6 牛飼いと塔の姫
一人で村の外れの森の大樹に住み着いてから10年が経った。
村長宅での薬草と物資の物々交換は規模が拡大していた。一軒分の使用量だった分量が、今では村中で必要な薬草を賄えるほどになっただろう。対価のおかげで私の食卓も充実してきた。
当初私が畑で育てていた薬草は、精々が料理で肉の臭みを消すとか虫除け程度のもので、私に薬師の知識はなかった。
せいぜいが幼少期に摘むのを手伝った薬草程度だったが、今では絵付きで新しい薬草を求められる。知識が増えればそれらを森で探し当てるのは簡単なことだった。
厄介なことに、ありふれた薬草では事足りない人間が朔の夜に私を待ち伏せするようになった。
魔女だろうが誘惑されようが構わないと詰め寄られても正直困る。そういう人間に限って私を患者に会わせようとはしないからだ。患者当人がいなければ、治癒の魔法も掛けようがないのだ。
私が黙って闇夜に消えると、本当に切羽詰まった者だけが、大樹の家を必死に探し当ててたどり着くようになった。家の周囲の結界は絶対のものではないので、探せば認識できるし入れるのだ。
そこに至っても患者は不在である。面倒なのでただの水に治癒の魔力を込めて小さな瓶に入れ、日が沈んだら効力のなくなる薬として渡している。
この場合、私は高い対価を要求し、なおかつ求める者に口止めをした。多く押しかけられると面倒だからだ。時折カラスの姿で家を訪れ、じっと見つめてやると、恐れをなしたように慌てだす。
そんなことを繰り返しているうちに、カラスは魔女の監視用の眷属だという話が広まり、私と村人との接触は最低限で保たれることとなった。
ある日例外が訪れた。
村の外からやってきたその男は、なぜか牛を連れていた。牛は緑の斑のある白く美しい牝牛だった。
「あなたが森の魔女さんですか?」
「私はただ森に住んでいる女だというだけだ。」
「困っている人を助けてくれるんですよね?」
「……」
迂闊なことを言うと面倒なことになると思った私は、沈黙を守った。人の身の私は、降りかかる火の粉を払っているだけで、別に人を助けているわけではないのだ。ましてやあの村の外の人間に恩はない。
「私は……」
「帰れ。」
「……トーリー島の塔から女の子を助け出したくてここに来ました。」
「!?」
何も聞かずに追い出そうと思っていた私は、思わず魔法を止めた。あの塔の女といえば落下した赤子の関係者である。産んだ者か落とした者か。……何にしても話くらいは聞いてもいいかもしれない。
「駆け落ちしたいんです!」
「?!?」
駆け落ち、というからには相手と恋仲であるはずだ。とするとあの赤子の父親はこの男なのか。それとも子を捨てた者と恋仲なのか。何の関係もない使用人と恋仲なのか。それによっても対応は変わる。
「一番上の部屋に住んでるお姫様みたいな女の子で……」
「……」
「恋人がいるかどうか調べて欲しいんです。」
「!?」
……駆け落ち希望なのに恋人がいるかどうか調べるのか。一体この男はなんなのだ。
「魔女さんへのお願いは、報酬が高いんですよね? 駆け落ちさせてもらえるなら、私の牛をあげます。」
「牛?」
「あの牛は魔法の牝牛なんです。子を産まなくても乳をいっぱい出してくれるんですよ。」
「それはすごいな。」
前世のエリンでも、今のヒベルニアでも、牛乳は非常に重要なものだった。食卓が充実した今でも、私のところまでは加工品が回ってくれば幸運、というくらいだった。
だが無条件で頼みを聞くわけにもいかない。
「お前と相手の名前は?」
「私の名前はキアン・グラスガウナンです。あの女の子の名前は知りません。牛の名前はドルドナです。」
「……名前も分からない、恋人がいるかも分からない相手と駆け落ちとは、一体どういうことだ?」
私はため息をつきたくなるのを堪えてキアンに尋ねた。
「私はトーリー島に住んでいて、毎日ドルドナに草を食べさせに海の近くまで行っていました。そこで窓から外を眺めるあの女の子を見たんです。」
「……見ただけで駆け落ちするのか?」
「あの子も私を見ました。それで通じたんです。私たちは結ばれる運命でした。最初から分かっていたことです。」
私は……わけが分からなかった。適切な質問を考えるのも面倒だったので、キアンとドルドナを大樹の前の草原で待たせ、一人家に戻った。そして窓から見えない位置でカラスに変身し、トーリー島へと飛び立った。
風を操り全速で飛べば塔まではあっという間だった。
折しも、窓辺には高貴な身なりの女がいた。頬杖をつき、物憂げに女が外を眺めているその窓枠に、私はカラスの姿で降り立った。
「うわっ! カラス!」
「……」
「……もしかして神様の使いなの? 夢に出てきたあの方の使いかしら?」
女はさほど驚くこともなく、私に話しかけてきた。夢、あの方……聞くべきことが色々ありそうだ。
「あの方とは誰だ?」
「うわっ、喋った! ……ねぇ、夢に出てきたあの男の人って神様なんでしょ? だって目が覚めた後、わたくしのお腹が大きくなったもの。」
……あの牛飼いの男といい、この女といい、話すことが不可解過ぎる。
「……なぜ神だと思ったのか?」
「お父様の言いつけでわたくしは外に出られないし、この塔には男の人は出入りしないのよ。それなのに赤ちゃんができたのは、神の御技でしょ?」
「なぜ男が出入りしない?」
「わたくしが産んだ子供がお父様を殺すと予言されているからよ。」
「父親の名は? お前の名は?」
「お父様はバロル。わたくしはエフニェよ。」
確かに私の前世でも、バロルは娘エスリンに同様のことをしていた覚えがある。エリンとヒベルニアの類似性を考えれば、名の似たこの女、エフニェの言うことも頭からは否定できない。
二羽の鷲も神であったようだし、他の神が塔に忍び込んで子を授けたとしても不思議はない。
「お前の赤子がどうなったか知っているか?」
かつて私は子供を産んで無念のままに死んだことがある。産んだ子供を捨て置くような人間の手助けはしたくないというのが本音だった。
エフニェは祈るように空を見上げて言う。
「お父様の部下が赤ちゃんを連れて行った時、わたくしは部屋の窓から外を見ていたのよ。……そう! 別の窓から落とされた赤ちゃんを、鳥神様が羽で受け止めてくださった瞬間を見たの! あの子は夫婦神であられる鳥神様が、きっと立派に育ててくださるわ。お父様の知り合いに預けられるより余程いい。」
あの同業者は夫婦の鳥神であったのか。それにしても深い信仰を集めているようだ。この地の養子の習慣は言うまでもなく、そういうことであればまあ良しとしよう。
「うん。お前はそれでいいのだな。相分かった。……ところでお前と駆け落ちしたいという男がいるのだが、心当たりはあるか?」
「まあ! それはきっとあの方ね。不思議な色の牛を連れて、じっとこちらを見つめていらっしゃる、黒髪がとっても素敵な方! きっと背も高いわ。」
どうやら面識はあるらしい。といっても遠距離から眺めるだけの間柄で、どうして駆け落ちすることになるのだろうか。
「ではあの男、キアン・グラスガウナンと駆け落ちをするということでいいのか?」
「ええ、もちろん! ここから連れ出してくれるなら誰でもいいけれど、あの方ならば最高ね!」
なんとはなしに口を挟みたくなる言い様だったが、私が関知すべきことではないと割り切ることにした。
「では手引して良いのだな? 行き先の希望は?」
「わたくし、お父様の手の届かないところならどこでもいいわ。閉じ込められるのも、子供を取り上げられるのも、もううんざりよ!」
「では2日後の新月の夜に迎えに来る。」
「楽しみに待っているわ。……ねえあなた、お名前は?」
また名を聞かれてしまった。クウに聞かれた時同様、私は返答に困った。今の私の羽色は黒だ。面倒になって、エリンでカラスを意味する言葉をそのままこの化身の名とした。
「この身の名はブランだ。」
2021.8.20