17 月夜と愛
ヒースの小丘の開けた空に、月が輝いていた。もつれるように混在して咲くヘザーの甘い香りが、静かな闇夜に漂っていた。いつの間にかウィルオウィスプは光を消し、私はクウに抱きしめられていた。
秋の夜の肌寒さから守るように、隙間なく密着したクウの体から伝わってくる暖かさが、先程までの耐え難い胸の痛みを弱めてくれるようだった。
それでも私達の問題は、まだ何も解決していない。どんなにクウが家族を求めていても、私が人の身のままクウの家族になるわけにはいかないのだ。だが狼やカラスの姿でクウのそばにいることならできると思う。
どうやらクウはルーのことが嫌いなようだが、ドルドナと村のことを考えると、ルーの協力なしでは大樹の家とレンスターの地を行き来するのは難しいだろう。
孤独に押しつぶされようとしているこの青年に、なんとか冷静に話を聞いてもらわなくては。
「クウ……。あの、話を……」
「どうして逃げようとしたの?」
私は逃げないように拘束されているようだ。確かにこのまま狼に変身することはできない。カラスならばいけるような気がするが、この温もりを手放すのは惜しい気がする。
「……魔女が、高潔な騎士様のそばにいるのは相応しくないから。」
「そんなこと?」
拘束の手が少し緩み、先程と同じように目を丸くしたクウの顔が見えた。
「そんなことじゃない! 上王に仕える騎士団長様が、村を追い出されるような魔女のそばにいては障りが……」
すると再び手が強まり、今では遥か上にあるクウの顔が私の膨らむ髪の中に伏せられた。
「……僕の魂は親に捨てられるような存在だよ。今世でも弟のようにそばにおいて慈しまれて育ったわけじゃない。信じてた上司に暗殺されそうになったし、所属していたフィアナ騎士団は構造改革とやらで解散だよ。」
「そんな! そんなの、クウのせいじゃないだろ?」
「だったらあなたが魔女なのも、村を追い出されたのもあなたのせいじゃないでしょ? 魔女刈りみたいなかんじなの? 魔女って大体言いがかりでしょ? 魔法使いが優遇されて魔女が弾劾されるなら、魔法使いって名乗ればいいんだよ。魔術師でも魔道士でも、名乗ったもの勝ちだよ。」
「名乗ったもの、勝ち?」
「そもそもが職業でしょ? ……土魔法が使える漁師、緑の魔法が使える食堂店主、火の魔法使いの洋服屋。別に魔法を使って就職しなくちゃいけないわけじゃないんだから、嫌なら転職すればいいんだよ。僕は結構何でも魔法使えるけど、職業は騎士だよ。廃業寸前だけどね。」
「廃業……。魔女は生まれじゃ……。あぁ、でも……淫魔も森の魔女も、名乗ったもの勝ち?」
「淫魔? ……あなたには、クウァルの妻とだけ名乗って欲しいけどね。それで、あの……」
それまで饒舌に語っていたクウが、急に落ち着きをなくして目を泳がせた。
「どうしたの?」
「あの……今更なんだけど。……あなたの名前を聞いてもいいかな?」
本当に今更だった。私は名前も知らないままに求婚をされていたのだ。……しかし私には堂々と名乗るべき名がなかったのだから、クウだけを責めることはできない。
「私の名前……。私は、魔女と呼ばれている。その前は髪が赤いのでマッカと。その前は髪が赤茶色だったからアカチャ。……前世では主にヴァハと呼ばれていた。」
「そう……。じゃああなたに、愛する妻に僕から最初のプレゼントをあげる! あなたの名前は……マーナ。マナは前世では愛っていう意味だよ。愛しいっていう意味もあるんだ。」
きっと今私は微笑んでいるのだろう。この生で初めて貰った意味のある名前。外見を表しただけではない、自分だけの名前。生活に最低限必要なものでも、物々交換でもない、初めての贈り物。
「私の名前……。うれしい。クウ、クウァル。ありがとう!」
クウが体を離すと、すっと冷気が体を巻き取った。思わず顔を上げてクウの顔を見上げると、彼の左手が私の髪を撫で、うなじに手を当てられた。右手の指先が私の額を撫で、剣だこのある大きな手のひらが私の頬を優しくを包んだ。
「愛しいマーナ。この赤い髪も、灰色の瞳も、かわいい唇も。そしてこの折れそうに細いうなじも。全てが愛しくてたまらない。」
「私はお前の青い目で見られると、胸が苦しくなってたまらなかった。」
クウはその目に私が写って見えるほどに近づいた。しかし月明かりの下その瞳は暗く陰り、伏せられた長いまつげで私が今どんな顔をしているのか確認することはできなかった。
「……会えない間もずっとマーナを想っていたよ。スコランと話していると、不思議とあなたが思い浮かんだ。羽ばたいたブランの香りは、マーナと同じ甘さだった。」
私はクウに3つの姿のことを秘密にしている罪悪感で、今までとは違う痛みが胸を刺した。
「それは……」
クウは私の頬を優しく撫でながら微笑んだ。
「……きっと僕はマーナの欠片を欲していたんだ。ほんの少しでもあなたに近付きたかった。本当は僕は家で本を読む方が好きだったけど、マーナに会うために必死で一人前の騎士になれるよう頑張ったんだ。……だからマーナ、お願いだから僕を好きになって。」
少しずつ少しずつ。あの時の小さなクウが狼の私に近づいたように、立派な騎士になったクウの顔が人の身の私の顔に近づいてきた。少しでも身じろぎすれば、きっとクウは私を逃してくれただろう。……私はそれをしなかった。
月が中天に掛かる頃、私とクウは口づけをした。
「……マーナの病はきっと恋だよ。胸が苦しくて痛くなるような恋は、僕もずっとマーナにしているから。恋の病を治すには、結婚して家族になって愛し合えばいい。二人で同じ家に住んで、穏やかな毎日を過ごせば、その病はきっと完治するよ。」
「そうなのか……」
恋、などというものは、今までの私のどの生にも存在しなかった。
自らの連なる一族、自らの収める国・領民、同じ家に住む家族・使用人。そういったものに対する感情は、庇護すべきものとして、我が子のように愛していたと言ってもいいかもしれない。
しかしこの耐え難い激情は……。すべきこととして夫を求めるのではないこの感情は……。
私はこれを知るためにこの世界に転生したのかもしれない。愛を知らないクウの孤独な魂と、恋を知らない私の孤高の魂は、時を超え島を超え世界を超え、ここで出会う定めだったのかも知れない。
「僕の騎士業は廃業寸前で未練もない。マーナの魔女業は続けても続けなくてもどちらでも問題ない。僕たちが結婚するのに、まだ何か問題があるかな? ……あいつのことは決闘で倒してもいいよ。あぁ、野蛮で好きになれなかったけど、僕はこのために騎士道を極めたのかも知れないな。」
私が思わずクウの胸を押し顔を見上げると、再び隙間なく抱きしめられてしまう。
「……そんなにあいつのことが好き? 愛してるの? 僕とあいつと、どっちと結婚するつもり?」
「いや、あの、ルーは親類だから。またいとこだから。」
「……随分遠い親戚だね。でも愛してて、滞在ではなくあの家に住んでるんだよね? ……まさか二人は同じ寝室を?」
「いや、違う! ない! あいつは困った押しかけ親戚で、憎めない弟分なだけだ! ……どうしてクウはそんな勘違いをしてしまったんだ?」
生き物の声もしない静まり返ったこの森でも、身を寄せ合っていなければ聞き取れないほど小さな声で、クウは細々と説明を始めた。
「昼間マーナの家を訪問した時、あの夫婦ともあいつとも、マーナはとても親密だったから……。僕はあれほどあなたに会いたかったのに、マーナは僕に気付きもしない。とてもあの場に居続けることができなくなって……。それにあいつを愛してると、はっきり言われたから……」
私はなんと馬鹿だったのだろう。そもそも捨てられた過去を持つ孤独な少年に、あの家族の楽しげな会話を聞かせてしまったからこそ、ここまで追いかけて来たはずだったのに。ルーへの家族愛を伝える前に、せめてクウへの親愛を伝えるべきだったのだ。
「私は……自分の気持ちがよく分からなくて。ずっと苦しかったこの気持ちが恋だとは知らなくて。それでもずっとクウに対しては、愛すべき友人だと感じていたよ。」
「……たった一度しか会っていないのに、マーナも僕にそう感じてくれていたの?」
私はまた失言をしてしまった。
「あ、ああ。スコランからも話を聞いていたし、ブランからも美しい騎士に成長したと聞いていたから。」
「ブランは友達のカラス、だよね? スコランは聖獣かと思ってたんだけど、飼い狼だったのかな?」
「あ、ええと……スコランもブランも友達の……使い魔、みたいな。聖獣かどうかは分からないけど、牛のドルドナもいる。」
「そう……。ところでマーナは母親が行き倒れ出産で、父親は分からないんだよね? どうしてあいつがまたいとこだって分かったの?」
「え? あ、それは……」
クウにもルーにも、私が前世持ちの転生者だとはまだ話していない。過去生も全て人であったならよかったが、人外であったり彼らにとって神話の時代であったりというのは、知らないほうが幸せなのかもしれない。
あ、しかしルーには鳥神の元同業者とか言われていた。鳥神め、勝手に人の情報を垂れ流しやがって。どこまで話したか聞かなくては、話が通らないではないか。
「……どうしたの? やっぱり本当は赤の他人とひとつ屋根の下に生活してたってことなのかな?」
クウがじっと私の顔を見つめながら問いかける、その瞳の色は暗い。
「ク、クウ? なんだかちょっと怖いんだが……」
「僕はね、覚えてる限りの人生であなたが初恋なんだよ。しかも14年間全然会えなかったし。こじらせても仕方がないと思うんだ。……僕と会わないようにスコランを仕向けたのもマーナなの?」
私はあまり……言いたくなかったが、正直に話すことにした。
「いや、私は……淫魔だ、誘惑の魔女だといって村を追い出されたから、大切なクウに悪影響を与えてはいけないと思って。」
「マーナの誘惑は大歓迎だよ。淫魔でも妖魔でも、あなたでありさえすれば、大切と思ってそばにいてくれるなら、なんでも構わないよ。……でもそうか、僕たちの仲を阻んだのはその村の人間なんだね。分かった、明日にでも……」
クウから非常に悪い気配が、感じたことのないような黒い魔力が漏れ出ているような気がした私は、慌てて話を変えることにした。
「クウ! もう夜中だ。風邪を引いてしまう。今から家に帰るのもなんだから、その先にある薪小屋に行こう。ボロボロだけど中身はもう空っぽだから、入れば風くらいは防げるさ。」
「……そうだね。僕は浄化魔法も結界魔法も使えるし、四次元バックにはそれなりに装備もあるから大丈夫だよ。うん、早く行こうか、マーナ。」
小丘に彷徨い出た鬼火を回収しないまま、傾いた月を背に、私とクウは古びた薪小屋へ向かった。そうして吹き荒ぶ風と寒さから逃れるべく、二人寄り添って朝までの時を過ごしたのであった。
2021.11.7