二一 タナトフォビア
人類はエリクシルを手に入れたことで、不老不死という理想社会を手にいれたはずだった。
しかし現実には、より人が死に安い世界が到来していた。
こんなはずではなかった。若者から老人まで、誰もが一度はこの新しい世界を悲観していた。しかし、若者と大人たちの抗争は、既に後戻りできない段階にまで踏み込んでいた。あまりに人が多く死に過ぎていた。どちらかの陣営が潰えるまで、争いは終わらないと、皆が覚悟していた。
戦火の拡大と共に、蔓延しだした病がある。
タナトフォビア。
それは、死を強烈に恐れる病である。死後の世界に待つ無、あるいは罰を空想し、恐れ慄く。
人は誰しも幼き時代において、自らの死を思い描き、これを極度に恐れる時期がある。多くの人々は概ね成長と共に、諦めや達観という形をもって死の恐怖を克服し、通常の生活を営むことができる。ただ人により大小あるが、中には成人するまで、死の恐怖を克服できない者も多い。仕事がひと段落し、ふと力を抜いたときに、死の恐怖に突如として襲われ、パニックを起こすまで狼狽する。
エリクシルの普及により、死の恐怖は殆ど克服されていた。
しかし、世界を二分する大戦勃発により、人々は再び死の恐怖をその背中に感じるようになっていた。そしてその恐怖は、不老不死という魅惑を知る以前のものと比べ、遥かに大きなものとなってしまった。
兵士の敵前逃亡はもちろん、テロを恐れて街を離れ、中国の仙人のような生活を始める人々が大量に生まれていた。こうした動きは、北側、南側を問わずに発生した問題であった。
死から逃亡を図る人々の間で、秘かに噂になっている土地がある。チベットの山奥に、死を克服した人々が住むコミュニティがあるというのだ。
しかし実際にこの地に訪れた人々は、深く絶望することとなる。
「遥々イギリスよりやってまいりました。この集落は、死を克服した人々が住むと聞いております。どうか私たち夫婦も、この集落に加えてください」
青い目をした二人の老人は、粗末な村の門を前に懇願した。対するは、ヤマアラシのような髭面の男。男は逞しい丸太のような腕を広げ、老人を遮っている。
「勘違いしないでくれ。この村は、死を克服などしていない。むしろ真逆だ。我々は、エリクシルなどという、自然に反した薬物を否定しているのだ。死を受け入れた者たちなのだよ」
自らの足でいくつもの山を越えてきた夫婦には、その男の言葉を信じることができなかった。
「嘘だ。そんなことを言って、自分たちだけ生き残るつもりなのだろう。本当の不老不死を、隠しているのだろう」
「あなたたちのような人が増えている。毎日ひと組はやってくるよ。我々はなにひとつ隠し事はしていない。信じないのなら、村中を調べてまわっても構わない。エリクシルの一錠すら、見つけることはできないだろう。もちろん、それ以外の薬品も持たない。風邪薬くらいはあるかもしれないが、歳をとらない薬も、死なない薬も存在しないよ」
信じようとしない老人に、男は自分のパスポートを見せた。
「生年月日を見てみろ。俺の年齢は四五歳。どうだい、歳相応の見てくれだろ?」
男が提示したパスポートは、日本国籍を示すものであった。