プロローグ
かわいい娘は、次の話からでます。
季節は春。
世間では新しい生活が始まり、期待に胸を膨らませる若人で溢れかえっている。
そんなフワフワとした雰囲気に、街が包まれている中————。
電気も付けず、ゴミは散らかり放題、煙草の吸殻が溜まって部屋の壁紙が黄ばんでしまっているような汚部屋。
そんな不衛生な部屋で、ひたすらにゲームコントローラーを動かし、テレビ画面を齧り付くように凝視している男がいた。
「え~……ヒルドラムは火属性だから水系の魔法が有効、そんでもってアイーシャとクレバに左右から叩いてもらえば……ハッ、楽勝だな」
その男は、中肉中背の体躯をしており、並の髪の長さ、平々凡々な男性を絵に描いたような人間である。違うところといえば、目が死んでいるように腐っている所ぐらいだろう。
「……ん? おいっ⁉」
男は動転し叫ぶ。
理由は、白熱していたゲームの画面が、文字通り凍り付いたようにフリーズしたからだ。
「ザッケンなッ‼ コイツ倒したらギルドランク上がんだぞコラッ‼」
男は焦り、コントローラーをやたらめったら力加減もせず、ガチャガチャと押しまくる。
「クソッ、クソッ⁉ マジかよ⁉ 勘弁してくれよォッッ⁉」
完全に固まってしまった画面に納得がいかず、男は意味もないのに、テレビ画面に罵詈雑言を吐きまくる。しかし、そんな事をしたところで、画面上に映るヒルドラムとやらはうんともすんとも言わない。言うはずがない。
「ッ————、ハァ————……ぁ」
男は諦めてしまったのか、長いため息を付いてコントローラーを放り出し、怒りと焦りで力んでいた体から力を全て抜き、背中から思いっ切り後ろに倒れ込んだ。
「何だつっんだよ……クソッたれ」
天井に向かって、誰にも聞こえもしない声で文句を垂れ流す。
すると、倒れ込んだ目線の先に、逆さまになった目覚まし時計が見えた。
「なんだ……もうこんな時間か……」
男はダルそうに立ち上がると、ヨタヨタとした覚束無い足取りで、洗面台へと向かっていった。
男が、コンビニのバイトに行く時間である。
「……ったく。メンドクセェなぁ…………」
そう愚痴を吐きながらも顔を洗い、歯を磨き、買い置きしてあったパンを食べ、何故かスーツに着替え始めた。
男は野暮ったくドアを開け、アパートを出た。
俺は『神谷コウキ』。
別に名乗るほどの大層な人間ではない。本当だ。
年齢は二十二歳、それなのにコンビニバイトのフリーター。
十八の頃に上京してきて大学に通ってはいたが、進学はせず、これといった就職活動をすることも無く無事に……ではないが、卒業する事になってしまった。
そっからは、しばらくの間親の仕送りで食いつなぎ、今はその仕送りとバイト代で生活をやりくりしている。
バイトをしていて役に立った事と言えば、愛想笑いが上手くなったくらい……。
我ながら泣ける。
だがいつまでもこの調子ではダメだと思い、この身に付いたプライスレススマイルを活用して、その辺の会社に就職しようと思ったのだが、落ちに落ちまくった。
そして、現在進行形で腐って行っている俺がいる。
因みに余談だが、彼女は無し。
まぁ、こんな親の脛齧りのプー太郎にいるわけがないんだけどな。
ん? 何でコンビニバイトに行くのにスーツを着る必要があるのかって?
あぁー……その、なんだ。
あんまり聞かないでくれ……いずれ分かる事だから、さ……。
コウキはバイトを終えると、いそいそと着てきたスーツの背広へと袖を通す。
すると、同じ時間帯で働いている同僚に声を掛けられた。
「神谷さん、何でスーツっすか?」
「ん? あぁ……この後、同窓会でね」
「へぇー……そうなんスね。なら久々の再会を楽しんできてくださいね」
これが、スーツを着てきた理由だ。
嘘だ。
友人から飲みに誘われているだけ。
その友人には、俺は会社で働いているという事になっている。
だからその嘘を取り持つために、こうして会社帰りを装ってスーツを着ている訳だ。
情けない————。
とある、ありふれたただの居酒屋。
暖簾をくぐり、騒がしい自分以外の客の雑談で埋め尽くされた店内を進んで行く。
店の奥へと向かい、襖で仕切られている場所へと辿り着く。
襖を開ければ、そいつはそこにいた。
「おおっ! 来たなコウキぃ」
「わり、遅くなった。先に始めてたのか?」
「まぁな。待ってる間の時間がもったいなくてよ。そんじゃあ、お前もなんか頼めよ」
「ああ」
そこからコウキは、酒を飲み交わしながら、テキトーに友人の話に耳を傾けていた。
「もうそろそろ、俺彼女出来そうなんだよねぇー」
あ?
ピキッと、コウキの額に青筋が浮かぶ。
「聞いてねぇぞ」
「言ってないからね」
この野郎。
俺より先んじて彼女を作るだと?
大学に通ってた頃は「彼女なんかイラネー」って泥酔しながら啖呵切ってたじゃねーか。
「お前は? そういうのいないわけ?」
「いるわけねぇだろ……。俺の友人やってんだから察しろよ」
「それもそうかァ!」
友人は肩を揺らしてケタケタと笑いながら、手に持っていたジョッキを大きく煽ってみせる。未だかつて、コウキが見た事の無いほどの良い飲みっぷりだった。
きっと……会社勤めで『飲みニケーション』とやらを鍛え上げられたんだろう。
「——かぁ‼ あぁー……ウメェ」
「勢い良すぎだろ。彼女出来そうなことがそんなに嬉しかったのか?」
「ん? あぁ、まぁそれもそうなんだが……」
友人は飲み干されたジョッキを台の上に置き、ほろ酔い気味の朱に染まった顔でコウキを見つめている。その表情は、まるで何かに心底安堵しているかのようだった。
な……何だコイツ、急にどうしたってんだ?
友人の意味深な表情が気になったコウキは、ため息混じりに尋ねてみる。
「んだよ。もう出来上がっちまったのか?」
「んにゃあ。とうとうお前が就職したって聞いて、ようやく肩の荷が下りたなって思っただけだよ」
「————。」
コウキの心臓が、酷く傷んだ。
先程までの和やかだった気分が、酔いが、一瞬覚めていくのを感じていた。
そういえば俺は、コイツに就職が決まったって、嘘を付いていたんだったな……。
「就活中はコイツどうするんだろうなって思ってたんだが……。今思ってみれば、就職に速さなんて関係ねぇもんな。大学卒業してからでも、お前も就職できてんだ」
友人はニカッと笑い、
「あんだけ必死こいて頑張って、俺ら馬鹿みてぇだよなぁッ‼」
そう言って腹を抱えながら「ははははは‼」と大爆笑し始めていた。
「あ、ああ……。ホントだよ、な」
意図せずとも、返事がぎこちなくなっていくコウキ。
言えるわけがなかった。
未だ就職すること叶わず、家の中でくすぶり続けているだなんて……。
お前に言い訳がしたくて、適当な嘘を付いちまっているんだって……。
冗談だよ。まだコンビニでバイトしてるよって、言いたかった。
そんでそれをお前には馬鹿にして、そんで馬鹿笑いして欲しかったんだが。
お前のそんな安心しきった顔見たらさ……、
言えるわけねぇじゃん。
コウキは、自然と乾いた笑い声を漏らしていた。
「どした?」
友人は覗き込むようにして、コウキの様子を窺ってくる。
「ん? ……何でもねぇよ。ありがとな、心配してくれたみたいでさ」
「余計なお世話だったか?」
「まぁな」
ホントに、な……。
「まぁ、俺から言えることは。就職したら、お前ならソッコーで女捕まえられるだろうよ」
「そうなのか?」
「環境が変わっちまえば、女と出会うチャンスはいくらでもある。お前面は悪くないからな」
「そんなもんかねぇ……」
コウキは友人の与太話を聞きながら、頼んでおいたビールを再び舌に乗せる。
しかし、今のコウキは酒を上手く感じられるような心境ではなく、ビールはいつも以上にマズく、苦く感じ、まったく旨くなかった。初めてビールを口にした時だって、こんなにマズいと思ったことは無かったというのに。
酒を味わう資格すら、今の俺には無いという事だろうか……。
ハッ、そりゃいい。これで酒も止められる。
「……んん? なぁ——」
ピルルルルルルルルル!
友人が口火を切ろうとした瞬間、友人のスマホから甲高い電子音が鳴り響いた。
「あぁ、わりぃ」
「噂の彼女からか?」
「まだ彼女じゃねぇよ…………って、けど当たりだ。その娘からみたいだ」
「ハハ、あてつけかよ」
「んなんじゃねぇっての……」
友人はスマホを耳に付け、その彼女(仮)とやらと通話を始めた。
「うん…………うん…………わかった、すぐ行くから」
友人は電話越しに何度も頷いて、口元を自然と緩ませながら応答しているようだった。
その一部始終を、コウキは肘を付きながら眺めていた。
通話を終えると、ほろ酔いだったはずの友人は血相を変えて、いそいそと帰り支度を始める。
「わりぃ! 急用入っちまった!」
「聞いてりゃ分かるよ」
「この埋め合わせはいつか必ずするから、ホンッとゴメン!」
友人は両手をパンッ! と合わせて、頭を下げる。
「いいって……速く行けよ。間に合わなくなっても俺は責任取れねぇぞ」
「ああ! またなっ‼」
友人は財布から代金を引っ張り出して机に置き、別れ際に「絶対後で連絡するから!」とだけ言い残して、持ち前の高そうな腕時計をチラチラと確認しながら、バタバタと店を後にした。
「…………。」
残されたコウキは、訪れた沈黙の中で自分自身を見つめ続ける。
店の電気に照らされる、半分以上残ったビールをゆらゆらと揺らしながら見つめていたが、一滴たりとも飲む気にはなれず、視界に入らぬよう台の脇へと追いやった。
そして、友人が残していった札へと手を伸ばし、散りばめられた小銭と照らし合わせる。
割り勘にしても、全然足りねぇぞ……コレ。
仕方なく、彼女ができる友人への祝い金と————、
手切れ金のつもりで、俺は代金を全て自分の財布から支払い、残された金はレジの脇に添えられていた募金箱へ突っ込んだ。
「……え、お客様。よ、よろしいのですか?」
そこそこの金額を募金箱に突っ込んだコウキの行動を、何かの間違いだろうと思った店員が問い掛けてくるが、コウキはスンとした態度のまま、
「ああ、いいんですよ。別に」
とだけ告げて、店員に背を向けて歩き出す。
再び店の暖簾をくぐれば、どこもかしこもネオンの輝きが目に刺さり、楽し気に横行する若人達が酷く眩しく目に染みた。
道を間違えなきゃ、俺も……あぁ成れたんだろうか。
あー……もう、人生やめてぇ。
そんなことを想いながら、重い足取りで帰路に付こうとした時。
ピコンッ。
と、メッセージの受け取りを知らせる電子音が、背広のポケットから鳴り響いた。
「何だよ……もう連絡寄こしてきたのか?」
コウキはトーンの低い声でそう呟き、スマホの画面を見た瞬間、
「————げッ⁉」
変な声を出し、露骨に顔を引き攣らせていた。
取り出したスマホの画面上には、目を逸らしたくなるほどハッキリと、
『母』と記されていた。
しかもメッセージの内容は……、
『コウキ、仕送りを立つことになった』
であった。
「……うそ……だろ?」
そのメッセージは、コウキを地獄に叩き落とすには十分過ぎた。
コウキの生活は、基本バイトで稼いだ給料五割と、実家からの仕送り五割でやりくりしていた。実家からの仕送りを断たれるという事はそれ即ち、実質的な死を意味する。
このままでは、生活費どころか、来月の家賃すら危ぶまれる。
こんなことなら……新作のゲーム一式、買わなきゃよかった————。
崖っぷちに独り取り残されたような気分になったコウキは、ただ茫然と立ち尽くし……、
明日からの食費をいくら削れるか、せっせと脳内で計算し始めるのであった。
な、泣いてないんだからねっ————。
「…………。」
帰路の足取りがこんなに重いのは、大学を無職のまま卒業してしまった時と、
初めて告白してフラれた時以来か。
この先、いったいどうしたものかねぇ……。
流石に、頑張っていくよりほかに道はないよな……。
履歴書書きと面接のオンパレードかと思うと、ゲロ吐きそうなほど地獄なんだが。
「————よしっ‼」
ブツブツと愚痴を垂れ流しながら思いふけっていたコウキは、流石にこのままの低いテンションを引きずっていてはダメだと思い至り、とある古い名曲の歌詞に綴られていた通り、前を向いて歩くことにした。
あれ? 上を向いていくんだっけ? どっちだっけか?
さして物覚えの良い方ではないコウキは、そんな事を考えながら歩いていると、視界の正面に道路を渡ろうとしている老人が見えた。
そしてその背中には、ベッタベタにも、身に余るほどの大きい風呂敷包みを抱えているようだった。
昭和かよ……今時見た事ねぇっつの。
と、コウキは内心で突っ込む。
いつものなら黙って取り過ぎるというスルースタイルなのだが、せっかく決意を新たにしたという事もあり、まずは故郷でよく見かけたような老人の手助けをしてみる事にした。
一日一善とはよくいったもので、心機一転のキッカケには丁度良いだろう。
これを兆しに、何かが変わってくれればいいという、僅かな願望もあったのかもしれない。
最初から他人任せな俺であった。
「大丈夫ですか?」
「ん? なにかな?」
老人(女だと思うが、皺だらけであまり判別がつかん)は、疑問気な顔で尋ねてくる。
「よければ荷物、持ちましょうか?」
コウキは培ったプライスレスマイルを使い、老人へ提案を試みる。
「あぁ、すまないねぇ……」
と言って、老人はコウキに荷物を渡した。
コウキが荷物を受け取ると、ズンと肩が外れてしまいそうな重量が一気に圧し掛かってきた。
重もぉ……。
老体でありながらこの重量の荷物を担いでいるとは……最近の老人はえらく力持ちだな。
膝が笑い、人生で初めてのギックリ腰に陥りそうだった。
「大丈夫かい?」と老人が不安そうな目で尋ねてきたが、格好つけておきながらその実情けない姿をさらすのだけは真っ平御免で、翌日の筋肉痛を鑑みながら、白線の引かれた道路の飢えを進んで行く。
正直、この老人が担いで運んだ方が、早いように思えて仕方が無かった。
慣れない事、柄にもない事はするもんじゃないな……。
やっとこさ、じんわりと背中に汗を掻きながら道路を渡り終えた。
「ありがとねぇ……」
そう言って、老人は頭を下げながら感謝を述べる。
「え、あぁ、いいっスよ! これいくらい何でも」
この時の俺は、自分で言うのもなんだが、さぞ爽やかで優しい若者に映った事だろう。
気のせいでないと良いが……。
「これは、ほんのお礼だよ」
老人は自分の腰に付けていたポシェットをまさぐりだし、目的の元を掴み取って取り出す。
「あ、いいっすよ。お礼なんて別に」
なんて言いつつ、くれると言うのであれば、受け取らなけば失礼に当たるというものだ。
ニコニコ気分の心情を一切表に出さず、スンとした佇まいでコウキは待つ。
「はい。ありがとねぇ……」
差し出されたのは、飴玉六つ。
「いいえ……どうも」
ア、アメちゃん……。
二十二の男性にお礼でアメちゃん……か。いや、別に期待してないから良いけども。
コウキは苦笑しながら飴玉を受け取り、適当にポケットに突っ込んでいると、
チリン————
老人のポシェットから、何やら紐付きの鈴が地面へと零れ落ちた。
スルリと落ちて地面をいった金色の鈴は、何故かコウキの視線を釘付けにさせ、コロコロと転がっていく様を自然と目で追っていた。
「あっ」
コウキは何も考えず、金色の鈴を追いかけて軽く歩き出す。
後から思えば……この不注意こそが、全ての始まりであり、元凶だったのだろう。
今日は嫌な事が続いて気が滅入っていたし、軽く酔っていたというのもあった。
だからといって、そんな言い訳を受け入れてくれるほど、現実ってのは甘っちょろいもんじゃない。
悔いて噛み締め、そして苦く味わえ。
それは、お前が招き入れた出来事だという事を————。
「お兄さん危ない————ッッ⁉」
「…………はい?」
突然老人の叫び声で我に返り、コウキは視線を鈴から外す。
改めて自分の周囲を確認してみるが、その時にはもう、全てが遅すぎたのだと悟る。
「——あ…………」
前方に迫るのは、自分の何十倍もの体積を誇る、巨大な大型トラック。
間違いなく、このトラックは人一人を確実に殺害する威力を持っていた。
「マジ、か……」
突然の事で、体が硬直したかのように動かなかった。
人間は危機を察知すればもっと機敏に、もっと俊敏に動けるものだと過信していた。
だからこうなったのは、ある意味当然のことだと言えるのかもしれない。
もしもそうでないのだとしたら、俺はただ諦めたのだろう。
現実に打ちのめされ、未来は暗闇に閉ざされている。
そう思ってしまったから……。
————。
————————。
耳を突き抜けるような轟音と、今までに味わったことのない激痛が全身を駆け巡り、視界の全てが真っ黒に埋め尽くされていった。
ああ……そうか。
死ぬんだな……俺。
こうなるって知っていたのなら、最後にせめて————。
母と友人に、一言くらい……
————ありがとう
って、言っておけばよかったな————。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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次回は、明日の21:00に更新します。