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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第十五話 しかして疎通する

 十月六日、玲太郎にとって明後日は学院に来てから初めての休日で、屋敷に帰れる日が近付いていた。その為に玲太郎は浮付いていたが、明良の事で気が重くもあり、複雑な心境だった。

 颯は既に職員室へ行っていて、玲太郎は一人になっていたのだが、背嚢に詰めた教科書が授業のある教科と合っているのか、何度目かの確認をし始めた。二時限目以外は別の学年の授業と自習の為、確認をする度に自習用の教科書を入れ替えていた。

「その落ち着きのなさはどうした事よ?」

「うーん……、教科が合ってるのか気になって。自習もこの教科でよいのかと……」

「それならば薬草でも勉強しておけば良かろうて。種類が沢山あって大変なのであろう?」

「そうなんだけど、別の教科がよいのだろうかって……」

「ふむ。それならば復習でもせぬか。遣らない内に忘れてしまう事なぞようある事ぞ。颯がそうであったわ」

「復習ねぇ。……そうだね。それじゃあ地理にしよう」

 本棚へ行き、一学年と二学年の地理の本を手にして机に戻って来ると、背嚢に詰め込んだ。ヌトは苦笑しながら見ている。

「一時限目からあーちゃんの所だからね。機嫌を直してくれるとよいのだけど……」

「明良は玲太郎が一番であるからな、玲太郎の微笑み一つで容易に直るであろうて」

「容易? そんなに容易には行かないんだからね?」

 玲太郎は些か難しい表情になっていた。

「容易に決まっておろうて」

「今朝だって顔を出してくれてないのよ?」

「明良は玲太郎の気を惹きたいのよ」

「またそんな事を言って……。ヌトは他人ひと事だからよいよね」

「玲太郎が明良を拗ねさせてしまったのであるから諦めろ」

「はぁー、当事者じゃないってよいよね……」

 気の浮かない表情でそう言いながら背嚢のかぶせの留め具を留めた。掛け時計を見ると、ヌトに視線を戻す。

「それよりも、もうすぐ休みだからね。屋敷に帰れるのよ」

「灰色の子と八千代に会えるな」

「うん! こんなに長く離れている事って初めてだから、早く会いたい」

 玲太郎は朗らかな笑顔を見せた。

「その笑顔を明良に見せれば、拗ねていたとて骨抜きに出来るぞ」

 一瞬で無表情になった玲太郎は溜息を吐いた。

「人の気も知らないで……」

「颯ならば堪える所であるが、明良は堪らず抱き締める所であろうて」

「はぁ……、そうだとよいのだけどね」

「弟が来たぞ。今日は些か早いのではなかろうか」

 時計を見ながら言うと、玲太郎はヌトを見る。

「本当? ありがとう」

 玲太郎は立ち上がって背嚢を背負い、椅子を机の中に入れた。衣こうまで行くと外履き用の靴に履き替えていた所で扉を叩く音がした。

「はい」

 返事をして扉の前に行き、扉を開けると、直ぐ近くにバハールが立っていた。

「お待たせ」

「全然待っていないけどね」

 玲太郎は扉を閉めて、取っ手に魔力を流して鍵を掛けた。そして二人は並んで教室へと向かった。


 最近は五分前に教室へ遣って来る生徒が増えていた。颯が五分前に来るまでに、席は三分の二程が埋まっている程だった。そして朝礼開始の鐘が鳴ると、颯が帳面を開いて万年筆を手にした。

「お早う。今日は残念なお報せがある。停学になっていたユリシーズ君だが、魔力がなくなった為に退学となった。この中から同様の者が出てくる可能性もあるから、魔力がなくなったと気付いた場合は、なるべく早く教えて欲しい」

 教室内が騒然として、颯の言った事を最後まで聞いていた生徒は少なかった。そんな中、気になる視線があったが、颯は意に介さずに帳面を開いた。

「それでは出席を取る。レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド」

「はい」

「バハール・ディッチ・ロデルカ」

「はい」

「ヨキヨウ・イスシ」

「はい」

「ウギヨア・クイザ」

「はい」

「ウジョイン・シンゼイ・ショーザ」

「はい」

 出席を取り出すと静まり返った。玲太郎は颯の声をなんとなく聞いていたが、後ろから背中をつつかれて上体を後ろに少しだけ倒した。

「ユリシーズが退学した事、知っていたの?」

 小声で訊かれると、玲太郎は頷いた。

「魔力がなくなったって本当?」

「そうみたい」

 頷くいて小声でそう言うと、前を向き点呼している颯を見詰めた。そんな玲太郎を見ていたヌトは眉をしかめた。

「玲太郎はわしが思うておるよりも颯の事が好きなのであろうな」

 唐突にそう言われた玲太郎は顔を紅潮させた。

「耳まで赤くなっておるが、大丈夫であるか?」

 視線だけヌトに向けた。

「これは意外な事を知ってしまったわ」

 玲太郎は慌てて手帳と繰り出し式鉛筆を上着の衣嚢から取り出して何かを書いた。

「好きという言葉を人に対して使う事が恥ずかしい、とな? 成程……」

 更に何かを書き始めると、ヌトがそれを覗き込んだ。

「口に出すな? 解った。以後気を付けようぞ」

 手帳を閉じて、繰り出し式鉛筆から出ている芯を中に入れ、両方を衣嚢に入れた。ヌトは何やら独り言を呟きながら背嚢の上に行き、颯の方を向いて座った。玲太郎はヌトが何を言っていたのか、全く聞き取れずに些か気になった。


 一時限目はサーディア語で移動しなくてはならない為、颯は連絡帳を回収すると職員室へ向かった。連絡帳は素朴な質問や一日の感想を書き、毎日提出する事となっていた。玲太郎は食事中や食後、それと入浴中に大抵の事を話してしまい、書く事がなくてヌトと話したたわいない遣り取りを書いていた。

 月組はサーディア語だが、玲太郎の一時限目は空き時間で医務室へ向かった。そして医務室の扉を二度叩く。静かに扉を開けると、明良は書類に視線を落としたままで玲太郎を見る事もなかった。中に入って扉を閉めると明良の方を向く。

「あーちゃん、おはよう」

「いらっしゃい」

 返事は直ぐにしてくれたが、余所余所しい態度で顔を見ようとはしなかった。玲太郎は背嚢を机に置き、明良の傍へ行く。そこでようやく明良が玲太郎を一瞥したが、目が合う事はなかった。明良には珍しく、烏羽色の物を身に着けていなかったし、耳飾りもしていなかった。

「おはようの抱っこはないの?」

 明良はやや俯き加減になる。

「……遣ってもよいの?」

「うん。毎日やってるでしょ?」

「だって昨日は私の事を拒絶したじゃない」

 目を玲太郎とは反対の位置に逸らせてそう言うと、玲太郎は苦笑するしかなかった。

「拒絶じゃないでしょ? 自習中に一杯話してたから、あーちゃんと話すより勉強をと思っただけなのよ」

 明良は躊躇していて、玲太郎は些か焦れた。そして両手を広げる。

「あーちゃん、抱っこ」

 明良は反射的に立ち上がって玲太郎を抱き上げた。

「よしよし。もう拗ねないでね」

 そう言いながら明良の頭を撫でた。今日も綺麗に三つ編みをしている。明良は玲太郎を強く抱き締めると玲太郎の肩に額を当てた。

「もしかしてまた眠ってないの?」

「とても辛くて眠られなかった……」

「それじゃあもう大丈夫だから、今日は良く眠られるね」

「……うん」

 椅子が明良の方に向き、そのまま座る。

しばらくこうしていてもよい?」

「うん、構わないよ」

 明良は玲太郎を約十分抱き締めていたが、玲太郎は何も言わなかった。十分では満足出来る訳もなかったが、昨日の事もあって明良は玲太郎を下ろした。

「有難う」

 玲太郎は笑顔で頷いた。

「それじゃあ勉強するね」

「玲太郎、これ」

 明良は机に置いてあった帳面を玲太郎に差し出した。玲太郎はそれを受け取ると中身を確認する。

「ありがとう。今日は地理の復習をしようと思ってたんだけど、丁度良かったのよ」

「眠られなかったから、算術と和伍語も一冊ずつ作ってあるよ。それ以外にも作ったけれど、置いて来たからまた持って来るね」

「本当? 嬉しい。ありがとう」

 玲太郎が笑顔で言うと、ここで漸く視線を合わせた。

「どう致しまして」

 豪華な花が優美に咲き誇っているような雰囲気で帳面二冊を渡した。

(僕以外に対してもこういう表情をすればよいのに……)

 三冊の帳面を持って着席すると、背嚢から鉛筆入れを取り出した。

「あ、そうだった。忘れる所だった」

 立ち上がると上着の衣嚢から紙を取り出し、明良の執務机に置いた。

「耳飾りの図案を描いて来たから、また作って着けてね」

「有難う。凄く嬉しいよ」

 畳まれた紙を開くと見入っていた。玲太郎はまた着席をすると貰った地理の帳面を開いた。

「これは七宝紋だね」

「うん。ヌトが四つくっ付いておれば和伍語の『幸せ』になるなって言うから四つにしたんだけど、ダメだった?」

「駄目ではないよ。有難う。早速作るね。此処ここはあの色にして、……とすると、この中は何色にすればよいのだろう」

 嬉しそうに図案を眺めている。玲太郎はそれを見て安心すると、机に向いて明良がくれた地理の帳面の問題を解き始めた。意外と忘れていて、途中までだが四分の三程しか埋められなかった。

「何も見ないでやると結構忘れてる事に気付かされるね」

 一時限目が終わるまでまだ七分はあったが、集中力が切れてしまった事もあって、帳面と鉛筆入れを背嚢に入れた。明良は書類を書く事に集中していて玲太郎の声が耳に届いていなかった。

「そうであろう。颯も忘れておる事を書き出して、何度も繰り返し書いておったわ」

 ヌトが寝転んだまま言うと、玲太郎は軽く二度頷いた。

「あーちゃんは仕事に集中してるみたいだね。静かにしてようか」

「次の授業は何よ?」

「次は呪術だよ。教科書を見て呪文は覚えてるから後は実際にやるだけなんだけど、上手く出来るだろうか? やっぱり呪文は唱えない方がよいのだろうか?」

「呪術とな。それは楽しみよな。ま、玲太郎の事であるから呪文は唱えずとも出来るであろうて」

 ヌトはそう言うと飛んで背嚢のかぶせに座った。一人と一体はそのまま無言になり、一時限目終了の鐘が鳴ると机に書置きを残して医務室を後にした。


 四階に呪術室があるが今日はそこではなく、二階の南棟にある担当教師の教室へと向かった。南棟の教室は北棟と違って北側に教壇があり、南側が後ろとなるが北棟の教室より狭い。後ろには準備室と繋がっている扉がある。

 どうやら玲太郎が一番乗りのようで、黒板には「好きな席にどうぞ」と書かれていたが窓際の一番前に着席した。机には既に草の葉をかたどった意匠が刻まれた木片が十枚配られていた。玲太郎はそれを端に避けると中央に背嚢を置き、教科書と帳面と鉛筆入れを出して、机の左側にある鉤に背嚢の持ち手を引っ掛けた。

 それから疎らに生徒が入室し、二時限目開始の鐘が鳴って少しすると教師が準備室から入室した。教壇の演台に行くと、教科書と帳面を置く。小豆色の髪に山吹色の目で肌は白く、眉目秀麗で一見すると明良と同年代に見えた。玲太郎は教師の腹の辺りから魔力が漏れている事に気付き、思わずヌトを見るが、ヌトは机に寝転んで目を閉じていた。

「初めまして。呪術を担当するニーティ・ルニリナです。ニーティは古代サーディア語で多才という意味ですが、そこまで才能はありません。三学年の担任補助、男子寮では三学年の班長をしています。どうぞ宜しくお願いします。魔力を使う授業の度に言われていると思いますが、心して聴いて下さい」

 好青年と印象付けるには絶好の声色でそう前置きをしてから定型句を口述した。

「最後になりますが、最近は暴走する子が増えています。暴走した結果、魔力が空になって死んでしまう事もありますので、十分に気を付けて下さい。それでは出席を取って行きますね」

 生徒が一斉に返事をすると、その元気の良さにルニリナは笑顔になった。出席を取り終えると授業が始まる。

「それでは授業を始めます。先ずは机に置いてあった木片を見て下さい。楕円の両端が尖った形状の模様が彫られていますが、これは授業で使っているという証です。売り物にならないという意味でもあります。呪術を使えるようになると、お小遣い稼ぎで呪術を使った物を売る子が必ずいるのですが、授業で作った物を売る事は違法になります。呪術を使った物を売っても構いませんが、その場合は、必ず材料を自分で用意するようにして下さい。よいですか? 呉々も材料は自分で用意して下さいね。そして自分ではなく、他の人に呪術を掛けて貰った物を無断で売るという行為も違法です。必ず自分で呪術を掛けるようにして下さいね」

 生徒の返事は疎らだった。ルニリナはまた同じ事を繰り返し言うと、今度は生徒が元気に返事をして次に進んだ。教科書を開き、護符作りが始まった。

「先程、サーディア語の単語を習って来たと思います。それを使って護符を作ります。簡単に言うとお守りですね。『元気であれボーウ・サッディ』という呪文で健康でいられるお守りが作れます。この呪文ですと、効果は精々半年といった所です。呪術を掛けるコツとしては、この木片の周りを魔力で覆ってから、木片の中に魔力を染み込ませる、といった感じでしょうか。物を浮かせるコツと似た感じですね。木片が十枚ありますので全てに、元気でいられるようにと気持ちを籠めて呪術を掛けて下さい。一度呪術を掛けた物の上に、更に呪術を掛けてしまうと、後から掛けた呪術が残り、先に掛けた呪術は消えてしまいます。…という訳で、よい具合に呪術が掛かっている上に不十分な呪術を掛けると、程度の低い物になってしまいますので、呉々も気を付けて下さいね。一応言っておきますが、こうして重ねて呪術を掛けられる物と掛けられない物がありますが、この木片は重ね掛けが出来る物となっています。それでは、十枚全部に呪術を掛けたら私が確認をしますので、教壇の台の方に教科書と一緒に木片を持って来て下さいね。それでは始めて下さい」

 言い終わると「ボーウ・サッディ」と呪文を唱える声が一斉に上がった。玲太郎は木片を手に取り、思案をしていた。するとルニリナが玲太郎のもとへ遣って来た。

「ウィシュヘンド君ですね? 入学式の挨拶、とても立派でしたよ」

 そう声を掛けられて顔を上げると、腰を屈めて近い所にあったルニリナの山吹色の目が玲太郎の目を惹いた。ルニリナも玲太郎の烏羽色の目を見詰めたが、それは本人の意思を反しての事だった。とても深くて濃い紫色の、ほぼ黒と言ってよい程の濃い目に魅入られたかのように何かが吸い込まれて行った。思考が停止し、魂までもが吸い込まれてしまったような錯覚に陥っていたルニリナが我に返ると、漸く玲太郎から目を逸らす事が出来た。逸らした先には、立ってルニリナを見ていたヌトがいて目が合った。

「久しいな。今、魔力量がかなり跳ね上がったようであるが、玲太郎に何を遣られたのよ?」

 ヌトは険しい表情でルニリナを見ていたが、ルニリナは些か呆気に取られているような表情で、何も答えなかった。しかし、直ぐに立て直して玲太郎を見た。

「イノウエ先生から呪文は唱えなさせないようにと伺っていますので、呪文は口で唱えずに、心の中で唱えてみて下さい。それで上手く行かない場合は呼ぶか、私の所へ来て下さいね」

「分かりました。ありがとうございます」

 お互い平静を装っていたが、玲太郎もまた奇妙な感覚に襲われていた。ルニリナは通路を歩いて、他の生徒の様子を見始めた。玲太郎はヌトに視線を移して、衣嚢から手帳と操出鉛筆を取り出すと「知り合い?」と書き、ヌトが頷くと「魔力量が上がったってどういう事?」と書いた。

「どういう事も何も、言葉通りよ。膨れ上がりおったのよ。玲太郎は一体何を遣ったのよ?」

 そういうヌトを暫く見詰めていたが、また鉛筆を走らせた。「何もやってないけど、そんな事ってあるの?」と書かれ、それを見たヌトは大きく頷いた。

「今あったぞ。わしも初めての事で驚愕したわ。漏れておった魔力が止まっておるから、玲太郎が確実に何かを遣ったに決まっておろうがな」

 そう大真面目に言うヌトに苦笑してしまうと、手帳を閉じて、繰り出し鉛筆を置いた。代わりに木片を手にして心の中で呪文を唱えた。

「あの子はわし等が見えるのよ。従って印を入れたのであるがな」

 ヌトが語り出し、玲太郎は手を止めた。

「目族はわし等が見える子が割と生まれ易いからな、目族の居住地へ定期的に訪れておるのよ。あの子も割と生きておる筈ぞ。ま、灰色の子に比べれば短いがな。それにしても何があったのよ? 不意の事に信じられぬ思いであるが、現実の事であるから信じるしかあるまいが……」

 そこから先はヌトの声が小さくて聞き取れなくなり、呪術を再開するしかなかった。


 玲太郎は物を浮かす骨という物が理解出来ず、説明されていた事を想像しながら呪術を掛けた。十枚の中で、上手く出来たと思える物は僅か一枚だった。出来ていないと思えた九枚に再度呪術を掛け、それを繰り返して十枚遣り切ると教科書に木片を載せて立ち上がったが、既に何人もの列が出来ていて、玲太郎もそれに並んだ。

 漸く順番が来て、ルニリナは木片を一枚ずつ確認すると玲太郎が持っていていた教科書を開いて紙を捲り、演台に置かれていた判子を手にすると、開いている一面に押印し、紙を捲って次の項目へと移した。

「大変良く出来ています。これ以上の物は出来ないですね。これだと効果が五年は持つでしょう。ですので、次はこれに挑戦して下さい」

 そう言って玲太郎が呪術を籠めた木片を消し、新たに木片を顕現させた。

「『幸せであれザワーウ・サッディ』ですね。幸せが訪れるように気持ちを籠めて呪術を掛けます。持っていると小さな幸せが訪れます。また出来上がったら、こちらに持って来て下さいね」

 そう言うとヌトを一瞥してから新たな木片を十枚渡し、受け取った玲太郎は席に戻った。ヌトはまた机に寝転んで目を閉じていた。玲太郎もヌトを見てから教科書を捲って押された判子を見る。そこにはサーディア語で『完了』と書かれていた。

(呪術は僕に合ってるのかも。植物育てに通ずる物があって、とてもやり易い)

 上機嫌になった玲太郎は、先程と同じ手順で十枚全部に呪術を掛けた。そしてまた列に並び、順番が来てルニリナが木片を確認する。

「はい、これも大変良く出来ていますね。ウィシュヘンド君はこの程度だと容易に出来て物足りないでしょうか?」

「基礎をきちんとやる事が大切だと教わって来たので、物足りないとは感じません」

「模範解答ですね。解りました。それでは順にして行きましょう」

 笑顔でそう言うと木片を消し、また新たに顕現させた。そして教科書に判子を押して紙を捲り、次の項目へと移る。

「次は『災いは去れタッナイ・ロダ』ですね。悪い事が起こらないようにする呪術です。平穏である事を思い描きながら呪術を掛けて下さい。また出来上がったらこちらに持って来て下さいね」

 そう言われ、玲太郎は席へ戻った。すると寝転んでいたヌトが上体を起こしていた。

「玲太郎、次は試しに呪文を唱えてみぬか?」

「えっ」

 思わず声が漏れると即座に手で口を覆った。

「呪文を唱えた時、呪術に掛けられた物がどうなるのかを見てみたいのよ。駄目か?」

 それは玲太郎自身も大いに興味があって、その誘惑に負けた。玲太郎は木片を両手で持って目を閉じた。

災いは去れタッナイ・ロダ

 言い終わった途端に教室内に一瞬強風が吹き荒び、あちらこちらで悲鳴が上がった。そして強風が吹いたにも拘らず、机に置かれていた物は静止したまま、髪も何も全く乱れてはいなかった。教室内が騒然となり、ルニリナが慌てて玲太郎の下へ遣って来た。玲太郎の手を取り、目を覗き込んだ。そして安堵する。

「今の風はウィシュヘンド君の呪術のようです。もしかして呪文を唱えましたか?」

 玲太郎も真っ直ぐルニリナを見ている。

「はい。木片がどうなるのか気になって唱えてしまいました」

「そうですか。とても大変な事になっていますが、いずれはそうなる事なのですので気になさらないように」

 なんの事を言っているのか、玲太郎には全く理解出来なかったが、取り敢えず頷いた。ルニリナは玲太郎の手を離すと木片を一枚顕現させたが、玲太郎はそれに気付かなかった。

「はい、静かに。大丈夫ですのでね。続きを始めて下さいね。静かにー。大丈夫ですので、続きをして下さいね」

 ルニリナはそう大声で言いながら教壇へ移動した。ヌトは小刻みに震えながら、手で口を押さえていた。そんなヌトに気付いた玲太郎は、ヌトの腹をつついた。

「ふーっ、済まぬ。ああなるとは思いもよらなんだわ。許せ。…それにしても木片が跡形もなく消えるとは驚愕よな。しかも、あの奇妙な対精霊が何体か消えたぞ」

「えっ」

 また思わず声が漏れると口を結んだ。

「きっとあの奇妙な対精霊共は玲太郎の思う災いであったのであろうて」

 それを聞いて繰り出し鉛筆を持つと手帳を開いた。ヌトが覗き込む。「木片が消えたっていつ? 十枚あるけど?」と書く。

「あの木片が跡形もなく消えたのは、玲太郎の呪術に耐え兼ねての事よ。ま、木片がそれだけ脆かったとも言えるがな。耐えていた間の木片のまじないで周りの災いが吹き飛んで風が起こった。経緯はこうであると思うがな。木片は一枚足りておらぬ事に気付いたあの子が足して行きおったのよ。それ程度の事に気付けぬでどうする」

 最後の小言に玲太郎が無表情になると「呪文はもうなしね」と書いて繰り出し鉛筆を置いた。それを見たヌトはまた机に寝転んだ。玲太郎はヌトを一瞥してから木片を持ち、一枚ずつ丁寧に呪術を掛けた。結局、玲太郎は平癒を願う呪術も物にしてしまい、一時限だけで四項目を達成してしまった。

 ルニリナは授業が終わる十分前に呪術の使用を禁じ、各生徒の木片を見て回る事に時間を費やした。玲太郎は五項目目の集中力増加に挑戦していた所で、木片三枚が出来上がっている程度だった。玲太郎の番が来て、ルニリナは三枚の木片を見て教科書に判子を押した。

「三枚しか出来ていませんが大変良く出来ています。全てやらなくても実力はもう理解していますので、これで完了にしておきますね。それと大変申し訳ないのですが、授業が終わった後、少し残って貰えますか?」

 玲太郎はルニリナを見て頷く。

「分かりました」

 それを聞いて穏やかに微笑んだルニリナは木片を消すと教壇に向かった。

「まだ始めたばかりなので、呪術がどのような物なのか、解らない人が多いと思いますが、簡単に言うと、よい事を願った物はお呪いですが、悪い事を願った物はのろいとなります。学校では呪いは教えません。そもそも教える学校がありません。それでも呪いを求める人がいるにはいますので、そちらに興味のある方は卒業後に教えてくれる人を探すとよいでしょう。学校に通っている間に教えてくれる人を見付けて習ってしまうと、退学処分となりますので気を付けて下さいね」

 そこまで言うと、二時限目終了の鐘が鳴った。

「それでは次の教室へ移動して下さい」

 生徒は立ち上がって教室を後にした。玲太郎は一人残り、誰もいなくなると背嚢を背負って演台の前に行った。ルニリナは玲太郎を見ると笑顔になった。

「ウィシュヘンド君は呪術と相性がとてもよいようですね。今日の物はどれも五年は持つ最高の物が出来ていました。このまま行くと、一年で習う事を二ヶ月も掛からずに習い終えてしまいますがどうしますか? 私は一学年の分はもうよいと思うので、二学年で習う事を学ぶ事をお勧めしますが、そうしてみませんか?」

「教科書はもう見てるんですけど、二学年も一学年と大差がないように思うんです……」

「木片がもう少し頑丈な物になるのですよ。同じ内容の呪術でも、その分だけ強力になります。ウィシュヘンド君なら、それも軽々と達成してしまいそうですけど、それもしてみて、更に上の学年の呪術を習うかどうか、その時に考えましょうか」

「そんな事よりも、お主は玲太郎に何をされたのか、解っておるのか?」

 ルニリナは声のする方を見て、机に立っているヌトと目を合わせた。

「ヌト様、お久し振りです。何かをされたと言うよりも、ウィシュヘンド君と目が合った時、強烈な吸引力で魂まで吸われたような錯覚に陥りました。それで私の魔力量が増えたように思います」

「増えた所の話ではないのであるがな。量はわし等と同等、質も最高になっておろうが。玲太郎に何をされたのよ?」

「ただ見詰め合っただけです。それだけです」

 怪訝な表情のヌトは玲太郎の方を見る。

「玲太郎は己が何をしたのか解っておるのか?」

 玲太郎は俯いてヌトを見ると、少し首を傾げた。

「分からない。先生と目が合ったら、なんて言うか、この人は大丈夫っていう風に思えてね、なんて言うの? 緊張感が解けたような感じになって、それで少し放心してたと思う」

「意識して遣った訳ではないのであるな。ふむ……。しかし、わし等と同等の魔力を持った者が、こうも簡単に生まれるとは甚だ恐ろしい事よ……」

 ルニリナはヌトから玲太郎に視線を移した。

「話は変わりますが、実は閣下とは面識がありましてね、ウィシュヘンド君の存在は産まれる以前から知っていました。それで興味がありまして、閣下にお願いをして、ここにいるのですよ」

 玲太郎は目を丸くした。

「産まれる前から知ってるって、どういう事ですか?」

「私は目族なのですが、目族は占術を生業としています。世界的にも有名な程です。閣下はその占術のお客様なのですよ。長い間通われていると伝えられています。私が占術師として独り立ちした頃、閣下がお客様として来られて、その時に閣下に取って特別な子が誕生する場所や年が判明したのです。以前からその存在はご存じだったようですが、明確に告げられた事はなかったのだそうです。そういう経緯いきさつから、ウィシュヘンド君が産まれる事は判っていたのですよ」

「占術師って、先生は呪術師じゃないんですか?」

 玲太郎は思わず気になった事を訊いた。ルニリナは笑顔になる。

「呪術は目族の得意とする分野ですのでね、呪術師でもあります。勿論、呪いも扱いますので、興味がおありでしたら、卒業後にお教えしますよ」

「玲太郎に呪いは必要あるまいて」

 会話に入ってきたヌトを見た玲太郎は苦笑する。

「呪いは怖いから、遠慮しておきます」

「呪いを知っておけば、それを解呪する事も容易になりますけどね」

「玲太郎ならば、内容を知らずとも容易に解呪してしまうであろうよ」

 玲太郎は過大評価をされているように感じてまた苦笑した。

「話がまた逸脱しました。どういう風に授業を進めて行くか、もう少し話し合いましょうか。夕食後の自由時間の間に、寮にある私の部屋にお越し頂いても宜しいですか? 三階の北棟にある班長室が私の部屋です」

「ヌトも一緒ですが、よいですか?」

「はい、構いません。寧ろ大歓迎です」

 満面の笑みを浮かべて言うと、玲太郎も釣られて笑顔になった。

「それじゃあ、今日の夕食後に行きます」

「はい。お待ちしていますね。それでは次の教室へ移動して下さい」

「はい、ありがとうございます。失礼します」

 玲太郎は辞儀をすると退室した。ルニリナはそれを見送ると笑顔で小さく三度頷いた。


 三時限目、四時限目を終えて間食時間となり、一学年月組の教室で時間を潰しているとバハールが遣って来た。バハールも自分の席に座ると、机に荷物を置いて深く息を吐いた。

「呪術の授業、何をやったの?」

 玲太郎は横に居直って、顔をバハールの方に向けた。

「何って、災いを遠退ける呪術をかけたら、思いの外魔力が多くなって、効果が周りに広がったみたい。それで災いが消し飛んでああなったんだって」

「ポダギルグは凄いね。もうそこまで進んでいたんだ。それにしても風が吹いたのに、髪がなびいた感じがしなかったし、本の紙もめくれてなかったんだよね。変な体験をしたよ」

「僕も何が起こったのか、理解が出来なかったのよ。そうしたら先生が来て、何かを言ってくれたんだけど、それも理解が出来なかったね」

「あはは。きっと混乱していたんだね」

「あ、そうだ。物を浮かせる時のコツと呪術をかけるコツが似てるって先生が言ってたけど、あれってどうなの? 似てるの?」

「物の周りを魔力で覆うという事が同じなんじゃない? 浮かす場合は外側に、呪術の場合は内側に魔力操作をするから似ていると表現したんじゃないの?」

「なるほどぉ。僕はまだ物を浮かせる事が出来ないから、今一分からないんだよね。でも呪術は植物を育てる時と気持ちの籠め方が似てるからやり易いんだけどね。先生にはこれだと五年は持ちますって言われたのよ」

「そうなんだ。五年は凄いね。……それにしても気持ちのこめ方か。僕は呪術が上手く行かなくて、先生に、君の魔力ならもっとよい物が出来ますよと言われたよ。周りも似たような事を言われていたね」

「へぇ、ディッチは周りにも気が配れてて凄いね。僕なんか自分の事で一杯一杯だったのよ」

「上手く出来なくて、集中出来ていなかっただけなんだけどね」

 そう言って苦笑すると、玲太郎がそんなバハールを見た。

「集中力を増す呪術を習って出来るようになったから、何かにかけてみようか? 集中力が増すかもね?」

 バハールの表情が明るくなった。

「本当に? それではお願いしよう」

 そう言いながら机に置いてある手提げ袋の中から鉛筆入れを出して来て、その中にあった万年筆を取り出すと、玲太郎に差し出した。

「これにお願いしても構わない?」

「え、これって、これって結構よい物ではないの?」

 玲太郎は焦った。バハールは平然としている。

「これは兄上からの贈り物なんだ。入学祝だね」

「それだったら、もう少し上の呪文を習ってからにしようよ。下級の呪文では勿体ないよ?」

「重ねがけが出来るから大丈夫なのでは。一度切りではないと先生もおっしゃっていたからね」

 玲太郎は焦って首を横に振った。

「金属は一度限りだよ? 木や草花や紙なんかは何度も出来るから下級の呪文でもよいけど、金属や宝石は一度限りだから、何かの本に「最上級の呪文でやるのがよい」って書いてあったのよ」

「えっ!? そうなの?」

「だから鉛筆なら外側の木にかけられるからよいけど、万年筆にかけるのは勿体ないのよ。僕も完璧にかけられる訳じゃないから、失敗しても困るしね」

 それを聞いて鉛筆入れに入れると、今度は鉛筆を出して来た。

「それではこれで……」

 玲太郎は頷いて受け取ると呪術を掛けた。一度では上手く行かなかった事もあって、納得出来るまで掛け続けた。

「はい、出来た」

「ありがとう。ここぞという時に使うね」

 差し出された鉛筆を受け取って玲太郎に笑顔を向けると、玲太郎も微笑んだ。

「でもどの鉛筆か、分かるの?」

「今の所、これが一番長い鉛筆だからね。念の為に後で印を付けておくよ」

 そう言いながら鉛筆入れを手提げ袋に入れた。すると拡音器から木琴の音が聞こえたと思ったら、聞き慣れた声が聞こえてくる。

「間食中に失礼します。名前を呼ばれた者は掃除前に職員室のイノウエの所まで来て下さい。それでは名前を呼びます。一学年月組のホボーア・ネズル・ロジコ、ミャーキ・ヤンカプジャ、メニジュ・シシニー・ケンクシブ、クイカ・テッサ・ニベータ、ラナイ・ルメグル、以上五名は必ず掃除前に職員室のイノウエの所まで来るように。繰り返します。一学年月組のホボーア・ネズル・ロジコ、ミャーキ・ヤンカプジャ、メニジュ・シシニー・ケンクシブ、クイカ・テッサ・ニベータ、ラナイ・ルメグル、以上五名は必ず掃除前に職員室のイノウエの所まで来て下さい。失礼しました」

 また木琴の音が聞こえて、終了したようだった。

「なんだろう?」

 玲太郎が拡音器を見ながら言った。

「何かあったのだろうか?」

「まだ名前と顔が一致しないから、誰が誰だか、全く分からないのよ……」

「それは僕もだよ。分かるのはヤンカプジャとロジコくらいだね」

「二人も分かれば十分なのよ」

「ヤンカプジャは挨拶したと嘘を吐いた子で、ロジコはユリネージのイトコだよ。ロジコはユリネージと一緒にいる事が多くて、悪目立ちしていたからね。ユリネージを止めようとしていたけど、本気で止めようとはしていなかったから余計目立っていたよ」

「そうなんだ。知らなかったのよ」

「寮の廊下で獲物を物色していたから一学年では有名だよ。はっきり言って、いなくなって清々したよ。もう一人いたはずだけど、その子も親戚という話だったよ。僕も初日に名前を言えと言われたんだけど、僕は無視をしたよ。それで僕の寮の部屋が首席の部屋だと知ると、何も言って来なくなった」

「ふうん、そうなんだ。ユリネージ君は本当にダメな子だったんだね」

「これから先、ああいう人間とまた出会うのかと思うと、気が重くなるね」

「そうだね……」

 話題が暗くなったように、二人もまた暗くなった。そこで教室の扉が徐に開き、颯が顔を出した。

「玲太郎、少しいいか」

「うん」

 玲太郎は立ち上がると颯の下に小走りで向かった。ヌトは机に寝転んでいて付いて行かなかった。颯は近くに来た玲太郎の肩を掴むと廊下に誘導して閉扉した。そして、屈んで玲太郎と目線を近付ける。

「ルニリナ先生から呪術の授業の事を聞いたけど、呪文を唱えたんだって?」

「うん。どうなるのか、試してみたかったのよ」

「唱えるなって言ったよな? どうして守れなかったんだ?」

「好奇心の方が勝ったから」

 素直に白状して微笑んだ。颯は眉を寄せる。

「今度は数人の対精霊が消滅して魔力がなくなっただけで済んでいるけど、怪我を負わすような事になっていたら、どうする積りだったんだ?」

 颯が怖い顔をしても平然としていたが、これには途端に萎れた。

「そこまで考えてなかったのよ。ごめんなさい」

「謝罪で済まない問題が起きないで良かったと思えよ? どうしても呪文を唱えたいのなら、屋敷へ戻った時に北の畑で遣るしかないぞ?」

「分かった。呪文は北の畑でやる」

「その時は必ず水伯か兄貴が一緒じゃないと駄目だからな? ヌトだけの時は駄目だぞ?」

「分かった。ヌトだけの時はやらない。本当にごめんなさい」

 颯は右手の小指を立てて玲太郎の前に持って行くと、玲太郎もそうして颯の小指を自分の小指で握った。そうすると颯が握り返し、上下に揺らす。

「約束な」

「うん、約束」

「破ったら常に抱っこだから」

「破らないから平気」

 颯はそれを聞いて鼻で笑うと、指を離して玲太郎の肩に手を置いた。

「数人の対精霊が消滅して魔力がなくなったと言ったけど、玲太郎が厄除けをした結果だから気に病むなよ? 対精霊が悪い物だったというだけの話だからな」

 微笑んでそう言い、肩を優しく二度叩いて立ち上がった。

「それじゃあ、王弟殿下と仲良くな」

 そう言い残して南棟の方に向いて歩いて行った。玲太郎は教室に戻り、少ししてからバハールと一緒に食堂へ向かった。


 食後、掃除も終わると他の生徒は寮の掃除に向かったが、玲太郎は本来なら空き時間の為、医務室へと向かった。扉を叩いてから開けると、明良が玲太郎の方へ歩いて来ていた。

「先程はご免ね。集中していて全く気付かなかったよ」

 そう言いながら玲太郎を抱き締めるとそのまま抱き上げた。

(いつものあーちゃんだ。良かった)

 玲太郎は思わず笑顔になった。

「何か嬉しい事でもあった?」

 その笑顔を見た明良が不思議に思って訊いた。

「ううん、逆に大変な事があったのよ」

「え? 何があったの? 若しかして魔力量が増加した人と関係があるの?」

 机の方に歩きながら訊くと、玲太郎は首を横に振った。

「災いは去れっていう呪術の呪文を唱えたら、対精霊が何体か消えて、呪術を掛けた木片も消えてね、それで風が吹いて、教室内がざわついたのよ」

 玲太郎を椅子の傍で下ろすと、背嚢を玲太郎から下ろして机に置いた。

「ああ、其方そちらね。颯から聞いたよ。対精霊が消えたという子は、先程、校内伝達で名前を呼ばれていた子達だろう? これから魔力測定だと颯が言っていたよ。また退学者が出るね」

 そう言って自分の椅子に腰を掛けた。玲太郎は気落ちした。

「僕のせいで対精霊が消えたなんて、悪い事をしちゃったなぁ……」

「玲太郎が落ち込む事はないだろう? 災いだったから消えたのだから、逆に感謝されなければね」

 玲太郎は思わず眉を顰めた。

「ええ? それはないでしょ? 魔術が使えなくなっちゃうんだよ?」

「それで生き延びられるのだから、魔術が使えなくなる事なんて些細な事だと思うけれどね」

 明良が穏やかな表情でそう言い切ると、玲太郎は複雑な気持ちになった。

「でも……、はーちゃんにも厄除けをした結果だから気に病むなって言われたけど、やっぱり気になるのよ」

「その消えた対精霊は、謂わば呪いだからね。それを解呪したのだと思えばよいのでは? 玲太郎が幾ら悔やんでも元には戻らないから、切り替えて行かないとね。実際悪い物で悔やむ必要もないのだからね」

 明良に笑顔を向けられても、明るい気持ちに離れなかった。

「うん……」

 玲太郎は椅子を引いて座ると、既に机に寝転んでいるヌトが目に付いた。それで自然と気持ちが切り替わる。

「そうだった。魔力が上がった人はね、ルニリナ先生で、僕と目が合ったら魔力量が増えたように思いますって感じの事を言ってたよ? 先生の目は少し濃い黄色だったのよ」

 明良の眉が微動した。

「目が合ったら魔力量が増えた……ね」

 玲太郎は明良の方に顔を向ける。

「うん、なんか引っ張られた感じって言ってた。僕はね、先生の目を見ている内に、なんて言うの、……安心感だろうか? それに包まれたような感じがしたのよ。父上やあーちゃんやはーちゃんやヌトと一緒にいる時みたいなね。それでこの人は大丈夫って思えたのよ。それとね、今の呪術の授業は僕にとっては簡単だろうから、授業をどう進めて行くか、話し合いをしようってなって、今日の夕食後に先生の所に行く事になってるのよ。今日だけで、五つも呪文が使えるようになったのよ。凄くない?」

「それは凄いね。遣ってみてどうだったの? 簡単に思えた?」

「簡単って言うか、植物を育てる時に似ててやり易かったのよ」

「呪術は遣り易いのだね。……となると、やはり付与術と魔術の自身の浮遊と物の浮遊が障害になって来るね」

 玲太郎は眉を顰めた。

「うん? 付与術が障害になるってどういう事?」

「付与術はね、魔石作りから遣るのだけれど、小型からなのだよね」

「小型! ああ……、それじゃあ難しいね」

「そうだろう? 普通は小型から段々と大きくして行くからね。玲太郎は特大から段々と小さくして行くから、正反対だものね」

 玲太郎は頬杖を突いて明良を見ていたが、ある考えに至った。

「今日はね、小さな木片に魔力を籠めたけど、壊れたのは一度だけで、それ以外は大丈夫だったから、小型の水晶でも魔石に出来るんじゃないの?」

 朗らかな笑顔でそう言うと、明良は少し困ったような表情をした。

「解り易く言うとね、呪術は物の外側から掛けるのだけれど、付与術は物の中から魔力を注ぐのだよね。外側から掛けるから魔力が多くても割と壊れないのだけれど、中に魔力を注ぐと物の容量という限界があって、その限界を超えると壊れるのだよね。木片に籠めた魔力量を思い出してみて。それが小型の水晶に収まり切ると思う?」

 玲太郎は伏し目になって暫く黙った。

「言われてみれば、特大型の水晶が壊れるくらいは使ったかも……」

 項垂れて言った。

「呪文を唱えた時はどれ程使ったの?」

「えっとねぇ……」

 答えようとして明良の方を見た。

「あれ? 呪文を唱えた事、言った?」

「颯から聞いた」

 玲太郎は明良から顔を背けた。

「もう、はーちゃんってば、なんでもすぐに言うんだから……」

 小声で言うと、明良が微笑んだ。

「何があったのかを聞いておけば、次に何かが起こった時に参考に出来るかも知れないだろう?」

 玲太郎はそう言われると何も言えなくなった。

「それで、呪文を唱えた時の使用した魔力量はどれ程なの?」

「うーん、……特大の魔石が三個分くらい? 最低でもそれくらいは使ったと思う。……分からないけど」

「それ程度で五体の対精霊を消滅させたのだね。成程、それはそれで凄いね……」

 呟くように言うと、明良は納得したようで机の方に体を向けた。玲太郎も机の方に向いて、背嚢から帳面だけを出し、今朝明良から貰った帳面の中から地理を選ぶと、それ以外を背嚢に戻した。


 六時限目は体育、しちはち時限目は魔術なのだが、今週は四時限目までなのでそのまま医務室で自習となった。ちなみに九時限目は空き時間で、これまた医務室で自習となる。

 玲太郎は適度に休憩を挟みながら、明良から貰った帳面で復習をした。地理は遣り終え、持って来ていた低学年の教科書で出来得る限りの答え合わせをした。

 休憩時間になると時折生徒が来訪した。医務室なのだから当然と言えば当然なのだが、下らない理由だった。時には女子が連れ立って来る事もあった。今度はそれで、負傷者と言うには余りにも粗末な傷に付き添いが五人もいて、明良がいつも通りに全員の学年と組と名前を聞き出していた。玲太郎はそれを聞きながら嫌気が差していた。

「それで傷というのは?」

 明良は無表情だったが口調は穏やかで、机の前にある丸椅子に座って顔を紅潮させていた女子生徒が左手を差し出した。

「中指の指先にあるささくれです」

「そのささくれをどうして欲しいのですか?」

「えっ……、切って欲しいんですけど……」

 困惑した表情で言うと、明良は聞こえよがしに大きく溜息を吐いた。

「ご自分で出来る筈ですが、私の手を煩わせる為に来たのですか?」

「でっ…、出来ていたら来ていません」

「貴女の周りにいるお友達が役立たず、という事なのでしょうか?」

 付き添いの女子生徒は一斉に顔を顰めた。患者を装っている生徒が更に顔を紅潮させる。

「どういう意味ですか?」

「利き手でささくれが切れないのでしたら、お友達に切って貰えば済む話でしょう? 態々わざわざ私の所へ来て、私に切れと言う事の方が正しいとでも? はさみをご所望ならば、技術を担当している教師の下へ行くのが賢明な判断だと思いますよ? 今度も一応処置はしておきますが、今後、本当に怪我を負った場合や病に侵された場合、治癒術、薬草術を担当している教師の下へ行くようにして下さいね」

 手を差し出していた女子生徒が指先を見ると、一つしかなかったささくれが根元から切れていた。

「自称怪我人の方も、付き添っている方々も、これで二度目ですので医務室の出入りを禁止とします。三度目はありません。私が校医をしている限り、医務室には入れませんので悪しからず。それではさようなら」

「えーっ、それは何!? ちょっとひどいんじゃないの!?」

 付き添いの一人が叫ぶともう一人が玲太郎を指で差した。

「そうよ、横暴よ! この子は大丈夫なのに、あたし達がだめなんてひいきじゃないの?」

 明良はその言葉よりも玲太郎を指を差した事に怒りを覚え、眉を寄せた。そう言った女子生徒を即座に睨み付けると俄に開扉し、女子生徒が一斉に宙に浮いて廊下に放り出されると閉扉した。締め出された腹いせか、廊下で何かを喚いていたが次第に声が小さくなり、聞き取る事は出来なかった。

「あーちゃん、今、指を差した子に何かをやったよね?」

 恐る恐る明良に訊いた。明良は満面の笑みを湛える。

「うん。許せなくて魔力こんを破壊した」

 玲太郎の方を見るとそう言って微笑んだ。玲太郎は不思議そうな顔をする。

「魔力こんって何?」

「魔力を生み出すとされている器官の事だね。本で読んだ事はない?」

「ない。それで、そこを破壊したらどうなるの?」

「魔術が使えなくなるね」

 玲太郎は顔を益々顰めた。

「えっ、生み出すとされているくらいなのに、壊すと魔術が使えなくなるの?」

「されていると言うだけで、実際は生み出しているからね」

「ええ……、それじゃあ今ので一人の未来を奪っちゃったの?」

「奪ってはいないよ。生きているのだからね。それでも怒りの余り、見境がなくなってしまったよ」

「だっ、ダメじゃない。そういう事をしたら、ダメだよぉ」

 困惑している玲太郎を見ながら、冷静さを取り戻した明良は頷いた。

「私の目の前で玲太郎を指で差す行為は自殺行為だという事が判ったね。彼女には魔力を消失しただけで済んで良かったと喜んで貰いたいね」

「いやいやいやいや、ないない。やり過ぎなのよ……」

 玲太郎はそう言いながら首を横に振った。

「頭に血が上っていたけれど、遣り過ぎたとは思えないね。あれでもぬるい方だよ」

 玲太郎は何も言えなくなって突っ伏した。

「玲太郎の敵になり得る物は徹底的に排除をする。それが私の使命だからね」

 明良は突っ伏している玲太郎を見て心配になって来た。

「若しかして……、若しかして今の出来事で私に対して嫌悪感を抱いてしまった?」

 玲太郎は上体を起こすと、悲しそうな表情をした明良を見た。

「あーちゃんはあーちゃんなんだなって思って……。嫌悪感は別にないのよ」

「そう。それならば良かった」

 安心したのか、満面の笑みを湛え、机に向かった。玲太郎はその横顔を見ていた。

(僕を守るのが使命かぁ……。うん、あーちゃんらしいよね……)

 苦笑すると玲太郎も机に向かい、寝転んで目を閉じているヌトを一瞥した。


 九時限目が終わり、明良は「休憩中」と書かれた札を扉に掛けると瞬間移動で屋敷に帰り、残された玲太郎は扉に鍵を掛けると寮へ向かった。向かう途中、校舎の裏口前で先程の六人が待ち構えていた。玲太郎の少し前を飛んでいたヌトが止まると、玲太郎も仕方なく止まった。

「ちょっとあんた! あんたのせいで医務室に行けなくなったじゃないのよ!」

 ささくれを怪我と言って診て貰っていた子が言った。玲太郎は無表情でその子を見た。

「そうよ。見えない何かがあって、医務室の前の廊下を歩く事すら出来なくなったのよ。どうしてくれるのよ」

 付き添いの内の一人も言った。食堂へ向かっている生徒がその声を気にして足を止め始めた。

「大体なんであんたが医務室にいるのよ? 邪魔なのよ!」

「本当にそうよ。アメイルグ先生と机を並べて、いい気になってるんじゃないの!?」

 明良に魔力を消失された子が玲太郎の下襟に付いている学年章を見た。

「あんた、一学年なのね。一学年の癖にアメイルグ先生と同じ部屋にいるなんてふざけてるの? そんな資格なんてないでしょ!」

 口々に難癖を付け始めると傍観者が更に増えた。玲太郎は無言で六人の後ろにいつの間にか来ていた颯を見ていた。颯もまた、玲太郎を見ていた。そして鼻で笑うと、その気配に気付いた一人が後ろを向いた。

「きゃっ」

 驚きの余りに声を上げた。五人はその子の視線に訝しんで、それぞれが振り返って愕然とした。颯は周りの生徒に視線を送っていた。

「止めもせず、野次馬になっていたお前等も虐めと同罪だからな。叱られたくなければさっさと食堂へ行けよ」

 周りを見回しながら声を張り上げて言うと一気に人が消えた。それに紛れて六人も去ろうとしたが、俄かに動けなくなる。

「あっ、足が動かない!」

「なんで? なんで?」

「あたしも動けない!」

「うそでしょー!?」

「やだっ、動け! 動け!」

やかましい! 黙れ!」

 颯の怒号が響くと、途端に静かになった。颯は玲太郎の隣に行って正面から六人を見た。六人は俯いていて、颯を見ようとはしなかった。

「俺が教師だという事は理解しているようだな。さて、これは虐めになるのだが、お前らの担任に報告をしなくてはならない。学年章を見る限りだと六学年だが、何組だ?」

 六人共が無言だった。

「な・に・ぐ・み・だ、と訊いている。答えろ」

「ほっ、星組です」

 唯一、終始口を閉じていた子が言った。

「颯、この子だけは玲太郎をそしっておらぬぞ」

「謗っていなければいいという問題ではないんだよな。これに参加している時点でお前も同罪だ」

 ヌトの言った事に声を出して答えた颯は、その子を見据えていた。その子はそう言われて思わず颯を見たが、直ぐにまた俯いた。

「さて、取り急ぎ、ウィシュヘンド君に対して謝罪をして貰おうか」

「ごっ、ごめんなさい」

 口を閉じていた子だけが小声で言った。

「謝罪は一人だけか。解った。この事も担任に伝えるとするか」

 颯は玲太郎の方を見ると、玲太郎の肩に手を置いた。

「ウィシュヘンド君はもう行っていいぞ。二度とこいつらと顔を合わせなくて済むようにしておく。それに許さなくていいからな」

 玲太郎は上目遣いで颯を見上げていたが、戸惑いながら頷いた。肩を優しく二度叩かれると、六人を避けて裏口から出て行った。そして小走りで寮長室へ戻り、靴を履き替えて、机に背嚢を置くと、傍にいたヌトをつついた。

「ああいうのは無視するんじゃなかったの?」

 怒り気味に言うと、ヌトが微笑んだ。

「何、ちと面白そうであったから、つい、な。許せ」

 浮いているヌトに顔を近付ける。

「許せ、じゃないでしょ! この事があーちゃんに知られたら、また魔力こんを壊して魔力を失くさせちゃうじゃない!」

 珍しく玲太郎が声を荒らげた。ヌトは動じる事なく、大きく頷いた。

「それは心配ないぞ」

 玲太郎が怪訝な表情をする。

「……どうして分かるの?」

「颯が遣ったからな」

 玲太郎は目を丸くした。

「えっ!? 本当?」

「あの謗らなんだ子以外は皆遣られておるわ。ああ、一人は明良が既に遣っておったな」

 玲太郎は気の抜けた表情をすると、ヌトは「くくっ」と笑った。

「笑い事じゃないのよ……」

 そう言いながら、椅子を引いて座った。

「明良の時は気付いたのに、颯の時は気付かなんだのか?」

「何が?」

「魔力根の破壊よ」

「ああ、あの時は見てたからか、なんとなく感覚で分かったんだけど、さっきはヌトの後ろ姿を見てて、その後ははーちゃんしか見てなくて、それ以外は見てなかったのよ」

「そうであったのか」

 ヌトは机に下り立つと、その場に胡坐あぐらを掻いた。

(見ておらねば認知が出来ぬという事か……。感知ではないようであるな)

 思案していると、玲太郎が大きく息を吸ったかと思えば、思い切り吐いた。

「はぁー……、ヌトはああいうのは無視するって言ってたのになぁ……」

 頬杖を突いてそう言った玲太郎は気怠そうな表情をしていた。

「次からはしかと素通りするから許せ」

「信用出来ない……」

 冷たい視線をヌトに送ると、ヌトは寝転んだ。

「解った。それでは次も同様に止まろうぞ」

「えっ、そんなぁ……。分かった、それじゃあヌトを置いて一人で立ち去るね」

 そう言ってヌトから顔を背けた。

「よいぞ。そうしようではないか。ま、次があれば、であるがな。あの六学年の子等は魔力がなくなって退学が決まり、見ておった子もおったからあの騒動と共に話が広がろうて。玲太郎の組は魔力を消失した子が多い事もあって、忌避される存在となるであろうな」

「…きひって何?」

「嫌って避けられる事よ。そうなれば楽しい学校生活が送れるという物よな。それにしても、あの謗っておらぬ子は一人取り残され、後ろ指を差されるのであろうな」

 そう言うと何度も頷いた。玲太郎はヌトを横目に見ていた。

「それにつけても、此度こたびの事は灰色の子に報せたい所よな」

「うん? あーちゃんじゃなくて?」

「明良は颯が報せるであろう? 医務室という言葉が出て来ているのであるからな。しかし、灰色の子には報せぬと思うのよ」

 玲太郎はヌトに顔を向けて近付けた。

「父上はきっと、僕を抱き締めて、よしよしってしてくれるだけだと思うよ?」

「それでは試しに灰色の子に言うてみては呉れぬか」

「それはダーメ」

何故なにゆえよ?」

「学校に行かなくてもよいねってなっちゃうからに決まってるでしょ」

「成程」

 ヌトは腕を組んだ。玲太郎は体勢を戻すとまた頬杖を突いて、目を閉じたヌトを見ていた。

「そうなる事も有り得るか。……うむ、有り得るな」

 そう呟いているヌトを尻目に、背嚢に入っている物を取り出し始めた。残りの授業は自分の組の授業と空き時間、十三時限目にサーディア語という事もあって、それまでは寮で自習を遣る事になっていた。明良から貰った帳面を見て、地理の教科書を取りに本棚へ向かった。残りの四冊を持つと机に戻り、答え合わせを始める。


 颯が寮長室に帰って来たのは二十一時を過ぎてからだった。靴を履き替えて玲太郎の下へ行くと、玲太郎の頭を撫でて髪を乱した。そこで勉強をしていた玲太郎の集中力が切れて、颯の方に顔を向けた。

「おかえり。遅かったね」

 玲太郎は頭に置かれている颯の手を退けると、手櫛で髪を整えた。颯はその場に屈んで玲太郎を見た。

「只今。先程の女子生徒を直ぐにも退学させる為に魔力測定に行っていたからな。今日は二度も行かされたよ。それはさて置き、虐めに関しては許さないという事で、謝罪は受け取らないと宣言して来た。水伯にももう報せてあるからな」

 玲太郎は驚愕した。

「えっ、父上に言っちゃったの?」

「言っちゃったよ。被害者の親だから当然だろ」

 玲太郎は机に突っ伏した。

「はーちゃんとあーちゃんが知ってればよいのよぉ……」

「加害者の親にも連絡が行くだろうけど、医務室の件も報告するそうだ。その上、ウィシュヘンド公爵とアメイルグ公爵からの抗議が届くだろう」

「また大事になるの?」

「全員爵位持ちの令嬢だったからなあ。仕方がないな」

 玲太郎は顔を上げると、颯の方に向いた。

「あーちゃんは帰りにここへ寄った時、何も言ってなかったのに?」

「兄貴は水伯の持ってる新聞社に頼んで、明日の新聞に抗議文を載せると言っていたよ」

「ええっ!? そ、そんな事をするの?」

 玲太郎は目を固く閉じた。

「水伯の所の新聞は購読者が王国一だからな、恥を国内に晒す事になるぞ。それより、兄貴に何か言われなかったか?」

 玲太郎は目を開けた。

「うん? 私のせいでごめんねくらいだったのよ。それで帰るまでずっと抱っこされてた」

「ふうん。それくらいだったのか」

「でもあーちゃんのせいじゃないしね。完全にただの難癖だよ?」

「兄貴にもそう言ったのか?」

「それは言った。だってそうだからね」

「そうなんだな。それじゃあ俺にも抱っこさせて」

「えっ、どうして?」

 颯は無言で微笑み、両手を広げた。玲太郎は一呼吸置いて椅子を下りながら引くと、颯に抱き着いて行った。颯はそのまま玲太郎を抱き上げて背中をさする。

「あの現場を見た途端、怒りを通り越して逆に冷静でいられたんだけど、玲太郎は心中穏やかじゃなかっただろう?」

「僕はねぇ、ジャガイモがなんか言ってる、くらいにしか思ってなかったのよ。先に医務室で、ささくれを怪我って言ってたのも見てたからね。だからその子達をジャガイモだと思って、ヌトの後頭部を見てたのよ」

「ふっ、そうなのか」

「うん。父上やあーちゃん、それにはーちゃんにも色々言われてたから、難癖を付けてくる人はいると思ってたけど、あーちゃん絡みで難癖を付けられるとは思ってなかったから、それは正直な所、結構驚いたけどね。それよりも、ヌトがこういう事があったら無視するって言ってたのに、先に立ち止まったのよ。それで僕も立ち止まっちゃったのよ」

 眉を顰めて言うと、颯は軽く二度頷いた。

「そうなんだな。ヌトは役に立たなかったのか」

「何を言うておる。確と初めから映像を記録しておるわ」

 そう言いながら颯の近くまで来て、黒淡石こくたんせいを見せた。

「ヌトから報せを受けて飛んで行ったから、俺の物は途中からだったんだよな。それ、当然呉くれるんだろう?」

「新しい石と交換ぞ?」

「解った。助かるよ、有難う」

 颯は左腕だけで玲太郎を抱き、右手をヌトの方に持って行く。掌に黒淡石が一個顕現すると、ヌトが使用済みの石を置いて新しい方を持って行った。颯は試しに受け取った黒淡石へ魔力を注いで部屋を暗くする。映像は六人が待ち構えている場面から記録されていて、俄に颯が現れた場面も映っていた。それは玲太郎が去る場面で映像が終わっていて、颯は部屋の明るさを戻した。

「明日の職員朝礼でこれを見せるわ。兄貴も少しは患者に恵まれるだろうな」

「あーちゃんは問診してた時に記録してたのを学院長に渡したって言ってた。ささくれの子の分だけど」

「それは俺も貰っているな。それじゃあ二個同時に記録していたんだな」

 そう言いながら自分の机に行き、一番上の抽斗ひきだしを開けて黒淡石を入れた。そして抽斗を閉めた。

「玲太郎、誰かに何を言われても、あの六人の事は許さないと言えよ?」

「えっ、どうして?」

「許せるのか?」

「許すも許さないも、別になんとも思ってないのよ。どっちかって言うと、はーちゃんやあーちゃんが仕返ししてくれてるから、それで十分って思ってる」

 颯が意外そうに玲太郎を見る。

「え、あれ程度で許せるのか? 本当に?」

「だから許すも許さないもないんだって」

「ふうん。それじゃあ、謝罪は受け付けないって言って貰える?」

「うん、それなら言うのよ」

 颯が右手の小指を立てて玲太郎の方に持って行くと、玲太郎は黙って小指で握った。

「約束な。謝罪は受け付けない、だぞ?」

「分かったのよ」

「破ったら、ずっと抱っこな」

「うん。破らないからよいよ」

 そう言うと微笑んだ。颯は玲太郎を下ろす。

「それじゃあ米を研いで来るよ」

 玲太郎の頭をまた乱雑に撫で回してから隣室へ行った。玲太郎は乱れた髪はそのままにして颯の机に行き、一番上の抽斗を開けた。

「ヌトー、これに魔力を注いでもらってもよい?」

「何よ? 映像が見たいのであるか?」

 そう言いながら玲太郎の方に飛んで行く。

「うん。なんて言ってたのか、ちょっと確認したいのよ。お願い。……ついでに部屋も暗くしてもらってもよい?」

「構わぬが、何故なにゆえ確認が必要なのよ? 見ても気分が悪くなるだけであると思うがな」

「それでもよいのよ。とにかく見てみたいからお願い」

 この後、玲太郎は映像を三度も見たのだった。

「もう良かろう?」

「うん、ありがとう。それにしても、どうしてこんな事をしてしまうんだろうね?」

 ヌトから黒淡石を受け取ると、抽斗に入れて閉じた。ヌトはそれを見もせずに玲太郎の机に飛んで行く。

「それが子の面白い所よ。何かが切っ掛けとなって突拍子もない行動に出るから予測が出来ぬ。ま、奇妙な性癖を持った子もおって、切っ掛けなぞない場合もあるがな。ああ、元来より思考が奇妙な子もおるな。兎にも角にも、種々雑多であるから枚挙に暇がないわ」

 玲太郎は椅子に腰を掛けると、頬杖を突いて机に寝転んだヌトを見た。

「玲太郎も長生きするであろうから沢山見られるぞ」

「うーん、僕はそういうのは見たくないのよ。ひっそりと暮らしたい」

「では何故なにゆえ学校なぞに通い出したのよ? ひっそりとは程遠いではないか」

「物心ついた頃には、あーちゃんとはーちゃんが学校に通ってたし、エネンドも通ってたし、それで僕も通いたくなって……。僕は甘えん坊でしょ? だからそういうのをなくしたくて」

「誰に甘えん坊と言われたのよ?」

「ばあちゃん。玲太郎は末っ子だからやっぱり甘えん坊だねぇって」

「八千代か」

「うん。確かに、父上やあーちゃんやはーちゃんに甘え過ぎてるだろうなって思ってね」

「それでよいではないか。何が駄目なのよ?」

「それはねぇ、甘えん坊を卒業したかったのよ。でも結局、はーちゃんがいて、あーちゃんもいたから出来なくなっちゃった」

「ま、玲太郎の甘えん坊は質であるから、それを変えるには難しいと思うがな」

「たち?」

「性格よ。そういう風に育ってしもうておるから、無理に変えようとせず、有りのままでおれよ。皆もそれを望んでおろうが」

 玲太郎は顔の向きを変えてヌトから視線を外すと暫く黙った。そしてヌトを見る。

「僕はこのままでよいの? みんなが本当にそれを望んでるの?」

「望んでおらねば、ああして抱っこを所望するかよ」

 そう言われると項垂れるしかなかった。

いずれはなりとうのうても大人になるのであるから、そう焦らずともよいではないか」

「そうだね。でも僕の場合、体が成長しないから、精神だけが成長して、体の小さいおじいさんになってしまうね」

「そうよな。しかし、わし等もそのような物であったぞ」

 玲太郎は頬杖を止めてヌトに顔を近付ける。

「今もある意味、小さいおじさんだけどね」

「体の大きさは変えられるからな。それにしても、わしの見目は小父さんではのうて、お兄さんぞ?」

「ヌトの姿形って何歳くらいなの?」

「はて……、判らぬな。緩やかに成長しておるとは言えども、何年生きておるのかさえも知らぬからな。他の兄弟を見ておる限りでは、子で言う所の二十代ではなかろうか? 灰色の子と大差なかろうて」

「ふうん……。そう言えばルニリナ先生も若いよね。はーちゃんくらいだよね?」

「どうであろうな? 今宵会いに行くのであろう? その時に訊けばよいわ」

「あ、そうだった。夕食後に行くんだった。その時に聞いてみるね」

「うむ」

 玲太郎は会話が終わると立ち上がった。

「集中力が切れてやる気になれないから、ご飯作りの手伝いに行くね。美味しい物を作ろう!」

 そう意気込むと、寝転んだままのヌトを置いて隣室へと向かった。ヌトは徐に浮き上がり、牛歩の如く颯の寝台へと向かった。


 玲太郎はルニリナがいつ食事を終えるか判らなかった為、時間表を確認して自由時間が始まる二十三時に訪問した。

 ヌトが先に行き、その後ろに玲太郎がいた。三階に着くと、昇降口から西側へ向かう。先ず東側に首席用の部屋ともう一部屋があり、廊下が直角に曲がっている。その先を進むと北側に厠があって、後は両側に部屋が並んでいた。部屋は首席用ともう一室も含めて全部で十三部屋あり、突き当りは昇降口の奥が大浴場となっている。最後の二室の内の北側の扉に「班長室」と書かれた札が貼られていて、ヌトはその前で止まっていた。玲太郎がその後ろから扉を二度叩く。

「ウィシュヘンドです」

「どうぞお入り下さい」

 中から声が聞こえて来ると、玲太郎は開扉した。ヌトが先に入り、玲太郎は中に足を踏み入れて閉扉すると、寮長室と違って正方形に近い間取りで些か衝撃を受けた。

 北西の角に寝台が、西の壁沿いに執務机と本棚が置かれていて、それらを隠すように部屋の真ん中に大きな衝立が置かれていた。北東側の角には大き目の衣装棚と水屋が隣り合わせで置かれている。手前には足の長い大きな机が一台に、椅子が八脚の一揃いがあった。

「勉強の解らない子が来るそうなので、大きな机があるのですよ」

 玲太郎の視線を見てルニリナが穏やかな笑顔で言った。

「そうなんですか。寮長室にはないのでちょっと驚きました」

 ルニリナは頷くと、手前に椅子を引いた。

「こちらにお掛け下さい。今、お茶を淹れますのでね」

「あ、お茶はいらないです。食後にたっぷり飲んだので大丈夫です。ありがとうございます」

「そうですか。解りました」

 そう言って本棚の方へ行き、教科書を数冊持って戻って来ると、玲太郎の向かい側に座った。

「教科書はもう目を通しているようでしたが、一緒に見て行きましょうね」

「はい」

 ルニリナは一学年の教科書を手にすると表紙をめくった。そして目次を開き、本を玲太郎の方に向ける。

「一学年はこれですね。今日だけで五つの呪文を使いこなせました。後は安全の陸、空、海、全般の四種と、お金に関する物で、金回りが良くなる物と商売が上手く行く物の二種と、豊作、縁結び、それからこの合格は受験や就職試験に受かるようにという物ですね。こうして見てみると数は少ないですが、本来はそう簡単には出来ません。これらが基本となっていて、呪術を掛ける対象物の強度などを、徐々に上げるだけですが、三学年からは金属、五学年からは水晶で練習ですね。呪文は学年で少しずつ長くなって行きます」

 ルニリナが指で示していた箇所を目で追っていた玲太郎は顔を上げてルニリナを見た。

「先生、呪術をかける対象物の強度などが上がると言うのは、どういう事ですか? 純粋に頑丈になるだけですか?」

「頑丈にもなりますが、対象物に魔力が含まれるようになります。二学年で使う木片は強度が上がって魔力が含まれる物になり、三学年で使う金属は鉄で魔力は含まれませんが木片より格段に強度が上がります。四学年で使うりょく銅は鉄より強度がやや落ちますが、魔力が含まれています。ろく学年で使う水晶は物によっては脆いですが、宝石の中では教師が一番作り易い物となっていますね。五学年では小型、六学年で中型を使います」

 真剣な眼差しの玲太郎を見詰めて一気に言うと微笑んだ。

「はっきり言って、ウィシュヘンド君にはどの材料でも容易に出来てしまう、という事実は変わりないかと思いますよ」

「でも今日の木片では重ねてかけて、一番よいと思った物にしただけで……」

 申し訳なさそうに言うと、教科書に視線を移した。

「金属や宝石では、そういった不揃いがないように時間を掛けて微調整をするのですよ」

 玲太郎は視線を上げてルニリナを見ると苦笑した。

「それが、その微調整が出来ないんです。魔石作りをしてるんですけど、最近になってやっと特大から大型になったんです。それでも大型の水晶は壊れてしまって、魔石が作れません」

 それを聞いたルニリナは玲太郎を見たままで固まった。暫くそのままになっていたが目を丸くした。

「ああ、解りました。魔力量が多過ぎて調整が出来ないのですね?」

「そうです」

「それで大きな物から小さな物に移行しているのですか。そうですか」

 納得したようで、何度も小さく頷いていた。

「呪術には魔石作りと違って、対象物の外側に余剰を受け入れる余裕がありまして、それだけ魔力を多く籠められるのですよ。ウィシュヘンド君が今日呪術を掛けた者は、その余剰分をしっかりと使用していたので、それで五年持つと言いました。それから、対象物が頑丈だったり、魔力を含んだりする物になると、その余裕が広がるのですよ。ですので逆に安心してよいですし、持ちも更に長い物が出来ます。魔力含有量は物によって変わって来ますので、それを見極める眼識が必要になりますけどね」

「中型の水晶に、大型の水晶を魔石にするだけの魔力を籠められるという事ですか?」

「そうですね、中型だと、特大を魔石にするよりももっと魔力を籠められますけど、遣り過ぎると耐え切れなくなって、今日のように対象物が破壊されます。今日の場合は、私が魔術で顕現させた物でしたので、消失してしまいましたけどね」

 玲太郎は思わず首を傾げた。

「えっ、でも魔術で出してもらった水晶は、魔石作りで失敗しても、消失する事はありませんでしたけど……」

 ルニリナがそんな玲太郎を見て微笑んだ。

「術を掛けた際に使用した魔力量の差ですよ。呪文を唱えると、魔力量の調整が出来なくなるのではないでしょうか。ですので、必要以上に魔力を使用して、ああして消失してしまったのではないかと考えられます」

 そこまで言うと無言になり、目を伏せて思案顔になった。

「そうですか。魔力量が多過ぎて、逆に少量の調整が出来なくなっているのですね。そうなると付与術の習得が難しいかも知れませんね」

 ルニリナは一人納得していた。

「あっ、そうだった。魔石作りは付与術なんだった」

「そうです。ですので外側に魔力が漏れると破壊されますね。確か装飾品に身体強化の中のいずれかを付与させる筈ですので、指輪、耳飾り等は小型の水晶よりも少ない魔力量になる場合もあるので、梃子てこ摺るのではありませんか?」

 玲太郎は眉を顰めた。

「確かに、それはあると思います……」

 机に寝転んでいたヌトが上体を起こして玲太郎に顔を向けた。

「何、玲太郎であれば出来るぞ。遣る前から否定するでないわ」

 そう言うと、目を丸くしている玲太郎はヌトを見た。

「使う魔力量の調整は難しいのよ」

「難しいと思うから難しいのよ」

 玲太郎は些か苛立った表情をする。

「蛇口から物凄い勢いで流れている水を、いきなり一滴にするようなものなんだからね?」

「喩えが拙いな。それでは使い続けておる魔力量を突如極僅かに絞ると言うておるような物で、実際は海から砂粒程の水量を取り出すような物ではないのか?」

「そうなると簡単そうじゃない。僕は難しさを言ってるんだよ?」

 その遣り取りを聞いていたルニリナが笑い出した。ヌトと玲太郎が同時にルニリナを見ると、その視線を感じて笑いを止め、咳払いをした。

「ごめんなさい。どちらも練習が必要だなと思ってしまったら、つい……」

「そうであるな。練習が必要よな」

 そう言ってから玲太郎を見ると目が合う。

「玲太郎、そういう事ぞ」

「はぁ……。練習が必要って事は、時間がかかるって事だね。分かった。地道に頑張るね」

「それでしたら、一学年で習う呪術を早く習得して、時間を捻出すればよいのですよ」

 そう言うと穏やかに微笑んで玲太郎を見詰めた。

「小型の水晶作りは得意ですし、私でも付与術はお教え出来ますのでね」

 玲太郎は前腕を机に置くと身を乗り出した。

「それだったら、呪術を先に進めたいです。僕は飛び級をしたいので、出来たら違う魔術系を習うより、その方が助かります」

「そうなのですか。解りました。それではそうしましょう。一学年で習う残りの分はどうしますか? 一通りしてみますか?」

 玲太郎は体勢を戻すと頷いた。

「一通りやりたいです」

「解りました。それでは、これからも木片を十枚で重ね掛けはなし、全て一度掛けた物のみで行きましょう。その方がより集中が出来てよいと思います。今期中に三学年まで終えられるように、頑張りましょうね」

「はいっ」

 玲太郎が元気良く返事をすると、ルニリナは満面の笑みを湛えた。

「ウィシュヘンド君はもう浮遊魔術は習得しているのですか?」

「それがまだなんです」

 険しい表情をした玲太郎を、目を丸くして見た。

「え? 呪術をあれだけ使いこなせるのに?」

「浮くだけで動けません。物は浮かせられもしないです」

「そうなのですか。それは驚きです。魔石作り以外に、何かしらの魔術を習いましたか?」

「父上から植物を育てる魔術は習いました。それと雨を降らせたり、雪を降らせたりは出来ます。後は土と水と風と火の玉は作れます」

「植物育成をね、成程、道理で……。得心が行きました。天候の事は置いておくとして、玉が作れるという事はろく学年の魔術は大丈夫そうですね」

 玲太郎は些か暗い表情になって少し俯くと、視界に寝転んでいるヌトが入って来た。

「それが……、大きいんです。イノウエ先生が言うには、大きさを測るそうなんですけど、小さい玉が作れなくて、そこで引っかかっちゃうんです……」

「ああ、そうですね。そうなりますね。ちなみにですけど、玉の大きさはどれ程あるのですか?」

 玲太郎はルニリナを見る。

「えっと、直径五十ジル(三尺三寸)くらいです。大型の魔石作りの練習をやってるんですけど、まだ一個も出来た事がなくて……。特大の魔石は作れます」

「そうなのですか。直径五十ジルの玉が特大の魔石作りに必要な魔力量となる訳ですね。意外と入る物なのですね。……という事は、水晶は高品質なのでしょうか?」

「だと思います」

「成程。それならば得心が行きますね」

 何度も小さく頷く。

「品質で注げる魔力量がそんなに変わって来るんですか?」

「そうですね。低品質の物は高品質の半分程でしょうか。魔石を売っている店に行った事はないのですか?」

「ありません」

「魔石作りに使う水晶は、閣下がご用意なさるのですか?」

「大体はそうです。後はアメイルグ先生とかイノウエ先生が用意してくれます」

「それならば高品質なのでしょうね」

 そう言いながら机に手を置き、掌を上に向けると小型の水晶が顕現した。そして瞬く間に青系の色に染まる。それを玲太郎に差し出す。

「どうぞ。これが品質の低い物です。中心が青くなっていて、端に行く程、青が薄くなっているでしょう? 品質の低い水晶は魔力を籠められるだけ籠めてもこうなります。高品質の水晶でも魔力を少量しか注がないとこうなりますね。お店にはこういったくず魔石も売っていますので、お店に行く事があれば見るだけでも勉強になると思いますよ」

 玲太郎は水晶を眺めながら聞いていた。

「えー、こんなのも出来るんだ。へぇ……。空色で綺麗です」

 ルニリナは「ふふ」と笑うと、玲太郎が差し出した水晶を受け取った。左手で摘むと玲太郎の視線の高さにそれを持って行く。

「違う宝石を使って魔石にする事もありますが、水晶が一般的です。これに光を本の少し籠めれば、集合灯や照明に使われる光石こうせきの完成です。これも付与術の一種ですね」

 魔石だった物が光を放ち始めた。それを見て目を丸くした玲太郎が頷く。

「一学年の付与術の教科書に載ってました」

「一学年で習うのですね。そうですか……。授業では低品質の水晶を使用しますので、ウィシュヘンド君は本当に苦労すると思いますよ」

「実は僕、四歳になる前に覚醒して、それからずっと飛ぶ練習をしてるんですけど、未だに浮けるだけなんです。だから苦労するのは慣れてます」

 苦笑しながら言う。

「中々浮けずに中断しておった時期もあろうが」

 ヌトが透かさず言うと、玲太郎がヌトに視線を遣った。

「え? そうだった?」

 上体を起こしたヌトが玲太郎を見る。

「そうであるぞ。それで灰色の子が植物を育てる術を授けておったのではないのか?」

「そうだったんだ。てっきり僕が植物が好きだからだと思ってたのよ」

「ま、わしは颯の傍におったから、明確な経緯いきさつは判らぬがな」

「中々出来ないとそうなりますよ。出来ない事に固執するよりも、出来る事を探す方が健全です」

 ヌトはルニリナを見ると寝転んだ。

「ですが学校となると話は別です。出来ないと卒業出来ないですのでね」

 そう言われた玲太郎はまた苦笑した。その直後に何かを思い付いた表情になる。

「そうだった。先生ってお幾つなんですか? 見た感じ、凄く若くて、イノウエ先生と同じくらいに見えるんですけど」

 ルニリナは笑い声を上げた。

「あはははははは。何を言うかと思えば、年ですか。ふふ、私は今年で幾つでしょう? んー……二百二十七歳ですね。私は長い間、赤ちゃんだったそうですよ。それで覚醒していた事が判明したのだとか。私の育った集落は集落全体が家族で、皆で子供を育てるという特色がありましてね、それはもう大変だったと言われました。一年経っても首が据わらないとか、中々歯が生えないとか、歩き出さないとか……。二年程で首が据わったと言っていたと記憶していますので、それを考慮すると見た目はそうですね、大体二十二歳前後でしょうか。気付いた時には既に二つ目で、ヌト様が見えていましてね、良く追い掛け回されましたよ」

 懐かしそうにヌトを見ながら言った。

「あの、ふたつめってなんですか?」

 ルニリナはヌトから玲太郎へ視線を移す。

「ああ、精霊のまなこと同じ意味です。一つ目の世界、我々が住んでいる世界が見えて、二つ目の世界、精霊の存在する世界が見えるという事で、略して二つ目と言います」

「精霊?」

「ヌト様は精霊ですので」

「えっ、精霊だったの?」

 驚いた玲太郎はヌトの腹を人差し指でつついた。

「腹を突くなと言うておろうが。わしは精霊ではないが、便宜上、子がそう言うておるだけよ」

「え!? 精霊ではなかったのですか!?」

 今度はルニリナが愕然とした。ヌトが気怠そうな表情になる。

「大いなる存在、神、霊神れいじん、天子、精霊、大精霊、悪霊なぞと言われておるが、そうではないな」

 玲太郎は悪霊の言葉が出た瞬間に噴き出して、慌てて口を手で覆った。ルニリナが玲太郎を見る。

「どうかしましたか?」

 その視線に気付いて、玲太郎もルニリナを見た。

「悪霊って言うのでつい……」

「悪霊は明良も言うておるが、明良以外にも言われておったのよ」

「そうなんだ。よい事ばっかりをしてる訳じゃないんだね……」

「うむ。ま、わし等から言えば獣人も人もわし等の子で、わし等が親になるがな。所謂いわゆる生みの親よ」

「へぇ! そうなんだね。ヌトは凄いねぇ。それじゃあヌトが神様なら、僕達は神様の子になるんだね」

「そうなるな」

「大精霊の子なら、普通の精霊になるの? ……ふふっ。こんな風に言うと、なんだか自分が偉くなったように思えるね」

 嬉しそうに言っている玲太郎を尻目に見ていたヌトが口を開く。

「玲太郎は全く己を解っておらぬな」

 そう小さく小さく呟いた。玲太郎が前のめりになって、右耳をヌトの方に向けて近付けた。

「今、なんて言ったの? 聞こえなかった」

「玲太郎は可愛いわと言うたのよ。言わせるでないわ」

 声を張り上げて言うと、玲太郎は目を閉じた。

「声が大きいのよ。これだけ耳が近いんだから、もう少し小さな声で言って欲しいね」

 顔を顰めてそう言いながら姿勢を戻した。ルニリナはその光景を微笑ましく見ていた。


 寮長室に戻って来た玲太郎は、とても満ち足りた表情をしていた。颯はそれを見てルニリナと話をしてみたくなった。しかし、颯と目が合った途端に一変して情けない表情になった。ヌトは先に颯の下に行き、読んでいた本を覗き込んだ。

「お帰り。どうしたんだ?」

「ただいま。付与術にてこずるって言われた」

 そう言いながら靴を履き替える。

「ああ、そんな事か」

 今度は顔を顰める。

「そんな事じゃないんだからね? 授業で使う小型の水晶は低品質だって教えてもらったんだけど、それだと高品質の水晶より籠められる量が減るって聞いて……」

 言いながら颯の傍に来ると颯の右腕に額をぶつけて、そのまま動かなくなった。

「そうなるな」

 颯は左手で玲太郎の頭を優しく撫でる。

「それで呪術の授業はどう進める事になったんだ?」

「一通りやって行く事になったのよ。今期で三学年分を習う予定」

「へえ、それは凄いな。その分、魔術や付与術に時間が回せるようになるな」

「やっぱりそうなるの?」

「なるね」

「ルニリナ先生が付与術も見ましょうって言ってくれたから、呪術を先に習い終えてから見てもらう事になったのよ」

「ふうん。ルニリナ先生は教え方はどうなんだ? 上手いか?」

 玲太郎を持ち上げると、膝に乗せた。玲太郎は衣桁に掛けられた制服を見た。

「どうなんだろう? 呪術は植物を育てる事と似てるから、なんて言うか、気持ちをこめ易いって言うの? まあ、やり易いから教わる事がないのよ。だから分からない」

「そうなのか。接した感じはどうなんだ?」

「んー、接した感じはねぇ、……優しい! 父上は話し方が優しくておっとりしてるでしょ。ルニリナ先生も優しくておっとりしてるのよ」

「それで似ている、と?」

「そう!」

 玲太郎の表情が明るくなり、颯は苦笑した。

「水伯はそうだな、丁寧に接してくれる感じだなあ」

「ルニリナ先生も丁寧に接してくれるよ?」

「ふうん。それで、為人ひととなりはどうだった?」

「ひととなりって何?」

「人柄だよ」

「分かる訳ないじゃない」

「あ、そう。話し方は優しくておっとり、そして丁寧に接してくれる、と」

「うん、そう。印象はとても好かったのよ」

「成程。人見知りが出なかったんだな?」

 玲太郎は首を傾げて、暫く無言になった。そして、ふと颯を見上げた。

「そう言えば、全然人見知りが出るような感じにならなかったね。入学式の時、先生の紹介があったでしょ? きちんと見てなかったのよね。だから今日の授業が初対面のようなものなんだけど、初めてとは思えないくらいに慣れてるかも」

「へえ、それは凄いな。それでルニリナ先生の魔力を引き上げたのか?」

「うん? それは知らないのよ。やってないけど、僕がやった事になっちゃうの?」

 眉を顰めて言った。

「それじゃあ無意識で遣ったのか? まあ、こういう事もこれからはあるのかも知れないな」

「えっ、それはなんだか嫌だなぁ……。人の目は見ないようにしないといけなくなるね」

 そう言って俯くと、また暫く沈黙した後、ふと何かに気付いた。

「うん? 誰にルニリナ先生の魔力を引き上げた事を聞いたの?」

「ヌト」

 颯が即答すると、玲太郎は脱力した。

「ヌトしかいないね……。いないよね……」

「わしは目付け役であるからな。何かがあったのならば即座に報告せねばなるまい」

「まあ、玲太郎には大した事はない魔力量だろうけど、ヌト達や俺からすると同等になるからな。はっきり言って大事件なんだよ。対立したら戦わないといけなくなるからな」

 そう言いながら玲太郎の鼻を摘んだ。玲太郎は颯の手を両手で離そうとしているが出来ないでいた。

「俺も若しかしたら、玲太郎と目が合った時に魔力を引き上げられたのかも知れないな。産まれたその日に目が合ったんだけど、その日だよ、多分」

 そう言うと鼻から手を離した。玲太郎はその手を押し退ける。

「そうなの? そんな事があったの?」

「産まれたその日に兄貴と俺、それと水伯が抱っこした時に目を開けて、目が合ったんだよ。それで兄貴と俺の魔力量が多かったのだとしたら、物凄く納得が出来るわ」

「そうなると、目族の子も玲太郎に選ばれたという事になるが?」

 颯はそう言ったヌトに視線を遣った。

「それなんだよな。選ばれたんだろうな。それも無意識に。兄貴や俺もそうだったんだろうな」

「ふむ。……短期間で魔力量の多い子が生まれ過ぎておるのはおかしいと思うたが、そうであったのであれば、確かに納得が行くわな」

「ええ? それじゃあ、あーちゃんやはーちゃんの魔力量が多いのは僕のせいになるの?」

「所為じゃなくて、お陰だな。有難うな、玲太郎」

 そう言いながら玲太郎の頭を乱雑に撫でた。

「お陰で玲太郎の傍にいられるよ」

 心底嬉しそうに言った。玲太郎はとても複雑な気持ちになった。

「俺は本当に弟か妹が欲しかったからな、玲太郎を産んでくれた母ちゃんには、そこだけは本当に感謝してるよ。俺の所へ来てくれて有難うな」

 情感を籠めて言いながらも乱雑に頭を撫でいた手を止めた。玲太郎は顔を紅潮させて手櫛で髪を整え始めた。

「髪がぐちゃぐちゃになるから、その撫で方は止めて欲しいのよ」

「悪い悪い」

 今度は右手で玲太郎の両頬を摘んだ。

「そうだったわ。いい機会だから言っておく。玲太郎はヌトの兄弟全員から印という物を体に入れられたんだよ。その所為で覚醒をしたんだけどな、最後の印を入れた奴が言っていた事で、とても大切な事だから、玲太郎もその言葉の意味を良く考えて欲しい」

 そう言って頬から手を離した。玲太郎は颯の目を見た。

「うん? なんて言われたの?」

「水伯は壊れている。治せるのは玲太郎だけ。治して遣って欲しい、呉々も頼む、みたいな感じの事を言っていたよ」

 颯から衝撃的な事実を知らされた玲太郎は、今日の嫌な出来事も楽しい出来事も、全てが吹き飛んでしまった。玲太郎が呆然としてしまい、沈黙が流れた。それを破ったのはヌトだった。

「わしもその場におって聞いておったから間違いないぞ」

 玲太郎はヌトに顔を向けた。その顔は悲愴で歪んでいた。

「……そうなんだね。父上は壊れているの?」

「わしにはそう判断は出来ぬが、ニムが灰色の子は毛色が違うといったような事を言うておったわ」

「毛色が違う?」

「どうも皆とは違っているようでな、それは玲太郎に最後の印を入れたシピも感じておったのであろうな」

「そう言えば、水伯が精霊が半透明に見えるって言っていた記憶があるわ。それなのにヌト達の事は見えないようだからなあ……」

 渋い表情で言うと、玲太郎は「確かに」と頷いた。

「それに水伯の対精霊は大き過ぎる。あれは異常だな。水伯の屋敷の上からずっと東に向かってイノウエ邸の真上まで広がっているくらいに大きいからな。それと気になるのは、半透明という事だな。水伯が精霊を半透明に見えている事が、気になると言うか、引っ掛かるんだよなあ」

 颯同様に渋い表情の玲太郎は俯いていた。

「……僕にそれが治せるの?」

「シピが言うたからには、出来るのであろうて」

「まあ、方法は模索して行くしかないんだろうけど、玲太郎程の魔力量があれば出来得る事なんだと思うよ」

 玲太郎は押し黙った。颯はそんな玲太郎を見て背中に左手を添えた。

「今すぐどうこうしろという訳じゃないから、焦らずに方法を探して行こう。その為にも治癒術をある程度習ってからになるだろうけどな」

 そう言って難しい表情をしている玲太郎の背中を優しく二度叩いた。玲太郎はそんな颯を一瞥すると、また俯いた。ヌトがいつの間にやら机の縁に座っていた。

「ま、駄目で元々と思うて、力を入れ過ぎずにな」

「責任重大じゃない」

 不満そうにそう呟いた。颯は玲太郎の左肩に手を置くと優しく揉み出した。

「肩の力を抜いて挑まないとな。それにヌトが言ったように、駄目で元々だからな」

「はぁ……。父上を治さないと、父上死んじゃうの?」

「心配であるならば、あの目族の子にうらのうてもろうたらよいではないか」

「あっ、その手があったのよ!」

 ヌトの言に喜色満面になったが、直ぐに陰鬱な表情になった。

「父上を占ってもらわないとダメじゃない……」

「目族の占術は一人に就き一度限りでな、二度目はないのよ。しかし、そうであるからか、つたない子でもそこそこにあたるぞ」

「ヌトは詳しいな。どうしてそんなに詳しいんだ?」

 颯が何故か食い付いて来た。ヌトは得意そうな表情になる。

「わしは良う目族の住処に通うておったからな、占うておる所を度々見ておるのよ」

「へえ、そんなに引っ切りなしに客が来てるんだ?」

「目族の占術は馬鹿に出来ぬぞ。巧い子になるとわし等の居場所も中てる程だからな」

「それは恐ろしいな。いや、本当に恐ろしいわ」

「そうであろう。……であるが、それが占うて欲しい事柄と、占うた結果が結び付くのかと問われると、否と言わざるを得まいて」

「ふうん、それじゃあ玲太郎が何時水伯の体を治すのかを占って貰おうとしても、ヌトと何時別れるかという結果が出るかも知れないって事なんだな?」

「喩えがまずいが、そうなるな。ま、巧い子であれば占える範囲が広いからな、その中に入れば或いは、という所よな」

「そう言えば、ルニリナ先生が、お客で来た閣下がどうのこうので、僕が産まれる事が判ってたって言ってたから、ルニリナ先生なら僕を占ってもらったら、父上の事が分かるかも? 僕が治すなら分かるよね?」

 颯は視線を左に遣ると黙考した。暫くして視線を玲太郎に戻す。

「占って貰った事がないから、どうなるのかは俺には全く判らないな。ご免」

「颯か明良が試しに占うて貰うたらよいのではなかろうか。二人に取っても灰色の子は重要人物で関係者であろうからな」

「それはいいな。俺が占って貰うか。で、ついでにルニリナ先生と話をしてみるか。無意識とは言え、玲太郎が選んだ人だから興味がある。……それにしても、玲太郎とルニリナ先生の事を兄貴が知ったら、また嫉妬するんだろうなあ」

 最初は乗り気で気分が高揚していたが、言うに従って落胆して行った。

「嫉妬はせぬであろうて。泣くやも知れぬがな」

 そう言ったヌトが「くっくっ」と笑った。玲太郎はそれを横目で見た。そして颯に顔を向ける。颯はヌトの言った事を丸で気にしていなかった。

「所で、僕が覚醒した時って言うと、結構前だよね?」

「そうだなあ、そろそろ五年か? あれは確か、玲太郎が三歳の時の十四月か十五月だったからな。まあ、言われてから今までは水伯は変わっていないし、壊れていると言っても、その影響が何時出てくるかまでは判らないから、占いで判れば……と思ったけど、判った所で対処が出来ないんじゃ話にならないからな。兄貴は医師も治癒師も薬草師も免状を取ったくらいだから、兄貴に師事するか、ルニリナ先生に事情を話して、師事出来そうな人を占いで探して貰うか…」

「しじって何?」

「師事は、誰かを先生として教えて貰う事だよ。まあ、治癒術と薬草術は兄貴から習ってるし、師事しているも同然だけど、普通に目に見える部分を治す訳じゃないと思うんだよな。領域としては精霊が見える方と言うか…」

「解るぞ。わし等の領域であると言いたいのであろう?」

「そう。シピって人が、人じゃないけど、その人が治せなくて、望みが玲太郎だけなのがなあ……」

「わし等の領域で、望みが玲太郎だけとなると、壊れておる部位は魔力根である可能性はあるな」

「魔力根か……。そういえば訊いた事がなかったけど、ヌト達は魔力根の事をなんて言ってるんだ?」

「わし等は精結せいけつと呼んでおる」

「せいけつ?」

「せいけつって何?」

「魔力根と言われておる部分の事よ。精霊と結合しておるからな」

「ああ、精霊と結合で精結な、成程」

 玲太郎はヌトに顔を向ける。

「それで、そこが壊れてたらどうなるの?」

「普通は魔力がのうなるのよ。それにつけても、灰色の子の対精霊が巨大である理由が判らぬからな。……ふむ、精結に異常があるから、対精霊も異常なのやも知れぬな」

 颯がいつになく真剣な面持ちで沈思している。玲太郎はヌトを見ていて、それに気付かなかった。

「この前、あーちゃんが魔力がなくなる時は死ぬ時、例外もいるって言ってたけど、例外って言うのは、その精結を破壊して魔力をなくしてたからなの?」

 ヌトは軽く何度も頷いた。そして玲太郎を見る。

「そうであるな。普通は出来ぬ荒業よ。玲太郎が見たあの奇妙な対精霊はな、本来はああではないのよ。悪意で以てああなってしもうておるのよ。そのままにしておけば、宿主の生命力を食らい、挙句の果てには共倒れになるのであるがな」

「その対精霊と宿主を切り離す事は出来ないの?」

「出来ぬな。出来ても精結が壊れて魔力を失うぞ?」

「そうなんだね……」

「灰色の子ならば、魔力を保持したままで対精霊を切り離せるやも知れぬが、こればかりは遣ってみぬ事には判らぬな」

 玲太郎は腕を組むと「うーん」と言って沈黙した。颯はそんな玲太郎が可愛くて、つい頭を撫でてしまった。

「水伯が若し、本当は一体型だったとしたら、外に出てしまっている対精霊を精結に戻さないとならなくなるな」

「えっ」

 玲太郎は颯を見上げたが、颯の手が邪魔で見えなかった。撫でている手を取って退かすと颯を見た。

「そんな事が出来るの?」

「出たんだから、中に入る事も出来るだろう? 俺には遣り方が思い浮かばないけどな」

 それを聞いて、玲太郎は右側に体を倒して、颯にもたれ掛かった。

「はぁ……。なんかこう、これなら出来そうっていう案はないの?」

「ない」

 即答したのは颯だった。ヌトは黙考している。

「はっきり言って、対精霊を切り離すのは止めておいた方がいいと思う。俺はな。本人には相談が出来ないから、ニムに知恵を借りるか……、猛烈に嫌だけどそれが一番賢明かと思う」

「最後に印を入れた、し…なんとかって人…」

「人じゃない」

「そうだった、でも人でいいじゃない。その人に聞いた方がいいんじゃないの?」

「シピとやらは、玲太郎に丸投げしたからなあ。そんな奴の話を聞いても無駄だと思うぞ」

「本来であるならば、ケメの意見を聞きたい所ではある…」

「ケメはないわ。有り得ないな」

 即座に拒否をすると、颯はまた玲太郎の頭を撫で始めた。

「よし、ニムと話そう。確かニムは水伯の事を観察していた筈だから丁度いいな」

「ニムが来るの? それなら体の大きさは縮めるように言ってね」

 そう言いながら颯の手を取って、動きを止めようとした。

「解った。だけど、呼ぶのはヌトが呼んでくれるからな」

 颯は玲太郎の手を避けると玲太郎を抱き締めた。

「わしが呼ぶのかよ。……ああ、そうであるな。印がないのであったわ。それで、何時話すのよ?」

「そうだな、何時がいい?」

 そう言って玲太郎を見ると、玲太郎と目が合った。

「僕は週末じゃなければいつでもよいよ」

「じゃあ今からか? だったら先に風呂に入ってしまうか。どうせ呼べばじっ分くらいで来るだろう?」

「そうであるな。直ぐに来て呉れと言えば来て呉れるであろうから、風呂に入って来るが良かろうて」

 二人はそう言ったヌトを見てからお互いの顔を見た。

「それじゃあお風呂だね」

「うん、行くか」

 頷き合うと、颯が玲太郎を抱き上げて立ち上がった。二人が隣室へ行ってしまうと、ヌトはまた机の上に寝転んだ。


 身丈を約四尺に縮めたニムが胡坐を掻いて、玲太郎の寝台の上に浮いている。玲太郎からのお呼びが掛かったと喜び勇んで来てみれば、話の内容は水伯の事で拍子抜けをしたが、それも直ぐに気持ちを切り替えた。

「灰色の子は、壊れておると言えば壊れておるが、それを直すとなると、わしにも遣り方が判らぬわ」

「暗示でもなんでもいいから、なんかない?」

 颯にそう問われると、「うーん」と唸って黙考する。

「対精霊を切り離すというのは駄目であるからな」

 ヌトがそう言うと、ニムは顔を顰める。

「そもそも、あれは対精霊なのであろうか?」

 逆にそう問われて、ヌトは首を傾げた。

「あれは対精霊ではないのか?」

「問いに問いで返すのはどうかと思うが、答えるわ。わしは、あれは対精霊ではない思うておるがな」

「それじゃあ、あれは何? 只の精霊なのか? 先に言っておくけど、ヌト達に判らない事が俺等に判る訳がないんだからな?」

「灰色の子は本来、獣人の特徴が出ておる筈であったのではないかと思うておるのよ。颯や玲太郎と同じ、目族の特徴が出ておったのではなかろうかとな。覚醒した拍子になんらかの要素が混じり、獣人でありながら、人さながらに対精霊のようになってしもうたのではないかと、そう思い至っておるのであるが……。灰色の子は目族と人が混じっておるようであるから、有り得ると思うがな」

「ええ? 水伯も目族が混じっているのか?」

 颯がつい言ってしまうと、ニムは頷いた。

「あの目の色であるから、目族の特徴を受け継いでおってもおかしくはあるまい? 髪の色に関しては、灰色なぞ、灰色の子を見るまでは見た事がのうてな。白髪交じりの黒髪も灰色に見える事もあるが、灰色の子の髪はそれとは一線を画しておるから、髪の色がそれに変わる何かがあったのであろうと思い至るのよ」

「ふうん……。髪の色が変わるとなると、白になったっていう話は度々耳目にするからなあ。それでも灰色はないよな」

「そうであろう? 灰色はないのよ」

「わしも見た事がないわ。桃色、橙、黄色、金髪、赤系、茶系、黒、白髪交じり、白髪……、後は何色があったか……。ま、灰色はないわな」

 ヌトもそう言いながら頷いた。

「緑の髪とか、青の髪とかはないの?」

「ない」

 玲太郎の問いに透かさずヌトが答えると、ニムが苦笑する。

「外の髪の色なぞ些事ぞ」

「あ、ごめん……」

「兎にも角にも、灰色の子は壊れておると言うても、あの対精霊を切り離すのは下策であると思うのであるが如何いかがか」

「それはわしもした方がよいと思うがな。しんば魔力が残ろうともな」

「それは遣ってみねば判らぬがな」

 颯が腕を組んで、椅子の背もたれに体を預ける。

「やはり対精霊を魔力根…じゃなくて、精結に戻す方がいいのだろうか……。それにしたって、その方法が全く判らないんだよなあ」

「それはわしにも判らぬわ」

 ニムが真顔で言う。玲太郎は落胆した。

「分離型の精霊がどう生まれるのかと言うと、極地にある大きな木から生まれるのよ。子が産まれると同時に精霊が生まれ、瞬時に糸で結ばれるのであるが、一体型はそうではない。一体型の場合は母胎の中で一緒に育まれるからな。であるにも拘らず、灰色の子が分離型さながらに対精霊を生み出したとなれば、精結に戻す事が道理ではなかろうか」

「その、対精霊を生み出したってのがなあ。……若しも精神的な要因でそうなったんだったら、戻したら精神的に支障をきたすって事も有り得るんじゃないのか?」

「ふむ……」

 ニムは目を閉じて黙考し始めた。

「シピとも話すか? ……しかし、それであると此方こちらから行かねばならぬやも知れぬがな」

「それよりも、ヌトは起き上がって話さぬか」

 ヌトは颯の寝台に寝転んでいた。そう言われて渋々浮き上がると、玲太郎が当然のように両手を広げた。ヌトは玲太郎の傍へ行くと膝に乗った。

「これでよいな。ニムよりシピの方が灰色の子を観察しておる機会が多かったのではないのか?」

「それはどうであろうか。灰色の子を観察しておる時にうた事がのうてな……」

「成程? それではニムもシピも大して観察をしておらなんだのか」

「ヌトが玲太郎に張り付いておる程ではないが、行けばさん日は張り付いておったぞ」

「少ないな……」

 期待外れと言わんばかりに颯が思わず言うと、ニムが颯を睨んだ。

「玲太郎に張り付いておった程ではないにしても、割と通うておった方ではあるがな」

「ふうん。それで、出てしまった精霊を元に戻す方法は判らないと。これじゃあシピって奴も駄目だな。こういう類の相談が出来る奴はいないのか?」

 暗にニムをも一刀両断してしまった颯は足を組み、膝に肘を置いて頬杖を突いた。

「確か分離型はズヤが最初に拵えたと思うのであるが、ズヤに相談してみるか?」

「分離型って人だよな? 獣人は誰が最初に創ったんだ?」

 ヌトを見た颯が気怠そうに訊いた。

「ケメよ」

 その気怠さは継続された。

「ああ、それじゃあ駄目か」

「うむ」

 ヌトと颯が会話をしていると、颯に傷付けられて引っ繰り返っていたニムが起き上がった。

「いや、待て。分離型はノユではなかったのか?」

「違うな。精霊を生み出す木をノユが拵えられるとでも思うておったのか?」

「そうであったのか……。今まで思い違いをしておったわ……」

「対精霊を知った所で、戻し方が判るとも思えぬが、ま、一応何事も知っておかねばな」

「それはそうかも知れないけど、なんだか時間の無駄という気がして来たわ」

 そう言った颯をニムが不機嫌そうな表情で見る。

「聞くだけ聞けばよいではないか。何か暗示的な物が得られるやも知れぬでな」

「そうだといいんだけどな」

 颯は全く期待をしていないと言いた気な口振りだった。ヌトは気にせずに口を開く。

「ではズヤを呼ぶか。若しかしたらノユも一緒に来るやも知れぬが、それでもよいか?」

「あ、それは全く構わない。寧ろ、悠ちゃんの事で礼を言っておきたい」

 颯の雰囲気が打って変わって穏やかになり、ニムは仏頂面になるとまた横たわった。

「それにつけても、わし等と同等の魔力を持った子がおるようであるが、一体どうなっておるのよ?」

「どうなっておるも何も、こうなっておるのよ」

 ヌトが返事になっていない返事をすると、玲太郎が苦笑した。

「ふむ。……明良、颯、その子、と来て灰色の子か。ちとわし等と同等の子が多過ぎやせぬか」

「先に言うておくが、わしは既にその子に印を入れておるからな」

「何っ、何時の間に?」

「割と前からよ。目族の子でな、わし等が見えるぞ」

「何っ!? そのような事、微塵も教えて呉れなんだではないか」

「一々言わぬと駄目なのか? ノユは知っておるぞ」

「それにしても玲太郎の周りに多いな。わし等と同じで最終的には八人になるのであろうか?」

「はて、それはその時になってみぬと判らぬな。ズヤと念話をするから、わしは黙るぞ」

「うむ」

 ヌトはそう言うと黙った。

「ヌト達って八人いるの?」

 玲太郎は気になった事を訊いたが、颯は答えなかった。横たわって浮いているニムが肘を突いて上体を少しだけ起こした。

「あ、わしが答えてもよいのであるな。その通り、わし等は八体おるのよ。わし、ハソ、ヌト、ズヤ、ノユ、シピ、レウ、ケメであるな。ズヤとノユとシピとケメは玲太郎とうた事があるのよ。記憶になかろうがな」

「うん、覚えてないね」

 玲太郎はそれだけ言うと黙った。颯は些か不機嫌そうになっている。

「やはりノユとおるそうでな、一緒に来ると言うておったわ」

「解った。悠ちゃんの件でお礼を言わないとな」

 颯が頷きながらそう言った。ヌトは颯を見ると眉を顰めた。

「片付けた際に言うておったではないか。あれで十分ぞ」

「そう? まあ、言いたいから言わせておいてよ。あの時は見えなかったからな」

「成程」

 ニムは颯とヌトの関係性を目の当たりにし、些か嫉妬していた。それよりも、玲太郎とヌトの関係性を改めて目にすると、その仲の良さに感情を滅却した。


 十分を過ぎた頃、ノユとズヤが窓掛けをとおり抜けて入室した。玲太郎以外は窓側を見ていた。二体は身丈を三尺に縮めていた。そして玲太郎の傍に行き、玲太郎を凝視している。

「これがあの玲太郎か? 育っておるな。それにつけても、あの頃の魔力とは、全く違った物になっておるわ。これはまっこと、呆気に取られる物よな」

 ノユが感心しながら言うと、ズヤが頷いた。

「チムカのちの字もないな。さて、わしがズヤである。玲太郎が赤子の頃に、何度かうておるが、憶えてはおるまい?」

「あの……、初めまして。今日はよろしくお願いします」

「初めまして、と来たか。わしがノユよ。ヌト同様気楽にな。敬語はいらぬぞ。それにつけても、ヌトが世話になっておるようであるが、厄介を掛けておろう。済まぬな」

「助けてもらってるけど、厄介はかけられてないで…ないのよ」

 朗らかな笑顔でそう言うと、ヌトが腕を組んで仏頂面になった。

「わしとて、毎度厄介を掛けておる訳ではないわ」

 ノユは玲太郎の膝の上にいるヌトを見ると、顔を綻ばせる。

「これまた小さくなりおって。そうまでして傍におりたいのか?」

「ま、そういう事ではあるな」

 ノユがふと颯に目を遣った。

「はやてか? うておるか?」

 颯もノユを見る。颯は少し硬い表情をしている。

「はい、颯です。兄の悠次の危機には救って頂いて、感謝しています。あの時は本当に有難う御座いました」

 そう言って辞儀をすると、ニムが衝撃を受けていた。ノユは笑顔になる。

「そういう事もあったな。あれはわし等兄弟の我欲の所為で起こった一件であるからな、気にせずともよいぞ。寧ろこちらこそ済まぬ。……そうであるな、ゆうじか。思い出して来たわ。ゆうじは元気にしておるのか?」

「もう亡くなりました。あの時は既に硬化症だったので……」

「あっ、そうであったか。ああ、そうであったな。それは済まぬ。それにつけても、はやても魔力量がわし等と同等とは聞いておったが、本当なのであるな」

「そうですね。俺もそれには驚いています」

「はやても敬語は止めぬか。それにつけても、玲太郎はわし等とは比べ物にならぬ程に量が多いな」

 玲太郎はそう言われて苦笑するだけだった。

「して、わしに用とは何よ?」

 早くも痺れを切らしているズヤが颯を見ていた。

「灰色の子に関する事よ。灰色の子が壊れておるから、玲太郎に直せとシピが言うておったからな、どう遣って直すのよ? という話になっておって、灰色の子の対精霊を精結に戻すという話をしておったのであるが…」

 蚊帳の外になっていたニムが後ろから声を掛けた。

「精結に対精霊を戻すなぞ、出来るのであろうか?」

 話の腰を折ってノユが訊いた。折られたニムは不機嫌そうな表情になる。

「それが判らぬから、子を最初に拵えたズヤを呼んだのよ」

「そうであったのか。まあ、ノユと相談しながら拵えたからな、わしだけではないのであるが」

「そうなのか! では、わしは思い違いをしておった訳ではなかったのであるな。わしはずっとノユと思うておったのよ」

 ニムは関係のない事で喜んだ。ヌトが鼻で笑う。

「半分が正解でも、半分が不正解ではないか」

「何をっ。それはヌトも同じではないか」

「まあまあ、それはどうでもよい事よ。わしは灰色の子を数度しか見ておらぬから、何処が壊れておるのかも検討が付かぬのであるがな」

 ズヤがそう言いながら颯の寝台の上へ移動すると、ノユは玲太郎の後ろに行った。

「それはわしも同じであるがな。今からに行ってもよいか?」

「灰色の子も気配を感知するからな……。それは得策ではないと思うのであるが」

 ヌトが渋い表情で言った。

「灰色の子のおかしいと思しき箇所はわしが言えるぞ」

 俄に張り切り出したニムが口を挟むと、先程話していた内容と、術が一切通用しない事等を話した。ニムが水伯を攻撃したという事実を知った玲太郎は、ニムを見る目が変わっていた。

「ううむ、百聞は一見に如かずであるからな。やはり実際に目にしたい所よ」

「玲太郎がおる時に行ってみてはどうであろう。灰色の子は玲太郎の所へ来たと思うであろうからな」

 ニムがノユにそう言うと、ズヤが頷く。

「わしはそれでよいぞ」

「近くにレウの家の木があるから、序に寄ればよいわ」

 そう言ったヌトを全員が見た。ズヤが小さく数度頷く。

「そうであるな。この間、レウとうておるが、また行くとするか」

「この間とは何時よ?」

「玲太郎が産まれた日よ。ハソもおってな、ノユと三体で行ったのよ」

「そうであったか」

 ニムが納得をしていると、ヌトが玲太郎を見る。

「次の週末で良かろう? なるべく灰色の子と一緒におって呉れぬか。そうすれば近寄れるのでな」

「分かった」

「週末とは何時よ?」

 ノユが後ろから訊いた。玲太郎は顔を後ろに向けて見上げる。

「明後日と明々後日しあさってです」

「あさってとは、明日の次であるな?」

「そうです」

「それならば、わし等は此処に滞在しておくか。もう一人おる、わし等並みの魔力の持ち主を少しでも見ておきたいのでな」

 ズヤが言うと、ニムが開け掛けた口を閉じた。ノユが何度も軽く頷く。

「それでもよいな。そうすれば機を窺う必要もなく、玲太郎に付いておって、灰色の子を視られるという物よ」

 ニムが慌てる。

「いや、待て。颯がわし等の気で眠られぬようになるから、それは止めぬか?」

「俺はいいよ。そんな事を言われても今更感しかないしな。それにさん日寝られなくても平気だぞ」

「しかし、ハソとわしの時は出て行けと言うたではないか」

「ニムは何年も監視していたんだから、別に構わないだろう。それに千里眼があるじゃないか。他の二体はさん度だし、何年もいる訳じゃないからな」

 冷たく言い放つと、ニムは悲痛な面持ちになった。

「はやてはニムには冷たいのであるな。何があったのよ?」

 不思議に思ったズヤが颯を見る。颯はニムを見たまま口を開く。

「我欲を抑えられなかった結果、だよな? 最後は玲太郎を怖がらせたんだってな。兄貴から聞いているんだぞ」

 ニムは苦虫を嚙み潰したような表情になった。

「怖がらせるとは、何を遣ったのよ?」

「窓掛けから顔だけを出して、玲太郎の監視をしていたんだよな」

「そうであったか? わしはもう忘れた。追い出された事しか憶えておらぬわ」

 平静を装ってそう言うと、何かを思い付いたのか、表情が一変して明るくなった。

「皆がおるのであれば、今日はわしがおってもよいのではなかろうか?」

「帰れ」

 颯が即答すると、ヌトが失笑した。

「僕も帰って欲しい……」

 玲太郎も申し訳なさそうに言うと、追い打ちを掛けられたニムは更に衝撃を受けてしまい、無言でふらつきながら飛び去って行った。その場にいた全員がそれを見送った。

「玲太郎、解っていると思うけど、この事は水伯には秘密だぞ?」

「うん、分かってる。でも知らない振りが上手く出来なかったらごめんね」

 表情の曇っている玲太郎を見て、颯は肩を優しく叩いた。

「それはそれで仕方がないな。変な態度を取って何かを訊かれるような事があれば、俺との秘密とでも言っておけばいいよ。それじゃあ少し早いけど、玲太郎は寝台へ行こうか」

「でも眠くないのよ……」

「それじゃあ久し振りに俺が本を読もうか?」

「ええ? それはいらないのよ」

 玲太郎は首を横に振る。

「でも今日は昼寝をしていないんだろう?」

「それはしてない」

「だろう? それじゃあ横になるだけなってみたら? なんなら添い寝するけど」

「添い寝はよいのよ。一人で眠られるから大丈夫」

 ヌトを掴んで立ち上がる。

「それじゃあ横になって来るね。おやすみなさい」

「お休み」

「何、わしも行くのか? 一人で眠られるのではなかったのか?」

 玲太郎は颯を見て微笑むと、大人しく掴まれたままのヌトを手に隣室へと行った。その様子を微笑ましく見ていたノユが口を開く。

「ではわし等は上へ行って、どのような子か見て来るとしよう」

「ヌトが、わし等が見えていると言っていたよ」

「成程。それにつけても、何時もヌトが厄介を掛けておるようでまことに済まぬな」

 ノユが優しく言うと、颯は少し頬を緩めた。ズヤが颯の前に来ると、颯はズヤに顔を向けた。

「兄はなんという名であった?」

「明良だな」

「あきらがわし等を悪霊扱いをしておったのであったな? あきらは元気か?」

「元気だよ。相変わらず悪霊扱いしているけどな」

「そうなのか。ケメの一件もあるから、あきらの持つ嫌悪感は拭えぬやも知れぬな」

「それはあると思う。遣った方は遣った事を憶えていないかも知れないけど、遣られた方は何時までも憶えているからなあ」

 ヌトと同じ顔で同じ声という事もあり、颯の口調は相当馴れ馴れしい物だったが、ノユとズヤは全く気にしていないようだった。

「ハソやニムも悪気があった訳ではないのでな、広い心で接して欲しい」

「まあ、悪気がなければ何をしてもよいという事にはならぬがな。何事も節度が必要ぞ。さて、ノユよ、はよう行こうぞ。わしは上の子が気になるのよ。はやて、行って来るぞ」

「そうであるな。それではわしも行って来るわ」

 そう言って二体は天井を透り抜けて行った。残された颯は言いたい事をズヤに言われてしまった事で、何とも言えない気持ちになった。椅子をそれぞれの机に入れると、寝台に行って靴を脱いだ。そして掛け布団を捲り上げ、寝台に上がると胡坐を掻いた。

(新しい気配は精神的に来るなあ。俺にしては早過ぎるけど寝るか。……寝られないだろうけどなあ。よし、瞑想を遣って寝るか)

 枕元にある目覚まし時計に手を掛け、音が鳴るように開閉器を上げた。時計盤は十時間を三周で一日としている為、目安針を八時九十分に据えると、また枕元に置いた。それから集合灯に魔力を注いで明りを消し、小さな光の玉を浮かべると瞑想を始めた。

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