉強が始まる前と、終わってからにするのだよ?」

 満面の笑みになって頷いた。

「分かった。勉強はちゃんとやるけん安心して。あ、ほれと運動もな!」

 そう言うと悪戯っぽく笑った。水伯は笑顔で二度頷く。二人はこの調子で会話を続けた。玲太郎も上機嫌で良く話している。

 そうこうしている内に朝食の時間が迫り、皆が起き出してきた。明良が居間を覗いて挨拶をすると、颯は食堂へ向かった。明良も続いて食堂へ向かう。水伯は玲太郎と二人切りになると、声を発して寝ない様子だったので抱き上げた。すると声量が上がる。

「嬉しいのかしら? 玲太郎は元気だね」

 優しく話し掛けると、やはり「あー」とか「うー」とか言っている。

「い、え、おは言わないのかしら? いつも、あと、うだよね。ふふ」

 真っ直ぐ水伯を見詰めてくる玲太郎は懸命に話している。それを温かい眼差しで見ていた。

「玲太郎は私の目を見て何を考えているのかしら」

 こうして時々話し掛け、飽きる事なく見詰め続ける二人だった。それは朝食を終えた颯が来るまで続き、水伯が先に視線を切る事で終了した。

 水伯は玲太郎を颯に托すと八千代から貰った和菓子を布袋に入れ、皆に挨拶をして回り、それから帰路に就いた。空が白んで来ていて、慣れた素振りで空を飛んで行った。

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