チュートリアル②
今回も、せっかくなので続きを出させていただきました。
「はい。その条件というのは、コウキさんに異世界へと行ってもらう事です」
淡々と、フィオナは述べた。
「…………………………え」
今何と言った?
異世界?
その聞き慣れた言葉を耳にして、思考が竜巻のように荒れ始め、やがて凪のように静まった。
「ど……どうしました?」
絶句するコウキを心配に思いフィオナは声を掛けるが、全くもって届きはしない。
これってあれか? よくある異世界ファンタジー系のアレか? その異世界ってことか? 違うのか?
「異世界ってあれですか……? こう、ファンタジー的なアレ……」
「え? ええ……確かにコウキさんの現世には、ライトノベルのジャンルに、そういった類のファンタジー系統の物語がありましたね」
ようやく口を開いたコウキに対し、フィオナは唇に手を添えながら答える。
「はい」
「ん~……確かに、似ていると言えば似ていますね」
「そうですか……」
「…………。」
「…………。」
「あの…………その世界は、エルフっていますか?」
「そういえば、いましたね」
「ドラゴンはいますか?」
「数少ない希少種なので、滅多に遭遇はできませんけど……」
「魔獣や、魔物は?」
「いますけど、怖いですよぉー」
「亜人は?」
「普通に、います、よ……えっと」
気付けば、コウキは身を乗り出してフィオナを質問攻めにしていた。顔が触れそうなほど近いが、今のコウキには歯牙にもかけず、ズイズイと距離を狭めていく。
初めは気にしていなかったフィオナも、我を忘れて近付いてくるコウキに驚き、その大きな瞳が小刻みに泳がせて、色白の頬を赤く染め上げていた。
「剣と————?」
「へぇっ⁉ ……えっと、え?」
フィオナは混乱し、声が甲高く跳ねあがる。
それはそうだ。先程から何度も何度も質問で追い込まれ、いきなり「剣と?」などと問われれば誰でも困惑し、その人物に対して畏怖を抱いてしまう事だろう。
しかし、コウキはまるで呪われた人形のように、同じ言葉を繰り返す。
「剣と————?」
少し声音が変わり、コウキの圧が上がった。
「ひっ! えっと、えーっと……」
フィオナは喉を引くような声を上げ、その後に当てはまるべき言葉を脳内で検索する。
異世界ときて、剣の後に当てはまりそうな言葉は————、
「——あっ」
フィオナはコウキの現世魂リストに記されていた、コウキの好きな物の中から一つの言葉を思い出していた。
「ま……魔法?」
「異世界ファンタジィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ————‼‼‼‼」
コウキは、爆弾の如く弾けた。
「うひゃあッッ⁉」
唐突にスクリームするコウキに仰天したフィオナは、その勢い余って椅子ごと後方にひっくり返った。ガタンッ‼ と音が室内に響き渡り、コウキは正気を取り戻す。
「——あ、ヤッベ⁉ だ、大丈夫ですか⁉」
慌ててフィオナの方へ近付こうとするが、それよりも先にフィオナは体を起こし、
「あいたたぁ……。もぅ、急に叫ばないでください。ビックリして頭とおしり打っちゃいましたよ……うぅ」
後頭部と臀部を摩りながら、涙目で立ち上がって椅子に座った。
「すいません。ついテンション上がってしまって……」
「今回は大目に見ますけどぉ……次からは気を付けてくださいね」
フィオナは涙を拭い、改めてコウキと対面する。
「…………。」
「あの、どうしました? コウキさん。急に無言になって……」
「…………その異世界って、魔法はありますか」
覗き込むようにして聞いてくるコウキに対し、このままでは話が進みそうにないなと思ったフィオナは、苦い表情をして少しくたびれた息を吐く。
「ありますけど……今はその話は置いておいて貰えますか?」
「あ……ハイ」
少し自重しようと、コウキは反省した。
「それで……。異世界に行って俺は何をすればいいんですか? 魔王討伐ですか?」
「ゲームのし過ぎですよ、コウキさん」
全くもって自嘲できていなかった。
「なら、伝説のなんたらとかに、俺がならなければならないとか?」
「その話から離れて貰っていいですか?」
そろそろ怒りだしてしまいそうなフィオナに、「ハイ」とコウキは良い返事をする。
半分ボケのつもりであったコウキも、ぼちぼち緊張を取り戻す。
「では、俺は何をすればいいんですか? わざわざ別の世界に飛ばすくらいだから、そう生半可なものでは……ないんでしょう?」
急激に態度を変化させ、声音を変えて問い掛けるコウキに、フィオナはほんの少しばかり黙する。しかし、決してコウキの態度に気圧されたわけではなく、その条件を言い出し辛くなってキュッと唇をすぼめたのである。
察したコウキは笑みを零し、
「いいっスよ。今更気を遣わなくても……。別に、ハッキリ言ってくれて構いません。復活の為なら、どんなことだってやり遂げてみせますから!」
と言うと、
「では言いますね」
と述べ、深く深呼吸をした。
「その条件というのは————秘密なんです」
フィオナの口から出た言葉は、コウキが脳内で予想していたどのパターンとも当てはまらず、まるで雲を掴むような条件を提示してきた。
「ん?」
先程転がした腹いせに、冗談でも言っているのだろうか?
けれども、フィオナがそんな意地の悪い事はしないだろうし、今の彼女は本当に仕分けなさそうな表情をしていたため、その言葉が嘘ではないと思い至った。
「何故ですか……とか、理由を聞いて大丈夫系ですかね?」
すると、フィオナは僅かに俯く。
「死者の復活。それはコウキさんが思っている以上に、重大な事なんです」
フィオナは続ける。
「なので、『異世界へ行き、自分のやるべきことを自分で見つけ出し、それを完了させる』。これが死者の復活と対等な条件であると、決定づけられているのです」
フィオナの説明を聞き、先程威勢よく宣言したにも拘らず、コウキは戸惑っていた。
「随分と、ハードですね……」
理不尽だな。コウキは最初にそう思ったが、冷静になって考えてみる。
死者の復活。それはこの世界の理に反する行為に他ならない。ならばこれくらいの条件が当然なのだろうと、俺の知らん誰かが決めたルールもその理由も理解できる。
理解できるが……。
「どうにか、ヒントだけでももらえませんかね?」
理解できる事と納得がいく事は、明確に違う。例え頭では分かっていても。
「申し訳ありません」
それだけはできないとでも言うように、フィオナは申し訳なく頭を下げた。コウキも自分で聞いておきながら、まぁそうだろうな……と、諦めて肩をすくめる。
ここで易々とヒントを提供してくれるほど、この女性は甘くない。
フィオナという女性は天使のように優しいが、決して甘やかしたりはしないのだ。
真の優しさとは、温かさの中に凍てつく厳しさを孕んでいるものだ。
空間を切り取ったかのように沈黙で埋め尽くされていたが、刹那、その沈黙がフィオナによって破られる。
「————では、決めてください」
胸の中に入り込んでくるような力のある声が、コウキへと告げられた。
長い長い話も終わりに近付き、遂に決断を迫られている。
『再び現世へと戻るために、異世界へ行くのか』
『このまま、あの世へと行くのか』
「選ぶのは、コウキさんです————」
見たことも無い鬼気迫る表情で、コウキの瞳を見つめる。その瞳にコウキは戸惑い、圧し潰されそうな圧を感じてドクンッと心臓を高鳴らせた。
口に渇きを覚え、ゴクリと喉を鳴らす。
普段の俺ならば、選択に迷い、答えを出す事に何十分……いや何時間も掛けていただろう。それほど、生きていた頃の俺は優柔不断だった。だから、誰にでもいいから決めて欲しいと他人に縋っていた。
けれど、この選択は俺にしか決められない。
俺のこれからを左右する、一世一代の決断である。
とはいえ————、
俺は頭を抱えて悩むほど、この選択に迷いなど感じてはいなかった。
何故なら、最初から答えは決まっていたからだ。
「そりゃもちろん、復活を選ぶに決まっているじゃないですか」
当然だった。
『神谷コウキ』という人間は一度死に、全てを失ってそのまま消えるはずだった。それが何の因果か知らないが、もう一度やり直す機会を与えられた。
こんなチャンス、みすみす逃すはずがない。
「……そうですか。了解いたしました」
フィオナは張り詰めさせていた表情を解き、頬を緩めてみせた。
「では、現世へと復活するための条件を飲む。という事でよろしいですね?」
「いいですよ、繰り返さなくても。男に二言はないですから!」
ニカッと、自慢げにコウキは笑った。
「分かりました!」
つられて、フィオナもニパッと笑って見せる。
すると、フィオナはごそごそと机の引き出しを開けて、新たに一枚の紙を取り出した。
「——ではこれから、異世界に行くための手続きと説明をさせて頂きますね」
「ウスッ! よろしくお願いします」
フィオナが取り出した紙は、まるで履歴書のように記入する欄が多く、フィオナはペンを持ってカリカリと何やら細かく書き記し始める。その間も、コウキに説明を続けた。
「まずコウキさんには、翻訳の能力とパートナーを選ぶ権利が与えられます」
「翻訳の能力?」
「えっと、翻訳の能力とは、異世界の言語が自然に理解でき、会話や文字の読解などといった事が可能になる能力のことです」
「へぇー、そりゃ何ともまぁ、便利な秘密道具なことで」
「こらっ。そういうギリギリの発言は控えてください……もし引っ掛かっかっちゃったらどうするんですか!」
何に? とは口が裂けても言い出せなかった。
フィオナに叱責を受けながら渡されたのは、ピルケースに入った一粒の錠剤。
「…………。」
怪しい。
じぃーっと渡された薬を見つめていると。フィオナが視線に気付いて、
「あっ、チュアブル錠なので、噛んで服用できますからね」
「いや……そこではなく」
「えっ?」
フィオナは不安に思っているものの方向性が違い、コウキはそれを伝えようとしたが、「んん?」とあどけない表情で首を傾げられ、その気も失せていた。
「何でもありません。じゃあ、失礼して……」
ケースから薬を取り出すと、それを口に頬り込んで奥歯でガリガリと噛み砕く。
「効果が出るまでほんの少し時間が掛かりますので、その間に、パートナーの話をさせて頂きます」
パートナー……か。
異世界へと共に歩むパートナーといえば、美人の女性や妖精の類を連想させられる。冒険には、共に戦い、話し、助け合うパートナーが不可欠なのだ。
流石にたった一人で異世界へ行かせるのは無謀だから、これを助け船にしろという訳か。
「コウキさんには、パートナー候補である全五種類の中から、一つを選んでいただきます」
「選ぶ?」
すると、フィオナは再度机の引き出しから、カードのような小ぶりの紙を五枚取り出した。
「どうぞ。お好きなものを一枚、選んでください」
——雑ッ⁉
何やら儀式的な何かがあるのかと期待していたが、こんな子供向けのプレゼントみたいなやり方では、ムードもへったくれもあったものではない。どこぞのゲームのように召喚陣から出現させるのを望んでいたのだが……。
とはいえ、楽しみでないのかと言われれば決してそういう訳ではなく、口元をニヤケさせながら差し出されたカードを受け取る。
「この中から、一枚選べばいいんです————、……読めねぇ」
コウキがカードを見た感想の一発目がそれだった。
五枚のカードに書かれていたのは、おそらくパートナーの情報なのだろうが、エジプト人が使っていた古代文字かと思われるほど、解読不可能な文字なのであった。ジッと凝視してみるが、読めるという兆しさえ現れそうにない。
「あれ? 読めませんか?」
「ええ……まったくもって理解不能です」
「そう、ですか……まだ薬の効果が出てないみたいですね。了解しました。なら、効き目が出るまでお茶でもしていましょうか」
フィオナはそう述べつつ、空になったコウキと自分のティーカップに、再び紅茶を注ぐ。
コウキは「ありがとうございます」と言って、熱を持ったカップの摘まみ、口元へと持っていく。
ズズズ……と、室内に紅茶を啜る音が聞こえる。
うまい。
うまっ……うまいな…………ん、んん?
突然、コウキの視界がじんわりとボヤケ始め、「なんだ?」と目を凝らしてみる。すると、解読不能だった文字が幻覚を見ているかのように歪み、そして最後には、見慣れた日本語へと変わったのだ。
「————ぶっ⁉」
思わず、コウキは紅茶を噴き出した。
「どど、どうしました⁉」
フィオナはデスクワークを止め、慌ててコウキの方に駆け寄ってくる。しかし、「いや、大丈夫ですから……」と口元から滴る紅茶を手で押さえた。すると、フィオナは自前のハンカチを取り出して、コウキへと差し出してくる。
有難く受け取ったコウキは、そのピンク色のハンカチで口元を拭う。
「すみません……ハンカチ貸して貰って。洗って返し……あぁ、無理か」
「私が洗いますから、心配ありませんよ。コウキさんが御所望であれば、そのハンカチも差し上げますけど」
悪戯な笑みを浮かべて、フィオナはらしくもない態度を取る。
「……。では、遠慮なく」
コウキはハンカチをたたみ、ポケットへと仕舞い込んだ。コウキの言動を聞いていたフィオナは、何故かムッとした顔で睨む。
「どうかしました?」
「別に。何でも……」
不機嫌になるフィオナを余所に、コウキは思い出したように彼女へ問い掛ける。
「そういえば、薬が効いてきて……文字が読めるようになったんですけど」
「あっ、ようやく効き目が出ましたか? いやー、薬が効かないのかと思いましたよ」
「なんででしょうかね? ケーキ食ったからだったりして……なーんて」
「あ……」
瞬間、図星を付かれた顔をするフィオナ。
「まさか……当たり?」
「よく考えれば、薬を飲む際は固体のものを口に入れてはならない。という事を忘れていまして……ケーキのせいで、薬の効き目が遅くなってしまったんですね」
これは後で怒られるなぁ……と、フィオナは苦笑する。
その表情に釣られるように、コウキも苦笑しながら手元から零れ落ちてしまったカード達を拾い上げようとした。
その瞬間————、
一枚のカードだけが、表ではなく裏を向いていた事に気付く。
単なる偶然だろうと、コウキはそのカードを拾い上げ、書かれていた文字を瞳に映す。
その裏を向いたカードには『雷神獣レオヴァント』と書かれていた。
「————っ」
何故か、俺は異様なまでに目を引かれていた。
別に……こんな偶然を気に掛ける必要はない。そのまま他のカードを拾って、また選択を再開すればいい。判断すべき点は、まだ湯水の如く沸いてくる。
だから……今すぐその馬鹿な考えを改めろ。
コウキは自分自身に言い聞かせるが、視線がそのカードに釘付けになったまま外れない。
長く細い息を吐くと、僅かに薄い紅茶の匂いがした。
……偶然も、一つの判断基準ではある。
ましてや、俺の脳みそでいくら考えても、それはゲームで得た知識の延長線上でしかない。
それは果たして、ちゃんと考えたと言えるのだろうか?
なんて自問自答を繰り返していても、何も生まれはしないけどな……。
「フッ……」
試しに、こう考えてみるのはどうだろうか?
俺が決められないから、
お前が決めてくれた————。
これからお前は俺のパートナーになるわけで……まずは一つ、俺の役に立ってくれた。
そうだな……。
そういう事にしておこう……。
コウキは軽く頷いて、手に取ったカードをフィオナの前へと添えた。
「コイツで……。コイツでお願いします」
「お決まりになったんですね。その、理由とか聞いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、その……何というか。コイツに呼ばれた気がして……なんて」
「…………。」
コウキの発言を聞いていたフィオナは、間の抜けた顔で目を点にしていた。
……うわっ⁉ ハズッ⁉ 完全にスベッた笑えない程に‼
顔から火が吹きそうなほど恥ずかしく、コウキは頬だけではなく耳まで真っ赤に染めていた。僅かに冷汗が垂れて頬を伝ってきたため、雑に手の甲で拭う。
「良いんじゃないでしょうか? それも一つの判断ですから」
先程までの表情がまるで嘘だったかのように変わり、添えられたカードを手に取って、
「雷神獣レオヴァントですか……」と読み上げた。
雷霆を司る神獣とされ、別名「嵐を纏うイナズマ」と謳われた一匹狼。
カードにはそう書かれていた。
雷属性の狼か……響きはまずまず、狼というのも悪くはない。
「変更されないと思いますが、一応念の為に聞かせて頂きます。貴方が選択するパートナーは、『雷神獣レオヴァント』で、本当によろしいのですね?」
「————はい。そいつでお願いします」
「ふふっ。了解いたしました。もう主としての自覚が出てきたみたいですね」
ニパッと明るく微笑んで見せた後、フィオナは机の脇に添えられた固定電話へと赴き、ダイアルすることなく受話器を耳元に添える。
「説明及び必要事項の連絡は終了しました。『アルドラ』に繋いでください」
フィオナはコールセンターの受付のような声音で、何処かへ連絡する。
瞬間、ガコンッと音がしたかと思えば、先程まで何の変哲もない壁だったはずの場所に、この室内に入ってきた時と同じ扉が現れた。
「……おぉ」
突如現れた扉から、全ての始まりを告げるかのような神秘的な何かが、ひしひしと伝わってくる。全ての毛穴が開きそうな興奮と緊張、そして胃を下しそうな不安。
懐かしい感覚だ……。
大学受験以来、ずっと味わう事さえ嫌がっていたというのに、今では少し心地よいくらいに思えてくる。
「コウキさん。此方へ」
フィオナに手招きされ、コウキは身を引き締めて立ち上がり、扉の方へ歩いて行く。
コウキが扉の前へ立つと、改めてその凄みが、緊張で強張った肌に刺さる。
「ここから出ると、そこから先は異世界です。後戻りはできません。そして、私達は神谷コウキさんに一切助力する事はできかねますので」
「……はい」
まるで機械のように定められた言葉には、彼女の暖かみなど一切なく、より一層緊張が高まっていく。心臓が喧しく体を叩き、思わず拳を握ってしまっていた。おそらく、手汗もびっしょり掻いている事だろう。
ここから出れば、自分の事など誰も知らない異世界へ行くことになる。そうなれば、頼れる相手など誰もいない。まさに一からのスタートという事だ。
……おっと、悪かったな。
俺には頼りがいのあるパートナーがいるんだったな。スマン。
「すぅー……はぁー……」
深く深く、深呼吸をする。
体の内側に籠る緊張の熱を吐き出し、ドアノブへと手を掛ける。冷たくひんやりした金属製のドアノブに、コウキの熱が伝わって温かみを増していく。ついでに、手汗で若干濡れていた。
鍵はかけられておらず、これといった特殊な細工があるわけでもない。このまま回して開ければ、このまま異世界へ直通なのだろう。名残惜しいが、条件を満たすまではこの部屋ともお別れだ。
そして————。
コウキは、握っていたドアノブから手を離し、僅かに湿る掌をズボンで軽く拭う。
————貴方とも、しばらくお別れだ。
「短い間でしたが、色々お世話になりました。フィオナさんと出会う事が出来て、本当に良かったと思っています」
コウキはそう告げて、フィオナに対し右手を差し出した。
フィオナは神妙な面持ちで差し出された掌を見つめていたが、やがて自分の白く小さな手をコウキの方へと伸ばし、
「はい。此方こそ短い間でしたが、同じ時を共有できてよかったです」
手を取って握手を交わした。
ギュッと握ってくるフィオナの手は、頬に触れられた時よりも少し冷たかった。
緊張で手の温度がもっていかれているのだろう。送り出される俺が緊張するように、送り出す側の彼女も緊張しているという事だ。俺より何倍もしっかりしてそうなのに、感情の揺れ動きに違いは無いらしい。
彼女も、俺と同じ人間だ。そう思ったら、ほんの少しだけ緊張が和らいだ。
だからだろうか?
言うまいと思っていた言葉が、意図せず口から滑り落ちていた。
「俺が戻ってきたら、もう一度……こうやって握手をしてくれませんか?」
もう既にやるべきことをやったかのような口調で、コウキはフィオナに約束を申し立てる。昨日の酒がまだ残っているのか、それとも雰囲気に身を委ねただけなのか。どちらにしても酔っているに変わりはない。
「…………。」
返事を待った。
しかし、フィオナは何も言ってくれず、頷きは元より首も振ってはくれなかった。
ただ黙って、顔の色を濃くし、コウキの瞳を見つめてくるだけ。
——約束はできない。
そういう意味なのだろう。
成功する確率の低い条件……この表情から察するに、成功率は五割か……いや、三割か。
或いは、一割にも満たないのかもしれない。
「なら、今のは俺が勝手に約束したって事にしといてください。別に何の効力も無いですけどね」
ありもしない身勝手な約束が、コウキの決意をより硬く、より強固なものへと変えていく。
コウキは再びドアノブに手を掛け、勢いよくクルリと回した。
ガチャリ————と音が鳴る。
「では、行ってきます!」
コウキは一度振り返り、無言で見送るフィオナに、一言だけ告げて溌溂に笑った。
やはり、返事はない。
最後の最後で気まずいまま別れるのも癪だったため、格好付けてみたのだが、不発。
仕方が無いか……と、そのまま腕を前に押し出し、扉が開きかけた瞬間。
「ごめんなさい……。それと、お帰りをお待ちしております」
それは、聞き取れない程度の小声。背を向けたコウキに告げられた言葉は、約束をしなかった事への謝罪と、本当は言いたかった言葉。
けれど、それらの言動は、『ゼロ』に定められた規則に反する。
自身が浮かべているであろう憐憫の顔は、これから先へ進む相手には決して見せてはならない。
彼に後ろ髪を決して引かせてはならない。彼に名残惜しさを与えてはならない。
本当は、応援くらいしたかった。相手を激励するまでならば、許されるから。
けれど……彼が求めてきた一つの約束。
あの一言で、私は何も言えなくなってしまった。
私達には、これから先貴方に降りかかる不幸を退ける事は叶わない。
だからせめて——、
あなたが無事生還されることを、心より、祈っております————。
「ん? 今何か……?」
コウキは、フィオナが何かを呟いたことに気付き、咄嗟に振り返ろうとするが、開かれた世界の扉は全てを包み込み、コウキを異世界へと誘った。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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次回からは、時間通り21:00に投稿しますので、よろしくお願いします。