【う】うなじとつむじ ②
大きく深呼吸をして気持ちを切り替えてさらにページをめくっていると、千尋がお風呂から上がってきた。ほんの少しだけれど表情が緩んでいる。
「ここ、座って」
自分の隣を示して言う。千尋はおとなしく従った。
何か食べるかと尋ねると、黙って首を横に振る。そしてノートにそろりと手を伸ばし、とある場所を開いた。
そこは、1枚だけページが破り取られていた。
「……今日、ね……」
たどたどしく、時に自分が何を話しているのかわからなくなりながら千尋が説明してくれた内容はこうだった。
その日、ある取引先から連絡があり、商品が一桁少ない数で納品されていることが発覚した。百個のはずが十個ならまだよかったが、一万個のはずが千個しか納品されていなかったと言う。その発注をしたのは千尋だった。
もちろん上司はカンカンで、営業所全体で対応に当たった。巻き込まれた同僚たちは、迷惑でたまらないという感情を一切隠そうとせず、ことあるごとに千尋に怒鳴り、走らせ、目の前で大きなため息をついた。
けれど実は数を間違えたのは、千尋ではなく同僚の一人だった。その同僚の指示で、千尋が発注したらしい。しかも千尋のノートにはその証拠が残っていた。
破り取られたページの次のページには、たしかに「1000」と跡が見える。高い筆圧で書いたせいか、次のページにまでくっきりと跡が残っていた。
なんとか事が落ち着いたのが21時半過ぎ。同僚たちが悪態をつきながら帰宅する中、千尋はノートが無くなっていることに気付いたという。
そのノートが無いと、千尋はその日何をしたらいいのかを整理することができない。これまで上司や同僚から注意されたことも、そのノートが無いと思い出せない。
誰もいなくなったオフィスで、一人残ってノートを探した。やがて男子トイレのゴミ箱の中にノートを見つけた。拾って中を確認すると、例のページが破り取られていた。
千尋は人からバカにされても、その人を責めることはない。全部自分がダメなせいだから当然だと思っている。今回のことも、
「たぶん、きっと、……俺の、俺が、きき、ききまちがえた、んだと、思う」
と、同僚を責める発言は一度もなかった。ましてそのノートを証拠に自分だけの責任ではないと上司に訴える気など全くないことは明らかだった。
それに、もしもそれなりに仕事ができる人だったら、同僚の指示がおかしいことに気付いたのではないだろうか。気付いて確認していれば、今回の事故は防げたかもしれない。千尋に全く責任がないわけではないと思う。
けれど過程がどうあれ、千尋のノートは破り取られ、トイレに捨てられていた。
今日一日でどんなに傷ついただろうと視線をノートから千尋に移すと、
「ご……ごめんね」
と千尋が震えた声で言った。
「どうして謝るの?」
「俺……クビになったら……ごめん」
乾ききっていない髪をかすかに震わせて、俯いて、千尋が絞り出す。
「こんな、俺が、結婚、俺と、したんじゃ、申し訳なくて……」
「……もしかして、それで落ち込んでるの?」
「俺、ちゃんとできなくて、ちゃんと、できなくて、こんなんで、ごめん……」
ミスをしたから落ち込んでいるのだと思った。同僚にきつく当たられたから傷ついているのだと思った。でもそれだけじゃなかった。千尋はそんな自分が情けなくて、怜に申し訳ないということでも落ち込んでいたのだ。
「ちゃんとしてたら、ちゃんと、した人に、なりたかった。ちゃんとしたかった。ちゃんとしてたら、こんな、こんな……」
自分で自分を追い詰めていく千尋がたまらなくなって、横からぎゅっと抱きしめる。
「俺が、こんなんで、ティティが……」
かわいそうだ、とかすれた声が耳に響いた。
「ロクちゃん」
呼びかけると、千尋は言葉を止めて、代わりに短い呼吸を繰り返した。
「愛してるよ」
息の間隔が整うまで強く抱いたまま、何度も愛していると繰り返した。
伝わってくる細かい震えを感じながら、怜は思った。
うまく話せないことも、少し要領が悪くて仕事に人より時間がかかることも、千尋の一面にすぎない。
怜は、千尋のいいところをたくさん知っている。
ダメな面だけが千尋ではないし、どんな千尋でも愛している。すべてを含めて愛おしい。
でもそれを懸命に伝えたところで、きっと一時の慰めにしかならない。
妻に愛されていることと、社会でうまくやれないことは全くの別問題だ。
こういう時の千尋にどう接したらいいのか、最初は怜も悩んだ。
自分にできることなんて何もないのではないかと絶望したこともあった。
けれどもう、今は大丈夫だ。伊達に七年も一緒にいない。
うなじもつむじもそのまま受け止めればいいのだ。
――千尋はつむじをうなじだと思っている。
いくらそこはつむじだと教えても、千尋にとってそこはうなじだ。
それが千尋の世界なのだ。
そこはうなじではなくつむじだと直そうとすることは、千尋を否定することになる。
――千尋は自分をダメな人間だと思っている。
いくらそれでいいと伝えても、愛していると伝えても、千尋にとって自分はたしかにダメな人間なのだ。まるで生まれた時からの設計ミスみたいに、ダメな人間だという認識を変えることができない。
だったら……
「ロクちゃん」
そっと呼びかける。
「今日は、うまくいかなかったね」
千尋の世界を否定しない。
「クビになっちゃうかもしれないね」
千尋から見た世界を一緒に見て、丸ごとそのまま受け入れる。
「どうしよう、困っちゃうね」
誰だってきっと、自分の思い込みの中で生きている。
一緒に生きるということは、その思い込みを共有することだ。
千尋にとって「つむじ」が「うなじ」なら、怜にとってもそこは「うなじ」なのだ。
否定はしない。
同じ世界を見たい。
「クビに、なったら、ごはん……食べられない」
「ね」
「い、今より、貧乏になる」
「ね」
千尋がちゃんと話せないのも、人より仕事をきちんとこなせないのも事実だ。
たとえ他にいいところがたくさんあろうと、その事実は消えない。
これからもきっと千尋は人に迷惑をかけ、その度にとても傷つくんだろう。
自分に向けられたとげのある言葉、態度、そしてそんな自分と一緒になった怜を思って、何度も何度も傷つくんだろう。
一緒に傷つこうと思う。
そんなことないよと千尋の世界を否定するのではなく、一緒に落ち込んで、一緒に怯えて、一緒に震えよう。
「どうしよう」
千尋が不安そうな顔で怜を見る。そのおでこに張り付いた一筋の前髪を怜はそっと脇に流して、そのまま頭を撫でた。
「今日は一日大変だったから、明日一緒に考えない? 今日はもう遅いし、寝ようか」
すると千尋のおなかがぐーっと鳴った。続けてぐるるーっとさらに大きな音で鳴る。
「ごはん、食べて、なかった」
「あったかいおうどん、作ってあげようか」
「……うん」
たまご、入れてほしい、と千尋がつぶやく。怜は立ち上がってキッチンに向かった。
うどんを食べて、二人でベッドに入って、何度も愛していると伝えて、眠った。
翌朝、千尋はいつものように会社に向かった。
帰って、ごはんを食べて、眠って、その次の朝もまた会社に向かった。
その鞄の中には、怜が買ってきた真新しいノートが入っていた。
さらに次の朝も、千尋はちゃんと会社に向かった。