三九 救世主
小刻みに震える姉の背中を見つめ続けていた城島は、不意に部屋の中に現れた気配に気づく。
いつの間に部屋の中へと入ってきたのだろう。いや、それ以前に、この建物に入ってきた時点で、なんらかの気配を感じていてもおかしくはなかった。なにしろ、この旧メガラニカ行政府には、もう城島とエリカの二人しか残っていないのだ。ネズミが一匹駆け回っただけでも、大きな音が響き渡るはずだった。
それでも、現実にその褐色の肌を持つ少年は部屋の中に立っていた。ここまで、物音ひとつ立てずにやってきていた。城島と肩が触れるほどの距離に、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「もうみんな逃げ出したのかと思っていたら、最高指導者が残っていた」
少年の声は抑揚のない、無機質な低音だった。
「あなたは、逃げ遅れたの?」
エリカも、唐突な少年の登場に多少驚きの顔を見せているが、指導者としての威厳をわずかに取り戻し、涙を拭う。
「僕は、あなたの国の民じゃない。逃げることも必要ない。それどころか、今やってきたばかりなんだよ」
城島は身構える。少年は見た目十歳前後で体格も相応に貧弱だ。一見して武器も携帯していない。だが、油断はできなかった。人類が不老化した年月が長かったため、小柄な少年でも格闘術に熟練しているケースは、稀有なものではなかったからだ。
「大丈夫。僕は、エリカさんを捕まえにきたわけじゃないよ」
城島の警戒を解くため、少年は両手を肩の高さまで上げて、手のひらを広げてみせた。そんな行為に、なんの確証も見いだせないが、城島は少年がエリカを害する意図はないと信じた。そう信じ込ませるだけの緩やかな雰囲気を、少年は持っていた。
「僕は、見学に来ただけ。歴史上初となる、世代国家の姿をね」
「観光しに来たって言うの? こんな廃墟に、見るものなんてないわよ」
「あるさ、たくさんある。何より、エリカさんに会うことができたもの。僕は運がいい」
少年は、白い歯を見せて笑っていた。
「あなた名前は?」
「サルバドール」
言い慣れていないのか、少年は一字一句を読みあげるように名乗った。
「サルバドール、良い名前ね。ポルトガル語で、確か『救世主』という意味だったかしら」
「そうだね。そうなれればいいと、思っていたよ」
サルバドールは謙遜する様子もなく、堂々とそう公言した。




