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26・反発

 土曜日の朝は、家の静けさが身に沁みる。

 学校へ行く平日は自分自身がバタバタしているからほとんどそれを感じないのだが、土曜日の朝起きて、学校へ行く時間が過ぎる頃家の静けさが家屋の空気を満たすのだ。

 母親のいない家。

 以前も頻繁に出かけていた母親ではあったが、家の何処かには存在の名残が何時もあった。それが無いのは、母親が二度と戻ってこない事を実感させた。

 家のあちらこちらに残る、彼女の残骸は名残や気配ではなく、ただ空虚な爪跡でしかない。

 父親は出来るだけ早く帰ってきて史美菜と一緒に夕食を食べるようになったが、彼女にしてみれば父親と二人で食べる食事はどうにも間が持たず、どうせなら一人の方が気楽に思う。

 会社が休みの日はさり気なく家にいて読書などをしている背中を目にするが、それもやはり空虚な光景だ。

 だから史美菜は父親の背中へ話しかけたりはしない。

 それでもやっぱり、土曜日の朝はなんだか寂しくて、しんと静まる家屋の空気が切ない。

 史美菜はそんな世界で一人きりのような空気を払いのけると、台所で目玉焼きを焼いて朝食の仕度をして、トーストを齧った。

 まるで一人暮らしを満喫する気ままな大学生のように。

 台所の窓からは隣の家のカーポートが見える。

 アルミの骨組みに半透明なグラスファイバーの屋根を取り付けたお手軽屋根付きガレージだ。

 その車庫のアルミの柱の向こうに彼女はふと人影を見た。トーストを齧ったまま史美菜は思わず硬直する。

 直ぐに窓際に張り付いて、通り側を覗く。

 フラフラとアヤシイ素振りで歩く人影は間違いなく見覚えのある風貌だった。

 史美菜はトーストを加えたままリビングへ行くと、カーテンの陰に隠れて庭の先を見る。

 中津川家の庭は低いブロック塀と僅かな庭木で囲まれていた。

 その低い塀からひょこひょこと頭を覗かせている男がいる。さっき史美菜が台所から見た人物と同じだった。

 なに? 何やってんの、アイツ。

 史美菜は少しの間カーテンの陰から、塀越しに見え隠れする知った顔を見ていたが、咥えたトーストがふやけて来てハッと我に帰る。

 彼女はリビングのテーブルにティッシュを一枚敷くと、食べかけのトーストをそこへ置いて玄関へ向った。

 玄関ドアを開けると

「ちょっと、何やってるの? 孝樹」

 史美菜の家をひょこひょこ覗き込んでいたのは汐泊孝樹しおどめこうきだった。

 彼はいきなり玄関ドアを開けた史美菜の声に驚いて、思わず直立する。

 史美菜はサンダルを引っ掛けると、玄関を出て庭木を隔てて彼に近づいた。

「何? なんか用なわけ?」

 以前の明るく可愛げな声は出さない。

 彼女は無理にそんな態度を孝樹に向けた。

「いや……最近どうしてるかと思ってさ」

 孝樹のちょっと情けない苦笑が、史美菜の心をチクリとくすぐると、思わず頬が熱くなった。

 首の上だけがふわりと浮き上がる感じで、ファンデを塗っていないオデコの痣痕が微かに紅く浮き出る。

「ウチ知ってたの?」

 史美菜は横分けした前髪に手を触れた。

 顔が火照ると、痣が浮き出る事をよく承知しているから。

「いや……人伝に訊いて、それて三日かかったよ」

 孝樹はそう言って少し照れながら無邪気に笑う。

この前の事で負い目があるのか、やっぱり少し情けない笑い。

「あたし、今はモモちゃんと一緒にいないから近づいても無駄よ」

 史美菜の声が、何時に無く低くなる。妙に冷静に言葉が出た。

 心の中で自分を落ち着かせると、顔の火照りも何処かへ飛んで行った。

「ああ……やっぱりその事か。確かに最初は……ほんとに最初だけ、その頃は平井が目当てだったのは確かなんだよ」

 やっぱり本当だったんだ。僅かでも違うと思っていた希望が絶たれ、史美菜は彼を一瞬睨むように見る。

「いや、でもさ。フミと一緒に帰るようになったら、何だかフミの方がよくなったっていうか」

「それってさ、アンタが浮気性っていう証拠でしょ」

 孝樹の言い訳に、史美菜は納得しない。

「確かに俺、ちょっと浮気性だけどさ……でも…」

「帰ってくれる」

 史美菜は彼の言葉を遮った。最後まで聞くになれない。

 もし、最後まで聞いてしまって、それに納得して、その後どうすると言うのだろう。告白されて付き合う? まさか。

 史美菜は一瞬でそんな事を考えると、彼の言葉を聞く気になれなかった。

「いや、ちょっと聞いてくれよ」

「お父さんいるんだよ。呼ぼうか?」

「判ったよ。今は、帰るけど……」

 孝樹はそう言ってうな垂れた首を通りへ向けた。

 史美菜はちょっとだけ罪悪感に苛まれるが、何であたしが……と、被害者の自分を思い出して頭を振った。

 孝樹の頭は通りに沿って、どんどん離れて見えなくなった。

 史美菜は何だか奇妙な疲労感に襲われて、長い息をつくと玄関に入った。



 家の中に戻った史美菜は、リビングに置いた冷たいトーストを手にとって台所へ行くと、冷めた目玉焼きを口にする。

 テーブルに置いた携帯電話は寂しく沈黙していた。






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