四 唯ひとつの要望
ドーム状の建物にて、各国の指導者たちはパラケルススを自称する人物の登場を待っていた。
この観測所に勤務していた研究者や技術者は、全て指定された十キロ圏内から退去が完了している。観測機器のみが働いている閑散とした空間に、総勢二百名の指導者たちは待たされていた。
「これが悪戯だったら、我々は世界中の笑われ者だな」
アメリカの大統領がそう語ると、その取り巻きとなる同盟国の指導者たちが笑った。最新型の自動翻訳機を通して大統領のジョークを理解した日本の首相が、皆とずれたタイミングで笑っていた。
やがて、約束の時間がおとずれる。何人かの腕時計から、電子音が発せられる。
分厚い窓越しに辺りを確認する指導者たち。しかし白一色に染められている氷の世界に、動く物は見当たらなかった。
「なんだね、やはり悪戯かね。世界が混乱しているときに、我々は貴重な時間を失ったわけだ」
ドイツの大統領が机を叩いて憤慨していると、一人の女性が指導者たちの中央へと歩んだ。
「皆さん、私が代行者です」
女性はスイスの大統領だった。
「事前に私は、パラケルススと名乗る男とコンタクトを持ちました。勘違いしないでください。皆さんを出し抜いたわけではありません。昨日、彼から私の個人的な携帯電話にアクセスがあったのです。私の個人的な連絡先を知ることができる存在というだけで、彼には力があると確信しました」
指導者たちは静まり返り、続くスイス大統領の言葉を待った。
「パラケルススは、今日この場に現れることはありません。代わりに、彼の言葉を私が伝えることになりました。何故彼が来ないかというと、身の危険を事前に察知したからです。我々を出し抜いて、魅力的な秘薬を独り占めしようとしている国があったと、彼は語りました。そして、出し抜こうとした国は複数あったということです」
大国と呼ばれるうちの何人かの指導者たちが、身を縮めていた。
「危険を察知したパラケルススは、私にその代行役を頼んできました。私は、彼の代理人として、皆さんに伝えねばなりません」
指導者たちはそれぞれの情報機関から持たされていた隠しマイクを、意識的にスイス大統領へと向ける。中には前時代的にメモ用紙を取り出している者もいた。
「パラケルススが望む条件、それは単純に、彼の身体不可侵の自由です。何者も、彼の身を拘束したり、彼の行動を制約したり、彼の命を危険にさらす、そういった全ての行為がなされぬよう、この場に集う全ての指導者が約束し、それを明文化することを、パラケルススは望んでいます」
分かりやすいパラケルススの条件に対して、世界の指導者たちはその裏にある謀を訝しんだ。大統領や首相や将軍や主席は、互いに目配せを繰り返し、それぞれの国同士の裏を読みあう。しかし、結局彼らには情報が圧倒的に足りていなかった。
「結論はこの場で出さなければなりません。この場で、パラケルススの提案に否と答えた国に対しては、彼が『エリクシル』と呼ぶ、我々がこれまで『ステイ』と呼んできた不老の秘薬を提供しない。それが彼の意思であります。これは、私の個人的な見解ですが、彼の身の安全を保障する、という極単純な願いは、当然といえば当然という希望だと思います。世界を変貌させてしまう可能性を持った秘薬を発明した人物は、かってない重要性を持つこととなるでしょう。どれほど優秀な科学者が集ったところで、エリクシルの秘密は解き明かすことはできない、鍵は自分の頭の中にしかない、と彼は語りました。これまでの研究成果からも、彼が自信過剰であると言い切ることは困難でしょう。世界は転換期を迎えています。彼の要望を受けましょう。私たちは変わらねばならない。そして、パラケルススの協力なくしては、その変化は訪れないのです」