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【い】いざという時の名前の呼び方 ②

「ちょっと想像してみて。たとえば私が事故に遭って、病院に運び込まれたとするでしょ。そして瀕死の状態のところに、ロクちゃんや両親が駆けつけるの」


「うん」


「ロクちゃんは私の命をつなぎとめようと、私の胸にすがって必死に呼びかけるよね。『ティティ! ティティ!』って」


「うん」


「それを聞いたまわりの人たちは、『何この人、変なあだ名……』って引くよね、きっと」


 千尋はじっとその場面を思い浮かべて、やがて「ははっ」と声をあげて笑った。


 窓から差し込んだ陽の光が横顔にきらきらと散る。すごく綺麗で、一瞬、何もかもを忘れて見とれた。


 千尋の顔立ちは派手ではない。「地味でさえない顔」と本人は言うけれど、怜はとても好きだった。たしかに特別かっこいいわけではないし、人目を引く顔でもない。けれど大袈裟な作りのパーツがない分、バランスのとれた丁寧な顔立ちをしていると思っていた。


 吸い込まれるように見つめていると、千尋が不思議そうな顔で怜を見た。はっと我に返って言葉を続ける。


「この名前は好きだけど、状況によってはちょっと恥ずかしいよね。私も恥ずかしいし、呼ぶ方のロクちゃんも恥ずかしいでしょ?」


 瀕死のパートナーの名を叫ぶという緊迫した場面に『ティティ』はきっと間抜けに響くはずだ。


「恥ずかしくな……やっぱり、ちょっと恥ずかしい」


 嘘をつかない千尋は、顔を赤くして正直にそう答えた。


「だからってさ、そういう場面になって急に本名で呼ばれたって、意識不明の私には届かないと思うの。今さらロクちゃんに本名で呼ばれたって自分が呼ばれている気がしないし。それにロクちゃんもティティじゃなきゃ心を込められないでしょ?」


 千尋は真剣な顔で考え込んだ後、「うん」と頷いた。


「よく考えてあだ名をつけるべきだったね」 


 あだ名をつけた時には、先のことなんて全く考えていなかった。


「このままじゃ私『ティティおばあちゃん』になっちゃう」


「あははっ」


「ロクちゃんは、『ロクちゃんおじいちゃん』。あ、『ロクおじいちゃん』」


「いいね。ロクおじいちゃん」


「いいかな」


「うん。ティティおばあちゃんも、かわいい」


「でもやっぱりちょっと恥ずかしいよ。それにいっそおばあちゃんならかわいいで許されるかもしれないけど、例えば五十歳のおばさんにティティはないよね」


 そこまでくると、もう痛々しい。


 千尋は少し考え込むと、「じゃあ、今日からまた、本名にもどす?」と訊いてきた。怜は「うーん……」と低く唸った。


 実はそうすることも考えてみた。もう三十歳になろうというのに(千尋なんてもう三十三歳なのに)、いつまでも高校生カップルみたいな浮わついたあだ名で呼び合うのもどうかと思う。でも……


「私は戻したくないな。いつまでも『ロクちゃん』『ティティ』って呼び合っていたい」


 怜は「ティティ」というあだ名がが本当に気に入っていた。


 最初はかわいい響きが好きだった。


 けれど今はもう、この名前には二人の歴史がつまっている。


 千尋はいつだって「ティティ」と呼んでくれる。朝の挨拶の時も、話かける時も、頭を撫でてくれる時も、元気づけてくれる時も、褒めてくれる時も、愛してると言ってくれる時も、いつだって。


「この呼び方は、やめたくない」


 怜はきっぱりと答えた。


「じゃあ、やめない」


 千尋はあっさりとそう言って、穏やかに笑った。


「いいの? みんなの前で『ティティ!』って叫べる?」


「叫べる」


「恥ずかしくても?」


「叫ぶ」


 はっきり言い切る様子が無性に嬉しくて、怜は固い体に抱きついた。千尋が怜の頭の下に腕を通して、腕枕をしてくれる。


「じゃあ約束ね。私が意識不明になった時は『ティティ!』って呼びかけてね」


「うん。わかった。俺もね。『ロクちゃん』って」


「うん」と頷くと、千尋が怜をもっと抱き寄せた。怜も千尋の腰に手を回して胸に顔をうずめる。かぎ慣れた脳を溶かす甘い匂いを思う存分吸いこんだ。


「ロクちゃん」


 小さな声で呼びかける。


「ん?」


「ロクちゃん」


 名前を呼びたかっただけなので、ただ「ロクちゃん」と繰り返した。千尋は小さく笑うと、怜の頭を撫でて「ティティ」と囁いた。


 名前を呼ばれただけなのに、どうしようもなく幸せになった。もっと呼んでと催促して、何度も「ティティ」と呼んでもらう。千尋は名前を囁く度に、繰り返し頭を撫でてくれた。


 千尋の匂いとあたたかい陽の光に包まれていたら体中から力が抜けた。呼吸がゆっくりになって、まぶたが重たくなって、すぐに名前を呼ぶ声が途切れ途切れになる。


 顔を上げると千尋のまばたきのペースも緩やかになっているのが見えて、その動きがさらに怜の眠気を誘った。


「やばい。寝そう……」


 怜が呟くと、「ふん……」と鼻から空気が抜けるような返事が聞こえると同時に、腰に絡みついていた腕がぐっと重みを増した。千尋は完全に脱力してしまっている。


 ロクちゃん、と小さく呼びかけたけれど、もう反応はない。怜もすっと意識を手放した。


 三連休最終日はこんな具合に穏やかに過ぎた。





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