五 パラケルススとサルバドール
結局、その場に集まっていた全ての指導者が、スイス大統領の提案に同意した。
たった一人の男の身の安全を保障するだけで、世界の混乱を止めることができるのであれば、それはあまりにも安い代償であると皆が考えた結果だった。
パラケルススと指導者たちの契約は、すぐさま世界中に喧伝されることとなった。
こうして、男は自由を手に入れた。
これが、新たな混乱、本当の混乱を世界にもたらすということを、当の本人ですら自覚していなかった。
世界の首脳たちが集っている南極のほぼ真裏近く、アラスカの地にその少年はいた。
少年は仄暗い夜空を、微動だにせず見上げている。氷点下を遥かに下回る雪原で、分厚い純白のダウンジャケットを着込んでいるため、彼の褐色の肌は一際目立っていた。
「光のカーテンは見えたかね」
少年の背後に、やはり真っ白なジャケットに身を包んだ男が立った。少年より頭二つ分ほど長身で、年齢は五倍近く老いて見えるその男は、少年の真似をして空を見上げる。
「自然というやつは気まぐれだ。もう三日も待っているのにね」
少年の口から吐き出された溜息が、白い塊となり、やがて夜空に消える。
「今さっき、主だった国の元首のサイン入り宣言書が集まったよ。これで一応、我々は自由に活動することができるはずだ」
男は白い口髭の間にタバコを咥えながら話す。
「アメリカとロシアの諜報機関は、依然活発に動いているよ。やはりもうしばらく、君は表に出ないほうが良さそうだ」
「じゃあ、あんたがパラケルススとなってくれ。僕はもっと、自由でいたい」
夜空からようやく視線を外し、少年は男に言った。年長者に対しての遠慮など微塵も感じられない口ぶりだ。
「君の身代わりとして、私はいつか暗殺されるのだろうね」
「そうなるかもね」
「ならば、君のことはなんと呼べばいいのかな」
「サルバドール」
「了解サルバドール。後のことは任せてくれ」
雪原にタバコを投げ捨て、パラケルススの名を継承した老人は少年から去ってゆく。しばらくすると、騒がしいエンジン音が響き、粉雪を巻き上げて一機のヘリが飛び立った。
サルバドールと名乗った少年は、再び夜空を見上げる。そして、寂しげに呟いた。
「今日も見れそうもないな」