10.ささやかな救いの手
ぼんやりしている私をよそに、ステイシーは突然動き出した。
彼女は私を椅子に座らせて、それから全速力で部屋を飛び出していく。そして次に戻ってきた時には、なぜかヴィヴを連れていた。
さらに彼女はヴィヴを私の向かいの椅子に座らせて、また大急ぎで出ていった。すぐにお茶とお菓子の載ったお盆を手に戻ってきて、私たちの前にてきぱきと置いていく。
「それではヴィヴ様、アリーシャ様のことをよろしくお願いいたします!」
そんなことを言い残して、ステイシーはぱたぱたと立ち去ってしまった。後に残された私たちはぽかんとしたまま、顔を見合わせる。
やがて大いに困惑した様子で、ヴィヴが口を開いた。
「……あの、ステイシーさんから、あなたが困っていると聞いてきたのですが……」
その言葉に、ようやく我に返る。どういう訳か分からないけれど、ステイシーは彼を巻き込むことにしたらしい。だったら、事情の説明くらいしておくべきだろう。
「実は……」
さっきの手紙について、かつて私が友人だと思っていた人たちからの返事について話し始める。
「……昔の知り合いに連絡を取って、あのジャスミンティーを買ってもらえないか頼んでみたのですが……駄目でしたの」
本当は、手紙をそのまま見せてしまったほうが早いのだろう。けれどどうしても、さっきの手紙を彼に見せたくはなかった。
『ごめんあそばせ、アリーシャ。家をなくし、夫に離縁されたあなたは、もうわたくしにとって友人ではありませんわ』
『珍しいお茶と言われても……ただ顔を知っているだけの平民の方が作ったものを口にするなんて……』
『申し訳ありません。もうこちらに連絡を取らないでください』
友人たち……いや、元友人なのかな……からの返事は、そんなつれないものだった。
この世界の身分制度を甘く見ていた。ポリーたちがほんのりと敬意をもって接してくれているおかげで忘れていた。
私に、もう名乗るべき家名はない。その意味を、今さらながらに突き付けられてしまった。
やっぱり私って、不幸の星のもとに生まれているのかもなあ。ちょっぴり涙ぐみながら、そんなことを思ってしまった。
前世では仕事ばっかりで、生まれ変わった家はひどいところで、嫁入り先もやっぱりろくでもなくて、やっと自由と幸せをつかんだと思ったのに。
……いいえ、こんなことでくじけている場合じゃないわ。こうなったら、最後の手段を。
「気は重いのですが、元夫を頼ってみようかと思っています。……もう、他に頼れそうなつてもありませんし」
ヴィヴたちがここに来て少し経った頃に、私の事情については話してある。
そうしたらヴィヴは少し悲しそうにしながら「大変だったのですね」といたわってくれたし、ミラは「ひどいおじさん!!」と怒ってくれていた。
まだ二十歳のハロルドがおじさん扱いされたことがおかしくて、つい笑ってしまったものだ。
でも今の状況は笑い事では済まない。何がなんでも、私たちのハーブティーを買い取ってくれる相手を探さないと。
いったん実物が人々の口に入りさえすれば、後は勝手に評判が広まっていくだろう。その最初の、とっかかりをつかまなくては。それこそ、ハロルドに頼んででも。ものすごく気が重いけれど。
そうして口ごもっていたら、ヴィヴがためらいがちに言った。
「その、茶葉の買い手なのですが……僕に少々、心当たりがあります。よければ、そちらを当たりましょうか……?」
彼の言葉にぱっと顔を輝かせそうになって、あわてて平静を装う。その申し出はとっても嬉しいけれど、そこまで頼ってしまっていいのだろうか。
「……あなたは僕の図々しい申し出を受け入れて、僕たちをここに滞在させてくれています」
ふと、ヴィヴがそんなことを言い出した。
「そうして、あなたと一緒に庭の手入れをして、花を摘んで……どれも初めての、楽しい体験でした。僕はそのお礼をしたいんです」
彼の柔らかな声が、落ち込んでいた私の心に優しく染み渡っていく。まるで、迷っている私の背中を押すかのように。
「……お願いしてもいいでしょうか、ヴィヴ」
そう答えた時のヴィヴは、それは晴れやかな顔をしていた。これではどちらがどちらに頼みごとをしているのか分からない。
でも、彼の申し出がとても嬉しかった。それだけは確かだった。
そうしてヴィヴは、手紙を書いたようだった。その手紙をダニエルがどこかに運んでいって、十日ほど経ったある日のこと。
「声をかけてくれてありがとう、ヴィヴ殿。目新しくて美味な茶葉と聞いて、ミディスも気にしていたよ」
私たちの屋敷を、壮年の貴族が訪ねてきた。オリバー伯爵と名乗った彼は、国境のすぐ近くに領地を持っているのだそうだ。
そしてオリバー伯爵は、国境を挟んだすぐ向こうに領地を持つ、隣国デンタリオンのミディス伯爵と親しくしているらしい。二人は国境を越えて、盛んに商取引をしているのだそうだ。
私たちが作った茶葉が彼の口に合えば、オリバー伯爵とミディス伯爵が茶葉をあちこちに売りつけてくれる。それこそ、二つの国の貴族たちに。
ヴィヴはオリバー伯爵に手紙を書き、そんな約束を取り付けてしまったのだ。ありがたいけれど緊張する。話がいきなり大ごとになってしまった気がして。
「……はじめまして、この屋敷の主のアリーシャと申します。さっそくお茶をお出ししますので、少々お待ちください」
緊張でぎくしゃくしながら、オリバー伯爵に呼びかける。私とヴィヴ、そしてオリバー伯爵が客間の椅子に腰を下ろしたのを見計らったかのように、エステルがワゴンを押してやってきた。
きちんと来客をもてなさなくてはならないので、ここはエステルにお願いしたのだ。人見知りで、しかも貴族の接客をしたことのないステイシーには、ちょっと荷が重いし。
「薬草茶のような淡い色合いなのですね。それに、まるで花のような素晴らしい香りが……」
自分のカップにつがれたジャスミンティーを見て、オリバー伯爵が目を丸くする。そうして彼は、慎重にお茶を一口飲んだ。
「紅茶とは違う、すっきりとした苦み……しかしそれが、ふくよかな花の香りを引き立てていて……まるで、花畑の中にいるようです……」
目を閉じて、笑みを浮かべて、オリバー伯爵はつぶやく。とても幸せそうな表情だ。
「これは確かに珍しく、美味ですな。癖になりそうです」
「はい。僕もこのお茶が好きです。……茶葉を摘むところから関わりましたので、余計にそう思えるのかもしれません」
ヴィヴがそう答えると、オリバー伯爵がまた目を丸くした。
「なんと、ヴィヴ殿がこれの製造に?」
声が裏返っている。それも仕方ないかな。普通の貴族は、そんな作業にわざわざ関わったりはしないし。
動揺してしまったのをごまかすように一つ咳払いをすると、オリバー伯爵は私とヴィヴを順に見た。
「そうですな、おうかがいしていた通り、このお茶はとても良い品です。ただ……私が本当にこれを売りさばいてしまってよいのでしょうか?」
「はい、もちろんです。それがアリーシャの望みですから。僕としても、価値の分かる方に相応の値段で引き取っていただきたいと思っています」
にっこりと笑って返すヴィヴに、オリバー伯爵は覚悟を決めたようにうなずいた。それから、私のほうに神妙な顔で向き直る。
「アリーシャ殿、ぜひともこの茶葉を譲っていただきたい。対価としては……」
彼が続けて口にした金額は、予想を遥かに超えるものだった。ジャスミンティーがおいしくできたのは私も認めるし、やっぱりこれは珍品扱いになったらしい。それはそうとして、ちょっと高額すぎないか。
びっくりして椅子から飛び上がりそうになるのをこらえつつ、できるだけ落ち着いた口調で尋ねる。
「あの、そんなにいただいてもいいのでしょうか?」
「はい、この茶葉には間違いなくこれだけの価値があります。最終的に、取引額はさらに上がるかと」
「アリーシャ、僕もこの金額は正当な評価だと思いますよ」
さっきまでの戸惑った様子はどこへやら、オリバー伯爵は力強く答えてくる。そしてヴィヴも、にこやかながらもきっぱりと言い切っていた。
……恐るべし、ジャスミンティーの魅力。でもまあ、お金はあって困るものではない。ポリーたちを養っていくことも考えると、多いほうがありがたい。
「……分かりました。ぜひその条件でお願いいたします」
そうしてオリバー伯爵と、がっちり握手を交わす。
テーブルの上では、ジャスミンティーの幸せな香りの湯気がまだふわふわと立ち昇っていた。




