表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠長に行こう  作者: 丹午心月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/41

第十八話 しかして血は争えず

 玲太郎がルツを飼い出して一ヶ月と少しが経過した。ズヤが言うには「精霊は基本的に魔力を食す」そうで、入浴している時、玲太郎の肌に口吻こうふんを付けているのは魔力を吸う為だったのだ。その食事のお陰か、二体共が春の空のような水色から、冬の澄み切った空のような青に変色していた。

 今日も夕食後に寮長室へ来たルニリナが、それを見に颯と隣室の浴室へ行っていた。ノユとズヤは未だにルニリナと一緒にいて、颯の寝台で眠りこけているヌトの所にいるのか、隣室へは来ていなかった。玲太郎は一人で台所で茶の用意をしていた。湯が沸き、茶器に湯を注いだ頃に二人が戻って来た。

「あの二体、ニーティを見るとぐるぐると泳ぎ回るよな。あれは一体何を表しているんだろうか?」

「それは私にも判りませんよ。ふふ。それにしても、いつ見ても可愛いですよね」

 仲の良さそうな二人を一瞥すると、玲太郎は鉄瓶を鍋敷きに置き、つるを包んでいた手拭いをその近くに置いた。そして砂時計を引っ繰り返す。

「玲太郎、有難うな」

「どういたしまして。牛乳はどうする? 入れる?」

「ああ、俺は入れる。ニーティはどうする?」

「私も入れて欲しいです」

「それじゃあ僕が温めるね」

「いや、俺が遣るよ。茶葉をもう少しだけ足しておいて。玲太郎も牛乳はいるのか?」

「うん。僕もいる」

 颯が下の棚から小鍋を出してくると、冷蔵庫の中にある、牛乳の入った瓶を持って来た。調理台を一瞥すると、そこには黒、灰茶色、若竹色の湯呑みが出ていた。ルニリナは必ず灰茶色の湯呑みを選んでいて、黒が颯、若竹色が玲太郎なのだが、それを選んだのは玲太郎だった。

 玲太郎は牛乳が温まるより先に落ち切ってしまった砂時計を引っ繰り返し、颯の後ろ姿を見ていた。ルニリナは並べられた湯呑みの位置を見て含み笑いをすると、颯に視線を遣った。

「私はする事がないので、食卓の方にいますね」

 颯が振り返ると、笑顔になる。

「済まないな。もうしばらく待っていて」

「はい」

 微笑んで返事をすると食卓の方に向かって静かに歩いて行った。すると食卓には茶請けが既に用意されていて、もう座る席を決められていた。玲太郎の席の前とその隣、そして玲太郎の正面に置かれていて、ルニリナは玲太郎の正面に座るしかなかった。玲太郎を見ながら頬を緩めると、席に着いた。

 颯は牛乳が温まると、直接湯呑みに注いだ。

「それじゃあ僕が紅茶を注ぐよ?」

「おう、頼む」

 茶器の持ち手を持ち、茶漉しを左手に持って、湯呑みの上に持って行くと茶を注ぐ。

「結構余ってるみたい」

「後で俺が牛乳を足して飲むから、そのまま置いておいて」

「分かった」

 茶器を置くと、玲太郎は自分の分だけに蜂蜜を入れる。そして置いてあった盆に湯呑みを載せた。颯がそれを運び、玲太郎は後ろを付いて行く。

「お待たせ」

 先ずはルニリナに湯飲みを置くと、玲太郎の所にも置き、そのままルニリナの後ろを回ってから自分の席へ行って湯飲みを置くと、ルニリナの隣に盆を置いた。玲太郎が着席し、颯も着席する。

「玲太郎は先程晩御飯を食べたばかりなのに、食べられるのか?」

「大丈夫。入るのよ。いただきまーす」

 そう言って合掌していた手で直ぐに突き匙を持った。

「いただきます」

 ルニリナも合掌して言うと、颯も合掌した。

「頂きます」

 颯の掌程ある円柱の形をしていて高さが約三ずんある。軟らかい生地に突き匙を横にして下まで切り、もう一度同じ事をして切り離し、それを刺して口に運ぶ。

「牛酪の風味があって、ほんのり甘くて、爽やかな香りもするし、美味しいね」

 先に頬張っていた玲太郎が言うと、ルニリナも笑顔になって頷く。

「そうですね。生地もとても軟らかいです」

「これはうちの調理人に作って貰ったんだよ。玲太郎がソキノが好きだから、兄貴が作って貰っているんだよ」

「ふふ。ウィシュヘンド君はアメイルグ先生に愛されていますね」

 玲太郎はルニリナを見ると微笑み、二口目を頬張った。ルニリナも二口目を頬張って徐に咀嚼した。颯は早くも三口目を食べていた。そして茶を二口飲む。

「ヤニルゴルで売っている牛乳は濃くて美味しいなあ」

「ですが、乳と言えばやはり…」

「山羊だよな」

 二人は顔を見合わせて笑顔になると、それを見ていた玲太郎は無表情で咀嚼をした。

「所で、ウィシュヘンド君は占う気になりませんか?」

「うーん、だって一度切りなんでしょ? なんだか勿体なくて……」

「颯を占った時に思ったのですが、私であれば何度となく出来ますよ。ただ、百年置きになりますけどね」

「そうなんですか?」

「そうです。閣下と颯を占った時に思ったのですが出来そうです。ですが、百年後にしてみなければ、本当に出来るかどうかは判りません」

 そう言うと申し訳なさそうに微笑んだ。

「なんだぁ……。それじゃあ、ここぞって言う時にお願いしたいから今はよいね」

「玲太郎、知ってるか。ニーティに占って貰うと一千万こんを支払わないといけないんだぞ」

 玲太郎は颯の方を向いて、目を丸くした。

「ええっ、それって高過ぎない?」

「それだけの価値があるという事だよ」

「身分で高くしますけどね。閣下だと一億になります。ですが、私達にしてみれば閣下は恩人ですので無料でよいのですが、閣下が払って下さるので……」

「父上って、お金持ちなんだね」

 そう呟くと颯の方を見る。

「はーちゃんはお金を払ったの?」

「俺は払っていない」

「私も閣下に何かが、特に悪い事が起こる事は望んでいません。それが起こるのであれば、それがいつなのかは知っておきたいですので、金銭は要求しませんよ」

 玲太郎に笑顔を向けた。

「俺もタンモティッテのお陰で懐は暖かいから今なら払えるんだけどな」

黒淡こくたん石でじっ回分を支払って貰っているも同然ですので、構わないですよ」

 そう言うと茶で喉を潤し、軽く何度か頷いた。

「ふうん。あれでいいなら幾らでも出すけどな」

「あれはそう簡単に作ってはいけないと思いますよ。それ程に画期的な物ですのでね。直径いちジル(六分六厘)の楕円体で、平らな石ころにしか見えないのに、十分も映像を記録出来てしまうのですのでね」

「入学早々の生徒に見せたけど、反応は今一だったんだよなあ」

 その言に思わず目を丸くした。

「えっ!? あれを見せたのですか?」

「見せた、映像の方をな。組ごとの撮影会の時に、理事長達に挨拶をしなかった子がいるのかを見ていたついでに記録していたんだけど、思い掛けず嘘を吐いた子がいて見せる破目になったんだよ」

「あれはね、そういう物があるんだって受け入れてただけだと思うよ。僕もそう思ったもん」

 玲太郎は手で口を覆って言うと、咀嚼を再開した。

「ふうん。そんな風に思っていたのか」

「うん」

 大きく頷くと、飲み込む前に焼き菓子をまた頬張った。

「感動しても良さそう所なのに……」

 ルニリナが残念そうに言って焼き菓子を切っている。颯は突き匙を皿に置き、湯呑みの持ち手を握っていた。

「まあ、挨拶をしていたかどうかが映像で流れていたから、見入っていて、それどころじゃなかったのかも知れないな」

 そう言って苦笑すると茶を飲んだ。

「そのような事をしていたのですか。是非とも拝見してみたい物ですが……」

 そう言って視線を颯に送ると、颯はそれに気付いて立ち上がった。

「解ったよ」

 颯は寮長室へ向かって行き、直ぐに戻って来て着席すると右手を開いた。掌に黒淡石があり、それを台所の方へ飛ばすと二人はその石を目で追った。ある程度離れた所で止まり、にわかに室内が暗くなる。

 約三ヶ月と二週間前の映像が流れ始める。玲太郎は一度見ていたが、改めて見ると知った顔が次々と出て来きて面白く思えた。ルニリナも興味津々の様子で見ている。最後まで見終わり、部屋が明るくなる。

「こうして見てみると、いなくなった生徒達の顔が思い出せますね」

 ルニリナが颯を見ながら言った。黒淡石は颯の手元に戻って来た。

「俺は見ないんだよ。これももう終わった事だけど、なんとなく持っているだけだからなあ」

「折角記録をしたのに、見返していなかったのですか」

「うん。必要がないからな」

「颯らしいですね」

 そう言って笑った。玲太郎は、ルニリナを見て微笑んでいる颯に視線を遣った。

「いらないなら僕が貰ってもよい?」

「欲しいのか?」

「うん、記念になるから」

「ふうん」

 颯は黒淡石を持つと、その上に黒淡石がもう一個顕現した。それが食卓に落ちると、手に持っていた方を玲太郎に差し出す。

「今、石が落ちたけど何をしたの?」

 玲太郎は受け取ると、それを凝視した。

「複製」

「そんな事、出来るの?」

 顔を上げて颯を見ると、颯は真顔になっていた。

「試しに遣ってみたけど、出来ているだろうか?」

 落ちた方の黒淡石を拾うと、それに魔力を注いだ。先程と同じ映像が流れ始めるのを確認すると、直ぐに消した。

「やはり明るいままだと見辛かったけど、映像は同じのようだな。うん、出来てる。俺は複製を持っておくわ」

 そう言ってズボンの後ろにある衣嚢に入れた。

「ありがとう」

 玲太郎もズボンの脇にある衣嚢に入れて、笑顔で紅茶を飲んだ。ルニリナはそんな二人を見て、微笑みながら焼き菓子を頬張った。


 ルニリナが自室へ帰ってから玲太郎は目に見えて不機嫌になっていた。颯は理由が思い当たらず、機嫌を取る気もなかった為、放置する事にした。玲太郎はそれもまた面白くなく、更に不機嫌になっていた。

(うーん、逆効果だったか……)

 颯は仕方なく読書をしている玲太郎の傍に行くと、屈んで玲太郎を見た。

「玲太郎、どうしたんだ?」

 顔を動かさずに一瞥をくれると、玲太郎が口を尖らせる。

「別に」

「別に、じゃないだろう? どうしてそんなに不機嫌なんだ?」

 玲太郎は顔を颯から背けると本を閉じて机に置いた。

「どうした? 反抗期か?」

 颯は左手で玲太郎の顎を摘んで顔を向けさせた。

「痛い痛い」

 玲太郎は顎を掴んでいる颯の手を離そうとしながらも、颯と目が合うと即座に逸らした。

「うん? いつもの玲太郎と違うなあ。本当にどうしたんだ?」

 そう言って手を離すと、玲太郎は顎をさすった。

「僕だって良く分からないのよ。はーちゃんがルニリナ先生と仲良くしてるのを見てると、イラッとするのよ……」

 颯は失笑すると、そのまま大笑いした。

「笑う所じゃないのよ……」

 玲太郎が呟いた。そして颯の笑いが止まると大きく息を吐いた。

「あー、おかしい。まあ、俺は兄貴みたいに玲太郎一筋じゃないからな。それは仕方がないけど、嫉妬をする程の事でもないだろうに」

 玲太郎は俄に顔を紅潮させて目を丸くした。

「し、嫉妬?」

 素っ頓狂な声を出すと、苦笑している颯を見た。

「僕のこの変な気持ちって、嫉妬だったの?」

「ニーティに俺を取られた感じがして嫌だったんだろう? 違うのか?」

 玲太郎は視線を逸らして言葉を詰まらせた。

「若しかしたら逆か? ニーティと仲良くしている俺に嫉妬したのか? いずれにしてもニーティと俺が話している所を何度も見ているのに、唐突だなあ」

 そう言って立ち上がると、玲太郎の頭を乱雑に撫でた。

何方どちらにしても独占は駄目だぞ?」

「えっ?」

 聞き取れずに思わず顔を上げて颯を見ると、颯が満面の笑みを浮かべていた。そして玲太郎を抱き上げると右手で鼻を摘む。

「さっき、なんて言ったの?」

 玲太郎は颯の手を離そうと両手で抗ったが離れない。

「やはり兄貴の弟だなって」

 颯はそう言って手を離した。

「風呂にでも行くか」

「うん」

 颯は玲太郎を抱いたまま、浴室へ向かう。ヌトは颯の寝台で暢気に眠りこけている。


 翌朝、白い石で玲太郎に起こされたヌトは、飛び起きた割には眠気が飛んでいなかった。大きな欠伸を連発していると、玲太郎が心配そうに顔を覗き込んだ。

「まだ眠いの?」

「……うむ」

「でももうすぐ朝ご飯の時間だから、起きててね」

「解っておるわ……」

 言い終わるや否や、大きな欠伸をした。そして部屋を見回す。

「颯はどうした?」

「ルニリナ先生が迎えに来て、一緒に食堂へ行った」

「そうであったか。颯はすっかり目族の子と仲良くなりおったのであるな」

「うん」

 ヌトはまた大きな欠伸をした。

「欠伸って、精霊も出るんだねぇ」

「欠伸は出ても涙は出ぬがな。……わしは精霊ではないと言うておろうが」

「まあよいよね」

 そう言って作り笑いをすると、ヌトはそれを一瞥した。そしてまた大きな欠伸をした。

「うむ、弟が来たぞ」

「はーい」

 玲太郎は立ち上がると衣こうへ向かった。靴を履き替えて扉の前で待つと、直ぐに扉を叩く音が聞こえる。

「はーい」

 手を掛けていた取っ手を押して開扉する。バハールが見えた途端に口を開く。

「おはよう」

 笑顔になったバハールが頷く。

「おはよう」

 廊下に出て閉扉すると魔力を注いで施錠する。それを見たバハールが先に歩き出した。玲太郎はその後ろを付いて行く。ヌトは玲太郎の肩に手を置いて、大きな欠伸をしていた。食堂は七時三十分という事もあって空いていた。二人は並んで座ると食べ始める。無言で食べ進めていたが、玲太郎の席から颯の後ろ姿が見えた。時折横を向いて楽しそうに話しているのを見ると、どす黒い気持ちが沸々と湧き上がって来るのが解った。

(まただ。また嫉妬してるんだ。……あーちゃんもこんな気持ちになってたのね)

 そう思うと気落ちした。その露骨な態度でヌトは気付いたのだが、何も言う事はなかった。バハールは動きの止まった玲太郎を一瞥すると、今度は顔を向けた。

「ポダギルグ、食欲がなくても食べないと、体が持たないよ?」

「あ、うん。きちんと食べる」

 玲太郎は慌てて焼かれた鶏肉を頬張った。赤い垂れが掛かっていて、甘酸っぱい味付けが玲太郎好みだった。一所懸命に咀嚼している玲太郎を尻目に、バハールも千切った麺ぽうを頬張った。バハールは玲太郎の様子がおかしい事に気付いて、何度も様子を窺った。

「玲太郎、きちんと食べぬとまた弟に言われるぞ」

 ヌトを一瞥した玲太郎は黙々と食べた。

「紅茶を持って来るね」

 先に食べ終えたバハールがそう言って席を立つ。玲太郎は最後に残してあった温野菜を食べていた。

「颯は目族の子と寮長室の隣室にいるようであるな。向こうで茶を飲んでいるのであろうか」

 玲太郎は露骨に顔を曇らせた。ヌトはそれを見て直ぐに目を逸らす。

「ノユとズヤも付いて行っておるようであるな」

「お待たせ。はい、どうぞ」

 茶器を玲太郎の盆の近くに置く。

「ありがとう」

 バハールが着席すると茶に角砂糖を一個入れ、匙で掻き混ぜた。

「今日はポタギルクの様子がおかしいけど、何かあったの?」

「ううん、何もないんだけどね」

「そう? 話せば楽になるかも知れないよ?」

 玲太郎は苦笑してバハールの方に顔を向けた。

「大丈夫。何もないのよ。ありがとう」

 顔の向きを戻し、最後の一口の温野菜を頬張った。

「いつでも話は聞くから、言う気になったら言ってね」

 咀嚼をしながらバハールを見ると目が合った。玲太郎は大きく頷くと、バハールは笑顔を見せた。匙を受け皿に置き、茶器の持ち手を持つと口元に運び、二口飲んだ。茶器を受け皿に置くと、息を吐いた。

「ごちそうさまでした」

 玲太郎も茶器を口に運び、口を付けると徐に傾けた。意外と冷めていて三口飲んだ。

「いつもはもう少し温かいのに、今日のはぬるいね」

「そうだね」

「まあ、飲みやすくてよいけど」

 そう言って微笑むと、また二口飲んだ。

「それにしても、イノウエ先生は前は一人だったのに、最近ルニリナ先生と一緒にいるね。いつの間に仲良くなったの?」

「うん? ……えっとね、仲良くなったのは入学して少ししてからなんだけど、ご飯を一緒に食べるようになったのは一ヶ月くらい前からだね」

「そうなのだね。二人とも魔術を使う科目を受け持っているから、話が合うのだろうか?」

「どうだろう? でも馬が合ってるのは確かだね」

 玲太郎はそう言って笑顔になっていたが、上手く笑えているか、自分では判らなかった。


 今日は海の曜日でいち時限目が魔術の授業となる。三時限目が治癒術、四時限目が薬草術、と続くのだが、玲太郎はどす黒い気持ちを抱えたまま、颯の授業を受ける事となった。それが憂鬱で何度も溜息を吐いていた。

「鬱陶しいな? 何故なにゆえそうも溜息を吐くのよ? 直に弟が迎えに来ると言うに、その覇気のなさはどうにかならぬのか」

「あのね、僕ね、ルニリナ先生に嫉妬してるのよ」

「成程? それでどうした?」

「あーちゃんが父上やはーちゃんに嫉妬してるでしょ? あれと同じなのよ」

「成程」

「こう、胸の辺りがもやもやするのよ。分かる?」

 ヌトは思わず鼻で笑った。

「解らぬ。わしは嫉妬なぞせぬからな。しかし、玲太郎とて弟と仲良くしておるではないか。自分は良くて、颯が誰かと仲良くするのは駄目なのか?」

「それは……、分からない」

「颯が灰色の子や明良と話しておる時は感じぬのか?」

「うん……多分だけど……。まだはっきりしないけど、他の人だけなんだと思う」

「ふむ。ま、颯が目族の子と仲が良くなったとしても、颯に取って玲太郎が可愛い弟である事は違いないのであるがな。それでは不満なのか?」

 机に置いてある背嚢の上に突っ伏す。

「そんなの分からないよぉ……」

「明良の嫉妬は酷い物だが、玲太郎の嫉妬はまだ可愛い方であろうな。単に颯を取られそうで嫌なだけやも知れぬぞ? 明良であれば玲太郎にしか笑顔を見せぬから、玲太郎も安心し切っておるのであろうが、颯は違うものな。目族の子と思いの外仲良くなりおったから、それも気に食わぬ一因なのであろうて。やはり玲太郎は颯の事を思うておる以上に好いておったのであるな」

 そう言われて玲太郎の耳が赤くなったのを見たヌトは微笑んだ。

「弟が来たぞ」

 玲太郎は無言で上体を起こして立ち上がった。椅子を机の中に入れてから背嚢を背負った。靴を履き替えに行き、扉を叩かれる前に廊下に出て施錠してしまうと、玄関広間に出た所でバハールが来るのを待つ。暫くするとバハールが来て、玲太郎を見ると笑顔になった。

「お待たせ」

「それじゃあ行こう」

「うん」

 二人は並んで歩き始めた。玄関を出て、門を出て左に曲がり、少し真っ直ぐ行くと今度は右に曲がって、校舎の裏口へと辿り着く。校舎に入ると右に曲がって教室の後方の扉から入室した。荷物を棚に置き、入学以来変わっていない着席した。すると、直ぐに颯が遣って来て、手には箱を持っていた。黒板に席次が現れ、番号が打たれた。

「お早う。今日は席替えを行う。今いる者から順にくじを引いて行って貰う。出席番号順に此処ここに来るように。先ずはウィシュヘンド君から」

「はい」

 玲太郎が席を立って教壇の演台に向かうと、バハールも立って後ろに付いて行った。後ろも続々と続いている。

(また睨まれているな。あんなに目付きは悪くなかったはずなんだけどなあ……)

 颯がとある生徒の目付きを気にしていた。玲太郎はそんな事を思っているとは露知らず、箱の中に手を入れ、紙切れを一枚出した。折り畳まれていて、それを開く。

「四でした」

 黒板の四の席に玲太郎の名前が現れた。四は窓際の一番後ろだった。実際は後ろにもう一席あったが、退学者がいた為、玲太郎の引いた席が一番後ろとなる。

「黒板を見て、その番号の席に着いて」

「はい」

 玲太郎が退くと、バハールが引く。

「八です」

 颯は思わず鼻で笑ってしまう。

「離れたくないんだなあ」

 そう言うと、バハールが苦笑した。黒板の四の隣の八の席にバハールの名前が現れ、バハールはその席へ向かった。次にイシスが引く。

「二十一です」

「なんか後ろの席が先に埋まって行っているようだなあ」

 颯がそんな事を言っている間に二十一の席にイシスの名前が現れる。その次はクイザだ。

「十六です」

 こうして順調に席が埋まって行った。最後の一人が窓際の一番前に着席した。それから出席を取ってしまうと連絡帳を回収し、生徒は運動場へ向かって行った。

 颯は一旦職員室へ向かい、自分の席に連絡帳を置いてから運動場へ向かったが、今日は曇り空で薄暗かったが、雲の隙間から青空が覗いている。


 一時限目開始の鐘が鳴り、それぞれが練習に励み出した。玲太郎は運動場の端に行き、先に練習を開始した生徒との距離をある程度置いてから動く練習を開始した。蝸牛かたつむりから牛歩程度には上達していて、玲太郎の髪をひと房掴んでいるヌトは引っ張られていた。組で一番速く移動が出来ていたバハールは高く飛ぶ練習をしていて、動く方にはいなかった。

「玲太郎」

「何?」

「颯がああして生徒と話をしておる時は、何とも思わぬのか?」

 そう訊かれて思わず颯の姿を探した。茶色い髪の生徒と話をしているのを見ると、正面を向いた。

「うーん、別に思わない」

「あれを玲太郎とするならば、明良は嫉妬をしておる所ぞ」

「僕はあーちゃんみたいに酷くはないと思うんだけどね」

「ふむ。此処からでは颯の表情が判らぬが、あれが笑顔であったとするならば、どうであるか? 平気であるか?」

「うーん、多分平気だね」

「成程。やはり実際目にしてみない事には判らぬよな」

「そんな事より、僕のこの感情をどうにかしたいんだけど、どうすればよいの?」

「明良に辛いと言うて甘えればよいではないか」

「そんな事で収まるの?」

「ならば速度を上げて、疾走するが良かろう。それはそれは爽快ぞ」

「それは怖いから、い・や」

 ヌトは大きな欠伸をして颯の方を見た。

「玲太郎、済まぬが暫くわしに付きうて呉れぬか」

 玲太郎の返事を待たずに、体を約六尺の大きさになると玲太郎を抱えて上空へ飛び上がり、西へと向かった。

「えっ、何? 何? どうかしたの?」

「いや、何、些か気になる事が出来て湖へ行きたいのよ。颯にはそう言うたら、玲太郎も連れて行くならと条件を出して来たからな」

「ふうん……。それじゃあ仕方がないね」

 玲太郎が上空に上がって行った事に気付いた生徒はいなかった。ヌトは湖上を二周ほどして運動場に戻って来た。生徒全員が颯の方を向いていて、気付かれずに下りられた。玲太郎はそちらの方を不思議そうに見た。

「どうしてはーちゃんの方に人が集まってるんだろう?」

 ヌトは約一尺の大きさに縮むと、玲太郎の髪を一房掴んだ。

「わしも今戻ったばかりで、解る訳がなかろうが」

「それはそうだけど、何かあったのか、聞きに行きたい」

「それは後でよいではないか。ほれ、先程の続きをせぬか」

 玲太郎はヌトが心配している様子がなかった事で、それを聞き入れた。少し浮き上がると前進し始める。暫くすると、他の生徒も練習を再開したようで、玲太郎は何人かに抜かれた。

「毛程も動けなんだのに、こうも移動出来るようになるとはな」

「僕としてはもう少し早く移動出来ればって思うんだけどね」

「それは贅沢という物ぞ。恐怖心がなくなれば出来ようが、まだまだ先の話よな」

 玲太郎は苦笑したが、視界に颯が入って来た。思わず俯くと、ヌトは引っ張られる。ふと見上げる颯が見えた。

(やれやれ、これは重症のようであるな。参るわ)

 無表情になって小さく溜息を吐いた直後、大きな欠伸が出た。


 授業が終わり、教室へ戻っている時、バハールが正面玄関で待っていた。

「ポダギルグ……」

 その神妙な面持ちに、玲太郎は真顔になる。

「どうかしたの?」

「……クイザさんは覚えてる?」

「うん、掃除の班が同じだった子だよね」

「イノウエ先生に向かって攻撃をしたんだけど、そのまま攻撃し続けて、土に還ったよ……」

 バハールが何を言っているのか、一度聞いただけでは理解出来なかった。

「うん? イノウエ先生が?」

「ううん、クイザさんがイノウエ先生に攻撃を仕かけたんだよ。先生はずっと防御をしていて、それに対してクイザさんが攻撃をしていて、突然土に還ったんだよ」

「えっ、死んじゃったの?」

「うん、そう。ポダギルグを除いた全員が見ていたよ。近くにいた子はみんな見えない壁に押されて、無理やり二人から距離を取る事になって、何を話しているのかまでは聞こえなかったんだけど、クイザさんが何かを叫んでいたようでね。攻撃し続けている内に土になって、崩れ落ちてしまったから本当に驚いたよ。あ、先生は無事だよ。やはりと言うべきか、当然と言うべきか分からないけどね」

 それを聞いて玲太郎は悪寒が走った。眉をしかめるとバハールに何も言わず、走って運動場へ戻る。颯の近くにクイザが着ていた衣類と靴が浮いていた。

「はーちゃん!」

 そう叫んでで駆け寄ると、颯が玲太郎の方を向いた。玲太郎は颯に飛び付いた。

「無事なの? 大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。占いで命を狙われるって結果が出ていたけど、まさか生徒に狙われていたとは思わなかったなあ」

 小刻みに震えている玲太郎の腕を掴んで引き離すと屈んだ。

「王弟殿下から聞いたのか?」

「……うん」

 颯は泣いている玲太郎を見て苦笑すると、そのまま抱き上げて歩き出す。ヌトは颯の右肩に座った。クイザの衣類と靴は浮いたまま、後ろから付いて来ている。

「心配させてご免な。でも本当に大丈夫だから安心して」

「……うん」

 颯に抱き着いて肩に顔をうずめた。

「もしかして、ヌトにクミシリガ湖に、行かせたのは、そのせいなの?」

「玲太郎が平常心でいられなくなる可能性があったからな」

「うぅぅうっ」

 玲太郎は颯にしがみ付いて本格的に泣き出してしまい、颯は困惑した。

「もう俺は大丈夫だから、そう泣くなって」

 そうは言っても泣き止むでもなく、仕方なく医務室へ向かった。医務室の扉を開けると、明良は書類に目を通していて颯に気付かなかった。明良の執務机の前にある丸椅子に腰を掛け、無言で玲太郎の背中を擦った。

「明良が先に気付くか、玲太郎が先に泣き止むか、賭けをせぬか」

「兄貴が先に気付く方に賭ける。って、何を賭けるんだ?」

「賭けに勝った時に考える。わしは玲太郎が先に泣き止む方な」

「俺は兄貴でもいいけど、賭ける前に考えないんじゃ駄目だな。賭けは不成立だぞ」

「解った。それでは久し振りにわしと出掛けぬか? 行き先は早起きして和伍にでも行こう」

「俺が勝ったら家に帰って寝ろよ?」

「良かろう。そういう訳で、玲太郎よ、泣き止まぬか」

 玲太郎は呼吸が荒かったが、涙はもう止まっていた。顔を上げて颯を見ると、颯が微笑んで頭を優しく撫でた。

「泣き止んだか。それなら良かった。目が赤いから授業は受けずに此処にいるか?」

 顔も赤くなっていたがそれは言わず、涙の跡は颯が魔術で綺麗に消していた。玲太郎は首を横に振った。

「ううん、授業はっ、受ける。ふぅーうっく」

 泣き止んでいても、呼吸がおかしくなっているようだった。

「颯、わしが掛けに勝ったのであるから和伍ぞ?」

「解ったよ。時差があるから夜中に行こう。その代わり起きろよ?」

「解っておるわ。眠らぬから起きずともよいな。何時行く?」

「ぼっ、僕も行く」

「え、玲太郎も行くのか? 夜中なのに起きていられるのか?」

「厠にっ、起きた後っに行ってくれっればよいのっよ。ふぅー……」

「ああ、そういう事か。それじゃあそうしするか」

「玲太郎も行くのかよ。わしだけと行って欲しいわ。久しく一緒に出掛けておらぬでな」

「まあいいじゃないか。此処が二十九時なら、向こうは十一時だな。店も開いているだろうから、何か和菓子でも食べに行くか。玲太郎は何か食べたい物はあるか?」

「んっ、月っ、月志摩のあのっ蜜芋のっ和菓子が食べったい」

「解った、月志摩な。それじゃあ今夜にでも行こう。兄貴には秘密だからな?」

「うっん、分かった」

 玲太郎は頷くと、颯が笑顔になる。

「颯は玲太郎に甘過ぎるぞ」

 右肩で仏頂面をしているヌトが口を尖らせて言った。

「まあいいじゃないか。玲太郎、呼吸は大丈夫か?」

「うっん、しゃっくりっぽくなってるだっけで大丈夫」

「よし、それじゃあ行くか」

 颯は膝を屈めて玲太郎を下ろして立ち上がった。明良が持っている書類を取り上げた途端に明良が気付き、颯を見上げた。

「あれ? 何時の間に来ていたの?」

「玲太郎もいるぞ」

 視線を下げると玲太郎がいて、目が赤くなっているのを目ざとく見付けた。

「目が赤くなっているね。何かあったの?」

「俺が命を狙われて…」

「えっ!?」

 驚愕した明良は思った以上に大きな声が出た。そんな自分に驚いて手で口を覆ったがしっかりと颯を見ていた。

「何時? 誰に?」

「つい先頃、授業中に生徒からな。まあ、実力差があり過ぎてなんともなかったんだけど、一応記録しておいたからこれを見ておいて。相手は勝てる気でいたようだからな」

 黒淡こくたん石をズボンの衣嚢から出して執務机に置くと、明良はそれを手にした。

「解った。見ておく。話はまた後でしよう」

「あーっちゃん、ごっめんね。もうっ教室っに行くっから。また後でっね」

 そう言うと玲太郎は先に退室した。呆気なくいなくなってしまって寂しく、その上泣いていたようで心配な気持ちはあったが、玲太郎には聞かせたくない内容を心置きなく話せる為、追い掛けたい衝動を堪えた。

「その生徒はどのような子だったの?」

「どのような? ウギヨア・クイザって子で……、組で四番目、女子では一番の実力者、と言いたい所だけど、あの奇妙なつい精霊の宿主で、何度目かの攻撃を放った途端に土に還ったよ。結構睨まれている気がしたんだけど、逆恨みをされているとは思ってもいなかったわ。これは徐々になどと言わずに、さっ急に奇妙な対精霊は消滅させるべきかも知れないな」

「成程。それにつけても、魔術を習い出して三ヶ月で颯を狙うとは、阿呆なの?」

「まあ、俺も攻撃魔術を使ってくるとは思ってもいなかったわ。あの様子だと、魔術は前以て習っていたと思うな。後、接近して来て変な物を使おうとしていたから、奪っておいた」

 ズボンの後ろの衣嚢から折り畳んだ紙を取り出して執務机に置いた。明良はそれを取ると広げて見た。

「これは……、水伯に見て貰って相談しよう。授業があるのだよね? その前に学院長に報告だよね? もう行ってもよいよ。詳しくは後で話そう」

「うん、それじゃあ宜しく」

 そう言って颯も退室して職員室に向かった。その道中で服を畳み、それと靴を顕現させた紙袋と箱に入れて持った。


 丁度その頃、執務机に置かれている照明だけで室内を照らしているとある部屋に、それに背を向けて立っている男がいた。男は中々の巨躯で、壁に大きな影を落としていた。その部屋の扉の前で紙を数枚持っている女が立っている。その女は黒髪に茶色の目をしていて、立襟の襯衣、上着も立襟でズボンと共に黒い衣類を着用していた。女は巨漢に何かを報告している最中だった。

「小鳥によりますと、魔力消失による退学者はここの所、一人も出ていないとの事です。依然として、レイタロウ・ウィシュヘンドが関っているかどうかの確認は取れていないようです」

 巨漢が小さく頷いた。

「そうか。小鳥が魔力消失の現場に居合わせた時以外は、別の者が遣っている可能性が残ったままか。やはりハヤテ・イノウエとアキラ・イノウエが遣っておるのだろうな。レイタロウはさて置き、先ずはこの二人をどうにかせねばならん。アキラに送った実験体も帰って来ないままで失敗に終わったようだから、また新たに駒を用意せねばな」

「お館様、恐れながら、イノウエ兄弟よりスイハクを始末した方が宜しいのではないかと存じますが、如何いかがでしょうか?」

「数年前、大精霊の寵児として名を売った二人よりも上かどうか、それも判らないが故に判断に躊躇しておるのだが……。スイハクは私よりも長く生きておって、油断ならん事は承知しておる故、殊更な。どうするかは今暫く様子見としよう。引き続き小鳥に報告をさせ、以前より頼んでおる物の完成を急げ。その完成具合で始末する順番を決めるとする」

「あれの完成は間近ですのでしばしお時間を下さい。それでは失礼致します」

 深く辞儀をすると退室した。巨漢は左手を握ると力を籠める。

「残された時間は如何いか程か判らないと言うのに……、まだ待たねばならないのか。いや、今暫く……、今暫くの辛抱だ」

 執務机の方に向くと両手を天板に突いて俯く。黒ばんでいる左手の小指と薬指の指先が照明で照らされ、それを忌々しく見詰めた。


 明良は室内を暗くし、渡された黒淡石の映像を見終えて些か眉を寄せて腕を組んでいた。

(もう一度見るか……)

 明良から約七寸離れている黒淡石の上で映像が流れ始める。

「…てやる! お前のそのへらへらした顔を見てるとヘドが出る……。私は……、私はお父さんのカタキをうつんだ!」

 茶褐色の髪は肩までの長さで、長めの前髪は真ん中で分けて髪留めで留められていて、淡褐色の目を鋭く光らせて叫んでいた。これがクイザだ。周りに生徒がいたが、声を上げながら見えない何かで押し退けられ、遠退いて行く。映像にはクイザのみが映っている。

「お父さんの敵? 何を言っているんだ?」

 颯の声がする。

「お前の家門のせいで、お父さんが殺されたんだよ!!」

「お前の父親なんて知らないぞ」

「ウソをつくな!」

「噓なんて吐いていない。クイザなんて人の事を本当に知らないんだからな」

「クイザじゃない。シフネーサ・ヴォンよ。知らないとは言わせないわ。お父さんは死体で帰って来て、土にかえらなかった……。自殺するはずはないんだから、殺されたに決まってる!」

「シフネーサ・ヴォン? 知らないなあ……。思い出せないだけかも知れないけど、憶えていない。……という事は、俺に取ってはそれ程度の人間なのだろう」

「ふっ……、ふざけるなぁ!! ヤズノギ・ナーンエズ・イノウエはお前の家門の人間だろうが!!」

 声を荒らげ、怒りに顔を歪ませた。

「確かにヤズノギ・ナーンエズ・イノウエは俺の伯父だけど……、伯父は殺されはしたが、誰かを殺してはいないと思うんだけどなあ。いや? 若しかしたら、楯突いた平民を殺した事があるのかも知れないが…」

「それみろ! 殺してるじゃないか! お父さんが殺されたのに、なぜかばいしょう金を払わないといけなくなって、おばあさんに家を追い出されて、お母さんは苦労をしてるんだよ! それもこれもイノウエ家のせいだ!!」

「なんだよ、只の逆恨みかよ。阿呆臭い。可能性の話をしただけで、殺したかどうかまでは判らないんだけどな」

「お母さんが言ってた。ヤズノギ・ナーンエズ・イノウエが殺したと、くわしい人からそう聞いたと言ってた」

「……あ! 思い出したわ。シフネーサ・ヴォンと言えば、伯父一家を殺した犯人じゃないか。なんだ、そいつの娘だったのか。殺人犯を庇えるなんて、やはり身内だなあ……」

 怒りに満ち溢れていた表情から、怪訝そうな表情に変わる。

「殺人…はん? お父さんが人殺しだって言うの……?」

「伯父は殺された。雇った箱舟の操縦士であるお前の父親が事故を起こしてな。それも故意に、だ。そうでなければ賠償金なんて発生しないだろうに。それにお前の父親に金銭を渡して、伯父の殺害を依頼した奴も殺されていたから、それ以上は辿れなかったという話は聞いた。お前の母親は、誰から父親が殺されたと聞いたんだ?」

「そんなはずはない!!」

「お前の言う通り、人間は自害では土に還らないが、お前の父親は誰かに死ぬ事を提案されたに過ぎない。金で自分の命を売ったんだよ。金銭の授受があった事は判明しているから確実だ。それはさて置き、俺の伯父は事故死だった。それが偶然の物であれば伯父は土に還るが、還らなかった。その事から故意に起こされた事故であったと読み取れる、という訳だ。お前の父親は、金で人を殺す事を選び、そして死んで行ったんだ」

「う……、ウソだウソだウソだぁぁぁああああ!! そんな事は信じない!」

 そう言って後退りながら左手を颯に向ける。

「清れんなる炎よ、ここにいでてヤツを燃やせ!」

 青白い火の玉が画面に向かって飛んで来る。画面が一気に引いて、映っているクイザが小さくなり、後ろ姿の颯が映ると少し斜めからの角度になり、クイザも画面に映った。颯は飛んで来た火の玉を素手で叩き落とし、それは地面に落ちる前に消えてなくなる。

「信じないのは勝手だが、事実から目を背けてはいけないぞ? それにお前では俺に傷一つ付けられないから止めておけ。それが賢明な判断という物だ。止めれば警察に突き出して遣るよ。そうだな、貴族への殺人未遂だから、死ぬまで監獄の中にいないといけなくなるけどな」

「私が考えなしに攻げきをしてるとでも? お前をたおす策はさずけてもらってる!」

 クイザは後退りをし続けて約十間の距離を取ると、その距離を保ちながら颯の左手側に走り出した。

「清れんなる炎よ、いくえにも出でてヤツを燃やせ!」

 先程より大きな火の玉が八個、颯に向かって同時に方々から飛んで行く。颯は微動だにせずに被弾すると、白い煙が立ち上って行く。

「とく、かの下へ」

 今度は俄に速度を上げ、クイザ自身が颯に向かって一直線に突っ込んで行く。上着の左腰の衣嚢から紙を取り出し、煙の中へ左手を伸ばした。煙が一瞬で消え、その腕を颯が捻り上げた。

「いっ、痛い! 放せ!!」

 クイザは右手で颯の手に爪を立て、左足で颯の脚を蹴っていたが、颯はクイザが持っている紙を奪うと腕を押し遣ってから放した。クイザは押された勢いで体勢が崩れ、後退っている時に足を滑らせて尻餅をいた。

「あっ、うぅ……、いっ…たぁ……」

 その拍子に手を地面に擦ったのか、両手を土を払いながら掌を確認している。

「お前の父親の敵はイノウエ家ではないぞ。もう止めておけ。俺に敵う訳がないんだからな」

「お父さんを殺したのはイノウエ家だ! 間違いないんだよ!!」

 また左手を突き出して颯に向ける。その母指球は血が滲んでいた。

「ひょう風よ、弧を描いてヤツを切り刻め!」

 颯はクイザを見下ろしていた。画面に映ってはいなかったが、颯の蔑んだ目を見た。クイザは憎悪が増し、また怒りに顔を歪めて行く。

「お前の父親は金を貰って自ら死を選び、俺の伯父一家を殺したんだ。これは嘘偽りのない事実だ。受け入れろ」

 そう言いながらを風を制した。

「風の音で聞こえなかったか? お前の父親は金を貰って死を選び、俺の伯父一家を殺して一緒に死んで行ったんだ。これは嘘偽りのない事実だぞ。受け入れるしかないんだ」

 クイザの目から大粒の涙が零れ落ちた。

「ぐう然にも同じ組だった事をほう告したら、王弟の妃になれるようにしてくれるって言う話だったのに……、そのジャマまでしやがってぇええぇ!」

 晴れ間に照らされ、何条もの涙の跡が頬を光らせていた。クイザは終いには俯いてしまったが、それでも左手は颯に向けられたままだった。そして顔を上げると、その表情はやはり怒りに満ちていた。

「それにお父さんが殺したなんて、そんなはずない! そんなはずないんだよ!! 清れんなる炎よ、ヤツを燃やせ! 燃やして燃やして燃やしつくせ!」

 クイザの左手の近くから火の玉が出ては颯に向かい、方々ほうぼうから当たった。当たってもどうという事のない颯は何も言わずに火の玉を受けていた。それが何度も何度も続いた。そしてその時は呆気なく遣って来た。小さな火の玉が出た瞬間、クイザが土に還り崩れ落ち、出ていた火の玉は即座に消えた。

「逆恨みだけかと思えば八つ当たりもかよ。自棄糞で自滅……。本当に阿呆臭い……」

 そう言った颯の声が聞こえると、そこで映像が終わった。

(青い方の火の玉、加速に鎌風はどれも略式呪文。入学までに魔術を教えていたのだろうね。……私のもとへ来たあれも同じ組織が送り込んで来たのか。……女子供を刺客として送って来るとは、敵は一体どのようなごみの集まりなのか。それにしても何方どちら癇癪かんしゃく持ちとはね……。若しかして、刺客ではなかったとか? 何かを調べる為に送り込まれた、とか? 調べるとは何を? 私達の地力? それだとお粗末としか言いようのない相手だったから、それはないとして……、この紙は一体どのように使う積りだったのかが気になる所なのだけれど、それももう問えないから諦めるしかないね。兎にも角にも、校内で攻撃魔術が人に向けて使えるという事実だけでも大問題。それも水伯が制御魔術を掛けている筈だから、早急にどうにかしなければならない……)

 明良は部屋を明るくし、浮かせていた黒淡石を魔術で引き寄せて手にすると上着の衣嚢に入れた。そして、颯から受け取っていた紙も畳み、同じ衣嚢に入れる。颯に取られて離れた所に置かれた書類を手にすると、黙読を再開した。


 玲太郎は、午前は一時限しか空き時間がなく、午後は空き時間が二時限続き、体育、また空き時間、となっていた。午前は明良が玲太郎を寝台に無理遣り寝かせ、幼い頃のように本を音読して寝かし付けてしまった。午後の空き時間は復習を遣り、体育の後の空き時間は予習を遣った。間食を摂った後は掃除の時間で、その後は寮長室で読書をしていると、いつものように、終業後の明良が瞬間移動で遣って来た。玲太郎は早い時間でも眠ていたお陰で元気一杯だった。しかし、一時限目終了後に目が赤かった事を気にしてか、明良は玲太郎を膝に座らせて抱き締めていた。

「何故あの時は目が赤かったの?」

「はーちゃんが攻撃されたって聞いて、気が動転したから」

「成程」

 それ以降、明良が無言だった為、二人は沈黙の中にいた。玲太郎は明良にもたれ掛かって呆けていた。

 二十時を少し過ぎた頃に颯が戻ると、玲太郎は姿勢を正した。

「只今」

 靴を履き替えながら言った。

「おかえり」

 玲太郎だけが挨拶をした。そして颯はいつも通り、そのまま隣室へと向かった。

「どうしてはーちゃんを無視するの?」

「颯が此方こちらを見た時に手を挙げたよ?」

「ふうん……」

「言葉でなければ駄目なの?」

「そういう訳じゃないけど、何も言わないのかと思って気になっただけなのよ」

「そう」

「もう二十時過ぎてるけど大丈夫なの?」

「そうだね、そろそろ行くよ」

 明良は玲太郎を下ろすと、玲太郎が明良の方に向いた。そして明良を見上げる。

「あーちゃん、今日はありがとうね」

 満面の笑みを湛えて言うと、明良が顔を紅潮させ、これでもかと息を吸っていた。

「玲太郎うううぅ!!」

 俄に叫んだかと思うと、椅子を魔術で退かしてひざまずき、玲太郎を抱き締めた。それも結構な力で抱き締めていた。

「ぐっ、ぐるじい」

 玲太郎は明良の背中を何度も叩いた。

「ああ、ご免ね。余りにも可愛くてつい力んでしまったよ」

「手加減してくれないと困るのよ……」

 疲れた表情で言うと、明良は微笑んで玲太郎の頬に手を当て、親指で撫でた。

「ご免ね。それではまた明日ね」

「また明日ね」

 明良は立ち上がると瞬時に消えた。

「明良は鋭いな。いや、嫉妬をしていたと言うべきか?」

 机に寝転んでいるヌトが言うと、玲太郎は苦笑した。

「何が?」

「目が赤かったとは言えども、無言で三十分も抱き通しであったのであるぞ? あれは何かを感じ取っておったに違いあるまいて。明良恐るべし」

「そんな事より、はーちゃんが紅茶を淹れてくれてるだろうから向こうに行くよ? ヌトはどうするの?」

「わしか? 今日、和伍へ行くのかどうかを訊きたいから行くぞ」

 そう言って壁をとおり抜けて行った。玲太郎は些か不機嫌そうな表情になると隣室へ入り、颯が開放していた扉を閉めた。

 颯は台所で既に茶を淹れていて、時間を計っているようだった。玲太郎の足音を聞いて顔をそちらに向けた。

「遅かったな。兄貴は帰ったのか?」

「うん、帰ったのよ。所で、はーちゃんは攻撃されたのを、どうして僕に見せなかったの?」

「どうしてって、玲太郎がそれで暴走する可能性があると思ったからだよ。ヌトと一緒に空の旅が出来るなんて、そうある事じゃないんだからな? しかもヌトが連れて行ってくれるなんて、本当にない事なんだぞ?」

「えっ、そうなの? ヌト、ありがとう」

 颯の肩に座っているヌトに言うと、ヌトが頷いた。

「どう致しまして。ま、ああなってしもうては仕方あるまいて」

 玲太郎はヌトを見て気持ちが落ち着かなくなった。そんな事は初めてで、戸惑っていた。

「玲太郎だって、俺が攻撃をされている場面を見て、平常心でいられるか?」

 我に返ると、怒りが込み上げてくる。

「いられる訳ないでしょ! はーちゃんが攻撃をされてるんだよ!? 怒るに決まってるじゃない! でも攻撃されてる所は僕だって見たかったのよ!」

 颯は玲太郎が激怒しているのを見て苦笑した。

「俺が遣られている所を見てどうする積りなんだよ? それはさて置き、平常心でいられる訓練でも遣った方がいいんじゃないのか?」

 激怒していたのが一変して困惑した表情になる。

「えっ、やらないとダメなの?」

「玲太郎の様子を見る限りだと、暴走の切っ掛けにならないように、遣っておいた方がいいんじゃないのかと思うけど?」

「えっ……」

 悲痛な表情で颯を見ていると、颯が苦笑する。

「何やら感情がおかしくなってて、頭の中が混乱していそうだな。大丈夫か?」

「僕はね、怒ってたのよ。でもはーちゃんが変な事を言うから思考停止しちゃって……」

「変な事ではないだろう?」

 颯は既に牛乳が入っている茶器を持ち上げると、茶漉しを手にして紅茶を注ぎ出した。

「玲太郎は茶色の方でいいよな?」

「うん」

 灰茶と黒の湯呑みに注ぐと茶器を置いて、茶漉しも置いた。玲太郎の近くに灰茶色の湯呑みを置くと、玲太郎はそれを両手で持つ。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 颯が先に食卓へ向かうと、それに付いて行く。玲太郎は気持ちの起伏が激しく、自分でも持て余し始めた。玲太郎専用の椅子に座ると、その向かいに颯が座った。

「午後の間食は腹に溜まらないから困るよなあ……」

 そう言うと、まだ熱い紅茶を二口飲んだ。そして玲太郎を見る。明らかに気落ちしていて、湯呑みを見詰めていた。

「何かあったのか?」

 玲太郎は顔を上げて颯を見る。

「僕ね、なんだか変なのよ」

「そうなのか。無理はするなよ?」

 玲太郎はまた俯き、湯呑みを見た。

「うん……」

「それにつけても、和伍へは何時いつ行くのよ? 今日か? 明日か?」

「今日の二十九時の巡回が終わってから行くか。玲太郎はそれでいいか?」

「うん、よいよ」

「それじゃあ今夜は早目に夕食を食べて、玲太郎が少しでも眠っておけるようにしておこうか。ヌトも起きていないで、行くまで寝ていればいいんじゃないのか」

「そうしよう。わしは先に眠るとするわ。玲太郎、起こして呉れよ?」

「分かった。おやすみ」

「お休み」

 ヌトは無言で軽く挙手をすると寮長室へ戻って行った。多分、颯の寝台で眠るのだろう。玲太郎はそれがなんとなく解り、それに対する抱いた気持ちに気付くとまた落胆した。

「どうした?」

 颯の優しく問い掛ける声に、思わず上目遣いで颯を見た。

「うんと……、なんでもない」

「なんでもなくはないだろう? どうしたんだ? 俺には言えないのか?」

 玲太郎は伏し目になる。そして顔を紅潮させると紅茶を少し口に含んだ。それを飲み込むと、湯呑みを食卓に置き、颯を一瞥した。

「えっとね……」

「あ、解ったぞ。こっちに来いよ」

「え?」

「いいから、ほら」

「うん」

 湯呑みから手を離し、立ち上がると颯の傍に行く。颯も立ち上がり、玲太郎を抱き上げた。

「兄貴に甘えられて疲れたんだろう? よしよし」

 そう言いながら優しく頭を撫でた。

(違うけど、まあよいよね)

 期せずして甘えられる好機を得た玲太郎は、満面の笑みを浮かべて存分に甘え、そうこうしている内に茶が冷め切ってしまった。


 翌日、玲太郎が三時限目の空き時間前に医務室に行くと先客がいた。いつものように閉扉して廊下で待つ事にしたのだが、授業が始まっても先客が出て来る気配がなかった。医務室と廊下の間の壁は、教室と違って窓が高い位置にあり、中を窺おうにも窺えなかった。それもあってヌトが中の様子を見に行き、玲太郎の下に戻るなり首を横に振った。

「警察のようであるな。明良が黒淡石の映像を見せておったわ」

「黒淡石って?」

 玲太郎が声を潜めて訊く。

「昨日、颯が攻撃されておった映像よ」

「えっ、それも記録をしてたの?」

「映像を見たから、しておったのであろうな」

「僕も見たい」

「頼んで見せて貰えれば良かろうて。ま、見せて貰えるかは判らぬがな」

「どんな話をしてたか、聞いたの?」

「映像を見ておったから、話はしておらなんだぞ」

「そう。ありがとう」

「今日は明良の授業があったか?」

「火の曜日だからあるね」

「それならば立て続けに眠られるな。それは佳き哉」

 そう言うと大きな欠伸をして、玲太郎の背負っている背嚢のかぶせの上に座った。玲太郎は廊下の窓から外を眺めた。

「呪術もあるから眠られるよ?」

「呪術か……。ノユとズヤと目族の子がおれば安心よな。……はわぁ~…」

 玲太郎は無言になると、ヌトは舟を漕ぎ出した。それからじっ分は経っただろうか。ようやく二人の男が医務室から出て行き、学院長室へ向かって行った。玲太郎はそれを見て医務室の扉を叩いてから開けると、玲太郎を見た明良が満面の笑みを浮かべた。

「ご免ね。来客があったのだけれど、見ていたよね。中々帰らなくて困ってしまったよ」

「お疲れ様。はーちゃんの事?」

「うん、そうだね。後三十分しかないのだけれど、勉強を遣るなら遣ってね」

「えっ、僕って三十分も外で待ってたの?」

 そう言って掛け時計に目を遣った。

「そうなるね」

「本当だ、三十分しかないね」

 そう言いながら机まで行き、背嚢を下ろして机に置くとヌトが背嚢のかぶせに被さるように眠っていた。仕方なくヌトを掴むと、仰向けにして机に置いた。

「警察は何て言ってたの?」

 明良を見ながら椅子に腰を掛けた。

「颯が止めていたら土に還らずに済んだのでは、と言われたのだけれど、何時いつ死ぬかまでは判らないし、話をしている内に土に還った、と颯が言っていたよ」

「ふうん……。はーちゃんもいたの?」

「いたよ。休憩時間の時に少しだけね。颯はまだ貴族だから、平民がああいう事をしたら、無礼討ちで処理をしてしまえばよい話なのだけれどね。本来ならば、校内は攻撃魔術を人に向けて使えないようにしてある筈なのだけれど、何故か使えてしまっているのだよね。これは由々しき事態だね」

「それってどうして使えちゃうの?」

「対精霊が奇妙だからなのか。若しくは攻撃魔術を使えるように、何かしら手立てを講じているか……。前者は対精霊を消滅させればよい話だけれど、後者はそうもいかないから、対策を立てるにも、先ずは講じている手立てを模索しなければならない。そうなると大変だね」

「奇妙な対精霊って、厄除けのお呪いで消せるでしょ? 僕が実際に消せたから出来るでしょ? それを使って、みんなにお呪いをかけた物を持ってもらえれば消えて行くんじゃないの?」

「それはね、私が試してみたのだけれど、奇妙な対精霊を消滅させられなかったのよね。玲太郎は木片が粉々になったと言っていたから、それと遜色のない程度に魔力を籠めたのだけれど、それでも消滅させられなかったのだよ。だから、私では出来ないのだよね。颯にも試して貰ったけれど、消滅しなかったと言っていたよ」

「えっ、出来ないの? それじゃあ僕も、あの時まぐれで出来たって事?」

「それはどうだろうね? 試してみない事には判らないからね」

 明良は苦笑していたが、真顔になる。

「でも出来ると判った所で玲太郎を危険に曝せないから、玲太郎に何かを頼む事はないから安心してね」

「うん。それで、それは父上もダメだったの?」

「遣って貰っていないから判らないね。颯と私は駄目だったよ」

「ふうん……。どうして僕は出来たんだろうね? 不思議なのよ」

「本当に、何故なのだろうね。私は出来そうな気がするのだよね……」

「ふうん。……所で、僕もはーちゃんが攻撃を受けている映像を見たいんだけど……」

 明良は眉を寄せた。

「見たいの? 同級生が土に還るのだけれど、平気なの? それに颯は殆ど映っていないよ? 映っていてもほぼ後ろ姿だからね」

 大きく頷く。

「うん、とっても見たい」

 明良は暫く玲太郎を見詰めていた。上着の内側にある衣嚢から黒淡石を出す。

「昨日目が赤かったのは、これの所為だよね? 颯が攻撃されたと知って気が動転したのだよね?」

「うん、そう」

 明良は真顔のままで前のめりになる。

「これを見て、玲太郎が平静でいられるかどうか、それが判らないから見せる訳にはいかない。只の興味本位ならば止めておきなさい」

 玲太郎の目を真っ直ぐ見詰めて言うと、玲太郎は目線をそのままに頷いた。

「分かった。見ないでおく……」

 明良の迫力に気圧されてそう返事をした。明良は表情を一変させ、満面の笑みを湛える。

「よい子だね。後少ししか時間がないけれど、勉強してね」

「うん、分かった」

「後少しと言っても二十五分はあるからね」

 背嚢から勉強道具を取り出しながら明良を一瞥すると、明良は執務机に向き、書類を手にして目を通していた。

 玲太郎は後で知ったのだが、一学年月組の生徒はこの時間に事情聴取を受けていた。

 この事件は全校生徒に瞬く間に知れ渡り、颯は授業を受け持っている一学年の生徒が従順となって授業を遣り易くなったが、受け持っていない生徒からは遠巻きにされていた。それを好機と捉え、奇妙な対精霊を全て消滅させてしまった。当然、教師も含めた話になる。教師は少数で済んだが、生徒は約百人が退学となった。週末には荷物を纏めて家路に就く生徒を州都へ送る為に、臨時の陸船が出る事になった。そして、偶然にも口さがない噂をしていた生徒が主に消えた事で、噂をする生徒は一人もいなくなった。


 週明けの月の曜日、七時七十分からある職員朝礼で颯が理事長の隣に立っていた。

「イノウエ先生から報告があるそうです。それではイノウエ先生、宜しくお願いします」

 颯が深く辞儀をして、姿勢を戻す。

「魔力を消失する生徒はもう出ません。何事もなければ上期はこのままになります。それは教師にも言える事ですので、何事もないように細心の注意を払って頂けますよう、お願い致します」

「私もツェーニブゼル侯爵閣下から同様の事を聞き及んでいます。教師一丸となり、生徒を第一にし、生徒の精神面は特に配慮して参りましょう。それと、現在空いている人数をそのままに、下期の生徒募集を出しますので、そちらも重ねてお願いします」

 颯は言い終えた理事長を見ると、理事長が颯に向かって頷いた。颯はまた辞儀をして席に戻る。すると一人の教師が挙手をした。サンジオの近くにいる従者が耳打ちをすると、サンジオが頷く。

「バゴキー君、座ったままでどうぞ」

「有難うございます。イノウエ先生が断言していますが、何故そのように断言できるのですか?」

「ご存じの事と思いますが、イノウエ先生はウィシュヘンド州アメイルグ郡の領主であるイノウエ家の一員で、サドラミュオ大公閣下とご昵懇じっこんでいらっしゃる。大公閣下がお手ずからお作りになられた厄除けの呪物をお持ちになっていて、厄除けの効果で悪しき物を退け、その結果、幾人もの魔力が消失したという事です。俄に信じられないと思いますが、結果が物語っている為、信じるしかありません。これ以上は私も話せる事がないので、ご承知おき下さい」

「分かりました。それではイノウエ先生からご説明を願えないでしょうか?」

「今の所は害意を感じないので大丈夫だろうとしか言いようがありません」

 颯が発言をすると空気が変わった。バゴキーは体育教師で目付きが鋭く、六尺六寸の長身で体格も良く、居丈高な所があるのだが、その空気を読んで眉を寄せた。

「……そうですか。それは失礼しました」

 サンジオは中年男性なのだが、恰幅がよい所為なのか汗を良く掻き、手巾でそれを拭っていた。

「穏便にお願いしますね」

 他の教師も畏縮してしまっていた。サンジオは汗を拭きながら口を開く。

「この校内は大公閣下が制御魔術を掛けて下さっています。それにも拘らず、一生徒が攻撃魔術を使用出来たという異常性、危険性に諸兄姉はお気付きの事と思います。それを早急に排除する為、今回はイノウエ先生が大公閣下にお力添え頂いたのです。制御魔術を掛けて頂いたのは、まだチルナイチオ王国だった頃の事だと聞き及んでおり、その効果が薄れている可能性を問うた所、それはないとのご回答を頂きました。今回は姑息な手段を取りましたが、下期に編入して来る生徒の中に、同様の事が出来てしまう生徒がいた場合を考慮し、対策を講じなければなりません。そこで私の提案なのですが、イノウエ先生に委任しようと思います。イノウエ先生お一人に任に当たって頂く事が適当であると考えております。これに反対の方は挙手願えますでしょうか?」

 一人の若い男性教師が挙手をする。またサンジオの従者が耳打ちをすると、サンジオが頷いた。

「カンノンデ君、座ったままでどうぞ」

「有難うございます。反対の意見ではなく、疑問なのですが宜しいでしょうか?」

「構いません。どうぞ」

「有難うございます。大公閣下に引き続きお力添えを願えないのでしょうか? また、イノウエ先生が適任として、その理由をお教え願えませんでしょうか」

「それは私から申し上げます」

 颯がサンジオに視線を送りながら挙手をすると、サンジオが無言で頷いた。

「大公閣下が申しますには、制御魔術と呪術を両立させる事は不可能との事です。それと、此度こたび使った呪物は一個に就き一億こんは下らない代物をじっ個以上使用しました。金銭的にこれ以上頼る事は、ツェーニブゼル侯爵閣下より許可が下りていませんし、大公閣下のお力添えを無償で頂く事は私とて不可能です。何故私が選ばれたかを申しますと、単純に私が悪しき魔力その物が見え、且つ消去出来得る力を有しているからです。ツェーニブゼル侯爵閣下より一人に就き幾らかは頂けるので、大公閣下の魔力が多分に籠められた呪物以上の働きを、此処でお約束致します。以上です」

「疑問が解消されました。有難うございます」

「お二方、有難うございました。反対される方はいらっしゃらないようなので、イノウエ先生に委任する事と致します。諸兄姉にはイノウエ先生に協力を求められた場合、拒否せずにご助力下さい。私からのお願いです」

 サンジオが辞儀をすると、拍手が起こった。頭を上げたサンジオは笑顔になっている。中には拍手をしていない教師もいたが、それは気にする程の事でもなかった。サンジオは従者の奥に立っている白髪頭で老齢の学院長を見る。

「ケフッカ学院長、私はこれで失礼させて頂くとしますよ。後の事は宜しくお願い致します」

 そしてまた正面を見る。

「それでは諸兄姉、今後も生徒の事を宜しくお願い致します」

 そう言うと従者が先んじて歩き、前の扉から退室した。職員室の前後にある廊下側の扉の前に護衛が二人ずつ立っていて、サンジオが出て来ると、彼を真ん中にして正面玄関に向かって廊下を歩いて行った。

「それでは去られた三名の教師の代わりに、新たにお越し頂いた教師の紹介をしたいと思います」

 新任の教師の選定には颯も立ち会い、奇妙な対精霊の宿主でない事は判明していた。その点では安心していたが、だからと言って敵側ではない確証は得られておらず、完全に安心する事は出来なかった。後方で立っていた明良も同様の理由から、厳しい目付きで見ている。

 朝礼が済み、学院長が退室すると、担任を受け持っている教師が朝礼の用意を始めたり、受け持っていない教師は自分の教室へ向かったりしていた。

「やはり大精霊の寵児と新聞に載っただけはありますな。お一人で対処出来てしまわれるのは、我々にとっても恐るべき事でしかありませんがね。ロデルカ上学院に通っている元教え子から、イノウエ先生は魔術師殺しと渾名されていると耳にしました。我々も悪しき魔力などという物の持ち主として、魔力が消されないように気を付けねばなりませんな」

 バゴキーが聞こえよがしに言った。室内にいた教師が注視する。颯はバゴキーの方に向く。

「それは是非ともサンジオ理事長がお出での時に仰って頂きたかったですね。ああ、今からでも私が言われた事を報告をしに飛びましょう。それが最善ですね」

 颯も必要以上に大声で言い、席を立った。

「イノウエ先生、バゴキー先生がお持ちの害意のある悪しき魔力を消去して差し上げなさい。私がそう指示したと言えば、ツェーニブゼル侯爵とて何も言えないだろうし、イノウエ先生が悪しき魔力であれば消去出来る事を証明出来ます。体育は次の教師が見付かるまで自習にすれば問題はありませんから、お遣りなさい」

 後方から明良が、これもまた必要以上に声を張り上げて言った。バゴキーは明良がいるとは思わず、驚愕した表情で振り返って見ていた。そして明良の言に顔色を青くしていた。颯はと言うと少々困惑した表情で明良を見ていた。

「イノウエ先生も、アメイルグ先生もお止め下さい」

 制止したのは副学院長の一人であるパーサだった。初老だが髪は真っ黒で、肌艶も良く、皺が然程なくて初老には見えない。そのパーサがバゴキーの席の近くまで来ていた。明良が小さく辞儀をする。

「これは失礼しました。弟が軽視され、冷静さを欠いてしまいました」

「そうですね。バゴキー先生がイノウエ先生を軽んじている事が良く分かりました。今、ここで謝罪をすれば許します。謝罪をせず、今すぐ学院を去られますか? ついでに言っておきますが、次はありません」

 バゴキーは苦笑しながら後頭部に右手を当てた。

「いやあ、場を和ませるのつもりだったんですけど、すいませんでした」

「どうやら去りたいようですね」

 そう声がする方にバゴキーが向いた。バゴキーは手を下ろした。

「ミシュロー副学院長は手厳しいですな……」

 ミシュローもいつの間にやらバゴキーの近くにいた。ミシュローは老女で、儚気な雰囲気だったが、口調はそれに反して厳しかった。

「以前から思っていましたが、バゴキー先生はパーサ先生や私をも軽んじているのでしょう? だから私達がいてもそういう事が言えてしまう。これは非常に問題だと思いませんか? 私は去って頂いても構いませんので、謝罪は必要ないと考えます。次の教師が決まるまで体育は私が受け持ちましょう」

「まあまあ、ミシュロー先生もそう厳しい事を言わないで、一度は機会を差し上げても宜しいのではないでしょうか。バゴキー先生もいい年の大人なのですから、きちんと謝罪をして下さいね」

 パーサが険しい表情で言うと、バゴキーは真顔になって立ち上がり、颯の方を向いて深く辞儀をする。

「軽口を叩いて申し訳ありませんでした。お許しください」

 辞儀をしたまま言い終えると下唇を噛み、両手を強く握り締めた。颯は冷ややかな視線を向ける。

「此度は許します」

 そう言って職員室を後にした。バゴキーは漸く頭を上げると、俯き気味でその場にいた。

「先程も言いましたが、次はありません。ご自身の振る舞いを振り返り、正す事です」

 パーサがそう言うと、バゴキーは辞儀をして担任の組の教室へ向かった。階段を上って行くバゴキーを呼び止め、紙切れを渡す一人の教師がいた。バゴキーは無言でそれを受け取り、ズボンの衣嚢に入れた。その様子を窺っている人物がいた事を知らずに二人は去って行った。


 玲太郎はバハールと朝礼六分前に教室へ到着した。颯にしては珍しく既に来ていて、無表情で窓の外を眺めていた。玲太郎は必要な教科書と図鑑と帳面、それに鉛筆入れを出し、後ろの棚に背嚢を置くと着席する。

「イノウエ先生、早いね」

 着席した玲太郎にバハールが小声で言うと、玲太郎はバハールを見た。

「本当に早いねぇ。職員朝礼が早く終わったのかもね」

 玲太郎は颯が無表情な事が気に掛かった。いつもの無表情とは何かが違って見えた。

「今日は初っ端から明良の授業であったな。もう眠ってもよいか?」

 胡坐あぐらを掻いているヌトに視線を遣ると玲太郎は小さく頷く。そしてヌトは机に寝転んだ。

「ふあ~ぁあ」

 大きな欠伸をしたと思ったら即寝入ってしまった。寝息を立てているヌトを見て、玲太郎は思わず微笑みそうになったが、それは堪えた。

 朝礼が始まり、出席を取った後、最後尾にいる生徒が連絡帳を集めて颯へ持って行く。授業が始まるまでまだ十五分はあるというのに、明良が開扉して入室する。月の曜日はいつもこうだ。奥の教師用の机に持って来た箱を置くと、浮かせて運んでいた別の箱も机に置いた。颯はそれを見もせず、集まった帳面を持つと退室した。明良は着席して、玲太郎が目の前にいない事に落胆し、外を眺め始めた。玲太郎はそれを見て口元を綻ばせた。


 一時限目の治癒術が始まると、明良が持って来た薬草を元気にさせる練習が始まった。毎度違う薬草なのだが、魔力の含まれていない薬草である事に変わりなかった。

 二時限目ではこの薬草に自分の魔力を馴染ませる練習を遣る。

 三時限目は魔術で、玲太郎は移動する練習を黙々と遣り、四時限目では鉛筆を浮かせられるようになっていて、それを動かす練習を遣った。

 間食後、七時限目までは他学年の授業を受け、八時限目は小腹を空かせながら美術、九時限目には空腹に耐えつつも技術の授業を受けた。

 そして待ちに待った昼食なのだが、一学年月組の教室でバハールと一緒に暫く待ってから食堂へ向かった。

 昼食後、漸く空き時間になり、二時限続けて医務室で自習となった。ヌトは机に下り立つなり即寝入ってしまった。玲太郎は薬草の勉強を始めた。書類仕事を終わらせてしまっていた明良が頬杖を突いて眺めている。徐々に顔を綻ばせて行き、非常に弛んだ表情になっていた。玲太郎はそれを横目で見る。

「あの、こっちを見詰められ続けると、気になっちゃうんですけど……」

「そう? それを気にせず、集中しないといけないね」

 満面の笑みを浮かべて言うと、玲太郎は溜息を吐いた。

「僕はまだ八歳なんだよ? そんな器用な事は出来ないのよ」

 明良の方に顔を向けると、少し眉を顰めていた。

「ふふ。年齢は関係ないのだけれど、そういう事にしておこうね」

「あーちゃん、治癒術って、使う時は物凄く限られてるの?」

「そうだね。切り傷、擦り傷は完治出来るのだけれど、骨折になると治癒術で治せなくもないけれど、医術で骨を接いだ方がよいね。内臓の損傷となると、医術で切開して、損傷具合を見ながら処置をした方が早い。但し、切開すると硬化症になる確率が物凄く上がるのだよね。それでも処置を望む人は多いのが現実だね。腫瘍の場合は治癒術で除去する事が多く、自己治癒力を高める為に治癒術と薬草術を併用。疾患も一部は治せるけれど、それ以外は薬草術の方が役立つ場合が多い、といった具合だね。治癒術で治せる症状はまだあるけれど、もっと込み入った話を聞きたい?」

「ううん、それはまた今度でよいのよ。……それにしても、薬草もややこしいねぇ。種類も増えて来て、名前は勿論、効能も覚えないとといけないし、頭が混乱して来るね」

「一度に詰め込もうとするからだよ。焦らず、気長に遣ればよいよ。私はこのまま、玲太郎を見続けているから、気にせずに勉強の続きを遣ってね」

 玲太郎は無言で頷いて図鑑に顔を向けると紙をめくった。そして続きを帳面に書き写していく。明良は口元を綻ばせて玲太郎を見詰めている。玲太郎は時折その明良を一瞥した。いつ見ても、何度見ても、明良は玲太郎を見ていた。

 休憩時間に入ると玲太郎が明良を横目で見た。

「どうしてそんなに僕を見るの?」

「見たいからに決まっているね」

 玲太郎は溜息を吐いて鉛筆を置いた。

「小用を足しに行くのならば付いて行くけれど、どうする?」

「それじゃあ行く。ヌトは熟睡してるから、ここに置いて行ってもよい?」

「構わないよ。それでは行こうか。食堂の手前の方ね」

「そっちまで行くの? まぁいいけど……」

 二人は医務室を後にして職員室の前を通り、南側にある昇降口の手前にある厠へ入って行った。男用も全て個室になっていて手前に玲太郎が入ると、明良はその正面に入った。そして先に玲太郎が出て来て、廊下にある手洗い場で手を洗った。

「お待たせ」

 明良も遅れて手を洗う。そして魔術を使って一瞬で玲太郎と自分の手を乾かす。

「ありがとう」

「どう致しまして。それでは戻ろうか」

「うん」

 明良は玲太郎を先に歩かせて、その直ぐ後ろを歩いた。いつもなら手を繋いで歩く所だが、明良も場を弁えていてそれはしなかった。医務室に戻るとヌトの寝息が聞こえてくる。

「本当に寝入っているのだね」

「永い間眠ってなくて、とっても眠いはずだから当然なのよ」

「颯が作った石があるとは言えども、分けて眠るより、一度に眠った方がよいのではないの?」

「それはそうかも知れないけど、石で起こすからよいのよ。ヌトが自分で決めた事だからね」

「家に帰ればよいのに」

 つい本音が零れる。玲太郎は苦笑した。

「僕はこれでよいと思ってるから、そういう事は余り言わないでね?」

「玲太郎が言うから一応善処はしたいと思うのだけれど、期待はしないでね」

 回りくどく言って微笑むと、玲太郎は苦笑する。

「分かった」

 明良の悪霊嫌いは玲太郎ですらどうにも出来る物ではなかった。

「立っている序に紅茶でも淹れようか?」

「ううん、食堂でもらった紅茶を飲むから大丈夫なのよ。ありがとう」

「そう。それでは私だけ頂くとするね」

 玲太郎は着席して、明良の手際を眺めていた。浮いている水の玉に色が着いて行く。

「あ、そうだった」

 俄に明良が玲太郎の方に顔を向けた。

「水伯から呪術の図柄集の本を預かっているのではないの? 私も見たいのだけれど、見終えたら貸して貰える?」

「確かに預かってるけど、ルニリナ先生に聞いたら、ウィシュヘンド君の場合は、在学中はそういう類も勉強しない方がよいですねって言われたから、図書室に置いてあるのよ」

「屋敷のどの図書室?」

「僕の勉強部屋の図書室。魔術の本を固めて置いてある所にあるよ」

「解った。それでは借りるね」

「お好きにどうぞ。それにしても、あーちゃんもああいう呪術に使われる図柄に興味があるの?」

「土の曜日の夕食にルニリナ先生が来ていただろう? 玲太郎が颯と入浴中にルニリナ先生と話したらその話題になってね。それで面白そうだと思ったのだよね」

「どんなお呪いの図柄があるのか、見終わったら教えてね。結構分厚くて見応えはありそう。それが三冊あったのよ」

「解った。呪いではない物を見つくろって教えるね」

 笑顔で応えると、砂時計に目を遣った。そして浮いている水の玉から茶葉を取り除いて茶器に注いだ。


 夕食後、初めてバハールが教科書等を持って寮長室に来訪した。颯は当然玲太郎に用がある物と思い、玲太郎に開扉して貰ったのだが、バハールは颯に質問をしに来たのだった。寮長室の中に入って貰い、颯の席に着くと、解らない箇所を次々と質問した。

「ロデルカ君は質問を溜め過ぎだな。もう少し早く訊きに来て欲しかったなあ」

「早く来たかったんですけど、日中は機会がないし、夜はナルアーに監視をされていて……」

「監視って、ずっとロデルカ君の部屋にでもいるのか? それならナルアー先生に訊けば良かったんじゃないのか?」

「そうです。部屋にずっといます。……ナルアー先生は脱線して、すぐにチルチオ教の話をし出すので嫌なのです。だから話しかけられないように勉強をしているのですが……」

 どうやら困り果てているようだった。颯は些か同情した。

「今日はどうやって抜け出して来たんだ?」

「ポダギルグと約束をしていると言って出て来ました。仲がよい事は知っているので、何も言わずに送り出してくれました」

「そうなんだな。それにしても、ナルアー先生ってチルチオ教の信徒なのか?」

「それはどうなのか、聞いた事がないので知りません」

(まあ、話すって事はそうなんだろうなあ)

 颯は一人納得していた。

「……解った。それじゃあ歴史の続きを遣ろうか」

「お願いします」

 バハールが笑顔で頷くと、颯は教え出した。玲太郎はそんな二人を複雑な心境で見ていると、それに気付いて颯が玲太郎を見る。玲太郎は目が合うと驚き、慌てて本に視線を遣った。

 ナダール王国では、建国したロデルカ兄弟の弟であるチルナイチオを大精霊として信仰しているチルチオ教という宗教が、ナダール王国と国名を変える以前よりあった。チルナイチオは天翔ける星という意味で、チルチオは天の星という意味になり、チルナイチオの名が由来となっている。チルチオ教は古い為、幾つかの教派に分かれていた。その内、潰えてしまった教派もあり、残されているのは生前に絶大な魔力を誇り、約三百年も生きたとされるチルナイチオを唯一の大精霊とし、国王として帰還する事を切望している宿願派と、チルナイチオを大精霊として唯々厳粛に崇めている崇拝派と、崇拝派の流れを汲みながらチルナイチオの残した古文書の研究に日夜励んでいる学究派とがある。ちなみにいずれの教派にも穏健派と強硬派が存在している。

 颯はバハールの質問が歴史に多い事が気になった。しかし、それが何故なのかは問う事はしなかった。


 バハールは溜め込んでいた質問を全て教えて貰い、二十五時を過ぎた頃に部屋へ戻って行った。漸く二人切りに戻って安心した玲太郎は穏やかな表情をしていた。

「はーちゃん、お風呂に入ろうよ」

「そうだな。本当だったら玲太郎はもう寝掛けている時間だもんなあ」

 腕を上に伸ばしながら言った。

「そうなのよ。僕、眠いのよ」

 颯はそう言って目をこすっている玲太郎を抱き上げた。

「それじゃあ行くか」

「うん」

 颯の足は返事を聞く前から隣室の浴室へ向かっていた。隣室へ続く扉を開放したままにして、台所側から向かう。玲太郎は少し自己嫌悪に陥っていた。颯は少し落胆している玲太郎に気付いていたが、何も言わず、無言でいつも通りに接していた。


 翌日、初雪が降った。カンタロッダ学院のある一帯はツェーニブゼル領の中では北部に位置する。それでも温暖な空気がクミシリガ湖を北上してその一帯に流れ込んで来る為、冬の到来は領内だと遅い方だ。

「うわぁ、初雪だよ、初雪」

 玲太郎が嬉しそうに言っている。

「もう十四月の一日だもんな。聞いた話では十四月の上旬から中旬に掛けて初雪が降るそうだから、まあこんなもんか。少し早目になるな」

「そうだね。でも室内は年中春みたいだから、外で雪が降っても平気だね」

 窓の外を見ながら玲太郎が言うと、颯は鼻で笑った。

「外に出たら寒いんだけどなあ」

「あ、そうだった。今日の体育は室内だから平気なのよ」

「魔術の一時限は外だぞ?」

「ああ、そうだった! 中でやらないの?」

「外套と襟巻きと手袋で凌いで貰うか」

 颯はそう言いながら衣桁の前で靴を履き替えていた。

「きちんとヌトを起こせよ? この前みたいに一人で食堂に行ったら、ヌトは家に帰すからな?」

「そう何度も言わなくても分かってるのよ。きちんと起こす……」

 少し気落ちした玲太郎は小さく頷いた。

「それじゃあお先」

 颯が退室すると、机に置いてある白い石を手にし、颯の寝台で熟睡をしているヌトに当てた。するとヌトが飛び上がった。

「ひゃわっ!」

 素っ頓狂な声を上げる。玲太郎は苦笑した。

「おはよう」

「ああ、お早う。……はわぁ~あ」

 大きな欠伸を一つすると、目を丸くしたままで暫く固まっていた。

「大丈夫?」

「……うむ。大丈夫ではあるのであるが、眠いのよ」

 玲太郎はヌトを優しく掴んで机に置いた。

「玲太郎はあれよな、わしにも嫉妬をしておるな。それ程までにわしが颯の寝具で眠るのが嫌か?」

「えっ、……えっ?」

 俄に指摘をされて返事の仕様がなかった。驚いた様子でヌトを見ている。

「気付いておらなんだのか……」

 そう呟くと寝転んだ。

「眠ったらダメなのよ?」

「解っておるわ。横になっておるだけよ」

 そして顔を顰める。

「横になったばかりと言うに、弟が来たぞ」

「本当? いつもより早くない?」

「今何時なんどきよ?」

 玲太郎は掛け時計に目を遣る。

「えっとね、七時二十三分くらいだね。いつもより早いじゃない」

 そう言って寝転がっているヌトを掴み、頭の上に置くと衣桁へ向かった。バハールに扉を叩かれる前に廊下に出て、階段の方まで迎えに行った。階段を下りてきたバハールが玲太郎に気付いて、笑顔で声を掛ける。

「おはよう」

「あ、おはよう」

 バハールは寝不足なのか、いつもの綺麗な二重瞼が腫れていた。玲太郎はそれに気付いても何も言わず、食堂へ向かって歩き出した。

「昨夜は遅くまでごめんね」

「ううん、よいのよ。それにしても分からない所が一杯あったんだね。どうしてあんなに溜め込んでたの?」

「ナルアーに中々言い出せなかったからだね。僕もあれだけ溜めるつもりはなかったんだけど、結果として溜まってしまって……」

「そうなんだね。まぁナルアー先生は僕に近寄って来ないから、僕の名前を出して、寮長室に来ればよいよ」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

 食堂に入ると、玲太郎は職員用の席にいる颯とルニリナが目に入った。目が合う事はなく、直ぐに視線を逸らした。

 二人は仕切り台へ行き、盆を持つと小刀と突き匙を匙取り、菜などが盛り付けられた皿を貰い、汁物の深皿を貰い、麺麭の皿も貰う。来た時間が少し早いだけあって茶を飲んで寛いでいる生徒が多く、二人並んで座れる場所がなかった。仕方なく別々に座って食べ始める。玲太郎は仕切り台の方に向いている席に着いていて、食べ終えて食器を戻しに来る人が見えた。頭の上にいたヌトが玲太郎の頭の向きでそれに気付く。

「余所見をせぬようにな」

 そう言うと、玲太郎は正面を向いた。ヌトは机に下りて玲太郎の方を向き、盆の隣で胡坐を掻いた。

 後少しで食べ終わると言う時に、バハールが茶を持って隣に遣って来た。手で口を覆うとバハールを見る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 バハールは茶に角砂糖を一個入れて掻き混ぜていた。

「余所見をせぬようにな」

 玲太郎はそう言ったヌトを見た。ヌトも玲太郎を見ていて見詰め合う形となった。玲太郎はそのまま咀嚼を続け、飲み込むと最後の一口を口に運んだ。そしてまたヌトを見る。ヌトも負けじと玲太郎を見続けていた。

「お、颯が動いた。部屋に戻るのであろうな」

 玲太郎は思わず食器の返却口を見た。颯はおらず、眉を寄せてヌトを見る。

「嘘はついておらぬぞ。今其処そこにおろうが」

 もう一度返却口に視線を遣ると、颯がルニリナと一緒に食器を返却しているのが見えた。

「ほれ見ろ、おったではないか」

 玲太郎は咀嚼を終えて飲み込むと、またヌトに視線を遣り、直ぐに茶に視線を移した。盆の左横に置かれていた茶器の受け皿を持って、盆の右側に移動させた。持ち手に指を掛けて持ち上げると茶器の縁に唇を当てた。徐に茶器を傾け、口に一口含むと、然程熱くなく、二口、三口と飲んだ。ヌトはそれを見ていた。

「今日の玉子包みの具は豆と晩茄だったね」

「うん、美味しかったのよ」

「そうだね」

 二人は微笑んでいた。

「でも麺ぽうはお腹が空くから、白米にして欲しいっていつも思う」

「ポダギルグは米を食べるの?」

「食べるよ。えっと、なんて言うの? 長りゅう種じゃない方、粒が長くない方ね」

「粒が長くない? ……ああ、分かった、短粒米だね。僕は滅多に食べないから、記憶にないよ」

「ふうん、そうなの。美味しいよ。弾力があって、甘くて、腹持ちもよいし、大好きなのよ。長粒種も食べたけど、あれはあれで美味しいね。お米は最高だよ」

「王宮では小麦や大麦が多いから、食べてみたいね」

「えっ、焼き飯とか炊き込みご飯とか、食べた事がないの?」

「食べた記憶がないから、もしかしたら食べた事がないのかも知れない」

「えぇっ、本当?」

「本当。米は食べさせてもらえないんだよね」

 そう言って苦笑するバハールを見て、玲太郎は思わず身を乗り出した。

「それよりも、ナルアー先生から離れた方がよいのではないの?」

 小声で言うと、バハールは苦笑したままだった。

「先に兄上に部屋に居着くのを止めてもらうように言ってもらうよ」

「そんなにずっといるの?」

「うん。監視だからね」

「そうなの……」

 何故か玲太郎が落胆した。

「質問があったら班長室へ行くようになってるって、ルニリナ先生は言ってたけど、ナルアー先生はそれを受け付けてないの?」

「ナルアーは僕の専属と思っているのかも知れないね。とにかく兄上に話してみるよ」

「話せる時間はあるの?」

「夜遅くになるだろうけど、多分ある」

 玲太郎はバハールが首を傾げながら言ったのを見て、不思議に思った。

「ナルアー先生はディッチの部屋で何をしているの?」

「最初の頃は色々話して来ていたんだけど、勉強しているから話すのなら出て行けって言ったら、それ以降は無言でいるよ。椅子も持ち込んでいて、それに座っているからね」

「そ、そうなんだ……。そこまでして傍にいたいんだね」

 ナルアーの執念のような物を感じて、玲太郎は怖気おぞけ立った。


 星の曜日は五時限も他学年の授業を受けなくてはならなかったが、四時限の空き時間があった。体育は最後の十二時限目で、体操着や室内用の運動靴は昼食後に寮長室まで取りに来る事にしているが、一応手提げ袋に入れて衣桁の傍に置いておく。

「歯磨きもしたし、体操着も用意したし、教科書の忘れ物はないね?」

「知らぬがないと思うぞ。己で再度確認しておけよ?」

「もう三度もしたから大丈夫だと思う。……それにしても、僕ってヌトにも嫉妬してたの?」

「わしが訊きたいのであるが」

「うーん……」

「しておらぬのか?」

「ディッチがはーちゃんと話してるのを見たら、してたと思う。他の生徒だとね、ちょっと思う所はあるのよ。ルニリナ先生はダメ。完全に嫉妬してるね。でもヌトは分からないのよ。どうしてだろう?」

「ふむ。……明良と颯が話しておったらどうなのよ?」

「それはしない。何とも思わないのよ」

「それと同じではなかろうか。わしも家族の一員か?」

「ああ、そういう事なのね。分かった」

 玲太郎は納得して頷いていた。ヌトはそれを見て、大きな欠伸をした。

「僕もあーちゃんの事は言えないんだね。同じように嫉妬してるもんね」

「そうであるな。ま、よいではないか」

「良くないのよ。これはみにくい感情なんだよ? 暗い気持ちになっちゃう」

「常にそうではないのであるから、よいではないか。ま、颯には知られる事のないようにな」

「どうして知られたらダメなの?」

「駄目と言う訳ではないが、嫉妬は醜い感情なのであろう? 醜い部分は隠して、綺麗な部分を見せておけばよいのではなかろうか。それが美徳という物よ」

「ヌトはみにくい部分は隠してるの?」

「曝け出しておるが」

「それじゃあ僕もよくない?」

「恥ずかしくないのであれば曝け出せば良かろうて」

「恥ずかしい?」

「玲太郎は直ぐに顔を紅潮させるであろう? 恥ずかしいのであれば止めておく方がよいと思うのであるが……。考えても見ろ。颯に、颯が好きで嫉妬をしてしまうなぞと言えるのか? ま、颯の事だから喜ぶであろうが、であるからと言って態度を変える訳でもないと思うがな」

 玲太郎は想像した。明良さながらに気持ちをあらわにする所を想像しただけで顔を紅潮させた。

「ほれ見た事か」

 横目で見ながら言うと、玲太郎は俯いてしまった。

「僕には出来そうもないね……」

「ま、多くは望まず、明良に甘えておけばよいのよ。若しくは灰色の子に甘えるか」

「うーん……」

「明良と灰色の子だけでは物足りぬのか? 二人でおる時は甘えさせて貰えておるのであるから、それで我慢をせぬか」

「甘える、甘えないは関係ないのよ。嫉妬してしまうのが問題なんだからね」

「であるから、颯に甘えておるのだから、嫉妬をしても我慢をせぬかと言うておるのであるが。明良とて言わずに堪えておる時もあるぞ。明良は玲太郎が赤子の頃からそうであったが、灰色の子や颯にも嫉妬しておるからな。独占欲が強過ぎるのよな。玲太郎と二人切りの時は堪え切れずに泣く程であるものな」

 自分にも当て嵌る事を言われて、玲太郎は萎んだ。

「弟が来たぞ。それにつけても、明良は玲太郎一筋であるから、明良が他者と接しておっても嫉妬はせぬやも知れぬが、颯は常に明良を見ておったからか、一歩退いた所から見ておった事もあって、二人にならぬと玲太郎を甘やかさぬものな。いや、二人の時も明良のように縛りはせなんだか。そう言えば、玲太郎は抱っこを拒否しておったな。それでは甘えられぬではないか。……む? やはり甘えておる時は抱っこされておったような気もせぬでもないな」

 玲太郎は独り言のように言い続けるヌトを放置して、背嚢を背負って靴を履き替えていた。そして手袋を着用しながら振り返る。

「ヌトー、行くよ?」

 ヌトは独り言を続けながら壁を透り抜けて先に玄関広間へ出た。玲太郎は慌てて開扉して廊下に出ると、閉扉して取っ手に魔力を注いで施錠した。広間の方に行き、そこでバハールが来るのを待った。ヌトは背嚢のかぶせの上に座ると、尚も独り言を続けていた。些か耳障りだったが、玲太郎は何も言わなかった。少しするとバハールが遣って来た。

「お待たせ」

「大して待ってないけどね」

 笑顔でそう言うと、バハールも笑顔になる。二人は並んで歩き始めた。バハールは玲太郎の服装を横目に見る。

「ポダギルグは厚着をしているんだね?」

「ああ、これはね、魔術の授業で運動場に出るでしょ? だから必要だろうと思って着たのよ。外で授業を遣ると思うから、寒いはずなのよ」

「今日は間食後のろく時限目が魔術だから、間食後に取りに行こうと思えば行けるね」

「それはそうだろうけど、それにしても、少しの間とは言え、その制服だけで外に出て寒くないの?」

「寒いだろうね。でも平気だと思う」

「王都って雪が降らないの? 降るよね?」

「降るけど、そんなに沢山は降らないね。さん年に一度は大雪になる年があって、融雪隊が出動するんだよ」

「ゆうせつたい?」

「店のある歩道の雪を解かして回る部隊の事だよ」

「ふうん、そんなのがあるんだね」

「ウィシュヘンドにはないの?」

「うーん、聞いた事がないのよ。敷地内の人が歩く辺りは父上が解かしてくれてるけど、それ以外は分からないね」

「ウィシュヘンドにもいると思うよ」

「そうなんだね。また父上に聞いてみる」

 二人は玄関を出た。建物に掛けられている温度調整魔術の外に出て、本当の気温を肌で感じる。

「いっ、意外と寒いね?」

「雪が降るくらいだからねぇ」

 バハールは寒さの余り、身震いをし始めた。

「えり巻き、貸そうか?」

「いや、一旦戻って防寒具を着て来るよ。先に行ってて。ごめんね」

「行ってらっしゃい」

 バハールが戻って行くのを見届けると、玲太郎は校舎に向かって歩き出した。制服のままで校舎に向かっている生徒は走っていた。玲太郎は耳当て付きの毛糸の帽子を被っていたのだが、それを選んで良かったと心底から思った。


 教室に到着すると自分の席に行き、手袋を脱いだ。それを外套の衣嚢に入れてから背嚢を机に下ろした。ヌトはそのまま机に下りて寝転んだ。玲太郎は外套を脱いで簡単に畳み、背嚢はそのまま置いておき、後方の棚に行くと外套を入れ、脱いだ帽子もその上に置いき、それから着席した。

 玲太郎のように厚着をしてくる生徒は疎らだがいるにはいた。

 颯も教室に遣って来ると、席に着いて鐘が鳴るのを待った。バハールは鐘がなる直前に到着して、息を切らせながら席に来た。荷物を机に置くと、手袋やら外套やらを脱いで丸めると棚に突っ込んだ。椅子を引いた所で鐘が鳴り、急いで椅子に腰を掛けた。

 颯は出席を取り終えた後、間食後に外套等の防寒具を取りに行くように言うと、恒例の連絡帳集めが行われ、それを終えた連絡帳を持って退室した。

「ディッチも慌てずに、間食後に取りに行ってた方が良かったんじゃないの?」

「外は寒いから、着て来が方が正解だよ」

「着てない子も割といたけどね。校舎に向かって走ってたのよ」

「僕が来ていた時はみんな着ていたよ」

「そうなの」

 玲太郎は立ち上がると背嚢を背負った。

「もう行くの?」

「うん、そろそろ行こうと思って。寒いから厠に寄って、それから向かおうと思ってるからね」

「まだ時間があるし、荷物を置いたままにして、小用を足したら荷物を取りに戻ろうよ?」

「そうだね。それじゃあ念の為に、棚に入れてからにする」

 背嚢を持ち上げると棚に突っ込んだ。バハールも同様にすると先に厠へ向かって歩き出した。玲太郎は急いで付いて行った。

 二人が厠から戻って来て、防寒具はそのままに教科書が入った荷物だけを持ち、一緒に二階へ向かった。二人共、四学年で別の教科を学ぶ。バハールは月組へ、玲太郎は海組へ入室した。飛び級をする生徒の為に、各組に六席が用意されている。それでも玲太郎はバハール以外と会った事がなかった。

 一時限目は地層の勉強をして、二時限目は医務室へと向かう。開扉すると、笑顔の明良が目に入る。

「いらっしゃい」

「よろしくお願いします」

 ヌトは机に飛んで行って即座に就寝した。玲太郎は静かに背嚢を机に置く。

「この時間は何を自習する積りなの?」

「今日はずっと共通語の復習をやるつもり。最低でも四学年に飛び級したいから、そこまで頑張ろうと思ってるのよ」

「それはそれは……。四学年に飛び級だと、下学院だからそこまで沢山はないけれど、それでも治癒術や薬草術を三学年分の量を詰め込むのは大変なのではないの?」

「それは大丈夫だと思う」

「それにつけても、付与術と魔術が四学年に飛び級するに至らないのではないの? 其方そちらはどうする積りなの?」

「うん? 魔術はもう補習に頼ろうと思ってるのよ。大型の魔石作りと、土から物を作り出すのと消すのは冬休みに練習をやろうと思ってる。その辺ははーちゃんに相談して、見てもらう事になってるのよ。冬休みの間、ルニリナ先生が家に滞在するって言ってたから、ルニリナ先生も見てくれるのよ」

「えっ、そのような話、私は聞いていなかったのだけれど、ルニリナ先生が来る事は何時いつ決まったの?」

 明良は余りの衝撃に、眉間に深い皺が寄っていた。

「今朝決まったからね。ご飯食べた後だったと思う。はーちゃんがもう父上と話してて、決まっちゃってた。僕も驚いたのよ」

「冬休みの間は二人共暇を持て余すだろうから、出来なくはないだろうけれど……」

「あーちゃんは時間が出来た時でよいから、薬草術と治癒術を教えてね」

「それは勿論教えますとも。きちんと毎日時間を作りますとも」

 玲太郎はそれを聞いて笑顔になった。明良も釣られて笑顔になる。

「期末に、修了試験を沢山受けないといけないからね。四教科は六学年分あるし、それ以外もさん学年まで受けられる教科もあるしで、試験が終わるまでは復習を重点的にやるつもりなのよ」

「魔術系の教科も筆記はあるのではないの?」

「それは呪文だったり、術の内容だったりで簡単だから大丈夫、だと思う。治癒術と薬草術はどうなの?」

「私が問題を作る訳ではないから、どうなるのだろうね? 治癒術は呪文や術の内容、病名、症状などで、薬草術は薬草の効能、組み合わせでの効能、組み合わせの良し悪しなどだね」

「実技の試験はあったの?」

「実技はその都度で達成していたからなかったね。最終的には筆記だけだったけれど、実技が伴っていないと受けられない筈だよ」

「へぇ、そうなんだ」

「都合良く、試験をしたい傷を負った患者がいる訳ではないからね」

「それもそうだね。でも研修を終えていないのに校医になれる物なの?」

「其処は医師の免状はあるし、臨床研修を終えているからね。治癒師の研修を兼ねて校医をしているのだけれど、薬草師は研修しなくても大丈夫なのだよ」

「そうだったの。でもきちんとした先生がいないとダメなんじゃなかった?」

「この学院には四人もいるじゃない。四人共、研修を終えているのだよね。だから何かがあっても相談は出来るよ。それにつけても、試験対策にまた問題集を作って来るよ。どの教科がどの学年まで終えているのかを教えて貰える? 今言えるのなら今でも構わないけれど」

「それはね、時間割を見れば一発で分かるのよ。少し待ってね」

 玲太郎が背嚢から時間割を出している間、明良は紙を抽斗ひきだしから出して来た。


 間食後、玲太郎はバハールと共に運動場へ向かっていた。雪はもう止んでいて、雪は一切残っていなかった。運動場に着くと地面も乾いていた。そこへ一歩踏み入れると空気が暖かく感じた。

「上着を着ていて寒さを感じない程度には暖かいね」

「本当にね……」

 拍子抜けした玲太郎は、既に来ていた颯を見ていた。

「イノウエ先生の所へ行って来るね」

 そう言って颯の下へ向かった。颯はそれに気付いて玲太郎を見ている。颯の前に来ると顔を見上げた。

「はーちゃん、どうしてここは暖かいの?」

「寒いから温度調整しいるんだけど駄目だった?」

「寒い中でやるのかと思ってたのにぃ」

「言う程は暖かくないからな? これで気温十度くらいだから外套を着ていて丁度いいくらいだよ」

「ふうん……」

「まあ、帽子はそのまま被ってろよ。似合っているからな」

「そう? でもえり巻きは邪魔そう……」

「今日も移動の練習を遣るんだろう? それに、まだ空気を纏っての移動は出来ないんだろう? それだと風が吹いているような物だから邪魔にはならないと思うぞ」

 バハールも傍に来ていて、玲太郎の後ろで二人の遣り取りを微笑ましく眺めていた。

「ロデルカ君は今日、また高く浮く練習か?」

「はい、そのつもりです」

 玲太郎は思わず振り返った。

「高く浮いて高速で移動する練習が出来るようになるといいな」

「先生はそういう風に練習をしていたんですか?」

「そうだよ。高く浮いて、高速で移動していたなあ。障害物がない分、恐怖心もなかったから、遣り易かったよ」

「高速移動だと、どうしても空気を纏わないと出来ないので、僕にはまだ早いかと」

「空気を纏う呪文は知っているんだろう?」

「はい。でも移動すると目が痛いし、肌で風を感じるし、髪がなびくので、出来てないようです」

「成程。心象と呪文が掛け離れているんだろうな。じゃあ実際に空気で障壁を作ってみるから、今日はそれで練習を遣ってみるといいよ」

 言い終える間に、バハールに障壁が纏わり付いた。

「あっ、凄い! 頬に当たる空気が変わりました」

「解り易いように温度を上げておいたからな。その感覚を憶えて心象でも思い出せるようにな。更衣室が開いているから、外套を脱いで来ればいいんじゃないか?」

「そうします。ありがとうございます」

 満面の笑みを湛えて小さく辞儀をすると、更衣室へ向かった。その姿を見ていた玲太郎は些か頬が膨れていた。

「ずるいのよ。僕もやって欲しいなぁ」

「駄目だな」

「どうして?」

「玲太郎には今必要がないからな。速度をもっと出せるようになって、空気が纏えなかったらな。纏う事は幼少期から水伯に遣って貰っているんだから、多分出来るんじゃないのか?」

「そうだとよいのだけどね」

「操縦免許を取る為にも出来なくては困るなあ」

「それはまあ、卒業までに出来ればよいからね」

 玲太郎はそう言って空を見上げた。

「今日は薄曇りなんだね。また雪が降る?」

「どうだろうな? まあ、雲行きを見ている限りでは今日はもう降らないだろうな」

 颯も空を見上げながら言った。

「これからは晴れ間が少なくなるなあ」

「ここは雪が降り易いの?」

「豪雪地帯らしいぞ」

「えっ、本当? それなら雪合戦が出来るね」

 颯に顔を向けて笑顔になると、颯は玲太郎を見て苦笑した。

「用務員が校内の雪を解かすんだけどな」

「えっ、勿体ない」

「まあ仕方がないな。校内中を解かすって言ってたわ」

「そうなの……」

 残念そうにすると少し俯き気味になった。いつもは目線を合わせる為に屈んでくれる颯なのだが、最近は教師である時はそうせず、玲太郎は首が痛くなってしまった。すると颯の大きな手が頭に置かれて撫でられる。

「今日も移動の練習だけど、一旦着地しないで曲がれるようになろうな?」

「それは分からない……」

 颯が手を離すと、気落ちしている玲太郎は少し歪んだ帽子を元に戻す。続々と生徒が集まって来て鐘が鳴ると、恒例の定型句を口述した後にそれぞれが練習に向かったり、更衣室へ防寒具を置きに行ったりしている。玲太郎は防寒具を着たままで、その場から歩いて運動場の端へ移動する。

 最初は順調に前進していたが、次第に速度が落ち、はなを啜る音が聞こえる。ヌトは不思議に思い、玲太郎の顔を覗き込む。

何故なにゆえ泣いておるのよ? 泣くような事があったか?」

 玲太郎は手袋で涙を拭った。

「なんでだか涙が出て来るのよ……」

「これはわしでは対処し切れぬな」

 玲太郎は立ち止るとまた涙を拭った。すると玲太郎の前に颯が瞬間移動で姿を現した。直ぐに跪いて玲太郎の肩に手を置く。

「どうした? 何があったんだ?」

 心配そうな颯の顔を見た玲太郎は、益々涙を流した。困惑した颯は、外套の下に着ている上着の衣嚢から手巾を取り出し、玲太郎の涙を拭う。

「俺には話せないのか? それなら兄貴の所へ行くか?」

「ちっ、ちがっ……。話っせるけど、うっうー、僕、……僕、凄っくワガママなっのよ……」

 そう言うと颯に抱き着いた。颯は玲太郎の背中を擦る。ヌトは大きな欠伸をしながら横たわって浮いていた。

「ま、此処ではあれだから、上空へ行って遣れよ」

 颯は玲太郎を抱き上げて上空へ行き、他の生徒の目に付かないようにした。玲太郎が泣き止むまで待った。十分は待っただろうか。呼吸も落ち着いたようで、紅潮した顔で伏し目にしている。

「落ち着いたか?」

「……うん」

「それで、何があったんだ?」

 玲太郎は颯から目を逸らす。

「あの、ディッチに魔術をかけて、僕にはかけてもらえなかったのが辛かったのよ」

「それで?」

「辛かったのよ……」

 小声で呟いた。

「それから?」

 玲太郎は口を結ぶと、暫く無言になった。そして意を決して口を開く。

「いつもみたいに目線を合わせてくれなかったのも辛かったのよ」

「それで終わり?」

「……うん、終わり」

「そうだったんだな。それは悪かった。ご免な。でも風を纏う魔術は必要ないだろう?」

 颯が優しく言った。玲太郎は颯と視線を合わせる。

「それはそうなんだけど……」

「それと、あの場で玲太郎と目線を合わせていたら、他の生徒にも遣らないといけなくなるから、それは理解してくれよ?」

「うん……」

「もう少しこのままでいるか?」

「ううん、大丈夫。僕がワガママ言っちゃったからごめんね」

 颯は鼻で笑うと無言で着地した。

「泣いたし、草臥くたびれたのなら兄貴の所へ行っていいからな? 無理はするなよ?」

 そう言いながら玲太郎を下ろした。

「うん、ありがとう」

「それじゃあ他の生徒も見ないといけないから行くからな。また後でな」

「うん。ごめんね、ありがとう」

 申し訳なさそうにしている玲太郎を置いて、颯は他の生徒の所へ行ってしまった。玲太郎はその後姿を寂しそうに見詰めていた。

「明良さながらに泣き落としが始まったかと思うておったのに、何故なにゆえ嫉妬したと言わぬのよ。焦れったいわ」

「僕、あーちゃんには優しくしようと思う」

「うむ、そうして遣れ」

 玲太郎は頷くと、浮き上がって前進を始めた。ヌトは帽子の耳当てに掴まって一緒に前進した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ