八 世界の時間は止まった
パラケルススが世界にその姿を現せてより僅か三日後には、南極大陸には各地から膨大な資材と労働者が到着していた。無論、エリクシル量産工場を建築するためである。この早急な動きを批判するメディアは数多く見られたが、この運搬を止めようとする国家や機関は現れない。一部の市民運動家による妨害活動は発生していたが、大勢に影響を与えることはなかった。
パラケルススはこのとき既に天文学的な資産を所有していると見られたが、この工場建築に対しては一ドルたりとも支払っていない。黙っていても、彼のもとには世界中の銀行や資産家が、競い合うように投資を行った。必ず売れる商品を生み出す工場建設は、これ以上ない魅力的な投資対象であったのだ。
そして二ヶ月間の突貫工事を経て、世界を変えるための巨大な工場が竣工した。
最新鋭の生産ラインは、自動的に次々とエリクシルを造り出した。その数は日産百億錠。全世界の人々が毎日一錠服用しても、有り余る数が出荷されることとなる。この十分なエリクシルの数量は安価な流通を生み、パラケルススが宣言したとおり、世界のどこでも、そして誰でも気軽に購入できる存在となっていった。
エリクシルの安定供給により、世界の混乱は収拾した。
エリクシルの服用を完全に禁じた国は多い。そうでなくとも、成人未満の人間が服用することを禁じた国が殆どであった。しかし、そのような規制はどの国家においても全く奏功しなかった。何故なら、誰もが若さを求めたからだ。成長期である十五歳までの少年少女たちですら、現在の自分を留め置きたいと、エリクシルを服用する者が多かった。またその親たちも、そうした子供たちの希望を叶えてしまった。親たちは、自分たちの年齢と子供たちの年齢が近づくことに抵抗感を抱いたのだ。結局人間は、楽な道を選んでしまうのだろう。
こうして、世界の時間は止まった。
そして十数年の時が経つ。
東京湾を埋め立てられて造られた広大な広場に、二十万人の若者たちが集っていた。彼らは一様に、工事現場で使われる黄色いヘルメットをかぶり、顔をバンダナやタオルで覆い隠している。
少女は蠢く若者たちの前に立ち、低い声で語りはじめた。
「我らは、いつまで我慢し続ければよいのか」
数百台の大型スピーカーが、広場のあちらこちらに設置されていた。少女の声は反響しつつ、二十万人へと響いてゆく。若者たちは静寂を保ち、檀上の少女を見つめていた。
「私は十五で老いることを止めた。年齢を尋ねられれば、今でも私は十五歳であると答える。しかし、私は三十年近くの人生を生きている。なのに何故、私には選挙権が与えられていないのか。これは、老人たちが既得権を守ろうとしたためだ。奴らは自分たちの地位を保つために、未成年がエリクシルを服用する場合の年齢加算を行わない、などという実に身勝手な法令を採択した。その結果我ら若人は、政治的発言権をはく奪されたのだ。国会を見てみろ。老人たちの腐臭が充満している会議場を見てみろ。衆院当選回数三十回などという化け物たちの巣窟を見てみろ。奴らは永遠に我ら若人を支配続けるつもりなのだ。あのパラケルススが世界に現れたとき、既に老人であった奴らは、我ら永遠の若人を妬み、僻み、そして恐れているのだ」
少女の声に、二十万の若者たちは沸き上がった。自分たちが抱いている不満を、少女が一手に代弁してくれている。若者たちは少女の名を、口々に叫んでいた。エリカ、エリカ、と。
こうした若者たちの不平不満は、世界中で巻き起こっていた。