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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第十六話 しかして仮面を被る

 玲太郎の待ちに待った休日が遣って来た。朝食を摂ってから屋敷へ帰る事になっていて、バハールと一緒に食堂へ行って食事を終えてしまうと、茶も飲まずに足早に寮長室へ戻って来た。息を軽く弾ませた玲太郎は喜びに満ちた顔をしている。

「お待たせ。遅くなっちゃった?」

 颯は玲太郎を一瞥する。先に戻っていた颯は読書をしている。

「大丈夫。寧ろ早いくらいだな」

 栞を挟んで本を閉じると机に置いて立ち上がる。そして玲太郎の机に行き、上に置かれた鞄を持った。もう習慣になったのか、室内履きに履き替えようとしている玲太郎の下へ行く。

「靴は履き替えなくていいぞ。もう行くから」

「えっ、まだ歯磨きをしてないよ?」

「それじゃあ歯磨きしたら出掛けるか」

「出掛けるんじゃなくて、帰るんだよ?」

「そうだな、帰るんだったな」

 玲太郎を抱き上げると微笑んだ。

「あの、抱っこは別にしなくてもよいと思うのよ」

 そう言いつつも悪い気は全くしなかった。颯はそんな玲太郎の頬をつついて微笑んだ。

「はい。歯は綺麗にしたから、歯磨きはしなくていいぞ。ヌト、あの二体に先に水伯の所へ行くからって伝えて貰えるか?」

 二体はルニリナの下に行って以来、こちらには来ていなかった。ヌトは玲太郎の後頭部にいて、ひと房の髪を掴んでいる。

「わしも一緒に行くから、向こうに着いたら伝えるわ」

「解った。それじゃあ玲太郎に触れて」

「もう触れておるぞ」

 颯は何も言わずに瞬間移動をする。りく合が一瞬で変わり、ウィシュヘンドにある水伯邸の玄関前に到着した。颯は玲太郎を下ろすと、玲太郎が小走りで玄関へ向かう。ヌトは髪を掴んだままで、玲太郎に引っ張られる形で飛んでいた。颯は振り返り、玲太郎の花壇が色取り取りの花で賑わっているのを見て頬を緩める。

「はーちゃん、来ないの?」

 玄関扉を開けて、それを支えている玲太郎が大き目の声で言った。颯は前を向く。

「悪い。今行く」

 足早にそちらへ向かう。玲太郎は颯が中に入り、扉から手を離すと扉が勝手に閉まって行く。玲太郎は颯を抜いて二階の執務室へと急ぐ。水伯は休日返上で執務室に籠る為、そちらへ一直線だ。

「転ぶなよ」

「大丈夫なのよ」

 そう言いながら小走りで執務室に辿り着くと、扉を二度叩いて扉を開けた。すると水伯が目の前に屈んで待ち受けていた。

「お帰り。帰って来る時間が早いね」

「ただいま~」

 満面の笑みを湛えた玲太郎はそのまま抱き着いた。閉じ掛けた扉を颯が持つと、中に入って閉扉する。水伯の柔和な微笑みを見た颯は笑顔になる。

「お早う」

「お早う。思いの外早かったのだね」

「うん、そうなんだよ。玲太郎が急かすからな」

 水伯が玲太郎を抱き上げると、部屋の西側にある机に向かい、玲太郎の高さを合わせてある椅子に座らせた。

「お茶でも飲むかい? それともお菓子でも食べるかい?」

「ついさっきご飯を食べた所だから、お菓子はいらないのよ。でもお茶は欲しい。緑茶がよいね」

「颯は?」

 玲太郎の向かいに座った颯は机に鞄を置き、机で胡坐あぐらを掻いているヌトを見ていた。

「俺も緑茶で、出来れば菓子も欲しい」

「解った。そう言えば今日は出掛けるのだよね? 鞄屋巡りと魔石を見たいのだったね?」

 音もなく茶の入った湯呑みがそれぞれの前に出現し、颯には菓子も出現した。

「それでお願い。色々な魔石を見ておきたいのよ」

「解った。それでは明良が来たら行こうね」

「有難う。今日の菓子は最中かあ。嬉しいわ。何時いつ買って来たんだ?」

「どう致しまして。昨日は折良く和伍へ行っていたからね」

 玲太郎は颯が手にしている最中を見ると水伯に顔を向けた。

「やっぱり僕も最中が欲しい」

「ふふ、解ったよ」

 玲太郎の前に最中が出現すると、笑顔でそれを手にした。

「ありがとう」

「どう致しまして」

「ん、おいひい」

 颯がそう言いながら咀嚼をしている。玲太郎も急いで頬張った。皮が割れ、欠片が落ちたが右手で受け止めた。その様子を横で微笑ましく見詰めている水伯は、玲太郎の手にあった欠片を消した。颯が二個目を頬張っていると、一個しかなかった玲太郎はそれでも満足そうに茶を啜っている。

「美味しかった。餡子はやっぱり美味しいねぇ」

「もう一個食べるかい?」

「ううん、お腹が一杯だからもうよいのよ。ありがとう」

 玲太郎はそう言って湯呑みを机に置くと、ふと何かを思い出した。

「そうだった。ルニリナ先生とお話ししたのよ」

「ああ、そうなのだね。何を教えて貰っているの?」

「呪術を教えてもらっているんだけどね、僕は呪術が上手いから、短期間で習得出来るって言ってくれたのよ」

「それは凄いね。その調子で縦横無尽に飛べるようになって貰えれば、私も嬉しいのだけれど、其方そちらはどうなの?」

 玲太郎から笑顔が消えた。颯が苦笑する。

「まだそんなに授業自体を遣っていないんだよ。一度しか遣っていないんじゃなかったか」

「ああ、そうなのだね。それではまだまだだね。どうも長い間、玲太郎がいなかったような感覚でいたよ」

「今日は八日だからな。……うん? 入学式は二日だったよな?」

「おや? それだけしか経っていないのかい?」

 不思議そうな表情をした水伯がそう言うと、颯が声を出して笑った。

「時間の感覚がおかしくなり過ぎだよ」

「僕は早かったように感じるけどね」

「そう? 私は一日がとても長く感じたよ。玲太郎のいない家が、このように寂しい物だとは思いも寄らなかったよ」

 颯はそう言う水伯を見ながら茶を啜った。

「最中、ご馳走様。美味しかったよ。まあ、俺も玲太郎と離れた最初の頃は、中々慣れなかったよ。学校生活を始めたばかりって事もあったけどな」

「そうだろうね。明良がああも玲太郎に執心なのは、それも手伝っていて、寂しさを穴埋めする為なのだろうね」

「然もありなん」

 颯が大きく頷くと、玲太郎は水伯に顔を向ける。

「うん? どうしてあーちゃんが出てくるの?」

 水伯も玲太郎に顔を向けて真顔になる。

「明良の玲太郎に執心する気持ちが解るから」

 玲太郎は思わず苦笑した。

「私も出来る事なら、明良のように満足するまで抱き締めていたいね」

 柔和な表情で言うと、玲太郎は両手を広げて水伯の方に体を寄せた。

「よいよ。はい」

「抱っこさせて貰えるのかい? あれだけ嫌がっていたのに、本当によいのだね?」

 そう言いながらも、玲太郎の向きを変えて浮かせると、自分の膝へ横向きに乗せて抱き締めた。

「いひひひひ」

 玲太郎は悪戯っぽく笑って、満足そうにしている。水伯もまた満足そうにしていた。そんな二人を見ながら茶を飲み干した颯が些か申し訳なさそうにした。

「ばあちゃんが散歩から戻って来たみたいだから挨拶して来るよ。まあ、二人はそのままでどうぞ」

 立ち上がると足早に退散した。ヌトはそれを見送ると机に寝転んだ。玲太郎は水伯から顔が見えていないと思い、些か暗い表情になって、頭を水伯に預けた。

「学校生活が始まってから色々あったようだけれど、玲太郎は大丈夫なのかい?」

「色々? そうだね、色々あったけど、ルニリナ先生と出会えた事はすごく良かったのよ。僕の呪術の授業が早く進めるように話し合いをしたんだけどね、とっても優しくてね、話し方が柔らかくて、父上に似てると思ったんだけどね」

「彼は占術師でね、私もお世話になったのだよ」

「うん、それはルニリナ先生から聞いたのよ。だから僕が、生まれて来る事は分かってたって言ってた」

「そうなのだね」

「父上は、ルニリナ先生が学院の先生になれるようにしたの?」

「そうだよ、玲太郎がいる間だけね。颯も明良もそうなのだけれど、玲太郎によい教師をと思っていたから渡りに船だったよ」

「僕の為?」

「勿論。明良が薬草術と治癒術を教えるのは、玲太郎のいる組だけだからね。そもそも明良は教員免状を持っていないから、本当に特別だよ」

「ふうん、そうなんだね。なんだか悪い事をしちゃったなぁ……」

「明良は少しでも玲太郎の傍にいられれば、それでよいみたいだけれどね」

「そうなの? もしかして僕、学校に行かない方が良かった?」

 そう言うと顔を上げて水伯を見た。水伯は見下ろすと玲太郎の頭に手を当てた。

「うーん、どうだろうね。……明良は明良で、校医として患者を診る事が出来るし、学んだ物が無駄にならずに済むのだから、玲太郎が気に病む必要はないと思うよ」

 玲太郎の頭を撫でながら言うと、玲太郎はまた水伯に頭を預けた。

「患者って言っても、仮病とか大したケガじゃないのにケガだって言って来るんだよ? 普通にどこかの病院で働くか、自分で病院を開いた方がいいんじゃないの?」

「そうなのだね。仮病ね……。それは和伍で研修医をしていた頃もあったようだけれどね。明良にしてみれば、慣れている事ではあるのだろうね」

「そうなの?」

「あれだけの美貌の持ち主がいれば、一度でも見てみたくなる物なのだろうね。私は興味がないけれど、そう思う人が多いようだね」

「ふうん……。美人って可哀想なのかも知れないね」

「そうだね、見目が美しいからと言って得をする事ばかりではないのだろうから、その点は同情をしてしまうね」

「もうちょっと、あーちゃんに優しくした方がよいのかも知れないね」

「それはどうだろうね。其処そこまでしなくても、とは思うのだけれど。今のままでよいのではないのかい」

「そう? 実はこの前、授業中の、医務室での自習中にね、あーちゃんと話をし過ぎて、勉強が疎かになってしまって、その日の夕方にあーちゃんが寮長室に来た時、あーちゃんより勉強を優先したのよ。そうしたらあーちゃんが拗ねちゃって……」

「あははは。そのような事があったのだね。それで、授業中にしていた話とは、勉強と関係があったのかい?」

「なくもないけど、どっちかと言うと雑談になるね」

「それは感心しないね。玲太郎も調子付かせた一因なのだろうから、気を付けなければならないよ?」

「そうだね。楽しくてつい話しちゃった。あれは僕も悪かったんだね」

「明良は玲太郎が大好きで仕方がないからね、切り替えが上手く行かない時があるのだろうね。だからそれを、玲太郎が見極めなければいけなくなる時もあるという事だね」

「分かった。気を付けるね。……それにしても、あーちゃんが集中すると凄いのよ。物音も聞こえないみたいで、僕が医務室を出た事も気付かないくらいなんだよ。凄いでしょ?」

「そうだね、凄いよね。私も明良が集中している時に話し掛けた事があるのだけれど、中々気付いて貰えずに困った物だよ。仕方がないから傍に行って、耳を引っ張ったのだけれど、ああ、颯がそうしてると言うから真似をしたのだよ。それが効果覿てき面だったよ」

「えー、そんな事しちゃうんだ」

「その後、明良に叱られたのだけれどね」

 そう懐かしんで言うと、玲太郎の頭を撫でている手を止めた。そして背中を優しく二度叩くと、玲太郎を浮かせて隣の椅子へ移した。

「有難う。久し振りに玲太郎を抱っこ出来て嬉しかったよ。また宜しくね」

 満足そうな表情で玲太郎を見ていると、玲太郎が不満そうな表情をした。

「僕はもう少し抱っこしてくれてても良かったのよ」

 不満を打ち明けると、扉を二度叩く音がした。

「明良です」

 そう聞こえて来た。

「どうぞ」

 水伯は柔和に微笑んで玲太郎を見詰めると、玲太郎は目を湯呑みに遣って手に持った。開扉した明良が入室した。後ろ手で閉扉すると一直線に玲太郎に向かった。

「あーちゃん、おはよう」

「お早う」

「お早う、思っていたより早く来たね」

「颯に何時いつ頃に行くのかを訊こうと連絡を取ったら、もう来ていると言うから慌てて家を出たよ」

 玲太郎のもとに来ると微笑み掛けた。玲太郎は無言で湯呑みを置くと、両手を上げた。

「良かった。抱っこさせて貰えるのだね」

 そう言いながら抱き上げた。

「やはり玲太郎とは抱っこに始まり、抱っこに終わらなければね」

 玲太郎は苦笑するしかなかった。

「普通にあいさつだけじゃダメなの?」

「駄目だね」

 明良が即答すると水伯も苦笑していたが、明良は玲太郎しか見ておらず、気付かなかった。

「玲太郎は嫌なの?」

「僕はもう八歳なんだからね? 抱っこから卒業する頃だと思うよ?」

「えっ、卒業する頃などという物があるの? 抱っこが出来ない体の大きさになったら卒業するよ」

「えええ、それって、卒業は遠い未来だって言ってるような物じゃない」

「駄目だった?」

「うーん、まぁ、よいよ……。はーちゃんにも諦めろって言われてるけど、でもやっぱり諦め切れないんだよね」

「そうなの。では諦めるしかないね」

「え? ……うん」

 小さく頷くと明良に抱き着いた。そして三つ編みされた髪を持つと手繰り寄せる。玲太郎がこの前に描いた意匠を転用した髪飾りで束ねられていた。それを見て少し嬉しくなると、毛先で自分の顔を撫で始めた。明良は玲太郎に抱き着かれてご満悦の様子だ。水伯はそれを尻目に、冷めてしまった茶を飲んだ。


 十時の食事を摂ってから皆で外出をした。玲太郎の希望通りに鞄屋と魔石屋巡りをし、ついでに八千代の買い物に付き合い、外食をして帰って来た。八千代が大量の布地を買っただけで、それ以外に買い物ははしていなかった。鞄屋巡りは八千代の勉強にもなったようで、楽しそうにしていた事が玲太郎には意外だった。

「それにしても、魔石って色々あるんだね。水晶以外の宝石でも作ってあるのは、結構高値で驚いたのよ」

 二階の執務室で茶器を持っている玲太郎が言った。玲太郎の対面に座っている明良が頷く。

「そうだね、高かったよね。柘榴ざくろ石でも種類があるからね。柘榴石の中でも希少な種類になると魔石にしてしまう事はないのだけれど、態々わざわざ魔石にして置いてあったね」

「何かしら付与して使うのではないだろうか? それにしても、灰鉄かいてつ柘榴石を魔石にしていたけれど、あの遣り方はまずいとしか言いようがないね」

「水伯もそう思う? あの石は売れないだろうな。まあ、見る目のない人がいれば買う事もあるだろうけど、あれじゃあ店の信用が落ちるだけだと思うんだよな」

 水伯に続いて、颯も貶した。明良が小さく何度も頷く。

「ああいう物を見ると、宝石店で買って、自分で魔石にした方が断然よいと思えるよね」

「明良ならば、自分で宝石を作った方がよいのではないのかい?」

「灰鉄柘榴石はまだ高品質の物が作れないね。今までごみと普通が半々といった程度だからね」

「錬金術で作っていないのかい?」

「作っていないよ。必要な材料が判らないからね。それを探す事も手間だし、其処までしたくはないと言うか、言う程魔力も使用しないから、無から作れない物は作れなくてもよいと思っているのだよね。とは言っても、満足が行くまで作り続けるから、魔力が結構減っているのだけれどね」

「うん? それは作り過ぎではないのかい?」

 苦笑しながら水伯が言うと、颯は無関心なようで茶を二口、三口と飲んだ。

「玲太郎が耳飾りの図案を沢山くれているから、塗料で色付けしている部分を宝石で作れないかと、試行錯誤を繰り返しているのだよね」

「ふふっ、結局は玲太郎に繋がるのだね」

 水伯が笑顔になっている横で、玲太郎は苦笑していた。

「それは当然そうなるよね。最初は紫と言えば紫水晶で、それの濃色の物を作ろうと頑張っていたら作れるようになって、色々な宝石を試作している最中なのだけれど、やはり希少種は難しいね」

「颯は何かしら作っているのかい?」

 水伯が颯の方を見ると、颯が水伯を見た。

「うん? 何かしらとは?」

「宝石に限らず、何かを作っていないかと思ってね」

 そう言う水伯に顔を向けたのは玲太郎だった。

「はーちゃんはね、僕用の大型の水晶を作ってくれてるのよ。風呂上がりにそれで魔石作りの練習をやってるんだけど、大型はまだ一個も成功していないんだよね」

「そうなのだね」

「夜は布地を作る練習は遣っているけどな。布地と言うか、服になるのか。思ったような肌触りにならなくて、作っても直ぐに消しているよ」

「そう。あの映像を記録する石を作っていたから、あの手の物を作っていないのかと思ったのだけれど、違ったのだね」

「映像を大衆音石のように方々に送れないかと思っていたんだけど、どうも大きくなってしまって程よい大きさに作れないんだよな。それで儲ける事は諦めて石は作らなくなって、布に気移りしたんだよ」

「成程」

 明良が納得をした。颯は思わず明良を見ると、目が合った。

「出来れば、一時間程度の記録が出来ればよいのだけれど、その辺は改良しないの?」

「一時間は途中から見る機能とか、飛ばして見る機能とかを付けないと長過ぎるだろう? でもじっ分くらいなら通して見るかと思って、それくらいにしたんだけどな」

「ああ、それで十分なのか。そうだった。患者を記録して使い切ったから、新しい黒淡石こくたんせきをまた作って貰えない?」

「いいよ、今作るよ。ばあちゃんが裁縫機を買ったから袋を沢山作ってるって言ってたから、良さそうな大きさの袋を貰って来れば?」

「そうなの? それではそうするよ。ばあちゃんの所へ行って来るね」

 明良が退室すると、颯は数えながら机に黒淡石を転がして行った。玲太郎と水伯はそれを黙って唯眺めていた。明良が戻って来た頃には、既に百個が揃っていて、水伯の分を作っている所だった。

「明良の分は作れているよ。今は私の分を作って貰っている所なのだよ」

「そうなのだね。それでは私の分を頂こう」

 明良に出されていた茶器を脇に避け、正面に置かれた黒淡石を魔術で一気に袋に入れた。玲太郎が明良の持っている袋を見て目を輝かせた。

「その大きさの袋、よいね。僕もばあちゃんにもらいたいなぁ」

「巾着は沢山あったよ。どうする積りなのかは知らないけれど、本当に沢山あったから貰っておいで」

 そう言いながら茶器を正面に置いた。

「夕食の後にでも行くよ。選ぶのが楽しみ」

 玲太郎が嬉しそうに微笑んだ。明良も釣られて微笑む。颯は水伯に出されていた箱の中に言われた数だけ入れてしまうと蓋をした。

「はい、終わり。出来たよ」

 そう言いながら水伯の前へ箱を押し遣った。

「幾らになるの?」

「今まで色々して貰っているから、水伯で稼ごうとは思っていないよ」

「それはそれ、これはこれだからね」

「物心が付く前から世話になっているんだから、これくらいは遣らせて貰えない?」

 そう笑顔で言う颯を凝視して微笑むと、箱を自分の方に寄せた。

「そう? 有難うね。また頼むと思うけれど、その時はお金を払うよ」

「だからいいって。情けは人の為ならず、だろう? 遣って来た事が返って来ていると思って受け取ってよ」

 水伯は些か困ったような表情になる。

「本当によいのかい? それでは遠慮なく貰うからね。有難う」

「どう致しまして」

 笑顔で言うと、今度は玲太郎の方に顔を向けた。

「玲太郎、ばあちゃんはな、孤児院に寄付する為に袋を沢山作っているんだよ。でも作り過ぎたって言っていたから、遠慮せずに欲しいだけ貰うといいぞ」

「ああ、そうなのだよ。私が依頼してね。お金を払うと言ったのだけれど、それはいらないと言われてしまってね……」

「うん? 父上が運営している孤児院用なの? それなのに本当にもらってもよいの?」

「大分余ってるんだよ、いるならあげるからねって言っていたから大丈夫だよ」

「色々な大きさの袋があるから、選び甲斐があって楽しいよ」

 颯に続き、明良もそう言うと、玲太郎は笑顔になって大きく頷いた。

「分かった。後でもらいに行くね」

 颯はまた最中を出して貰っていて、それを美味しそうに食べた。

「ばあちゃん、買って来た布で早速何かを作っていたよ」

 明良が茶器を口に運びながら言うと、茶を二口飲んだ。

「八千代さんは、朝晩二度の散歩と食事以外は引き籠っているからね。刺繍も刺しているし、色々な物を縫っているし、幾ら手があっても足りなそうだね」

「もう共通語の勉強は止めたのか?」

「玲太郎がいなくなって、ディモーン先生を独り占めしているのが忍びないと言っていたよ。日常会話も難なく出来ているから必要もないしね」

「そうなんだな」

「それで裁縫機を買ってね、色々縫っているのだよ。元々其方を遣りたかったみたいで、丁度よいと言っていたね」

「ばあちゃんと今朝話した時は裁縫機の自慢ばかりだったわ」

 そう言って颯が笑うと最中を齧った。

「それにつけても、颯はこの後どうする積りなの?」

「うん? おえはおおうあまにあっえあや、おうにかえうよ」

「飲み込んでから話しなさい」

 些か不快そうな表情で明良が言うと、颯は口を覆っていた手で茶器を持ち、茶を飲んで口の中の物を流し込んだ。水伯はそれを笑いを堪えながら見ている。

「悪い、最中の皮が口がいに張り付いてきちんと言えなかったわ。お父様に会ってから二十時十分までに寮へ帰るよ。また明日来るわ」

「二十時という事は夕食は此処ここで食べないのだね?」

「うん、ばあちゃんにもそう伝えてあるよ」

「えっ、本当に帰っちゃうの?」

 颯は些か驚き気味の玲太郎と目が合うと微笑んだ。

「そうだよ。明日はそうだな、……十八時くらいに来て玲太郎を連れて帰る。門を閉めないといけないから二十時十分には帰るからな?」

「うん、分かった。今日はまだいるんでしょ?」

「いや、茶を飲んだらイノウエ邸に行く。兄貴は何時くらいに帰る積りなんだ?」

 そう言いながら明良に視線を移すと、明良が颯を見る。

「私は何時も通りだよ。二十一時頃になると思う」

「解った。それじゃあそろそろ行くよ」

 立ち上がると椅子を机に入れる。

「颯、明日は早目の夕食にして貰うから食べて行くだろう?」

「ばあちゃんに言ったら、弁当を作るって言ってくれたから、それを食べるよ。有難う」

 笑顔で水伯に言うと、玲太郎が口を開く。

「僕の分もあるの?」

「勿論。弁当箱も渡して来たよ」

「やった! 僕、お弁当初めてなのよ。嬉しい」

 喜んでいる玲太郎を笑顔で見ていたが、机で寝転がっているヌトに視線を移す。

「ヌト、玲太郎の事を頼むぞ」

「解っておるわ。明日は早目に迎えに来いよ。待っておるぞ」

「なるべく早く来るようにするよ。水伯、ご馳走様。それじゃあまたな」

 軽く挙手すると、水伯が挨拶をしようとした瞬間に消えた。

「行っちゃった。あいさつする間もなかったね」

 玲太郎が苦笑しながら言うと、水伯も苦笑していた。

「私も挨拶をしようとした瞬間に消えられたよ」

 明良は無言で茶器を手にし、冷め切った茶を飲み干した。静かに受け皿に茶器を置くと玲太郎を見る。

「玲太郎、この鞄は玲太郎の物だよね? 何を持って来ているの?」

「勉強をやろうと思って、歴史とサーディア語と薬草図鑑を持って来たのよ」

「薬草図鑑なら此処にもあるじゃない」

 水伯が言うと、玲太郎は顔を水伯に向ける。

「持って来たのは授業用だから、効能も一緒に書いてあるのよ。後、授業で習うのしか載ってないんだよね」

「そうなのだね」

「上学校の中級辺りまで習うみたいだから、結構な数だよね」

「カンタロッダ下学院の生徒は上学校に行かず、そのまま就職する子が約半数を占めているからね。それもあって、箱舟の免許取得が必須になっているのだよ」

「僕は箱舟でつまずきそう……」

「そう言えば、今日はもう魔術の練習は遣ったの?」

 玲太郎は明良を見ると、首を横に振った。

「まだやってない。父上にお願いして、大型の水晶を出してもらおうと思ってたのよ」

「だったら、私が出そうか? 夕食まで約三時間、みっちり遣ろう」

 そう言って微笑むと、玲太郎は眉をしかめる。

「三時間もやるの?」

「勿論休憩は取るから、正確には三時間ではないのだけれどね」

 玲太郎は茶を飲み干すと頷いた。

「分かった。それじゃあやる。勉強部屋でよいよね?」

「言い忘れていたけれど、八千代さんが習わないと言うから勉強部屋の模様替えをしていて、明良と颯の勉強机はもうないからね。それと部屋を移動してあるからね。図書室と勉強部屋を一部屋にして勉強部屋兼図書室になっているよ。寝室は図書室だった部屋になっていて、其処には明良と颯の寝台もあるからね。行く前に言おうと思っていたから、今になってしまったけれどご免ね」

「でも扉は以前と同じだったように思うんだけど……」

「それは当然だよ。扉の位置はそのままなのだからね。図書室には八千代さんの本も置いてあるのだけれど、寝室は然程変わっていないからね」

「そうなの? それじゃあ勉強部屋がどうなってるのかを見てくる!」

「玲太郎、そのまま魔石作りをするよね? それでは水伯、また後でね」

 部屋を飛び出した玲太郎を追い掛けようと、明良は鞄を持って部屋を慌てて出て行った。

(慌てなくても直ぐ其処なのに……)

 水伯は柔和な表情で明良を見送った。ヌトは壁をとおり抜けて先回りした。


 玲太郎は先ず図書室だった扉を勢い良く開けると、水伯が言っていた通りに寝室となっていて、窓掛けが褐返かちかえし色に変わっていた以外は変わっておらず、直ぐに扉を閉めて次の扉を開けに走った。扉を開けて中に入ると、東側にも西側にも本棚があった。西側の奥には本棚のない空間があって長椅子と机が見えた。本棚がそびえ立つ間にある通路を通ってそちらへ行くと、長椅子が二脚置いてある間に机があり、南側には玲太郎の勉強机があった。家を出てからまだ十日目だと言うのに、その机がとても懐かしく思えた。

「どうかしたの?」

 明良がそれを見て声を掛けた。玲太郎は声のする方に顔を向ける。

「なんかね、懐かしいなぁと思って。まだ一週間と少ししか経ってないんだけどね」

「そう」

 玲太郎に笑顔を見せると、鞄を勉強机に置いた。

「それにしても本棚が押し寄せて来てるね。脚の長い机と椅子の一揃いがなくなって、長椅子だけを残してあるのだね」

「はーちゃんがだらけるから長椅子が残ってるんだろうね」

 そう言うと悪戯っぽく笑った。

「そんな事より、玲太郎の本も増えているみたいだから、また読まないとね」

「そうなの? ばあちゃんの分が増えたんじゃないの? 僕はてっきり増えたのはばあちゃんの物だと思ってたのよ」

「一瞬しか見ていないけれど、魔術に関する本があったよ? 前に見た事がないような本だったと思う」

「どれどれ?」

 明良はここぞとばかりに玲太郎を抱き上げると、見掛けた辺りに行った。

「この辺だったと思うのだけれど、どうやら魔術関連はこの辺り纏めてあるのだね」

「んー」

 玲太郎は標題を呼んでいて、明良の言っている事を聞いていなかった。

「あっ、<空を舞う>っていう本がある! どうして和伍語なの?」

 明良が玲太郎の視線を辿ってその標題の本を見付けると手に取り、玲太郎に渡した。

「これはそらではなくくうと読むようだよ? 兎にも角にも和伍の本だから和伍語なのだろうね」

 玲太郎は裏表紙を開くと、出版された日にちを確認した。

「これは凄いよ。初版が三合さんごう暦になってる」

「どれ?」

 玲太郎が明良に見せると、明良が目を丸くした。

「本当だね。物凄く古い本だね。三合暦だと、和伍になる前になるね。私が生まれた年は和合わごう暦千四百十三年、今二十歳はたちだから千四百三十三年前以上になるね」

「それじゃあ、父上の本だろうね。わざわざ探して、ここに置いてくれてたの?」

「そうだろうね。水伯は優しいね」

「三合暦二百八十三年が初版だから、えっと、何年前の本になるの?」

「三合暦は千三百三十しち年までだから、二百八十三を引いて、……千五十四。それに千四百三十三を足して、……二千四百八十七年前になるね」

「へぇ! 凄いね! 二千四百八十七年前だよ? 父上より若いの?」

「どうだろうね? 水伯より年寄りかも知れないよ?」

「もしかしたら、これよりも古い本があるのかも知れないね?」

「探してみようか」

 二人はさながら宝探しのように心を躍らせながら探し始めた。


 ノユとズヤが水伯邸に到着したのは夕食前で、勉強部屋兼図書室で玲太郎が読書をしている時だった。明良は向かいの長椅子に下りた二体を見て、些か眉を寄せた。ノユは気にせずに笑顔で明良を見る。

「あきらか? 未だにわし等を悪霊扱いしておると聞いておるが、済まぬな。しばし滞在するぞ」

「話ははやてか、玲太郎から聞いておろう?」

 ズヤにそう訊かれて、明良は眉間の皺を更に深くした。

「どういう事?」

 隣にいる玲太郎の方に顔を向ける。

「あ、そう言えば言ってなかったかも」

 玲太郎と二体が代わる代わるに説明をした所、明良は納得した様子だった。

「壊れているという話は颯から聞いていたけれど、今度はそれをて貰う、という事なのだね」

 ズヤが首を横に振った。

「いや、診察と言う訳ではないぞ。わし等はるだけな。灰色の子は特殊なようであるから、不甲斐ない事にわし等でも判るかどうかが判らぬのよ」

「先に対精霊とされている物を視て来たが、あれは異様よな。シピに聞いたが、昔はああまで大きくはなかったそうであるから、年月が経つに連れ、成長したのであろうな」

「それにわし等からも半透明にしか見えぬからな。何がどうなってああなっておるのか、皆目見当が付かぬわ」

 明良は無言で聞いていた。そんな明良にノユが視線を送る。

「これは正直、ケメの領域なのであるが、ケメは嫌であろう?」

「嫌だね」

 ノユを見て即答した明良は、読んでいた本を閉じて机に置いた。

「前代未聞の事態である事は良く解った。この二千有余年はどうという事はなかったのだから、さっ急に対処しなければならないというような事はないのだよね?」

「然り、と断言したい所ではあるが、あの対精霊擬きが何時いつまで持つかが判らぬのでな……」

「二千有余年であの大きさならば、まだ持つとは思うがな」

 ヌトが軽々に言うと、ノユが眉を寄せた。

「そう言うて、持たぬ場合はどうする積りよ?」

「事を単純に考えれば灰色の子の魔力がなくなるだけではなかろうか。しかし、何故なにゆえああも膨らんでおるのであろうな。それが不思議でならぬわ。魔力の流れがどうなっておるのか、それを確かめたい所ではあるな」

「ううむ……」

 ノユが更に難しい顔をすると、玲太郎が心配そうに明良を見た。

「父上の魔力、なくなっちゃうの?」

 明良が玲太郎の方に顔を向ける。

「それはどうだろう? どうなるかも判らないからね。言える事は、私達では未熟だから理解が遠く及ばないという事だね。それと悪霊にもどうにも出来ない事があるからね」

 そう悔しそうに言うと、玲太郎は俯いた。寝転んでいるヌトがそれを尻目に見ていた。

「過度な期待はするな、という事よ。それにしても、灰色の子と対精霊を繋いでおる糸が普通とちごうて太い事が気になるな」

「それよ。あれを直すとなると難渋であろうが、玲太郎がおるから大丈夫か」

「えっ、どうしてそこで僕が出てくるの?」

 寝転んでいるヌトに視線を遣っていたズヤが、玲太郎に視線を移す。

「お主、シピに直して遣って呉れと頼まれたのであろうが。それに己が如何いか程の力を有しておるのか、全く理解が出来ておらぬのか?」

 そう訊かれると、玲太郎は首を横に振るだけだった。

「理解は全く出来ておらぬな。しんば玲太郎に己の力を知らしめる為、玲太郎の普通と思う程度の魔力量を放出させたとして、それが切っ掛けで暴走でもされてみろ。わし等でどう止めると言うのよ。それに玲太郎は今、微量の操作が出来るように練習中ぞ。感覚が狂うような事はさせとうないわ」

 ヌトが素っ気なく言うと、ノユとズヤが目を剥いてヌトを見ていた。

「ヌトがそのような事を言うとは……。天変地異の前触れか?」

 思わずズヤが言うと、ノユが頷いた。

「ヌトの変わりようと言ったら名状し難いな。聞いておった事とは言えども、これはどう言うてよいのか、まっこと判らぬわ」

「ズヤもノユも喧しいわ。ま、わしも玲太郎がどうにか遣って呉れるであろうと思うておるのではあるが、如何いかんせん肝心要の玲太郎が、出来ぬ、遣れぬと言うのでな。玲太郎は己を過小評価しておるのよ。そうであろう?」

 三体が同時に玲太郎を見た。玲太郎は三体の視線を確認するように顔を動かした。

「過小評価って、だって本当に出来ないんだもん」

 ヌトが溜息を吐いた。ズヤがふと何かを思い出した表情になる。

「そうであったわ。聞いた所によると、あきらは瞬間移動が出来るとか。わしも体験してみたいのであるが、何処どこかへ連れて行っては貰えぬか?」

「それはわしも体験をしておきたいから、一緒に行ってもよいか?」

「私は嫌です。颯に遣って貰って下さい」

 にべもなく断った。二体は悄然としたが、それを見た玲太郎が苦笑する。

「そんなに肩を落とさなくても……。明日、はーち…颯お兄ちゃんに寮まで送ってもらうから、その時に一緒に帰ればいいんじゃない? どうせまたルニリナ先生の所へ行くんでしょ?」

 にわかに気力を取り戻したのか、表情が一変して明るくなった。

まことか? 颯ならば遣って呉れるのであろうか? そうであるならば嬉しいのであるが」

「ハソから聞いて一度は体験したいと思うておったのよ。俄然楽しみになって来たわ」

 ズヤはもう瞬間移動に便乗出来る気でいた。ヌトはそんな事にはお構いなしでノユを見た。

「そう言えば、あの目族の子と何を話しておったのよ?」

「あの子は、あれよ、ヌトが追い掛け回しておった子であると知ってな、それで話をしておったのよ。元々あのような魔力ではなかったであろう? その事とかそのようになった時の事とかをな。後は生い立ちを聞いておったわ」

 ノユがそう言うと、ズヤが玲太郎を一瞥してからヌトを見る。

「ヌトも追い掛け回すのが好きよな。ニーティが笑いながら言うておったわ。それにつけても、ニーティもわし等と同等の魔力になったから観察をせねばなるまいて。悪事を働かぬとよいのであるが……」

「然り。この魔力量でのろいを掛けられてみろ。子なぞどうなる事やら」

「ルニリナ先生はそんな事はしないのよ。大丈夫」

 玲太郎が自信満々で言うと、三体が玲太郎を見た。

「あの目族の子を相当気に入っておるようであるが、玲太郎がそう断言出来る程の根拠がないのではなかろうか?」

 ヌトがそう言うと、ズヤが軽く何度か頷いた。

「あれだけの力を手に入れたのであるから、試しに使つこうてみたいと思うのではなかろうか」

「然り。それが人情という物よな」

「これだから悪霊は……。これだけの力を手を入れたらとか関係ない。欲に駆られて何かを遣ってしまうのは人間だけではなく、悪霊だとて同様だろうに。ケメがよい例だね。今まで自分が遣って来た事を棚に上げて彼是あれこれ言うのは楽しそうでよいね」

 気怠そうな表情の明良が言うと、三体は口を噤んだ。

「自制が出来るかどうかは本人次第だと言うのに、全く……」

 玲太郎は無言で明良を見ていた。ヌトには嫌味が全く通じていないようで平然としていた。

「それはそうなのであるが、ま、わし等が創った子の中から、これだけの力を有してしもうたら、観察はせねばなるまいて。ケメのようになられては困るのでな」

「ヌトが玲太郎の傍にいるのは、颯と約束をしているからだろう? でも、颯も私も悪霊と同等の力を持っているから、もういなくてもよいのだけれどね」

「えっ」

 明良の言う事に対して思わず声を漏らしたのは玲太郎だった。明良は玲太郎を見る。ヌトは緩む頬を引き締めて堪えていた。

「僕はヌトが傍にいる事はなんとも思ってないのよ。むしろ一緒にいたい」

「何っ」

まことか?」

 次に声を漏らしたのはズヤとノユだった。ノユに至っては怪訝な表情になっている。

「ヌトはねぇ、僕が小さい頃からずっといるからね。でもハソとニムはなんか嫌なのよ。理由は良く分からないけど……」

「ズヤとわしはどうであろうか?」

「良く知らないから分からないけど、ヌトだけでよいと思う」

 明良が鼻で笑うと、ノユとズヤは渋い表情になった。

「わしは玲太郎と会うのは四度目であるな。正確には五度目か。産まれた時は見ておったし、命名する所も見ておった。次に見たのはヌトが邪魔しに行っておって、ヌトを帰らす為に呼ばれた時で、その時も玲太郎は赤子であった。その次がケメの件で呼ばれ、四度目が昨日の前日で、今日で五度目になるな」

「ノユとはあの頃から一緒におるのでな、わしも同数になるな」

 そう言ってズヤが頷いている。玲太郎は眉を顰めた。

「赤ちゃんの時の事なんて覚えてないし、一昨日も今日も大して話してないのに……」

「然り。ではあるが、此度こたびは灰色の子の事であるからな。わし等が子を創ったとは言え、何もかもが解る訳ではないから、先程も言うたが過度の期待は禁物ぞ」

 玲太郎はそう言ったノユを見て頷く。

「分かった。出来ないのが当たり前と思っておくね」

 玲太郎は読み掛けていた本に視線を遣ると静かになった。明良も本を手にすると、読んでいた所を探して紙を繰った。ノユとズヤは顔を見合わせると、二人にまた視線を遣った。

「もう直ぐ夕食であるから、その時に灰色の子の傍に行けぬでもないぞ。但し、玲太郎と対面に座るから、言う程は距離を詰められぬがな……」

 玲太郎が顔を上げて、そう言ったヌトを見る。

「夕食後に父上の執務室に行けば大丈夫じゃない?」

「それでは私に付いて来ればよいのではないの? 私ならば水伯の隣に座るから、食堂に入る前から私の傍にいれば大丈夫だと思うよ」

 明良は本を読みながら言った。玲太郎はそんな明良に顔を向けていた。

「どうせ私も同等の力を持っているから、玲太郎にこだわらなくてもよいのでは?」

 ノユはズヤを見ると、ズヤもノユを見る。そして頷き合った。

「それならば甘えさせてもろうて、そうしよう」

「ニムのように触れたりはせぬから、安心致せ」

 明良がそう言ったズヤを見る。ヌトはノユを見た。

「それにつけても、お主等は視ただけで何か判るのか?」

「灰色の子は特殊であろうから、若しやしたら、若しやするやも知れぬな」

 そう言ったのはズヤだった。ノユはヌトを見詰めているだけで無言だった。

「わしはうた度数も少ないが、灰色の子をそういう目で視た事がないのでな」

「わしも同様であるな。何かを感じる事がないから判るとは思えぬが、念の為、傍で視てみるわな。ヌトはどうなのよ? 此処の所、灰色の子の傍でおったのではないのか」

 ノユにそう言われてヌトは渋い表情をした。

「おった事はおったのであるが、対精霊が大きい以外は、魔力がわし等より劣っておるとか、わし等の気配を感知しておるが見えてはおらぬとか、それ程度の事しか判らぬのでな」

「わし等とてそれと大差ないと思うのであるが、ま、視るだけ視るとしよう」

 ズヤが苦笑しながら言った。玲太郎は不安で一杯になり、明良に至っては微塵も期待を抱かなかった。


 食後、三人は居室へ行った。居室は食堂の東隣にあった空き部屋と、更にその東隣にあった客室を一部屋にしていた。広さは約三十畳で天井には集合灯が三台、壁は白、腰板と床はねり色、西側に置かれた脚の長い机には椅子が六脚置かれている。中央よりやや東寄りに三人掛けの長椅子が一脚、その前に脚の短い机と一人掛けの椅子が二脚置、東側には一人掛けの椅子が机を挟んで二脚置かれ、それが二揃いあった。そして東側と西側の壁には絵画が各三点、扉のある北側の壁には小振りの絵画が八点飾られ、部屋の丁度中央の壁際には小さな机が置かれ、そこには青磁の壷に生花が活けられていた。南側には大きな窓が三窓あり、左右に纏められた窓掛けの七宝紋は多色で彩られていた。

「父上、どうしちゃったの? こんな部屋まで作っちゃって、驚いたのよ」

 玲太郎が目を丸くしていた。水伯はいつもの柔和な微笑みを浮かべている。

「勉強部屋を殆ど図書室にしてしまったから、落ち着いて過ごせる部屋が必要かと思ってね。気に入ったかい?」

「窓かけの柄、七宝なんだね。色取り取りで見ていて楽しいから好きかも。絵が飾ってある部屋なんて、屋敷では珍しいね」

「玲太郎が七宝紋を好きだから、それにしたのだけれどね。窓掛けは和伍で買って来たのだよ。絵は古い物を引っ張り出して飾ったのだけれど、窓掛けが派手だから、絵が霞んで見えてしまわないだろうか?」

「絵も大概派手だよ」

 そう言ったのは明良で些か苦笑しているように見えた。玲太郎は絵を見上げている。

「この絵は誰の作品なの?」

「家にあるのはソルの作品だけなのだけれどね」

 明良は驚きの余り、顔を顰めた。

「王都の別邸にある絵画も全部ソルの作品なの?」

「そうだけれど違うね。王都邸にある物だと一部以外は私が作った複製でね、本物は此処にあるよ。ほぼ他人任せの屋敷にソルの作品は恐ろしくて置けないね。複製と言えども何度も盗まれていて、偽物であっても、関った輩は全員、地獄の果てまで追い掛けているけれどね」

 柔和な表情で言うと、明良は「知っているよ」と何度か頷いていた。玲太郎は絵画を見入っているようで話を聞いていなかった。そんな玲太郎を明良が抱き上げ、端から絵画を見て行った。水伯は二人を見て微笑むと、中央にある一人掛けの椅子に行き、腰を下ろして本を出して読書を始めた。

 二人は全て見終えると、水伯の対面にある長椅子に座った。

うちも絵画を全く飾っていないから、古い物を出して来て飾るのもよいかも知れないね」

「イノウエ邸って、絵はなかったの?」

「芸術品の中でも価値のある物は美術館に寄贈したそうで、家にある物となると、歴史的価値のある物以外は塵だね。絵画も見たけれど、名の売れていない画家の物だし、地味だしで、玲太郎の描いた図案の方が価値があるよ。あの図案に着色していれば、居室にも飾るのだけれどね」

「なっ……」

 玲太郎は仰天して言葉が続かなかった。そんな玲太郎を見て明良が微笑んでいる。それを見た玲太郎は仏頂面になる。

「僕の描いた図案こそ価値がないと思うのよ?」

「それはないよ。私の耳飾りは玲太郎が考えた物ばかりなのだよ? 自信を持ってね」

 朗らかな笑顔で言うと、玲太郎は愛想笑いをした。

「きちんとした画家と、下手の横好きの僕の図案とじゃ、やっぱり違うと思うけどね」

「それは見る人が決める事だからね。明良に取っては、玲太郎の図案の方が価値があるのだよ。私も玲太郎に貰った絵は大切に置いているよ。それを執務室に飾るのもよいかも知れないね」

 柔和に微笑んでそう言った水伯を、目を丸くして見た。

「えっ、そんな絵、あった?」

「線画だけれど、私を描いてくれた絵、魔術で植物を育てるようになって描いた草花の絵が多数あるだろう、それに明良や颯と一緒にいる絵もあるね」

「え? 水伯はそれだけ描いて貰っているの? ずるくない? 私は耳飾りの図案ばかりなのに……」

 明良が眉を寄せた。玲太郎は苦笑している。

「なんにしても飾られるのは嫌だなぁ……」

「私の場合は、飾るとしたら寝室だから大丈夫だよね?」

「え……?」

「許可が得られるのであれば、最近の図案を執務室に飾るのだけれど……。どう?」

 首を横に振りに振った。

「いやいやいやいやいや、止めて下さい。お願いします」

「では寝室に飾るのはよいよね?」

 玲太郎は渋々頷いた。

「寝室なら……、うん、まぁ……」

「有難う」

 そう満面の笑みを湛えて礼を言った明良が輝いて見えた。

「それにしても、私も玲太郎が描いた図案以外の絵が欲しい……」

 この呟きは聞こえていない振りをして、笑いを堪えている水伯に視線を遣った。

「そうだった。父上が図書室に追加してくれてた本で、二千五百年くらい前のがあるんだけど、あれって父上が買った本なの?」

「買った訳ではなく、貰った本なのだけれどね。和さん国の時代の物で、魔術を霊術と呼んでいた頃で、その頃の本が合うのではないかと思って並べておいたのだよ。合わなかったら他の本を探してみるから、遠慮なく言うのだよ?」

「ありがとう。今、<空を舞う>を読んでる所なんだけど、「風と一体になるつもりで」とか書いてあって、僕には難しいかもしれないね」

「何故?」

 明良が先に問うと、玲太郎は明良を見る。

「良く分からないからだよ。風と一体って何? どうやるの?」

 それを聞いていた三体が失笑した。玲太郎は思わず振り返って後ろにいる三体を見た。

「笑い事じゃないのよ?」

「すっ、済まぬ。風と一体って何、と言うのがおかしくて……」

 ヌトが声を震わせながら言うと、ノユとズヤは震えながら笑いを堪えていた。

「うん? 風と一体が分からないと笑えるの?」

「そうではない。玲太郎程の魔力があれば、風と一体にならずとも飛べるからな」

「そうなの?」

「そうであるぞ。その膨大な魔力量を使って飛べばよいのであるからな」

「ふうん……」

 明良が水伯の方を見る。

「悪霊が風と一体って何と言ったのがおかしかったみたいで失笑してね、風と一体にならなくても、玲太郎の膨大な魔力量を使って飛べばよいと話している所だよ」

 そう説明すると、水伯が頷いた。

「そうなのだね。有難う。……そうだね、玲太郎は魔力量を気にせずに使って飛び回る事が出来るね。けれど、怖いのだからそう簡単には飛べないよね」

「そうなの。高い所が怖いのよ。この前、はーちゃんととっても高い所まで飛ぶ破目になって、あの時は物凄い勢いで地面が遠ざかって、本当に怖かった……」

「その話は聞いたけれど、足下にこの星があったのを見たのだよね? 綺麗だったのではないのかい?」

「それは綺麗だったけどね。……うん、確かに綺麗だった。青くてまあるいのが見えたのよ。でもね、呪文を唱えて飛んだから、止まる呪文を教えてもらって唱えたんだけど、中々止まらなくて困っちゃったのよ」

「今度はあーちゃんを、その星を見に連れて行こうと思わない?」

「ない」

 即答してから明良を見た。明良は今にも泣き出しそうな表情になる。

「どうして思わないの?」

「だって、辿り着くまでが怖いんだもん。…んー、それ以前に辿り着けないと思うんだけど。……あっ、はーちゃんに瞬間移動で連れてってもらえばよいね。みんなで見に行く? それならよいのよ」

 屈託のない笑顔で言うと、いつもは控えているヌトが玲太郎の傍に来た。

「わしも行きたい。あの時は付いて行けずに放置されたからな」

「何っ、わしも行きたいぞ。そのように高くは飛べぬからな」

 ノユが前のめりに言うと、ズヤは落ち着いた様子で笑顔になった。

「わしも連れて行って貰いたいわ」

 明良は三体には目もくれず、玲太郎に微笑み掛けた。

「図々しい悪霊は放っておくとして、皆で行くのであれば、お父様やばあちゃんも連れて行きたいね。よい思い出になると思うのだけれど」

 その言に水伯が反応をする。

「ヌト様も行きたいと仰っているのかい?」

「うん、三人全…」

「三体」

 透かさず訂正を入れられた玲太郎は明良を一瞥した。

「三体全員が行きたいんだって。はーちゃんが承諾してくれるかどうかだよね」

 明良は些か眉を寄せたがそれも直ぐに戻り、玲太郎に穏やかな表情を向ける。

「玲太郎、試しに外で呪文を唱えてみようよ。また空高く飛べるかもしれないから、私を連れて行って貰えない?」

「ええ? それはダメ。呪文を唱えて、またあの速さで上昇しちゃったら困るもん。混乱して何をどうすればよいのか、分からなくなっちゃう」

「大丈夫。颯より早く玲太郎を捕まえるから、試しに遣ってみようよ、ね?」

「い・や。もうあの呪文は唱えないのよ」

 そう言うと立ち上がって、水伯の方に行く。

「父上の膝に座りたい」

「解った」

 水伯は本を消すと、玲太郎の望み通りに膝の上に乗せる。

「明良、無理強いはいけないよ。明良はどうも呪文を唱える事に拘っているようだけれど、呪文を唱えると呪文以上の効果を発揮してしまうのだろう? そうならば呪文を唱える事は控えていた方がよいと思うのだけれどね」

「玲太郎自身に上空へ行って貰えれば、颯に頼む事もないだろうと思ったのだけれど、やはり駄目なようだね。玲太郎、ご免ね」

「そう言えば、玲太郎は呪文を禁止された後も呪文を唱えたのだよね? それは何故なの?」

 水伯は玲太郎の頭頂部を見た。すると横に向いて水伯を見ようと顔を上げ、上体を左側に倒した。それを見た水伯は玲太郎の脇に左手を添えて支える。

「あのね、本当は唱えるつもりはなかったんだけど、ヌトにそそのかされてつい唱えちゃったのよ」

「それで対精霊を何体も消去したのかい?」

「違う、そうなっちゃったのよ。好きでやったんじゃないんだからね?」

「唆されたとは過言ではなかろうか。玲太郎は割と素直に聞き入れて遣っておったように見受けるがな」

 ヌトの方に顔を向けると、大袈裟に顔を顰める。

「そうだった?」

「何を言われたの?」

「うん? あのね、ヌトにそそのかされたのは過言ではないかって言われたのよ」

 水伯にそう言うと、玲太郎は微笑んだ。

「唆されたのではないの?」

 水伯が訊くと、玲太郎は水伯を見た。

「僕もどうなるのか、ちょっと興味があってやっちゃった。お呪いだから大丈夫と思ったのよ。そうしたら風が起こって、対精霊が消えたって知って驚いたのよ」

「そうなのだね。玲太郎のお呪いは効果絶大のようだから、売り物には出来ないね」

「どうして?」

「転売されるだろうから高値で設定したとしても、その効果が直ぐに表れて争奪戦が始まるかも知れないし、効果が切れても尚転売され続けるかも知れないからね」

「練習用の木片で五年は持つって言われたのよ」

「そうなのだね。それならば魔力を含んだ宝石や貴金属となったら数十年は優に持つから、金額設定が難しくなるね。物に依っては普通の人の人生を三度は楽に暮らせる程度で売れるだろうか」

「えっ、そんなに高く売れちゃうの? でも魔力を含んだ宝石や貴金属かぁ……。そういう物にお呪いをかけられるようになりたいなぁ。……父上やあーちゃんはそういう物を作って、売った事はないの?」

「私はないね。イノウエ家の当主になってから私の自由に出来るお金があるもの、必要性がないよね」

 明良が先に言うと、水伯は柔和な表情で聞いている。

「ふうん。そうなんだ」

「それに、効果が高過ぎると問題を誘発させる火種となるし、玲太郎にはほぼ必要がないから術を掛ける事もないね」

「え? なんで僕に必要ないの?」

「水伯が色々な物を傷まないようにと防護魔術を掛けているからだよ。そうなると、私が魔術を掛けられる物が本当に少ないのだよね。肌身離さず持っていて貰えるのであれば、私も心を尽くしてそれを作るよ?」

「うん? 複数の人の重ねがけって出来るんじゃなかった?」

「それは掛けられる余地があればの話だよ。水伯が魔術を掛けた物に余地などないからね」

「父上、凄いね!」

 俄に水伯の方へ顔を向けた。水伯は純粋には喜んで微笑む。

「玲太郎にも出来るようだけれどね」

 玲太郎は水伯の笑顔を見て、満面の笑みを浮かべた。

「そう? 僕はまだまだなのよ。でも頑張るね」

「何時も言っているけれど、焦らず、ゆっくり、だよ?」

「学校だと進学や卒業がかかって来るから、ゆっくりは出来ないけどね」

「それはそうなのだけれど……」

「ゆっくり出来なくても、焦らないようにはするから大丈夫。安心してね」

 見詰め合っている二人を見た明良は面白くなかった。

「それにつけても、先程は何故急に魔術を掛けた物を売る話をしたの?」

「呪術の授業を受けた時に、売る場合は自分で材料を用意して下さいって言ってたのよ。それで、あーちゃんなら効果の高い物が作れるだろうから、お小遣い稼ぎに売ってなかったのかと思って聞いてみたんだけどね」

「成程」

「父上はお呪いをかけた物を作って、売った事はあるの?」

「私は売ってはいない、けれど勝手に売られていた事はあるね」

「えっ、そんな事あるの?」

 目を丸くして水伯を見る。柔和な表情で頷いた水伯は苦笑する。

「あるよ。だから私が物を上げた人以外の手に渡る場合は、どの効果も切れるようにしてあるね」

「そんな事、出来るの?」

「出来るよ。消す事も出来るよ。売ろうとした場合は、その場で消えてしまうようにはしてあるね」

「へぇ、父上ってすごーい」

「褒めてくれて有難う。玲太郎も直に出来るようになるよ。……さて、これ以上仲良くしている所を明良に見せ付けると、唇を噛み締めて出血するかも…」

「あーちゃんとは授業で一緒にいたり、仕事帰りに部屋に寄ってくれたりするけど、父上と一緒にいる時間は限られてるから、一緒にいる事くらいで怒らないよぉ。ね?」

 そう言って笑顔で明良を見ると、明良は無表情だった。玲太郎と目が合った瞬間に表情を一変させ、今にも泣きそうな顔をして、玲太郎は驚愕した。

「……あ、あれ?」

「嫉妬で怒るのかと思っていたら、泣くのだね……」

 水伯は苦笑すると、玲太郎は水伯の膝から下りて明良の傍へ行った。

「どうしてそんな顔をするの?」

 そう言いながら長椅子に膝を突いて上ると、明良が抱き着いて来た。

「水伯は私が学校に通っている間、沢山一緒にいられたじゃない。私だって身を切る思いで学校に通っていたのに……。うっ……」

 水伯は泣き出した明良を苦笑しながら見ていた。玲太郎は明良の頭を撫でている。

「泣かないでよぉ。よしよし」

 一所懸命に明良を慰めた。それでも明良は中々泣き止まず、玲太郎は困り果て、水伯は苦笑するしかなかった。三体は白けてあらぬ方向を見ていた。


 翌日、明良はまた朝早くから遣って来て、居室で玲太郎の魔術の練習を眺めていた。今日の魔術の練習は小型の水晶に魔力を注ぐ練習だった。大型すら成功した事がない玲太郎は本の少しだけ魔力を注いだが、当然ながら上手く行く筈もなかった。

「やっぱり段階を踏んでやった方がよいの?」

「駄目だと思うのであれば、また元に戻して遣って行けばよいよ。小型で続けて大丈夫だと思った?」

「そうは思わなかった。段階を踏んだ方がよさそう」

「そうなのだね。それならば明日からは大型に戻して遣るとよいね」

「うん。小型は本当に少な過ぎて、僕には難しいのよ」

「それが判っただけでも、遣った事は無駄にはならなかったという事だね」

「でも、本当にいつかは出来るようになるの? 出来る気がしないんだけど……」

「付与術の授業はもう受けたの?」

「一昨日受けた。小型の水晶に魔力を注ぐ練習だったんだけど、今みたいに出来なかった」

 気落ちする事もなく平然と言うと、些か戸惑った水伯が小さく二度頷いた。

「そうなのだね」

「先生が言うには、卒業するまでに授業で習った事を一通り出来るようになればよいのだって。さん年あるし、呪術の時間を付与術に使えるようになったら、出来るような気がするのよ」

何時いつになく前向きで、成長が窺えるね。どういう心境の変化なのだろうか? それにつけても三四年と言う辺りに、飛び級する気でいる事は良く解ったのだけれど、魔術に関しては、焦らず、ゆっくり遣るのだよ?」

「後ろ向きは駄目だと思って。ヌトにも良く言われるし、あーちゃんやはーちゃんにも言われるしで、それが色々と出来ない原因と思い始めたのよ。それで、思っても言うのは止めようと心がけ始めた所なんだけどね」

「成程。言霊だね。何気なく言うのではなく、気持ちを籠めると効果も高まるよ」

 そう言うと柔和な微笑みを浮かべた。玲太郎も笑顔で頷く。

「うん、努力するね。それと飛び級はやるのよ。何があってもやるのよ。魔術以外の教科は授業通りに進めば三年で終わるから、それに合わせて魔術系の実技も進めて行きたいなって思ってる」

「そのように慌てて卒業して、じょう学校に進学する積りなのかい?」

「ううん、それは考えてないのよ。この一週間で色々あり過ぎて、僕には向いていないのが良く分かったから、サドラミュオミュードの花弁の色が変わる原因を探そうと思って…」

「うん? 私が言い出した事を遣り始めるというのかい? それは早過ぎないかい?」

「勉強はしなくてももうよいかもって……。本を読んでいればそれでよいかもって思ったんだけど、やっぱりダメなの?」

「私は学校のような施設に通った事がないけれど、それが駄目という事はないのだよ。本を読んで知識を得るなり、家庭教師を雇うなりすればよいのだからね。……とは言えども、本からの情報となると、満遍なく読まないと知識が偏ってしまう事もあるのだけれど、それでも構わないのかい?」

「本は色々な物を読むつもりでいるから、偏る事はないと思うんだけど……、どうだろう? 父上の持ってる本だけだと偏っちゃう?」

「偏るね。間違いなく偏るね。私はそれで良しとして来たからよいのだけれど、玲太郎はどうなの?」

「僕もそれでよいと思う。僕はね、植物が好きだから、薬草師をやりながら植物を育てたいなって思い始めたんだけど、呪術師もやりたいと思ってるのよ」

「成程、呪術師ね」

「ルニリナ先生が話してくれたんだけど、呪文じゃなくて、図柄や文様でもお呪いが出来るんだって。そういうのも勉強して行きたいなって思ってる」

「そうなのだね。世界中に沢山あるから、勉強のし甲斐があると思うよ」

「うん? 父上は知ってるの?」

「知っているけれど、大雑把に把握している程度になるね。だから似たような文様になると判らなくなってしまうのだよ。南洋の呪術はほぼ図柄でね、種類が沢山あって見ているだけでも面白いから本も持っているよ。数冊だけれど何処かに本がある筈。翻訳して貰った物だから、原本ではないけれどね。どの辺りに置いてあったかは憶えていないけれど、見てみたいのであれば探すよ?」

「ふうん。それはちょっと面白そう。どこに置いてあるのかが分からないんだったら、僕が探してみたいかも」

「ふふ、時間が掛かりそうだから私が探しておくよ。今月中までには見付けておくね」

「よいの? ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべると、水伯も釣られて笑顔になった。

「それではそろそろ持って来ている教科書で勉強をして来たらどうだろう?」

 水伯は昨日と打って変わって大人しく二人を見ていた明良に目を遣った。玲太郎も明良を見る。すると明良が優しい微笑みを浮かべた。釣られて笑顔になった玲太郎は水伯に視線を戻す。

「うん、それじゃあそうするね。父上、水晶を沢山作ってくれてありがとう」

「どう致しまして」

 立ち上がった玲太郎に顔を向けて言うと、玲太郎は笑顔を見せてから明良の方へ向かった。二人が手を繋いで退室すると、三体はそれを追う。水伯も立ち上がって退室すると上階を目指した。


 玲太郎は勉強部屋兼図書室に着くと、明良の手を離して勉強机へ向かった。置いてあった鞄を手にして長椅子の方に戻り、明良の正面に座った。

「此処ではなくて、勉強机に行った方がよいのではないの?」

「歴史の勉強は教科書を読むだけだから大丈夫。書く時はあっちに行くよ」

「そう、解った。読む本を探してくるね」

 明良は穏やかな表情で言うと、立ち上がって本棚の方へ行った。明良は昨日、泣けるだけ泣いたお陰か、煩わしい物が全て洗い流されたかのように爽やかな気分になっていた。晴れやかな表情の明良を見た玲太郎は一安心して、鞄から教科書を取り出した。

「勉強を遣るのは構わないが、灰色の子がどうであったのか、わし等の話は聞かぬでもよいのか?」

 机に立っているヌトが言うと、玲太郎の横にいるノユとズヤが頷いた。

「何か分かったの?」

 玲太郎が訊くと、ヌトはノユとズヤの方に顔を向け、玲太郎も同様に顔を向けた。

「灰色の子は獣人であるな。対精霊と灰色の子を繋いでおる糸は、対精霊の一部であったわ」

 玲太郎は目を丸くした。

「えっ、そうなの?」

「そうなのよ。獣人は精結という部分に精霊を宿しておってな、それから魔力が生じておるのであるが、ああして飛び出しておる事で、魔力が上手く灰色の子の体に行かずに精霊に残ってしもうて、大きく成長したのではないかと結論付けた。…であるが、これが正しいと決まった訳ではないぞ。ズヤと話しうて導き出しただけであるからな」

「魔力って、精霊が生み出してるの?」

 二体が頷く。

「然り。わし等はそうではないのであるが、わし等が拵えた子は精霊から魔力を得ておるのよ」

「じゃあ僕も?」

「子であるからそうであろうと思うが、何事にも例外はあるからな」

 ノユが言うと、ズヤが軽く数度頷く。

「こればかりは視てみぬ事には判らぬがな。……玲太郎を始め、わし等と同等の魔力を持てる程の精霊が生まれるとは思えぬが、こうして現実におるのだから生まれるのであろうな」

「見るって何を見るの?」

「精結を視るのよ。灰色の子に触れると気付かれるであろうから、視てはおらぬがな」

 苦笑しながらズヤが言うと、玲太郎は少し俯いて、また顔を上げた。

「父上が眠っている間に見えないの?」

「あの感度では起きてしもうて話にならぬぞ」

「然り。体内に手を突っ込む直前で気付かれるであろうな」

 ノユが腕を組んでそう言うと、ズヤが軽く二度頷いた。

「あれを視る事は難しいな。ニムなら気にせずに遣っておる所であろうが」

 玲太郎はその名を聞いて眉を顰めた。本を三冊持って来た明良が長椅子に座る。

「ニムなら遣るだろうね。私も何度触られた事か」

 玲太郎は明良に顔を向ける。

「えっ、あーちゃん、ニムに触れられた事があるの?」

「あるよ。体内が気持ちの悪い反応をするから止めさせた」

「父上みたいに、魔術で攻撃された事はないの?」

「それはないね。触れるだけだったと思うよ。偶然にも悪霊のいる場所を通ると、体に妙な感覚が残るのだよ。それが触れられるよりも気持ち悪くてね。本当に嫌だった。……そう言えば、颯には遣った事はないようだったよ」

「わしも明良に触れた事があるがな。何時だったか、手を突っ込んだ記憶があるわ」

 ヌトが明良を見ながら言うと、明良がヌトに視線を合わせた。

「ケメの印が復活しようとしていた時だね。あれは本当に助かったよ。有難う。それにつけても、玲太郎が水伯を治すにはどうすればよいのか、それはまだ判明していないのだよね?」

 玲太郎の傍にいる二体に視線を遣った。ズヤは明良を見た。

「それは甚だ時間を要するという物よな」

「然り。何せ前代未聞の事であるからな」

 そう言うと、ノユは目を閉じて俯いてしまった。玲太郎はそれを見て口を噤んだ。

「本来の状態に戻すのが最善ではあろうが、如何にしてあの巨大な体を灰色の子に入れるかが問題よ」

 ズヤが手を後ろ手に組んだ。ヌトが難しい表情になる。

「長年溜まった魔力を抜きながら戻すしかないのであろうが、魔力をどう抜くかが問題になって来るな」

「然り。穴を空けられぬものな」

 ノユが同調すると、ズヤも難しい表情になる。

「穴を空ける、か……。それに似たような事をすればよいのではなかろうか」

「口から息を吐くように放出させるのはどう?」

 三体がそう言った玲太郎を見る。

「そのように簡単に魔力を放出できれば悩んではおらぬ」

 ヌトが真っ先に言うと、二体が何度となく頷いた。

「それじゃあ排便みたいに出すっていうのは?」

「そのような構造になっておらぬのでな……」

 今度はズヤが否定をした。そして更に続ける。

「手っ取り早く出す、と言うのであれば、灰色の子に累が及ぶ可能性が生じるのでな。余り勧められぬが……」

「そうなってしまうよな……」

 ノユはそう言うと首を傾げてしまった。その二体から玲太郎に視線を移したヌトが口を開く。

「であるから、玲太郎の出番になる訳よ。その絶類の魔力量を使つこうて丸く収めるのよ」

「玲太郎にしか出来ぬであろうからな」

「そうなって来るわな」

 ズヤに続いてノユも頷くと、玲太郎は眉を顰めた。

「えええ? 僕に出来るの?」

「何、まだ時間的に余裕はあると思うから、そうかずともよいのよ」

 ズヤが笑顔で言うと、玲太郎は訝しそうに見た。

「玲太郎、後ろ向きは止めて、前向きになるのだろう? それならば否定的にならずにね」

 玲太郎はそう言った明良に視線を遣ると、明良が穏やかな笑顔で頷いた。玲太郎は脱力して机にいるヌトに視線を遣った。それに気付いたヌトは頷く。

「玲太郎であれば出来ようて」

 思わず頬を緩めた玲太郎を見た明良は、持っていた本を机に置き、一番上にあった本を手に取ると、表紙を開いた。

「その為にもまずは学院を卒業しないとね。後は役に立ちそうな本を見付けたら読むようにするね」

「そうであるな。先ずは出来る事から遣って行かねばな」

 ヌトに頷いて見せると、明良に視線を移した。明良は既に読書を始めていて玲太郎の事は見ていなかった。玲太郎は大きな溜息を吐き、歴史の教科書を開いて復習を始めた。


 夕方になって颯が遣って来ると真っ先に二階の執務室にいる水伯の所へ行き、玲太郎の下へ中々遣って来なかった。颯が屋敷に来て一番落ち着かなかったのはノユとズヤだった。

「颯も存外冷たい所があるからな、期待はするなよ」

 そうヌトに言われても、落ち着きを取り戻す事はなかった。そんな二体と対面に座っている玲太郎は明良の隣にいて、図鑑を見ながら薬草の事を教わっていた。

 約一時間経ち、扉を叩く音がして全員が扉に注視した。静かに開扉されると颯が立っていた。

「今日は。話は聞いたよ。空へ行きたいんだって?」

 そう言いながら歩いて来ると、ノユとズヤが颯の傍に飛んできた。

「わし等も行きたのであるが、よいか?」

「わし等も大して高い所へは行けぬのよ。どれ程の高さなのか、わし等にも見せては貰えぬであろうか」

 興奮しきりの二体は颯の顔色を窺った。

「俺は構わないけど、玲太郎がいいと言ったらな。その前に、お父様とばあちゃんにも話さないとな。お父様が行くとなったらそのまま連れて来たいから、玲太郎も一緒に行って貰えないか?」

 長椅子の横で立ち止まった。玲太郎はそう話す颯を見上げていた。

「分かった、みんなで行こうね。それじゃあお祖父様の所へ行く?」

 三体は喜色満面ではしゃぎ出した。

「勉強を遣っていただろうに悪いな。兄貴も一緒に行くか?」

 颯は明良に視線を移すと、明良は首を横に振った。

「私がばあちゃんに話しておくから、二人で行って来れば」

「そう? それじゃあ頼もうか。水伯は行くって言ってたから、一階の居室集合で宜しく。水伯にもそう伝えておいて貰える?」

「解った」

 明良が頷いた所を見た颯は玲太郎に視線を移した。そして手を差し出すと、玲太郎が手を取った。

「それじゃあ行こうか」

「うん」

 返事をした瞬間に二人はイノウエ邸の屋敷内にいた。玲太郎は周りを見回すと、何度も来ていて知っている玄関広間である事を理解した。南向きの玄関は吹き抜けで、南側の壁は上部が玻璃張りになっていて、まだ日のある外から光が差し込んでいた。王都の別邸もそうだったが、本邸も観葉植物で飾られていて空気が清々しい。その空気を楽しむ間もなく颯が歩き出し、玲太郎もそれに続く。玄関のある南棟、東棟、北棟とあって、西側には大きな温室があった。

 颯は突き当りの廊下を東側に向かって歩き、角を北側に曲がり、東棟の中央辺りにある扉の前で止まった。そして扉を軽く二度叩く。返事はなかったが開扉し、玲太郎を先に中へ入れると手を離した。

 居室は約四十五畳あり、壁は白、赤墨あかすみの色をした板間には無地で亜麻色の絨毯が敷かれ、天井には大型の集合灯が五台吊るされていた。もう外から明りが入らないのか、八窓の窓には、烏羽からすば色の生地に淡藤あわふじ色の蔦模様が刺繍された窓掛けが閉められていた。北側に脚の長い机があり、椅子が八脚置かれている。中央には脚の短い一人掛けの椅子が六脚、円卓を囲むように置かれ、南側には三人掛けの長椅子が脚の短い机を挟んで二脚置かれている。ガーナスは中央にある一脚の椅子に座って読書をしていた。

「お祖父様、こんばんは」

 玲太郎が挨拶をすると、颯は閉扉した。ガーナスは声のする方に顔を向け、老眼鏡をずらした。

「玲太郎か、いらっしゃい。どうかしたのか?」

「あのね、今からみんなでこの星を見に行くんだけど、お祖父様も行かない?」

 玲太郎の言に訝しそうな表情をして、後ろにいる颯を見た。

「空高く昇ると、足下にこの星が丸く見えるんだよ。俺は玲太郎と見たから、皆も連れて行こうかと思って、お父様を誘いに来たんだけどどうする? 行く?」

「星が足下に見えるのか?」

「うん、見えるよ。ちょっと怖いけど、みんないるから大丈夫だと思うのよ」

「月くらいの大きさにはならないけど、まあ、丸く見えるよ」

 ガーナスは自然と本を閉じていた。

「よし、行こう」

 机に本を置き、その上に老眼鏡を置くと立ち上がった。

「それじゃあ玲太郎に触れていて貰える? 瞬間移動するよ」

 そう言いながら玲太郎の手を取ると、ガーナスが傍に来る。

「解った」

 玲太郎が手を差し出すと、ガーナスがその小さな手を握った。

「遣ってくれ」

「行くよ。三…、二…、一…」

 すると三人は水伯邸の居室に移動した。玲太郎は二人の手から離れて開扉した。水伯と明良と八千代と、言わずもがなの三体もこちらを見ていた。

「ただいま。お祖父様も連れて来たよ」

 水伯の傍へ行くと笑顔で言ったた。

「閣下、ご一緒出来ます事、欣幸きんこうの至りに御座ります」

「いらっしゃい。私も初めて行くのだけれど、楽しみだね」

「はい」

「堅苦しいのはもうよいからね」

「はっ」

 やはり堅苦しいガーナスに、水伯が苦笑すると立ち上がった。

「さて、玲太郎に触れていないと瞬間移動に付いて行けないから、どう並ぶかを考えなければならないね」

「兄貴が抱っこで、お父様と俺が兄貴の両横に立って玲太郎の体に触れて、水伯が後ろで玲太郎の手に触れて、ばあちゃんが前で玲太郎の体に触れる感じだろうか。水伯は向こうに着けば、眼下が見え易いように移動して貰えたらと思うんだけど、どうだろう?」

「一応、それで遣ってみようか」

 明良も立ち上がると、八千代も立ち上がった。

「ガーナス様、こんばんは」

 ガーナスに辞儀をすると、ガーナスが頷く。

「今晩は。星が見られると言うのは、些か怖くもありますが、楽しみですな」

「はい」

 二人が挨拶をしている間に、明良が玲太郎を抱き上げた。その左側に颯が立つと玲太郎の左肩に手を置き、水伯が明良の後ろに回って、明良の首に回している腕に手を置いた。ガーナスが右側に行って玲太郎の左ひざに手を置いて、八千代は颯の前に行って玲太郎の背中に触れた。ノユとズヤはそれを見て身を約一尺に縮め、ヌトと同じ大きさになった。ヌトは既に玲太郎の髪を一房握っている。二体は玲太郎の左腕にそれぞれ触れた。

「皆、玲太郎に触れているかい?」

 水伯の問いに皆が口々に返事をすると、颯が頷いた。

「大丈夫そうだから行くぞ。着いたら足下を見るように。三…、二…、一…」

 皆の六合が一瞬で切り替わる。方々には煌く星が見え、足下には青くて大きな球体が見えた。

「おお、これは……」

 ガーナスが声を漏らした。八千代は足下よりも日の光が眩しく、手をかざしていた。明良は玲太郎を抱く腕に力が入る。水伯は玲太郎から手を離してガーナスの隣へ行った。

「これは素晴らしいね。今まで生きて来て、このような光景が拝めるとは思いも寄らなかったよ」

 水伯が満面の笑みを浮かべて言った。

「おおお、これは壮観よな。此処まで飛んで来られぬから嬉しいぞ。颯、有難う」

 ヌトが万感を胸に、何とも言えない表情で言ったが、ノユとズヤは既に燥いで付近を飛び回っていた。颯は口角を上げると二度頷く。

「全員が満足するまでいるから少しくらいなら離れて見ても大丈夫だぞ。置いて行かないから安心して」

 それを聞いた水伯が颯を一瞥すると離れて行った。

「私はここでいいよ。なんだか怖いからね。それにしても太陽が眩しいねえ」

「それじゃあ此処にいてよ。俺は何処まで離れられるか、試してくるわ」

 そう言うと八千代に背を向けて歩き出した。ヌトがそれに付いて行く。

「わしも行く」

 その場に残された明良は前に向かって歩いているガーナスを見ていた。

「玲太郎はどうする? 自分で歩く?」

「歩かない。このままここにいるのよ」

「解った。それではばあちゃんと此処にいようね」

「うん」

 玲太郎は離れて行く水伯を目で追っていた。明良はそんな玲太郎を見詰めていた。

「颯が別の方に向かって歩き出したね」

 颯を目で追っていた八千代が言った。二人は颯の方を見る。歩いていると言うより、手で何かを確認しながら飛んでいた。するとそこへ自分の頭を撫でているガーナスが戻って来た。皆が見ている視線の先を見る。

「颯は飛んでおるのか。半径五モル(約三十三じゃく)程しか移動出来ないようだな」

「そうなんだ。中心は玲太郎だろうね」

 明良がそう言うと、ガーナスが頷いた。

「そうだろうな」

「お父様は満足したの?」

「無論満足したとも。玲太郎、有難う」

 笑顔のガーナスを見て、玲太郎も笑顔になる。

「僕は何もしてないのよ。はーちゃんが連れて来てくれたから、お礼ははーちゃんにね」

「玲太郎が此処まで飛んでいなければ、颯も皆を連れて来る事は出来ていないのだから、玲太郎のお陰になるのだよ?」

 明良が言うと、玲太郎は少し険しい表情になる。

「そう? ……そうなるのかぁ」

「そうだよ、そうなるんだよ。ありがとうね」

 八千代も礼を言うと、玲太郎は笑顔で頷く。

「どういたしまして」

「ばあちゃんももう満足したの?」

「いや、もう怖くてね。目に見える物に足が着いてる訳じゃないから、なんだか怖くて……、満足するどころじゃないんだよ」

 明良を見上げて苦笑する。玲太郎が体を捻って八千代を見下ろす。

「分かる! なんかふわふわするよね」

「そうなんだよ。足は何かに着いてるんだけど、浮遊感があって不安定に感じてね……。でも青星がこんなに青いとは思わなかったよ。名前通りなんだね。あちこちに白い雲があるのも見えて、見ている分には楽しいよ」

「空を飛んでいる感覚が味わえて楽しいが、二人はこれが怖いのだな」

 ガーナスが笑顔で言っている。

「そう、怖いのよ。でもこんな事を言ってたら、一人で空を飛ぶのが遠い未来になっちゃうね」

「宙には浮けるのだし、此処まで上がって来られたのだから、そう遠くない内に飛べるようになるよ」

 明良が微笑むと、玲太郎は苦笑した。

「そうだとよいのだけどね」

「前向きになるのではなかったの? 出来るようになるよ、ね?」

「なるなる。一人でここに来られるように頑張るね」

「それはそれで心配になるね。此処に来る時は一緒に来ようか」

「やっぱりそうなるの?」

 八千代とガーナスが笑った。そして満面の笑みを浮かべた水伯が戻ってくる。

「私も此処まで来られるように、瞬間移動の練習でも遣りたい所だね」

「お帰り」

 明良が言うと、水伯が明良を見る。

「抱っこの交代でもするかい?」

「ううん、大丈夫。それより水伯は満足したの?」

「とても満足したよ。もう少し遠くまで行けるとよいのだけれど、それは贅沢という物だよね。此処には玲太郎がいないと来られないようだから、颯に貰った黒淡石で記録をしたよ」

 玲太郎は驚いて目を丸くした。

「えっ、僕がいないとダメなの?」

「動いていない誰かを中心とした球体の中にいるのだよ。ガーナスや八千代さんや明良ではないだろうから、玲太郎になるだろうね」

「やっぱりそうなんだ……」

「玲太郎が移動すれば、その球体も移動して、我々の移動する範囲も移動するという訳だね。試しに遣ってみるかい?」

「やらない。ここにいるのよ」

 水伯を見ながら笑顔で言ったが、顔が些か引きっていた。

「うん、いようね」

 明良が優しく微笑んで言うと、玲太郎は頷いた。水伯とガーナスもそれを見て微笑んでいたが、八千代は颯のいる方を見ていた。颯は四人の頭上にいて明良の右手側へと向かって移動している。

「颯が一番楽しんでいるように見えるねえ」

 三人はそう言った八千代の視線の先を見た。

「やはり半径五モル程だな」

「そうだね。それ程度になるね」

 ガーナスと水伯が言うと、飛び回っていた二体が戻って来た。

「置いて行かれては敵わぬから戻って来たが、はやてがまだ来ておらぬのであるな」

 ズヤが玲太郎の傍に来ると、直ぐ追い付いたノユが頷いている。

「ヌトも彼方あちらにおるわ」

「そのようであるな」

「それにしても、このように高い位置まで飛んで来られる物なのであるな」

「玲太郎は凄いな」

「然り。凄過ぎて名状し難い感情になっておるわ」

 二体がここぞとばかりに何かを言っていたが、玲太郎は颯を目で追っていた。二体はそれを見て、玲太郎の視線の先に目を遣ると静かになった。颯が中々戻って来ず、約二十分も滞在する事となった。

「お待たせ」

「遅い」

 明良が不機嫌そうに言うと、颯は苦笑いする。

「悪い、黒淡石に記録していたから時間が掛かったわ。思い付いたのが遅かったからなあ」

「私は一個分だけ記録したよ」

 嬉しそうに水伯が言うと、不機嫌そうな明良も口を開く。

「私は持って来ていないから出来なかったよ。また玲太郎と来て記録しようと思う」

「えっ、また来るの?」

 些かいやそうに訊くと、明良が苦笑した。

「嫌なの?」

「んー…、まぁ、よいけど……」

「有難うね。それでは颯、先に家へ行って、お父様を送ろう」

「うん? 兄貴が瞬間移動してくれる?」

 そう言いながら八千代の後ろを回り、明良の左側に行くと玲太郎の左肩に手を置いた。水伯もガーナスも八千代も玲太郎に触れる。

「お父様は居室にいたから、其処へ飛んでよ。全員、玲太郎に触れているよな?」

 颯がそう言うと、三体が慌てて来た時のように玲太郎に触れる。颯はそれをしっかりと見ていた。

「颯が責任を持って最後まで遣りなさい」

 明良が冷ややかに言うと、颯は溜息を吐く。

「解った。それじゃあ戻るぞ。先ずはお父様からな。三…、二…、一…」

 一瞬にしてイノウエ邸の居室に到着する。ガーナスは素早く離れて水伯の方を向く。

「閣下、御前を失礼致します」

「ガーナス、またね」

 深く辞儀をして、頭を上げると颯が傍にいた。

「お父様、これは黒淡石と言って、映像を記録する事が出来るんだけど、魔力を注いだら記録した映像が見えるから、暇がある時にでも見て貰える? 出来れば暗い場所で見る方が映像は見易いよ。映像が流れている途中で魔力を流すと映像が途切れるからな」

 そう言って差し出すと、ガーナスは受け取った。

「有難う。よい思い出になるよ」

「また機会があったら行こう」

 振り返って玲太郎を見ると、玲太郎が背筋を伸ばす。

「な、玲太郎。また行こうな」

「えっ、うん、分かった」

 颯は驚いた表情の玲太郎を見て微笑むと、またガーナスの方に向いた。

「それじゃあ俺は水伯邸に行って学院へ戻るから、また来週な」

「無理をするなよ」

「解った」

 そう言って微笑むと、明良の右側に行って玲太郎の脚に触れた。水伯が軽く挙手をしてガーナスを見ると、ガーナスは辞儀をした。

「それじゃあ次は水伯邸の居室な。三…、二…、一…」

 五人はガーナスを残して水伯邸の居室へと移動した。

「はい、お疲れ様でした」

 颯が元気良く言うと、八千代の方に行く。

「お疲れ」

 明良が素っ気なく言って長椅子の方に向かって歩き出した。

「颯、玲太郎、有難う。楽しかったよ」

 そう言って水伯も明良に続く。

「颯も玲太郎もありがとうね」

「はい、これ」

 黒淡石を差し出すと、八千代は颯の顔を見ながら受け取った。

「ガーナス様に渡してたやつ?」

「そう。黒淡石な。集合灯を点ける開閉器をこれに向けて使えば映像が見えるから」

「あ、本当。ありがとう。暗がりで見るのがいいんだよね?」

「うん、暗い方が良く見えるよ。十分間の記録が出来るんだけど、十分ずっと同じような映像だと思うから、それはご免な」

「そんな事はいいんだよ。ありがとう。夜寝る前に見るね」

 笑顔で言いながら、上着の衣嚢に入れた。

「颯と玲太郎の弁当を作らないといけないから、そろそろ厨房へ行くよ。二人共、楽しみにしてて」

「楽しみにしとく。また後でな」

 八千代は笑顔を颯を向けると退室した。長椅子に明良と玲太郎が座り、その対面に水伯が一人掛けの椅子に座っていた。颯は水伯の隣の一人掛けの椅子に腰を下ろした。

「あの場所は玲太郎がいないと行けないな」

「ああ、やはりそうなのだね」

 明良が納得して言うと、颯は頷いた。

「試しに一人で飛ぼうとしたけど、飛べなかったから確実だよ」

「えっ、そうなの? それじゃあ行く時は必ず僕がいないとダメって事?」

「そうなるね。玲太郎、また宜しく頼むよ。次は明良が連れて行ってくれるだろうからね」

 水伯が正面に座っている玲太郎を、柔和な表情で見詰めた。玲太郎は行きたいような、行きたくないような、複雑な心境になっていて、どんな表情をすればよいのか判らなかった。


 颯は玲太郎と寮長室に戻って来るなり隣室へ行き、茶の用意をし始めた。玲太郎は荷物を机に置いてから隣室へ行った。勿論三体も付いて来た。颯が必要な物を調理棚へ置いていると、三体が水伯と対精霊の状態を話し始めた。颯は相槌を打ちながら聞いていたが、時折玲太郎に視線を送った。玲太郎は焜炉こんろ前で湯が沸く時を待っていて、それには気付いていなかった。

「解ったよ。水伯の対精霊がまだ耐えられるのなら、時間がそれだけあるって事だろうから、玲太郎がどう収めるかを考える時間もあるって事だな」

 言いながら鍋に牛乳を入れ、瓶に蓋をすると冷蔵庫へ戻した。

「玲太郎に必要なのは知識と覚悟よな」

 ズヤが言うと、ヌトが鼻で笑う。

「想像力が物を言うのであるから、知識はいらぬのではなかろうか」

「知識を得る事で、想像力を昇華出来るのではなかろうか」

 そう言ったノユをヌトは横目で見る。ノユも横目でヌトを見返す。

「世の中には想像を絶する事象もあろう。それ等を見聞し、視野を広げて玲太郎が成長するだけでも良し、それ等が灰色の子を直す一助となれば尚良し…」

「言うは易く行うは難し、だよね」

 玲太郎が呟くと、三体は一斉に玲太郎を見た。

「僕にしか出来ないって言うのがねぇ……。本当にそうなの?」

 三体の方に顔を向けて言う。

「わしには無理ぞ」

 ヌトが間髪を容れずに言うと、ノユが大きく頷く。

「わしも無理ぞ。あれはわしの持ちうる魔力を全てぎ込んでもどうにか出来る気がせぬわ」

「わしもであるな。如何いかんせん、あの対精霊擬きが大き過ぎるわ」

 ズヤが険しい表情で言った。他の二体は小さく何度も頷いた。

「まあ、玲太郎の魔力量頼みである事は確かだから、玲太郎にしか出来ないと思うぞ」

 玲太郎はそう言った颯を見上げると目が合った。

「はーちゃんに僕と同じ魔力量があったら、父上の事を治せると思う?」

「治せるな。遣り方が思い浮かべば、後は魔力量を存分に使って遣れる筈」

「じゃあ遣り方が思い浮かんだら教えてよ。遣ってみるから」

「それは俺も考えるけど、玲太郎も考えないと駄目だぞ?」

「わし等もそれは考えてみよう」

 ノユが言うと、ズヤが頷くが直ぐに険しい表情になる。

「しかし、あの対精霊の保有しておる魔力が問題よな」

「それよ。何故なにゆえあのようになるまで溜め込んでおるのかが不思議でならぬわ」

「然り。あの魔力がなければ、わし等でもどうにか出来そうではあるが……」

 ヌトとノユは示し合わせたかのように同時に腕を組んだ。玲太郎はそれを見て頬を緩めた。颯は鍋で温めていた牛乳を、先に茶器へ注いだ。それに次いで玲太郎も湯を注いだ。颯は砂時計を引っ繰り返す。

 時間が来ると持ち手の付いた大きな湯呑みに茶を注ぐ。今日は若竹色と灰茶色で、玲太郎は灰茶色を選んでいた。

「お弁当、いつ食べられるの?」

「二十二時」

「はぁー……、まだ二時間くらいあるじゃない。もう食べてもよいと思うんだけど?」

「今でもいいけど、寝る前に腹が空くぞ?」

「構わない」

「それじゃあ味噌汁を作るから、その間、待って貰えるか?」

「味噌汁じゃなくて、澄まし汁にしてもらえる?」

「解った。でも茶もあるのに、大丈夫なのか?」

「大丈夫。お弁当箱の大きさからして足りなそうな気がするくらいだから」

 颯は鼻で笑うと頷いた。

「そうなんだな。それじゃあ大人しく待っていて」

「やった! ありがとう!」

 玲太郎は笑顔で自分の湯飲みを持つと、弁当箱の入った手提げ袋が置かれている食卓へと向かった。椅子に座って手提げ袋から弁当箱を出そうとすると、折り畳まれた紙が入っていた。玲太郎はそれを取り出して広げると目を通す。「あ」と小さな声を漏らすとそれを手に颯の所へ行く。

「はーちゃん、父上から手紙が入っててね、『颯が家で食事をする機会がないようなので、約束した長粒種の炊き込みご飯はお握りにしました。多目に作っておきます。水伯』、だって。僕、すっかり忘れてたのよ」

 颯も思い出したのか、目を丸くしていた。葉野菜を切る手を止めて玲太郎を見る。

「ああ、それで意外と重かったんだな。気付かなかったわ。俺も綺麗さっぱり忘れていたから、後でお礼を言わないといけないなあ」

 そう言ってまた葉野菜を切り始めた。玲太郎が紙を折り畳んでいると、颯が一瞥をくれた。

「その手紙、玲太郎はいるか? いらないなら俺が貰ってもいいか?」

「うん、構わないよ。それじゃあここに置いておくね」

 玲太郎は調理台の端に紙を置いて食卓へ戻って行った。颯はそれを魔術でズボンの後ろにある衣嚢に入れて、椎茸を切り始めた。

 颯は手早く澄まし汁を作ってしまうと食卓へ運んだ。玲太郎は茶を飲み干していて、八千代の作った弁当は菜だけでそれは全て食べたが、水伯が作ったお握りの方は一個しか食べなかった。

「はーちゃん、一人で食べてしまわないでよ? 後で食べるから僕の分も残しておいてね?」

「わあっえうっえ」

 六個目を頬張りながら言うと、美味しそうに咀嚼する。玲太郎は澄まし汁を飲み干すと箸を置いて、膨らんだ腹をさすった。

「ごちそうさま。お腹空いてたから、もっと食べられるかと思ったのに、そんなに入らなかったのよ」

「紅茶があったんだから、ご飯は二時間後にしていれば良かったんだよ」

「確かにそうだけどぉ……」

「それで、お握りは何個残せばいいんだ?」

「後三個は食べたい」

「解った。それじゃあ後二個は食べられるな」

 そう言うと微笑み、澄まし汁のお代わりをしに台所へ向かった。

「僕もはーちゃんくらい体が大きいとよいのに……。そうしたら一杯食べられるのになぁ……」

 残っているお握りを見ながら不満気に呟く。

「玲太郎もわし等のように拡大をすればよいのではなかろうか。等身は変わらぬが、体は大きくなろうて」

 食卓で寝転んでいるヌトに視線を遣る。

「なるほど。僕もそんな事が出来るの?」

「わし等は元々モル二十にじゅう八ジル(約十五尺)あるのであるが、此処まで縮小出来るからな」

「大きいのは知ってるのよ。ハソとニムが大きいままだった事が良くあるからね」

「そうであったな。一時いっときはあの大きさで来ておったものな」

「うん」

「玲太郎であれば出来るわ。但し、等身が変わらぬという事は、颯程の身長になったとて頭も大きゅうなるがな」

「えっ、頭も大きくなるの? それは嫌だなぁ……」

「おい、変な事を吹き込むなよ」

 汁椀を片手に戻って来た颯がそう言いながら椅子に座った。

「玲太郎が大きゅうなりたいと言うものだから、なれると言うておっただけぞ」

「だからってご飯を沢山食べる為だけに、そういう術を会得されても困るんだけどな」

「僕としては成長して大きくなりたいんだけどね」

「少し前までは大きくなりたくないって言ってたのにな……」

 そう言うと澄まし汁の具を箸で摘んで頬張った。

「それにしてもノユとズヤは何処に行ったの? もう帰っちゃった?」

 玲太郎が話題を変えると、ヌトが鼻で笑った。

「目族の子の所へ行ったわ。玲太郎よりも今はあの子の方が気になるのであろうな」

「ふうん……」

 颯は七個目のお握りを手に取ると玲太郎を見ながら頬張る。玲太郎はヌトを見ていた。

「ルニリナ先生の何が気になるの?」

「わしに訊かれても判らぬわ。ま、わし等と同等の力を持っておるからであろうが、それならば颯と明良の所にも来る筈よな」

「僕達の所にはヌトとニムとハソがいたからじゃないの」

「ふむ、それはあるやも知れぬな」

「俺には何故かヌトが張り付いていたからなあ……。水伯にはニムとシピだったか? が監視して、俺はヌト、玲太郎はハソとニム、兄貴はいなくて、ルニリナ先生がノユとズヤか。兄貴だけ狡いんじゃないのか?」

「ニムが明良に興味を示しておったが、明良が寄せ付けなんだからな。仕方があるまいて」

「ふうん。……あ、そう言えば、俺が兄貴に近寄るなって忠告した事があったな」

 颯はお握りを頬張った。玲太郎が首を傾げて少し考えてから颯を見る。

「うん? 僕にはヌトとニムとハソじゃないの?」

「いや、ハソの事をヌト、ニムの事もヌトと言うておったから、実はわしだけだったのやも知れぬな」

 颯は口に入っていた物を飲み込むと、頬を緩めた。

「懐かしいな。ハソとニムの事を憶えようとしなかったんだよなあ。二体が近付くと何故か泣き喚いて、いやあ、あれは凄かったわ」

 玲太郎は不機嫌な表情をすると、颯を上目遣いで見た。

「またそうやって僕の知らない事を話すのよ……」

 颯は満面の笑みで八個目のお握りを手にすると、玲太郎に視線を移す。

「玲太郎は憶えていなくても、俺の人生の中で一番玲太郎と一緒にいた頃の話だから、俺に取っては大切な思い出なんだけどな」

「それだと僕が赤ちゃんの時が一番一緒にいたんじゃないの?」

「玲太郎が赤ん坊の頃は兄貴が大抵の世話をしていたから、俺と一緒にいたという気がしないんだよな。夜中に玲太郎の世話で起こされていたくらいで、それ以外は何かをしていた記憶がないな」

「そうなの」

 お握りを頬張ろうとした颯は動きを止めた。

「ああ、水伯が来ていた時は俺が色々と遣らせて貰っていたよ。勉強時間以外だから、そんなに沢山はしていないけどな」

 言い終えるとお握りを頬張った。美味しそうに咀嚼をしている颯を、玲太郎は相変わらず上目遣いで見ていた。颯はそんな玲太郎を見ながら咀嚼した物を飲み込んだ。

「水伯の前では何時も通りに出来たか?」

 不意の質問に些か目を丸くした。

「あ、うん。それは出来てたと思うけど……」

「何、心配せずとも明良のお陰で大丈夫であったわ」

「そうなんだな。それならいいんだけどな」

「寧ろ明良の方がおかしかったように思える程よ」

「成程」

「あーちゃん、おかしかったよねぇ。今日は大丈夫だったけど、昨日はおかしかった」

 そう言って頷いている玲太郎を見ながら、残りのお握りを頬張って頬を膨らませ、ゆっくりと咀嚼をした。


 二十九時になると颯は寮内の巡回をする為に寮長室を後にした。先ずは四階のろく学年の部屋から見回る。靴音がなるべくしないように静かに歩き、生徒が就寝している事を確認する。しかし、気配の読める颯にしてみれば、巡回は只の散歩でしかなかった。三階に下りて廊下を歩いていると、ノユがルニリナの部屋の前で待ち伏せていた。

「見回りが終わった後でよいから来て呉れぬかと言うておる」

「十分くらいなら」

「それで大丈夫であろう」

 そう言うと扉を透り抜けて部屋へ戻った。颯は階段を下りて行くと二階を回り、中央の昇降口からまた三階へ上がってルニリナの部屋に遣って来た。扉を叩こうとすると静かに開いた。ルニリナが笑顔で颯を迎え入れて閉扉した。

「お好きな所にお座り下さい」

 そう言われて一番手前に座ると、ルニリナが茶の用意をしようと水屋の方に向かった。

「すぐ寝るのでお茶は結構です。有難う御座います」

 ルニリナは颯の方に振り返る。

「そうですか」

 笑顔を絶やさず、颯の正面に座ると机に置いてあった布袋から道具を取り出し始めた。ノユとズヤが傍に来て見守る。

「イノウエ先生を占って、間接的にでも閣下の未来を知る事が出来ればと思いまして、道具を用意してお待ちしていました。これでも「稀たいの占術師」と言われていますので、閣下の些細な事も拾う積りでいます」

 それは颯にとって、願ったり叶ったりだった。

此方こちらからお願いをする積りでいたのですが、気遣って下さり、本当に有難う御座います」

 深く辞儀をすると、ルニリナは穏やかに微笑む。

「口調は普段通りで構いませんよ」

「そうですか。それでは少しだけ砕けた感じにしますね」

「少しではなく、すっかり砕けて下さってもよいですよ」

 重なった大小の円が二つと十字が描かれた正方形の紙を広げ、その上に小さな巾着から小石を出した。そしてそれを颯の方に押し遣る。

「それではその小石を全て拾って、両手で持ち、この紙の中心で十五ジル(一尺)程度の高さから落として下さい」

「小石と言うか、宝石も交じっていますよね」

 拾い始めた小石を左手に載せ始めた。形も色も様々で四十五個あった。

「善くお判りになりましたね。原石ですね。それはさて置き、目族は一人に就き一度しか占えませんので、イノウエ先生の知りたい事がありましたら、そちらも拾えたらと思いますが、何かありますか?」

 ルニリナは机の上で手を組んだ。颯は小石を全て左手に載せ切ると右手で蓋をして上下に振った。

「水伯の事が判ればいいな、くらいにしか思ってないんで、それでいいです」

 笑顔でルニリナを見ると、ルニリナが小さく頷いた。

「解りました。それではイノウエ先生を通じて、閣下の事を拾って行きましょう」

 颯は頷くと両手を離し、小石を落とした。ルニリナは小石が動きを止めるのを見ている。

「やはり長生きしますね。閣下を占った時に思いましたが、私であれば一度に限らず、何度でも占えるかも知れません」

「どれくらい長生きか、判りますか?」

「そこまでは……。今判る事と言えば、大病なし、怪我なし、恋愛なし、ご家族には恵まれていないですが、恵まれてもいる、少々複雑なようですね。四人兄弟ですが、一人亡くなっていらっしゃる。ご友人は少ない、それも一人二人という所でしょうか。……ああ、ご友人の一人が閣下のようですね。友情は長く続くと出ています。長く続くという事は、閣下も長く生きられるという事になりますが、この占術では長くて百年程しか占えませんので、百年と思っていて下さい」

 そう言って紙面から颯に視線を移すと、颯は真剣な表情で紙面を見ていた。

「時として命を狙われる事もありますが、実力差があり過ぎてどうという事はないでしょう。肝心の閣下の事は、イノウエ先生を占った限りでは、長生きという事しか判りませんでした。この結果だと、ウィシュヘンド君を占ってみるのもよいかも知れませんね」

 颯は「命を狙われる」との言に衝撃を受けていたが、しばらくして我に返ったのか、ルニリナに視線を移した。ルニリナは視線が合うと穏やかに微笑んだ。

「大丈夫ですよ。総合して無事と出ていますので、命を狙われても無傷で済みます」

「そうですか。有難う御座います」

 礼は言っても表情が硬かった。ルニリナも些か真面目顔になる。

「閣下に何かしらの事件、病気、怪我があるようには見受けられませんでしたが、それにイノウエ先生が関らないだけという可能性もありますので、ウィシュヘンド君を占う方がよいかも知れません」

「俺が関らないとは、俺の知らない所でそうなる事がある、という事ですか?」

「そうです。閣下は長生きすると出ていますので、これから百年は何もないとも言えますが、イノウエ先生の与り知らぬ所で何かが起こる事も考えられます」

 颯は不思議そうな表情をする。

「うん? それは俺が水伯から離れる事があるんですか?」

「それは判りませんが、今も年中ご一緒している訳ではないですよね? それと同程度だと思いますよ。私が言っているのは可能性の話ですが、閣下が何事もなく過ごせると断言するには、イノウエ先生の占いだけでは出来ないですね」

「そうですか……」

 颯は落胆して腕を組むと、紙面に視線を移した。

「それはさて置き、友人が一人二人と言っていましたが、もう一人いるのか、それともこれから出来るんですか?」

 ルニリナが穏やかに微笑んで颯を見ると、颯も釣られて微笑んだ。

「出来るのでしょうね。それも私の事です。この十字の上にある石がそうなのですが、占えていないのですよ」

 紙面の中心、十字の真上にある石を指した。

「私自身の事は占えませんので、私だと判ります。それに仲の良し悪しが明確に判りませんが、お弟子さんがいますね。このお弟子さんは立場が相当上、となっていますので、ヌト様なのでしょうか。切っても切れない腐れ縁となっています」

「む? ヌトが弟子とな? そのような話は聞いておらぬが」

 ノユが言うと、二人はノユを見た。颯は苦笑していた。

「弟子なんだろうなあ、……まあ、うん、そうなるみたいだな」

「ヌトが弟子とは、一体何を教えておるのよ?」

「それは秘密。でも俺が教えていると言うより、勝手に学んでいると言った方が正しいかもな」

「成程、ヌトが勝手に弟子入りしておるのであるか」

「そうなるな。切っても切れないと言うのがなあ……」

「閣下との仲はとてもよいですね。複雑だと言った家族は、親とは縁が切れていて、兄弟仲はとてもよいと出ていますが、兄弟とは距離感も程良く、一人が亡くなり、そして弟を溺愛している嫌いがあるようですね。人間関係は良くもあり、悪くもあり、これは精霊達との相性も出ていますが、これも良し悪しは良しが多め、悪しが少なめでしょうか」

「精霊達? 精霊って対精霊ですか?」

「いいえ、ヌト様達の事です」

「ああ……。その精霊との相性かあ……」

 そう言いながらノユとズヤを横目で見た。その視線に気付いたズヤが眉を寄せる。

「わしははやてに何もしておらぬであろうが。ハソやニムと一緒にするなよ?」

「然り。わし等は基本、傍観者に徹しておるからな」

 ノユも続いて潔白である事を訴えた。

「基本、ね」

「そう何かしら遣っておるかのように言うでないわ。ヌトのように悪戯すらしておらぬのであるが」

「ノユは大して遣っておらぬわ。わしが保証するぞ」

「此処に居着いている時点で、何かしら遣っているとは思わないんだなあ」

「まあまあ、居着く程度ならばよいではないか」

「然り。ニーティに触れてすらおらぬわ」

「俺は気配が邪魔で寝られないんだけどなあ……」

「ああ、はやては気配に敏感であったな。何故なにゆえそのように敏感なのよ? その敏感さは異常であるとハソが言うておったぞ」

 颯はズヤに視線を遣ると溜息を吐いた。

「目覚めてしまった物は仕方がないだろう? 目覚めて直ぐの頃と比べて、感知出来る範囲を狭められるようにはなったけど、慣れない凶悪な気配が近い所にあると寝られないんだよなあ……」

 ズヤが顔を引き攣らせる。

「凶悪とな? わし等がか? それを言うなら、ヌトの方が余程…」

 不満そうに言っている所に被せて颯が口を開く。

「ヌトはもう慣れたからな。まあ、確かにヌトの気配は一線を画した物があるけど、凶悪さで言えば皆一様に変わりないな。小さい頃の玲太郎はヌトは受け入れて、ハソやニムやケメを嫌っていたから、気配の感じ方は人それぞれだと思うぞ」

 そう言われてしまうとズヤは口を閉じた。

「それもあろうが、わし等の中ではヌトが異質な気配である事は、自他共に認めておる所であるからな。それにつけても、はやてはわし等の気配が一様に凶悪であると言うが、そうであろうか? ニーティはどう思う?」

 ノユに振られたルニリナは些か驚いた表情をする。

「私ですか? ……うーん、気配の感知は得意ではありませんのでどうも思いませんが、強いて言えば、ヌト様に限らず、傍に来られると肌が痛く感じる事がありますね」

「そうであるのか」

 ズヤが少しばかり驚いているようだった。

「兄貴も何方どちらかと言うと嫌いな気配だと言っていたよ」

「閣下やウィシュヘンド君、イノウエ先生には肌が痛くなりませんね。寧ろ心地好いです。閣下と初めてお会いした時は、穏やかな空気に包まれて、気が抜け過ぎて呆けてしまいました。ノユ様やズヤ様では決して感じられない感覚でしたね」

「俺はどうです?」

 颯が笑顔で訊くと、ルニリナも笑顔になる。

「爽やかですよね。爽快で心地好いです」

 ノユが顔を顰めて颯を見る。

「そうであるな……、はやてはわし等と同等の魔力を持っておるという程度で、ヌト程尖った特徴がないように思うがな。ズヤはどう思うのよ?」

「わしか? わしははやての気配は嫌いではないぞ。知った気配がするのであるが、何処でそれを知ったのかが思い出せぬがな」

「私はどうなのでしょうか?」

 今度はルニリナがノユとズヤに訊いた。

「ニーティはそうであるな……、丸い気配がするぞ」

「そうであるな。丸いよな」

 ノユの言った事にズヤが頷くと、颯が首を傾げた。

「やっぱり気配の感じ方が違うな? ルニリナ先生は実った米の気配がするわ」

「どういう事よ?」

 ズヤが眉を顰めた訊いた。

「昔住んでいた家は田圃たんぼの近くだったんだけど、実った米が頭を垂れて食べ頃を教えてくれるだろう? その気配に似てる」

「解り難いわ」

「余計解らなくなったのであるが……」

 顔を顰めたノユが颯を見た。颯はノユを見て首を傾げる。

「うーん、そそられるって事だろうか?」

「そそられるとは、何をそそられるのよ?」

「好奇心か、興味辺りだろうな? そう言えば、ノユとズヤは玲太郎に興味をそそられなかったのか? まあ、そそられなかったから監視していなかったんだろうけど……」

「それはいずれは覚醒するであろうから、それまではと思うておったのであるが…」

「成長を見守るのは悪くはないのであるが、情が移るであろう? わしはあれが嫌なのよ」

 ズヤが話している所を遮るようにノユが話した。

「ああ、直ぐにおらぬようになるからな」

「然り。チムカの魔力に似ていたとは言え、玲太郎がわし等以上の魔力持ちだと判ったのは、覚醒してからであるからな」

「チムカって時折耳にするけど、何者なんだ?」

「チムカはわし等の親よ」

 何故かズヤが得意満面で言うと、颯は驚いた。

「親! 親なんていたんだなあ……」

「然り。わし等にも親はおったぞ。今はおらぬがな」

 寂しそうにノユが言うと颯も些か神妙な面持ちになる。

「そうなんだな。まあ、長い事生きているもんなあ。そのチムカに似た魔力って、玲太郎の魔力の質が似ているのか?」

「そうであったが、覚醒したら全くの別物になりおったからな。チムカの魔力がどのような物であるかは、食肉樹の魔力を感じれば判るであろうて。あれに似ておるからな」

「ええ? 食肉樹は文字通り肉食だから近寄りたくないわ」

「食肉樹はある一定の魔力を持っておれば、攻撃をして来ないのであるが、その事は知られておらぬのか?」

 ノユが不思議そうに言うとルニリナを見た。視線が合ったルニリナは首を横に振った。

「私は知りませんでしたね。初耳です。食肉樹に関しては、近付くな程度しか教えられませんでしたのでね」

「はやてのおった島国も食肉樹に覆われておる島が沢山あるであろう? その手の話は聞いた事がないのであろうか?」

「俺が食肉樹を知ったのは授業で、触手に掴まると逃げられなくて、食べられた後は三日三晩絶叫が続くっていうくらいしか知らない」

「三日三晩も絶叫が続くのか。それは知らなんだわ」

 ノユが感心して言うと、ズヤが脱力をしてノユを見た。

「今、それは関係なかろうて。魔力がある程度あれば攻撃をされぬのは、わし等だけなのかも知れぬのであるからな」

「子でも魔力がある程度持っておる子となると限られておるからな」

「試しに俺が行こうか?」

 二体が一斉に颯を見る。ズヤが颯に近寄る。

まことか!?」

「それならばわしも付いて行くぞ。どうなるのかを見ておきたいのでな」

「当然わしも行く。ニーティも一緒に行くか?」

 ズヤがルニリナの方に顔を向ける。ルニリナは笑顔になった。

「解りました。私も行ってみましょう」

 二人と二体は颯が言っていた時間を過ぎながらも話を弾ませ、颯が寮長室に戻り、玲太郎を起こしたのは二十九時六十分頃となってしまった。玲太郎は寝惚け眼で時計を見る事もなく、いつも通りに湯呑み一杯の水を飲むと、颯に連れられて同じ寝台で眠りに就いた。

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