三五 腹かっさばいて見せろ
肉を打つ音が、室内に響き渡る。二度、三度。ウベク元帥がその大きな拳を、児玉の頬へと叩きつけていた。
馬鹿者と罵りつつ、元帥は殴り続ける。
殴られる児玉の鼻と口から、噴水のように鮮血がほとばしる。それでも児玉は抵抗もせず、無気力な顔でされるがままになっていた。
「残念ですが、仕方ありませんよ元帥。その辺で許してあげてください」
エリカがそう言って止める前に、元帥は殴り疲れて腕を下ろしていた。
「貴様がここまで間の抜けた男だとは思わなかった。どう責任をとるつもりだ」
元帥の怒号にも、児玉はうつむいたまま、答えようとはしなかった。
「調印はまた後日に改めましょう。仕方ないことです」
再びエリカが元帥をなだめたが、少女の声は老人の耳には届かない。
「今この瞬間も、各地で小規模ながら戦闘が持続しているのだぞ。貴様のせいで、何人もの人間が、流さずに済んだ血を流し、落とさずに済んだ命を落としているのだ。わかっているのか貴様は?」
終いに、児玉は肩を震わせ嗚咽した。そして、元帥の怒声を上回る大声で言い放つ。
「腹を切ります!」
ウベク元帥はその瞬間こそ目を丸めたが、すぐさま険しい顔を取り戻す。
「よく言った。それが貴様の国に古くからある責任の取り方だ。偶然にも、貴様と同じ日本人がこの場に二人もいらっしゃる。日本の軍人らしく、見事に腹かっさばいて見せろ!」
メガラニカ側の面々は、二人の軍人の気に押され、誰一人口をはさめない状態に陥っていた。
「オイ、そこの赤毛。ナイフ持っとるだろ。児玉に貸してやれ」
赤毛のニキビ面は、目をしばたかせていたが、もう一度元帥に促されると、唇をニヤリと左右に伸ばした。
「面白そうじゃねえか。俺も見てみてえなハラキリ」
少年は足首に忍ばせていたアーミーナイフを、テーブルの上に滑らせた。
「将軍! 困ります」
指導者たちの後ろに構えていた少年中佐が止める間もなく、ナイフは児玉の前で止まった。
「武器を携帯することは禁じます!」
中佐が怒鳴ったが、その甲高い声では大人たちの動きを制止することができなかった。
児玉はナイフを握る。
中佐は腰からコルトを抜き、児玉の額に照準を合わせた。児玉がそのナイフを使い、不穏な動きを見せた場合、すぐに弾丸を撃ち込める体制ができていた。
「案ずるな少年。この男は自分のしでかした過ちの、責任をとろうとしているに過ぎない。あなた方に危害を加えるようなことはない」
元帥にたしなめられても、中佐はコルトを構えたままの姿勢を保った。
児玉は軍服を脱ぎ棄て、純白のシャツ姿となる。そしてシャツのボタンを引きちぎり、脂肪で弛んだ腹を外気に曝した。
「やめなさい! やめさせなさい! この場で、そのような暴挙は許しません」
「やらせてやって下さい独裁官閣下。あなたも元は日本人でしょう。理解してやるべきだ」
元帥は叱りつけるようにエリカに言った。
「やれやれ、思い切りのいいところを見せてくれ」
赤毛の少年が、怪鳥のような笑い語をあげている。
児玉はアーミーナイフを逆手に構え、その冷たく光る刃を眺める。そして、数秒間だけ目を閉じ、長く息を吐いた。
次に児玉の目が開いた瞬間、彼は勢いよく自らの腹へナイフを突き刺した。