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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第一話 しかして生まれて一日目

むかしむかしのおおむかし

かみさまが

いらっしゃいました


かみさまは

ななはしら

いらっしゃいました


そしてかみさまたちは

わたしたちを

おつくりになったのです


あるとき

かみさまは

わたしたちに

しょくぶつのたねを

めぐんでくださいました


またあるとき

かみさまは

わたしたちといっしょに

はなをめでられました


またあるとき

かみさまは

ひでりを

とめて

あめを

ふらせてくださいました


またあるとき

かみさまは

あめが

つづいていたのを

とめてくださいました


またあるとき

かみさまは

どしゃくずれで

とおれなくなっていたみちを

とおれるようにしてくださいました


またあるとき

かみさまは

こうずいに

みまわれたむらを

なおしてくださいました


またあるとき

かみさまは

けがをしたこに

ちりょうを

ほどこしてくださいました


こうして

たびたび

おいでになっていたかみさまは

いつしか

おみを

かくされてしまいました


かみさまが

おいでにならなくなって

どれほどのつきひが

たったでしょう


あるひ

とあるしまに

こどものおすがたをしたかみさまが

あらわれたのです


やはしらめの

かみさまとして

またわたしたちにちからを

おかしくださいました


おおつなみを

けしさったり


すいみゃくを

さがしてくださったり


あまごいを

なさったり


ことみずにかんして

たけておられるため

すいはくさまと

よばれるようになりました


すいはくさまは

わたしたちとともに

せいかつをし

すえながく

ごいっしょすることと

あいなりましたとさ


 そう書かれた絵本を音読し終えて閉じた。

 絵本を手にしているのは八畳間の和室の奥で胡坐をかいている池之うえ明良あきらだ。障子を通した柔らかい日差しを背に受け、髪が淡く光っている。和伍わご人は黒髪に茶色の目、そして黄色い肌だが、明良はそれとは懸け離れた外見をしていた。女郎花おみなえし色の髪は癖毛で、白い肌に紺桔梗色の目が些か冷たく感じさせた。黙っていれば麗人と見紛う程に線が細くてとても綺麗なのだが、明良はそんな自身の外見を好んでいなかった。

 今日は星暦二二〇八年五月二十二日、そしてここは和伍国。和伍国は八千余りの島からなる国で、明良達は和伍の中心より南南西に位置する若世わかせ島の南東にある潮岬しおみさき村に家がある。

「このすいはくって、あの水伯なんじょ」

 部屋のど真ん中に敷かれた布団にせている悠次に言った。悠次ゆうじ淡黄たんこう色の髪で癖毛は明良よりも緩く、空色の目で端正な顔立ちをしている。明良よりも線が細く、頬が少しこけていた。

 その悠次が鼻でと笑うと目を閉じて「前にも聞いた」と、表情とは裏腹に素っ気なく返し、それを聞いた明良は黙った。

「兄ちゃん、時々ほう言うとるけどほんまなん?」

 障子の傍に立っているはやてが割って入ってきた。颯は一番若い割に一番男らしくがっちりしていて背が高く、髪は栗色だった。彼もまた端正な顔立ちをしていて、髪と同じ栗色の眉が凛々しさを際立たせ、目は深緑色だった。

 明良は少し顔を上げて颯の方を見る。

「お前は赤ちゃんが産まれる所を見ていよ。ほんで産まれたら連れて来て」

 持っている絵本で自分を扇いだ。

「もうちょっとかかりそうって香奈さんが言うとったけん、こっちにおれって父ちゃんに言われたんよ」

 産婆が木下香奈という名で、香奈はもう引退を考える年が近付いていた。

「ふーん、ほうか。まだなんか。ほんで産まれる所は見いへんのん?」

「うん、見いへん。…ほんで二千三百年も前に出た絵本に書かれとる「すいはく」が水伯ってほんまなん?」

「イノウエ家の家令が言うとったけんほんまじゃ」

 明良は手を止めて、本を右横に置いくと足を組み替えた。

「今度訊こう、今度訊こうと思ても訊き忘れとるんよ。やっぱり本人に確認したいよな」

「赤ちゃんが産まれたられんらくするけん、すぐ来るだろ? ……っちゅう事は、今日か明日には来るだろけん、忘れんようにせんとな」

 颯が透かさず言った。

「ほうやな」

 明良はそう返事をするとちょうど目を開けた悠次と目が合った。

「誰か来る」

 明良がそう言った途端に障子が開いた。

「やあ。揃っているね」

「うわ! びっくりしたー! 足音がまるでせぇへんかったけんマジでびっくりしたわ」

 焦った表情の颯が後退ずさりをした。

「ご免ね。そこまで驚くとは思わなかったよ」

 噂をしていた水伯は申し訳なさそうな表情をした。鴨居に頭を当てないように屈んで部屋の中に入ると、後ろ手に障子を閉めてから颯を見て微笑んだ。

 水伯は六尺五寸という高身長で、黒尽くめの格好をしている。いつもこの格好だ。白鼠しろねず色の髪は細くて光沢がない。直毛で長く、腰まであった。彫りが深くて金赤きんあか色の目が鮮烈だ。眉目秀麗で好青年の見た目に反して低い声をしていて、少々しわがれているのが特徴だ。

「おはようございます」

 明良が水伯を見ながら挨拶をしたが、直ぐに視線を悠次に移した。

「はい、お早う」

 水伯は微笑みを浮かべて応えると、明良の視線を追って悠次を見ていた。悠次は咳が出そうなのを我慢していて口を噤んでいる。

「あ! 水伯って、あの絵本に出てるすいはくと同一人物?」

 挨拶もそっちのけで颯が訊き、絵本を指差した。その先を見た水伯は鼻で笑った。

「それかい。懐かしいねぇ。如何いかにもそのすいはくは私の事だよ」

 ゆったりとした口調で話す。それを聞いた颯は目を丸くする。

「え! ほな二千年も生きとん? マジで?」

「颯は知らなかったのかい? 私はそろそろ二千五百歳になるんだよ」

「へえ! 長生きなんやな!」

 颯が更に驚くと、悠次が咳込んだ。明良が悠次の顔を覗き込む。

「思ってたより年寄りだったか」

 小さく呟いた。悠次は目を閉じたまま、また鼻で笑った。

「ははは、もっと長生きかも知れないよ?」

 冗談っぽく水伯は言って続ける。

「本当の所、正確な年齢が判らないのだけれどね」

 そして颯を凝視した。

「ほんの少し会わなかっただけなのに、また偉く身長が伸びてるね」

「うん、またのびたよ。兄ちゃんを追いこしそうなくらいのびた!」

 上機嫌で返事した所で悠次がを咳をし始めた。水伯は颯を見ながら二度頷く。

「まだ八つにしては本当に大きいね」

 言い終わると悠次の枕元に行き、正座をして悠次の額に手を当てた。水伯の登場で驚いた所為で、胸の辺りをさすっている颯は無言で水伯の動作を目で追っている。

(まだ八つとちゃうけど、来月が誕生日やけんまあええか)

 悠次の額から手を離して膝の上に置いた。

「熱はないのだね」

「うん、気だるいだけ」

 それを聞いて、軽く二度頷いて手を引いた。

「セキは出るんやけど、タンが絡むようなセキとちゃうんよ」

「そうなのだね」

 水伯は明良の方を見て、真顔になった。

「所で、少々気に掛かって様子を窺いに来てみれば産気付いてると聞いてね。ひと月も早いじゃないの」

「ほうやな。みんな驚いとる」

 素っ気なく返したが、これが明良の常だった。颯は満面の笑みで水伯を見ている。水伯は障子に当たった柔らかな日差しを眺めていて、悠次は天井を見ていた。暫く沈黙が流れる。


 明良が顔を上げて「誰か来る」とまた言った。

 今度は赤ん坊の泣き声と足音が共に聞こえ、それが段々と近付いてくる。皆が障子の方を注視していると障子が開いて、高身長の男性が赤ん坊を片手に抱いて立っていた。その男性も端正な顔立ちをしていて、髪は向日葵ひまわり色の癖毛で、あま色の目をしている。

「赤ちゃんが来たよー! また男の子だけど可愛いよー!」

 やや低い声だが、明るい表情で部屋の中に入ってきた。鴨居に頭を当てないように屈む。

「父ちゃん、はようオレに抱っこさせて」

 一番に反応をしたのは颯だった。

「赤ちゃんっちゅうだけあって赤いな!」

「産まれたてはこんなもんだよ。颯もそうだったんだよ」

 彼らの父親であるヴィストが言った。ヴィストが抱いている赤ん坊を覗き込んでいる颯は「ふうん」と返した。赤ん坊は大声で泣き喚いていて、ヴィストの手を蹴っている。

 明良は無表情で、二人を交互に見る。

「まあまあ、こういうのは年功序列じょ。先ず水伯から抱っこな」

 水伯は目を丸くして首を横に振った。

「私は最後で構わないよ。明良からどうぞ」

 柔和な笑顔で言った。颯は頬を膨らませつつも障子を閉めると、明良の方へと向かうヴィストの後ろに付いて行く。

「順番な。颯、ごめんな?」

 明良がそう言うと、颯は頷く。

「しゃーないけん我慢しとく。ほれにしてもよう泣くなあ」

 ヴィストはそれを聞いて頷くと、水伯と明良の間にひざまずいて腰を下ろした。赤ん坊をおもむろに明良の腕の中へと移す。颯は明良の右手側に行き、絵本をどかして座った。

(何かおかしいな?)

 明良は抱いてみて些か違和感を抱いた。だが、それも直ぐに消え去った。烈火の如く泣いていたが、明良に抱かれて噓のように止み、そちらに気を取られたからだ。

「あれ? 泣き止んだわ。……それにしてもふにゃふにゃやなぁ」

 明良は赤ん坊に対して全く興味がなかったのに、思わず頬を緩めて赤ん坊の顔を見た。すると赤ん坊の目が開いた。

「あ、目が開いた」

 烏羽からすば色の目を見ていると、心の奥底から温かい物が湧き上がって来て、なんとも形容し難い心地になった。ヴィストが覗き込んでみる。

「どれどれ?」

「あれ、もう閉じた。濃い色の目だったよ。何色かいな? ちょっと判らんけんど、ほとんど黒っぽかったような」

「そっか」

 見られずに萎れて体勢を元に戻した。

「濃い色なら獣人の目族の特徴が出るかも知れないね。……とは言えども、イノウエ家の血筋は何度か目族の血が入っているから、多彩な色の目の子が生まれるようになっているから一概に言えないのだけれどね」

 水伯が言うと、それに対して誰も反応しなかった。

「濃いっちゅうても和伍人特有の茶色かも知れんしな」

 また明良が素っ気なく言う。目が開いていたのは束の間だったが、確かに見つめ合ったという確信があった明良は目の色などどうでも良かった。

「しわくちゃだけど可愛いなぁ。ほんまに可愛いわ。玉のような男の子ってこういう子を言うん?」

「全くの無関心だった明良が可愛い……だって……?」

 ヴィストが目を丸くした。ふと何かを思い付いた水伯がそんなヴィストに目を遣る。

「ヴィスト、この子の名前の候補はあるのかい?」

「ああ、うん。伊織いおりきよしにしようと思ってる」

 水伯の方を見て答えた。水伯は二つ頷く。

「そうかい。差し出がましいけれど、玲太郎という名はどうだろう? 玉のような男の子と明良が言ったから思い付いたのだけれどどうかしら」

 明良が水伯を見て微笑む。

「ほれはええな。れいたろうにしよう。なんか気に入った」

「れいはぎょく部、王偏と言った方がよいかしら、それに命令の令と書くのだよ。たろうは太いにおおざとの郎ね」

「玲太郎かぁ。……うん、ええな」

 と喜んでいるのは明良だけだった。

「玲はたまとも読めるから、たまたろうでもよいかも知れないね」

「れいたろうが断然いい」

 間髪を容れずに颯が言った。明良も頷いている。

「待って、待って。まだ決まった訳じゃないよ。伊織だって清だっていい名前なんだからな?」

 慌てたヴィストを尻目に、上体を起こし出した悠次が言う。

「よっ…と……。玲太郎な。何か音がええな」

 名前が玲太郎に決まったも同然になると、ヴィストが固く目を閉じて俯いた。

「兄ちゃん、次は僕だよ」

 悠次が起き上がり終えると両手を出して催促する。

「まだ待って。もう少し。……もう一度目を開けてくれんだろか」

 粘っていると、悠次が無表情になった。

「明良や悠次とは全然似ていないけれど、颯の赤ん坊の頃に似ているね」

 自然と小声になった水伯が言った。

「そうだろか? 颯の方が目鼻立ちがはっきりしていたような……」

 そう言ったヴィストが「うーん」唸りながら目を閉じたり、天井を仰ぎ見たりした。

「髪の色が真っ黒だから、留実るみに似ているのかも知れないね。四人目にしてやっと和伍人の特徴を持つ子が生まれたんじゃ?」

「いやいや、母ちゃん似ではないよ。全然違う。まつ毛が長いし、父ちゃんの家系やと思う」

 明良が全力で否定した。

「兄ちゃん、ほんな事よりそろそろゆうちゃんと交代してよ」

 痺れを切らしたのは颯だった。早く抱きたい気持ちで一杯だ。それは悠次も同じで、大きく頷いた。

「玲太郎は俺に抱っこされていたいよなぁ?」

 小声で言ったが、ヴィストが明良を見る。

「また後で抱っこすればいいじゃないか。次は悠次ね」

 父親らしく仕切った。悠次の表情が一変して明るくなって、両手を玲太郎の方へと伸ばした。

「さあ、おいで~」

 体も明良へと寄せた。仕方なしに明良もまた悠次に体を寄せた。

「気を付けろよ」

 徐に悠次の腕の中へと移される。明良が腕を引き抜いて、悠次が一人で抱いている。すると、再度泣き出した。それも尋常じゃない泣き方だった。

「えー、何がイヤなん?」

 悠次が狼狽えた。

「そうなんだよなぁ、凄く泣くんだよなぁ」

 そう言ってヴィストが苦笑した。

「ちなみに蹴って来るよ」

「わわわ、ほんまじゃ」

 悠次はあやそうと右手で玲太郎の左肩の辺りを優しく叩いたが、全く効果がなかった。蹴りが激しくなり、玲太郎は足を激しく動かしている。

「意外と痛いな…」

 小さな足が悠次の右腕や胸に当たっている。

 布団に上がってまで覗き込んでいる颯が言う。

「そろそろ代わる?」

 もう待ちきれない様子だった。

「まだ大丈夫」

 そう言われて、気を落とす颯だった。

「ほれにしても良く泣くよな」

 明良が感心した。自分が抱いた時は静かだったから余計に不思議に思えた。

「明良の時が特別だったんじゃないの。香奈さんが取り上げてからずーっと泣き通しだったんだよ」

 ヴィストはまた苦笑した。

「俺の時が特別か……」

 明良が噛み締めるように復唱した。

「オレも特別かも知れんよ?」

 待たされている颯が不敵な笑みを浮かべて言った。

「それじゃあ抱っこしてみる?」

 悠次がそう言うと、意外と早くに順番が回ってきた事に大いに喜んだ。

「うん! やった!」

 大きな声で返事をすると両手を伸ばした。そのまま膝で歩いて布団の上に行くと悠次から玲太郎を受け取ったが、上手く抱けないでいた。

「颯、首と腰が据わってないから頭と尻を支えてあげるんだよ? 気を付けて」

 水伯が声を掛けた。それを聞いて「こうか」と頭と首の後ろと尻の下に手を入れて持ち上げた。すると玲太郎は泣き止んで、「うー」と言った。

「おお、思ったより軽いぞ。玲太郎~! 颯兄ちゃんだぞ~。よろしくな~!」

 玲太郎に顔を寄せ、玲太郎の額に頬を優しく当てた。

「あったかいなあ!」

 そして腕を少しずつずらして抱いてみせた。「んっ」とか「うー」とか言っている玲太郎を笑顔で見つめていると玲太郎の目がまた開いた。

「お、目え開いた」

「どれ?」

 明良が透かさず覗き込む。颯と見詰め合っているのを確認して気分が悪くなったが、それをおくびにも出さなかった。

「ほんまじゃ。開いとるな」

「これ、黒とちゃうん?」

「俺が見た時は黒っぽかったっちゅうくらいしか判らんかった」

 颯が黒としか判断出来なかったその目の色に興味を持った悠次も覗き込もうとした所、玲太郎は目を閉じてしまった。

「あー、閉じてもた。閉じるんが早いな」

 見詰め合えた事が嬉しくて颯は満面の笑みになった。悠次は寄せていた体勢を元に戻した。

「ほんまに濃いい色だった。いや? 黒か?」

「色名には暗いけどどんな色か見てみたいね」

 水伯が言った。颯が顔を上げて水伯を見た。

「ほな抱っこしてみる? オレはまた後でゆっくりと抱っこさせてもらうけん、代わってもええじょ」

「え? 何がなんでも、それは早すぎないかしら?」

「ねんこうじょれつってやつだと水伯が一番のはずだったけんええよ。目ぇ開くとええな」

 笑顔でそう言うと玲太郎を見ながら徐に立ち上がって、布団の周りを左回りに回って水伯の所まで行った。そして跪いて玲太郎を水伯へと移した。水伯は丁寧に抱くと、玲太郎の顔を見詰めた。

「玲太郎は思ったより軽いね」

 玲太郎は「あー」とか「うー」とか言っている。

「ああ、うん。見た目よりも軽かった。違和感はほれだったんだろか」

 明良が呟くように言った。それを聞いた颯が首を傾げた。

「軽いって、こんなもんちゃうん?」

「見た目通りの重さに感じたけど、軽いかと言われれば軽いような?」

 今度は悠次が首を傾げた。水伯に抱かれた玲太郎を見ながら颯が口を開く。

「ほれにしても水伯が抱っこしても泣かんなあ。悠ちゃんだけやな、泣かれたんは」

「父さんも母さんも祖母ちゃんも香奈さんも泣かれたけどな」

 小声でヴィストが付け加える。悠次は冷ややかな目でヴィストを見ると、颯もヴィストを見た。

「ここにおる中で、じょ。……ああ、だったら父ちゃんもか。ははは」

「泣かれてしまったってのは寂しいなぁ」

 悠次はそう言いながら横になった。もう自分が抱く番は来ないと確信したからだ。明良が掛布団を掛けて遣ると、二人は目を合わせた。

「ありがと」

 そう言って悠次は目を閉じてしまった。

「今度は泣かないかもしれないよ?」

 ヴィストが慰めると悠次は鼻で笑った。玲太郎は水伯に抱かれてご機嫌になったのか、「あー」とか「うー」とか言っている。

「玲太郎は良くお話ししてくれるね?」

 饒舌な玲太郎を目にして目尻を下げた。

「こんな事は初めてだね。そうだね、うん、そうだね。好きなだけお話ししてね」

 そして玲太郎は目を開けて、水伯と見詰め合った。

「あ、今、目を開いたけれど、これは濃い色だね。んー、濃い紫ではないかしら?」

 ヴィストが覗き込んだが、角度が悪く見えなかった。そして玲太郎は目を閉じた。

「うーん、見えない。残念だな」

「これだけ目の色の濃くて、目族の特徴でそうなっているのだとしたら、魔力の質が相当高いという事になるね。これは覚醒する時を選ばないと大変な事になるかも知れない。魔力量が多かったり、質が高かったりすると成長速度が遅くなるから、覚醒が早いと幼少期がずっと続いて育児が大変になるのだよね。だから気を付けなければね。単に目の色が濃くなっただけかも知れないけれど……、その時が来ないと判断が出来ないというのは辛い所だね」

 些か険しい表情でそう言うと、直ぐにまた柔和な表情に戻る。

「それにしても明良や悠次や颯もこんな時があったけれど、つい昨日の事のようだね。颯でまだ八年だよね? 時間が過ぎるのは本当に早いね。颯が生まれた時は明良が抱いていたのを見たけれど、ぎこちない手付きだったような……。それよりも悠次の方が危なっかしい手付きだったような……。いや、懐かしいね」

 玲太郎を見詰めながら語った。玲太郎は相変わらず「あー」とか「うー」とか言っている。

「颯は来月が誕生日やけん、ほぼ八年やな。俺はあの時、四歳だったけどよう憶えとる」

 いつの間にか胡坐から正座にしていた明良が言った。明良は覗き込もうにも少し遠くて玲太郎の顔が見えない。仕方なく颯の方を見て昔を思い出していた。

「颯は大きくて重かったんよな」

「兄ちゃん、よう覚えとるな。僕なんか覚えとらんわ」

「ほら二歳だったもんな。憶えとらんで当然よ。俺は颯が重かったけん、よう憶えとるわ」

 明良と悠次の会話を聞いたヴィストは思い出し笑いをした。

「そういえば颯は本当に大きかったからな。態度も太々ふてぶてしくて大物になるんじゃないかと思ったもんさ。玲太郎も一月早い割には明良よりも大きいし、普通に産まれていれば颯よりも大きかったかも知れないな」

 明良はそれを聞いて左手を握ると、颯を抱いた時の感覚を思い出そうとした。手を開いたり、結んだりしてみたが思い出せなかった。でも玲太郎が異様に軽かった事に改めて違和感を抱いた。そんな事を明良がしてる事に気付かない水伯が玲太郎の様子を見ていて疑問に感じた。

「玲太郎が口をぱくぱくさせているのだけれど、お腹が空いているのかしら?」

 ヴィストが玲太郎の様子を窺うと「あー」とか「うー」とか言っている合間に口をぱくぱくさせているのが見えた。

「そうかも知れないな。食堂に移動してもらってもいい?」

「解った」

 二人が立ち上がると、何故か一緒に颯も立ち上がり、先んじて障子を開けて出て行った。それに続いて水伯が出て行く。更にヴィストが続いて立ち去ろうとして振り返った。

「あっと、それじゃあ乳をあげてくるよ。そのまま赤ちゃんに用意した部屋に行くから、また抱っこするなら、そっちに行くようにしてくれよ?」

 そう言い残して障子が閉まると、置いてけぼりを食らいそうになった明良も立ち上がる。

「俺も行ってくる」

 そう言い残して風のように去って行った。残された悠次は静寂を独占した。


 この家は平屋で田舎の家という事もあって部屋数が多かった。先程までいた部屋を出て中廊下を東へ向かい、三部屋通り過ぎると南向きの玄関に辿り着く。そのはす向かいにある一つ目の部屋の障子が開きっ放しになっている食堂に入って行った。大きな食卓に八脚の椅子が置かれ、奥の東側の壁に沿って二台の水屋が並んでいる。奥北側は間仕切りしている障子が開け放たれていて、更にその奥には土間の台所があった。二十畳ほどある台所には日の光が僅かしか届かない為、桜輝石おうきせきという桜色に輝く石が玻璃はりの容器に入れられている物が幾つか天井から吊るされている。そしてそこには留実の伯母である八千代やちよがいた。

 八千代は黒髪に白髪交じりの髪を団子に纏め上げている。小皺はあるが、童顔のお陰で若々しかった。割烹着を着て炊事をしていたようだ。颯は奥にその姿を見付けて声を掛ける。

「ばあちゃん、玲太郎に乳をやるけん、山羊の乳を分けてくれる?」

 そう言いながら台所の出入口の所まで行った。次に水伯が入って来て、手前から二つ目の椅子を引いて座った。八千代は振り返ると、部屋を見回して誰がいるのかを確認した。

「おや、飲む気になったん?」

 そう訊いたが、答えが返ってくる前に既に用意をしてあった山羊の乳が入った汁椀と匙を出入口まで持ってきて颯に差し出した。

「うん、よう分からんけど飲むみたい」

 颯がそう答えている間に、ヴィストに続いて明良も入って来た。颯は八千代から汁椀と匙を受け取る。

「ありがと」

 手にした物を水伯の所へと持って行く。ふと思い立った水伯が颯を見る。その視線に気付いて颯は視線を返した。

「颯が玲太郎に乳を飲ませてみるかい?」

「え? ええん?」

「俺もやりたいんやけど!」

 明良が割って入った。二人は明良を見た後、顔を見合わせた。颯が不満そうな顔をする。

「それでは、じゃんけんで決めようか」

 水伯が提案をした。

「ほれでええよ」

 明良は即答したが、颯は口を尖らせた。

「抱っこは兄ちゃんが先だったんやけん、今度はオレが先にやりたい」

「二人で分けてやるより、一人でやった方がいいからじゃんけんにしな」

 ヴィストが間に入る。颯は不貞腐れてしまったが渋々頷いた。

「ほなじゃんけんでええよ。勝ったらええんじゃ」

 投げ遣りに言いながらも拳を作った。そして、明良が口を開く。

「最初はグー、じゃんけん」

「ほい!」

 明良が勢い良くグーを出した。颯はチョキだった。

「あああああ!!」

 颯が大声を出して残念がった。

「大声を出すなよ。玲太郎が驚くだろ」

 ヴィストが小声で言ったが、颯は聞いてはいなかった。玲太郎は相変わらず口を開閉させている。余程乳が欲しいようだ。

「颯、残念やったな。次は颯の番やけんな。悪いけどお先」

 明良は水伯の左隣の椅子を引いてから、玲太郎を受け取って椅子に腰を掛ける。

「ちょお、ごめんやけど乳をこっちに頂戴」

 催促した。颯は無言で汁椀を明良の傍の食卓に置いて匙を手渡した。

「ありがとう」

 明良は礼を言うと、匙で乳を掬って零さないように気を付けながら玲太郎の口へと運んだ。玲太郎は口の中に乳が入ると顎を動かしながら飲み込んだ。明良はそれを見て次の一口を運ぶ。

「飲んみょる、飲んみょるわ」

 感慨深そうに言うと顔が綻んだ。颯は面白くなさそうに見ている。

「飲まんようになるまで続けて。乳が多いやも知れんけんど」

 八千代が言った。

「解った」

 明良は乳が零れないように気を付けながら、徐に運んで口の中へと流し込む動作を繰り返している。その様子を温かく見守る二人だった。颯は仏頂面で見ている。そして一人頑張っている明良の頬は緩みっぱなしだ。それを見た颯が眉をしかめる。

「兄ちゃんがほんなに笑顔になっとるとこ、見たきおくがないわ」

「え? 俺、わろとる?」

「めっちゃ笑顔じゃ」

「笑ってる」

 水伯も笑顔で言う。ヴィストの位置からはそれは見えなかった。

 八千代がその様子を見て和やかな表情になる。

「赤ん坊は大人気やな」

 颯が振り返る。

「正直言うて生まれたてで物めずらしさがまさっとるけんどな。初めての弟やし、まあ、かわいいんはかわいいじょ」

 正直な気持ちを白状する。素の表情だったが、次の瞬間には笑顔を見せた。

「名前は玲太郎になったんよ」

 そう付け加えた。八千代は「ほうなんじゃ」と言った後、些か不思議そうな顔を見せる。

「今までは三文字だったのに、どういう風の吹き回しなんかいな?」

 ヴィストの方を見た。ヴィストは視線を感じて八千代を見ると八千代は目を丸くしてみせた。

「わたしが付けたんじゃないんだ。水伯の命名なんだよ。れいは王偏に命令の令に、太郎は普通の太郎。太いと、ろうは朗らかじゃなくて、おおざとの方ね」

 苦笑しながら言った。

「ほんまにな。ヴィストさんが付けたんとちゃうんじゃ」

 そう言って八千代は笑った。

「玲太郎って名前、なかなかええだろ?」

  満面の笑みで颯が言うと、八千代も笑顔で頷いた。

「ほうやな、なかなかええ名前よな」

 そう言うと、炊事の続きをしに中に引っ込んだ。もう十五時を回っている。間食の時間が迫っていた。水伯は玲太郎の様子を見た。

「そろそろよいのではないかしら? お腹一杯だと思うよ」

 明良は手を止めずに飲ませ続ける。

「まだ大丈夫よ。ゴクゴク飲んみょる」

 汁椀にたっぷり入っていた乳が半分に減っていた。明良はそれがほぼなくなるまで玲太郎に飲ませ続ける。

「もうなくなりかけとるけん、これで終わっとくわ」

「そうか。それじゃあ今度は縦に抱っこして、肩に玲太郎の顎を乗せて背中を優しく叩いてゲップを出してあげて」

 水伯がそう言うと、手拭いが俄に出現すると明良の肩に置いた。明良は言われるがままに従って、肩に玲太郎の顎を乗せて、背中を優しく叩き始めた。中々ゲップが出ず、しばらく叩き続けていると大人顔負けのゲップを出した。それを聞いて水伯は安心した。

「きちんとゲップを出してあげないと吐くのだよ。出してる最中に吐く事もあるくらいだから気を付けてね。私もそれで何度か失敗した記憶があるのだよ」

「了解。今度は颯がやるけん、颯も憶えておかんとな」

「大丈夫、今ので覚えたけんちゃんとやれる」

「じゃあ父さんが赤ちゃんの部屋に連れて行ってくるよ。貸して」

 明良の後ろから両手を伸ばして玲太郎を抱こうとすると、玲太郎が大声で泣き始めた。

「おやおや、ヴィストは嫌だと泣いているよ」

 そう言った水伯が笑った。颯も込み上げてくる笑いをこらえた。

「ほな俺が連れていこか」

 明良はそう言って立ち上がろうとした。 ヴィストが手を引っ込めると泣き止んだのを見て、落ち着かなかった颯が手を出した。

「兄ちゃん、オレに抱っこさせて」

「ええけど今お腹が一杯やけん、吐かんように気ぃ付けてやってな」

「うん、分かった」

 明良は座ったまま体をよじり、颯へと玲太郎を渡した。颯は笑顔で玲太郎を迎え入れる。

「颯兄ちゃんじょ~! 玲太郎はかわええな~!」

 満面の笑みで言うと、玲太郎が「うー」と言った。颯は含み笑いをして玲太郎の小さな手を撫でた。

「やっぱりちっこいな~!」

 声が大きかったが誰も何も言わなかった。颯はここぞとばかりに玲太郎に色々と吹き込み始めた。

「玲太郎は小さいけんオレを頼るんじょ~! ええで~? オレが一番玲太郎の事を思っとるけんな!」

 それを傍目に、明良が汁椀に僅かに残っていた乳を飲み干した。

「今日の山羊の乳はごっつい甘いな。こんなん初めてじゃ」

 驚いて思わず言ってしまった。それを見た水伯が目を丸くした。

「今日は明良の表情が良くと変わるね。そっちに驚くよ」

 それを聞いて興味が湧いたヴィストは明良の方を見たが、後ろ姿で表情までは見えなかった。水伯は懐かしそうに明良の顔を見詰める。

「笑うと本当にアサナの生き写しだね。無表情でも良く似ているけれど」

 アサナはヴィストの祖母だ。その美貌で男達を虜にしてきたが、アサナ本人はヴィストの祖父であるロベルト一筋だった。物凄いりん気で大変だったとアサナに瓜二つの明良を見る度に水伯が語る事がいつの頃からか常になっていた。

「もうアサナばあさんの話はええわ。聞き飽きた。ほれよりまつ毛の長いご先祖様っておる? 誰か思い当たれへん? アサナばあさん以外で、な」

まつげの長いご先祖様はいるよ、ちらほらとね。誰が思い当たるかと言うと、やはり初代の一朗太かしら。三男なのに一朗太という名前なのだよ。面白いでしょう?」

「いちろうた? 初代ってイノウエ家の?」

 明良が水伯に顔を向けると、水伯が明良を見て頷く。

「そうだよ。私を和三からナダール王国へと連れて行った張本人だよ」

「へえー! ほんで?」

 玲太郎に夢中かと思いきや、颯が合いの手を打ってきた。

「一朗太はナダールの枯れてしまった土地を再生したご褒美に、叙爵じょしゃくして領地を下賜かしされたのだよ。ついでに私もだけどね」

「じょしゃく? かし? むつかしいてよう分からん。なあ? 玲太郎」

 水伯は失笑して手で口を押さえた。更に込み上げてくる笑いを我慢する。

「……玲太郎も颯の言ってる事が解っていないと思うよ。あのね、叙爵は爵位を貰う、地位が上がるという事ね。それと下賜は王様から領地…、土地を貰ったって事だよ」

 そう説明すると颯は「ふうん」と言って、玲太郎に向かって話し掛けた。

「最初からほうやって分かりやすうに言うてくれたらええのに。なあ?」

 それに対して、玲太郎は「うー」と言ったが颯に反応した訳ではなく、「んっ」とか「うー」とか声を発していただけだった。その遣り取りを無表情で眺めていた明良が立ち上がって颯を見た。

「颯、そろそろ玲太郎を寝台に連れてってやれよ。俺も付いて行くけん」

「え? もう寝かすん? 今、話っしょるんやけど?」

「まあまあ、もう少しこのままでもよいのではないかしら」

 水伯が言った。表情を明るくした颯は玲太郎を見ながら笑顔になる。

「さっきは大して抱っこしてなかったけん、もうちょっとええよな。うん、ええよー」

 声色を変えて自答した。玲太郎は相変わらず「んっ」とか「うー」とか言っている。まだ寝る気はなさそうだ。

「しかし玲太郎は良く話すね。生まれてすぐでこんなに話す赤子を見るのは初めてだよ」

 水伯が話題を変えたが意図して遣った訳ではない。颯が即座に話に乗る。

「これ、話っしょるんだろか? ただ声を発しよるだけとちゃうん?」

「話しているよ。但し、何を言っているのか、本人も解ってはいないだろうけれどね」

「ふうん」

 颯が気の抜けた返事をすると、水伯は「ふふ」と笑った。

「玲太郎のこれからが楽しみだね」

 笑顔の水伯は本心から言った。

「オレがめんどう見るけん、ほらもうええ子になるじょ!」

 笑顔で颯が言うと、明良が鼻で笑って横目で颯を見た。

「言葉遣いの汚い子にはなりそうやな」

 そう言われて不機嫌になる。

「兄ちゃんも言葉づかいが汚いけん人の事は言えんと思うじょ」

「俺は今日から綺麗にするでよ。ほれと勉強は程々にして、玲太郎の世話を重点的にする」

 真顔で言い切った。颯も負けじと鼻息を荒くする。

「オレも言葉づかいをきれいにするもんね! で、玲太郎のめんどうを見るもんね!」

 それを微笑ましく見ていた水伯だった。


 玲太郎はその後、颯によって別の部屋へ連れていかれ、用意されていた寝台に寝かされた。「んっ」とか「うー」とか言って抵抗していたようだが、いつの間にか就寝したようで静かになった。颯はその寝顔を一人で眺めていた。

 同じ部屋に敷かれていた布団は母親用で、後産を終えた留実が遣って来た。良く眠っている玲太郎を見た留実が傍に来て頬に触れようとした途端に泣き出した。そして物の見事に乳を戻した。慌てて玲太郎を抱き上げてあやそうとしたが逆効果で、更に戻してしまった。

 颯は留実から玲太郎を奪って部屋から連れ出した。食堂に戻るとヴィストと水伯がいるだけだった。あった事を話すと、ヴィストが持っていた手拭いを使い、戻した乳で汚れた口周りや産着を拭いたが、逆に泣き始めて更に戻し、余計に汚れる破目となってしまった。

 こうして産着は着替える事になったが、食堂の正面にある居間はさっきまで留実の出産に使っていて、今は明良と八千代と香奈が片付けをしている最中でそちらも使えない。ヴィストは留実のいる部屋に行き、産着を一着手にすると、次は居間に行って座布団を持って食堂へ戻ってきた。食卓に座布団を置き、それに玲太郎を寝かせた。水伯が魔術で手拭いを出現させて、これまた魔術で手拭いを湿らせる。手早く産着を脱がせて、顔やら胸やらをそれで拭いて綺麗にした。用のなくなった手拭いはにわかに消えた。そして、新しい産着を着せるとそのまま抱いた。玲太郎が機嫌良く「あー」とか「うー」とか言い出した。颯とヴィストは少し離れてそれを眺めているだけだった。

「どうなる事かと思たわ」

 水伯の横にいた颯が安心しきった表情で言った。

「これは颯と明良が大活躍する事になるのではないかしら」

 ご機嫌の玲太郎を見詰めながら水伯が呟いた。ヴィストは腕を組んだ。

「機嫌が悪くなるのは偶然じゃないよな。やっぱり人によって態度が違うよな……」

 困った様子でヴィストが言った。

「こんな事ってある?」

 ヴィストの口から漏れた言葉だった。

「実際問題、こうなってしまっている訳だからね。ヴィストの気持ちも解らなくもないけれど……。少しの間だけかも知れないし、長く続くかも知れないけれど、明良と颯に頑張って貰うしかないね」

 笑顔で玲太郎を見詰めながら水伯が言った。玲太郎はご機嫌で良く話している。

「人見知りにしては、母親にまで泣いて嫌がるくらいだから、違うと思うんだよな……」

「そうだね。とにかく気落ちしないようにね。私もご機嫌が斜めにならない中に入っているから、出来るだけ手伝おうと思っているよ」

「オレががんばってめんどう見るけんいけるじょ」

 颯が頼りになる事を言って見せた。ヴィストは苦笑する。

「それじゃあ宜しく頼むよ。まあ、この事は家族会議で決着させよう。もう一度、ひと通り抱っこしてみて、様子を見たいのもあるけど…」

「毎日みんなで抱っこでええちゃう?」

「うん、そうだな」

 ヴィストは言いながら、手を伸ばした瞬間に泣かれる事を想像して渋い表情になった。

「そんな事より、さっきまりょくの質が高いとか量が多いとかで長生きするって話っしょったけど、水伯みたいに長生きした人ってけっこうおるもんなん?」

 颯が話を振ってきた。水伯は視線を颯に向けてから二度頷くと、また玲太郎に視線を戻した。

「意外といるよ。……そうだね、私の知る限りで一番長生きした人は八百歳程かしら。二百歳程なら百人は超えるのではかしら? 存命で百歳を超えてる人の数は把握していないけれど、二百に到達した人は一人いるね」

 柔和な笑みを颯に向けると、颯も釣られて笑顔になった。ヴィストは複雑な表情で水伯を見詰めている。

「二千五百年でほの数かあ……。すごいんかすごおないんか、よう分からんな。ほんで長生きするんって、かくせいしたらって事よな?」

「そうだね。覚醒してからの話になるね。覚醒が遅くて、年寄りの姿で三百年くらい生きた人を知っているよ」

 水伯からご機嫌な玲太郎に視線を移した颯は表情を硬くした。

「オレが何とかするけん大丈夫じょ。めんどうはちゃんと見る」

 真剣に言っているが、悲しい哉、玲太郎に通じるはずもなかった。

「とは言っても勉強があるだろ。それをちゃんとこなさないとダメだぞ」

 ヴィストが強めの語気で言った。颯は鼻で笑って胸を張る。

「知らんだろけんど、これでもゆうしゅうやけん平気じょ?」

 得意満面で言った。ヴィストはやれやれと言った素振りをすると諦め気味に笑った。水伯は柔和な笑顔で会話を聞きながら玲太郎を見詰め続けている。玲太郎はずっと話していて、それを満面の笑みで颯が見た。

 そうこうしている内に八千代と明良と香奈が食堂へと遣って来た。

「ご苦労です」

 一瞥いちべつをくれた水伯がいの一番に言った。白髪だらけの短髪で、化粧っ気の全くない男勝りな香奈が水伯を見て微笑む。

「いやー、留実ちゃんの出産は超の付く優等生やけん、はよ終わって助かるわぁ」

 大きな声で言った。八千代も笑顔になる。

「ほうやな。あの子の出産は安産ばっかりやもんな」

 水伯以外、そっちに視線を取られた。明良が玲太郎に視線を戻して不思議そうな表情をする。

「ん? 玲太郎になんかあった? 着替えとるみたいやけど……」

 一番に気付いた。八千代と香奈は食卓の上に置かれている汚れた産着に目を遣った。顔を上げた水伯が明良の方を見る。

「飲んだ物を吐き出してしまったんだよ。今は落ち着いてるのだけれどね」

「ほうえ。ほなまた飲まさんとあかんな?」

「そうだな。…あ、次は颯が飲ますんだっけか」

 そう言ったヴィストが颯の方を見ると大きく頷いた。明良が八千代を見る。

「ほれだったら先に間食にしてくれるん? お腹空いた」

「ああ、ほな用意するわ。もうちょっと待っとって。後は麺を湯がいたらええだけよ。みな一遍には出来んけん、順番に出すわな」

 八千代が台所の方へと向かって行った。香奈は奥の椅子に腰を掛けて八千代を目で追う。

「まぁゆっくりでええでよ。焦らんでな」

 大きな声で言った。水伯は既に椅子に座っていたが、ヴィストと明良と颯は近くの椅子に座った。

「ほれにしても、今回も母乳が出んのは辛い事だろうて」

 香奈がまくっていた袖を戻しながら言った。沓脱石くつぬぎいしで下駄を履いた八千代は香奈を見る。

「私には分からんけどほら辛いだろなあ。まあ毎度の事やけん、慣れとるかも知れんけど」

 そう言いながら香奈とは逆に袖を捲った。頃合いを見計らっていたヴィストが香奈に視線を遣る。

「香奈さんとは初めてだと思うけど、この人は水伯と言って、家とは家族同然のお付き合いをしてもらってるんだ」

「すいはくって、……水神様の水伯様かいな?」

「そうそう」

大仰おおぎょうな名を付けられてずっとそう呼ばれているけれど、呼び捨てでいいのだよ。香奈さんも遠慮なく呼び捨てでどうぞ」

 顔を香奈の方に向けて柔和な笑顔を見せた。香奈はしばらく考えてから意を決して口を開いた。

「水伯様って、…まさかとは思うけどあの加伊田かいだ島の生き神様と呼ばれとった水伯様?」

 加伊田島は和伍の中でも最西端に位置する島だ。水伯は二度頷いた。

「そのまさかだよ」

 間髪を容れずにヴィストが答える。それを聞いた香奈は間に颯がいても一向に気にせず、慌てて体を水伯の方へ向けて合掌して神妙な面持ちになる。

「眼福眼福」

 目を固く閉じて呟いた。その様子を目を丸くして見ているのは颯で、明良は相変わらずの無表情で香奈を眺めている。

「あの水伯様が生きておられて、和伍のどっかと取引しよるっちゅう噂は耳にしとったけんど、まさかまさか、お会い出来るとは思とらなんだわ」

 合わせた手を擦り合わせて音を立てながら話す。

「私らが小さい頃から、あの溜池や用水路や橋をこっしゃえたんは水伯様じゃー、ありがたいこっちゃー言うてな、耳にタコが出来るくらい言い聞かされとったんよ。今じゃ逆に孫らに言い聞かせよるけんどな。ほんまにありがたいこっちゃ」

 手を止めて、水伯に向かって頭を下げた。水伯は柔和な笑顔を崩さずにいた。

「私の存在を語り継いでくれているとは有難い事ですね。此方こちらこそ感謝します」

 視線は相変わらず玲太郎にあったが、丁寧に礼を言った。香奈はそれを聞いて満足したのか、深く一礼をして居直した。目を丸くしていた颯が左から右へ顔の向きを変え、水伯を見る。

「水伯って、えらいんやな! ごっついわ! ほんま尊敬するわ!」

 大きな声で捲し立て、水伯は苦笑いした。

「そうかしら? 有難う」

 礼を言うと、水伯様と持て囃された反面、扱き使われていた過去を思い出して表情が無表情になる。輝いた目で見詰めてきていた颯と視線を交わした。その無垢な存在のお陰で表情が柔和な笑みに戻った。

「颯の無邪気さには敵わないな」

 小さく小さく呟いた。

「うん? なんて言うたん?」

「いや、颯も可愛いなと思ってね」

 玲太郎の「あー」とか「うー」とか発する声が良く聞こえる。それを聞いた香奈が微笑んだ。

「赤ん坊、よう話っしょるなぁ。産まれたては泣いて泣いてしょったけんど、今は上機嫌やな」

「ほうなんよ。ごきげんさんなんよ。ほんでな、名前は玲太郎って言うんよ。もう決まったけんな!」

 颯が得意満面で話した。香奈は颯を見て「ふーん」と言った。

「この子は長いんやな」

 そう付け足す。明良と颯がヴィストを見た。ヴィストが「ははは」と笑う。

「まぁ、ね、そういう事になっちゃったんだよね」

「玲太郎は水伯が付けたんよ。ほなけん、いつもとちゃうんよ」

 水伯の方を見て颯が言う。香奈が声を上げて笑った。

「ほな長いんはしゃーないな」

「みな玲太郎がええっちゅう感じやったもんな。ああなったらもうしゃーない」

 方言を思いっきり使い、少しだけ自棄やけになって言い放ったヴィストだったが、そこは素早く切り替える。

「それより明良、すまないけどこの座布団を居間に置いて来て」

「はいはい」

 水伯の対面に座っていた明良は立ち上がると座布団を持った。障子が開放されていて、それをそのままにして出て行く。ヴィストは明良を目で追った。折良く台所の方から八千代の声が聞こえる。

「颯、運ぶん、手つどうてくれへん?」

 颯は立ち上がる。

「分かった。今行く」

 足早に台所へ向かった。それを見てヴィストは奥の水屋の抽斗ひきだしから割り箸を出すと、香奈と水伯の前に一膳ずつ置いた。

「ありがとさん」

 香奈が礼を言った。水伯は玲太郎に夢中で気付いていなかった。

「水伯、食べてる間、居間で玲太郎を寝かせておく?」

 やっと顔を上げた水伯は首を横に振った。

「いや、抱いたまま食べるよ」

 言い終わると微笑んだ。そして割り箸に気付いて、ヴィストの方を見た。

「お箸、ありがとう」

 小さく辞儀をして、直ぐ玲太郎に視線を戻した。

「ずっと玲太郎を見てるけど、なんかあるの?」

 疑問に感じたヴィストが訊いた。水伯は「うーん」と唸った。

「目が開かないだろうかと思って見ているだけなのだけれど、開かないね」

「そうなんだ。さっきちらっと開いたけど、あの時だけか」

「生まれてすぐやけん、ほんなに開いたりせんのとちゃう?」

 香奈が会話に入ってきた。ヴィストが香奈を見る。

「もう既に三回開いたからね」

「へえ、生まれてすぐやのに、ほないにも。早いなあ」

 そこへ颯がお盆に丼を三つ載せて遣って来た。明良も部屋に戻ってきてさっきまで座っていた椅子に座った。

「おそばじょ。気ぃ付けてな」

 香奈の傍で一旦盆を下ろすと丼一つを両手で持ち上げた。

「まずは香奈さんからな」

 香奈の前に一番量の少ないものを置いた。

「ばあちゃんが香奈さんは少なめって言うとったけんど、これでええかいな?」

「ああ、十分じゃ。ありがとうな。ほなお先に頂きます。水伯様、すいません」

「はい」

 盆を持ち上げた颯は次に水伯の下へと向かう。水伯の近くで盆を下ろす。

「水伯が食べよる間、玲太郎の事は抱っこしとくけん」

 そう言いながら両手で持った丼を水伯の前に置いた。油揚げとたっぷりの葱が載った蕎麦だった。水伯は二度頷いて「ありがとう」と颯を見た。颯は微笑むと盆をヴィストの方へと押し遣った。

「これは父ちゃんな」

 颯はそう言うと水伯の方を見る。

「ほな玲太郎をもらおうか」

 手を伸ばした。水伯は黙って玲太郎を渡す。そしてどこからともなく組紐が現れると、水伯の髪を一つに結った。

「それでは私もお先に頂きます」

 玲太郎を渡し終え、正面を向いて割り箸を割った。蕎麦を啜る音が聞こえ始めた。香奈も「美味しい」と舌鼓を打ちながら食べている。ヴィストはそんな二人を笑顔で見て、箸を取りに水屋へ向かった。颯は玲太郎を抱いて水伯の隣に座る。

「目え開くだろか?」

 じっと玲太郎の目を見詰め始めた。椅子に座ったヴィストが鼻で笑う。

「今日はもう開かないんじゃないの」

 そう言って手を合わせて「いただきます」と蕎麦を食べ始めた。

「父ちゃんはああ言うとるけど、開くやも知れんでえなあ?」

 颯は些か膨れて玲太郎に言った。玲太郎は先程でとは打って変わって静かになっていた。

「うん? もしかして眠るつもりなんだろか? 静かになってしもうた」

 不安そうに言ったが、それはそれで別に良かった。

「眠ったら寝台に寝かしたらんとあかんかいな?」

 ヴィストの方を見て訊いた。ヴィストは咀嚼を止める。

「まだ母さんのいる部屋に寝台があるから、居間の座布団の上にでも寝かせる?」

 左手で口を覆って言うとまた何度か咀嚼して飲み込み、再び蕎麦を啜った。静かにしていたのも束の間、また玲太郎が「んっ」とか「うー」とか言い始めた。

「あれ? 眠たいんとちゃうかったん?」

 颯が玲太郎を落ち着かせようと左手で背中を優しく叩く。落ちていた声量が俄に大きくなった。颯は慌てて手を止めた。

「おい~、眠いんとちゃうんかよ~?」

 今度は腕を小さく上下させた。その様子を見た水伯が口の中の物を飲み込む。

「どうしたのかしら?」

 左手を伸ばして玲太郎の胸の辺りを指先で優しく二度叩いた。それを見て立ち上がった明良が颯の方へ行く。

「俺が抱っこすれば静かだったけん、もしかしたら眠るかもよ。貸してみて?」

 そう言って手を玲太郎へ伸ばす。颯は少し膨れっ面になったが上目遣いで明良を見て玲太郎を渡した。明良が言ったように玲太郎は静かになった。

「どれどれ、眠るだろか?」

 明良は先程座っていた椅子に行くと腰を下ろした。今の所、玲太郎は静かにしている。実際、玲太郎は直ぐに寝入ってしまった。そんな事とは露知らず、静かになった玲太郎に対してやや不満に思った明良は玲太郎の頬を撫でてみたり、軽くつついてみたり、額を撫でてみたり、鼻筋をなぞってみたりした。

(これは眠ってもうたんだろか……)

 何を遣っても無反応な玲太郎を見て変に弄るのを止めると、唯々見詰めた。

(やっぱり軽いな)

 玲太郎の重さを確認するように腕を軽く上下させる。そんな明良は自身が無意識に表情が柔らかくなっている事に気付いていなかった。水伯は明良を一瞥すると、また蕎麦に視線を戻して数本掬った。

(この短時間で表情が和らいだのはよい事だね)

 蕎麦を啜るとゆっくり咀嚼する。

(佳人と見誤る程の美貌であの優美な表情を見せられると、周りが放っておかなくなるのだろうね。それはそれで可哀想だけれど仕方がないのかも知れない……。それにしても、本当にアサナに瓜二つだ、と言ってしまう事を明良は嫌っているから止めないといけないね)

 水伯が丼の上に箸を置く。

「今布団を出すから、それに玲太郎を寝かせた方がよいのではないかしら?」

 食卓に当たらないように右手を体の真横に遣ると小さな布団一組と枕が瞬時に出現した。

「颯はこれを持って行って敷いてもらえるかしら。明良は玲太郎を寝かせてもらえるかしら?」

「分かった」

 颯は立ち上がって水伯の所へ行って布団を取る。

「水伯、ありがとう。ほな兄ちゃん、行こうか」

 そのまま食堂を出て行った。明良は深々と辞儀をしてから立ち上がり、颯の跡を追った。それを見送った水伯は箸を持って、残り少ない蕎麦を啜る。


 颯は食堂の前にある居間に入ると部屋の真ん中にある大きな座卓の上に布団を敷き出した。居間は十二畳あり、部屋の入り口付近で足を止めていた明良は玲太郎の寝顔を見ていたが、颯の動作が気になって一瞥して、思わず二度見する。

「ほんなとこに?」

「寝台の代わりにと思たんやけど、やっぱりあかんかいな?」

「ほら下がええんちゃうか?」

「分かった」

 座卓に沿っておかれている座布団をどかして小さな布団を敷き直した。掛け布団を捲っておく。

「ここやったら机が光をさえぎっとってちょっと暗あなっとるけん、よう寝られるな」

「ほうやな。ありがとう」

 明良は礼を言って回り込むと、跪いて徐に玲太郎を布団の上に置いた。玲太郎は微動だにせずに大人しく寝かされ、掛け布団を優しく掛けられた。明良がその上に手を置いて微笑み掛けた。

「ゆっくり眠ってな。…ほな颯、食堂に戻ろか」

 立ち上がると玲太郎を見ている颯の肩を軽く叩いた。促された颯は小さく頷くと立ち上がって食堂へと向かい、明良も戻って行った。

「お、丁度良かった。つい今しがた八千代さんがお盆を持って来てくれって、颯に声が掛かったよ」

 食べ終えたのか、丼をお盆の上に置こうとしているヴィストが言った。

「ほなら行ってくる」

 颯は丼が二つ載った盆を持つと、香奈がまだ蕎麦を啜っている後ろを通り、台所へと下りる。

「ばあちゃん、持ってきたよ~!」

 大きな声が食堂にまで響いた。


  玲太郎は居間で一人熟睡している。そこには今まで姿を見せなかった約一尺の人型をした小人が三体、宙に浮いて玲太郎を見下ろしていた。小人は十五頭身あり、三体とも同じ顔をしていて、肌は白くて生気がなく、髪と目は濃藍こいあい色、同じ白梅鼠しらうめねず色の生地の簡素な服は着丈がくるぶしまでの長衣、裾には簡素な波型の模様が二本入っており、その下に見えているのは裸足だった。違ったのは髪形と服の裾にある模様の色だ。

「意外と早くに一人になったな」

 囁くように言った声は艶やかで低かった。その声の主は玲太郎の頭側にいて、前髪と横髪が鎖骨の辺りまであり、後ろ髪は腰まであった。服の裾にある模様の色は白藍しらあい色だった。真ん中にいる一体は髪を高い位置で一つに結び、背中の真ん中辺りまである。服の裾にある模様の色は海松茶みるちゃ色だ。その真ん中にいた小人がそれを聞いて軽く頷く。

「然り。はやてと言う子が残るかと思うたが外れたわ」

「ハソもノユも意外であったか。わしは寝台に寝かされた時にいけると思うたわ」

 玲太郎の足に近い方にいる一体がそう言うと、真ん中にいるノユが「ふ」と鼻を鳴らした。三体とも声まで同じだった。

「ズヤは気が早くていかぬ」

 ズヤの服の模様の色は若緑色で、髪型は緩い三つ編みにされていて、長さは腰まである。

「早く済ませてしまいたいから気がくのは致し方あるまいて」

「では印を入れてしまうか?」

 ハソも早く済ませてしまいたいようだった。

「うむ」

 即座にズヤが返事する。ノユは良く眠っている玲太郎の顔を見詰めている。

「泣かれそうにない今の内に遣ってしまうか」

「さっき眠っていた時に母親が手を伸ばしたら泣きおったぞ。若しやしたら印を入れる前に泣くやも知れぬな」

 心配そうにズヤが言ったのを聞いてノユは「フ」と鼻を鳴らす。

「まあ泣かれても一向に構わぬがな」

 そう言ったノユの方を二体が見る。

「如何にも。赤子は泣いてなんぼよ。泣きたい時は泣かせておけばよいのであろうて」

 頷きながらそう言ったのはハソだった。即座にズヤは深い溜息を吐く。

「泣かさぬ方がよいに決まっておろうが。そうであろう、のう? 玲太郎よ」

 玲太郎に話し掛けた。玲太郎は良く眠っている。その姿を三体とも穏やかな表情で見守った。

「しかしよく眠っておるな」

「然り。よく眠っておるわ」

 ズヤの言う事に同意をしたノユは玲太郎の寝顔に頬を緩める。

「では遣るか」

 そう言ったズヤの方を二体が見る。そしてそれぞれ目配せをし合ってから頷いた。玲太郎の近くまで下り、手をかざして目を閉じた。さん分経っただろうか、先ずズヤが手を下ろした。次にノユ、最後にハソと続いた。

「これで良し。しかし印が入れ辛かったわ。弾かれる感じがしたが」

 ハソはそう言って、二体を交互に何度か見た。ノユは玲太郎を見ながら頷く。

「前はこのように反発はされなかったような気がしたがな」

「何度も遣ったのであるが、もう記憶にないぞ……」

 そう言うズヤの表情が情けなくなった。鼻で笑ったハソは何度も頷いた。

「過去の事は憶えておらぬ事の方が多いわ」

「わしもであるがな。もうこれは致し方のない事よ」

「然り」

 ノユが大きく頷いて言った。そして徐に上昇し始めると、それを見たハソも同様に上昇し始めた。ズヤは逆に玲太郎の頭の右側へ行き、身を六寸六分に縮める。玲太郎の右上瞼に左手を置いて、右手を下瞼に置いた。ノユは来ないズヤに視線を遣ると、玲太郎の傍にいた。

「ズヤは来ぬのか?」

「いや、直ぐに行くぞ」

 二体の遣り取りを聞いてハソはズヤを見る。玲太郎の瞼に手を持って行っているのを目にし、小首を傾げた。

「何をしておるのよ?」

 手をそのままに見上げる。

「いや、何、気になるから虹彩の色を確かめようと思うてな」

「何っ、わしも見るぞ」

 目を大きく剥いたノユが慌てて玲太郎の頭の左側に行き、ズヤより更に小さくなって瞼を開いて「うーん」と唸った。ズヤも目を開く。

「これはこれは……。ちと判り難いな」

 呟くと一旦玲太郎の瞼を閉じた。すると小さな小さな光の玉がノユの頭上に顕現する。光は二体をとおり抜け、玲太郎の顔を照らした。

「おお、有り難い。机があるせいで薄暗くて見難かったのよ」

 ズヤは再度玲太郎の瞼を開き、虹彩を凝視した。

「わしも見難くてな。それにしてもほぼ黒よな」

「然り。こうしてやっと濃い紫というのが判ったわ」

 玲太郎は微動だにせず熟睡していた。二体は優しく瞼を閉じ、ハソの下まで一気に上昇した。光はいつの間にか消えている。

「あー、泣かれんで良かったわ」

「然り」

 ノユが大きく頷いた。そしてハソに視線を移す。

「それにしてもハソは見ずとも良かったのか?」

「わしは目が開いた頃にまた来ようと思うておるのよ」

「成程。そうならば今でのうてもよいわな」

 三体は天井を透り抜け、屋根をも透り抜け、外へと出た所で誰ともなく上昇するのを止めた。

「久し振りに会ったのであるから、誰かの家でゆるりと話でもせぬか?」

 そう言い出したのはズヤだった。

「よいぞ。誰の所へ行くとするぞ?」

「わしは最近家の木に帰らず、ごうにおるのよ。従って、わし以外がよいと思うのであるが」

 二体はそう言ったズヤを見た。ハソが口を開く。

「恒とはどこよ?」

「この島国の南の方に位置する大陸にあって、その中でも一番大きな国が恒よ。その国の二番目に大きな街の端の辺りにな、此処ここ最近居着いておるのよ」

「それでは其処そこへ行くか。何があるのかわしも知りたい」

 ノユが興味津々な様子で言った。ハソは一つ頷く。

みなでレウの所へ押し掛けたい気持ちもあったが、それでよいぞ」

「レウか、久しくうておらぬな。……レウに会うのならば何時いつ印を入れたのか訊きたい所よな」

「如何にも。わしが玲太郎の所に辿り着けたのはレウの気配のお陰でもあるから礼も言いたい」

 ハソは腕を組んで目を閉じた。

「初めて家の木に花が咲いて、何かあると思うて総当たりで何かを探しておったらレウの気配がするではないか。不思議に思うて行ってみれば赤子が産まれそうになって、そのまま見ておったらノユとズヤが来て…」

「わしも総当たりで探しておったのよ。そうしたらズヤと鉢合わせをしてな」

「わしは恒での傍観に飽きて空の散歩を楽しんでおっただけなのであるがな。ノユの気配が近付いてくるからうたのよ。家の木に花が咲いた事なぞ、未だに信じられぬわ」

 ハソは目を開いてズヤを見ると一つ瞬きをして再度目を閉じた。

「ああ、そうであるか。家の木におらぬのであれば花が咲いたのを見てはおらぬか」

「うむ。しかし恒ではのうて、誰かの家に行かなければ見えぬわな」

 ズヤが目を閉じているハソを見ながら言った。そんなズヤを見ていたノユが微笑む。

「ふふ、まだ咲いておればの話であるがな」

「まさかまさか、もう萎んだとでも言うのではあるまいな?」

 ズヤが目を剥いて言った。それを見たノユの口元が更に綻ぶ。

「わしが家の木を出た時はまだ綺麗に咲いておったわ」

「わしは其処まで見ておらぬがまだ間に合うと思うぞ」

「そうならば、先ずレウの家の木に行ってから恒に行かぬか?」

 そう言うズヤにノユは無言で頷いた。目を開いたハソも二度頷いて微笑む。

「それでよいぞ」

「ならばハソ、頼んだぞ」

「解った」

 ズヤに応えたハソが十五尺程の大きさになった。元の大きさに戻ったのよ。そして二体はハソの右肩に並んで座り、ハソは高度を上げながら西へと飛んで行く。地上が見る見る小さくなり、島々が足もとに広がって、急速に遠ざかって行く。あっと言う間に海上を飛んでいた。三体共、髪や服が風になびく事もなく移動している。今日はどこに行っても雲一つない晴天だった。

「しかしあれよな、あのレウが印を入れておるという事は、玲太郎は相当の魔力持ちか?」

 ズヤが何気なく訊くと、眉を顰めたハソが「うーん」と唸った。

「まだ覚醒しておらぬであろうから判断出来る筈もなかろうて。魔力量がどれ程の物かなぞ判らぬし、質など以ての外よ。それよりも、玲太郎が産まれた瞬間に体内外の透虫等が色めき立ちおって……、わしの感情かと勘違いしそうになったぞ」

「透虫の事はわしには判らんかったが…」

 ハソと対照的に穏やかな表情をしたノユが目を細めて続ける。

「それよりもあれよ、あれ、チムカの魔力に似ておらぬか? 物凄く懐かしくなってな」

「ああ、解る! 懐かしさがまさって、透虫の事には全く気付かなかったわ」

 それを聞いたハソは口を一文字に結んだ。

「チムカの魔力に似ておったか? わしはそんな事、露程も思わなかったぞ」

「透虫に夢中になっておるからだろ」

 ズヤは鼻で笑う。ノユも鼻で笑うと頷いた。

「然り。どうせまた行くのであろう? ならばその時に懐かしむがよい。わしも折を見てまた行くわ。子等が食肉樹しょくにくじゅと言うておるあの木から仄かに漂うチムカの魔力のお陰で、それを忘れずにおる訳であるが、玲太郎からも感じ取れるのは不思議な物よな」

「あの木に関してはチムカの意思が反映されておると思い至るのであるが、玲太郎は完全に偶然よな」

「偶然なのであろうか? 玲太郎がチムカの生まれ変わりとも思えぬが、偶然にしては出来すぎておるわな」

 ノユとズヤの会話を聞いていたハソは面白くなかった。

「お主等はチムカの魔力を憶えておるのよな。わしは微塵も憶えておらぬわ。しょくにくじゅとやらから出ておる魔力も知らぬしな」

「ハソはいつの間にやら子等に対して不干渉になったものな。食肉樹の森が形成された時には既に家の木を空に浮かべておって知らぬだけではないのか。わしはしばしば子等に交じって歩いておるから世情には明るいからな」

 ノユがハソを一瞥して言った。

「そうなのであるか。わしが空に上がった以降の事ならば知らぬでも仕方がなかろう」

 ズヤが透かさず口を挟む。

「わしもたまに子等の中で寝起きしておるぞ」

「解っておる。恒におるくらいだものな、それはそうであろうて」

 ノユの突っ込みを聞いたハソが無言で何度か頷く。

「先程話した事も忘れてしまうのは年寄りの証拠ぞ」

 穏やかな表情から一変して真顔になったノユが「フン」と鼻を鳴らした。

「もう何年生きたかすら憶えておらぬ程の年寄りよ」

「生きた年数なぞ、ちまちまと数えておれぬわ」

「済まぬ、偉そうに言うておきながらわしもそれは判らぬ」

 三体は会話を続けながら、和伍の西にある大陸へと向かって流れ星の如く消えた。この速度ならば目的地に着くのも早いだろう。


 一方、水伯達は玲太郎が寝る部屋を決める為に話し合いを行っていた。

 夜中に玲太郎の泣き声で子供達が目を覚まさないよう、玄関より東側にある部屋で母親と寝起きする事になっていたのであるが、母親に対しての泣き方が異常である点と、明良と颯と水伯以外に抱かれると泣いてしまう点を踏まえ、子供部屋に赤子用寝台を移動させ、勉強部屋には赤子用布団を置き、病している悠次を東側の部屋の一室へ移動させて静かに寝られるようにする事にした。そして明良と颯は、子供ながらにして玲太郎の面倒を見る事となった。それを心配した水伯は二人を助けるべく提案をする。

「週に二度、四日に一度だね、私が手伝いに来るよ」

 蕎麦を啜っている二人は口に入っている分を慌てて飲み込んだ。

「えっ、かんまんの? オレははっきり言うて来てくれるんはうれしい」

「俺は別に来んでも平気やけど……」

 廊下側に向かい合って座っている二人は口々に言った。ヴィストは苦笑する。

「じゃあ、申し訳ないけど水伯にも手伝ってもらおうか」

「ほうしとき。明良、勉強しもって面倒見るんだろ? ほんなんで二人で面倒見るんは大変なじょ。週に二日でも来てもらえるんやけん、よろしゅうお願いしときな」

 台所側に座っている八千代が明良の方を見て、手で口を覆いながら続けた。

「ばあちゃんも手つどうてやりたいけんど、今度はお手上げじゃ。あの泣き癖がなくならんとなあ……。はぁ……。ああ、可哀想やけんど泣きもってやったらある程度の事は出来るわ。ただ乳だけはやれんけんな」

 溜息交じりに言い終わると蕎麦を啜った。

 明良を始めとして三兄弟を育てたのは八千代だった。ヴィストと留実はその補助をしていた程度に過ぎなかった。だが、補助と言える程の補助もしていなかった。と言うのも、ヴィストはナダール王国の侯爵家子息で温室育ちという事もあり、子育てに関しては我が手で育てるという発想がなかった。留実はと言うと、母乳が出ないという事もあって畑仕事を優先、更には服作りに熱中していて、子育てに参加をしようとしていなかった。普段から家事は八千代任せだった事も手伝って、押し付けたと言うのが正しいのかも知れない。その為、八千代が已むを得ず子育てを引き受けた形になった。

「まあ、兄ちゃんは夜に起きられへんだろけん、夜はオレががんばるわ。昼寝を多めにするけん、あんまり勉強が出来んようになるかもしれんけんど、ほれはかんべんしてよ」

 颯が満面の笑みで言うと、蕎麦を豪快に啜る。明良は口の中の物を飲み込んで頷いた。

「勉強は俺が見たるけん。夜は悪いけど、ほんまに頼むわ」

 明良は夜に弱かった。一度寝るとどんなに騒いでも起きないのだ。それに早起きは出来ても、夜更かしは出来ない。自分でもそれは重々承知だった。

「ほな水伯、すみませんけど週に二日、お願いします」

 明良ははす向かいに座っている水伯に軽く頭を下げて言った。

「仕事の調整をするから丸一日掛けていられるようにするね。週に二日は任せておいて。二人とも、休める時はきちんと休むのだよ? 子育ては本当に大変だからね。そうだね……、初日は明後日にするね」

「あ、父さんも手が空いてる時は手伝うよ」

 ヴィストのその言葉に視線を集めた。

(父ちゃんが一番なんもせえへんって聞いとったけど、ほんまにするんかいな……)

 颯は即座に思った。八千代が渋い顔をすると、また口を手で覆った。

「ヴィストさんは作物の心配だけしとり。はっきり言うて邪魔なだけやけん」

 この辛辣な意見によって、ヴィストは小さくなるだけだった。水伯が笑顔になって助け舟を出す。

「そうだね、また土地を買い取って大きくしたのだから、それがよいかもね。しかしこの辺も、本当に過疎化が進んでいるね」

「そのお陰でまた土地が買えたけど、ここ一帯はもううちしかいなくなってしまったよ」

「ここは街からも遠いわ、いっちゃん近い店も遠いわ、空港からも遠いわ、生活するには不便やもんな。まあ、農村やけん、しゃーないっちゃあしゃーないけんど」

 まだ居座っていた香奈が両手で抱えている湯呑みを見詰めながら言った。ヴィストは頷きながら文句を言い出す。

「水伯があんな所に空港を造るから、あの辺に移る人が増えた所為だな。まぁ、農業離れもあるんだけど、それにしても空港が出来てから残りの三軒全部いなくなっちゃったもんなぁ」

「この島に空港がなかったから仕方がないね。あの辺は観光地から近いし、島都とうとからも近いし、海港にも近いし、何より丁度土地が余っていたからね。それに此処にも近いと言えば近い」

 颯はどうでもよい話を聞き流しながら蕎麦を食べ進めていたが、ふと気付いた。

「ほういや、さっき玲太郎が寝台で母ちゃんに泣かされて吐いた時に布団が汚れたんやけど、ほれはそうじ苔のおけに浸けたらええん?」

 それを聞いてヴィストは目を丸くし、明良は僅かに眉を顰めながら咀嚼をした。

「いやいやいや、布団を浸けたらダメだよ。中綿が溶けてしまうよ。うーん、でも中綿にも滲みてるだろうから、布団を丸ごと洗うしかないだろなぁ……」

「ああ、私が綺麗にしよう。私は手が空いているから今の内に寝台を移動しようか。ヴィスト、済まないけれど一緒に部屋に行って貰えるかしら?」

「そうだな、行こう」

 二人は食堂を後にし、明良がそれを確認した後に颯を見た。

「颯、玲太郎が母ちゃんに泣かされて吐いたってどういう事?」

 蕎麦を啜りながら明良を見ると、咀嚼も程々に飲み込んだ。

「どういう事もこういう事もほういう事よ。母ちゃんが抱っこして泣いて吐いたんよ」

「ほんでどないしたん?」

「うん? オレが玲太郎を抱っこしてこっちに来た。ほんで吐いて服が汚れたけん着がえたんよ」

「成程。ありがとう」

「うん」

 二人は残っている蕎麦を勢い良く啜った。その様子を見ていた香奈がお茶を一口含んで飲み込む。

「泣くんは気ぃが合わんのやも知れんな」

 ぽつりと言った。

「母親に抱かれて、あないにも嫌がる子っちゃほんなにおらんじょ。気ぃが合わんのやったら、まあ理解も出来る」

「ほうだろか」

 八千代が香奈を見ながら言った。

「私も大概泣かれたけんど、気ぃが合わんかったんかいな」

「多分繊細な子ぉなんじゃわ。まあ、追々分かってくるだろ」

「早いとこ落ち着いてくれたらありがたいんやけんどな」

「ほうやな」

 二人は微笑み合うと、八千代は蕎麦をゆっくりと啜った。明良はそれを聞きながら颯の様子を窺っていた。颯は聞き流していて、蕎麦を食べるのに必死になっているだけだった。

(玲太郎の事を言うとるのに我関せずか。まぁな、颯も玲太郎に嫌がられとらんもんな)

 無表情のまま、明良もまた蕎麦を啜った。


 ヴィストは遣る事を遣ってしまうと香奈を送りがてら、田畑を見回りに外出した。居間には良く眠っている玲太郎の傍に水伯がいて、座卓の上には出された水伯の分のお茶が湯気を立てている。そして明良が向かい側で本を開いて勉強をしていた。颯は玲太郎の横で寝っ転がっている。

「起きへんな」

 退屈なのか、颯が言った。明良は聞こえていないのか、無言で鉛筆を走らせた。口角を少し上げた水伯が颯を見る。

「そうだね。あれから一時間経つけれど一向に起きないね」

「水伯は何時までおるん? 夜に帰る?」

「私の家がある場所と此処の時差が十二時間、時間は此方が進んでいて、離陸に五分、飛行時間五分、着陸に五分、合計十五分。向こうの朝しち時に戻るとして、何時に此処を出ればよいと思う?」

 そう言われて颯は顔を顰めた。

「急に言われても分からん」

「計算して?」

「えええ……。こっちが十二時やったらあっちはれい時って事でええん?」

「そうだよ。ここが十五時だったら、向こうは三時ね」

「分かった。えっと……一日三十時間で、一時間が百分だろ。えっと……」

 上体を起こして壁に掛かった振り子時計を見る。

「今はあ、昼の一時三じっ分やけん……、十一時三十分って事で、えーっと……」

 視線を上に向けて天井を見詰めた。暫く沈黙が流れる。

「十二時間二十分を引いたら、に、二十九時……十分になって……、九十分でれい時、朝の七時まで七時間と九十分か? ほれを今の時間に足したら答えが出るよ!」

 悪戯っぽく笑って水伯を見た。しかし水伯は微笑んで颯を見詰める。

「それで答えは?」

「うっ……、言わんとあかん? やっぱりあかんかあ……」

「そこまで計算したなら直ぐだろうに」

「ほなうとるんじゃ。良かった。……えっと? どこまでやったっけ?」

 表情を明るくした颯は時計を見ながら人差し指を立てて動かし始めた。一から遣り直しているようだ。水伯はそれを見てから明良に視線を移す。真剣な面持ちで本に向かっている様子を見て、次は玲太郎へと視線を移した。こちらはこちらで安らかな寝顔を見せてくれる。

(悠次の病も進行が早いから、起きるのもままならないのかしら。明良がこう遣って必死で医術を学んでも間に合わないね。失われそうな命、そして新たに生まれた命……。皮肉な物だね)

 複雑な表情で感じ入ってしまった。

「分かった! 十九時十五分!」

 満面の笑みで回答した颯に、これまた満面の笑みを返す水伯。

「はい、遣り直しね。此処が十九時十五分なら、向こうも十五分だよ。十五分掛けて帰ったら三十分になるじゃない。答えは近いから頑張って」

「ええ…、計算合うとったんとちゃうかったん?」

「合っているとは一言も言っていないよ」

 そう言って柔和に微笑むと、颯は何とも言えない表情をした。

「ご免ね。けれど計算し直しなさい」

 柔和な表情とは裏腹に厳しい口調で言う水伯だった。颯は文句も言わずに唸りながら、また時計を見て指を立てて動かし始めた。

 二人はそんな事をしながら時間を潰していると、玲太郎が泣き出して颯が喜んだ。

「泣いた! やった! 起きたわ!」

「泣いて喜ぶ奴があるか」

 聞いていなかったようで、しっかりと玲太郎の泣き声に反応した明良が水伯を見る。

「この状態で皆に抱っこしてもらおう。丁度泣いとるし、今やったら吐かんだろし、ええと思うんやけどどうだろ?」

「それはよいね。私が八千代さんを呼んでくるよ。ヴィストは帰って来ていないみたいだから今回は参加しないとして、留実さんと悠次は寝ているかも知れないから、二人の様子を颯が見に行ってくれるかしら?」

「分かった。ほな行ってくる」

「それでは明良は玲太郎の事を見ていてね」

「解った」

 空になった湯呑みを持つと、素早く部屋を出た颯を追って水伯も出て行った。


 先に戻ってきたのは水伯で、八千代が後ろに付いてきていた。八千代はさっきまで颯が寝転んでいた場所に屈むと玲太郎に手を伸ばす。

「どれどれ、抱っこしてみよか」

 手慣れた手付きで抱き上げるも、玲太郎は泣いたままだった。

「泣き止まんなあ。おしめかいな?」

「おしめかも知れんしな」

 明良が言う。水伯は頷いた。八千代は手をおしめのがわの中に入れて確かめる。

「濡れとるわ。替えて再挑戦しよか」

「ほうやな。おしめはみな寝室に持ってってしもうとるけん、持ってくるわ」

 立ち上がりながら明良が言った。水伯は先程まで座っていた場所に座り、落ち着いている。

「よしよし、ほなおしめ替えようなあ」

 八千代は玲太郎を布団に戻す。

「よっこらしょ」

 立ち上がって部屋を後にしようとしたが、水伯がそれを止めた。

「お湯と手拭いを持ってくる積りなら必要ないよ?」

 そう言って座ったまま場所を移動し、産着の前を開くとおしめの側を取り、股間に宛がっていた布を外して確認する。排便はしていなかった。玲太郎は泣き止むと、水伯が柔和な微笑みを浮かべた。

「魔術を使えばもっと簡単に出来るのだけれど、今は少しだけにしておくね」

 汚れた布を脇に置き、濡れ手拭いを出すと汚れた部分を綺麗に拭く。そして濡れ手拭いが瞬時に消えた。

 感心して見ていた八千代が水伯が座っていた所に腰を下ろした。

「私ゃ魔術をぽんぽん使えん質やけん、手間がかかってしゃーないんやけんどなあ。水伯さんはやっぱり凄いな。ありがとう」

「これ程度ならば大して魔力も使いませんからね」

 お互い笑顔で頷き合った。そこへ明良が真新しいおしめを持って居間に戻って来て、続いて颯も戻った。

「母ちゃんは寝とって、悠ちゃんは起きとったけんど抱っこはせえへんって」

「ほうかい」

 八千代が反応した。水伯が颯を見る。

「それならおしめを綺麗にして、八千代さんに抱っこをして貰うだけになるね。お乳は明良が先に遣ったから、おしめ交換は颯が先にする?」

 振り返って訊くと、颯は笑顔になる。

「やるやる!」

 水伯が横に寄って場所を開けると、颯はそこに座り込んだ。

「どうやるん?」

「これを先ず畳むね」

 水伯が明良の持ってきた替えの布を折り畳んで颯に渡した。

「両足首を持って……」

 八千代が説明をし始める。颯は黙って聞きながら言われた通りに手を動かした。明良もその様子をつぶさに見ている。

「このガワの留め具、留めにくいわ」

 文句を言いながらおしめ替えを遣り遂げた。産着を着せる手付きも見届けて「上出来」と褒めた八千代は笑顔で言う。

上手うまあに出来たな。今は拭かんかったけん、次は拭くんもやろうな」

「いやいや、次は俺の番よ」

 割って入ったのは明良だった。水伯が柔和な表情で明良を見た。

「まあ、ほうやな」

 そう納得した颯は玲太郎を抱き上げると、玲太郎が「んっ」とか「うー」とか言い出した。

「なになに、オレに話しかけてくれとん?」

「吐いてから一時間は経っとるけん、乳飲ましてみるか?」

「いや、ほの前にばあちゃんが玲太郎を抱っこせな」

 明良が急かすと、八千代は手を差し出した。

「ほうじゃ、わっせとったわ。綺麗にした後に抱っこするんだった」

「泣くんだろか」

 颯はそう言いながら玲太郎を八千代に渡した。玲太郎は八千代の手の中に体が移ると、機嫌良く声を発していたのが泣き声へと変わった。

「あかんか。今日はあかんのんかも知れんな」

 苦笑した八千代は颯に玲太郎を渡そうとすると、明良が傍に遣って来た。

「ばあちゃん、次は水伯か俺にして」

「ほうやな。ほな明良」

 心待ちにしていた明良は差し出された玲太郎を慈愛に満ちた眼差しで見詰める。明良の腕の中に移された玲太郎は直ぐに泣き止んで明良に身を委ねている。

「やっぱ泣き止むな」

 泣き止んだ玲太郎が堪らなく可愛いのか、表情に締まりがなくなり掛けている明良が言った。他の三人は明良の崩れた表情を見て唖然としていた。

(こんな表情も出来るんかよ……)

 颯は若干引き気味だったが、直ぐ考えが変わった。

(まあオレも兄ちゃんの事は言えんな。玲太郎がかわいいてしゃーないもんな)

 八千代は目を丸くして見ているだけだったが、水伯がここぞとばかりに口を開いた。

「やはりアサナに瓜二つだね。本当に似ているよ」

 明良の表情が一変して無表情になって、上目遣いで水伯を睨み付けた。

「その顔も瓜二つだね。私はその顔を何度となく向けられていたから良く憶えているよ」

 水伯は満面の笑みで言った。明良は目を閉じて玲太郎の事を思うと些か穏やかではありつつも、無表情に戻ったが、それも束の間、目を開けて玲太郎の顔を見た途端に頬が勝手に緩んでいった。自分の表情を制御する事が出来ない程の感情に疑問を抱いた。そんな明良の表情の事などどうでも良くなった八千代が玲太郎を見詰めている。

「明良が抱っこしたら、玲太郎っちゃ静かになるんやな。寝よるんかいな?」

「オレと水伯が抱っこしたら話すんやけど、兄ちゃんになったらなんでか静かやな。ばあちゃんが言う通り寝よるん?」

 水伯以外が首を傾げた。

「なんでだろ。俺が抱っこしたら静かになるし、寝る事もあるけんど、まだ産まれて間もないけん判らんな」

「明良の気が心地好いのではないかしら。颯と私とは落ち着くといった感じではないのだろうね。はしゃぎたくなるような、楽しくなるような、そんな気になってしまうのかも知れないね」

「留実や、ものごっつい泣かれようだったけんど、母親でも気ぃが合わんやいう事もあるもんな」

「ほうやな。母親と気ぃ合わん人やようけおるもんな」

 明良が大きく頷いた。八千代も頷く。

「血ぃが繋がっとっても合わん事やようあるもんな。こないして言うてもうたら、なんや寂しいけんど……」

「今の所、そう考えられると言うだけだから、若しかしたらそれ以外に理由があるのかも知れないね。人見知りか何か……」

 水伯は悪い方に話が行かないように気を回した。八千代は寂しそうに笑って頷いた。

「人見知りや、こんなちっこいころから出るもんなん? 母ちゃんのハラん中におって、ほの母ちゃんに対してもなるもんなん?」

 颯は疑問が生じると口に出さずにはいられなかった。

「無きにしも非ずじゃ。まあ産まれ立てやのにいて解明しようとせんでもええんちゃう?」

 明良が言うと、颯は「うーん」と唸るのみだった。そして水伯がいつもの柔和な表情を見せる。

「そうだね。玲太郎も好きでこんな感じになってしまっている訳でもないだろうからね」

 手を差し出して微笑んだ。明良は無表情で玲太郎を水伯に渡した。玲太郎は水伯に抱っこされて「あー」とか「うー」とか言い出した。

「そう、お話ししてくれるの。よいよ、沢山お話ししてね」

 袖から出ている玲太郎の小さな手を人差し指で撫でる。

「やっぱり水伯やとよう話すな。オレの時もほうやけど、なんなんだろ? なんか伝えたいん?」

「単に話しているだけかも知れないね」

 それを見届けた八千代は立ち上がって皆を見回した。

「ほな私は抱っこしたけん、ちょっと昼食用の野菜を採りに畑へ行ってくるわ。乳はさっき搾った新鮮なんがあるんよ。白い瓶に入っとる方を飲ましたってな。ほな行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「また後でな」

「ほななー」

 残された三人は八千代の後ろ姿にそれぞれ挨拶をした。八千代は手を上げると障子を開放したまま出て行った。

 玲太郎の様子を窺っていると口を開閉する訳でもなく、ご機嫌で話をしているだけだった為、水伯は明良に玲太郎を渡し、寝かし付けて貰う事にした。明良は二つ返事で引き受けて抱いていたが、ずっと静かで寝たのかどうか判断が出来ずにいた。

 その後も玲太郎が泣くかどうか試しに抱いた所、やはり泣かないのは水伯と明良と颯の三人だけだった。何度遣っても泣かれた八千代は意を決したようで「泣いていてもやれる事はやる」と言い切った。ヴィストは吹っ切れたのか、丸で気にしていないようだった。留実は愛情が大して湧いて来なくなったのか、泣かれても慌てる事もなく平然としていた。そんな中、悠次一人が落ち込んでいるようだった。これを儀式とし、毎日遣ると決めたヴィストはいつかは泣かなくなるだろうと楽観的に構えているようだ。

 水伯は週に二日しか来られない事を残念に思っていた。これだけ懐いて来た子は初めてだったから、小さい頃から関れる機会がある事に愉楽を感じ、もっと関っていたいと欲が湧いてきた。約二千五百年生きて来て、子育てを手伝う機会というのはそう多くはなかったし、それ以前に自ら関ろうとはしなかった。今度は子育てが出来る絶好の機会であり、何より水伯にとって、玲太郎という存在は特別だった。

ひと月程なら寝ずともどうという事はないから、仕事を詰めてもっと来られるようにしようか……。幼い頃というのは本当に短い間だものね)

 水伯は思案した末に決意していた。


 玲太郎は居間から子供達の勉強部屋へと移された。勉強部屋は子供達の寝室の東隣にある。明良達が勉強部屋にいる時は勉強部屋で、食事の時は居間で、就寝の時は寝室で寝かせる事になり、水伯がもう一組の布団を用意した。魔術とは便利な物だが、池ノ上家でここまで使える人物はいない。

 勉強部屋は十畳あり、西側の壁に沿って文机が三ぜんと座布団が三枚、東側の壁に沿って本棚が三本、その隣に小さな棚が一本あるだけだった。真ん中にある悠次の文机は綺麗に拭かれていて埃が一つもなく、何も置かれていなかった。本棚は三本共に隙間なく詰められていたが、殆どが明良の本である。小さな棚には悠次と颯の教科書が置かれている。そして玲太郎は入り口から一番近い颯の文机と本棚の間に布団を敷かれ、寝かされていた。

 勉強の合間に玲太郎の面倒を見ていた颯は、今夜から夜は余り寝られない事を思い出した。水伯ももう帰ってしまい、なんだか気の抜けた状態になっていた。今日の分の勉強は出来たのだが、明日の分にも手を付けて精神的に疲れているのもあってか、疲労感に苛まれているのも気が入らない一因だった。そんなこんなで虚ろな目付きになっている。

「兄ちゃん、夜に起きられへんかったらごめんじょ……」

 相変わらず本に向かっている明良が顔を上げる。

「急にどしたん?」

「いやなんか、起きられへんような気がしてきて」

「ああ、今日は玲太郎にべったりやったけん昼寝してなかったんもあるだろ。俺がなるべく夜更かしするけん、ほの間は寝とったら?」

「ほなほうするわ。とっとと風呂入って寝てくる。あーあ、兄ちゃんみたいに水伯がおる時に入っとったら良かった……」

 後ろにいる玲太郎に向かう。

「ほな風呂行ってくるわ。また後でな」

 そして力なく立ちあがり、ふらつきながら部屋を出ようと歩を進めていたが、立ち止まって振り返った。

「ほういや兄ちゃん、言葉づかいをきれいにするんでなかったん?」

「明日からするよ。ほんなんはええけん、はよ行ってきい」

「はいはい」

 そして再び歩を進め、部屋を出て行った。明良はそれを見送ってからまた本に向かった。しかし明良も颯同様、いつもと違っていて足が地に着いていない感じだった。

(赤ん坊が生まれるんに全く興味がなかったけんど、玲太郎を抱っこしてから何やおかしい。胸があったかあなって、顔は緩んでくるし、抱っこする度に嬉しいなるんやけんど、離れると寂しいなってまう。俺にまだこんな感情を抱く事があるとは思わなんだわ。ほれにしても長時間の休憩は散歩って決まっとって、今日は水伯がおってくれたけん気兼ねのう散歩出来た。ほれは良かったんやけど、颯に見てもらいながらやったら気になって気になって散歩所とちゃうだろな。ほなけんど運動だけはちゃんとしとかんと、いざっちゅう時に体が動かんと困るしな……。やっぱり勉強量を減らすしかないんかいな。ほれよりも寝る量を減らして勉強しよか。今の所しんどさは変に興奮しとるお陰であんまり感じんのんが助かるわ。けどほの分、参考にならんのがな……。今日はいけても明日、明後日と続けられるかが問題じゃ)

 文机の上に置かれた桜輝石を見詰め、それが入った玻璃の容器を触りながら物思いに耽った。玲太郎が機嫌良く寝てくれるお陰で、勉強も思いの外捗って助かっていた。

 ふと卓上時計を見るともう二十三時を回っていたが、日が徐々に長くなって来ていて、外はまだ明るかった。

(道理で颯が限界なんか……。遅いくらいやな)

 本来の颯ならうに寝ている時間だった。明良は二十五時頃まで起きていて、夜更かしするとなると更にさん時間は起きている事になる。玻璃の容器を置くと、手を本に移した。

(さて、玲太郎のお声が掛かるまでもう少しやっとくか)

 気を取り直して本に目を遣る。玲太郎はさっき乳を飲んだばかりで、暫くは集中して勉強が出来そうだ。

 二十分もすると玲太郎が声を発し出した。明良は立ち上がり、玲太郎の所まで行って座った。玲太郎は手足を動かしている。

「泣いてないけん、おしっこではないな? どないしたん?」

 そう言いつつもおしめの側から手を突っ込み、濡れていないかを確認すると濡れていなかった為、頭が少し上になるように抱き上げた。

「ただ単に起きただけかいな? ほれとも寝てなかったん?」

 そう訊いた所で答えるはずもなかった。玲太郎は静かになって足の動きは止まったが、手は上下に動かしている。明良は玲太郎の閉じた目を見詰めた。

(ほういや、ばあちゃんが抱き癖が付くけん、あんまり抱っこせられんじょって言よったな)

 この温もりを手放すには確固たる決意が必要だった。それ程に離したくなかった。玲太郎を見詰める明良の表情が崩れる。

(ほんまにまつ毛長いなぁ。大きゅうなったら俺より長あなるんちゃうか。ほれにしても俺が抱っこしたら静かになるんはなんでなん?)

「玲太郎、お話ししてくれてもええんじょ?」

 玲太郎は相変わらず無言だった。明良は上体を左右に揺らし、玲太郎を寝かし付けようとしている。

「お話しせんのだったら寝ような? 寝る子は育つんじょ」

 優しく声を掛けるが、手の動きは変わらないままだった。明良は根気良く体を揺らし続けるも、玲太郎は手を動かし続けた。

「勝負する気? 負けへんじょ」

 突如勝負へと発展した。体を揺らしながら、玲太郎の顔全体を見ていると柔らかそうな頬よりも綺麗な額が気になりだした。明良はそれに口付けをしたい誘惑に駆られる。上唇に比べて下唇が少し厚ぼったい明良の唇が徐々に玲太郎の額へと近付いて行く。額にそれが優しく付くと、明良は得も言われぬ衝撃を脳に受けた。次第に体全体が甘い痺れに襲われる。数秒そのままでいたが我に返って唇を離した。そこへ障子が開いて颯が戻ってきた。颯は呆けた明良の顔を見て衝撃を受け、部屋に入ろうとした体勢のまま固まってしまった。

(なんちゅう顔しとん……)

 そうは思っても言葉が出てこず、固まったまま明良の顔を見詰めていた。

「どしたん? 玲太郎に寝る挨拶しに来たんか?」

 声を掛けられても直ぐに返答する事が出来なかった。明良の表情はいつも通りの無表情になっている。

「颯?」

(これは言わん方がええな。あんな顔、だれにも見せられへんじょ……)

 顔には出なかったがかつてない程に驚いていた。部屋に入るのは止めて、浮いていた左足の踵を廊下に着けた。

「ああ、うん。風呂入ってさっぱりして目ぇがさえたけんど、寝てくるわ。おやすみ」

「おやすみー」

 まだ動かしていた玲太郎の手を取って、振って見せた。颯は障子を閉め、隣の部屋へと入って行った。

(あんな兄ちゃん見てもうたのに、寝られるんかいな……)

 そそくさと布団を敷いて枕を置き、掛け布団を掛けながら寝転ぶと、そんな心配は余所に直ぐに熟睡をしたのだった。余程疲れていたようだ。

 隣室から物音がしたが、それも直ぐに止んで静かになった。

(颯は寝付きがええけん、もう夢の中だろか)

 明良は玲太郎の体を優しく叩きながらの目を見詰めている。

(なんや変な扉を開いてしもたような気がする。自分がした事やのにちょっと恐ろしかったわ)

 玲太郎はまだ手を上下させていた。全く寝る素振りを見せない。

(これは寝かせておいて、足も動かしとった方がええ運動になるんだろか)

 布団に寝かせると足も動かし始めた。明良は暫くの間、様子を見る事にした。

(ほれにしても産まれ立てでこないにも動くもんなんだろか。颯もこないにばたつっきょったかいな?)

 動かしている左足の踵の下に手を入れ、掌に当たる踵の感触を楽しみ始める。割と強く当たるが痛くはなかった。五分もすると動きを止めた為、明良は手を引っ込めた。

(ほなお呼びが掛かるまで勉強しよか)

 自分の文机に行き、胡坐を掻く。いつの間にやら閉じられていた本を開いて、読んでいた一面まで紙を捲った。

(伯父さんが亡くなって俺がイノウエ家を継ぐ事になっとるけんど、玲太郎も連れて行けるんかいな? 颯は俺と一緒に行くっちゅうとったけんど、玲太郎はここに残りたがるだろか……。俺が成人するまで後四年、玲太郎は四歳やな……。自分で決められへんだろな)

 本を読むよりも自分の身が置かれた状況に悩み出した。

(こんな事になるんやったら、もうちょっと猶予を貰っておいたら良かったなぁ……。今からでも頼んでみるか? ほなけんど侯爵も六十っちゅうとったよな。平均寿命を過ぎとるし、健康じゃっちゅうても早いに越した事はないけん考えもんやな……。家業の事は気にせんと好きな事しとってええって言われとるけんど、侯爵やけん貴族の礼儀作法は最低でも覚えんとあかんしな。社交はせんにしても習得せなあかん事が一杯あるだろ、ほの上勉強して、玲太郎育てて、時間は足りるんかいな? なんや急に切羽詰まり出したような気がして来たな)

 本を閉じて玲太郎の方を見た。いつの間にやらまた手足を動かしている。明良は微笑んで、その姿に暫く見入っていた。

「あっ、掛け布団を掛けてなかった!」

 思わず声に出していた。即座に立ち上がり玲太郎の傍に駆け寄ると掛布団を掛けて遣った。しかし手足を動かしている為に掛け布団がずれていく。明良は部屋から出ると隣の部屋に行き、産着を片手に戻ってきた。玲太郎の傍で産着を広げて置き、その上に玲太郎を寝かせて産着を着せた。そして布団に玲太郎を戻すと、今度は意図的に掛け布団を掛けなかった。

「ごわごわするかいな? ほなけんど我慢してな」

 そう言うと文机の前に座り、また本を手に取った。玲太郎の方を見ると、手足を動かしているのが見えた。それを確認すると視線を本に戻し、読んでいた一面まで紙を繰って文字を追い始めた。


 遠い向こうから赤ん坊の泣き声がする。次第に赤ん坊の泣き声が大きくなる。颯が慌てて上体を起こした。すると玲太郎が泣いていた。そちらから仄かに明るくなっている。

(ゆめとちゃうかった……)

 目を擦りながら掛け布団を退かして立ち上がり、入り口付近に置かれた寝台へと向かう。

「泣っきょるっちゅう事はしっこか? うんこか?」

 小声で言いながら玲太郎を持ち上げておしめの方に鼻を近付ける。臭いを嗅ぐとそのまま腕を動かして抱いた。玲太郎は静かになっている。

「臭わんな。うんことちゃうな」

 今度はおしめの側の中に手を突っ込んだ。

「ぬれとれへんな。しっことちゃうな。泣き止んどるけん、ちゃうんやな」

 玲太郎の顔を見ると口を開閉させている。

「はいはい、乳ですか、そうですか」

 玲太郎の枕元に置かれてあった桜輝石の容器を手にし、静かに障子を開けて忍び足で食堂へと向かう。食堂は台所からの明りが届いて、割と明るい。食堂に入って直ぐに足を止めると寝惚けた頭にある事が浮かんだ。

(玲太郎を寝かせとかんと片手で器に乳を入れんとあかんわ。先に居間だったな。あ、手拭いも持ってきてないわ。居間にも置いてあったっけ? なかったよなあ……。勉強部屋もなかったような……。服の部屋か脱衣所か寝室かっちゅうたら寝室やな)

 自分の手際の悪さに遣る瀬ない表情をすると、食堂の障子を開けたまま寝室に戻り、箱に入っていた大量の手拭いの内の二枚を肩に置き、居間へと向かった。そこで玲太郎用の布団に寝かせると持っていた桜輝石を枕元に置く。

(これってあれちゃうん、手拭い取りに行く前に玲太郎を寝かせとったら良かったんとちゃうん)

 大きな溜息を一つ吐いて食堂へ向かい、水屋から汁椀を取り出した。次に台所へ行って乳を探した。蓋付きの白い陶器の中に入っているのを見付けると、玉杓子を見付けて汁椀に注いだ。適当な量が判らず、汁椀に一杯入れて、零さないように気を付けながら水屋の前で止まり、匙を取ると居間へと向かった。

「お待たせ~」

 小声で言うと座卓の上に汁椀を置いて玲太郎の傍へ行く。泣くこともなく「うー」とか「んっ」とか言いつつ、合間に口を開閉させつつ待っていたようだ。

 颯は玲太郎を抱いて桜輝石を取ると汁椀を置いてある側に座った。桜輝石を座卓に置いて乳を飲ませ始めた。

「ゆっくり飲めよ~」

 徐に匙を運び、玲太郎の口へ乳を少しずつ流し込む。

「こぼさんようにするんはむつかしいな。いっちゃんちっこい匙にしたけんど、ほれでも大きいな。あかん、やりづらっ。こんなん、なれる時が来るんかいな」

 小声で言いながら遣っていると玲太郎の口の周りに乳が垂れた。

「ああっ、あかん。後でふこ」

 それからは集中して丁寧に乳を飲ませた。

 乳が汁椀の半分程まで減る頃には玲太郎も満足したようで口を動かさなくなり、「んっ」とか「うー」とか言い出した。

「はいはい、次はゲップな」

 縦抱きをしようと腕を動かしていると玲太郎の口の周りに着いている乳が気になった。無意識に顔を近付け、乳を舐め取った。

「うーわ、なんや甘ったるいな」

 思わず大き目の声が漏れた。手拭いが二枚も置かれた肩に玲太郎の顎を乗せると背中を優しく叩き始める。それはゲップが出るまで続けられた。相変わらず「んっ」とか「うー」とか言っているだけで、中々ゲップが出ない。

 ようやく大きなゲップが出ると手を止め、玲太郎を一旦布団に寝かせた。手を伸ばして汁椀を取ると余った乳を一気に飲み干す。

「甘あ! ほんま甘いわ」

 この甘さは颯にとって苦手だった。顔を思いっ切り顰めている。そのまま立ち上がって台所へ行くと、流しに置いてある桶に水を張ってその中に汁椀と匙を浸けた。

(ばあちゃんが置いとってええっちょったけん、このままでええか。すまんな、ばあちゃん)

 いつもは手伝うだけに罪悪感があったが、口の中が甘ったるくて我慢が出来ず、湯呑みを取ってきて水を飲むと、更にそれも桶に浸けた。

(洗いもんを増やしてごめんじょ、ばあちゃん)

 満足した颯は居間に戻り、玲太郎を抱くと桜輝石も手に取り、寝室へと戻って行った。桜輝石と手拭いを寝台に置くと玲太郎の枕を取り、自分の枕を横に寄せて玲太郎の枕を置いた。

「近い方が聞こえやすいけん、ここで寝てな。吐かんとってよ?」

 小声で玲太郎に言い聞かせると寝かせた。掛け布団を片手に寝転ぶと、玲太郎に優しく掛けて遣る。

「次はしっこかうんこやな。ほなおやすみ」

 寝られるかどうか、心配しながら目を閉じる。

(ほういや今何時なんだろ? まあええか)

 鼻で大きく息を吐くと頭の中は無になった。寝付きのよい颯は物のいち分で寝入ってしまった。玲太郎は「んっ」とか「うー」とか言っていたが誰にも相手にされずに静かになった。

 それから一時間半は静かにしていた玲太郎だったが、遂に泣き出した。泣き声に直ぐ気付いた颯は寝惚けたまま玲太郎を抱いた。

「うん、しっこやな」

 確認しないで言ったが抱いても泣き止まなかったから当たっているかも知れないと思った。玲太郎の泣き声で明良は起きる事なく、とても静かにしている。

「あかん、まじでしっこかうんこやな」

 なんとなく目が覚めた颯が小声で言うと、おしめの側の中に手を突っ込んだ。

「あっ、しめっとる」

 おしめに顔を近付けて臭いを嗅ぐと頷いた。

「臭あないけん、うんこはしてないな。ほなぬれたところをきれいきれいして、また寝ような?」

 徐に立ち上がり、替えのおしめと手拭いを取ると部屋を出て行ったが、直ぐに戻ってきて桜輝石を持ってまた出て行った。

 居間で玲太郎を寝かせて替えのおしめと手拭いを側に置き、近くにあった新聞紙を広げて置いた。桜輝石は持ったまま浴室へと向かう。浴室は食堂の西側にある。木製の開き戸を開けると先ず脱衣所があり、そこに置いてある小さめの桶を持ち、奥にあるり玻璃の引き戸を開けて浴室へと入って行った。最後に入る八千代が毎日水気を拭き取って出るから足が濡れずに済む。浴室には給湯器と繋がった水道があり、さっき持ってきた桶でそこから熱湯を汲んで脱衣所に戻ると、洗面台で水を足してぬるくする。途中で小指を入れて温度を確かめ、丁度良く感じられた所で水を止めた。玲太郎の泣き声が微かに聞こえてくるが、颯は焦る事なく居間へと戻って行く。

「お待たせ~」

 そう言って新聞紙の上に桶を置く。手拭いをその中に入れると、産着の前身頃を開き、おしめの側を外し始めた。濡れていたおしめも外すと玲太郎は漸く泣き止んだ。

「気持ち悪かったよな。おそおなってごめんじょ」

 優しく言いながら汚れたおしめを新聞紙の上に置き、手拭いを絞って玲太郎の陰部を拭く。すると木の軋む音が聞こえてきた。手を止めて振り返ると悠次が立っている。

「あれ? うるさかった? ごめんじょ」

「いや、厠へ行こうと思て起きただけやけん」

「ほんま。ほな行ってきいだ」

「うん」

 厠は浴室の西側にある。悠次は忍び足で向かったが如何せん古い建物だけに廊下が軋むのだが、颯は何故か忍び足だと軋ませる事がなかった。

 綺麗なおしめを折り畳んで玲太郎に着けると、おしめの側の留め具を留める。

「なかなかの手ぎわだったんとちゃうん」

 自画自賛する。玲太郎をそのまま寝かせ、手拭いと汚れたおしめと桶の水の始末をしに居間から出て行った。悠次が先に戻ると部屋に入って玲太郎の傍に行って座った。玲太郎は静かにしていて、寝ているのかどうか判らない。

「近寄る程度じゃ泣けへんのやな」

 手を伸ばして玲太郎の頬を突こうとする。人差し指が触れるか触れないかという所で玲太郎が泣き出す。慌てて手を引いた。

「わーごめんごめん、泣かんとって」

 玲太郎は泣き止んだ。また手を近付けると触れるか触れないかという所で泣き出した。即座に手を引く。

「やっぱりあかんのん?」

 次は袖口から見えている小さな手を触ろうと手を伸ばす。玲太郎は同様に泣き出す。

「やっぱりあかんのか……」

 手を離すと静かになった玲太郎をどうにかして泣かせずに触れないかと、次は産着の裾を捲って出て来た足に手を伸ばしたが、やはり泣かれて触れなかった。

「あかんなぁ」

 もう手を出すのは止めて、玲太郎の顔を眺めているだけにした。暫くすると颯が戻ってきた。

「ほんなとこに座ってどしたん? 抱っこでもしてみる?」

 振り返って近寄ってくる颯を見る。

「触ろうとしたら泣かれたけん、抱っこはええわ」

「ほなオレが抱っこしてみるけん、ほれでも泣くかどうかやってみる?」

 颯は悠次の右隣りに屈んで布団の端に跪く。

「ほれやってみる」

 颯に持ち上げられた玲太郎を目で追う。腕を動かして抱くと悠次を見る。

「どうぞ」

「ほな……」

 お腹に手を置こうとして、寸前でやはり泣かれた。

「な、あかんだろ……」

 手を離した悠次が寂しそうに言った。

「これ程度でも泣くんやな」

 颯は新たな発見をして目を丸くする。悠次は苦笑した。玲太郎が「んっ」とか「うー」とか言い出した。二人はそんな玲太郎を見ながら話し出す。

「悠ちゃんはまだましちゃうで」

「僕はって事は人によって増しとか差があるんじゃ」

「あるある。母ちゃんがいっちゃんあかん。次は父ちゃんやな。ほんでばあちゃんと悠ちゃんが同じくらい。泣き声の大きさがちゃうんよな。ほれと顔」

「ほうなんじゃ。……喜ぶべきかどうか反応に困るな」

 そう言うと悠次が小さな声で笑った。

 颯はそんな悠次を一瞥した。

「調子どんなん? よう寝とったけんようなった?」

「ああ、今日はなんか調子はええな。ほないに寝てないんやけんどな」

「ほんま。ほな寝たらもっとようなるんちゃうん?」

「どうだろ? 母ちゃんの隣の部屋におるんやけど、壁が薄うて、うーんとか寝言とかが聞こえてきて起きてまう」

「ほうなんじゃ。こっちは玲太郎がにぎやかな以外は静かなじょ」

「兄ちゃんは玲太郎の泣き声で起きんの?」

「起きへんよ。知っとるだろ?」

「うん、まあ、な。玲太郎が泣いたら起きるかと思たんやけど」

「ないない。無音で寝とるわ」

 悠次が鼻で笑う。

「兄ちゃんは死んだように寝るけん、寝息すら聞こえてけえへんもんな」

「ゆうちゃんもこっちで寝るか? 母ちゃんがうるさいんやったら、玲太郎がうるさいんもいけるだろ」

「ほなけど狭あなるけんな。寝台置いとんだろ?」

「ああ、ほうか。ほれがあったんじゃ」

「うん、ほなけんええよ。ありがとう」

 微笑んでそう言うと、掛け時計を見る。

「もうじき零時やな。ほな寝てくるわ。無理せんように頑張れよ。おやすみ」

 颯の肩に手を置いて立ち上がり、振り返らずに部屋を出ようとした。

「おやすみ」

 振り返って悠次の後ろ姿に声を掛ける。ついでに颯も掛け時計を見た。二十九時八十分を過ぎている。

「もうこんな時間か。兄ちゃん、何時まで起きとったんだろ。ほな玲太郎もまた寝よか」

 小声で言いながら立ち上がって桜輝石を取ると寝室へ戻って行く。

 颯はこの生活が続いても平気のような気がしたが、そんなに甘い物ではない事を後に知る。

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