表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠長に行こう  作者: 丹午心月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/43

第十七話 しかして心労が絶えず

 あれから二ヶ月が経ち、十二月に入って冷たい風にも慣れ始めた頃、玲太郎は今の生活に大分馴染んでいたが、玲太郎の組は更に三人が魔力消失に因って退学をした結果、生徒数が二十一人となった。学院全体では三十人強の生徒が魔力消失で退学をし、次は自分の番だと恐れている生徒が多かった。

 その所為で相談をしに訪れる生徒が増えた明良は辟易としていた。そして精神的な負担が増えると、その分だけ玲太郎に甘えるようになり、玲太郎は萎れるしかなかった。

 そして、今日も今日とて明良が朝六時に寝間着姿で遣って来て、颯の寝台で眠っている玲太郎を魔術で浮かせて自分の方へ寄せると抱き、玲太郎の寝台で一緒に眠り始めた。小一時間程ではあるが明良には大切な時間となっていた。明良にとってはそうであっても、颯にとっては迷惑でしかなかった。兄の気配であろうと、突然現れられると同時に目が覚めてしまうからだ。

(また六時に来てるよ……。仕方ない。寝られないから風呂にでも入って来るか)

 気持ちを切り替え、小さな光の玉を出して目覚まし時計で時間を確認した後、それを元の位置に戻し、本を一冊選んでから静かに隣室へ行く。居間に行って長机に本を置いてから地下へ向かった。


 七時になると颯の目覚まし時計が鳴る。玲太郎はそれを止めて起きていたのだが、ここ最近は止められずにいた。集合灯には明かりが点いていて、室内は明るかった。眩しそうに目を細める玲太郎は、明良に抱き締められていて身動きが取れない。

「はーちゃん」

 颯を呼ぶと、目覚まし時計を止めに来た颯が玲太郎を見下ろした。

「お早う」

「おはよう。今日もお願い。動けないのよ……」

「はいはい」

 先ず目覚まし時計を止めてから玲太郎の靴を持って来て、それから掛け布団をめくると、玲太郎の体に巻き付いている明良の腕を剥がす。ようやく動けるようになった玲太郎が起き上がって来ると、明良がうっすらと目を開ける。颯は明良の腕を離した。

「お早う」

「お早うじゃないだろうが。此処ここの所、毎日来やがって。お陰で俺は毎日六時起きだぞ」

「おはよう、あーちゃん。来るのが早過ぎたらダメなのよ?」

 そう言うと衣装棚の方へ向かって行き、颯は椅子に座った。

「玲太郎成分が足りていないのだから仕方がない」

 起き上がってベッド脇へ行くと靴を履いた。

「颯だって玲太郎と同じ寝台で眠っているのだから、私が少しくらい一緒に眠ってもよいだろうに」

 颯は明良の方に顔を向ける。

「それは構わないけど、瞬間移動で傍に来るなよ。驚くだろうが」

「颯の気配感知の感度が良過ぎて、隣室の台所付近に到着するようにしても同じだろう?」

「遠回しに、来るなって言ったんだよ」

「解っているけれど、玲太郎成分が足りていなくて来ざるを得ないのだから、一時間程度我慢して貰えない?」

「えっ、まさか毎日来る気かよ?」

「うん、その積り」

 明良は露骨に嫌そうな表情をする颯を横目で見る。

「颯も玲太郎と一緒に眠っているのだから、私が一時間程度眠る事も許して欲しいね」

「いやいやいや、それとこれとは関係ないだろう? 玲太郎と俺が一緒に寝ているのは、玲太郎が寝ている間に浮き上がらせないようにする為なんだぞ?」

「それは知っているよ。それにつけても、精神的に疲労しているのか、六時になると目が覚めてしまうのだよ。私を癒せるのは玲太郎だけだから、投薬していると思って許して貰えない?」

「そう言えば、魔力消失で不安がっている子が多いんだってな」

「そうなのだよね。本来ならば学年主任が話を聞く筈なのに、何故か知らないけれど私の所に来るのだよね。本当に参るよ。一度話を聞くと、調子付いて何度も来る塵が増えて、出禁になる塵も増えて困っているのだけれどね」

「ふうん……」

 明良の心労を察する事は出来るが、だからと言って譲る気は更々なかった。

「まあ、俺が起きている時にして貰える? 朝は本当に勘弁して貰いたいわ」

「颯も融通が利かないね。こういう時は、微笑んで快諾する所だろうに」

「する訳がないわ」

 即答する。

「まあ、原因は俺だから強くは言いたくないけど、朝は本当に止めてくれよ」

 明良はそう言った颯を睨み付けて立ち上がった。服を着替えて隣室の地下室へ顔を洗いに行った玲太郎を追い掛け、それを見た颯は小さく溜息を吐いて、読み掛けていた本を開いた。

 玲太郎が寮長室に戻って来ても、明良は来なかった。

「あーちゃんはイノウエ邸に帰ったからね」

「そうなんだな。有難う」

 玲太郎は颯の傍に来ると机に寄り掛かった。

「あーちゃんも大変だから、少しは許してもらえない?」

「玲太郎は目が覚めないからいいよな。俺なんか兄貴が来た瞬間に目が覚めるんだぞ?」

「その後は眠られないの?」

「寝られない」

「どうしても?」

「そうだ。だから風呂に入って、隣室で読書して時間を潰しているんだよ」

「そうなの。それじゃあダメだね。あーちゃんには来ないように言うね」

「仕事帰りと、食後に来るように言って貰える? 玲太郎が言えば、言う事を聞くと思うから頼むよ」

「うーん、言う事を聞いてくれるかどうかは、少し難しいと思うけど言ってみるね。所でヌトは?」

「隣の寝台で寝ているよ。起きて来ないな」

「また向こうに置いて来たの?」

「玲太郎を起こした時に起きなくなっているから、疲れているんだと思うよ」

「でもそろそろご飯だから、起こしてくるね」

「うん。俺は開門をしないといけないから行って来るわ」

 玲太郎はまた隣室の寝室へ行くと、ヌトを掴んで寮長室に戻って来た。颯は言った通り、部屋にはいなかった。

「あー、はーちゃん、行っちゃってる」

「そうであるな。ま、挨拶なぞ何時いつでも出来るからよいではないか。弟が来るまで待つとするか」

 そう言うと玲太郎の手を開き、颯の机の上に下りて寝転がった。玲太郎はそれを見ると颯の椅子に座る。心配そうな表情をするとヌトに顔を近付ける。

「最近、良く眠ってるけど、どうかしたの? 体の調子が悪いの?」

「いや、何、単に眠いだけよ。わしは何年か起き通しで、何年か纏めて眠るという生活を送っておるから、そろそろ睡眠時期が来ておるだけの話よ」

「そんな器用な事が出来るの?」

「今まで遣っておったから出来るのであろうな」

「なるほど。それじゃあそろそろ眠りに就いて、起きなくなっちゃうの?」

「そうならぬように眠っておるのであるが、睡眠が足りぬのであろうな。眠いのよ」

「ふうん。それじゃあ僕が勉強している間は眠っててもよいよ? 起こすから」

 ヌトは目を開けて玲太郎を見ると鼻で笑った。

「あー、今、鼻で笑った? きちんと起こせるよ?」

つついて起こすのは止めて欲しいのであるが、それを禁止するとどう起こすと言うのだ? 声を掛けるか? それともわしを掴んで次の教室へ移動するか?」

 玲太郎は姿勢を戻すと腕を組んだ。

「うーん、そう言われると出来ないよね。でも医務室ならあーちゃんしかいないから大丈夫だよ?」

「ふむ。眠るのは明良がおる時だけにするか」

「それにしても、そうやってまとめて眠るのってヌトだけなの?」

「それはどうであろうな? そういった話はした事がないのでな」

「ズヤとノユはあれからルニリナ先生の傍にいるでしょ。一緒に眠ってるの?」

「気になるのであれば、ノユとズヤに訊けばよいではないか」

「うーん、なんか隙がなくて、話しかけ辛いのよね……」

「わしが隙だらけのように言うでないわ」

「実際そうでしょ。起こすまで眠ってるし、ずっと机に寝転がってるし……」

「最近は特に緩んでおるかも知れぬな。ま、何事もなく済んでおるから良かろうて。それにつけても、あの二体にも隙はあると思うがな」

「そう? なんか鋭そうな気がする」

「わしと同じ顔、同じ声、同じ髪色、同じ目の色、同じ体格ぞ。わしと大差ないわ。ニムとハソにもそのような物を感じた事はあるか?」

「それは…」

「弟が来たぞ」

 ヌトが話を遮ると、玲太郎は扉の方に顔を向けた。そのまま立ち上がって衣こうの傍へ行き、靴を履き替えて扉の前で待ち構えた。


 今日は一時限目から医務室で、ヌトは机に寝転がると直ぐに寝息を立てていた。

「悪霊が良く眠っているね。体調でも悪いの?」

 いつもなら我関せずの明良が訊くと、玲太郎は明良に顔を向けた。

「あーちゃん、どうしたの? いつもは無視するのに……」

「それだけ寝息を立てられてしまうと、嫌でも耳に入って来るからね」

「そうだね、確かにスースーって音がするね。ふふ」

 玲太郎はおかしそうに笑った。

「なんかね、ヌトはいつもまとめて眠ってて、最近睡眠時期に入ってるみたいで眠いんだって」

「そうなのだね。これでは役に立たないのではないの?」

「医務室にいる時だけ眠るって言ってた」

「そう。それでは私が何時も以上に気を付けていなければならないね」

 表情が明るくなると微笑んだ。

「でもあーちゃんは集中すると僕の言動にも気付かないから、無理はしなくてもよいよ」

 そう言うと明良の表情が一変し、半泣きの表情になってしまった。

「あっ、あーちゃんが集中するのは、悪い事ではないから安心してね。僕が暴走しなければよいだけの話だし、魔術を使ってなければ大丈夫なのよ」

 明良は泣きはしなかったが、悲愴な表情で玲太郎を見詰めていた。

「それはそうなのだけれど、私もつい集中してしまって、玲太郎に気を配る事も忘れてしまうという失態を何度も仕出かしているから、玲太郎が私を信用出来ないでいるのだと思うと、遣る瀬ないのだよね」

「うん? 信用はしてるのよ。僕が暴走をしなければよいだけだから、あーちゃんこそ僕を信用して、いつも通りでお仕事に集中してね」

 そう言って笑顔を見せると、明良は渋々頷いた。

「あ、そうだった。はーちゃんが来るなら夜に来てって言ってた。朝ははーちゃんが可哀想だから、僕がお風呂に入っていない時間に来て貰える?」

 明良の眉が一瞬動くと、珍しく作り笑いをする。

「颯にそう言うように言われたの?」

「それもあるけど、僕も夜に来てくれた方が、起きてるから助かるなって。話も出来るし、顔も見えるでしょ?」

 明良の笑顔が、本物の優しい笑顔へと変わる。

「そう? それでは風呂上りに行こうか。何時頃なら大丈夫なの?」

「そうだねぇ、…うーんと、二十四時にお風呂に入るようにするから、二十四時半頃なら大丈夫だと思うよ」

「何時頃に就寝する積りでいるの?」

「二十五時」

「それでは半時間しか相手にして貰えないの?」

「えっ、五じっ分じゃダメなの? それじゃあお風呂に入る時間をもう少し早くするね」

 そうは言ったものの、いつも明良はその時間に何をしているのか、ふと気になった。

「あーちゃんはお風呂はいつも何時頃に入るの?」

「二十八時頃だね」

「それまでは何をしてるの?」

「書類仕事の残りを遣って、後は主に読書だね。それがどうかした?」

「それじゃあお仕事の邪魔をしてしまう事になるの?」

「それは大丈夫だよ。二十一時頃に屋敷に戻って仕事を片付け始めて、大抵二十三時前後には終わるから、後は読書をしたり、お父様とお茶を飲んだり、酒を飲んだり、色々しているね」

 余りにも意外性があり、玲太郎は思わず目が丸くなった。

「えっ、あーちゃんがお酒を飲むの?」

「飲むよ? 駄目だった?」

 玲太郎は慌てて首を横に振る。

「意外だったから、少し驚いただけ」

「夕食後には水伯とばあちゃんの三人で飲む事もあるのだよ」

「へぇ! そうなんだね。楽しそうでよいね」

 笑顔でそう言う玲太郎を愛おしそうに見詰めていたが、にわかに表情が引き締まる。

「さて、雑談はこれで終わりにして、勉強を遣ろうね」

「分かった」

 笑顔で頷いた玲太郎は、こうして話した事で安心し、翌朝にも明良が来るとは思ってもいなかった。

「今日は何を遣る積りなの?」

「今日はね、呪術の復習と予習をやろうと思ってるのよ」

「ああ、次は呪術の時間だからだね」

「思ったよりも早く二学年で習う分を終えそうだから復習と予習をね。……それにしても、木片で苦労してる子がまだ半数くらいいるから、それを見ると順調過ぎて怖いなって思うのよ」

「順調過ぎると言う程でもないけれどね。玲太郎ならばそれ程度は出来て当然なのだから、周りは気にせずに己と向き合って進めて行けばよいと思うよ。呉々も慢心だけはしないようにね」

「分かった。気を付けるね」

 そう言って微笑むと、背嚢から呪術の教科書と帳面と鉛筆入れを取り出した。明良は暫く玲太郎を見詰めていたが、それに気付いた玲太郎に一瞥されると我に返り、自分の遣るべき事を始めた。明良は直ぐに集中して、ヌトの寝息の事など全く気にならなくなったが、玲太郎は暢気に寝ているヌトが気になって仕方がなかった。

(はーちゃんが、僕が赤ちゃんの頃に世話をしていた時、夜にちょこちょこ起きるのが結構辛かったって言ってたよね。ヌトもちょこちょこ起きてるから辛いのだろうか? それにしても、どれくらい起きてたのだろうか? それによっては眠る時間が違って来るよね……)

 ヌトを見てはいらぬ思考が頭をもたげ、全く集中が出来ないでいた。注意する人もおらず、玲太郎は帳面に落書きを始めた。落書きとは言っても、呪術を掛ける時の気持ちの籠め方を絵にしていただけだったのだが、興が乗って授業の終わりを告げる鐘が鳴るまで描いていた。

(いけない。落書きに夢中になっちゃってた)

 慌てて鉛筆を鉛筆入れに入れ、帳面と教科書を畳むとヌトを起こし始めた。

「ヌト、起きて。授業が終わったから教室に移動するよ」

 ヌトは勿論の事、明良も無反応だった。机に出していた物を背嚢に入れると、ヌトを突き始めた。

「二階のルニリナ先生の教室で授業だからね。ズヤとノユに会えるよ?」

 突くのは止めて席を立ち、背嚢を背負うと椅子を机の中に入れた。明良の傍に行き、明良の耳を引っ張った。

「んっ!?」

 突然の事に声を上げると、玲太郎は耳から手を離す。明良は玲太郎の方に顔を向けた。玲太郎が苦笑している。

「ごめんね。授業が終わったから、次の教室に移動するから行くね」

「ご免ね、思い切り集中していたよ」

 玲太郎を抱き締めると嬉しそうに微笑んだ。相変わらず寝息を立てているヌトを一瞥する。

「悪霊は良く眠っているようだけれど、置いて行くの?」

「当然連れて行くよ」

「置いて行っても構わないよ? あれでは役に立たないのではないの?」

「起きるから大丈夫」

 明良は玲太郎を離すと、玲太郎が満面の笑みで明良を見た。

「それじゃあ行って来るね」

 元気良く言うと、ヌトを掴んで医務室を退室した。明良にああ言った物の、本当に起こせるのか、全く自信がなかった。急いで二階にあるルニリナの教室へ行き、いつもの席に着くとヌトを机に置いた。すると待ち構えていたノユとズヤが傍に遣って来る。

「玲太郎、来たか」

 ノユが笑顔で言うと、玲太郎も釣られて笑顔になった。ズヤが机に置かれているヌトを見る。

「おや? ヌトは眠っておるのか?」

「そのような時期に入っておったのか。一旦眠ると当分は起きぬ筈であるが、玲太郎が眠っておるヌトを連れ歩く積りでおるのか?」

「えっ?」

 思わず声が漏れる。

「玲太郎しかおらぬから平気ぞ」

 玲太郎はそれでも上着の胸の衣嚢から手帳と繰り出し鉛筆を取り出し、文字を書き始めた。ノユとズヤが覗き込む。

「一度眠ると中々起きぬが、起きぬ事はないぞ」

「ヌトの事はノユが一番詳しいからな。間違いはあるまいて」

 不安そうにしてる玲太郎にズヤが言うと、玲太郎は少し安心した。玲太郎と二体は、気持ち良さ気に寝息を立てているヌトに視線を遣った。


 ヌトが起きたのは、七時限目の魔術の授業が始まる前、颯が怒りで眉を吊り上げた時だった。飛び起きた瞬間に、玲太郎の手の中から擦り抜けてどこかへ飛んで行き、しばらく戻って来なかった。

 授業開始の鐘が鳴ると、運動場で浮遊の練習が始まり、玲太郎は宙に浮く練習ではなく、約一尺六寸浮いて動く練習を開始していた。週末に北の畑で明良に抱き締められ、試しに呪文を唱えた事で動けるようになっていた。しかし、一定の高さで前方に動くという物で、縦横無尽と言う訳にはいかなかった。

 玲太郎はヌトがいない事で一抹の不安を覚え、颯に一瞥をくれたが、颯は他の生徒を見ていて玲太郎の方には向いていなかった。仕方なく浮き上がると、徐に前進し始めた。蝸牛かたつむりが這うが如くの速度で進んでいる所へヌトが舞い下り、玲太郎の髪をひと房握った。

「やれやれ、参ったわ。ま、そのお陰で目が覚めたのであるがな」

 玲太郎は周りを見回してから前を向く。

「どこへ行ってたの? それにしてもぐっすり眠ってたね。スースー言ってたのよ」

「ちと用があったのを忘れておってな、済まぬな。今は目が覚めておるから平気であるが、また眠くなると思うぞ。此度こたびは大分起きておったからな」

「ええ? そうなの? それじゃあ誰が僕の傍にいてくれるの?」

「それはわしがおるに決まっておろうが。きちんと起こせよ」

「起こせよって……、起きなかったのはヌトでしょ」

「済まぬ。確かに眠りこけておったわ」

「僕、ニムとハソが傍にいるのは嫌だよ?」

何故なにゆえよ?」

「ニムは父上に色々とやってるでしょ? それが許せないのよ。ハソはなんか嫌。合わない」

「そうなのであるな、解った。わしが眠りこけぬよう、玲太郎が起こせよ?」

「だからヌトが起きないんじゃないの」

「起きるまで起こし続けるのよ」

「僕だと無理だったよ? はーちゃんに起こして貰う? 念話が出来るんだよね?」

「颯? 颯はちと……」

 口籠り、眉を顰めた。

「じゃああーちゃんに頼んでみる? でも悪霊って言って嫌ってるから、協力してもらえるだろうか? もらえない気がするなぁ……」

 玲太郎は協力者を探そうとしていたが、ヌトはそんな事はどうでも良かった。

(わしが起きられぬようであれば、誰かが変わりを果たす事になるのであろうか? 颯も明良も、それを許すとは思えぬがな……)

 玲太郎に起こされた記憶が全くなく、颯の怒りによって目覚めた事だけは理解していた。

(これは若しや、颯に家に帰れと言われるのではなかろうか。いや、じっ中八九言われるであろうな……)

 段々と気落ちし始めた頃、玲太郎の速度が落ち、殆ど進まなくなった。

「どうかしたのであるか?」

「うん?」

「動きが止まっておるぞ」

「だって、曲がれないんだもん」

「ああ、角であったか。それは済まぬ」

 玲太郎の後頭部にいるヌトは、前を見ていなかった。玲太郎は着地をすると足で向きを変えて、また浮き上がった。そして蝸牛のように進む。

「それにしても速度が出ぬな。何故なにゆえこのように緩慢なのよ?」

「呪文を唱えた時、物凄い速度で進んで怖かったのよ。だからゆっくりでよいの」

「そうであったか。それは済まなんだ。……む、弟が来るぞ」

 後ろからバハールが遣って来て、玲太郎を避けて抜き去って行くと、玲太郎はその後姿を眺めていた。

「ディッチも速度が上がって来たね。僕とは大違いなのよ」

「いや、玲太郎が自制しておるだけの話であろうが。本来ならば、もっと速度が出るであろうて」

 動き回れる生徒の内、一番速度が出ている生徒はバハールだった。

「そうだね。でも怖いから仕方がないのよ」

 バハールと玲太郎以外にも動く練習をしている生徒は六人いた。玲太郎はその中で最も速度が遅かったが、それに関しては全く気にしていなかった。時折颯が視線を送っていたが、玲太郎もヌトも気付かずに授業を終えた。

 六時限目が体育だった事もあって、生徒の半数程が体操着のままで授業を受けていて、玲太郎もその内の一人だった。八時限目は四階にある魔術室で行われる事になっていて、運動場の北側にある更衣室へ慌てて向かっている生徒が多くいた。玲太郎は颯に呼び止められていて、颯と向き合っていた。

「お前、どうして眠っていたんだよ?」

 颯が呼び止めたのは、正確にはヌトだった。ヌトは神妙な面持ちで目を伏せている。

「どうしてと問われても、眠っていたからとしか答えようがないのであるが」

うちに帰って寝ろよ。もう玲太郎のお守はしなくていいから、そうしろよ」

「えっ、僕、一人ぼっちになっちゃうの?」

 玲太郎が思わず言ってしまうと、颯は玲太郎に視線を移す。

「それが普通なんだよ。寧ろそうなりたくて此処に入学したんじゃなかったのか。だからヌトがいないくらいいいだろう?」

「はーちゃんだって、ヌトを連れて学校に行ってたじゃない」

「連れて行っていたんじゃない、付いて来ていたんだよ。一緒にするなよ?」

「そうなのである。わしが付いて行っておったのよ。本来ならば玲太郎の傍におる筈であったのであるが、ハソやニム、それに灰色の子が近くにおるから、わしがおっても無意味と思うてな」

「ふうん……」

 そうは言われても腑に落ちない玲太郎は険しい表情になる。

「僕がきちんと起こすから、一緒にいたらダメ?」

「起きていられるのなら許す。寝ているのであれば許さない。この話は後でまたしよう。もういいぞ、着替えて来な」

「はーちゃんの授業の時は許してもらえない? ダメ?」

「今の授業で俺がずっと玲太郎を見ていられたと思うか?」

 玲太郎は反論しようと口を開けたが、言える事がなくて直ぐに閉じた。

「何も言えないだろう? そういう事なんだよ。玲太郎が空高く飛んだ時だって、ヌトが叫んだから気付けたんだぞ? まあ、あの時は玲太郎の気配が妙な動きをして、それに気付いたとほぼ同時にヌトに声を掛けられたんだけどな。兎に角だ、ヌトが駄目なら俺が必ず行くから、ハソ達もいらなくなる。なんならノユかズヤに来て貰うか?」

「ええ、……ヌトがよいのよ」

 ヌトはそう言われて嬉しく思い、自然と頬が緩んでいた。

「それじゃあ甘やかさずに、きちんと起きていて貰えよ? そうでなければ、ヌトが傍にいる意味はないんだからな。話の続きは夜にして、もう着替えて来な。二度目だからな」

「……分かった」

 不満そうではあったが、頷いてから更衣室へ向かった。更衣室では六人が着替えていた。玲太郎は自分の服や荷物を入れた細長い棚に魔力を注いで開錠すると、先ず上着を脱いだ。

「あー、また夜に説教をされるのであろうな。起きられなかった事が悔やまれてならぬわ」

 ヌトは両手で頭を抱えていた。玲太郎は小さく二度頷いた。服掛けに掛かっている襯衣しんいを取り、袖を通すと留め具を留めて行く。そして運動靴を脱いでズボンを穿き替え、靴も革靴に履き替える。

「玲太郎の傍にはわしがおらねば、他の兄弟では傍におる事が出来ぬであろうな。颯のあの口振りからして、わしが下手を打てば、わしすらも危ういのは明白。これは困った事になったわ。……待てよ? 既に下手は打っておるのであったわ。むう、これは本に困った事になっておるわ」

 玲太郎はヌトの言に耳を傾ける事はなく、体操着を畳んで手提げ袋に入れ、運動靴も別の袋に入れると、上着を羽織って袖を通した。留め具を留めて、背嚢を背負い、残りの手提げ袋ともう一つの袋を持って棚の扉を閉めた。一人で何かを言い続けているヌトの背中を突いて更衣室を後にした。余分な荷物を置く為、一旦教室へ向かう。ヌトは置いて行かれないように、慌てて玲太郎の髪を一房掴んでいた。


 九時限目が終わり、六学年の歴史の授業を受けていた玲太郎は、一先ず自分の組の教室へ戻った。先にバハールが来ていたようで、既に自分の着席していた。玲太郎は教室後方の棚に全ての荷物を入れると、自分の席に横向きで座る。

「なんだかこの教室が一番よいね」

 不意に話し掛けられたバハールは笑顔になる。

「そうだね。所で、魔術の授業が始まる前、ポダギルグの方を見たイノウエ先生が顔を真っ赤にしていたけど、どうかしたの?」

「ああ、見てたの? あれはね、昨夜イノウエ先生が僕の分のお菓子を食べたから、僕が変な顔をしたせいなのよ。笑いを堪えてたんじゃない?」

「そうなの。イノウエ先生って食い意地が張っているんだね」

「そうなのよ! この前も僕の分のお握りを食べちゃうし、大食いなのよ。ご飯も三人前は食べるからね」

「それだと食堂の量では足りなくない?」

「足りてない、全然足りてない。だから夜は一杯食べてるのよ。僕の分も取ろうとするからね」

「ふふふ、そうなんだね。イノウエ先生は体が大きいから、分かるような気もするよ」

「ディッチのお兄さんはどうなの? 一杯食べる?」

「そうだね、……出された物は残さず食べているけど、一人前だと思うよ」

「そうなの? アメイルグ先生もさん人前は食べるよ?」

「本当? それは意外だね。アメイルグ先生は小食に見えるのにね」

「それは偏見だよぉ。美人だし、細身だから、そう思うのは仕方がないけどね。僕も大きくなったら一杯食べたいんだけど、いつになったら大きくなるのかが分からないんだよね」

「早く大きくなれるといいね」

「うん。そうしたらイノウエ先生に取られなくなるのよ」

 玲太郎は楽しそうに笑っていると、釣られたバハールも笑っていた。

「上手く誤魔化せたようで、良かったではないか」

 ヌトの言につい頷きそうになった玲太郎は、頭の動きを咄嗟に止めた。

「それにしても、掃除の班にいた女子がイノウエ先生の事を凄い目付きで見ていたよ。睨んでいたと言うか、とにかく鋭い目付きで見ていたよ」

 渋い表情をしたバハールを見て、玲太郎も眉が寄った。

「そんな事があったんだね。なんでそんな風に見るんだろうね。イノウエ先生が嫌いなのかも知れないね」

「その程度ならよいのだけどね。名前を覚えていないんだよね。なんて言う子だったか……」

「あはは。僕も覚えてないのよ。組の人数が減って、掃除の班はほとんどが六人から四人になったもんねぇ。うちの班は女子が一人しかいなかったのに、その子もいなくなって男子ばっかりになったけど、その方がやり易くてよいよ」

「奇妙な鼻声で話しかけられていたから、イノウエ先生に相談をしていたんだよね。そのせいかも知れない」

 笑顔が一変して、目を丸くした。

「えっ、そうだったの?」

「他にもいるんだけど、先生に相談をしたら直接注意をしてくれたみたいで、ありがたい事に全部なくなったよ」

「やっぱり美形は凄いね。それで、その中に気に入った子は一人もいなかったの?」

「ここには勉強をしに来ていて、そういう子を探しに来ている訳ではないからね」

 苦笑しながら言うと、玲太郎は「へぇ」と声を出し、呆気に取られて頷くだけだった。

「前に授業で、イノウエ先生が希望した子だけ凄く高い所まで一緒に飛んでくれたよね。覚えている?」

「覚えてるよ。僕は希望をしてなかったのに連れて行かれたもん」

 渋い表情をしている玲太郎を見て、バハールが笑った。

「ふふ。僕はあれが本当に楽しかったから、高く飛べる練習に切り替えようかと思っているんだよね」

「それはよいかもね。ずっと同じ事をやってたら、行き詰まった感じがして息苦しくなっちゃう」

「それなのだよね。飽きたという訳ではないんだけど、速度が中々上がらなくてね……」

「僕も動く練習を始めて間もないけど、もう行き詰まった感じがしてるよ」

 そう言って苦笑していると、教室の扉が開いて、颯が顔を出した。

「玲太郎、ちょっといいか」

「うん」

 頷きながら立ち上がると、颯の所へ向かった。ヌトは机に寝転んだままだった。

「どうかした?」

 玲太郎が傍に来ると、屈んで白い石を差し出す。

「これ、作ってみたんだけど、ヌトを起こす時に体に当ててみて。起きたら成功、起きなかったら失敗だから作り直す」

 玲太郎はそれを摘むと、凝視した。

「これは何?」

「ヌトが嫌いな、なんと言えばいいのか、……そうだな、波長が入っているんだよ。ヌトがそれで起きれば成功だから、他の奴等にも効くぞ」

「僕が持ってても、なんともないけど?」

「それはそうだろう。玲太郎が感じていない波長だからな」

「そんな物があるの?」

「あるよ。奴等はこの波長が嫌いなんだよ。ハソとニムも嫌いで逃げるからな、ノユとズヤも嫌いだと思う」

 玲太郎は目を丸くした。

「へぇ、そんなのがあるんだ。凄いね。ヌトが眠ったら試してみるね。ありがとう」

 笑顔で言うと、颯が立ち上がった。

「それじゃあな」

 玲太郎の頭を乱雑に撫で回すと立ち去った。玲太郎は眉を顰めて手櫛で髪を梳き、閉扉して席に戻った。石は上着の腰にある右側の衣嚢に入れた。

「イノウエ先生、なんて言ってたの?」

 そう訊かれて一瞬固まったが、直ぐ笑顔になった。

「仕事が終わったらお菓子を買いに連れて行くから、用意しといてって」

「そう、それは良かったじゃない」

 バハールが満面の笑みで言うと、玲太郎は頷いた。

「そうだね」

「三回の食事と二回の間食では物足りないよね。僕も休日には町に行って買いたいんだけど、護衛の関係で行けないんだよ。ナルアーは私一人では無理ですと言って連れて行ってくれないんだよね」

「僕、護衛なんて付いた事がないけど、やっぱり必要なものなの?」

「僕は一応王弟だからね……。ポダギルグも大公令息だから必要なのは同じだと思うよ。でも世界最強と謳われる大公がいるし、イノウエ先生にアメイルグ先生もいるから平気でしょ」

「僕の場合、出かける時は必ず一人はいるから、それで足りてるのね。なるほど」

「よいよね、護衛いらず」

 羨望の眼差しで玲太郎を見ると、玲太郎は苦笑する。

「ディッチも魔力は凄いんだから、その内にいらなくなるんじゃないの?」

「そうだとよいのだけどね」

「イノウエ先生もアメイルグ先生も、剣術も習ってたから魔術が使えなくても強いのよ」

「えっ、魔術だけじゃないの?」

 バハールが意外そうな表情になると、玲太郎は笑顔になった。

「イノウエ先生も週末は屋敷に戻ってるんだけど、何をやってるのか、とっても気になって聞いたら、剣術の稽古をやってるって言ってた」

「アメイルグ先生も剣術を?」

「うさ晴らしにたまにやってるって言ってたね」

「二人が対戦すると、どうなるんだろうね」

「そう言えば、そういう話は聞いた事がなかった……。どうなるんだろうね?」

「アメイルグ先生が勝ちそうな気がする」

 笑顔で言うと、玲太郎が少し驚いた表情になった。

「そう? 僕は同じくらいだと思うけどね。どっちかと言うと、イノウエ先生だね」

 玲太郎は最近、バハールが時間外にも関わって来るようになっていて、些か不満を抱えていた。今はまだ遠回しに窺って来る程度なのだが、不満が僅かずつ募り、負担になりつつあった。たわいない会話をしているようで、その実、軽い駆け引きが繰り広げられていて、玲太郎は精神を削られていた。ヌトは寝転がっていながらも聞き耳を立て、笑いを堪えていた。


 いち学年の午睡時間に、三学年以上は十時限目の授業が行われている。今日の玲太郎のこの時間は空き時間となっていて医務室にいた。ヌトは心置きなく惰眠を貪り始め、玲太郎は寝ずに自習をしていたが、颯から貰った石を試したくて仕方がなかった。

(本当にこれで起きてくれるのだろうか。起きてくれたらよいのだけどねぇ……)

 落ち着きのない玲太郎の様子を見ている明良は、何も言わずに書類へ視線を戻す。玲太郎はそれに気付かず、教科書に目を遣ったり、寝息を立てているヌトに目を遣ったり、時計に目を遣ったりしていた。

「玲太郎、そのように身が入らないのであれば、この時間の勉強は終わりにしたらどうなの?」

「えっ」

 玲太郎は明良を見ると、珍しく苦笑していた。そして帳面を尻目に見ると、何も書かれていない白い一面が目に入る。

「何故落ち着きがないの?」

「はーちゃんがね、ヌトが飛び起きるかも知れない石をくれてね、それを試せるよい機会だから、と思ったら勉強に集中出来なかったみたい……」

「そのような物があるのだね。見せて貰ってもよい?」

「うん」

 玲太郎は頷くと衣嚢から取り出し、差し出されている明良の手に置いた。

「成程、白い石ね。……この石、妙な感じがするね。これで起こせるの?」

 些か眉を寄せて凝視すると、玲太郎に視線を移した。

「起きたら成功って言ってたから、起こせるかどうかはまだ分からないのよ」

「私が試してみてもよい?」

「ダメッ! 僕がやるの!」

 玲太郎は思わず大声で拒否をして手を出すと、明良が微笑んで石を玲太郎の手に置いた。

「冗談だよ。でも一層の事、家に帰って眠り続ければよいのに、と思うのだけれどね」

 満面の笑みを浮かべて言うと、玲太郎は顰めっ面になった。

「僕はヌトにいてもらいたいのよ」

「何故なの?」

「えっ、小さい頃からずっといるじゃない」

「他の悪霊では駄目なの?」

「うん。ズヤとノユの事は良く知らないし、ニムとハソはもうよいと思う」

「昔からヌトが特別のようだけれど、玲太郎の中ではどう特別なの? 颯と四年一緒にいて、玲太郎の物心が付いてからは一緒にいなかったよね?」

 玲太郎は直ぐに理由が思い付かずに答えられなかった。

「颯が肩に乗せていたから欲しくなっただけではないの?」

「ううん、それはない。意地悪も言うけど、ヌトがいてくれると心細くないのよ」

「そうなのだね。それではその石で起きなかったら、玲太郎のお守も出来ない役立たずで、颯に追い返されると思うのだけれど、そうなったらどうする積りなの?」

「なんだかんだ言って、はーちゃんが起きるように、助けてくれると思ってる」

「成程」

 明良の気に入らない答えで、思わず眉が動いてしまう。

「あーちゃんはヌトも嫌いだよね?」

「勿論」

「はーちゃんは口では厳しい事を言うけど、ヌトの事は嫌ってないと思うから、だから手は尽くしてくれると思うのよ」

「そうなのだね。それでは私は何も言わずにいよう」

「うん」

 頷くと、思わず顔が綻んだ。

「本当にこの石で起きるか、楽しみだね」

「時間的には起こしてもよいと思うから、試してみたら?」

「あーちゃんはこういう石を作れる?」

「うーん、作れないね。黒淡石こくたんせきも私には向かないから、作れないのだけれどね」

「そうなの? それじゃあはーちゃんだけなんだね」

「そうだね。颯はその手の物を作る事が得意なようだね。それよりもほら、試してご覧」

 明良も起きるのかどうかが気になっていたようで、笑顔で玲太郎を急かした。玲太郎は左手で石を摘むと、そのまま手を伸ばしてヌトの体に当てた。するとヌトが俄かに飛び上がる。

「ぎゃわっ!?」

 奇妙な声を漏らすと辺りを見回した。その様子を見て玲太郎が大笑いをした。明良は笑いを堪えて、手で口を覆っていた。

「何? 何があったのよ?」

 焦っているヌトは石を当てられた腹をさすっていた。一頻り笑った後、玲太郎が息を整えながら涙を拭った。

「はぁー、おかしい。……あのね、はーちゃんがヌトが起きられるように、石を作ってくれたんだけどね、それをヌトの体に当てて起こしたのよ」

 そう言って掌にある石を見せた。ヌトは眉を顰めて近寄って来ると石に触れた。

「ぎゃっ」

 その瞬間に声が出て、体を仰け反らせた。触れた手を擦りながら玲太郎を見る。

「これは作っては駄目な奴ではないか!」

「これでヌトも起きられるようになったね。はーちゃんに追い返されなくて済むよ?」

 満面の笑みを浮かべて言うと、ヌトは絶望した。その表情を見た明良が大笑いする。玲太郎とヌトはそれに驚愕し、明良に視線を遣った。ヌトは大きな溜息を吐くと脱力した。

「玲太郎、それでわしを起こすのは止めぬか? それは刺激が強烈であるぞ」

 玲太郎はヌトに顔を向けると真面目な面持ちになる。

「寝過ごして家に帰りたいの?」

 そう言われてしまうと、何も言えなくなったヌトは机に下りて突っ伏した。

「その石で起こされる事だけは勘弁して呉れぬか!? わしは心底嫌であるぞー!」

「耐性が付いているのではなかったの?」

 頭を上げると、明良の方を見た。

「であるからこそ、嫌なのである! あのような物は一度耐えたらそれで終いよ。二度目はないわ」

「でも玲太郎が六学年の女子に難癖を付けられた時、きちんと映像を記録していたではないの? その時は耐えられたとでも?」

「む? あの時はどうであったか……、確か颯は怒っておらなんだ筈がな。静かに女子おなご等の後ろに立っておっただけよ」

「そうなのだね。怒らなかったの……」

「何? はーちゃんが怒るとどうなるの?」

 玲太郎はヌトと明良を交互に何度も見た。

「颯は怒ると、悪霊の嫌う波長を放つのだよ。それも近くにいられない程にね」

「へぇ、そうだったの。それは知らなかったのよ」

「知らずとも良かった物を……」

 ヌトは顔を逸らして呟いた。玲太郎がそれを微かに聞こえて顔を向けた。

「うん? 何か言った?」

「その石で起こされとうないと言うたのよ」

 玲太郎は目を丸くしてヌトを見る。

「そんなに嫌なの?」

 ヌトは不機嫌そうな表情をする。

「玲太郎とて、眠っておる所に冷え切った水を垂らされたならば嫌であろうが」

「冷え切った水……、それは確かに嫌かも」

「そうであろう? 体がギョッとなるのであるからな」

「でも起きられなくて家に帰されるよりはよいよね? 我慢出来るでしょ?」

 こうしてヌトは二択を迫られる事となった。今は口を噤んで返事をしないでいるが、それがいつまでも続く筈もなかった。

「僕の傍にいてくれるんでしょ? それとももう家に帰る?」

「玲太郎、悪霊はね、本当にその波長が嫌いなのだよ。だから少し考える時間を上げてもよいのではないの?」

「そこまで嫌だったの? 分かった。……でも僕はヌトにいて欲しいから、これで起きるって事が分かったし、少しでも眠られるようにしたかったんだけどね。違う方法で起きるって言うんだったら、そっちでやってもよいけど、それもまた試さないといけないから、代案が浮かんだら教えてね」

 意外にも明良が助け舟を出し、玲太郎も引いてはくれたが、好きな時に好きなだけ惰眠を貪っていたヌトには代案など思い浮かぶ事もなく、結局は二択だった。明良は思案顔のヌトを無表情で見ていた。

(あわよくば消えて貰えると嬉しいのだけれど、この様子だと我慢をするのか、しないのか、まだ判らないのが焦れったいね……)

 玲太郎がヌトを慕う事が気に食わない明良は、玲太郎に視線を移して表情を穏やかにした。


 十二時限目の空き時間も医務室にいたが、ヌトは寝る気配がなかった。玲太郎は困惑した表情でヌトを見ている。

「眠ってもよいのよ? 石があるから起こせるし、安心して眠ってよ」

 胡坐あぐらを掻いているヌトは顔を逸らしていた。

「眠らぬ。それで起こされるのは極力避ける事にしたのよ」

「そんなにこの石が嫌なの?」

「嫌に決まっておろうが」

 明良は書類仕事を終えていて、近々ある健康診断の準備をしていたが、手を止めて遣り取りを見ていた。

「悪霊も眠らなければ、行動に支障が出るのではないの?」

「それはそうであるが、玲太郎が眠る時に一緒に眠ったらよい話ではないか」

「でも周期は睡眠に入っているのだよね? そうならば眠らなければならないのではないの? 無理して起きていると思考力も低下するよね?」

「睡眠は至福の時なのであるが、何故なにゆえあの酷い感覚を全身に走らせて起きねばならぬのよ? わしはそのような罰を受けとうはない。天から地に叩き落とされるような物ぞ」

 明良は少し黙ると深く息を吸った。

「悪い事ならば今まで散々して来たよね? 颯に遣った事も遣っていなかった事になっているの? ルニリナ先生にも遣ったよね? それ以外の人達にも遣って来たのだから、その報いを受けていると思えばよいのではないの?」

 明良を見ていた玲太郎が訝しそうにする。

「うん? はーちゃんがヌトに何をやられたの?」

「この悪霊はね、自分を感知出来る人間を追い回す事が本当に好きで、自分を感知出来る人間を探しては追い掛け回していたのだけれど、颯はそれが嫌で海に飛び込もうとしたのだよ」

 玲太郎は思わずヌトに顔を向けた。

「ヌトってば、そんな悪さをしてたの? ダメじゃない」

「それはもう颯に叱られたわ。二度と遣らぬと誓わされておるから、もう遣れぬがな」

「うん? それって、出来たらやるって事?」

「遣ったら颯が口を利かぬと言うから遣れぬのよ。ま、わしは遣れずともよいと思うておるがな」

「紛らわしい言い方しないでよ。てっきりやりたいのかと思ったじゃない」

 怒り気味に言うと、ヌトが不快そうな表情に戻る。

「それにつけても、わしはその石で起こされとうはないのであるが……」

「だから代わりに起こせる物をヌトが出してよ。案でもなんでもよいから」

 俄にヌトが慌てて寝転んで目を閉じた。

「どうしたの? どうして眠るの? あの石で起こされてもよいの?」

 玲太郎が声を掛けていると、扉を叩く音がして二人は視線をそこへ遣る。扉が開くと颯だった。後ろ手で静かに閉扉して玲太郎の方に向いて歩いていた。

「邪魔して悪いな」

「ううん、勉強はまだしてなかったから平気」

 玲太郎の机には帳面すら出ていなかった。

「この時間は自習時間だろう? きちんと勉強をしないといけないじゃないか」

「そうなんだけどね……」

「それで、颯は何をしに来たの?」

 明良がそう言っている間に颯が玲太郎の机の前で立ち止まると、ヌトの腕を摘んで持ち上げた。

「何をしに来たって、それは解っているよな?」

 目線までヌトを持ち上げると、ヌトは寝た振りをして黙っていた。

「話し声が聞こえていたんだから観念しろよ」

 ヌトは片目を薄く開けると颯と目が合った。

「何か用であるか?」

「あの石の効果は覿てき面だったようだな? あれで毎度起こされるか、家に帰るか、決心は出来たか?」

「いっ、家には帰らぬ」

「それじゃああの石で起こされるんだな?」

 ヌトは口を噤んだ。

「はーちゃん、もう少し優しい感じで起こせない?」

 上目遣いで颯を見ながら言うと、颯の冷たい視線が玲太郎に飛んできた。

「優しい感じで起こそうとして起きたか?」

 玲太郎はそう問われると言葉が出て来なかった。颯はヌトから手を離すと、ヌトはその場に浮いた。

「わしとて起きようという意思はあるのよ。しかしながら、起きられぬ時もあろうて。颯とて休日は昼寝をするであろうが」

「ヌトの睡眠と俺の昼寝を一緒にするなよ? でも石は成功していたんだな。それは素直に喜ばしい事だよな」

「喜ばしくないわ。わしはあれで起こされたのであるぞ」

「それは起きないヌトが悪いんじゃないのか。第一、玲太郎の傍にいて直ぐ動ける状態にないんだったら、傍にいる意味が全くないから家に帰れよ。ヌトもハソ達同様に此処から卒業したらどうだ?」

「えっ、それは嫌なのよ」

 即答したのは玲太郎だった。皆が玲太郎を見る。ヌトだけが嬉しそうにしていた。

「ヌトが傍にいなくてもよいのではないの? ヌトにそれ程まで傍にいて欲しいの?」

「俺はノユが印を入れさせて欲しいって頼んで来たから、承諾して色々と念話で話をしたんだけど、ヌトは子の言う所の百年以上は起きているんだと。それだけ置き通しなんだったら、そろそろ眠らないと駄目だろう?」

「しかし、眠ってしもうたら起きた時には、それ以上に年月が経っておるのであるぞ? それは寂しいではないか」

「今まではそう遣って来たんだろう? 二百年後に俺が生きているかは判らないけど、起きて来た時に生きていたら、話くらいはしてもいいぞ」

 ヌトは俯せに横になるとそのまま机に下りた。

「わしは嫌であると言うておるのよ。眠らぬぞ!」

「駄々っ子かよ」

 颯は眉を寄せて言うと、溜息を吐いた。

「早い所、眠りに就かせて遣ってはくれぬかって頼まれてしまったんだよなあ」

「えっ、ノユに頼まれたの?」

 玲太郎が訊くと、颯は玲太郎を見ながら首を横に振った。

「ズヤだよ。ノユが印を入れるならわしもって言うから承諾した」

「颯は阿呆なの? 何故そのような事を許すの?」

 甚だ不快そうな表情の明良が引いていた。颯はそれを見て苦笑する。

「ハソやニム以外とも話してみたかったからな。どうせ好きな時に印を消せるし、いいかと思って」

 そして視線をヌトに戻す。

「ヌトが本格的に寝るだろうから、もう家に帰すしかないんだよ。玲太郎も睡眠の邪魔をされたら嫌だろう? 俺は散々遣られて来たから、その辛さは十二分に解っているんだよ」

 ヌトが起き上がり胡坐を掻くと膝を叩いた。

「解った。もうよい。その石で起こされる事を選ぶ」

「そんな事を言わずに、家に帰って寝ろよ、な?」

 颯はそんなヌトを些か哀れに思い、苦笑しながら言った。

「な? ではないぞ! わしはもう決めた。決めたのよ」

 鼻息を荒くして言うと、玲太郎は笑顔になった。

「それじゃあこの石で起きようね」

 ヌトはそう言った玲太郎の笑顔を見て恐怖を感じた。明良はそれを不満そうに見ている。

「そう言えば、玲太郎が弟を誤魔化す為に嘘を吐いておったから、颯と二人で口裏は合わせておけよ」

 そう言って寝転ぶと目を閉じた。颯は玲太郎に視線を移す。

「どういう事?」

 玲太郎はバハールとの会話を話し、颯は聞いている最中に疑問が浮かび、最後まで聞いてから口を開いた。

「玲太郎は兄貴や俺といる時に王弟殿下が交ざる事は嫌なのか?」

「んー、学校でならよいけど、外でも会いたいかって聞かれると、会いたくないね」

「ふうん、そうなんだな。まあ話は分かった。夕方に菓子を買いに行くんだな。それはさて置き、王弟殿下の護衛はいるにはいるんだよ。近隣の村や町にな。王弟殿下本人は知らないんだろうな。それから以前にナルアー先生から護衛を頼まれたけど断ったんだよな」

「それは何時の話? 何故、私に報せなかったの?」

 明良が些か厳しい表情で反応する。颯は明良に顔を向けた。

「報せなくてもいいかと思ったんだけど、駄目だったか。あれは何時だったか……、二週間くらい前だと思う」

「王族が絡んだ話は私を通して貰わないと困るね。国王陛下に抗議をしておくけれど、次からは必ずそう言うように」

「解った」

 颯が頷き、明良は抽斗ひきだしから紙を取り出すと何かを書き始めた。颯は用がなくなったようで、玲太郎に向かって軽く挙手をすると退室した。


 今週中に玲太郎のいる班が掃除をする場所は、二階にあるルニリナの教室の南隣の教室で、玲太郎はそこへ向かった。四人が揃うと各々が掃除を開始し、それが終了すると早々に引き上げて行った。

 玲太郎の荷物は全て医務室に置かれている為、医務室へと向かう。玲太郎は何気なく一人で向かっていると、一階の中央にある昇降口で明良と擦れ違った。二人は立ち止った。

「あれ? あーちゃん、どうしたの?」

「私に客が来ていて、外にいるそうだから向かっている所なのだよ。また後でね」

「行ってらっしゃい」

 笑顔で手を振ると、明良は正面玄関から出て行った。玲太郎は医務室へ向かい、荷物を持つと寮長室へと戻って行った。


 明良は見覚えのない女と対面していた。女は短い黒髪で、茶色の目はやや垂れ気味、下がっていた口角が、明良を見て上がった。季節が秋という事もあって薄手の外套を羽織り、体格は良く分からなかったが、顔の輪郭から肉付きの良さを感じさせた。明良は長い裳を穿いている事から女だと判断をしたに過ぎなかったが、話し出した声を聞いて、やはり女であると確信を持った。

『あたしの事を覚えてないかも知れないけど、道ノ浦どうのうら学校で一個上の学年にいた藤川真奈美って言うの。久し振りね。覚えてる?』

 明良に向かって笑顔で話した。言語は和伍語で、聞き覚えのある名前だったが、顔を見ても覚えがなかった。週に一度とは言え四年は通ったのだから記憶にあってもおかしくはない筈なのに、全く記憶にない。

(同じ学校に通っていたのならば顔は見覚えがない。名前は聞き覚えがあるのに何故……?)

 明良は無言で突っ立っているだけだった。

『あたしは三学年の途中で引っ越ししたせいで転校しちゃったけど、いつかあたしと結婚しようって約束してたじゃない? だから迎えに来たの』

 更に丸で覚えのない事を言い始め、明良は不快感と嫌悪感が入り混じった気持ちになった。

(転校した……か。私の一歳上なのに三学年? ……転校?)

 その言葉で明良は思わず目を丸くしてしまった。それを見た藤川は満面の笑みを浮かべた。

『思い出してくれた? なかなか居場所がつかめなくて来られなかったけど、居場所を知ってるって子が偶然いて、半信半疑で来てみたら本当にいて助かったわ。これから仲を深めて、約束通り、結婚しましょうね。その居場所を教えてくれた子が、魔力覚醒してくれる人を紹介してくれてね、結構魔力がある事を知ったんだけど、明良を食べさせて行く分には十分だから、ここの仕事を辞めても平気だからね。心配しなくて大丈夫よ』

 明良は背を向けると、北に向かって歩き出した。

『どうかした? あ、場所が悪いの? そうね、ここだと誰が通るか分からないもんね』

 嬉しそうに言いながら、明良に付いて行く。明良は駐舟場を歩き、東に曲がって校舎の真北へ行くと、焼却炉が視界に入ると足を止めた。

『お前は阿呆みたいだから、和伍語で話そう。思い出したよ、お前が何者であるか。善くも私の前に顔を出せたな』

 明良は小さく呟いた。藤川は後ろから明良の声が聞こえたような気がして、立ち止まって振り返っていた。明良はまた歩き始め、藤川との距離を開ける。

『ふじかわまなみ、転校、で思い出したよ。私の圭を殺した張本人だという事をな』

 藤川は明良の傍に行こうとしたが足が動かなかった。明良の声は尚も後ろから聞こえている。

『な、何を言って……? あたしがそんな事をする訳ないじゃない。第一、圭なんて子は知らないわ』

『知っているよ、圭を持ち上げて橋の高欄こうらんから落とした事をな。見ていた子が島を去る時に私に教えてくれたよ』

『だっ、誰よ!? 誰から聞いたのよ!? 鈴木直子!? それとも湯浅雅代!?』

 藤川は物凄い形相で叫んでいた。

『自白したも同然だな。人殺しが……。今日、此処で、圭の跡を追わせて遣るよ』

 言い終えるや否や藤川の頬に赤い線が走った。そこから血が滴ると、藤川はその感触が気になり、手を頬に当てて指に血が纏わり付いた。そしてそれを確認すると、怒りに打ち震える。

『あたしは明良のお嫁さんになるのに! それなのに顔を傷付けるなんて!!』

『見ず知らずの人殺しと結婚する訳がないだろう。阿呆はそのような事に思い至らないのか? ごみはこの世の為に消えろよ』

 藤川の左肩に掴まっている奇妙なつい精霊も震え出した。藤川は怒りに顔を歪ませ、遠くにいる明良を睨み付けた。

『あたしの物にならないなら死ね! お前も殺す! 大善おおよし圭のように殺してやる!!』

 右手を前に出し、掌を広げた。

『旋風よ、あいつを切り刻め!!』

 掌の先から風が起こり、強風となって渦を巻きながら明良の方へ伸びて行く。伸びながら威力を増加して行き、明良に当たろうとしたその刹那、それは凪いでしまった。藤川は目を丸くしていたが、我に返るとまた叫ぶ。

『旋風よ、切り刻め!!』

 しかしそれも虚しく、一度目と同様の結果となった。五度、六度……と何度繰り返しただろう。明良には傷一つ付ける事も出来ずにいた。その間、唯々『死ね、塵』と罵られるだけだった。それも何ヶ所からも聞こえ、その分、怒りの感情が制御出来ずに爆発していた。

『なぜ死なない!? なぜ届かない!? あたしの魔術は強いはずなのにぃいい!!』

 使う魔術は風で、それも旋風のみだった。明良は『死ね、塵』を延々と言い続け、それを藤川の後ろに六個の音石を顕現させ、それが明良の言を流していた。藤川は悔しさから涙を流し、その上、鼻水も出ていたが拭う事もなく、何がなんだか解らずに魔術を放っていた。

『死ねぇえ! 死ねええぇえ!! 風よ、あいつを切り刻め!! うわぁぁああぁ!』

 絶叫している最中さなか、旋風が半分ほどの距離に伸びた所で止んだかと思えば、藤川が土となって崩れ落ちた。漸く自滅したのだ。

 明良は落ちている服と鞄と靴を魔術で浮かせると付着している土を飛ばし、残っている土も風で払ってしまい、通路を綺麗にした。服の衣嚢に何もないのを確認して焼却炉まで行くと、焼却炉の扉を魔術で開いて服と靴を放り込み、高温の炎でそれ等が灰になるまで見届けてから閉扉した。そして鞄を浮かせたままで、何事もなかったかのように医務室へ戻って行った。

 執務机に鞄を下ろすと、そのまま触れる事を躊躇し、浄化魔術で全てを綺麗にする。洗浄魔術ではなかったのは、紙がある事を想定して、文字を滲ませない為の配慮だった。鞄は革製で肩に掛ける型の物で、かぶせを翻して鞄を逆様にし、中身を全て出した。後は鞄に備え付けられている小袋に手を入れて探った。小銭や鍵、覚え書き等の紙が数枚出て来た。また鞄を執務机に置くと、ここで漸く椅子に腰を下ろす。

(財布、手巾、手持ち用のちり紙、旅券、金貨と銀貨と銅貨、鍵、空船の切符が二枚、これは……?)

 畳まれた紙を広げて確かめる。

(此処までの道順だね。和伍からナダールへ渡る為の空船は五ヶ所の空港名と海路が書かれている。成程。それにしても汚い文字だね。誰が書いた物なのか……)

 もう一枚も畳まれていて広げると、それには屋敷と学院の住所が記されていた。


 大善圭は明良の幼馴染で、二人が知り合ったのは明良が三歳、圭が四歳の時だった。八千代が圭の祖母と面識があり、割と近所だった事から、同じ本を延々と読んでいる明良を外に連れ出す為に訪問する事にした。

 まだ一歳の悠次と明良を乳母車に乗せ、大善家へ向かう。大善家も農家で、大きな家だった。乳母車の中から新聞紙に包んだ物を取り出すと、玄関を開けて叫ぶ。

「こんにちはー。池之上ですー」

 暫くすると足音が近付いて来て、気の良さそうな熟年の女性が現れた。

よし江さん、久し振りやな。ご無沙汰しとってごめんじょ」

「あれえ、八千代さん。元気にしとったかいな?」

「これ、家で取れた白菜やけんど、食べてな」

「まあまあ、いつもありがとう。今夜早速頂くわな」

 手土産の白菜を二株渡した。

「どうぞ上がってってくれるで」

「孫二人もおるけんど、かんまん?」

「かんまんかんまん、どうぞどうぞ」

「ありがとう」

 八千代は先に明良を乳母車から降ろして、式台へと運んだ。

「まあまあ、かわええおべべ着て。髪は金髪なんやな」

「ほうなんよ。父親の先祖の髪色を受け継いだみたいでな。明良、こんにちはって挨拶しい」

「こんにちは」

「こんにちは。ちゃんとご挨拶が出来て、偉いなあ!」

「三歳よ、な?」

 そう言うと、今度は悠次を運んで来た。芳江はまた式台に置かれた悠次を凝視する。

「あれまあ、この子も金髪なんやな。二人とも綺麗な子でえ。将来が楽しみやなあ」

 八千代は玄関の戸を閉めると、靴を脱いで式台へ上がり、靴の向きを変えると悠次を抱き上げた。

「この子は悠次で一歳よ。まあ、こんな田舎やったら、この見た目で虐められるんがオチだろうけん、しっかり勉強さして、中身も育ってもらわんとな……」

「ほうやなあ、まだ偏見しよる人も多いもんなあ。こんなとこではなんやけん、客間へ来てくれるで?」

 そう言って明良を抱き上げると客間へ先導する。八千代は悠次を抱いて、それに付いて行った。客間に入ると、大き目の座卓に、上座と下座に座布団が各三枚置かれていた。出入り口から一番近い所に明良は下ろされる。

「ほなお茶を持って来るわな。あきらちゃんとゆうじちゃんは果汁がええな」

「気い遣わせてもうてごめんじょ」

「いやいや、ほな、ちょっと待っとってな」

 そこへ前髪の短い、お下げ髪の女の子が遣って来た。

「おきゃくさんじゃ。こんにちはー」

「あら、圭ちゃん、こんにちは。大きゅうなったなあ」

 明良は声をする方に顔を向けた。「子供はこういうヒダの多い服を着るんよ」と留実に思い込まされていた明良は、丸首で簡素な黄色の服を着ていた圭を見て衝撃を受けた。

「明良と、こっちの小さい子は悠次って言うんよ。仲よおしたってな」

「わあ、かわええこやな。なんさい?」

 それが圭の第一声だった。

「ぼくはさんさい。きみはなんさい?」

「ぼく? おとこのこだったん? ほんなふくをきとるけん、おんなのこかとおもたわ。ごめんじょ。わたしはよんさいになったとこよ。よろしく」

 平凡な顔をしていたが、笑うと目が細くなって笑顔が愛らしかった。

「え? このふく、おんなのこのふく?」

「おとこのこは、きんとおもうじょ。おにいちゃんがほうやもん」

「ほうなんじゃ」

「まあ、ほれでもええんちゃう? にあっとるもんな」

 そう言って「ふふふ」と笑った。明良は俄に恥ずかしくなって服を脱ぎ始めた。

「なんしょん? ぬがれん」

 慌てて圭が止めると、明良は泣き出した。

「ぼく、このふく、いやじゃ」

「ええ? ……ちょっとまっとって」

 そう言って圭がどこかへ行くと、蜜柑色の簡素な服を持って来た。

「これ、きてかえり」

 明良は頷くと涙を手で拭い、着ていた服を脱いで、圭の持って来た服を着た。こうして簡素な服を好む明良が誕生した。八千代は黙って見守っていたが、明良が来ていた服を手にする。

「ほな、圭ちゃんがこれを着てくれるかいな? ほしたら服も喜ぶと思うわ」

「ええ? かんまんのん? ほなけんど、わたしにはにあわんとおもうけんどなあ……」

 物怖じせずに服を受け取ると、服を体に当てて自分で見ていた。

「ぼく、いらんけんあげる。それあげる。けいちゃん、にあうよ」

 明良が笑顔でそう言うと、圭が目を細くして笑った。

「くれるん? にあわんとおもうけんど、ありがとう」

 明良は圭の笑顔を見入っていた。

「なまえ、なんやったっけ? あ…、あき?」

「明良っちゅうんよ」

 八千代が言うと、八千代に向かって笑顔を見せる。

「あきらちゃんな。おばちゃん、ありがとう」

 そして明良を見る。

「あきらちゃん、ほのいろ、さっきのんよりにあうじょ」

 明良はその笑顔を見ていると、気持ちが温かくなって来てとても心地好かった。

 その想いも、圭も、四年後には突如奪われ、失意に暮れ、虚無になり、家にいる忌むべき対象を更に憎悪する事となった。大切な思い出は箱の中に入れ、蓋を固く閉じて開ける事はなくなった。


 しかし、五年後にはその箱をじ開ける人物が現れた。学校の帰り道に必ず立ち寄る商店の前で待っていた彼は「幾佐いくさかずです」と名乗ると頭を深く下げた。

「ごめんなさい。今まで黙ってましたが、大善圭って人が橋から落とされるとこを見てました」

 不意の事に言葉が出て来なかった。幾佐は頭を上げると、俯き気味のまま話を続ける。

「大善さんが三人の女の子に囲まれとって、一人の女の子に足を抱え込まれて手すりから落とされたんよ。ほの前の日に大雨が降っとって、水がごっつい増しとったんも覚えとる。オレはどうしてええか分からんで、とりあえず落とした子のあとをつけた。ほんでほの子が藤川真奈美って言う子じゃっていうんは分かったけんど、誰にもほの事を言えんかった……。後で、取り巻きの二人が鈴木直子って言うんと、湯浅雅代って言うんは分かったんやけんど、ほれも今の今まで誰にも言えんかって……」

「それで今頃になって、私に言う気になったと?」

 幾佐は更に顎を引いて俯いた。

「言い出せん内にみな島を出て行ってしもて、今更こんな事、けいさつに言えんし、どうしてええか分からんかったんやけんど、大善さんが池之上さんとこのお兄ちゃんと仲が良かったって、誰かが言よったんを思い出して、話しとこうと思て……」

「晴れがましい門出に、気持ちを軽くする為に白状したと?」

 悲痛な表情になると、明良に顔を向けた。

「今頃になってもうたんはほんまに悪かったと思てます。ごめんなさい。ほんまにごめんなさい。ほなけんど、島を出るとなった今、誰かにこの真実を伝えておかんとあかんような気いがして、言う人となったら池之上さんしかおらんと思て言いました」

「本当に今更だよ。本来なら事件が起きて直ぐ、警察や圭のご両親や祖父母に言うべき事だろうに、今になって私に言うなど以ての外だね。殺人犯を見逃した罪を背負って後悔しながら生きていけ」

 明良は冷静にそう言うと背を向け、家路に就いた。残された幾佐は明良の後ろ姿が見えなくなるまで、涙を流しながら見送っていた。

 その時は既に圭の事を思い出そうにも朧気な記憶となってしまっていた事に気付かされ、暗い気持ちになり掛けていたが、玲太郎がいる事で救われていた。

 そしてまた、久し振りに開いた箱の中にいる筈の、大好きだった圭の笑顔は全く思い出せなくなっていた。再度蓋を固く閉じる。次に開ける事はないだろう。


 机を叩く音がしてそちらへ目を向けると、執務机の前に颯が立っていた。

「何度も叩いていたのに……。何を物思いにふけっていたんだ?」

「うん、昔の事を少しね」

 颯はいつも通りの無表情な明良を見て、少し険しい表情になる。

「知らない気配が来たと思ったら消えたから、どうかしたのかと思って。兄貴の知り合いか?」

「私の友人を殺した犯人だよ」

「えっ?」

 驚きながら患者が座る丸椅子に腰を下ろした。

「誰を殺したんだ?」

「颯は憶えているかどうか……。颯が小さい頃に偶に遣って来ていた大善圭と言う子を憶えている?」

「憶えているよ。兄貴と仲の良かった女の子だよな? 『はやてちゃん、私の事をお姉ちゃんと思ってくれてええけんな』って言われた事があるわ。良く憶えているよ」

「小さかったのに憶えているのだね」

「小さい頃の記憶は割と残っているんだけどな」

 幼心に圭が遊びに来なくなった頃と、明良が無表情になった頃とが合致していたから、余計記憶に残っていたのだが、それは言わないでおいた。

「そうだったのだね。先程死んだ塵は、その圭を殺した塵だよ。此処にあるのは塵の荷物だね」

 そう言うと視線を執務机に置かれた物に遣った。颯もそれ等を見る。

「ケイちゃんを殺したんだったら、和伍から来た奴なんだよな? 荷物の中に衣類がないって事は、直ぐに帰る積りだったのか?」

「どうだろうね。若しかしたら何処どこかの宿泊施設に置いてあるのかも知れないけれど、この手荷物の中にはそれを示す物がないのだよね。一応調べさせてみるよ」

「家の調査隊に調査させて大丈夫なのかよ?」

 不安そうに言うと、明良は聞いていないのか、返事をしなかった。

「大丈夫なのかよ?」

「ご免、聞いていなかった。何?」

「家の調査隊に調査させて大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だよ。それはもう遣る気にさせた者と、解雇した者と、新たに雇った者がいるからね。水伯にも頼んで調査して貰って、両方の結果報告を見てから家の調査隊の今後を思案する事にしよう」

 颯は「ふうん」と言いながら頷いていた。

「それはさて置き、どうして来ていた奴が殺人犯だって知っていたんだ?」

 顔を動かさずに、そう訊いて来た颯を上目遣いで見る。

「玲太郎が産まれた頃、颯が勝手に私と会う約束を取り付けて来た事があったのだけれど、それは憶えている?」

 眉を顰めると首を傾げた。

「そんな事、あったか? あの頃の記憶は、寝られなかったり、玲太郎の世話をしていたりで、そういう事しか残っていないんだよな……」

 腕を組んで目を閉じた。

「無理に思い出さなくてもよいよ。兎にも角にも、颯が勝手に約束を取り付けて来た子から教えて貰ったのだけれどね、本当だったようで、殺人犯も自白していたよ」

 目を開けて明良を見ると軽く三度頷いた。

「そうだったのか。それはある意味良かったな。それにしても消えたという事は魔力を極限まで使用させたのか? そんな事が出来たのか?」

「出来た。旋風を使用していたよ」

「使用出来たなんて、それはそれで大問題じゃないか」

「そうなのだけれどね。それにつけても、黒淡石五個に記録をしたから、和伍の警察に持って行かせてそれを見せるよ。何せ、私の居場所を知っている塵が絡んでいるからね。それにつけても、居場所を知っている塵は、最初から私の命を取る積りだったのかも知れない」

 颯は呆然とした。明良はそんな颯を見ると頬杖を突いた。

「颯が命を狙われると占いの結果で出ていたそうだけれど、私が先に狙われた可能性もあるね。殺人犯もあの奇妙な対精霊を連れていたから、私達があれ等を消滅させている事が、あの奇妙な対精霊を生み出している塵に露見しているのかも知れないね」

 呆然としている割にはきちんと聞いていたようで、颯の表情が険しくなる。

「それもあるのか。じょう学院時代に街中で見掛ける度に消していたからなあ。それでも対精霊関連で命を狙われる事まで思い浮かばなかったわ。確かにあれを広めている組織に取って、俺は邪魔でしかないもんなあ」

態々わざわざ和伍の、それも圭を殺した塵を見付けて来る辺り、有能な人物がいるのは間違いないから、果たして尻尾を掴めるかどうか……」

 颯は執務机に置かれている物を見回す。

「この中に手掛かりになりそうな物はあったのか?」

「あるにはある。この覚え書きと、この覚え書きだね。和伍から此処まで来る道順を記した物と、私の住所と此処の住所が記されている物になるのだけれど、筆跡が違うから二人が書いた物と断定出来る。両方とも平仮名が汚いのだけれど、漢字はしっかりと書けているから、漢字語圏の人間なのではないのかと思う。単に平仮名が汚い和伍人という可能性も捨て切れないけれど……」

「詰まり、ごう?」

「それと隣国の朔有しょうよう

「そんな国もあったな」

「南洋大陸は恒の方が大国で色々と注目されているのに対し、朔有は小国で忘れられ勝ちだからね」

「朔有と恒じゃあ、お国柄的にやはり恒なんだろうなと思ってしまうなあ」

「恒の方が歴史が古いから、そういう事を研究していてもおかしくはない、とは思うのだけれど、これも調査しなければならないね。精霊のまなこを持つ者がほぼいないから、調査するとしたら颯か私になってしまうのだけれど、そうなると玲太郎が学院を卒業してからになるね」

「ああ、そういう問題もあるのか。面倒臭いなあ」

「調査出来る事は調査しておいて、そうでない事は何方どちらかが動けるまで保留にしておこうか」

「そうするしかないな」

 そう言って両手で膝を打つと立ち上がった。

「職員室に戻るわ。じゃあまたな」

 明良に背を向けて歩き始める。

「少し待って」

「うん?」

 直ぐに振り返る。

「この後、玲太郎と一緒に買い物に行くのだろう?」

「行くよ。嘘を真実にしておけば、玲太郎の良心も保たれるだろうからな」

「私も行くよ」

 明良が透かさず言うと、颯が驚いた。

「え? ついでにヤニルゴルに寄って牛乳と燻製肉を買おうと思っているから晩飯に遅れるぞ?」

「構わない。水伯に連絡を入れておくよ」

「ふうん、解った。それじゃあ後でな」

 颯はそう言って前を向くと退室した。明良は藤川の財布を手にすると、中身を確認し始めた。


 玲太郎は服を着替えた後、上機嫌で背嚢の中身を出して上置き棚に片し、入れ違いに別の教科書と帳面を出すと勉強を始めていた。だが、時折上の空になり、手を止める事が多かった。

「機嫌がよいな? 何故なにゆえよ?」

「えっ、そんなつもりはなかったんだけど、機嫌がよいように見える?」

「であるから訊いておるのよ」

「あ、そうだね。嘘から出たなんとかで、お菓子を買いに連れて行って貰えるからね」

 満面の笑みでヌトを見る。

「嘘から出たまことであるな」

「分かってるよぉ。あえて伏せたの」

「ふむ」

「あーちゃんが来たら眠ってもよいからね。起きるのは明日の朝だよ? 起きなかったらあの白い石を体に当てるから覚悟をしておいてね」

「明良が来たとて、颯が帰って来るまでに一人になる事もあろうが」

「そうだね。でもここにいれば平気なのよ」

「一人にならぬようにわしがおるのであるが、解っておるのか?」

「分かってる。少しでもヌトを眠らせようと思ってたんだけどダメだった?」

「駄目ではないが、良くもないな。眠るのは颯が帰って来てからにしよう」

「そう? いつもなら僕が一人になっても気にしてないような感じなのに、珍しいね? 何かあった?」

「いや、何、わしが睡眠周期に入っておるから、また眠って起きられなくなるやも知れぬからな、こうして目が冴えておる間は、より一層気を配ろうと思うてな」

「そうなの。分かった。でもあれだよね、ヌトがやたらと寝転がってたのは、眠かったからなんだね。眠いのに起きてたら、頭がぼーっとして来ないの?」

「するぞ。しかしながら、わしは此処におりたいから我慢をしておるのよ」

「我慢して眠気がなくなる訳でもないのに、無理したらダメじゃない。でも百年以上起きっ放しって、凄いよねぇ。僕なんて、起きてられないよ? すぐ眠っちゃう」

「わし等も眠るように出来ておるから眠った方がよいのではあるが、起きていられるから起きておったら、その分、就寝も長時間になったのであるがな」

「少しずつ直して行こうねぇ。僕がこの石で手伝うから」

 不敵に微笑むと、右手に持った白い石をヌトに見せた。ヌトは不快感をあらわにしつつ、大いに引いた。


 ヌトが颯の寝台で熟睡をしている頃、玲太郎は明良と颯の三人で買い物をして帰って来て、台所の調理台で店を広げていた。

「こうやって店を広げると、買い物した後にばあちゃんと一緒になって片付けていた事を思い出すわ」

 唐突に颯が言うと、明良は自分が買った物を袋に入れていた手を止めた。

「颯が手伝い始める前までは私が遣っていたのだけれどね」

「そうだったか?」

「そうだよ。小腹が空いた時に食べられる物があるのかを確認をするには丁度良かったのだけれど、颯に取られてしまったからね」

 また手を動かし始める。颯は苦笑しながら燻製肉を手にした。

「考える事は一緒かよ」

 そう言ってそれを冷蔵庫へ入れる。玲太郎は小腹が空いていて、食べられる物を物色している事に気付いた。

「玲太郎もだよな?」

「あ、分かっちゃった? 僕も探してた。しかも今食べられそうな物を……」

「もう直ぐご飯だから、少しだけならいいぞ。これか、これだな」

 直方体の焼き菓子と、小袋に入った小さな焼き菓子を玲太郎の前に置いた。

「これ、なんて言ったっけ?」

「俺も憶えていない」

「商品名もろくに見ないで買って来るからだよ」

 明良の小言が飛んでくると、二人は明良に一瞥をくれた。

「こっちの方はジル(一寸三分)くらいの厚さに切ってもいいぞ。こっちの焼き菓子は一袋に十枚入っていたと思うから、こっちだと一袋だけな」

 そう言った颯が指を差している紙袋を見た。

「うーん、迷うなぁ」

「迷っている所を悪いけれど、私はそろそろお暇するよ。また明日ね」

「おう、またな」

「また明日」

 玲太郎はまた明良に一瞥をくれて、菓子を見比べた。明良は玲太郎が一瞬しか笑顔を向けてくれず、気落ちして静かに消えた。苦笑している颯はそれを見届けてから別の物を片付け始めた。

「こっちの分厚い生地の方にするのよ。本当に二ジル切ってくれる?」

「三ジル(二寸)でもいいけど、夕食が二時間後くらいだからなあ」

「ううん、二ジルでよいのよ」

「それじゃあ包丁を出すから、自分で切るんだぞ?」

「え? やらせてくれるの? ありがとう!」

 玲太郎は油紙を広げて焼き菓子を出す。直ぐに颯が包丁を持って来た。

「手を切らないようにな」

「大丈夫だって。もう慣れたものだよ」

 置かれた包丁を手にすると、端から一寸三分辺りに包丁を立てた。

「この辺でよい?」

「いいと思った所で切っていいぞ」

「じゃあ、ここで切るね」

 そう言って包丁を押さえ付けるように刃を入れた。

「どうだ? 切れているか?」

「うん、刃は入ってるのよ」

 初めて焼き菓子を切る玲太郎は徐に包丁を下ろしながら言った。

「うんうん、切れてる。切れて行くのが分かるのよ」

 焼き菓子が切れて行く事が嬉しい様子で、颯も微笑んで見ていた。

「もう少ししたら湯が沸くから、茶も自分で淹れるか?」

「淹れる!」

「緑茶でいいよな?」

「んー」

 玲太郎はもう少しで下まで刃が通る所で生返事になった。そして刃が油紙に届いた感触がして手を止めると颯に一瞥をくれる。

「切れたのよ!」

 包丁を置くと、今度はきちんと颯の方に顔を向けた。

「おめでとう。それで、緑茶でいいんだよな?」

「うん、よいよ」

 調理台に目を遣ると、もう茶器の用意がされていた。

「これも僕が淹れてもよいの?」

「いいよ。茶葉を茶器に入れる所からな」

「分かった」

「その前に、焼き菓子を皿に載せて」

「ああ、そうだった」

「焦らなくてもいいぞ。まだ湯が沸いていないからな」

「うん、分かった」

「そうだ、俺の分も切ってよ。三ジルくらいの厚さがいいな」

「切る切る。三ジルね」

 玲太郎は包丁と手を使って、置かれていた皿に焼き菓子を載せた。そして颯の分を切り始める。

「なんか三ジルより厚くなってるような気がする」

 そう呟くと、耳ざとく聞いていた颯が鼻で笑う。

「厚くてもいいよ。薄いと怒るけどな」

 玲太郎は「ふっ」と口から声を漏らしたが、直ぐに真面目な表情に戻って焼き菓子を切り続けた。そうこうしている内に湯が沸いて、颯は焜炉こんろの火を止める。

「ふぅ、切れた。こんな感じでよい?」

 そう言って包丁を置くと颯の方を見る。颯は玲太郎の傍に行った。

「どれ?」

 見てみると切れ目の見た目は悪かったが、言った通りの厚さに近かった。

「有難う。それじゃあそれも皿に載せて貰える? それが終わったら焼き菓子を油紙に包み直しておいて」

「分かった」

 手と包丁を使ってもう一枚の皿に載せ、それを見た颯は玲太郎から包丁を取り、洗浄魔術で綺麗にすると元のあった場所に戻した。そして布巾で鉄瓶のつるを包むと持ち上げ、調理台の上に置いた。

 玲太郎は言われた通りに油紙で包んでいて、颯がそれを調理台の中央に置く。それから玲太郎の前に急須と茶葉の入った茶筒と湯呑みを二個、それに鍋敷きに鉄瓶を置く。

 玲太郎は先ず鉄瓶を持ち上げると湯飲みに湯を注ぎ、鉄瓶を戻した。次に茶筒を手にすると蓋を開け、そこに茶葉を少しずつ移す。そして横にいる颯を見る。

「うん、そうだな、気持ちもう少しだな」

 また少し茶葉を入れると手を止め、それを急須に移し、茶筒の蓋をして調理台に置いた。颯はそこまで見届けると、焼き菓子の乗った皿を持って食卓へ運ぶ。玲太郎の隣に戻って来ると、玲太郎は颯に一瞥をくれた。

「兄貴の帰り際、玲太郎が素っ気なかったから萎れていたぞ」

 また颯に視線を向けると眉を顰めた。

「また拗ねちゃう?」

「そういう感じではなかったけど、落ち込んではいたようだな」

「あーちゃんは僕に左右され過ぎだよね」

「解っているんだったら、ああいう時は微笑んで手を振って遣れよ」

 少し困った顔をすると頷いた。

「出来たらそうする」

 そう言って顔を正面に向け、湯呑みに入っている湯を急須に入れた。

「凡そ二分と思しき所で湯呑みに注いだらいいよ」

「分かった」

 頷くと、俄に頬を緩めた。

「あの焼き菓子、くるみが入ってたから香ばしいだろうね」

「焼いてあるし、確実に香ばしいだろうな。袋に入っている方じゃなくて良かったのか?」

「うん、あれは明日、学校で小腹が空いたら食べるのよ」

「一袋は王弟殿下に上げるんだろう?」

「うん。あれで外に出ようという気持ちを抑えてもらおうと思って」

「余計行きたがるようになると思うけどなあ……」

 笑顔だった玲太郎の表情が曇り、颯に顔を向けた。

「そうだろうか?」

「逆効果だろう。まあ、玲太郎の友達としても、俺が王弟殿下を連れ出す事はないけどな」

「どうして?」

「面倒事に巻き込まれたくないから」

「ふうん……」

 玲太郎は砂時計に視線を移した。

「仮に、だけど、一緒に外に連れて行ってと言われたら、俺は連れて行く気はないから兄貴か水伯に言えよ? そうすれば連れて行って貰えるかも知れないぞ。まあ望み薄だけどな。でも水伯なら若しかするかも知れないからなあ……」

 玲太郎は無表情でそう言う颯を上目遣いで見ていた。

「……分かった」

 頷くと急須から立ち上る湯気を凝視した。

「明後日は直ぐに屋敷に戻らないからな」

「うん。分かってる。釣りに行くんだよね。覚えてるのよ」

 それを見詰めながら言うと、颯は玲太郎の頭を、髪が乱れる程に撫でた。


 翌日、二時限目の付与術で大型の水晶を壊すだけだった玲太郎はバハールを呼び止めた。人がいなくなり、二人だけになると、漸く昨日買って来た菓子を背嚢から出した。

「昨日買いに行って来たから、ディッチにもお土産ね。買い物に連れて行く事は無理だから、これで我慢してね」

 玲太郎は自分の言い方が少し嫌らしい気もしたが、釘を刺す意味でも言うしかなかった。バハールはそんな事は気にせず、顔を赤くしながら笑顔になった。

「本当にくれるの? 凄く嬉しいよ。ありがとう」

 手提げ袋を机に置いて両手で受け取った。

「今日、早速頂くね。ありがとう」

 そう言いながら手提げ袋に入れ、玲太郎を見た。玲太郎も満面の笑みを浮かべている。

「毒見要らずって言ってたけど、本当に大丈夫なんだよね?」

 背嚢の口をすぼめてかぶせを被せ、留め具を留めないで背負った。ヌトはそれを見て冠に掴まる。

「それは平気。王家に伝わる反転の首飾りを着けているからね」

「反転の……ね。今一凄さが分からないけど、大丈夫ならよいのよ」

 そう言って先に教室を出ると、バハールも手提げ袋を持って付いて行く。

「でも、本当に効果があるの?」

 笑顔が一変して険しい顔に変わった。

「あるよ。あるから盗まれた事があるんだよ。この首飾りにはね、王族以外の手に渡ると一族郎党が死に絶えるという言い伝えがあるんだけど、それを知らずに宝物庫から盗んだ人がいて、その人の一族が全員死に絶えた時、一本消えてなくなったと言われているんだよ」

 玲太郎は神妙な面持ちで聞いていた。

「それは怖いね……。それで一本減ったんだったら、仕方がないね。それ以降は盗む人がいなくなったの?」

「そうみたいだね。別の物が盗まれる事はたまにあるみたいだけど、その首飾りには手を出さないそうだよ。今はこの首飾りを置いてある場所に、当時の新聞記事と、亡くなった一族の戸籍が置かれてあると聞いているけど、本当かどうかは僕も知らない。見に行った事がないからね」

 バハールは話しながら階段を一段一段、確りと踏みしめながら徐に下りた。玲太郎もそれに倣い、徐に下りて行く。

「当時の新聞記事かぁ。少し見てみたい気もするね。……それにしても、今、凄い事を言ったよね? 王族の物が盗まれる事ってあるの?」

 足下を見ているバハールを一瞥する。

「驚く事に、たまにある話だと聞いたよ。国の財産なのに、盗まれて宝物庫からなくなるなんて、あってはならない事なのにね。王宮の警備がどうなっているのか、不思議でならないよ」

「ふうん……。本当にそんな事があるんだ。犯人はきちんと捕まってるんだよね?」

 バハールは玲太郎を一瞥して、階段を一段下りた。

「そう言えば、そこまで聞いた事がないね。どうなっているのだろうか……」

 そう言うと沈黙が流れた。二人は階段を下りる速度を上げた。二階まで下りてくるとバハールが足を止める。

「僕は四学年の授業だから、ここで失礼するよ」

「分かった。僕は二時限連続で医務室だから、また後でね」

 玲太郎は微笑んで軽く挙手をすると、階段を更に下りて行く。

「反転の首飾りと言うておったが、反転とは味が反転するのであろうか? それとも、毒が薬になるのであろうか? どう反転をするのか、些か興味があるわ。……はわぁーあっ、それにしても眠いな。明良の所へ行くのであれば、わしも漸く眠られるという物よな。しかしながら、あの石で起こされるのはやはり堪らぬわ。あれはどうにかならぬのか……」

 ヌトが大きな独り言を言っていた。玲太郎は渋い表情をして階段を下りる。一階に着くと南棟に入り、医務室の扉の前に来ると、いつも通り扉を二度叩いてから開けた。すると患者がいて、思わず閉めてしまった。玲太郎は医務室の前で暫く待つ事にした。

「おっても気にせずに入れば良かろうに。何時もの冷やかしかも知れぬでな」

「違ったらどうするの」

 小声で言うと、人が来ていないか廊下を見回した。

「別に構わぬではないか。施設としては病院ではなく学校なのであるからな、ち合う事もあろうて。そう神経質になるでないわ」

 廊下の外側に面している壁は分厚く、窓が二重窓になっている。その奥にある景色を何気なく眺めていると、閉扉する音がした。

「お先に」

 そう声を掛けられると、玲太郎は振り返って遠ざかって行く後ろ姿を見た。歩き方を見るに、男子生徒のようだった。それから扉を二度叩いて開け入室する。

「いらっしゃい」

「さっきの人、本物の患者さんだったの?」

「そうだよ。珍しいだろう? 風邪を引き掛けていたから、紅茶に混ぜて飲める薬草を出したよ。玲太郎も飲んでみる?」

「いらない」

「改良に改良を重ねた、私の自信作なのだけれどね」

「美味しいの?」

「薬草なのに砂糖の代わりになるよ」

「えっ、それは凄いね。そう言われてしまうと、飲んでみたい……」

「それでは淹れようね」

 背嚢を机に下ろして椅子に腰を掛けると、明良は玲太郎に笑顔を向けて立ち上がった。医務室には薬草の為の棚と水屋が備え付けてあり、その場で薬草を煎じた物が飲めるようになっている。焜炉や水道はないが、それは明良の魔術で事足りてしまう為、必要がなかった。茶器を水で満たし、それを一滴も残さずに宙へ浮き上がらせると熱湯にし、紅茶の茶葉を入れて砂時計を引っ繰り返す。それをそのままにして、先程の患者に出した物と同じ薬草を適量出して来て、宙で粉砕してしまうとそれも熱湯の中へ入れる。

「あーちゃんには茶器や乳鉢がいらないね」

「それはそうなのだけれど、ばあちゃんに味気ないと言われるから、ばあちゃんの前では出来ないのだよね」

 そう言うと微笑んだ。玲太郎は釣られて笑顔になる。

「父上やお祖父様はどう言ってるの?」

「水伯は別に何も言わないけれど、お父様には、茶器に慣れているから茶器で頼むと言われたよ」

「ふふ、どっちもどっちらしいね」

「水伯はこれを瞬時に遣るのだからね。それは本当に凄い事だよ」

「そうだよねぇ。茶葉が開いて味を出すのに三分蒸らすんだよね? それを一瞬で遣るんだから、時間の感覚がおかしいよね」

「宝石や服を出すように飲食物を出すのだから本当に凄いよね。不思議に思って訊いた事があるのだけれど、長年料理を作って来たから、煮た結果、炒めた結果、蒸した結果が体に染み付いているからかも知れない、みたいな事を言っていたよ」

「長く遣ってると出来ちゃうんだろうか。僕もいつかは父上みたいに出来る?」

「遣り続けてみない事には判らないね。玲太郎も頑張って料理を作らなければね」

「最近は、はーちゃんも包丁を使わさせてくれるから、材料を切るくらいなら出来そう」

「刃物の扱いには十分に気を付けるのだよ?」

「指を切る事はないから大丈夫だよぉ。はーちゃんも心配なのか、横でずっと見てるしね」

「それでも気を付けるのだよ? 慣れて来た頃が一番危ないのだからね」

「はーちゃんが、見ててくれてるから大丈夫なのよ」

「それだとよいのだけれど……」

「あ! 明日は釣りに行くんだからね。忘れないでよ?」

「忘れないよ。ピーカーズ地区にある船着き場で、九時には船へ乗り込むから、八時半までに寮長室へ行くよ。それから飛んで行こう。学院から近いから直ぐに着くと思うよ」

「分かった。僕は釣りが初めてだから、本当に楽しみ」

 明良は嬉しそうな玲太郎を見て微笑んでいた。すると三時限目が始まる鐘が鳴った。玲太郎は慌てて背嚢から復習する為の教科書と帳面を取り出していた。


 夜、玲太郎は颯と共に夕食の準備をしていた。颯に指示された通りに材料を切るだけなのだが、燻製肉に苦戦を強いられていた。

「これ、結構切り辛いよ?」

 右側にいる颯を見ると弱音を吐いた。

「そうだろう。意外と硬いからな。時間が掛かってもいいから拍子木切りな」

「うん……」

 それに視線を戻して包丁の刃を立てて切ろうとした。

「魔術を使って切ってもいいんだぞ?」

 眉を顰めると包丁を押し込む。

「出来ない事を言わないで欲しいのよ」

「玲太郎なら出来るけどな?」

「まーたそうやって思ってもない事を言うんだからぁ」

「玲太郎こそ、そうやって否定的になるなよ。出来る事に気付いていないだけで、出来るんだぞ?」

 玲太郎は手を止めると颯を横目で見た。颯は微笑む。

「切れないのなら交代するか? 遣り辛くて集中出来ないんだろう?」

「思ったより切り辛いってだけで切れるのよ。待ってて」

 手元にある燻製肉を見て、包丁の刃を押し込んだ。

「こういう時は力加減がまだ良く分からないのよね」

「手は切るなよ?」

「うん、それは大丈夫」

 颯は徐に刃が入って行く様子を見ていた。まな板に刃が着くと玲太郎は笑顔になった。

「その厚さでいいから、後三枚な。それで拍子木切りだぞ?」

「三枚ね。今ので力加減が分かったような気がする」

 颯はそれを見てから、小さ目の鍋に水を入れると火に掛けた。焜炉の下にある棚から俎板と包丁を出すと、調理台に置って味噌汁の具を切り始めた。人参を短冊切りにしている最中に湯が沸き出し、調理台に置いてあった鰹節の袋を取ると鍋の方へ行く。鰹節を適当に鍋に入れると、袋の口を閉じて水屋の隣にある棚へ置きに行く。それから人参を手早く切ってしまい、掬い網を棚から取り出して鰹節を掬ってそのまま皿に置いた。焜炉の火を少し小さくすると、人参を投入する。次に玉葱を半分に切って両方の皮を剥き、少し厚目の薄切りにして鍋に投入した。最後に一束の水菜を一寸強の長さに切り、包丁を置く。

 玲太郎の手付きを暫く見てから、焜炉の下の棚から小型の揚焼あげやき鍋を取り出して火に掛けた。胡麻油を少し入れ、冷蔵庫に保存していた出汁殻を取り出して来てそこへ入れて、先程の出汁殻を投入する。魔術で小さ目に刻むと調味料を適当に入れていき、へらで混ぜ始める。

「はーちゃん、切れた。拍子木切りだよね」

「どれ」

 魔術で箆を動かしたままにし、颯は玲太郎の方へ行く。燻製肉を見ると頷いた。

「うん、これでいいよ。それじゃあ次は玉葱を少し厚目に切って、厚目って言っても燻製肉と同じ幅くらいで頼むよ。人参は拍子木切りな。これも同じくらいの厚さにしておいて」

 そう言うと塊の燻製肉を油紙に包み、切られている分を大き目の椀に移した。そして玲太郎の手と包丁と俎板を洗浄魔術で綺麗にして、材料を入れていた竹製のざるを玲太郎の方に置く。

「手を切らないようにな」

「分かってるってばぁ。そう何度も言わなくて大丈夫なのよ」

「全部綺麗にしてあるから洗わなくてもいいぞ。それと人参は半分に切ってからにしろよ? 丸いままだと安定しないからな。人参はこっちの皿、玉葱はこっちの皿に入れておいて」

 皿を二枚置くと、玲太郎は大きく頷く。

「はーい」

 元気良く返事をして人参を手にした。颯は冷蔵庫に入れておいた葱を持って来ると、長さ一寸六分程に切って皿に置いた。それから焜炉の前に戻り、箆を手にすると自分で混ぜ始める。

 玲太郎が材料を全部切り終えた頃、颯はまだ出汁殻を炒めていた。味噌を入れた鍋を調理台に置き、大型の揚焼鍋を出して来て火に掛けた。颯は踏み台を移動して、炒め物を玲太郎に遣って貰う事にした。

「この人参、もうよい? 次入れても大丈夫?」

 箸で混ぜながら、颯を見た。颯は揚焼鍋の中を見る。

「んー、もう少し炒めた方がいいんじゃないか?」

「分かった」

「試しに一本食べてみれば直ぐ判るぞ」

 玲太郎は菜箸で一本摘むと口に放り込んだ。一度咀嚼すると顔を顰め、咀嚼を続けた。

「結構硬かった。ダメだよ」

「それじゃあもっと炒めて」

「はーい」

 玲太郎は笑顔で返事をすると、颯が混ぜている物に目を遣った。

「それってあれだよね、おかかだよね? またお握りを作っておくの?」

何時いつもはそうなんだけど、今日は振り掛けにしようと思って。もう少し炒めてから胡麻と柚子の皮を入れたら完成だな」

「ふりかけかぁ。お握りにまぶすのもよいよね」

 そう言うと口元を綻ばせた。

「そうしようか? 明日は釣りだからお握りを持って行くけど、若しかしたら船酔いして、それ所じゃなくなるかも知れないからな」

「舟酔い?」

「空の船だと魔術で固定しているけど、水に浮かぶ船は結構揺れるんだよ。その揺れで酔って吐くかも知れないからな。兄貴はどうか知らないけど、俺は平気。玲太郎が問題なんだよな」

「船って揺れるの?」

「箱舟みたいに魔術で宙に浮いていないからな。浮力で水に浮いていて、波やら風やらで揺れるんだよ」

「へぇ、そうなの」

「まあ、食べられるかも知れないから、自分で食べる分は自分で握るか?」

「やるやる!」

「兄貴の分も握って貰える? その方が喜んで食べるだろうからな」

「うん、やるのよ。綺麗に握れるように頑張るね」

 玲太郎は上機嫌で人参を炒めていた。颯が頃合いを見計らって材料を入れて行き、颯の方は振り掛けを作ってしまうと皿に移し、空いた揚焼鍋には玉子を三個を割り入れて水を少し入れ、蓋をして蒸し焼きを始めた。炒め物の味付けも颯がしてしまうと、玲太郎は少し膨れた。

「僕にやらせてくれても良かったのに……」

「悪い、つい癖で遣ってしまったよ。またの機会にな」

 颯は玉子の方の火を消して、蓋をしたままにした。炒め物を入れる皿を持って来ると、そのまま颯が皿に盛り始めた。玲太郎の分を盛り、自分の分を盛ろうとした時、玲太郎が口を開いた。

「もう少し欲しい」

「ん」

 そう言われて少しずつ玲太郎の方に入れた。

「それで大丈夫。ありがとう」

「どう致しまして」

 颯は残りを全部盛った。空いた揚焼鍋を焜炉に置き、次は小型の揚焼鍋の蓋を取って、脇に置いてあった箆で白身を切った。小型の揚焼鍋を持つと、炒め物の皿に目玉焼きを載せていく。勿論、颯が二枚だった。

「それじゃあご飯を装って貰えるか?」

「はーい」

 玲太郎は元気良く返事をして、炊飯器の前へ行き、既に出ていた茶碗と丼に白飯はくはんを装う。颯にはいつもより気持ち多目に入れた。炊飯器の蓋をすると、丼を先に持ち、茶碗も持つと食卓へと運んだ。颯は味噌汁を装っていた。

「焼きばら海苔はどれくらい入れる? 自分で入れるか?」

「自分で入れる」

 戻って来た玲太郎が笑顔で言うと、颯は袋を渡した。まだ十分に熱い味噌汁に海苔を入れると、磯の香りが立ち昇った。玲太郎はそれを軽く二度嗅ぐ。

「この匂い、好き」

 そう笑顔で言うと、颯も笑顔で頷いた。

「海苔の香りはいいよな」

「うん」

 大き目の盆に炒め物の皿と汁椀と箸と箸置きが載っていて、玲太郎はそれを運んだ。颯は焼きばら海苔が入った袋の口を閉めて棚に置くと、冷蔵庫から容器を取り出して、それを持って食卓へと向かった。容器の蓋を外して食卓に置いて着席する。

「いただきまーす」

 玲太郎が先に箸を持った。

「頂きます」

 颯も続いて箸を持つ。玲太郎は既に目玉焼きの白身を切り分けていて、人参と一緒に頬張った。そして颯が持って来た容器を一瞥する。それを見て口の中で唾液が一気に出て来て、目を閉じてしまった。


 翌朝、明良が朝食を済ませて二度目の来訪をした。三人で茶を飲みながら話をして時間を潰し、八時半が来ると三人は寮を出て、東にある校門から坂道を下った。学院のある丘に生えている木々は落葉樹が主で、今は道が木の葉が少し落ちている程度だが、着実に冬支度を始めているようだった。

 三人は徐に歩を進め、麓まで下りると西へ向かう道に入って行く。玲太郎は明良と話をしながら歩いていたが、颯はその前を歩いた。この辺りの畑には穀物を刈った後が見られ、寂しい風景となっていた。そして疎らに民家があった。

 真っ直ぐ道なりに進むと、時折十字路になったり、分かれ道があったりしたが、基本は真っ直ぐ西へ向かった。そうしている内に湖が見えて来て、長い桟橋や沢山の船が視界に入って来る。なだらかな坂を下って湖畔に建てられている小屋に行き、颯が受付を済ませる。

「九時に三名で予約をしているハヤテ・イノウエです」

 それを聞いた窓口にいる中年男性が書類を確認している。

「二十分も早くお着きなんですね。えっとですね、今日乗って頂く釣船は桟橋の、こちらから見て奥の方にあるデタン号になります。船長も既にいますのでね」

「はい、解りました」

「それでは三名様で道具類は全てこちらで用意、それで五時間ですね。料金は三万こんになります」

 颯は財布から中金貨を一枚出して、魔道具の円型の受け皿に置いた。中年男性がそれを手に取って確認する。

「五万金をお預かりします。少々お待ちください」

 中年男性はお釣りの小金貨を二枚、先程と同じ円型の受け取り皿に置く。

「二万金のお返しです」

 皿からそれを取った颯は辞儀をする。

「お世話になります」

「ありがとうございました」

 金を財布に入れるとズボンの衣嚢にそれを戻し、後ろで待っている二人のもとへ行く。

「桟橋の奥の方にあるデタン号だって」

「奥の方と言うと、割と遠いね」

 明良が振り返って言った。玲太郎も同様に振り返っていた。

「さて、大物を釣って元を取らないとなあ」

 颯が意気込んで歩き出した。桟橋を真っ直ぐ進み、船体に書かれている船名を見ながら歩いた。最後の帆柱一本の小型帆船に中年男性と青年が船の横で準備をしている手を止めて三人を見る。

「イノウエさんかい? デタン号はこれだよ。船長のガソーだ。今日はよろしくな」

 中年男性は肌が小麦色で良く焼けていて、金髪が日に浴びて白髪に見えた。

「ハヤテ・イノウエです。こう見えて血の繋がった兄弟なので、宜しくお願いします」

「へえ、兄弟かい。似てないけど仲がいいんだな」

 そう言って白い歯を見せた。意外と体が大きかったが、颯より少し背が低かった。

「アキラ・イノウエです。お願いします」

「弟の玲太郎です。よろしくお願いします」

「俺は船員のタイスだ。よろしくな。それでこの胴衣を着けてもらいたいんで、どうぞ」

 明良と同じくらいの身長で、赤銅の髪に茶色の目をした青年がそう言うと三人にそれぞれ渡した。颯は背嚢を下ろしてそれを着ると、明良も鞄を下に置いてそれを着た。玲太郎には大きいようだったが、小さいのはそれしかないと言われて渋々着ていた。

「ちょっとばかり早いけど、三人が乗り込んだから沖へ出ようと思うがいいか?」

「お願いします」

 即答したのは颯だった。

「それにしてもあんたら、帽子を被って来なかったのか? 今日は天気がいいから俺みたいに焼けるぞ?」

 それを聞いて、颯は即座に麦藁帽子を顕現させた。

「帽子はあります」

 そう言って被ると微笑んだ。

「あっ、はーちゃん、僕にも」

 玲太郎が手を差し出すと、顎紐の付いた麦藁帽子を顕現させて渡した。

「ありがとう」

 明良もいつの間にか帽子を被っていた。船長はその様子をつぶさに見ていて目を丸くした。

「へえー、もしかして、カンタロッダ下学院の先生かい?」

「俺はそうです」

「そうかい。それじゃあ今日は無風だから、風を吹かしてもらおうか。なんてな。はっはっはっ」

 そう言って豪快に笑っていると、颯は頷いた。

「それくらいならいいですよ」

 安請け合いをした颯は本当に風を吹かせ、たちまち結構な沖まで出ていた。

「本当なら原動機で進むとこだけど、この小さな帆でここまで出られたら言う事ないな。逆にこっちが金を払わないといけないな? はっはっはっ」

「風を吹かせるより、船を浮かせて動かす方が楽なんだけどなあ」

「そういうもんなのかい?」

「そういうもんだよ。まあ、この方が船に乗っている感じがしていいけどな」

「そうかい。その調子で帰りも頼むぜ。はっはっはっ」

 颯は上機嫌のガソーと打ち解けていたが、明良と玲太郎は船首で湖を眺めていた。

「それではこの辺りで釣りを始めますか」

 タイスが船首にいる二人に声を掛けた。二人は振り返ってタイスを見る。

「そうですね。それではお願いしましょうか」

「釣りは初めてだから楽しみ!」

 満面の笑みを浮かべて玲太郎が言うと、明良が玲太郎を見て笑顔になる。それを見たタイスが顔を紅潮させた。

「道具を取って来ます!」

 慌てて釣り竿を取りに行った。ダイスの赤くなった耳を見た明良ははしゃいでいる自分を心中で戒めた。

 颯は二人から少し離れて釣り糸を垂らし、組み立て椅子に足を組んで座っていた。

(これは釣れないなあ……。最低でもいちヤチモル(約半里)くらいの長さの釣り糸がないと話にならないか……。それにしても底は結構深い所にあるようだな)

 気配の読める颯は既に諦めていた。最初の内は良かったが、一時間、二時間と経過して行き、退屈も度を越してしまい、欠伸すら出なかった。

 しかし、状況が急変する。颯は急速に近付いて来る魚群らしき気配を感じて姿勢を正した。有り得ない速度で近寄って来たかと思うと、ガソーとタイスが垂らしていた糸にも食い付いて来て、人手が足りなくなってしまった。四人は張り切り、足下に置かれていた持ち手付きの深い桶に入らない七尺前後はある黒い大魚を、釣っては生簀に入れて行った。

「すげえ! タンモティッテがこんなに! 祭りじゃああ!!」

 ガソーが中年とは思えぬ動きで片っ端から釣り上げていた。タイスは魔術を使って捕獲して持ち上げ、生簀へ放り込んでいた。そんな中、玲太郎一人が暇を持て余していた。

「全く釣れない……。もしかして釣り針が取れてるの?」

 大量に釣れて興奮している明良の横で呟いていた。

「もう終わりだぞ! これ以上生簀に入れられないから止めてくれ! 終わり終わり!」

 ガソーが叫びながら回って来たが、颯は無視して釣り続けた。浮かせた湖水の中で獲物が悠然と泳いでいて影を落としていた。ガソーはそれに気付いて上を見て顔を引きらせた。

「……悪かった。続けてくれていいぞ」

 それを横目で見ていた玲太郎も釣り糸を垂らしたままだった。

「はーちゃんは魚を宙に浮かせてるみたい。船の中に入れてなかったんだね」

 興奮冷めやらぬ明良を見ながら言うと、明良はやっと颯の方を見た。

「素直に生簀に入れていたけれど、ああすれば良かったのだね。あれならまだ釣れそう」

 そう言うとまた釣り糸を垂らした。明良が五匹釣り上げた頃、魚群が俄にいなくなり、釣れなくなってしまった。坊主の玲太郎はそれでも釣り糸を垂らしていた。

「玲太郎は釣れたの?」

「一匹も釣れてないからこうしてる」

 渋い顔をして言うと、明良は困惑した。

「私が必死で釣っている間、放置していてご免ね」

「忙しそうだったからよいのよ」

 そこへ大きな当たりが漸く来て、玲太郎の表情が明るくなった。

「あーちゃん、来た!」

「竿を引いてご覧」

「引くってどうするの?」

「こうして……」

 玲太郎の後ろに行って腕を掴んで動かしていると、ガソーとタイスが微笑みながら見守っていた。明良は無表情で二人を見て、直ぐに糸の先に視線を戻して魔術で釣り上げた。当たりに反して約一寸の魚が針に引っ掛かっていた。玲太郎は思わず落胆してしまった。気を取り直して再度糸を垂らすと、また約一寸の魚が釣れた。


 昔々、ロデルカ兄弟が十八ヶ国を統一する遥か昔、シュルツ・ハイセイと言う冒険家がいた。彼はソズバシッス山脈に散らばっている目族の集落の内の一つで生まれ、なんでも二つ目で精霊が見えていたと言う。その割には呪術師や占術師の才がなかった為、若い内は集落周辺で山羊飼いと狩猟を生業としていたが、二つ目である事で下界の精霊に興味を抱き、下山するに至った。

 麓に到着すると直ぐそこに水が来ていた。彼は目の前に広がる大きな水溜まりを海だと思った。海岸線上には漁村や港町がある。それは知識として得ていた情報だった。彼はそれを目指し、海岸線を歩いていると、野生動物が海で喉を潤している場面に遭遇する。慌てて弓矢を用意し、その獲物を仕留める事に成功すると久し振りのご馳走に有り付く。道中、山から海へ小川が流れていて水に困る事はなかったが、食べ物だけは持って来た干し肉と、その辺で摘んだ野草を焼いて食べる程度だったお陰で、久し振りの大物を口にして生きている喜びを噛み締めていた。満足した食事の後、暮れ行く空を眺めながら先刻目にした光景を思い出した。

(海とは塩辛いものだと聞いたが、動物が海から水を飲んでいた。川が流れて来ている訳でもないから、あの辺は薄まっているはずもない。どういう事だ?)

 今は小川の傍で露営をしていて、河口で確認するには向いていないと思い、翌日の道中で確認する事にした。こうして翌日には海ではない事を知り、態々川まで歩く必要もなくなり、旅が劇的に楽になった。

(右手には大きな溜池、左手には山、術師として下界に行っている伯母さん達から聞いた話と違うのに、旅が順調に行き過ぎていて逆に恐ろしいな)

 彼はこの事から、旅の間は決して気を緩める事はなかったと言う。

 道中、時折獲物に恵まれる事もあり、旅は順調に進んだ。彼は言葉の壁をなんとか超えながら漁村や港町に立ち寄り、ほぼ一周して右手の溜池が巨大な湖だという事を知る。そうして行き着いた先で使われていた古代トイガ語で巨大な溜池と名付けた物が広がり、現在もそう呼ばれている。ちなみに巨大な溜池はクミス・イリガと言い、それが訛ってクミシリガになっている。

 そんな彼の残した伝承の中に、タンモティッテの群れに襲われる時は、ルツと言う魚型の精霊に追われている時、という物がある。ルツは小さく、青い体に白い目をしていると言われている。そのルツは精霊の為に二つ目でなければ見る事が適わず、それが事実であると知る者は少なかった。

 ……という話を、復路の暇潰しにガソーがしてくれた。

「ガソーさんは精霊のまなこの事を二つ目って言うんだな」

「湖畔に住んでる奴は、みんな二つ目って言うぞ。精霊の眼なんて言う奴ぁ、外から来た奴だな」

「へえ、そうなんだ」

「俺らがそう言うのは、伝承のせいもあるだろうがな」

「シュルツ・ハイセイの影響なんだな」

 颯がガソーと会話をしている間、玲太郎は足下に置かれた深い桶の中にいる二匹の魚を見ていた。約一寸の青い魚は目が白い。玲太郎が釣った魚の特徴を言った所、ガソーが伝承を話してくれたのだった。明良は見えるが、颯は見えていないという事になっていて、見えない振りをしている。

「本当は放したかったのに、この桶に飛び込んで来るから困っちゃったのよ」

「きっと玲太郎の傍にいたいのだよ。少しの間でも飼ってみればよいと思うよ」

「あーちゃんは他人ひと事だからそうやって言えるのよ。水槽なんてないんだよ?」

「浴槽があるじゃない。普通の魚ではないのだから大丈夫なのではないの?」

 顰めっ面が、驚きの表情に変わる。

「えっ、お湯だよ? 温かいのに平気なの?」

「試しに入れてみようね」

 組み立て椅子に並んだ二人は小声で話していた。

「それにしてもルツは二匹しかいなかったの? 二匹であの数の大きな魚を追い込んでいたんだったら、凄いよね」

「私が感じた気配はもっといたけれどね。玲太郎の釣り針に興味を持ったのが、その二体だけだったのではないのかと思うよ。放しても桶に飛び込んで来たのは、一度入った桶の場所を憶えたのだろうね。その辺はやはり精霊と言うべきだろうか」

「感心してる場合じゃないのよ。ご飯は何をやればよいのかとか、全く分からないんだよ?」

「悪霊に訊けばよいのではないの? 若しかしたら生みの親かも知れないよ?」

「それじゃあ寮に帰ったら、ヌトを起こさなきゃね」

「そうだね」

 笑顔の玲太郎を見て明良も微笑んでいると、タイスが遠巻きにそれを見ていて、明良の微笑みに見惚れいていた。

 桟橋に到着すると魚の分け前の事で話し合い、明良が釣り上げた分だけ貰って帰る事となり掛けたが、ガソーは高級魚という事もあって、気軽に知人に分ける事が出来ないと言い出し、明良が一匹四百万金の所を格安の三百万金で買い取る事となった。一匹当たり約五十三貫で、食べられる部分だけで九十人前はある。明良が釣った三十六匹に、買い取った二十八匹、颯が釣った四十二匹を合わせると、一万八十人前になる。

 明良は速やかに行動し、釣りが出ないように八千四百万金を持って来た。余りの速さにガソーは呆然としていたが、大白金貨いっせんまんを見て興奮していた。

「後はこの領収書を書いて貰ってもよい?」

「書くとも、金額が大きいから当然な」

 硬貨を渡してしまうと、ガソーはズボンの衣嚢に無造作に硬貨を突っ込んだ。そして明良から領収書を受け取り、万年筆を借りて書き始めた。

「金額の右横にある円の中に、指先を当てて魔力を注いで貰えれば完成なのだけれど……」

「そうなのかい。悪いんだが俺は魔力がないんだわ」

「それでは親指を切るから、血で拇印をして貰える?」

 ガソーは明良に万年筆を返すと掌を広げた。すると親指の指先に血が滲む。それを見て、円の中に親指を当てて血を付けた。

「もう一度、その親指を見せて貰える?」

「おうよ」

 また掌を上にして見せると傷が消えて、血も消えた。領収書を明良に差し出すと笑顔になる。

「これで終わり」

「おお、ありがとよ」

 明良はそれを受け取ると確認をしながら小さく辞儀をした。

此方こちらこそ有難う。二千八百金も安くして貰えて、本当に有難い」

「いやいや、こんな田舎の漁村じゃ客が来ないし、俺達じゃ新鮮で綺麗なまま売りさばくのは難しいし、売るにも伝手がないしな。こっちの方こそありがたいよ」

「これは控えだからね」

 領収書の控えを明良が差し出すと、ガソーは何も言わずに受け取った。

「きちんと税金を払うのを忘れるなよ? 脱税すると怖い人が一杯来るからな」

 明良の後ろで見ていた颯が声を掛けた。

「おお、そうだな。税金の事まで頭が回らなったぞ。はっはっはっ」

 ガソーは颯に向かって豪快に笑った。

「また来いよ! お前らと行くと釣果がとんでもない事になりそうだからな」

「それまでガソーさんも元気でな。後、桶も有難う」

「なあに、手に入れた金で桶なんて買いまくれるからな! はっはっはっ」

 颯が軽く挙手をすると、ガソーは大きく挙手をして桟橋の奥に向かって歩き出した。

「ありがとうございました」

 玲太郎はその後姿に礼を言った。そして取り残された三人は、上空に浮かぶ二つの水の玉の中で泳ぐ魚を眺めた。

「鱗が縁起物で装飾品として使えるから取っておこうと思ったのだけれど、全く付いていなかったよ。颯の方はどう? 付いていない?」

「俺の方はどうだろう? 調べてみる」

 明良は領収書を漸く鞄に入れると、玲太郎の方に視線を移す。

「先ずは寮に戻って、その精霊をどうにかしようか」

「そうだね」

「じゃあ俺がこれを持って先に戻るわ」

 颯が玲太郎の持つ桶を取り、明良が玲太郎を抱き上げて水の玉と一緒に寮へと飛んで行った。颯は宙に浮いている水の玉まで飛び上がると、それに触れて瞬間移動をした。


 翌日、颯は食事を済ませた玲太郎を連れて寮へ戻ると、茶を飲んでいる玲太郎の前で、一人弁当を食べていた。

「タンモティッテが高級なのが良く解るよ。本当に美味しいな。赤身かと思ったら白身だし、程々に脂も乗っていて最高だなあ」

「はーちゃんは寮で食べたんじゃなかったの?」

「食べたよ。俺が寄付した物だから、お代わりも沢山させて貰えたわ。それに水伯のお陰で一匹五百万以上で売れて懐が暖かくなったから、本当に玲太郎様様だな」

 そう言ってタンモティッテの天麩羅を口に運んだ。頷きながら咀嚼をしている。

「どうして僕なの? 偶然ルツがタンモティッテを追い掛けてた所に遭遇しただけだよ?」

 咀嚼し終えて飲み込むと、笑顔になる。

「いやあ、あれはどう考えても、玲太郎に助けを求めて来たんだと思うぞ。まあ、ルツに何匹か始末されていたけどな」

「うん? 僕に助けを求めてたんだったら、僕が何匹か釣っててもおかしくないよね?」

「それはそうだな。どうしてなんだろうな? 来てみたはいいけど、いざとなると怖気付いたのかも? それでもルツを釣り上げたのは玲太郎だけなんだから、それは喜ばないとな」

「ルーとツーはどうして僕の所に来たんだろうね?」

「さあ? 俺も釣れるか? と思って糸を垂らしていたけど、玲太郎の方に五体行って、針に掛かったルツは二体だけだったからなあ。結局三体は群れを追い掛けて行ったけどな」

 今度はタンモティッテの煮付けを頬張る。咀嚼をしながら少し渋い表情になった。

「天麩羅の方が美味しいな……」

「それよりも、ルツがどうやってタンモティッテを始末するの? どう考えても分からない」

 颯は弁当から玲太郎へ視線を移した。

「見ていないからなんとも言えないな。何かをしてタンモティッテを消滅させていたのは確かだよ。突然に気配が消えていたからな。九分九厘、魔術なんだろうな。まあ、一緒に風呂に入ったけど、俺には何も遣って来なかったわ」

「何かやって来たてら困るのよ」

 颯は鼻で笑うと、なますを頬張った。咀嚼して行く内に表情が明るくなる。

「ん! これが一番かも」

「僕は天ぷらが一番美味しかったのよ」

「うん、天麩羅も美味しいもんな。今日はタンモティッテ弁当だなあ。タンモティッテしか入ってないわ」

 玲太郎はそんな颯を微笑んで見ていたが、何かを思い付いたような顔をする。

「全部売らないで、凍らせて置いておけば良かったんじゃないの?」

「また釣りに行けばいいじゃないか」

「あ、魔術で掬い上げればよいかもね?」

「そんな事をしていたら、絶滅してしまうなあ。そうなると困るな」

「そこまで一杯捕まえる訳じゃないのよ。少しだけね」

「また食べたいのか?」

「たまーに食べたいかも」

 颯は鼻で笑うと、天麩羅を頬張った。

「ルニリナ先生は喜んで食べてた?」

 大きく二度頷きながら咀嚼をして飲み込む。

「黒い宝石と呼ばれていて、市場に出回るのは非常に稀ですので、そのような物を食べられるとは僥倖ですって感じの事を言っていたよ。その後は美味しいって連呼しいてたな」

「ふうん……。それにしても、はーちゃんがルニリナ先生と友達になるなんて、思ってもみなかった。友達なんていらないんじゃなかったの?」

「そうなんだよなあ。何故か友達になってしまって……。うーん」

 唸りながら白飯を頬張ると、咀嚼を始めた。

「ルニリナ先生はよい人だから、はーちゃんと友達になってもらえたのは嬉しいけど、あーちゃんの事も、気にして欲しいのよ」

 颯は玲太郎を凝視しながら、天麩羅を頬張った。そして無言のまま咀嚼をしている。

「聞いてる? あーちゃんの事も気にして欲しいのよ」

 手で口を覆うと、眉を下げた。

「兄貴は玲太郎がいれば十分だから、俺が気にする必要はないと思うぞ?」

「でもお兄ちゃんなんだからね」

「玲太郎より、兄貴と長く過ごしているから、大体は解っているよ。だからこそ言っているんだけどな? 玲太郎がいれば十分なんだってな。兄貴と俺は今の距離感でいいんだよ。だから玲太郎が兄貴に気を配って貰えればと思う。出来る?」

「出来ない」

「どうしてだ? 兄貴が玲太郎にべったりだから嫌なのか?」

「それはもう慣れてるからよいのよ。でも僕、つい意地悪な事を言って、あーちゃんを傷付けちゃうのよ」

 颯は鼻で笑い、白飯を頬張った。玲太郎は温くなった茶を飲んでいるのを見ると手で口を覆う。

「うん、まあ、それはいいんじゃないのか。兄貴が玲太郎に甘える口実が出来るんだから、な?」

「な? じゃないのよ」

 困っている玲太郎を見詰めて咀嚼をし、漸く口の中にある物を飲み込むと微笑んだ。

「嫌なら意地悪な事は極力言うなよ? 兄貴に気を配る以前に、玲太郎が意地悪を言わなければ済む話だったな」

 玲太郎は萎れると、湯呑みを両手で握って無言になった。颯は今の内と言わんばかりに弁当を慌てて食べた。食べ終えると弁当箱を綺麗にして棚に置き、食卓へ戻って来ると冷めた茶を飲んだ。そしていつの間にやら突っ伏している玲太郎の傍に行くと、抱き上げて背中を擦った。玲太郎は颯の肩に顔をうずめていた。半時間はそのままでいただろうか。玲太郎は寝息を立てていた。颯は庭付きの寝室の方へ行き、玲太郎を寝台に寝かせようとしたが、首に回している腕を解けず、仕方なく抱いたままでいた。

(四六時中、兄貴と一緒だと精神的に疲れるんだろうか? ……疲れるんだろうなあ。本当にべったりだからな)

 そうは思っても、助け舟を出す積りはなかった。それから二十分程経った頃、腕が下りて漸く颯は解放された。

(うーん、風呂はどうするのか? 洗浄魔術で綺麗にしてこのまま寝かせておくか)

 玲太郎は結局二十九時を過ぎて、颯に起こされるまで眠り続けた。いつもより早く寝ていた所為か、目が冴えたようで、颯に抱えられる事なく厠へ行った。

「お風呂に入る」

 厠に行った後にそう言い出して、颯も一緒に入浴する事になる。

「ルーとツーが喜ぶだろうなあ」

「そうなの? 魚が喜ぶの?」

「あれは精霊だからな、知能も魚よりは格段に上だよ」

「ふうん」

 気のない返事をすると服を脱ぎ散らかして浴室へ入って行った。颯はそれを拾い、洗浄魔術を掛けて綺麗にすると魔術で畳んで台の上に置いた。颯も浴室に入り、開放されていた扉を閉め、待ち構えていた玲太郎を灌水浴装置で体を洗い流してから浴槽へ入れた。するとルツが飛び跳ね始めた。

「うわっ、びっくりしたのよ。ルーとツーが跳ねてる」

 颯も体を流して浴槽に入ると、二匹は動きを止めた。

「跳ねなくなったな」

「あれ? どうしたの?」

「さあ? 俺が嫌いなんだろう」

「僕がいない時に何かをやったの?」

「二体が俺の傍に寄って来ようとして、それを阻止したから、遣ったと言えるな」

「そうなんだね」

 玲太郎は漸く体を沈め、いつものように颯に沈まないように浮かせて貰っていた。颯は浴槽の上縁面に腕を置いた。

「良く判らないんだけど、変な気配がしたから取り敢えず阻止しておいた。若しかしたら、俺を下に見ていたのかも知れないなあ」

「そんな事、あるの?」

「あるある。精霊だからな。俺等人間より上位種になるんだぞ」

「へぇ、そうなんだ」

「そんな存在が玲太郎を主だと認めて此処にいる訳だから、偉ぶってもいいんだぞ?」

「本当? それじゃあご褒美に、お腹が空いてるから、お風呂から上がったら何かを食べさせて」

「まあいいだろう。でも沢山は駄目だぞ」

「やった! 何を食べよう? ふふ」

 颯は鼻で笑うと玲太郎の頭を乱雑に撫でた。喜んでいる玲太郎の目が赤く、玲太郎の心情を思うと気持ちがやや滅入りはしたが、喜ぶ姿を見ていると心が解けて行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ