第十四話 しかして溺愛を知る
十月三日の朝、玲太郎が寮長室を出た所、偶然にもバハールが通り掛かる。二人は顔を見合わせて笑顔になると一緒に教室へ向かった。
朝礼の六分前には到着し、五分前には颯が入室、鐘が鳴って時間通りに朝礼が始まり、颯が出席の確認をし終えると無言で黒板に何かを書き始めた。生徒は朝礼の終わりを告げる鐘の音を聞いた。颯は手を止めて振り返る。
「休憩時間だから好きにしていいぞ」
そう言って正面を向いてまた書き始めると、席を立って厠に向かう生徒が少なからずいた。
十分後に一時限目開始の鐘が鳴ると、颯は黒板に書いた撮影会の並び方の説明をした後、撮影会が始まるまで時間の余裕があり、時間割と教科についての簡単な説明を始めた。魔術は二時限を使って授業をし、治癒術と薬草術は教師が同じ事もあって立て続けに授業をする事や、一学年の内は和伍語と付与術、サーディア語と呪術は教師が別であるが、立て続けに授業があるという内容だった。
「大切な事だから良く聴くように。魔力を使う授業があるが、魔力量や質が平均以上あると言っても、魔力欠乏になる事は良くある。震えたり、頭痛がしたり、眩暈がしたり、視野が狭くなったり、目が霞んだり、指先が冷たくなったり、力が入らなくなったり、吐き気を催したりしたら、速やかに魔力を使わないようにする事。それでも無理をして魔力を使うと、魔力が枯渇して倒れてしまう。倒れてしまうとほぼ助からないから、それだけは十分に気を付けて欲しい。死にたくなければ俺が今言った事を忘れずに守るように。この話を聞いていても、必ず死ぬ者が出る。だからもう一度言う」
颯は念の為に繰り返して言ったが、悲しい哉、真面目に聞いている生徒は少数だった。そうこうしている内に、手の空いている教師が「撮影会の現場に向かって下さい」と呼びに来た。
「黒板に書いた通り、理事長と学院長と副学院長二人と学年主任の計五人も一緒に映る。既にいらっしゃるので、挨拶はきちんとするようにな。出来ていなければ、お早う御座いますを百度書いて貰う。書きたくなければ元気良く挨拶をするように。それじゃあ中庭に行こうか」
「ふっ、これでは脅迫よな」
ヌトが小声で言って、玲太郎を苦笑させた。
生徒はそれぞれ席を立って退室し、裏口の正面にある中庭へ向かい、中庭に到着した生徒から理事長達に大きな声で挨拶をしている。玲太郎も元気に挨拶をした。理事長達は既に最前列の長椅子の中央に陣取っていて、生徒は指示のあった通りに理事長達の両脇に立ったり、真ん中の列に並んだり、最後尾の高い踏み台に上ったりした。颯は写真館の人の指示で北側の端に立っていた。少し離れた所に長い柄の上に長方形の枠が付いた物が立っていた。そしてその前にいる撮影者らしき人物が枠の中を見て首を傾げた。
「先生の背が高いから、一番後ろの子達は左側に少しずつ寄ろうか」
そう言って右手で撮影者の右側を指した。後ろの生徒は少しずつ左に寄った。
「はい、その辺でいいですよ。それでは動かないでくださいねー。瞬きはしてもいいです。でも動かないでくださいねー」
暫くの間、静寂に包まれた。
「はい、終わりました」
そう言うと手に持った紙を理事長に見せる。理事長が頷くと撮影者が紙を従者に渡した。
「終わりですから帰ってくださっていいですよー。お疲れ様でしたー」
「ありがとうございました」
玲太郎は撮影者にそう言うと一番に教室へ向かった。星組と海組の生徒も外に出て来ていて、通路に広がっていて邪魔だった。玲太郎が立ち往生していると、バハールが追い付いた。
「月組が教室に戻るから、通路一杯に広がらずに左側に寄りなさい!」
星組の担任が叫ぶと星組生徒が一斉に寄って、道が半分空いた。海組もそれを見て同じように寄り、難なく歩けた。
「気の利かぬ子の多さよ。最初から端へ寄っておけばよい物を……」
ヌトが文句を言いながら玲太郎の前を飛んでいた。バハールが玲太郎の隣を歩き始めると、玲太郎はそれに気付いて一瞥した。
「このチビがウィシュヘンドか」
右側からそう言ったのが聞こえたが、玲太郎は意に介さずに進んだ。バハールは眉を寄せて声のした方に顔を向けたが、今度は問い詰めるような事はしなかった。
「玲太郎は注目の的よな。首席というのも大変な事よ」
ヌトが何気なく言った。玲太郎は鼻で笑うと、バハールと話すでもなく、無言で教室に戻った。
颯が最後に教室に戻ると、全員が大人しく着席していた。瞬時に黒板に書かれていた物が消え、黒板の前に行った颯によって八人の名前が書かれた。
「此処に書かれた者は先程話したように、お早う御座いますを百度書いて貰う。提出は明日だ。生徒手帳を忘れた者も書き写しの提出は明日の十八時までだから忘れないようにしろよ。忘れたら相応の罰を更に与える積りだから心しておくように。これ以上、俺を落胆させないでくれよな」
「先生」
茶髪に茶色の目、褐色の肌をした子が手を真っ直ぐ挙げた。
「ヤンカプジャ君、どうぞ」
気怠そうに颯が言うと、ヤンカプジャが立ち上がった。
「ぼくはちゃんとあいさつをしました。それなのに名前を書かれてるのはどうしてですか?」
顎を少し上げて言った。颯はズボンの衣嚢から黒い石を取り出し、演台に置いた。俄に全ての窓掛けが閉まり、教室内が暗くなった。そうするとその石の上部に映像が流れる。生徒が画面に向かって歩いて来て挨拶をし始めた。ヤンカプジャは黙って椅子に座って俯いた。最後まで見終わると全ての窓掛けが開き、気怠そうな表情をした颯が石をズボンの衣嚢に入れた。
「俺は落胆した。……ヤンカプジャ君に就いては百度は止めて五百度書いて貰う事とする。自分が挨拶をきちんと出来ていなかったと思う者は自主的に書いて来てもいいぞ。まあ、俺もまだ十六の若造だから舐めたくなる気持ちも解る。しかし実際に舐められるといい気はしないな。謝罪の遣り方も知らない者が多いから、全員で、ごめんなさい。もうしませんと百度書いて来るか?」
「あああ……。体内が気持ち悪くなって来た。颯が怒っておるぞ……」
玲太郎の後頭部に回り込んだヌトが言った。バハールが挙手をする。
「ロデルカ君、どうぞ」
「はい」
返事をして立ち上がると大きく息を吸った。
「嘘を吐いて、謝罪が出来ないのは人として最低です。だからと言って、一人のせいで他の者が罰を受けるのはおかしいと思います」
「ロデルカ君は連帯責任という言葉を知っているか?」
「知りません」
「自分が入っている集団の中で誰かが失敗をすると、その集団に入っている皆で責任を負う、というような物なんだけど、全員で罰を受けて貰おうと思う。俺を舐めた罰だ。今後、このような事が起こらないようにする為にも遣る。何か言いたい事はあるか?」
颯の気迫に気圧されたバハールは生唾を飲み込んだ。
「ありません。すみませんでした」
そう言って着席した。颯は連帯責任と黒板に書いた。
「これを、そうだな、二百度書いて来て貰おうか。新しい単語を覚えられるいい機会になって良かったな。これは宿題として、四日に提出して貰う。またこのような事があった場合は、一週間、校舎全体の掃除を遣って貰う事とする。放課後の自由時間を有意義に使えるから素晴らしい案だな。怠けた者がいたら一週間追加にしようか。それがいいな」
生徒に笑顔を向けた。
「少し早いけど一時限目は終わりにする。次は校内の案内をするからな」
颯が教室を出て行くと、少しして一時限目終了を告げる鐘が鳴った。
「あーあ、誰かのせいでオレまで二百回も書かなきゃいけなくなったじゃん。サイテー」
ユリネージが聞こえよがしに声を張り上げて言った。
「そういう事は大きな声で言わないで……」
「ああー、おはようございますも書かなきゃいけないのに……」
八人の内の誰だか判らないが、これも大き目の声だった。
「あいさつしないのが悪いんだろ」
「そう言うユリネージ君も書かなきゃいけないだろ。それに生徒手帳の書き取りもあるんだろ?」
「書く訳ないだろ。あんなザコ教師、お父様に言ってやめさせてやる」
「ユギーネ君、そういう事を言ったらだめだってば……」
雑談をしている生徒が他にもいたが、この三人の会話が一際目立っていた。
「阿呆は何を遣らせても阿呆な結果を生むよな」
ヌトはいつの間にか机に寝転がっていた。不機嫌になった玲太郎はそんなヌトの腹を突いていた。
「突くでないわ」
そう言いながらもされるがままだった。
「颯に玲太郎が腹を突くと密告せねばなるまい」
玲太郎はヌトの絹鼠色の長衣の裾を捲った。すると絹鼠色の裾を絞ったズボンを穿いていた。
「何も穿いておらぬとでも思うたか? 上も下も上着以外に身に着けておるのよ。これ以上は見せぬがな。しかし密告する事が更に増えたな。玲太郎に裾を捲られたと言わねばなるまいて」
玲太郎は捲ったままにして上着の衣嚢から手帳と繰り出し式鉛筆を出した。捲れた上着から寸足らずなズボンや足を写生していると授業開始の鐘が鳴った。
颯が沢山の帳面を両手で持って教室に入って来た。廊下側の一番前の机に帳面を五冊置く。
「一冊取って後ろに送って」
そう言うと隣へ移り、また五冊置いた。それを繰り返し、ヌトを避けて玲太郎の机にも置いた。玲太郎は一冊取って振り返ると残りをバハールに渡す。体を前に向けて<連絡帳>と共通語で書かれた表紙を捲った。すると「連帯責任を二百度」と共通語で書かれてあった。
「罰はこの帳面に書いて貰うから、頑張って埋めて行こうな。挨拶の罰がある者はこれに書くように。忘れずに名前を書いて、必ず毎日持って来るように」
「連絡帳ではなく、宿題帳にすれば良かったのではあるまいか」
立ち上がったヌトが言った。玲太郎は手帳を取ると右手に繰り出し式鉛筆を持って『連絡する事があるのかも知れない』と和伍語で書いた。ヌトがそれを見ると鼻で笑った。
「口頭で言えば済む事であるから、書く程の連絡なぞなかろうて。いや、待てよ。毎日書かされるやも知れぬと怯えさせる為の道具である可能性もあるな……」
玲太郎は手帳に『考え過ぎ』と書くと、ヌトは暫く黙った。その間に帳面に「連帯責任」と書き始めた。颯はそれが視界に入ると苦笑した。
「それじゃあ校舎と校内にある施設の案内をする。中には既に見学をしていて知っている者もいると思うが、後ろにいてくれていいから付いて来るように」
それを聞いて、玲太郎は慌てて手帳と繰り出し式鉛筆を衣嚢に入れた。
「ポダギルグは見学した?」
後ろから声を掛けられ、右から振り返る。
「寮に入った日に校舎だけ見学したのよ。ディッチは?」
「僕はイノウエ先生に案内してもらって全部見た」
「それじゃあ後ろにいようか」
「うん、そうしよう」
生徒の殆どが廊下に出てから、二人はその列に加わった。廊下は幅が十五尺あってとても広い。一列十人の三列に並び、南に向かって出発した。
厠、玄関広間を通り過ぎる。玄関を中央として、南側を南棟、北側を北棟と呼んでいて、一階の南棟には受付兼購買、応接室、医務室、理事長室、学院長室、職員室、用務員室、厠、昇降口、食堂と連なっていた。食堂は開いておらず、中を見る事は出来なかった。昇降口から二階へ行くと、食堂の真上が図書室になっている。中に入って約三十分過ごした。
図書室を出た後は二階にある教室の前を通り、北棟には行かずに、中央の昇降口から三階へ向かった。また北棟には向かわず、南棟の教室を見て回って突き当りに行くと、三階の屋上へ出られるようになっていた。屋上には扶壁があり、更にその上に鉄製の柵があった。それでも景観を楽しむにはよい場所となっている。生徒は散らばって遠くを見ていた。西側にある世界最大のクミシリガ湖を望め、生徒はそちら側に固まっていた。玲太郎は見学をした時、ここには来ていなかった事もあって、見える水平線や小さな山々に心が躍った。約二十分過ごし、その後は中央の昇降口から四階へ行き、四階の教室を見て回ったが、四階から三階の屋上へは行けず、四階の屋上にも行けずに校舎の見学は終わった。
一階に戻ると正面玄関から教師専用の駐舟場に出て、西側にある遊歩道に入り、そこから南へ向いて運動場の方へ行く。左手に運動場を見ながら左へ曲がり、運動場を過ぎた所で校門の前に辿り着いた。そのまま真っ直ぐ行き、左手に屋内訓練所、会館、来賓用の駐舟場、練習用の箱舟や陸船が停まっている屋根付きの駐舟場があり、そこで漸く北に向いて曲がった。敷地内の東側は建物が幾つかあって、職員や用務員や調理師の寮、その寮に住む人達の駐舟場となっていた。そして突き当りを西へ曲がって進み、校舎の北端にある焼却炉を見て、校舎と寮の間の道へ曲がると裏口から教室へ戻った。
「少し早いけど休憩に入る。この後は身体測定があって、月組からになるから厠に行くのなら早目に行っておくように。それから……」
颯は言い掛けて無表情で生徒を見回し、ユリネージの顔を見た。
「俺はザコ教師だそうだな? ザコ教師は心が狭いから、ザコ教師と言った件に関しての謝罪は受け入れないからその積りでいるといい。そして生徒手帳の書き取り、宿題をしなかった場合、三日間の停学処分とする。その場合は学院長を始め、理事長、領主にも全てを話すから、安心して三日間は自室で自習に励んで欲しい。当然ながらご両親へ報告する。それでは皆も良く考えて言動を行うように」
ユリネージは疾うに俯いてしまっていたが、無表情の颯はユリネージを暫く見据えていた。そして退室して行く様子を、玲太郎は眉を顰めて見ていた。
「子供相手でも容赦がないな。颯恐るべしと言った所よな」
何故かヌトが笑顔で褒めていた。玲太郎は衣嚢から繰り出し式鉛筆を取り出すと、連絡帳を開いてまた書き始めた。
「ポダギルグは何をしてるの?」
玲太郎は振り返る。
「もう連帯責任を書いてるのよ。何もしていないのも暇だからね」
「筆記用具、持って来てるの?」
「うん。繰り出し式鉛筆を一本だけね」
「そうなんだ。僕も持って来れば良かったよ……。じゃましてごめんね。続きを書いて」
「分かった。ありがとう」
玲太郎が前を向くと、その様子を見ていた複数人が走って教室を飛び出して行ったが、先頭はバハールだった。玲太郎は目もくれずに書き続けた。身体測定で席を外した時以外は書き続けた。玲太郎の前に着席している颯はそれを見て黙認していたが、それを見て真似ようとした生徒には、休憩時間ではなかった事から寮へ筆記用具を取りに行く許可は出さなかった。連帯責任を共通語で二百度は意外と時間が掛かったが、三時限目が終わる前に書き終えた。
「ご苦労。意外と早かったな」
玲太郎は帳面を閉じると上着の衣嚢から手帳を取り出し、「一つの単語を延々と書き続けると頭がおかしくなる」と共通語で書いた。ヌトはそれを読んで軽く頷いた。
「ま、仕方があるまいて。罰であるからな。それにつけても、明良はおったのか?」
思わず首を横に振った。「いなかった。男子の理事長室にはいなかったから、女子の学院長室か医務室の方にいたのかも」と書くと、ヌトが頷いた。
「今朝は何も言うておらなんだから医務室におるのであろうて。見て来ようか?」
また首を横に振る。「帰りに寄るって言ってたから行かなくてよい」と書くとヌトは玲太郎を見る。
「ふむ。解った。それにしても首を横に振るのは止しておけよ」
そう言うと連絡帳の上に寝転んだ。
「四時限目は何を遣ると言うておった? わしは憶えておらぬわ。ま、退屈な時間である事は確かよな」
ヌトの上着を捲り上げると写生を再開した。
「颯に、玲太郎が何度も裾を捲ると密告せねばなるまいな」
玲太郎は鼻で笑ってしまうと、直後に固く目を閉じた。
四時限目は魔力についての話で、また魔力欠乏や枯渇すると死ぬという話をしていたが、他人事として軽く聞いている生徒が殆どで、玲太郎も自分には起こり得ない事と聞き流していた。魔力の暴走の話をしても同様の生徒が多くて颯を悩ませた。近年、魔力欠乏ですら亡くなる事例が多発していたが、その事実の前でさえも幼い子供には他人事だった。
(まあ、こんなもんか。誰かが実際に倒れるなり、死ぬなりしないと解らないよな。そうなりそうな子は何人かいるし、何れはそれを目の当たりにするだろうけどな)
そう思うと、それ以上は言わなかった。
(ニムとハソに暴走しないように気を付けろって言われてるけど、どうやったら暴走するのかが分からないから、どうにも出来ないよね……。はーちゃんやあーちゃん、ヌトまで僕の傍にいるのは、きっと暴走する可能性があるからだよね。切っかけが分からない以上は気を付けようにも気を付けられないけど、魔力を使う機会が増えるから、気を引き締めなければね……)
玲太郎はいつになく真面目な表情をしていた。颯はそんな玲太郎の顔を見て些か頬が緩んだ。
掃除の班分けを行って四時限目が終わると、やっと間食の時間となった。玲太郎はバハールと一緒に遅れて行く事にして教室に残っていた。颯が玲太郎の前に来ると屈んだ。
「ウィシュヘンド君、何時になく真剣な表情をしていたけど何を考えていたんだ?」
小声で訊いた。玲太郎は眉を顰めた。
「暴走だよ。いつするか分からないでしょ? 気を付けろって言われるから気を付けないとなって」
「それでか。玲太郎が暴走したらどうなるか、想像が出来ないからなあ。そうなったら俺も頑張るけど、俺が傍にいる事を忘れないで、焦ったり、混乱したりしないようにな」
「分かった。はーちゃんが傍にいる事を忘れずに、焦ったり、混乱したりしないようにするね」
そう笑顔で言うと、颯は立ち上がって玲太郎の頭を乱雑に撫でて教室を出て行った。玲太郎は不機嫌な表情をして髪を手櫛で整えた。バハールが笑顔でそれを見ている。
「イノウエ先生と本当に仲がいいんだね。僕も兄上に会いたくなったよ」
「これは仲がよいって言えるの? 普通じゃないの?」
「昨日、入学式が終わった後、アメイルグ公爵とイノウエ先生と他の人と一緒にいただろう? とても仲がよい感じに見えたよ」
「他の人って、父上とばあちゃんの事だ…」
「えっ!? あの黒尽くめの人って大公だったの!?」
その声で教室に残っている生徒が全員バハールを見た。
「うん、そうだよ」
玲太郎は苦笑すると口の前で人差し指を立てた。
「声が大きいから小さくしてね。注目されると恥ずかしいのよ……」
バハールは手で口を覆った。
「ごめん……。人前に出ないって聞いていたから来ないと思い込んでいたよ」
「人前に出ないっていうか、領地に籠ってるだけだと思うんだけど……、でも割と領地の外に連れて行ってくれるね」
「僕も大公と話してみたかったなぁ……」
「そうなんだ。父上も王族だって聞いた事があるから、会ってるものだと思ってたのよ」
「母上は会った事がないって言っていたと思うよ。兄上は会った事があるのかどうかは知らないけど、こちらからは呼び出せない唯一の人だからね」
「ふうん。……まあ、機会があったら話せるんじゃないの?」
そう言ってはみたものの、本当にそんな機会が来るのか、玲太郎は疑問に思った。
「そうだった、さっきの話の続きになるけど、アメイルグ公爵はポダギルグの事をとっても大切にしているんだね。ポダギルグを抱っこしている時、物凄く輝いていたからね」
「えっ、あれを見てたの?」
玲太郎は恥ずかしくなり、顔を紅潮させた。
「うん、母上も一緒に見ていたよ。アメイルグ公爵って本当に綺麗な人だから、周りはほとんど見ていたのではないかと思うよ? アメイルグ公爵以外にも美形が揃っていたしね」
「ああ、そう……。僕は抱っこされてた所を見られてたと思うと、本当に恥ずかしいのよ……」
「抱っこくらい、よいのではないの?」
「ええ? だってもう八歳なんだよ? はっきり言って人前ではしてもらいたくないんだけど」
「あはは。そんなに嫌がらなくても、その内してもらいたくても抱っこしてもらえなくなるよ」
玲太郎は溜息を吐いた。
「そうだとよいのだけどね……」
「それにしてもポダギルグは家族に愛されているね」
「そうだろうか? うーん、大切にされてるとは思うから、そうなんだろうね。ディッチだって王太后様がわざわざ入学式に来てるんだから、愛されてるんじゃないの?」
「うん、そうだね」
二人は微笑み合った。するとバハールの後ろの席にいた生徒が、バハールの隣の席に移って来た。赤銅色の髪に淡褐色の目を持っていて、白い肌をしていた。
「ぼくの名前はヨキヨウ・イスシだよ。二人と同じ八歳なんだけど、仲間に入れてもらえない? それともぼくが平民だからいや?」
バハールは突然の事に目を丸くしたが、直ぐに表情が元に戻った。
「平民だから嫌なんじゃない、そういう言い方をするから嫌なんだよ。僕とは合わないだろうから友達は無理だと思うよ」
そう断言するとイスシは苦笑した。
「ごめん。言い方が悪かったよ。どうやらぼくは失敗をしたようだ。先に食堂に行くね」
そう言って立ち去った。玲太郎はバハールに尊敬の眼差しを向けた。
「ディッチは凄いね。僕なんか思考が停止してたのよ」
「友達になろうと思っているなら、こんな言い方はしないだろうと思ったら、つい言ってしまったよ」
「でもあの子、ディッチの後ろって事は三番目に魔力の質が高いんだね」
「そうだろうね。だからと言って友達になれるかどうかは別問題だよね。でも掃除の班が一緒だから、少し気まずいね……」
「級友だから仕方がないね。まあ、僕もあの子の言い方はないと思うのよ」
「それにしてもポダギルグは名前を覚えるのが苦手なの?」
「苦手なのよ。寮の部屋も僕だけ離れてるでしょ? それで交流がないから余計に覚えられなくて」
苦笑している玲太郎を見て、バハールは微笑んだ。
「僕も名前を覚えるのが苦手なんだ。一度に三十人前後は無理だよね」
「イノウエ先生は、覚える必要はないだろうって言うから、まあよいかって思ってる。飛び級は絶対にするつもりだから、魔術系の授業とか美術とか技術とかはこの組で受けて、受けなくてもよい教科以外は四五六学年の授業を受けに行く予定なの。だから名前は覚える必要もないなって」
「明日から高学年の授業を受けるの? 午睡なしの十四時限目まで?」
「うん、そのつもり。ただ、上手い具合に高学年の授業を受けられないのが問題なんだよね」
「そうなんだね。僕もそのつもりで、授業は魔術系の授業以外は四学年を受ける予定なんだ。ポダギルグの受けなくてもよい教科ってどれなの?」
「共通語と和伍語と算術と地理」
「えっ、そんなにもあるの?」
バハールが目を丸くした。
「うん。その四教科は五学年の教科書を見たけど習い終わってて、六学年の教科書も買って見てみたら習い終わってたから、後は修了試験を受けるだけになってて、復習をやればよい感じだね」
「ポダギルグはいつから家庭教師から習っていたの?」
「四歳くらいだったと思う。その頃は言語と礼儀作法と魔術と、後は何を習ってたんだろうね?」
「そうなんだ、四歳からやってたんだ。僕は五歳になってからだよ。それにしても魔術ももう習ってたという事は、覚醒をしていたの?」
「うん、そうみたい。覚醒をした時の記憶が全くないけど、父上から魔術を習ってたからそうなんだろうね」
玲太郎は改めて覚醒した時の記憶がない事を実感した。
「覚醒式に参加が可能になるのは六歳になる年からだから自然覚醒なんだね。それは凄い。本当に凄い。ここ数百年で自然覚醒するのが難しくなっていると聞いていたのに、四歳で出来てしまうんだね」
「そうだね、僕に関しては出来てるね。でも覚醒が早くて、習い出すのも早かったけど、宙に浮けても動けないのよ」
自分の不甲斐なさに眉を顰めた。
「高所恐怖症である事は話しておかないのか?」
玲太郎はヌトにそう言われて思わず顎を引き掛け、頷く前になんとか止まった。
「……ディッチの覚醒はいつなの?」
「僕は六歳だよ。魔力量も多いし、質も高かったから、魔術の家庭教師が来るようになって教えてもらっていたけど、空中には浮けて、ある程度は動けるまでになっているよ。でも物を浮かせたり、動かしたりというのはやっていないね」
「へぇ、凄いね! 動けるんだね。僕なんて浮くだけだから羨ましいのよ」
「どれくらい浮けるの? 僕は五十ジル(約三尺三寸)くらいだよ」
「僕は一モル(約六尺六寸)と少しくらいだね。高く浮けても動けないんじゃ意味がないのよ……」
「どうして動けないの?」
「動けと言われて動けるものなの? 僕は動けなかったから、ずっと高く浮く練習をしてただけなのよ」
「動き方を教わっていないの?」
玲太郎は首を傾げた。
「うーん、そもそも動くように言われた事がないのかも。浮く練習だけだったと思う」
「そうなんだ。僕も高さが足りないって良く叱られていたよ。だから動く練習に移って、時速計を持って動く練習をしていたね」
「時速は最高どれくらい出せるの?」
「時速二ヤチモル(約一里)くらい」
「八歳でそれだけ出せれば十分じゃないの? 凄いのよ」
「下級免許の取得の最少年齢は八歳だから、それと比べるとちょっとね……」
「それだけ飛べるのに下級免許は取れないの?」
「最低でも時速五十ヤチモル(約二十五里半)が出せないと受けられないんだよ。街での法定速度は時速三ヤチモル(約一里半)前後なんだけど、場所によったらもっと出せるからね」
「そうなんだね。いつも空高く飛んで移動してるから知らなかったなのよ」
「空高くって、上級免許持ち?」
「ううん、特級って言ってたと思う。父上もイノウエ先生もアメイルグ公爵も大抵は上空を飛んでる」
「う…、う…、うらやましー!! 僕の周りは最高でも上級だよ。凄いよ!」
「しーっ」
眉を顰めた玲太郎は口の前で人差し指を立てた。
「声が大きいのよ」
「ごめん。興奮してしまったよ。特級はあるだけで持っている人なんていない、という話を聞いた事があるんだけど、違ったんだね」
「そんなに凄いの?」
「そうだよ。船の大きさは関係ないし、上限速度はないし、高度も関係なく飛べるし、二種を取らなくてもいいし、国境なんて関係ないし、法律ですら色々と無視出来るからね」
「二種って何?」
「一種は人を乗せてもお金は取れないけど、二種は取れる。別の言い方をすると、客を乗せる箱舟とか陸船とか、空船の操縦も出来るという事だよ」
「なるほど、一種と二種に分かれてるんだね。ありがとう」
二人はこの後も雑談を続けて時間を潰し、十一時になると食堂へ向かった。間食と言っても食事に近い軽食で、玲太郎は菓子ではなかった事に喜んだ。二学年以上は通常通りに授業がある事を考慮すれば当然の内容だった。
間食の時間が終わった一学年は掃除があり、五ヶ所を六人組に分かれて掃除をする。玲太郎は割り当てられた月組の教室を掃除していた。颯が掃除道具の場所や掃除の遣り方を指南した。
廊下の東側に水洗い場が点在していて、玲太郎は持ち手の付いた容器を持ってそこへ行き、水を汲んで来て丁寧に机を拭いた。そして窓を拭こうと椅子を持って来て、それに上って手の届く範囲を拭いた。それが終わると水を捨てに行き、雑巾を綺麗に洗って教室に戻り、道具を掃除道具棚に片付けると手持ち無沙汰になってしまったが、それは皆も同じようだった。
颯が確認をして合格を出すと時間より早かったが解散となり、六人は揃って教室を出た。この後は寮の自室の掃除がある。掃除は校舎と寮に三十分ずつ割り当てられていて、休日以外は毎日遣る事になる。
玲太郎は寮長室に入ると、入り口付近に置かれている衣桁の前で立ち止まり、足下に荷物を置いた。靴を脱ぎ、衣桁に掛かっている服掛けを取って上着を掛けて帯革を外し、前立ての留め具も外してズボンを脱ぐと、服掛けにズボンも掛けた。襟元で布に留めている輪を外して上着の下部に付いている左側の衣嚢に入れ、襯衣の留め具を上から外して脱ぎ、それも洋服掛けに掛けた。そして衣桁に乱雑に掛けてあった衣服を着た。室内履きを履くと荷物を持って勉強机へ向かう。
「ふーっ、ここは掃除しなくてもよいって言われてるから、勉強でもしようっと」
「昼寝をすれば良かろうて。早いがな」
「普通の学校は十時からって聞いてびっくりしたのよ。ここは早いよね」
「昼寝はせぬのか?」
「それにしても王弟殿下は良く話すね」
「昼寝は後でするのであるな。解った」
玲太郎は暫く無言になった。玲太郎より少し上に浮いているヌトを上目遣いで睨み付けた。
「どうしてはーちゃんにザコ教師の事を密告したの?」
「よいではないか。本当に言うておったのであるからな」
「僕ははーちゃんに傷付いて欲しくないんだよね」
「あれ程度で傷付くかよ。颯を見縊るでないわ。ま、何かあれば報告をすると約束しておるでな、仕方のない部分もあるのが本当の所よ。ほれ、荷物を置かぬか」
「あ、うん……」
大人しく言われるがままに勉強机に荷物を置いた。
「どうしてああやって人を傷付けるような事を平気で言えるんだろう? 僕には考えられないよ」
「世の中にはあのように捻くれた子なぞ巨万とおるぞ」
「きょまん?」
「沢山という意味よ」
「ふうん、ありがとう。今日ははーちゃんの事をザコ教師って言われて、なんだかとっても疲れちゃったのよ……」
「ふむ。ま、玲太郎はあのような子には近付かぬに限るな。それが一番ぞ」
「分かった。なるべく近付かないようにするね」
「しかしながら、あのような子は何処にでもおるから、避けた所で当たる事もあろうがな」
「それだと避けても一緒なんじゃないの?」
「一人でおる時は無視ぞ。無視が一番良かろうて。それで防げる事もあろう。ま、あの弟の性格からして自ら渦中に突っ込んで行くであろうから、傍におれば巻き添えを食う事も想像に難くないがな」
「ディッチも飛び級をするつもりみたいだし、同じ授業を受ける時間が短いから、大丈夫なんじゃないの?」
「玲太郎は甘いわ。その短い間に何かしら仕掛けてくる可能性もあるぞ? 弟より、玲太郎が一番気を付けねばなるまいて」
ヌトは徒に不安を煽った。玲太郎は段々と不安になって来た。
「え、そうなの?」
「そうに決まっておる。ま、手を出された場合はわしが守るがな」
「ダメなのよ。何もしないで見ているだけにして。ヌトは手を出したらダメだからね?」
「よいではないか。その為に傍におるような物ぞ」
「暴走した時の為にいるんじゃないの?」
「確かにそれもある。それもあるが……、わしが守らねば颯が飛んで来てしまうぞ? その方がよいのか?」
「はーちゃんが飛んでくるの?」
「わしが報せるから瞬間移動で飛んでくるに決まっておろうが」
「ああ、そういう事ね。瞬間移動は見付かると大変だよね……。でもヌトが攻撃をすると、僕がしてるようなものになってしまうでしょ?」
「攻撃なぞせぬわ。防御をするだけよ。であから守ると言うておろうが。ま、わしが守らずとも玲太郎は守られておるからな、何もするなと言うのであれば何もしないでおくが、そうなるとわしが颯に叱られるのよ」
「それじゃあはーちゃんに叱られて。悪いけど……」
ヌトは横目で玲太郎を見る。
「玲太郎は実は薄情よな?」
「いひひ」
玲太郎は悪戯っぽく笑った。ヌトは些か気が抜けたが直ぐに真顔になった。
「わしは何もせぬが、颯に報告はするぞ? そういう約束であるからな。これは反故に出来ぬのよ」
「分かった」
「起こして遣るから少し眠れ」
「うん、そうする。一時間経ったら起こして」
「一時間は眠り過ぎであろうて。半時間にしておけよ」
「後は休日しか昼寝が出来なくなるからよいじゃない」
「それならば一時間な」
玲太郎は頷くと隣室に行って寝室の方へ向かった。靴を脱いで大き目の寝台に上ると掛布団を被らず、そのまま横になった。ヌトはそれを見ると口を開いた。
「お休み」
「おやすみなさい」
そう言って目を閉じると玲太郎の上半身辺りの空間が黒くなる。ヌトは暫く様子を窺っていたが、玲太郎は眠りに就いたようで、それを見て穏やかな表情になった。
十九時半を過ぎると明良が瞬間移動で寮長室に来た。玲太郎は机に向かっていてそれに気付かなかった。
「今晩は」
その声を聞いて体を引き攣らせた。そして声のする方に顔を向ける。
「びっ…くりした……。瞬間移動で来るのは止めない?」
玲太郎は目を丸くしていたが、明良は微笑んでいた。
「駄目なの?」
「心臓に悪いからね」
「それでは玲太郎がいない方の部屋に移動して、扉を叩く事にするよ。それならよいよね?」
「うん。でもこの時間は大抵勉強してると思うから、集中してて聞こえてなかったらごめんね」
「それは悲しいね。やはり直接移動してくるよ」
そう言って笑顔になると、玲太郎は苦笑した。
「何か解らない所はある?」
「今の所はないよ。ありがとう。問題は魔術系の教科なんだよね」
「魔術と呪術と付与術と治癒術と薬草術だね?」
「そう。自分を動かしたり、物を浮かせて動かすなんて出来る気がしないのよ」
「え? 物は浮かせているよね? 玉は浮かせた状態で出しているのだよね?」
「あれは浮かせている内に入るの?」
「そうだよ。……それから、置いてある物を浮かせる事が出来ないと?」
「そうなのよ。出来ないと思うんだけど、どうだろう?」
明良は颯の椅子を玲太郎の横に持って来て座ると、それを見た玲太郎は体を明良の方に向けて居直った。
「先ず、玲太郎は上には移動出来ているのだよね? それは動いているという事にはならないの?」
「ならない。上下じゃなくて、前後左右斜めに、自由自在に動く事ね」
「玉を浮かせた状態で出せるけど、置いてある物は浮かせられないの?」
「浮かせられない。やった事がないから分からないけど出来ないと思う」
「それはもう呪いだね。呪術の一種だよ。出来ないと思い込んで出来なくしているのだから質が悪いよ」
それを聞いて玲太郎は顔を顰めた。
「え……。僕、呪術使ってるの?」
「使っているね。呪縛という物だよ。遣りたい、出来そう、そういう希望を持って挑まなければね」
「やりたいとか、飛びたいとか、出来るとか思っても出来ないのよ」
「根底に出来ないという強い意思があるからね。だから呪縛だと言っているだろう? その呪縛を上回る強い気持ちでいるか、若しくは呪縛から解放されるか。……颯の背丈よりも高く飛べるようになったのは何故だか、自分で理解しているの?」
「あれはねぇ、透虫の存在を少しだけ明かされて興味を持ったのよ。だからどうしても条件を達成したくて頑張ったのよ。そうしたら出来たんだけどね」
「呪縛よりも強い気持ちでいられたという事だね。その時の気持ちを忘れずに、挑戦して行けばよいのではないの?」
玲太郎は自信のない表情をして明良を見ていた。明良は優しく微笑む。
「私では玲太郎に掛かっている呪縛の解呪は出来ないからね。玲太郎の呪縛は玲太郎が解呪をしてね?」
一気に地獄に突き落とされたような気持ちになり、絶望に満ちた表情をすると、明良が玲太郎の頬に手を当てた。
「自分の行動を自分で制限しては駄目だよ? 無限に広がる世界の中にいるのだから、ね?」
「ヌトがいつも玲太郎は出来るって言うけど、あれは本当だったの?」
「そう、本当だよ」
「出来ない事の方が多かったのに?」
「玲太郎、言霊という物を知っている?」
「ことだま? んー、聞いた事があるような、ないような?」
「言葉を口にするとそれが現実となると信じられていてね、玲太郎の場合は正にそれだよね。出来ないと言い、出来なくなる。そして出来ないかも知れないと思い、出来ないと思い込む。負の連鎖という物だね。解呪は玲太郎にしか出来ないから、逆の事をして行くしかないよ?」
「逆の事をすれば解呪が出来るの?」
「出来るよ。但し、出来ると言ったら、そう言った自分を信じて貫き通さないといけないけどね。出来る?」
「出来るも出来ないも……、やらないといけないんでしょ?」
「遣らなければ解呪が出来ないからね」
そう言って笑顔になると、玲太郎は嫌そうな表情をした。
「その表情。それが駄目なのだよ。要は気の持ちようなのだから、負の感情は捨てなければね」
玲太郎の頭を撫でた。
「勉強は出来るのに、魔術になると途端に及び腰になるよね」
「だって、勉強はやったらやっただけ身に付くけど、魔術は思うように出来ないのよ」
「幼い頃から雨や雪や花を降らせる事が出来るのに?」
「あれは使う魔力が少しじゃないから出来るのよ」
「うん? 使う魔力が少しだと出来ないの?」
「少ないと出来ないの。でも浮くのは出来る。後、特大の魔石作り」
「浮く事が出来れば、大型の魔石作りも出来るのだけれどね」
「えっ、そうなの?」
玲太郎は目を丸くした。明良は大きく頷く。
「そうだよ。宙に浮いている時に使用している魔力量を一瞬切り取った量と、大型の魔石作りに必要な魔力量がほぼ同量だからね」
「じゃあ、僕は大型の魔石が作れるって事?」
「うん、作れる。但し、一瞬を切り取った量になるから、練習が必要になって来るけどね。それに、浮く事と魔力の注入とでは要領が違って来るのもあって、仕方がないのだけれど」
玲太郎は少し間を置いて、怪訝な顔をする。
「うん? どういう事?」
「あれ? 知らなかったの? 浮く時は全身から全方位に魔力を放出するけれど、魔力を何かに注入したり、玉を作ったりする場合、大抵はその物の中に一点集中で魔力を放出、詰まり体から離れた場所へ放出するのだよ。魔力を使っていて気付かなかった?」
玲太郎は衝撃を受けていた。
「ぜーんぜん、全く、これっぽっちも気付かなかった。ただ放出するとしか思ってなかったのよ……」
「魔力の注入は物に触れている箇所から出来てしまうからね。……でも玉を作る時はどうしていたの?」
「どうって、魔力棒から魔力を放出して離れた所に出してた。魔力で全部が繋がってるのよ」
「そういう荒業が出来るのに、何故宙に浮けても動けないの?」
玲太郎は少し首を傾げて俯くと暫く黙考する。そして、顔を上げた。
「えっと……、思い浮かぶのは、みんなが飛んでる時に使ってる魔力量じゃないとダメだって思ってるから?」
「それは使用している魔力量が見えているという事?」
「見える訳じゃないよ? 感覚で分かるのよ」
「それで玲太郎が飛ぼうとすると、皆が飛んでいる時に使っている魔力量にならないの?」
「動こうとすると、魔力量がとっても増えると思うから動けないのよ」
「成程ね。……若しかして魔力の総量も判るの?」
「それは分からない」
玲太郎は天上を見上げて顔を両手で覆った。
「あー、それにしても放出の仕方が違うって、どうして気付かなかったんだろう。言われてみれば色々と納得が出来るのよ……」
明良はそんな玲太郎を見て微笑む。玲太郎は姿勢を戻した。
「水伯は心象や想像が大切、颯は想像が出来るから現実でも出来る、だからね。出来ない事もあるというのにね。若しかしたら、二人は教える事に向いていないのかも知れないね」
そう言って暫く黙っていたが、俄に明良の表情が些か険しくなった。
「ああ、玲太郎が魔力を放出した先で玉を作っていたのであれば、確かに物を浮かせる事はまだ出来ないだろうから、練習を遣らなければならないね。けれど、固定は出来ていたから、浮かせる事は早く出来るようになると思うよ」
落胆をしている所に、この言は玲太郎に更なる衝撃を与えた。
「話は変わるけど、何処まで離れた場所に魔術を顕現させる事が出来るかは、魔力量に依って決まるのだよね。だから玲太郎は星の反対側にも顕現させられる力を持っているよ。一周しても大丈夫な程だね。だから自信を持ってね」
「えっ、本当にそんな事が出来るの?」
「出来るよ。颯と何処まで出来るのか試したのだけれど、私達でさえ星の反対側に顕現させられたから、玲太郎なら余裕で出来るよ」
「それじゃあ星全体に雨を降らせるって事も出来ちゃう?」
「玲太郎ならば余裕で出来るね」
「へぇ……。僕ってそんなに凄いの?」
力説されても、全く信じられなかった。
「そうだよ。凄いのだよ」
明良は笑顔で言うが、玲太郎は険しい表情だった。
「知らなかった……。みんなに凄いとか、出来るとか言われるけど、実感がないのよ。今もなんだけど」
「玲太郎の魔力総量は漠然とだけれど判るから凄さは保証するよ」
「そうなの? 僕は分からないのに……」
少し俯いた玲太郎は明良の広げられた両腕に気付くと顔を上げた。明良が満面の笑みを浮かべて玲太郎を見ている。渋々立ち上がると明良の方へ行く。
「あーちゃん、人前で抱っこしないようにしてよね。僕はもう八歳なんだよ?」
明良の膝に乗せられながら言った。
「はーい」
明良は元気良く返事をした。玲太郎は返事をしているだけだと理解していた。
「そうだ、ナダールで魔術を使用する時は呪文を唱えるだろう? それもね、言霊と同じなのだよ」
「へぇ、そうなんだ。教科書に呪文が載ってたけど、あれを唱えると顕現するの?」
「練習が必要だけれど顕現するようになるよ」
「なんだぁ。やっぱり練習が必要なんだね」
「でも実験では呪文を唱えた方が早く魔術を使えるようになったそうだよ」
「それじゃあ僕も呪文を唱えたら宙でも動けるようになる?」
「遣ってみる価値はあるね。授業の時に試してみてはどう?」
「やってみる! 明日早速やってみるから、どうなったか報告するね」
そこへ開扉して颯が戻って来た。明良は左へ向いて颯を見た。颯は閉扉して施錠すると二人を見た。
「お帰り」
「おかえり」
「只今。兄貴、仕事は大丈夫なのかよ?」
「十四時限目が終了したから私も終了。本当は七十分までなのだけれど、学院長が来て帰宅許可を得たからね」
玲太郎を膝に乗せているお陰か、明良が笑顔だった。颯は衣桁の足下にある室内履きに履き替えると二人の方へ行き、自分の寝台に腰を下ろした。
「そうなんだな。それじゃあ夕食はどうする? 食べて行くか?」
「いや、ばあちゃん達と食べるからね。有難う」
「二十時くらいまでいるの?」
玲太郎は体を捩じらせて明良の顔を見上げた。
「今日はね。明日は来られないかも知れないから、このまま抱っこしていてもよい?」
「うん、よいよ。僕も勉強する気が失せてしまったのよ」
「それじゃあ茶を淹れるから向こうへ行こう」
颯が立ち上がると、明良は見上げた。
「私はもう直ぐご飯だから遠慮をしておくよ。でも玲太郎は飲むよね?」
玲太郎に顔を向けると、玲太郎が頷いた。
「飲む。間食だけだとお腹が空くんだよね。食事の時間が開き過ぎてて困ってるのよ」
「それは仕方がないね。それでは向こうへ行こうね」
颯はいつの間にか隣室へ行っていていなかった。明良は玲太郎を抱いて隣室へ向かう。
二人が茶を飲み始めると、明良は二十時になる少し前に瞬間移動で帰って行った。
「あーちゃんと半時間も一緒にいたの、とっても久し振りのような気がするけど、昨日もいたんだよね」
「まあ水伯とばあちゃんもいたからな」
「そう言えば、ディッチが僕の背のうを見て欲しいって言ってたけど、あの手のカバンってどこで売ってるの?」
「さあ? 鞄屋に行った事がないから知らないなあ。俺が使ってる鞄はばあちゃんに作って貰った鞄か、水伯が作った鞄か、お父様に頂いた鞄だからな。自分で買おうとか思った事がないから店も知らないよ」
「そう……」
玲太郎が落胆すると、颯は苦笑した。
「ばあちゃんが作っているという事はだ、何処かで似たような物は売っていると思うけどな。今度の休みは鞄屋巡りでも遣るか?」
「やる!」
俄に元気を取り戻した玲太郎は笑顔になった。
「それじゃあ水伯とばあちゃんにも声を掛けておかないとな」
「あーちゃんは?」
「玲太郎が言うだろ? 兄貴専用の音石を貰っていたじゃないか。それで連絡を取ればいいんだよ。その方が兄貴も喜ぶだろ?」
「なるほど。あれを使う時が来たの……」
颯は鼻で笑った。玲太郎は黒の大き目の湯呑みを持ち上げると茶を飲んだ。
「そうだ、僕達って仲がよいの?」
「唐突になんだ?」
「ディッチが、はーちゃんと僕の仲がよいって言うから、そうなのだろうかって。普通だよね?」
「仲はいいぞ。それもかなりいい方だな。話もしない兄弟っているからな」
「えっ、そうなの?」
他の家の事を知らない玲太郎は、俄に信じられなかった。
「男同士じゃなくて、俺が知ってるのは兄と妹なんだけどな。口も利かないって言ってたよ。視界に入るだけで不快になるんだと」
「へぇ……、そんな兄弟っているんだ。それじゃあそれと比べると僕達は仲がよいね」
「そうだな。うん、家は仲がいいよ、とってもな」
「普通だと思ってたけど、そうじゃないんだね」
「玲太郎にすれば、血の繋がっている兄弟なのに、別の家族という風変わりな兄弟だけどな」
「物心が付いた時からそうだから変わってるなんて思わないのよ。複雑だなとは思うけど、これが僕の普通ね」
「そうだな。…あ、そうだ、兄貴に俺がザコ教師って言われた事は言っていないよな?」
「言ってない」
首を横に振りながら言った。颯は真顔になる。
「言うなよ?」
「分かった。言わない。だから僕の事も言わないでほしいなぁ……」
横目で颯を見ながら言うと、颯は首を横に振った。
「水伯は勿論の事、兄貴も玲太郎の親代わりをして来たから、玲太郎の事はなんでも報告しないといけないんだよなあ」
「どうして僕ばっかり……」
湯呑みを避けて突っ伏した。
「玲太郎は大公令息だから、爵位で威張っている奴にあんな事を言われたら、本当の身分という物を知らしめて遣らないとな。中央の文官程度だから水伯に取っては赤ん坊も同然だし、安心していいぞ」
「僕は大事にしたくなかったのよ……」
「まあ、どうなるか高みの見物と行こうじゃないか」
「はーちゃん、楽しんでるの?」
「うん。だからザコ教師と言われた事は本当にどうでもいいんだよ。ミャーキ・ヤンカプジャには腹が立ったけどな」
「どうしてあんな嘘を吐いたんだろうね? そう言えば、あんな動く絵は初めて見たけど、あれはなんだったの?」
「あれは映像だよ、映像。見ただろう? 音と共に映像を残せるんだよ。上位の音石だな」
「見た。黒い石でしょ?」
「そう。黒淡石って言う半透明の石なんだけど、映像を記録すると不透明になるんだよ」
「ふうん、そんな石があるんだね。知らなかったよ」
「この石は俺が創った。で、記録は魔力を注ぐだけだから誰にでも出来る」
「えっ、僕も出来るの?」
「出来るよ。石に魔力を注げば十分までは記録出来るからな。いるか?」
「欲しい!」
颯は掌を上に向けて、向かい側に座っている玲太郎の前に差し出した。すると掌に半透明の黒っぽい小さな石が顕現した。玲太郎はそれを摘んだ。
「魔力を注いだら記録開始で十分は記録するから。十分経たない内に記録を止めたい場合は魔力を注ぐ。すると止まるからな。記録した映像を流す時も魔力を注ぐ。その時は周りを暗くしないと見辛いぞ」
「わしも欲しい!」
明るい顔でヌトは指を差して言った。差した先には玲太郎が石を右目の前に持って来て集合灯の灯りに翳して見ていた。颯は動かさなかった掌の上にまた顕現させると、ヌトがそれを嬉しそうに手に取った。
「有難う。大切に使うわな」
颯は手を引っ込めた。
「これくらいなら直ぐ作れるし、お安い御用だよ。ヌトでも作れるだろうに」
「それはどうであろう。わしでは作れるようになるまで時間が掛かりそうであるがな。明良や灰色の子は作れるのか?」
黒淡石から颯に視線を移す。颯は玲太郎を見ていた。
「そう言えば、兄貴は作ってくれと頼んで来るな。水伯はどうだろう、百個作って渡したけど何も言って来ないな」
「百個もあれば当分要らぬのではなかろうか」
「そう?」
ヌトを見ると、ヌトは黒淡石を嬉しそうに見詰めていた。
「はーちゃん、この石に魔力を注ぎ過ぎたらどうなるの? やっぱり壊れる?」
玲太郎が摘まんで颯の方に突き出していた。
「試した事がないな。試しに今遣ってみて」
「うん」
玲太郎が摘んでいる石を見詰めた。
「止めて。割れた」
玲太郎はそう言った颯を見た。すると摘んでいた石が消えた。
「特大の水晶十個分くらいまで行ったと思う」
「そこまで耐えるんだな。それなら玲太郎でも余裕で使えるな」
「うん、壊さずに済みそう」
颯は新たに出した石を玲太郎に渡した。
「ありがとう」
両手で受け取ると、颯の掌から何個も落ちて来た。
「三十個あれば当分は大丈夫だと思う。俺のいない時に何かがあったら記録するんだぞ?」
「ありがとう。常に上着かズボンの衣嚢に入れておくね」
「そうしておいても忘れるのではないのか」
ヌトが透かさず言うと、微笑んでいた玲太郎が真顔になった。
「忘れないから大丈夫」
「そう言っても直ぐ忘れるからな」
「忘れないってば。僕がいつ忘れたの?」
「ついこの前よ」
「ヌトのこの前は四五年前だからなあ。下手したら百年以上前とかもあるからな」
「ま、時の感覚が違うのは仕方があるまいて」
そう言いながら裾を上げて腹の辺りに石を入れようとしていた。
「そうであったわ。今日はな、二度も玲太郎に裾を捲られたぞ。甚だ破廉恥ではないのか」
「はれんち? はれんちって何?」
「破廉恥はな、恥ずかしい事を遣る事ぞ。裾を捲るなぞ、普通はせぬ物であるがな。女子相手でも同じ事を遣るのか?」
「女の子にはしないよ」
玲太郎は驚いて目を丸くした。颯は微笑んで玲太郎を見ている。
「どうしてまたそんな事をしたんだ?」
「退屈だったから、寝転がってるヌトの脚でも写生しようかと思って。知ってる? ヌトって短いズボンを穿いてるんだよ。ふくらはぎの途中までしかないの」
二人と一体は雑談をしながら夕食の準備をし、寮の食事時間が来るのを待った。
颯が二十二時に門と玄関の施錠をしに行った後に食事を始め、二十分頃に食べ終えると、玲太郎はまた予習を始め、颯は後片付けに少々時間を取られた後に読書をし、玲太郎が入浴すると颯に告げると、二人は綺麗な下着と寝間着を持って地下へ行く。
脱衣所で衣服を脱ぐと、颯が纏めて一気に洗浄魔術を掛けて綺麗にしてしまった。
「制服の襯衣を三着も作ったのに、これじゃあ意味がないね」
「まあいいんじゃないの。綺麗でも別の襯衣を着ればいい話だしな。それよりも早く入って」
「もう少し待ってよ」
玲太郎は裸のままで先に厠へ行き、颯は浴室の扉を開けた。この扉もまた玻璃で、間仕切りをしている部分も玻璃だった。遅れて玲太郎が浴室に入って来ると、二人は浴槽を覗き込む。
「掃除苔に似ていると思ったら、共生しているんだから驚きだよな。今の所、おかしくなってはいないよな?」
「うん、変わってる所はないと思う」
颯が浴槽の湯を桶で掬うと、玲太郎の頭から掛けた。もう二度掛けると、桶を置いて玲太郎を持ち上げて浴槽に入れた。
「なんだか踏むのが申し訳ないのよ」
「解る。潰れてしまいそうだもんな」
颯も湯を被って浴槽に入った。
「やはり湯船に浸かるのがいいよな。魔術だと簡単だけど物足りないと言うか、味気ないと言うか、湯船に浸かりたくなると言うか……」
「分かる。僕も湯船に浸かる方が好き」
「それにしても、この草、ちょっと育ってる気がするわ」
「そう?」
「うん」
約三十分浸かって、玲太郎が漸く出ると洗髪剤で頭を洗い、颯が灌水浴装置を使って洗い流した。蛇口の開閉は玲太郎がしている。次に石鹸で体を洗って、また颯が灌水浴装置を使って洗い流した。交代して今度は颯が髪を洗い、体も洗った。終わると玲太郎を出して、灌水浴装置を使って綺麗に洗い流す。浴室から出る時には玲太郎や颯はさる事ながら、浴室内も乾いていた。脱衣所で下着と寝間着を着てしまうと、ヌトが待っている寝室へ行った。
「風呂なぞ入らずとも綺麗に出来るであろうに」
玲太郎の後ろにいる颯に言うと、颯は鼻で笑った。
「もう染み着いているから仕方がないなあ」
「次は一緒に入ろうよ」
「わしはこの衣服が脱げぬのよ」
「ふうん、そうなんだ。だったら着たまま入ればよいじゃない。乾かせるんだから平気でしょ」
ヌトはそう言われて返す言葉がなく、横目で玲太郎を見るだけだった。
玲太郎はこの後、二十九時三十分頃になると颯に起こされて厠に連れて行かれ、その後は台所に連れて行かれ、小さ目の湯呑み一杯の水を飲むと、颯の寝台に連れて行かれて翌朝まで一緒に眠った。
四日から授業が始まるが、それも昨日と同じで午前の間食を校舎の食堂で摂った後、掃除をして終了となる。月組の授業は一時限目と二時限目は魔術、三時限目に治癒術、四時限目に薬草術と魔力を使用する授業が続く。玲太郎は魔力量が膨大な為、魔力を使用する事に関して心配はしていなかった。何が心配かと言うと、一時限目は自身を浮かせて移動する練習があり、二時限目には物を浮かせて動かす練習がある事だった。
(自分が浮けるのはよいけど少しも動けないし、物を浮かせた事なんてないから、これもまた時間がかかりそうなんだよね……)
背嚢に今日の授業で使う教科書と帳面を詰め込み、ヌトと一緒に教室へ向かっていた。玲太郎の浮かない表情を見たヌトは懐かしく思っていた。
七時九十分から朝礼がある為、十分前に教室に着いた玲太郎は一番乗りだった。背嚢を机に下ろすと中から魔術と治癒術と薬草術の教科書と帳面三冊に連絡帳、そして鉛筆入れを取り出し、教室の後方にある自分に割り当てられた棚に背嚢を置いた。席に戻ると机に出していた物を物入れに片して着席する。
「早く来過ぎではないのか」
机に寝転がっているヌトが言うと玲太郎は小さく頷いた。
「そうかも知れないね。授業が始まるからって、張り切り過ぎちゃった?」
「颯が早目に行ったからそれに釣られたのであろうが、後五分はのんびり出来たぞ。それにつけても、わしと会話する為の手帳と鉛筆は持っておろうな?」
「きちんと上着の胸の衣のうに入ってるのよ」
そう言って衣嚢に手を当てた。
「でも極力話しかけないでね。つい首を振ってしまったり、返事をしたりしそうになるのよ。お願いだからなるべく静かにね」
「殆どが独り言よ。返事なぞ望んでおらぬわ。…であるが、相手をして呉れてもよいぞ?」
「素直じゃないんだから……」
「む? 気配が一つ、此方に向かって来ておるな」
玲太郎はそれを聞いて黙った。廊下側の腰窓に目を遣ると生徒が通り過ぎて行った。
「うちの組じゃなかったね」
「また来たぞ」
扉が開いて入って来た赤茶色の髪に黄色い肌をした生徒は玲太郎を見た。
「おはよう。早いね」
「おはよう」
返事はしたものの、名前は勿論、皆一様にズボンを着用している事もあって性別すら判らなかった。真ん中辺りの席に座り、教科書を手提げ袋から出している。
「意外と来始めたようであるな」
ヌトにそう言われて玲太郎は戸惑い、取り敢えず窓の外を見る事にした。玲太郎の次に来た生徒が、新たに入室した生徒に対して挨拶を必ずしたお陰で、玲太郎の影が薄くなった。五分前になるとバハールが肩で息をしながら入室し、挨拶をし返すと真っ直ぐ玲太郎の方に向かってきた。
「迎えに行ったのに、もう来ていたのだね」
玲太郎は声のする方に顔を向けた。
「ごめん。そんな話をしてなかったから十分前に来たのよ。そうしたら一番乗りだった」
「そうなんだ。明日からはもう少し早く迎えに行くよ」
「うん、分かった」
バハールは机に手提げ袋を置くと、時間割表を手提げ袋から出し、それを見ながら必要な物を出した。そして棚に向かった頃、颯が入室した。
「お早う。五分前に来ているとはいい心掛けだぞ」
そう言いながら教壇へ向かう。手に持っている教科書と帳面を演台に置くと窓際にある着席した。髪が赤茶の色をした子はそれ以降に入ってくる生徒に挨拶をしなくなった。教室も静かになり、そのまま朝礼が始まる鐘が鳴ると颯は教壇へ行き、演台の前に立つと帳面の方を開いた。
「お早う」
そう言うと教室を見回した。挨拶を返して来たのは少数だった。玲太郎は勿論挨拶をした。
「挨拶の出来ない者が多いなあ。まあいいや。先ず、罰を言い渡したが、その提出は今日の十八時までに職員室へ持って来るように。それでは出席を取る」
帳面に挟んであった万年筆を右手に持つ。
「レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド」
「はい」
「バハール・ディッチ・ロデルカ」
「はい」
「ヨキヨウ・イシス」
「はい」
「ウギヨア・クイザ」
「はい」
「ウジョイン・シンゼイ・ショーザ」
「はい」
「ラド・ベニム・ハバック」
「はい」
「コンハベド・ビスミ」
「はい」
玲太郎が大きな声で返事をした事で、皆も大きな声で返事をしていた。順調に進んでいたが、最後には返事がなくなった。颯が席を見るとユリネージの姿はなかった。
「ユギーネ・ユリネージは何故いないんだ? ホボーア・ネズル・ロジコは従兄弟だったな? 何処に行ったのか、知っているか?」
ユリネージの隣の席のロジコが立つ。茶褐色の髪に淡黄色の目で肌は白く、ユリネージと違って細身だった。
「熱が出ているので部屋で休むと言ってました」
颯とは目を合わそうとしなかった。
「寮では班長の先生にそれを伝えなければならない筈だが、何故伝えていない?」
「……分かりません」
「何故分からないんだ? 一緒に食堂へ行ったんじゃないのか?」
「……」
「何故黙る? 朝食の後で熱が出たのか?」
「……そうです」
歯切れが悪い所の話ではなく、颯は怒る気力もなく、気怠くなっていた。
「へえ、班長にそれを伝えなかったのは何故だ?」
「ユリネージ君がイノウエ先生にそう伝えてと言ったからです」
「ふうん。俺が訊かなければ言わなかったという事は、訊かれなければ言う気がなかったという事になるが、それはどう言い訳をする?」
「……」
「謝罪もなし、か。ロジコ君も貴族だから謝り方を教わっていないのか?」
「……すいません」
蚊の鳴くような声で言うと、颯は気の抜けた表情から真面目な表情に変わった。
「それはさて置き、班長に報せないのは規則違反だなあ。お陰でまた罰を与えなければならなくなったな。今からロジコ君がユリネージ君の部屋に行って、ユリネージ君を連れて来て貰えないか。いや、連れて来て。これは命令だから。制服を着せて、授業に必要な物を持たせて、必ず連れて来るように。もしごてて来ないようであれば、俺が行くから必ず報せに戻ってくれ。解ったら行っていいぞ」
「はい……」
力なく返事をすると退室した。それを見送った颯は顔を正面に向ける。
「知っている者、気付いた者もいるだろうが、ユリネージの父親は奪爵、詰まり爵位がなくなって平民になってしまった」
玲太郎はそれを聞いて衝撃を受けた。声を出して驚いている生徒もいた。
「この中には彼が侯爵令息であった事で難癖を付けられた者もいると思うが、これからはそれがなくなるから安心して欲しい。それでもあの性格が直るとも考え辛いから、また酷い言葉を浴びせられる事があったら迷わず先生に相談をして欲しい。宜しく頼む。今の時点で昨日の罰や宿題を出せる者は此処に持って来て。それでは授業が始まるまで厠に行くなり、話をするなり、自由にしていいぞ」
颯は帳面を閉じるとそのまま立っていた。直ぐに教室が騒めきに包まれた。玲太郎は真っ先に連絡帳を持って行き、席に戻った。バハールを始め、何人かも持って行っていた。
「あの阿呆の子、貴族ではなくなったのか。それにしても急よな。何があったのよ?」
玲太郎は衣嚢から手帳と繰り出し式鉛筆を取り出して『僕が知りたい』と和伍語で書いた。
「ふむ……。颯に訊いてみるか」
ヌトが念話で颯と話をしているのか、暫く机に突っ立ったままでいた。
「知らんと言うておる。颯も知りたいみたいであるぞ」
玲太郎はそれを聞いて些か渋い表情になると手帳と繰り出し式鉛筆を衣嚢に入れた。そこで何かに気付いて後方の棚に行った。背嚢から魔術棒を取り出すと席に戻った。その手に持っている魔術棒を見たバハールが不思議そうな表情をした。
「ポダギルグ、その魔術棒は補助道具ではないの?」
玲太郎は右側から振り返ると頷いた。
「そうだけど、どうかしたの?」
「え? ポダギルグは魔力量が百で質も百だし、必要ないのでは?」
「補助道具は補助道具でも、魔力量を抑える物なのよ。だから僕には必要なのよ」
「そうなのか。魔力量が多いとどうなるの?」
「うーん、どうなるんだろう? そうだねぇ、今の所は玉が大きいくらいかも? だから小さくなるように一所懸命練習をやってたね」
「普通と逆だね。普通は小さいのから始めて、大きくして行くんだけどね」
「ディッチも魔力量は多い方なんだよね? 玉はどれくらいの大きさになるの?」
「確かに八十一あるから多い方だけど、僕は空中で移動する事に練習時間を費やしていたから、玉を作るまでには至っていないんだよ」
「そうなんだ。八十一って、相当多いよね」
「そうだね、百年に一人いるかどうかだって言われたよ」
雑談をしている内に朝礼の終わりを告げる鐘が鳴る。
十分後に一時限目の授業開始を告げる鐘が鳴った。玲太郎は魔術の教科書を物入れから机に出した。演台の前にいる颯が教科書を開く。
「魔力を使う授業を行うが、魔力欠乏になる事が良くある。震えたり、頭痛がしたり、眩暈がしたり、視野が狭くなったり、目が霞んだり、指先が冷たくなったり、力が入らなくなったり、吐き気を催したりしたら、速やかに魔力を使わないようにする事。それでも無理をして魔力を使うと、魔力が枯渇して倒れてしまう。倒れてしまうとほぼ助からない。死にたくなければ俺が今言った事を忘れずに守るように。解ったか?」
返事は疎らで、殆どがしていなかった。
「成程。今返事をしなかった者は解らなかったようなので授業はしない。それでは返事をした者は今から名前を呼ぶ。前に出て来るように。ウィシュヘンド君、ロデルカ君、ビスミ君、タシマイス君、カヴィネズ君、ダヒナーさん」
呼ばれた生徒は席を立ち、教壇の前に並んでいた。
「よし、六人だな。それでは運動場で授業をしよう。先ずは宙に浮く練習を遣る。呪文は頭に入れて行くように。憶えていない者は、もう一度教科書を見て憶えるように。宙に浮ける者は、更に高く浮くか、移動の練習を遣る。それでは何も持たずに運動場に向かって。呪文を憶える者は後から運動場に来るように」
六人の生徒は返事をすると退室した。颯が言った文言が黒板に一瞬で書き出された。
「残りの生徒は自習にする。その前に、宿題としてこの黒板に書かれている文言を帳面に二十度書くように。既に連絡帳を提出した物は、此処に連絡帳があるから持って行って。書き終えた後は教科書を読んで、二時限目に俺が質問をするから、教科書を見なくても答えられるように憶えておいて」
そう言うと退室し、職員室に行き、手の空いている教師に頼んで自習する生徒を見て貰う事となった。
運動場は外側は芝生が生えていて、内側は整地されていたが細かい砂利が散見され、些か滑り易くなっていた。その運動場に出た六人は颯が来ると呪文の確認をして各々で練習を始めた。
バハールは一人運動場の外側を飛んで回り、玲太郎は動く練習を始め、他の四人は浮く事から始めた。それぞれが呪文を唱えていると一人、また一人と浮き始めた。そんなに高くはなかったが、浮けた事に喜んでいた。それを見ていた玲太郎はふと思い出した。
(そうだ、呪文を唱えると早く魔術が使えるようになるから試すんだった。動く呪文じゃなくて、浮く呪文を覚えて来ちゃったんだよね……。これよりも高く浮けるかどうか、試しにやってみようっと……)
いつもは気が重いのだが、今日は何故か軽かった。
「風に戦ぐ一葉の葉の如く軽やかに舞う」
俄に玲太郎が上昇して行った。その速度たるや、ヌトが驚きの余りに身を引く程だった。
「颯! 玲太郎が! 上ぞ、上!」
「わあああ! はーちゃーん!」
焦ったヌトは颯の方に向いて叫ぶと上空を指差し、玲太郎の上昇速度に追い付けないと悟って動かずにいた。玲太郎の叫び声は全く聞こえていなかった。颯はヌトを見てから上空を見上げると瞬間移動で追い掛けた。しかし、寸での所で擦れ違ってしまうし、何かに阻まれている感覚があった。
(何かに邪魔をされているな? なんだ?)
颯は顔を顰めて瞬間移動で追い続けていたが、意外と自分が冷静である事に気付いて笑ってしまった。
「玲太郎!」
傍に追い付いた瞬間に叫んだ。しかし玲太郎は屈み込んで頭を両手で抱えていた。それを三度続けると、玲太郎が頭を上げた。一瞬見える颯に気付くと見下ろした。
「はーちゃーん!!」
玲太郎が叫ぶと、颯が玲太郎の下へ飛んで来た。
「怖いよー!」
そう言って深く息を吐いている颯に飛び付くと、颯は玲太郎を抱き締めた。
「よしよし、もう大丈夫だぞ。落ち着け」
「……うん」
颯に背中を擦られると、颯の肩に顔を埋めて強く抱き着いた。
「何がどうなってこんな事になったんだ?」
「あーちゃんが呪文を唱えると魔術が使えるようになり易いって言うから、試しに浮く呪文を唱えたのよ。そうしたらこんな事になって……」
「成程。呪文を唱えたんだな? それじゃあ止まる呪文を唱えれば止まるんじゃないのか?」
「覚えてない……。止まる呪文は覚えてないのよ。さっきも必要ないと思って聞き流しちゃった……」
「それは澱み、其処に留まる、だよ。止まるまで唱えて」
「分かった。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それはよどみそこに留まる。それ…」
早口言葉さながらに早口で言い続けた。
「止まった。もういいぞ。しかし物凄く高い所まで来てしまったなあ……」
颯は足下を見て、深く感じ入っていた。
「玲太郎、見てみろよ。凄く綺麗な景色だぞ」
「……止めとく。怖い」
「これは見ておかないと損だぞ? 騙されたと思って見てよ」
玲太郎は恐る恐る顔を上げるとそこはもう空の色が違っていた。漆黒の中、数多の煌く星が見え、どこにいるのか、全く見当も付かなった。
「ここ、どこ?」
颯の顔を見ると、颯が玲太郎に顔を向けた。
「何処だと思う? 下を見れば判るよ」
「もしかして夜の所に来ちゃった?」
「違う違う、もっと凄い所に来てる。これは兄貴が知ったら怒るだろうなあ」
玲太郎は辺りを見渡していたが、意を決して颯の肩を右手で掴んで下を覗き込んだ。すると青くて大きな玉が下にあった。
「もしかして、あれ、青星? 僕達が住んでる星なの?」
「そうだよ。誰が見たのかは知らないけど、名前の通り、本当に青いんだな」
「へぇ……。凄いねぇ!」
「また此処に瞬間移動で来るか。今度は兄貴や水伯やばあちゃんやお父様も連れて」
「瞬間移動じゃないと来られない?」
「こんな上空まで飛べるかどうか判らないけど、瞬間移動だと一度来た場所なら飛んで来られるからな」
「ふうん」
玲太郎は星を見入っていた。
「そろそろ戻ろう。授業の途中だよ」
そう言うと瞬間移動で運動場の直ぐ上へ戻ったが、地上では颯が玲太郎を追い掛けた様子を見ていた珊瑚色の髪に茶色の目で小麦色の肌をしたタシマイスが一人で騒いでいた。それを金髪碧眼で白い肌のダヒナーが宥めていると、上空を見続けていた赤茶の色の髪に碧眼で黄色い肌のカヴィネズが何かに気付いた。
「帰って来たんじゃないの? あ、何か見えるよ」
その一言で三人が上空を見上げた。赤い光を点滅させながら颯が下り立つと、四人が駆け寄ってくる。
「先生、どうしたんですか?」
ダヒナーが訊くと、颯は玲太郎を下ろした。
「普通では有り得ない事が起きたんだよ。俺も驚いたわ」
「僕が呪文を唱えたら、物凄い勢いで上昇してしまったから、先生が助けに来てくれたのよ」
「魔力が暴走したの?」
教室へ二番目に来たカヴィネズが言うと、玲太郎はカヴィネズに顔を向けた。
「分からないけど、そうなのかも?」
「無事で良かったね」
ビスミが微笑んで言うと、玲太郎は笑顔になった。
「うん、ありがとう」
「心配して貰って有難うな。それでは少しでも浮けたら、もう少し高く浮けるように練習を繰り返して。ウィシュヘンド君は話があるから残って。では練習再開」
各々が返事をすると離れて行った。颯は屈んで目線を合わせる。
「玲太郎、解っているとは思うけど、呪文はもうなしな?」
「分かった。地道に練習するのよ。でもちょっと休んでもよい? はっきり言って、まだ衝撃が残ってるのよ……」
「抱っこをしようか?」
玲太郎は苦笑すると、颯は優しく微笑んだ。
「運動場の出入り口付近にある縁台に座ってな。落ち着いたらこっちに戻って来てもいいし、そのまま授業を終えてもいいからな。なんだったら兄貴の所に行ってもいいぞ」
「うん、分かった。それじゃああーちゃんの所に行ってくるね。助けに来てくれてありがとう。次の授業には出るから」
「次は教室だからな」
「分かった。それじゃあ行ってくるね」
「ヌト」
颯がヌトに顔を向けると、ヌトは頷いた。
「解っておる」
玲太郎は微笑んで校舎へ向かって行き、ヌトは付いて行った。そんな中、バハールだけは騒動に気付かず、一人で黙々と練習を遣っていた。
医務室の扉を叩いて開けると、執務机に書類を積んで処理している明良がいた。明良が手を止めて玲太郎を見ると表情が一変する。
「また仮病の塵が来たのかと思ったら、天使が来たよ」
そう言いながら満面の笑みを浮かべて立ち上がり、玲太郎の方に向かった。
「どうかしたの?」
屈んで玲太郎の目線に合わせ、顔を見ると玲太郎は苦笑した。そして先程の出来事を話すと明良の眉を顰めた。玲太郎の顔を色々な角度から見てみたり、腕を取って曲げてみたり、あちらこちらを触っていた。
「な、何をしてるの?」
「怪我がないか、確認をしているの」
「大丈夫だよぉ。はーちゃんが来るまで突然の事で驚いただけだし、今もちょっと落ち着けてないだけだから」
「本当?」
「本当」
「それならばよいのだけれど。それにつけても、呪文に其処まで効果があったとは驚きだね。次は呪文を略してみるとか、略すどころか一部だけにしてみるとかして様子を見てみる?」
「はーちゃんには呪文はなしって言われたよ?」
明良は玲太郎を抱き上げて席に戻った。そしてそのまま座ると玲太郎を抱え込んで手を組んだ。
「確かに呪文なしが無難なのだけれど、うーん、呪文はどの呪文で、唱えた時はどれ程度の魔力量を使用したか、憶えている?」
「呪文は、風に戦ぐ一葉ってやつで、魔力量は、そうだねぇ、特大の魔石を作るより多い状態が続いてた感じ? でも良く分からない」
「魔力量からすると私が最高速度で飛んでいる時より多目だね。呪文を唱えた事で放出する魔力量の調整が出来なかったのだろうか? そうだとすると呪文のある魔術がどうなるか、心配になって来るね」
「呪文のある魔術って、……全部じゃない」
「何れも慣れて来れば呪文は略式になるのだよね。でも水伯や颯や私も唱えていないから、玲太郎も本来なら必要ないのだろうね。呪術や付与術は、呪文を唱えると威力が増す事が判っているのだけれど、玲太郎が唱えるとどうなるのだろうね?」
明良は心配よりも、興味の方が上にあるようだった。
「ふうん、そんなに強くなる? それじゃあ僕が描いた図案であーちゃんが作った耳飾りに、呪文ありでお呪いをかけるよ」
玲太郎も同様に興味が勝ってしまった。
「本当? 楽しみにしておくね」
そう言うと玲太郎の頭に頬を付けて沈黙した。
「あーちゃん、どうかしたの?」
「玲太郎が高く飛んだのに、その場にいられなかった事が悲しくて……。何故私は玲太郎が成長する瞬間を見逃して、勉強をしていたり、このような場所に閉じ籠っていたりするのだろうか。これから先も、このようにその瞬間を見逃すのだろうね……」
玲太郎は明良の頭を撫でた。
「よしよし。仕方がないから諦めてね」
「ううっ……」
二人切りの時に明良が良く泣くようになったのは、玲太郎が水伯の養子になった頃からだった。そういう訳で、玲太郎の物心が付いた頃から泣いていた事になる。玲太郎はこうして泣かれてしまうと、理由はどうであれ、とても複雑な心境になった。勿論、ヌトは数に入っていないし、ヌトもそれを解っていて、明良と玲太郎が二人になる時は距離を取るようにしていた。
明良は泣き止むと手巾をズボンの衣嚢に入れた。
「今度は何もなくて良かったけど、暴走と言うより効果が思った以上に発揮されたとか、玲太郎の地力が発揮されたとか、そういう感じだから、それを十分に理解して、暴走しない為にも自分を律するようにね?」
「分かった。気を付けるよ」
玲太郎は明良にもたれていた。そして一時限目終了を告げる鐘が鳴ると、厠に寄ってから教室へ戻って行った。
バハールが運動場から戻り、玲太郎の横で立ち止まった。それに気付いた玲太郎はバハールに顔を向けた。
「聞いたよ。地上から見えなくなる所まで飛び上がったんだって?」
「そうなのよ。自分でも驚いて、気持ちが落ち着くまで医務室にいたんだけどね」
「どこまで上がったの?」
「分からないけど、とっても高かった」
「そうなんだ。高さは十分なようだから、後は移動出来るようになったら課題達成じゃない」
「そう簡単には行かないけどね」
玲太郎は苦笑すると、バハールが笑顔になる。
「きっとすぐに出来るよ」
そう言いながら着席した。
二時限目の開始前に颯が入室し、少しすると鐘が鳴った。それからは颯と生徒の問答があり、それが終わると定型句を口述し、今度は全員が返事をして物を浮かす授業が始まった。
颯が黒板に魔力操作と浮かせ方の図解と呪文を書き、生徒はそれを見ながら挑戦していた。魔術棒を持っている生徒は玲太郎以外にもいて、寧ろ持っている生徒の方が多かった程で、玲太郎が目立つ事はなかった。授業が終わるまでに浮かせた生徒、そうではなかった生徒に分かれたが、玲太郎は後者だった。
落ち込む間もなく三時限目には治癒術の授業が始まる。玲太郎は鐘が鳴った後に扉から入って来た人物を凝視した。脇に抱えて来た箱を演台に置くと辞儀をする。
「校医のアメイルグ公爵アキラ・ジャネシュ・イノウエです。校医ではありますが、この組だけ特別に私が教えます。呼び方は苗字だとイノウエ先生と被ってしまうので、アメイルグ先生と呼んで下さい。それでは治癒術を学んで行きましょう」
玲太郎は開いた口が塞がらなかった。
「おい、玲太郎。呆けておる場合ではないぞ」
机に立っているヌトに言われて我に返った。魔術で遣ってしまわず、自分の手で黒板に何かを書いていた。
「此処に書いた通り、治癒術は万能ではありません。それを決して忘れる事のないようにお願いします」
玲太郎は帳面にそれを書いた。
「今から大事な話をします。魔力を使い過ぎると魔力欠乏になります。簡単に言うと魔力が少なくなっている状態ですね。そうなると震え、頭痛、眩暈、目が霞む、視野が狭くなる、体が冷たくなる、力が入らなくなる、吐き気を催す等の様々な症状が出て来ます。そういった症状が出た場合は、必ずその時点で魔力を使わないようにして下さい。止めずに使い続けた場合は魔力が枯渇して倒れてしまいます。倒れてしまうと殆どの人が死にます。助かる人も中にはいますが、本当に少ないです。そして、助かっても健康だった時のような生活が出来なくなります。何故こういう話をするのかと言うと、必ず倒れる阿呆がいるからです。人は死ぬと、呼吸が止まってから六十三時間で土に還りますが、魔力を使い果たしてで死んだ場合は、その場で土になります。呆気なく土に還りたくなければ、必ず症状が出た時点で魔力を使わないようにして下さい。解りましたか?」
生徒全員が元気良く返事した、ように見えた。実際は数人が返事をしていなかったが、明良はお構いなしだった。
「死にたければ使い続けてもよいですからね。処理は任せておいて下さい。一部を残して、残りは捨てるだけですから」
そう付け足すと教科書を開いた。一年間で習う課題の確認をしてから授業に入ったが、萎れた切り草を元気にする練習、といった内容だった。授業が終わるまでに出来た生徒は玲太郎のみで、それを知っているのは明良と元気になった草を見た生徒だけだった。
薬草術も明良が担当で、治癒術の授業で使った切り草をそのまま使う事になった。四時限目は三時限目と同様に魔力使用時の注意喚起をしてから始まる。明良はやはり教科書の目次を見て、一年間で習う課題の確認をした。
そして、持って来ていた草はモノルで、魔力が馴染ませ易い事と効能を教えた。それから、生徒のモノルの茎を魔術を使って一斉に五等分にすると、それ等全てに魔力を馴染ませる練習が始まった。
治癒術よりも出来ている生徒が多かったが、五切れ全部に馴染ませる事が出来たのは玲太郎だけで、それを知っているのは明良だけだった。
授業が終わる前、明良は個別に草を回収すると少し早目に授業を切り上げた。そうすると殆どの生徒が席を立ち、食堂へと向かった。
まだ着席している玲太郎は後ろから背中を突かれて振り返る。
「アメイルグ先生は物凄い美人だよね。相当持てるんだろうね」
「そうだね、僕もそう思うよ。仮病を使って医務室に来る子が多くて、出禁にした子が何人もいるって言ってたからね」
苦笑しながら言うと、バハールは小さく頷いて納得した。
「そうなんだ。……その子達は病気やケガをしたらどうするんだろう?」
「治癒術や薬草術を教える先生の所に行く事になってるって言ってた」
「出禁でもアメイルグ先生の所に来る事もあるんじゃないの?」
「医務室に入れないように魔術をかけてるって言ってたからそれはないと思う」
「そうなんだね。美人だと大変なんだね……」
「それを言うならディッチもじゃないの? ディッチも美形だからねぇ」
バハールはそう言われて頬を赤らめた。
「美形……。そんな事を言われたの、初めてだよ。とても恥ずかしいね……」
「そうなんだ。アメイルグ先生に美人だねって言うと、ありがとうって返って来るよ?」
「言われ慣れているからじゃないの?」
「イノウエ先生がアメイルグ先生に美人って言うと怒るけどね」
「あはは。態度が違うんだね。ポダギルグはアメイルグ先生に愛されているんだろうね」
「そうだねぇ、それはあるね。僕は末っ子だし、年が離れてるからだろうね」
「幾つ離れているの?」
「アメイルグ先生とは十二歳、イノウエ先生とは八歳離れてる」
「僕は兄上と十六も離れているんだよ。だから年が離れていると可愛がられるっていうのは分かるよ」
「似たような環境だね」
「うん」
「それじゃあディッチもお兄さんにべったりされるんだね? 大変じゃない?」
「べったりされるとは?」
「言葉通りだよ。すぐ抱っこしようとしたり、膝に乗せようとしたり、隣にくっ付いて来たり、とにかく密着されない?」
「されない」
「え、そうなの?」
意外な返事に目を丸くした。バハールは興味があるようで目が輝いていた。
「イノウエ先生とアメイルグ先生の二人ともがそうなの?」
「アメイルグ先生はそうだね。イノウエ先生はそこまでじゃないけど、抱っこは良くしてくれるね」
「凄く仲がよいのだね。アメイルグ先生はポダギルグを溺愛しているのでは?」
「できあいって何? 可愛がられるってこういう事なんじゃないの?」
「それは間違いないんだけど、溺愛は、なんて言えばいいんだろう……。とても愛されてるって事だよ。何をしても絶対に許される、みたいな感じ?」
「うん? それなら違うよ。何をしても許される訳じゃないからね。怒る事もあるんだよ?」
「例えば、何をすると怒られるの?」
「そうだねぇ……、イノウエ先生と二人で出かけると怒る。父上とだと拗ねる。だから必ずアメイルグ先生を誘うのよ。後はイノウエ先生に抱っこされてたり、手を繋いでたりすると時々怒るね」
「それは……、溺愛とは違う、独占欲の話だよ」
「どくせんよく?」
「ポダギルグを独り占めしたいっていう気持ちの事だよ。でも、溺愛しているからこそ、とも言えるかも知れないね」
「なるほど? アメイルグ先生と会ったらできあいしてるのかどうかを聞いてみるね」
バハールは焦って眉を顰めると首を横に振った。
「いやいやいや、イノウエ先生に聞いた方がよいね。本人に直接はちょっと……」
「そうなの? それじゃあイノウエ先生に聞いてみるね」
バハールは頷く。
「イノウエ先生なら客観的に見ているだろうから、溺愛かどうかも分かると思うよ」
「それにしても、ディッチはどうしてできあいなんて言葉を知ってるの?」
「ああ、僕は父上が年を取ってからの子供だから溺愛していたと良く言われるからね、それで意味を調べたんだよ」
笑顔ながら、気恥ずかしいのか、顔を赤らめていた。
「そうなんだね」
玲太郎はそれ以上、その話を広げようとはしなかった。何故かと言うと、バハールの父親は五年前に亡くなっているからだった。
「どくせんよくはどうして知ってたの?」
「それは母上が父上に対して独占欲が強かったという話を聞いたからだね」
「へぇ、そうなんだ。……あ、そう言えば、ばあちゃんがアメイルグ先生は僕に執着してるって言ってたのを思い出したよ」
「しゅうじゃく?」
「一つの事に心を捉われるという意味だよ。僕も分からなくて調べたんだけどね」
そう言うと「ふふ」と笑った。
「なんだかどくせんよくに近くない?」
「うーん、どうだろう。違う気がするけどね」
バハールが苦笑すると、玲太郎は「うーん」と唸った。二人は雑談をして時間を潰し、十一時になると食堂へ向かい、そして教室には誰もいなくなった。暫くすると、一人の生徒が教室に現れた。
一学年は間食時間が終わると掃除時間になり、昨日同様に掃除を始めたが、授業のある教室を担当している生徒は違う場所で掃除をする事になっていた。颯は受け持ちが一学年の魔術のみで、月組の教室は掃除が出来た。昨日より三人増えたお陰でとても早く終わり、それを見ていた颯が生徒を早く帰した。
玲太郎とバハールは上の学年の授業を受ける為にそれぞれが準備を始めた。玲太郎は机の物入れに手を突っ込んで、入れておいた鉛筆入れを取ると背嚢に入れ、上着の内側にある衣嚢に入れていた魔術棒も背嚢に入れた。バハールは机の物入れに入れていた教科書と帳面と鉛筆入れを手提げ袋に入れる。
「ポダギルグはどの組の授業を受けに行くの?」
「僕はね、えっと……」
背嚢から紙を取り出してそれを見る。
「今日の曜日は海だから、六時限目は一学年月組の付与術で教室は四学年海組、七時限は四学年海組のサーディア語で教室は二学年月組、八時限目は一学年月組の技術で教室は四学年月組、九時限目は五学年月組の社会で教室は六学年月組、って感じで十三時限目まで受けるよ」
「午前で終わりだからうちの組の授業はないけど、その時間はどうするつもりなの?」
「そうだね、空き時間はアメイルグ先生が理事長に許可をもらってて医務室で自習だから、授業がないなら空き時間になって医務室行きだね。ディッチも空き時間はあるの?」
「あるからその時間は三学年の授業を受けて復習するつもりだよ。でもそのせいで時間が足りないんだよね。だから夕食前後の自由時間に自習しようと思っているんだけどね」
「まぁそうなるよね。受なくてよい授業が運悪く被るか、逆に受けたい授業が被るかで受けられない教科が出てくるよね」
「それなんだよね、本当に困るよ。所でその紙、見せてくれる?」
「うん」
玲太郎は紙をバハールに渡す。
「ありがとう」
受け取って紙を見ると表になっていて、学年と組と受ける教科と教室が書き込まれていた。
「それにしてもポダギルグはイノウエ先生やアメイルグ先生がいて羨ましいよ。僕の監視役が教師として来ていて、寮の班長になっているんだよね。元は僕の家庭教師だから分からない所は教えてくれるんだけど、余り好きではないから頼りたくなくてね……」
「それじゃあ違う先生に聞けばよいのではないの? 先生は一杯いるしね」
「イノウエ先生に聞けば教えてくれる?」
「大丈夫だと思うよ。担任の先生だし、教えてくれるんじゃない?」
「それでは分からない事があったら、イノウエ先生に聞いてみるよ」
バハールはそう言いながら紙を差し出すと、玲太郎は笑顔で頷いて紙を受け取った。 五時限目が終わると二人はそれぞれ受ける授業の教室へ向かった。
六時限目が始まる頃、颯は月組の教室に来ていたが、玲太郎の席付近に黒い靄が見えていた。
(黒く霞んでいるな。……仕方がない。あれを遣るしかないか)
深く溜息を吐き、一息置いてから握っていた手の中に黒淡石を出し、魔力を注ぐと同時に玲太郎の席にとある生徒が出現した。実物ではなく映像で、時間が大して経過していない事もあって色濃く映し出されていた。出現したそれは玲太郎の机を蹴り、勢い余って机にぶつかると机の物入れから教科書が一冊飛び出て来た。苦痛で顔を歪ませながら暫くは足を擦っていたが、その教科書を拾うと机の物入れを覗いて別の教科書も手にした。それから退室して北へ向かう。颯はそれを追った。
校舎の北側の突き当りには出入口があり、そこを出て行くと焼却炉がある。それは焼却炉の扉を開けると教科書を放り込んで閉扉し、口元を綻ばせて出入口へと向かって姿が消えた。
颯は険しい表情をして焼却炉の扉を開けると腰を屈めて中を見る。火属性を付与された魔石で燃え盛っている炎が見えた。そこには綺麗な状態の教科書があり、颯は手を伸ばしてそれ等を取る。全部一学年の教科書だった。姿勢を戻して裏表紙を捲ると見返しの下側に名前が書いてあった。
(月組、レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド。…………三冊共、玲太郎の物で間違いないな。玲太郎の物に手を出したあいつは絶対に許さない。近い内に死ぬだろうと思って放置をしていたけど、これはどうにも我慢ならんな。生かして底辺の辛苦を味わわせるとするか、やはり死ぬまで放置するか、……うーん、どうするか……)
そこまでを黒淡石に記録すると、燃え上がろうとする感情を抑え、焼却炉の扉を閉めて教室へ戻った。玲太郎が置いたままの帳面を取り出すと、次は医務室へ行く。明良が玲太郎用に机と椅子を用意していて、そこに玲太郎がいた。
「邪魔して悪い。玲太郎、教科書を机に置いたままにする事は駄目だって言ったの、憶えていなかったのか?」
「あっ、後で教室に戻るから置いておこうと思って、そのまま忘れてた」
「机は授業で他の生徒も使うから、置くなら何処だと言ったか、憶えているか?」
「えっと、教室の後ろの棚だった?」
「憶えているのに、どうして棚に置かなかったんだ?」
「ごめんなさい」
颯は教科書と帳面を机に置くと、玲太郎はそれを手に持った。
「次からは気を付けるね」
「まだ一度目なのだから、そこまで言わなくてもよいのではないの?」
「兄貴がそう遣って甘やかすから俺が厳しくしているんじゃないか」
「甘やかしてもよいじゃない。可愛いんだから」
「そういう問題じゃないだろ。偏愛するのは結構だけど、困るのは玲太郎なんだぞ?」
「へんあいって何?」
玲太郎が透かさず訊くと、明良が笑顔で玲太郎を見る
「偏愛はね、ある人を偏って愛する事だよ。私の場合は偏愛ではなく、溺愛なのだけれどね」
「できあいって何?」
また玲太郎が透かさず訊いた。明良は満面の笑みを湛える。
「玲太郎の事が可愛くて愛おしくて堪らない事だよ」
「確かに無闇に可愛がってるから溺愛だけど、偏愛でもあるな」
颯が無表情で言うと、明良が横目で颯を見た。玲太郎は首を傾げる。
「ふうん。僕はあれがあーちゃんの普通だと思ってたけど、できあいしてくれてたんだね。はーちゃんはできあいじゃないの?」
二人は玲太郎に視線を移す。
「俺も溺愛しているぞ。玲太郎が産まれる時、一番楽しみにしていたのは俺だからな。産まれたら兄貴に取られたから、はっきり言って根に持ってる」
そう言って玲太郎から明良に視線を移すと、無表情に戻った明良が颯を見た。
「診療所に通っていた時、面倒を見るのは私が三分の一、颯が三分の二だっただろう?」
「嘘吐け。半分強が兄貴で、半分弱が俺だっただろうが。まあ、兄貴はヌトに任せていた部分が多いんだろうけどな」
「そうだった? でも水伯の所に行ってからは殆ど、本当に殆ど一緒にいなかったよ?」
「いたいた。三四時間はいたぞ」
些か眉を寄せた明良は颯を睨んだ。
「一緒にいないも同然の時間ではないの。……いや、それ程いなかったと思うのだけれど、颯も盛るね。今も本当に一緒にいないのだからね」
「玲太郎だって、兄貴と四六時中いられるかよ。なあ?」
颯にそう振られた玲太郎は首を傾げる。
「うーん、これからあーちゃんと過ごす時間が長くなるから、それでよいと思うけど? って思ったけど、ダメなの?」
そう言いながら明良を見た。明良は笑顔で玲太郎を見る。
「とてもよいと思います。そういう訳で、颯は早く職員室に行くなり、教室に戻るなりしなさい」
颯は不快感を露にした。しかし直ぐに無表情になる。
「まあいいや。それじゃあ行くよ。お邪魔しました」
扉に向かいながらそう言うと、何故かヌトが追い掛けて行こうとした。
「ヌトは僕といないとダメなのよ」
玲太郎が止めると、ヌトは振り返った。
「何故よ? 明良がおるから今はよいであろうて」
颯は扉の取っ手に手を掛けて、振り返ってヌトを見る。
「俺じゃなくて玲太郎といる約束だからな。兄貴がいても一緒にいてくれよ?」
ヌトは些か気を落として玲太郎の方へ飛んで行った。颯はそれを見ると退室した。
「ヌトはさっき、突然いなくなってたよね。はーちゃんの所に行ってたの?」
「ま、そのような所であるな」
「はーちゃんとの約束なんだから、きちんと守らないとダメなんだよ?」
「解っておるわ。わしにも事情という物があるのよ。約束は守るから予習を遣っておけよ」
そう言いながら机に寝転んだ。
「言われなくてもやってますぅ」
小憎らしい物言いをすると明良が嬉しそうに笑った。
「可愛い。本当にとっても可愛いよ。私にもそういう風に言って欲しいね」
「あはは……」
玲太郎は笑って誤魔化して、教科書に目を向けた。
「サーディア語は和伍語よりも難しいね」
「呪術はサーディア語が効果を高めるけど玲太郎には関係ないだろうし、必修教科でもないし、落としても大丈夫だから真面目にい遣らなくてもよいのに」
「呪術は必修じゃないの?」
「魔術系の教科は必修ね。サーディア語が必修ではないのだよ。音楽と美術と技術と体育は落としても大丈夫だから、必修教科と被っていたら、迷わず必修を取るようにね」
「でもはーちゃんは美術と技術は受けておいた方がよいって言ってたよ? 音楽と体育も気晴らしになるからって」
「美術は念写を教えて貰えるからね。技術は無から何かしらを作る時に役立つのは確かだよ。後は礼儀作法を少し教えて貰える筈。音楽は録音音石で音楽を聴いて、音楽家の名前を憶えて、時には歌い、楽器を学ぶのだけれど、気晴らしになるのだろうか? 体育は体を動かすから気晴らしにはなるだろうけれどね」
「あーちゃんって音楽が嫌いなの?」
「好きでも嫌いでもないけれど、教科書を見ても惹かれる物が何一つなかったね」
「そうなんだ……。話がずれるけど念写が技術じゃなくて美術で教えてもらえるのって、ちょっと不思議な感じがする」
「念写は写生のような物だからね。技術は物作り以外に簡単な料理や裁縫も教えて貰えるけれど、どれも卒業したら私が教えるよ?」
「授業を受けてから考えるよ。先生と合わなそうだったら必修を優先して、卒業したらあーちゃんに教えてもらうよ。それじゃあサーディア語の勉強をやってもよい?」
「そう。解った。それではサーディア語の勉強を遣って下さい。解らない所があったら遠慮なく訊いてね」
「うん、その時はお願いします」
「はーい」
笑顔で明良が返事をすると、玲太郎も微笑んでから本に顔を向けた。明良は仕事をしながら玲太郎を気にし、玲太郎は知らない単語を後で意味を調べる事にして書き出し、ヌトは机で寝転んでいるだけだった。
十八時になると職員室にある颯の机は連絡帳と帳面が置かれていた。十八時以降に持ち込まれた物は一切受け取らずに持ち帰らせた。それを見ていた教師達は「イノウエ先生は若いのに厳しい」と口々に言ったが、颯は平然としていた。颯は全ての帳面に目を通し、評価を書き終えると、件の生徒が帳面を持って来なかった事で、方々に連絡を取らなければならなくなった。
(停学にしても、無駄な事をしているような気がするなあ……。まあ、それも一興と思うしかないか)
颯は早速学院長室へ向かい、件の生徒に寄せられた苦情や言動を全て報告し終えると、次に理事長、役所、最後はカンタロッダ下学院が領立である為に領主であるツェーニブゼル侯爵に専用の音石で連絡を取った。本来ならば領役所の下学院教育課に報告をするだけなのだが、ツェーニブゼル侯爵は水伯が持つ爵位だから、という事もあった。
「颯だけど、今大丈夫?」
颯は無言になると暫く待った。
「はい、大丈夫だよ。どうかしたのかい?」
十秒もしない内に水伯が応答してくれた。
「玲太郎の事を貶した子を停学処分にするから、その報告をと思って連絡したんだよ。色々な罰として宿題を与えたんだけど、遣って来なかったから停学三日の処分を下す事にしたよ」
「そうなのだね。解った。それにつけても、その子の親の爵位はどうなっているのか、知っているかい?」
「連絡は来ていないんだな? 学院には昨夜連絡があったらしくて奪爵されたと聞いたよ。今日から平民になっているよ」
「早急に此方の納得出来る対処を要請しておいたのだけれどね」
「それにしても爵位を奪う程の事だったのか?」
「常日頃の行いの結果だよ。我々も決断する時が来たようです、と言っていたそうだからね」
「わ、我々? 若しかして直接乗り込んだ?」
「それは直接乗り込むよね、文官共の長たる国王の所へ。それで今度の件と、文官の陞爵に就いての諫言をしたのだよ。そうしたら昨日の昼前に、その子の親の所属部署を管轄している宰相からユージュニーの所に連絡が入って、我々も決断云々と言っていた、と聞いただけで、その後の事は聞いていないのだよ。そういう訳で、今はその子の一族に就いて調べさせている所なのだけれどね」
颯は水伯の話の内容に面食らった。
「……あれ? 割と本気で怒ってる?」
「無論怒っているとも。私の息子を侮辱したお礼はきちんとしなくてはね。そう言う颯は玲太郎を侮辱されて怒っていないのかい?」
「勿論怒っているよ。これから本気を出す所」
「そうなのだね。子供だからと手加減しなくてもよいからね」
「それなんだよなあ。手加減なのかどうなのか、判断が付かなくて困っているんだよ。聞いて貰ってもいいか?」
「どうぞ」
「前に、対精霊の奇形と言うか、何体か合体したような奇妙な対精霊を見掛けると話した事は憶えている?」
「憶えているよ。だからその類の対精霊を消滅させているのだろう?」
「そう。遣っているんだけど、件の子の対精霊がそうなんだよ」
「それはそれは……。対精霊を消滅させたら、その場で土に還る事もあるのではなかったのかい?」
「あるけど、まだ覚醒して間もないからそうはならないと思うんだよな。だから対精霊を消滅させて、平民として長く生きて貰おうかと思っているんだけど、どう思う? 対精霊をそのままにして、早死にして貰う方がいいと思う?」
「難しい所だね。死んだら何も感じる事はないけれど、生きていれば苦労や後悔をする事がある代わりに、幸福や快楽を感じる事もあるものね。それにつけても、対精霊を消滅させたら魔力も一緒になくなるのではなかったのかい?」
「そうだよ。対精霊を消滅させたら魔力がなくなるから、この学院から去る事になるな」
「それならば平民に落ちている今、対精霊を消滅させて魔力をなくし、そして退学をして貰い、当面は苦痛に満ちた生活を送って貰えれば、溜飲が下がるのではないのかい?」
「それが無難かあ……」
「遣ってみて、溜飲が下がらなかった場合にまた考えればよいよ」
「そうだな。取り敢えず対精霊を消滅させて、俺の視界から消えて貰って、それでも怒りが静まらなかったらその時に考えるよ。有難う」
「それにつけても、ツェーニブゼルにまで奇妙な対精霊がいるのだね。その事に驚いたよ」
「そうなんだよ。思いの外いて、俺も驚いてる。これもどうにかしないといけないんだけど、そうなると生徒数が結構減るんだよな」
「それは気にしないで。募集すれば生徒は集まるからね。存分に力を揮って欲しい」
「そう? それなら一年掛けて殲滅する方向で行くよ」
「済まないけれど、宜しく頼むね」
「それじゃあまた連絡する。その前に週末に会うと思うけど」
「そうだね、週末に会う方が先だろうね」
「それじゃあ切るよ。有難う。またな」
「はい。ではまたね」
颯は音石に触れて通話を切った。深緑色の蓋を閉め、容器を勉強机の一番上の抽斗に入れると寮長室から職員室に近い厠の個室に瞬間移動した。開扉すると廊下に出て、手洗い場で手を洗って一瞬で手を乾かした。そして、職員室に戻った。
十九時になると颯はユリネージのいる寮の部屋へ向かった。部屋の割り当ては入試の成績順となっていて、ユリネージは十二部屋ある中の奥の方にある四人部屋にいた。扉を軽く三度叩くと、暫くして開扉した。見慣れない生徒が立っていた。
「寮長のイノウエだけど、暫くの間、ユリネージと二人切りにして欲しい」
そう言うと三人の生徒は黙って部屋を出て行った。室内は約十五畳の間取りで西側の壁に二段の寝台が二台連なって置かれ、東側の壁には扉の付いた棚が四台並んでいた。その近くには西側に向けられた勉強机が等間隔に置かれ、その中でも一番奥の席に着いていたユリネージは何かをしていたようだったが、颯が部屋に来た途端に彼は俯いていた。
そのユリネージの傍には楕円体に近い物に脚が十本生え、翼が一対生えている上に口が三つ、目が六つ、鼻と思しきものが二つ確認出来る、精霊とは掛け離れた物体がいた。颯はユリネージの背中を睨み付けると、それが白く固まった次の瞬間、霧散してしまった。それから颯はユリネージの傍に行った。
「解っていると思うが、明日から三日間の停学だ。その間は授業のある教科の教科書を書き写すように。本来なら今週は四時限までだが、ユリネージは十二時限だからな。毎日二十三時に寮長室へ帳面を持って来る事。破った場合は停学を延長する。何か質問は?」
「ありません……」
小さな声で答えた。
「ないのか。俺はお前に質問があるんだけど、いいか?」
返事を聞かずに続けた。
「お前、魔力がなくなっているようだけど、このまま学院にい続ける気か?」
颯は扉の方に向かって声を張り上げて言った。突然の事にユリネージは信じられないと言った感じで掌を見詰めた。颯はユリネージの方を横目で見た。
「そんな物を見た所で魔力の有無が判るかよ」
ユリネージはそう呟いた颯を物凄い形相で見上げた。
「魔力測定をしに、明日はエナダリン市にある州庁に行くか? いや、行くしかないんだけどな。州庁は九時からだから、八時九十分に職員室に来い。連れて行って遣るよ」
やはり扉に向かって大声で言った。ユリネージは握り拳を作って机を強く叩いた。
「お前にそんな事が分かるのかよ。ぼくが嫌いだからだましてるんだ……。そうに決まってる」
憎しみを籠めて颯を睨み付けた。
「教師に向かってお前呼ばわりかよ。それはさて置き、魔力もないのに学院に居座られると困るんだよなあ。そういう訳で、魔力測定は早急にしておかなければならない。明日には必ず行くからな。八時九十分に職員室に来なかったら迎えに来るぞ。俺からは以上だ」
また扉に向かって大声で言うと静かに扉の方に行き、扉の前で止まる。
「扉を開けるぞ」
普通に言うと複数の足音が遠ざかって行く。扉を開けると、それでも複数人が残っていて一斉に颯を見上げた。
「通して貰えるか」
そう言うと、この部屋の生徒以外が去って行き、颯は廊下に出て中央の昇降口へと向かって行った。
この話は平民落ちに続いて、瞬く間に一学年の生徒に広がった。
「ユリネージ君、魔力がなくなったらしいよ」
「えっ、ほんと? それだとここにいられないじゃん」
「それはうれしい。名前を聞かれて答えたら、平民だからって体当たりしてきたり、食堂で座ってるとイスをけられたりされてたんだよ」
「お前もマトにされてたんだ。ほかにもそういう子がいるって話を聞いたよ」
「ユリネージがいなくなってもしんせきがいるから、にたような事をしてくるんじゃないの?」
「イトコとかいう子はとめてたよ? だから、だいじょうぶじゃない?」
「そうだといいんだけど。……とにかく、ユリネージ君がいなくなるのなら、本当にうれしいよ」
理不尽に虐げられていた生徒は心底から喜んだ。
一方、ユリネージは掛け布団を頭から被っていた。
(魔力がなくなったなんてうそだ! 授業では鉛筆を浮かせられなかったけど、草には魔力を流せてた感覚がある。うん、たしかにあった。それなのに、なくなってるなんてうそだ……。うそに決まってる。お母様に連れられて行った所で、魔力が上がる術をかけてもらってるんだ。その魔力がなくなるなんて、そんな事があるわけがない……。うそだ、うそだ、うそだ、うそだ。ぜったいにうそだ。魔力がなくなってるなんて、そんな事、絶対ないに決まってる)
颯に言われた事を必死で否定していた。ユリネージはこの後、夕食を口にする事もなく、大浴場に行く事もなく、ずっと寝台にいて颯に恨みを募らせていた。
一方颯は学院長室に行ってこの事を報告した後、大衆音石で州庁に連絡を入れて、魔力測定器の使用の予約を入れた。
翌日、颯は二時限目に入っていた授業を自習にして手の空いている教師に見て貰い、職員室で地図で州庁の場所を確認しながらユリネージを待っていた。八時九十分の少し前に制服を着て疲れた表情で遣って来た。
「お早う。一時限目はきちんと書き取りはしたんだろうな?」
「してねえよ」
顔を逸らして言った。颯は笑顔になる。
「まあ、もう直ぐ退学するんだから停学なんて意味がないもんな。それじゃあ行こうか」
「あら? イノウエ先生はどこに行くの?」
中年の女性が声を掛けて来た。颯は微笑みを浮かべる。
「この生徒が魔力をなくしたんで、念の為に魔力測定を遣りに州庁へ行くんです」
「入学したばかりなのに、それは残念ね。気を付けて行ってらっしゃい」
ユリネージは拳を強く握った。そして、嫌々ながら颯の後ろに付いて行く。颯が正面玄関から出ると、駐舟場に停められている一台の箱舟の前で立ち止まった。
「この箱舟の後ろに乗れ」
ユリネージは言われた通り、後ろに乗り込んだ。颯は操縦席に乗り込むと、振り返ってユリネージがいるのを確認してから上昇を始めた。いつもと違って速度を上げて上昇をしている。一町程上昇すると前進を始めた。
州庁の辺りまで来ると速度を落として千里眼で下を確認しながら方角を微調整し、州庁の駐舟場の真上に来ると下りた。二人は箱舟から降り、颯が場所の特定に少々手間取ったお陰で州庁が開いていた。
中へ入ると受付で魔術課の場所を聞いてそのまま奥へ行き、そこにあった案内板を見て魔術課の場所を確認してから向かった。魔術課の受付に中年の男性が座っていた。
「済みません、カンタロッダ下学院から来たイノウエと言います。魔力測定の予約を入れているんですけど大丈夫ですか?」
そう言いながら学院の職員証を見せた。それを後ろで聞いていた別の男性が受付の方に来る。
「私が予約をお受けしましたフローモルです。測定器はこちらの奥にありますので、そのままこういう感じで回り込んで来てもらっていいですか?」
指で差し示しながら説明した。名乗ったフローモルは茶髪に灰色の目をしていて、中年よりやや老けた印象で、穏やかな雰囲気に似合った丸眼鏡を掛けていた。
「解りました」
颯の左側に衝立があり、それに沿って真っ直ぐ行くと途中で右に行く通路があり、そこに入って行った。職員に案内されるがまま、壁沿いに歩き、一つ目の扉を開けて中に入ると、測定器が何台もあった。
「どれでもお好きな物をお使い下さい。触れる場所は覚醒式で知っていますよね」
フローモルが颯に言うと、颯は笑顔で頷いた。
「知っています。有難う御座います。ユリネージ、此処に触れるんだぞ」
そう言って振り返ると、ユリネージは顔を強張らせて測定器の前に行った。そして半球体の部分に手を置くと、指針が微動だにしなかった。フローモルはそれを見て顔を顰めた。
「魔力がないですね……」
「そうなんです。昨日なくなったんですよ」
「それはお気の毒に……」
ユリネージは別の測定器でも試していたが、指針が動く事はなかった。
「これもまた運命、仕方がないですね」
颯は笑顔で言った。フローモルはそんな颯を見て更に顔を顰めた。
「ユリネージ、もう止めておけよ。測定器を変えても結果は同じで魔力はないからな。学院へ戻って荷物を纏めて貰おうか。お前の家まで送って行って遣るよ」
ユリネージは膝から崩れ落ちると、手を突いて上体を支えた。
「これはお前が遣って来た事の報いだよ。魔力は二度と戻らないから諦めろ」
そう言った颯の顔を仰ぎ見ると、颯は満面の笑みを浮かべた。ユリネージは徐々に顔を歪ませた。
「う、うそだ……。こんな事があってたまるかよ……。……うわあああ」
遂に泣き出してしまった。それを眺めている颯は一切の感情が湧かず、至って冷然としてでいた。フローモルは号泣するユリネージを憐れんで見ていた。
十分後に漸く泣き止んだユリネージは肩を落として動かなくなっていた。颯はフローモルに礼を言うと、ユリネージを促して駐舟場に向かった。
(今は悄然としていても、こいつの性格からして、またあの尊大な阿呆に戻るんだろうなあ……)
颯はそんな事を思いながら、歩調をユリネージに合わせていた。
二人は学院に戻ると、ユリネージが荷物を纏めに自室へ行っている間、颯は学院長に報告をしてから学年主任と話をする為に職員室へ向かった。
話した後、退学に必要な書類を受け取ると、ユリネージの部屋へ向かう。医務室の前を通りかかった時、扉が少し開いていて、明良が顔を出すと扉をそのままにして引っ込んだ。颯は医務室へ入ると閉扉する。そして振り返ると明良が部屋の真ん中に立っていた。
「どうかしたのか?」
「あの件の子の魔力測定に行って来たのだろう? どうだったのかと思ってね」
「ああ、対精霊を消滅させたんだから当然魔力はなくなったよ」
「そうなのだね。それではこれで退学なの?」
「うん、これから家に送って来る」
「わー、大変だね」
そんな事を微塵も思っていない口調で言った。
「それにしても月組には結構あの対精霊がいるけれど、本当に全部消滅させる積りなの?」
「うん、水伯もいいって言ったからな」
「そう。意志は固いの?」
「もうああなっていると、そうするしかないからな。名簿を見て解っていると思うけど、殆どが貴族だから参るよ」
「教師にもいるじゃない。あれはどうする積りなの?」
「一年掛けて徐々に遣って行くよ。目溢しはしないない積り」
「それはご苦労な事で。でも大本を叩かないと堂々巡りだよ?」
「解っているよ。だから兄貴に頼んで探して貰っているだろう?」
「家の調査隊は優秀ではないから、水伯に頼んだ方がよいと思うよ」
「うん? 未だに何も掴んでいないのか?」
「全く以て」
颯は眉を寄せた。
「若しかして……」
「有り得るね。デヒムのお陰で鼠が入り込む余地は腐る程あったからね」
「それ以前からいたんじゃないのか」
「それも有り得る。屋敷と王都邸周りの人材は一部を一新したけれど、それだけでは足りないのようだね。それは追々遣るとして、調査隊は私自ら早急に問い質すしかないようだね」
颯は腕を組んで目を閉じた。
「そうなのか、駄目だったのか。それじゃあ水伯に頼むしかないな。まあ、仕方がないか」
即座に切り替えて明良を見ると、明良は頷いた。
「力になれずに済まないね。お陰で鼠を見付けたかもしれないから礼は言っておくよ。有難う」
「まあ、俺の家の事でもあるから礼を言われても反応に困るんだけどな」
苦笑しながら言うと、明良が本の少しだけ表情が柔らかくなった。
「それじゃあ行ってくるよ。あいつの母親に会うのかと思うと嫌気が差すんだけどな。じゃあな」
「行ってらっしゃい」
颯は医務室を後にしてユリネージの下に向かった。
ユリネージの部屋の前には荷物を纏め終えたユリネージが突っ立っている。大きな鞄二個に纏められていて、重い方を颯が持った。軽い方を持ったユリネージは颯の後ろに付いて行き、先程乗った箱舟に乗り込むと家路に就いた。
物の五分でユリネージの家があるロデルカ市に着き、その端あるゴラス町ガナイ地区外に下り、そこからは公道を通って家に向かった。
侯爵邸にしては小振りの屋敷で敷地も狭かった。箱舟は家の前に路駐して、二人は荷物を持って降りた。門には誰もおらず、ユリネージが自ら開門すると颯は付いて行った。屋敷の玄関扉の前でユリネージが足を止めて荷物を置き、扉の左側にある呼び出し鈴を押した。暫くして扉が開くと、化粧っ気のない茶髪の女性が出て来た。ユリネージの母親だ。
「ユギーネ!? どうしたの!?」
ユリネージの顔を見た途端に表情が一変した。
「ただいま。魔力がなくなったから帰ってきたよ」
俯いて力なく言うと、母親は目を丸くして、息を吸い込んだ拍子に喉笛を鳴らした。
「な、な、な、なんですって!? ……噓でしょ!? 貴方の魔力頼みだったと言うのに……」
そう言うと座り込んでしまい、両手で顔を覆うと嗚咽を漏らした。颯はそれだけで辟易した。ユリネージは荷物を持って中へ入り、母親をその場に残して奥へ行った。
「泣いている所を申し訳ないのですが、担任のイノウエです。書いて頂きたい書類があるのですが、宜しいでしょうか?」
母親が涙を流しながら物凄い形相で颯を睨み付けた。
「呪われた一族の人間がユギーネの傍にいたからこうなったのね!?」
声を震わせながら言うと、颯は苦笑する。
「呪われた一族は、傍にいる者を不幸にするなどといった意味ではありません。そもそも呪われておりません。それに当家は二千年以上続いている伝統のある名家です」
それを聞いた母親はふと何かを閃いた。そして眉を寄せた。
「主人を懲戒免職になるようにしたのはお宅ね!? 名家と言うのなら出来るはずだわ!」
「それはご愁傷様ですが、公爵である兄がユリネージさんの職場に貴族らしからぬ貴族がいると抗議を申入れただけで、馘首になるように仕組んだ訳ではありません。ご主人の常日頃の行いの結果、と聞き及んでおりますが、決定打はユギーネ君が悪態を吐いた事です。馘首になったのでしたら、ご主人もご在宅ですよね。皆さんには是非見て頂きたい物がありますので、中に入っても宜しいですか?」
いつの間にか涙が止まっているの母親は、颯の言を訝しんだ。立ち上がって裳を叩くと姿勢を正した。
「では、こちらへ」
そう言って反転すると、奥へ進んで行った。颯は荷物を持って付いて行く。華美な応接室に通されて、ユリネージに瓜二つの父親と母親とユリネージが揃った。
「先ず、此方の書類に署名をお願いします」
茶色の封筒に入れていた退学届けと万年筆を出すと、父親が無言で書き出した。
「書けたぞ」
書類を颯の方に押し遣った。
「有難う御座います。それでは次に見て頂きたいのは此方です」
ズボンの衣嚢から黒い石を二個出した。すると俄に窓を遮る黒い板のような物が顕現し、部屋が真っ暗になった。
「何!? 急に暗くなったわ!」
母親が騒ぎ出した途端に映像が流れ始め、頭の後ろで手を組んでいるユリネージが映し出された。
「あれが田舎公爵の息子かよ。黒髪じゃん。ヤボったいな」
「だっ、だめだよ、そんな事を言ったら…」
ロジコが言った後に映し出している人物が移り変わって玲太郎が映し出された。
「黒髪はこの生徒の事です。田舎公爵とはウィシュヘンド公爵の事です」
颯が説明をすると映像が途切れた。そしてもう一個の石から映像が流れる。教室で机を蹴り、そこから取り出した教科書を焼却炉に放り込んだ映像が流れ、捲られた教科書の裏表紙に「月組 レイタロウ・ポダギルグ・ウィシュヘンド」の文字が見えると映像が途切れて部屋が俄に明るくなった。母親は俯いているユリネージを睨み付けたが、父親は頭を抱えて俯いていた。その様子を見て颯は頷いた。
「ウィシュヘンド公爵が何者であるのか、ご存じの方がいらっしゃるようで安心しました。私はこれにて失礼します」
黒淡石をズボンの衣嚢に入れ、書類を茶色の封筒に入れると、立ち上がって一礼をし、応接室を退室した。足早に屋敷を出て、箱舟に乗り込むとズボンの衣嚢から懐中時計を取り出して時間を確認した。
(あー、九時五十分を過ぎたか。三時限目に間に合わなかったなあ……。一学年の星組だったよな。少し遅れるけど仕方がないな)
懐中時計を元に戻して上昇をし始める。
(しかし父親は酒臭かったな。まあ、飲みたくなる気持ちも解らなくもないけど、解りたくないなあ)
そこで颯は何かを思い立ち、目を半開きにした。千里眼で先程いた応接室を覗くと、折悪く父親がユリネージの頬を平手打ちしている所だった。暫く見ていると、ユリネージを庇う母親にも手を上げていた。
(ユリネージが尊大なのはこの父親の影響なのか、母親の影響なのか、判らなかったなあ。それよりも、暴力はいかんな……)
そうは思ってもユリネージに対して同情はしなかった。
(有ろう事か、ウィシュヘンド公爵のご子息に手を出すとは、お前の所為で私は……、か。水伯は常日頃の行いの結果だって言っていたんだけどな……。まあ、いいか)
箱舟は颯の出せる最高速度で前進した。
颯が学院に戻って来た頃、玲太郎は二階の南棟で音楽の授業を受けていた。教師は若く、雰囲気の柔らかい女性だった。しかし、玲太郎は彼女の傍にいる対精霊を見て、彼女に対して無関心になったと同時に、音楽に興味がなくなってしまった。
ヌトは机に寝転んで全く話をせず、静かにしていた。玲太郎は上着の衣嚢から手帳と繰り出し式鉛筆を取り出すと、ヌトの長衣の裾を捲って写生を始めた。
玲太郎の四時限目は空き時間で医務室で自習に励もうとしていたが、明良が帳面に共通語の問題を作ってくれていて、それを遣る事になった。よい復習となったが、玲太郎は時間が惜しい気もした。問題を遣り終える前に四時限目が終わって間食時間となったが、玲太郎は動こうとせずに明良と雑談をしていた。
「それにつけても、玲太郎は食堂に行かないの?」
「僕はねぇ、遅めに行くのよ。もう少しして食堂が空いて来たら行く。あーちゃんは行かないの?」
「行かない。屋敷に帰って食べるからね」
「それじゃあ僕の事は気にしないで、行ってもらってもよいよ?」
「そう? それではお言葉に甘えて行ってくるね」
机の一番下の抽斗から「休憩中」と書かれている板を出してくると、それを持って扉の方へ行った。開扉して、扉の外側に付いている鉤に、板に付いている紐を引っ掛けて閉扉した。
「それでは行ってくるね」
「あ、この部屋は鍵をかけなくてもよいの?」
「それでは出て行く時に扉の取っ手に魔力を注いでおいて貰える? 鍵は壊さないようにね」
「分かった。それじゃあ後でね」
「行ってきます」
そう言うと明良の姿が消えた。玲太郎は振っていた手を下ろすと時計を見た。まだ十時九十分だった。頬杖を突いて、寝転んでいるヌトの腹を突いた。
「止めい」
「だって退屈なんだもん」
「暇潰しにわしを突くなよ」
「そう言えば、音楽の先生の近くにいた対精霊、見た?」
「見ておらぬな。どのような物であったのよ?」
「足が全部で八本あってね、多分背中だと思うんだけど、そこから三本の足が生えてた。目も背中に二つあったのよ」
「そうなのであるな。それは気持ちの悪い精霊よな」
「こういう気持ちの悪い精霊って結構いるけど、どうしてなの?」
「そういう不快さが好きで作っておる変わり者がおるのであろうて」
「ふうん……」
玲太郎が気持ちの悪さを思い出して眉を顰めていた。
「玲太郎は外に出ても、そういう物を気にして見ておらなんだだけで、以前からおったぞ」
「そうなの? 全然気付かなかったのよ」
「お、弟が近付いて来たぞ。此処に来るのではなかろうか」
「分かった」
玲太郎は黙った。すると扉を二度叩く音が聞こえた。玲太郎は扉の方へ向かい、ゆっくりと開扉するとバハールが立っていた。
「どうぞ」
そう言って取っ手から手を離して後ろに下がった。
「失礼します」
バハールが中に入ると机が二台、密着して並んでいる事が気になった。閉扉すると中に入って行く。
「あれ? 見学に来た時、こんな机はなかったような気がするんだけど……」
「ああ、僕用に置いてくれてるのよ。とりあえずこの患者さん用の椅子に座ってよ。あ、荷物はこの机に置いて」
「ありがとう」
言われた通り、机に荷物を置いてから丸椅子に座った。
「アメイルグ先生はどうしたの?」
「間食をしに行ってる」
「そうなんだね。一緒に行かなかったんだ?」
「アメイルグ先生は自分の屋敷へ帰ったのよ」
「ああ、そういう事ね」
「うん。ディッチは授業の方はどうなの? あちこちに行くから目が回るんじゃないの?」
「それがね、昨日と同じ教科を同じ学年の別の組で取ってみたら、同じ内容だったんだよ。そこまで考えていなかったから時間割を組み直さなければいけなくて……」
玲太郎は目を丸くした。
「そうなんだ……。僕もそういう感じで取ってるよ。うわー、どうしよう? これはやり直しだなぁ」
「このままにしておいて、同じ内容の授業だったら自習にしようかとも思うんだよ。組によって進み具合も違って来るだろうからね」
「なるほど。僕も一週間の授業を取れるだけ取れるようにとしか考えてなかったのよ。どうするのがよいのだろうね……」
「ポダギルグはアメイルグ先生に教えてもらえるから、その辺は大丈夫なのでは?」
「分からない所は聞くけど、結局は自分で調べさせられるからね」
「そうなの? 優しく教えてくれるものとばかり思っていたよ」
「分からない事は調べる前に教えてくれる事もあるけど、勉強になると基本的には自分で答えを見付けるまでやり直しだよ?」
苦笑しながら言うと、ふと昨日の出来事を思い出した。
「そう言えば、丁度よい具合に溺愛の話が出てね、イノウエ先生が、アメイルグ先生は僕の事を偏愛してるって言ってた。アメイルグ先生は偏愛じゃなくて溺愛だって言ってた」
バハールは苦笑した。
「そうなんだね。その、へんあいって何?」
「偏愛はある人を偏って愛する事なんだって。簡単に言うとえこひいきだよ」
「えこひいきね。分かった。ありがとう」
「愛にも種類があって、良く分からないね」
「愛というもの自体が良く分からないよね」
「うん」
二人は暫く雑談に興じて、十一時が来ると食堂へ向かった。
時間が来ると掃除をしに月組の教室に行き、それが終わると本来は五時限目が治癒術、六時限目が薬草術という時間割の為、玲太郎は医務室へ向かった。
玲太郎は明良に時間割の事情を話して、組み直す手伝いをして貰う事になった。明良は椅子を玲太郎の隣に持って来て座り、早速一緒に組み直し始めた。魔術系の教科、美術、技術、体育を一学年月組で受けて、受けない教科の時間に、受けたい他学年の授業を埋めて行くのだが、これが中々に難航した。結果、ほぼ玲太郎が作った時間割で行く事になった。ちなみに音楽は週に二時限しかないが一時限が授業で埋まり、一時限が空き時間に足されて明良が大いに喜んだ。
(結局ほとんどが僕の作った時間割通りだけど、あーちゃんが喜んでるからまあよいか。……うん? よいのだろうか? ……よいことにしておこう)
些か腑に落ちない玲太郎だった。
「手伝ってくれてありがとう」
「どう致しまして。週末や長期休暇に魔術系の教科を目一杯遣って進めて行こうね」
「えっ、休めないの?」
不満そうに言うと、明良は微笑んでいる。
「出掛ける時以外は遣っておこうよ。日々練習、これが大切だよ。継続は力なりって言う程だからね」
「休みはなしなの?」
「あれ? 飛び級したいのではなかったの?」
「それはしたい、って言うかする」
「それでは宙を自由に飛び回れるようになって、物を浮かせて動かせるようになって、土から最低でも水晶を作れるようになって、無から最低でも鉄鉱石を作れるようになって、無から作る玉を二ジル五ケユル(約一寸六分)以内にして、それを自由自在に操れるようになろうね」
玲太郎は一気に捲し立てられて衝撃を受けた。
「そ…、そんなに出来るようにならないとダメなの?」
「そうだよ」
「今、水晶って聞こえてきたけど、水晶って錬金術じゃなかった?」
「土から作れるよ。結構魔力を使用するのだけれど高品質な物も作れるからね」
「それって錬金術じゃないの?」
「違うよ。魔力の質が百だから高品質の物が出来るみたいだね」
「そうなんだ……。僕には難度が高いと思うんだけど……」
「今すぐ作れと言っている訳ではないのだから、そう否定的にならないようにね。私の希望としては先程言った事が二年以内に出来るようになって、一年で箱舟の免許を習得と思っているのだけれど、どう?」
玲太郎は顔を顰めた。
「どうって聞かれても……。治癒と薬草と付与と呪術もあるのよ?」
「治癒術と付与術と呪術は遣る事が限られているから、薬草術で使う薬草の名前、効能、成分抽出の手順とか、薬草の組み合わせの良し悪しとか、暗記の方が問題だね。六年掛けて習う物を四五年で、となるとやはり時間が必要になって来るよね。魔術系の必修教科の事を考えると、飛び級が出来ても次は三学年か四学年が現実的だと思うのだけれどね」
玲太郎は早口な明良に圧倒されて、思考が追い付かなかった。
「土から何かを作り出す事は、土の玉や岩の玉を作っている事を考慮すれば出来ると思うのだけれど、玲太郎自身が自分を信用していないようだから、逆に時間が掛かる可能性もあるね」
「あーちゃん……、喜ばせておいて、直後にそれをなかった事にするのは止めて……」
玲太郎は落胆していた。明良は優しく微笑んだ。
「ふふ。でも治癒術と薬草術はとても良く出来ているよ。実技は丸を沢山上げられるね」
「そうなの? 授業の時、何も言われなかったから、そうでもないのかと思ってたのよ」
「出来ていた生徒は玲太郎だけだったからね。言うとまた僻む塵がいると思って意図的に言わなかったのだけれど、ご免ね」
玲太郎は微笑んだ。
「出来てたんだったら、それが自信になるから、教えてくれてありがとう」
「その子も退学になった事だし、玲太郎だけ実技は先に進めようね」
「えっ、退学になったって何? 停学じゃないの?」
驚いた様子で明良に訊いた。
「魔力がなくなったからこの学院にいても仕方がないだろう? だから今日、家へ帰って行ったのだよ。颯が送ったのだけれどね」
「ああ……、そうなんだ……」
俄には信じられなかった玲太郎だが、明良が言っている事だから信じるしかなかった。
「阿呆が一人減って良かったではないか。玲太郎もそうは思わぬか」
「良かったのだろうか……。視界にさえ入らなければ、どうって事はなかったんだけどね」
机の端に座っているヌトに視線を遣ると、少し困ったように言った。
「でもその子の従兄弟がいた筈だよね? 従兄弟はどうなのだろう? やはり塵なの?」
「阿呆を制止しようとはしておったから、その分は増しなのであろうがな」
明良の問いに答えたヌトはまた玲太郎の方を向いた。玲太郎は俯いて何かを思案しているようだった。
「そうなんだねぇ……、魔力がなくなるなんて事があるんだねぇ……」
「あるね。私も何十人と見て来たのだけれど、時にはそのまま土に還ってしまった子もいるよ。歩いていて急に土に還る、とかね。魔力の代わりに生命力を使った所為ではないかと言われているけれど、確かめようがないのが現状なのだよね」
「えっ、生命力を魔力の代わりとして使っちゃうの?」
「そうらしいね。質の低い魔力の持ち主は、魔力と生命力を同時に使っていると言われているね。だから短命なのだそうだよ。それもあって魔力を使い過ぎないように魔道具の開発が盛んになって、それに魔力なしの人が増加傾向なのもあって、数百年前から文明が発展しているようだね」
「魔道具の開発が進んで文明が発展したのは社会で習ったけど、理由は魔力を持っている人が減って来ているから、ってそれだけだったけどね」
「下学校ではそれでよいからね。兎にも角にも、使用している魔力量を抑えれば問題はないけれど、酷使する人が多いのもまた事実だからね」
「そうなんだ。……僕もいつか突然に魔力がなくなるの?」
不安そうな表情で明良を見ると、明良は優しい表情を見せた。
「それはその時にならないと判らないけれど、私はなくならないと思っているよ。基本的には、魔力がなくなる時は死ぬ時だからね。例外もいるけれど、玲太郎は例外に成り得ないから大丈夫だよ」
自信満々で言う明良の表情を見ていると、玲太郎も不安が和らぐのを感じた。
「玲太郎の魔力がなくなる事なぞ、ないであろうて」
玲太郎はそう言ったヌトを見て微笑むと、ヌトはそれを見て上体を後ろに倒した。玲太郎はまた明良のに顔を向けた。明良がをそれに気付いて僅かに目を丸くした。
「どうかした?」
「それで、例外がいるって言ってたけど、例外はどんなの?」
「ほら、あの子だよ。名前は……思い出せない。今日、家に帰って行った子ね。魔力がなくなっても生きているから、例外だろう?」
「ああ、そうだね。生きてるもんね」
玲太郎は軽く何度も頷いている内に思い浮かんだ事があったが、それは口に出さなかった。
「それにしても玲太郎は昼寝はしなくても、本当に大丈夫なの?」
「うん、さっきも言ったけど平気。終わってから少し眠るから」
「一二学年は午睡の時間があるのだから、ここで眠ればよいのに。空き時間に此処で眠ってもよいよ? どうせ放課後の自由時間は自習をするのだよね?」
「それじゃあ、眠くなったらそうさせてもらうね。ありがとう」
「授業中に眠くなったら、遠慮せずに来てね?」
「分かった。ありがとう」
笑顔になった玲太郎を見ると、明良は立ち上がった。
「それでは私も仕事を再開するね。玲太郎も時間まで自習だよ? どの教科を勉強するのか、決めているのだろう?」
そう言いながら椅子を持ち上げて元の位置に戻すと座った。
「うん、決めてる。薬草の種類と効能を覚えようと思ってる」
机に置いていた背嚢から教科書と帳面を出し、鉛筆入れも出すと背嚢を机の一番下の抽斗に入れた。明良は玲太郎の持って来ている教科書が二学年の物である事に気付く。
「一学年の薬草術は遣らないの?」
「習うからね」
「一学年では魔力のない植物を扱って、二学年では魔力が少し含まれている植物になるから、其処は間違わないように気を付けてね」
「そうなんだ。そこまで見てなかったのよ」
「学年が上がる度に魔力含有量が増えるからね、扱いも段々と難度が上がるのだよ」
「それは大変そうだね」
「玲太郎なら大丈夫だよ。魔石作りで魔力を注ぐ事に慣れているし、植物も育て慣れているからね」
「僕、薬草師を目指すのもよいね。向いてそうだよね?」
「そうだね。それはよいかも知れないね。私のように道半ばで希望の職業が変わってしまう事があっても遣り直せるから、それは気にせずに夢に向かって行ってね」
そう言った明良の微笑みが些か寂しそうに見えた玲太郎は頷くだけだった。
「あーちゃんは、今は何になりたいの?」
「私? 私は玲太郎の傍にいたいのだよね」
それを聞いて苦笑した。明良はお構いなしに笑顔で玲太郎を見る。
「なるべく一緒にいられるように努力するからね」
「無理しなくてよいからね」
「ううん、私がそうしたいだけだから、どんな無理でも押し通して行くよ」
玲太郎は反応に困って取り敢えず頷いた。
「でも無理しないでね」
「はーい」
明良が満面の笑みを浮かべると華麗な雰囲気に包まれた。玲太郎も釣られて笑顔になった。
九時限目が終わって十四時八十分になると、寮で昼食を摂る玲太郎は寮長室へ戻って行った。
残りの四時限は呪術と魔術と空き時間で、授業がない為に医務室にいる事になり、背嚢に入れていた教科書の中から二学年の薬草術の教科書と帳面を避けると、それ以外の教科書と帳面を机の上置き棚に立て掛けた。鉛筆入れを背嚢から出し、それを薬草術の教科書の上に置いた。玲太郎と颯の机の間に本棚があり、そこから薬草図鑑を取り出すと、それも机に置いて椅子に腰掛けた。すると何が物音がして、音がした方を見ると、颯の机にいるヌトがどこからか黒い石を出して来ていた。
「もらった黒淡石、もう使ったの?」
「そうではない。颯の机の中にあったのよ。何が映っておるのか、見てみようと思うてな」
玲太郎が目を丸くした次の瞬間、眉を顰めた。
「えっ、そういう事はしない方がよいと思うよ?」
「わしは気になるので見るが、玲太郎はそう言うのであれば見ぬようにしておいて呉れぬか」
「ええ? 見るの? 止めておいた方がよいと思うよ?」
俄に室内が暗くなると映像が流れ始めた。玲太郎は顔を両手で覆って見えないようにする。
「ふむ、これはあの阿呆の子か」
「興味が湧いて来るから黙って見てよ」
「ならば見るがよい。どうという事はないぞ」
そう言われて両手を離すと映像に視線を遣った。丁度ユリシーズが机を蹴った所だった。そして痛がりながらも教科書を拾い、机から更に出して来た教科書を手にすると教室を後にした。
「何を遣っておるのよ? あの教科書は玲太郎の物ぞ」
「え? 本当? あの机、僕のだったの? 途中からだから分からなかったのよ」
「玲太郎の机ぞ」
暫く廊下を歩いたと思ったら外に出て、焼却炉に向かい、その扉を開けて教科書を放り込んだ。そして扉を閉めた後、ユリシーズが不敵に笑うと画面に向かって歩いて来て姿が消え、代わりに誰かの腕が映り、焼却炉の扉が開いた。画面がその中に移り、燃え盛る炎の中に無傷の教科書があって、手を伸ばしてそれを取ると裏表紙を捲って持主の名を映した。三冊共、玲太郎の名が書かれている。
「これは何? ……え? 僕の教科書、捨てられたの?」
「そのようであるな。それにしても燃えておらぬとは、何時の間に誰がそのような魔術を掛けたのよ?」
「それよりも教科書はあるのに、どうなってるの?」
ヌトは室内の明るさを元に戻して、颯の机の中を透り抜けて石を元に戻した。玲太郎は室内が明るくなると直ぐに上置き棚にある教科書の背表紙を見て、捨てられていた筈の教科書が三冊、きちんとある事を確認した。
「その黒淡石はどこにあったの?」
「鍵の掛かる抽斗の中よ。以前より興味があって、探ってみたかったのよ」
「破廉恥な」
ヌトがそう言った玲太郎を見ると、玲太郎が莞爾として見詰め返して来た。
「言われたから言うてみたかったのか? それにつけても、何が記録されておるのか、頗る興味があったから仕方があるまい? 玲太郎も見たのであるから共犯ぞ」
「ぐっ……」
玲太郎は変な声を漏らすと、手で口を覆った。
「はぁ……、見るんじゃなかった……」
「時既に遅しよ。これは、昨日の午前中であると思うのであるが……。玲太郎が教科書を置いたままにしておったであろう? あれから颯が教科書を持って来るまでの間の事であろうて」
「なるほど。……でも僕は何もしてないのに、どうしてこんな事をされるの? それが分からないのよ……」
悲しみに顔を顰めた。ヌトは軽く二度頷いた。
「ま、阿呆の遣る事なぞ気にせずともよいと思うがな。理由があったとて、仕様もない理由に違いなかろう。考えるだけ時間の無駄という物よ。そのような時間があるのであれば、学ぶ事に時間を使うた方が有意義ぞ。それに飛び級をするのではなかったのか?」
「うん、する。絶対にする」
「では、先ずは食事をせねばならぬな。颯も良く食べ、良く学んでおったわ」
「そうだね。丁度そういう時間だしね」
玲太郎がそう言って頬を緩めると、ヌトは玲太郎の机に飛び移った。
「解っておろうが、これは秘密ぞ。誰にも言うでないぞ?」
「大丈夫。誰にも言わない」
「これが灰色の子や明良に露見すると、あの阿呆は只では済まぬぞ」
「そう?」
「灰色の子は農奴に落ちるまで追い込むと思うのであるが、明良は何を遣るか判らぬからな。玲太郎は直ぐに、普通と言うが、それを当然のように受け取ってはならぬぞ。己が溺愛されておる事をそろそろ自覚するが良かろうて。ま、わしが言えた義理ではないがな。……いや、言うてもよい立場となったか? ……なった事にしておこう」
そう言うとヌトは自ら頷いて、釣られて玲太郎も頷いた。玲太郎は普通だと思っていた周囲の態度が溺愛から来る物だと、徐々にではあったが理解しつつあるようだ。
暫く薬草図鑑を見ていたが、バハールが昼食に誘いに来て、一緒に食堂へ向かった。その後は校舎に戻り、十三時限目が終わるとまた間食時間となって医務室までハバールが玲太郎を迎えに来ると、一緒に寮の食堂へと向かった。
間食後、一人になった玲太郎はヌトに勧められ、隣室で少し眠る事にした。
「玲太郎、そろそろ起きた方がよいのではないの?」
ヌトではなく、明良に起こされた玲太郎は起き抜けに時計を見た。十九時半を少し過ぎた頃だった。
「あれ……? 今日も早めに終わったの?」
「そうだよ。四五十分眠ったようだから起こしたのだけれど、もう少し眠っていたかった?」
「ううん、半時間でよい感じ」
そう言いながらも半分眠っているような状態だった。夢現の玲太郎を抱き上げると玲太郎の靴を持ち、寮長室へ行って玲太郎の寝台に玲太郎を寝かせた。暫く玲太郎の寝顔を見ていたが、寝台に腰を掛け、玲太郎の靴を床に置いた。
「何故此方に移って来たのよ? 彼方でも良かったのではないか」
明良はヌトを睨み付けるだけで無言だった。ヌトはその理由が判らず、それなりに気になったが、玲太郎の机に寝転んだ。すると明良が玲太郎の耳元で何かを囁くと、玲太郎はそれに答えていた。明良は眉を顰め、それ以上は何も言わなかった。
五分程して明良が玲太郎を起こすと、今度はきちんと起き上がって、不思議そうに部屋を見回してから首を傾げた。
「うん? 僕が眠ったのって、こっちじゃなかったよね?」
「違うけれど此方に連れて来たよ。颯が帰って来るのを、この部屋で待つよね?」
「んー、そうだね。あーちゃんに抱っこされる夢を見たと思ったんだけど、現実だったんだね」
「そうなるね」
玲太郎は寝台の端に行って床を見ると靴を見付けた。それを見ていた明良が靴を取って玲太郎に履かせた。
「ありがとう」
「どう致しまして」
寝台から下りると机の方に行き、椅子に腰を掛けた。
「私がいるのに勉強を遣るの?」
「だって今日は一杯話をしたよ? 勉強した方が短かったんじゃないの?」
明良はそう言われて露骨に気を落とした。玲太郎はそれを見て驚いた。
「あっ、僕も話せて楽しかったから今日はよいのよ。本当は授業がなかったんだからね」
慌てて言い直すと、明良の表情が少し明るくなった。
「けれど、そうだね。これからは気を付けなければならないね。玲太郎も飛び級するのだから」
控え目に言うと、玲太郎は頷いた。
「まあ、たまには一杯話そうね」
「うん、そうしようね。なるべく邪魔しないように気を付けるからね」
悲愴な表情になって言うと、玲太郎は困惑してしまった。玲太郎の前では割と明確に表情を見せるのだが、今は違っていた。
「今日は沢山話したから、そろそろ帰るね」
立ち上がると玲太郎はつい手を振った。
「父上とばあちゃんによろしく伝えてね」
「うん、解った。それではまたね」
玲太郎の返事を聞かずに瞬間移動で消えた。玲太郎は深く溜息を吐いた。
「あれは拗ねちゃってるなぁ……」
ヌトに言ったが、ヌトは無反応だった。腹癒せに寝転んでいるヌトの腹を突く。
「突くなと言うておろうが」
素っ気なく言ったが、玲太郎は止めなかった。
「拗ねておると言うより、逃げた感じよな。ま、優しく接して遣ればよい話よ」
「それで機嫌が直ればよいけどね……」
「先程なぞ、玲太郎が完全に目が覚めておらぬ時に、私と颯、何方と風呂に入りたい? と訊いておったわ」
「えっ、そんな事を聞いてたの?」
「そうしたらな、玲太郎が、はーちゃんと迷わず言うておったからな」
「まあ、事実だから仕方がないよね……」
「その上、相手をせずに勉強を遣ろうとしたのだから明良は傷心よ。仕方があるまいて」
玲太郎は漸く突いている手を止めた。
「明良は強いのであるが玲太郎には弱いから、此度はちと哀れよな」
「そうやって僕を責めないでよ。まあ、一緒にいる時はなるべく傍にいるようにするね」
「そうして遣れ」
上置き棚からサーディア語の教科書を取り、次に帳面を全部取った。その中からサーディア語の物を探して、それ以外を棚に戻した。そして知らない単語を書き出し始める。書き終えると本棚から辞書を持って来て、単語の意味を書き出した。そうしている内に颯が帰って来た。
「只今」
「おかえり」
「お帰り」
玲太郎は帳面に顔を向けたままで、ヌトは寝転んだままで言った。颯は靴を履き替えると、そんな玲太郎の傍に行く。
「サーディア語か。解らない所はあるか?」
「ん、今は大丈夫。ありがとう」
「うん。それはさて置き、食材を買いに行こうと思うんだけど、どうする? 一緒に来る?」
「行く!」
颯の方に顔を向けるのと返事をしたのが同時だった。颯は笑顔になる。
「解った。それじゃあ冷蔵庫の中を確かめて来るよ」
「玉子がもうないよ?」
「玉子かあ。それじゃあヤニルゴルへ行って玉子と、大き目の燻製肉を買っておくか。まあ、今ある物を確認して来るよ」
「はーい」
颯は隣室への扉を開放したままにして行った。暫くして戻って来ると閉扉し、自分の机に行くと抽斗から財布を取り出した。その奥にある黒淡石が、小さ目の箱の中に入れてあったのにも拘らず、何故か蓋の空いた別の箱の中に入っていた。颯はそれを摘むと箱に入れて抽斗を閉め、玲太郎の方に行くと寝転んでいるヌトの右腕を摘んで持ち上げ、目線を合わせた。
「お前、黒淡石の記録映像を見たな?」
「見た」
「玲太郎も一緒に?」
「見た」
「見た、じゃねえぞ」
颯は語気を強めた。それを聞いた玲太郎は思わず姿勢を正した。ヌトは震えている。
「どうしても見たかったのよ。済まぬ。あのような内容であるとは思うておらなんだから……」
「だからって許可を得ずに見るのは駄目だろうが」
「済まぬ……。それ以上怒らんで呉れぬか。体中が気持ち悪いのであるが……」
険しい表情の颯は玲太郎を見る。そしてヌトを放すと膝を折って玲太郎を見る。
「玲太郎、どうして一緒に見たんだ?」
玲太郎は心配そうな表情の颯の方に顔を向ける。
「最初は見てなかったのよ。でもヌトが映像の事を言うから興味が湧いて、それで見ちゃって……」
「見た通り、ユリネージは玲太郎の教科書を塵のように捨てた。これは虐めの一種だから、玲太郎の目に触れないようにと思っていたんだけど、ご免な。気分を悪くしただろう? まあ、ユリネージは退学になったから、二度と会う事もないだろうし、安心していいからな」
「うん……。でも僕は何もしてないのに、どうしてこういう事をされるの?」
「それは遣る奴の性根が腐っているからだよ。虫の居所が悪いという理由だけで、自分の気に入らない相手を狙って害する奴も沢山いる。こういう事をする奴は矯正の仕様がないから放置が一番だ。何があっても相手にするなよ? 何かあったら直ぐ俺に言うようにな。解った?」
「うん、分かった」
「それじゃあ靴を履き替えて買い物に行こうか」
「うん!」
二人は立ち上がると靴を履き替えに衣桁に向かった。
「紅茶に牛乳を入れ過ぎるから、牛乳も買っておかないとなあ」
「お米はあるの?」
「米は大丈夫。そうだ、小腹が空いた時の為に菓子を買っておこうか。購買に売ってる食べ物は、手っ取り早く腹が膨れるだけで美味しくないんだよな。安いからいいかっていう程度だからなあ」
「購買で食べ物買ったんだ?」
「買った。薄い焼き菓子が十枚入っている物と、堅くて薄い焼き菓子が二十枚入っている物を一つずつ」
「そうなんだ。それでも足りなそう」
「それなんだよ。本っ当に足りないんだよな。午前中は間食を二度にして貰わないと足りない。あ、ヌトは留守番だからな」
玲太郎の肩に手を触れていたヌトは颯の方を向いたが、玲太郎の頭が邪魔で見えなかった。
「わしも一緒に行くぞ」
「だからお前は駄目だ。今日は留守番な」
「何故よ?」
「勝手に黒淡石の記録映像を見ただろう? 罰が必要だから留守番な。付いて来たらハソとニム同様、家に帰れよ?」
ヌトはそう言われて不服だったが従わざるを得ず、大人しく引き下がった。颯は玲太郎を抱き上げると、何も言わずに瞬間移動をして消えた。残されたヌトは颯の寝台に寝転んだ。
二人は先ず王都一の繁華街に行って菓子を買い、それから野菜を買いに王都の生鮮食品街に行って色々と見繕って買い、最後に学院近くのヤニルゴル地区で燻製肉と牛乳と玉子を買った。
三十分足らずで帰って来ると、二人は隣室の台所で冷蔵庫に入れたり、暗所に置いたりしていると、二十時十分が近付いて来て、颯が閉門する為に退室した。
片付け終えた玲太郎は買って来た菓子を持って寮長室へ戻ると、菓子を颯の机に置いた。室内履きに履き替えに行き、颯の寝台の傍に来ると立ち止まった。
「ヌト、眠ってるの?」
颯の寝台で俯せになっているヌトに声を掛けた。
「眠っておる訳がなかろうて。一応反省をしておるのよ」
「ふうん、そうなの。どう反省したの?」
「玲太郎にあのような映像を見せてしもうた事はわしの不徳の致す所。こういう事が二度とないように、黒淡石の記録映像を見る時は颯に必ず許可を貰う、と思うておるのよ」
そう言っているヌトの胴体を掴むと持ち上げた。
「何を遣っておるのよ?」
玲太郎は自分の机にヌトを仰向けにして置くと椅子に座った。
「勉強を遣ろうと思うから、傍にいてもらおうと思って」
「わしは颯の寝台で横になっておりたいのであるがな」
「そう言わずにここにいてよ。ね?」
「…………」
ヌトは黙って寝転んでいた。玲太郎は目を閉じているヌトを見て、勉強の続きを始めた。
颯は戻って来るなり、室内履きに履き替えた。
「玲太郎、茶は要らないよな?」
「後二時間くらいでご飯だけど、もらう」
「それじゃあ少な目にしておこう。俺は腹が減ってるからたっぷり飲もうっと」
「えー、いつも通りでよいと思うのよ?」
「ふうん。それじゃあ何時も通りでたっぷりと入れるわ」
二人は話をしながら隣室へ向かい、ヌトは二人気配が遠ざかると颯の寝台に移った。
茶を飲んだ二人が戻って来ると、玲太郎はまたヌトを自分の机に連れて行った。颯は本棚の前に立ち、読む本を選んでいた。
暫くは選んだ本を読んでいた颯は頃合いを見計らって米を研ぎに隣室へ行った。そしてそのまま戻って来なかった。玲太郎は休憩を挟みながらサーディア語の勉強を続けた。休憩中は拗ねてしまった明良の耳飾りの図案を描いていた。
二十二時になる少し前に颯が門と玄関の施錠しに行き、戻って来ると夕食となった。玲太郎も颯と一緒に隣室へ向かう。今日は茄子の揚げ浸しと、燻製肉と晩茄と甘藍の炒め物に目玉焼きが乗っていた。それと汁物は野菜が沢山入った味噌汁だった。颯が温め直して、玲太郎が食卓へ運ぶのを手伝う。二人は対面に座ると、挨拶を済ませて食べ始めた。
「食堂のご飯も美味しく感じるけど、はーちゃんの方が断然美味しいね」
「それは有難う。でもやっぱりばあちゃんのご飯の方がいいな」
「そんな事ないよ。僕大好き」
颯は鼻で笑うと白飯を頬張った。それを見て玲太郎は茄子を頬張り、数度咀嚼すると白飯を頬張る。とても美味しそうに食べていた。颯はそんな玲太郎を見て嬉しくなった。二人共が綺麗に食べ終えてしまうと、食後には茶碗に緑茶を入れて寛いでいた。
「それで、兄貴のご機嫌取りは何にするのか、もう決めたのか?」
「うん。耳飾りの図案を描いてるのよ。最近描いてなかったから、丁度良かったかも」
「ふうん。喜んで貰えるといいな」
「でも拗ねてるからね。またねって言う前に消えちゃったのよ」
「玲太郎の事が好き過ぎて頭がおかしくなっているから仕方がないな」
「…………」
玲太郎は困ったような表情をすると、両手で茶碗を持って茶を啜った。
「それにしても、僕が誰と風呂に入るのがよいと思ってるのか、どうして気になるの?」
そう言うとまた茶を啜って、茶碗を食卓に置いた。
「玲太郎がある時、俺と一緒に入ると言い出したんだよ。それからずっと一緒に入ってるからか? その頃の玲太郎は、あーちゃんよりはーちゃんがいいって言ってたよ。最近まで時々でも兄貴と一緒に入ってただろう?」
「うん。でもあーちゃんはね、僕の事を赤ちゃん扱いして全部洗ってくれるんだけど、それが嫌なのよ」
「成程」
「僕はもう八歳なんだからね?」
「解っているよ」
「はーちゃんだって、僕の事をすぐ抱っこするじゃない」
「確かに。抱っこした方が視界に入っている分、安心なんだよな」
「手を繋いでたら、その感触があるじゃない」
「それはそうなんだけど、下を見ないと視界に入らないからな」
「あーちゃんもすぐ抱っこするけど、そういう理由なの?」
「密着してるからとか、傍にいる実感があるとか、そういう理由だと思うけど、実際の所は本人に訊かないと判らないなあ」
「聞いても抱っこされるんだろうから、聞かなくてもよいね……」
「抱っこはもう諦めろ。俺も止める気はないからな」
「…………うん」
玲太郎は気が少々滅入ったが、また茶碗を両手で持って茶を啜った。颯は一気に半分飲んだ。
「やはり緑茶の方がしっくり来るなあ」
そう言って茶碗を置くと頷いた。
「そう? 僕は紅茶も緑茶も好きだけどね」
颯は玲太郎を見て鼻で笑った。
「今おかしい事を言った?」
「兄貴と同じ事を言うんだなと思って」
「そうなの?」
「うん。前に水伯と緑茶だよなって話をしていたら、兄貴は何方も好きだけどね、だと。似る所は似るんだな」
玲太郎が笑った。
「どっちも嫌い、どっちも好き、どっちかが好き、しかないじゃない」
「それはそうだけどな」
玲太郎は茶碗に視線を落としていたが、それを颯に移した。
「それ以外に似てる所はある?」
颯はそう訊かれて視線を上に遣った。
「それ以外かあ……。うーん、そうだなあ……」
そう言って玲太郎に視線を戻す。
「本が好きな所とか、自信がない所とか? 兄貴は意外と自信がないんだよなあ。玲太郎は正にそうだろう? だから直ぐに出来ないと言って逃げるんだよな。話は逸れるけど、それが許された環境にいたんだよな。学校に通い出した今、それは出来なくなってしまったけどな。まあ、自ら望んでそうなった訳だけど、俺は心配で心配で仕方がないよ」
玲太郎は痛い所を突かれて苦い表情をしていた。
「ああ、顔は全然似ていないよ?」
「それは分かってるのよ。僕はイノウエ家の初代当主に似てるんだよね? 父上が言ってた」
「兄貴は誰もが認める美人だけど、悠ちゃんも綺麗な顔をしていたんだよ。憶えていないだろうけどな。玲太郎は俺寄りの顔だよな」
「そう? はーちゃん、まつ毛が長くないよ?」
「自分で長いと認めるんだな」
「あーちゃんに、私より長いねって言われたのよ」
「そうなのか。それなら認めざるを得ないな」
「視界に黒い物が見えると思ったら、まつ毛だった」
「それは大変だな」
「それが普通だから、もう慣れてるけどね」
颯が玲太郎の長い睫に視線を遣ると笑った。
「何がおかしいの?」
「玲太郎が赤ん坊の頃、その長い睫の毛先を触っていたなあと思って」
玲太郎は怪訝な表情をすると鋭い目付きで颯を見た。
「はーちゃんって僕に色々してるよね? 舐めたりとか、まつ毛触ったりとか……。それ以外にも何かしてるんじゃないの?」
「それ以外なあ……」
腕を組んで目を閉じる。
「うーん、おしめ交換したりとか、乳飲ませたりとかだな。沐浴は兄貴がしていたしなあ。散歩は最初は兄貴がしていたけど、途中から交代していたな。絵本を読む時は大抵兄貴に取られて、俺とは遊んでいたなあ……。それから後頭部が絶壁にならないように、頭の位置を小まめに変えていた時は、兄貴と俺とで半々と言った所だろうか」
目を開けると食卓に肘を突き、前のめりになる。
「そう言えば、兄貴が良く二月、四月、六月、九月、十一月、十三月が二十四日、それ以外が二十五日、一週間は八日、曜日は日、月、星、海、火、水、風、土で一日三十時間、一時間百分とか吹き込んでいたよ。それは三歳頃まで遣っていたと思うんだけど憶えているのか?」
「覚えてない」
首を横に振りながら即答した。そして不満そうに颯を見る。
「なんか誤魔化された気がするなぁ……」
颯は頬んで頬杖を突いた。
「赤ん坊の頃はそんな感じだったぞ。兄貴が診療所に通うようになって、玲太郎を連れ出していたから、そこからがまた別の意味で大変だったんだよ。ばあちゃんが作った離乳食を診療所で温めて食べさせていたんだけど、一時食べなくなってしまって困ってな、それで家にいる事になったんだけど、家にいても食べないから更に困って、色々試した結果、離乳食を止めたら食べるようになった、なんて事があったんだよな。あの時は本当に焦ったなあ」
颯の優しい眼差しを注がれている玲太郎はその光景を思い浮かべていた。暫くして我に返る。
「誤魔化される所だった。……舐めたり、まつ毛を触ったりした以外に何かしてない?」
「変な事はしていないぞ。そもそも舐めたのも、飲ませていた乳が垂れた物を舐め取っただけだしな。それよりも玲太郎こそ、俺の目を目掛けて手を伸ばしていたぞ。水伯も兄貴も遣られたって言っていたからなあ」
「そんな事をした覚えがないんだけど?」
「それはそうだよ。赤ん坊の頃の話だからな」
颯は茶碗を持って茶を飲み干すと静かに置いた。
「そう言えば、玲太郎は兄貴に抱っこされると、決まって静かになって寝ていたなあ。俺が抱っこすると話し始めて寝かせる事が出来なかったから、それにも困ったな。懐かしいわ」
「その話は耳にタコが出来るくらい聞いた」
苦笑しながら言うと、颯が微笑んだ。
「今も兄貴の傍にいると眠くなる事はあるのか?」
「ああ、うん。あるね。抱っこされてると心地好くなって、ほわーっとして眠くなるのよ。あれはどうしてなんだろうね?」
「さあ? 俺が知りたい。兄貴が初めて抱っこした時からだからな。泣いていた事が嘘のように静かになって、あれは今でも鮮明に憶えているよ」
懐かしそうに言うと、玲太郎は苦笑したままだった。そして残っていた茶を呷ると茶碗を持ったまま立ち上がった。
「ごちそう様。僕はそろそろ勉強して来るね」
「お粗末様。解らない所があったら後で教えるから」
「うん。その時はお願いね」
笑顔で言うと茶碗を持って台所へ行き、調理台の上にそれを置いて寮長室へ戻った。颯の寝台で寝転んでいるヌトを見付けると、また掴んで自分の机に運んだ。
「捨て置いては呉れぬのか?」
「うん。傍にいてね」
「……」
机に仰向けで寝かせると、先程の続きを始めた。ヌトは真面目に勉強をし始めた玲太郎を一瞥すると、目を閉じた。
玲太郎は休憩がてらに入浴して、湯船に浸かっているとふとある事に思い至った。
「はーちゃん、屋敷の浴槽みたいに、この浴槽をこのまま沈めれば良かったんじゃないの?」
「屋敷みたいに広くないんだぞ? そんな事をしたら跳ねた泡や飛沫が入るからな。掃除苔が共生していても、湯が綺麗になるには少々でも時間が掛かるんだぞ? 気持ち悪くないか? 掃除苔にしてみたら、餌が入って来て嬉しいかも知れないけどな」
玲太郎は最後の一言でおかしくなって、「ふふ」と笑った。
「そうだね。そこまで考えてなかったのよ」
「此処も水伯の屋敷にある浴室みたいに広ければなあ」
玲太郎は暫く無言でいた。
「それでも屋敷の時はずっと一緒に入ってたよね。あれはどうして?」
「習慣、だろうか? 一人で入りたいというような事は言われたけど、一緒に入りたくないとは言われなかったしな。今頃どうしてそんな事を言うんだ?」
「なんか、ふと思って。……そうだね、そういう事を思った事がなかったのよ。どうしてなんだろう……」
そんなどうでもよい事を考え出した玲太郎は約三十分浸かると、体を洗う為に颯に浴槽の外へ出して貰った。明良の事を思うと、些か憂鬱になる。




