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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第十九話 しかして長期休暇も目前に

 十四月も三週目になり、玲太郎は期末試験と修了試験期間の真っ只中だ。そして、その後に待ち受けている冬休みは十五月一日からとなっている。

 十四月二十五日にある終業式の後から十五月一日の二日に掛けて生徒が帰省する事になっていて、おか船の乗員人数の問題で完全予約制となっているのだが、十五月一日の朝食後には食堂が閉鎖する事もあって、終業式後に予約が集中していた。玲太郎は終業式後に明良と屋敷へ帰る事が決まっている為、当然ながら予約をする事はなかった。

 玲太郎の修了試験は学年主任の監視下で行われ、さん学年はバハールも一緒に受けていたが、それ以外の学年は一人で受けていた。必修教科の内、魔術系の教科は呪術を四学年、治癒術と薬草術を二学年まで受ける事となっていた。颯は玲太郎の顔を窺っている。

「大丈夫か?」

「うん? 何が?」

「今日で三日目だろう? 後一日だけど、気力が持つのかと思ってな」

 夕食後に茶を飲んでいたのだが、玲太郎が虚ろに見えた颯は心配した。

「期末試験と修了試験、合計四十三教科も受けなきゃだからねぇ……。一学年からやり始めて三十三教科分を受けて、残りは十教科分。後少しだよぉ、でも長いよぉ……」

 そう言いながら両手で顔をこすっていた。

「そうだな。後一日で試験も終わるし、もう少しで冬休みだし、頑張れるよな。今日は二十日だから、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五…、後五日で冬休みかあ」

 指折り数えながら言うと、玲太郎は微笑んだ。

「ルニリナ先生は魔術とか付与術を教えてくれるけど、はーちゃんは何を教えてくれるの?」

「俺は仕事をするから夕食に行くだけだぞ。あ、それと風呂も一緒に入る」

「えっ!?」

 玲太郎は愕然とした。

「あれ? 言っていなかったか?」

「聞いておらぬ。何時いつ、そのような話が決まったのよ?」

 固まっている玲太郎に代わってヌトが訊いた。

「冬休みの間は兄貴に雇われて仕事を遣るんだよ。決まったのは一ヶ月くらい前だな」

何故なにゆえその時に教えて呉れなんだのよ?」

「関係がないんだから教える必要がないよな?」

 ヌトはそう言われてしまうと何も言えなくなってしまった。

「まあ夕食には間に合うように行くよ。行けない日もあるだろうけどな。水伯邸にはニーティが滞在するし、ノユとズヤにもいて貰えるから俺がいなくても大丈夫だろう?」

「それはそうであるが……」

「タンモティッテで荒稼ぎしたけど、税金で半分以上も持って行かれるからなあ。だから仕事はしておかないと。教師は薄給で辛いわ。冬休みの間は兄貴と一緒に国王陛下と謁見しないといけないし、忙しいんだよな」

「はっきゅうって何? それよりも、もしかしてルニリナ先生が来るのはその為だったの?」

「薄給は給料が少ないって意味な。俺の仕事が決まるより、ニーティが来る事の方が先に決まっていたんだよ」

「そうなの……」

 落ち込んだ玲太郎は俯いていた。

「ニーティがいれば俺も安心出来るし、丁度良かったわ」

「ふむ。ノユとズヤの方がわしより役に立つとでも思うておるのか?」

「ヌトも眠りこけられるからいいじゃないか」

「それを言われると、わしも辛い所よな」

「それよりも、玲太郎が水伯邸に帰るし、そろそろハソが来そうなんだよなあ」

「来ぬであろうて」

「そう?」

「わし等は本来、気長であるからな。玲太郎の事を観察はしておるであろうから、直接来る事もそうはなかろうて」

「玲太郎のみならず、俺の事もたまに見ようとするからなあ。まあ、即潰しているけど、それでも何度も見て来るんだよな……。それはさて置き、ニーティの事もあるから、そろそろ来てもおかしくはないと思うんだけどな」

「そうであるな。それでも目族の子はノユとズヤがおるから、任せておこうと思うやも知れぬぞ? 灰色の子とて、ニムとシピが時折見に行っておった程度であるが、任せておったからな」

「成程」

 颯は茶を飲み干すと静かに茶碗を置いた。

「で、ヌトが起きているという事は、俺に何か話があるのか?」

「ない。偶には話をしておかねば忘れられると思うてな」

「ふうん。まあ、冬休みは家に帰って熟睡してろよ」

「そのような事をしたら、玲太郎に起こして貰えぬではないか」

「ヌトは僕と一緒にいるのよ。でもノユとズヤがいてくれるなら、安心して眠れるね。学院に戻る時は起こすから安心してよいのよ」

「玲太郎は颯と違って優しいわ」

 それを聞いた颯は微笑んだ。

「そうだな。それじゃあもう俺に付き纏うなよ?」

「只の皮肉ではないか。この程度の事は許せよ」

「優しい玲太郎といるなら許して遣るよ。冬休みの間は俺といるとか言い出されたら敵わないからな」

 ヌトは思わず険しい表情になった。

「ま、颯の傍におろうとしても、眠ったが最後、起こして貰えず放置されそうであるからな……」

「ご名答」

「それならば玲太郎の傍で寝ておるわ」

「また無意識に見に来たら即潰すからな」

「ぐっ……」

 思わず声が漏れたヌトは気まずそうにしている。

「何を見に来るの?」

「ヌトが俺の夢を見ようと意識を飛ばして来るんだよ。俺にはそれが判るから見えなくなるように魔術を掛けるんだ」

「ふうん。そんな事って出来るの?」

「ヌトに限っては出来る。ヌト以外は試した事がないからな」

「ああ、そういう事ね。でも冬休みははーちゃんも一緒にいると思ってたから、寂しいのよ……」

「そうであるな。わしも颯は玲太郎と過ごすと思うておったわ」

「水伯がニーティを雇ったんだから仕方がないだろう? まあ水伯は俺を雇えないからな」

何故なにゆえよ?」

「どうして?」

 同時に訊かれて、颯は思わず鼻で笑った。

「兄弟だからだよ。俺が玲太郎を教えるのに金銭なんて必要ないだろう? 水伯はそれはそれ、これはこれで払ってくれるんだろうけど、俺が嫌なんだよなあ。それに玲太郎がニーティを気に入ってる事は水伯も知っているし、水伯とも親しいから丁度良かったんだろうな」

「なんだぁ、もっと別の理由なのかと思ったのに。なんかこう、もっと驚くような理由」

「例えば、どんな?」

「そう言われると思い付かないんだけど」

「まあ、そんなもんか。あはは」

 颯が声を出して笑うと、玲太郎も釣られて一緒に笑った。ヌトには何がおかしいのか、全く以て理解出来なかったが、それは言わないでおいた。そして大きな欠伸をする。それに気付いた颯がヌトを見る。

「ヌトはもう寝たら? 明日も玲太郎が試験で殆ど起きていないといけないんだからな」

「そうであるな。家に戻されぬよう、眠られる時に眠っておくとするわ」

 言い終えると宙に浮き上がり一直線に寮長室の颯の寝台へ向かった。ヌトの姿が見えなくなると、玲太郎は茶を飲んだ。

「ヌトはどうしてはーちゃんの寝台で眠るの?」

「それはヌトに訊かないと判らないなあ。俺と一緒にいた間、俺の寝床が自分の寝床になって、その名残があるだけだと思うんだけどな。まあ、俺の睡眠を妨げなければ、何処どこで寝てもいいわ」

「それじゃあ覚えてたらヌトに聞いてみるね」

「うん、そうして。茶を飲んでしまったら、明日の試験勉強の続きを遣るんだろう?」

「うん、遣る」

此処ここでのんびりしていても大丈夫なのか?」

「あーちゃんが問題集を作ってくれてたんだけどね、そのお陰で今の所、全部答えられているんだよね。今日もそれで復習を遣るだけだから大丈夫」

「やはり兄貴だよなあ。兄貴の復習がてらに俺も作って貰っていた事を思い出すわ」

「そうなんだ。それじゃああーちゃんは作り慣れてるんだね」

「そうだな。なんなら、俺より兄貴の方が教師に向いていると思うわ。……なんだけど、基本的に人間嫌いなんだよな」

「人間が嫌いなのに治癒師とか薬草師とかの免状を持ってるの?」

「そうだよ。何時いつの頃からか医師を目指していて、その流れだな。どうして目指したのかは知らないから、理由を知りたいのなら本人に訊けよ?」

「うん、分かった」

 頷いた玲太郎は残っている茶を飲み干してしまうと立ち上がった。

「それじゃあ勉強をしてくるね」

「茶碗は置いて行けよ。俺が持って行くから」

「よいの? ありがとう。それじゃあ後でね」

「無理はするなよ?」

「うん、ありがとう」

 笑顔を見せると、椅子を食卓に入れて寮長室へ向かう。残された颯は立ち上がって食卓に椅子を入れてから茶碗を持ち、台所の方へ向かった。

 玲太郎は寮長室に入ると開放していた扉を閉めた。やはり颯の寝台で熟睡をしているヌトを一瞥して通り過ぎ、自分の席に着く。机に置いてあった明良が作ってくれた問題集を音読し始めた。玲太郎はこれ程度でヌトが起きる事はない事を知っていて、気兼ねせずに音読が出来ている。


 夜にも明良が来ていたのは本の少しの間だけで、「玲太郎が何かしら遣っていて抱っこ出来ない」と言って来なくなっていた。そのお陰で遅目に入浴を済ませられるようになった玲太郎は寝台へ向かった。それも颯の寝台だった。ここ最近、玲太郎が眠った後に浮いて颯の所へ飛んで来ていたからだった。それで寮長室の自分の寝台で眠るようになったのだが、それでも浮いてしまい、試しに颯の寝台で眠って貰った所、浮かない事が判明した。それ以来、玲太郎は颯の寝台で眠るようになったのだった。

「ヌト、おやすみ」

 熟睡しているヌトに声を掛けると、玲太郎も横になった。掛布団は颯が掛ける。

「お休み」

「はーちゃん、おやすみ」

 玲太郎が目を閉じるのを見届けると、颯は椅子に腰を掛けて、集合灯の明度を下げて部屋を薄暗くした。そして小さな光の玉を作って、机に置いてある本を手にすると読書を始めた。

 二十七時を少し過ぎた頃、颯は読書を止め、三十分程の瞑想をしてから寝台に横になった。目覚まし時計を手探りで取り、二十九時に音が鳴るように針を据えると元の場所に置いた。玲太郎は熟睡していて、颯が横に来た事に気付いていなかった。集合灯を消し、光の玉も消すと颯も目を閉じた。

 颯は横になってから一時間も経たない内に起き上がった。小さな光の玉を作り、掛け時計に目を遣った。まだ二十八時になっていない。寝台脇に座って靴を履くと、しばらくそのままでいた。玲太郎とヌトの寝息が聞こえる。颯は立ち上がると掛け布団を掛け直し、靴を履き替えた。今日も瞬間移動で五学年の部屋へ向かう。目的の部屋の扉の前へ到着した途端に開扉し、煌々と明るい部屋で、生徒二人が机に広げている菓子を食べていた。二人は颯の方を向いて固まっている。

「これで三度目な。少し早いけど、寝られないだろうし、今から荷造りしておけよ。明日の朝食後には帰省な。それ以外の食事の解除は俺がしておく。それからまだ学院に通う気でいるなら、下期からは近くに部屋を借りろよ。それじゃあ班長を連れて来るから荷造りしていろよ」

 一人が駆け寄って来て深々と頭を下げる。

「もうしませんから、今回の事はなかった事にして下さい。お金は幾らでも払います。お願いします!」

「担任、学年主任、俺から三度目はないって聞いていただろう? 前寮長と違って、俺は金でどうこう出来ないぞ。退学をしないのなら、諦めて外に部屋を借りるんだな」

 扉を閉めると班長の部屋を目指して歩き出し、階段を下りると踊り場で瞬間移動をして寮長室に戻った。靴を履き替えると寝台へ行き、靴を脱いで掛け布団をめくって寝転んだ。

(よし、玲太郎は寝ているな。巡回までまだあるから寝よっと)

 安心して光の玉を消して目を閉じた。


 翌朝、颯が食堂で食事をしていた所、五学年の班長が遣って来た。飴色の髪に碧眼、肌は白色をしていて中肉中背の男で、難しい顔をしていた。

「食事中に済まない。昨夜の事で話がしたいんだ。食事後でいいから少し時間をくれないか?」

 五学年の班長はイグカと言い、教師ではなく、班長として雇われている人物だ。ルニリナもイグカを見ている。

「職員朝礼があるのに食後に時間なんて取れる訳がないだろう。今言えば?」

「……ここでは言えない」

「ああ、そうなんだ。買収されたな?」

 職員用の食卓には颯とルニリナの他に二人いた。その二人は颯の言を聞き、イグカを見た。

「ちっ、違う! それはない。断じてない」

「へえ……。じゃあ今此処で用件を言えば?」

 イグカは眉を寄せて、小さく溜息を吐いた。

「……子供のした事だから、昨夜の事は大目に見てやってくれないか?」

「それは出来ない。イグカさんは班長なんだろう? だったら規則を守らせないといけない立場じゃないのか? それに退学をさせる訳じゃない。停学を伴った退寮だ。停学が明ければ学院には通えるんだから、自分の遣った事を悔いながら外から通えばいい。外に部屋を用意出来ず、通えなくなるなら退学するしかないけど、そうなった場合は致し方なし」

「でも、私達大人が大目に見てやる事も大事なんじゃないのか」

 颯は露骨に不快な表情をする。

「はあ? 規則違反を許容するような班長もこの寮にはいらないな。理事長に逐一報告させて貰うよ」

「なっ、私は子供の事を思ってだな……」

 顔をしかめてそう言うと、颯は腕を組んで溜息を吐いた。

「先ず規則を守っている生徒の事を考えろよ。それが当然なんだけど、そうせずに規則を三度も破って退寮させられるのは自業自得だから、大目に見るなんて事は出来ないな。俺は前寮長と違って買収されないし、甘くはないんだよ。規則を守れない事を良しとする大人がいるなんて、本当に驚きだわ。因みに緩い時代を過ごしていて規則を破った他の生徒は、俺を買収出来ないと知るといち度で止めたぞ。それでも三度も破ったのはあの二人だけだからな。やはり前寮長時代にいた班長も解雇しておかないといけなかったんだなあ。遅くなったけど今しておくか」

 イグカは眉間の皺をより深くし、目を丸くした。

「かっ、解雇だと? お前如きにそんな権限はないだろうが!」

「俺が寮長になる時、その権限を預かっているんだけどな。まあ理事長に報告するよ。理事長からなら解雇されてもいいんだよな? 数日後には冬休みで退寮しないといけないけど、それまではいていいよ。その後は戻って来られないから、荷造りは忘れ物のないようにな? それとイグカさんが取りつくろえないようにしておくから、理事長に言い訳はせず、潔く去れよな。二十五日が俄然楽しみになって来たわ」

 そう言って満面の笑みを浮かべた。イグカは切歯して顔を紅潮させた。

「そんな横柄な態度でいられるのも今の内だぞ! 覚悟をするのはお前の方だからな!」

 大声を張り上げて注目を浴びた事にも気付かなかったイグカはその場を去った。ルニリナは颯を見る。

「颯、あのような言い方をして大丈夫なのですか?」

 颯はルニリナを見て目を合わせた。

「うん、大丈夫。理事長も前寮長が何を遣っていたかは知っているからな」

「何をしていたのですか?」

「今言ったけど、生徒に買収されていて規則は守らせず、その上寮長が女を寮に連れ込んでいて、長期休暇中は寮を宿代わりにしていたんだよ。それも客から金を取っていて、領主に訴えられて現在は農奴として労働中」

 ルニリナの顔が険しくなる。

「そのような事があったのですか……」

「女子寮の寮長も宿代わりにしていた事が判って、そっちは人数の関係で財産没収された程度で済んでいるようだな」

「男女両方とは酷いですね……」

「一年中いる用務員を買収していたから中々発覚しなかったみたいなんだよ。で、ようやく発覚して伯爵が世代交代しているからな」

「それで理事長が若いのですか。成程。……それにしても、颯が解雇出来る権限を持っているとは、凄いですね」

「俺の目で見て判断していいって言われていたんだけど、使う時がこんなに早く来るとは思ってもいなかったよ」

「私も気を引き締めて颯と付き合わなければなりませんね」

 そう言って悪戯っぽく笑うと、颯も釣られて笑顔になった。

「さて、続きを食べましょうか」

「そうだな」

 二人は食事を再開した。


 玲太郎が寮長室へ戻ると、颯は着席して読書をしていた。

「ただいま」

「お帰り」

 靴を履き替えながら颯に何度も視線を送る。

「さっき大声で何を言い合ってたの?」

「聞こえていたのか?」

「何を言ってるかまでは分からなかったけどね」

 颯は本に栞を挟んで机に置き、傍に来た玲太郎を膝に座らせた。

「五学年の生徒二人が寝ないで菓子を食ってたんだけど、消灯時間を三度破ったから退寮させる事になってな、その事で班長が俺に意見をしに来ていたんだよ」

「ふうん、そうなの。みんなが見てるから僕も見てたけど、人ではーちゃんが見えなかった」

「そうなんだな。それは気が付かなかったわ。俺の声も丸聞こえだったのか?」

「はーちゃんはそんなに聞こえなかったけど、もう一人の人は声が聞こえてたね」

「ふうん、まあ、俺が容赦をしない事が伝わって、逆にいい効果を発揮するかも知れないな」

「そうだとよいね」

「玲太郎が戻って来たって事は、そろそろ六十分くらいだな。職員室へ行くわ」

 そう言うと玲太郎を下ろして立ち上がった。椅子が勝手に机の中へ行く。

「復習を遣るのもいいけど、時間を忘れないようにな」

 玲太郎の頭を乱雑に撫でて、髪を乱した。

「うん、それは大丈夫。ヌトが時間を見ててくれるからね」

「それじゃあまた後でな。鍵を掛け忘れるなよ?」

 そう言いながら衣こうの前で靴を履き替えた。玲太郎は颯の後ろ姿を見ている。

「きちんとかける。行ってらっしゃい」

「気を付けてな」

「うん、行ってきます」

 振り返らずに左手を軽く挙げて退室した。ヌトは玲太郎の机に下りると寝転がった。

「髪が乱れておるぞ」

「あ、うん。直す」

 手櫛で髪を梳きながら歩き、着席すると机にあった明良が作った問題集を開いた。

「ああ、眠い……」

 ヌトは大きな欠伸を連発していた。

「すぐに起きる事になるんだから眠らないでね。その後は起きっ放しなんだからね」

「まだ冬休みにならぬのか……」

 目が虚ろで、居間にも寝そうだった。

「後少しだから頑張ってね」

「うむ……。はわ~ぁあ」

 玲太郎は問題集を閉じると背嚢に入れた。掛け時計に目を遣る。

「まだ七十分になってないのね……」

 呟きながら頬杖を突いた。空いている右手でヌトをつつく。

「やめーい。暇潰しにわしを突くなよ」

「眠らないようにしてるんだけなんだよ?」

「欠伸はするが眠らぬわ」

「そんな事を言って、この前気付いたら眠ってたよね?」

「そのような事があったであろうか」

 玲太郎は突く手を止めた。

「なかった。うむ。なかったな」

「あったでしょ。覚えてないだけなんじゃないの?」

「であるからとしても、わしを突くなと言うておろうが」

 そこへ明良が瞬間移動で遣って来た。隣室の扉の前に現れたのだが、玲太郎は目の端で捉えていて右に顔を向けた。

「おはよう」

「お早う」

 二人は笑顔で目を合わせると、明良が玲太郎のもとへ向かって歩き出した。

「今日は職員朝礼に出ないの?」

「出ないね。何か問題が起こったの?」

「うん。朝食の時に、食堂ではーちゃんとどこかの班長とが言い合いしてたのよ。そんなに激しくはなかったんだけど、班長の方がちょっと怒り気味だったと言うか……」

 明良は玲太郎の寝台に腰を掛けた。玲太郎は横向きに居直って明良の方に顔を向ける。

「何故そういう事になったの?」

「消灯時間を三度破って退寮になる生徒がいて、その事で班長が意見しに来たって、はーちゃんが言ってた」

「そう……。颯の前の寮長が生徒に買収されていたのだけれど、その班長も同類なのだろうか……。颯が規則を守らない事を見逃す訳がないから、班長は見逃して遣れ、という事なのだろうね」

「生徒に買収されるって?」

「お金を払うから規則を破っても見逃して下さい、という事だよ。寮生活は時間に厳しいからね」

「僕も夜中になると厠へ行くのに起きてるよ?」

「それは消灯時間が過ぎているのに、部屋に灯りを点けて起き続けている事とは違うだろう?」

「そうだね。まあ、僕の場合は消灯時間前から眠っているんだけどね」

「そう言えば、最近は睡眠中に浮いているの? もう止んだの?」

「はーちゃんが何も言わないから、浮いてないと思うよ?」

「そう。それならばよいのだけれどね。それにつけても、期末試験と修了試験が立て続けにあったけど、それも今日で終わりだよね? 復習は出来たの?」

「うん、出来てると思う。あーちゃんのお陰で凄くはかどったのよ。ありがとう」

「どう致しまして。此処の所、玲太郎が医務室に午睡時間にしか来て貰えないから寂しくてね」

 満面の笑みを湛えて、両手を広げている。玲太郎は立ち上がると明良の前に立った。

「明日と明後日は休みだから、一緒にいられるじゃない」

 そう言う玲太郎を明良が抱き締める。

「それはそうなのだけれど、寂しい物は寂しいのだよね」

 玲太郎は明良の三つ編みを手繰り寄せて、毛先で顔を撫でていた。

「そうだった。そろそろ髪を切ろうと思うのだけれど、どの程度の長さにしようかと悩んでいてね、どの辺りまで切ろうか?」

「えっ、切っちゃうの? ここまで伸ばしたのに勿体ないよぉ」

 驚いて目を丸くしていたが、明良はその表情が見えない。

「前髪は顎の辺りで切って、耳に掛けられるようにする積りで、問題はそれ以外なのだよね。肩に付く程度でよいよね?」

「……よいと思う」

「そう。それではそうするね。玲太郎が長い方が似合うと言うから伸ばしていたけれど、殆ど結んでいたから、伸ばしていても意味がなかったものね」

「残念だけど、仕方がないね。でも髪を切っちゃうと、耳飾りをしていても見えなくなるんじゃないの?」

「髪を耳に掛けていれば見えるよ? そう言えば、最近は新作がないね?」

「ああ、うん、そうだね。勉強ばっかりやってたから余裕がなかったのよ。冬休みに描くね」

「それでは楽しみにしているね」

 明良は玲太郎を抱き締めていた腕を解いた。

「少し遅いけれど、職員朝礼に出て来るね」

 立ち上がると玲太郎の頭を撫でた。

「あ、そうなの? いってらっしゃい」

「また夕方にね。行ってきます」

 そう言って瞬時に消えた。玲太郎は椅子に腰掛けて、頬杖を突いてヌトを突き出した。

「止めぬか。突くなと言うておろうに」

「それじゃあ起き上がってよ。また気付いたら眠ってたなんて事になるんじゃないの?」

 ヌトは突かれながらも、無言で横になったままでいたが、一応目は開いていた。


 学年主任の教室は三階の南棟にある。中央の昇降口から数えて一室目がそうで、玲太郎は一人で修了試験を受ける。一人の為、最前列の真ん中に着席しているのだが、学年主任のギャリーンはその斜め後ろの着席して、玲太郎を見たり、外の景色を見たりしていた。休憩時間は持たされている水筒に入っている茶で喉を潤しつつ、次の試験の教科を明良が作った問題集で復習していた。

 四時限目が終わり、間食時間になると玲太郎は一階の月組の教室へ戻った。バハールはまだ来ていなかったが、食堂に直行していない数人が着席して談笑している。玲太郎は自分の席へ行き、背嚢を机に下ろして着席した。背嚢から問題集を全て出して、次の時間の教科の問題集を置き、それ以外を背嚢に片して、残した問題集を開き、そして黙読を始める。気付かぬ間に集中していて、バハールに肩を叩かれるまで、バハールが来ていた事に気付かなかった。

「そろそろ食堂へ行こう」

 玲太郎は驚いた表情でバハールを見る。

「いつからいたの? 気付かなかったのよ」

「二十分前にはもういたよ。食堂へ行こうよ」

「うん、分かった。ありがとう」

 頷いて、問題集を背嚢に入れて立ち上がり、それを背負うと椅子を机に入れた。

「お待たせ」

 バハールの方を見て言うと、バハールが笑顔になった。

「それにしても集中していたね」

「うん。だから肩を叩かれて驚いたのよ」

「ごめんね」

「ううん、それはよいのよ。こっちこそ気付かなくてごめんね」

 バハールが開扉して二人は教室から廊下へ出る。玲太郎が閉扉して歩き出すと、バハールも歩調を合わせて歩く。

「もうすぐ冬休みだね。何をするか、決めているの?」

「僕は父上が家庭教師を雇ってくれてるから、ずっと勉強なのよ。ディッチは?」

「僕はどうするか、全く決まっていないんだよね。それで良かったらなのだけど、一度王宮に遊びに来ない?」

「えっ、王宮へ? それは遠慮するのよ。僕なんかが行ける場所じゃないと思うからね」

「大公は王族で、ポタギルクはその公子なんだから資格は十分あるよ? 僕が招待するからおいでよ」

「……それじゃあ父上に相談をして、よいと言ってもらえたらにするね」

「楽しみにしておくよ」

「期待はしないでね……」

 玲太郎は苦笑して言う。それに反してバハールは笑顔だった。

「もうすぐ冬休みだけど、明日と明後日も帰るの?」

「うん、帰るよ」

「それでは大公に聞いてもらえるね?」

「あ、そうだね。聞けるから聞いておくね」

 取り敢えずそう答えた。玲太郎が行きたいと言えば、水伯なら連れて行ってくれるだろうが、玲太郎は行きたくないのが本心だった。

(父上には悪いけど、断る理由になってもらおうっと)

 そんな事を思いながら職員室前を通っていた。職員室と廊下の間は教室同様に腰窓で仕切られていて室内が丸見えだった。玲太郎は颯がいるのか、些か気になって探してみたがいなかった。

(ルニリナ先生もいないから食堂なんだろうか?)

 正面を向くと食堂から出て来る生徒が見えた。玲太郎はバハールの後ろに寄って廊下を空けた。そのまま食堂へ入り、仕切り台へと向かう。職員用の食卓に颯とルニリナがいるのを見付ける。ヌトはその視線を追って二人を見た。玲太郎は見入っているヌトを一瞥すると、そのまま置いて奥へ行く。

「颯は目族の子と仲良くなり過ぎではないのか」

 追い掛けて来たヌトが言うと、玲太郎は一瞥しただけで返事はしなかった。バハールと玲太郎は軽食を受け取り、茶が入った茶器も受け取ると二人並んで座れる場所へ行った。

「いただきます」

 玲太郎が合掌をして言うと、バハールも真似をする。

「いただきます」

 今日の軽食は楕円体の麺ぽうを横から切れ目を入れ、そこに野菜や肉が挟まれていた。二人は無言で食べてしまうと、残っている紅茶を飲みながら話をしていた。すると正面に座っている生徒が玲太郎を見詰めていた。

「ウィシュヘンド君、あの、今いいですか?」

 玲太郎はバハールからその子に視線を移した。金髪に緑色の目で、白い肌の少女だった。

「はい、なんですか?」

「私は同じ組のルウ=チー・ロルー・ダヒナーと言います。ウィシュヘンド君は呪術がすごく上手で、もう四学年の分も終わったんですよね?」

「はい、終わりました」

「私はまだ『元気であれボーウ・サッディ』で止まっていて、上手くやれるコツがあったら、教えてもらいたいんですけど、いいですか?」

「ルニリナ先生に相談はしたんですか?」

「ルニリナ先生には、元気でいられるようにもっと心象をしっかりと描いてと言われたんですけど、それが上手く行かなくて……」

「そうなんですか。僕の場合は、萎れてる植物が元気になって行く様子とか、落ち込んでいる人が笑顔になる様子とか、顔色の悪い人が血色良くなって行く様子とか、そういうのを思い浮かべて魔力を注ぎます。僕の場合は植物でやると上手く行き易いです」

「植物でも大丈夫なんですか?」

「僕の場合は大丈夫でした」

 ダヒナーは不安そうな表情をしていたが、表情が変わった。

「あ、でもそうかも知れないですね。治癒術も植物で練習ですもんね。分かりました。月の曜日の最後の授業でやってみます。ありがとうございます」

 笑顔で言うと、玲太郎も釣られて笑顔になった。

「どういたしまして」

 ダヒナーの隣にいる癖のある赤毛で灰色の目をした肌の白い少女が、顔をダヒナーに寄せた。

「私も月組のノスホ・カラッカ・ミョビモカと言います。よろしくね。二人とも、魔術系の授業以外はいないですよね? もう飛び級は決まってるんですか?」

 バハールと玲太郎を交互に見ながら訊いて来た。玲太郎がバハールを見る。

「僕は修了試験を受けたばかりで結果が分からないので、決まっているとは言えないです」

「僕は受けた修了試験が落ちてたら下期で再試験だから、それ次第と言った所です。それと魔術と付与術もですね。来年飛び級出来るように頑張ります」

「そうなんですか。ウィシュヘンド君は入学してすぐの自己紹介の時に、飛び級するって言ってたもんね。出来るといいですね」

「ありがとうございます」

 礼は言ったが、表情をどうすればよいのか判らず、取り敢えず愛想笑いをしていた。

「ところで、二人ともそうだけど、他の子達と話しているところをあまり見かけないのはどうしてなの? 友達はいらないの?」

 玲太郎は思わず苦笑した。

「そもそも学校は勉強をする所だし、授業中は自分の事で精一杯で、それ以外は話す機会がないと言うか……」

 そう言っている玲太郎を見ているバハールは無表情で、その後もミョビモカと視線を合わす事もなく、無言だった。

「あ、ふしぎに思ってたから聞いたんですけど、気を悪くしたならごめんなさい」

 申し訳なさそうにミョビモカが言うと、バハールは無言で茶を二口飲んだ。場の雰囲気が一気に悪くなり、ダヒナーは茶が残っていたにも拘らず立ち上がった。

「ウィシュヘンド君、助言をありがとうございました。また聞く事があるかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」

 椅子を食卓に入れながら言い終えると盆を持った。

「僕に答えられる事ならいつでもどうぞ」

「ロデルカ君もありがとうございました。それではお先に」

 辞儀をして返却口へ向かった。ミョビモカも立ち上がる。

「あっ、ルウ=チー、待って。私も行くから。ありがとうございました」

 軽く辞儀をすると慌てて食卓に椅子を入れ、盆を持って去って行った。バハールは小さく溜息を吐く。それに気付いた玲太郎が苦笑した。

「最近、ああやって話しかけてくる子が増えたけど、名前が覚えられないのよ」

「そうだね。でもどうして名乗るんだろうね? あれが不思議で仕方がないよ」

「それは僕達が覚えてないと思ってるからだね。実際、僕は覚えてないしね」

「僕も覚えていないけどね」

 そう言うと「ふふ」と笑った。どうやら機嫌は直ったようで玲太郎は安心した。

「それにしてもポダギルグは素直だね。あのような質問にきちんと答えなくてもよいのに……」

「そう? まあ知られてもどうって事ないからね」

「それで、試験の手応えはどう?」

「自信がなくても全部答えは埋めてるのよ。まだ少し残ってるけど、それもそう出来たらと思ってる。ディッチもある程度の結果が出てるんじゃないの?」

「僕は二学年までの結果は出たね。全部合格したから座学だけなら最低でも三学年には飛び級確定だね。三学年の修了試験次第では四学年、今年度下期の修了試験次第で五学年になるね」

「それはおめでとう。良かったね。期末試験の方も高得点だったし、三学年の修了試験と学年末の修了試験もその調子で行って、魔術系の実技次第では五学年になれるね」

「期末試験は歴史以外になるね……」

「あ、そうだったね。でも歴史だけ点数が低い理由が分からないんだけど、どうしてなの?」

「期末試験が悪くても、修了試験は高得点だったからよいけどね。それにしても、イノウエ先生に質問しておいて良かった」

「そうなの?」

「うん、僕は間違えて覚えていたようだからね」

「それじゃあ良かったね」

「ありがとう。ポダギルグも修了試験の結果が出始めているのだろう?」

「ああ、うん。僕も二学年までは結果が出たのよ。合格してたから、三学年にはなれるね。ただ魔術系の実技がね……」

「魔術と付与術くらいなら大丈夫じゃないの?」

「魔術も付与術も、魔力の使用量が本当に少ないのからやるから、僕には難しくて……」

「ああ、そうだね。それはもう出来るようになるまで、ひたすら練習するしかないね。その後は達成してるも同然だから、気にしなくてよいのが逆に羨ましいよ」

「そうなのよ。ひたすら練習なんだけどね。冬休みは先生と一緒に練習漬けの日々を送るのよ」

「来る家庭教師はもう決まっているの?」

 玲太郎は大きく頷く。

「それはもう決まってる。一応言っておくけど、イノウエ先生ではないのよ」

「それではアメイルグ先生?」

「ううん、アメイルグ先生は公爵の仕事があるから違うね」

「でも校医をしているのではないの?」

「書類仕事をしながらだからね。魔術の実技を教えながらとなると、出来ないでしょ?」

「それはそうだね。それでは大公に教えてもらうの?」

「ううん、それも違う。父上じゃないのよ。僕はずっと父上に教えてもらってたんだけど、甘えてやろうとしなくなるのが目に見えてるんだろうね。父上も強く言わないから、余計に甘えちゃって……」

「そう、それでは違う人なのだね」

「うん」

 玲太郎は残っていた茶を飲み干して立ち上がる。

「僕はそろそろギャリーン先生の教室へ行くね」

 食卓に椅子を入れると盆を持った。バハールも立ち上がると同様にする。

「途中まで僕も行くよ」

 二人は返却口に食器を持って行くと、名前を告げて盆ごと渡した。そして、食堂を後にする。


 玲太郎は昼食を摂った後、直ぐに医務室へ向かった。扉には鍵が掛かっていて「休憩中」の札があったが、玲太郎は開錠をして入室した。

「明良がおらぬのであれば、わしが眠れぬではないか」

 そう呟きながらヌトは先に机に下り立った。

「それは仕方がないのよ。もう少し我慢してね」

 寝転ぶと大きな欠伸をしている。玲太郎は机に背嚢を下ろし、次の試験の問題集を出した。

「音石で明良を呼ばぬか?」

「呼ばなーい」

何故なにゆえよ?」

「もう少し我慢してって言ったでしょ」

「何っ、そのような事を言うたのか」

「聞いてなかったの?」

「うむ。記憶にないな」

「大切な事はすぐ忘れて、どうでもよい事を覚えてるなんてダメなのよ。すぐはーちゃんに報告するし、本当に困っちゃう」

「はあ、然様で御座いますか。それは仕方が御座いませぬな……」

 虚ろな表情で返事をすると、玲太郎は上着の腰にある左側の衣嚢から白い石を取り出した。それをヌトの手に当てる。

「ひゃわっ!」

 頓狂な声を上げて手を動かし、石から離れた。玲太郎は笑顔で手を引いた。

「起きておる時は止めぬか」

「まだ眠ったらダメなのよ」

「眠っておらぬであろうが。良く見ろ」

「今にも眠りそうな顔をしてたのよ」

「ふ、それは気の所為という物よ」

 ヌトが取り繕って凛々しい表情をしていたが、玲太郎は冷めた視線を投げ掛けた。

「まあ、あーちゃんが来てないのに眠ったら、白い石で起こすだけなんだけどね」

 言い終えると莞爾としてヌトを見詰めた。ヌトは閉じそうな瞼を必死で開けている。

「それでは些か昔の話を語ろう。玲太郎が赤子であった頃の話でな、ハソとニムが何故なにゆえか知らぬが、玲太郎に触れようとしておったのよ。ある時、玲太郎に触れると奇妙な感覚を得られると知ってな、わしはどのような感覚かと触れてみたのよ。しかし、どうという事はなかった。わしはハソとニムに騙されたと思うたのであるが、ハソとニムは感じると言い張るのでらちが明かなんだ事を思い出したわ。颯の放つ一種の気配はわし等を一様に気持ち悪くさせるのであるが、玲太郎は違ったのよ。ハソとニムは感じておっても、わしには感じぬのよ。この差が何か判る時が来るのであろうか」

「ふうん? それって今もなの?」

「わしには感じぬからな、ハソとニムに触れさせねば判るまいて」

「それもそうだね。ニムはこの前に少しだけ来てたけど、ハソは最近会ってないね」

「会いたいか?」

「別に」

「わしには判らぬが、その二体は玲太郎の事をずっと見ておる筈ぞ」

「そうなの?」

「ずっとではないかも知れぬが、ま、頻繁に見ておるであろうな」

「ふうん。まあ、僕は特別らしいから、見ておかないといけないんだろうね。暴走するかも知れないもんね?」

「それは確かにあるが、暴走したとして、わし等に止められるのかどうか、甚だ疑問であるがな」

「そんなに力に差があるの?」

「あるぞ。わし等八体、灰色の子、明良に颯、目族の子が束になって掛かって行っても敵わぬわ」

「えっ、それじゃあ暴走なんてしたら、絶対にダメじゃないの」

 顔を顰めて、自分の力を恐れた。ヌトは平然としていた。と言うよりも眠そうだった。

「そうであるな」

「凄いとは言われていたけど、僕はもっと軽く考えてたのよ……」

「暴走の話はされておったであろうに。それにその膨大な魔力の所為で、微細な魔力操作が出来ずに苦労しておるではないか。わしはもっと簡単に出来てしまうと思うておったのだが、そうではなかったのであるからな」

 そこへ明良が瞬間移動で戻って来た。

「お、明良が来おったな。お休み」

 そう言って目を閉じる。

「もう来ていたのだね。それならば音石で連絡をしてくれても良かったのに」

「ついさっき来たばっかりだから待ってないのよ」

「そう?」

 明良は扉の方へ行き、札を回収すると閉扉した。そのまま執務机へ向かう。一番下の抽斗ひきだしにそれを入れると閉めた。

「あのね、ディッチに、王宮に遊びに来ないかって誘われたのよ」

「行きたいの?」

「行きたくない」

「それでは断るしかないね」

「父上がよいって言えば行くって返事をしてしまったのよ……」

「水伯が駄目などと言わないから、行くしかないね」

「最初は遠慮するって断ったのよ。そうしたら、来られる資格はあるからって……」

「ああ、水伯は一応王族だからね。成程、来られる資格はある、ね」

 突っ伏している玲太郎を見ている明良は椅子に腰を掛けた。

「そうだね、水伯と颯の三人で王宮へ呼ばれている日があるから、その日に一緒に行く?」

「行きたくない……。うん? 父上も一緒に行くの?」

「そうだけれど、どうかした?」

「はーちゃんは、あーちゃんと一緒に行くとしか言ってなかったのよ」

「そうだったの。私的な執務室へ行く事になっているから、それを水伯に話したら、一緒に行くと言うのでね」

「なんだぁ、そうだったの」

「それにつけても、玲太郎が王宮へ行くかどうかは水伯と相談をしなくてはね。そうすると言ってしまっている以上、仕方がない事だからね」

 玲太郎は無言だった。

「それでこの時間は、玲太郎は何を遣るの? 昼寝? それとも復習?」

「うーん」

 唸りながら上体を起こすと、もう熟睡しているヌトを見た。

「僕も少し眠っておこうか」

「そうする? それでは寮長室へ送ろうね」

「あーちゃんに送り迎えをしてもらうのは申し訳ないから、ここで眠ってはダメ?」

「私は何方どちらでも構わないけれど、此処で眠る?」

「うん、そうする」

 二人は立ち上がった。寝台は三台あり、それぞれ衝立で囲まれている。玲太郎は手前にある寝台に行き、掛け布団を捲り上げると靴を脱いで上った。

「玲太郎、制服の上着を脱いでね」

「あ、そうだった」

 上着の留め具を外して脱ぐと、明良が後ろから後ろ襟を両手で持って受け取った。上着を服掛けに掛けて、それを小型の衣桁に掛ける。

「窓掛けを閉めておく?」

 仰向けに横になった玲太郎に、明良が掛布団を掛ける。

「ううん。そんなに明るくないし、そのままでも大丈夫。それじゃあおやすみ」

「お休み」

 明良は一旦その場を離れ、本とを持って戻って来た。寝台脇に椅子を出してそれに座り、小さな光の玉も出して読書を開始する。外は薄暗く、雪が降っていた。


 玲太郎は修了試験を全て終えた。一旦月組の教室へ戻り、教壇の演台に置かれた自分の連絡帳を取ると寮へ向かった。寮長室に戻った玲太郎は背嚢を下ろして服を着替え、靴も履き替えると背嚢を持って机の所へ行く。

「あー! やっと試験が終わったよー! ヌトは眠かったら眠ってもよいからね」

「眠ったら颯に小言を言われるではないか。颯が戻るまでは起きておく。もう直ぐすれば幾らかは眠り続けられるから、今暫くの我慢よ」

 そうは言いながらも颯の寝台に下りた。

「そう? 無理しないでね」

 背嚢を机に置き、中身を全て出し終えて、背嚢を一番下の抽斗に入れた。

「それにしても、問題集のお陰で全部答えられたから、あーちゃん様様だったのよ」

 今日持って行っていた問題集を棚に片付けた。ヌトに話し掛けた積りだった玲太郎は、ヌトの反応がない為に颯の寝台に近寄った。ヌトは俯せになっていた。

「なんだぁ、眠っちゃったの。起きてるって言ってた癖にぃ」

 玲太郎は苦笑すると机に戻り、椅子に腰を掛けた。頬杖を突いて上置き棚を眺めた。予習か復習を遣ろうとしていたが、どうも気が乗らず、体が動かなかった。

「ヌトは眠っちゃったし、勉強は遣る気が起こらないし、読書にしようかなぁ……」

 大きな独り言を言いながら颯の寝台の前に来ると、そのまま靴を脱いで上がった。

「昼寝はしたんだけど、まあよいよね」

 掛け布団を退かして横になると、掛け布団を掛けて目を閉じた。


「…ろう、玲太郎、そろそろ起きて。眠り過ぎではないの? 玲太郎」

「うん……」

 目を開けると明良がいた。寝台に腰を下ろして玲太郎の額を撫でていた。

「何時頃から眠っていたの?」

「……試験が終わって、少ししてからだと思う……」

「それでは一時間以上は眠っているのではないの? その上昼寝もしているから、今夜は眠れないかも知れないね」

 玲太郎は上体を起こした。

「試験が終わって気が抜けたみたいで、なんだか眠くて……。多分夜も熟睡出来ると思うのよ」

「悪霊が眠っているから、それに釣られたのではないの?」

「それはない、と思う。多分」

「けれど、玲太郎一人しかいないのに悪霊が眠ってしまうのは感心しないね? 颯に言わなくてはならないね」

「えっ、言っちゃうの? 僕も一緒に眠っていたから同罪なんだけどなぁ……」

「それも含めて話さなければね。いすれにしても悪霊は家に帰らざるを得なくなるだろうけれど、それも致し方ないよね」

 満面の笑みを浮かべて言うと、玲太郎は悲愴な表情で俯いてしまった。暫くはそのままでいたが、にわかに厳しい表情になる。

「分かった。それじゃああーちゃんに抱っこされるのはヌトが戻って来るまでなしにする。それも致し方ないよね」

 明良は衝撃を受けた。余りの衝撃で他人には見せられない表情になっていた。玲太郎は思わず眉を顰めてしまった。

「あ……、あーちゃん?」

「酷いっ。玲太郎は私に何百年も抱っこさせてくれないの? それは本当に酷いっ!」

 そう喚きながら立ち上がると両手で顔を覆い、瞬間移動で消え去った。残された玲太郎は呆然としていたが、丁度バハールが迎えに来てくれて、間食を摂りに食堂へ行った。

 寮長室に戻って来ると、また颯の寝台に寝転がり、天井から吊り下げられている集合灯を眺めていた。


「…たろう、玲太郎、おーい。そろそろ起きろよ?」

「…ん?」

 うっすらと目を開けると颯が見えた。寝台脇に腰を掛けて、玲太郎の顔を覗き込んでいた颯は上体を起こした。

「起きたか? ヌトも寝ているじゃないか。駄目だろう?」

「あ……、ごめんなさい。一緒に眠っちゃった……」

「そのようだな」

「今、何時くらい?」

「二十時じっ分前くらいだな」

「もうそんな時間なの? 結構寝ちゃった……」

 そう言いながら上体を起こして、目を擦っていた。ふと先程の事を思い出す。

「あ! そうだった。さっきあーちゃんが来てて、ヌトが眠っている事をはーちゃんに言わなければね。それでヌトが家に帰る事になるだろうけど、致し方ないねみたいな事を言うから、僕、思わず、ヌトが戻って来るまであーちゃんには抱っこさせないって言っちゃったのよ。物凄く悲しそうな顔をして、何百年もさせてくれないの? 酷い! とかなんとか喚きながら帰っちゃったから、謝りに連れてって欲しいんだけど、行ってもらえる?」

「それは構わないけど、ヌトを帰すかどうかはヌトと話をしてからだな。やはりもう限界なのかも知れないから、家に帰さないといけないんだろうなあ」

「でももうすぐ冬休みだから、二ヶ月くらいぐっすり眠れば大丈夫かも知れないでしょ?」

「二ヶ月如きで大丈夫になる訳がないと思うけどなあ。百年以上起きっ放しだったんだぞ? ヌトは此処にいたいみたいだけど、起きていられないんじゃ話にならないからな」

「でもでも、僕が起こさなかったからなんだから、僕のせいなのよ」

「まあ、それは言えるな。玲太郎はヌトに甘いんだよ」

「ごめんなさい……」

「で、どうして兄貴に、抱っこさせないなんて事を言ったんだ?」

「だって意地悪を言うんだもん……。だからつい言っちゃった」

 俯いて言うと、颯は苦笑した。

「兄貴はヌトを含めて、奴等が嫌いだからなあ、それは知っているだろう?」

「……うん。僕もニムは嫌だから気持ちは分かるのよ」

「玲太郎がそんなにまでヌトにいて欲しいと思っているとは、兄貴も思ってもいなかっただろうからな、それは解って貰わないとな」

「うん……、それは分かったのよ」

「それにしても、玲太郎は意外と兄貴への当たりが強いな?」

 玲太郎は颯に顔を向けると目が合った。

「そう? でも意地悪を先に言ったのはあーちゃんだからね?」

「意地悪ではなくて、本心だろうけどな。まあ、夕食後に行こう」

 そう言って玲太郎の肩を優しく二度叩くと立ち上がった。

「夕食作りまで一時間半くらいあるなあ。本でも読むかな。玲太郎は勉強は遣らないのか?」

「試験があったでしょ。それが終わって気が抜けちゃって、やる気が起こらないのよ」

「成程。それで寝てたんだな」

「うん」

「手が空いているんだったら、兄貴に新作でも描いて行けば?」

「一時間半で思い浮かばないよぉ」

「夕食作りは手伝わなくてもいいぞ?」

「よい気晴らしになるから手伝いたい。ダメ?」

「解った。それじゃあ手伝ってくれよな」

「うん!」

 満面の笑みで元気良く返事をすると、寝台の脇に移動する。

「今から取り敢えず描いてみて、時間が足りなければ食後も描いて、出来上がったらあーちゃんの所に行こうか?」

「出来るのならそうすれば? 出来なくても今夜中に行こう」

「分かった」

 靴を履いて立ち上がると机の方に向かった。抽斗から紙を取り出して椅子に座ると、机に置かれていた鉛筆入れから鉛筆を出した。

「そう言えば、玲太郎って円が好きだよな? 何故だ?」

「唐突に何?」

「いや、兄貴の耳飾りは円だろう?」

「ああ、それね。円が好きって言うか、角があると揺れた時に肌に当たったら痛いだろうなと思ってて、それで円にしてるのよ」

「成程。てっきり円が好きなのかと思ってたわ。玲太郎は優しいなあ」

「でも形が限られてくるから、似たような物ばっかりになっちゃってるのよ。それが今の所、問題ではあるんだけどね」

「平面ではなく、立体にすれば少しは幅が広がるんじゃないのか」

 玲太郎は表情を一変させて、目を輝かせた。

「あ! 本当にそうだね! 僕、いつも平面で柄を考えてたんだけど、それなら色々考えられそう。どうしてこんな簡単な事を思い付かなかったんだろう。はーちゃん、ありがとう!」

「おう。兄貴のご機嫌取り、頼んだぞ」

「うん。まあ、僕が機嫌を悪くさせちゃったんだけどね」

 玲太郎は苦笑しながら言うと、直ぐに楽しそうな表情になって紙の上に線を引き出した。颯はそれを見てから本を選び出した。


 二人は夕食後に少し寛いでからイノウエ邸へと向かった。玄関広間に瞬間移動すると、颯が玲太郎を下ろしてから手を取って明良のいる部屋へ向かう。明良は居室にいるようだった。

「本当に居室にいるの?」

「うん。お父様もいるよ」

「え、お祖父じい様もいるの……」

「うん。まあ大丈夫だろう」

(何が大丈夫なんだろう……)

 玲太郎は些か困ってしまった。ガーナスがいる事に対して不安があったが、颯は平然としていて、その態度が玲太郎の不安を打ち消してくれたのだった。居室の扉を軽く二度叩くと開けた。二人が扉の方を注視する。明良は玲太郎がいるのを見て眉を寄せていた。颯は玲太郎の手を離した。

「お祖父様、こんばんは」

「只今」

「いらっしゃい。突然どうしたのだ?」

 ガーナスは読書をしていて、老眼鏡を少し下げて二人を交互に見る。

「うん、玲太郎がな、兄貴に用事があるんだよ」

「そうなのだな。それでは何か飲み物はいるか?」

「僕はいらないのよ。ありがとう」

「俺も。どうせ直ぐ帰るからな」

「そうなのだな」

 明良は口を結んで沈黙して玲太郎を凝視した。玲太郎はそんな明良に視線を移す。

「あーちゃん、こんばんは」

「……いらっしゃい」

「まあ、此処では話し辛いだろうから二人で話して来いよ」

 長椅子に座っている明良の横に座ると、明良はそう言った颯を一瞥し、開いていた本を閉じて机に置いた。

「僕はここでもよいのよ?」

「うん、解った。それでも少し廊下に出る事にしよう」

 明良は右側に来ていた玲太郎の手を取ると、二人は廊下へ出て行った。二人の後ろ姿を見送ったガーナスが颯を見る。

「あの二人、どうかしたのか?」

「仲が良過ぎて仲違いしたんだよ。それで仲直りをしに来たんだけど、どうなる事やら、だな」

「……明良も嫉妬深いのか?」

「うん。独占欲も強くて困っているんだよ」

「そうなのだな。血筋という物だから仕方がないな」

「そうなると、俺もそうなってしまうじゃないか。困るなあ」

「颯は違うのか?」

「俺はあそこまで酷くはないから違う」

「そう思うておるのは自分だけ、という事もあるがな」

「ふうん。……それじゃあお父様もそうなんだ?」

「わしは違う」

「それじゃあ俺も違う」

 ガーナスは鼻で笑うと、老眼鏡を掛け直して視線を本に移した。

「わしは嫉妬する程、人を好きになった事もなければ、関心を持った事もない。自分の事だけで精一杯だった。それが失敗の要因なのだがな。颯は自分だけを見ず、きちんと周囲を見るのだぞ」

「解った。見るようにするよ。何かがあったら水伯もいるし、兄貴もいるし、玲太郎もいるし、新しく出来た友人もいるからどうにか遣っていけると思うよ」

 そう言った颯を上目遣いで見たガーナスが老眼鏡をずらして顔を上げた。

「ほう、友人が出来たのか。一度連れて来い」

「それじゃあ明日か明後日に連れて来るよ。丁度休みだからな」

「学院関係者か?」

「そう。教師を遣っているんだけど、目族の人で呪術を教えているんだよ」

うちは目族と縁があるな……。女性か?」

「男だよ。年は二百歳を超えているんだけど、水伯とも親しいんだよな」

「閣下ともか。それは是非とも一度は会っておきたい」

「うん。明日か明後日にな。時間は報せなくてもいいよな?」

「構わん。何時でもいいぞ」

「それじゃあ来られる時に来るわ」

「明良にも良き友人が出来てくれれば言う事はないのだがな」

 そう言うと小さく溜息を吐いた。颯は思わず苦笑する。

「兄貴は玲太郎がいれば、それでいいからなあ」

「それも困り者だな……」

「水伯がいるから、普通の人じゃ物足りないんだと思うよ」

「閣下に仕える身だと言うのに……」

「まあ、それは弁えていると思うよ。俺は弁えていないけど。あはは」

 朗らかに笑い、ガーナスもそれに釣られて鼻で笑った。

「閣下が颯と友人になったと仰られていたが、踏み込み過ぎるなよ?」

「ああ、それは大丈夫だよ。その辺は弁えている積り」

「ならばよいのだが」

「まあ、お父様が思うような事は遣らないから安心してよ」

「そうだな。颯や明良ならば大丈夫だろうな」

 颯に顔を向けて柔らかく微笑むと本に視線を遣った。颯も微笑みながらガーナスを見ている。そこへ明良が玲太郎と手を繋いで戻って来た。明良は満面の笑みを浮かべていて、玲太郎は苦笑していた。ガーナスは本から視線を動かさず、颯が振り返ってそんな二人を見た。

「それじゃあ帰るか」

 玲太郎に向かって言うと、玲太郎が頷いた。

「うん、帰ろう」

「えっ、もう少しいてもよいのではないの?」

 笑顔から無表情になり、颯は明良を一瞥してからガーナスを見た。

「それじゃあ帰るよ。明日か明後日に連れて来るから」

 そう言って立ち上がる颯をガーナスは見上げた。

「待っておるぞ」

 颯はガーナスに笑顔を向けると、玲太郎の手を取った。

「それじゃあお祖父様、あーちゃん、またね。おやすみなさい」

 明良は仕方なく手を離すと、玲太郎が笑顔で明良を見上げた。明良が微笑むのを見た颯は瞬間移動をした。ガーナスは寂しげな表情をしている明良を見ていたが、直ぐに本へと視線を戻した。

 寮長室へ戻って来て、颯は玲太郎の手を離す。そして膝を折って玲太郎と視線を合わせた。

「兄貴とはきちんと仲直り出来たんだよな?」

「うん、ありがとうね。図案を渡したら笑いながら涙をぽろっと流してたのよ」

「それじゃあ一応は大丈夫だな。もう強く当たるなよ?」

「それは分からない。多分またやると思う。あーちゃん、全く反省してなかったもん」

 玲太郎は些か眉を寄せて言った。

「ふ。まあ、兄貴の悪霊嫌いがそう簡単になくなる訳がないんだよ」

「根が深いんだね。それは諦めるけど、でもヌトは僕には必要なのよ」

「今の所は、な。その内、いなくても良くなるよ」

「えっ? そうなるの?」

「その内、俺からも卒業して行くだろう」

「えっ!? 僕がそうなっちゃうの?」

「そうなるんじゃないのか? その為にこの学院を選んだんだろう?」

「そういう予定だったけど、でもずっと一緒にいるじゃない」

「まあ、今はな。数年経てば、また気持ちが変わるだろうなあ」

「そうだろうか? その時になってみないと、なんとも言えないのよ」

「俺は玲太郎が産まれた時から気持ちは変わっていないけどな」

 そう言うと玲太郎を抱き上げた。

「玲太郎は可愛いわー、本当に可愛いわー」

「えー? 抱っこするの?」

「うん。いいだろう?」

「ふうん……。まあ、よいけど……」

 些か嫌がっている風に振る舞いながらも、抜け目なく颯に甘えた玲太郎だった。


 翌朝、玲太郎が屋敷に戻る時、ルニリナも一緒だった。ヌトは到着した途端、図書室へ行くや否や机で横になり熟睡している。

 三人が水伯邸に到着して暫く経った頃に、髪を言ていた通りの長さに切っていた明良が来訪し、いつも通り、玲太郎と一緒に図書室に籠った。

 颯とルニリナは間食を摂り終えてからイノウエ邸へ向かった。勿論、ノユとズヤも一緒に向かってしまい、玲太郎は昼食に二人が現れない事を疑問に思い、水伯に訊く。

「父上、はーちゃんとルニリナ先生はどこへ行ったの?」

「もうイノウエ邸へ行ったよ。挨拶をされていないのかい?」

「されてない……」

 颯が何も言わずにイノウエ邸へ行かれた事で、些か衝撃を受けた玲太郎は落胆した。

「行く事は判っていたのだから、別に構わないじゃない。ね?」

 明良はなんとも思っていない事もあって平然としていた。

「……うん」

「水伯には挨拶して行ったのだろう?」

「して行ったと言うよりも、行く間際まで一緒にいたからね。玄関先まで見送ったよ」

「ふうん……」

 給仕をしている赤褐色の髪に翠眼の、やや膨よかな熟年の女が玲太郎の傍で微笑んだ。

「さあさ、レイタロウ様、お手が止まっていますよ。この後にはレイタロウ様のお好きなオハギが待っていますよ。ですからきちんと召し上がって下さいね」

「あ、うん。イニーミーさん、ありがとう。楽しみにしとくね」

 お萩と聞いて目が輝いた玲太郎はイニーミーに笑顔を見せた。

「颯はばあちゃんの方には挨拶をしに来たの?」

 明良が八千代を見ながら訊いた。突き匙で肉を刺して口に運ぼうとしていた八千代は、突き匙を皿に置いて明良に視線を向けた。

「うん? 私に? そうだね、間食の後、部屋に戻ろうとしてた時に、明日玲太郎を迎えに来るから、またその時になって言ってたよ。それにしても、ルニリナさんとは二度目だけど、感じの好い人だよね。明良にもああいう友達が出来れば、ばあちゃんは嬉しいんだけどね……」

「またその話なの? ……私は水伯と颯がいるから、友人という友人がいなくとも大丈夫だよ。友人に時間を割くくらいなら、玲太郎の傍にいたい」

「ルニリナさんとはどうなの?」

「必要ならば話はするけれど、私まで友人になる必要はないだろう? 水伯と颯がルニリナ先生と仲が良ければそれでよいという感じだね」

「そうなの……」

 落胆した八千代は置いてあった突き匙を持って肉を口に運んだ。水伯が柔和に微笑んで明良を見る。

「ニーティは呪いにも造けいが深いから、明良も学んでみてはどう? 呪いを知っておけば、解呪も容易に出来るようになるよ?」

 明良はそういう水伯を横目で見た。

「呪いには興味があるけれど、時間が合わないだろう? だから数年は無理だね。玲太郎が卒業して、一緒に学ぶと言うのならば学ぶけれど、玲太郎はどう? 学びたい?」

 そう訊く明良を咀嚼をしながら見ていた玲太郎は頷いた。そして左手で口を覆う。

「呪いは興味があるのよ。呪いの絵があるでしょ、あれとか絵でお呪いをやるのとか、そういうのも習ってみたい」

「そう。それでは卒業後だね」

 水伯が柔和に微笑んだ。

「ルニリナ先生が教えてくれるならね」

 そう言って、玲太郎は咀嚼を再開した。

「ではニーティに話して、教えて貰えるかどうか、考えて貰おうね」

「うん」

 笑顔で返事をした玲太郎に、水伯は笑顔を向けた。

「呪いは学校に通っている間は習得出来ないし、習得出来ていたとしても修業中は使用不可なのだよね……」

 明良が呟くと、水伯が明良を一瞥する。

「呪術は本来、呪いも教授していたのだけれど、それを使用した虐めが横行して全世界で禁止になったのだよ。それで解呪師、若しくは呪術師へ入門する制度になったという訳だね。呪いを習得する場合、ナダールでは魔術省に申請しないといけないのだよ」

 明良は無表情で水伯を見ていた。

「それは面倒臭いね」

「潜りで遣っている人も多いようだけれどね」

「もぐりって何?」

「必要な許可を得ないで遣っている人の事だよ。独学で医術を学んでそのまま無免の医師になるとか、無免の治癒師になるとか、国家資格が必要なのにそれを持たずに専門職に就く人ね。警察に露見したら捕まるのだよ」

「え、それなのにやっちゃうの?」

「そうだよ。そういう人は一定数いるのだよ」

「ふうん、そうなんだ」

 玲太郎は付け合わせのきのこを頬張った。明良はそんな玲太郎を見ながら咀嚼をしている。

「そういう闇に紛れた人は沢山いるんだろうねえ」

 何気なく言った八千代もきのこを口に運ぶ。

「それに場所に依っては必要に駆られて、という事もあるからね」

「ナダールは和伍のように小さくないから、そういう事もあるんでしょうねえ」

 手で口を覆った八千代が水伯を見ながら言った。

「資格受験に手数料が必要だものね。五十万こんも必要になる場合もあるからね」

 玲太郎は肉を切っていた手を止めた。

「えっ、五十万も!?」

「魔術師だね?」

「そう。平民の平均月収が二十五万金前後だから、二ヶ月分だね。それなのに合格率は一割を切っている超難関。恐ろしいよね」

 明良は水伯の方に顔を向けて言った。八千代が明良を見る。

「それでも明良と颯は一発合格だったじゃないの。違った?」

 そう訊いてきた八千代に視線を移した明良は頷いた。

「合っているよ。私の時は実技の試験官が三人だったのに、颯の時は十人も付いていたそうだからね」

「へぇ、あーちゃんってそんな資格も取ってたの。凄いねぇ」

 笑顔で玲太郎が言うと、明良は玲太郎を見て心底から嬉しそうに微笑んだ。水伯と八千代はそれを見て苦笑する。


 その頃、カンタロッダ下学院の男子寮二階、一学年の首席に与えられる部屋にナルアーがいた。バハールは期末試験の歴史の結果が芳しくなかった事を理由に、歴史の勉強をさせられていた。

「そろそろ昼食に行きたいのだが」

 そう言っても、ナルアーは首を横に振る。

「いつも遅目に召し上がられているではありませんか。切りのよい所まで学習されれば昼食に行かれても構いません。昼食後もやりますから、殿下には気を抜かないようにお願い申し上げます」

 バハールは大きな溜息を吐いた。

(兄上にはもうしばらく我慢してくれと言われているけど、もう限界だよ……)

 ナルアーに期末試験で間違えた答えを正しい答えに改めた物を百度ずつ書かされていた。

「それにしても、私は問題を捨てたという行為に憤っております。ああいった物は後々の為に残す物ですよ」

「私はお前が大嫌いだよ」

 そう大声で言いながら帳面を閉じた。そして立ち上がると扉に向かって早足で歩く。

「バハール殿下! お席にお戻り下さい!」

 慌てて追い掛けると、バハールは更に速度を上げ扉の前に着く。

「気安く名前を呼ぶな!」

 開扉すると部屋の方に体を向けた。

「バハール・ディッチ・ロデルカの名において命ずる! デモイス・メルテ・ナルアー、お前は二度とこの部屋に入るな! 出て行け!!」

 廊下にもその声が響いた。

「そっ、そんな……。私はただ、殿下の事を思い……」

「出て行け! 二度も同じ事を言わせるな!」

 丁度食事を終えて部屋へ戻っている生徒がバハールの声を聞いて様子を見に来た。ナルアーは苦渋の表情を浮かべて無言で足早に退室し、そのまま中央の昇降口へ向かった。バハールは集まっていた生徒に微笑み掛ける。

「お騒がせして申し訳ない」

 そう言うと閉扉した。机の前に行くと書き取りをさせられていた帳面を閉じ、扉付きの衣装棚の前へ行く。扉を開錠してから開け、革製の大きな旅行鞄を取り出すと、その中にあった大き目の茶封筒を手にした。それに帳面を入れ、立ち上がると棚の中へ戻して静かに閉扉した。

(ナルアーと顔を合わせるのは嫌だけど、昼食に行っておくとしよう。ポダギルグがいてくれれば良かったのに……。せめてイノウエ先生がいてくれれば……)

 溜息を吐くと衣装棚の扉に施錠して、部屋を後にした。


 昼食後、玲太郎は明良と共に厚着をして北の畑にいた。ウィシュヘンドはもう冬景色だったが、明良が一帯の雪を解かしていた。

「あーちゃん、そろそろ手を離してくれない?」

「でも呪文を唱えて飛ぶ練習を遣るのだろう? それならば手を繋いでいた方が、……抱っこの方がよいかも知れない。うん、そうだね、抱っこにしておこう」

「ええ? またなの? あーちゃんがくっ付いてると、余分な魔力を使っちゃうのよ」

「構わないじゃない。玲太郎の魔力は膨大なのだから、どうという事はないよ」

 そう言いながら抱き上げた。玲太郎は脱力して項垂れた。

「それで飛ぶ練習を遣って、障壁を纏う練習を遣るのだよね?」

 それを聞いて頷くと明良を見た。

「そう。障壁をまとってあちこちを飛び回るのよ」

「呪文は憶えているの?」

「穏やかなきぬをまとい、確固たる意志で語らい、常に我と共に在る」

「どう? 出来ている?」

「分からない」

「冷たい風が吹いているけれど、感じない?」

「あっ、そう言われたら感じるかも知れない。寒くて良く分からなくなってるのよ……」

「それでは失敗だね。もう一度唱えてみて?」

「穏やかな衣をまとい、確固たる意志で語らい、常に我と共に在る」

「今度はどう?」

 明良は玲太郎を見詰めていた。玲太郎は頬を触ってみる。

「うーん、触った感触はあるね」

「失敗しているね。障壁を纏っていたら頬と手袋は触れ合わないもの」

「穏やかな衣をまとい、確固たる意志で語らい、常に我と共に在る」

 今度は明良が右手で玲太郎の左頬を撫でた。

「手袋の感触はある?」

「ある……」

「ではもう一度」

「穏やかな衣をまとい、確固たる意志で語らい、常に我と共に在る」

「あ、私にも掛かったね。出来ているよ。冷たい風を感じなくなったもの」

「本当?」

 明良が再度、玲太郎の頬を撫でた。玲太郎は自分でも頬を撫でた。

「うん? 手袋の感触があるけど?」

「え? そうなの? でも風は感じないよ? 試しに私が飛び回ってみるけれどよい?」

「うん」

 返事を聞いた途端に明良が最高速度で上空へ上昇し、止まったと思ったら縦横無尽に飛び回った。

「ほら、風は感じないよ? 目が痛くならない」

「うん。確かに目は痛くないのよ」

「そうだよね? これは多分、私達の周りを大きく包むように出来ているのだね。若しかしたら球体の中にいるような物なのかも知れないね」

「ふうん……。普通はどうなるの?」

 明良は動きを止めて徐に下降した。

「普通は服を着るように体に沿って薄く出来るから、手で頬に触れても、髪を撫でても感じないのだよね」

「そうなの? 僕のは大き過ぎるって事?」

「そうなるね。悪い事ではないから、それは気にしなくても大丈夫だよ。青星を見に遥か上空へ行った時は大きかったけれど、もしかしたらそれくらいかも知れないね。着地したら私が調べてみようか?」

 笑顔でそう言うと、玲太郎も釣られて笑顔になる。

「お願い」

「解った。それでは着地したらね」

 そう言うと下降速度を少し上げて着地し、玲太郎を下ろした。

「それでは境界線が何処までかを調べるから、動かないでね」

「うん、分かった」

 明良が遠ざかって行く。しかし、三歩目で立ち止まり、きびすを返して戻ろうとした。

「あれ? 玲太郎の所へ行けない」

 見えない障壁に遮られてしまったのだった。

「玲太郎、纏っている障壁を消して貰える?」

「呪文はなんだった?」

「もう忘れてしまって……、ご免ね。消えろとか不要とか、そういう類の事を念じたら消えるよ?」

 玲太郎は目を閉じて、言われた通りに念じてみた。そして目を開ける。

「どう?」

 明良が見えない障壁に人差し指を当てると、感触があった。

「駄目だね。もっと強く念じてみない?」

「やってみる」

 再度目を閉じると先程より長目に念じた。そして目を開ける。

「今度はどう?」

 見えない障壁に人差し指を付けたままにしていた明良は首を小さく横に振った。

「また消えないね。颯に聞いてみる方がよいかも知れないね。少し待ってね」

 ズボンの衣嚢から容器を取り出して紺桔梗色の蓋を開けた。白地に老竹おいたけ色と梅幸ばいこう茶色の斑模様の石に触れる。

「明良だけど今大丈夫? 今回は斑ね」

 十秒程で颯の声が聞こえて来た。

「何?」

「障壁の消去の呪文を教えて貰いたいのだけれど」

「それはな、きぬ陽炎かげろう一時ひとときの幻となる、だよ。それじゃあな」

「有難う。また明日ね」

「じゃあな」

 また石に触れて蓋を閉め、容器をズボンの衣嚢に入れた。

「聞いていた? 衣は陽炎、一時の幻となる、だそうだよ」

「うん、聞いてた。ありがとう。それじゃあ唱えるね。……衣はかげろう、一時の幻となる」

 明良は障壁に人差し指を当てていた。

「まだ消えないから、成功するまで唱えて貰える? 消えたら消えたと言うから、それまでね。消えるように念じながら遣るのだよ?」

「分かった。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。衣はかげろう、一時の幻となる。き…」

「消えたよ。あー良かった……」

 安堵しながらそう言い、玲太郎の傍に行くと屈んだ。

「半径約いちモル(六尺六寸)だったよ。意外と短いね。青星を見に行った時はもっと長かったけれど、今度は何故短いのか……」

 そう言いながら玲太郎を抱き上げた。玲太郎は右手を明良の首に回した。

「はぁー、消せて良かった……。それにしても、僕でも障壁が作れるんだね」

「作れて良かったね。これで自覚が出来たからもう少し練習を遣って、慣れたら何時でも作れるだろうし、そのお陰で速度も出せるようになるし、きっと近い内に曲がれるようにもなるね」

「うん? 最後のはどうだろう? ずっと練習をやってるけど出来てないんだよね……」

「曲がる事が怖いの?」

「曲がれないでぶつかるんじゃないかって思っちゃうのよ。やっぱりそれがダメなんだよね?」

「そうだね。解っているのならば、そう思わないようにしないといけないね」

「でも目の前に柵や塀や壁なんかが来ると、じっと見ちゃうのよね」

「何やら奇妙な癖が付いているようだね」

「魔術で飛ぶ練習を遣るでしょ? 運動場の柵の前で止まって、着地してから角度を変えてまた飛ぶってやってたら、そうなっちゃった……」

「成程。それは角を直角に曲がろうとしないで、曲線を描くように曲がってみてはどう? …と言いたい所だけれど、先に障壁を物にしようか。その前にこの一帯を暖かくしておくね。このまま遣り続けるには寒いからね」

 そう言っている内に気温が上がり、頬に当たる風が痛くなくなった。

「ありがとう」

「それでは障壁の練習ね」

「はーい」

 玲太郎は笑顔で挙手をして、元気良く返事をした。明良も笑顔になる。二人は手袋を外して外套の衣嚢に入れた。


 颯とルニリナは、ガーナスと意外と話が盛り上がり、帰寮をしたのは夕食前だった。颯は二十時十分になると閉門して部屋に戻り、二十二時半にルニリナが迎えに来ると、一緒に食堂へ向かった。職員用の食卓で二人が並んで食事をしていると、意気消沈したバハールが遣って来た。颯は正直な所、関り合いたくなかったが、教師という立場上、受け入れざるを得ない。

「どうかしたのか?」

「あの、話を聞いて欲しいのです。出来れば今日中に……」

 泣いた後なのか、バハールの瞼が腫れ、目が赤くなっていた。

「食事が済んだらロデルカ君の部屋へ行こう。それでいいか?」

「はい。お願いします」

「私も行きましょうか?」

 心配そうなルニリナが颯を見て言った。颯はルニリナを見ると笑顔になる。

「一緒に来て貰えるなら力強いよ」

「ロデルカ君、構いませんか?」

「はい、こちらこそお願いします」

 バハールは深く辞儀をすると食堂を後にした。二人はその後姿を見た後、顔を見合わせた。

「どう思う?」

「かなり切羽詰まっているようですね。何があったのか、大変気に掛かります」

「俺は嫌な予感しかしないわ……」

「それでは食べてしまいましょうか」

「うん、そうだな」

 二人はいつも通りに話しながら食べ、茶を飲んでからバハールの部屋へ向かった。

 バハールは椅子に座って頬杖を突いて呆けていた。すると扉を叩く音がして「イノウエです」と声が聞こえて来て、即座に立ち上がった。そして開扉しに行く。

「お呼び立てして、すみません」

「それじゃあ中に入るぞ」

「失礼します」

 二人が中に入ると、バハールは閉扉した。部屋は約十五畳の広さだった。部屋の北側に寝台があり、その脇の方に衣装棚、隣には小さな棚が置かれていて茶器が一揃いあった。棚の上には水差しもあり、いつでも飲み物が飲めるようになっている。その傍に扉があり、そこは浴室に繋がる洗面所となっている。南側の奥に勉強机、中央には本棚が二台置かれていた。

「座って頂ける椅子がないので、寝台にでも……」

「ああ、いいよ。自分で出すから。ロデルカ君は何時もの椅子に座って」

「はい」

 部屋の奥にある机に向かい、傍にある椅子の背もたれを両手で持って向きを変えると座った。二人もその傍へ行き、その場で椅子を出すと座った。

「それで、話とは?」

 颯が切り出すと、バハールは神妙な面持ちになり、颯を見据えた。

「実は今日、ナルアーに歴史の期末試験の結果が悪かったので勉強をさせられていたんです。それでもう限界が来てしまって、ナルアーを追い出したのですが、その後に家探しをされたような感じがして……」

「家探し? それは確かなのか?」

「物の位置が微妙にずれている気がします。気のせいと言われたらそれまでですが、とても違和感をがあります。衣装棚には鍵がかかるようになっていて、そこには違和感はないのですが、机のひきだしと本棚と、寝台の辺りには違和感があります」

「成程。部屋の扉はどうなんだ? ロデルカ君が外に出ている間に家探しをされたとして、鍵はきちんと掛けていたのかどうか…」

「あ、それはきちんと掛けています。忘れてはいません。ここに入れるのは掃除をしてくれる用務員と、寮長とナルアーと僕だけです。ナルアーは班長なので、魔力ではなく、鍵で入れます」

「ナルアー先生だとそうなるなあ。家探しをされる理由が何かしらあるのか?」

「はい。歴史の期末試験の問題用紙です。それを、渡してくださいと言われた事があって、事あるごとに、その事に触れるようになりました」

「それは四学年の物か?」

「そうです」

「四学年かあ。俺が見ているのは一学年と六学年だけだったから、全て確認すべきだったか……」

 ルニリナには話が全く見えて来ず、黙って聞き入っていた。颯はニーティを見ると苦笑する。

「詳細は後で話すよ」

「解りました」

 颯を見て笑顔で返事をしたルニリナは、直ぐに真顔になり、バハールに視線を戻した。バハールは俯いている。

「それじゃあ、先ずは誰が開錠したのかを見てみるか」

 バハールは思わず眉を顰め、顔を上げた。

「そ、そんな事が出来るのですか?」

「出来るぞ。人は生命力があるだろう? 空間がそれを記憶しているんだよ。それを思い出させて記憶を見せて貰うんだけど、新しければ身に着けている物も鮮明に見せて貰えるんだ」

「その言い方だと、若しかして、古いと裸なのですか?」

 颯は怪訝な表情をしているルニリナを見ると悪戯っぽく笑う。

「そう。裸だし、透過していて見辛いんだよなあ。でも普通の人の人生程度なら服は着ているぞ」

「ええ? それでは誰の物を見たのですか?」

「言わずもがなだな。とある屋敷で練習がてらについ遣ってしまって……」

「成程ね」

 そう言うとルニリナが含み笑いをした。颯は立ち上がった。

「それで、俺がこの魔術を使える事は国家機密だから、見るんなら契約書に署名と血判を遣って貰わなければならないけど、構わないよな?」

「こっ、国家機密?」

 バハールが顔を顰めた。ルニリナも驚愕している。

「そのような凄い魔術なのですか?」

「以前、これを使って犯罪者を追い詰めたんだけど、その時に俺がそうして貰ったんだよ。知れ渡ったらお貴族様やお偉い様共が面白半分で遣らせようとするだろうし、この魔術を利用しようとする奴が増えるだろうからな」

「見たのに署名をしない場合はどうなるのですか?」

 ルニリナは率直に気になる事を訊いた。颯はルニリナを見る。

「先に契約を結ぶ事が筋だけど、事後の場合に契約しなかったら取り敢えずは記憶の消去を…」

「えっ、記憶を消去って、そんな事が出来るんですか?」

 今度はバハールが訊いた。颯はバハールに顔を向けた。

「出来るぞ。俺が遣る訳じゃないけどな」

「それは凄いですね。所で、けっぱんはどのような物ですか?」

「親指を切って血を出して貰い、そのまま紙に押し当てて貰うんだよ」

「ありがとうございます。分かりました。しょ名もけっぱんも当然しますが、僕の兄上もしょ名をしているのでしょうか?」

「知っている者同士が話をする事も禁止をしているから言えないなあ。ついでだから言っておくけど、口外した場合はそれを聞いた相手も含め、全財産を没収、尚且つ生涯農奴となって、それで得た収入を全て賠償金として支払う事になっているんだよ。因みに口外した場合は直ぐに露見する仕様になっているからな」

 そう言うと不敵に微笑んだ。バハールは顔を顰めたまま、動かなかった。

「興味本位で知りたがった阿呆が多かったのか、無関係な文官のお偉方の契約書が多かったんだよなあ。その内の十数名はもう職を解かれ、農奴になって俺に賠償金を払っているし、聞いた奴も農奴になっているな。当然記憶も消去されているからな」

「ええ、それでは颯は相当なお金持ちになっているのではないのですか?」

「施薬院を創設したから、契約違反で得た金は全部そっちに流れてるんだよ」

「成程。その方々はどちらの農園で働いていらっしゃるのですか?」

 ルニリナが目を輝かせながら訊いた。颯は苦笑しながら答える。

「アメイルグ郡の北方にある農園だよ。寒さが厳しくて夏が短いけど稼げるからな。まあ、契約内容は俺の魔術の事を口外しなければ問題はないからな。…さて、話が逸脱したから戻すけど、この話を聞いても今から遣る事を見る?」

「見ます」

「私も見ますよ。きちんと契約書に署名をしますからね」

 バハールは真顔で、ルニリナは穏やかな表情で答えた。

「因みにこの時点で、やはり止めます、となったら、この魔術に関して話した事全てを記憶から消去されるんだよ」

 そう言いながら右手に契約書、左手に万年筆を二本が顕現した。

「その消去をなさる方はどなたですか?」

「教えられない、としか言えないけど想像した人物でもないぞ」

 そう言って二人に契約書と万年筆を渡した。颯はバハールを見ている。

「きちんと読んで、本当に署名をするかどうかを決めて貰える? ロデルカ君は分からない所があったら遠慮なく訊いて」

「はい、ありがとうございます」

 バハールが笑顔になると、颯は頷いた。

「どう致しまして」

 そしてルニリナに視線を遣ると、既に契約書を読み始めていたルニリナは小さく頷いている。契約書を宙に固定すると万年筆で署名をし、小刀を顕現して右手の親指の腹に切り傷を入れる。血が出て来た所で契約書に押印した。

「はい、出来ました」

「有難う」

 ルニリナが微笑みながら契約書と万年筆を颯に渡してしまうと、バハールに視線を移した。

「ロデルカ君は大丈夫ですか? 意味は解りますか?」

「今の所、大丈夫です。ありがとうございます」

 バハールが笑顔でルニリナを見ると直ぐに視線を戻した。ルニリナは颯を見る。

「もしかしてですが、閣下やアメイルグ先生も署名をなさってお出でなのですか?」

「そうだよ。閣下が言い出して出来た契約書だからな」

「そうなのですか。ここはやはり閣下と言うべきでしょうか」

「ニーティは本当に閣下を褒めるよなあ」

「ふふ。幼い頃より憧れていましたからね」

 二人が話している間に席を立ち、机で契約書に署名をするとルニリナの傍に来た。

「ルニリナ先生、すみませんがその小刀をお貸し頂けませんか?」

「はい、どうぞ」

 刃を持って柄の方をバハールに差し出した。それを受け取り、軽く辞儀をする。

「ありがとうございます」

「どう致しまして」

 少し躊躇した後、親指の腹に傷を入れると血が滲んだ。それを契約書に押印すると、傍に来ていた颯が小刀を持った。

「それじゃあその傷を治そう」

 バハールはそう言った颯を一瞥して、左手の親指の腹を見た。広がった血に、傷口からまだ血が出ている様子が見えた。次の瞬間、その傷が消えて血も綺麗に消えてしまった。

「あっ……、ありがとうございます」

「どう致しまして」

 颯は小刀も消してしまい、契約書を手にした。二枚の血が乾くと重ねて折り、上着の内側にある衣嚢に入れた。

「二人共、有難うな。それじゃあ遣ろうか」

「お願いします」

 真剣な面持ちのバハールとは打って変わって、ルニリナは目を輝かせていた。颯は椅子を消すと扉の前へ行き、扉を開放した。二人はその颯の傍に来ていた。颯はそれを見て苦笑する。

「済まないんだけど、椅子に座っていて貰えないか? 出来れば窓側の壁の方に椅子を持って行って座って貰えると助かる」

「解りました」

 ルニリナが即座に行動に移すと、バハールも急いで移動した。

「それじゃあ始めるから、黙って見ていて貰える?」

 目を輝かせているルニリナは無言で何度も頷いた。バハールは一度頷いただけだった。

 扉に手を掛けているらしきバハールの姿が現れた。それが直ぐに消え、次にまたバハールが姿を現して消え、バハール、バハール、バハールと続いて、漸く別人が現れた。やはりナルアーだった。手には鍵を持っていて鍵を掛けている様子だった。

 その姿が消え、またナルアーの姿が見えると、今度はそのまま開扉して中へ入る様子まで続き、更には真っ直ぐ勉強机に向かい、それの抽斗が両脇にあって、先ず左側から開けては中を改めている。次は隣の本棚の本を調べ始め、調べ終えると右手を口に持って行き、暫く動かなくなった。動き始めたと思ったら今度は真っ直ぐ衣装棚に向かい、施錠されている事を確認し、直ぐに寝台へ向かう。そして、寝台と寝具の間に手を突っ込み出した。次は枕を持ち上げて、枕のあった場所に手を当てている。それが終わると掛布団を捲り上げて、同様の事をした。それで終わるのかと思えば、今度は一部に敷かれている小さ目の絨毯を捲り上げ始めた。それが終わるとまた衣装棚に行き、何度か開けようと扉を引いていたが、諦めたのか、漸く部屋から出て行くと扉に施錠した所で姿が消えた。

「成程」

 そう言った颯は扉を閉める。

「確かに家探しをしていたなあ……」

 颯が二人の下へ行く。

「あの様子では諦めたとは思えませんね」

「そうだな。衣装棚の中も見たいようだったからなあ。……ロデルカ君は、帰省する時もナルアー先生と一緒なのか?」

「そうです。でも護衛も一緒なので、僕に何かをしてくるとは思えませんが……」

「うーん、念の為に別々で帰れるようにしておくよ。それはさて置き、歴史の試験問題は持っているのか?」

「持っています。兄上に見せようと思って衣装棚の中にあるカバンに入れています」

「そうなんだな。それじゃあ一応俺が預かろうか」

「はい」

 バハールは衣装棚の鍵を開錠して、開扉すると鞄を取り出した。その中に入っている茶封筒を持ち、鞄を下に置いて颯の傍に行く。

「この中には、期末試験で間違えた答えをナルアーの言う、正しい答えにして百回ずつ書かされた帳面も入っています」

「見てもいいか?」

 受け取った颯が訊くと、バハールは頷いた。

「はい」

 その返事を聞いて茶封筒の中に手を入れ、中身を少しだけ出した。そして帳面ではなく、試験問題と思しき用紙を取り出して広げて内容を確認した。そして苦笑する。

「本当にチルチオ教はどう仕様もないなあ……」

 そう言うとルニリナに渡した。ルニリナも内容を見ている内に渋い表情になる。

「これは酷いですね。チルチオ教が素晴らしいとでも思い込ませたいのでしょうか。「星暦五年、不景気が十年続いた事を受け、それを打破する為に動いた集団はどこでしょう」などという問題、このような事実がないのですから答えられる訳がありませんね。これを四学年全体で出題したという事実が、本当に恐ろしい……」

「国教にすべく教徒を確保して育成をしたいんだろうけど、こんな事をしている教団が国教になれる訳がないのになあ……」

 ルニリナが差し出した問題用紙を颯は受け取り、茶封筒に入れた。

「取り敢えずこれは俺が持っておくけど、ロデルカ君が王宮へ到着した時に渡す、という事でいいか?」

「はい。宜しくお願いします」

「ロデルカ君は終業式後に帰るんだったよな?」

「そうです。ナルアーも一緒ですが、護衛が十六時到着なのでその後になると思います」

「解った。二十五日な」

 颯はルニリナを見ると、ルニリナが立ち上がって椅子を消した。そして二人はバハールを見る。

「それでは私達はこれで失礼しますね」

「またナルアーに何かを言われたり、遣られたりしたら直ぐに報告に来て貰えるか? 明日は二十時前に少しだけ出掛けるけど、それ以外はいるようにするから」

「分かりました。宜しくお願いします」

 颯は頷くと先に扉の方へ歩き出した。ルニリナもバハールもそれに付いて行く。颯が開扉して部屋を出ると、ルニリナも続いた。

「じゃあな」

「お休みなさい」

「ありがとうございました」

 バハールが辞儀をして頭を上げるのを見届けた颯は閉扉した。二人はどちらともなく階段に向かって歩き出した。

「私の部屋に来ますか?」

「そうだな。そうするわ」

 二人は階段を三階へ上って行った。


 翌日、バハールは何事もなかったのか、颯の下に来なかった。そのお陰で、安心して玲太郎を迎えに行けた颯は、水伯がいる二階の執務室にいた。

「…という訳なんだよ」

「本当にチルチオ教は仕様もないね……。ウィシュヘンド州から追い出して久しいけれど、未だにそういう事をしているのだね……」

「チルナイチオってそんなに偉い人だったのか? 俺の習った限りでは、祭り上げられた印象しかないんだけどなあ」

「チルチオ教は、チルナイチオは約三百歳生きた精霊に最も近しい存在である事から、大精霊として崇めている宗教だからね。……なのだけれど、実際は六じっ歳を少し過ぎた所で亡くなっているのだよ。これは墓に記されている事実なのだけれど、チルチオ教はそれを認めない新興宗教で、それが数千年も経て立派な宗教として認められてしまって、今に至るのだよね。私が徹底的に潰しておくべきだったよ。崇拝派だけならと思っていたけれど、年月を経て元に戻ってしまっているものね。それにしても学究派が歴史を改ざんして広めているなどとは、思いも寄らなかったのだけれどね」

「王弟殿下の為にナルアーが教科書の選別に参加するから監視してくれって言われた時は、どういう事かと思っていたんだけど、教科書作りの会社を指定して来て、その試作本を読んで驚いたもんだよ。それで今の会社を探し出して来たと言うのになあ」

「ナルアー次席宰相を今の地位から引き摺り下ろして、息子を王弟に近付けないようにしなくてはならないね。それから中央に潜り込んでいるチルチオ教徒も排除しないとね」

「うーん、遣る事が沢山あって大変だなあ……」

「一つずつ確実に片付けて行こう」

「うん」

 颯は湯呑みを持つと茶を啜った。

「うん、緑茶が美味しい」

 それを聞いた水伯はいつものように微笑んだ。

「それで関り合いたくない王族の一員を、終業式後に王宮まで送るのだよね?」

「その積り。俺が動いた方が確実だし、何より手っ取り早いからな」

「長期休暇中に陛下に呼び出されているけれど、ナルアーの代わりになるように言われたらどうする積りなの?」

「そんなの断るに決まっている。教師として関わる以外は本当にお断り。その手の話じゃない事を祈るわ」

 自分の言った事に頷くと、また茶を啜った。

「陛下の私的執務室へ行くから大いに有り得る話だと思うけれどね」

 颯は露骨に不快気な表情をして首を横に振った。水伯は思わず鼻で笑った。

「それにつけても、颯がニーティとあのように親密になるとはね。馬が合ったのかい?」

「なんだろうな? 俺も不思議に思うわ」

「ふふ。友達なんていらないというような事を言っていたのにね」

 そう言われて颯は苦笑していたが、ふと表情を和らげた。

「悠ちゃんに似ているんだよな。雰囲気とか眼差しとか、そういう物がふとした時に、本当に似ているんだよな」

「そう? ……と言っても、私は悠次やニーティと頻繁に会っていた訳ではないから、比べようもないのだけれどね」

「話すと全然違うんだけどな。まあ、それでも楽しいよ」

「そうなのだね。それは良かった。颯は私以外にも友人を得たけれど、明良は全くだね。どうにかならない物か……」

「そう言う水伯は友達はいるのか? 俺以外に」

「いない」

 即答すると柔和に微笑んだ。颯は苦笑する。

「人の事は言えないじゃないか」

「私は颯がいるからね。明良に取って颯は兄弟だから、明良にも友人を作って欲しいのだけれどね」

「兄貴とは友達じゃないのか?」

「明良は私の事を頼れる大人だと思っているからね。それは今も変わっていないのだと思うよ。それに私に、友達になると面と向かって言う子も今までいなかったからね、颯以外は」

「あれ、そうなんだ。俺だけだったのか」

「そうだね。颯は条件付きだったけれど、それでも言ってくれた事には違いないからね」

「ああ、あれなあ。今思うと、なんであんな事が言えたのだろうか。自分が不可解で仕方がないわ」

「ふふふ。よいではないの。こうして友人になれたのだからね」

「うーん、子供の頃と変わらず、遣って貰ってばかりのような気がするけどなあ……」

 そう言って苦笑しながら頭を掻いた。

「そうでもないのだけれどね。それにつけても、最近は剣の訓練はどうなの? イノウエ家の騎士団で相変わらず遣っているのかい?」

「うん、遣っているよ。週に一度、それも五時間くらい休憩なしで遣っているなあ。魔術なしで延々と剣を振って、相手は一人二十分として五人交代で遣って貰っているよ。覚醒してから疲労という物を感じなくなってしまったから、五時間では物足りないんだけどな」

「それを家でも遣らない? お金を払うから」

 俄の発言に颯は目を丸くした。

「えっ、まさかサドラミュオ親衛隊で?」

「いや、其方そちらではなく、ウィシュヘンド騎士団の方。人数が多いだけあって、手を抜く子が交じっているのだよね。場合に依っては死ぬおそれがあるから、それなりに給金を払っているのに訓練で手を抜かれてはね。そういう子達を叩きのめして欲しいのだけれど」

「成程。でも長期休暇は無休で働かされるから、兄貴と交渉して貰えない? 俺の一存で決められなくて悪いんだけど……。それか、兄貴に頼むか」

「明良には颯をお勧めされたのだけれどね」

「ふうん、それじゃあ兄貴としてはいいんだろうな。……それなら、一ヶ月くらい掛けて毎日五時間は不心得者の相手になるよ」

「それとガンガオネに勝てるようになってから、親衛隊にも顔を出していないだろう? 皆が寂しがっていたよ。特にガンガオネが勝ち逃げは許さないと言っていたよ」

「うーん、久し振りにガンガオネ隊長と会ったから、手合わせをお願いしたら相手してくれて、偶々たまたま勝ってしまっただけなんだけどなあ。まあ、俺も顔を出しに行きたいんだけど時間が単純に足りないんだよな。兄貴の部下として遣らないといけない事が山積していて、後さん人、俺がいて欲しいくらいだよ」

「颯は優秀だからね、私の手伝いも遣って貰いたいのだけれどね」

「そういうのを過大評価って言うんだろうなあ」

「こういう場合は、有難うと言うべきだと思うのだけれどね」

「いやいや、煽てられた後が怖いからな」

 水伯が柔和に微笑んだ。

「ふふ。下心などないのに。それにつけても、訓練の報酬なのだけれど、一日五時間遣って貰えるなら、一日五万こんね」

「え、そんなに貰えるんだ? 多くない?」

「丁度十人いて、一人一日五千金を給料から特別訓練費として天引きするから平気」

 満面の笑みを浮かべて言うと、颯は苦笑した。

「十人かあ。それじゃあ一人じっ分を五度になるな。空いている時間は走るなり、腕立て伏せなりをして貰って……、と、こうなると只のしごきになりそうだけど、まあ、それでもいいか」

「うん、それで辞めてしまえばそれまでだから、扱いてくれても一向に構わない。ウィシュヘンドは基本的に平和だけれど、ぬるい覚悟で騎士団に居続けられても、いざという時に困るからね」

「確かに有事の時に死なれたら困るもんなあ。一層の事、さっさと辞めて貰う方がいいな。よし、厳しくするか」

 決心すると大きく頷いた。水伯もそれを見て頷き、掛け時計に目を遣る。

「そろそろ玲太郎を連れて寮に戻る時間だね」

「あ、もうそんな時間か。それじゃあ兄貴から玲太郎を奪って寮に帰るか」

 冷え切った茶を飲み干すと、湯呑みを静かに置いた。

「ご馳走様。次は十五月の一日に来るわ。って言うか、一日から此処で夕食だから」

 そう言いながら立ち上がり、椅子を机に入れた。

「解ったよ。その事は自分で八千代さんにも伝えておいて。お弁当を貰いに行くのだろう?」

「うん、行くからそうするよ。扱きも十五月の一日からにしておいて貰える?」

「解った、そう伝えよう。時間は何時からがよいの?」

「夕食の後にしておいて。……ああ、二十時半からがいいな」

「解った。訓練に出る子達の夕食は二十五時半過ぎにして貰うよ」

「うん、それじゃあ宜しく。またな」

「またね」

 柔和に微笑むと、颯は軽く挙手をして退室した。そして、玲太郎を迎えに歩いて居室へ向かった。しかし、その前に勉強部屋兼図書室に寄り、熟睡しているヌトと勉強机に置かれていた鞄を持って行く事を忘れなかった。居室の開扉すると、長椅子に座っている玲太郎が振り返り、満面の笑顔を湛えた。

「はーちゃん!」

 明良も振り返って、近寄って来る颯を見た。玲太郎はそんな明良を見る。

「あーちゃん、はーちゃんが来たから寮に戻るね」

「え? もう? まだよいのではないの?」

「連れて帰るぞ」

 明良はそう言った颯を咄嗟に睨み付けた。玲太郎は立ち上がって颯の下へ行く。そんな玲太郎に、明良が手を伸ばして引き留めようとしたが届かなかった。二人が手を繋ぎ、玲太郎はヌトを受け取ると明良を見る。

「それじゃあな」

「あーちゃん、また明日ね」

「また明日ね。お休み」

「おやすみ」

 玲太郎は笑顔で手を振ると、二人の姿が消えた。と思ったらまた現れたが、厨房の前に颯だけだった。厨房の中に入って行くと、既に弁当の用意が出来ていた。

「ばあちゃん、久し振り」

 調理中の八千代が振り返る。

「いらっしゃい。お弁当なら出来てるよ」

 そう言って正面を向いて炒め物を交ぜた。颯は弁当の入っている袋を手にする。

「有難う。貰って行くよ。それと、十五月の一日から夕食は此処で摂るから宜しく頼むよ」

 八千代は火を少し小さくすると、また振り返った。

「そうなんだね、分かったよ。最近はどうなの? 忙しいの? 冬休みはどうするつもり?」

 矢継ぎ早に質問が飛んで来て、颯は苦笑した。

「まあ、ぼちぼち忙しいよ。冬休みは兄貴の下で働く事になっていて、それから水伯に騎士団の下っ端を扱く仕事を貰ったから、それで更に忙しくなったな。まあ、なるべく夕食を頂きに来るよ」

「うん、分かった。体に気を付けてね」

「有難う。それじゃあな」

「またね」

 二人は笑顔で見合っている内に颯が消えた。八千代は正面を向いて腰を屈めると、火を元に戻して炒め物を交ぜた。


 玲太郎は帰って来て茶を淹れようとしている所で、湯を沸かす前に颯が弁当を持って帰って来た。

「あれ、早かったね」

「弁当を貰うだけだったからな」

 弁当の入った布袋を調理台に置く。

「まだ湯が沸かさないのか?」

「だってはーちゃんがいなかったからね」

「それじゃあ仕方がないな。火を点けていいぞ」

「うん」

 玲太郎は用意していた鉄瓶の方の摘みを捻って火を点けた。

「どうしてお弁当を忘れちゃったの?」

 調理台へ戻りながら訊くと、颯は笑った。

「玲太郎を見たら、頭が玲太郎で一杯になって綺麗さっぱりと忘れてしまったんだよな」

「変なの」

 そう口で言いながらも嬉しかったのか、顔を紅潮させていた。颯はそれを見て何も言わずに苦笑していた。

「まあ、そういう時もあるよ。それはさて置き、兄貴と魔術の練習を遣ったんだろう? どの練習を遣ったんだ?」

「えっとね、障壁とね、自由に飛び回れるように練習を遣ったんだけど、障壁は略式呪文でも出来るようになったのよ」

「ふうん、それで飛び回る方はどうなったんだ?」

「あーちゃんにやってもらっただけで、僕は飛んでないのよ。感覚をつかむ為に障壁なしで飛んでたからね」

「飛び回るよりも、曲がれる練習をした方がいいんじゃないのか?」

「あーちゃんは、曲線を描くようにって言ったから、直角に曲がるのはまだ先になると思う……」

「そうなんだな。それにしても障壁が出来るようになったんなら、速度も上げ捲れるじゃないか」

「それはまだまだ先なのよ。障壁もね、球体なのよ。それも半径いちモルから縮まらないの」

「へえ、半径一モルもあるのか。んー、でもそんなもんか。いや、球体じゃなかった時もあったからなあ……」

「何を一人でブツブツ言ってるの?」

「うん? 少し考え事をしていたんだよ。悪い」

 暫く雑談をしていると、颯は耳に入る異音で焜炉こんろの方に顔を向けた。

「沸いているぞ」

「あ、本当だね」

 乾いた布巾を持ち、焜炉の方へ行くと火を止めて鉄瓶のつるに布巾を巻いて持ち上げた。

「すっかり手慣れたなあ。でも油断するなよ?」

「大丈夫。きちんと気を付けてるから」

 踏み台に上って茶葉の入った茶器に湯を注ぎ、鉄瓶を鍋敷きに置いて茶器に蓋をした。颯はそれを見て砂時計を引っ繰り返す。

「今日は牛乳を入れないの?」

「うん、入れない。もう直ぐ休暇でいなくなるだろう? だから買って来ていないんだよ」

「なるほど」

「此処で夕食を作るのも明日で一旦終わりだからな。だから明日は有る物で簡単な物を作る。余った米は水伯邸に持って行く積りだよ」

「そうだね。二ヶ月も留守にするもんね」

「ルーとツーを入れる容器も用意してあるからな。忘れずに持って帰るんだぞ?」

「それは大丈夫。きちんと覚えてたのよ」

 玲太郎は砂時計を一瞥した。

「それにしても、どうして明日も授業があるの? 明後日には終業式なんだから、授業はなくても良くない?」

「寸前まで授業があってもいいじゃないか。あー、明日で最後かあ。休暇中の課題も渡さなきゃいけないな」

「えっ、魔術にも課題があるの?」

「当然だよ。感覚を忘れない為にな」

「冬休みの間に付与術の練習に励みたかったんだけど、意外と時間がなさそうだね」

「課題は早々に片付けて時間を作ればいいじゃないか」

「魔術の課題はなんなの?」

「五モル(約三十三じゃく)の高さまで飛ぶ事」

「ええっ!? そんなの出来る訳がないのよ!」

 玲太郎は愕然として首を横に振った。

「あんなに高く飛んだ事があるのに、出来ない訳がないだろう? まあ、出来なくてもいいんだよ。出来るように努力する事が大切なんだからな」

「……なるほど」

 颯は莞爾として玲太郎を見詰めた。

「まあ、玲太郎は別の事で時間を取られて、遣る事もないだろうけどな」

「えっ、やるのよ」

「もう高く飛べる事は知っているから、遣らなくていいぞ。玲太郎は小型の水晶を魔石にする練習を遣った方が有意義だろうからな」

「そう?」

「うん。微細な魔力操作を習得した方がいいと思う。そうすれば障壁が薄皮一枚程度になるんじゃないかと思う。まあ、球体でも問題はないだろうけど、中に入れなくなるのがな……」

「あ、そうなのよ。あーちゃんが傍にいる時に障壁を作ったんだけど、あーちゃんが外に出たら、入れなくなったのよ。あれはどうしてなんだろうね?」

「さあ? 俺も知りたい。どうしてなんだ?」

「僕にも分からないのよ」

 颯は鼻で笑うと砂時計に視線を遣った。玲太郎も颯の視線の先に追った。

「もうすぐ落ち切るね」

「そうだな」

 颯が頷くと、ふと何かを思い出して表情が変わった。

「そうだった、忘れてたわ。風呂には一緒に入れなくなるからな」

「うん? いつから?」

「十五月の一日から。騎士団の訓練を頼まれて、夕食後から行く事になったんだよ」

「ああ、屋敷だから平気なのよ。一人で入れるもん」

「俺が入らないから、兄貴が入るようになるかもな?」

「えっ、それは嫌……。あーちゃんだと頭も体も全部洗ってくれるのよ。それが本当に嫌なんだけど……」

「一人で入れるといいな」

他人ひと事だと思って……」

「よし、砂が落ち切ったぞ」

「うん。それじゃあ入れるね」

 茶器の持ち手を持つと、茶漉しを片手に大き目の湯呑みに注ぎ始めた。

「それじゃあ訓練が終わるまで、入らないで待っていて貰えるか? それなら二十五時半を少し過ぎた頃に行くけど」

 玲太郎は注ぐのを止めて颯を見た。

「そう? それじゃあ待ってるのよ」

 笑顔でそう言うと、また茶を注ぎ始めた。颯は穏やかな表情で見守っている。

「きちんと昼寝をして、起きていられるようにするからね」

 嬉しそうに言いながら茶を注ぎ切り、茶器を置くと颯に笑顔を見せた。

㈷ 執筆開始一周年

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