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チュートリアル①

明日の21:00投稿としていましたが、せっかくなので続きを出させていただきました。


 …………。

 ………………。

 ……………………。


 あれっ……。

 俺、どうなったんだっけ……。

 何かよく分かんないな……。


 なんか、ダルイ。

 体の感覚はあるみたいだから、別に俺自身がおかしくなったわけではないのか?


 神谷コウキは、そこまで考えたところで目を覚ました。


「ん~……ん」


 軽く頭を振り、寝ぼけ気味だった自分を起こそうとする。その後、覚束無い視界を何とかしようと目を擦ってみる。


「……んん?」


 視界の先に広がる光景に困惑し、コウキは再び目を擦る。


「なんじゃこりゃ……?」


 まっしろ。

 視界の先に広がるのは、三百六十度何処を見渡そうとも真っ白という、殺風景な光景であった。真っ白な世界の奥行きは、地平線かと思わせるほど果てしなく、頭上はまるで空のように広がっていた。


「真っ白すぎやねーか。つまんね」


 コウキはその光景に驚きつつも退屈を感じ「夢でも見てるのか?」と軽く欠伸をする。


 世界のついでに、俺もおかしかった。


 何故か俺はぴっちりとスーツを着ており、ポケットを(まさぐ)ってみれば、自分のスマホといつも吸っている煙草とライター、そして何でこんな物がと……飴玉が六つ。


 コウキは、夢の中ですらこんな現実的な物しか持っていない自分の想像力的な何かを揶揄しながら、特にやることも無いのでキョロキョロと辺りを見渡してみると、


「ん? こんなところに……扉なんてあったか?」


 自然と凭れ掛かっていた扉に気が付き、頬を掻きながら首を傾ける。


「随分と古い扉だな……。こう、なんだ。西洋の町にありそうな感じの……」


 と一人ブツブツ呟きつつ、コウキは引き寄せられるように扉の前へと立つ。


 真っ白な世界で、唯一異彩を放ち続けている扉。

 開けてはならないのだろうと思ってはいたものの、ゲーム好きで子供のように好奇心旺盛な俺が、こんな面白そうな物体の前で我慢が効くはずもなく……。


 扉のドアノブへと手を掛ける。


 扉があったら、取り敢えず開けてみなってな——。

 ドアノブを回せば、ガチャリと音を立てて扉がゆっくりと開かれる。


「————っ。」


 コウキは思わず驚愕し、思わず魅入ってしまった。


 開かれた扉の先には、木の板で張り巡らされた床、洋室のような白い壁や天井が広がっており、本や資料などが敷き詰められた棚、見たことも無いような置物が並べられおり、奥にはホテルの受付のようなデスクが備え付けられていた。

 アナログの電球で照らされた室内は、淡いオレンジに染まっており、何となく味のあるコテージを彷彿とさせられた。


 他にも何の動物かもわからない剥製や、煌びやかに輝く宝石などもあったのだが……。

 コウキの目に止まり、尚且つ魅入ってしまったものは、そんなものではない。


 一人の女性。


 フロントのデスク付近で、上着を着ようとしていた女性の裸体であった。


「……えっと」

「……あ……ああ…………っ」


 女性と目が合う。


 その女性は、一見十代と思えるほど若々しく綺麗な顔立ちをしている。赤茶色の長い髪が腰元まで流れるように伸びており、その宝石のような瞳の片方が、前髪で隠れていた。


 極めつけは、上半身だけでも分かるそのモデルのようなきめ細かい肢体。

腰はくびれて胸囲は大きく、透き通るような白い肌を持ち合わせており、それを包み込むような黒いブラを付けていた。


 ハッキリと、コウキはこう思う。


 人生で初めて、こんな美人の半裸を生で見てしまった…………と。


 すると、その女性は状況を全く飲み込めていないと言った真顔でコウキを見つめていたが、自分の置かれている状況をやっと理解する事が出来たのか、顔色があっという間に朱色に染まっていった。


「ああ……あああ…………ッ⁉」


 口を酷くパクつかせ、その大きな瞳が涙に濡れ始めている。


 ——あ、やべっ——。


 あと一秒もしない内に、女性は泣き出しそうな表情へと変わり、焦ったコウキはどうにかして気を宥めようとしたのだが、女性は思いっ切り息を吸い込み、


「十五分後に出直してきてください————ッッ‼‼」


 鼓膜を揺さぶるほど大声で叫んだ。


「す、すいませんでしたァッ⁉」


 コウキは女性が叫んだとおりに、慌てながらも急いで部屋を飛び出し、扉を閉めた。

 未だ心臓がバクバクと音を立て、胸元を押さえながら深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いてきたところで扉に凭れ掛かり腰を下ろす。


「ハァ————」


 コウキは深く息を吸い、そして吐く。

 再び戻って来たのは、やはり何の変哲も味気も無い、ただだだっ広いだけの真っ白な世界。


「……十五分、待てって言われたっけ……?」


 美しい肢体をあられもなく晒した女性の言葉を、繰り返し反芻する。


 というのも、女性の裸を最後に生で見たのは途方もなく昔の話で、さらに言えばその人物は母親に該当するわけだが……。俺が忘れているだけで、物心付く前の幼少期は、血の繋がりのない誰かの裸体を見たことがあるのかもしれない。


 だが、記憶にもない事を思い出せるはずもなく、俺は生涯、女の裸を見ることのないまま死ぬんじゃないかとも思っていた。

 だから、例えこれが夢だったとしても構わない。


 俺は、見知らぬ()()の半裸をこの目にした。


 十年以上の歳月を経て、ようやく俺の記録が母親から更新されたという訳だ。


 俺好みの黒い下着に、恥じらいで朱に染まったあの顔。


「————いやぁ……溜まんねぇ」


 贅沢を言えば、その全身を拝みたかったなぁ……。


 コウキの鼻の下が伸びている事は、言うまでもないだろう。






 十五分後————。


 そろそろか……と、コウキは凭れ掛かっていた扉の前から立ち上がろうとすると、


「どうぞ」


 先程の女性の籠ったような声が、扉越しに聞こえてきた。


「では、失礼します」


 何故かコウキは緊張感を感じ、着崩れたスーツを正しネクタイを締め直する。


 まるで面接に挑む時の自分を思い出して吐きそうなほど気分が悪くなるが、先程の女性を今一度拝めるという眼福の為に、俺はプライスレススマイルを発動させて、再びドアノブへと手を掛ける。


 ガチャリと開ければ、先程の女性が受付の向こうに鎮座していた。


 すると、女性は顔の前で手を組み、顔の影を隠させて、


「フフフ……よくぞいらっしゃいました。迷える魂よ。私の名は『フィオナ』、迷える魂を導く者」


 などと、声のトーンを落とし嘲笑う。


「……………。は?」


 コウキは、緊張が一気に冷めた。


 この人は、今しがた分かりやすくミステリアスな雰囲気を作り出してくれているようだが、先程の狼狽えた態度の貴方を俺は見てしまっているわけで、ましてや今更どんなに格好付けたところで…………貴方の裸が邪魔して、全然ムードに乗れない。


「さぁ……汝よ。その名を私に告げるのです……」


 コウキの内心など知る由もなく、フィオナはそのキャラを徹底して演じ続ける。


「いや、さっきその時の貴方を見てしまっていますから……。それでさっきのトチを取り返そうとしてキャラ作ってると思うと。なんか、可愛いですね」


 そう、切り返してしまった。


 コウキの返答を聞いていたフィオナは、数秒ポヤンとした表情をしていたが、だんだんと自分のやっていたキャラが恥ずかしくなり、耳まで顔を赤くしたまま俯いて、そのまま固まってしまった。


「あっ」


 コウキは、自分の失言に対して思わず声を上げる。


 俺が入るタイミングをミスって、自分のあられもない姿を晒してしまったものの、それでも必死に我慢して不思議なムードを醸し出してくれていたというのに。俺がつまらん指摘をしてしまったおかげで、せっかく作ったキャラも打ち砕かれてしまった。


 度を越えた羞恥心を味わった彼女は、もう口も開くのも辛いといったところだろう。

 いたなぁ……中学でこんな泣き方する女子。


「……ッ」


 しゃーなし、俺も貴方と同じ分だけ恥をかきましょう‼


「あ……あなたは⁉ いやお前は⁉ お前は一体……何者なんだッッ⁉」

「————。ふぐっ……ぐす……うぅぅ、ひぐっ……」


 と、それっぽく大げさに応えてみたのだが、それを聞いた彼女は、今度は涙を机の上に零しながら嗚咽を漏らし始めた。


 フィオナはコウキのそれっぽい言葉を聞いて、自分に合わせようとしてくれている事に対する申し訳なさと、その他諸々の情けなさで遂に羞恥心が度を越え、涙腺が決壊してしまったのだ。


 な……泣かせてしまった、とにかく何とかしなければ!


「あ……あ~ここは、あれっスね、あの……。スーパースゲェ感じの所ですね!」


 もう全然ダメだ。

 紙並みにぺらっぺらのフォローしかできておらず、そりゃこのアドリブ力じゃ面接に落ちて当然だわ、と自分のスキルの無さを呪った。


 すると、フィオナは受け付け台付近に据えられたもう一つの椅子を指し示し、


「そこに……お座りください」


 涙を袖で拭いながら、揺れる声でそう告げた。





「改めまして、私の名前はフィオナと申します!」


 フィオナは溌溂とした笑顔で、先程の事など無かったかのようにもう一度自己紹介する。


「どうも、ご丁寧に」


 切り替えが早いように見えるが、このフィオナという人物。

 こうなるまで既に十五分を費やしていた。彼女の横に備え付けてあるゴミ箱に入ったティッシュペーパーと、未だ腫れている彼女の目が全てを物語っている。


 その間俺ができたことは、ただひたすらに薄っぺらい声を掛ける事だけだったが……。


 もっと女慣れしておけば、こういう時に上手い慰め方ができるんだろうが。

 悔やんでも仕方が無いか……。


 するとフィオナは、机の引き出しから辞書のように分厚いファイルを取り出す。


「神谷コウキさん……で、間違いありませんね?」


 サッと右目にかかった前髪をかき上げ、チラチラとファイルとコウキの顔を照らし合わせながら、名前を訪ねてきた。


「なぜ……俺の名前を?」

「コウキさんの事は、この現世(げんせ)(こん)リストに記載されていまして、あなたの事は何でも記されています」

「げんせ……何?」


ていうか、サラッと下の名前……。


「生まれてた年月や、それからの成長過程が事細かに記されたリストの事です。そうですねぇ……例えば、嬉しかった事や悲しかった事、楽しかった事や恥ずかしかった事なども……記されていまして……」


 フィオナはファイルのページをペラペラとめくって、


「ふふ。特に、この大学の時の恋の事なんて……」

「あー……その事はちょっと、勘弁して頂けると……」


 少しばかり頬を染めながら、先程の仕返しと言わんばかりに悪戯な笑みを浮かべて、黒歴史を語ろうとしたため、コウキは苦笑し語りを遮った。


「あっ、ごめんなさい。コウキさんはとても興味深い恋愛をしてきた人でしたから。いつか本人と対面する機会があれば、直接お聞きしてみたくて……つい」

「勘弁してください」

「申し訳ありません。ではそろそろ本題に移りますね」


 一度軽く頭を下げた後、フィオナは気の抜けた雰囲気を正すように、背筋を伸ばして瞳の色を強くする。

「……ッ!」と、コウキも身が引き締まるような気分になり、姿勢を正した。


「……コウキさん。あなたはこの場所に訪れる以前の出来事を、覚えていらっしゃいますか?」

「……はい?」


 質問の意図が、よく分からなかった。


「いや、特には…………覚えていないんですけど」


 本当に思い出せない、というか夢を見ているのだとしたら、


「どうせ寝てたんじゃないんですか?」


 と、コウキは適当に答える。


「本当にそうでしょうか?」


 コウキの適当な返答に対して、フィオナは突き詰めるように切り替えしてきた。

 その息を飲みそうな彼女の顔に物怖じして、思わず舌が回らなくなる。


「……、それってどういう?」

「人の心。人間の脳の働きとして、自分の身を守るために受け入れられない事を、記憶を心の奥底へと閉まってしまう事は、知っていますよね?」

「まぁ、知識程度には……」

「さらに人は、事故に遭った直後の記憶が抜け落ちることがあり、死亡してしまった(かた)はその自覚がないままという事も、ありえるそうです」


 コウキはフィオナの何の脈絡もない話題について行けず、思わず手に力が入り、表情が険しくなっていった。


「————、何が言いたいんですか?」

「気付きませんか? 思い出せませんか? 自分の身に……何が起きたのか?」

「…………。」


 鼓動が全身に響き渡るほど、コウキの心臓が高鳴っていく。

 けれどこれは、怒りによってではない事は、コウキ自身も十分自覚できていた。


「いいえ。貴方は覚えているけれど、それを自覚し受け入れる事を酷く恐れているだけなんです」


 少しずつ、ほんの少しずつだった……。

 自分の呼吸が時間の経過とともに荒くなっていき、気道が狭まっているのが分かる。

 コウキの頬には冷汗が伝い、体中がヌメッとした嫌な汗を掻いていた。


「思い出してください。それはとても辛い事ですが、貴方自身が自分で思い出すことに意味があるんです」

「なに……を……?」


 なんだよ、分からねぇよ……。


 暗く閉ざされた記憶の中を探るが、遠い場所に僅かな光が見えるだけで届きそうにない。いや、自分自身で届かないように遠ざけているのか? なぜ? 俺はなぜそんな無意味なことしているんだ?


「あなたは————」

「俺は——————」


 すると、遠かったはずの光が、徐々に此方へと迫って来ていた。

 耳障りな程大きな音を立てながら、それはスピードを上げて一直線に突き進んでくる。


「ここに来る前」

「ここに来る前」


 やめろ。

 やめてくれ……。

 思い出さないでくれ。


「俺は、トラックとの交通事故で……」


 突き進む光は間際まで迫り、やがて目が眩みそうになるほど輝いて、自らの姿を明らかにした。重厚な肢体、目を潰すほどのランプ、周りの音を遮断するほどの喧しいエンジン音。


 来るな……こっちに来るんじゃねぇ。

 自覚するんじゃねぇ!


「死んじまった————」


 胸を勢いよく、貫かれた気がした。





 そうだ……。


 俺はあの時、


 巨大なトラックが真っ直ぐに俺へと突っ込んでくる。

 トラックに轢かれた時の感覚が蘇ってくる。

 けれど、体は全く動かない。

 ハッキリと、思い出した。

 その時の感情を全て、余すことなく全て……。


 動揺

 恐怖

 困惑


 ————痛み。

 そうだ、俺はあの時、あの事故で……。


 死んだんだ————。





「かはァ————ッ⁉ あ……アアァ……ハァッ、ハァッ、ハァッ⁉」


 コウキの内側に溜め込んでいた感情が一気に噴き荒れ、呼吸すらままならなかった。

 必死に自分を落ち着かせようとするが、もはや止める事叶わず、息を吸おうとするが気道が酷く狭まって酸素が供給されない。


 呼吸が……できない!

 心臓が、刺されたみたいに痛ぇ。

 肺が破ける。


 コウキは服の上から心臓を両手で鷲掴み、襲い掛かる感情の波を鎮めようとする。

 しかし、やはり自分では舵が効かず、荒波の中に身を放り出され、


 ……意識が途切れようとした瞬間。


「————大丈夫、ですよ」


 頬が、ほんのりと温かく感じた。

 顔を上げれば、そこにはフィオナの優しく微笑んだ顔が映る。


「…………大丈夫、ですからね」


 コウキの顔を包み込むように、フィオナの両手が添えられている。顔に息が掛かりそうなほど間際に迫る彼女の顔は、まるで女神のように穏やかであった。


 俺は、彼女と視線を交わらせる。

 彼女の瞳の中に映る自分の姿が、ハッキリと捉えられるほどに……。


 すると、どうだろうか?


 先程までの異常な動悸が、荒れた呼吸が、自然と治まっていった。


 一体、俺は何をされたのだろうか?


「手荒なことをして……すみませんでした」


 フィオナはコウキの目を見つめたまま詫び、コウキの瞳から流れる一筋の涙を、持ち前の白く細い指で拭い取った。たったそれだけ、たったそれだけでコウキの胸は暖かな感情で満たされていく。


 ——蕩けてしまいそうだ。


 彼女は……フィオナという女性は、美しく、美しく、美しかった。


 しばらくの間、彼女の顔に見蕩れていたのだが、突如我に返り、フィオナの顔がすぐそこにあるという状況に動転し、仰け反って椅子から落下してしまった。


「ど、どうしました⁉」


 慌てて、フィオナがコウキを抱き起そうと椅子から立ち上がったのだが、


「い……いえ、心配しないでください」


 そう告げて、椅子を元の位置に戻して再び腰掛ける。

 そして次の瞬間には、コウキはこう思っていた。


 ————正直、本気で惚れた。


 恋愛は色々してきたのだが(付き合ったことは一度もない)、その中でも一番記憶に刻み籠めれた気がする。


 付き合いたい……そう思う相手はいくらでもいた。

 だが、結婚したいと思ってしまったのは、今日今この瞬間が初めてかもしれない。

 とか……一瞬で考えてしまう俺ヤバイ。


「気分転換に、お茶でもお持ちしましょうか」


 そうフィオナが尋ねてくる。


「あ、いや、お構いたく」


 噛んだ。


「ほら、まだ少し心が落ち着いていないんです。お茶でも飲めば、少しは落ち着きますよ……といっても、コウキさんを追い詰めてしまった私が、こんなことを言うのは間違っていると思うんですけどね」


 苦笑し、フィオナの視線が少し下に落ちる。


「私だって、本当はこんなやり方好きじゃないんです。今のように気を狂わせて、おかしくなった人は以前にも……。特に、コウキさんのように事故にあった人や殺害されてしまった人は、自分の死を受け入れられず、その時の記憶も受け入れられずに…………」


 フィオナは、そこで口を噤んだ。


「神谷さんは……心のお強い人なんですね」


 屈託なく笑って見せるフィオナだが、その表情からは疲労の色を濃く感じた。


 そりゃそうだ。


 目の前で人が狂い出そうとすれば、誰だって酷く精神を疲弊させ、心を削られる。

 偶々俺が貴方に惚れたから良かったものの……そうでなければ一体どうなっていたか。

 想像するのも嫌気がさす。


「そうですかね?」


 俺は先の言葉に返し、疑問で問い返す。


「はい。死を受け入れられるって、並大抵の事ではないですから……」


 その一言には、途轍もない重みがあった。


 彼女は相当苦労してきたのだろう。さっきの俺のような状態が長く続いた奴もいるだろうし、この部屋で暴れ狂った事もあったのではないだろうか。

 死を自らで自覚させることが彼女の意思でないのならば、俺に問い掛けを続けている間も罪悪感に晒され続けていたんだろう。


 それなのに……今も明るく振る舞い、気を遣ってくれている。


 本当に、優しい人だ。


「頑張っているんですね……フィオナさん」

「え?」

「だって、俺からしたらこんな精神を擦り減らしそうな事、続ける続けない以前に逃げ出してますから。ホント凄いですよ……いやマジで」


 コウキは照れ隠し気味に頬を掻き、苦笑しながら語っていた。


 それに比べて俺は、東京の大学に入ったものの特に何もせず、就活もサボって堕落。

 自分に言い訳ばかりして、向き合いたくない事にはひたすら背を向けて逃げ出した。


 改めて自分が情けなくなる。


 自己嫌悪が止まらず、軽く頭を抱えていたコウキに対し、フィオナは口元を緩ませる。


「優しいんですね……」

「はい?」


 フィオナの不意を突く一言に、コウキは声が裏返った。


「いや……。そんなことを言われたのは初めてでして。余計なことを口走らせてしまったなって思っていたんです。……正直、引かれていると思っていました」

「そんなことは、別に」

「けれど、私の話を真面目に聞いてくださっていて、心配して気遣ってくれていて……」


 すると、フィオナはほんの少しばかり頬を染め、


「コウキさんの方こそ、や……やさしい人だなって、お……思いまして……」


 途切れ途切れに、ぎこちなくそう告げた。


「そうですかね? 俺なんか普通ですよ」


 気のせいか……、フィオナさんの距離感や態度が先程よりも違うというか……。

 まぁいいか。信頼度が上がるに越したことは無いし、それは俺にとっても願ったり叶ったりな訳だが。


「……………………だから選ばれたんですね」


 コウキの耳に届かない程度の小声で、フィオナは呟いた。


「ん? 何ですか?」

「いーえ、何でもありません。じゃあ私、そろそろお茶持ってきますね」


 そう言って、フィオナは奥の扉へ嬉しそうに引っ込んでしまった。


「…………。」


 ふむ、ようやく考えを纏める時間が与えられた気がした。


 そっか、死んだんだな……俺。


 涙が零れるものだと思っていたのだが、俺の涙腺は一滴の雫も零そうとしない。地元の親戚の叔父さんが死んだときは涙を流したものだが、自分の事となると案外涙は出ないものなんだな。


 俺は死んだ……という事は、ここはあの世ということなのだろうか? 

 地獄? いやそれはないか、ならば天国か? まぁ、ある意味天使はいたけれども……。


「まったく、本当にどこだっつんだよ……ここは」


 椅子に深く腰掛け、天井を見上げて深呼吸をする。


 オレンジ色の電球が、淡く輝いていた。


 ……そもそも、あの世も天国も地獄も、行って帰ってきた奴は一人もいないのだから、存在するかどうかすら分かったものではない。もしもいて、俺が今すぐ現世に帰れた暁には、それらオカルトの類を全て信じても良いかもしれないな。


 そんなことを一人脳内で語っていると、


「お待たせしましたー!」


 と快活な声で、フィオナが盆にティーカップ及びティーポット、そしてケーキを乗せて戻って来た。


 嗅いだことのない……何やら鼻に抜けるような香味。紅茶、か……?

 紅茶を飲む習慣が無かったコウキは、嗅ぎ慣れない香りに対しスンスンと鼻を鳴らす。


「すいません。気を遣わせたみたいで」


「いやいやー、先程のお礼です。ついでにコッソリとへそくりを持ってきました」


「内緒ですよ」と小声のフィオナ。

 何やら打ち解けたようで、彼女の話す口調がほんの少しばかり砕けている気がする。


 話しやすくて助かるが……。


 紅茶を差し出されたコウキは、「ありがとうございます」と言って受け取り、湯気の立ち昇る紅茶を無言で啜る。紅茶の良し悪し、高いのか安いのかなどはサッパリ分からないが……これだけは言える。


「うまい……」

「良かったです。お口に合ったみたいで……ケーキも食べてくださいね」


 フィオナはニパッと表情を明るくさせ、自分もティーカップを口へと持っていく。

 紅茶に舌鼓を打つ彼女を見ながら、俺は揺れる紅の水を眺めて、こう思った。


 死んでも……味は感じられるのか————と。


 思えば、死んだというのに肉体の感覚は生きていた頃と一切変わらず、着ている服や持ち物まで死ぬ直前と全く同じ。多分ここで煙草を吸おうと思えば吸えるし、ライターの火を点ける事も可能だろう。


 彼女に対して失礼に当たるからやらないが……。


「んーっ! おいしい! 少し奮発した甲斐がありました!」


 このフィオナという人物もそうだ。

 先程触れられた時の感覚、肌の温もりも含めて紛れもなく本物だった。


 死んだ人間が肉体を失い、魂だけが天に還るという説が正しいのであれば、今の俺の状態はかなり異質という事になる。五感はそのまま……よく見れば、トラックに轢かれたというのに怪我一つない。


 ————もしや、ここは死人の魂が行き着く先ではない?


 ……ダメだ。一人で考えこんでも疑問が尽きることは無い。

 彼女に直接聞く方が速いな。


「あの、フィオナさん……」

「——むぐっ? ほうは(どうさ)へ(れ)は(ま)ひ(し)は(た)?」


 まるでシマリスのように頬が膨らむほどケーキを頬張り、唇にクリームを付けているフィオナ。


「……いえ、何でもありません」


 別に、ケーキ食ってからでも、遅くはないのかもな。





「ふぅ。気分はどうですかコウキさん。落ち着きましたか?」


 フィオナは口元に付いたクリームをペロリと舌で舐めとり、その仕草に俺はドキリとする。


「はい、おかげさまで」

「そうですか、それは良かったです。ではそろそろ、コウキさんも気になっていると思われる、この場所に着いての説明と、コウキさんがここにいる理由について、説明させていただきますね」

「了解しました」


 いよいよ、本題という訳か……。


 フィオナは喉を「んんッ」と鳴らして、片付けられた机の上に白紙とペンを用意した。


「コウキさんが今いるこの場所は、『ゼロ』と呼ばれる、黄泉(よみ)現世(げんせ)の中間に存在する空間なんです」


「……………………えっと、どういう?」


 また知らん単語が飛び出し、コウキは肩眉を吊り上げる。その顔を見たフィオナは、用意していた白紙に手を添えて、ペンで何やら二つの丸を書いた。


「えーっと、ここに二つの丸があります。上の丸は黄泉、下の丸は現世だと思ってください」


 そして、再び丸と丸の間に小さな丸を書き加える。


「で、この間に一つある小さな丸。ここに『ゼロ』が位置しているんですよ」

「へーえぇ……」

「な、なんかリアクション微妙ですね……、もっと驚かれるものだと思っていたんですけど」

「そう……っスかね? なんかすみません」


 いきなりゼロとか、黄泉と現世に別の空間があったとかカミングアウトされても、困惑するしリアクションも薄くなる。けど一々ツッコんでいたら話が進まない上に、こういった感じの名詞は、話をしているうちに意味が分かってくるものなのだ。


 ゲーム漬けだった頃にはよくあった。


 画数の多い漢字に英語のルビをふって『 』で括られた言葉は、総じて深く考えず読み飛ばす。数日そのゲームをやってたら、自然と頭に言葉もその意味も入っていた。


 コウキはこめかみをカリカリと掻き、


「つまり……は、人は死ぬと、下の丸の現世から上の丸の黄泉に行く前に、この中間のゼロを経由するという事ですか?」

「おおー! 流石コウキさん! 理解が速いですね」

「ど……どうも」


 日頃褒め慣れていないコウキは、フィオナからの拍手喝采に照れて頬を赤くする。


「でも残念、ハズレです」

「えっ」


 思いのほかバッサリ切り捨てられてしまった。

 褒められて調子に乗っていただけに、カウンターで右ストレートを食らったような気分になる。


「本来、人は亡くなると現世から黄泉までは直通なんです」


 フィオナは持っていたペンで、下の丸から上の丸まで一直線に線を引いて見せた。


「しかし、コウキさんは黄泉へ行くのではなく、『ゼロ』へと訪れた。これは、貴方が選ばれたからなんです」


 何故か嬉しそうに、フィオナはニッコリと微笑んでいた。


「選ばれた?」

「はい。私の上司に当たる方々が、何十万と亡くなられた人々の中から、厳選に厳選を重ねて、『ゼロ』へと向かえ入れる人を選ぶんです。凄い事なんですよ! 何十万分の一で選ばれたコウキさんは‼」


 フィオナは若干コウキとの距離を詰め寄らせながら、瞳をキラキラと輝かせていた。


 確かに、そりゃ凄い事なんだろうが……。

 コウキは、自分が選ばれたことに対して、多くの疑問を覚えていた。


「有難い話ですが……俺が選ばれるなんて、その上司は大丈夫なんですか? 俺なんかよりも、もっと良さげな人がいそうな気がしますけど」


 そう告げると、フィオナは態度を急変させ、ムスッとした膨れっ面になる。


「上司を悪く言わないでください。それに、私はコウキさんが選ばれても、何もおかしくはないと思います」


 どうやら、上司を侮蔑された事と、俺自身を過小評価したことに対して、彼女は怒っているようだ。笑った顔は天使のそれだが、怒った顔も……相変わらず天使に変わりない。


「はは、それは……男冥利に尽きると言いますか。何か照れますね……ハハ」


 コウキは後頭部を掻き、ぎこちなく返事をしながら笑っていた。

 彼女はそう言ってくれているが、俺は俺自身を高く評価する事はできそうにない。

自分で思っているよりも、俺って凄い奴なのかもしれない!


 ——などど、阿呆な誤解しそうになるから。

 俺は誰かに選び取って貰えるほど、人間ができている奴ではない……そう思っている。


 パン——ッ!


 何やら乾いた音が響き、コウキが思わず顔を上げると、フィオナが正面で両手を鳴らしてしていたようだった。フィオナは顔を上げたコウキの顔を見ると、首を軽く斜めに傾けながらニコッと微笑んで、


「ではそろそろ、コウキさんが何に選ばれたのか、ご説明いたしましょう!」


 まるで卑屈な思考回路を断ち切るように、フィオナは透き通った声でそう告げた。


「…………っ。いよいよですか」


 そうだ……。

 何を無意味に卑屈になっているのだろうか?


 自分が何に選ばれたのか知りもせず、これからどうなるのかも分からないというのに。

 まぁ俺が選ばれる当たり、社会的に見て有能な人材が集められているという訳でもないらしいからな。歓喜するほど価値のある物かどうかも疑わしい。


 抽選で百名様に与えられる地獄への片道切符だったならば、目も当てられない。


 コウキは若干疑心暗鬼になりつつも、フィオナの応えを待つ。

 しかし、俺はその答えに、全身の毛穴が開ききるほど震える事になるのだ。


「神谷コウキさん。貴方は、現世へと復活する権利を得ることができました————」





「……………………はい?」 


 フィオナに告げられた言葉が余りにも予想を斜めいくものだったため、コウキは無言で固まった後に、素っ頓狂な声を出してしまった。


「も……もう一度」


 コウキは人差し指を立て、再度フィオナに問う。


「はい。コウキさん、貴方は現世へと復活……分かりやすく言うと、現世へと戻る権利を得ることができました」


 同じ声量、同じ声音、同じ表情でフィオナは繰り返す。

 フィオナの発言が、ようやく自分の聞き間違いなどでは無い事に気付く。


「マジっスか?」

「はい。マジです」


 絞り出すような俺の発言に、フィオナは得意げに親指を立ててウインクをしてみせる。


「しかも、事故に遭う数分前に時間を遡らせた状態で、ですよっ」


 こそばゆい声で告げられて、コウキは思わず席を立ち上がり、


「マジっスかぁッ⁉」


 と、室内に響くコウキの大音声。


 正直、自分の不注意が招いた事故で死んだと理解した時には、不本意な死を飲み下し、未練も後悔も全て断ち切らねばならないと諦めていた。

 だが、再びあの時あの瞬間から人生をやり直せるのであれば、死んでしまった時に生まれた多くの後悔も未練も、全て取り戻すことができるかもしれない。


 母さんにだって、これといった親孝行をしてこなかったし、友人(アイツ)に対してしょうもない憤りをぶつけてしまった。その他にも、やり残してきたことは腐るほどある。


「…………。」


 しかし、コウキには大きな疑問が生まれる。


「……ただで、戻れるわけではないですよね?」


 コウキが探るように問い掛けると、フィオナは眉毛をハの字にさせた。


「流石コウキさん、伊達に苦汁を味わってませんね。お察しの通り、現世へ戻るためには一つの条件があります」


「ですよねぇー……」


 全くもって、そう都合の良い話など転がっているはずもなく、大体は裏があるものだ。


「その条件というのは……何ですか?」





「はい。その条件というのは、コウキさんに異世界へと行ってもらう事です———」


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