フィーナ
フィーナは、『トンカール』村で一番の美人だった。
しかし今、村一番の美人は自ら進んで真っ赤な血の沁みついた服や布、血の油でてら付いた剣や槍を、村から少し離れた川辺で濯いでいる。
バチャバチャと水面が音を立て、透き通った川の水に赤い色が付けたされていく。
彼女の手は、よく分からないモノの血と油でべた付き、川の水でかじかんだ指は赤々と変色していた。他にも、刃で切ってしまった切り傷、擦り傷などによって痛々しい痕が残っている。
彼女の顔からは、とても想像もできないような手だった。
手を水に付ける度、まだ治りきっていない生傷が針で刺されたように痛む。しかし、フィーナはその痛みをおくびにも出さず、熱心に自分がすべき役割を全うし続けた。
大丈夫……このくらい。私が頑張って、誰かの助けになるのなら。
嫌気が指して逃げ出したくなりそうな時、そう自分自身に言い聞かせ続けた。
「……痛っ」
人差し指の傷が開き、直っていたはずの傷跡から血が滲みだす。思わず涙が出そうになったが、ぐっと堪え、人差し指を口の中に含んで血を舐めとる。
「……問題ない、大丈夫……」
口の中に、血の味がじんわりと広がっていく。
ここのところ、味の薄く噛み応えの無い食事ばかりだったから、無意識に自分の指をモグモグと甘噛みしてしまっていた。まるで幼い子供のような自分の行動に、虚しさとひもじさが一層込み上げてくる。
いつまで、こんな生活が続くのだろう……。
いつまで、こんな思いをしなければならないのだろう……。
私も……そして、みんなも。
と、しばらくふさぎ込んでしまい、自分の手が止まっている事に気が付く。
「いけない! ボーッとしている暇なんかないのに!」
フィーナは自分の両頬をパチンッと叩き、自らの弱気な心に喝を入れる。
そして、また同じように武器やら衣服やらを濯ぎ始めた瞬間。
「おーい! フィーナちゃん」
「……ん? あっ! 村長さん!」
このする方向に視線を移すと、そこには『トンカール』の村長であるグンダの姿が見えた。
フィーナは挨拶代わりに手を振り、軽く会釈をする。
「君がここに一人でいると聞いてね、心配だから見に来たんだ。……まったく、駄目じゃないか。今は一人で行動してはならないと村全員で決めただろう」
「すみません。近場でしたからつい……。それよりも、村長の方こそダメじゃないですか! もう若くないんですから。それこそ一人で行動してはいけませんよ!」
グンダは、もう六十歳を超える老体だ。
それでもボケず曲がらず、しっかりとした意思を持ってこの村を統治してくれている。若い頃に比べたら迫力こそ減ったが、その分威厳というものが年々増していっている。
顎に蓄えた髭こそが、その現れだ。
いや、ヒゲだけで威厳を出しているわけでは、ないけれど……。
「分かっておる……しかし、若い村娘が一人でいるとなれば、気に掛けんわけにもいかんだろう。村人の命は等しく同じだ…………だが特に、君にいなくなられては困る」
「もぅ大袈裟ですよ。こんな事ちょこちょこっと終わらせて、すぐ村に戻りますから」
ニパッとフィーナは明るく笑って、傷だらけの右手でブイサインをしてみせる。
これ以上心配させないためにも、早くこれを終わらせてしまわないと……。
フィーナは左目にかかる前髪をサッとかき上げ、さらに回転率を上げて、作業に取り掛かった。その姿を見ていたグンダは、額に刻み込まれた皺を一層濃くする。
「皆……君を慕っている。それゆえに責任を背負い、自ら率先して村の為に尽くしてくれているのは分かるのだが。……少しは休んでくれ」
「あはは。おだてても何も出ませんよー。それに、頑張っているのはみんな同じですよ」
作業を続けながら、フィーナは笑顔を絶やさず話を続ける。
「…………こんな状況ですから、命があるだけ有難いんです。私は戦う事はできませんから、せめてその手助けぐらいしないと……」
グンダは、髭の生えた口をグッと噤み、重苦しい鼻息を漏らす。そして、自分の不甲斐なさを呪った。
こんな自分では、娘一人説得する力すらもないのか……と。
しかし事実として、フィーナの頑張りが村を支えている事を知っていた。彼女がいなければ、村人同士の内輪揉めによって、もう既に村としては崩壊していただろう。
彼女に休息を与えたい半面、彼女無しでは成り立たないという現実も理解している。
辛くないはずがない……一番頑張っているのは、他でもない彼女だ。
村人全員が、それを深く理解している。
「全く君は……頑固で困る」
「プッはは! 村長ほどではないですよー」
だからこそ、息子と結婚させ、ひいては君を次期村長に…………そう思っていた。
だが、もう既にいない者と、どうやって婚約するというのだろうか?
「———そういえば、村長さん」
「ん? 何かね?」
不意にフィーナから呼ばれ、グンダは瞬きをして尋ね返す。
「王都からの支援の件、どうなっているんですか……?」
フィーナの質問は、あからさまにグンダの顔の影を濃くさせた。
「ん。ああ……、実のところ、先日手紙を送らせたのだが……未だに目ぼしい連絡は無し。伝達はできているはずなのだが……」
「そう、ですか……」
思わず、フィーナの作業する手が止まる。
「まぁでも、伝達が少し滞っているだけかもしれませんし、そう悲観することはありませんよ! 必ず来てくれますって!」
フィーナは両手の胸元に持っていき、グッと握りこぶしを作った。
「……そうだ、な」
グンダの声は、酷く弱弱しかった。
そう思うのも無理はない。それほどに、王都からの支援が来る気配はなく、正直言って村人のほとんどが半場諦めかけている。グンダが必死に説得し鼓舞させているが、それももう限界に近い。
正直、私だって必ず来ると馬鹿正直に信じ切っているわけでは……ないのだ。
でも、だからといって諦めて全てを投げ出してしまうほど、私は潔くもない。
「もしも来ないとしても……必ず、救いの手はあるはずですよ」
「……救いの手、か。君は、例えば何を思い浮かべる?」
「え? ……えっと、そうですねぇー…………その、あの……」
聞き返されたフィーナは、どのようなことを言ったらいいのか頭を悩ませ、咄嗟にこう答えた。
「救いの神様とか……英雄様とか?」
「…………。」
空気が、固まった気がした。
しまった⁉ 私は一体なんでこんな年になって、子供みたいに馬鹿みたいなことを……。
カァッと頬が熱くなり、羞恥に刈られて思わず俯いてしまおうとした時、
「———ッはっはっはっはっはっは‼」
グンダが、突如堰を切ったかのように、腹を抱えて大笑いし始めた。
「……そんなに、おかしかったですか?」
「否! おかしくなどない! 面白かっただけだ!」
「意味一緒ですよ……それ」
シュンとして目を細めるフィーナの肩に、グンダはポンと軽く手を置いて、再度歯茎が見えそうなくらいニカッと笑ってみせる。
「そうだな! 君の言う通り、我らには救いがあると信じよう!」
するとグンダは、既に洗い終えた武器の類をひとしきり担ぎ上げ、「すぐに村へ戻ってくるんだぞ」と言い残してその場から立ち去ろうとした。
「ちょっと、ダメですよ! そんな無理したら!」
「気にするでないわ。ワシの若い頃は知っておるだろう? この程度造作もない」
いや……だからこそ引き止めてるんですけど。
フィーナは止めさせようとするが、活気づいたグンダは既に聞く耳持たず、現役の頃を彷彿とさせられるような振る舞いで、武器を肩に担いで行ってしまった。
「……グンダさん。腰悪くしないと良いけど……」
村に帰ったら、グンダさんが奥さんに叱られながらも看病される姿が目に浮かぶ。
あの人……放っておいたらすぐ無理するんだから、村人全員で見張ってたのに。
「これは後で怒られるなぁ……」
苦笑しつつ、一人でそう呟いていた。
けれど冗談抜きで、村長がダメになってしまったら、本当に村が崩壊してしまう。
一刻も早く、王都からの支援が来てくれないと……もう村は持たない。明日、自分達が生きてまともな食事をしているかすらも、分からないこの状況。
最悪の場合……私を含めて、村から生きている人が消え去っていてもおかしくない。
本当に……本当にギリギリなのだ。
そりゃあ、私だって馬鹿だって分かっている。
滅び去る村を、誰かが救ってくれるなんて……そんな都合の良い話、ありはしない。
でも、もう……神や英雄に縋りたくなるほど、心身ともに限界が近付いていた。
なんでもいい。
誰でもいい。
「———わたしたちを、助けて」
まるで祈りを捧げるように、掌を重ね、深く頭を垂れる。
その祈りの届く先すらも、私は見据えられていないというのに……。
こんなことをしても意味ないのに。つくづく私は弱いなぁ……と、心の中で呟いて、
自然と涙が零れ落ちてしまいそうになる、その瞬間だった。
バチャン———
川辺に、何かが落ちた音が響き渡った。
「———ッッ⁉」
刹那、フィーナはまるで別人のように血相を変え、目を見開き、腰元に備え付けていた小刀へと手を掛けた。総毛立ち、全身の感覚が鋭くなっていく。
耳をすませば、鼓動がハッキリと聞こえてくるほどに、心臓が高鳴っていた。
「…………。」
息を殺し、音の正体が何だったのか、波打つ水面をジィッと凝視する。
いつでも逃げられるよう、姿勢は低く保ちつつ体を軽く浮かせる。村で戦っていた人達の真似をしただけなので、上手くいくか分からない。けど、逃げるだけならできるはずだ。
「…………んん?」
しかし、いくら待てども姿を見せない。
気になったフィーナは、小刀の柄に手を添えたまま、摺り足で近付いていく。
すると、フィーナが想像していたような別の何かではなく、人の姿が目に映った。
仰向けに大の字になった男が、さながら昔話のように、どんぶらこどんぶらこ……と、こちらの方にゆっくりと流れてきていたのだ。
フィーナは、目を疑った。
そしてしばらくの間、何ともシュールな光景を、ただ茫然と眺めてしまっていた。
「……はっ! ———大変ッ⁉」
数秒後、ようやく我に返ったフィーナは、弾けたように走り出し、躊躇うことなく川へと飛び込んだ。幸い、川は腰元程度の深さだったため、川底を歩くようにして近寄っていく。
そして、男の後頭部に右腕を回し、次に腰元に左腕を回して抱き上げた。「よしっ!」とフィーナは声を上げ、男の顔に息が掛かりそうなほど自分の顔を近付けて状態を窺う。
「……あの、大丈夫ですか⁉ 私の声、聞こえていますか⁉」
喧しいと感じるほどの声量で声を掛け続けるが、その男は何の反応を示さない。
男の口元に耳を近付けると、僅かな吐息が耳を擽ってきたため、単に気絶しているだけなのだと気付き安心する。
しかし、このまま川に居続けるわけにはいかない。
「大丈夫ですか⁉ 今、川から引き上げ……」
「そうだ、小娘。その男を川から引き上げろ」
「へ?」
フィーナの傍で、明らかに気絶している男からではない声が聞こえ、思わず声が裏返ってしまった。見えたのは、確かこの男だけだったはずだが……と、恐る恐る声の下方向を見ると、
「さっさとしろ。何をやっている?」
川に流されないよう、バタバタと足をバタつかせて泳いでいる、小犬の姿が目に映った。
「な……は? ……ええ?」
「もたもたするなッ‼」
「は、はいぃ‼」
かつてないほど困惑するフィーナを問答無用で叱りつけ、子犬は男の衣服を噛み、グイグイと岸の方へと引っ張っていく。フィーナもそれに助力し、見事岸へと引き上げてみせた。
「ハァ……ハァ……」
フィーナは息を整えながら、すっかりずぶ濡れになってしまった衣服と、持ち前の長い髪をギュッと絞る。つぅーっと水滴が頬を流れ、顎先で止まり、膨らんだ胸元へとポタポタ落ちていった。
その隣で、子犬は全身をブルブルと震わせて、周囲に水滴を撒き散らす。その様子を、フィーナはじぃーっと見つめて、口元に指を当てて考え込んだのだが……。
……うーん、どう見ても、犬だよね?
おかしいなぁ……この子から、声が聞こえた気がしたんだけどなぁ。
「オイ、小娘」
「はひっ⁉」
気のせいなどでは無かった。
喋り出すと予期していても、いざ喋りかけられると体が跳ねるほど仰天してしまう。
「近場に、人間一人を寝かせるような場所はあるか? あるならば教えろ」
子犬が、その見た目に似つかわしくない低い声音で喋るという現状に未だ慣れないまま、頭がこんがらがりつつも、フィーナはすぐに返答した。
「この先に、村があります! 私もそこに住んでますから、一緒に行きましょう!」
読んでいただいて、ありがとうございます。
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