【後編】牛丼一杯で何でもしてくれる人
「この店どっち?」
「あ、こっから真っすぐです、すぐしたら左手に見えてくるので」
暇を極める看板持ちの仕事。
「はぁ……なんか身が乗らねぇな……」
看板を掲げる腕が重い。
退屈が昨日の少女との出来事をフラッシュバックさせる。
大人気のない物言いに正哉は後悔を覚えていた。
「あれ、芽吹さん?」
「え、葉水さん?こんなところに珍しいですね」
休日の飲み屋街。雑踏の中の見慣れた存在に正哉は目を丸くした。
「あんた、あの女の子と一緒じゃなかったの?」
疑心そうな表情を浮かべて葉水は尋ねた。
「今日は会ってませんが?」
「おかしいわね、私の見間違いかしら。家族であんな場所までドライブすることも無いだろうし……」
首を傾げる葉水。
「どういう意味です?」
「いえね、昨日あんたが連れてた女の子がさっき車に乗ってるのを見て……よくよく考えたら車なんてあんた持ってないわよね。持ってたら車中泊とかできるのにね」
「車……?」
「心当たりでもあるのかい?」
正哉の胸中に何かもやもやとした感情が渦巻いていた。
「……さてどうでしょう。ただの思い過ごしかもしれないから。ましてや……」
「ましてや?」
「俺たちはお互いに名前も知らないような関係性なんです。俺が介入する余地なんてない」
正哉はポケットから取り出した一枚の紙くずを握りしめていた。
「……あたしには何のことかわからないけどね……」
正哉の握り拳を一瞥すると葉水は口を開いた。
「何も知らないやつだからこそ言ってやれることってあると思うよ」
「……あなたがそうしてくれたみたいにですか」
「そうだっけね?あたしは空き缶拾いしてる若者があまりに無様で見てられなかっただけ」
とぼけたように葉水は答えた。
「そうですね、昨日も助かりましたよ」
正哉はポケットに紙くずを詰め込むと、看板を道の端に捨てた。
「車の種類は?」
「……行ってあげるのかい?」
倒れた看板を見やると葉水は言う。
「ここでシカト決め込んじまったら何故かあなたに顔向けできなくなるような気がしてな……」
正哉の足は自然とある場所へ向かっていた。
「うん、三〇四ね、オッケー。じゃあ大丈夫だと思うけど何かあったら電話してねー」
停車中の車内でだらしなく足を組む男は通話を切った。
「はぁ、時間まで寝るかー」
運転席に身体を預け、瞼を閉じる。
車の中は安らぎの場所だった。
睡眠導入に抜群な耳心地の良いラジオ番組。
来客のないホテルの駐車場はそれ以外の物音を立てることがない。
男は閉目の中、何を考えているのだろう。
いや、男は何も考えない。
今日も安息の領域の中、意識が落ちるその時をずっと待っている。
ドンドンドンドン!
ずっと……
ドンドンドンドンドン!!
「うるせぇな!なんだ!」
男は飛び起きると窓の外をにらみながら叫んだ。
「おいてめぇ……」
「ひっ!」
視線の先にはより恐ろしげな形相を浮かべる男が窓を叩いていた。
「未成年デリヘルで働かせてるのばらされたくなかったらあの女の居場所教えろや……」
「あのね、おっさ……じゃなくてパパ。やっぱりあたしさ」
ベッドに並んで座る少女と中年の男。
「なぁに、緊張してる? 大丈夫だって。かえでちゃんくらいの年の子でもみんなやってるから」
「いや、でも……」
「いつもよりお金も弾むよ?」
ベッドに置かれた男の手が這うように少女に近づく。
「そういう問題じゃ……」
「まぁ最初は緊張するよね。大丈夫、パパが手取り足取り……」
少女の太ももに男の手が触れそうになるその瞬間。
コンコンコン!
「ん?」
コンコンコンコン!
「全くいい時に……何の用だ!!」
男は怒鳴りつけるように扉に向かって言葉を吐いた。
「何って、お届け物ですよぉ」
扉越しに若い男の声が届く。
「届け物だと? そんなもの覚えがないぞ!」
「ご冗談を。自分の胸に手を当ててみればすぐわかりますよ」
「生意気な……貴様、そこで待ってろ!」
中年の男はベッドから勢いよく立ち上がると床を激しく鳴らしながら入口の扉を開ける。
「誰だ!」
「ようお嬢さん、お届け物だぜ。あとあんたにもな……」
「え……」
顔を覗かせたのは正哉。少女は短く息を吐いた。
「何だ貴様!フロントに通報するぞ!」
激昂する男に正哉はポケットでしわくちゃになっている一枚の紙くずを見せつけた。
「これあんたのカードだろ? お返しするよ」
「私のカード! 何故貴様が持っている?」
正哉が持っているのはこのホテルのポイントカード。名前の記入欄に文字が記されている。
「覚えてねぇか……まぁどうでもいいさ、もうすぐポイント溜まりそうじゃねぇか。ほかの女とも足しげく通ってるみたいだな」
「早く返しなさい!」
「あんた、結構な有名人らしいじゃないの」
「はぁ?」
カードにボールペンで書かれた名前を指さす正哉。男は意味が分からないといった表情を浮かべている。
「図書館のパソコンで調べてみたんだ……そしたら驚いたよ。この名前、ある大企業の社長と同じ名前じゃねぇかってな」
「な……」
男は目を丸くした。
「ポイントをコツコツ貯める社長さんってのはギャップがあって可愛らしいなぁ」
「何をしに来た」
男は声を潜めてさらににらみを利かせた。
「取引だよ、社長さん。分かるだろ? 未成年に手ぇ出してるって世間にばらされたくなけりゃあこの子に二度と近づくんじゃねぇ」
「み、未成年だと? 私はそんなこと知らん!」
「とぼけても無駄だぜ? 店もあんたも認知してる事実だってことはもう知ってんだ」
「き、貴様……」
男は一歩退く。額に脂汗が浮かんでいる。
「まだシラ切るつもりか? いいぜ? こっちも通報するネタが増えそうで楽しそうだ」
「ぐ……貴様、覚えていろよ……!」
男は捨て台詞を吐くと、荷物をまとめて部屋をそそくさと退室した。
「ふぅ……恐ろしかったぜ全く……」
残されたのは安堵のため息をつく正哉と終始唖然としている少女の二人。
「な、何でいんの……?」
少女はようやく口を開いた。
「あぁそうだった、俺もデリバリーにな」
そう言うと正哉はベッドに座る少女の隣に腰かけた。
ほんのりと臀部に温かみが伝わる。先程までここに変態社長が座っていたのだろう。
「もしかして、おっさんと同じで……」
「違ぇよ! これ!」
怯えの表情を作る少女に対し否定の意味を込めて正哉は持っていたビニール袋を手渡す。
「これ……」
「見覚えあるだろ?」
少女はビニール袋を受け取ると、急かされるように中身を取り出した。
「牛丼……?」
「未成年におごらせたままなんてホームレスのプライドが許さなくってな。借りを返しに来た」
「嘘だよね?」
「ん?」
「牛丼届けに来ただけとかありえないって。マジで何で来たの?」
「何でって……分かってるんだろ?」
少女の問いに正哉は微笑を湛えながら答えた。
「いや、分かんないって」
呆れたように返す少女。
「嘘つけよ」
「だから何が!」
「俺に打ち明けたかったんじゃねぇのか?」
「は、はぁ?」
「お前とした最後の会話。どうも俺には、お前が誰かに話したがってたように聞こえてな」
最後の会話。それは葉水が管理するマンションの近くで交わした会話。
少女は話の流れで自身が未成年ながら夜店で働いていることをカミングアウトした。
「隠したがってるやつはあんあ話し方しないと思うがね」
あの一瞬の時間で正哉は少女の置かれている環境をある程度知ることができていた。
「それともただの勘違いだったか? 大きなお世話だったか?」
そう言いながらも正哉は確信していた。
少女は打ち明けたかったのだ。現状の不安から少しでも逃れるために。言葉で伝えることで少しでも気を楽に持つために。
そこまで聞くと少女はようやく口を開く。
「……凄いね。お見通しじゃん」
感心したように、そう答えるのだった。
「そうか……」
「なんでかな、お兄さんには話してもいいやって思えたんだよね。私のことあんまり知らないからかな」
「そりゃ、親とかには言えないわな」
「うん、なんたって親には居酒屋で働いてるって嘘ついてるしね」
「どうして……」
「?」
「どうしてこんなことやってるんだ? 嫌なら逃げることくらいできる筈だ」
正哉が尋ねると少女は下を向いた。
「嫌でもやるしかないよ」
「それはどういう……?」
「お兄さんだってわかるでしょ!?」
少女は弾けるように顔を上げ、視線を正哉に合わせた。
「お兄さんだって好きでホームレスやってるわけじゃないでしょ? あたしだってそう! でも仕方ないじゃん! 夢叶えるためにお金、必要じゃん!」
「夢?」
「……あたし美容師になりたい。でも親は家業継げって賛成してくれない。なら学費も生活費も自分で何とかするしかないじゃん」
「お前……」
やはり少女には自分の身体を売るに足る理由があった。
そんな強い覚悟を聞いた正哉は頭が上がらなくなっていた。
「立派なんだな。その年で理想のために努力できるなんて」
「そんなことない……あのさ、お兄さん」
少女は視線を再び下に戻した。
「何でこんなに世の中って厳しいんだろうね?」
「随分ヘビーな質問だな」
「だってそうじゃん……何でお金の為……夢の為にさ、身体を売ったり、ゴミを売ったりしなきゃいけないの? あたしは夢を叶えたいだけなのに……」
弱弱しい声で少女は囁く。
「どうかな……少なくとも俺は世界ってやつはお前が思うほど厳しくはないと思うけどな」
「え?」
「だってお前……俺を見ろよっ。金無し、宿無しでもこうやって生きていけるんだぜ?」
正哉は両手を広げておどけて見せた。
「それはそうだけど……」
「夜店で働けなくても方法はいくらでもある。月並みなことを言うけどな、若いんだから少しずつ夢に向かっていけばいいんじゃねぇのか?」
「それも嫌だよ……」
「ん?」
「そんなの不幸な言い訳じゃん。お金があって自由な家庭だったらさ、自分は働かなくても親の力で好きな進路を選べる。あたしがお金を貯め切っても、そのスタートラインにはあたしよりずっと若い子らが並んでる。そんなのおかしいって」
「そんなこと思っちゃいけねぇよ」
「でも事実じゃん!」
「じゃあ考え方を変えろ。お前は年を食う分、人生経験が豊富になる。お前はまだわからないと思うけどよ、人生経験の少ない同期ってな、見てて滑稽だったりするもんだぜ? そいつらを見てガキだなーってほくそ笑んでやればいいのさ」
正哉は少女の俯いた顔を覗き込む。発破をかけるように、言葉を続ける。
「いいこと教えてやるよ。これから嫌なことが起こったらな、下を見ればいいんだよ」
「し、下?」
少女の項垂れた頭が少し持ち上がる。
「ああそうさ、最低な考えかもしれねぇけどな、自分より不幸な奴がいるって思えることはな、結構大事なことだ。そいつに比べればマシだって考えるとポジティブになれるだろ? 多少は頑張れるだろ? 例えば……」
言葉を切ると正哉は少女の肩を叩いた。
少女は頭を完全に上げ正哉に振り向いた。
「不幸な……例えば……?」
「俺とかな」
正哉は笑顔を作った。
ホームレスの空き缶拾いよりはマシだと思わせてやりたかった。
「あははっ」
少女はほころんだ顔を正哉に見せた。
その笑顔は少女の体内に渦巻く不安をほんの少し取り払ったことによる安堵を示すものに思えてならなかった。その証拠に。
ぐるるるるるる……
「えへへ、お腹すいちゃった」
少女の体内が空腹を訴えていた。
「なら遠慮なく食べたらいいさ。腹満たしてもらうために牛丼買ってきてやったんだ」
発泡スチロール製の容器が少女の手の中に納まっている。
少女は蓋を外すと割り箸を割り、思いのほか丁寧に牛丼を食べ進めた。
「なぁ、美味しい?」
以前少女がそう尋ねたように正哉も尋ねた。
すると以前正哉がそうしたように少女は咀嚼しながら首肯した。
「良かったよ……あとさ……」
正哉は膝に両腕を置き、前かがみになる。
「最後に教えてくれよ、お前の……こんなホームレスにも優しくしてくれた奴の名前を……」
すると少女は箸を米の中に立てて容器を置き、立ち上がった。
鞄から名刺の束を取り出すと、それを正哉にちらりと見せた。
「かえで? 店で持たされてた名刺か?」
少女は微笑むとその名刺の束を全てゴミ箱に投げ捨てた。
「朝日奈志乃。あたしの本名」
「そっか……俺は芽吹正哉。お互いに随分自己紹介が遅れたな」
「芽吹さん……いや、やっぱお兄さんだな」
「好きに呼びな。もう会う機会もあるかどうかだしな……」
「そうだね……」
それから志乃は黙々と牛丼を食べ続け、米粒一つ残さず完食した。
「ごちそうさまお兄さん、あたし、満たされました!」
「そっか」
自分自身が生きることだけを考え続けてきた正哉のホームレス生活。
そんな日常が、少しだけ揺らいだ気がした。
「畜生、また野宿かよ……何で急に連絡来なくなるかね、ぶつぶつ……」
あれから数年が経った。
正哉は相変わらず帰る家のない生活を送っていた。
ここ暫くはネットカフェで夜を過ごしていたが、突然日雇い派遣の会社からの連絡が途絶え、生活費節約の為公園の主に逆戻り。
木製のベンチにもたれかかり、時間が過ぎるのをただ待っていた。
「でも夕方から看板持ちやらせてもらえるんだった……それまで寝るか」
正哉は朝日の下、瞼を閉じた。
派手な金髪ロングが陽の光に当てられ眩しく輝いている。
少女は大人になり、友人と専門学校までの道を歩く。
初めての授業に抱くのは緊張か、期待か。
通学路を仲睦まじく歩く二人。ふと、何かを見つけた友人が口を開く。
「うわ、見て志乃!何あの人、絶対やばい人だよ!」
朝から公園のベンチで口を開けて寝る男に人差し指を突き出した。
そんな様子の友人を見てか、クスリと笑う。
「はは、あの人はね……」
「牛丼一杯で何でもしてくれる人だよっ」
-end-