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【あ】飽きると人は言うけれど ④

 ただでさえ疲れていたのに、最後の出来事が追い打ちとなってさらにどっと疲れた。新品のパンプスで靴ずれもできているし、泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。


 足を引きずるようにして改札を抜けると、「ティティ」と突然後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、一人の男が穏やかな笑みを浮かべて立っている。


 白い麻のシャツにグレーのコットンパンツ姿。背が高いのに俯きがちなせいで、こじんまりとした印象を受ける。髪は目や耳を覆い隠すほどに長くて少しくせっ毛。顔は地味で、でも穏やかな笑みがよく似合う見るからに内気そうな男。


「ロクちゃん!」


 怜は呼び慣れた名を叫んだ。声をかけて来たのは、こんなところにいるはずのない夫の千尋だった。千尋は笑顔をさらに濃くして「おかえり」と囁くように言った。その声に、心が一気に落ち着きを取り戻す。


「どうしてこんなところにいるの?」


 さっきメールのやりとりをした時には、てっきり家で待っているのだと思っていた。


「ん……と、ティティを、むかえに来た」


 いつものゆったりとした口調で千尋が答える。このターミナル駅には千尋のお気に入りの大型書店がある。もしかしたらそこに行ったついでに待っていてくれたのかもしれない。


「それ、なに?」


 千尋が怜の手元の紙袋を示して言う。


「うなぎ買ってきたの」


 紙袋の中身は、浜松駅で買ったうなぎの折りだ。魚が大好物の千尋は嬉しそうに顔をほころばせると、「もってあげる」と言って、怜の手元に手を伸ばした。


「ありがとう」


 微笑んで紙袋を手渡す。そして地下鉄に乗り換えようと歩き出すと、千尋に腕をつかまれた。


「車で、来てる」


「車で? どうして?」


 駐車料金がものすごく高いターミナルにわざわざ車で来るなんて。


 不思議に思って見つめていると、「えっと……」と千尋がまごつき始めた。千尋はあまり言葉が達者ではない。もごもごと口を動かした挙句、ようやく「足が……」と呟いた。


「足?」


 反射的に千尋の足に目をやった時、自分の右足の踵にツキンという痛みが走った。パンプスでできた靴ずれの痛みだ。


 その途端、千尋の言葉の意味が理解できた。


「もしかして私が足が痛いと思ったから、車で迎えに来てくれたの?」


 千尋は真っ赤な顔でこくんと頷いた。


 今朝家を出る時、玄関で新品のパンプスを履きながら「靴ずれができそう」と呟いた気がする。千尋は微笑んで見送ってくれただけだったけれど、もしかしたらあの時から車で迎えに来ようと考えていたのだろうか。


「ありがとう、すごく嬉しい」


 感動して礼を言うと、千尋は頬を染めたままふにゃっと笑って、怜の手を取った。


 怜と千尋は結婚して六年も経とうという今でも、歩く時は必ず手をつなぐ。優しく絡んできた千尋の指には、もちろん怜とお揃いの結婚指輪が光っていた。


「駐車場まで、ちょっと歩くけど……足、大丈夫?」


 駅の雑踏を歩きながら、千尋が顔を覗き込んでくる。


「うん、大丈夫」


 本当はズキズキと痛かった。けれどいつもよりゆっくり歩いてくれる千尋に手を引かれていると、痛みが和らいでいく気がするから不思議だ。


 怜を気遣ってこちらにばかり視線を向けてくる千尋が、すれ違う人とぶつかっては「す……すみません」と何度も謝る。「ロクちゃん、ちゃんと前見て歩かなくちゃ」と注意すると、今度はバカ正直にまっすぐに前を見て歩き出した。その姿がすごくかわいくて、怜の心がふわっと温かくなる。


 隣を歩く横顔はもう何年も見続けた顔だ。いつも通り左の衿足に少し寝癖がついていて、やや俯きながら口をきゅっと閉じて、我慢できないのか十秒に一回くらい怜を見る。


 飽きない。ちっとも飽きない。見る度に愛おしくて仕方がない。


「ロクちゃん、私に飽きたなって思うことある?」


 思わず尋ねた。


「あきた?」


「そう。この顔もう見飽きたなって思ったり、理由なくうざったくなったりとか」


「ない」


 千尋は即座に否定した。


「だよね。私も」


 笑顔で答えると、千尋は親指で怜の手の甲をそっと撫でて、嬉しそうに笑った。


 何年経っても夫婦仲がとてもいいことについて職場でも度々変だと言われる。定期入れに写真を入れていたり、記念日に早く帰ろうとしたり、誕生日プレゼントを選ぼうと雑誌を熱心に眺めていたりすると「いい年して珍しいわね」なんてからかわれる。「子どもがいない夫婦は喧嘩のタネが少ないのかしらね」と、少し嫌らしい言い方をされることもある。


 でも反抗期のない子どももいるんだし、倦怠期のない夫婦くらい世の中にいくらでもいるだろう。自分たちが特別だとは思わない。


 角砂糖が溶けるような速度でつないだ手から疲れが癒されていった。少し気疲れした同窓会も、ハチャメチャだった凪子の言動も、新幹線での大失態も、靴ずれの痛みも、全て隣の愛しい男がまとう穏やかな空気の中にとろりと溶けて消えていった。

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