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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第十一話 しかして王都の建国祭

 たちまち三年と約十二ヶ月が経ち、今年も四月四日が巡って来た。玲太郎は七歳になっていたが、身長は三じゃく七寸と全く変わらないままだったが、それは魔力の事を思えば当然の事だった。

 明良と颯は学校に通い出したと同時にイノウエ邸へ引っ越し、その為に玲太郎との接触は朝八時頃と夕食時、それ以外は颯だけが休日前に宿泊し、休日は明良も含めて一緒に過ごす程度に減っていた。

 ヌトは颯に付いて行き、一緒に学校に通って授業を受けている。その為、玲太郎は一人でいる時間が長くなり、より一層植物へ傾倒する事となった。そのお陰で魔術の練習に身が入るようになり、種から花を咲かせるまで成長を促進させる事が出来るまでになっていた。今日も朝から魔術棒を片手に温室で花を咲かせて彩を添えていた。

「そんな狭い所にいっぱい咲かせると、花がきゅうくつで可哀想だよ。もう少しすき間を作らないと」

 ホンボードの孫、ウログレの息子であるエネンドが言った。エネンドは玲太郎の三歳上で今年十二歳になる。身長は既に五尺五寸あって、三尺七寸の玲太郎を見下ろしていた。

「そう? 体を寄せ合って咲いてるのがよいのに……。それじゃあ一旦抜いて離すしかないね」

「オレは円匙えんしを取りに行ってくる」

「僕も行くよ」

「レイはそろそろ魔術の練習に行かなきゃいけないだろ? オレがやっとくから屋敷に戻りなよ。次に会うのは明々後日しあさってな」

「うん、分かった。またね」

 エネンドは手を振ると戸口へ向かって走って行った。それと入れ替わるように水伯が遣って来た。

「玲太郎は本当に温室が好きだね」

 咲かせた花を眺めている玲太郎に声を掛ける。

「うん、花を咲かせてたのよ」

「そうなのだね。エネンドとは仲良く遣っているのかい?」

「たった一人の幼馴染だからね」

 そう笑顔で言うと、水伯は柔和な微笑みを浮かべた。

「それでは北の畑に行こうか」

「はーい」

 玲太郎は差し出された水伯の手を握ると歩き出した。温室を出ると二つの月明りで薄暗い空のもと、水伯が光の玉を出して足下を更に照らし、まだ雪が解けていない外を歩く。勿論水伯が雪を解かしながらになる。

「玲太郎、しつこいようだけれど、本当に学校に通うのだね?」

「通う。だから明後日の覚醒式で魔力を測ってもらうのよ。絶対に行くからね」

「後さん年は家で勉強をして上学校に入った方がよいのではないの? 玲太郎が習っている内容の方が確実に進んでいるのだから、学校では物足りないと思うのだけれどね」

「下学校に入って飛び級して卒業すれば、さん年の差はどうって事ないのよ。どうせ僕は長生きするんだから、ね」

「それはそうなのだけれど、カンタロッダ下学院で本当によいのだね?」

「うん。錬金術以外の魔術が習えるし、ツェーニブゼル領なら週末に帰ろうと思えば帰って来られる距離だもん」

「遠くても送迎は当然するけれど、寮に入らなければならないのに本当に平気なのかい? 全寮制ではないから、近くに部屋を借りてもよいのだよ?」

「寮でよいのよ。でも誰と相部屋になるかが問題だよね。それとご飯は美味しいのかが気になるね」

「相部屋は人に依っては部屋を借りた方が良く思えるのだろうけれど、ご飯は八千代さんの味に慣れていると何処どこで食べても少々劣って感じるだろうね」

「父上のご飯も美味しいよ。僕、大好き」

「ふふふ、有難う」

「イニーミーさんやカイサさんの作ってくれるご飯も美味しいけど、小刀や突き匙を使わなきゃいけないのが面倒臭いんだよね。箸が一番好き」

「玲太郎は私の息子なのだから、常日頃から使って作法に慣れておかなければ、いざという時に困るのは自分なのだよ? それにつけても、学校は優に五百五十人もの人がいるけれど、本当に人見知りは大丈夫なのかい?」

「人見知りは父上の親衛隊の人達に手伝ってもらったお陰で大分マシになってるよ。幼い頃はぎょっとして体が固まってたけど、それもなくなってるから同性は平気。って言うか、この話は何度もしたよね? もうよいと思わない?」

「そんなにしたのかい? ご免ね。どうも気になって仕方がないのだよね……」

「父上、大丈夫なのよ。人見知りもマシになってるし、体は小さいままだけどどうにかなるのよ」

 玲太郎は水伯を見上げて微笑みながら言った。

「そうだとよいのだけれど、人が集まると何が起こるか判らないからね……。特に子供は何を仕出かすか、本当に判らないからね」

 水伯は最早心配性な父親と化していた。

「十分気を付けるし、何かあったらすぐに言うから」

「昼寝はいち学年にはあっても、それ以降は出来なくなるのだよ? 体力は持つのかい?」

「早く寝るようにするよ。父上も心配が尽きないんだね」

 玲太郎は苦笑しながら言った。水伯は柔和に微笑む。

「それは玲太郎が可愛いからね」

 玲太郎はそれを聞いて嬉しそうな笑顔になった。

「なんか恥ずかしいのよ。もうすぐ八歳になるんだけどね」

「ふふ。年は関係ないのだよ。もう直ぐ八歳でも一人で眠られるかどうかが心配で心配で…」

「一人でも眠られるのよ。大丈夫なのよ」

 二人はたわいない会話を続け、いつもの北の畑の真ん中に到着すると、玲太郎は先程も温室で咲かせた花の種をズボンの衣嚢から取り出して蒔いた。

「それでは今日もサドラミュオミュードの種が取れる状態まで育てる練習ね」

「はーい」

 蒔いた種の方に魔術棒の先端を向けると、蒔いた種の数だけ発芽して成長し始める。丸で早送りで成長を見ているかのように大きくなって行く。瞬く間に十五株の草丈が約四尺になった。一株から枝分かれをして三乃至ないし五輪の蕾を付けている。蕾は大きくて薄紅の色をしていて、それが徐々に開き始める。八重咲の花弁は三十五枚前後あり、それが開き切るととても見事だった。

「では一輪だけ種が取れる状態に成長させるね」

 水伯がそう言うと左端の花一輪が花弁を徐々に落とし、さやが育ち始め、大きくなった莢が裂けて種が見える状態になった。玲太郎は眉をしかめて魔術棒で頭を軽く叩いた。

「ここまでが中々出来ないのよねぇ……」

「本来なら種蒔きから開花するまで三年は掛かる所を直ぐに育てられたのだから、種を取る所までは直ぐだよ」

 そう言われた玲太郎は水伯を見上げ、花々を眺めている柔和な表情を目にするとまた花々に顔を向けた。魔術棒の先端を向けると水伯に見せて貰った成長過程を思い出しながら、そうなるように心中で強く願う。しかし、それも虚しく時間が過ぎて行くだけだった。時間切れになると、水伯が魔術で全ての花から大量の種を取って大きな紙袋に入れるとそれを消去し、茎や葉の部分を粉微塵にして土に落としてから根も消去した。少し窪んだ部分を均してしまう。

「今日も沢山種が取れたね」

 玲太郎が何気なく言うと、水伯は軽く二度頷いて玲太郎を見た。

「そうだね。沢山取れたね。それではまた明日も遣ろうね」

 玲太郎に手を差し出した。その手を握ると二人は屋敷に向かって歩き出した。

「うん。小さな草花は成長過程を見ていなくても種が取れるけど、大きな草花は成長過程を見ていてもまだダメだね。この調子だと木に取り掛かるのはまだまだ先になるのかぁ」

「玲太郎の中で何かが違っているのだろうね。私にはそれが何かは判らないのだけれど……、焦らず、ゆっくり遣って行こうね」

 玲太郎はそう言われて、違いが何かを沈思し始めた。無言になった玲太郎を一瞥して柔和な表情になった水伯もまた無言で歩いた。

 屋敷に戻ると一緒に二階へ行き、水伯は執務室へ、玲太郎は図書室へと向かう。以前は主に明良の本が置かれていたが、今では全てが玲太郎の本となっている。植物の図鑑を手にするとそれを持って勉強部屋へ向かった。今も勉強机が三台並んでいて、玲太郎は真ん中を使用している。奥の明良の勉強机を今は八千代が使っていた。時間が早い事もあって八千代はまだ来ていない。

 玲太郎は着席すると図鑑を開き、紙をめくり始めた。図鑑にはメニミュードの改良種のみが載っていて、今日咲かせていたサドラミュオミュードも載っている。

(あった、これだ。んーと、「花弁は三十五枚前後で多い物は四十枚になる」……花に関してはよいのよね、咲かせられるから。種について書かれてないなぁ。……ん? 「サドラミュオミュードは作り手の心が清らかでなければ薄紅に咲かない。清らかでなければ花弁の色が枯野かれの色になるとされている」、かぁ)

 色の見本もあって理解が出来た。

(こういう情報はよいのよね。でも、そうじゃなくて種よ、種。種になる過程の情報はないなぁ? それにしてもこの図鑑の厚さ、どれだけメニミュードの改良種があるんだろうか。凄いね)

 紙を一枚捲っても種については書かれていなかったが、別の改良種も見始めた。すると、開扉する音がしてそちらを見てみると明良と、その後ろに颯がいて、颯の肩には以前よりも更に小さくなっているヌトが座っていた。

「玲太郎、お早う」

「お早う」

「あーちゃん、はーちゃん、おはよう」

 颯が後ろ手に閉扉すると、皮革製の厚みのある鞄を左手に提げた明良は玲太郎の下へ真っ直ぐ向かった。

「何を見ているの?」

「メニミュードの改良種の図鑑。最近改良種の花の種を取るまで育てる練習をやってるんだけど、全く出来ないのよ」

 明良は玲太郎の傍に行くと足下に鞄を置いて図鑑を見た。そして玲太郎の頭を優しく撫でた。

「玲太郎、知識を得る事は大切だけれど、それが魔術に繋がらない事もあるのだよ。私も植物の構造を徹底的に調べて遣ってみたけれど、魔術で早く育てるには全く通用しなかったのだよね」

 玲太郎は明良の方に顔を向ける。

「そうなの?」

「うん、そうなのだよ。大雑把な颯はそういう魔術が得意なようで直ぐに花を咲かせていたよ。不思議だろう? なのだけれど、構造を知っていると丈夫な植物を育てられるのだけどね」

「そういう効果はあるんだ。それじゃあこういうのを見ていて損はないんだね」

「そうなるね」

 遅れて玲太郎の傍に来た颯が微笑んだ。

「遣っている内に構造が解るようになるから、調べなくても大丈夫だぞ」

 そう言って腰を屈めて図鑑を見る。

「だから普通はそういう物は解らないの。颯が異常なのだよね」

「兄貴も解るって言ってただろう。だったら兄貴も異常じゃないか」

 颯の方を見た玲太郎はヌトと目が合った。

「ヌト、おはよう」

「お早う。今日も魔術の練習は遣ったのか?」

「きちんとやってるよぉ」

「それならばよいのであるがな。怠けるのは駄目であるぞ」

「毎日言わなくても分かってるのよ」

 ヌトと言えばこの会話、という程に毎日同じ遣り取りをしていた。玲太郎は少しも嫌になる事はなかった。

「昨日は来たか?」

「ハソもニムも来てないのよ。来ても二ヶ月に一度くらいだから」

 玲太郎の座っている椅子を颯が徐に引いた。

「それじゃあ毎朝恒例のあれをさせて貰おうか」

 玲太郎の両脇に手を入れて持ち上げると抱き寄せ、左腕で玲太郎の尻を支える。

「もうすぐ八歳になるのに、そろそろ抱っこは止めない?」

「止めない」

 そう断言すると微笑んだ。玲太郎は苦笑する。眉を僅かに顰めた明良はにわかに何かを思い出し、口を開く。

「そうだった、明後日は私達が護衛として付いて行くからね」

「えっ、あーちゃんは来るって知ってたけど、はーちゃんも来るの?」

 玲太郎が颯の顔を見ると、颯が頷いた。

「そうだよ、行くよ。お父様が王都の別邸に行くから、その護衛をするように言われていたんだけど、玲太郎の方が大切だからな。測定をして屋敷まで送ったらお父様の方に戻るけどな」

「それでも嬉しいのよ。はーちゃん、ありがとう」

 笑顔で颯に抱き着くと、ヌトは思わず飛び退いた。

「玲太郎が今度の覚醒式に出る事が噂として全国に知れ渡っているんだってよ。大公様の愛息としてこの数年で知られていたのもあるんだけど、それにしても情報が漏れ過ぎだよな。俺等の時も情報が漏れていたらしいし、本当に国の機関は糞だわ」

 颯が玲太郎の背中を擦りながら言うと、仏頂面の明良が頷いた。

「物見に人が集まる事が予想されるから急きょ十時に測定する事が決まって、会場は何処でも好きな所で遣ってよいという許可が出ているからね。水伯の領地は避けた方が無難かもね。先程水伯とも話して来たのだけれど、玲太郎の希望があればと言っていたよ」

 玲太郎は困惑した表情になると、上体を戻して颯の左肩に右手を置いたままで明良を見た。

「希望って言われても、どこでやるのか全然知らないんだけど……」

「もうこの情報も洩れているだろうから、一層の事、人の多いロデルカ州で遣るか? 王都の何処かとかサドラミュオ市の何処かとか。一般の入場は十時半からになっているけど、十時でも会場の外に人が結構いる可能性もあるからな。俺等の時も早目に着いたのに大勢の人がいたからなあ」

 颯がそう言うと、玲太郎の表情が俄に明るくなった。

「それじゃあサドラミュオ市でやるのよ。父上の中間名を冠してるし、よい記念になるよね」

「はい、次は私の番ね」

 何の脈絡もなく明良が玲太郎の後ろから両脇に手を突っ込んで抱き寄せた。そして満面の笑みを浮かべて額を玲太郎の頭に当てた。その間にヌトは颯の肩に戻っていた。

「サドラミュオ市で測定をするならば、水伯が開催会場を知っているだろうから、丁度よいのではないの」

「ふうん、そうなんだね。……どうして?」

「王族は中間名にしている都市の運営をしているからね。国領ではあるのだけれど、王族の領地という認識の方が正しいね。それもあって、サドラミュオ市の情報は水伯に逐一届いているのだよ」

「へぇ、そうなんだ。勉強になったのよ。ありがとう」

「まだ習っていなかった?」

「習ってたけど中間名を冠する都市っていうくらいで、運営してるのは知らなかった」

 玲太郎は明良の額から頭を離して抱き着いて行った。顎を肩に乗せ、三つ編みをしている髪を手にすると毛先を手繰り寄せた。そして毛先で自分の顔を撫で始める。烏羽からすば色の細い帯で三つ編みを束ねていて、それが揺れていた。

「せっかく長くしてるのに、三つ編みにしてたら勿体ないのよ」

「玲太郎が長い方が似合うと言うから伸ばしているのだけれど、やはり邪魔になるのだよね」

「解る。やはり短いのが楽で一番だよな」

「はーちゃんは伸ばした事なんてないじゃない」

 玲太郎が振り返って言うと、颯は莞爾として見詰めて来た。

「でも纏めているからこそ、玲太郎に選んで貰った耳飾りが良く見えてとてもよいと思うのだけれど、それに就いてはどう思う?」

 玲太郎は明良の方に向くと、背を仰け反らせて明良を見た。

「確かにそうだね。それにこの耳飾り、あーちゃんに良く似合ってる」

「そう、有難う。玲太郎のお陰だね」

 この意匠は玲太郎が描いていて、形状を忠実に顕現させたのは明良だった。藍鉄あいてつ色の留め具と鎖と土台に、烏羽色をした透明の半球で出来ている石が三個連なっている。

「あーちゃんの目みたいな色の石の方がもっと似合ってたのよ」

「玲太郎の魔術棒とお揃いだからこれでよいのだよ」

 そう言って優しく微笑むと、玲太郎も釣られて微笑んだ。

「あーちゃん、もうすぐ卒業だね。その後はどうするつもりなの?」

「それが決め兼ねているのだよね。私は領主の仕事もあるから、それを遣りながら出来る事を探そうと思っているのだけれどね」

「薬草師とか治癒師の免状は取ったんだよね? それにならないの?」

「そうだね、一応免状は取ったね。医師を主軸とした診療所を開きたかったのだけれど、それは以前の話。今は違うのだよね」

「そうなんだ。はーちゃんはどうするつもりなの?」

 颯の方を向いた。颯は玲太郎を見ながら首を横に振る。

「どうもこうも、まーったく決めてない。取り敢えずはお父様の護衛になるんだろうか。うーん、まだ判らないな。兄貴は去年にはもう卒業出来ていたのに、卒業を選ばずにどうでもいい授業を受けているからなあ。本当に卒業するのかどうか、そっちの方が気になるな」

「卒業はするよ。興味のあった科目の授業を受けたからね。いや、玲太郎が教えてくれなくてよいと言うから授業を受けただけとも言えるね。私は玲太郎の家庭教師になりたかったよ」

 玲太郎は目を丸くした。

「えっ、あれ、本気だったの?」

「そうだよ。私の得た知識を玲太郎に授けられるとなると、それは私に取って最高の事だからね」

「それはごめんね。ディモーン先生で十分だったし、二人が学校に行くのを見てたから僕も行きたくなっちゃって……」

「そう。だけれど、私としてはとても残念だったのだけれどね。それから、学校が嫌になったら中退してもよいからね。そうなったら私が教えるよ。私はね、玲太郎に許されるのであれば、ずっと傍にいたいと思っているのだよね」

 少し困った表情をしている玲太郎を見て、微笑みながら言った。すると、玲太郎は益々困った表情になった。

「玲太郎、学校で辛い事があったら迷わず泣き付いて来てね」

 そう言いながら玲太郎の頬を撫でる。

「まだ受験も終わってないんだけどね……」

「下学校だったら余裕で受かるよ。魔力も申し分ないんだからな」

 颯はそう言いながら長椅子の方へ向かった。そして先に帆布はんぷで作られた丈夫な背嚢を椅子に置き、その横に座った。勉強部屋にあった玲太郎の玩具は撤去され、絨毯の上には脚の長い机と椅子が四脚置かれている。

「ロデルカじょう学院ってどうなの? 難しい?」

「兄貴にそれを訊いてどうする? 六年の所を三年で卒業出来ていた筈の男だぞ」

「あ、そうだね。はーちゃんはどう?」

「どう、と訊かれても、どう答えればいい物か。……そうだなあ、授業を詰めまくれば四年で卒業出来てしまうという所が甘いと思う。この俺ですら今年卒業出来てしまうくらいだからな。まあ、科目数で授業料が変わって来て金額的には甘くなかったから、お父様様様だな。あ、兄貴様様になるのか。まあ、イノウエ家様様だな」

「それで友達は出来た?」

 何故か目を輝かせて訊いて、颯は唐突な質問に少々面食らった。

「友達なあ……、ふ。俺の友達は水伯だけ。学校は勉強する所だから友達なんていらないからな」

「あーちゃんは?」

「私は友達などいないね。大学でも近寄って来る奴は皆胡散臭くて口も利かなかったよ」

 玲太郎は期待をしていたような返答ではなくて落胆した。

「兄貴は性別関係なく無視していたからな。俺は一応口は利いていたけど、友達ではないから馴れ馴れしい奴は無視したな。友達じゃないって言っているのに、友達だろうって引き下がらない奴は存在自体を無視したなあ。あははは」

 颯は楽しそうに笑っていたが、玲太郎は苦笑した。

「甚大な力を持っているし、私は公爵だし、颯はその弟だしで、人が寄って来てしまうのだよね。玲太郎はナダール王国唯一である大公閣下の令息だから、もっと寄って来ると思うよ。力や地位や人脈などを利用しようと近寄って来る奴は多いから、十分に気を付けてね」

「分かった。でも父上と苗字が違うのに分かってしまうものなの?」

「ウィシュヘンドで解ってしまう子もいると思うよ」

 穏やかに微笑んで言うと、玲太郎は頷いた。

「何があっても平常心を心掛けて冷静に見極めろよ」

「そうなれるように気を付けるね」

 颯の方を向いて言うと、明良の肩を軽く叩いた。

「そろそろ下ろして」

「駄目。まだ抱っこしていたい」

 言っても無駄だという事は解っていたが、それでも気が抜けた。完全に諦めて明良にもたれ掛かった。明良は鞄を持つと颯の向かい側の長椅子に行き、足下に鞄を置いてから座って玲太郎を膝に乗せた。

「それにしても玲太郎が学校に行くと言い出すとは思わなかったよ」

「だって、あーちゃんもはーちゃんも下学校に行ってたって聞いたし、今は上学校に通ってるし、僕も行きたいなと思って……」

「私と颯は下学校に通ったと言っても通信制だから、行っていたという程の物ではないのだけれどね」

「俺が玲太郎だったら、下学校で習う分はディモーン先生に教えて貰って修業試験を受けて、受かったら上学校に行くけどな。学校に通っても卒業試験を受けるからなあ。此処ここは通信制より遥かにいい環境なのに勿体ない」

「それは言えてるね。私は和伍の上学校も通信制だったけれど、ほぼ独学と言っても過言ではなかった環境だったからね」

「俺は解らない所は兄貴が教えてくれたから兄貴が先生だったなあ。でも通信制だったお陰で、玲太郎の世話が出来たから、それはそれで良かったな」

「それはあるね。研修に行く為に早い内から玲太郎を外に連れ出してしまったけれど、今思えば途中からとは言え、あれはヌトに甘えていたのだろうね。悪霊とは言え、ヌトには感謝はしているよ」

「ふむ。そのような言葉は初めて聞いたな。これは槍が降るぞ」

 それを聞いた玲太郎は力なく笑い、颯は何度か頷いた。

「俺もヌトには甘えてた所が沢山あったと思うよ。でも逆も然りだよな」

「うむ。それはあるな」

「ヌトは僕といてくれてもよいのよ?」

「玲太郎はわしを必要としておらぬであろうが」

「そんな事はないのよ。それ以前に気が付いたらいなくなってた感じだけどね」

「そうであったか? 玲太郎には灰色の子がおるではないか。それに友達も出来たであろうて」

「うん、出来た。エネンドね、エネンド・カッチス・ヘンデューニ。でも友達っていうか、幼馴染だよね」

「ヘンデューニと言うとウログレ先生の息子か。俺はヴォーレフ君と友達になるかと思っていたんだけどなあ」

 颯はそう言いながら椅子に深く居直った。

「玲太郎とは性格が合わなかっただけではないの?」

「ううん、ヴォーレフ君っていう子とは会う機会がないから、どんな子なのかも知らないけど、エネンドは庭師を目指してて、良く植物の話をしてくれて楽しいよ」

「ヴォーレフ君とは面識がなかったの?」

 明良が玲太郎の顔を覗き込んで訊くと、颯が首を横に振った。

「一度会っているんだけどなあ……。一緒の部屋にいた時間が短くて憶えていないだけだと思う。その時にエネンド君もいたんだけど、玲太郎は憶えていないだろう?」

 玲太郎は首を傾げた。

「いつの話?」

「玲太郎が四歳になる年の正月だったな。二日掛けて水伯に年始の挨拶をする行事があって、此処の使用人が総出で客の接待をしていたんだよ。それで使用人の子供達がこの屋敷の一室に集められて、俺が面倒を見ていた事があってな、その時に兄貴と玲太郎は最初の方、じっ分くらいか? 一緒にいた事があったんだけどな」

「ああ、そんな事もあったね。年始の行事はその年を最後になくなったのだよね」

「覚えてない。そんな事があったなんて、全く知らないのよ」

「そうなんだな。それじゃあいいや。……若しかして、四歳の頃の事は全然憶えていないのか?」

「わしと一緒に灰色の子にはためく布の如く、こう揺れておったのを憶えておらぬか?」

 ヌトは言いながら手と前腕を使って波打つようにやって見せた。

「それは覚えてる。浮く練習をやってたのは覚えてるのよ。ヌトが色々やってくれて浮けるようになったのも覚えてる」

「ハソとニムの事を、ずーっとヌトって言ってたのは憶えているのか?」

 颯が身を乗り出して訊いた。玲太郎は首を横に振る。

「覚えてない」

「玲太郎が三歳くらいまではヌトが三ついるとか二ついるとか言って、ヌト以外は拒絶していたんだよ」

「へぇ? そうなんだ。全く覚えてないのよ」

 玲太郎は記憶にない事を聞かされても他人ひと事でしかなかった。

「悪霊の事などどうでもよいのだけれどね」

 明良の冷たい言葉で空気が一気に冷えた。颯は苦笑する。

「兄貴の悪霊嫌いは筋金入りだからなあ……。まあ、解らなくもないけど」

 そう言って背もたれにもたれ掛かると溜息を吐いた。

「そうだ、研修と言えば、宇野田さんの菓子の事は憶えているか?」

「うのださん? それは誰なの?」

「憶えてないかあ。一時いっとき凄かったんだけどな。宇野田ちゃんのお菓子が食べたいってごてて本当に困ったわ」

「あれね。午前は十二時頃にお菓子を間食するのが一般的だから、診療所で宇野田さんにお菓子を分けて貰っていたのだけれど、玲太郎が宇野田さんのお菓子が大好きで、研修が終わってからもしつこく食べたいと言っていて、一度お願いして作って貰って取りに行ったのだよね。皆で林檎の皮包みを食べたのだけれど、それも憶えていないよね」

「覚えてない」

「水伯が作ってくれる林檎の皮包みがあるだろう? あれは再現して作ってくれているのだよね」

「あれは美味しくて好きなんだけど、そういう事情があったんだ。知らなかった……」

 玲太郎は何気なく口にしていた物が、自分の我儘から食卓に上り始めた物と知って衝撃を受けていた。

「玲太郎のお陰で宇野田さんのお菓子が食べられたから、ある意味良かったけどな。今更だけど、有難うな」

 颯が満面の笑みを浮かべて言った。玲太郎はそれを見て些か複雑な心境になった。

「そう言われても覚えてないから、なんて言えばよいのか分からないのよ」

 明良が「ふふ」と笑って、玲太郎の頭を撫でた。

「いつも通り、どう致しましてでよいからね」

「水伯もばあちゃんも、菓子と言えば和菓子だもんな。こっちの学校に通い出してから洋菓子を食べる機会が増えて喜んでたのも最初だけ、和菓子の良さを再認識しただけだったわ」

「それは好みの問題だからね」

「確かに、小豆が好きってだけかも知れない。玲太郎も小豆が好きだよな」

「うん、好き。ぜんざい大好き。おはぎも好きなのよ」

 笑顔で答えると、それを見た颯も笑顔になった。明良は二人が目を合わせている事に些か嫉妬したが、玲太郎が膝にいる事で気持ちを落ち着かせた。そのまま菓子の話で盛り上がっている所に、授業の準備をしにディモーンが入室した。

「おはようございます」

「ディモーン先生、お早うございます」

 玲太郎と颯がほぼ同時に挨拶をすると、ディモーンが笑顔を見せる。

「お早う御座います」

「はい、お早う御座います」

 ディモーンは笑顔を明良にも向けた。そして手に持っている本をそれぞれの勉強机に置きに行く。颯は掛け時計に目を遣った。

「もう八時半が来るのか。それじゃあ水伯の執務室に移動するか」

 そう言って背嚢を背負った。明良は玲太郎を膝から下ろす。すると八千代も入室した。

「おや、おはよう。今朝はゆっくりだね」

「ばあちゃん、おはよう」

 そう言うと颯は立ち上がった。それに続いて明良も立ち上がる。

「お早う」

 玲太郎は三人が挨拶をしている間に自分の席へ向かった。八千代はディモーンに視線を向けると一旦立ち止まる。

「先生、おはようございます。今日もお願いします」

「はい、お早う御座います」

 お互い辞儀をした。

「それじゃあディモーン先生、ばあちゃん、玲太郎、また」

「失礼します」

 颯と明良はそのまま退室し、八千代は奥に着席した。玲太郎は開きっ放しだった図鑑を閉じると、ディモーンが置いた本の下に図鑑を置いた。


 六日、明良と颯は九時五十分に水伯邸へ到着した。玲太郎は既に準備が出来ていて、玄関まで出迎えに来た。

「お早う、玲太郎。出迎えてくれて有難う」

 今日も三つ編みを結っている明良が朗らかな表情で言った。玲太郎も笑顔になる。

「あーちゃん、はーちゃん、ヌト、おはよう」

「お早う」

「お早う。今日も魔術の練習は遣ったのか? 怠けるのは駄目であるぞ」

「なまけずに今日も練習はやったよ。それじゃあ、こっちね」

 玲太郎が先導する。颯は玄関扉を閉めると、明良と共に付いて行く。一階にある水伯の執務室へ案内されると、水伯が椅子に腰掛けていた。

「二人共、お早う」

「お早う御座います」

「お早う」

 水伯に対面する位置に颯が座ると、その隣に明良が座った。玲太郎は扉を閉めてから水伯の隣にある高目の椅子に座った。

「サドラミュオ市にあるマリームがいのコンドグーム文化会館に行くね。街中で専用駐しゅう場がないから各自で飛んで行こうね。私が玲太郎を抱っこするよ」

「了解」

 透かさず明良が言う。颯は頷いた。

「まあ、行った事がないから後ろから付いて行くよ」

「そうして貰えるかい。済まないね。まだ時間があるから、お茶でも飲むかい?」

「有難う。でも来る前にお父様と一緒に茶を飲んだから俺は遠慮しとくよ。兄貴は?」

「私は貰うね」

「解った。三十分は余裕があるからゆっくり飲んでね」

 そう言うと明良の前に熱い紅茶が入った茶器が出現した。

「有難う。頂きます」

「どうぞ」

「物の顕現は本当に難しいな。兄貴みたいに装身具とか作らないから延々と水晶を出してるわ」

「難しいからと言って慣れている物に逃げてはいけないよ」

 柔和な表情で颯を見ると、颯は微笑んだ。

「最近は服を作る事も多いんだけどな。水伯みたいに肌触りのいい生地が中々出来ないんだよな」

「私が皆に出していた服の素材はジャジーンと言う植物の繊維だよ。とても滑らかで着心地がよいのだけれど、正装には使えないのが難点なのだよね。綿と混ぜれば少しは生地に張りが出るけれどね。兎にも角にも子供の頃から着ているのだから、それを思い出して頑張って作ってね」

 柔和な表情で言った。颯はそれを聞いて少し難しい表情になった。

「ジャジーンって言う植物は育てられないの? 種はないの?」

 水伯はそう訊いて来た玲太郎の方に顔を向けた。

「ジャジーンは約千年前に絶滅した植物なのだよ。私も生地を思い出して作っているだけね。玲太郎が着ている服は大体がジャジーンの繊維で作られているよ。綿や絹や毛もあるし、混じっている場合もあるのだけれどね」

「そうなんだ。ふうん。じゃあ僕もいつかは作れるようになる?」

「なるよ。毎日身に着けているのだからね」

 そう言って柔和に微笑むと、玲太郎も微笑んだ。

「着心地は凄くよいのに、残らなかったのが不思議だね」

「そうなのだよね。私が生地を見付けた時は既にジャジーンが絶滅した後でどうにも出来なかったよ。生地を知ったからと言って種の顕現が出来るようになる訳もなかったからね」

「試したんだ?」

 颯が目を丸くして訊いた。水伯は軽く二度頷いた。

「試したよ。ジャジーンを知っている人を探し出して絵を描いて貰っても、植物の状態ですら顕現はしなかったね。でも生地なら顕現が出来たから服は作れるようになったよ」

「なんか凄いな。絶滅した植物の繊維を素材にした服を以前に着ていたなんて」

「綿よりも少ない魔力で出せるから綿より難度が低いのだよ。だから地道に練習を遣れば直ぐに作れるようになると思うよ」

「そうなのだね。それは意外だね」

 食い付いたのは明良だった。

「それでは私も挑戦しようか。下着はジャジーンが一番好きなのだよね」

「それは解る。俺も頑張って作れるようになりたいな」

「僕は父上に作ってもらうのが一番よいと思ってる」

 そう笑顔で言った玲太郎を見た水伯は柔和に微笑む。

「玲太郎も自分で出せるように、頑張ろうね」

「ええー」

 玲太郎は残念そうな顔をする。明良はそんな玲太郎を見ながら紅茶を口に含んだ。


 水伯達は時間が来ると屋敷を後にした。玲太郎は宣言した通り水伯が抱いている。それに付いて行く颯は追い掛けてくるきん少な気配を二つ潰して一人微笑んでいた。

 眼下には建物が密集し始め、直ぐに大きな建物が複数見えて来た。水伯はその内の一軒の直ぐ脇にある細い脇道に下りて行き、明良と颯もそれに付いて行く。

 コンドグーム文化会館に到着し、裏口から中に入ろうと水伯が扉の取っ手を握って開けようとしたが、鍵が掛かっていて開かなかった。しかし水伯がもう一度取っ手を下げると扉が開いた。水伯は明良と颯の方を見ると柔和に微笑んだ。明良はいつも通りの無表情だったが、颯は苦笑した。

 中に入った三人は人気のない通路を歩いて気配のある方へと向かう。最初に出会ったのは髪を七三に分け、眼鏡を掛けた冴えない見た目をした男だった。水伯達を見るや否や、驚愕して言葉が出ない様子だ。

「スイハク・サドラミュオ・ロデルカだが、本日は息子、玲太郎の魔力測定を遣って貰う為に伺った。宜しいか」

 いつもの庇の広い帽子ではなかったが、目元が暗くて水伯の顔を確認する事は出来なかった。それでもうわさに聞いた事のある黒尽くめの格好に、水伯のみの淡い灰色の髪を見て本人であると確信していた。男性は何度も大きく頷いて、手を伸ばす。

「こっ、こちらです」

 水伯は動かず、職員が先導するのを待った。しばらくして職員が頭を深く下げる。

「大変失礼致しました。まさかこちらにお出でになるとは思わず、突然の事に気が動転してしまいました。こちらです」

 そう言うと先導を始めた。三人は男に続き、下手から舞台に上がると魔力測定器が真ん中に置かれていて、その前に誘導された。手前にある半球体が見えている部分を手で示す。

「こちらに手を置いて頂きますと、こちらと、こちらの針が動きまして、魔力の量と質の測定が出来ます。針が動きを止めるまで手を置いたままにしておいて下さい。レイタロー様以外の方はなさらなくてよろしいのでしょうか?」

「玲太郎だけです。それでは玲太郎、手を置いてね」

「はい」

 水伯が魔力測定器に近付くと、玲太郎は身を乗り出す。そして手を伸ばして球体に触れた。その瞬間、片方の指針が物凄い勢いで動き、振り切ったと思ったら折れてしまった。百を少し過ぎた所に指針を止める金具があったのだが、それも取れていた。もう片方は百を指している。

「あ……」

 玲太郎から声が漏れた。

「折れたぞ。なんか二つ飛んで行ったけど……、ああ、あった」

 颯が折れた指針と金具を拾うと、水伯が手を出してそれを受け取った。

「はい、量は振り切り、質は百でございます。もうお手を離して下さって構いません」

 玲太郎が手を離すと指針は元に戻った。それを見て水伯は折れた部分を根元にくっ付けて手を離すと元に戻っていた。そして金具もくっ付けた。

「もう壊れていないから大丈夫だよ」

「父上、ありがとう」

 玲太郎は安心して微笑んだ。

「どう致しまして。貴族の寄付は十万こんが通例なのだけれど、少しの間でも測定器が壊れていたからお詫びも籠めて百万金にしておこうか。持って来ておいて良かったよ」

 そう言いながら上着の衣嚢から小白金貨を出した。そして辺りを見回して寄付箱を見付けると歩き出した。そして、小白金貨が箱の中に落ちた音が響く。

「お世話になりました」

 呆けた表情をした職員に向かって明良が辞儀をすると、颯も小さく辞儀をした。職員も慌てて辞儀をし、水伯の方に向いてまた辞儀をした。

「閣下とご令息に拝謁を賜り、幸甚の至りにございます」

「世話になった」

「ありがとうございました」

 水伯は来た道を戻り、明良と颯はそれに付いて行く。職員は四人をそのまま見送った後、暫く放心していたが、我に返って折れた指針が本当にくっ付いているのかを確かめた。そして両頬をつねると膝から崩れ落ちた。

 外へ出た四人は裏口の前で顔を突き合わせていた。水伯は衣嚢から懐中時計を取り出して時間を確認すると、衣嚢に戻す。

「十時も過ぎているし、店も開いている所もあるだろうから、何処かへ寄って行くかい?」

「私は先程お茶を頂いたから何方どちらでも」

「俺は折角だから、何処か美味しい所で菓子を食べたい」

「申し訳ないのだけれど、美味しい所は知らないのだよ」

「それは残念」

「玲太郎は?」

「僕は屋敷に帰ってご飯が食べたい」

「そう、それでは帰ろうか」

 鶴の一声で帰宅に決まった。水伯が柔和に微笑むと、颯が頷いた。

「そうだな、帰るか。それにしてもあっという間に終わったから、なんか拍子抜けしたわ」

「私達の時は早目に着いて待っていたから、時間が掛かったように感じただけだよ」

「そうだったか? うーん、……確かに待ち時間が結構あったような」

 颯が記憶を呼び起こしていると、水伯が真っ先に上昇を始め、二人も上昇をし、ある程度の高度に達した所で水伯邸に向けて北上し、瞬く間に水伯邸に着くと、水伯は玲太郎を下ろした。そして玄関先で颯が足を止める。

「それじゃあ俺はお父様の所へ戻るわ。玲太郎、ばあちゃんに九日の朝に迎えに来るって言っといて」

 玲太郎は振り返ると頷いた。

「分かった。ばあちゃんに九日の朝ね。今日はありがとう。またね」

 颯は左手を軽く挙げた。

「それじゃあな」

「ご苦労だったね」

 水伯も手を挙げて柔和に微笑んだ。すると、颯が瞬時に消えた。三人はそれを見てから屋敷の中に入ると食堂へ向かった。水伯は厨房に向かい、二人は食堂に入って行く。下座に座った八千代が既に食べていた。

「ばあちゃん、お早う」

「おはよう。あれ? 颯は?」

 颯が見えずに、明良の後ろを覗き込むようにした。

「お父様の護衛をする為に屋敷に戻ったよ」

「ああ、そうなんだね。それで玲太郎の魔力はどの程度だったの?」

「うん、量は振り切って、質は百だったよ」

「そう。それだとみなと一緒だね」

 笑顔で玲太郎に言うと、玲太郎は頷いて微笑んだ。明良は玲太郎を席に座らせると、自分の席へ向かった。

「イニーミーさんの料理、久し振りだから楽しみ」

 それを聞いた八千代が手を止めた。

「ディモーン先生とイニーミーさんは、長男の所に子供が生まれたから王都へ行ってて、建国祭の間はカイサさんが二食作ってくれる事になってるのよ」

「そうなのだね。カイサさんか……。カイサさんのお陰で花の味を覚えさせて貰ったね」

「そうだね、食用を良く使うもんねえ」

「僕、ヤンチーヌが好き」

「ヤンチーヌ? どのような花なの?」

 明良は玲太郎の方を見て訊いた。

「んっとね、大きいのだとジル(一寸三分)くらいの花で、花弁は外側が三枚で内側が五枚なのよ。色は父上の目の色みたいな濃い橙色と白と薄い紫の三色があってね、ほんのり甘くて苦味や青臭さがないのよ。ホンボードおじさんに聞いたんだけど、摘んでもすぐに蕾を付けて咲くんだって。温室で育てて摘み続けると、年中咲かせる事が出来るって言ってた」

「そうなのだね。色々な花で飾ってくれるから記憶にないのだけれど、私も多分食べているね」

 それを聞いて玲太郎は頷いた。すると俄に表情を変え、八千代の方に顔を向けた。

「ばあちゃん、はーちゃんが九日の朝に迎えに来るって言ってた」

 八千代は小刀を皿に置き、その手で口を覆った。

「そう、九日ね。ありがとう。朝って言われても何時か言ってくれないと分からないよね」

「颯の事だから九時だね」

 八千代はそう言った明良の方を見ると微笑んだ。

「九時だね、分かった」

「九日にはーちゃんとどこへ行くの?」

 玲太郎にそう訊かれた八千代は突き匙も皿に置いた。

「毎月十日にイノウエ邸でのお食事会にお邪魔してるけど、今年の建国祭は王都のお屋敷へ泊まり掛けで行く事になっててね。露店が沢山出てるから、それに行こうという事になってるんだよ」

「そうなんだ。それは楽しんで来てね」

 笑顔でそう言うと、八千代も微笑んで頷いた。

「玲太郎は行ってみたい?」

「うーん、別に行きたいとは思わないね」

「一度行ったけど、物凄い人混みだよ。朝も昼も晩もたーくさんの人、人、人。夜は夜で花火があってね、毎日一万発で、記念日だけ二万発だよ」

「え! あーちゃんは花火に行った事があったの?」

 玲太郎は思わず目を丸くした。それを見た明良が笑顔になる。

「学校が露店を十数店出していてね、一学年生の時に店番をしないといけなくて、仕方なく行っていた時に花火の音を聞いたよ。見てはいないから玲太郎が見たいのならば一緒に行くけれど、どうする?」

「二万発だけ見てみたい」

「そう。それでは行こうか」

「うんっ」

 元気良く返事をすると、そこへ水伯が台車を押しながら入って来た。

「お待たせ。先ずは生野菜とお汁ね」

「手伝うよ」

 明良が立ち上がると、二人で手分けをして給仕をした。生野菜の皿には先程言っていた食用花が飾られていた。


 食後、水伯は二階の執務室へ、玲太郎は図書室へ向かい、明良は玲太郎に付いて行き、八千代は自室へ戻って行った。玲太郎達は図書室に入ると、並んでいる本の背表紙を見た明良が僅かに顔を綻ばせた。

「此処もすっかり玲太郎の物ばかりになったね」

「うん。父上が色々な本を用意してくれてるから全て読むつもりだったんだけど、まだ半分くらいしか読めてないのよね」

 そう言いながら図鑑が並んでいる棚へ向かう。

「何を探しているの?」

「えっと、服の素材集みたいな本があったはずなのよ。ジャジーンが載ってるか確認しようと思って」

 標題を確認しながら探していると、明良も一緒に上から探し始めたが最上段が見えずに浮いた。

「玲太郎が見た事のある本ならば、この辺にはなさそうなのだけれど……」

 そう呟きつつも標題を確認する。

「脚立くらい余裕で持ち運べるから、上もきちんと見てるよ?」

 明良は思わず玲太郎の方を見る。

「脚立を持てるの? 重くないの?」

 玲太郎は見た本の背表紙に人差し指を置くと明良を見上げた。

「うん。重さを感じないというか……、重い物を持っても平気だったり、走っても疲れなかったりするのよね」

「私も颯も覚醒してからそうなんだよね。では玲太郎も同じだったのだね」

「父上に言ったら、それは秘密だよって言われたけど、あーちゃんならよいと思って言ったのよ」

「そう。それは有難う」

 明良は嬉しそうに笑顔になる。

「あ、あったよ」

 明良が棚から本を取り出すと着地した。玲太郎に差し出すとそれを受け取った玲太郎は顔を上げた。

「ありがとう。これなのよ」

「どう致しまして」

 玲太郎は明良に笑顔を見せてから本に視線を移した。

「<布の素材と織り方>だった。意外と本が厚いから、素材にも色々ありそうだね」

「私は他に読めそうな本を探してから行くよ。先に勉強部屋へ行って貰える?」

「うん、分かった」

 玲太郎は大きく頷くと部屋を出て行った。閉扉する音が聞こえると、明良は鉱石の図鑑を手にして目を通し始めた。

 言われた通り、先に勉強部屋に入室した玲太郎は長椅子へ行き、奥の方に座った。表紙を捲って数枚飛ばして先ずは目次から見る。

(んーと、ジャジーン、ジャジーン……、あった。載ってるんだ。凄いな)

 玲太郎は紙をってジャジーンが載っている一面を探し、そして手を止めると黙読を始める。暫くすると明良が数冊本を抱えて遣って来て、玲太郎の隣に座った。机に本を置くと、玲太郎が熱心に読んでいる様子を暫く眺めた。

「ジャジーンは載っていた?」

 玲太郎は本から明良へ顔を向けると頷いた。

「載ってたけど山火事で絶滅して、どんな植物か分からないって書かれてる。布はアンドビチュ博物館にあるんだって」

「アンドビチュ博物館というとネリだね。隣の大陸の南の方の国ね」

「ふうん。ネリって良く分かったね」

「アンドビチュ博物館には大昔にいたつばさ族と言う獣人種の羽根があると本で読んだ事があるよ。大昔のネリ人は、その翼族を天の使いと崇めて天使と呼んでいたのだそうだよ」

「ふうん。てんしね。大昔ってどれくらい?」

「ニ十数億年くらい前だっただろうか……。その辺はうろ覚えだから自分で調べて貰える?」

「覚えてたら調べるよ」

 玲太郎は机にある本を一瞥する。

「今日中にそれ全部読むの?」

「うん、その積り」

 玲太郎は持っていた本を閉じて横に置くと、机に置かれた本を手に取った。三冊とも読んだ事のない本だった。

「ふうん、こんな本もあったんだね。えー……、どこにあったんだろう?」

「そうなのだね。それでは読まないでおくよ。玲太郎が読んだ物に換えてくるね」

「僕は錬金術に興味がないからよいよ」

「一度は目を通した方がよいと思うよ。だから玲太郎が読んだら貸して貰える?」

「分かった」

「早目に読んでね」

 明良は微笑むと両手を出した。玲太郎は持っている本をその手に置くと、明良は立ち上がって部屋を出て行った。玲太郎は横に置いてあった本を取ると、先程まで読んでいた一面を開いて読書を再開する。次に明良が持って来た本は玲太郎が一度は目を通した物ばかりで、ようやく明良も読書を始められた。


 八日、玲太郎と明良は水伯と共に、午前八時には王都にある水伯の別邸に到着していた。屋敷の中は一室以外は改装されていて、玲太郎は改装前は一度しか来た事がなかった事や幼かった事もあって記憶になかったし、明良は改装してからしか訪問をしていなかった為、改装前を知らなかった。その代わり、来る度に唯一改装されなかった開かずの間に通され、ガップツァック・フェルエネ・ソルの絵画を見ているお陰か、メニミュードの原種の事は憶えていた。玲太郎は今日も絵画と睨めっこをしている。

「赤い花がメニミュードの原種っていうのは分かっても、白と黄色が分からないのよね」

 長椅子に座っている明良が玲太郎の方を見る。

「図鑑で調べなかったの?」

「似たような花が幾つかあって、分からないのよ」

 明良も絵画に目を遣る。

「そうなのだね。メニミュードの原種は一度でよいから直に見てみたいね」

「うん、いつか見に行きたいね」

 二人は時間を忘れて見入っていると、水伯が遣って来て扉を軽く叩いた。

「お茶の用意が出来たから居室に行こうか」

「はーい」

「了解」

 二人は部屋を出ると水伯に付いて居室へ向かった。居室は二階にあり、一旦玄関広間へ戻って、そこにある階段から二階へ上った。一階では手前は客室で仕切られていたが、二階では二部屋しかなく、内一室の居室は約八十畳もあり、広々としていた。長椅子五脚が廊下側の壁際に置かれ、後は一人掛けの椅子が二脚、脚の短い机を挟んだ物を一揃いとし、八揃いが所々に配置され、中央にある脚の長い机には八脚の椅子が置かれていた。壁には等間隔で絵画が飾られ、部屋の四隅には円卓に豪奢な花が活けられた花瓶が置かれている。そして大きな窓が八まどあって、そこから柔らかな日差しが注いでいた。

「此処はいつ来ても開放感があってよいね」

 そう言った明良はいつもの無表情だが、語気は穏やかだった。

「レイタロウ様、アキラ様、おはようございます」

「お早う、サザンドリュー」

「おはよう」

 脚の長い机の傍で、ポバルの後任であるサザンドリューがお茶の用意をしている。サザンドリューは中年で白い肌に髪は褐色、目は琥珀色をしている。背は明良より少し高く、細身だった。

 水伯は八脚の内、玲太郎に合わせた椅子を引くと玲太郎を見た。玲太郎はそこへ行きって座ると水伯が机に寄せた。明良はその対面に座る。水伯は玲太郎の隣に座った。それを見てサザンドリューは水伯、玲太郎、明良の順に茶器と茶請けを出した。

「ありがとう」

 サザンドリューは礼を言った玲太郎に笑顔を見せた。

「それでは失礼致します」

「有難う」

 水伯がサザンドリューを見てそう言うと嬉しそうに微笑み、辞儀をして居室から出て行く。

「それで、今日は何時頃に屋敷を出る? 露店通りは直ぐ其処そこだけれど、歩くとなると四十分は掛かるからね」

「私は玲太郎に合わせるよ」

「あーちゃん、その言い方はずるい。僕もいつでもよいのに」

 眉を寄せて玲太郎が言うと、明良は僅かに頬を緩めた。

「十時のご飯代わりに露店で何かを買って、食べるとしようか? 色々露店が出ているから目移りするだろうけれどね」

「父上は行った事があるの?」

「あるよ。褒章を貰う度に王都で滞在をして、露店で買い食いをしていたよ。昔から変わらずある物は揚げ芋だね。今もあるのか、探さねばならないね」

「そんなに褒章を貰ったの?」

「何もしていないのに私を見たいが為に与えてくれるのだよ。正装をすると章飾だらけで困るのだよね」

「ふうん。そんなにあるんだね」

「やはり生ける伝説と言った所だね。イノウエ家も先祖が貰っている物が沢山あるけれど、水伯には到底敵わないね」

 水伯は苦笑すると茶を一口飲んだ。

「そのような話は今はよいのだよ。九時六十分頃に此処を出て露店を見て回るかい?」

「うん、僕はそれでよいよ」

「それでお願いします。人混みは本当に凄いから、これと思った物は並んででも買っておいた方がよいと思う」

 水伯は頷くと茶請けの焼き菓子を突き匙で切ると突き刺した。

「そうだね。屋外座席が何ヶ所かあったと思うから、空いていたら其処で食るとしようか」

 そう言うと頬張った。明良も焼き菓子を突き匙で切った。

「玲太郎は私が抱っこするから」

 水伯はそう言った明良を見ると、咀嚼をしながら頷いた。

「え、僕は歩くのよ」

「本当に人混みが凄いから、人しか見えなくなるよ? それでも構わない?」

 明良にそう言われて玲太郎は少し俯く。

「玲太郎はもう直ぐ八歳になるけれど、体はどう頑張っても五歳か、小さ目の六歳の子にしか見えないのだからね。手が離れたら人の波に流されて迷子になってしまうよ?」

 言い終わると焼き菓子を頬張る。玲太郎は明良を見た。

「分かった。抱っこでよいよ」

 それを聞いた明良が満面の笑みを浮かべて頷く。それを見て玲太郎も焼き菓子に手を付けた。簡素な焼き菓子だったが味は良く、玲太郎は立て続けに頬張った。


 露店通りは王宮の南側にある表通りを通行止めにし、正門前を中心として東西約十八町の距離に露店が並んでいる通りの事を言う。道幅が約八間あって所々に屋外座席が、随所に縁台とごみ箱が設置されている。水伯の別邸は王宮表通りから貴族街の中でも一番遠い場所にある。その為に露店に一番近い駐舟場へ飛び、そこから歩いて行く事となった。

 水伯はいつも通りの黒尽くめの格好だったが、帽子はまた庇の狭い物を被っていた。白鼠しろねず色の長髪は目立たないよう、外套の中に隠している。玲太郎は迷子になるとは限らないが、念の為に橙色と緑黄色りょくおうしょくと黄緑色の三色で編まれた毛糸の帽子を被り、金茶色の外套を着て、黒茶色のズボンを穿いている。明良は帽子は被らず、褐返かちかえし色の外套に桔梗鼠ききょうねず色のズボンを穿いていて、青藤あおふじ色の石を使った耳飾りと髪留めをしていた。玲太郎以外は人混みに紛れると見付け難い色合いだった。

 駐舟場から道に出ると、既に人が結構いた。

「こんな所から人が一杯なんだね」

 玲太郎が感心しながら言うと、玲太郎を抱いている明良が頷いた。

「露店が並んでいる所に行くと、もっといるよ。道幅が広いから片側の露店を見て、折り返してからもう片側を見るようになるからね」

「分かった。何があるのか、楽しみ~!」

 少し前まで興味がなさそうだった玲太郎は心が躍っているようで、満面の笑みを浮かべていた。明良の右隣を歩いている水伯が二人を一瞥する。

「ナダール各地の郷土料理もあるよ。私のお薦めはミョビモカ地方のパプチュリと言う大麦と野菜のり流しだね。今日は肌寒いから温まるよ」

「パプチュリね。パプチュリ、パプチュリ……」

「汁物や飲み物は温かい物が沢山あるから興味のある物にするとよいよ。ゆっくりと時間を掛けて回ろうね」

「どうせ買うのに並ぶから必然的に時間が掛かるし、温かい物も冷めてしまうと思うよ」

「それもそうだね」

「こういうの初めてだから、なんか落ち着かない」

 水伯と明良は微笑みを浮かべて玲太郎を見た。

「只、欲しい物の露店の前で並んで買って食べるだけだから、そのように期待をしなくても…」

 そう水伯が言うと、明良が本の少し頬を緩めた。

「こういう経験がないから、私も楽しみなのだよね」

「この数年は良くお店に食べに行っていただろうに」

「お店と露店はまた別だよ」

「そうそう、違うのよ」

 和やかな雰囲気で露店通りに向かう。随所にある三人掛けの縁台五脚を繋げて置き、それが二十列も設置されていたが、空いている縁台はほぼなかった。所々にある屋外座席は円卓一台に椅子が十脚置かれ、合計二百席あって相席をしているのだが、都合良く三脚の空きがなく、手荷物が増える一方で食べる事が出来なかった。

「此処で空くのを待たない?」

 四か所目で明良が言うと、荷物を持った水伯が頷く。

「そうしようか」

「焼きそばがあったのは意外だったね。僕、ナダールの食べ物ばっかりだと思ってたから嬉しい。焼きそば大好き」

「店主は和伍人だったものね。此処まで出稼ぎに来ているとは驚きだよ」

「本当に。けれど、鉄板でああ遣って焼くと、家で作るより美味しそうな匂いがするのは不思議だよね」

 明良が感心した口振りで言うと、水伯が頷いた。

「鉄板と火力がそうさせるのだろうね。家で作るより美味しく感じるものね」

「ううー、食べたーい」

 三人は席が空くのを待ちながら会話を弾ませた。約十分待った頃、運良く近くの席が空いて座る事が出来た。パプチュリやそれ以外の料理がぬるくなってしまったが水伯が魔術で温め、揃って挨拶をした直後、玲太郎は嬉しそうに頬張っていた。

「じゃあ父上、焼きそば半分ね」

 そう言って残りを水伯の方に差し出した。水伯はそれを笑顔で受け取る。

「有難う」

「あーちゃんは本当にいらないんだよね?」

「私は……料理名を失念したのだけれど、大角おおづの牛のひき肉とホンカガと乾酪かんらくの天火焼きがあるから大丈夫。有難う」

「カガビノーレだね。私の領地の郷土料理だよ」

「ああ、それだった。カガビノーレね。独り占めしてご免ね」

「一口ほしい」

 明良は思わず玲太郎を見ると、玲太郎が微笑んだ。

「まだまだあるのに食べられる? 大丈夫?」

「一口くらいなら平気」

「そう」

 明良は木製の匙で掬うと、匙の下に手を添えて玲太郎の口へ運んだ。玲太郎が頬張ると、頷きながら咀嚼をした。

「美味しい?」

 玲太郎が飲み込むのを待って訊いた。

「乾酪があっさりしててそんなにクセがなかった。ホンカガが水気たっぷりで、牛のこってりした肉汁と良く合ってて美味しい」

「どれどれ……」

 明良も頬張ると「うん」と頷きながら咀嚼をする。水伯は柔和に微笑む。

「ホンカガは甘味が控えめだけれど美味しいよね。颯が大好きなのだよね」

「はーちゃんも来られたら良かったのにね」

「そうだね。でもお仕事だから仕方がないね」

「うん」

 頷くと玲太郎は別の紙袋を開けた。

「これ、なんだったっけ?」

 玲太郎が少しだけ食べ物を出して二人がそれを確かめた。

「これはカバス帝国のモンボグという郷土料理だね。世界有数の大麦生産国で、大麦とカリュッカを粉末にして混ぜて生地を練ってね、それに胡桃くるみを砕いて混ぜて焼いた麺ぽうね」

「あれってモンボクと読むのだね。勉強になったよ。有難う」

「カリュッカって何?」

 玲太郎は水伯を見ると、水伯は柔和に微笑んだ。

「カリュッカは穀物だよ。カバス帝国の辺りではその穀物を作る国が多いのだよ。カリュッカを混ぜて焼くととても軟らかくなるのだそうだよ」

「そうなんだ。ありがとう」

 玲太郎は袋から出して手で千切ると目を丸くした。

「見た目は硬そうなのに、凄く軟らかかった」

 そう言って口に頬張ると「うーん」と唸った。そして半分が残るように千切ると、半分の方を明良に差し出した。

「有難う。どう? 美味しい?」

 受け取ると、少し千切って口に運ぶ。玲太郎は小首を傾げた。

「美味しいと言えば美味しいんだけれど、思ったより甘くなかったから、少し期待外れだね」

 明良は口を手で覆うと頷いた。

「確かに甘味が少ないけれど、これはこれで美味しいね」

 玲太郎はモンボクを食べてしまうと、紙製の湯呑みに入ったパプチュリの具を匙で掬い、掬えた少しばかりの具を頬張って、更に湯呑みに口を付けて汁を飲んだ。

「父上は足りた?」

「私はたこ焼きがまだあるからね。玲太郎も食べるかい?」

「じゃあ一個もらう」

 そう言うと口を開けた。水伯は柔和な表情でたこ焼きを一個、玲太郎の口に運ぶ。それを頬張ると一所懸命に咀嚼した。

「最後のこれは、なんだったか……」

 明良が紙箱を開ける。

「ああ、お好み焼きに似ていたから買った物だった」

「この類は何処にでもあるよね。これはセイダンセンだっただろうか?」

「そんな料理名だったね。何処の料理だったか……」

 明良はそう言って首を傾げ、付いていた突き匙で三等分にすると、カガビノーレが入っていた紙箱に自分の分を入れた。そしてセイダンセンが入った紙箱を玲太郎の前に突き匙と一緒に置いた。水伯がそれを取って、焼きそばが入っていた紙箱に自分の分を入れると、また玲太郎の前に紙箱を置いた。玲太郎は吐き匙を持つと、一口分に切り分けて頬張った。

「和伍のように甘藍かんらんではなく、千切りにした人参を入れているのだね。後は何が入っているのだろうね? 見た感じ、葱が入っているのは解ったけれど……」

 水伯はそう言って一口頬張った。数度咀嚼して手で口を覆う。

「豚肉が入っているね。うん、人参でも美味しいね」

「この甘辛い調味料も合ってて美味しいね」

 玲太郎が笑顔で言った。

「うん、美味しい。この人参も甘いね」

 明良も頷きながら言った。

 三人は食べ終えると塵を紙袋に纏めて入れて席を立ち、塵は水伯が持って、明良は玲太郎を抱き上げた。座席の近くに大きな塵箱が設置されていて、それに塵を放り込むと小さく圧縮された。玲太郎はそれを見て目を丸くする。

「すごーい! ゴミが平らになった」

「そうだね。かさ張らないように付与術が掛けられているようだね」

「僕みたいな子供が誤って中に落ちたらどうなるの?」

「どうにもならないよ。そういう風に術を掛けてあるのだろうからね」

「ふうん。付与術って凄いんだねぇ」

 感心している玲太郎を見て、水伯は柔和に微笑んだ。

「玲太郎が行こうとしている学校でも教えて貰えるから、沢山学んで使えるように頑張ってね」

「父上は気が早いよ。その前に受験があるんだから……」

 話を聞いていた明良が珍しく「ふっ」と笑った。玲太郎は明良の方に顔を向けた。

「笑う所と違うのよ」

「いや、微笑ましいなと思ってね。玲太郎の事だから大丈夫。下学校だし、今の学力なら必ず受かるよ」

「ディモーン先生が、国内で五指に入るくらい倍率が高いって言ってたのよ」

「それは学院と呼ばれる程に伝統のある学校だからね。千年以上続いている学校に入って箔を付けたい子がそれだけ沢山いるという事だね」

 そう笑顔で言った明良を一瞬見た人々が足を止めてまで見入っていた。明良はそれに気付いた瞬間、無表情に戻って水伯を見る。

「私はまだまだ食べ足りないから、次へ行こう」

「解った。そうしようか」

「僕もまだ食べられるよ」

「それは頼もしい事で」

 明良が笑顔で言うと、玲太郎も笑顔になった。そして三人は近くにある人垣に入って行くと、流れに任せて歩き出して物色をし始めた。

 この後も二度に分けて食べ、それでも明良が満足しなかったが、屋敷の使用人の分も買い込んで十一時半を過ぎる前に帰路に就いた。荷物は勿論、水伯が瞬間移動で屋敷へ送っていた。


 屋敷へ戻ると居室の机に荷物が置かれていた。明良は自分の分を取ると、水伯が残りを宙に浮かせて居室から出て行った。

「あーちゃん、まだ食べるの?」

「うん。少量を三等分とか半分とかにしていたから食べ足りないのだよね」

「それじゃあサザンドリューさんを呼んで来ようか?」

「敬称は付けないで呼び捨てね」

「……サザンドリューを呼んで来る?」

「そう、それでよいよ。飲み物は買っていた汁物があるから、これで大丈夫だからね。有難う。玲太郎も少し食べる?」

「ううん、僕はお腹一杯。飲み物もいらないくらい」

「そうなのだね。楽しかった?」

「楽しかったし、美味しかった。また行きたいなぁ。…あ、明日、はーちゃんとばあちゃんに混ぜてもらえる?」

「玲太郎のお祖父じい様もね」

「あ、そうだった。行っても大丈夫だろうか?」

「大丈夫。心配しなくても行けば行ったで喜んで受け入れて貰えるよ」

 明良が玲太郎に微笑み掛けると、玲太郎も微笑んだ。

「それじゃあ明日も連れてってもらう」

 明良はそれを聞いて頷くと三箱ある内の一箱の蓋を開けて魔術で温め、それに付いていた突き匙で切り分けて掬い、息を吹き掛けずに頬張った。


 九日、玲太郎は八時には昨日と同じ毛糸の帽子を被り、やはり昨日と同じ外套を既に着て準備万端で颯を待ち構えていたが、颯は明良が言った通り、九時前に遣って来た。いつも通り、先ずは二階の執務室にいる水伯の所へ挨拶に行き、そこで待ちぼうけをしていた玲太郎の格好を見て失笑したが、直ぐに手で口を覆った。

「お早う、玲太郎。何処かへ出掛けるのか? それにしてもその格好、暑くないのか?」

 笑いを堪えながら訊くと、玲太郎は首を横に振った。

「おはよう。そうなのよ、出掛けたいのよ。あのね、露店に行って、昨日と違う物を食べたいんだけどね」

「解った。それじゃあ行こうか。お父様も玲太郎が来たら喜ぶよ」

 微笑んでそう言うと玲太郎の隣にいる水伯に視線を移す。

「お早う、水伯。ばあちゃんは泊りだから宜しく。明日の夕食は作るって言っていたから十八時までには送って来るよ。……そうだ。玲太郎は今日の夕食までに戻って来たい?」

「僕もお泊りしてもよいよ?」

 水伯が思わず玲太郎に顔を向けた。颯が目を丸くしている。

「泊まるのか?」

「うん。送ってもらうの、悪い気がして」

「大して時間が掛かる訳でもないから俺は構わないぞ? あっと言う間に水伯邸に到着して、帰りは瞬間移動で戻ればいいからな」

 玲太郎は不満そうに顔を顰め、颯を上目遣いで見る。

「んー、でも泊まりたい……」

「水伯、玲太郎はこう言ってるけどそれでいいか?」

 颯は苦笑すると水伯を見る。それに気付いた水伯は柔和に微笑んだ。

「玲太郎が泊まりたいのであれば、私に止められないね。ガーナスの所だし、颯もいるし、安心だからね」

「やった! それじゃあお泊りの用意をして来るね」

 そう言うと急いで椅子から下りた。

「それじゃあ俺も行くよ。じゃあ水伯、行ってきます」

「父上、行ってきます」

「気を付けてね。ガーナスに宜しく伝えておいて」

「うん、解った。じゃあまたな」

「父上、また明日ね」

 玲太郎は水伯に向かって手を振ると急いで開扉して退室してしまった。颯も急いで追い掛け、閉扉した。

 三人の寝室だった部屋に入室した玲太郎は扉を開け放したままにしておいた。颯がその部屋に入ると、玲太郎は折れ戸を開けて中を漁っていた。

「鞄からか? 用意していなかったんだな」

「ちょっと大きめくらいのカバンでよい?」

「お好きに」

 八千代が作った手提げ鞄を出してくると颯に渡した。

「下着は脱衣所に取りに行くか、カイネさんに言わないといけないなあ」

「そうだね。中に着る服と上に着る服と、ズボンと、靴下と、後は何がいる?」

「寝間着はこっちで用意するから大丈夫だぞ」

「じゃあ、これと、これと……」

 服を出して来て颯に渡すと、颯は鞄に丁寧に入れた。

「はい、ズボンと靴下」

「うん」

 それも丁寧に入れると、玲太郎は折れ戸を閉めた。そして振り返ると、颯の肩に乗っているヌトとやっと目を合わせた。

「ヌト、おはよう」

「お早う」

「今日は短いけど、怠けずきちんと練習をやったからね」

「ふむ。解った。その調子で続けるのであるぞ」

「うん」

 玲太郎はヌトに先んじて言えたのが嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべていた。

「それじゃあばあちゃんを呼びに行こうか」

「はーい」

 二人は部屋を出て八千代の部屋に向かう。颯が扉を軽く二度叩く。

「颯だけど、用意出来てる?」

 少し間を置いて開扉すると、八千代が荷物を持って立っていた。

「おはよう。すぐに行く?」

「お早う。玲太郎も来て泊まる言ってるから、下で玲太郎の下着を取ってからな」

「玲太郎も行くんだね。分かった。朝食の時はそんな事、一言も言ってなかったのに」

 そう言いながら部屋から出て閉扉した。

「はーちゃんにダメだって言われたら行けないから言わなかったのよ。ごめんね」

「颯が駄目なんて言う訳ないのに」

 八千代はそう言って笑った。玲太郎は何故か照れ臭そうにしている。

「ばあちゃん、荷物を持つよ」

「そう? 悪いね」

 鞄を颯に渡す。

「それじゃあ行こうか。あ、先に脱衣所ね」

 颯が先に歩き出した。二人はそれに付いて行く。二人を玄関広間に残し、颯だけが脱衣所へ向かった。脱衣所の籠の中には既に玲太郎の綺麗な下着と寝間着が用意されていて、それを回収して玄関前にある颯が乗って来た箱舟に行く。玲太郎は颯の隣に、八千代は後ろに乗り込んだ。

「出発しまーす」

 颯が言うと、徐に上昇をし始めた。

「いっつも思うんだけど、上と下に光の玉を出して点滅させるのって、こんな人気のない所じゃ意味がなくない?」

「これは法律で決まっていて遣らざるを得ないだけなんだよ。だから水伯や兄貴も箱舟に乗ってなくても遣っているだろう?」

「そういう決まり事なんだ?」

「そういう事」

 八千代は納得したように頷いていた。

「ふうん……。面倒臭いんだね」

 颯は鼻で笑った。

「上昇や下降する速度も決まってるんだよ。面倒臭いだろう?」

「えー、これも決まり事だったんだ」

「ある程度の高度まで上昇してしまえば速度を上げても叱られないんだよ。それと私有地は自由だな」

「父上はうちの敷地でもゆっくり飛んでるよ?」

「自由だからな。今は私有地だから速度を上げても問題はないんだけど、ばあちゃんがいるからゆっくり目がいいなと思ってな」

「そうなんだね」

 玲太郎は納得したようで軽く頷いた。颯が俄に何かを思い付いたのか、息を深く吸った。

「そうだ、昨日よりは人出は減っていると思うけど、それでも人が一杯だろうから、玲太郎は必ず俺の手を握っていろよ?」

「抱っこじゃないの?」

 颯は玲太郎の方に顔を向けた。

「抱っこされたいのか? だったら抱っこするけど」

 玲太郎も颯の方に顔を向けた。

「あーちゃんは人しか見えなくなるから抱っこがいいって言って、抱っこしてくれてた」

「そうなんだな。それじゃあ抱っこな」

「そうだね。沢山の人がいるんだったら、玲太郎の身長だと人に埋もれるよね」

 八千代が言うと、玲太郎は頷いた。

「僕、小さいからね」

 颯は玲太郎の頭に手を置くと撫で回した。

「配慮が足りなかったよ。ご免な」

 颯の手が頭から離れると、玲太郎はずれた帽子を元に戻した。

「もー、帽子がずれたぁ」

「今日はずっと抱っこをするから許して」

 笑顔でそう言うと前を向いて高度計に目を遣った。その二人の様子を見ていた八千代が「ふふふ」と笑う。

「所で、ガーナス様はお元気なの?」

 颯は少し横を向いた。

「元気だよ。昨日は俺に付き添って式典に行っていたくらい元気」

「それで、褒章は何色を貰ったの?」

「何って、俺の物は特別だったようだからじゅの色は黒と赤の縞模様で、章は浮き彫りで、盾の前に剣が二本交差していて、その前に鷲がいたよ。それと勲章も貰ったよ。後、爵位と領地も貰えるって話だったんだけどそれは辞退した」

「えーっ! はーちゃん、爵位もらったの?」

 驚きの余りに大声を出した玲太郎は目を丸くして颯を見た。その玲太郎に顔を近付ける。

「だから辞退したって言っただろう? 実は未解決事件を幾つか解決したんだけど、それをずっと遣り続けろって事だからな。一連の事件に限りっていう話で頼まれて手伝っただけなんだし、過度な褒美は断るに決まっているだろう」

 そう言うとまた前を向いた。

「いやいやいやいやいや、え? それって断って大丈夫だったの?」

 八千代が身を乗り出して訊いた。颯はまた少し横を向く。

「俺こそ聞いてない話を唐突にされて唖然としたんだけどな。辞退したら場内が騒然として、宰相軍団なんか顔色が変わってたなあ。まあ、あいつ等は俺を抱き込みたいみたいで、主席宰相だと思うんだけど、そいつが叙爵を断るなど処罰対象だとか何とか言って来たから、私の望まぬ事態に陥れば多くの人に私の実力を見せ付ける好機となるだけですって言い返したからな。あの時のあいつ等の顔がおかしくて、笑いを堪えるのに必死だったわ。陛下は好きに致せって笑いながら言っていたけどな。まあ、そういう事なんだよ」

「そうなんだね。ちなみにどの爵位で、どの土地を貰う予定だったの?」

 八千代が意外と食い付いて来た。

「男爵をすっ飛ばして子爵だったよ。今は国領になっている土地を下賜かしするとか何とか言っていたなあ。なんて言ってたか……、イドショ州の国境沿いの土地ってお父様が言っていたな。それと、そんな場所で子爵程度は舐めいてると言っていた。それで敵軍を退けても俺にはしょう爵は望めないだろうとも。それじゃあ前進しまーす」

「国境沿いと言うと、カバス帝国になるの? それともキッサイ?」

 玲太郎が質問をすると、颯は視線を玲太郎に向けた。

「カバスの方な。お父様が言うには其処が一番戦闘が激しいんだって。まあ、そういう事なんだよ」

「はあ……、力があるというのも大変だねえ」

 呟いたのは八千代だった。

「その後の立食会も大変で、兄貴さながら鉄仮面で無視を決め込んだよ。それでお父様と一緒にご馳走をたらふく食べて帰って来たけど、やはりばあちゃんのご飯が一番いいわ」

「そう? 小さい頃からずっと食べてるから口が慣れてるだけだろうけどね」

「そうだろうか? ばあちゃんのご飯が一番美味しい。水伯のも美味しいんだけど、俺はやっぱりばあちゃんの味が一番だわ」

「僕はばあちゃんのご飯も父上のご飯も同じくらい好き」

「どっちかと言うと、どっち?」

 颯が意地悪な質問をすると玲太郎は目を閉じて唸った。

「どっちも選べないのよ」

「露店の食べ物はどうだった? 美味しかったか?」

「あれはあれで美味しいけど、ばあちゃんや父上には及ばないのよ。でもあーちゃんは一杯食べてた」

「こういう機会がほぼほぼないから、食べられる時に食べておかないとな。それにしても兄貴もさん人前は余裕で食べるからなあ」

「はーちゃんも一杯食べる? それだったら一口ずつちょうだいね」

「いいよ。でも一口でいいのか?」

「それ以外にもまだ買うから大丈夫。父上にお金をもらって来てるしね」

 颯は玲太郎を一瞥すると小さく溜息を吐いた。そして玲太郎の頭を今度は優しく撫でる。

「玲太郎のお祖父様が奢ってくれるから、それは気にしなくてもいいんだよ」

 言い終えると手を玲太郎の頭から離した。

「そうなの? なんだか悪いのよ」

「玲太郎は孫なんだから、其処は甘えておけばいいんだよ」

「そうだよ。私は赤の他人だけど、いつもご馳走になってるからね」

「それなら甘えるよ。でも量が少ないのに千こんとかする物が多いからね」

「へえ、そんなに高いんだな。学校の奉仕活動の一環で警備の手伝いをさせられた事があるけど、其処までは見ていなかったなあ……」

「紙の箱やら木の匙やら突き匙やら、そういう備品でお金が掛かるし、何より場所代に掛かるからね。でもね、食べる道具を抜きでって言えばその分安くなるんだよ」

 玲太郎は振り返って八千代を見た。

「本当? 知らなかったのよ」

「それでも安くなるのは五十金くらいだけどね。それだと箸か突き匙を持って行っておかないといけなくなるよ」

「あ、そうなるんだ……」

 残念そうに前を向いた。八千代は苦笑すると前のめりになって玲太郎の方に顔を向ける。

「資源を大切にしようという運動もあって、持ち運べるようにしてる道具もあるみたいだけどね」

 そう言うと体勢を戻した。颯が軽く頷いた。

「そうだよな。資源は有限だもんな。魔術で急成長させるにも限度があるからなあ」

「はーちゃんは出せるんじゃないの?」

「うん? そうだな」

 玲太郎の方を向いて言うと、直ぐに前に向き直す。

「その都度消せばいいよな。うん、出すよ。今日はそれで食べるか?」

「そうする! 少しでも資源を節約しなきゃね」

「私もそうする。颯、頼むね」

「解った」

 三人は会話を弾ませ、王都にあるイノウエ家の別邸へと向かった。


 イノウエ家の別邸は水伯の別邸の隣にあり、貴族街では二番目に広い敷地を有している。駐舟場に下降して箱舟を停め、颯は二人の荷物を持って降りた。玲太郎と八千代はその後ろに付いて行く。

「二人とも此処は初めてだよな。水伯の王都の屋敷は五階建てだけど、此処は四階建てなんだよ。花火は屋上で見えるから夜は花火を見ような」

「見る見る!」

 元気のよい玲太郎の隣を歩く八千代は整えられた前庭を見ながら歩いている。

「ここのお庭も綺麗にしてるねえ」

「そうだな、庭師が四人もいるからなあ」

「こういう時は、もう少し情緒のある言い方をして欲しいねえ……」

「ははは、悪い。綺麗な状態を維持してくれている庭師を褒めて欲しかったんだよ」

 そう言うと本館の正面の前を歩いて行く。本館の外観は灰青はいあお色をした石を使用し、程良く彫刻が施されていて荘厳だった。五段の緩やかな階段を上った所にある玄関扉は大きく、赤墨あかすみ色に金で装飾がされていて観音開きになっている。颯は右側の扉の取っ手を握ると徐に外側へ開いた。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 先に入って行ったのは八千代だ。玲太郎は颯の顔を見上げてから入って行くと、颯が取っ手を持って中に入りなが徐に閉扉して行く。

 玄関広間の壁は白く、床は艶のある石畳、左右に階段があって昇降口も兼ねている。階段脇には四人掛けの長椅子が置かれ、その隣には呼び鈴を置いた小振りの台があった。高い天井には豪奢な集合灯が吊るされている。絵画などはなかったが、緑が鮮やかな観葉植物が至る所に置かれていた。正面の中央にある通路は幅十尺あって、そこには絨毯が敷かれ、その通路から部屋に入れるように扉が付いていた。通路の突き当りには東西に走っている廊下があって中庭が見通せる大きな窓が見えた。

 室内は暖かくて八千代が外套を脱ぐと、玲太郎も外套を脱いだ。颯は厚着をしていない事もあって、そのままだった。

「ばあちゃんが泊まる部屋は二階の南棟ね。浴室も付いているよ。この階段を上った東側になるからな。それでこの建物は正方形になってて、迷ったら中庭を見て位置を憶えておけばどうにかなるよ。廊下は何も飾っていないから判り辛いんだよなあ」

「分かった。中庭の植物を見て覚えるよ。木が分かり易い?」

 八千代が訊くと、颯が頷いた。

「左右対称ではないから好きな木を目印にするのもいいけど、北側に低木が並んで植えられているよ」

「そうなんだね。それじゃあそれにするよ」

「うん、お願い。玲太郎は俺と同じ部屋で三階な」

「そうなんだ。分かった」

「それじゃあ、先ずはお父様のいる居室が一階だから、其処へ案内するわ」

「お願いします」

 そう言うと颯が先導して歩く。突き当りを左に行き、玲太郎と八千代は前と中庭を交互に見ながら歩いた。角を曲がって西棟を歩いて割と奥まで行くと颯が立ち止まって扉を叩いた。何も言わずに開扉すると、その部屋は約三十畳あった。八千代が先に入ると小さく辞儀をした。

「ガーナス様、お久し振りです」

 そう言いながら中へ入って行った。玲太郎もそれに続く。

「お祖父様、おはようございます。玲太郎です」

「お父様、只今戻りました。ばあちゃん、玲太郎、外套貸して」

 後ろ手に扉を閉めると、二人から外套を受け取り、扉の近くにある小さな机の傍にある衣こうに掛けた。机には荷物を置いてガーナスの下へ行く。

 ガーナスは南側にある一人掛けの椅子に座っていた。ガーナスの髪は芥子からし色に白髪が交じり、目は空色をしていて、顔中にしわがあったが眉間には特に深く刻まれた二本の皺が目立っていた。眉は太く、颯の眉の形に良く似ている。中肉で姿勢が良かった。今日は簡素な格好をしている。

「いらっしゃい。今日は露店で楽しみましょう。玲太郎も良く来てくれた。有難う」

 今年で七十七歳とは思えない艶のある声だった。ガーナスは穏やかな笑顔を見せ、穏やかな口調で言うと、八千代も笑顔になってガーナスの向かい側の長椅子に座った。玲太郎はその隣に座り、颯はガーナスの隣の一人掛けの椅子に座った。

「有難う。ご苦労だったね」

「どう致しまして」

「ご歓談中失礼いたします。ガーナス様、タミジーニ様を呼んでまいります」

 入ってきた扉とは違うもう一対の扉の前に立っていた男が言った。男は褐色の髪に翠眼は眼光が鋭く、細面の顔で体も細身で身長は六尺あった。

「いや、それには及ばない。だが飲み物の用意をしてくれるか」

「かしこまりました」

 男は辞儀をすると、静かに部屋を出て行った。

「ばあちゃんも会った事がなかったと思うんだけど、あの人はルモア・モンセイ・バラシーズさんで、お父様の侍従兼護衛を遣って貰っているんだよ。元々イノウエ家の騎士団にいたんだけど優秀だからって兄貴が抜擢したんだ」

「ふうん、あーちゃんがそう言うんだったら凄いんだね」

「どこの貴族様なの?」

「バラシーズさんは子爵令息だったか。高位貴族に仕える為の爵位だったと思う。何処出身だったか、憶えていないなあ……。何処だったか……」

「実家はロデルカ州だ。ミウ市だと記憶しているが」

 颯は眉を顰めてガーナスを見る。

「うん? それじゃあ高位貴族に仕える為の爵位じゃないのか」

 ガーナスも颯を見る。

「いや、それで合っているぞ。爵位持ちの父親は王都にいる文官侯爵に仕えているからな」

「そうなんだ。それじゃあ合っていたんだな。良かった。有難う」

 ガーナスは頷くと、顔を正面に向けた。

「はーちゃんはバラシーズさんの事は呼び捨てにしないの?」

「うん。兄貴がお父様の為に雇っているし、俺には直接関係ないしな。呼び捨てでって言われたらそうするけど、言われていないからな」

「なるほど、そういう事なんだ」

「玲太郎はそういう事は気にせずに呼び捨てがいいと思うけどな。俺と違って大公閣下の令息なんだからな。寧ろ口を利かなくてもいいくらいだわ」

 ガーナスが颯の方を向く。

「それは閣下の意向でお決めになる事だよ。玲太郎の意思も尊重して、な」

「父上は相手が調子に乗るから黙ってる方がよいかも知れないねって言ってるのよ」

「そうなのだな。玲太郎は優しいのだな」

 ガーナスはそう言うと、納得しているのか二度三度と頷いた。

「玲太郎は、兄貴や俺みたいにれていないからな。純粋なんだよ、な?」

「な? って本人に聞かれても、分からないのよ」

 玲太郎は困ったような表情をして颯を見た。同じく颯を見ていた八千代が小さく溜息を吐いた。

「明良や颯にもこういう時期があったんだけどねえ……。いつの間にか大人になってしまって、寂しいやら、嬉しいやら、ばあちゃんは複雑な心境だよ」

 颯は失笑した。

「あははははは、ばあちゃんは最近こうだからな。俺も六月には十六、年末には成人式だよ」

「子供は本当に育つのが早いねえ」

「ああ、そうだったな。颯は何処の成人式に出る積りだ?」

 八千代とガーナスがほぼ同時に発言をした。颯はガーナスの方に顔を向ける。

「何処で出るかは、まだ決めてないんだよな。覚醒式を受けた所でもいいんだけど」

「シュンゾーの地区会館だったな。まあ、いずれにしても保護者は見に行けないから残念だ」

「記念写真は撮ろうよ。兄貴が撮った所ででも…」

「予約は入れてある。閣下にもお越し頂く予定で既にお報せしている。勿論、八千代さんと玲太郎にも来て貰おう」

 ガーナスは颯が言い終わらない内に被せて発言した。

「え、其処まで話が出来てるんだ。何時いつ?」

「成人の日の十八時にマースジョー写真館だ。八千代さんも玲太郎も来てくれるだろう?」

「もちろん、参りますとも」

「行く行く。はーちゃんの記念日だもんね」

 二人が嬉しそうに返事をしている間、颯は指を折って何かを数えた。

「八人乗りの箱舟を作れば全員乗れるな。ウィシュヘンド地区は大きいし、ついでに色々と買い物が出来るなあ。……だったら成人式もウィシュヘンド地区で出るとするか」

「シュンゾーで式に出て、一旦屋敷に帰って来てからの方がゆっくり出来てよいのではないのか」

「そうだな。それじゃあシュンゾー地区にするわ。申し込んでおくよ」

「出席の申し込みは十三月末までだから、時間には大分余裕があるぞ」

 ここでバラシーズが茶の準備をして戻って来たが、タミジーニも一緒に来た。颯とガーナスがその挙動を見ていた。バラシーズは玲太郎側に行き、茶器に茶を注ぎ始めた。

「ご隠居、失礼致します。旦那様からお客様へ失礼のないようにとの言い付けですので、ご挨拶だけでもと思い…」

「よい、好きに致せ。これの家は代々此処で仕えてくれていてな、苦労を掛けているのだよ」

 タミジーニが言い終わる前にガーナスが被せて簡単に紹介をした。タミジーニは背が五尺八寸あり、細身で黒髪に碧眼、黄色い肌をしている。八千代達の方に体を向けると深く頭を下げた。

「レイタロウ様、ヤチヨ様、善くぞお越し下さいました。この屋敷の執事を任されております、ランドン・ソーユン・タミジーニと申します。以後お見知り置き下さいませ」

 そう言うと姿勢を戻した。八千代が笑顔でタミジーニを見る。

「ヤチヨ・イケノウエです。今日と明日、お世話になります。よろしくお願いします」

「どうぞお寛ぎ下さい」

 タミジーニは玲太郎に笑顔を向けてそう言うと、次はガーナスの方に体を向けた。

「ご隠居、それではこれにて失礼致します。ハヤテ様、旦那様から食べ過ぎないようにとのおことづけで御座います」

「解ったよ。有難う」

 苦笑する颯にタミジーニは満面の笑みを浮かべた。そしてまた八千代達に体を向ける。

「何か御座いましたら、近くにいる者になんなりとお申し付け下さい。それでは失礼致します」

 程良く辞儀をすると部屋を後にした。バラシーズは玲太郎、八千代、ガーナス、颯の順に茶を出すと、それを見届けたガーナスがバラシーズを見る。

「有難う。下がっていてくれ。出掛ける時に颯を呼びに遣ろう」

「かしこまりました。それでは失礼いたします」

 辞儀をすると部屋を出て行った。

「露店には何時頃に行く?」

 颯が訊くと、玲太郎が茶器を持って息を吹き掛けていたのを止めて颯を見た。

「九時八十分くらいに露店に一番近い駐舟場まで飛んで行こうよ」

 颯は玲太郎から八千代へ視線を移した。

「ばあちゃんもお父様もそれでいい?」

「私はそれでいいよ。今お茶を頂いててお腹もすぐには空きそうじゃないからね」

「私もそれでよい」

「解った。それじゃあ九時八十分くらいに行こうか」

「はーい」

 玲太郎が返事をした以外はそれぞれ頷いていた。


 時間が来ると玄関先に集まり出した。颯は玲太郎と一緒に一番乗りで、縦横各五尺の板の上に乗っていた。次に八千代が来てそれに乗るように促し、最後に来たガーナスとバラシーズもそれに乗った。

「出発しまーす」

 颯がそう言うと徐に上昇をし始める。誰も揺らぐ事はなかったが、颯は念の為に八千代の手を取っていた。

「箱舟と違って、なんだかこっちは心もとなくて怖いねえ」

 心配そうに言っていたが、玲太郎以外は平然としている。

「颯は手抜きをするからこういった事には慣れてしまった」

 ガーナスが笑顔で言った。颯は苦笑する。

「飛ぶ時は最低でも箱型じゃないと駄目って訳じゃないから、これでいいんだよ」

「でもこれ、結構怖いのよ」

「玲太郎のご要望通り、飛んで行く事に変わりはないんだから受け入れろよ?」

 颯にしがみ付いている玲太郎は顔を顰めて無言になった。ある程度上昇すると、露店から一番近いであろう駐舟場に下り、乗って来た板を消えた。そして、そこから歩いて行くが颯は玲太郎の手を引いているだけだった。人通りが一気に増えて来て最初の露店が視界に入った頃、漸く颯が玲太郎を抱き上げる。

「此処、一方通行なのか」

 人の流れを見て颯が言うと、玲太郎が頷いた。

「うん、そうなのよ。ぐるーっと回って来るから、両方に並んでる露店を全部見るのに結構時間がかかるのよ」

 右側に並んでいる露店の前を流れる人の列の後ろに付き、少しずつ前に進む。

「どれを買おう?」

 既にどの露店にも行列が出来ていた。前にいる八千代とガーナスとバラシーズは唯歩いているだけで、露店を見ようとはしていなかった。

「ばあちゃん、大丈夫?」

 八千代は横に顔を向け、更に横目にして颯を見た。

「何があるのか見えないねえ……」

「じゃあ俺が言っていくから、気になったのがあったら教えて」

「分かった。頼むよ」

 颯は看板やのぼりを読み出した。ガーナスは見えていたがそれを聞いて欲しい物を言い、颯と玲太郎が行列に並びに行った。それぞれさん品買った所で屋外座席に行き着き、席が空くのを待った。五人分の席が中々空かず、三十分程待った末に座る事が出来た。颯が匙や突き匙を出すと、皆に配った。揃って挨拶を済ませるとそれぞれが食べ始めた。

「玲太郎、半分ずつだからな」

「わあっえうよぉ」

 焼きそばを口の頬張った状態で言った。

「ばあちゃんのも三分の一ずつ食べてよ」

「うんうん」

 八千代の左隣に座っている玲太郎が頷いた。

「いいのか? 遠慮なく貰うよ?」

「色々味を見たいからそうして貰えると有難いわ」

 そう言いながら三等分にして行く。そして玲太郎の紙箱に寄せて、三分の一を入れた。

「それにしても、本当に少な目だな。一人前の半分くらいしかないぞ。これで焼きそばが九百五十金は高いわ。紙箱に保温の付与術もないし、突き匙もないって言うのに、いい商売しているなあ」

 文句を言いながら颯も紙箱を玲太郎の方に持って行き、八千代から三分の一を受け取った。

「有難う。ばあちゃんがくれたのってなんて料理だった?」

「私のはドノボーって言う料理と、もう一つはマヒュキスって言う料理で鳥の唐揚げだね」

「そうだった、ドノボーとマヒュキスな。有難う。でも憶えていられないなあ」

 颯は八千代から貰ったマヒュキスを頬張った。それを見ていた玲太郎が真似をしてマヒュキスを口に運ぶ。一個丸ごとは玲太郎の口には大きかったが、無理遣り突っ込んだ。

「んん、この鳥の唐揚げはあっさりしてるな。まあまあ美味しい。でもキコ鳥の方が美味しい」

 必死で咀嚼をしている玲太郎も頷いていたが、最後は首を傾げた。

「鶏と大差ない感じだねえ。でも身は軟らかいからモモだね、これは」

 八千代も負けじと感想を言うと、玲太郎が首を傾げたままだった。咀嚼を終えて飲み込むと颯を見上げる。

「きこどりって何?」

「和伍に住んでた頃に飼ってた鳥の通称で、本当は茶鳥って言うんだよ。毎日卵を食べていたんだけど、玲太郎は憶えていないか?」

「うん、覚えてない」

「肉もたまに食べていたんだけど、それも憶えていない?」

「当然覚えてないのよ」

「それは残念。鶏より味が濃厚で美味しいんだけどな。玲太郎も美味しい美味しいって食べていたよ。キコ鳥を食べさせてくれる店があったら食べに行こうか」

「うん!」

 元気良く返事をするともう一個あったマヒュキスを頬張った。

「それじゃあちょっと店を探してみるわ」

「私も食べてみたい」

 八千代の隣に座っているガーナスが会話に入って来た。

「それじゃあお父様も行く?」

「頼む」

「解った。ばあちゃんはどうする?」

 八千代は手で口を覆って颯を見ると首を横に振った。

「私は小さい頃から食べてて飽きてるし、鶏の方が好きだから行かない。ありがとうね」

「うん? なんで鶏の方が好きなのにキコ鳥を飼ってたんだ?」

「キコ鳥の方が世話が楽だし、鶏より大きい分、肉が多く取れるからね」

「成程」

 納得した颯はドノボーを突き匙で切り分けて頬張って咀嚼をする。

「お好み焼きに似た感じだけど、ねっとりしていて甘めだな。掛かっている調味料が少ししょっぱくて丁度いいわ。調味料が掛かっていないと芋餅に似ているような気がする」

「そうなんだ。何が入ってるんだろうね」

 八千代もそれを口に運ぶ。玲太郎が颯の紙箱を覗き込む。

「はーちゃん、その棒状のやつ、ちょうだい」

「ツァノカリュッカな。カボチャの絵が描かれてたから、カボチャが入ってる筈だぞ」

 そう言って五本ある内の三本を玲太郎の紙箱に移した。

「あっ、一本でよいのよ」

「そう?」

「まだまだ食べたいから」

 玲太郎が二本戻すと、颯は紙箱を自分の前に持って行った。玲太郎は突き匙でツァノカリュッカを刺すとかじった。颯はそれを横目に見ながらドノボーを頬張る。玲太郎はツァノカリュッカを飲み込んだ後、南瓜の擂り流しを二口飲んだ。

「これは口の中の水分を全部持って行くのよ。甘めで美味しいけど口が乾くよ」

「ふうん。どれどれ……」

 颯はツァノカリュッカを嚙みながら口の中に入れて行き、全て頬張った。数度咀嚼した程度でまだ口に残っているが、南瓜の擂り流しを流し込みながら咀嚼を続けた。

「だから言ったのに、全部食べるから……」

 玲太郎が素っ気なく言った。

「ふむ。それが颯だから仕方がないな」

 呟くようにヌトが言うと、玲太郎が鼻で笑った。

「これは美味しいけど本当に口が乾くわ。予想以上だった」

 そう言いながら二本目の半分を頬張った。玲太郎は焼きそばを頬張って嬉しそうに咀嚼をしている。

「どれ? 私にも一本ちょうだい」

 八千代が紙箱を差し出して来た。颯は紙箱を玲太郎の前に置いて指差すと、八千代はそこから一本取って行った。そして早速齧り、小さ目の一口頬張って咀嚼をすると頷く。

「確かにこの手のお菓子は水分を持って行かれるねえ。でもまだ粉っぽさがないからマシだね」

 手で口を覆って苦笑しながら言った。その様子を見て、玲太郎はツァノカリュッカをまた一口齧った。三人が分け合っている間、ガーナスはバラシーズに全てを半分に分けて食べさせていた。


 五人は食べ終えた後、少し休憩をしてから人垣の中へ戻って行った。そしてまた颯の料理名の読み上げが始まり、八千代はそれに耳を傾けていた。すると後ろの方から男の声が聞こえ始め、「すみませ~ん。通してくださ~い。すみませ~ん」と連呼しながら近付いて来る。颯は読み上げを止めずに続けていたが、その男が右横に来た瞬間、右手で男の左腕を捩じり上げた。

「こいつは掏摸すりでーす。財布を盗られている人がいると思うので、各自確認をお願いしまーす。財布を盗られている人がいると思うので確認をして下さーい。財布があるか、確認して下さーい」

 颯の声がそこら中に響いた。そしてそのまま右側へ寄って行き、動きの止まった人垣から出る。玲太郎は驚いて颯の肩を辺りを強く掴んでいた。ガーナス達も一緒に人垣から出ていた。

「痛い痛い! 放せよ! 痛いっつってんだろ!」

 男が痛がって体を揺らしていると、財布が幾つか落ちた。

「放す訳がないだろう、阿呆が」

 小声で言うと、握る手に力を籠めた。

「盗られてる! 私、財布を盗られてる!」

「俺も財布がない!」

「私もやられてる!」

 被害者が声を上げて颯達の方に遣って来る。近くにいた警備兵二人も駆け寄って来た。

「スリがどうとか聞こえて来たが捕まえたのか?」

 第一声がこれだった。颯は面倒だった事もあって、無言で掏摸男の左腕を一人の警備兵に渡す。

「お父様、ばあちゃん、バラシーズさん、行こうか」

「お、おい! ちょっと待て!」

 もう一人いた警備兵が颯の右肩を掴んだ。颯はズボンの衣嚢から身分証明書を出して、警備兵に見せて、その手を左手で払った。

「これでも貴族の端くれなので、此処で騒ぎに巻き込まれたくないんです」

 そう小声で言うと微笑んだ。警備兵は身分証明書を凝視する。

「ウィシュヘンド州アメイルグ郡イノウエ地区……、ハヤテ・ボダニム・イノウエ……様ですか。失礼致しました」

 慌てて颯に視線を移すと辞儀をした。

「後四人はいますよ。それじゃあそういう事で」

 それを聞き、咄嗟に頭を上げて戸惑う警備兵を残し、身分証明賞をズボンの衣嚢に入れて動き出している人垣の中へ戻って行った。

「多分お父様が狙われてたわ。危なかったなあ」

 ガーナスは横を向くと手を口に添えた。それを見て颯は顔をガーナスの方に寄せた。

「後四人いるのだろう? 捕まえなくて大丈夫なのか?」

「うん。こっちに被害が及ばなければ、まあいいかと思って……」

「颯には捕まえられるだけの力があるのだから、捕まえてしまいなさい」

「えー……」

 露骨に不満な表情をした瞬間、四人の男が宙に浮いてその場が騒然とし、男達はそれぞれの近くにいた警備兵の前まで飛ばされた。そしてそのまま上下左右に揺さぶられて幾つかの財布を落とした後、警備兵の目の前に着地して捕まったが、ガーナスがそれを知るのは明朝に新聞を読んでいる最中という、少しだけ先の話になる。

「よし、どうにかなったからこの話は終わりな」

 颯はそう言うとガーナスが大きく頷き、それを見て料理名の読み上げを再開した。この後、五人は三度に分けて食事をしてから屋敷の使用人への土産を買い、四人で紙袋を抱えて持って帰った。


 居室の長椅子でだらしのない格好をして寛いでいる颯の隣に玲太郎が座っていた。その前の一人掛けの椅子にガーナスが座っている。八千代は人混みに疲れて部屋へ行き、バラシーズは別の部屋に下がっていた。左肘を突いて上体を支えて玲太郎の右肩に頭を置いている颯は何もせず、読書をしているガーナスを唯々眺めていた。

「はーちゃん、お茶が欲しい」

「ん。紅茶? 緑茶?」

 上体を起こすと玲太郎を見る。

「緑茶がよいのよ」

「解った」

 前に座っているガーナスの方を見る。

「お父様は?」

 本から颯に視線を移すと老眼を少し下げた。

「私は紅茶が欲しい」

「解った。何か菓子はいる?」

「僕はいらない」

「私もいらない」

「解った。それじゃあ行ってくる」

 肘掛けに置いていた右足を床に着けると、立ち上がって部屋を出て行った。ガーナスは読んでいる所に栞を挟んで本を閉じて机に置き、老眼鏡を外すとその横に置いた。

「玲太郎は魔術をどの程度使えるようになった?」

 玲太郎は持っていた本を膝に下ろし、ガーナスを見る。

「んーとね、サドラミュオミュードの種を取る練習をやってる所。花は咲かせられるんだけど、種が取れないのよ。あれはとっても難しいね」

「サドラミュオミュードとは恐れ入る。あれを咲かせられるのは閣下お一人。それもあって市場には出回っていないのだよ」

「えっ、そうなの? 知らなかった……。でも種から咲かせてるんだよ?」

「種でも根でも挿し木でも、普通は無理なのだよ」

「図鑑に載ってたけど、心が清らかか、そうじゃないかで花の色が違うって書いてあったよ?」

「それは私の知らない情報だな。それは置いておいて、王都にある閣下の別邸の庭に咲かせていたら、それを見たとある貴族が盗もうと画策をした事で枯れてしまい、それ以降誰の手からも咲かせられなくなったのだそうだ。しかし不思議な事に、閣下だけが咲かせられる、という話を聞いた事がある」

「ふうん。そうなんだ。そんな花を僕が咲かせてもよいの?」

「閣下がお許しになっているのだから当然よいに決まっている」

 そう言って笑顔になると、玲太郎も釣られて笑顔になった。ガーナスはふと真顔になる。

「明良や颯も咲かせられるのだろうか」

「それは僕も気になるのよ。また父上に聞いてみるね」

「庭師が水を遣るだけで枯れるという話だから、若しかしたら無理かも知れないな」

「あっ、だからこの前、枯れちゃってたのかぁ。うちの庭師の孫が僕の幼馴染なんだけどね、僕がサドラミュオミュードを詰めて咲かせちゃったから、一本一本の間隔を空けるためにいじってくれたんだけど、その次の日に見に行ったら枯れてたのよ」

「それは残念だったな。しかし触るだけでもそうなるという事が判ったから、今後は気を付ければよいな」

「そうだね。あの時は動かしたから枯れたと思ってたけど、違ったんだね」

「そうだ、違う。…話は変わるが、玲太郎達のそう祖母、詰まり私の母はアサナ・メニウェラン・イノウエと言って、金髪に緑の眼、と言っても颯程濃くはない緑に、明良に瓜二つの美貌の持ち主でな、メニミュードの貴婦人と言われていたのだよ」

「へぇ! それは初耳なのよ。あーちゃんは美人だもんね」

「メニミュードは世界一の花という意味で、実際世界一美しいと言われている。まあ、世界一美しいとされている花はメニミュードだけではないが、その花の名付け親がメニミュードを見付けて根ごと持ち帰った。それを繁殖させると品種改良を始め、時の国王陛下に献上して改良種が広まったのだよ。そしてメニミュードの乱獲が始まり、その保護をする為に閣下が周辺の土地を買い取ってウィシュヘンド州に組込んだ。だからウィシュヘンド州は歪な形をしているをしているだろう?」

「買い取った土地って山脈の事だよね? それは習ったのよ。でも花が原因とは聞いてなかったから勉強になったのよ。ありがとう」

「うむ。持ち帰られたメニミュードの原種は皆改良種の糧となって、原種を見ようとすると山に入らねばならなくなってしまった。人間のさもしさが見て取れる出来事だな」

 そう言って寂しそうに笑うと老眼鏡を掛け、また読書を始めた。それから少しして颯が台車を押して戻り、それぞれに茶を入れた。

「お父様、置いておくから」

「有難う」

 颯を見ないで礼を言う。次は玲太郎の前に湯呑みを置いた。颯は自分だけ茶請けを持って来ていて、それと湯呑みを机に置くと微笑んだ。そして、座って茶請けの皿を手にすると突き匙を右手に持つ。

「頂きます」

 狐色に焼けた厚い生地を突き匙で切ると、その動作を見ていた玲太郎の口元へ運んだ。所々に微塵切りにされた何かが見える。玲太郎は思わず頬張った。

「なんだ、やっぱりいるんじゃないか」

 そう颯が言うと玲太郎は咀嚼をしながら颯を見る。

「これ、凄いね。柑橘の味と香りがする。美味しい」

「爽やかだろう。こういうの、食べた事はなかったか?」

「うちは和菓子派だから……」

「そうだよなあ、和菓子が多いよな。それでも少しは洋菓子とか南洋菓子が出ていたと思うんだけどな……。兎に角だ、これはソキノと言う柑橘類の皮の砂糖漬けと果汁が入っているんだよ。この焼き菓子、美味しいだろう。ん、自分で食べな」

 そう言って皿に突き匙を載せて渡した。

「よいの?」

「その為に持って来たから食べて貰える方が嬉しいな」

 玲太郎はそれを受け取ると颯を見て笑顔になる。

「ありがとう」

「どう致しまして」

 玲太郎が食べ出したのを見ると立ち上がって台車の方に行き、もう一皿を手にして座ると、それを見た玲太郎が二度見した。

「なんだー、はーちゃんの分もあったんだね」

「玲太郎が食べなかったら二皿共食べる積りで持って来ていたんだよ」

 玲太郎は目を丸くして生地を切った。

「あんなに食べたのに、まだ入るの?」

「甘い物は別腹だし、あれから二時間は経っているからなあ」

 それを聞いて少し笑うと二口目を頬張り、颯も一口目を頬張った。二人は美味しそうに咀嚼をしている。ガーナスは視線を本から二人に移し、その様子を微笑ましく見ていた。

「そう言えばはーちゃん、未解決事件を解決したってどんな事件だったの?」

「んん」

 颯は飲み込むと、湯呑みを取って茶を啜った。湯飲みを机に置くと玲太郎の方に顔を向ける。

「殺人事件だよ。犯人の殺していた人数が一人じゃなくて六人だったり、別の未解決事件と繋がっていてそれも解決したり、その犯人が所属していた暗殺組織を潰したりしたな」

「えっ、そんな組織があるの?」

「あるよ。そういう組織が割とあるみたいで、その内の一つを潰しただけな。その組織にいた奴は一人も逃がさずに捕まえて、依頼人の何人かが捕まったと聞いた」

 玲太郎は顔を顰めた。

「はーちゃん、そんな怖い事をやってたの?」

「誰も死ななかったから怖くはなかったぞ。お陰で勲章を貰ってしまったけどな。辞退したけど爵位と領地もな」

 そう言って玲太郎に微笑み掛けると、突き匙に刺さっている焼き菓子を口に運んだ。

「ふうん……。はーちゃんって凄いんだね」

 突き匙を持った手で口を覆うと、玲太郎の方を向いた。

「学校で学んだ事が少しは役に立ったのかもな? まあ、習っていない魔術を使ったんだけどな」

 そう言うと笑った。そして咀嚼を再開した。

「僕もそういう風になれるのだろうか……」

 そう呟く玲太郎を見て颯は鼻で笑うと口の中にある物を飲み込んだ。

「玲太郎は俺を遥かに超える逸材だからな。それは確実だから、焦らずに練習な」

 玲太郎は渋い表情をして颯を見る。

「はーちゃんを超えられる気が全くしないけど……、焦らずにやって行くよ」

「うん、焦らずにな。先ずは目の前にある焼き菓子を平らげるとしよう」

 微笑んでそう言うと、玲太郎も笑顔になって頷き、焼き菓子を頬張った。


 夜になると四人は屋上で花火を観覧し、二日連続で夜更かしをしいる玲太郎は瞬きが多かった。

「昨日は八十分もかかってたけど、今日は四十分で終わる?」

 玲太郎は颯の膝の上で夜空を見上げていた。

「終わった時に判るよ」

「それはずるい答えなのよ~」

「うん? 眠いのか?」

「うん……」

「まあニ十六時を過ぎているからなあ。眠いか」

 颯は肩に掛けていた布で玲太郎の上半身を包む。

「ありがとう。はーちゃんの魔術のお陰で膝から下がぽかぽかして温かいから、上は肌寒くても眠気に勝てないかも」

「寝てもいいぞ」

「寝ないっ」

 玲太郎は間髪を容れずに言い返す。昨夜の玲太郎がどうだったのか、容易に想像が出来た颯はおかしくなったが笑う事はなかった。玲太郎の腹の前で手を組むと花火を見上げた。花火の破裂音が花火の開花よりも少しばかり遅れて届く。

 八千代もガーナスも颯も見入っていたが玲太郎は半分夢の中にいた。そして傾いてしまった頭が颯の左腕に当たり、颯は玲太郎に掛けた魔術を体全体に広げた。それから数十秒後、玲太郎は完全に夢の中に意識が溶け込んで行った。

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