15.そういえば、そんな人も
とにかく平和だった。毎日庭の手入れをして、ハーブティーを調合して、その合間に陽光草を生やす練習をして。
みんな仲良く過ごしているし、庭の植物は元気よく生い茂っている。何一つ、悩みなんてなかった。
しかしそんな平和に、思いっきり水が差されることになるとは、この時の私たちは露ほども思っていなかった。
「お久しぶりです、アリーシャ様あ。あっ、もう貴族じゃないから、アリーシャでいいのよね」
そんな浮かれた声と共に屋敷を訪ねてきたのは、ノエルだった。私の元夫ハロルド・ギャレットの後妻。なんでまた、こんなところにやってきたのだろう。
ひとまず、私一人で彼女の相手をすることにした。彼女が何を考えているのか分からない以上、みんなを関わらせたくはなかったから。
応接間のソファに腰かけて、ノエルは室内をぐるっと見渡している。日々ステイシーとエステルがせっせと掃除してくれているから、質素ではあるけれどとても手入れが行き届いたいい部屋だ。
「ふうん……平民風情になり下がった女にしては、よくやってるじゃない」
彼女はただ私が元気にしているかを確認するためだけに、こんな田舎にやってくるような女性ではない。断言できる。
あの離婚劇の時にちょっと顔を合わせただけだけど、彼女の人となりを判断するにはそれで十分だ。
「前は何にもなかった田舎屋敷が、花であふれた素敵な場所になってるなんてね。あなたにはもったいないわ、ここ」
彼女は窓の外を眺めて、うっとりとそう言った。かと思えばくるりとこちらに向き直り、意味ありげな目つきで話しかけてくる。
「ハロルド様、あたしにめろめろなの。いつもとっても優しくて、すっごく甘やかしてくれて。最高の夫婦なの、あたしたち」
などと、大変どうでもいい情報を伝えてきた。のろけに来たのだろうか。迷惑なことこの上ない。
「だからあたしがお願いしたら、何でもかなえてくれちゃうのよ」
確かに、ハロルドはノエルにはとっても甘いようだった。とにかく、彼女に嫌われたくないのだろう。前に会った時……というか、彼女と会ったのは一度きりだけど、そんな印象を受けた。
だからこそ彼は、私にこの屋敷と一年分の生活費をぽんとよこしてくれたのだ。そういう意味ではノエルに感謝……してもいいのかな。それと、ハロルドを引き取ってくれて、私を自由にしてくれたことについても。
いいえ、やっぱりそれはなし。結果として私にとってありがたい方向に事が運んだだけで、彼女のしたこと自体は到底褒められたことではないもの。
と、それについては今はどうでもいい。それより彼女は、どうしてこんなところまで来てこんなことを言っているのだろうか。
首をかしげていたら、ノエルがにいっと目を細めた。その笑顔に、頭の中で警告音が鳴り響く。何がどうなっているのかは分からないけれど、彼女は危険だ。
「……うん、この屋敷をアリーシャから取り上げて、あたしのものにして欲しいなって、そうハロルド様にお願いしてみようっと」
そんなことをさらりと言って、ノエルは弾んだ足取りで帰っていく。彼女からは見えない天井近くに、ヴィヴの蝶がひらひらと飛んでいた。
その直後、私はヴィヴと二人きりで話していた。ノエルの来訪について相談するために。
動揺させたくなかったので、みんなには彼女が言った内容は丸ごと伏せてある。だから蝶で盗み聞きしていたヴィヴ以外、話せる相手がいないのだ。
「昼間のあの方が、あなたの元夫の新しい奥方ですか……ハロルドという方は、少々見る目のない方のようですね」
いつも物腰穏やかなヴィヴにしては珍しく、ちょっと不機嫌そうだ。よほどノエルのことが気に入らなかったらしい。
「ええと、ハロルド様の見る目は置いておくとして……今日のノエルの来訪には、何か意味があると思うの。それも、悪い感じの」
「そうですね。彼女はその……あなたのことを下に見ていて、あなたを屈服させたいと、そう考えているように思えました」
「やっぱりそう思う? 実はハロルド様が私に離縁を言い渡した時、彼女もその場にいたのよ。……私が落ち着き払っていたのが気に入らなかったみたいで、不服そうな顔をしていたわ」
そこまで思い出したところで、ふと思いついた。
「彼女は今日、私を改めて打ち負かしにきた、とか……? やたらと自分の境遇を自慢していたし」
「あれは少々、度を越していましたね……アリーシャ、嫌な思いをしたでしょう」
「いいえ、大丈夫。どうしてノエルはこんな自慢をしているのだろうかと、そんなことを悩む余裕すらあったわ」
「なら、いいのですが……。ところで、一つ気になったのですが」
ヴィヴがふと、重々しくそう言った。眉間にはくっきりとしわが刻まれている。
「屋敷を取り上げるとか何とか、ノエル殿はそのようなことを言っていましたね。ハロルド殿やノエル殿は今でもあなたに干渉できるのでしょうか」
「そうね、これまでの経緯から言って……」
もうこうなったら、全部喋ってしまおう。開き直って、これまでの事情を洗いざらい説明する。と、ヴィヴはさらに難しい顔になった。
「この屋敷はハロルド殿の厚意で、あなたに譲られた……ですか。書類上はどうなっているのか、気になるところですが……」
「心配しなくても大丈夫じゃないかしら。ハロルド様は、貴族としての誇りをやけに気にする方だから。一度した約束を、簡単に覆すようなことはない……はず」
「そう、だといいのですが……」
私が明るく言っても、ヴィヴはやはり浮かない顔をしていた。
そしてそんなヴィヴの不安が見事的中したことを、じきに思い知らされるはめになった。
私たちの花森屋敷に、またしても馬車がやってきた。それも、何台もが列になって。
執事が一人、出迎えた私に伝えてくる。ハロルド様とノエル様が、あなたに御用があるとのことです、と。
ハロルドが来た。嫌な予感しかしない。そしてそれ以上に、どうしてこんなに馬車が多いのか。
不安を押し隠しながら待っていると、ハロルドが馬車から降りてきた。得意げな顔のノエルを伴って。
「久しぶりだな、アリーシャ。ノエルからこの屋敷の現状を聞いた時は驚いたが……中々どうして、見事なものだ。お前に庭師の才能があるとは思わなかったぞ」
「ふふ、また来ちゃったわ。今日は、素敵なお話があるのよ」
ハロルドの腕にしなだれかかり、ノエルが甘い声でそう言う。ハロルドの鼻の下が伸びた。見事にでれでれしている。
私と夫婦だった頃は、あんな表情は一度だって見たことはない。ハロルド、これはこれでいい相手とめぐり合えたということなんだろうか。
それはそうと、ノエルの『素敵なお話』って何だろう。ものすごく嫌な予感しかしない。
「この屋敷を、お前から買い取ることにした。黄金ならいくらでも払ってやろう。ひとまずここに、その一部を持ってきてやった」
その言葉を合図にしたように、彼らが連れてきた使用人がうやうやしく小袋を開けた。中には、ねっとりとした輝きの砂金。
あまりのことに驚き過ぎて、何も言葉を返せなかった。




