1.ある日突然、お払い箱
「アリーシャ、紹介しよう。私の新しい妻のノエルだ」
ある日、夫ハロルドが知らない女性を連れてきてそう言った。新しい妻。つまり私は、離縁ということだ。
……ぃやったああぁ!! 自由だ!!
全力で叫びたいのをぐっとこらえつつ、一生懸命に平静を装っていた。
「ハロルド様あ、アリーシャ様固まっちゃってますよ? かわいそうに」
舌っ足らずな少女の声に、我に返った。いけない、喜びのあまり我を忘れていた。
「……やはり驚かせてしまったか。すまない、アリーシャ」
夫、じゃなくて元夫になる予定のハロルドが、心配そうな顔でそう言った。
……ちょっと待って、今『すまない』って言った!? 結婚してから二年、そんなことを言われたのは初めてなのだけれど。どういう心境の変化?
「だが私は、もう決めたのだ。お前は今日を限りに離縁とする」
あ、分かった。これ、自分に酔ってるだけだ。自分をひたすらに思っている妻を泣く泣く離縁する男の役柄を演じてるだけだ。
「本当に、ごめんなさい。でもあたしとハロルド様は、運命の相手だったの。一目会ったその時に、恋に落ちてしまって」
さっきからずっとハロルドの腕にしがみついている可愛らしい少女がそう言った。彼女がノエルだろう。たぶん十五歳くらいかな。
彼女はふわふわの砂糖菓子みたいな、甘くて愛らしい少女だった。
ふわふわの金の髪に、ぱっちりとした青い目。抱きしめたら折れてしまいそうな、ほっそりとした体。でも気のせいか、その目には妙に意地悪っぽい光が宿っている。
そしてハロルドは、そんなノエルにころっとまいってしまっていた。ノエルを見るたびに鼻の下を伸ばしている。それだけならまだしも、その合間に申し訳なさそうな目をこちらに向けてくる。正直気持ち悪い。こっち見るな。
私の反応は、突然離縁された妻としてはまるでそぐわないものだと思う。でもこれには、れっきとした理由があった。
まず一つ目。私とハロルドは仮面夫婦だった。
ピアソン伯爵家の娘である私が、ギャレット伯爵家の跡取りだったハロルドのところに嫁いだのが二年前。
当時私は十六歳で、ハロルドは十八歳だった。絵に描いたような政略結婚だった。
そしてハロルドは、どうやら私のことが好みではなかったらしい。私に指一本触れることなく、見事なまでにほったらかしにしていた。
そのくせ、私が彼に惚れ込んでいるのだと勘違いしていたのにはあきれるしかなかったけれど、訂正するのも面倒だったので放っておいた。正直、彼に対して愛情のたぐいを抱いたことは一度もない。
そして二つ目。私は、逆境には慣れている。
私の実家であるピアソン家は、ひどいところだった。当主である父は恐ろしく横暴で、他の家族も多かれ少なかれ似たようなものだった。私の味方は母だけだった。
十歳の冬に母が風邪をこじらせて亡くなってからは、私はずっと独りぼっちだった。ハロルドのところに嫁いでからもそれは変わらなかった。
ただ、そんな行いのつけなのか、私が結婚させられてからすぐにピアソン家は取り潰された。あの時は驚いたの半分、ほっとしたの半分だった。少なくとも、もう父に振り回されなくて済む。
父が何か派手にやらかしたらしいということは聞いているけれど、詳細は知らない。そして、家族がその後どうなったのかも。知りたいとも思わない。
唯一気がかりだった母の墓については、元使用人たちがみんなで手入れしてくれるとのことだった。そんな知らせを受け取った時、心からほっとした。
ピアソン家がなくなったこと自体はどうでもいいのだけれど、ハロルドとしてはそうもいかなかった。ピアソン家の人脈も財力も、もう何一つあてにならない。ハロルドにとって、私を妻として置いておくうまみはなくなってしまったのだ。
そうして彼は、私を露骨に避けるようになっていた。それどころか、使用人たちにこんな命令を出していた。『アリーシャに近づくな』と。どうやら徹底的に私を孤立させて、病ませるなり出ていかせるなりしたかったらしい。
けれどあいにくと、孤独には慣れている。平然と過ごしていたら、今度はハロルドの親戚やら友人やらが次々と訪ねてくるようになった。そうしてねちねちと私のことをいびっていくのだ。状況から見るに、たぶん業を煮やしたハロルドの差し金のようだった。
さらに三つ目。この状況で離縁されれば、私は平民になる。けれど別に悲しくはなかった。というのも、私には前世の記憶があるからだ。
そこそこ大きな企業に勤め、同期たちの中でも出世頭と噂されていた、自分で言うのもなんだけれど割と優秀な会社員、それがかつての私だった。
毎朝電車に揺られ、会社で一日働いて、また電車に乗って家に帰る。平日は仕事を頑張って、休日はたまった家事を片付けて。
職場と家を往復するだけの、忙しいけれどどこか味気ない日々。恋人もいなかったし、趣味らしい趣味もほとんどなかった。
そんな日々が、ずっと続くんだろうなと思っていた。でもある日、私は風邪をこじらせて寝込んでしまったのだ。一人暮らしだったこともあって誰にも頼れずに、何日も眠り続けて……。
気がついたら、赤ん坊になっていた。しかも、ここはそれまで暮らしていた場所とは似ても似つかない、謎の世界だった。そして今の私は、春の花のようなピンク色の髪に、蜂蜜色の目をしている。
これってたぶん、生まれ変わったんだろうな。かなり驚いたけれど、新しい自分として頑張ってやっていこう。そう思ったものだ。それからの人生、ずっと不運続きだけど。
とまあそんなこんなで、私は二つの記憶、どっちもそこそこ不幸かもしれない記憶を抱えて生きていたのだった。
そんなことをざざっと思い出しつつ、礼儀正しく頭を下げる。
「分かりました、離縁ですわね。荷物をまとめる時間をいただいてもよろしいでしょうか」
そうして頭の中では、また別のことを考えていた。へそくり、そろそろ十分な金額になってたわよね。万が一に備えておいて本当に良かった。
ハロルドによる間接的な嫌がらせが始まった辺りで、私はこっそりと準備をしていた。彼の小細工が実って、私が叩き出される時のための準備だ。
ここを追い出されたら住むところもないし、頼れる人もいない。だったらまずは、お金を貯めよう。
そう考えた私は自分の小遣いとして渡されていたお金を節約して、こつこつとへそくりを貯めていたのだ。
「あれえ? アリーシャ様、ハロルド様に未練はないんですか?」
ノエルが愉快そうな声で尋ねてくる。この子、私をいたぶる気だわ。
「……ギャレット家の当主たるハロルド様の決定に、口を挟むことはできませんわ」
ごちゃごちゃ説明するのも面倒なので、当たり障りのない言葉を返す。と、ハロルドがやはり自分に酔ったような表情で進み出た。
「ああ、なんと健気な心掛けだ! 私とて鬼ではない、多少なりとも援助してやろうではないか。私が持つ屋敷の一つをお前にやろう」
「まあ、ハロルド様ったら優しい……素敵」
ノエルの前で格好つけたいハロルドと、そんな彼に甘ったるい声でささやきかけているノエル。ハロルドがでれでれと笑み崩れた。
……ハロルドは気づいていないようだけれど、ノエルの目、笑ってないんですが。「どうして前の女に援助なんてするんですか、それは私の財産になるはずのものなのに!」って書いてある。
ハロルドに援助してもらうというのがちょっと引っかかるけれど、今はそんなことを気にしていられる状況ではない。
「ありがとうございます。それでは今後は、そちらで暮らそうと思います。……その屋敷まで送っていただければ、助かるのですけれど」
「構わない。それと、一年分の経費を渡してやろう。だがそこから先は、自分で何とかしてくれ」
屋敷って、結構維持費がかかるからなあ。自分の生活費だけでなく、使用人たちの給料とか、各種消耗品とか。
前世の会社員の感覚で、ついつい計算してしまう。一年分の経費、かなりの太っ腹だ。そこから先……どうやって稼ごう。
「重ね重ねのご厚意、いたみいります」
内心考え込みつつ、あくまでも冷静に、礼儀正しく言葉を返す。
あまりにもすんなりと、とんとん拍子に進んでいく離婚話。それを見ていたノエルの顔が、不可解そうにこわばっていった。
おそらく彼女は、思う存分私を見下し、優越感に浸るつもりでいたのだろう。泣き崩れる私に向かって「ハロルドの心も妻の座も、全部私が手に入れたの。あなたは負け犬なのよ!」とか叫びたかったんじゃないかなって気がする。
そんな彼女に会釈して、悠々とその場を立ち去った。
どれほどしとやかにふるまおうとしても、足取りが自然と軽くなるのを抑えることはできなかった。