【い】いざという時の名前の呼び方 ①
◇◇
陶器が触れ合う微かな音でぼんやりと目を覚ます。アラームにたたき起こされない朝はたまらなく幸せだ。ダブルベッドの上で目を閉じたまま傍らに手を伸ばすと、無人のシーツはまだほのかにあたたかかった。
三連休の最終日。休日の朝食は千尋の当番だ。準備に時間がかかる千尋は、怜を起こすことなく先にベッドを出る。
大きく一つ伸びをしてから寝室を出ると、廊下にはコーヒーのいい香りが漂っていた。キッチンをそっと覗くと、怜の気配にも気づかないほど真剣にドリッパーに湯を注ぐ千尋の後ろ姿があった。邪魔をしたくなくて、声をかけずに洗面所に移動した。
顔を洗い、丁寧にブラッシングした長い髪をくるりとまとめてピンでとめる。軽くウェーブがかった髪はピン一つで簡単にまとまる。
ウォークインクローゼットに入って、グレーのフード付きパーカーとベージュのコットンパンツを身につけた。鏡で全身を確認し、キッチンに向かう。
「ロクちゃん、おはよう」
トースターに食パンを入れていた千尋に後ろから抱きついた。千尋より手の平一つ分背が低い怜のおでこは、千尋の肩にこつんと当たった。
「おはよう、ティティ。ごはん、もうすこし待ってね」
怜は「うん」と頷くと、ダイニングテーブルについた。両肘をついて顎を乗せ、カウンターキッチン越しに、丁寧に一つ一つの作業をこなしていく千尋を眺める。
言葉だけでなく行動もゆっくりな千尋は、何をするにも時間がかかる。小さい頃も言葉が遅かったようで、ずっと自分に自信が持てず、今でも外ではいつも俯いておどおどしている。会社でもその態度が同僚を苛立たせてしまうのか、ひどいことを言われては時々落ち込んで帰って来る。
けれど怜は、千尋のうまく言葉を紡げないところも、器用に物事を進められないところも、すべてを愛おしく感じていた。
「お、おまたせ」
不器用に盛り付けられた朝食が運ばれてくる。
「おいしそう。いつもありがとう」
トレイが目の前に置かれたのを確認し、声をかける。千尋は嬉しそうに笑った。
ゆっくり朝食を食べて、片づけを一緒に済ませ、二人でリビングのラグに横たわった。
日当たりのいいリビングは、ぽかぽかしていて他に何もいらないくらい気持ちがいい。三年前に引っ越して来たこの部屋の決め手は、まさにこのリビングだった。
気持ちいいね、と囁き合いながら、何をするでもなく二人でごろごろする。千尋が髪に触りたがったのでピンを外した。
「ティティの髪は、光にあたると、きれい」
栗色の髪を撫でたりつまんだりして遊んでいた千尋は、やがてなぜか急に焦り出し「あ、ひ、光に……あたってなく、なくても、きれいだよ」と弁解し出した。
「うん、ありがとう」
安心させるように微笑んで言う。千尋はほっと息をついて眉を下げた。
ベランダの向こうからは時折、近所の子どもたちが駆け回る楽しそうな声がする。穏やかないい休日だ。
「ねぇ、ロクちゃん。実は私、気になっていることがあるんだけど……」
「なに?」
千尋は髪から指を離して怜の目を覗き込んだ。
「私たちって『ロクちゃん』『ティティ』って呼び合ってるじゃない?」
怜が言うと、それが何?という顔で千尋が頷いた。
千尋と怜はもう何年も、このいわゆる「恥ずかしいあだ名」で呼び合っていた。
「ロクちゃん」は、それ自体は変なあだ名ではないものの、本名からかけ離れているので知り合いにはあまり聞かれたくない。
そして輪をかけて聞かれたくないのが「ティティ」。まるでペットか妖精の名前みたいで、聞いている方が赤面しそうなくらいだ。でもどちらの名前も二人にとっては大切な呼び名だった。
ロクちゃんというあだ名は、つき合い始めて間もない頃についた。
千尋が学生時代にバンドを組んでいたことを知った怜は、その見た目や性格とのギャップに驚いて、すぐに千尋を「チヒロック」と呼び始めた。やがてそれは「ロクちゃん」となって定着した。
ティティというあだ名は、二人が結婚する少し前についた。
怜が選んだウェディングドレスが「ティティアナ」という名のドレスだった。デザイナーが好きな童話の主人公の名からとったものらしい。その響きの可愛さに感激した怜は、その後メールアドレスや様々なアカウントに「ティティアナ」を使用するようになった。そんな怜を見た千尋が怜を「ティティアナ」と呼び始め、やがてそれは「ティティ」となって定着した。
怜も千尋もこのあだ名がとても気に入っていた。この世でお互いだけが口にする名だ。呼び合う度にお互いが特別な存在であることを強く感じる。さすがに誰かと一緒の時には本名で呼び合っているけれど、くすぐったくて陰で笑い合ってしまう。
そんな怜には最近、このあだ名について気になることがあった。