清楚美人の後輩がピアスを開けたことに、僕だけが気づいている
夕焼けが嫌いになりました、と。
そう、彼女が言った。
* * *
大鳥空乃。一年、女子。美術部唯一の後輩であり、口を開かなければ『清楚』という言葉がふさわしいような女の子だ――と、思っていた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
美術室に入ってきた空乃に、反射のように自然と挨拶を返す。そうしてから彼女のほうを見て、僕は思わずぎょっとしてしまった。その表情がいかにも不機嫌そうだったから、というわけではない。理由は知らないが、空乃はここ最近いつも不機嫌そうだ。
……僕がぎょっとしたのは、髪の隙間から覗いた耳に、この前会ったときにはなかったものが存在していたからだった。
金色の、小さな丸。すぐに髪で隠れてしまったが、見間違えでなければそれは――ピアス、だった。
「空乃、ピアス開けたの?」
この学校はピアスが禁止されている。一応優等生として通っている空乃が、そんなことをするなんて思わなかった。
眼鏡を指で上げながら訊いた僕に、彼女はなぜか、絶望したように顔を歪めた。
「なんで」
「え」
泣きそうな声だった。
歪めた顔に怒りを滲ませ、空乃は僕のことをキッと睨みつけてくる。
「……なんでっ! なんで先輩が最初に気づいちゃうんですか!」
美術室の入り口前でへたり込んで、彼女は顔を覆った。同時にうつむいたせいで、黒く長い髪が完全に彼女の表情をわからなくさせる。
小さく聞こえる嗚咽と、小さく震えるその体に、「えええ……」と声が出てしまった。何この状況。
空乃の性格からして人前で泣くのは嫌だろうし、僕なんかに慰められるのも嫌だろう。となれば、僕が取るべき行動は自ずと決まる。
空乃が塞いでいない反対側のドアに向かい、出ようとしたところで「先輩?」と声が追いかけてきた。こっち見てないし僕の行動は見えないと思ったんだけど……まあ確かに、無言で出ていくのも感じ悪いか。
「ちょっと外出てるから、泣き止んだら教えてよ」
「……バカじゃないですか!」
「ええー……」
涙をぼろぼろ零しながら、それでも空乃はまた僕を睨む。
「かっ、可愛い後輩が、自分のせいで泣いてるんですよ!?」
「お前は確かに可愛い後輩だけど、なんで泣いてるの? 僕のせいなの?」
「……ふつう! 最初にわけを訊くじゃないですかっ! 何無言で出て行こうとしてるんですか、めんどくさがらないでください!」
面倒だと感じていたのがばれていたらしい。
仕方ないなぁ、と足を空乃のほうに向け、まだ床に座ったままの彼女のもとへ歩いていく。
傍にしゃがみ込むと、赤くなった目で僕を見上げてきた。その拍子にまた、ピアスが見える。耳たぶがわずかに腫れていて、痛々しく感じた。
細くて長い彼女の黒髪は、先のほうだけ少しウェーブがかっている。普段はその髪で隠れているのだが、こうやって動くと今みたいに普通に耳が見える。ピアスをつけるような耳たぶなら尚更見えやすい。
なのに彼女はさっき、僕が最初に気づいたと言った。
「……ピアス、隠してたの?」
「だって、校則違反じゃないですか」
正論だが、正論だからこそそんなふうにあっけらかんと言うのはおかしいと思う。
「……るみに、気づいてほしかったんです」
るみというのは空乃の幼馴染だった。僕は彼女のことを安槻さんと呼んでいる。前にるみちゃんと口にしたらめちゃくちゃ怒られたもので。誰に、とは言わなくてもわかるだろうが、目の前のこいつに、である。
「お前のことだからどうせ、安槻さんの前ではわざとらしく髪の毛耳にかけたりとかしてたんじゃないの?」
「しました」
淡々と、というふうを装っているが、声には未だに涙が混ざっていた。
「ふーん……したのに気づかれなかったわけか」
空乃は安槻さんのことが大好きだ。彼女と一緒にいて「るみ」という単語を聞かなかった日はないし、僕との会話の節々からも、安槻さんに対する独占欲のようなものが伝わってくる。たまに美術室に連れてきたときなんか、いやお前が連れてきたんだよな? と言いたくなるくらいに僕のことを警戒している。
安槻さんはそんな空乃にうんざり、とまではいかないが、めんどくさそうにすることは度々あった。とはいえ安槻さんと空乃の仲は良く、彼女が空乃のこんな大きな変化に気づかないとは思えなかった。
「安槻さんと喧嘩でもしてるの?」
「してません!」
即座に否定して、けれど空乃は「でも」と力なく涙を拭いた。
「まさかるみが、気づいてくれないなんて」
「だね。僕でも気づいたのに」
じとっとした目で見られたが、さすがにもう八つ当たりはやめてくれるらしい。小さくため息をついて、空乃は軽く自分の耳に触れた。正確には、そこについているピアスを。
「で、お前がピアス開けるとか、どんな心境の変化があったわけ」
「……別に、何も」
拗ねたような口調だった。空乃は立ち上がり、スカートを乱暴に払う。僕も同時に立ち上がった。
「先輩に言うようなことは何もありません」
「八つ当たりを受け入れてるんだから、教えてくれてもいいと思うんだけど」
「それはありがたいですけど、私だって黙ってるじゃないですか。先輩の猫のこと」
「猫なんて飼ってないよ」
白々しく微笑む僕に、空乃は物言いたげな目を向けてきた。
空乃が言う『猫』は『猫かぶり』の猫だ。まあでも、猫というほどじゃないと一応主張しておく。他人となるべく円滑にコミュニケーションを取ろうと気をつけているだけだ。
空乃に対する態度は完全に素なわけだが、今のところ、この高校で素の僕を知っているのは空乃ともう一人の友人くらいしかいない。
「私にはとーっても大きな猫を飼ってるような気がするんですけど」
そう言う空乃だってたぶん、ここまで遠慮なく言える相手は安槻さんと僕くらいだろう。
お互い最初から素を見せていたわけではないが、それでも徐々にボロが出始め……というか、こいつしかいないなら別に自然体でいてもいいのでは? と部活中に意図的にボロを出し始めて、今の状況に落ち着いた。
「……んー、それはお互い様ってことで置いといて」
元々座っていた席に戻りながら、話を変える。
「最近機嫌悪かったのとなんか関係あんの?」
「……先輩、きらいです」
「そりゃどーも」
こいつの嫌いは、子供の言うばーか! と同じくらいの意味合いだ。だからさらりと流せば、空乃はふてくされる。
「なんなんですかその全部わかってますよ的なの」
「わかってるわけないじゃん」
空乃との付き合いはもう半年だが、まだ半年、だ。その半年の中で互いに遠慮しない仲にはなったし、知っていることも増えはしたものの、まだまだ知らないこと、わからないことのほうが多い。
椅子に座り直して、目の前に用意していたキャンバスに視線を留めておく。たぶん空乃は、こういうときには見られないほうが話しやすいから。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど」
けど、言いたいからわざわざピアスを隠そうとせずに入ってきたんじゃないの。
暗にそう言ったのが伝わったのか、空乃はまた「きらいです」と幼い口調で言った。
「嫌い嫌い言いすぎ」
「……そんな言ってません」
「深い意味はないってわかってても、ちょっとは傷つくよ」
「…………」
ちょっとならいいじゃないですか、とでも言われるかと思ったが、意外にもばつが悪そうに口をつぐむ。ちらっと空乃のほうを見れば、彼女は数瞬視線を泳がせてから、短く息を吐いた。
「すみません」
「何があったか話せば許す」
空乃が、き、と口を動かしかけて止まる。きらいです、と言う代わりに、軽く睨んできた。せっかく僕が話しやすいようにしてやったっていうのに。
視線をキャンバスに戻して、そのまま無言で空乃が話し始めるのを待つ。時間はたっぷりあるから、急かす必要もない。
しばらくして、空乃はぼそぼそ話始めた。
「……るみに、彼氏ができたんですよ」
苦々しく、空乃は言う。
「同じクラスの人です。夏休み前くらいから急に仲良くなって、夏休みも何回か遊びに行ったみたいで、夏休み明けには……すでに怪しくて……ついにとうとう、この前、付き合い始めたんです。私のるみが!」
「安槻さんはお前のじゃないよ」
「早すぎるじゃないですか!」
僕の言葉をスルーして、空乃はますますヒートアップする。
「え、早い、早いですよ。誰の許可を得て私のるみを好きになって、告白して、ちゃっかり付き合い始めてんだって話です! それもたった数ヶ月で!? 十年百年かけたって絶対許したくないくらいなのに!」
「人を好きになるのに許可なんていらないけどな」
「だからちょっとでもるみに気にしてほしかったんです」
さっきから無視しまくるなこいつ。
……ともあれ、これで繋がった。安槻さんに気にしてほしかったから、空乃はピアスなんか開けたわけだ。少々思考がぶっ飛んでいるような気がしないでもないが、これがこいつの通常運転なのは理解している。
そろそろ直視していても話し続けてくれそうだったので、体の向きを空乃のほうへと変える。空乃は少しだけ気まずそうにしたが、それでも続けた。
「……私らしくないことをしてみたら、るみが心配してくれるんじゃないかって思ったんです」
「お前ってほんとめんどくさいよな」
「そんなの私が一番知ってます」
しみじみ言うとむっとされた。……難儀だよなぁ、ほんと。
空乃が安槻さんに向けているのは恋情ではなく、友情だ。そこは勘違いしないでほしいと以前空乃から念押しされている。しかしここまで来ればもう、そういう意味で好きなほうが楽だったんじゃないかな、とまで思ってしまう。
「まあ、見た目だけは清楚っぽいんだから、ピアスつけるのもギャップあっていいんじゃない? それも可愛いよ。似合ってる」
耳を軽く指差せば、彼女はほんのちょっと黙り込む。
「……ただの丸型の、ファーストピアスですよ」
ぶっきらぼうに答えて、空乃は絵を描く準備を始めた。ようやく部活動をする気になったらしい。十中八九照れ隠しだろうけど。
ばれないようにこっそり笑って、キャンバスに向き直る。
――この生意気な後輩のことが、僕はかなり、好き、だったりする。
* * *
空乃のことが好きだと気づいたのは、いつのことだっただろう。ある日ふと、ああこいつのこと好きかも、と漠然と感じたことは覚えているのだが、時期までは記憶にない。
それは僕にとって、あまりに自然なことだったのだ。ああそっか、そうなんだと、ただ胸に落ちていった。
とはいえどういうところが好きなのかと問われても、首をかしげるしかない。めんどくさくて生意気で、幼馴染の女の子に異様に執着している相手をどうして好きになるのか。趣味が悪いと自分でも思う。
まあそれでも案外、あいつにも可愛い部分はあるのだ。
まっすぐな褒め言葉に弱いところとか、いつも自信たっぷりで調子に乗りやすいのに、ちょっとボロを指摘すれば途端にしょんぼりするところとか。チョコが好きで、持ち歩いているそれをよく僕にも分けてくれるところとか。食べたいならあげてもいいですよ、とにっと笑って差し出してくるのも、こいつはほんとめんどくさくて可愛いなと感じる。
……めんどくさいから可愛いとか、やっぱ僕趣味悪いよな。
「暗くなったなぁ」
空乃と二人で帰路につきながら、空を見てつぶやく。十月になったばかりとはいえ、さすがに最終下校時刻にもなると日は暮れていた。
「……夕焼けは嫌いなので、見ないで済むのはありがたいですね」
「あー、なんか寂しくなるからとか?」
「全然違います」
ばっさり言われて、そーですか、と苦笑いを返す。
それきり無言になる空乃に、これはわけを聞いてほしいやつなのかなと判断する。夕焼けが嫌いだなんて今日初めて聞いたし、たぶん安槻さん関連の愚痴だろう。
「なんで嫌いなの?」
「……私も前までは好きだったんですよ」
「ってことはやっぱり安槻さんのせいで?」
「やっぱりってなんですか! るみのせいじゃありません、るみのアレのせいです!」
彼氏でも恋人でもなくアレ呼ばわり。
……こいつのことだからまあ、安槻さんとその彼氏の前じゃ、ちゃんとそんなに嫉妬を見せないようにしてるはずだ。空乃にとっては安槻さんに嫌われるのが何よりの苦痛だろうから。だから彼女に嫌われる危険を冒さずに、こうして僕の前で発散するのだ。
それが嬉しいので諌めることはせず、「ふーん?」と先を促す。
「……るみが報告してきたのが、ちょうどそのくらいの時間帯だったんです」
「へぇ」
「一緒に歩いてるときでした。付き合うことになったんだって、なんかもう、すっごい可愛い顔で言ってきて」
「ほーん」
「その後ろに見えた夕焼けがまぶしくて、余計あの人に腹が立って」
「はー」
「――聞いてくれるのは嬉しいんですけど適当すぎませんか!?」
「うんうん、それで?」
にっこり笑ってやると、空乃はむうっと僕と目を合わせた。少し色素の薄い目に、僕が映っている。この距離と暗さだとそんなの見えるはずもないが、そうであるという事実だけで、なんとなく満足感のようなものを覚えた。
だから、と空乃の唇が動く。
「夕焼けが嫌いになりました。……嫌いに、なっちゃいました」
「そっか」
「そうなんです」
ぽつりと言って、空乃は僕から視線を外す。
そんなことくらいで、と思わなくもない。けれど空乃にとっては『そんなこと』ではないのだ。僕に言えることは何もなかった。
きっと空乃は、悲しいとか寂しいというより、悔しいのだろう。好きだったものを嫌いにしたのが安槻さんだったら、空乃は何も感じない。安槻さんではなく、『安槻さんを空乃から奪っていった人』だから、こんなふうに愚痴を吐くのだ。
「また好きになりたいとか思う?」
「無理です」
「無理とかそういうのは抜きにしてさ」
そもそも別に無理でもないだろう。安槻さんが彼氏と別れて、その報告をまた夕暮れ時にすれば、それだけで単純なこいつは夕焼けを好きになる。絶対に。……もしもそのとき安槻さんが泣いていたら、更に嫌いになる可能性もあるが。
「……まあ、嫌いなものよりは好きなものが多いほうが、人生幸せですよね」
やけにスケールの大きな話をされた。今の会話から人生の幸福についてまで話が飛ぶとは思わなくて、ふっと笑ってしまう。空乃のこういうところも、僕は好きなんだと思う。
そうだな、と肯定すれば、「それで?」と彼女は首をかしげる。
「何のための質問だったんですか」
「んー、特には何も」
じっとりした目で見てくる空乃は、僕が何かを企んでいるとでも思っているんだろう。確かに変な質問だった、とは自分でも思う。空乃がそう感じるのも無理はなかった。
実際、少し考えていることはあるのだ。――空乃の『嫌い』を、僕がほんの少しでも変えられたら嬉しいな、なんてことを。また好きになるとまではいかなくても、ただ少しだけ、マシだと思えるようになってくれたら。
「じゃあ明日は、ちょっと早めに帰ってどこか行こうか」
「何がじゃあなんですか。っていうか嫌がらせですか? 嫌がらせですね?」
「ばれた?」
「バレバレですよ、き……」
きらいです、と言いかけたのか、空乃の言葉が不自然に途切れる。そしてむすっとした顔で、軽く僕の肩をどついてきた。
この調子だと、空乃が僕にきらいですと言うことはたぶんもうないだろう。やめられるとそれはそれで寂しいものがあるが、言われるよりはこの寂しさを我慢したほうがよっぽどいい。
「……部活動は真面目にやるべきだと思います。つまり、最終下校時刻まできっちりやるべきです」
「もう文化祭も終わったし、しばらく絵描かなくても大丈夫でしょ」
「そういう問題じゃないです」
「なんかコンビニで奢ってやるからさ」
「そんなのでつられると思わないでください」
そう言いつつ、空乃はピザまんが食べたいですと主張してきた。「それからアイスも」追加の要求に、はいはいとうなずいてやる。遠慮の知らない後輩だ。……とはいえ奢られっぱなしを嫌う奴なので、どうせ僕がその二つを買ったら、素知らぬ顔で同じものを買って僕に渡してくるのだろう。
駅の改札で空乃と別れ、電車に乗り込む。空乃は僕とは反対方向の電車だ。席が空いていなかったので、ドア脇の位置に立った。
――空乃が安槻さんのことしか見ていないのなら、僕は何もしないでおこうと思っていた。
たとえ告白なんかしたところで、彼女の心に何も響かないのはわかりきっている。それならこのまま、先輩後輩として良い関係を築いていこう、と。
けれどその状況は、変わった。
ドアの窓からぼんやりと外を見る。黒い風景が流れていく。その手前には、外が暗いせいでくっきり映っている僕の姿。眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな見た目が……僕は結構、嫌いだ。
意識的に、流れる景色にだけ目を向ける。
安槻さんに彼氏ができたのなら、空乃は彼女から少しずつ離れようとするはずだ。彼氏のことを敵視はしつつも、空乃なら二人の仲を邪魔はしない。
……その隙に、というのは言い方が悪いが、空乃に告白するとしたら今しかない。振られることが確定なのは変わらないにしても、たぶん少しでも僕のことを考えてくれる時間が増えるはずだ。
卑怯なやり方だとは自分でも思う。彼女に対してそんな手を使うのは悪手だろう、とも。
それでも、告白しようと思いついてしまったのだから仕方がない。一度そうしようと思ってしまったのなら、やりきらなければ気持ち悪いから。
緊張しないでもないが、告白くらいじゃきっと空乃の態度は変わらない。それで僕も変わらないのなら、今までどおり過ごすことができる。万が一気まずくなったとしても、僕たちなら元の関係に戻るのもすぐだろう。怖いことは何もなかった。
なんとなしにスマホに目を落とすと、空乃からメッセージが来ていた。
『先輩』
通知は三分前。それだけだった。
『何』
短く返せばすぐに既読がついて、
『ピザまん
アイス』
リマインダーのような端的な返信。わざわざこのために話しかけてきたのかと思うと、なんだかちょっと笑えた。が、電車内なので唇を引き結んで、真顔をキープする。
優しい後輩さんは、どうやらピザまんとアイスにつられてくれる気満々らしい。
『さっきの今で忘れるわけないでしょ』
『知ってますけど念のためです』
『わざわざ夕方に連れ出すんですから、忘れないでくださいね』
了解、とスタンプを送って、会話を終わらせる。空乃からのメッセージもそれ以降来なかったので、本当にこれだけのためにメッセージを送ってきたようだ。こういうところまで可愛いと思ってしまって、相当だよな、とため息をつく。
さて、どうやって告白しようか。
明日の夕方のことを考えて――いたら、一駅乗り過ごしてしまったので、仕方なく反対方面の電車に乗り直したのだった。
* * *
翌日。部活をしばらくやって、ほんの少し空がオレンジがかってきた頃に、空乃と一緒に学校を出た。始まった夕焼けを、空乃は憎々しげに見上げる。
通学路には、紅葉や銀杏の葉がちらほら落ちていた。鮮やかな赤や黄色を、なんとなく避けるようにして歩いていく。
「で、どこに行くつもりですか」
不満げな声だが、なんだかんだ結局付き合ってくれるあたり、こいつも人がいい。
「特に決めてはない、けど。まずはコンビニでしょ」
「……ピザまんとアイスでしたね」
「もしかしてお前のほうが忘れてた?」
覚えてます、とつんっと澄まし顔で言った彼女は、また空を見る。……きっと、頭の中は安槻さんでいっぱいだろう。
判断を誤ったかもしれない、と少しだけ思う。今更やめる気もないが。
コンビニに寄って、約束どおりピザまんとアイスを買う。当然のように空乃も同じものを買い、僕に渡してきた。奢って奢られてちゃプラマイゼロだ。何の意味もないというのに空乃はなんとなく楽しげだった。
……今はちょっとだけ、僕のことも考えてくれてる、かな。表情からそんなことを探ってしまうなんて、僕も大概めんどくさい奴だった。
適当に足を進めて、普段は入らないような小道を行くと、人っ子一人いない公園に着いた。ブランコとベンチくらいしかない、こぢんまりとした公園だ。
「ブランコとか久しぶりに乗ります」
ここでゆっくりしよう、も何も言っていないのに、隣にいたはずの空乃はさっさとブランコに座っていた。仕方なく僕もその隣のブランコに腰掛ける。ブランコに乗るのは僕も久しぶりで、ぎぃぎぃ頼りない音を立てるそれに、ちょっと不安になった。壊れたりしないだろうな。
空には薄水色と、オレンジ……というよりはピンクに近い色がグラデーションを作っていた。夕日を受けた雲が、ふちの光だけを残して影を作っている。
空乃は、そんな空を無表情で見やった。そしてコンビニの袋の中からがさりとピザまんを取り出す。
それを見て、僕も自分の持っていた袋からアイスを出した。ピザまんの袋を空乃が、アイスの袋を僕が持っていたので、その順番になるのは当然だった。
チョコでコーティングされたアイスに小さくかじりつく。中にはバニラアイス、ではなく、チョコアイス。空乃セレクトだ。僕はバニラのほうが好きだったりするが、まあこっちはこっちで普通に美味しい。
この前までは夏のように暑い日まであったのに、今日は随分涼しかった。肌寒い、と言ってもいいくらいだ。アイスを食べているともはや寒い。
……ピザまんを後にしたのは正解だったかもしれないな。すでに結構冷めているだろうが、それでもほんの少しは体が温まるだろう。
空乃がピザまんを、僕がアイスを食べ終わったとき。
空乃はぽつりと口を開いた。
「るみが、好きでした」
「知ってるよ」
唐突な言葉に、即座にそう返す。
知っていた。空乃と話していれば、空乃といれば、嫌でも知る。
「るみの一番は私だと思ってたんです」
――お前の一番は、安槻さんだもんな。
さすがにそんなセリフは、空気を読んで口にしなかった。言ったところで、きっとこいつはそうですねとうなずくだけだろうけど。
「ただの、驕りだったんですけどね。そんなの」
苦い笑みだった。初めて見る種類の顔。
「空乃」
耐えきれなくなって、名前を呼んだ。
ブランコをこいでいた彼女の足が止まる。いつかの、どこかの安槻さんを見ていたであろう目が、僕のほうを向く。
沈みかけている夕日が、まぶしかった。夕日に照らされた銀杏の葉も、まぶしい。
こんなまぶしさの中で、安槻さんから今までで一番まぶしい顔を向けられたなら、夕焼けを嫌いになるのも当然のことだ。そう思った。
そう思った、から。
「好きだよ、空乃」
空乃から目を逸らさずに、はっきりと伝える。
ぱち、と瞬かれた彼女の目。怪訝そうに眉根を寄せてブランコを止め、それから、空乃は前を向いて無言でまたこぎ始めた。風に吹かれて、ピザまんが一つ入った袋ががさりがさりと音を立てる。
なんだその反応、とは思いつつ、まあいいか、と僕も適当にブランコをこぐ。きっと空乃も混乱してるんだろう。しばらくほっておこう。
そういえば僕が持っている袋には、空乃のアイスが入っている。この気温だしすぐには溶けないだろうが、それでも早めに食べたほうがいいものだ。
……完全に渡すタイミング失ったな。僕のピザまんもこのままだと冷め切るだろうが、さすがにこの空気でピザまんが食べたいとは言えなかった。
「……いやおかしくないですか?」
彼女の声に、首をかしげる。
「何が?」
「えっ、先輩今私に告白しました? よね? なんで普通の顔でブランコなんかこいでるんですか?」
「空乃もこいでるじゃん」
「……そうですけど!」
彼女のブランコの振り幅が大きくなっていく。スカートなのにそんなこいで大丈夫か、とちょっと心配していれば、空乃はぴょんっとそこから飛び降りた。
誰もいなくなったブランコが、反動で不規則に揺れる。
「……なんでわざわざこのタイミングなんですか」
砂でも入ったのか、ローファーを片方脱いで裏返しながら、空乃は仏頂面をする。そんな彼女に、ははっと笑って答えた。
「このタイミングで告白すれば、ちょっとだけでも空乃の夕焼け嫌いがマシになるかなって思ってさ」
「それって私がうなずく前提ってことですか? ちょっと自信過剰じゃないですか?」
「いや、振られるだろうなーって思ってる」
空乃がローファーを履き直す。とん、と軽く地面を蹴った彼女は、じゃあなんでですか、という目でこちらを見てきた。
んー、と焦らすように曖昧な声を出すと、空乃はむすっと「じゃあなんでですか」と実際に言葉にしてきた。
……これ以上詳しく言うのは、正直少し恥ずかしかった。けれどまあ、告白なんて恥ずかしいことをすでにした後なのだ。少しの恥ずかしさくらい、彼女の機嫌を悪くしないためにも我慢するしかない。
「人に好かれるって、よっぽど嫌いな相手からじゃない限り嬉しいでしょ」
言い切ってしまったが、そこら辺は主観によるものが大きいだろう。空乃が共感してくれなかったらどうしようかと思ったが、まあそうですね、と一応同意してくれたのでほっとする。一応、というのは、なんだかためらいがあったように感じたからだ。
そのためらいの理由は一旦気にしないことにして、「だからだよ」と僕は続けた。
「さすがにこんなちょっとの嬉しいことじゃ、安槻さんを取られたっていうムカつく気持ちは落ち着かないかもしれないけど……どう? マシにはなったかな」
表面上には緊張を見せないよう努めて訊くと、空乃はなぜか苦々しい表情を浮かべた。
「……先輩のこと、きらいじゃありませんよ」
「うん、よかった。ならちょっとは嬉しいよね?」
「…………」
物言いたげに細められる目。
どうやら何かミスったらしい、とそこでようやく気づいた。僕の何かが彼女の気に障ったのだろう。さっぱり見当もつかなかったので、大人しく空乃が答えを言ってくれるのを待つことにした。
数秒後、空乃は呆れたようにため息をついた。
「ちょっとじゃないです」
そして嫌そうに続ける。
「かなり、嬉しいです」
表情と言葉がまったく合っていなかった。どこが嬉しがっているというのか。とはいえまあ、こんなことで嘘をついたりしないだろうし、嬉しいのは確かなんだろう。
「そっか、それくらいには僕もお前に好かれてたんだな」
それを知れただけでも、この告白の見返りとしては十分だった。
満足する僕とは裏腹に、空乃は再びため息をつく。わざとらしい、さっきよりも明らかに深いため息だった。
「自信あるのかないのかどっちなんですか」
「それって、お前に好かれてる自信、ってこと?」
「私に、一人の男性として好かれている自信、です」
「それはないに決まってる」
すぐにそう答えれば、彼女の視線に険しさが滲んだ。
「なんでですか」
「え、なんでって……」
答えに詰まる。
……だって空乃の特別枠は安槻さんでいっぱいで、僕が入り込める隙間なんてないじゃないか。
しかしそんなこと、空乃だってわかっているはずだ。求められている答えは違うのだろう。
僕が黙っている間に、空乃の視線はどんどん鋭くなっていった。
「私、これでも結構態度に出てたかなって思ってたんですけど」
「何が?」
空乃が何を言いたいのかわからない。直接的な物言いが多い彼女にしては珍しい言い方だった。
ついに我慢の限界がきたのか、空乃がぴきっと顔を引きつらせながら口を開く。
「先輩なんてきらいです」
ぽん、と投げつけられる袋。慌ててキャッチしたそれは、まだ少しだけぬくもりを残していた。
まさかこのタイミングでそう言われるとは思わなかった。……こんな、本気で言っているんじゃないか、と思ってしまうタイミングで。
かなり嬉しいと言ってくれたのはやはり、先輩である僕に気を遣った嘘だったのだろうか。だとしたらさすがにショックだ。
「…………いえ、今のは私が悪かったです。まさか先輩が、そこまでおばかだとは思わなかったのでつい」
空乃のきつかった表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……きらいなわけないでしょう」
ばかですか、とでも言いたそうだったが、空乃はそうは繋げず、僕の隣のブランコへと座り直した。彼女の足が軽く地面を蹴る。片手でスカートのすそを押さえながら、空乃は思いきりブランコをこぎ始めた。
たぶん何か考える時間が欲しいんだろうな、と判断して、僕も小さくブランコをこぐ。
膝には、アイスが入った袋とピザまんが入った袋。こぐたびにがさがさ音がうるさくてなんだか笑ってしまいそうだった。……あ、そうか、鞄に入れればいいんだ。
二つの袋を鞄にしまってから、空を見上げる。
夕焼けはそろそろ終わりかけていた。いつの間にか公園の電灯が辺りを照らしている。大分暗くなったのに空乃の表情がちゃんと見えていたのは、そのおかげだったのだ。
空乃がブランコをこぐのをやめた。とん、とん、と軽く足をついて勢いを殺し、止まりきったところで片側の髪の毛を耳にかける。たぶんあえて僕にピアスが見えるようにしたのだろうが、その意図はやっぱりわからなかった。
空乃は僕のほうを向く。
「ありがとうございました――ちゃんと私、夕焼け、ちょっと好きになりましたよ」
「ああ、それはよかった?」
だとすれば、さっきの「きらいです」は何だったのか。内心首をかしげていると、空乃は呆れ顔で息を吐く。
「何か他に言うことありますか?」
「……特には?」
さげすむような目で見られた。傷つくからやめてほしい。
「じゃあ、私から」
そう言って、空乃は立ち上がる。それから数歩足を動かし、僕の前に立った。髪が風に吹かれて、ピアスが夕日にきらめく。そして彼女は、片方の手を差し出して。
仕方ありませんね、という表情で、微笑んだ。
「――付き合ってください、翼先輩」
思考が止まる。ついでに瞬きも忘れた。
……こいつは今、何を言ったのか。
ぎこちなく、頭が回り始める。
付き合ってください。……どこに、なんて訊いたらたぶん、下手すればまたきらいですと言われてしまうだろう。それはわかった。男女交際という意味での『付き合う』だ。それはわかっている。
空乃は素直じゃない。一周回って逆に素直な気もするが、基本的に僕と同じくらいにはめんどくさい奴だ。
だからつまり、きっと。
空乃も僕を、そういう意味で好きだった、という、こと?
「……おお」
「なんですかその気の抜けた返事」
「いや、びっくりした」
「流れでわかってください」
無茶を仰る。全然わかんなかったぞ。僕といるときだって安槻さんの話ばっかりだったんだ、わかりにくすぎる。
彼女の手は、僕の前に差し出されたままだった。その手を取る。僕より小さくて、少しひんやりしていて、柔らかい手だった。
「……いつから僕のこと好きだったの」
「さあ、いつからでしょうね。先輩は?」
「さー、いつからだろうな」
なんですかそれ、と空乃がむすっとする。ごまかしたのはお前も一緒だろうに。
「……先輩、ほんとに私のこと、好きなんですか」
「好きだよ」
即座に返せば、彼女は怯んだように身を引く。視線が逸らされた。どうやら照れているらしい。
それが可愛かったので、にっこり笑って訊き返してやる。
「空乃は?」
答えが返ってくるまで、優に一分はあった。……僕が長く感じてしまっただけ、という可能性も否定はできないが。
空乃は耳のピアスを指でさわりながら、しぶしぶと答えた。
「……好きですよ」
「……そっかぁ」
なんだかどっと安心した。こうなるとは想像もしていなかったから、その分。
ついで、嬉しさがこみ上げてきた。安槻さんほどではないにしても、僕も空乃に好かれていたのだ。
るみに向けてるのは恋愛感情じゃありません、と言い切っていたこともあるし、そこに関してだけは安槻さんより僕のほうが上なのだと、自惚れてもいいだろうか。
繋いだ手にわずかに力を込めて、僕も立ち上がる。目線の位置が逆転した。
「うん、付き合おっか、空乃」
「……軽い言い方ですね。こっちはすっごく緊張して言ったんですけど」
「さっきまでは緊張してたよ。でももう、今は緊張する意味ないでしょ」
「とっても余裕があるみたいですね、先輩」
嫌味っぽく口元を歪ませる空乃。
「余裕なんてないよ」
だってさっきから、ずっと手を握っているのだ。
「熱いでしょ?」
不思議そうにした空乃が、ふと繋いだ手に目を落とした。
空はもう暗い。下の方にほんの少しオレンジが留まっているだけになっていて、夜と呼んでもいいような空だった。
「……熱い、ですね」
さっきまでひんやりとしていたはずの彼女の手が、僕と同じように熱を持ってくる。
きっと顔まで赤くなっているのだろう。さすがにこの暗さだと顔色までは見えなくて、残念だと思いつつもつい笑ってしまった。
「何笑ってるんですか」
文句を言いながらも、空乃は手を離そうとはしなかった。
「……一つ教えてあげます」
やけに上から目線の言葉は、やけに気弱な声で発せられた。
「私、るみ以外の人にピアスのことがばれるのは嫌だったので……先輩の前以外では、ちゃんと気をつけてたんですよ」
……それは。
「喜んでいいところ?」
「喜んでいいところです」
「そっか。ありがと」
いつのまにか空乃の『特別』になれていたというのなら、それほど嬉しいこともない。
にしても、僕の前では気をつけていなかったくせに「なんで先輩が最初に気づいちゃうんですか!」なんて怒ったのか。……やっぱりめんどくさいな。
思わずまた、笑みが零れてしまう。けれど今度はもう、「何笑ってるんですか」という文句は飛んでこなかった。
僕は冷め切ったピザまんを食べながら。空乃は溶けかけたアイスを食べながら。
手を繋いだまま、一緒に帰った。
* * *
翌日、六時間目の授業が終わってすぐに教室を出て、さてどうしようか、と考える。
今日は美術部も活動がない。部活がない日には、以前までだったら友人と帰ったり一人で帰ったり、だったのだが。せっかく空乃と……恋人、というものになったんだから、空乃と一緒に帰るのもいいかもしれない。
教室にいなかったらいなかったでそのときだな、と考えながら空乃の教室へ向かう。
「……あ、いた」
「先輩?」
椅子に座ってつまらなそうに頬杖をついていた空乃が、怪訝げに顔を上げた。
安槻さんは空乃ではなく、クラスの男子と楽しそうに話しているところだった。彼が安槻さんの『彼氏』なのだろう。
安槻さんと彼氏くんが話し終わるのを待っていた、のだろうか。だとすれば今日は安槻さんと一緒に帰るつもりなのかもしれない。
「どうしたんですか」
立ち上がって近くまで来てくれた空乃は、しかし僕と目を合わせようとしなかった。顔は向けてくれているのに、視線が明らかに横に流れている。
……これはまた、照れてるんだろうな。安槻さんもいるし、今日のところは放っておいたほうがいいか。
「いや、一緒に帰りたいなってちょっと思っただけ。じゃ、また部活で」
「繋がってなくないですか?」
去ろうとした僕の腕を、空乃はぶすくれた顔で掴む。
「そこは一緒に帰ろう、ですよね? 一緒に帰りたいって言っておいて一人で帰ろうとするとか何なんですか」
「安槻さんと一緒に帰りたそうだったから」
「るみはどうせあの人と帰ります」
それならなんで待ってたんだろう。つかず離れずの位置で帰ろうとしてたんだろうか。空乃ならやりそうだし、同時にやらなそうだとも思う。
……うん、やらないか。明らかに安槻さんの邪魔になるような行動はしないはずだ。
「それに空乃、なんか今はちょっと……」
「ちょっと?」
「あー、うん、僕と帰りたくなさそうな感じかなって」
なんか照れてるみたいだから、とはさすがに言えなかった。言ったら確実に怒らせる。
とはいえ、言い方を変えても意味がなかったらしい。更にむすっとした空乃が、ようやく目を合わせてきた。
「……そんなこと、一言も言ってないじゃないですか」
それだけ言って、また視線が逸らされる。つんとした顔は、よく見れば少しだけ赤い、ような気がした。
腕が放される。空乃は席に荷物を取りに行って、安槻さんに「また明日」と声をかけ、僕のもとへ戻ってきた。
そこでやっと、安槻さんは僕の存在に気づいたらしい。あ、という顔をして、ポニーテールを揺らしながら僕に駆け寄ってきた。
彼氏くんはほっといていいんだろうかとちょっと思ったが、彼は特に気にする様子もなく僕に会釈すると、スマホを出してこちらのやりとりが終わるのを待つ姿勢を取った。どうやら構わないらしい。心が広い。
安槻さんが僕の前に立つ。
「須々木先輩、こんにちは」
「……こんにちは」
この子と話すと、空乃がいい顔をしない。何を言われるんだろうという思いよりも、これで空乃が一緒に帰ってくれなくなったらやだな、という思いのほうが、申し訳ないが強かった。案の定、隣の空乃がむっとする気配がするし。
僕と空乃の顔を見比べてから、安槻さんは僕の目をまっすぐに見てきた。
「空乃と、付き合い始めたんですよね?」
「うん、そうだよ」
うなずくと、安槻さんは難しい顔をする。
「あの……ありがとうございます」
感謝を述べるような顔ではなかったので、一瞬呆けてしまった。「それは、何に対するお礼?」首をかしげれば、安槻さんは口ごもる。
「……わたしが、言うことじゃないと思うんですけど」
そう前置きして、続ける。
「嬉しかったんです。先輩って、空乃がどういう子なのかちゃんと知ってるのに、それでも好きになってくれたんだなって」
……つまりは、空乃がどれだけめんどくさい子か、という話か。
安槻さんはふっと優しい顔で微笑んだ。
「わたしがお礼言うの、変だとは思います。でも言わせてください。……ありがとうございます。空乃のこと、よろしくお願いします」
まあ、疲れたら無理しないでくださいね? そう冗談っぽく言って、安槻さんはぺこりとお辞儀をした。そして空乃を一瞥して、動揺して見える彼女に笑うと、彼氏くんの元へ戻っていく。
お疲れ様ですと軽く会釈し、安槻さんたちは僕と空乃よりも先に教室を出た。残されたのは、黙り込む空乃と笑いをこらえる僕。
何かを言うのは空乃が我に返ってからにしよう、と思っていたら、想像よりも早く、空乃の顔が僕のほうを向いた。
「るみのこと、好きにならないでくださいね」
「第一声がそれか。ほんとにお前、安槻さんのこと好きだね」
ついに吹き出せば、空乃は「そうですよ」とさらりと返してくる。まったく照れる様子もなかった。ぶれないな、とますます笑えた。
「……それにしても、安槻さんってああいうこと言うタイプだったんだな」
「意外とるみ、私のこと好きなんですよ」
「知ってるよ。一方通行じゃないことくらい」
空乃のドヤ顔が、僕の言葉でつまらなそうなものに変わった。
空乃が安槻さんを好きなことも、安槻さんが空乃を好きなことも、僕は知っている。とはいえ、知っているだけだ。二人がどれくらいお互いのことを思っているかなんて、所詮第三者である僕にわかりはしないのだから。
「ピアス、もう気づいてくれたんでしょ?」
「……はい、昨日の朝に。もっと早く、先輩より先に気づいてくれたらよかったのに」
ふう、と息を吐き、空乃は鞄を持ち直した。
「それで、行かないんですか?」
当たり前のように『一緒に帰りましょう』という意味のことを言って、こちらを見上げてくる。……この空乃が、本当に彼女になってくれたんだよな。
そう思うとなんというか、こみ上げてくるものがあった。それが悟られないように、思いついたことをそのまま慌てて口にする。
「前から思ってたけど空乃ってツンデレってやつ?」
「き……っ知りません!」
軽く睨んできた空乃は僕の手を握り、引っ張るようにしてずんずん歩き始めた。……昨日までの空乃だったら、おそらく今、僕を置いて先に行ってしまっただろう。これがただの先輩への対応と、恋人への対応の差ということだろうか。
校門を出た辺りで、ちゃんと手を繋ぎ直す。
「……先輩、なんかにやけてません?」
「そうかな」
「まあいいですけど、別に」
そっけない口調。
けれどこちらに向けられた表情は、さっきまでとは打って変わって――なんだかすごく、嬉しそうな笑顔だった。きっと本人は気づいていない。
だから、指摘はしないことにした。
「空乃って、やっぱり可愛いよね」
代わりにそう微笑めば、痛いほどに手に力が込められた。照れか怒りかどっちだろう。なんとなく、前者のような気がするけど。
「ねえ空乃」
「……なんですか」
「次のピアスは、僕に選ばせてね」
言うつもりがなかったことが、ぽろりと漏れてしまった。
こんな独占欲のようなものを見せて、引かれないだろうか。少し不安になったが、もう口から出てしまったものはどうしようもない。
「いいですよ」
けれど空乃は一切引く素振りも見せずにうなずいて、ちょっといたずらっぽく笑った。
「じゃあ先輩のピアス穴、私に開けさせてください」
「え、やだ。ピアス怖いし。そもそも校則違反じゃん」
「先輩なんてきら……ばかです」
「うん、今のはごめん。でも開けたくないからごめんね?」
空気を読むべきかとも思ったが、嫌なものは嫌だった。
僕が頑固なことを知っている空乃は、はー、とため息をつく。
「……それじゃあ。もし私の高校卒業まで付き合えたら、私のピアス穴、先輩が増やしてください」
「安槻さんじゃなくていいの?」
「私は先輩に頼んでるんです」
「ん、ならやるよ」
お願いしますね、と呆れ顔で言った空乃は、繋いでいないほうの手で髪をかき上げる。耳が、ピアスが見えた。
……そこに、僕が一つ穴を増やすのか。
空乃が『もし』なんて表現したように、空乃の卒業まで付き合えるかどうかはわからないけれど。
その『もし』の先で、僕が空乃のピアスを増やすというのは――なんだか、許されている、という感じがした。気を許されている以上に、何かを許されている感じが。
「……そんなにやけないでくださいよ」
「ごめん、嬉しくて」
素直に答えた僕に、素直じゃない彼女はぐっと少し押し黙って。
それからほんの少し笑って、「私も嬉しいですよ」なんて、内緒話をするような口調で言ってきたのだった。
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