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 3 男児と捨て子






 私は日常に戻る前にすべきことを考えた。



 人の身でないとできないこと。畑、水くみ、狩りはいいとしても解体、薬草採取。その必要範囲の最小限に結界を張ることにする。


 生きた木々の塀のような物理の囲いに、魔力で潜在的な忌避感を振り撒いた。絶対的なものではないが、意図を持って探さなければ見つからないだろう。


 今後の散策は狼の身でおこなうことにした。







 そうして日常に戻ったある日、結界の外側の薪小屋、その更に南側にヒースの小丘を見つけた。上を向くと、木々がまばらで広い空が見える。今まで空からの散策で未発見だったのが信じられないような、ぽっかりと開けた別世界だった。



 海崖近くで防風林ではない木がこれだけ生えているのだから、絶望的に風が強いというわけではない。砂の飛散防止のためにヒースの種を散布したわけではないだろう。


 何種類かの花が入り混じって咲いており、控えめな甘い香りが辺りに漂っていた。


 この世界では苛烈な天候の変化はない。雪が降らないわけでも暑くならないわけでもないが、備えが薄くとも暫しの辛抱で耐えぬける程度の気候だ。そうでなくてはきっと、私は生まれた時にあの母とともに死んでいただろう。



 だからここはただ、控えめな花たちを何者かが愛でるため、木々が場所を少し譲って作られた秘密の場所。私はそのように感じたのだ。


 人の身で立ち上がり眺めれば、簡単に見渡せる狭い範囲でしかない。しかし申し訳程度に高くなった中心を臨み、外周から狼の身を伏せて眺めれば、まるで一面にヒースが広がっているかのように見えた。



 何度もエリンで生まれ変わり、女神や妖精・王族など、私は世間一般とはいい難い生を受けてきた。その中では戦いに身を焦がすことはあっても、繊細な感情の機微には縁のない生活であった。


 それでも一人この景色を見ていると、私はなぜか胸の奥が疼くような、そんな気がした。







 あれから私は毎日小丘を訪れた。


 私は少し寂しかったのかもしれない。だから招かれざる客が近寄ってきた時、相手に気付かれる前に逃げることができたのに、そうしなかった。



「狼さん、こんにちは。」



 それはあの日の男児だった。伏せている私に恐る恐る近寄り、しゃがみ込む。


 野生の狼相手であればとても愚かな行為だが、男児は私を目視してからここまで、少し近寄り立ち止まるということを飽きずに延々と繰り返してきたのだ。


 何度脅かして追い払おうかと考えたか分からない。けれど男児のその懸命な様子と、あの日の孤独をたたえた瞳とを思うと、私は動くことができなかった。



「どうしたの? 怪我をしてるの? お腹が空いた?」


 私は視線を男児に向けた。


「やっぱり言葉が分かるんだね。もう少し近づいてもいいかな?」


 私は一度ゆっくり瞬きをした。


「うわぁ、お利口さんだね。ありがとう。」


 男児はほとんど触れ合うくらい私のすぐそばに腰をおろした。


「キレイな赤い目だね……。背中を触ってもいい? こっちもきれいな灰色だ。」


 さすがに少し躊躇はしたが、私はひとつ瞬きをした。男児はそっと手を伸ばし、私の背を優しく何度も撫でた。


「しっかりした毛なんだね。内側は違うのかな。」


 男児は私の伏せた腹側に手を突っ込んだ。


「やめろ!」


「!!」


 私は思わず声を出してしまった。


「ごめんなさい……」


 男児はすぐに手を引っ込めて謝罪した。



 しばらくそのまま俯きがちにこちらの様子をうかがっていたようだが、その日はもう私に触れようとはしなかった。


「……また明日もここに来るね。」


 そう言ってそろりと立ち上がり、男児はゆっくりと去っていった。






 宣言通り、男児は翌日も現れた。



「狼さん、こんにちは。」


「……」


「僕のことはクウって呼んでね。狼さんに名前はあるの?」


 私は困った。教える義理もないが、この(せい)での名はどちらも髪の色からとったものだったからだ。


「なかったら付けてもいいかな? う〜ん、狼……犬。……ょーらん、すころーん、すこら……スコランなんてどう?」


 どうとも思わなかったので私は目をつぶった。



「……スコラン、昨日は勝手に触ってごめんなさい。」


「……腹はやめろ。」


「! ……分かった。ありがとう! ねえ、抱きついてもいい?」


 小さい子供にいつまでも目くじらを立てるのも馬鹿らしかったので、私はクウのそばまでいって伏せてやった。


「優しいね、ありがとう。」


 クウは決して手が腹側に回らないように私にやんわり抱きついた。




「スコランはどうして喋れるの? 狼じゃないの?」


 獣人だと明かせば人の姿になれと言われるだろう。私は黙って顔を背けた。


「……内緒なんだね。スコランはきれいだし、こんな天国みたいなところにずっと寝てたから神獣かなって思ったんだ。」


 そう言うと子供は頭を私に預けて黙ってしまった。



 この男児、クウは、子供らしい好奇心と押しを見せたかと思えば、こちらの拒絶を敏感に察知して引くべきときには過たず引く。今も眠ってしまったわけではないが、抱きついたまま長い間黙っていた。


 私は鼻から息を長く吐き、クウに尋ねた。


「……年は?」


「6才だよ。スコランは?」



 私は村を追い出された時に「10(とお)のくせに」と言われた。立冬(サウィン)も迎えていないので、人の身はまだ10才であるといえる。さて、狼の年はどうやって数えるのだろうか。


「……メスに年は聞かないものだ。」


「あ……やっぱり女の子だったんだね。だからお腹……重ね重ね、すみませんでした。」


 再びクウは黙ったが、今度は息を潜めて気を張る様子もなく、ただ静かな沈黙の時だけが流れていた。




「……あの僕、女の子を探してるんだ。赤い髪の可愛い子。スコランは知らない?」


 しばらくしてクウが話を切り出した。やはり私のことを探していたのか。厄介だな。あれ程もう会わないといったのだが……。


「……探してどうする?」


「えっ? ……話を聞きたいのと、友達になりたい、かな。」


「話とは?」


「うん、神の使いの鷲の話! 僕……スコランは信じてくれるかな。秘密の話なんだ。……僕、クウとして生まれる前に別の人間だった記憶があるんだ。」


 驚いた。私の他にも前の生を記憶しているものがいるとは。


「……それで鷲は?」


「信じてくれるの? 狼の世界じゃ普通にあることなのかな。……僕は多分、この世界とは別の世界で生きていたんだ。別の世界、別の島、別の国。でもそこで読んだ本の中に、あの時と似たことが書かれていたんだよ。」


 ずっと抱きついたまま、私の側面にいたクウが、正面に回って喜色を示した顔を近づけてきた。


 クウの話は私の事情と似通っている。こちらは別の世界、同じような島、同じような国だ。しかし私がそれを話すつもりはない。


「鷲の話か?」


 あの鷲は同業者だったはずだ。であれば吟遊詩人(バード)の物語になっていてもおかしくはない。


「鷲というかね、捨てられた子の話だよ。塔から捨てられた赤ちゃんが鷲に助けられて育つ話。赤ちゃんは運命の神の子でね、庭番に育てられて大きくなってギルガメッシュ王になるんだ。」



 クウの話を聞いて、私はずっと記憶に引っかかっていたものを思い出した。私と夫を殺した敵、バロル。その男が自分の娘エスリンをトーリー島の塔に幽閉する話だ。


 その話ではキアンという男がエスリンに子を授けるが、生まれた赤子は海に捨てられるのだ。生き延びた子はマナナン・マクリルに育てられる。マナナンが住むのはマグメル島だった。



「赤子の名は、ルー……」


「あの時の赤ちゃん、ルーだったんだ……。バビロニアのギルガメシュとアイルランドのルーの他にも、ギリシャのペルセウスとかオイディプスも捨て子だけど立派に育つんだよ。」


「捨て子か。」


「そう。それに……僕も、そうなんだ。」


 クウは私の正面から抱きついてきた。かすかに震える小さな背を撫ぜてやりたくも思うが、狼の手ではそれも叶わなかった。




2021.8.16




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『番外編 バードの歌』赤鬣の魔女と渦巻きの結び目の関連作

【参考資料】シャムロックの一葉

【詩】王の圧政への風刺・公僕の嘆き

【詩】フィネガンの黄泉返り

ネタバレもあるかもしれません。元ネタを知りたい方は随時、ネタバレがお嫌いな方は完結後にお読みください。

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