三四 緊張と恐怖と同時に鼻白む
エリカが指示を出してから数分後、護衛役の少年中佐に伴われて、パラケルススが現れた。
長身の老人は、テーブルに座る人々をひととおり眺めてから、若者たちの側の末席に腰を下ろす。
「こんなことに巻き込まれるために、私は手を貸したわけじゃないのだよ」
誰に対してでもなく、パラケルススは不機嫌さを隠さぬ口調で言い放った。
「もうしわけございません。しかし、世界の秩序を取り戻すためには、あなたがこの場にいることが必要なんですよ」
ウベク元帥が威厳を保ちつつ謝罪した。
「それでは、さっそく平和条約の調印を行おうじゃありませんか。お互い条件はクリアできたはずだ。よろしいかな独裁官閣下」
「もちろんです、元帥閣下」
ほんの数秒間だけ、両国を代表する指導者は視線を絡めた。
「では、調印しましょう」
先に目を逸らせたのはウベク元帥だった。そして元帥は、隣に座る副官に対して重い声で指示を出す。
「少佐、書類を」
ウベク元帥の副官役となっている児玉が、仰々しくアルミ製の書類ケースをテーブルに置く。児玉が米粒大のボタンに暗証番号を入力すると、バチンと派手な音を立ててロックが解かれた。
そのとき、エリカの後方に侍立していた少年中佐の腰が僅かに沈んだ。訪問者たちのボディチェックは念入りに行われていたが、その書類ケースの中だけは把握しきれていなかった。エックス線により中に武器らしきものがないことだけは確認していたが、万が一のことに備え、少年中佐は身を固くしたのだった。
しかし、中佐が飛びかかるような事態には至らなかった。その代わりとして、「嗚呼」と情けなく間延びした児玉の悲鳴が、室内に響きわたった。
「どうしたんだ少佐!」
元帥が叱責すると、児玉は青ざめた顔を向け、口をだらしなく開く。
「あの、ちょう……調印書が、ありません」
「なんだと!」
元帥は児玉から書類ケースを荒々しく奪い取り、その中身を調べた。
「貴様、まさか入れ忘れたのか!」
元帥の怒声は、その場にいる全員を硬直させるほどの迫力を持っていた。
「バカ者! なんという失態を演じてくれたのだ。今日この日を迎えるため、どれほどの犠牲があったと思っておるのだ。なんということだ……」
元帥は児玉の胸倉を掴み、怒鳴る。児玉は人形のように力が抜けており、元帥が揺する度に首がカクカクと折れた。
思いがけぬ事態に、メガラニカの指導者たちも、パラケルススも、唖然として二人のやり取りに目を向けるのみだった。
そして城島は一人、その光景を眺め、緊張と恐怖と同時に鼻白んでいる。