【プロローグ】
**
――六年前の十月二十日。
結婚式の前日だった。
婚姻届を提出して、二人はついに夫婦になった。
「どうしよう。すっごく幸せ!」
妻が笑顔をはじけさせる。
「お、俺も!」
夫も喜びを抑えきれない顔で同意した。
役所から続く銀杏並木には、黄色い葉っぱがひらひら舞い踊り、まるで二人を祝福しているように思えた。心が弾むのを止められない二人は、何度も立ち止まっては一眼レフで写真を撮り、その度に顔を見合わせて笑顔を交わした。何を撮っても楽しくて、どんな会話も幸せだった。
「そうだ、ロクちゃん。私の名前呼んでみて」
カメラを下ろして妻が言う。
「なまえ?」
「そう。私の新しい名前」
夫は何度かまばたきをすると、みるみる顔を赤く染めた。
「ちょ、ちょっと、待ってね」
赤い顔を隠すように大きな手を顔にかざし、男はみっともないほど狼狽えた。
言葉を発しようと息を吸い込んで、池の鯉みたいに口をパクパクさせると、やがて肩を落として大きく息をつく。
並木道の途中で急に立ち止まって、何やら繰り返し肩を上下させている背の高い男を、通行人が不思議そうに見ては通り過ぎて行く。妻はその横に寄り添って、じっと男の言葉を待っていた。
「か……か、……影山、怜さん」
ようやく発せられた消え入りそうなほど小さなその声は、風に乗って妻の耳にそっと届いた。
大好きな人の名字になるこの瞬間を待ち望んでいた妻は、「はい」と丁寧に返事をした。夫はもう一度「影山、怜さん」と呼んだ。
影山怜さん
はい
影山怜さん
はい
夫は何度も妻の名前を呼び、妻は何度も返事をする。歌うようなその声は、色づいた街路樹の葉を揺らしながら澄んだ空へと舞い上がる。
「世界で一番、素敵な名前」
嬉しそうに妻が言うと、夫は「俺も、そうおもう」と嬉しそうに返した。
手をつないで、再び歩き出す。すると、ゆったりとしたペースで歩を進める夫の足元に、ふと妻が目をとめた。
「ロクちゃん、見て」
夫の足元には一匹の子ネコがまとわりついていた。
「わぁ。ネコだ! か、かわいい……」
大のネコ好きの夫はとろけるような声で言うと、突然その場にしゃがみ込んで、子ネコの頭を撫で始めた。
夫は一つのことに気を取られると、他のことがおろそかになる。道の真ん中で突如障害物と化した男に自転車のベルが鳴らされたけれど、夫がそれに気づくことはない。
こんな時、妻は怒ったりしない。あきれたりもしない。夫のどんなところも全部愛している。
妻は夫の肩を叩き、「ロクちゃん、写真撮って」とカメラを手渡した。そして子ネコを抱き上げて銀杏の木の下に向かう。
「ここで撮ったら綺麗だと思わない?」
誘うように言うと、カメラを受け取った夫は妻に引き寄せられるように道の端の木に歩を進めた。その背後を、苛立たしそうにサラリーマンが速足で通り過ぎる。
夫が妻に向けて一眼レフカメラのシャッターを切る。すると子ネコはビクンと身体をこわばらせ、妻の腕から逃げ出してしまった。
「あ、逃げちゃった」
「びっくり、させちゃった、かな」
穏やかな表情で子ネコを見送る夫を、妻は優しい目で見つめる。その頭に銀杏の葉がひらりと一枚落ちてきた。夫はそれを穏やかな手つきで取ると、「ティティの写真、もう少し、とらせて」と言って再びシャッターを切り始めた。
「ティティ、すごく、きれい」
まるでひとり言のように囁き、何度もシャッターを切る。妻が笑顔を深くすると、シャッター音の速度も上がる。
やがて夫がカメラから目線を上げ、「夢みたいだ」とつぶやいた。
「ロクちゃん」
妻が夫のそばに寄り、その頬にそっと手を当てた。
「どうして急にそんな悲しい顔するの?」
今日は二人とも朝からずっと笑顔だったのに、カメラから顔を上げた夫は今にも泣き出しそうな顔をしていた。言葉を探して細かく震える唇を静かに見守っていると、「俺……」と音を並べ出した。決して流暢とは言えないそのたどたどしい言葉を、妻は一つ一つ丁寧に聞いた。
「俺、ティティ、俺、俺、こんなん、だけど、本、本当に、ありがとう。俺、一生、一生けん命、ティティの、こと、大切に……する、絶対」
一文字聞くごとに、胸に愛おしさがあふれる。
聞き終えた妻は、今この時、この瞬間が一番ふさわしい気がしてそっと口を開いた。
「私、麻生怜は、影山千尋を夫とし、健やかなる時も病める時も、死が二人を別つまで、愛し抜くことを誓います」
正確な文言はわからなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。これから先どんな時も、死が二人を別つまで夫を愛し抜く。それを今のこの瞬間、自分の言葉で誓いたいと思った。
「お、俺も、ちかいます」
夫も震える声で答える。二人で顔を見合わせて笑った。すると夫は、おどおどと周りを見回し、「ちゃんと、したのは、明日、ね」と言って妻の手を取って、その甲に唇をそっと乗せた。
キザな誓いのキスはなかなか終わらなかった。妻の手を宝物のように捧げ持ち、唇を当てて、何かを祈るように目を伏せている男。並外れた人見知りで他人とまともに口もきけず、 要領の悪さを周りからバカにされ、自分でも己の不出来さに打ちのめされ、身の程をわきまえるかのように縮こまって生きている、この世でたった一人の愛おしい男。
「愛してるよ」
思わずそう告げると、夫はようやく顔を上げて「俺も、愛してる」とささやき、妻の手を握ったまま嬉しそうに笑った。
二人はそのまま手をつないで、再び並木道を歩き出した。
幸せの絶頂だった。
永遠にこの幸せが続くと思っていた。
まさかこの誓いの言葉の意味を恨む日が来るなんて。
自分の愛し方は正しかったのかと叫ぶ日が来るなんて。
この時の二人は夢にも思っていない。
「しあわせ、だね」
夫が顔全体で笑って言う。妻も大きく頷いた。
「ロクちゃん、これからもよろしくね」
「うん。俺も。よろしく、お願いします」
何を見ても楽しくて、誰かに分けてあげたいくらい幸せだった。
まぶしい光をふりまいて始まった二人の結婚生活は、この後、七年という思いもよらないほど短い年月で幕を閉じることになる。
――これは二人の、最後の一年間の物語。