20.再会は冬空の下
お母様の墓の前に立っていたのは、私の兄であるサイラスだった。
ピアソン家が取り潰されていなかったら、いずれ次のピアソン伯爵になっていた人物。いつも父の言いなりになっていた、いくじなし。
警戒しながら馬車を止め、そろそろと墓に近づいていった。サイラスがよからぬ動きに出たら、すぐに反応できるように。
そうして彼から離れたところで立ち止まり、様子を見る。手を伸ばしても絶対に届かない距離で。手の中に、護身用に持ってきたコショウの袋をこっそりと握りしめて。
「アリーシャ、お前なのか……」
当のサイラスは呆然としたまま、そんなことを言っている。私が警戒していることに気づいているのか、それ以上は近づいてこようとしない。
けれどその顔には、私を心配しているような色がありありと浮かび上がっていた。
あれ、おかしい。サイラスはこんな顔をする人物じゃない。
かつて私がピアソン家にいた頃、私がどれだけ苦労していても大変な目にあっていても、サイラスは一度だって手を貸してくれなかった。それどころか、声すらかけてくれなかった。
私たちは一応兄妹だったけれど、赤の他人も同然だった。もしかしたら本当に血がつながっていないのかもしれないと、そう疑ったことも一度や二度ではない。
彼は血も涙もない人間なのだと、私はずっとそう思っていた。私が前世の、大人の記憶を持っていたからよかったようなものの、普通の少女ならひどく傷ついていてもおかしくない。
そんなサイラスが、いったいどうしてこんな態度を取っているのか。
「ずっと、お前のことが気になっていたんだ……だがピアソンの家があんなことになったせいで、俺も中々自由には動けなくて、お前をほったらかしにしてしまった」
大いに混乱しながら立ち尽くす私に、サイラスは一生懸命に呼びかけてきた。やはり、申し訳なさそうな顔で。
「お前がギャレットの家から追い出されたと聞いて、心配していたんだ……あそこに嫁げば、父の手の及ばないところに逃げ込めれば、お前だけでも幸せになれるかもしれないと思ったんだが……まさか、あんなことになるなんて」
サイラスが、私を幸せにしようとしていた? ああもう、さっぱり訳が分からない。
「……お兄様。かつてピアソンの家にいた頃と、ずいぶんと様子が違っておられるようですが?」
必死に頭を働かせて、どうにかこうにかそんな言葉を紡ぐ。情けないほどに上ずった声だった。
するとサイラスは、すっと目を細めた。悲しんでいるような、悔いているような、そんな複雑な表情だった。
「まだピアソンの家があった頃、俺は跡取りとしての責務と、そしてそれ以上に父によって押し潰されそうになっていた。いや、既に潰されていたのかもしれない」
そう言って、彼はぐっとこぶしを握っている。その手がかすかに震えているのを、ただぼんやりと眺めていた。
「お前が苦しんでいる時も、手を差し伸べることすら許されなかった。父が、俺にそう命じていたから。アリーシャはピアソン家の勢力を増すための手駒に過ぎないのだから、下手に情を移すなと」
思いもかけない告白に、目を真ん丸にする。私は父が嫌いだった。サイラスも嫌いだった。親戚たちも嫌いだった。たった一人、お母様だけは大好きだった。
でもサイラスには、思いもよらない事情があった。
「……お前にも、冷たく当たってすまなかった」
サイラスはさらに思いがけない言葉を投げかけてくる。彼が私に謝罪してくるなんて。ああもう、頭がパンクしそう。
かつての彼は、父によく似ていた。どことなくひ弱さを感じさせる体格、じっとりとした陰湿な目つき。父は彼を、自分のコピーとして育てようとしていたのかもしれない。
でも今ここにいるサイラスは、すっかり別人のようになっていた。ひ弱そうなところこそそのままだけれど、目は生き生きと輝いて、表情はとっても穏やかだ。
父の影響がなくなっただけで、ここまで変わるなんて……信じられないけれど、これが彼の本来の姿なのだろう。やっぱり信じられないけれど。
ひとまず、無理やり自分を納得させる。色々あったけれど、ひとまずここにいるサイラスは敵ではない、と。
深呼吸して、そろそろと問いかけてみた。
「……お兄様は、今はどうされているのですか?」
私の様子が変わったことに気づいたのか、サイラスはほっとした顔をしている。まったくもって調子が狂う。
「知り合いのつてを頼って、今は田舎で役人をしている。……父に抑えつけられることのない暮らしがどれだけ平穏なのか、初めて知った」
「……そうですね」
気持ちは分からなくもない。私だってハロルドに離縁された時、心の中で叫んだから。やった、自由だ! と。自由な暮らしの素晴らしさも、よく分かる。
初めてまともに口をきいたサイラスにちょっぴり親近感を覚えながら、さらに問いを重ねてみる。
「……そして、どうしてここに?」
「母の墓参りだ。俺はピアソン家がなくなってから、毎年この日にはここに来ることにしている。……生前、母に何もしてやれなかったことを詫びに」
うう、どうしよう。どんどんサイラスがいい人になっていく。敵ではないと認定したはいいものの、まだ心を許したくはないなあと思っていたのに。
困り果てて視線をそらす。と、サイラスが私の背後を見て声をひそめた。
「ところで、ずっと気になっていたんだが……後ろの方はどなただろうか? ギャレット伯爵ではないようだが」
サイラスも改心したみたいだし、ヴィヴを紹介してもいいかな。小さく咳払いして、澄ました顔で答える。
「彼はヴィヴ・ルーフェ。隣国デンタリオンの貴族で、今は私の屋敷の客人です」
それを聞いたヴィヴがすっと進み出てきて、サイラスに片手を差し出した。
「アリーシャの兄君ですね。お会いできて嬉しいです。僕はヴィヴ。アリーシャの友人です」
ヴィヴの声が、ちょっぴり浮かれているような気がする。その笑みも、いつもより深い。
「サイラスだ。アリーシャの……兄、と名乗ってもいいのか、自信がないが……」
そうして二人は、がっちりと握手を交わした。
「それはそうとして、僕たちも墓参りに来たんですよ。ひとまず、アリーシャの母君にごあいさつをさせてください」
ヴィヴはそう言って、馬車の中から荷物を取ってきた。みんなが用意してくれた、お墓へのお供え物だ。それを見たサイラスが、目を丸くする。
「見事な品ばかりだな。誰がこれを?」
「花のあふれる屋敷で一緒に過ごす、大切な仲間たちがくれたんです。……ヴィヴも、その一人なんです」
感嘆のため息を漏らしているサイラスにそう答えながら、お供え物を一つずつ墓の前に置いていく。
とても素朴な、でも思いのこもった品々がずらりと並んだのを見たら、とても誇らしい気持ちになった。
「……お母様、お久しぶりです。やっと会いにくることができました」
用意しておいたユリの花束も供えて、墓石にそっと声をかける。
「色々ありましたが、私は幸せにしています。やっと……守りたい居場所を見つけました」
「はじめまして、ヴィヴと申します。アリーシャの幸せを守るため、力を貸していきたいと思っています」
ヴィヴも律義に、墓石に話しかけている。今、お母様が微笑んだような気がした。
それから三人で、黙って祈りを捧げる。冬とは思えないくらいに優しい風が、丘の上を吹き渡っていった。
そうして、サイラスは自分の馬車に乗って帰っていった。私とヴィヴは、去っていく馬車をじっと見守っていた。
「……兄君と和解できたようで、よかったです」
不意に、ヴィヴがぽつりとつぶやいた。
「まだ、兄を許し切れた訳ではないのだけれど……和解できたように見えた?」
「はい。残っているわだかまりは、いずれ時が解決してくれる。僕はそう思います。勝手かもしれませんが」
穏やかな彼の声に、肩に入っていた力が抜ける。
「ふふ、そうね。そうなったらいいなと、私もそう思うわ」
いつか、サイラスが花森屋敷を訪れる、そんな日が来るかもしれない。
今はまだ実感がわかないけれど、たぶんその時の私は笑っているのだろうなと、そんな気がした。




