【あ】飽きると人は言うけれど ①
◇◇
新幹線は、後ろから乗る。
どんなに自分の席が前の方でも車両の後方のドアから乗るのが影山怜のルールだ。前から乗ると乗客に顔を見られてしまうから。
細い通路を進む足音に子どもがぐずる声とアナウンスが混じる車内には、複雑に絡み合う食べ物の匂いが濃密に漂っていて、怜は思わずきゅっと眉を寄せた。
いつだったか親友が「こんな密閉空間で食べ物を食べることに対して異議を唱える人がもっといてもいいはずだ。禁煙車ならぬ禁食車を作るべきだ」と言っていたことをぼんやり思い出す。
九月の三連休初日の今日、午後四時台最後の指定席車両は見事に人で埋まっていた。泊りがけで出かける人が多いのか、網棚はスーツケースや旅行鞄で隙間がない。
怜の席は窓際の4Eだ。やや俯きながら何度か人とすれ違い、ようやく4列目にたどり着く。隣の4Dの席には、若い男が座っていた。
席に通してもらうために「すみません」と小さく声をかけると、怜の顔を見た4Dの男は突然バネのように立ち上がった。男はすぐさま通路に出てくると、いそいそと網棚から自分のものらしき小さなスーツケースを下ろし、「お、お乗せしましょうか」と上ずった声をあげた。その手は怜の手元の紙袋を指さしている。
――こんな小さな袋、網棚に乗せるほどのものでもないんだけど……。
一瞬悩んだけれど、断るのも野暮なので曖昧に微笑んで紙袋を手渡した。やにさがった顔で袋を網棚に乗せた男は、まるで自分の部屋に招き入れるような手つきで窓際の席へ怜を誘導した。
なるべく男と目を合わせないように席に着く。男もシートに腰を下ろすと足元に小型のスーツケースを置いた。小さいとはいえ新幹線の席は狭い。窮屈そう、と申し訳なく思うと同時に、嫌な予感がむくむくと湧いてきた。
「降りる時には、声かけてください。紙袋……俺が下ろしますので」
案の定、男が話しかけてくる。
「どこで……降りますか?」
会話の糸口を探る気配に、経験豊富な怜の色恋アンテナが男の下心をキャッチした。だから怜は少しだけそっけなく「名古屋です」と次の停車駅を告げた。
「お、俺は大阪です。もし寝ていても、遠慮なく、起こしてください」
耳を赤く染めた男の言葉に、怜は途端に居心地が悪くなった。
窓際の席しか指定席が取れなかった時、隣が若い男の人だったら嫌だな、と思ったのだ。顔を見られて少しでも言葉を交わしたら、こうなるような気がしていたから。通路側の席なら誰とも口をきかずに済んだのに……。
怜は即座にある作戦を実行に移した。「ありがとうございます」と礼を言いながら左手をそれとなく口元に持ってきて男に見せる。その薬指に光る貞淑の証を目にした男は、ハッと息を飲むと怜から目を逸らして、気まずそうに口をつぐんだ。
男の反応にほっと息をついた。この「人妻アピール作戦」で男を撃退できる確率はおよそ五割。既婚者だろうがおかまいなしに口説いてくる人は結構いて、これまでにも何度か対応に困ったことがある。
怜はそのくらい男を惹きつける容姿の持ち主だった。街を歩けば必ずナンパされる。軽い男からはもちろんそうでない男からも、例えば今回のように列車の席が隣になったりすると縁を感じて猛烈にアタックされることは珍しくなかった。怜自身もこういう出会いに運命を感じて交際に発展したことが過去にはあったけれど、今はもう夫一筋だ。
男に心持ち背を向けるようにしてバッグからスマートフォンを取り出す。『今、新幹線に乗ったよ』と夫の千尋にメールを送ると、『わかった。気をつけてかえってきてね』とすぐに返信が来た。何の変哲もない文章に体が湯をかけた春雨のように弛緩する。思いのほか疲れているのかもしれないな、と怜は深呼吸とともにシートに身を沈め、目を閉じた。