【う】うなじとつむじ ①
◇◇
「ロクちゃん、うなじに糸くずがついてるよ」
そう言うと、千尋は「え?」と言って、つむじに手をやった。
千尋は「つむじ」を「うなじ」だと思っている。
何度間違えても、どうしても正確に覚えられない。
でも、誰にでも一つや二つ、こういう決して直らない覚え間違いがないだろうか。
まるで生まれた時からの設計ミスみたいに、
どうしても間違って覚えてしまっていることが。
**
『おそくなるから、ばんごはんはいらにい』
文章を打つのが苦手な千尋らしいLINEが届いたのが18時少し前。
珍しく会社の人に食事にでも誘われたのかなと思い、一人で夕食を済ませた。
でも22時を過ぎても23時を過ぎても千尋は帰ってこないし、連絡すらない。もしかしたら連絡を忘れちゃうほど楽しくやっているのかも、だったら水を差さない方がいいかな、とメールを送るのを我慢するのも限界を迎えた時だった。
ようやく帰って来た千尋は、見たこともないほどやつれて落ち込んでいた。
「おかえり。……何かあった?」
玄関で出迎えると、千尋は怜の問いかけには答えずその場で立ち尽くし、下唇を噛んで俯いた。
「ロクちゃん。……まずは靴、脱ごうか」
腕に手を添えて、そっと声をかけると、千尋はようやくもぞもぞ動き出し、靴を脱いだ。
「何か……あった?」
どう見たってあったに決まっているのに、そんな言葉しか出てこない。もっと気の利いた聞き方をしたいけれど、怜だって千尋の様子に若干冷静さを失っている。
とにかく座らせてやろうとソファまで連れて行き、手から鞄を受け取ろうとすると、千尋が鼻を小さくすすった。
「ん?」
何か言おうとしているのかと、手を止める。
すると千尋は鞄をごそごそと探り、一冊のノートを取り出した。そのまま怜に差し出してくる。
「見ていいの?」
千尋はこくんと頷いた。
口下手な千尋は、口が下手なだけで頭の中は理路整然としている、わけではない。思考もどちらかと言うとまとまりがない。
本の内容を要約して人に伝えたり、その日あった出来事を整理して話したりすることなどはとても苦手だ。
まして今は、ひどく傷ついて憔悴しているように見える。その原因となった出来事を怜にわかるように説明するのは厳しいだろう。
それでも千尋は、説明できないからと言って、教えてくれなかったり隠したりすることはない。嘘をつくことも決してない。
「ありがとう。見せてもらうね。でも、まずお風呂入らない? お湯、わいてるよ」
ゆっくりと言葉をしみこませるように提案すると、千尋は唇の端を小刻みに震わせて無理やり笑顔らしきものを作って、怜の言葉に従った。
お湯の音が聞こえ出したのを確認して、リビングのローテーブルの上にノートを広げる。
それはB5サイズのごく普通のノートで、どうやら千尋が会社でメモとして使っているもののようだった。
そっと表紙をめくると、見慣れた拙い文字が並んでいる。
日付、今日やるべきことなどのほかに、仕事上で注意されたことなども丁寧に書かれている。怜はそっと、その文字に指を這わせた。
何枚かめくっていくと、見慣れない文字が目に止まった。千尋のメモ書きの途中から、別の男性が続きを書いているように見える。筆圧が高く、ひどく乱雑な文字だ。
「これって……」
――トロトロしてんじゃねぇよ!
まだ付き合う前、怜は仕事で出入りしていた千尋の会社で、千尋が同僚にキツイ言葉を投げつけられているのを見かけたことがある。一度や二度じゃない。しかも同じ人からだけでなく、色々な人から同じような扱いを受けていた。千尋はいつも俯いて、申し訳なさそうに頭を下げていた。
このメモも、千尋がゆっくり文字を書くのがもどかしくなった同僚が、ノートを奪って続きを書いたのだろうか。文字から苛立ちが伝わってくる気がして、胸がグッと縮こまる。
さらにページをめくると、今度は破れた箇所をテープで直してあるところがあった。
無意識に奥歯を噛みしめた。
――どうか、誰かがロクちゃんから無理やりノートを奪った拍子に破れたのではありませんように。
――どうかロクちゃんが、このテープを悲しい気持ちで貼ったのではありませんように。
祈りながらさらにページをめくると、そこにはボールペンの先を強く何度も叩きつけたような跡があった。
一語一語言葉を区切って、大きな声で、何事かを千尋に諭しながらノートをペンで叩く姿が思い浮かぶ。そのへこみは数ページ先まで到達している。
怜はそれを裏側から指で押し、へこみをならそうと試みた。へこみはしぶとくて、なかなか消えてくれない。立ち上がってボールペンを取って来て、丸いノックの部分でグイグイ押す。何か所もあるへこみ全てを、一つ一つ力いっぱい押して、丁寧にならした。
――泣かない。
千尋は一度だって、会社を休んだことがない。会社に行きたくないとすら、言ったことがない。
千尋は頑張っている。自分が泣くのはおかしい。
何度も自分にそう言い聞かせながら、跡形もなくへこみがなくなるまで、怜は唇を噛みしめながら同じ動作を繰り返した。